ライカンスロープ 第15話

  見上げれば、曇天模様の空が広がっている。

  それはまるで、今の自分の心を映しているかのようだと、瀞はそう思った。

  (あんまり、変化はねえな)

  アバドンの尾によってできた右脇腹の傷は、多少の痛みが残っているが、それだけだ。激しい激痛が走るとか、痺れて動けなくなるとか、そんな症状は出ていない。呼吸も脈拍も、やはり変化はなかった。

  (大丈夫かな・・・・・・毒を打たれる前に尻尾が抜けたのか、あのアバドンは毒を持っていなかったのか)

  あれこれと可能性を考える。不安を打ち消そうとするかのように。

  完全に傷のことを忘れられればいいのだが、忘れようとしても思考のどこかに引っかかってしまう。

  考えたところで、無毒であることを祈るしかないのだが。

  (しっかし、何も出てこねえな)

  周囲を見渡し、嗅覚を研ぎ澄ませても、キメラの姿も臭いも捕捉できない。先ほどまでは次々に湧いて出ていたのだが、アバドンの出現と同時にピタリと止まってしまった。

  (まぁ、何も出ないんなら、それでいいんだけどな。動くと毒が回りやすくなるかもしれねえしな・・・・・・いや、そもそも考えるなって!)

  瀞は自分に、戦闘に集中しろと言い聞かせた。毒の被害について悩むのではなく、綾子たちを守ることだけ考えればいい。今、家の中の子供たちを守れるのは、自分しかいないのだから。

  瀞は大きく深呼吸をして、ヘルメットの前面を開けて息を吐き出し、すぐに閉じてしまった。

  (ひどい臭いだからなぁ)

  カマドウマの臓腑の臭いが、周囲に満ちている。ヘルメットを被っていれば、多少はその悪臭を緩和させることが出来た。

  (全く、犬の獣人っていうのは、こういう時に不便だよな)

  そんなことを考えつつ、瀞は庭に面した坂道の下を見下ろした。改めて見ると、かなりの急坂だ。しかも道は細く、曲がりくねっている。外出の際には、減速して上手くハンドルを切りながら降りなければならないだろう。

  (脱輪したら大変だな。レッカー車、ここまで来れないだろ。絶対に4輪じゃないとな。離合もできないだろうけど、まぁ、他に住んでる人いないか。うちのじいちゃんも、こういうところに住んでいるからなぁ)

  祖父の実家を思い出すと、今は懐かしさよりも敵への怒りが高まる。故郷をこんなふうにさせてたまるかと、戦意が高揚する。

  (マジで俺たちが守らないとな。ここでキメラを倒すことで、ここの人だけじゃなくて、全国の人の安全を確保することにつながるって考えれば・・・・・・)

  「おっ」

  敵が現れないことを喜びつつも、やることが無くもどかしさを味わい、仲間や子供たちの安否などの不安に襲われ、自分の体にいつ現れるか分からない異常に恐怖する。

  そんな複雑な状態に立たされていた瀞は、何気なく綾子の家の前の坂道を見下ろし、それを見つけて声を上げた。

  高台に建つ綾子の家に伸びる、曲がりくねった坂道を、何者かが歩いて上がって来る。

  距離は遠く、右側面しか見えないが、骨格は人のものであると分かる。

  だが、人でも獣人でもない。

  (なんだ、あいつ)

  瀞注意深くそれを見ようと坂道の方へ近づいた。

  すると、瀞の視線を察したかのように、それも瀞を見上げた。

  「うっ」

  それと目が合った瀞が、小さく呻いた。

  骨格は人型であり、恐らく背丈は自分よりやや高い程度だ。青白い皮膚に覆われた胴体も四肢も細く、威圧感はない。だが頭部には一切体毛が生えておらず、目には虹彩も瞳孔もない。

  何より目を引くのは、両肩と両脇から生えた4本の黒い脚だ。先端は尖っており、関節が二つあるそれは、昆虫の脚のように見える。

  両手足を含めると、8本の脚を持つそのキメラは、白い双眼を瀞に向けていた。

  (バールでも、カマドウマみたいなやつでもないな)

  そのキメラは瀞を黙って見上げていたが。

  「ぅおっ!」

  急に坂道を駆け上がり始めた。その速度は、バールを超えている。

  一瞬たりとも目を離したくなかったが、キメラの姿は坂道の両側に生えている林によって見えなくなってしまった。

  (キメラだ!来やがった!見落とさなくてよかった!集中しろ!警戒しろ!)

  瀞は即座に思考を、体勢を、戦闘状態に切り替えた。

  (こっちから行くか!?いや、家に近づけたくはねえけど、ここから離れるわけにはいかねえ!それに、林に隠れて待ち伏せでもされたら厄介だ!ここで迎え撃つ!)

  瀞はヘルメットを閉じて、刀を下段に構えて家の前に陣取った。

  (落ち着けよ、家に入れるな。短時間で。他のキメラにも気を付けて)

  敵が来たことは、もちろん嫌だ。しかし、行動できるという一点では、喜んでいた。待つだけは、辛いから。

  あと2、3分も待てば、あのキメラはここに来る。瀞は、その瞬間を待った。

  (あ、そういや、あいつ、臭いあんのか?)

