ライカンスロープ 第14話

  瀞はふと、初陣のことを思い出していた。

  ブラキオと名付けられた大型キメラに対し、防戦一方になっていた時のことを。

  巨躯から放たれる攻撃は全てが強力で、成す術もなく追い詰められた。

  技を振るい、策を弄し、装備を活用し、そして爪牙を使って一矢報いたものの、味方の救援が無ければ殺されていただろう。

  武器を使う人型のゴブリンや、群れを成して襲ってくる犬型のハウンドよりも、1体の巨大なブラキオの方が、何倍も強かった。

  そして、理解した。

  身体の大きさは強さに直結すると。

  自然界でもそうだ。

  狩猟本能を持ち、それに適した身体を持つ肉食獣も、大型の草食動物を狙って返り討ちに合うことは少なくない。

  複数で挑んだり、生まれたばかりの子供を狙ったり、群れから孤立した個体を狙ったり。

  王だとか最強だとか、称賛されている獣でさえあれこれと工夫している。

  象に河馬、キリンにバッファロー。

  雄のライオンは、彼らと一騎打ちをしても決して勝てないだろう。

  

  要するに、デカけりゃ強いんだと。

  「ごほっ」

  右の脇腹を抑えた瀞は、せき込みながら顔を上げた。

  自分の考えが安直だったと反省しながら。

  (どうにかなると思ったんだけどな)

  目に当たる雨粒により瞼が落ちそうになるが、なんとか堪えて目の前の相手を睨む。

  大きさは、ブラキオよりも圧倒的に小さい。

  だからこそ、一人でも対処できると思い込んでしまった。

  (痛いし、冷たい・・・・・刺された瞬間は熱かったのに)

  脇腹を抑える左手に、ぬるりとねばついた感触が。

  それをズボンで拭い、瀞は両手で刀を握り、立ち上がった。

  上半身を包み込む飴色の体毛は、雨水で濡れて倒れて地肌に張り付いている。

  水気を吸った体毛は重さを増しており、しかも雨水が傷口にしみる。

  (でも、無理とか言ってられないしな)

  相手の背後からは、緑色の煙が立ち上っている。

  敵を呼ぶリスクもあったが、それ以上に助けが欲しかった。

  (和虎隊長、副隊長。どっちでもいいから早く来てくれ)

  

  キエエエェェェェェ・・・・・・

  救援を望む瀞の耳に、空気を切り裂くような金切声が飛び込んできた。

  (落ち着け・・・・・・集中しろ、警戒しろ!逃げずに、なんとか生き延びるんだ!)

  瀞は生き延びるために脅威へと立ち向かった。

  ブラキオとの戦いとは違い、その双肩には幼い命が懸かっている。

  それは枷であり、そして力の源でもあった。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――

  20分ほど前。

  肉体は傷だらけで疲労も溜まっていたが、瀞は高い士気を維持したままカマドウマの群れと戦うことが出来た。

  (すげえ)

  理由は明白。和虎がいるからだ。

  和虎は群がるカマドウマを、文字通り蹴散らしている。巨大な怪物に襲われているのではなく、よってきた虫を叩き落とすかのように、いとも簡単に。

  「フッ!!!」

  カマドウマに先手を取らせない。自ら進んで付近のカマドウマへ跳びかかり、一刀で胴体を両断する。生命力が高くても、切り離してしまえば行動不能となり、脅威はなくなる。

  そして、休むことなく次の獲物へと向かっていく。複数のカマドウマがまとまっていても、躊躇うことなく向かっていく。

  時折カマドウマが体当たりを仕掛けるが、即座の軌道を読み、前後左右のいずれかに大きく一歩踏み出し、身を捻じって躱してしまう。

  太刀は防御に使わず、攻撃のみに使用している。澱みなく、流れるような動きで攻撃と回避を繰り返し、カマドウマを次々と倒している。

  力強く柔軟であり、正確で素早い。意思を持った突風が、切れ味を帯びて飛び回っているようだ。

  (どっちかというと、和虎隊長の方が化物だな)

  ようやく和虎の実戦を目の当たりにすることが出来た瀞は、感嘆と興奮で胸が高鳴っていた。綾子の家に来るまでに2度、バールとカマドウマに遭遇したが、和虎は数秒で終わらせるため堪能することはできなかった。今こうして、その雄姿を見ることが出来て、瀞は満足だった。

  もちろん、瀞は和虎の戦いを眺めているだけではない。自身もまた、湧き出て来るカマドウマを斬り倒している。

  だが、討伐数は和虎よりも圧倒的に低い。瀞はカマドウマの殺傷に二撃打ち込まなければならず、回避が間に合わず防御に回ることもあるからだ。

  さらに、大半のカマドウマは瀞でなく和虎へと襲い掛かかっていた。和虎の方がより大きな脅威であると認識したらしく、我先にと和虎へ殺到する。

  (普通は逆なんだろうけど、虫だからか?)

