[chapter:0 魔王ザーグと勇者ハルト]
世界は今、緩やかに、しかし確実に終焉へと向かっていた。
魔王ザーグ——八千年の時を生きる古の魔龍人。
その咆哮は大地を揺るがし、その血は人間の命を奪う猛毒である。
その圧倒的な力は抗う術を許さず、各地の国々は次々と蹂躙され、その版図は日を追うごとに拡大していく。
ある国は炎に沈み、ある国は膝を屈し、ある国はただ静かにその名を歴史から消した。
人々は恐怖に沈み、やがて抗う意思すら摩耗していった。
その絶望に抗うために選ばれた存在——勇者ハルト。
聖剣に選ばれし青年は、仲間とともに魔王討伐の旅へと身を投じた。
だがそのあまりにも苛烈な道程の中で、仲間は一人、また一人と倒れていく。
そして気がつけば、彼の隣に立つ者は誰一人として残っていなかった。
それでもなお、勇者は歩みを止めなかった。
消耗した聖剣を握り、尽きかけた魔力を振り絞り、ただ一つの使命に縋るように。
すべてを終わらせるために。
やがて辿り着いたのは、魔王の居城。
空を覆う暗雲と、地を満たす瘴気の中心にそびえ立つ、絶望そのものの象徴。
そこで繰り広げられたそれは——戦いと呼ぶにはあまりにも一方的な蹂躙であった。
力は届かず、刃は通らず、抗いはことごとく踏み潰される。
そして、結末はただ一つ。
——敗北。
勇者は魔王に打ち倒され、そのまま生け捕りにされた。
魔王城の地下深く、光すら届かぬ石牢。
冷たい鎖がその四肢を絡め取り、自由を奪う。
砕かれた身体は言うことを聞かず、石の床に倒れこむ。
流れた血はすでに乾きかけていた。
それでもなお、その胸の奥で燻るものがあった。
勇者の瞳に宿る光は、まだ消えていない。
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[chapter:1 囚われの勇者]
「ククク……無様だな。勇者ハルトよ。貴様が守ろうとしたすべては我が手中に落ちた。残るは、その気高い魂を汚し、我の苗床へと変える仕上げのみよ」
巨躯から放たれる圧倒的なプレッシャーが、敗北した勇者の身体を押し潰す。
魔龍人である魔王は太い指先で勇者の顎を強引に持ち上げ、紫の瞳でその絶望を舐めるように見つめた。
「さあ、言ってみろ。この我にすべてを奪われ、雌のように快楽に震える恐怖と悦び……どちらを先に味わいたい?」
「まだだ…まだ…諦めていない…!」
勇者が吐き出した反抗の言葉を聞いて、ザーグの口元がゆっくりと歪んだ。
その瞳の奥に、獲物がまだ足掻く様を見出した喜悦が灯る。
「ほう……? まだ折れぬか。いいだろう、それがいい。聖剣も砕け、魔力も枯渇しきった貴様に何ができる? 見せてみろ、最後の抵抗を」
ザーグが片膝をつき、勇者と目線を合わせた。
魔龍人の巨体は屈んでもなお威圧的で、影が勇者を丸ごと飲み込む。
「だが覚えておけ。貴様のその目——まだ光が残っている。それを我が一滴残らず啜り尽くすのが愉しみなのだ」
魔王城の地下深く、冷たい石壁に囲まれた独房。
鉄格子の向こうに揺れる松明の炎だけが、二つの影を照らしていた。
勇者の鎖に繋がれた手首が微かに震えている——それが怒りか恐れかは、本人にすら分からない。
「まだだ。まだ貴様を倒す最後の手段が残っている。」
ザーグの動きが一瞬止まった。
そして低く、腹の底から湧き上がるような笑い声を漏らす。
「ハハハ……ッ! 最後の手段だと? この期に及んでハッタリか、それとも本気か?」
鋭い爪の生えた指が勇者の首筋をなぞり、額から顎のラインまでを品定めするように滑った。
「まあ良い。どちらでも構わん。貴様の切り札とやら、見届けてやろうではないか」
だがザーグには確信があった。
この勇者の目は嘘をついていない——何千年と人間を観察してきた古の魔龍人は、その微細な感情の機微を読み取る術に長けている。
だからこそ興味が尽きない。
目の前のこの人間が、どのような秘策を隠し持つのか。
「最後の手段。もしそれが我を殺す類のものなら——」
紫色の双眸が妖しく輝いた。