  瀞はヘルメットの前面を開けて、接近中のキメラの臭いを確認しようとした。

  嗅いだことのない臭いはない。鼻を突くのはカマドウマの臓腑。

  「ぅあっ!」

  そして、それに紛れた微かな別の臭いが、背後から伸びてきた。

  忍び寄り、獲物の首を刈ろうとするかのように。

  瀞は弾かれるように後ろを向いた。

  綾子の家の屋根の上に、バールがいた。

  バールは飛び上がり、瀞へと突っ込んでくる。

  触肢の代わりについている、長い両腕を瀞に伸ばして。

  「っだぁ!」

  瀞は上段に構えて踏み込み、バールの両腕を掻い潜り、刀を振り下ろした。

  バールの巨体の下を通り抜けるように。

  切っ先が、バールの頭部、主眼が付いている箇所に触れた。

  刃は止まらず、バールの体を切り裂きながら走る。

  そして、バールの体は一刀で切り裂かれた。

  両断とまではいかないが、頭部と胴体の底部を切り裂かれ、バールは絶命し地面に衝突した。

  一振りでバールを仕留めた瀞だったが、安堵も歓喜もない。

  わざと相手に姿を見せて、注意を自分に向けさせ、後ろからバールに襲わせる。

  そして、バールの不意打ちに合わせて、自分も攻撃を仕掛ける。

  初陣を経験して得た兵士の勘か、獣人であるが故に備えた獣の勘か、あるいはその両方か。

  相手の狡猾な作戦が、脳裏に浮かび上がった。

  (来てる!いる!)

  そう判断した直後、肉体が勝手に動いた。

  身体を反転させつつ、背後にいるであろう敵目がけて刀を振り上げたのだ。

  相手の不意打ちに対し、回避でも防御でもなく反撃で応じた。

  

  ガチン!

  刃と刃が衝突し、火花が散った。

  (ぅおっ!近っ!)

  瀞の目の前に、先ほどのキメラがいた。

  体勢は大きく崩れていた。爬虫類のような硬質な皮膚で覆われた左肩の脚で、瀞の体を貫こうとしたが、それを刀で切り上げられたからだ。

  虹彩も瞳孔もない真っ白い目は、驚きのあまり見開かれ、耳まで裂けた口も大きく開いていた。

  瀞は、自身の命を刈り取ろうとしていた死神の刃を防ぐことに成功した。

  (いける!斬れ!)

  自身の行動が吉と出たと判断した瀞は、手に走る痺れを抑え込むように柄を握りしめ、恐怖を勇気で抑え込み、追撃の片手袈裟を打ち込もうとした。

  予想外の反撃で面食らっている相手への攻撃なのだから、当たるはず。

  そう判断した上での攻撃だったが、しかしそれは軽率と言わざるを得ない。

  (え?)

  振り上げた刀が止まる。

  (いっつ・・・・・・)

  瀞は、右の脇腹に痛みを感じた。

  痛みの正体は、すぐに分かった。

  キメラの左脇腹から生えた脚が、自分の脇腹に伸びている。

  脚の先端は、槍の穂先のように、鋭くとがっていた。

  それが、自分の右横腹に突き刺さっている。

  「くっ!」

  痛覚と視覚で自身の負傷に気付いた瀞。

  しかもキメラは体勢を立て直し、追撃の準備を整えていた。

  右肩から生えた脚の切っ先が、瀞の顔に向けられる。

  これが初陣ならば、瀞は恐怖で硬直してしまっていただろう。

  だが、既に激戦を経験した瀞は生き残るための行動を止めなかった。

  刀の柄頭を叩きつけて脇腹に刺さった脚を抜き、後方に跳びつつ上半身を反らす。

  同時に、キメラの右肩の脚が瀞の頭部に向かって伸びた。

  臭いを嗅ぐため解放されたままになっていた前面に向かって。

  (当たる!)

  回避が間に合わないと悟った瀞は、首を傾けて捻じった。

  ガッ!!!

  「いっ!!」

  硬質な音を聞きながら、瀞は首と顔のに痛みに呻き声を上げつつ、ごろごろと地面を転がった。

  間一髪、瀞の回避によりキメラの脚は僅かに狙いから逸れ、標的の頭部ではなくヘルメットの右側面を破壊するだけにとどまった。頑丈なケブラー製のヘルメットだが、キメラの攻撃力の前ではガラス程度の防御力だ。

  (くそっ!)

  瀞は起き上がると、使い物にならなくなったヘルメットを左手で脱ぎ去った。破片で傷ついた右頬が痛むが、気にしてはいられない。

  体勢を整えた瀞は、キメラを向かい合った。追い打ちを掛けることはなく、身構えたまま動かずにじっと瀞を見つめて来る。白いだけの双眸で、じっくりと品定めをするかのように。

  先程の攻防で、安易に攻めることは危険だと判断したからだ。このキメラの慎重さが、今の瀞にとっては有難かった。

  (資料には、乗っていなかったな・・・・・・)

  瀞も改めてキメラを見定め、戦力を分析した。

  両手足は細長いが、よく見ると筋肉が浮かび上がっている。身体能力は高いだろう。

  だが、何よりも脅威なのは両肩と両脇から生えている、蜘蛛のような脚だ。

  硬質な肌で覆われており、関節は2つ、リーチは1.5メートル程。成人の腕位の太さで、先端は槍のように鋭く、ヘルメットをいとも簡単に破壊された。

  (運が良かったみたいだな)

  瀞は自身の右脇腹の痛みに耐えつつ、身震いした。

  相手が体勢を崩していなかったら、防弾ベストを身に着けていなかったら、あの脚は更に深く自分の腹に食い込んでいただろう。

  優れた身体能力に強靭な4本の脚、高い知能と警戒心を備えたキメラは、後にアラクネと呼ばれることになった。

  (このくらいの傷なら・・・・・・)

  傷が浅いことに安堵した直後。

  「ぐっ」

  吐き気が込み上げてきた。

  瀞はそれに耐え、込み上げてきたものを飲み込んだ。

  口中には、血の味が広がった。噛みついて仕留めたキメラのものではない。自分の血の味だ。

  (これって、内蔵が・・・・・・)

  傷は浅くなく、深手かもしれない。

  冷や汗が噴き出し、背筋に寒気を感じていると、アラクネが動き出した。

  考える時間など、敵が与えてくれるはずが無かった。

  「ちっ!」

  アラクネは前傾姿勢で踏み込んでくる。

  両肩の脚、どちらかが来るはずだ。

  (どっちだ?)