  助かったと思う反面、多少の悔しさもある。だが、和虎の戦いぶりを見れば、その悔しさも薄まってしまう。

  (しかし・・・・・・やっぱ、凄すぎるぜ、和虎隊長)

  カマドウマと戦いながらなので、じっくり見ているわけではない。そもそも、和虎の動きが速すぎるため動きの詳細まで理解できるわけではない。

  それでも、和虎が強いという事だけは理解できた。何度も訓練や試合を繰り返してきたが、まさかこれほどとは思わなかった。

  (やっぱ、訓練と実戦とじゃ、凄みが違うぜ)

  和虎の戦いを見ることが出来て、瀞は嬉しかった。自分に剣術を教えてくれる人は、こんなに強いのだと、誇らしい気持ちになった。

  さらに、その雄姿自体が自分にとっての鼓舞にもなる。俺もいつかはあんなふうにと、気持ちが昂り力が漲る。強者が傍にいることで安心感も芽生えたが、それは気の緩みに繋がらず、勇気へと変わった。恐れず戦えと、背中を力強く押してくれた。

  そして、戦闘が始まって5分も経つ頃には、カマドウマの姿は見えなくなっていた。

  「とりあえず、片付いたな」

  「はい」

  改めて周囲を見渡すが、生きているカマドウマの姿はない。

  (こりゃひでえ)

  地面には、自分たちが切り殺したカマドウマが無数に転がっている。大半の個体は、四肢がまだぴくぴくと痙攣しているが、どれも胴体や四肢が両断されているため、既に脅威ではない。

  しかし、巨大な虫のバラバラになった死体が大量に散らばっている光景と、白い血液が放つ悪臭は、視覚と嗅覚を同時に苦しめて来る。

  (ほんと、最悪。やっぱ戦いって、グロいな。かっこいいもんじゃねえ)

  瀞がそんなことを考えていると、和虎が発煙手榴弾の安全ピンを抜き、風下に放り投げた。戦闘の邪魔にならないよう、坂道の下の開けた空間に向かって。

  数秒後、手榴弾が落ちたと思われる場所から黄色い煙がもくもくと立ち上り始めた。救援を意味する煙だ。数分も経てば、BATのヘリが来てくれるだろう。

  「気を抜くなよ」

  「ああ、はい」

  煙に見とれていた瀞は、和虎に咎められ、気持ちを入れなおして周辺警戒を再開した。

  (まだ大丈夫だよな)

  瀞は刀を、特に刀身を見てみるが、刃毀れはまだない。

  手足の切り傷も、痛みはあるが耐えられないほどではない。包帯が巻かれているが、動きに支障が出るほどではない。

  (まだ余裕があるな。でも、もうキメラは出ないでほしいけどな)

  瀞はそう思っていたが、その願望は即座に壊された。

  風上から、綾子の家の裏側から、異質な臭いが流れてきた。

  バールではない。臭いが強いという事は、カマドウマでもないだろう。

  「くっそ・・・・・・隊長!」

  「ああ」

  和虎も臭いを感じ取ったらしく、瀞の言葉を待たず家の裏側へ回ろうとした。瀞もそれに続こうとしたが。

  ドガッ

  頭上から発せられた音を聞き、足を止めた。

  音の発信源は家の上の方、つまりは屋根の上からだ。

  (何だ、あいつ・・・・・・)

  初めて見るキメラが、そこにいた。

  骨格は馬に近い。だが、馬よりも身体は一回りほど大きく、首も長い。体毛はモスグリーンで、胴体には鎧のような鉄板を身に着けている。

  そして、その顔はブラキオの時と同様に、人のそれと似ていた。しかもその顔はより人間に近く、わずかながら理性を携えているかのようだ。また、よく見てみると

  (ブラキオを小さくした感じだな。だったら、そんなにやばくねえのかな)

  頭部が人間の馬。一見、それだけだ。ブラキオと比べると体のサイズは半分以下であり、それほどの脅威とは思えない。

  (足場が悪い屋根で戦うことは無いし、降りて来るのを待つべきかな)

  瀞は和虎の意見を仰ごうと、和虎の方を見た。最も、降りるのを待って迎撃するだけだが。

  (お?何で?)

  瀞は体をびくりと震わせた。

  何故なら。

  「アバドン・・・・・・」

  聞きなれない単語を呟きながらキメラを睨む和虎の声が、憤怒に染まっていたからだ。

  ヘルメットのせいで、表情は見えない。しかし、身体からにじみ出ている怒りは十分伝わって来る。眉間に皺を刻み、牙を剥き出している和虎の表情が眼に見えるようだ。

  (和虎隊長、あいつを知ってるのか?っていうか、あいつ、強いのか?)

