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薄く茜色に染まりはじめた空の下、祓い屋【夕月庵】の三人は、田のあぜ道をゆっくりと歩いていた。
「ね、ね、夕陽様! さっきの俺、カッコよかっただろ? 最後は俺のトドメの一撃、バシッと決まったし!」
自慢げに身を乗り出す朱雀の尾が、得意げにふわふわと揺れている。後ろを歩く銀郎が「口を慎め」と呆れたように眉をひそめた。
夕陽はそんなふたりを見て、ふふ、と穏やかに笑う。
「そうだね。でも、“祓い”というのは、騒いだり、目立ったりすることじゃない。いつだって冷静に、静かに終わらせるのが理想なんだ」
「でもさ、派手にやったほうがスカッとするじゃん?」
「派手に、ではなく無駄に、だ。夕陽様の結界がなければお前もタダじゃ済まなかったんだぞ」
「まぁ、お互い怪我がなかったのだから、それで良しとしようか」
夕陽の穏やかな声が割って入ると、ふたりはぴたりと口を閉ざした。道沿いには風に揺れるススキが波打ち、虫の声がかすかに聞こえる。
その時だった。
「……あれは」
ふいに夕陽が立ち止まり、すすきの中へと足を踏み入れた。足元に、何か黒いものが倒れている。近寄ってみると、それは――
「カラス……?」
体はまだ若く、小さな黒い烏。けれど、その脚は三本あった。
「まさか……[[rb:八咫烏 > ヤタガラス]]?」
銀郎が小声で呟く。朱雀も後ろから覗き込んで「マジかよ」と息を呑む。
「驚いた……。神の使いだ。おまえ、飛べないのか?」
夕陽はそっと烏を抱き上げる。羽はところどころ傷つき、呼吸は浅い。こんな姿になるまで、どこで、何と戦っていたのか。
そうして夕陽たちは、いつもの依頼帰りに出会った奇妙な“客”を伴って、帰路についたのだった。
夕月庵の奥の一室。障子の向こうから聞こえるのは、水の音と、包帯を巻く布の擦れる音。夕陽は静かに手当てをしながら、傷ついた烏に声をかける。
「もう大丈夫だ。飛べるようになるまで、ここにいなさい」
烏はじっと夕陽を見つめていたが、目を閉じるように小さく「カー……」と一声鳴いた。
その鳴き声が聞こえたのは、それから一週間後の朝――
空を仰げば、東雲に染まる大空を、あの三本足の烏が一羽、力強く羽ばたいていくところだった。
その後ろ姿に、夕陽はそっと手を添えて見送る。
「……行っておいで」
この時、誰も知らなかった。
あの烏が、やがて自分たちの運命を大きく揺るがす“鍵”であることを――
***
あの八咫烏が飛び去ってから、数日が過ぎた。
祓い屋【夕月庵】は、いつもの静かな日常に戻っていた。朝になれば掃除と祓いの支度、依頼の確認と、山の麓の里から届く文に目を通す。朱雀は庭で体を動かし、銀郎は薬湯の調合をしている。
夕陽は、涼風の入る縁側に腰かけて、ひと息ついていた。
――その時。
庵の門前で、ひとつ風鈴のような鈴の音が響いた。
控えめでありながらも、妙に耳に残る音色だった。銀郎がすぐに気づいて戸口に向かうと、そこには見慣れぬ人物が一人、丁寧に頭を下げて立っていた。
白を基調とした装束に、漆黒の羽織。長い黒髪をひとつに結い、紫の瞳はどこか人ならざる気配を纏っている。
「祓い屋、四條夕陽殿にお目通りを願いたく、参上いたしました」
その声は凛として澄み、文句のつけようがない礼儀作法だった。
「どちらさまですか?」
銀郎が顔をのぞかせると、使者はすっと名乗った。
「我が主は、八咫の里を統べる者。名は[[rb:黒耀 > こくよう]]。先日、夕陽殿が保護された烏は、まさしく主その人にございます」
空気が一瞬、凍る。
「……あの烏が?」
夕陽がゆっくりと立ち上がる。使者は深く頭を下げると、懐から巻物を差し出した。
「このたびのご恩に報いるべく、主より直接の招待がございます。八咫の里へ、ぜひ足をお運びいただきたく」