  瀞が身構えると、左肩の脚が突き出された。

  寸前で気付いた瀞は、右へ跳んで躱した。

  そのままアラクネの左側面に回り込んで斬りかかろうとしたが、アラクネの左脇腹から生えた脚が眼に入り、後退して距離を取った。

  (駄目だ、さっきの二の舞になる!)

  するとアラクネは、瀞に体を向けて右肩の脚を突き出してくる。

  瀞は後方に飛んで避けた。

  (攻められねえ!正面も、右も、左もだめだ!)

  後手に回った瀞に対し、アラクネは猛攻を仕掛ける。

  前進しながら、両肩の脚を連続で突き出してきた。

  瀞は後退して躱し続けた。

  側面に回り込んでも、両脇から生えた脚に攻撃を阻まれてしまうため、避け続けるしかなかった。

  回避後の隙を狙われないよう、大きく距離を取りながら。

  すると。

  「うっ!」

  瀞の背中が、壁にぶつかった。綾子の家の脇に立つ、物置小屋の壁だ。

  ここぞとばかりに、アラクネが右肩を脚を打ち込んでくる。

  「くっ!」

  瀞は左へ大きく跳び、辛うじてそれを躱した。

  アラクネの右肩の脚は、壁に深々と突き刺さる。

  (今だ!)

  瀞はアラクネの右側に回り込もうとする。

  それを阻もうと、アラクネは右脇腹の脚を瀞に突き出したが。

  「っだぁ!」

  瀞は上段に構えていた刀を振り下ろし、それを叩き落とした。

  来ると分かっていたからこそ、対処できた。

  (ここだ!)

  右側の脚を封じた瀞は、アラクネへ再び斬りかかろうとした。

  右足で大地を蹴って左足で大きく踏み込み、アラクネの背面側へ進みつつ、下段に構えた刀を右下から左上へと切り上げる。

  刀身は、アラクネの右脇腹から生えた脚の付け根に当たり、肋骨と内蔵、そして脊髄を断ち切るはずだった。

  だが。

  (うっ!?)

  アラクネの左肩の脚が、背中側からこちらを向いていることに気付き、瀞は急停止した。

  あと一歩でも踏み込めば、それは瀞の額に突き刺さっていただろう。

  (横側に回り込んでも、斬りかかろうとしたら反対側の脚の間合いに入っちまうのか!)

  アラクネの全身を見ることで動きを予測できたため、反撃のえじきにならずにすんだ。

  しかし、急停止の後には僅かに隙が生じてしまう。

  アラクネはそれを逃さない。

  壁に刺さった右肩の脚を引き抜きつつ、瀞目がけて薙ぎ払った。

  (うおっ!?)

  瀞はそれを、しゃがんで躱す。

  その時、瀞は咄嗟に左足で踏み込みつつ、前進しつつしゃがんだ。

  無意識に攻撃が優先されたこの行動は、瀞に好機をもたらした。

  アラクネは、2本以上の脚を同時に操作することが苦手だった。

  右肩の脚を薙ぎ払いつつ、脇腹の脚で瀞を攻撃することは出来なかったのだ。

  (おっ!)

  瀞の目の前には、正面を向いたアラクネの姿が。

  あと半歩で、自分の間合いだ。

  脇腹の脚が、瀞に向けられる。

  (先に届け!!)

  蜘蛛の脚が動く前に、瀞は両脚で地を蹴り、突きを放った。

  狙いは胴体、相手より先に心臓を貫く。

  切っ先が硬い胸骨を貫き、刀身が肉に深々と食い込む。

  その感触を、瀞は刀越しに感じていた。

  (嘘、だろ・・・・・・)

  医学の知識などないが、心臓は間違いなく貫いたはずだ。

  事実、アラクネは力なく自分にもたれかかっており、口からは鮮血が吐き出されている。

  それでも反撃の意志はあるようで、左脇の脚がピクリと動いた。

  「ぐっ!」

  瀞はアラクネを突き飛ばしつつ、バックステップをした。

  アラクネは3歩ほど後退し、片膝をついて再び吐血した。

  その胸には瀞の刀が突き刺さっており、刃は心臓を貫通していた。

  一方、瀞は仁王立ちでアラクネを見下ろしている。

  鮮血が流れ出る腹部を抑えて。

  (なんてことしやがる)

  堪えていたが、耐えきれずせき込みながら吐血した。

  瀞の突きがアラクネに命中したその時、アラクネは防御も回避もせず、瀞に踏み込みつつ左手を瀞の腹部に打ち込んだ。

  複数の蜘蛛の脚を同時に動かすことは困難だが、両腕は難なく動かせたのだ。

  加えて、瀞は気づけなかったがその指先には鋭い爪が生えており、それを瀞の腹部に突き刺していた。

  それはアーマーを貫き、瀞の肉体に損傷を与えていた。傷口を抑える指の隙間からは、だらだらと血が流れ出ている。

  (また腹か・・・・・・内蔵が・・・・・・いや、出血でやばい)

  痛みより、自身の生命を気にする瀞の目前で、アラクネはゆっくりと立ち上がり始めた。

  「くそっ!」

  瀞はアラクネに接近すると、胸に刺さった刀の柄を握り、アラクネを蹴り飛ばして引き抜いた。

  その後も油断せず、拳銃でとどめを刺し、倉庫の壁に背中を預け、その場に座り込んだ。

  (急いで血を止めないと、本当にやばいぞ!)

  瀞はアーマーと、その下に身に着けていたインナーも脱ぎ去り、飴色の体毛で覆われた上半身を露にした。腹部を見下ろすと、臍の上の辺りに裂傷があり、そこから血が流れ出ている。

  瀞はヘリの中で支給されたイナバのチューブを腰のポーチから取り出し、傷口に塗りたくった。多少染みるが、それを無視して傷口を塞ぐように、塗りこんでいく。

  (これで、大丈夫か?)