  隊長が怒っている。瀞にとっては、初めての状況だった。

  訓練の最中、和虎から強い口調で怒鳴られたことはある。だがそれは、部下である自分の成長を促すため、叱ってくれていたのだ。憎しみをぶつけられたことなど、一度もない。

  だが、今は違う。今の和虎の怒りは、確実に憎悪の感情から生まれているものだ。人の感情を読むことに長けているわけではないが、和虎を見れば分かる。

  (どうする、話しかけにくいし)

  瀞はもう一度キメラを、アバドンを見た。おそらく、和虎が呟いたそれが名前なのだろう。

  (女の人かな)

  瀞は、アバドンの顔を見て、そう思った。その顔たちは、女性のものだろうと。

  直後、アバドンが大きく口を開けた。

  パアァァァァァァァ

  まるで、ラッパのような音がその口から発せられた。甲高く、耳を塞ぎたくなるような音だ。しかも、その音はなかなか止まない。一定の音量で、響き続けている。

  (うるせえな。もう跳びかかって、斬るか)

  瀞が両脚に力を込めた直後。

  「後ろだ!!」

  和虎の怒号が、アバドンの声を押しのけて瀞の脳に届いた。

  瀞が振り返ると、いつの間にか背後に2体のカマドウマが。アバドンの声のせいで、全く足音が聞こえなかった。

  片方が、瀞に突進してくる。

  瀞は右に跳んで避けた。

  もう1体が、高速で接近してきた。

  上段に構えていた瀞は、刀を振り下ろしてカマドウマの頭部を縦に割った。

  それでもカマドウマの勢いは止まらず、瀞の腹部に頭突きが入る。

  痛みが走るが、獣人の筋肉と防弾具のお陰でダメージは小さい。

  瀞はすぐにカマドウマから離れ、周辺の状況を把握しようとした。アバドン、和虎、他のカマドウマ、全ての状況を把握しなければならない。

  だが。

  (いっ!!!)

  強烈な殺気を背中で感じ取った瀞は、首を捻じって背後に目を向けた。

  そこには、アバドンの顔があった。

  その両目は、暗闇に立つ猫のように瞳孔が拡大しており。

  開かれた口からは、獅子のような大きな牙が剥き出されている。

  その顔には、もう理性はなかった。

  瀞は一歩前に踏み出し、アバドンの噛みつきから逃れた。

  そしてすぐに体を反転させると、アバドンの右側面へと回り込んだ。

  恐怖に屈せず、即座に反撃に移ったのだ。

  胴体には鉄板が付いているため、狙いは首の根元だ。

  位置は瀞の頭よりやや高い位置にある。

  (斬撃は難しい。突きだ!)

  アバドンの首元へ突きを打ち込もうと、瀞が切っ先をそこへ向けた瞬間。

  (あっ!)

  視界の右の端に、何かが見えた。

  それが、自分の右わき腹へと向かってくる。

  攻撃態勢に移った今、回避も防御も間に合わない・・・・・・。

  ガチン!!!

  金属音が鳴り響き、瀞の体が右に吹き飛ばされた。

  ガキッ!!!

  ガアアッ!!

  もう一度金属音が響き渡り、アバドンが叫ぶ。

  瀞が家の壁にぶつかって起き上がると、再び接近してくるアバドンの顔が視界に飛び込んできた。

  起き上がった瀞はアバドンの左側面に逃れると、反撃せずにバックステップをして大きく距離を取った。

  アバドンは壁に激突して動きを止め、家全体を大きく揺らした。古い家屋であるため、壁には大きな亀裂が入り、近くの窓ガラスが割れてしまった。

  瀞は動きを止めたアバドンの後ろ姿を見て、先ほど自分に迫った脅威の正体を知った。

  (尻尾か!?)

  アバドンの臀部には、長い尻尾が付いていた。先端がアバドンの頭部に届くほどの長さがあり、鞭のようにしなっている。

  そしてその形状は、馬のそれとはまったく異なっていた。硬質な殻のようなもので覆われ、複数の節があり、先端は鋭く尖っている。

  それは正しく、蠍の尻尾だった。

  瀞は、先ほど自分がアバドンに突きを打ち込もうとしていた場所に、和虎が立っていることに気付いた。

  (和虎隊長が、助けてくれたのか)

  和虎はカマドウマを切り捨てた後、瀞の背後に接近してアバドンの尻尾を叩き落とし、それを踏みつけつつ瀞の体を腕で吹き飛ばし、アバドンの首へ太刀を振り下ろしたのだ。

  しかし、アバドンが前方に踏み出したため、刃は首でなく胴体の鉄板に命中した。

  アバドンはそのまま、瀞目がけて突進したが、間一髪で瀞は回避に成功し、今に至る。

  一瞬の攻防だったが、和虎の助けが無ければ尾の餌食になっていただろう。

  「か、和虎隊長、ありが」

  「尻尾の先端の針には気を付けろ。毒がある」

  「は、はい」

  和虎は鋭い口調で瀞に告げた。

  (やっぱり、毒があるのか)

  瀞は頷き、ゆっくりとこちらに向き直るアバドンを睨んだ。

  後ろから斬りかかりたいところだが、尻尾がこちらをけん制するように動いているためそれが出来ない。

  (尻尾を躱して、斬りかかれないかな?)

