【第十一話:八咫の契り 中編】

  [uploadedimage:20968892]

  夜明け前の静寂。八咫の里の奥深く、霧に包まれた聖域。

  古代の儀式場のように巨岩が並ぶその場所は、時を超えた結界の要。

  張り詰めた空気のなかに、微かなひび割れのような気の乱れが漂っていた。

  「……ここも、限界が近いな」

  白衣をきっちりと着こなした男が、厳しい声で呟く。

  [[rb:鴉宮 > あみや]]。八咫の里に仕え、黒耀に唯一進言できる存在。

  冷静沈着なその声音には、焦燥がわずかに滲んでいた。

  隣に立つ黒耀は、黙して結界を見据えていた。

  紫紺の瞳に、時折ちらつくのは未来視の残影か。

  「黒耀様……、もう時間がありません。一刻も早く、あの男を[[rb:光の楔 > ひかりのくさび]]にするべきです」

  「……わかっている。だが――本当に、それしかないのか?」

  低く呟く黒耀の声に、風がざわめいた。

  八咫の王には、代々「先見の明」と呼ばれる特異な力が備わっている。

  それは、時の流れの狭間に立ち、まだ起きていない未来の断片を垣間見るという、神託にも等しい才。

  すべてが明瞭に見えるわけではない。けれど、その力は幾度も里を災いから救い、八咫の民にとって王の言葉は、未来を示す灯火として深く信じられてきた。

  黒耀もまた、その血を継ぐ者として、曖昧な夢とも幻ともつかぬ未来を見ている。

  黒耀の未来視には、「己が心を奪われた相手」が、八咫を救う光の鍵として映っていた。だが、その道程は、濁っていた。

  「選ばせたいのだ、俺は。あの男に、俺を……この八咫の里を」

  それが己の情か、それとも別の未来を望む執念か。

  黒耀はしばらく黙していたが、やがて、決意を押し殺した声で言った。

  「……戻るぞ」

  鴉宮は一礼し、黒耀の後ろに静かに従った。

  結界の歪みは、刻一刻と臨界に近づいていた。

  ***

  朝の席は、昨晩の沈んだ空気を忘れたように、豪奢な器に美食がずらりと並んでいた。

  「さあ、遠慮は要らん。今朝はお前の好みに合わせたつもりだ」

  黒耀は当然のように夕陽を隣へ座らせ、自ら膳を取り分ける。

  「好きなものがあれば、何でも言ってくれ。八咫にないものでも、取り寄せさせよう」

  穏やかな微笑みと甘やかな声音。だが夕陽はそれを受け流すように、ちらりと斜め前の二人に視線を送った。

  「彼等が作る食事に勝るものはありませんので」

  朱雀と銀郎に向けた穏やかな眼差しとともに告げられたその一言に、黒耀の手がぴたりと止まる。

  無言のまま、彼は銀妖たちを一瞥する。睨みつけるような鋭い目つきで。

  朱雀が「なんだよ」と言いたげに睨み返せば、銀郎は目を細めて無言で応じる。

  その静かな火花の中、ただ一人、夕陽だけが何食わぬ顔で湯飲みに口をつけていた。

  それからというもの、黒耀は夕陽の気を引こうと、あの手この手で迫ってきた。

  ある時は、贈り物で心を射抜こうとする。

  「この地でしか咲かぬ、[[rb:月露 > げつろ]]の花だ。お前のために摘んだ」

  「はあ……ありがとうございます。でも希少な花ほど、根を残しておかねば絶えてしまいますよ。来年も咲いてほしいですから」

  黒耀の頬がぴくりと引きつる。

  またある時は、絶景を案内してきた。