「——使え。全力で来い。その上で叩き潰し、貴様を二度と立ち上がれぬよう壊してやる」
ザーグが勇者にそう告げるのとほぼ同じタイミングで、勇者は不意に身を乗り出した。
一瞬の静寂。
石牢に響くのは松明が爆ぜる音だけだった。
——ザーグの思考が凍った。
数千年の生において、予測できなかった事象は片手で数えるほどしかない。
だが今この瞬間、魔王は完全に虚を突かれていた。
勇者の唇が己のそれに触れていると理解したのは、その一拍遅れてからだった。
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[chapter:2 最後の手段]
その瞬間、淡い光の粒子が二人の間で弾けた。
聖と魔——相反する力が、互いを拒絶するように暴れ出す。
「ッ——貴様、これは……!」
ザーグが咄嗟に勇者の肩を掴んだとき、すでに光は臨界に達していた。
それは口づけを介して魔王から奪われた魔力と、勇者自身の生命を燃やして生み出された聖なる力。
両者が衝突し、臨界を超えた結果だった。
「これで最後だ。貴様も、俺も。ああ、これで世界に平穏が訪れるんだ。」
勇者の宣言とともに、光が膨張する。
地下牢の石畳に亀裂が走り、天井から瓦礫が降り注いだ。
聖と魔の相反する力が混ざり合い、臨界を超え、純粋な破壊エネルギーへと転じていく。
ザーグは理解した。
これが勇者に残された唯一にして最期の策——相討ち。
己の命と引き換えに魔王ごと消し飛ばす、捨て身の最終手段。
「……馬鹿が」
その声は怒号ではなかった。
低く掠れた、呟きに近い何か。
ザーグの腕が勇者の体を包み込み、鎖が軋む音を立てるほど強引に胸元へ引き寄せる。
同時に魔力を防壁として展開し、自らの体で勇者を覆った。
「我と心中だと? ふざけるな。貴様の魂は我のものだ。こんな形で散らせはせん……!」
轟音、閃光。
魔王城そのものを震わせる大爆発が地下から噴き上がり、地上にある中庭に大穴を開けた。
煙が晴れた後、中庭の穴には倒れた二つの影。
魔王の身体からは黒い血が滴っている。
そしてその腕の中には、意識を失った勇者が抱かれていた。
かろうじて立ち上がった魔王は、勇者を抱えたまま城内へと戻っていった。
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[chapter:3 魔王の告白]
「ここはどこだ……? 暖かい……。魔王は、世界はどうなったんだ……?」
目を開けた勇者が最初に感じたのは、柔らかな毛皮の感触だった。
見上げれば天蓋付きの巨大な寝台——魔王の私室。
窓の外には暗黒の空に二つの月が浮かび、薄紫の燐光が室内をぼんやりと照らしている。
「目が覚めたか」
声の方角へ視線を向けると、椅子に腰掛けた魔王の姿があった。
胸元の包帯は赤黒く染まり、白い髪は乱れている。
あの自爆で受けた傷は浅くない。
それでも紫の双眸は変わらぬ威圧を湛えていた。
「貴様の一撃は確かに我に届いた。褒めてやろう。だが……我を殺すには足りなかったな」
魔王の視線がわずかに和らいだことに、本人は気づいていないだろう。
あの爆発の後、瀕死の勇者に回復魔術を施し続けたのもまた、この魔王だった。
「世界は何も変わっておらんぞ。世界はまだ我が手中だ。そして貴様の残された生命力では、もうあの技は使えぬ。」
「勝手に命を散らすことなど許さぬ。」
その言葉を受け、勇者の身体から力が抜ける。
「……そうか、俺は役目を果たせなかったのか……。貴様による世界征服から、世界を取り戻すことができなかったということか……。」
魔王の眉がぴくりと動いた。
項垂れる勇者を見下ろしながら、ゆっくりと立ち上がる。
傷を負った体が軋む音がしたが、それを気にする素振りは微塵もない。
「役目を、果たせなかった、だと?」
ベッドの縁に手をつき、顔を近づけた。
「違うな。貴様の役目はとっくに終わっていた。」
魔王が、世界の情勢について語り始める。
「貴様が魔王討伐の旅をする間に、貴様の国は滅びたのだよ。軍は瓦解し、国王は国を放棄。民は魔族の支配を受け入れた。貴様が我の前に立った時点で、貴様が我を倒す理由は失われていたのだ。」