  瀞は刀を握り直し、尻尾の動きに注目した。すると。

  「馬のように、後ろ蹴りも打ってくる。後方には立つな」

  「え、はい」

  和虎が再び指示を出してきた。まるで瀞の思考を読み、攻撃を止めさせるようとしてきたかのようだ。

  (後ろからはだめってことかよ)

  こちらを向いたアバドンの顔は、無表情のままだった。壁に激突したためか、額が少し赤くなっている。

  尻尾は相変わらず、別の生き物のようにうねうねと動いている。側面に回り込むと、あれの間合いに入ることになる。

  前方に立つと、突進の餌食だ。あれを受け止めることは出来ないだろう。しかも、口には鋭い牙もある。

  そして後方も危険。となると、どこから攻めればいいのか。

  (下手に提案してもだめだな。ちょっと情けないけど、和虎隊長に任せよう。あいつのこと、知ってるみたいだし)

  瀞は和虎の方にちらりと視線を向けた。相変わらず、和虎は怒っている。毛が逆立った尻尾は大きく膨らんでおり、びゅんびゅんと振り回されている。

  「奴が俺に注意を向けている間に、お前が仕留めろ」

  「は、はい」

  趣旨は分かるが、詳細ではない指示だ。瀞は詳しく聞きたかったが、それは出来ない。

  何故なら、アバドンが突進の姿勢を取ったからだ。

  (とにかく、突進が着たら避けろ!自分から攻めるな!避けまくっていたら、和虎隊長がアバドンに攻撃する!それで、アバドンの注意が和虎隊長に向く!その隙に、攻撃するんだ!)

  瀞は和虎の短い指示で、自分がすべきことを読み取っていた。アバドンの能力、そして自分と和虎の戦力を把握したからこそ、下すことが出来た判断だ。

  (そのチャンスを逃しちゃだめだ。俺がもたついたら、和虎隊長が尻尾にやられる!落ち着け!やるんだ!)

  和虎でさえ不覚を取る危険性がある相手との戦闘。恐怖はあったが、やはり和虎が隣にいるのだから、勇気が勝る。しかも、和虎が自分の戦力を宛にしているのだから、気力も湧いてくる。

  (やるぞ!!)

  瀞も和虎同様に、体毛が逆立ち表情に力が入った。ただし怒りによってではなく、気力の高揚によって。

  アバドンの突進に備え、瀞と和虎は身構えた。

  しかし。

  ドガッ!!

  アバドンが行った攻撃は突進ではなく、後ろ蹴りだった。後方の壁に向かって、後ろ足を打ち込んだのだ。

  腹に響くような重い音と共に、家の壁がガラガラと崩れ落ちて大穴が開く。自動車が突っ込んだかのような状態だ。

  (何やってんだ、こいつ)

  壁への攻撃の意図が分からず困惑する瀞の前で、アバドンは再び方向転換した。臀部を瀞と和虎に、頭部を家の中に向ける。

  「ちょ、おい、てめえ!」

  瀞がアバドンの意図に気付いて声を上げるのと、和虎がアバドンへ攻撃を仕掛けたのは、ほとんど同時だった。

  綾子達が隠れているの家の中へ入ろうとするアバドン。和虎は、太刀を振り上げてアバドンの臀部へと斬りかかった。

  自身の左後方から接近してくる和虎目がけて、アバドンの尻尾を突き出した。

  和虎が右に動いて交わすよう、和虎の左半身を狙って。

  アバドンの予想通り、和虎は右に半歩動いて避けた。

  「あっ!あぶっ!」

  気付いた瀞が叫ぶが、もう遅い。

  アバドンは半歩下がって、和虎に後ろ蹴りを打ち込んだ。

  瓦礫を蹴飛ばしつつ打ち込まれた脚は、和虎の骨を砕き内蔵を潰す威力を秘めていたが、それは空を切った。

  針を避けた和虎はアバドンの蹴りを読み、既に右側面に回り込んでいたのだ。

  しかし、アバドンの攻撃は終わっていなかった。

  アバドンは首を右に曲げて、自身の首を狙う和虎に噛みつこうとしてきた。

  だがその牙も、和虎には届かなかった。

  予測していたのか、咄嗟に反応したのか、和虎は太刀の柄でアバドンの喉をかち上げたのだ。

  アバドンはそれでも怯まず、尻尾の先端を再び和虎へ向けて、打ち込んできた。

  それを悟った和虎は首を一旦諦め、バックステップで針を躱し、アバドンの右後足を刈り取るため、姿勢を落としつつ刀を薙ぎ払う。

  すかさずアバドンは両前足で床を踏みしめ、両後足で地を蹴った。

  アバドンの後足のみがふわりと跳び上がり、虎の爪を躱す。

  次いで、アバドンは後足の着地を待たず前足で床を蹴り、家の中へ侵入してしまった。

  「ちっ!」

  和虎はすぐにアバドンの後を追った。

  「隊長!」

  瀞もそれに続こうとしたが。

  「残れ!いるぞ!!」

  和虎かわそう言われ、周囲を見渡した。

  いつの間にか、2体のカマドウマが背後にいた。

  「ちくしょう!」

  瀞はやむを得ず、カマドウマへと向き直った。

  そして、自ら斬りかかろうしたが、先にカマドウマが動いた。

  (やっべ!)

