AdAd
  
剣の器と白い狼

  .一

  月が、少年を見下ろしていた。

  長屋が立ち並ぶ街の一角にある橋の欄干から、少年が夜空を見上げていた。夜空には星が瞬き、少年は空虚な眼孔のなかに、星の光と空の闇を切り出してはめ込んでいる。

  少年は夜空と同じ髪色の、どこかあどけなさの残る柔和な顔立ちをした人間の少年だった。黒目がちの瞳は大きく丸く、肌は白い。だがその表情は驚くほど冷たく、微動だにしない。乾いた夜風が柔らかな髪を揺らしているのが対照的だった。多く見積もっても年齢は一六歳ほど、ほっそりとした手足を黒と青の縦縞の着物を纏っている。

  いつまでそうしていただろうか。手足が冷え、肌が青白さを増しても彼は時が止まったようにじっとしていた。

  何故なら少年は待っていたからだ。心は驚くほど穏やかで、一片の曇りもない。わかっていた。これが自分のすべきことだと。それが、彼が師匠から教えられた役割だから。

  少年は胸に手をやると、懐から一本の短刀を取り出す。簡素な拵えがされた白鞘の刀で、柄には彫刻がなされている。彼はそれを宝物のように抱えると、安心したかのように初めて視線を下げた。

  ――師匠、僕は……このまま……

  少年が胸の中で思いを打ち明けると、ふと、彼の体を一陣の風が撫でた。木の葉と少量の砂埃が少年の肌を打つと同時に、その時を、待ちわびた彼の襲来を知らせた。

  少年が風の方向に顔を向けると、きらりと銀の光が瞳に灯る。

  長きにわたり続いた戦乱の世が終わって一〇〇年が経とうとしていたころ、江戸の街に住まう狼獣人の侍である『[[rb:久狼 > くろう]]』は剣術道場の師匠や仲間たちと共に出かけた芝居小屋の帰りに、横にいる剣の師匠である竜人に向かって、晴れ晴れとした声をかけた。

  「面白かったですね。『龍紋一刀伝』」

  久狼は光り輝く純白の毛並みをもつ、狼獣人の青年だった。歳は二四ほどで、野性的な鋭い灰色の瞳、すらりとした鼻筋の、怜悧な顔立ちの美男子で、よく鍛えられた肉体に浅葱色の着物を纏っている。

  彼に言われた竜人は照れくさそうに微笑み、紺の着物の袖に通さず胸に忍ばせていた太い手を顎に添えた。

  「よせやい。こちとら有る事無い事掘り返されて冷や汗もんだったんだぜ」

  「師匠の過去、俺もあまり知りませんから。とても興味深かったです」

  ふたり並んで話していると、背後から弟弟子の一人が声を上げた。

  「そうですよ師匠! 師匠のことがみんなに広まって、俺たちすごい嬉しいんですから!」

  そう言うと龍牙と呼ばれた竜人は、首の後ろに手を回してぼりぼりと掻いた。

  「そんなこと言っても何も出ねえぞ」

  「そこをなんとか!」

  「おめぇ、やっぱりか」

  会話が終わると共に、笑いが訪れる。久狼は自分達に集まる羨望と興味の視線に誇らしさを感じながら、横にいる龍牙に尊敬の眼差しを向けた。

  今日は久狼の敬愛する『龍泉一刀流総師範代』である『[[rb:龍牙 > りゅうが]]』を題材とした歌舞伎『龍紋一刀伝』の公演初日だった。江戸の平和を守ってきた偉大な剣士が如何に戦い、成長してきたのかを熟練の歌舞伎役者が演じ、初回は好評のうちに終了した。そして、これを見るのが久狼含めた門下生の目下の最大の楽しみでもあった。

  龍牙は日の本でも指折りの剣士であり、指導者でもあった。史上最強の剣聖と謳われた兎獣人の剣士『兎髄干麗』の一番弟子であり、彼に師事したあとは日本全国を旅し自らの流派『龍泉一刀流』を完成させた。江戸に道場を開いてからは身寄りのない子供を引き取り、弟子兼養い子としながら身分種族問わず多くの剣士を鍛え上げた。彼の弟子たちは奉行所などでその剣の腕をふるい、現在道場は、ただの剣術道場でありながらも江戸の街を守る要所とされている。

  彼自身も齢七〇を超えても今なお壮健な肉体を誇っていて、肉体は未だ鋼のように強靭だ。毎日弟子たちの修行に朝から晩まで付き合っているし、そんな龍牙の存在は、久狼含め門下生たちにとって一生誇るべき存在だった。

  龍牙は翠玉色の鱗に包まれた手で顎下に生えた山羊髭をなでつけると、鋭い顔立ちを彩る切れ長の瞳を明後日の方向に向け考え込んだ。

  「なんか飯でも食って帰るかぁ」

  すると、ふたりの後ろを着いてきていた一七名あまりの門下生たちが、両手を上げて喜びの声を上げる。

  「やった!」

  「今日は焼き葱の味噌汁から開放される!」

  「おれ牛鍋がいい!」

  現金な弟弟子たちに苦笑しながら、久狼はちらりと龍牙に視線を向けた。

  「いいんですか、師匠」

  すると彼は、あっけらかんと言い放つ。

  「うめぇ酒を飲みたい気分なんだよ。いいだろ今日くらい」

  枯れた声色でしみじみ言われると、流石にこちらも返す言葉がない。

  「あまり飲みすぎないでくださいよ。べろべろになった師匠を介抱するの、俺なんですから」

  「わーってるわーってる。熱燗二本で我慢しとくから――よぉしお前らぁ! 亥川んトコ行くぞぉ!」

  食事処を営む顔なじみの店を聞いた瞬間、今日一番の歓声があがった。

  久狼は肩で空を切って進む仲間たちを見守る。だが歌舞伎座から離れ、町人たちが暮らす区画に足を踏み入れたとき、穏やかな空気を勢いのある水音が揺らした。

  それは久狼の視界左斜め前の剣道場から聞こえた。異変に気付いた仲間たちとともにそちらに視線を向けると、一人の人間の少年が女性に突き飛ばされ、地面に手をついていた。

  地に伏した少年は、緋色の着物を身に纏った、華奢な体つきの黒髪の少年だった。

  そこは近所の子供たちに剣を教えていた道場で、久狼もそこの道場主である人間とは交流があった。最近は病に臥せっていて、娘が道場を切り盛りしていると聞いたが……。

  その、道場を切り盛りしていた、いつも優し気な瞳で門下生たちを見守っていた娘が、今は瞳を怒りに輝かせて、体から水を滴らせた少年を見下ろしていた。

  娘の肩は激しく上下し、手には水桶を持っている。

  彼女は行き場のない感情を絞り出し、少年に金切り声を上げる。

  「二度とこの道場には立ち入らんで!」

  そんな彼女の前に、道場から一人の犬獣人が飛び出してくる。彼は少年を気遣うようにしゃがみ込むと、娘に向かって懇願した。

  「違いますお多恵さん! この人は――」

  「いわんといて[[rb:伊咲 > いさき]]さん、うちにはわかるんです。こいつが……こいつが父ちゃんの魂吸い込んだって」

  その言葉を聞いて、騒ぎを聞きつけてやってきた野次馬たちがぎょっとした顔で少年をみた。久狼は水に濡れ、砂埃にまみれた少年の無表情な顔を見て、胸がざわつく感覚を抱く。隣をみると、龍牙が神妙な面持ちで事の成り行きを見守っていた。

  不可解なことを口走った娘は、軒先に崩れ落ちるとさめざめと涙を流した。

  「返して……うちの父ちゃん返して……返してよぉ……!」

  犬獣人の青年が彼女に寄り添い立ち上がらせ、ともに道場の中に戻っていく。少年はそれを眺めてから立ち上がり、道場に背を向けて歩き始める。

  「うわ……こっち来た……」

  門下生の一人がそうつぶやき、周りに動揺が走った。少年はゆらゆらと歩を進め、こちらにやってくる。久狼は手で仲間に指示をだし、彼に道を作ってやった。

  通り過ぎる際、見えなかった少年の顔立ちをはっきりと確認する。

  伏せがちな黒い瞳、あどけなさの残るかわいらしい顔立ち、白い肌。どこか儚げな雰囲気を纏った、美しい少年だった。すらりとした背中と、撫で気味の肩が遠くに消えていくのを眺めていると、仲間たちの声が聞こえてくる。

  「さっきの子、可愛かったなぁ」

  「馬鹿言え。あの会話聞いてなかったのかよ。魂吸われて殺されるぞ」

  「違ぇねえ」

  ふざけて笑う彼らを一喝しようとしたとき、龍牙がよどみかけた空気を断ち切る。

  「あほなこと言ってねぇで、さっさと牛鍋食いに行くぞ」

  すると彼らは、さっきまでの会話などどこ吹く風で、元気よく返事をした。

  すでに人込みはまばらになっていたが、久狼はなぜか、消えることのない粘り気のある少年の気配を、肌に感じていた。

  .二

  ――お前はすごい才能を持っているんだよ。

  身寄りがなかったころ、師匠は僕のことをそう言って褒めてくれた。いつも暖かな掌で、僕を包んで、抱きしめてくれた。大好きだった、師匠。

  少年は、自分を抱きしめる男の体温を感じていた。翠玉色のうろこに覆われた、たくましい体。

  月明かりの下、男はその黒い瞳でまっすぐにこちらを見て、言ったのだ。

  ――おめぇさんを待ってたんだ。ずっと。

  そういうと彼は、一層強く、少年を抱きすくめた。

  

  歌舞伎公演を見に行った次の日の朝、門下生たちは全員師匠に呼び出され、そこで信じられないものを見た。

  「今日からお世話になります。[[rb:朝霞 > あさか]]と申します」

  龍牙が、昨日の少年を屋敷に招き入れていたからだ。その場にいた師匠と少年以外の全員が、戸惑わざるをえなかった。

  「師匠!?」

  「まさか死神……!?」

  三つ指を立てて頭を下げていた少年は、真新しい黒の着物に身を包んでいた。おそらく龍牙が用意したものだろうと久狼は考える。

  死神という言葉を聞いて、龍牙はあからさまに顔をしかめた。

  「おいおい。新しい仲間に死神たぁ聞き捨てならねぇな」

  口にした門下生が、慌てて頭を下げる。

  「す、すみません!」

  龍牙は朝霞のそばに寄り、ふいに抱き寄せた。少年の伏せがちな、黒水晶の様な瞳が、少しだけ驚きに染まる。師匠はそのまま朝霞を抱え込むと、少年の手を自分の首に回させた。

  その、まるで自分の女を扱うかのような態度に、今度は別の意味で――久狼の心が――周りがざわつく。

  龍牙は朝霞の頬に手を添え、彼を愛おしむように見つめてから前を向いた。

  「こいつには俺の身の回りの世話をやってもらう。死神なんて言ってみろ、承知しねぇからな」

  そういってから豪快に笑う龍牙とは対照的に、自分含めた周りは気もそぞろだった。

  尊敬する師匠が、誇りある剣豪が、愛人を堂々と紹介してきたのだ。心揺れないほうがどうかしている。

  久狼はどうしても気になって、手を挙げた。

  師匠に促されてから、口を開く。

  「いつ、彼をここに迎え入れようと?」

  すると彼は、少しの間顎に手を当てて考えてから、恥ずかしそうに頭の後ろを掻いた。

  「惚れた瞬間なんて聞かねぇでくれよ」

  言い終えると、龍牙は見せつけるように朝霞を抱き寄せた。それを見た瞬間、久狼のなかにごぽりと黒いものが生まれる。

  周りを見ると、ほかの門下生たちも同じようだった。龍牙が少年を伴って道場を後にすると、静かになった道場で、誰かがぼそりと呟いた。

  「なんであんな奴が……」

  それから龍牙は、まるで人が変わってしまったかのようだった。どこに行くにも朝霞を連れて行く。部屋は自分と同室。おはようからおやすみまで、常に朝霞がそばにいる。その上彼を連れて外に出ることも多くなった。まさに耽溺と言っていいほどだ。それに合わせて、道場内で空気が荒れることも多くなった。