  手を離すと、徐々にイナバは瘡蓋のように固まりはじめた。とりあえず、失血死の危機は去った。

  (油断はできないよな。動き回ると、漏れ出るって言われたし・・・・・・)

  消せない恐怖に悩む瀞は、視線を右脇腹の傷に移した。そこにも、小さな刺し傷がある。出血は無く痛みはほとんどないのだが、アバドンによって付けられたこの傷は、毒により自分を犯している可能性があるのだ。

  傷と共に不安要素が増え、瀞の心はさらに沈んでしまう。

  (だめだ、ネガティブになりすぎたら、勝てる戦いも落とすぞ!綾子たちがいるんだぞ!空や風丸だって、頑張ってるんだぞ!しっかりそろ!とりあえず、こっちにもイナバを)

  自らを叱責した瀞は、右脇腹の傷にイナバを塗ろうとしたが、不穏な臭いを嗅いで顔を上げた。

  (後ろか!?)

  刀を掴み、瀞は前方に飛び出した。

  直後、倉庫の壁を貫いてアラクネの脚が飛び出してきた。

  瀞がその場にとどまっていたら、胸を貫かれていただろう。

  (マジか!くそっ!)

  瀞が倉庫の方を向いて構えると同時に、倉庫の扉を蹴り飛ばし、アラクネが姿を現した。

  (この倉庫、裏側にも扉あったな。そこから入って不意打ち仕掛けてきやがったか。つーか、もう1体いたのかよ)

  瀞はアラクネから距離を取り、嗅覚に意識を集中させて周囲の臭いを嗅いだ。

  (今のところ、こいつだけか。いや、分かんねぇな・・・・・・何で同時に仕掛けなかったんだ?あ、今ここに来たのか)

  アラクネをじっくりと観察しつつ、周囲に敵がいないことを確認し、目の前の敵に意識を向ける。

  一方、アラクネは周囲に散らばっているキメラの死体を眺め、瀞を睨んだ。心なしか、怒っているように見える。

  (あれ、なんか、こいつの顔、女っぽいな・・・・・・)

  アラクネを睨み返していた瀞がそんなことを考えていると、頭部に水滴が落ちてきた。

  (何だ、キメラの唾か!?)

  カマドウマが飛んで自分の上にいるのかと、アラクネに注意しつつ顔を上に向け瀞の目に、再び水滴が当たる。

  瀞画素の正体に気付くと、大量の水滴が空から一斉に降り注いできた。

  (こんな時に雨かよ)

  冷たい雨粒を浴びながら、瀞は心の中で悪態を吐いた。

  視界は悪くなり、臭いも嗅ぎにくくなり、動きも阻害されいいことは何一つない。

  (しかも、こっちは裸だぞ)

  加えて、先ほどイナバを塗るため防具を脱いでしまった。アラクネの脚や爪の威力を殺し、自分を守ってくれた防具は、アラクネの後ろにある。

  (何でこんな、悪いことばかりおこるんだよ。いい条件なら、対等に戦えるのに。怪我してて、雨降ってて、防具もねえ。最悪じゃねえか)

  それでも自分は、戦わなくてはならないのだ。

  悪条件が重なり、絶体絶命の状況に陥ろうとも。

  不幸を嘆かず、不条理に耐え、使命を果たさなければならない。

  目の前の怪物を倒し、人々を守るという使命を。

  キエエエェェェェェ・・・・・・

  唐突に、アラクネが大きく口を開き、耳を塞ぎたくなるような金切声を発した。

  鼓膜を針でつつかれているかのような痛みに襲われ、瀞は思わず顔をしかめ、耳を塞ぎたくなるのを必死で堪えた。

  どんな感情を込めて叫んだのか、瀞には分からない。

  ただ、とにかく不快であり、背筋がぞくりと冷え込んだ。

  「うるせえんだよ!!来やがれ!!また斬り殺してやる!!」

  不快感から生まれた恐怖を、自身の叫びで振り払い、瀞はアラクネに刀を向けた。

  耳と体毛を絶たせ、唇をめくり、相手を威嚇する猛犬のような顔つきで。

  -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

  「とらぁ!」

  気合と殺意が込められた棍が薙ぎ払われ、それが直撃したカマドウマは吹き飛んで小川に落下して絶命した。

  (終わったか!?)

  ひび割れているアスファルトの道路の上で、カマドウマを仕留めた獣人兵士は、棍を構えて周囲を見渡した。視界に映るのは、のどかな田園風景と、それを汚す無数の死体だった。

  死体と化したカマドウマは、全て獣人が手にしている棍で撲殺されている。硬質な外殻に覆われていても、強力な打撃により臓腑はしっかりと破壊されていた。

  「ふうっ」

  カマドウマの群れを全滅させたのは、黄金色の体毛を生やした猿獣人、03部隊隊員の猿飛志龍だ。敵の姿は見えないが、それでも志龍は油断なく周囲を警戒しつつ、先ほど落とした小太刀を拾い上げ、腰の鞘に納めた。背丈は170センチ程と小柄であるが、戦闘服の下には実用的な筋肉が搭載されており、洗練された動きで放たれた攻撃は強力かつ正確で、キメラが相手で遅れを取ることは無かった。

  (一人だときついぜ。しかも、俺、虫大嫌いなんだよな・・・・・・)

  志龍は仲間と共に戦場に降り立ったが、直後にバールの大軍に襲われ、戦闘の最中にはぐれてしまった。仲間と合流するため、バールやカマドウマを倒しつつ森や田舎道を歩き回ったが、結局仲間を見つけることは出来なかった。

  その時、志龍は空へ上る黄色い煙を見つけた。

  (あれは、07部隊の人か?)