  カマドウマの突進を、刀で防ぐ。

  すると、もう1体のカマドウマは跳び上がり、瀞に向かって落ちてきた。

  このままでは押し倒されると判断した瀞は、目の前のカマドウマを押し返し、すぐ左に跳んだ。

  そして、自分を押し倒そうとしてきたカマドウマが着地すると同時に、刀を水平に薙ぎ払って右側の脚を全て斬り落とした。

  もう片方のカマドウマが、自分の方に体を向けてきたが、今度こそ突進される前に走り、刀を一閃して右側の脚を切断してやる。

  足を失い悶えるカマドウマに対し、頭部へ拳銃弾を撃ち込んでとどめを刺した瀞は、次にとるべき行動を考えた。

  (どうする?和虎隊長を追って家に入るか?それとも、カマドウマがまだ来るかもしれないから、残るべきか?)

  僅かだが、追いかけるべきという気持ちの方が強い。アバドンは、自分たちがいるにもかかわらず家の中へと入ろうとした。隠れている綾子たちを狙ったのか、それとも食料を求めたのか。理由は不明だが、家の中にいる綾子たちにとっては非常におおきな脅威となることは間違いない。

  加えて、アバドンはバールやカマドウマより強い。和虎が自分をあてにするほどだ。自分が加勢に行かなければ、和虎が危険なのではないか。

  一方で、行くべきではないという気持ちもある。カマドウマはまだ周辺に潜んでいるようだ。カマドウマが家に侵入しないように、自分が外に残って守る方がいいかもしれない。

  それに、自分がアバドンと狭い屋内で戦っても、足手まといになる可能性も否定できない。先ほどの和虎とアバドンの攻防は、目で追いかけることがやっとだった。あれほどの高速で繰り広げられる攻防に、果たして自分はついていけるだろうか。次々に繰り出されるアバドンの攻撃に、対応できるのだろうか。

  (決められねえ・・・・・・でも、カマドウマに備えて待っているこの状況って、ある意味、何もしてないよな。それじゃダメだろ。いやでも、連携行動の中では、こういう状況もあるけど、ちゃんと我慢して持ち場から離れないよういしないといけないって、言われたっけ)

  きゃあああ・・・・・・

  自分が何をすべきか決められない瀞の耳がピクリを震えた。

  子供の悲鳴だ。

  方角は家の西側、子供たちが寝る際に利用する広い和室だ。たしか、そこの押入れに子供たちが隠れているはずだ。

  (行くしかねえ!)

  瀞は家の西側へと駆け出した。庭に面した壁には、高さ1.8メートル、幅1メートル程度の大きな窓が並んでいる。布団を干す際に役立ちそうな設計だ。

  そこから入れば広い縁側があり、その隣が和室だ。

  子供たちを救うべく、瀞は窓から家の中へ侵入しようとしたが。

  ガシャン!!!

  家の中から、人影がガラスを砕きつつ飛び出てきたため足を止めた。

  吹き飛んだ人影は、子供たちではなく和虎だ。ガラスの破片で切り傷が出来たらしく、赤い飛沫が飛び散らせつつ、しかし太刀は離さず地面を転がる。

  1秒後、今度はアバドンが窓から飛び出してきた。瀞には目もくれず、和虎へと突撃する。

  「かずっ!!」

  瀞の叫びもむなしく、アバドンが和虎に肉薄する。

  ァアアッ!!