  「お前の振りは遅いんだよ!」

  「てめぇだって型が崩れてるじゃねぇか!」

  今日も、鍛錬をしている最中にいさかいが起きた。門下生の犬獣人と人間が、些細なことで取っ組み合いをはじめた。朝霞を紹介されてから一週間ほど経った頃だった。

  見かねた久狼は、外から戻ってきた龍牙が一人になる時を見計らって話かけた。

  師匠の部屋でふたり、向かい合って座る。下座についた久狼は焦りを滲ませながら口を開く。

  「とても空気が悪くなっているんです。師匠、何とかなりませんか」

  龍牙は、顎に手を当てて考え込んだ。

  「おめぇに色々任せっきりなのは悪いと思ってた。で、その不仲の原因ってのが……」

  「朝霞……さんのことで」

  とても言い出しづらいことではあったが、こうしないと何も始まらない。勇気を出して伝えると、師匠は何度も頷いた。

  「みんなには、つらい思いをさせちまってるな」

  「いえ、師匠の幸せが、俺たちの幸せですから……ただ……」

  見ず知らずの人間に、敬愛する師匠を盗られて皆納得がいっていないのだ。突如として龍牙の心を奪っていった謎の少年の存在は、剣の世界で生きる者たちにとっては異質すぎた。

  せめて、彼を知るきっかけでも作れれば……。それを伝えると、龍牙は久狼の左斜め後ろに声をかける。

  「朝霞、入ってこい」

  彼が近くにいたことに、久狼はぎょっとする。振り向いてすぐに、涼やかな声が帰ってきた。

  「失礼します。先生」

  座敷の左側のふすまがそっと開き、そこから音もなく朝霞が現れる。彼はすり足で龍牙の元まで歩く。最中、久狼と視線がぶつかり合う。

  久狼は、そのどこか崩れた雰囲気に、わけもなく心がざわつく。

  龍牙はいつものごとく彼を抱きしめるように抱えると、その耳に顔を近づけ、口づけでもするかのようなしぐさでささやく。それを複雑な感情を抱えたまま見つめていると、ふいに龍牙がこちらに顔を向け、「明日の朝、みんなを道場に集めてくれ」と久狼に頼んできた。

  そこから話を終えた久狼は、二人に見送られて部屋を後にする。彼らに背を向けて歩き出したとき、背後に異様な視線を感じ振り返る。

  視線の先には誰もいなかったが、黒い着物の裾が、師匠の部屋の中に入っていくのが、ちらりと見えた。

  当日の朝、門下生たちはみな、礼儀正しく道場に集まっていた。敬愛する師匠の命令だ、そむくことなんてありえない。

  少し遅れて、朝霞を伴った龍牙が姿を現す。

  「皆、今日はいきなり呼び出したりなんかしてすまねぇな」

  「師匠、緊急の用事って何ですかい?」

  弟子の質問に彼はゆっくりと頷き、言った。

  「皆にはいろいろ心配をかけちまってるみたいだからな。だから、今日はその誤解を解きに来た」

  それを聞いて、周りがざわつく。自分たちの抱えている不安や現状が、敬愛する師匠の迷惑になっていると思ったからだ。多くの弟子たちがばつの悪そうな顔をするのをみて、龍牙はそれを快活に笑い飛ばした。

  「がはは! そんな心配そうな顔すんじゃねぇよ。むしろ謝らなきゃいけねぇのはこっちなんだからよ」

  「だったら――」

  弟子たちの疑問に、龍牙は答える。

  「ああ。だから今日は、朝霞と手合わせしてもらう」

  彼がそう言った瞬間、道場内に明確な困惑の波が広がった。

  師匠がこちらを向いて頷く。久狼は、それを受けて一人の門下生を前に出した。

  「剣を見れば、相手がどんな人物なのかを知ることができる」

  まるで内側から染み出したかのような、実感のこもった口調で龍牙は言った。それを聞いた瞬間、彼は変わっていないのだと久狼は確信する。

  師匠は、なにかを耳打ちしてから朝霞を前に出す。

  あらかじめこの日の予定を聞かされていた久狼は、朝霞に反感を持っていた弟子のうちの一人に話を通しておいた。

  自分が出ればいいのではと言ったら、龍牙は

  「おめぇさんはこいつに、悪感情を持ってねぇだろ? それじゃ意味ねぇよ」

  と言い、朝霞を抱き寄せさっきのように快活に笑った。

  選ばれた二人以外の全員が、これから始まる戦いを見届けるために壁際にはけていく。

  華奢な体つきの朝霞の腕は、竹刀をふるったこともないように見えた。事実、彼の手にはタコやマメの類が一切ない。

  対する相手、橙色の暖かな毛並みをした犬獣人の剣士は、彼とは比べ物にならないほどたくましい。竹刀を握る腕は太く、力強い。加えて今は、不満を持った相手を直に品定めできる機会に恵まれて、やる気満々といったところだ。

  彼から離れる瞬間、久狼は

  「やりすぎるなよ」

  と言ったが、相手は「ええ、少し脅かしてやる程度ですよ」と言い鼻息荒くどう猛に笑った。

  剣を構え、開始の合図を待つ二人に顔を向けながら、久狼は師匠がなぜこんなことをしようとしたのか考えていた。

  自分から見ても、朝霞は剣士ではない。立ち振る舞い、しぐさは美しいが、その中に剣士としての姿を認めることはできない。体つきも、箸より重いものなど持ったこともなさそうで、せいぜい陰間茶屋でしとやかにふるまう娼妓と言ったところだ。もしかして秘密裏に彼を鍛えていたのだろうか? その姿を見せ、弟子たちの感情を浄化しようと考えているのか? 疑問は尽きない。

  どこか朝霞をなめ腐った空気の中、そうこう考えているうちに、龍牙が咳払いし、腕を振り上げた。そして、

  「いざ尋常に――始め!」

  合図とともに、腕を振り下ろす。

  「そこまで!」

  すべてが終わったあと、顔をこわばらせた久狼は瞳孔の開いた目を朝霞に向けていた。

  脂汗を床にたらした犬獣人の剣士が、床に手をつきながら息も絶え絶えに相手を見上げる。

  「ば、化けもんか……?」

  結論から言うと、相手は朝霞に一発も攻撃を当てることができなかった。最初はわざと外しているのかと思ったが、だんだん朝霞の動きの異常さが明らかになるにつれ、それが当てられないが故の結果なのだということが分かった。

  汗一つかかず、虚ろな瞳で相手を見下ろす少年を、久狼は恐ろしく感じる。

  空間が歪んでいると感じるほどの完璧な緩急、ゆるぎない切っ先、相手の間合いを読み切った立ち回り。どれも今まで見たことがないほどの、達人としか言いようがないものだった。

  「あれ、人間……だよな……?」

  弟子の一人が呆然と呟き、久狼も同じ言葉を、音もなく呟いた。

  常人が何十年も、それこそ人生そのものをかけて到達する向こう側に、この少年はすでに到達している。

  「先生」

  「ああ、いいぞ。戻っておいで」

  かつて、誰も聞いたことのないほど優し気で満ち足りた声色で、龍牙は朝霞を迎え入れようとする。その頬は上気しており、しぐさもいっそう情熱的だ。

  それを見た瞬間、久狼は理解する。ここにいる弟子たちは少なくとも彼の剣を見て『恐れ』を抱いたが、師匠だけは『愛しさ』を抱いたのだと。

  それは向こう側に立つ者にしかわからない愛の形、彼はこの才覚に惚れこんだのだと。

  だらんと握られていた竹刀を床に落とし、朝霞は誘われるように龍牙のもとへと歩いていく。だが、ふいに彼の背後で敵意が膨れ上がった。

  「――ざける……な」

  総毛立つ感覚に襲われた時には、すでに犬獣人の弟子は床に落ちた竹刀をつかみ、朝霞に切りかかっていた。

  「ふざけるなぁっ!」

  剣士の御法度、背後からの不意打ち。獣人の膂力で放たれた豪速の一撃は、正確に少年の脳天を捉え、そして、

  竹刀がへし折れ、次に床に人が倒れこむ音が道場に響く。

  尻もちをついた犬獣人の弟子は、呆然と自分の剣を受け止めた相手を見上げる。

  「久狼……さん……!」

  少年に放たれた一撃を、間に入った久狼が体を張って受け止めていた。狼は腕から血を流し、痛みに耐えるように片膝をつく。

  傍らに、朝霞が滑り込むように寄り添った。

  「久狼様!」

  それが初めて朝霞が自分の名を呼んだ瞬間だった。朝霞に遅れて雪崩のようにわっと駆け寄ってきた門下生をかき分けて、焦った様子の龍牙が少年の反対側にやってくる。

  「おい久狼! 大丈夫か!?」

  「ええ、まあ、はい」

  「腕から血が出てるじゃねぇか! 折れてたら大変だ! 誰か医者を!」

  龍牙が弟子の一人を医者の所に走らせるのを見てから、久狼は犬獣人の弟子に向き直った。彼は目に涙をため、今にも泣きだしそうな顔で自分を見ている。

  「おれ……久狼さん……!」

  彼の胸倉をつかんで問い詰めようとした弟子の一人をたしなめてから、久狼は言った。

  「いいんだ。弟弟子の不手際を補うのも、兄弟子の務めだからな。それより――」

  久狼は傍らで心配そうに自分を見つめている朝霞に冷静な表情を向ける。

  「あんたは大丈夫か? 怪我は?」

  すると彼は、ふるふると首を横に振った。

  「僕のことよりも、あなたを――」

  切なげな瞳と自分のまなざしが絡み合いかけたその時、外で大声が聞こえる。

  「お医者様を連れてきましたーっ!」

  それを聞いて、龍牙が表情を明るくした。

  「おお! 早くこっちに!」

  そうしてやってきた猪獣人の医者は、背負った大きな薬箱をどんと床に置いてから、のそのそとこちらに近づいて診察を始めた。

  神妙な面持ちが並ぶ中で触診されている間、久狼は自分のけがをしていない手を、ずっと朝霞が握っていることに気付く。まるで最初からそこにあるのが当然とでもいうように、久狼は自然とそれを握り返していた。

  触診が終わると、猪獣人の医者は酒焼けした声で、面倒そうに言った。

  「打撲と切り傷だねぇ。巻き木綿と塗り薬出しておくから、しばらくは激しい運動は控えて安静にしてなさい」

  「折れてはいなかったか……よかった……」

  龍牙が胸をなでおろすと同時に、張り詰めた雰囲気がほどけていく。各々の表情が明るくなる中、久狼は自分に寄り添う少年に顔を向けた。こちらの視線に気付いた彼は、すっと瞳を伏せて、手を引き抜こうとした。

  だが久狼は、相手の顔を見ずに自分の手に力を籠める。

  そこにあるはずの少年の手のひらを確認することが怖くて、久狼は視線を外した。

  

