島国

  1. 思い出

  しなやかな時の流れを思い起こし、私は揺らいだ。空は高く、何処までも澄み渡っていた。ところどころに芯を持ったような雲が浮かび、光線を複雑に内に溶かし込んで、さながら絵画のような景色だ。

  汽車は走り来る、数多の情念を乗せて、果てなき荒野を駆けてゆく。息を吸い、一歩後ずさる。霧笛の音、車輪は空気を切り裂き、軌道の上を滑りながら車体の動きを鈍らせてゆく。

  待っていた、大きな丸い肩には、見覚えがある。手を振ると、あの方は私の方を見つめて、笑顔で頷いてくれた。

  汽車が停まると、私は駆け寄った。汗ばむ折、オードトワレの香りが鼻に付いて、私は己を恨んだ。そんなことさえ気にも留めずに、あの方は帽子を取ると、切れ長の細い目を一層細くして、私を抱き締めた。

  長かった、会いたかった。顔を見ることができて、それだけで、嬉しかった、よかった。

  食堂に入ると、ウエイターの案内する通りに座席に着き、私はあの方の斜め向かいを陣取った。微妙な距離感、だが破顔一笑、話に花が咲いた、空気は淀むことを知らないかのようだった。

  「今日は久方振りの晴れ間です、昨日まで雪が酷くてねぇ」

  顎の弛みに轍が乗った、相変わらずのやんちゃ顔。ふと視界に窓が入り込んだ、気不味くなって雀でも眼で追い掛けようとした矢先のこと。外は一面の銀世界、これしきの晴れ間では溶けることなどない。紅茶を啜りながらあの方の声を間近で聞く、その喜びを今知って、尚もその先がまだ知りたくて、それは感無量のことだった。

  やがて緊張は緩み、時は茫洋と辺りを彷徨い出す。遠くに汽車の音を聞きながら、目の前の憧れの一挙手一投足を追い掛けようとするも、集中できない。それでも掌は気持ち汗ばみ、鼓動が脈打つのを自分でも感じる。私は目の前のあの方を、みちさんと呼んでいた。ふと、みちさんのひと言が、ストレートに懐へと入ってきた。

  「もしかして、なおちゃん、俺のこと、好きなの?」

  こんな時に限って、人間とは情けないもの、馬脚を現すのだった。

  この場を放棄して逃げ出そうと、そう思って立ち上がろうとする、そんな憐れな私を、みちさんの巨体が制した。

  「待ってよ、俺は平気だよ、寝てくれるんなら。抱いてよ、それからでも遅くはないでしょ」

  逡巡した、だってそんなつもりではなかった、なのにみちさんは、すべてを身体だけで終わらせようとしているように見えた、それでは余りにも詮ない、どうするかーー。

  ふっと、中腰で、それはテーブル越しのこと、抱き寄せられて口付けた。それだけのこと、導火線に火を付けるには、しかしそれで十分だった。奔放なところのあったみちさんらしい、忘れ得ぬエピソードだ。

  汽車の音が相変わらず時折、耳をつんざく。それは近付いていた。来た道を戻って、足跡は二組、後ろに長く続いてゆく。別れは近いか、次はいつ会える、そんなことばかり考えていると、駅の手前で、先を往くみちさんの足跡が、脇の小径に逸れた。

  五分ほど歩いたか、空を再び雲が覆いちらほらと雪が舞い始める頃、私たちは休憩所の入り口へと足早に歩を進めた。

  展開は早かった、ただ期待していたのとは余りにも異なる結末が垣間見えた気がして、私は竦むしかなかった。

  2. 限られた時間の中で

  影が蠢く、それは向かいのビルの窓越しからでも眺められたかもしれなかったが、実際のところは誰も気に留めてはいなかった。

  海から生まれた水の残滓が凍えながら地面を白く染め上げる頃、この島国の僻地で、私たち二人は身体を重ね合っていた。

  上がる息、動悸が激しい、みちさんは私の体にまるで蔦のように絡まって、離れようとはしない。みちさんは己の幼い屹立を私の太腿に擦り付けながら、溜め息ばかり漏らしている。