  自分たちよりも先に戦場に入った、もう一つの部隊。その隊員が投げたスモークグレネードであると判断し、志龍は煙へ向かい進軍を開始した。

  そして今、あと少しで煙の発信源にたどり着ける距離まで来た。孤立という危機的状況から、ようやく脱却できる。

  (急がないとな)

  再び志龍が走り始めると、顔に水滴がぶつかった。

  (何だ?)

  上空からキメラの奇襲かと思い天を睨む。すると、次々と雨粒が降り注ぎ始めた。

  (うわ、最悪だ。こんな時に雨降ってきやがった)

  水滴の正体がキメラでないと分かった志龍は、悪天候に苛立ちつつ、バールの攻撃でひびが入ったヘルメットを、捨ててしまったことを後悔した。

  (ひびが入ったのは後頭部の部分だけだし、視界に影響はないんだから捨てなきゃよかった。目が開けずらくなるじゃねえか、くっそ!)

  苛立つ志龍をあざ笑うように、雨足は強くなっていく。志龍は歯噛みしつつ、スモークの発信源に走った。

  アラクネが動いた。

  右肩の脚を突き出してくる。

  瀞はバックステップで躱し、チャンスを待った。

  切り込無ことが出来る、数少ないチャンスを。

  (さっきは上手くいったけど・・・・・・もう一度、いけるか?)

  刀で脚を叩き落とし、他の脚が動く前に切り込む。

  簡単なことではない。アラクネの脚の刺突は強く、叩き落として即座に切り込むことは出来ない。かといって、全ての脚を華麗に避けて切り込むことも出来ない。

  剛腕を持つ和虎なら前者の、超速で動ける風丸なら後者の策を実行できるだろうが、自分にはどちらも実現不可能だ。負傷していれば尚のこと。

  (どうすりゃいいんだ!?)

  瀞はアラクネの脚を避け続けながらそのチャンスを待つが、なかなかその時は訪れない。時間だけが過ぎていき、スタミナはどんどん減っていく。体毛が雨を吸い、体が重くなり動きも鈍っていく。傷口に走る痛みも増していき、呼吸も乱れ始めた。

  しかし、時間が経過することは、悪いことばかりではない。スモークを見て、仲間と救援ヘリがこちらに向かっているはずだ。

  和虎や賢士が来てくれれば、戦局は変わるはずだ。ヘリが来たら、綾子たちを安全な場所へ送ることも出来る。

  (増援が絶対に来ない状況なら、避け続けてもいいんだがな・・・・・・)

  とは言え、仲間たちもキメラの相手で精いっぱいのはずだ。しかも、ヘリが来てもキメラがいたのでは着陸できないだろう。また、いつキメラの増援が来るか分からない以上、目の前のアラクネは急いで倒さなければならない。

  (やるしかねえ!)

  瀞はアラクネから大きく距離を取り、深呼吸をして、その脚の動きに集中した。

  (やっぱり、同時に何本も動かないな。基本、1本ずつ動くだけだ。同時に2本動くときもあるけど、同じ方向に突いたりするだけだ。同時に、違う動きをするってことが、出来ないみたいだな)

  瀞は回避を続け、アラクネの脚の動きを見極めていた。

  (さっきみたいに、一気に行くんだ。反応できない速度で、連続攻撃の隙間を狙って・・・・・)

  「うっ」

  その時、瀞の視界が不意に揺れた。

  (あれ、何だ?)

  それは、和虎の打撃を頭部に受けて軽い脳震盪を起こしたときのそれと似ていた。相手の姿が震え、傾いていく。

  (何!?くらった!?いや、出血!?)

  瀞は咄嗟にバックステップをして、アラクネから大きく距離を取った。

  しかし、着地と同時に頭痛と吐き気に襲われ、その場に跪いてしまった。

  (何だ、これ・・・・・・頭いてぇ・・・・・・気持ちわりい・・・・・・)

  それを見たアラクネが、接近してくる。

  再び距離を取ろうとしたが、両足に力が入らない。それどころか、関節の節々に痛みが走り始めた。

  (ちょ、嘘だろ、死ぬ・・・・・・)

  「くあっ」

  右に転がり、辛うじて躱す。

  そして、何とか起き上がるが、ふらついて転倒しそうになった。

  (おいおい、嘘だろ。まさか、これ、毒・・・・・・)

  突如体を襲った症状。思い当たることはただ一つ。

  アバドンから受けた毒だ。

  (和虎隊長が言っていたやつか・・・・・・)

  視界の歪み、頭痛と関節痛、そして吐き気。脳震盪と発熱の際の症状だ。

  和虎から毒の効果は聞かなかったが、おそらくこれがそうだろう。とてもじゃないが、戦闘を継続できる状態ではないほどに、その症状は重かった。

  (嘘だろ、これじゃ、戦えないだろうが・・・・・・やべえぞ、どうすりゃ・・・・・・)

  このコンディションでどう戦うか。結論を出そうとする瀞に、アラクネの無情な攻撃が繰り出される。

  ふらつく瀞の首筋を狙い、右肩の脚が突き出された。

  瀞は力を振りしぼって後方に逃げた。

  痛みと気だるさは消えないが、体はまだ動く。

  とにかく逃げなければと、瀞はアラクネから離れようとした。

  すると、背中に壁がぶつかった。

  綾子の家の壁だ。

  もう下がれない。このままじゃ磔だ。

  すかさず、アラクネが左肩の脚を突き出す。

  瀞の心臓を狙って。

  ドッ!

