11話 イチと精神病院 (1) よせあつめ外伝12
イチが大烏の階級章を手に入れる少し前の頃である。
閉鎖病棟の床は煤けた白色であった。
その白色は清潔を証明する為の白色ではなかろう。
床や壁に散らされた行害者の屎尿をとりあえず消毒、消臭するために撒かれた石灰の為であった。
____く……そ。なんて場所だ!
間隔を開けて天井から吊るされたガスランプが照らす惨状と、鼻を刺激する悪臭にイチは吐き気を催すが、それどころではない。
追われていた。
彼女の靴が床を蹴るたびに撒かれた石灰が粉塵として舞う。
イチを追う巨体の男の目は魚類を思わせ感情を感じられない。
行害者であった。
行害者の男は両腕を手錠で繋がれている為その走り方は不自然に揺れている。
男は上半身こそ染みだらけの病衣を着てはいるが、その下半身はなにも隠されていなかった。
状態を見るに、酷く男は興奮している。
本来、脚力に優れるイチならば難なく男から逃れられるはずである。
しかしそう容易には済みそうにない。
____くそ! 靴が悪い!
理由はいくつかある。
まずこの日のイチは普段履きなれている冒険者用のブーツではなく、青い革のドレスシューズを履いているため思うように地面を蹴れない。
さらに床に撒かれた石灰が走りの感覚を邪魔している。
そしてなにより、今イチが着せられているモノが一番の理由であろう。
____バランスが狂う! 腕が使えないとこうなるのか!
拘束衣を着せられている。
腕は胸の下で太いベルトにより身体を抱くように固定されている。
出口のない奇妙な袖の中で指先は腋の下に無理に押さえつけられ、手の自由はまるでない。
その為イチは肩を揺らしながら走るしかないのだが、重心の置き所が掴めず無様に踊っているかのような走りにならざるを得ない。
____逃げられるか? いや、掴まってたまるか!
イチは背後で行害者の男が興奮し、うぅうぅと唸っている声を聞いた。
拘束衣の下は青いフォーマルなドレスなのだが、拘束衣のベルトが逆三角に股間まで伸びているため、裾が捲れてしまい僅かだが白いショーツと肌色の肉が露出してしまっている。
それが行害者の男をより興奮させているのだろう。
不自由に腕を拘束され肩を揺らすように走るせいか不自然に尻が揺れる。
そして股を通るベルトが身体に食い込むのだ。
不可抗力であっても煽情的に見えてしまっている。
____ッ!?
突然、イチは脚を滑らせ床に倒れた。
角を曲がろうとした瞬間にまだ乾燥していない石灰で覆われた排泄物を踏んで滑ったためである。
頭を守るために上手く身体を捻り身体の側面から倒れたのは上出来であろう。
しかしそれは追手がいなければの話である。
「________くそ!! やめろ!!」
「ううううぅぅぅぅうう!! うふうううううううう!!」
イチが立ち上がるより先に行害者の男がイチに覆いかぶさった。
男の汚れた手が乱暴にイチの頭を押さえつけ、白く汚れた床で頬が潰れる。
剝き出しの身体が肌にぶつかった嫌悪感と、これから自分の身に起きるであろう事態の想像でイチは恐怖した。
身をよじり、なんとか男を蹴って退けられないかと脚を激しく動かすも無意味な抵抗でしかない。
「ぐッ____________こんなッ!!」
行害者の男はその性質から、恐らく自分でもわけがわからずイチにのしかかったまま、瑠璃色のベレー帽を被ったイチの頭を床にぶつけた。
「あっ____!!」
頭を床に強打し、その為一瞬イチは抵抗する力を失い身体から力が抜け落ちる。
揺さぶられた脳が感覚を鈍らせ、一瞬だが視覚も嗅覚も忘れるほどであった。
「う…………………あ………………」
「うふうううううううう!!」
イチが抵抗力を失った事を理解したのか、行害者の男は興奮の唸り声をあげるとイチにのしかかったまま身体の向きを変え、イチの下半身に向け手を伸ばしはじめた。
絶体絶命か。
外部から隔絶された閉鎖病棟の中である。
今回の依頼はイチの単独行動の為、仲間の助けもない。
残念ながらイチはこのままこの狂った白い檻の中で悲惨な冒険の終わりをを迎えるのであろうか。
このような状況にイチが陥ったのは、とある依頼を受けた事が始まりである。
……今回のイチの冒険は19世紀から存在しているヅィーコプカイン精神病院が舞台となる。
今回、行害者という各人によってデリケートな見解をもつ属性の人たちを小説として扱うのには筆者にとっても迷いを生むところであった。
しかし、歴史の中で実際にイチが出会った当時行害者の福祉に関わる医療関係者の葛藤は、間違いがあったにせよ書く事に意義が生まれるだろうと思い、筆をとることにした。
興味を持たれた読者は、願わくばフラットな視点で本章を読んでいただけたら嬉しい。
(尚、行害者とは当時使われてい行動有害者の略である。当時は精神病患者、自閉症患者含め行動障がいをもつ者を一緒くたに行害者と呼んでいた。本小説では歴史への没入感のため、差別性のある言葉と理解したうえで使うことにしている)