  「どうだ? 八咫を統べる者となれば、この景色すべて――お前のものだ」

  「私は、手の届く庭の草花を世話している方が性に合っていますので」

  柔らかな笑みと共に、やんわりかわされる。

  さらにまたある時は、甘い声で囁きながら身を寄せてくる。

  「お前の瞳は、月より澄んで美しい。

  毎夜、隣でその瞳を見ていられたら――俺は、もう他に何も望まん」

  「……写真を一枚、置いておきますので。それで我慢してください」

  黒耀は一瞬、言葉を飲んだ。

  「――そういう意味では、ない」

  そんなやり取りを幾度となく繰り返すうちに、八咫の従者たちも次第に空気を察し、そっと視線を逸らすようになっていった――。

  その夜。

  屋敷の天井を見上げながら、黒耀は静かに呟く。

  「くそ……なんて手強いんだ、あの男……」

  部屋の隅では、鴉宮が険しい顔で書簡を整理していた。

  「……黒耀様。お言葉を憚りながら、申し上げます」

  「……何だ、鴉宮」

  背を向けたまま返す黒耀の声に、僅かな苛立ちが混じっている。

  「あなたは今、情に流されつつある。楔の定めを拒む者に心を向けて、八咫を滅ぼすつもりですか」

  「……そう簡単に割り切れるなら、最初から迷ってなどいない」

  黒耀は振り返り、感情の読めぬ紫紺の瞳で鴉宮を見据えた。

  「俺は、あいつの“意志”に惹かれている。それは確かだ。だが、それと八咫を守ることが、なぜ両立できない?」

  「“惹かれる”のは、支配とは違います。あなたはこの地の主。心を許せば、選択は濁る」

  鴉宮は一歩前に出た。

  「――あなたが揺らげば、この里が傾くのです。肝に銘じてください」

  重たい沈黙が落ちる。

  しばしののち、黒耀は苦笑のように口元をゆがめて、視線をそらした。

  「……だが、それでも俺は――あいつを手放すつもりはない」

  その声音には、王としての威厳と、男としての執着がないまぜになっていた。

  ***

  結界の歪みは、もはや無視できないほどに広がっていた。

  八咫を護る力は確実に弱まり、焦る声が神域のあちこちから囁かれ始めている。

  しかし状況は一向に動かない。黒耀は焦りを募らせていた。未来視には依然として、夕陽の姿が鍵として映る――だがその意志は、頑として靡かない。

  「もう、ここまでか……」

  その夜、黒耀は扉を乱暴に開け放ち、堂々と夕陽らのいる離れへと足を踏み入れた。

  「来い、夕陽。俺と契りを結べ――これは命令だ」

  無言で立ち上がろうとした夕陽の腕を、黒耀が乱暴に掴む。

  「黒耀殿……っ、なにを――」

  「もうたくさんだ。拒絶の言葉は、何度聞いたかわからん。いい加減、俺に従え」

  その瞬間、寝台で横になっていた朱雀が勢いよく身を起こした。

  「……は?」

  低く唸るような声とともに、朱雀の目が赤く光る。跳ね起きると同時に足を床に叩きつけ、黒耀との間合いを詰めようとする。

  一方、椅子に座っていた銀郎もすでに立ち上がっていた。静かに、しかし確実に距離を詰めるその目は、怒気を帯びた氷のような光を宿している。

  「その手を離していただけませんか――黒耀殿」

  銀郎の静かな声にも構わず、黒耀はそのまま自室へ連れて行こうとする。だが次の瞬間――

  「やめろ!!」

  鋭く叫んだのは朱雀だった。飛びかかるように間に割り込もうとする。

