魔王が掴んだものは 2

  [chapter:6. 勇者の死]

  勇者は穏やかな表情のまま、最後の鼓動を刻んだ。

  肉体から失われていく熱が、魂も精神も、すべてが終わりを迎えたことを静かに告げていた。

  最期の瞬間、彼の耳に魔王の名が届いたのかは、誰にもわからない。

  静寂が降りた。

  月光だけが冷たく二人を照らしている。

  ザーグの手の中で、勇者の鼓動は止まっていた。

  温もりが抜けていく。

  少しずつ、確実に。

  ザーグの施した処置は間に合わなかった。

  いや——魔龍人の血という毒を中和できる術など、この世のどこにも存在しなかったのかもしれない。

  ザーグの口はわずかに開いたまま動かなかった。

  紫の瞳が映すのは、穏やかに満ち足りたまま凍りついた勇者の顔。

  やがて、ザーグの膝が崩れた。

  巨体が地に伏すように崩れ落ち、冷たくなっていく体を両腕で抱えたまま離さない。

  爪が毛布を裂き、血の染みが静かに広がっていく。

  「……勇者」

  勇者を失った魔王には、勇者が愛し、守ろうとした世界だけが残された。

  三日が過ぎた。

  魔王ザーグは玉座に戻らなかった。

  四日目の朝

  側近の魔将が恐る恐る寝室の扉を開けたとき、そこにあったのは——冷たくなった勇者を抱いたまま微動だにしない魔王の姿だった。

  部屋には腐臭も死の穢れもない。

  魔王が無自覚に展開した防腐の術式が、皮肉にもその亡骸を保ち続けていた。

  七日目

  大陸東端で小規模な反乱が勃発したという報告が届いたが、ザーグは何も命じなかった。

  侵攻も鎮圧もない。

  ただ沈黙だけがあった。

  配下たちは顔を見合わせた。

  世界征服の総仕上げとして勇者を堕とすはずだった魔王は、今や動かない。

  二週間が経った頃

  ザーグが動き出した。

  亡骸を抱えたまま。

  城の廊下を進むその姿に、魔兵たちは壁に張り付くように道を開けたが、声をかける者はいなかった。

  勇者を抱えて辿り着いたのは魔王城の中庭。

  中庭に空いた大穴から、かつて勇者ハルトが鎖に繋がれていた地下牢が見える。

  ザーグは中庭の隅で足を止め、爪を石へと突き立てた。

  削り始めたのは——墓だった。

  不格好で歪で、しかし異様なほど丁寧な墓。

  ただ一つの石に名を刻むのに、七日を費やした。

  「勇者ハルト」と。

  魔龍人が人間の文字を刻むのは、生まれて初めてのことだった。

  「……世界を手に入れた代償か」

  誰もいない中庭に呟きが落ちる。

  風が瓦礫の粉塵を巻き上げた。

  代償。

  かつてそんなものは存在しないと嘯いた男が、今はその重さを噛み締めている。

  世界は手の中にある。

  だが腕の中にあった温もりだけが、永久に失われた。

  墓に勇者を横たえようとして——ザーグは動きを止めた。

  手放せなかった。

  二週間抱き続けた体を、今さら石の上に置くことができない。

  「……勇者よ。貴様は我に何を残した」

  答えのない問いが空に消える。

  瓦礫の影から小鳥が一羽飛び立った。

  魔王の支配したこの世界では、命の連鎖は続いている。

  やがてザーグは静かに額へ口づけを落とし、名残を断ち切るように、その体を石の棺へと横たえた。

  [newpage]

  [chapter:7. 過ぎてゆく時間]