  アラクネの脚に、肉を貫く確かな手ごたえが走った。

  しかし、瀞の心臓は無事だった。

  「ぐうぅっ!!」

  瀞は左腕を胸の位置まで上げ、アラクネの脚を受け止めた。

  鋭い穂先は、左腕の手首と肘の中間あたりに突き刺さり、骨に当たり止まっていた。

  激痛と引き換えに命を守った瀞だったが、アラクネは動じることなく一歩前に踏み出し、残った3本の脚を全て瀞に向けた。

  残った右腕だけで、それら全てを防ぐことは出来ない。

  (あ、もう・・・・・・)

  死後の想像や敗北を自覚する時間さえ、アラクネは与えてくれない。

  ただ瀞は、自分が死ぬと、それだけ思った。

  守るべき子供たちの姿も浮かばず、ただ自分が死ぬという事実だけが・・・・・・。

  ギィッ!!

  しかし、アラクネは瀞にとどめを刺さなかった。否、刺せなかった。

  左脇腹に突如発生した激痛によって。

  (何だ?)

  無表情から一転し、苦痛に歪むアラクネの顔。

  瀞は歪んだ視界を下に向けた。

  そして、アラクネの攻撃を止めた原因を見つけた。

  (刀?)

  アラクネの左脇腹には、小太刀が突き刺さっていた。

  瀞を狙っていた全ての脚が止まる。

  さらに、瀞の左腕に突き刺さっていたアラクネの左肩の脚の力が緩む。

  (今だ!)

  瀞は刀を手放し、左腕に刺さったアラクネの脚を掴んで引き抜き、一歩踏み込んで前蹴りを打ち込んだ。

  毒に犯されていながらも瀞の行動はとても早く、渾身の蹴りはアラクネの腹部に直撃した。

  たまらず後退したアラクネを、間髪を入れず左方からの追撃が襲った。

  「せぃっ!」

  突き出された棍が、脇腹に打ち込まれた。

  小太刀が刺さった部位のすぐ上に直撃し、砕けた肋骨が臓器にも損傷を与えた。

  棍を打ち込んだのは、黄金色の体毛を雨で濡らした猿獣人、志龍だ。

  アラクネの脚による反撃を受けないよう、棍の先端部を持ち、そのリーチを最大限に活かした一撃を打ち放ち、アラクネに致命傷を与えることに成功した。

  志龍は突きが命中すると、すぐに右前方へ踏み込み、吹き飛んだアラクネの背中側に回り込んだ。

  アラクネは激痛のあまり左側の脚を動かせず、対処が遅れる。

  「ったぁ!」

  踏み込んむと同時に、志龍は即座に右薙ぎをアラクネの背中に叩き込んだ。

  その一撃も的確に入り、アラクネは前方へ吹き飛んで綾子の家の壁に激突した。

  「しっ!」

  更に志龍は壁のアラクネに向かって、再び突きを放つ。

  しかし。

  「ぐっ」

  胸部に衝撃が走り、志龍の一撃はアラクネの直前で止まった。

  衝撃の発生個所である胸の中心部には、アラクネの右肩の脚が命中していた。

  脚の関節の可動域は270度ほどもあり、反る様に曲がって背面の敵も討つことが出来るのだ。

  「っらぁ!!」

  お返しと言わんばかりに、志龍の動きを止めた右肩の脚目がけ、瀞は拾った刀を振り下ろした。

  毒に犯られていながら、瀞の刃は正確に関節部を走り抜けた。

  ギィッ!!

  右肩の脚が斬り落とされ、地面に転がった。

  アラクネは顔を歪ませ悲鳴のような金切声を上げつつも、脚を勢いよく振り回し始めた。

  もがく様に、苦痛にのたうち回る様に。

  瀞と志龍は追撃を諦め、アラクネから距離を取り、並んで構えて武器をアラクネに向けた。

  アラクネは、自身の肉体の一部を奪った憎い敵の方へ体と視線を向けた。一瞬苦痛が浮かんだ表情は、既に真顔に戻っていた。

  瀞はアラクネに視線を向けたまま、援軍として駆けつけてくれた猿獣人に話しかけた。

  「ありがとう。助かった」

  「ああ」

  相手は、ぶっきらぼうに短く答えた。

  「03部隊の?」

  「ああ。そっちは07だな」

  「ああ・・・・・・てか、志龍、だよな」

  確かめるような口調だが、瀞は確信をもって聞いた。

  隣に立つ03部隊隊員の猿獣人が、BATにおける同期の兵士、猿飛志龍だと確信して。

  「ああ。だが、その話はあとだ」

  志龍は瀞に目もくれず、そう答えた。

  瀞の声には再会を喜ぶ気持ちが含まれていたが、志龍の返答にはそのような感情が一切なく、緊張感だけが込められていた。表情も同様であり、口角が僅かに上がった瀞に対し、志龍の表情は刃のように鋭い。

  (おぉ、やっぱ、志龍だな。流石だぜ)