  この一件以来、朝霞に対する門下生たちの当たりはいくらか改善された。あの圧倒的な剣才を見てしまうと、師匠の寵愛を受けるのも納得がいくというものだし、加えて彼が龍牙とともに道場の稽古にかかわるようになったこともある。

  驚いたことに、朝霞は教えるのも上手だった。相手の動きの癖を見抜き、それが長所ならば伸ばし、悪癖なら丁寧につぶしていく。指導はどれも手慣れたもので、以前いた道場でも似たようなことをしていたのかもしれない。

  安静を言い渡された久狼は、暇つぶしを兼ねてそれを見つめていた。すると視線に気付いた朝霞が、ちらりとこちらを向いて自分を捉えた。それに久狼はぎくりとして、慌てて視線を逸らし、ほかの稽古を観察した。

  型の崩れている門下生が居たので声をかけようとした久狼の耳に、龍牙の声が飛び込んできた。

  「おおい久狼」

  「師匠、どうかしたんですか?」

  すると彼は、晩酌用の酒が切れたので買ってきてほしいといい、酒代を手渡してきた。

  「後で買いに行けばいいのでは……」

  「忘れちまいそうな気がしてよぉ。それにお前暇だろ? ちょっくら行ってきてくれよ」

  暇にした原因の原因に言われて少しむっとなるが、何とか飲み込んで頷く。

  「頼んだぜ」

  師匠は、後ろを振り向き朝霞に声をかける。

  「朝霞! 久狼を手伝ってやってくれ」

  「師匠! お使いくらい一人でできるって!」

  「いいっていいって。俺のお気に入りはあいつに教えてるからな」

  ――そんなこと俺だって知ってる! そう言いかけるが、なぜか言うのがためらわれて黙り込んでしまう。もたもたしているうちにしずしずと朝霞がやってくる。

  彼の様子に満足げにほほ笑んだ龍牙は、感情のままに少年を抱きしめ、その唇に自身のそれを重ねた。

  「早く戻って来いよ」

  「わかりました。先生」

  仲睦まじい二人の様子を見ていると、やはり胸がざわつく。

  「久狼様」

  「……行くぞ」

  久狼は二人に背を向け、頑なな一歩を踏み出した。

  そして酒屋に行く途中、久狼と朝霞は、並んで江戸の町を歩いた。すっと形のいい鼻梁と愁いを帯びた瞳、儚げな美貌に自然と視線が吸い寄せられた。

  「あんたはいつ、師匠と出会ったんだ?」

  「先生と……ですか?」

  ふと、驚いたように朝霞が視線を上げた。夜の湖面のように深い墨色の瞳が、虚ろに白狼を映し出す。そういえば、彼は龍牙のことを先生と読んでいる。その呼び方には、久狼の知らない龍牙の一面が隠れているような気がした。

  彼は、少し考えるように顔を俯かせると、ふと指で今歩いている道の先を指し示した。

  「この先にある小橋で出会いました」

  「いつ?」

  「十六夜の月夜に」

  「夜?」

  十六夜はもう過ぎている、最後に師匠が夜外出したのはいつだったか……。加えて聞き出そうとしたとき、ふと町中を通る川を覗き込むように道の途中に人だかりができていた。

  何事かと立ち止まり、周りよりも大きな図体を生かして上からのぞいてみると、川に死体が浮かんでいて、久狼は思わず顔をしかめた。

  殺された相手は刀を差していない、町人のようだ。獣が袈裟懸けに引き裂いたかのような荒々しい切り傷がついていた。おそらく骨まで達している。川の下に沈んでいたのが、時間をかけて浮き上がってきたんだろう。

  眺めていると嫌な記憶がよみがえってきて、気持ちが悪くなった。思わず顔を抑えて後ずさると、不思議そうな顔をした朝霞が見上げてきた。

  「久狼様、どうかなさったのですか?」

  その涼やかな声色を聞いていると、こみ上げる気持ち悪さが軽減される気がした。口に当てた手を放し、否定するように首を振る。

  「いいや、何でもない。行こう」

  ここから一刻も早く立ち去るために、久狼は足を速める。酒屋につくと、入ってすぐのところにある長椅子に腰掛けた、店主である熊獣人が声をかけてきた。

  「龍牙は元気かい?」

  「はい。[[rb:磯熊 > いそくま]]さんによろしくと、おっしゃっていました」

  礼儀正しく、淡くほほ笑む少年をみて、店主はほうと頷いた。

  「相変わらず別嬪さんだねぇ」

  一升瓶を二つ買い、お代を渡しながら久狼は訊く。

  「朝霞さんのことを知ってるんですか?」

  「集まりで龍牙からしょっちゅう自慢されたからねえ。いやでも知ってるよ」

  龍牙は江戸の町における人間と獣人の生活を守る獣人奉行の集まりに顔を出すことがある。過去の経験から助言を求められたりすることがあるからだ。それに、武家や組織の中に道場の弟子が多いからというのもある。

  磯熊も、助言を求められる者の一人だ。最も古い龍牙の友であり、彼の旅の仲間でもあり、今は江戸一、二を争う酒屋の大旦那。

  顎に手を当て、しみじみと彼は言った。

  「こんな美人に酒を注いでもらったら、さぞ美味いんだろうねぇ……」

  「ちょ……」

  「だはは! 冗談冗談! 人のもの盗る趣味はないよ!」

  ふざけて頭のうしろに手を回す磯熊を何とも言えない表情で見ていると、ふと彼の目が久狼の腕の包帯に止まった。

  「そういやあ、どうしたんだいその傷」

  「これは……ちょっと稽古で」

  言葉を濁すと、磯熊は打って変わって真剣な表情になる。

  「気を付けな。最近ここらで辻斬りが多発しているから」

  「辻斬り? そう言えば……」

  頭の片隅に閉じ込めていた記憶が広がる。たしか歌舞伎公演が始まる一か月前くらいから、辻斬りが連続して発生していたはずだ。

  磯熊は、かみしめるように頷く。

  「目的は知らないが、怪我してるなら夜出歩くのはよしたほうがいい。町奉行も躍起になって探してる。来る途中に死体あっただろ? あれもそうって話だ」

  さっさと片付けてほしいんだけどねぇ、と呟く磯熊を尻目に思い出したくない光景がよみがえってきて、久狼はまた気分が悪くなる。

  「ありがとう磯熊さん。朝霞さん、行こう」

  差し出された釣銭と一升瓶を受け取ると、後ろで店に並ぶ酒樽や酒瓶を眺めていた朝霞に声をかけ、久狼は足早に店を出た。

  そのまま帰ろうとするが、早足で近づいてきた朝霞に罪悪感を抱き久狼は立ち止まる。少年は音もなくやってくると、手を久狼に向かって差し出した。

  「久狼様、僕に一つ、それを」

  断る理由はないが、少しためらいを感じてから二つ抱えた一升瓶のうち一つを彼に渡す。

  「ありがとうございます」

  「早く戻ろう」

  そして、歩き始めてから数十秒後、ふと朝霞が声をかけてきた。

  「久狼様、もしかして久狼様は――」

  途中まで聞いて、彼はもう気付いているという結論に至る。狼の青年は、振りむかずに言った。

  「多分、当たっていると思う。だから少しの間でいい、知らないふりをしてくれないか」

  返答はなかった。ただ、隣から流れてくる静かな気配が、答えを語っていたような気がする。

  

  .三

  久狼は貧しい寒村に生まれた。兄弟は居らず、両親と三人、貧しいながらもつつましやかに生活していた。ある日、村が山賊に襲われるまでは。

  両親は久狼を台所の揚板の下に隠すと、完全に音が消えて静かになるまで、決して声を上げてはいけない。動いてもいけないといい、外に出たっきり戻ることはなかった。

  床下の暗闇は冷たく、乾いていて、寂しかった。外から絶え間なく聞こえてくる叫び声に身をすくませていると、ふと盗賊たちの叫び声が聞こえた。もしかして助けが来たのかと、反射的に幼い久狼は床下から這い出して、引き戸を少し開けて家の外をそっと覗き込んだ。

  外にいた盗賊は慌てた様子で周りに視線を走らせていた。だが、凄まじい速さで突如現れた黒い影が白い剣閃を煌めかせると、ひとり、また一人と略奪者たちは命を失っていった。すべてが終ったあと、その様を震えながらみつめていると、盗賊たちを切り伏せた黒い影がこちらに気付いた気配がした。

  慌てて戻ろうとするが、もう遅い。あっという間に扉は開け放たれ、久狼に影が覆いかぶさる。

  殺されると思った。だが反射的に身を守るために体を小さくした少年は、やさしく抱きしめられた。

  相手は濃鼠色の着物を着た、翠玉色のうろこを持つ屈強な竜人だった。彼は久狼を抱きしめて、やさしく言い聞かせた。

  ――大丈夫、もう大丈夫だ……。

  久狼は過去の記憶が途切れると同時に目を覚ます。

  道場の裏手から地続きになっている大きな屋敷、そこの一室が久狼の自室だった。この屋敷にはほかに、弟子たちと師匠、そして朝霞が暮らしている。

  深い夜の空気に包まれながら、久狼は起き上がる。風に当たろうと部屋を出て、庭に足を踏み出した。

  思わずため息をつく。眠れない夜は決まってあの夢を見る。師匠との出会いの記憶を再現した夢を。

  あれからどれだけ強くなっても、経験を積んでも、それは久狼をつかんで離してはくれなかった。瞼の裏には、あの白刃の軌跡がいつも煌めいている。

  なぜか胸騒ぎがして周りを見回す。すると、鋭い獣の聴覚が、廊下の先にある師匠の部屋から漏れ出てくる苦し気な声をとらえた。

  反射的に危機感をあおられ、足がそちらのほうに向いた。野生の勘とも言うべき部分が悲鳴を上げていた。次第に大きくなっていく声。敬愛する師匠のこんな声を聞いたことがなかった久狼は、恐れを抱きながらそっと部屋の中を覗き込んだ。

  すると……

  「は……はっ……!」

  「あ……く……」

  「も……っとくれ……中に……っ!」

  そこにあったのは背後から両手をつかまれ、台車を持ち上げるような格好で朝霞に尻穴を突かれている師匠の姿だった。薄暗い部屋のなか、二人は情事に及んでいた。盛り上がった豊かな臀部に少年の肉槌が叩きつけられるたび、師匠は縦割れから突き出した肉茎をぶるんと震わせ、だらんとした舌からよだれを垂らしあえいだ。

  朝霞も陶器のように白い肌のあちこちが赤くなっていて、行為がどれだけ激しいかを察することができる。二人は揚羽本手の格好になり、朝霞が師匠に覆いかぶさる。薄暗いなかで胸を吸っているようで、じゅぱじゅぱという接合部とは違った毛色の水音が聞こえてきた。

  「せんせい……せんせいっ!」

  「ああ、気持ちいいぞぉ……あ……激し……っ」

  一心不乱に腰を動かす朝霞の臀部がこわばると、次にくたりと龍牙のたくましい体に沈み込む。すると師匠は彼を抱えて体勢を再び切り替え、今度は布団に寝かせた朝霞に自分が跨り、白濁したたる尻肉に朝霞の肉棒を叩きつける。