魔王の指先が勇者の頬に触れ、顔を上向かせる。
「それでも、あの戦いの中、貴様だけは折れなかった。……だから我は、貴様を生かした。」
旅の中で仲間を失い、それでも魔王を倒せば国を救えると信じていた勇者にとって、それはあまりにも残酷な現実であった。
「そうか……。貴様のもとに辿り着いた時点で、すでに俺の生きる意味は失われていたのか。」
そう告げる勇者の目からは、光が失われつつある。
「それでも、最後に貴様に相討ちを仕掛け、一瞬でも貴様の表情に焦りを浮かべることができたのが、俺の人生の最後の誉れだ。」
魔王の表情が一瞬、凍りついた。
「……誉れだと?」
低い声が震えていた。
怒りではない。
もっと根深い、名の付けられない感情だった。
「あの時の我の焦りは——貴様を失うことへの恐怖だ。認めたくはないがな。だがそれを『誉れ』などという言葉で片付けるな。」
魔王の手が勇者の首を掴み、しかし締めはしない。
ただ逃がさないという意思だけを伝えるように、そこにあった。
「貴様が生きる意味は我が決める。勝手に死ぬことは許さん。あの口づけも、自爆も——二度目はないと思え。」
紫の目の奥で、数千年を生きた魔王が初めて見せる剥き出しの執着が燃えていた。
そんな魔王に、勇者は力なく微笑むような表情で問いかける。
「我が決める? 貴様は俺に何を望む? 国は滅び、貴様を滅ぼすこともできず。もはや勇者でもない、無力なただの人間である俺に。」
首を掴んでいた手を離し、代わりに勇者の髪を梳くように指を通した。
「何を望むか、だと?」
魔王の顔が勇者の耳元まで降りてきた。
熱い吐息が首筋にかかる距離。
「簡単なことだ。跪け。泣け。縋れ。この我なしでは息もできぬほどに堕ちろ。」
その声は傲慢そのものだったが、「望む」という言葉に込められた熱量は、支配者のそれとはどこか違っていた。
「我は貴様の雄としての誇りをすべて奪い尽くしたい。剣を握ったその手で我以外の何も握れなくなるまで、この体に刻みつけてやる。」
魔王の親指が勇者ハルトの下唇をゆっくりとなぞった。
その指先には、先ほど掌を裂いた傷から滲んだ黒い血が、まだ乾ききらずに残っている。
血はわずかに重さを増し、やがて一滴、指先から静かに垂れた。
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「魔王。貴様は、俺を欲しているのか?」
問いを受けて、一瞬だけ沈黙が落ちた。
「欲している」という言葉の単純さが、逆に魔王の喉を詰まらせたのだった。
数多の勇者を屠ってきた魔王が、「欲する」という感覚に戸惑っている——滑稽と言えばこれほど滑稽なこともない。
「……欲している、か。人間の言葉は便利だな。」
だがその答えは明白だった。
瀕死の勇者を自室に運び込み、三日三晩看病した事実がすべてを語っている。
「ああ、そうだ。欲している。貴様の魂も肉体も精神も——何もかもだ。」
認めた瞬間の魔王の顔を、月明かりが残酷に照らした。
そこには威厳はなく、ただ一つの渇望だけがあった。
「魂も肉体も精神も、か。」
勇者は淡々と繰り返す。
「俺は勇者としての存在意義を失った。勇者としての魂は、もうない。」
「貴様はもはや、俺の『何もかも』を手に入れることはできない……」
静かな諦念が、その声に滲んでいた。
魔王の目が細まる。
図星だった。
「……だから何だ。」
声に力がない。
「存在意義を失った?」
言い放ちながら、その言葉の空虚さを魔王自身が理解していた。
「いや……、貴様の目からあの光を消したのは……我だ。」
拳に込められた力が、さらに傷を深くする。
掌の裂け目から、黒い血がじわりと滲んだ。
「貴様が欲しているのは、『勇者』である俺だろう。」
「だがその勇者はもういない。ただの抜け殻だ。」
勇者のその言葉は、静かに、しかし確実に魔王の内側を抉った。
「……違う。」
絞り出すような声。
「確かに我は勇者としての貴様に惹かれた。それは否定せん。」