  「黙れッ!」

  黒耀の振り払うような一声と同時に、疾風の刃――鋭い斬風が朱雀を襲う。

  しかし朱雀は、素早い身のこなしで瞬時に飛び退き、それをかわす。

  「黒耀殿……ッ、手を、放してください」

  引きずるようにして夕陽を部屋の外へ連れ出す。その背に、銀郎が構えを取り走りかける。

  だが――

  部屋の外に控えていた黒耀の従者たちが、音もなく動いた。

  まるで初めから命じられていたかのように、朱雀と銀郎の前へ立ちはだかり、無言のまま行く手を阻む。

  「チッ……邪魔すんなよッ!!」

  朱雀が低く唸り、鋭く足を蹴り出す。次の瞬間、赤い影が翻り、目の前の従者へ蹴りを叩き込んだ。

  数人を一度に相手取るように、朱雀はしなやかな身のこなしで立ち回る。だが、相手も選び抜かれた神域の守り手。そう易々とは抜けられない。

  その隙に銀郎が、黒耀の背へと駆け出す。怒気に満ちた目が、夕陽を連れ去ろうとするその腕を射抜くように捉えていた。

  「その手を離せ……ッ!」

  だが――

  「邪魔をするなッ」

  二度目の神通。今度は、もはや一切の躊躇いもなかった。

  銀郎一人を狙い、確実に仕留めるつもりで放たれた斬風は、先ほどよりも遥かに鋭く、容赦のない殺気を帯びていた。

  その刹那――

  「……っ、銀郎ッ!!!」

  夕陽は僅かな隙を突き、黒耀の腕を鋭く振りほどくと、風を切る音と共に、銀郎の前へと身を翻した。

  斬風の衝撃が、夕陽の身体を襲った。

  刹那、血飛沫が弧を描き、白刃が通り過ぎたその先で、夕陽の体が崩れ落ちる。

  すべてが凍りついたような沈黙の中――朱雀は茫然と立ち尽くし、黒耀の目は驚愕に大きく見開かれていた。

  夕陽が倒れた瞬間、その沈黙を裂くように、激しい咆哮が響き渡る。

  「……ッ、貴様ァァァーーッ!!!!」

  銀郎だった。

  その声は、かつて聞いたことのないほどの怒りと殺気に満ちていた。

  赤の長衣が風を裂き、踏み込むその気配は、もはや怒れる獣そのもの。

  風よりも速く、稲妻のごとく黒耀に迫る。

  斬撃。鋭く、正確な殺意を帯びた太刀が、神を断つかのように振り下ろされた。

  しかし黒耀もまた即座に反応し、腰の短刀を引き抜き、それを受ける。

  ギィインッ!

  金属同士が激しくぶつかり合い、刃と刃の間に火花が散った。鍔迫り合いとなり、互いの視線が真っ直ぐにぶつかり合う。

  「フッ……神殺しでも、するつもりか?」

  黒耀は唇を歪めて笑みを作る。だがその目には、わずかな焦燥が滲んでいた。

  「関係ない。神だろうが――」

  銀郎の声は、低く唸るように響く。

  「死をもって償え……償えるものならなぁッ!!」

  力が籠もった銀郎の太刀が、黒耀の短刀を押し込み、軋む音が響く。

  その隙を突いて、背後から従者のひとりが銀郎に斬りかかる。だが銀郎は即座に反応し、後方へ跳躍。斬撃を紙一重でかわすと同時に、反転しながら刀を振るった。

  銀郎の刃が獣のごとき唸りを上げて一閃する。

  切っ先が閃いた瞬間、従者のひとりが防御もままならず吹き飛び、壁際に激突した。呻き声とともにその身が崩れ落ちる。

  次いで襲いかかる二人を、銀郎は滑るような足さばきで間をすり抜け、衣の裾を翻して腹部へ柄で一撃。もう一方の首筋には、背後から素早く手刀を打ち込む。二人はほぼ同時に地に伏した。