  獣肉を耕す肉杭から与えられる快楽に、かわいらしく朝霞が身もだえる。その姿を見て、久狼の体にむくむくと黒い感情が湧きあがった。

  「ほらほら、お前からも動かないと、気持ちいいところを逃すぞ」

  「せんせいの……いじわる……っ!」

  聞いたこともない、甘えるような声色に、久狼の陰茎がひくついた。あのすました横顔がこんなにも乱れるなんて、思ってもいなかったからだ。

  荒い息の中から言葉をさらい出すかのように、途切れ途切れに会話する二人から、久狼は目が離せなかった。

  「はや……くっ……!」

  「ああ……この……まま……っ!」

  そして二人が口づけを交わしたまま果てたのを見送り、完全に動くことがなくなったのを確認するまで、久狼は彼らをみつめていた。

  .四

  あの日以降、朝霞に対する龍牙の溺愛ぶりはさらに強くなった。ひと時たりとも放したくはないと言いたげに彼は朝霞をことあるごとに抱き寄せた。その情熱は狂気的と言ってもよかった。

  同時に久狼の脳裏には、朝霞の顔がいつもちらつき、彼を見るたびにその劣情は強まっていった。

  そして腕の怪我も治ったある日、用事で龍牙が家を空けた日の夜、眠ろうとした久狼のもとに一人朝霞が訪ねてきた。

  「師匠のところに居たんじゃないのか」

  戸惑う久狼とは対照的に、朝霞は滑るように入室する。

  「今日はあなたの所に行くようにと、先生から言われました」

  先生が? 襖を閉めながら、疑問符を浮かべ相手を眺めていると、彼は畳の上に座ってすぐに、自らの着物の胸元を開いた。

  久狼は、慌ててそれを止めに入る。

  「何をしているんだ!」

  肩をつかまれた朝霞は、体を揺らしてから首を傾げた。

  「先生からは、何も?」

  何も聞いていない。そう答えると、彼は自意識の欠けた虚ろな瞳で言った。

  「先生から、これから道場を背負って立つあなたのことをもっと知るようにと……」

  「知るにしてもやり方ってもんが――」

  だが彼の口から出た言葉に、久狼はごくりと生唾を飲み込んでいた。彼は言葉を止め、少年の肩をつかんだまま、灰色の瞳で相手を嘗め回すようにみつめる。

  夜気に薄く汗ばんだ肌、透明な瞳、無垢な表情……。

  それは悪魔のささやきと同じだった。頭を獣の遠吠えでいっぱいにした久狼は、興味のないふりをして尋ねる。

  「それは、お前の意思なのか?」

  「え……?」

  「師匠に言われたから、そういうことをしてるのかって聞いてんだ」

  それを聞いた彼は視線を斜め下に向けて考え込み、やがて久狼に向かってしなだれかかってきた。

  生ぬるい体温が体を温め、少年の唇が自分のそれと重なる。二人は熱されるように反りながら服を脱ぎ捨て、布団の上に転がり込んだ。

  正常位の下側になった久狼は、お互いの熱された火の棒のようになったそれをつかみ、一つにしてこすりつけ合わせる。少年の肌の下にある温度が増し、久狼もしびれる快楽に腰をくねらせた。

  「あは……あっ」

  欲望を滴らせながらすぐに果てようとするそれを、言葉を口にすることで制御しようと試みるが、再び少年の唇がそれをふさぎ、腰をゆすった。

  「あっ……」

  「痛い……ですか?」

  久狼はそれに答えず、腰を突き出した。すると、少年も腰を突き返してくる。それだけで久狼の胸は甘く締め付けられた。

  とろけた表情を浮かべる久狼に、朝霞が尋ねた。

  「こういうことされるの……初めてなんですか……」

  答えたくなかったが、口づけ一つで秘密をこじ開けられてしまう。甘えるように腰をくねらせながら狼は答えた。

  「んなこと、言えるかよ……」

  頭がぼんやりしていたが、耳まで赤くなっていることはわかった。それだけですべてを察した朝霞は、ゆっくりと頭を下にずらす。

  二人の屹立を包んでいた久狼の手をそっと外し、代わりに自分のそれで包むと、彼はとろけるような甘い声色で言った。

  「大丈夫です、久狼様。あなたを、ぼくは――」

  狼のたくましい胸板にある桜色の突起を少年が口に含んだ瞬間、電流が走り、腰が浮き上がった。

  「あ……ああっ!?」

  それを見た少年が、いつくしむようにやさしく肉棒をさすり上げる。ゆっくり、じらすように。ふたりをひとつにするように。

  「すべてを委ねて……」

  言葉の裏にある熱は久狼の胸に甘酸っぱい感情を生み出し、彼の喉をくぅくぅ鳴らす。

  「あ、さか……おれ……」

  だらしなく舌を垂らすと、朝霞はもう一度唇を塞いでくれた。それですべてが弾けた。

  心を暴かれた久狼は朝霞を思いきり抱き締め、体を相手に委ねる。

  高まる波、加速する律動、こちらの背中をつかんでしがみつき、同じようにこすりつけてくる少年のなまめかしい体。

  「朝霞……朝霞……っ!」

  「久狼様……っ!」

  そして、それらがはじけると、久狼の思考はどこからかあふれてきた白い砂に押し流された。少年の熱いものが久狼のそれと混ざりあい、彼の心を染め上げる。

  

  すべてが終わったあと、横たわった久狼の股ぐらに垂れ下がったそれを甲斐甲斐しく和紙で拭く朝霞に、狼は愛慕の念を抱いていた。

  全身にうっすら浮かび上がった汗、愁いを帯びた瞳、上気した頬。濡れたような唇。

  久狼は胡坐をかくと。ふと朝霞の頤に手を添えて、彼に口づけた。ついばむように相手の唇を齧ると、おずおずと相手もこちらを貪ってくる。

  透明な橋を架けながら離れた朝霞は、口元を上品に手で隠すと、再び久狼の体をきれいにしようとする。

  それを止めながら、久狼は訊いた。

  「朝霞……このことを師匠は知っているのか?」

  すべて知って――、そう言いかけて、止める。

  襖の外から差し込んでくる月明かりに縁どられるように、座り込んだ朝霞が照らされていた。銀の後光に照らされた少年は、初めて出会った時と同じ、少し崩れた肩をこちらに向け、透明な瞳で光を見上げる。

  その静寂が、真実を語っていた。

  .五

  朝霞の心を覗き見た次の日の朝、彼は久狼のもとにはいなかった。体を洗い、着替え、道場に向かうとすでに師匠が帰ってきていて、朝霞は彼にぴったりと寄り添っていた。

  あの夜見せた感情の発露がすべてなかったことのようにすら思えたが、明らかな変化は感じられた。事実、朝霞は普段よりも情熱的に師匠に絡んでいた。

  そのことに一抹の寂しさの様なものを感じつつ修練を積んでいると、道場の中を覗き込む人影が目に入った。

  「あの……」

  「お前は……」

  現れたのは、朝霞に出会った日、彼に水をかけた娘をなだめていた犬獣人だった。

  ちょうど師匠と朝霞が外に出ていたので、久狼が対応する。彼は人目をはばかるように周りをみたあと、ここ以外で話ができないかと言ってきた。

  「久狼さん、どうしたんですかい?」

  「ちょっと用事ができた。師匠が戻ったらよろしく伝えておいてくれ」

  「へい」

  そういって道場を出て、近所の茶屋へ向かう。

  茶屋に着き、長机に向かい合って座ると、そこで犬獣人――伊咲と言った――は、自分たちの近況を話してくれた。

  道場主であった先代が亡くなり整理がついたので、娘の療養も兼ねて伊咲の郷里に帰ることにしたのだという。そこで道場をやり直すつもりだと。江戸の町は、思い出に溢れすぎていて辛いからと彼は言った。

  言い終えると彼は、ちらちらと落ち着かない様子でこちらの様子を伺い始める。相手の意図がなんとなくわかっていた久狼は、こちらから話を切り出すことにした。

  「朝霞のことか?」

  すると彼は、安心したようにほっと胸をなでおろす。

  「すみません。そのことで」

  「彼なら元気にやっている。あいつを手酷く扱っていた割には気にかけるんだな」

  すると、彼は表情を曇らせてうつむいた。

  「それは……」

  「一人放り出すなんて、非常識じゃないのか?」

  黙りこくる伊咲に少しいら立ちを感じながらも、久狼は相手に促した。

  「それで、何が聞きたい?」

  「いえ、朝霞さんが元気なら私はそれで……」

  要領を得ない返答に、ぶぜんとした表情になる。茶屋の娘が持って来た団子を受け取り、お茶を飲んで喉を潤した。

  久狼は、ずっと抱えていた疑問を伊咲にぶつける。

  「そういえば、どうして娘さんは朝霞にあんな態度をとったんだ?」

  「ええっと、あの……」

  はぐらかそうとしたのがなんとなく感じ取れたので、無言で威圧すると、彼は沈んだ調子のまま話し始めた。

  伊咲のお師匠さん、つまり先代が亡くなる数か月前、いきなり朝霞を連れてきたのだという。伊咲のお師匠さんは病に伏せがちで、剣術道場としてもすでに先細っていたが、そこに朝霞が現れた。

  うつむきながら、後悔のにじんだ口調で伊咲は語った。

  「お師匠さんは……それからすっかり人が変わって……まるで取りつかれたかのように朝霞さんを寵愛したんです。それが娘さんには気に食わなかったみたいで……」

  当たりまえだ。自分の親が、子供ほど年の離れた相手に入れあげているとなると、周りは気が気ではないだろう。こちらもそうだったのだから。

  「それからお師匠さんの病気が悪化して、起き上がれなくなっても朝霞さんをずっとそばに置いて……お多恵さんは看病一つさせてもらえなくて……」

  そのまま、亡くなられたんです。そう言葉を結んだ伊咲は、沈痛な面持ちで机の木目に視線を落としていた。

  「お多恵さんは朝霞さんがお師匠さんの耳元に口を寄せるたび、魂を吸い取ってるんだって、彼が殺したて言って聞きませんでした」

  「だからあんなに怒っていたのか……」

  久狼が腕を組んで深いため息をつくと、伊咲は顔を上げる。

  「でも違うんです。朝霞さんはひどい人なんかじゃなくて……実際は……」

  言わんとしていることは理解できる。だが彼の話で、どうしても気になったところがあった。

  「どうやって、あんたの師匠は朝霞を?」

  「わかりません。でも、今日はどうしても……」

  悲しげな瞳でこちらを見てくる伊咲に、久狼は怪訝な顔を向ける。

  言い淀んだ伊咲は、口をもごもごと動かした後、ごめんなさいと一言付け加えてから茶を飲んだ。

  彼が何を言おうとしているのか、口の動きから察した久狼は、考えをめぐらし始める。

  朝霞の正体、死神、道場。そしてさっき彼が言いかけた言葉。

  ――あなたの所は、大丈夫ですか?

  会話が終わり、茶屋を出て伊咲と別れる。なんでもあいさつ回りで少しの間道場に滞在しているようだ。もう話をすることはないだろうが、一応頭の片隅に留めておく。

  道場に戻ると、すでに師匠と朝霞が戻っていた。獣人奉行所に呼び出され、最近江戸を騒がしている事件の捜査に協力していたようだ。

  「んで、お前さんの用事は済んだのかい?」

  「はい。師匠」

  「んじゃあ朝霞、久狼と一緒に稽古の見回りしてやんな」

  「はい、先生」

  朝霞が指導に加わるのにも、もう皆慣れた。こちらのほうが効率的だし、何より力を是とする者が多い獣人に、断ることは難しかった。

  いつも通り、並んだ門下生たちを見回っていこうとしたとき、久狼が朝霞とすれ違った瞬間、冷ややかな空気が肌に突き刺さった。

  久狼の体にじんわりと汗が浮き上がったが、それが精神的なものだけでないことに、しばらくして気が付く。

  指導している最中、久狼は腕に痛みを感じ取る。痛みの源を探すと自分の着物に血がついていた。めくってみると、白い毛皮に鋭く細いもので突いたような刺し傷ができていて、そこから血がにじんでいた。

  あの気配は、刃物とともにやってきていたのだ。

  師匠に寄り添っていた朝霞は、その服の中に短刀か何かを仕込んでいる。

  ――彼は一体、何を考えてるんだ?