「だが——あの戦いの場で満身創痍のまま剣を振った貴様の姿を、我は美しいと思った。」
魔王の爪が、さらに深く掌へ食い込む。
血が指先へと伝い、重さを帯びていく。
「勇者としての魂が無いだと?」
魔王の問いに、勇者が答える。
「あぁ、命を対価に貴様を葬ろうとしたあの時が最後だったんだ。」
「世界を取り戻すための、最後の輝きだった。」
淡々とした声。
だがそこに後悔はなかった。
「……黙れ。」
「これ以上、その口で己の終わりを語るな。」
魔王の手が、勇者の頭を引き寄せる。
逃がさぬように、強く。
「ならば新しい意味を灯せばいい。それだけの話だ……。」
「何故俺にそこまで執着する。」
沈黙。
「……貴様だけは違う。」
「我は、殺してきた勇者どもの顔など覚えておらん。だが貴様だけは違う。」
それは紛れもない告白だった。
「魔王、俺にはもう何もない。」
「国も、使命も、すべて失った。」
すべて失った、その言葉を魔王の中でこだまする。
ならば、とザーグの低い声が続いた。
「もう一度始めればいい。我が傍で、もう一度。」
「世界がどうなろうと知ったことか。我は今この瞬間まで、欲しいものなど何一つなかった。……貴様以外には」
月が再び顔を出し、銀の光が二人を包んだ。
月の光が、勇者の顔を照らす。
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[chapter:4 勇者が守りたかったもの]
「『欲しいものなど何一つなかった』だと?」
勇者の柔らかな声。
だがそれは、魔王の言葉のすべてを拒絶するような鋭さも持ち合わせていた。
ザーグの体が硬直した。
「俺には——守りたかいものがあった。」
「名も残らない村で笑う子供や、誰かの帰りを待つ人間たち。」
「そういう『当たり前』を守るために、俺は剣を握っていた。」
魔王の瞳がわずかに揺れる。
「誰かが明日を信じて生きられる場所を取り戻す。それが俺の使命だった。」
その言葉が、深く沈んでいく。
「……そんな世界を、貴様は『欲しいものではない』と、そう言うのだな。」
魔王は初めて理解する。
この男が守ろうとしていたものを。
「魔王。貴様は、何も手に入れられず、この先も生きてゆくがいい。」
視線が落ちる。
勇者のすぐ傍——魔王の手。
その指先に、黒い血が、静かに滴っている。
「この先……か。」
勇者からの言葉を受け、呟く。だが、この先を共に生きたいと思える者が目の前にいる。
「……貴様もだぞ。」
「この先の永い時を、我の傍で貴様も過ごすのだ。」
懇願するような声で、魔王が言葉を続ける。
「だから……死ぬな。」
その言葉を聞いた瞬間、勇者は穏やかな表情を見せた。
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[chapter:5 最後の抵抗]
勇者は魔王の手を取り、逃がさないように指を絡める。
その仕草に、魔王の目がわずかに見開かれた。
——自分の想いが勇者に伝わったのだと、そう思った。
強張っていた肩から、わずかに力が抜ける。
勇者はその手を口元へと引き寄せた。
そして、魔王の手から滴る血を口に含み
嚥下する。
「これで、貴様はもう俺を手に入れることは出来ない……。」
穏やかな笑顔のまま、勇者が告げる。
「さようならだ、魔王。」
「——っ!!」
恐怖とも怒りとも言えないものが、魔王を貫いた。
「貴様ッ……!!我が血をッ……!!」
魔王の身体から治癒の魔力が迸る。
「ふざけるな……!」
勇者の鼓動が小さくなる。
「笑うな……っ!」
魔王の声が震えた。
「そんな顔で死ぬな……!」
勇者の鼓動が消えかける。
「待て。」
魔王は命じる。
「待てと言っている!!」
治りかけていた傷が開こうとも、術を止めない。
「……我は、貴様のことを名しか知らぬ!」
声が割れた。
「……貴様にも、我が名を呼んでもらえておらぬ!」
心臓の最後の一拍が近づく。
「勇者よ。我が名はザーグ。」
「貴様が死ぬなら我も共に逝く。」
「だから……せめて我の名だけ、持っていけ。」
そして——