  四人目が後方から神具を構えて霊力を放とうとする――が、その前に銀郎の手が伸び、喉元に刃を突きつけた。

  「二度目はない」

  鋭く言い放つと同時に、その者も意識を失い崩れ落ちる。

  そして、ふたたび銀郎の視線が黒耀を射抜く。

  主を傷つけられた怒り――それが形を持ったかのような、純然たる殺意だった。

  朱雀は夕陽のもとへ駆け寄り、必死に声をかけていた。

  「夕陽様っ! ……っ、おねがい……目ぇ、開けて……」

  朱雀の声が震える。震える手で懸命に夕陽の傷口を押さえるも、指の隙間から温かい血が止めどなく流れ出し、その手を真紅に染めていく。

  「どうしよう……血、止まんない……っ」

  動かぬ身体。次第に蒼白になっていく顔色。朱雀の中で、夕陽を失うという最悪の未来が形を持ちはじめ、心の奥で何かが音を立てて崩れていく。

  その時だった。

  「何の騒ぎですか……!」

  怒気を帯びた声が響き、場に新たな気配が現れる。

  姿を見せたのは、白の衣を纏う男――鴉宮。

  倒れ込む従者たちに目をやり、小さく息を呑む。

  「これは……」

  理知的な眼差しがすぐさま状況を把握し、瀕死の夕陽を見つけるや、素早く駆け寄って膝をつき、手をかざす。

  その瞬間、淡く揺れる光が夕陽の胸元を包み込む。しばらくすると血の流れが止まり、深かった傷が徐々に塞がっていった。

  「……これで傷は治しました。しかし、失われた血液までは戻せません。しばらくは安静が必要です」

  安堵が広がる一方で、朱雀はまだ夕陽を抱きしめたまま、顔を伏せた。

  朱雀の肩が、小さく震えていた。

  そんな中、鴉宮はゆっくりと立ち上がり、今なお黒耀に刃を向けている銀郎に向き直る。

  「銀郎殿。主の非礼――この鴉宮、深くお詫びいたします。……どうか、刀を納めていただけませんか」

  銀郎はしばらく沈黙したまま、夕陽の無事を見届けると、無言で刀を収めた。だがその眼差しには、怒りの業火が消えてはいなかった。

  鴉宮はその様子をしっかりと受け止めたうえで、黒耀に向き直る。

  「……黒耀様。あの者を失えば、この里の存亡すら危うくなるのですよ」

  淡々とした声。その裏には、確かな警告と静かな怒りがあった。

  「……鴉宮」

  黒耀の声は低く、どこか掠れていた。感情を押し殺すような口調で続ける。

  「――治癒の間へ運んでくれ」

  鴉宮は一度だけ静かに目を伏せ、そして頷いた。

  「承知しました」

  黒耀はゆっくりとその場を後にした。だがその背には、さきほどまでの覇気はなく、ただ深い迷いと自責が滲んでいた――。

  朱雀が名残惜しそうに夕陽の手を離すと、鴉宮は丁寧に夕陽の体を抱き上げる。その腕には揺るがぬ信頼と、長年の従者としての責任が宿っていた。

  「念のため、術の残響や内傷の有無も調べます。夕陽殿の容態は、私が責任をもってお守りいたします」

  そう言い残すと、鴉宮は無言でその場を後にする。銀郎と朱雀は黙ってその背を見送るしかなかった。

  ***

  静かな離れに、ただ風の音だけが微かに揺れていた。

  夕陽が治癒の間へと運ばれた後、朱雀と銀郎はその場に残された。

  朱雀は膝を抱えたまま、手のひらをじっと見つめている。そこには、もう乾きかけた夕陽の血が、赤黒くこびりついていた。

  やがて彼はその手をぎゅっと握りしめ、小さく震える声で呟いた。

  「……こんなとこ、来なければよかった……。俺が面白がってここへ来ようなんて言わなければ、夕陽様があんな目に遭わずに済んだのに……。俺のせいだ……」

  その言葉に、銀郎が目を細める。

  彼の纏う空気は未だ張りつめ、殺気が完全に引いてはいなかった。

  「お前のせいではない」

  静かながら、鋭い声が朱雀の耳に届く。

  「誰も……こんなことになるとは予想だにしなかった。悪いのは、己の欲を正義にすり替えた“あの男”だ」

  朱雀は顔を上げられなかった。ただ、小さく唇を噛みしめ、悔しさと不安でその身を小さく丸めるしかなかった。

  続く