  勇者の死から千年。

  勇者を失ってからのザーグの行動は驚くほど機械的だった。

  征服した世界の情勢について報告を聞き、裁定を下し、争いを鎮める——それだけ。

  新たな侵略はしない。

  略奪もしない。

  ただただ維持する。

  壊さず、殺さず、支配し続ける。

  それは生きているというより、惰性で動く装置に近かった。

  配下たちは囁き合った。

  「魔王は狂ったのか」「いや、あれこそが本来の姿なのだ」「では勇者とは何だったのだ」と。

  側近が後継を産むことを進言もしたが、ザーグの視線がそれを遮った。

  紫の瞳の奥にあるのは怒りではない。

  底なしの虚無だった。

  側近は言葉を失い、退いた。

  その夜、中庭の墓の前にザーグは立っていた。

  千年経っても墓石の文字は風雨に削られず、魔力によって守られている。

  「……千年だ、勇者よ」

  墓石の前に座り込み、角を預ける。

  「千年の間、何も変わらん……何もだ」

  風が吹き抜けた。

  「人間どもは増え始めている。敵の支配下でもなお生き延びるとは、逞しいものだ。魔物どもは変わらず我を恐れ、従い、退屈している。……我は」

  言葉が途切れる。

  「我は……貴様の後を追えなかった」

  それは懺悔でも嘆きでもなく、ただの事実だった。

  「……なあ、勇者よ。我はまだ貴様の名しか知らん。好きなものも、嫌うものも、何を見て笑うのかも」

  「千年、政務を続けながらも、貴様のことを想っていた。我と貴様がもしも……」

  もしも——その想像は毒だった。

  甘く、遅く、確実に魔王を蝕む猛毒。

  ある夜、ふと手が止まる。

  「もしも同じ国に生まれていたら」——そう考えた自分に気づき、書類を握り潰した。

  別の夜には夢を見る。

  角も爪もない身体で、隣を歩く勇者と笑い合う夢。

  目覚めたとき、天蓋は涙に濡れていた。

  「……あの時貴様が言った通りだな。我は何も手に入れられないまま、永い時を過ごしている」

  そして——さらに千年の時が流れた。

  [newpage]

  [chapter:8. 勇者の気配と農夫]