「招待……?」
銀郎が鋭く問い返すが、使者はあくまで柔らかに微笑む。
「歓待の意にございます。もちろん、ご同行者がいらしても差し支えはありません」
ふいに、朱雀が身を乗り出す。
「雀の恩返しならぬ、カラスの恩返しってか! 面白そうだし、行ってみよーぜ!」
「朱雀」
銀郎が少し咎めるように言ったが、夕陽は小さく笑った。
「……急ぎの依頼も今は無いし、せっかくだからお言葉に甘えようか」
こうして、三人は八咫の里へ向かうことを決めた。
それが、自分たちの運命の歯車を、静かに、しかし確実に動かすことになるとも知らずに――。
***
その朝、空は晴れていた。
八咫の使者に導かれ、夕陽、銀郎、朱雀の三人は【夕月庵】を出発した。草木のざわめき、風に揺れる梢、耳慣れた山道を抜けていくと、やがて見慣れぬ霧が立ち込める峠道へと足を踏み入れる。
「この先が、八咫の結界です」
使者が、懐から一枚の紙札を取り出し、霧の中へそっとかざす。
すると、霧が裂けた。白い帳が二つに割れ、まるで水面をくぐるような感覚と共に、まったく異なる空気が流れ込む。
そこは――神域だった。
蒼の空がどこまでも澄み渡り、鳥の声が低く遠くに響いている。大地は青々とした草に覆われ、奇岩と巨樹が交互に並ぶ。人工の気配は薄いが、整えられた道が続いていた。
「なんか……空気が、違うな」
朱雀が周囲を見回しながら呟く。
「この結界は、外界の瘴気を拒み、千年以上守られてきたものです。八咫の里へようこそ」
使者は一礼し、先導を続ける。
しばらく進むと、集落が見えてきた。高台に並ぶ木造の建物、中央にそびえる社。人々の姿も見えるが、どこか閉じた印象を受ける。視線は静かに、しかし確かにこちらに向けられていた。
やがて、広い屋敷の前で足が止まった。
門が開かれ、すでに誰かが待っていた。
黒髪に紫紺の瞳、漆黒の衣、背には大きな黒い翼――あの日、夕陽が助けた烏の人に紛れた姿。
「……やっと来たか」
黒耀の一言が、周囲に凛と響く。その目は、夕陽のことだけを見ている。
「……だが、来てくれて良かった」
黒耀は一歩前に進み、射抜くような眼差しを向けたまま、夕陽に深く頭を下げた。
「――命を救ってくれたこと、礼を言う。どうしても、お前にここへ来てもらう必要があった」
その声に滲んでいたのは、感謝というよりも、揺るがぬ覚悟と重い決意だった。
夕陽はふっと笑みを浮かべ、黒耀の姿を見つめながら口を開いた。
「……元気そうで、何よりでした」
言葉に込められた温かな響きに、黒耀の瞳がかすかに揺れる。
「さあ、着いて来い。歓迎の宴はもうすぐだ。お前たちにはしっかりと、俺がもてなしてやる」
黒耀はそう言って、夕陽を無理に引き寄せるように館の中へと案内した。朱雀と銀郎は、その後ろを黙って従うしかない。
夕陽たちが通されたのは、里の奥にある広間だった。天井は高く、壁際に火の玉のような淡い光がゆらめく。祭器や絵巻が飾られた荘厳な空間。にもかかわらず、部屋の中央には色とりどりの料理と酒が豪勢に並んでいた。
黒耀は夕陽の手首を掴んだまま、堂々とした足取りで広間の奥へと歩いていく。その後ろ姿に、朱雀は肩をいからせ、銀郎はわずかに眉をひそめた。
黒耀は、中央の座に腰を下ろすと、隣に当然のように夕陽の席を示す。
「こっちだ、夕陽。お前は“特別”なんだからな」
さらりとした言い回しに、空気が張りつめる。
「……っ、は? なんで――」
朱雀が低く唸るように口を開きかけたが、それを銀郎が目線一つで制した。
夕陽は一瞬躊躇いを見せたものの、静かに黒耀の隣へと歩を進め、盃の並ぶ席に身を沈める。
里の者たちが次々と酒を注ぎ、華やかな装いの踊り子たちが舞を披露し始める。笛の音が夜風に乗り、焚かれた香がほのかに漂っていた。