  久狼は、平静を装いながら背後の朝霞に視線を向けた。

  昼餉を終えた後、道場裏の井戸へ水を汲みに行った朝霞を、久狼は追いかけた。

  水を汲み上げている少年の背中に近づく。黒の着物の下にある体は、華奢で、絵に描いたように繊細だ。首筋やうなじがちらりとのぞくたび、あの夜のことを思い出して体の芯に熱が入った。

  だが、いま少年はとても頑なに、久狼を拒んでいる。その背中に、狼は様々な思いを投影した。

  死を呼ぶ少年、死神、剣の申し子、様々な仮面を持っているのに、どれも真実ではない。本当の彼を、久狼は知らない。もしかしたら、師匠ならそれを知っているかもしれない。

  それがうらやましかった。彼を堂々と独占できるのは、この世でただ一人だけなのだ。

  でも、ならなぜあの時朝霞はあんなことをしたのか。師匠に秘密で自分とまぐわいに来たのか。これだけが唯一、久狼をいまだ男として奮い立たせていた。

  あの口づけ、表情、あれが本心であってほしかった。

  水桶の重さに、朝霞がよろけたのを見て、反射的に久狼は手を伸ばし、彼の肩を抱いた。すると彼は無感情な瞳でこちらを見上げてきた。

  その、何も映っていない瞳見た瞬間、久狼の胸の深いところが傷付き、心の中の獣が雄たけびをあげる。

  久狼は強引に桶を奪い取り投げ捨て、彼の左腕をつかんで建物の壁に叩きつける。

  「どういうつもりだ!」

  朝霞は、感情の見えない瞳で言った。

  「どういうつもり、とは?」

  久狼は面食らうが、怒りを胸に心を奮い立たせる。

  「なぜ袖口に短刀なんて仕込んでいる!」

  と言い、無理やり相手の着物の袖に手を突っ込むと、そこから白鞘の短刀が出てきた。柄になにか動物の彫刻が施されている、質素だが上品さを感じさせる逸品だった。

  「あっ!」と驚いた声を上げる彼を尻目に、久狼はそれを抜き放った。切っ先に少量の血、自分のものだった。

  それを手に、久狼は朝霞に詰め寄る。

  「あの時刀は抜き身だった。お前まさか師匠に刀を――」

  言いかけるが、久狼は相手の顔を見て言いよどむ。朝霞が泣きそうな顔をして、刀を眺めていたからだ。彼は言葉を詰まらせ、目を白黒させていた。

  「つも――り……」

  しぼんでいく感情の隙間を縫うように、足音が聞こえた。

  「おおい、朝霞、一人で行かせてすまんなあ。俺としたことがすっかり失念――」

  振り返るとそこには龍牙が立っていた。彼はこの状況をみて、すぐに怒りを燃え上がらせる。

  「久狼! おめぇ何やってんだ!」

  「っ!? 師匠!?」

  龍牙は全身に怒りをみなぎらせながら、大股で久狼に歩み寄る。

  「師匠! 違いますこれは……!」

  言い切るより先に、胸倉をつかみあげられた。彼は怒りに満ち満ちた表情で、久狼に吠えた。

  「何が違うってんだ! 朝霞に指一本でも触れてみろ! 許さねぇからな!」

  「どうしちまったんですか! 俺はただこいつが師匠に刃物を向けたんじゃないかって……」

  すると彼は久狼を突き飛ばし、しりもちをつかせる。久狼の手から落ちた短刀が、甲高い音を立てて地に転がった。

  赤い光を瞳にちらつかせながら、怖い顔になった龍牙が言う

  「俺の朝霞がそんなことするわけねぇだろ!」

  その鬼の様な剣幕に、ぞろぞろと門下生たちが集まってくる。

  「どうしたんですかい!?」

  「師匠と……久狼さん?」

  「喧嘩か?」

  ざわめきを吹き飛ばすように、久狼は芽生えた反骨心を胸に大音量でまくしたてた。

  「俺はあんたが殺されるんじゃないかと心配して……」

  だが、言葉は途中で止まる。いつもは豪放磊落な龍牙の雰囲気が、明らかに異質になったからだ。

  「ほお……?」

  炎のようにと立ち上り始める威圧感、一流の剣士だけが放つことができる気迫、赤い光のちらついた瞳で久狼を見る龍牙は、常軌を逸していた。

  彼はゆらゆらと近づき、右手をこちらに伸ばしてきた。それだけで総毛立つ感覚に襲われる。絶対的な実力差を感じ取って、ただ震えることしかできない。

  「おめぇさん、誰が誰に殺されるって……?」

  「あ……あ……っ!」

  一流の剣士に、過剰な心配は侮辱になることを久狼はすっかり忘れていた。龍牙によって支配された空間の中、彼の手が近づいてくる。だが、龍牙が久狼に触れる間一髪のところで、それは起きた。

  「先生」

  朝霞が龍牙の胸に飛び込み、意識を逸らしたのだ。一転して優し気な表情になって彼を受け止めた龍牙に、朝霞は全身を預けながら耳打ちした。

  それを聞いた龍牙は、愛おしげに彼を抱きしめた。

  「すまねぇな……おお、怖かっただろう……屋敷で休みてえのか……?」

  龍牙はうわごとのような言葉を囁きながら、朝霞を伴って自室に戻っていく。

  その様子を見た久狼は、剣士としての、男としての敗北感に打ちのめされながら、地面にこぶしを打ち付ける。

  「朝霞、あいつ……俺を……っ!」

  湿った雲に覆われた空の色を、小刀の白刃が写し取っていた。

  

  .六

  その日の夜、久狼は悪夢を見て目を覚ました。あの夜の、師匠と出会った夜の夢だ。瞼の裏で絶えず白刃が瞬いている。外は雷雨に見舞われていて、湿気がこもってじっとりとしていた。

  このまま眠れたら一番よかったのだが、人間そう理想通りにいかないらしい。どうしても胸騒ぎが収まらなくて、久狼は剣を振りに道場へ向かった。

  寝巻から着替え、部屋を出て道場に向かう。激しい雨が打ち付ける中を進み、裏口まで進んだ時だった。獣人の聴覚が、妙な音を聞き取る。

  あの時の情事を思い浮かべたが、どう聞いてもそういった音ではない。恐る恐る扉を開け、道場の広間前まで進む。

  泥棒か? そう思い警戒心を強めた久狼の耳に、よりはっきりと声が聞こえてくる。驚くことに、それは龍牙と朝霞だった。

  何をしているのか気になり、戸を開けて中を覗き込む、視界には銀色の輝きがちらちらと舞っていた。それを確かめようと目を凝らした時、雷が落ち、薄暗い部屋を強く照らし出した。

  彼らのしていることを見た瞬間、久狼は絶句する。

  「な……に……?」

  そこには真剣を手にした二人が、すさまじい勢いで切り結んでいた。おそらく、本気で。

  「グ……ゥオアアアアアッ!!!」

  こちらに背を向けた龍牙が叩きつけるように剣を振るうが、朝霞がそれをひらりと避け、鋭い一撃を放つ。それを受け止め龍牙は、思いきり剣に力を込めて相手を振り払う。

  「なんで……こんなこと……!」

  明らかに訓練ではない、殺し合いだった。力なくへたり込んだ久狼は、目の前で行われる天上の戦いを呆然と見つめ、燭台を取り落とす。その音が道場に響き、二人の視線がこちらに向けられたのがわかった。体をびくつかせる久狼に、苦し気な龍牙の声が届く。

  「逃げろ久狼っ!」

  「で……でもっ!」

  刀と刀がぶつかり合い、甲高い音で声を覆い隠した。密着した二人が、お互いを切り裂こうとぎりぎりと力を籠める。単純な腕力勝負では龍牙に分があるはずだった。だが、お互い同時に一撃を放った時、相手の魂の緒に手が届いたのは朝霞のほうだった。

  袈裟懸けに切り裂かれた龍牙が、道場の床に頽れる。再び雷鳴がとどろいたときに立っていたのは、着物を赤く染めた少年だった。

  「師匠っ!?」

  倒れ伏した龍牙に必死の形相で駆け寄った久狼は、龍牙を抱き上げる。

  切り裂かれた胸元から血があふれ出し、久狼の白い毛並みと着物を血に染めていく。

  「師匠っ! 師匠っ! どうして……!」

  虚空を見上げていた龍牙は、うわごとを繰り返した。

  「すまねえなあ……すまねえなあ……」

  久狼は、その弱弱しく伸ばされた手をつかむ。

  「おい、嘘だろ……おい! 死ぬなよ師匠!」

  狼の瞳に、どんどん涙が溜まっていく。

  「あんたにはまだ教えてもらわないといけないことが山ほどあるんだ! こんな、こんなところで……!」

  けれども、呼びかければ呼びかけるほど、龍牙の瞳から光が遠ざかっていく。

  彼をつなぎとめるため、久狼はぎゅっと手を握りこんだ。すると、龍牙は安らかに微笑み、

  「後は……頼んだ……」

  そう言って、だらんと手を垂れさせた。

  龍牙の死を感じ取った瞬間、久狼の瞳から大粒の涙が零れ落ちると同時に、彼の慟哭が響き渡った。

  「師匠っ!? いやだっ! いやだあああああっ!!!」

  彼の怒りに呼応するように、雷鳴がとどろく。背後に立っている少年に向けて、久狼は憎しみに満ちた瞳を向けた。

  血に濡れ、肩で息をしている少年に向かって吠える。

  「どうしてだ……」

  ゆっくりと血だまりに龍牙の亡骸を横たえ、手で瞳を閉じると、床に落ちた刀に手をかけた。

  「どうして殺した……!」

  久狼は炎のようにゆらりと立ち上がり、まっすぐ朝霞を見据え、そして、

  「答えろよっ!」

  彼に切りかかった。

  道場に、再び剣戟の音が響き渡る。

  怒りに任せて刀を振り落とす久狼とは対照的に、朝霞は冷静だった。それが、余計に心を逆なでする。殺意に荒れ狂う狼は、うなり声を上げながら朝霞の刀に自分のそれをぶつける。