  しかし、敵の肉を切り裂いたのはアバドンでなく和虎の牙だった。

  和虎はアバドンの接近を悟ると両脚を地に着けて体勢を整え、しゃがんだ姿勢から右へと踏み込みつつ太刀を振り上げた。

  強靭な両脚を発射台とし、剛力を備えた両腕で打ち込まれた左切り上げは、アバドンの突進に力負けしなかった。

  和虎の反撃に気付いたアバドンが咄嗟に右へ軌道を反らしたため、顔面の両断とはいかなかったが、太刀の切っ先はアバドンの左頬を切り裂いた。

  間を置かず、和虎はアバドンへ向き直り斬りかかろうとする。

  しかし、アバドンは尻尾を振って和虎の前進を止めると、激しい足音を上げながら庭を旋回し、物置小屋の屋根の上へと跳び上がった。

  旋回の際に一瞬だけ見えたアバドンの顔は、無表情から一転して苦痛に歪んでいた。

  パアァァァァァ

  アバドンは二人に背を向けたまま、再びラッパのような声を上げた。

  すると。

  ヴヴヴヴヴヴヴ・・・・・・

  羽音が四方八方から飛び交い、家を囲む木々の合間からカマドウマが姿を現した。6本の長い脚を蠢かせて走る個体もあれば、羽を震わせて飛行する個体もある。

  カマドウマ達はアバドンの周囲に集まり、物置小屋の屋根の上やアバドンの背中に着地した。昆虫の姿をしているが、その行動は主人の号令に従う忠犬のようだ。

  合計7体のカマドウマが集まると、アバドンは屋根の上から飛び降り、家の裏側に広がる森の方へ走り出した。カマドウマ達も、その後に続く。

  「あいつが司令塔だ。追いかけて仕留める。お前は残って皆を守れ」

  和虎は瀞にそう命令しつつヘルメットを脱ぎ、カマドウマを従えたアバドンを追い走り始めた。

  「あ、あの、はい!!」

  瀞は一度和虎を呼び止めようとしたが、アバドンが逃げた方角を睨む和虎の顔を見て思いとどまり、素直に応じた。

  怒りで満ちた和虎の表情があまりにも恐ろしく、指示に応じることしか出来なかったからだ。

  本物の虎どころではない。キメラとは異なる獣の顔がそこにあった。

  (有無を言わせないって、ああいう雰囲気のことを言うんだろうな)

  無論、話しかければ和虎は応じてくれるだろう。しかし、怖くて声を掛けられないという思いとは別に、アバドン討伐に集中している和虎の邪魔をしたくないという気持ちもあった。

  (和虎隊長なら、きっとすぐにあいつを倒して戻ってきてくれるだろ。ぱっと見、互角以上に渡り合ってたしな。結構な数のカマドウマ連れてたけど、和虎隊長は余裕で何体もぶっ倒してたし)

  瀞は再び周囲を見渡した。キメラの臭いは感じ取れない。だがバールやカマドウマの臭いは木々や土のそれと同化するため、油断はできない。

  (でも、また一人になるとはな。しかも、綾子たちを守らないといけないわけだし)

  瀞は家に駆け寄り、割れたガラスから家の中に入った。

  ガラスの破片が散らばった縁側を通り、和室に足を踏み入れ声をかける。

  「皆、押入れか?」

  3秒ほど間を置いて、押入れが少しだけ開いた。隙間から、綾子の顔が見える。

  「皆、中にいるか?」

  瀞の問いかけに、綾子は頷いた。

  「分かった。もうすぐヘリが来るから、そこにいるんだ」

  再び綾子は頷いて、襖をしめた。

  子供たちの無事を確認した瀞は、警戒しつつ窓から外に出た。

  (ここと、アバドンが蹴り開けた壁から入っていく可能性があるな。家の正面から動かない方がいいか。早くヘリが来てくれればいいんだけどな)

  瀞は改めて周囲を見渡した。

  (うわ、やっべえ・・・・・・)

  先程、何としても子供たちを守ると誓った。その誓いが自身の闘争心に火を点け、気力が高まったことは間違いない。

  だが、一人で守らなければならない状況に陥った今、“もし守れなかったら”という恐怖心が闘争心と並んでしまった。恐怖心を抑えていた存在である和虎が、いなくなってしまったからだ。

  (一人っきりには慣れたけどなぁ・・・・・・守りながらってのは、やっぱり、初めてだもんな。和虎隊長、あいつを追わなくてもよかったんじゃねえのか?)

  一瞬、アバドンを追いかけた和虎の判断に疑問を抱いた瀞だったが、すぐにそれを打ち消した。

  (いやいや、でもアバドンの奴は、和虎隊長の言う通り、カマドウマどもの司令塔っぽいしな。あいつをぶっ倒せば、カマドウマが襲ってこなくなるかもしれないな。それに、もうすぐヘリが来るんだから、ここは俺一人でもいいだろ。もしかしたら、ここは瀞に預けても大丈夫だって、そう思ってくれたのかも。だとしたら、けっこう頼りにされてるってことだろ。アバドンと戦うときも、宛にしてくれてたし。一人でも倒せるけど、俺といっしょなら、早く倒せるって思ったんだろうな。)

  瀞は一人で納得し、自分に言い聞かせた。

  (そうだよ。経験の浅い俺なんかより、和虎隊長の判断の方が正しいに決まってるだろ。口出ししちゃだめだ。たとえ、和虎隊長が怒ってない状態でもな)

  そして、瀞は左手で、右の脇腹を抑えた。

  (だから、そうだ。大丈夫なんだ。和虎隊長はすぐにあいつを倒して戻って来る。ヘリももうすぐ来る。そして・・・・・・)

  微かに痛みが走る。尖ったもので刺されたような痛みだ。

  (この傷も、きっと大丈夫だ)