「これが俺たちの“誓いの宴”だ」
黒耀が静かに酒を口に運び、わずかに細めた目で夕陽の横顔を見つめる。
「……お前がここに来たのは、偶然じゃない。俺はずっと、待っていた。“このとき”を」
その言葉に、夕陽はふと盃を見つめたまま、短く息を吐いた。やがて、視線を逸らさず、静かに黒耀を見返す。
「……縁とは、不思議なものですね」
盃を手に取り、唇に触れさせる。
「貴殿がどう思おうと、私がここに来た理由を決めるのは――私自身です」
その声音に、とげはない。だが芯の通った、揺るぎない意志があった。夕陽の言葉は、里の祝いの熱気の中に、ひとしずくの静けさを落とした。
黒耀はくぐもった笑みを浮かべ、杯を置くと、やや声を落とした。
「これは盟約の宴――いや、“婚礼”にも等しいものだ」
焚火の爆ぜる音が、沈黙の隙間を埋める。黒耀は声を荒げることなく、だが逃げ場を与えぬような確かな調子で続けた。
「お前の力を、この八咫の柱とする。俺たちと生き、命運を共にしてほしい――それが、この宴に込めた願いだ」
まっすぐに語られた想いに、朱雀の拳がわずかに震える。銀郎の瞳にも、鋭い光が走った。
宴が進むにつれ、舞の拍子はゆるやかに、盃は次々と満たされていく。
けれど、朱雀と銀郎は料理にも箸をつけぬまま、じっと席に座り続けていた。
「気に入らないなら、無理に食わなくていい。俺は強制する気はない。だが――」
黒耀は盃を傾けながら、ちらりと朱雀に視線を送る。
その紫紺の瞳に射抜かれ、朱雀は睨み返すことも忘れるほどの重圧を感じた。
「お前の怒りも、不安も、わかっている。……だが、それを俺にぶつけても、意味はないだろう?」
「……黙れ」
朱雀が低く絞り出すように吐き捨てた声は、焚火の揺らめきに紛れるほど微かだった。
怒りに震える朱雀の肩を、銀郎がそっと押さえる。
「朱雀。今は場を荒らすな。……夕陽様も、それを望んではいない」
「っ……わかってるよ」
朱雀は俯いたまま、強く拳を握りしめた。
一方、夕陽はそんな二人をそっと横目に見やり、静かに盃を置いた。
「黒耀殿。そろそろ本題を――宴のもてなしは、もう十分です」
夕陽の言葉に、黒耀は一拍置いて、くつくつと喉を鳴らすように笑った。
「……そうだな。酔わせるには、少々時間のかかる相手らしい」
艶やかな微笑とともに黒耀は杯を置き、傍らに控える側近に手を振る。
その合図で酒が下げられ、ざわついていた場がぴたりと静まり返った。
「――さて、本題に移ろうか」
その瞬間、場の空気が変わる。
黒耀の眼差しが鋭さを帯び、静かな威圧がじわりと広がる。
夕陽はわずかも逸らさず、その視線をまっすぐ受け止めていた。
「恩返しという言葉に偽りはない。だが……それだけでは、足りなかった」
低く響く黒耀の声に、朱雀と銀郎の背筋がわずかに強張る。
「八咫の里を守る結界には、代々“誓い”が結ばれてきた。
その結界が歪み、限界を迎えるとき――定めがある。“外より来たりし魂を捧げよ”。それが、災いを鎮めるという契りだ」
「魂を捧げるって……」
朱雀が息を呑む。銀郎は険しい顔で、黒耀を睨んだ。
「つまり……“贄”ですか」
黒耀は一瞬、沈黙を挟んだのち、静かに頷いた。
「そう呼ぶ者もいる。だがな……俺は、その言葉を使いたくない」
そう言って黒耀は、手を伸ばし、夕陽の頬へと指先を向けた。
触れる寸前で止まったその指は、どこか優しさと熱を帯びている。
「俺が惚れたのは、“贄”なんかじゃない――お前だ、夕陽」
その言葉に、場の空気がぴんと張り詰める。
朱雀の眉がわずかに跳ね上がり、銀郎は目を細めて黒耀を鋭く見据える。
「……惚れた、とは。貴殿が私に?」
夕陽が静かに問い返すと、黒耀は艶やかな笑みを浮かべた。
「ああ。だからこそ、“俺の嫁”になってほしい」
その場に、一瞬、風の音さえ止まる。