  「なんでだよ……なんで……っ!」

  朝霞は何も答えない。虚ろな瞳でこちらをみつめるだけ。それが久狼にとって悲しかった。

  「俺はお前を……っ!」

  力任せに腕を振るい、相手を弾き飛ばす。ぜえぜえと息を吐きながら、久狼は荒々しく刀を構え、再び走り出した。

  そして、間合いに入り込み、刀を振り上げた瞬間、久狼の肩から血しぶきが上がる。

  朝霞とすれ違い、勢いそのままに壁に叩きつけられた久狼は、自身を苛む痛みに体を丸めた。

  「が……がぁああっ……!」

  痛みにうずくまる狼に一瞥すらくれずに、朝霞は外に向かって歩き出す。いけない、反射的に心の中で叫んでいた。

  「が……ぐっ……ま、待て……!」

  こんな痛み、師匠のものと比べたらどうってことない。そう自分を奮い立たせ、再び立ち上がろうとするが、腕が動かしづらい。てこずっていると、朝霞が振り向かずに言った。

  「動くと死にますよ。久狼様」

  その声を聴き安心するとともに、現実に打ちのめされる。この少年が朝霞であるという紛れもない事実に。

  憎しみを胸に、久狼は言葉を紡いだ。

  「じゃあ殺せよ……! なんで……っ!」

  それを聞いて、朝霞は立ち止まり、こちらに振り向いた。撫で気味の肩越しに、無感情な瞳が薄く光っている。

  彼は、ただ静かに言い放った。

  「今の貴方には、斬る価値すらない」

  それを聞いた瞬間、久狼の心のどこかがぱきぱきと音を立てると同時に、消えることのない怒りが噴き出した。

  狼はそのたくましい体を怒りで肥大化させると、出血するのも構わずに刀を握り、少年の背後に食らいついた。

  剣士の御法度、背後からの不意打ち。

  「朝霞ぁあああっ!!!」

  剣士としての道に背いても、彼に一太刀浴びせたかった。が、朝霞はその一撃を見ることもせずに躱し、白刃を煌めかせる。

  瞬間、久狼の右半分の世界は闇に覆われた。

  叫び声をあげて、今度こそ完全にうずくまった久狼は、霞む視界の中、雨の向こうに消えていく朝霞の姿をみると、そのまま意識を失った。

  .七

  再び目が覚めると、久狼は自室にいた。布団に横たわる彼の周りには何人もの弟弟子たちがいて、彼らは久狼が目を覚ましたとわかると、一斉に顔を覗き込んできた。

  「久狼さん!」

  「大丈夫ですか!?」

  久狼は思考にかかった靄をなんとかぬぐい、首を動かして弟弟子たちを見まわす。

  「ここは……」

  「久狼さんの部屋です。厠に行った帰りに、道場から変な音がするってことに気付いて……」

  そこで、血だまりに倒れた久狼と、息絶えた師匠を見つけたのだという。

  「おれたち、何もできなくて……」

  「とにかく深夜に医者をたたき起こして治療してもらったんです」

  多くがそのことを思い出し、瞳に涙をためていた。久狼はそんな彼らに申し訳なさを感じつつ、一縷の望みをかけて訊く。

  「それで、師匠は……」

  一番近くにいた、橙の毛並みの犬獣人が首を振る。亡骸を思い出したのか、鼻をすする音が聞こえてきた。久狼は目元に腕をかぶせる。

  「すまない、俺がもっと早くに……」

  「そんなことありません! これは俺たち全員の……」

  どこからか、怨嗟のつぶやきが聞こえてきた。

  「朝霞……あいつが……!」

  犬獣人の弟子が、はっとなった顔で久狼を見た。久狼は噛みしめるように頷く。

  「あいつが……朝霞が……師匠を殺したんだ」

  それからの出来事は、まさに嵐の様だった。

  療養しながらも久狼は獣人奉行所の捜査に協力し、事件の概要を説明した。動機は不明だが、江戸一の剣術道場の師範代を斬り殺し、その跡取りの右目を奪った凶悪犯として、朝霞は江戸中の噂になり、日夜彼の捜索が行われた。

  だが、霞のように消えてしまった彼を、誰も捕まえることができずに、龍牙の葬儀の日がやってきた。

  江戸の平和を陰ながら守っていた英雄の葬儀には、多くの人が参列した。傷もつ身でありながらもその対応に追われていた久狼のもとに、磯熊が訪ねてきた。

  彼は獣人奉行所に顔が利き、酒を提供している関係で情報も流れてくるらしい。久狼の罪悪感を薄めるためなのか、時々そのことを話してくれる。最近はあまり進展がないのだが、聞いていると、彼はとんでもないことを口にした。

  「江戸を騒がせていた辻斬りの斬り方と、今回の龍牙の遺体の斬られ方が、どうやら一致しているらしい」

  それを聞いた瞬間、久狼に身の毛がよだつ感覚が襲い掛かる。

  久狼は平静を装いながら聞く。

  「どういうことですか」

  「獣人奉行所の、腕の立つ与力や同心の多くがそう言っているらしい。間違いないだろう」

  「朝霞が……あいつが辻斬りを?」

  磯熊は額に手を当てて言った。

  「ちょうどあいつが道場に現れた時期は、辻斬りの件数が少なくなっている……久狼、これは由々しきことだぞ」

  江戸一の剣術道場の師範代が、辻斬りを愛人として迎え入れ、あまつさえ斬り殺される。町人の信頼を失うには十分すぎる理由だ。

  久狼は、胸の奥から湧き出てくる黒い感情にこぶしを握った。

  「安心してくれ。このことは奉行所が差し止めている。江戸の安全を脅かしかねないことだからな」

  誰も気づけなかった。しょうがないことだったんだよ。そう告げて焼香に向かった磯熊を送りながらも、久狼はこぶしを解かなかった。

  ――朝霞、お前は俺たちのことをずっと騙していたのか……

  火葬される直前、久狼は棺に入った龍牙と二人きりにしてもらった。久狼は棺の蓋を開けると、師匠の遺体に巻かれた白装束の胸元を開いて、その傷口を目に焼き付ける。

  「師匠、どうして死んじまったんだよ……」

  冷たくなった胸元と、そこを引き裂く刀傷に手を這わして、記憶に焼き付けながら久狼は呟いた。

  「もっと……話したいこと……沢山あったのに……」

  縋りついて、涙を流した。初恋の人との別れは、冷たく、静かだった。

  包帯を巻いた瞳からも、涙がにじむ。じわりと目元が濡れた瞬間、白い刃の軌跡が、瞼の裏によみがえった。

  それからの久狼は、かつてないほど一心不乱に稽古に打ち込むようになった。胸に憎しみの黒い炎を宿した狼の剣は、以前よりも鋭さと苛烈さを増した。

  彼の姿を見た弟弟子たちもやる気をみなぎらせ、結果としてだんだん道場の評判も元に戻り始めた頃、それは起こった。

  屋敷の中庭で素振りをしていると、外の道とこちらを隔てる柵の向こうに見知った人影をみつける。

  道場を訪ねようとした相手に向かって、久狼は手拭いで汗を拭きながら声をかけた。

  「……伊咲」

  彼は、伊咲は、拝むかのように、静かに頭を下げた。屋敷の自室に通すと、彼はもう一度頭を下げた。

  「ありがとうございます。久狼殿」

  「茶はないが……まあゆっくりしていけ」

  まったく心のこもっていない言葉を返してから、久狼と伊咲は向かい合って座布団の上に腰を下ろし、口を閉ざす。何をしに来たのか、久狼にはわかっていたからだ。

  やがて、沈黙に耐えかねたように、伊咲が口火を切った。

  「朝霞さんは――」

  「あいつは消えた。師匠を斬って、俺の……」

  包帯が巻かれた右目を触ると、伊咲は唇をかみしめた。彼はむずむずと体を揺らすと、それでもと再び口を開く。

  「何か理由があるはずです! 朝霞さんは――」

  彼の言葉を聞いた瞬間、頭にかっと血が上る。いつの間にか久狼は立ち上がり伊咲の首に手をかけ、畳の上に彼を叩きつけていた。

  彼を見下して、久狼はさけぶ。

  「何の理由だ! 奴は人斬りだ! 無実の人を斬って、俺たちを裏切った! 最低の人間だ!」

  「く、ろう……さん……!」

  彼の息の根を止めかけていたことにはっとして、久狼は手を放し後ずさる。伊咲はげほげほとせき込みながら、震えながら自分の手を見つめる久狼に悲し気な顔をする。その、朝霞を信じているかのような態度に、久狼は苛ついた。

  「なぜあいつを庇う……! あいつは辻斬りで、俺たちをだまして道場に忍び込んだ屑野郎なんだぞ!」

  これで、こいつの信頼も砕けてしまえばいい、そう思った。狙い通り、彼は怪訝そうに眉根を寄せた。

  「辻斬り……!? どういうことですか!?」

  彼の疑問に、半ば得意げにすらなりながら久狼は答えた。

  「奉行所が言っていた。あいつが巷を騒がせていた辻斬りなんだってな。俺たちはあいつに体よく騙されていたんだよ」

  だが、久狼の期待していたものとは別の顔を、伊咲は見せる。

  彼は、理解できないと言いたげに呆然とした後、顎に手を当てて考え始めた。

  「ちょっと待ってください久狼さん……それは不可能です」

  「なんだと?」

  必死に飛び掛かりたくなるのを久狼が抑えていると、伊咲が加えて言った。

  「私が聞いている限りでは、辻斬りの事件はあなたのお師匠さんの歌舞伎が始まるひと月くらい前からですよね?」

  そうだ。記念すべき日が近くにあるので、なんとなくつなげて覚えてしまっていた。

  「それがどうした?」

  すると彼は、困惑した顔で言った。

  「それより前から、僕は朝霞さんと、ずっと稽古していました」

  ――深夜から、明け方まで。

  彼の告白を聞いた久狼は、自分の頭が殴られたような衝撃を覚えると同時に、右目の闇に白刃がきらめく。

  今日はそのことを伝えに来たんです。そう言って、伊咲は話し始めた。

  

  伊咲は、剣術道場の跡取りとしてあの家に迎え入れられた。お多恵とも将来を誓い、免許皆伝を受ければ祝言を上げて一緒になろうと言っていた。

  幸せの絶頂かと思われた最中、一つ問題が発生する。

  お多恵の父が、病に倒れたのだ。修行の身であった伊咲にとっても、親子にとっても、それは致命的だった。血とともに紡いできた剣術が途絶える。それは何としても避けたかった。だが、口伝だけで技を習得できるほど、それを技としてちゃんと磨き上げれるほど、伊咲は剣の才に恵まれてはいなかった。

  家にある秘伝書を読み漁りお多恵とも協力し、なんとか再現を試みようとするがうまくいかない。このままだと流派が途絶える。そう途方に暮れていた時だった。

  師範が、朝霞を連れて戻ってきたのだ。

  「彼の剣の才能は圧倒的でした。それこそ、書物を読み、言葉を聞くだけで、完璧に……いやそれ以上に技を使いこなす……今思い出しても背筋が凍ります」

  着崩れた着物を直した伊咲は正座し、畳の網目に視線を落とす。彼の話を、久狼は立ったまま神妙な気持ちで聞いていた。

  「そして技を――」

  「お前があいつから教わった」

  伊咲は頷いた。

  「お多恵さんはそれを知っていたのもあると思います。彼のことをとても疎んで……」

  思い人が盗られると思ったのだろう。身に覚えがあって、久狼の胸が痛んだ。

  「お師匠さんは、流派のすべてを朝霞さんに叩き込みました。そしてそれを私が受け継いだ。だから朝霞さんが辻斬りなんてできるわけ……」

  新たな事実に困惑しながらも、久狼は苦虫をかみつぶした表情で言った。

  「なら今回の事件はどう説明する? 事実として師匠は斬られ、俺もこの様だ」

  「それは……」

  言いよどんだ伊咲をみて、これは八つ当たりだと自覚する。久狼は彼に向き直りしゃがみ込むと、声をかけた。

  「ありがとう。辛い中、来てくれて感謝する」

  「久狼さん、私は―――」

  伊咲の口元が、ぎりりと音を立てた。

  「私はこれから郷里に帰ります。そこでお多恵さんと一からやり直すつもりです。すべてを忘れて」

  「それがいいだろう」

  伊咲は、悲しみに目を潤ませながら、すがるような声で言った。

  「朝霞さんを助けるのは僕にはできませんでした……でも、あなたなら……真実を……」

  言葉の途中で顔を背けた伊咲に、久狼は意識してやさしく声をかける。

  「行けよ。あんたには本当に守るべきものがあるんだろ?」

  彼はもう果たすべき役割を果たしていた。墓まで持っていくべき秘密を、隠すべき真実を、彼は伝えてくれたのだ。

  視線からその思いを読み取ったのか、伊咲は涙をかみしめながら頭を下げた。

  その夜久狼は、闇の中で事実を並べた。

  辻斬りが朝霞ではないとする。なら誰が? 朝霞ではないとすると傷口が一致したという証言はどうなる? そもそも朝霞とは何者なんだ? なぜ俺たちの前に現れた?