  瀞の右脇腹には、小さな刺し傷があった。

  アバドンの尻尾によってつけられた傷だ。

  尻尾の先端にある針は、和虎によって弾かれる直前に、瀞の体にほんの一瞬だけ触れていたのだ。

  和虎の口から毒のことを聞いた瀞だったが、刺し傷のことは和虎に言えなかった。

  もしかしたら大丈夫かもしれない。

  先端が触れただけであり、深々と突き刺さったわけではない。

  そもそも、アバドンによってつけられた傷ではないかもしれない。

  こんなことで、いちいち和虎に余計な心配をかけたくない。

  そんな思いが、瀞の口を塞いでしまった。

  楽観しているわけではない。自分が毒に犯されたということを、認めたくないだけだ。そして孤独感を感じた今、瀞は強い後悔の念に襲われた。

  (でも、やっぱり、言えばよかったかもな。もしかしたら、毒が体内に入ったのかもしれないし。でも、もしそうだとしたら、どういう症状が出るんだ?発症するまでどれくらい時間がかかるんだ?どれくらいの量だと症状が出るんだ?和虎隊長、気を付けろとしか言わなかったしな・・・・・・詳しく聞けばよかった。いやそもそも、毒をくらったかもって言えばよかった。言いにくい雰囲気だったけど、やっぱりそこは、ちゃんと報告すべきだったな)

  謝った行動を取ってしまった自分に対し、瀞は怒りを抱いてギリギリと歯ぎしりした。

  (大体、毒のせいでで死んだり、行動に制限がかかったりしてキメラに負けたらどうすんだよ。俺が死んだら、綾子たちも死ぬんだぞ。自分の事なんかどうでもいいから、皆の事を優先させようって思ったのか?ダメだろ、これじゃあ。自分が生きていないと、皆も死ぬんだぞ!!皆の事が大事だからこそ、自分も大事にすべきなんだろ!!)

  瀞は自分で自分を叱りつけた。

  毒への不安よりも、自分への怒りの方が大きかった。

  (でも・・・・・・後悔しても意味ないしな)

  毒への不安は消えない。しかし、それを引きずったままでは戦えない。憂いを抱いたままでは、動きも判断力も鈍ってしまうだろう。

  (毒が怖いとか、そんなことで悩むのは後だ。戦いが終わった後、医者に診てもらえばいいだろ。それよりも、皆を守ることだけ考えろ)

  瀞は、恐怖に怯える子供たちのことを考えた。彼らのことを考えれば、戦意を維持することが出来る。

  (あと少しなんだ)

  自身にそう言い聞かせ、瀞は刀を握りしめた。

  不安を思考から排除し、使命のみを心に留め、辛うじて戦意を繋ぎ留めながら。

  森の中を、怪獣が走る。

  人の顔、馬の胴体、蠍の尾を持つそれは、多くのカマドウマを従えて、大地を鳴らして走り続けていた。巨体に似合わぬ軽やかな動きで岩を飛び越え、木々の間を通り、脅威から逃れるために先を急ぐ。

  そして、それを追いかけるのは太刀を手にした虎獣人、和虎だ。

  虎の脚力は伊達ではなく、アバドンと同じように障害物を躱しつつ森の中を駆け抜けている。その双眸は、まっずぐにアバドンの背中を見据えていた。それは正に、獲物を睨む虎のそれだ。

  やがて、アバドンの隣を走っていたカマドウマが、方向転換して和虎へと向かった。

  主人を守るべく、和虎へと跳びかかるが、和虎は走り続けながら太刀を振るい、難なくカマドウマを両断した。

  カマドウマは次々に和虎へと跳びかかるが、結果は同じだった。群がる羽虫を叩き落とすように、和虎はカマドウマを斬り捨て、アバドンを追いかける。逃がさないぞと、眼光が語っていた。

  やがて、アバドンが従えていたカマドウマが全滅し、徐々に両者の距離が縮まっていく。

  (もうすぐだ・・・・・・)

  瀞の見込み通り、和虎の心には確かに怒りがあった。

  だが、同時に高揚していた。

  長年待ち続けた標的を見つけて。

  (あいつと戦える)

  もう一度遭遇できるとは限らない。だが、もしもう一度戦うことが出来たならと、そう思い続けてきた。

  その相手が、目の前にいる。

  待ち焦がれたからこそ、半ばあきらめていたからこそ、遭遇できた今、高揚する心を抑えきれなかった。

  歓喜さえも抱くほどに。

  部下と子供たちから離れてしまう程に。

  (速攻で仕留めてやる)

  とは言え、任務のことを完全に忘れてしまったわけではない。

  すぐに獲物を斬り、皆の元へ戻るつもりだった。

  「むっ!」

  標的への距離が10メートルを切った時、アバドンは開けた場所で急停止した。

  木々が生えていないそこは、かつて村民が畑に続く農道として利用していた場所だ。しかし、過疎化が進行したため既に誰も通らなくなっており、動物たちの通り道となっている。猪が掘った穴で道は凹凸だらけで、雑草も生い茂っている。