  やがて四つん這いになったみちさんを、膝立ちになって後背より貫く。奥の奥まで、目の前のあの方の記憶に留まるように、精一杯の証を刻み込みたい。

  ふるふるとした腹が揺れる、次第に声に獣の色が混じり、涎を口の端から垂らしながら、みちさんは咽び泣く。

  正常位に変わり、ズンズンと秘孔を突いてやると、固くなり切ったその親指ほどの屹立から、止めどもなく大量の精が溢れた。

  小一時間をそんなふうにやり過ごして、それからみちさんのあられもない肢体を改めてフォーカスの内に捉えて、ハッとした、その瞬間に私は覚悟を決めた。もう二度とない出会いだから、離さないでともに歩きたいーー。それは私が産まれ落ちてから今日までではじめて己に課した、小さくも大きくもないたったひとつの、約束事だった。

  みちさんの身体は大きくてふとましいが、その股座に生える男根は、思いの外慎ましやかで、それが単なる飾りに過ぎないということを知らしめてもいて、なんだか可笑しかった。

  事の後に、私はこうして覚悟を胸にした。去来するのは、みちさんの大きなその背中ばかり、ゲイとしてはただそれだけの、薄っぺらな人生なのだった。

  3. 時代

  浮き沈みの激しいこの世情で、人生の河を渡り歩く術を、それは子供を作ることだと、幼い頃から散々、私は親から親戚から、口酸っぱく云い聞かされてきた。私は女には興味はなかった、だがそれを知ってなお高圧的に云い包めようとするその姿勢に、私は生意気だったから、だからこそ反発していた。そういう、時代だった。

  改めてそれを少し振り返って、曲がりなりにも夢が叶った後だというのもあって、子は鎹、作ってみるのもいいのではないかと、そう思ってみた。

  あの日の覚悟はまだ胸にある、それでも暮らしはある、村八分では困る、みちさんになら、きっとまた会えるーー。

  私には何もなかったが、結婚相談所に入会してみると、顔や体型はともかくとしても、一般の価値観に照らし合わせて良縁だと云えなくもない話が、幾つか舞い込んできたので、正直面食らった。

  私は細面のしがない男だが、それが却って女たちの興味を惹くようでもあった。私は実のところは極めてゲイ寄りのバイセクシャルで、化粧っ気も胸もなくこざっぱりとして豊満な腹の年下の女に限っては、相手にしたことは、二度や三度はあった。

  やはり私は男がよかったが、一度くらいなら家庭というものを築いてみるのもいいのではないかと、親類の一挙一動を確かめつつ、そう思ってみるのだった。

  こういうときに限って話はトントン拍子でまとまる、正直なところ恋愛感情など皆無だったが、子供は欲しかった、詰まるところそれだけのことだった、女には可哀想なことをした、嫌いではなかったが、気持ちはなかったーー。

  私は親類の経営する材木屋で、事務と経理の仕事を任されていたから、そろそろ結婚せねばと、前々から薄ぼんやりと考えないではなかった。まさに渡りに船、今回の縁談がまとまったのを気に、私の肩身は狭くはなくなった、そろそろ首筋が寒かっただけにこれはありがたかった。打算だけの結婚ではあったが、それでも喜ばれたのだから、別に構わないのだろう、そう思っていた。

  女は積極的だった。毎晩のように私の股座に跨っては、腰を振る。その姿はあどけない子供のようで私の心を幾分かは潤した。何より心ならずも、身体は反応していた。何故だろうか、やはり私には幾分かは、女好きの血も混じっているようだった。

  子供はできた、二人設けた。両方とも、男の子だった。妻に似て丸顔の、ふくふくとした愛らしい子供だ。可愛いのも今のうちだけかもしれない、記憶に留めたい、犠牲も大きかったから、せめてこの“戦利品”のような我が子の笑顔は、胸に光る勲章として、いつまでも掲げておきたかった。