  ぼんやりと見える事実の輪郭をつかみかねていると、右瞼の裏に白刃が煌めいた。瞬間、恐怖がよみがえる。この数か月、憎しみとともに思い出し続けた刀の軌跡。

  戦っていた二人を思い出す。暗闇に浮かんだ二つの軌跡、闇に浮かんだきらめきは、果たしてどちらがどちらだったのか? そのことを詳細に思い出そうとして記憶を探ったとき、久狼はある事実に気付く。

  立ち上がり、襖を開ける。空には三日月が浮かんでいて、その光を眺めながら久狼は頭に巻いた包帯をとる。

  斜めに傷が入った右目の裏には、絶えず刀の軌跡が煌めいていた

  .八

  店を開けるために酒問屋にやってきた磯熊が、背後で膨れ上がる殺意を感じ取ったころには既に背後を久狼に取られた後だった。

  木の壁に叩きつけられた磯熊は、茶化すような声で言った。

  「久狼じゃあねえか。どうしたんだそんな怖い顔をして」

  それに、久狼は無表情で返す。

  「朝霞の居場所、あんたが知ってるんじゃないのか?」

  「お? とんだ言いがかりだ。どうしてそう思うんだい?」

  久狼は、つかんだ磯熊の腕をきつくねじりながら言った。

  「あんたが、師匠の友達だからだよ。磯熊さん」

  「おいおい、龍牙の友達なんて、この江戸中にいくらでもいるだろうが。お前さんのとこの弟子だって――」

  だが、久狼は静かに首を振る。

  「あんたが、『師匠にとって最も古い友』だからだ」

  そして、久狼は店に置かれた机に短刀を突き立てた。それを横目で見た瞬間、磯熊の表情は一変する。

  「お前それをどこで……!」

  久狼は、問いに答えずに言う。

  「兎髄干麗、免許皆伝の証――!」

  突き立てた小刀は、龍牙が殺される前、朝霞が落としたものだった。

  柄に兎の彫刻がなされたそれに、解放された磯熊が歩み寄る。彼はそれを至極大事そうに引き抜くと、鞘を求めてきた。

  白木の鞘を投げて渡すと、彼は小刀をそっと鞘に収めた。苛立たし気にみていた久狼は、感情を隠さずに言い放つ。

  「知っているんだろう? 朝霞のことを。俺よりも多く」

  さっきとは打って変わって、心細そうにこちらを見つめてくる磯熊に、たまらず久狼は腰に差した刀を抜いた。

  「こうしないと話せないか?」

  「わ、わかったわかった! 話すから……だからちょっと待ってくれ……!」

  彼は店を誰も入ってこないように再び戸締りすると、日本酒の瓶片手に店内の床几に座り込んだ。

  「話せ。どうして朝霞は師匠を斬った。『どうして師匠は辻斬りなんてしたんだ。剣術に出会って正道に戻ったはずの師匠が』」

  磯熊は、瓶の中の酒を煽ると、深く肩を落とした。

  「そこまで知っているのか……」

  彼の声は、深い深い、絶望に彩られていた。

  磯熊は龍牙と子供のころからの友人だった。幼い龍牙は体も大きく、力も強かったので、近所でいじめられていた磯熊は彼にいつも守ってもらっていた。そんな幼少期のある日、村が盗賊に襲われ、ふたりはお互いに助け合って生きていかなければならなくなる。

  「生き残るためには力が必要だった。だから――」

  「盗賊になった」

  「……よく知ってるな」

  久狼はふんと鼻を鳴らした。龍紋一刀伝の脚本家に近づき、持っている資料を見せてもらったのだ。小刀に関しても、そこで知った。

  「そうせざるを得なかった」

  いくら戦乱の世が終わろうと、子供が大人の助けなく生きていけるほど甘くはなかった。二人は必然的に盗賊となり、行商人や旅人から身ぐるみを剥いで生きるようになった。

  だが、そんな生活はいつまでも続かない、続けたくないものだ。悪名がとどろくようになったころ、彼が現れた。

  「兎髄干麗、剣聖が、俺たちの前に現れた」

  彼は圧倒的な力で二人をねじ伏せた。二人はここが年貢の納め時と、覚悟を決めたらしい。だが、干麗は彼らを殺さなかった。

  「俺たちを、あの人は弟子として迎え入れたんだ」

  頭を抱えていても、干麗のことを語る磯熊の声色は、少し弾んでいた。それだけうれしかったのだろう。

  狂暴そのものだった龍牙はその中で更生し、誇り高い武人として成長していった。磯熊はあまり才能がなかったので、龍牙の足りない部分を補うために商いを勉強した。二人は干麗とともに日ノ本を巡り、仲間を得た。その中で龍牙はのれん分けを許されるほど強くなった。

  全国を渡り歩いていると、そのうち評判が立ち、ある日荒れている江戸を守る役割を担ってくれないかという申し出があった。

  「だから俺たちは師匠と別れ、江戸にやってきたんだ」

  生活が安定すると、龍牙は道場を、磯熊は店を開き、ともに江戸に大きな影響力を持つまでに成長させた。

  それで全てが上手くいく、はずだった。

  磯熊は、大量の酒を喉に流し込む。

  「最初はよかった。でもある日龍牙が旅に出るといって、戻ってきたら子供を連れてたんだ! 俺にはすぐに分かった。あいつが盗賊狩りをしてるって!」

  それは罪の告白だった。敢えて見逃していたことに対する告白。

  「あいつはおとなしくなっても、常に強者との戦いを望んでた! 俺はそれが怖かった! いつかその衝動が、盗賊以外に向いたらって……」

  久狼は、話の中でおやと思う部分にぶつかる。

  「昔からそうだったとしても、なら何故ここ十数年は江戸に留まっていられたんだ? 衝動を抑えるすべを見つけたんじゃないのか?」

  すると、磯熊は涙にぬれた顔で、こちらを見た。

  「それは、お前が居たからだよ」

  突然向けられた言葉の刃に、久狼は面食らう。

  「なに……?」

  「お前を連れてきた日の夜、あいつ言ったんだよ。『俺を超える才能をやっと見つけた』って。聞いた瞬間分かったね、あいつはお前を終生の相手として迎えたんだって」

  そしてそこに、干麗の最後の弟子、唯一の免許皆伝である朝霞が現れた。剣術の器として育てられた少年が。

  「あいつの才能は空恐ろしかった! 見ただけであらゆる剣術を模倣し使いこなす! すぐに分かったよ。師匠が何を考えているのか! それは――」

  久狼は、話の途中で机に手を叩きつけた。

  「もういい!」

  最悪だ。今までの情報を照らし合わせると、最悪の図式が完成する。

  話を遮ると、久狼は刀を仕舞い、店の外に歩を進める。その後ろ姿に、磯熊の声がかかった。

  「朝霞は飛騨にいる。獣人奉行所に俺の名前を伝えて三六番の地図を出してくれと言ったら、すべて伝わる」

  「やっぱり奉行所も噛んでるんだな」

  「江戸の平和を、根底から覆すわけにはいかねえんだよ……」

  裏口から外に出ようとした久狼に、再び声がかかる。振り向いた久狼に、短刀が差し出された。

  「朝霞に返してやってくれ。俺が持つ資格はねぇ」

  受け取りながら、久狼も言った。

  「汚れてねえのは、あいつだけだろ」

  苦虫をかみつぶしたような表情で瞳に涙を溜めながら、磯熊は訊いてきた。

  「久狼、お前はどうして朝霞じゃないと思ったんだ……?」

  信じているから、そう言いたかったが、違う。久狼は、苦しげな声で言った。

  「師匠の太刀筋を、斬り方を俺は知ってる」

  幼いころに見た、村を焼いた盗賊の命を奪った傷と、朝霞とともに見た死体の傷、それらは一致していた。

  久狼を苦しめ続けたあの傷と……。

  .九

  早朝、旅支度を終えていた久狼は弟弟子たちに道場を任せ、旅に出た。詳細は伝えず、もし戻らなかったら、皆で力を合わせて道場を守ってくれと伝えて。

  彼らの涙ながらの見送りに、久狼は片手だけで答えた後、振り返ることはしなかった。

  道のりは険しく、一人で行くには長かったが、なんとか大事にならずに地図の指し示す場所にたどり着くことができた。

  青々と茂った山道を歩いてくと、山林の奥、誰も踏み込まないような深い位置に開けた場所があり、そこにぽつんと一軒の小屋が建っていた。

  目的地についた久狼の耳に、水桶を運ぶ小さな足音が聞こえてくる。

  茂みから明かりのもとに顔を出した久狼は、枯れた声色で眼差しの先にいる彼に向かって呼びかけた。

  「朝霞……」

  すると、あのときのように緋色の着物を身にまとった少年の背中がぴたりと止まり、しばらくしてから静かに振り向いた。

  数カ月ぶりの再会。でも、何年もの間隔てられていたような気がする。

  朝霞はそっと目を伏せると、持っていた水桶を下に置く。

  「久狼様……やはり追ってきたのですね」

  それを聞いた瞬間、その芝居を聞いた瞬間、久狼は叫び出したい衝動に駆られた。やめろ、やめてくれと。だが、あえて狼は嘘の仮面を被る。

  「俺が来ることを知っていたみたいな口ぶりだな」

  「あなたは、決して諦めないと思ったから。僕を殺すのを」

  悲壮な色をにじませた言葉、こんなことを彼に言わせていることが、我慢ならなかった。またもや、久狼は言いそうになる。もうこんなことはやめよう。と。

  けれども、久狼も止まらなかった。気持ちとは別に、大切なものを奪われた憎しみが、彼を動かしていたから。

  朝霞は腰に刺していた刀を抜き放ち、久狼に向ける。対する狼も、踏み出して小屋の前まで来ると刀を構えた。

  お互いに円を描くように間合いを測る。そして、どこからか聞こえてきた鳶の鳴き声を合図に、ふたりは駆け出した。

  刀と刀がぶつかり合い火花が散った。同時に、あの時みた剣閃が、瞼の裏にちらつき、そして、

  ――すまねえなあ……すまねえなあ……

  久狼の世界を半分覆う影の世界から、龍牙の姿がぼんやりと浮かび上がる。それをみて、久狼は確信した。

  朝霞は、師匠の……龍牙の願いを叶えてくれたのだと。

  彼の剣に自分のそれを合わせながら、狼は叫んだ。

  「朝霞!」

  彼はなにも答えない。でも続ける。

  「お前が何をしてたのか、俺はやっと理解できた! お前は――」

  「何を今更……言っているのですか」

  かつてないほど頑なな口調で、朝霞が刀を振るう。そのたびに、師匠の幻影が語りかけてきた。

  ――俺はこいつに、ひどい罪を背負わせちまった。俺の大切なものを守るために……

  剣戟を繰り広げながら、久狼は心のなかでうなずく。

  ――わかってるよ、師匠。あんたは、俺を守ろうとしてくれてたんだってな。

  理解すると同時に、過去の記憶が流れ出す。初めて褒めてくれたときの優しい微笑み、柔らかい額を撫でる手の感触、伝わってくるまどろみに似た温もり……。

  それらすべてが久狼の宝物で、なくすことの出来ないかけがえのない記憶だった。

  だが、久狼はそれを振り払って、剣を薙ぐ。

  甲高い音が鳴って、朝霞が弾き飛ばされる。空中で体勢を立て直し着地した彼に向かって、久狼は叫んだ。

  「師匠は、俺を助けるためにあんたに殺されたんだ! 違うか!?」

  「血迷いましたか!」

  見慣れた前傾姿勢で飛びかかってきた朝霞の刀をなんとか受け止めるが、すぐに距離を離した彼の蹴りが腹に突き刺さった。

  地面を転がり、再び雑木林に突っ込む。起き上がって刀を構えようとするが、体勢を完全に整える前に幾筋もの白閃が狼に襲いかかった。

  すべてを受け止めることが出来ず、体に無数の切り傷が生まれる。久狼の体を傷つける技は全て『龍泉一刀流』のものだった。斬撃を捌く過程で生まれた衝撃で再び地面を転がり、木々に強かに背中を打ちつけた久狼に、少し離れたところから朝霞が冷ややかに声をかけた。