  勇者の死から二千年。

  世界の状況は変わらず膠着しているが、それでも魔物と人間はそれぞれの領域で繁栄していた。

  魔王は何かあるたび、元勇者の墓前で語りかける日々を送っていた。

  そんなある日、魔王は世界の隅に小さな気配を感じた。

  それは、懐かしくも焦がれてやまない、あの気配。

  玉座から立ち上がった瞬間、床に亀裂が走った。

  二千年ぶりに、ザーグの瞳に光が宿った。

  紛い物ではない。

  錆びた刀身に火が入るような、原初の輝き。

  「……馬鹿な」

  感じる。

  遥か南の果て、人間領の辺境。

  微かで脆弱で——しかし間違えようのない、あの魂の残滓。

  転移術はすでに発動していた。

  考えるより先に体が動いていた。

  南方の森の上空に現れた魔王の姿に、鳥たちが悲鳴を上げて逃げ散る。

  気配を辿る。

  森を一つ越え、川を二つ渡り——そして見つけた。

  小さな村。

  その外れの畑で土にまみれて働く、一人の人間。

  木の陰からその姿を見下ろし、息を忘れた。

  それはかつて、魔王と戦った勇者の気配。

  紛れもない別人である。

  だが魔王は、なぜかその人間から確かにそれを感じ取っていた。

  似ている——わけではない。

  髪の色も違う。

  体格も貧相だ。

  顔立ちに面影はほとんどない。

  それでもザーグの魂が叫んでいた。

  あの人間から、勇者ハルトの気配を感じると。

  鍬を振り上げ、額の汗を拭う何気ない仕草。

  疲れた腰を叩く不格好な動き。

  土を見つめて溜息をつく横顔。

  どれも特別ではない、どこにでもいる農夫の日常。

  なのに——

  ザーグの足は動かなかった。

  二千年間、千里眼で世界を見渡しながら決して降り立たなかった人間の領域に、今こうして立っている。

  木陰から一歩踏み出せば気づかれる距離。

  問題があった。

  なぜあの人間から勇者の気配を感じるのか、それが分からない。

  いわゆる生まれ変わりなのか。

  だとしても、前世の記憶が残っているとは到底思えない。

  爪が木の幹に食い込んだ。

  二千年の空虚を抱えた魔王は、たった一歩を踏み出せずにいた。

  それから魔王は毎晩、千里眼を用いて南の村の一人の農夫を覗き見ていた。

  傍から見れば正気を疑う光景だったが、当人にとっては勇者の気配を追うための重要な行為だった。

  農夫の名は——リクというらしい。

  村人同士の会話から拾った。

  畑仕事をしているものの、勇者と比べると華奢な印象を受ける。

  リクは朝が早かった。

  日の出前に起きて畑に出る。

  両親はすでに年老いており、弟妹はまだ幼い。

  自然とリクが家の稼ぎ頭になっていた。

  雨の日も風の日も鍬を手放さず、愚痴をこぼしながらも黙々と土を耕す。

  好きなものは芋のスープ。

  嫌いなのは徴税官。

  あの仏頂面の勇者と違い、よく笑う性格のようだ。

  千里眼の向こうで、弟を肩車して歩くリクの姿を見ながら、ザーグの唇がわずかに歪んだ。

  笑みとも苦痛ともつかぬ形に。

  「……全然違うではないか」

  だが、目を離すことはできなかった。

  ザーグがリクの観察を始めて三か月ほどが経った頃。

  この日も千里眼を用いてリクの様子を見ていた。

  普段と変わらない日常。

  だが——

  「お兄ちゃん、最近寝言で誰かの名前を呼んでるよね。ザーブ?さん?みたいな?」

  「えー!バーグじゃねぇの?俺にはバーグって聞こえたぜ?」

  夕食の最中、妹と弟に寝言を指摘されるリク。

  「えぇっ?俺、そんなこと言ってたのか?どんな夢を見てたんだろうな、覚えがないなぁ(笑)」

  千里眼が揺れた。

  比喩ではない。

  術そのものが乱れた。

  ザーグの魔力が動揺で波打ったのだ。

  リクが呼んだ名前——それは、ひょっとして自分のことではないか。

  千里眼を凝視する。

  妹が無邪気に問いを重ねる。

  「その人って怖い人?夢の中で怒られたりしたの?」

  妹が問いを重ねるが、

  「さあなぁ。覚えてないから何とも。ただ、悪い夢だったら飛び起きてると思うし、そうじゃないってことは悪い夢じゃなかったんだろうな。」

  頭をかきながら、そう答える。

  リクが見ていた夢が自分に関するものかは、まだ断定できない。

  だが——

  「悪い夢ではなかった……か。」

  夕食を終えた家族は、それぞれ寝る準備をして床に就いた。

  「兄ちゃん、おやすみー!」

  両親と弟妹が眠りについたことを確認し、リクも横になる。

  家の明かりが消え、静かな夜が訪れた。

  「……リク、か」

  初めて、千里眼越しに農夫の名を呼んだ。

  声が震えていたことに、本人だけが気づいていなかった。

  [newpage]

  [chapter:9. 夢の中での再会]

  その晩、魔王は珍しく夢を見た。

  勇者ハルトが現れる夢の中。

  彼は魔王の隣に座り、取り留めのない話をしている。

  「二千年もの間、ザーグ。貴様……いや、お前は、この世界と魔物と人間と、そして自分自身について、どう感じてきたんだ?」

  問われて、言葉が詰まった。

  二千年分の問い。

  夢の中とはいえ、こうして問われたのは初めてだった。

  「……どう感じてきたか、だと」

  沈黙が流れた。

  夢の中だというのに、風の匂いがする。

  草と土と、わずかに焦げた何かの残り香。

  「長かった。途方もなく」

  千年目まではまだよかった。

  勇者のことを鮮明に思い出すことができた。

  だが千年を過ぎた頃から、それが少しずつ薄れていった。

  「貴様との繋がりが薄れていくことが……とても、恐ろしいのだ」

  声は低く淡々としていたが、語尾がわずかに掠れていた。

  「この世界は——我が望んだ形になった。なったはずだ」

  「……なのに、何も満たされん。魔物も人間も我を恐れ、敬い、従う。それで十分なはずなのに」

  ザーグの紫の瞳が、夢の中の勇者を見据える。

  「我自身については……分からん。分からぬまま二千年だ。……貴様に聞かれたくはなかったな、こんな無様を」

  夢の中の勇者は、静かにその言葉を聞いていた。

  そして、問いかける。

  「もしも、もう一度俺と出会えたなら、ザーグ。お前は俺をどうしたい?」

  風が止んだ。

  夢の景色が白く霞んでいく。

  草原も風も遠のき、残されたのは二人だけ。

  即答できなかった。

  二千年を生きた魔王が、たった一つの問いに窒息している。

  「どうしたいか」——その問いは残酷だった。

  支配したいのか、喰らいたいのか。

  どれも違う気がした。

  「……分からん、と言えば、貴様は笑うだろうな」

  勇者は笑わなかった。

  ただ静かに、答えを待っている。

  長い沈黙の後、ザーグの口が開いた。

  「前は——跪かせたかった。心も体も、すべて俺のものにしたかった。……だが今は」

  言葉にできない。

  喉の奥で何かがつかえている。

  「今はただ隣にいてほしい」のか、「ただ笑っていてくれればいい」のか——どちらも言葉にできなかった。

  歯を軋ませ、絞り出すように言う。

  「……名前を呼んでほしい。貴様の口から、我の名を」

  そこまで告げた瞬間、魔王は目を覚ました。

  そこは城内の寝室。

  隣には誰もいない、ただ一人の部屋。

  なぜ勇者の夢を見たのか、それすら分からない。

  だが、ここしばらくリクから感じる勇者の気配と無関係とは思えなかった。

  [newpage]

  空が紺から薄紫へと滲む頃、魔王は南の森に立っていた。

  魔力は最小限に抑えている。

  角は消せないが、それでも村人を怯えさせるほどの威圧は漏らさぬよう制御していた。

  ——なぜそんなことをしているのか、自分でも分からなかった。

  村が見える丘の上。

  リクが畑へ向かう姿が小さく見える。

  まだ薄暗い中、欠伸をしながら家を出てきたところだった。

  近い。

  千里眼では分からなかったものが、今はすべて見える。

  土を踏む足の運び方、腰の曲げ方、肩にかけた手拭いの擦り切れ具合。

  すべてが生々しいほど鮮明だった。

  同じ空気の中にいるからだ。

  リクがふと顔を上げた。

  ——目が合うはずのない距離だった。

  だが農夫は丘の方をぼんやりと見つめ、何かを探すように目を細めた。

  やがて小首を傾げ、再び畑へと歩き出した。

  ザーグの心臓が一つ、大きく跳ねた。