  ぶっきらぼうな返答ではあったが、瀞は怒ることも悲しむこともなく、喜びつつ感心していた。

  この友人は、変わっていない。

  それを安心した瀞は笑みを消した。

  再会を喜ぶ心を排除し、志龍同様に戦闘に集中する。

  「蜘蛛みたいな長い脚がやっかいだぞ」

  「掻い潜って攻撃だな」

  「懐に入っても、両手の爪で攻撃してくるぞ」

  「分かった」

  「あと、家の中に・・・・・・」

  瀞の言葉は、そこで途切れた。

  アラクネが、脇腹に刺さった小太刀を掴み、抜き取ったからだ。

  傷口からは鮮血が噴き出すが、アラクネは真顔を崩さない。

  それをどうするのかと注目した矢先、アラクネは小太刀を志龍に向かって投げつけた。

  振りかぶっていないにもかかわらず、回転しつつ高速で飛来する。

  「ぐっ!」

  志龍は右に跳んでそれを躱した。

  瀞の視線は、思わず小太刀の軌道を追って隣の志龍に向けられた。

  直後、アラクネは瀞に向かって突進し、左肩の脚を突き出した。

  仲間を案じて隙が生じた、手負いの獲物を先に仕留めようと。

  「ぅおっ!」

  アラクネの足音を聞いた瀞は、隙を作った自分の行動を悔いつつ、全力で後方に跳んだ。

  毒と疲労と傷により行動は制限されているはずだったが、瀞の回避は自身も驚くほどに速かった

  援軍で心に余裕が出来たからか、親友に負けたくないという対抗心からか。

  いずれにせよ、先ほどよりも力が漲り、アラクネの刺突を躱すことが出来た。

  アラクネは遠ざかる瀞を追わず、そのまま脚を体勢を整えた志龍に向けて薙ぎ払った。

  志龍はそれをしゃがんで躱し、低い姿勢のままアラクネの腹部へ棍を突き出した。

  しかし、アラクネは腹部に迫る棍をつかみ取った。

  「なっ!?」

  志龍の目が驚愕に見開いた時、アラクネは棍を天に向けて振り上げた。

  浮遊感を覚えた志龍の脳裏に、最悪の光景が浮かぶ。

  空中に投げ出され無防備になった自分が、アラクネの脚によって串刺しにされる姿。

  あるいは、根を最後まで手放さなかったため地面に叩きつけられる姿。

  その事態を避けるため、志龍はすぐに棍を手放した。

  志龍の体重が急に消えたため、アラクネはバランスを崩す。

  一方の志龍も、30センチほど宙に浮いていたために追撃が出来ない。

  志龍の着地が先か、アラクネの体制が整うのが先か。

  僅かに、アラクネが早いと思われた。

  だが、志龍が着地を待たず攻撃を仕掛けた。

  副隊長から半ば強引に持たされた手裏剣を、志龍は右腰の小さなホルスターから取り出し、腕の力のみでアラクネの胸部に投げつけた。

  命中しても致命傷は与えられないだろうが、それでもアラクネは根を手放し左腕でそれを受け止めた。

  それで、アラクネの動きが一瞬だけ遅くなる。

  それで十分だった。

  体勢を整えたアラクネが左肩の脚で刺突を打ち込んだ時、一瞬早く着地した志龍はバックステップで距離を取っていた。

  その時、アラクネの右には殺気を纏った瀞がいた。

  右肩の脚は斬り落としているので、右脇の脚さえ躱せば切り込める。

  (いけっ!!)

  アラクネの右脇の脚が瀞に突き出される。

  背面に回り込まれないよう、瀞の左から迫る軌道だった。

  瀞は右にサイドステップをして避けたが、その結果アラクネの正面に回ってしまう。

  アラクネは両手の爪を伸ばし、瀞に突き出した。

  (今だ!)

  瀞はそれを読み、手にした刀を切り上げた。

  その一刀は、アラクネの右腕を斬り落とした。

  ギアッ!!

  鮮血が噴き出る腕の切断面を見て、アラクネは激痛と仰天で耳障りな声を上げた。

  (もう一太刀!)

  瀞は一歩踏み込み、振り上げた刀でそのまま袈裟に切り裂こうとしたが、身体が泳いだ。

  動けるようになったとはいえ、毒と疲労と傷の三重苦の影響は大きい。

  アラクネはその隙を逃さない。爪を伸ばした右腕を突き出してきた。

  瀞は躱すことが出来ず、左腕でそれを受け止めた。

  「うあぁ!!」

  瀞はアラクネに負けない叫びを上げた。

  不運にもアラクネの刺突が、七里ビルでの戦闘でブラックハウンドに引っかかれた傷に命中したのだ。

  動きが止まった瀞に、アラクネの脚が向けられる。

  ギッ!

  しかし、とどめの刺突はまたも阻まれた。

  志龍が胸のサバイバルナイフを抜き、アラクネの頭部に投げつけたのだ。

  その切っ先は、アラクネの頬に突き刺さった。

  (ここしかない!!)

  瀞は左腕を振るってアラクネの爪を振り払い、踏み込みつつ右手一本で袈裟に一撃を放った。

  その一閃は、アラクネの左肩から右脇腹を切り裂いた。

  浅いと感じ、今後は右胴に向けて薙ぎ払う。

  腹部を走り抜けた一閃は、袈裟よりも深い傷を作った。

  そして止めと言わんばかりに、喉に向けて突きを放つ。

  その切っ先は、アラクネの喉を正確に射貫いた。

  瀞が放った三連続の斬撃は、アラクネに反撃の隙も与えないほど速く、そして正確であり、アラクネにしっかりと致命傷を与えられた。

  毒も疲労も傷さえも、その一瞬は瀞の動きを邪魔しようとしなかった。否、出来なかった。

  アラクネが、ゆっくりと跪く。

  それを見届けた瀞はとどめを刺そうとしたが、突如体の力が抜け、アラクネ同様に崩れ落ちてしまう。

  だが、倒れる前に駆け寄った志龍が受け止めてくれた。

  「大丈夫か?」

  「あ、ああ」

  大丈夫ではない。だが、そう答えるしかなかった。

  志龍は瀞を抱えたまま後ずさった。アラクネはまだ痙攣しており、死んでいない。傍にいると危険だ。

  「凄かったぞ、お前の動き。流石、瀞だな」

  「いや、お前も・・・・・・ナイス、援護・・・・・・」

  言葉もなかなか出てこない。堪えていた三重苦が、一気に噴き出したようだ。

  親友との会話を楽しむ余裕も、勝利の余韻に浸る暇もない。

  ただ、志龍に褒められた、良い所見せられたと、その二点の喜びと安堵はしっかりと噛みしめた。

  十分に離れた志龍は、瀞をその場にゆっくりと座らせた。

  「とどめ、刺してくる」

  「ああ」

  志龍は拳銃を抜き、アラクネに数歩近づく。

  つくづく、志龍らしいと瀞は思った。

  そして、志龍が銃口をアラクネに向けて引き金を引いた、その時。

  ドッ!