  「何も出来ずに死ぬつもりか。見下げ果てた男だ」

  岩の仮面を被った少年に、久狼は諦めず呼びかける。

  「朝霞……! もうこんな悲しいことはやめよう! このままではお前は――!」

  「まだ言うか!」

  すたすたと歩いてきた朝霞が、久狼に刀を突きつける。

  「立て。修練の成果を見せるのではないのか? 無様に殺された師匠の後を追いに来たのか?」

  彼の口から出た侮蔑の言葉に、久狼は奥歯を噛みしめる。言ってもなお戦う様子を見せなかった狼に、少年は心底呆れた様子でため息をついた。

  「……とんだ見込み違いだ。戦わないのなら――」

  そう言い、刀を振り上げ、「死ね」の言葉とともに振り下ろそうとした。その時、久狼は口を開く。

  「師匠は、今際の際、すまねえなあ、と言っていた」

  それを聞いた朝霞の剣が、ぴたりと止まる。

  久狼は、ゆっくりと朝霞の顔を優しさに満ちた、泣き笑いの表情で見上げ、言った。

  「ありがとう朝霞……俺たちを、『龍泉一刀流』を守ってくれて」

  久狼がそれを口にした瞬間から、朝霞の剣が震えだし、力を急速に失っていく。

  浅い呼吸を繰り返して後ずさる朝霞を、刀を捨て起き上がった久狼はすかさず抱きしめた。

  朝霞が干麗と出会ったのは、雪の降る橋の上だった。

  身寄り無く、風に揺れる凧のようにたゆたっていた、今よりももっと幼い少年をみつめた兎獣人の老剣士は、少年の頭に手を置くと、赤い瞳を細め、

  「来るかい?」

  と言った。どこにも居場所がなく、だからこそどこへでもいけた朝霞にとって、その誘いは渡りに船だった。ふたりは共に旅をするようになり、その中で朝霞は、並ぶもののない剣の才能を開花させた。

  生活の全てを剣術に注ぎ込む、水墨画のような日常。希薄な自我しか持っていなかった少年は、理想の剣士となり、たった一人、師匠に認められた後継者となった。

  朝起き、食事をし、剣を振るう。単純だが満たされた日常。朝霞は初めて幸せというものを手にした。だが、それは驚くほど簡単に崩れ去る。

  病に臥せった干麗は今際の際、懸命に看病する朝霞にある人物のところに行くように伝えた。

  「私が亡き後は……江戸の龍泉一刀流の道場に行きなさい。そこでなら、お前を受け入れてくれるものがいる……そこでなら、私の……願いを……」

  そして朝霞は、干麗の遺言を聞き届けると、江戸へ発った。干麗の望み、争いがなくなったことで消えゆく剣術の保存を成し遂げるために。

  たどり着いたそこで、朝霞は龍牙と磯熊に出会う。ふたりは小刀を見せると彼を迎え入れ、手厚くもてなした。その日から、朝霞の江戸での日々が始まった。

  江戸中に顔の効く磯熊の手にかかれば、目的を果たすことは造作もなかった。周りに気づかれずに人間を一人手配することなど朝飯前だった。誇りをなによりも大切にする剣士ならば、面子のために朝霞のことをばらすこともない。

  「とても、良くしてくださいました」

  抱きしめられた勢いで倒れ、落ち葉に埋もれた朝霞は、瞳に涙を溜めながら言った。

  それはある意味、初めて対等の人間関係を朝霞が築いた瞬間だったのかもしれない。朝霞の悲しみを龍牙は受け止め、彼は同時にその剣に否応なく惹かれた。剣術で繋がった絆が愛に変わるのは、必然だったのかもしれない。結ばれることのない愛。

  龍牙に愛されると同時に、朝霞は彼の抱える秘密を直に知ることになる。それが、彼の抱える剣士としての自分だった。絶え間なく強者との戦いを望む、闇の姿。

  朝霞を取り逃すまいと、絶えず抱きしめ続ける久狼は、知っているはずなのに答えを促した。

  「お前は師匠を……恐れはしなかったのか?」

  少年はその問いに、ふるふると首を振った。彼の行動から滲み出す真意を感じて、久狼の胸に痛みが広がる。

  「……大好きでした。龍牙先生のことは」

  ふたりは、真の意味で守り守られていた。朝霞は龍牙に、龍牙は朝霞に。恵まれた才能故に恐れられた少年と、誰にも恐れられないがゆえに自らを最も恐れた竜。比翼の鳥のようにふたりは生きた。やがてくる別れを予見しながら、決して報われぬ思いに身を裂いて。

  龍牙の剣術を朝霞が教わるときが、龍牙が闇に飲み込まれるときが、この関係の終わり。そして、それはやってきた。

  歌舞伎座での帰り、久狼がはじめて朝霞をみたその日の夜、龍牙は朝霞を呼び出した。

  呼び出された夜に斬りかかられて初めて、朝霞は彼が今まで何をしていたのかを察した。

  「龍牙先生は……血まみれで……」

  急いで磯熊のところへ行き、体中を洗って、刀を折り着物も変えて証拠を隠滅した。龍牙は朝霞にすがりついて、唇を貪りながら言った。

  「自分が本当に大切なものを……あなたを殺してしまいそうになったとき、止めてほしいと」

  愛するものに自分を殺すように伝える、なんて残酷なのだろう。でも、朝霞はそれを受け止めた。泣きながら体を重ねながら――すべてを自らの罪として受け止める覚悟を決め、その日から彼は翼を閉じ、番を休ませるとまり木になった。

  久狼が強さを増すほど、むくむくと大きくなっていく剣士としての疼き。それを止めるためならどんなことだってした。愛ではなく悲しみを以て体を重ね、ときに刃を突きつけて。

  自分を殺すことのできる逸材をそばに置くことで、龍牙は自分から周りを守っていたのだ。

  久狼の中で、一つの疑問が氷解する。道場の門下生と手合わせをする話をしたときに感じた異様な視線の正体、それは殺気だった。龍牙が久狼に注ぐ、剣士としての欲望を表した視線だったのだ。

  このまま、何事もなく久狼が強くなれば、間違いなく『その時』がくる。だが、突如として彼らの未来に暗い影が差した。

  朝霞は気づいてしまった。久狼が人を斬ることが出来ないと。川に上った死体を見つけたときの反応で、彼はそれを察した。朝霞は久狼に戦わせるつもりはなかった。なんとしてでも止めるつもりだった。だからこそ、彼に人を斬れる様になってもらわなければならなかった。

  龍牙を愛するが故に、彼の闇を受け継ぎ、朝霞は久狼に斬られなければならなかったから。

  そのために、彼を深く裏切り弄び、自分への憎しみを煽ることでその枷から解き放とうとした。

  だが、

  「ごめんなさい……」

  朝霞は、乾いた声でそう言った。喉をしゃくりあげて、目を覆って。

  「ごめんなさい……!」

  役割を果たせなくてごめんなさい。殺してしまってごめんなさい。

  剣士としての仮面を脱ぎ捨て、大切な人を二度も失った少年の顔で涙を流し続ける朝霞に、久狼は言った。

  「師匠は、お前に向けて言っていたんだな」

  「すまない、後は頼んだ」と。すべての憎しみを背負って一人孤独に立つ少年に手を伸ばしながら。

  彼らの思惑通り久狼は憎悪を糧に強くなり、今ここにいる。

  久狼は胸にこみ上げる思いを抱えたまま、朝霞を抱きしめる手をほどき、立ち上がった。

  濡れた瞳で呆然とこちらをみつめてくる少年に、狼は小刀を差し出した。それは朝霞が落とした、干麗の小刀だった。

  朝霞は上半身を起こし、刀の鞘を握り、引き抜く。柄を掴んでいた久狼の手に、抜身の刃が現れる。

  朝霞は胸元を開き、祈るような目で久狼をみた。

  「龍牙先生も、今のあなたなら安心して流派を任せられると言うでしょう」

  さあ、と朝霞が胸元をさらけ出し、務めを果たすよう迫ってくる。

  そう、これは復讐。どちらかが血を見るまで終わることはない。少年は両手で久狼の刀を持つ手を包み込むと、ゆっくり胸に近づけていく。

  玉のような肌に刃が突き立てられる寸前で、久狼はそれを止めた。見つめ合うふたり。彼らはもう通じ合っていた。

  「俺は、お前を許さない」

  その一言に、朝霞は薄く微笑み目を閉じる。

  白い肌に、炎のように赤い血が流れ落ちる。

  呆然と、朝霞はつぶやく。

  「どうして……」

  殺さないのですか? と。彼の沈黙を遮って、久狼は答える。その手には、血に濡れた小刀が握られていた。朝霞の胸元に横一文字に走った傷から滴る血で汚れた刀が。

  「許さない。だから、生きてもらう」

  「なぜですか……! 僕はあなたの――」

  喚く唇を、久狼が自分のそれで塞いだ。無言で貪ると、それに応えるかのように朝霞の体が動く。

  久狼が離れた後、朝霞ははっとなって顔を赤らめた。

  「な、何を……」

  だが、久狼の真剣な眼差しをうけて、顔を伏せる。

  それだけで全てが通じ合う。すべてを理解した久狼の胸のうちには、消すことのできない愛おしさが生まれていた。

  彼を守りたい。愛したい。その心から、憎しみが剥がれおち、ぬくもりが胸を満たす。

  あのとき握られた手のひら、交わした視線。重ねた体……。たとえ憎悪を煽るために仮面を被り、偽の役割を演じていたとしても、それだけではないはずだ。

  二人はずっと密通していたからだ。初めて会ったときから、視線を絡ませ合いながら。

  久狼は二人の男の間で悩みながら、揺れ動いていた少年に、もう一度手を伸ばす。

  後日、獣人奉行所に血の付いた小刀が届いた。それを見た磯熊は首を振り、やがて事件の捜査は打ち切られた。

  それからの久狼の足取りを知るものは、いない。

  

AdAd