  和虎はアバドンの尻尾や蹴りをくらわないよう減速し、農道として使われていた場所に足を踏み入れた。

  「フッ」

  本物の虎が放つ威嚇のように息を吐き、和虎はアバドンを睨みつけ、身構えた。

  アバドンは、和虎に背を向けたまま静止している。

  和虎は、1歩、アバドンの背に近づいた。

  ゥゥゥウウウウウウアアアアァァァァァァァァ

  アバドンは天を仰ぎ、サイレンのような咆哮を上げた。

  音量は非常に大きく、しかも耳を塞ぎたくなるような、不快な音だった。

  和虎は、その叫びに押されるように足を止める。

  すると、アバドンは和虎の方へ顔を向けた。

  その顔は、無表情でも、苦痛に歪んでもいなかった。

  その表情は、憤怒一色に染まっていた。

  顔中に皺が入り、瞳孔が拡大した目は大きく見開かれ、口は耳元まで裂けて鋭い牙が露出している。

  獅子や虎などの肉食獣というよりも、鬼や閻魔と形容した方が適切だろう。

  目をそむけたくなるような顔だったが、和虎は動じることなくアバドンを睨み返した。

  胸に宿る闘争心は、恐怖で萎えるどころか一層強く燃え上がり、同時にアバドンへの憤怒も強まっていく。

  そして、肥大していく憤怒の感情の中には、一握りの悲哀が込められていた。

  それ鋭利な欠片となって、和虎の心に突き刺さっていた。

  脳裏に蘇る、悲哀の情景。

  倒れた仲間と、怒るアバドン。

  そして、アバドンに立ち向かう虎の兵士。

  虎は太刀を振りかざし、アバドンは牙を剥く。

  そして、2体の獣の爪牙がぶつかり合った。

  (俺が、一人で仕留めてやる!!同じ轍は踏まん!!)

  部下のため。守るべき市民のため。

  そして、自身の過去に決着をつけるため。

  和虎は下段の構えを取り、アバドンへと斬りかかった。

  アバドンは、牙を剥いてそれを迎え撃つ。

  猛獣と怪獣の死闘が始まる。

  そして、死闘が繰り広げられる場所に向かって、カマドウマの大群が集いつつあった。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――

  同刻。

  綾子の家から数キロ離れた小川の川岸にて。

  風丸はカマドウマから亮太を奪還し、狩人のようなキメラを倒したが、キメラが死の間際に放ったアッパーを受けて気を失ってしまった。

  そして、風丸が気絶して1分も経たないうちに、森から2体のバールが歩み出てきた。戦闘が終わるのを、見計らっていたかのようなタイミングだ。

  バールは川岸に降りると、キメラの死体には目もくれず、気絶した風丸を左右から。

  やはり意識はなく、左脚と右肩の銃創からは血がどくどくと流れ出ている。

  放っておいても失血死するだろうが、それを待つ理由はない。

  2体のバールは揃って前脚を風丸に向けた。

  その時、一陣の風がバール達の背後を通り過ぎた。

  何事かと、バールが同時に動きを止めた。

  同時に、2体のバールの胴体が傾いた。

  2体それぞれが、いつの間にか後ろ右脚を両断されていたのだ。

  すると、再び風が吹き、更に脚が胴体から斬り落とされた。

  正確に、関節部を狙った斬撃だ。

  四方八方から風が飛び交い、その度にバールの脚が斬り落とされていく。

  やがて、バールは風の正体を知った。

  刃を手にした、灰色の猫だ。

  だが、知った時にはもう遅い。

  脚を全て斬られ、額に刃を突き立てられ、とどめを刺された。

  もう1体のバールは、最後の足掻きと言わんばかりに、触肢の代わりに生えた腕を猫へ伸ばす。

  しかし、猫はあざ笑うかのようにそれを躱し、残ったバールの額にも刃を突き立てた。

  「ふぅ」

  バールを仕留めてようやく動きを止めた風の正体である、灰色の体毛の猫獣人。

  03部隊副隊長の、猫沢京香だ。

  速く、軽く、柔らかく、相手の死角へと動き回る変則的なその動きは、バールの眼でも捕らえることは出来なかった。

  「あらら・・・・・・こりゃ大変」

  重大な場面にいるとは思えない口調で呟いた京香は、左手の刀を振るって刃に付着した血糊を落とした。

  刃渡りは40センチ程度で、小太刀と同じ位だ。しかし反りが無く唾が大きいそれは、忍刀と呼ばれている。

  京香は愛刀を右腰の鞘に納めると、左腰のポーチからイナバが入ったチューブを取り出し、風丸の傷口に塗ろうとした。

  だが。

  ドゴッ

  止めろと言わんばかりに、巨大なキメラが川岸に舞い降りた。

  「あーらー」

  京香が視線を向けた先に立っていたのは、人面を持つの馬のキメラ、アバドンだった。無表情でありながらも、敵意に満ちた視線を京香に向けて、蠍のような尻尾をうねうねと動かしている

  イナバをポーチに戻した京香は、左手で忍刀の柄を握った。さらに右手を太腿のホルスターに納められた刃物に伸ばす。刃は肉厚で菱形、柄頭は円形で穴が開いてあるそれは、苦無と呼ばれるものだ。

  忍者のような武器を携えた京香は、瞳孔が拡大した双眸でアバドンを睨み返し、低い姿勢で身構えた。相手を威嚇する猫のように。

  アバドンが口を開き、牙を見せつけて来る。

  しかし京香はそれを意に介さず、ゆっくりと忍刀を抜いた。

  その刀身は、京香の体毛と同様に、灰色の光を放っていた。