  銃声と同時に、アラクネの巨体が目にも留まらぬ速度で右へ跳躍し、銃弾から逃れた。

  最後の力を振り絞り、四肢と蜘蛛の脚で地を蹴ったため、チーターのように初動から走行速度に達し、目標地点へと向かう。

  (しまった!)

  油断を悔いつつ、志龍はアラクネが跳んだ方に視線と銃口を向ける。

  着地し動きを止めているアラクネと目が合った。

  (こんなに余力を残してやがったか!)

  志龍は再び発砲するが、アラクネは高速で地を這うように動き、再び銃弾から逃れた。

  銃口はアラクネを追いつつ火を噴くが、アラクネの速度には追い付かない。

  そして、志龍が弾を撃ち尽くした瞬間、アラクネは志龍へ向かってきた。

  志龍は傷ついた仲間を庇おうと、瀞に駆け寄りつつ発砲していた。その為、アラクネから奪われた棍から離れてしまい、拾いに行く時間はない。

  「志龍!」

  瀞は援護も出来ず、親友の名を叫ぶことしか出来ない。

  しかし、その声は志龍に勇気を与えた。

  志龍は腰に差してある小太刀を鞘の抜き、アラクネに投げつけた。

  これで怯ませ、その隙に棍を拾う。

  「っせぇ!!」

  気合の一声とともに、志龍の手から鞘が放たれた。

  ドドッ!

  鞘はアラクネに当たらず、回転しつつ飛来していった。

  アラクネは、地を蹴って大きく跳躍し、志龍を飛び越して綾子たちが隠れている家の屋根の着地した。

  瀞は立ち上がって下段に構え、志龍もすぐに棍の元へ走り拾って構えた。

  しかし、屋根の上に跳びあがりはしない。着地前、もしくは着地の瞬間を狙われるだろう。逆に、アラクネが飛び降りる時を待つ。

  「え?」

  「は?」

  雨粒に苦戦しながら見上げた二人は、揃って声を上げた。

  高速で移動していた時は分からなかったが、アラクネがいつの間にか、亡骸を抱えていたのだ。

  瀞が一人で倒した、もう1体のアラクネの死体だ。とどめの銃撃は受けていないが、心臓を貫かれており絶命している。

  アラクネは二人を見下ろしたまま、仲間の亡骸を屋根の上に置いた。そして、瀞から受けた傷を見せつけるように仁王立ちし、大きく口を開いた。

  キアアアアアアアア・・・・・・

  その口から吐血しつつ、アラクネは声にならない叫び声を上げた。

  喉を貫かれているため、鼓膜を針で刺されるような声はもう出てこない。

  傷口から流れ出る血は、体を伝う雨水と交わり、屋根の上を赤く汚していく。

  「うるせえよ。さっさと来やがれ」

  吐き捨てるように言い、瀞はアラクネを睨みつけた。

  アラクネは目を大きく見開いて瀞を睨み返し、四つん這いになった。

  直後、の背中から血飛沫が舞った。

  さらに、アラクネの背中の背中に一筋の赤い線が走り、ぐちゃりと不快な音を立てつつ裂けた。

  「いっ!?」

  「うっ!?」

  不快感を声に出した二人の目に、更にそれを強める光景が映った。

  裂けたアラクネの背中から、赤黒い触手が飛び出してきた。1本や2本どころではない。10を、20を優に超える細長い触手は、檻から解放され歓喜するように天に伸び、激しく蠢いて赤い滴をまき散らしている。

  やがてその触手たちの内、半分ほどが亡骸となったアラクネに伸び、冷たくなった身体に巻き付きつき、軽々と天に持ち上げた。指程度の太さだが、力は強いらしい。そして、掲げられた死体はゆっくりと降りていき、アラクネの背中に密着した。丁度、生きたアラクネが、亡くなった仲間を背負うかのように。

  「何をするつもりだ?」

  「分からねえ」

  瀞の疑問に、答えを知るはずもない志龍が応える。

  すると。

  グチッ!!

  何かが潰れるような音が、アラクネの身体から聞こえてきた。

  グチャッ!! グチッ!! ブチブチブチッ!! バチッ!!

  立て続けに、不快な音が響く。それは、衝突音にも近かった。

  しかも、音が鳴るたびにアラクネは体をビクビクと痙攣させ、それが不気味さを強調させた。顔は真顔で、苦痛があるのかどうかわからない。

  やがて、仕上げと言わんばかりに残っていた触手たちが動いた。折り重なったアラクネと亡骸の胴体に巻き付き始めたのだ。両者が決して離れるように、しっかりと。

  いつの間にか不快な音も、アラクネの痙攣も止まり、雨音だけが耳を突いていた。

  「志龍」

  「待つしかねえだろ」

  志龍は瀞の質問を予想し、短く答えた。

  二人の距離は近く、しかし固まってはいないほど適度に離れている。

  武器を強く握りしめる二人の前で、ようやくアラクネが動いた。

  7本の脚が音も無く蠢く。

  「え?」

  既に死んでいるはずのアラクネの脚までもが、動いていた。

  疑問の声を瀞が上げると、それに答えるかのように、アラクネの頭部が瀞に向けられた。

  瀞に心臓を貫かれ、ついさっきまで死んでいたアラクネの顔が。

  「嘘だろ」

  志龍にはその下の、喉を貫かれたアラクネの顔が向けられた。

  負傷と引き換えに瀞が仕留めたアラクネは、生者と一体となることで蘇生した。

  二身一体となったキメラは、2つの首で獲物を見ている。

  キエエエエエエエエエエエ・・・・・・・

  蘇生したアラクネが、産声を上げた。

  さっきより大きく、鋭く、重く、より不快な音だった。

  それが開戦の合図となった。

  雨粒とともに、アラクネが屋根から飛び降りた。