「……っ、は?」
朱雀が凍りついたように声を漏らし、銀郎が鋭い眼差しで黒耀を睨みつける。
「……なるほど。ずいぶんと一方的な申し出ですね、黒耀殿」
夕陽は動じぬ声で返す。その静けさに、黒耀はわずかに目を細め、口を開いた。
「これは、俺の選択だ。――惚れた。だから、お前にいてほしい。
八咫の未来のためでも、俺自身のためでも、どちらでも構わない。……ただ」
低く響くその声が、宴のざわめきを静かに塗り潰していく。
「お前が傍にいてくれるなら――この地も、俺も、救われる気がするんだ」
まっすぐな眼差し。その奥に、先を見通す光が、静かに揺れていた。
だが――
「申し訳ありません。そのお申し出は、お受けできません」
夕陽はそっと黒耀の手を避けながら、静かに続けた。
「私の命は、父と母の願いによって生まれたもの。けれどそれは誰の為でもありません。――どう生きるか、誰の隣に立つかは、私自身が決めることです」
「……意志、か。なるほどな」
黒耀は笑みを浮かべたが、その瞳には冗談の色はなかった。
「だからこそ、俺は――お前に選んでほしいんだよ。……俺を。この地を」
その宣言に、朱雀の怒気が限界に達する。
「ふざけんな……! 夕陽様は、そんなもんのためにここに来たんじゃねぇ!」
ばっ、と立ち上がる朱雀を、銀郎がすかさず制止する。
「やめろ、朱雀。今は――夕陽様の意志を、尊重すべきだ」
朱雀は悔しげに唇を噛む。けれど――
夕陽は、静かに首を横に振った。
「私の返答は変わりません。……黒耀殿、申し訳ありません」
一拍の沈黙ののち、黒耀は低く呟いた。
「……そうか。まぁ、いい」
その声音は、先ほどまでとは打って変わって冷ややかだった。
紫紺の双眸から艶の色が消え、氷のように冷たい光を宿している。
「だが、忘れるな。人間界への門は――我ら八咫の一族の力でしか開けぬ。“帰る”には、俺の許しがいるということだ」
夕陽を真っ直ぐに見据えたまま、黒耀は振り返ることなく命じた。
「……宴は終わりだ。案内しろ。客間に通せ」
命じられた側近の青年が恭しく一礼すると、黒耀はそのまま背を向けて歩き出す。
その背には、拒絶された怒りを沈めながらも、なお王としての威厳が滲んでいた。
残された三人のもとへ、側近が静かに頭を下げる。
「こちらへ。お部屋をご用意いたします」
そうして、夕陽たちは黒耀の真意も知らぬまま、八咫の里の奥へと再び導かれていった――。
宴の後、三人は屋敷の離れにある客間へと案内された。しばしの沈黙ののち、それぞれが椅子や寝台に腰を下ろす。
客間とは呼ばれているものの、実際は八咫の儀式にも用いられる、神殿のような空間だった。
天井は高く、壁には重厚な意匠が彫り込まれ、四方の柱には神具や古い文様が施されている。
半透明の細工が施された硝子越しに、中庭から淡い月明かりが差し込み、石畳の床を青白く照らしている。
夜の静けさと相まって、部屋全体にどこか荘厳な、息を呑むような静寂が満ちていた。
だが、その沈黙に最初に耐えかねたのは朱雀だった。苛立ちを隠さず、声を上げる。
「――あのクソガラス、恩返しとか招待だなんだ言っといて、結局夕陽様を利用しようとしてるだけじゃねぇかよ!」
銀郎も、腕を組んで深く頷いた。
「同感だ。しかし黒耀殿のあの様子だと、そう簡単に引き下がるとは思えない」
その声に重ねるように、夕陽がぽつりと呟く。
「神へ贄を捧げる風習は、古くからあるものだが……“嫁として差し出す”とは、少々風変わりだな」
どこか他人事のような声音に、朱雀がぎゅっと拳を握りしめ、不安げに夕陽の顔を覗き込む。
そんな朱雀の頭に、夕陽が静かに手を伸ばした。
「……心配するな。私は嫁にはならん。お前たちと一緒に帰るよ」
優しく撫でられた朱雀の耳がぴくりと動く。
その言葉が、彼にとって何よりの救いだった。
続く