  4. この島国のことわり

  久方振りに汽車に乗った。窓を開けると煤けた風が入り込んだ。ひとり旅、どうしても会いにゆきたくなった、みちさん、どうしているか。

  みちさんは鉄道会社に務めていた、駅員だということくらいしか知りはしないのだが。もう一度、抱かれてみたくなった。無理だろうか、そうかもしれない、私も我儘な男だ。だが、あのふとましい肉体に押し潰されてみたいと願ったことは、あれからも一度や二度ではなかった。

  それ以来、何度か思い出の地に足を運んだが、みちさんとは出会えることはなかった。

  諦めかけたそのとき、空から水色の小鳥が一羽、舞い降りて肩に留まった。

  青い鳥はこう告げた。

  「みちに会いたいのなら、願いは叶えてやろう。お前も大層な我儘だが、それなりに辛抱してきたのは認めてやらないでもない。だが、家庭も省みることだ、おざなりにすることは許さぬ」

  私は何度も頷いた、振り向くと真後ろに、あの日と寸分違わぬ眩い姿で、みちさんが立っていた。

  無言のまま向き合う私たち、それはあの雪の日から十年以上が経った休日の午前、ふと舞い散る桜に気を取られる私、春のことだ、次の瞬間、往来の中、抱き寄せられた。戸惑った、誰が見ているかも解らないというのに。

  「今度は抱いてやる、だから時々でいい、俺の側に来ておくれーー」

  みちさんの吐息、息遣い、匂い、気配、一挙手一投足が愛おしい夜。秘められし行為は、誰にも見られることもなく密やかに、それは月に一度のこと、そんな風にして行われるのだった。

  この年最後の桜が、早くも散ろうとしていた。宵の口、湿った風が前髪を揺らす中、私とみちさんは、肩を並べて散歩をした。あと何回、こうしてともに歩けるだろうか。手を繋ぐことさえ憚られたが、やはり私は、誰よりもみちさんの側に居たい、これは誰にも変えられない思いだった、頑固だな、自分。

  その年の夏、みちさんは帰らぬ人となった。白血病だった。生き甲斐が、ひとつまた消えた。

  妻は相変わらず毎晩のように求めてくる。正直疲れたが、みちさんのことで負い目もあるので、無碍にはできない。

  可愛かったのは、二人の息子だ。これは本当に、鎹となった。大きくなるにつれて男らしく逞しくなり、より一層胸が熱くなった。

  思えばみちさんは、向日葵のような人だった。私もいつか、並んで咲く向日葵になりたい、空を目指したいーー。

  自分のことを誰も慮らない世界で、好いた男とまた一からやり直せたなら、この人生がどんなにか報われるだろう、もちろんそんなに甘いものではない、それは解っている、それでもなお、私は男のことが女以上に好きだった、そんな夜、枯れ果てたはずの涙が溢れてしまい、横で本を読んでいた妻に怪訝そうな顔をされた、どうしたものか。私には家庭がある、やはりないよりはよかった、子供くらい、作ってみるのもいいのかもしれない、手遅れでなければそれもまたいい。私には誰に何を云う資格もない。ただ、幸せは誰も求めぬ限りは自分からやってくることはない。それは掴み取るもので、与えられるものではない。私はゲイとしてはあまりよりよくは生きられなかったが、それも自ら手繰り寄せてそうなっているのだから、当然の帰結ではあるのだ。この島国でゲイとして生き続けていくには、人より少しばかり根性が要るかもしれない。ただ思い出して欲しい、人は誰も独りでは生きてはいけないが、大抵の場合は既に独りではないのだ。

  風がひんやりとする昼下がり、子供を家に残して、妻と手を繋いで歩く。何事もなく、自然だ。願わくばその相手は男ならばもっとよかった、或いはそれがみちさんなら、どんなにかーー業は深かった、それでも誰のせいでこうなったわけでもない、今は幸せなのだと思う、それでいい、息子たちが自由に生きられるのなら、それもまたいいーー。

  妻は最近、簪を集めるのが趣味となった。少し長くなった髪につけるという、あどけない顔には、よく似合う。

  今は私は、息子たちに“恋”をしている。秘めやかな思いは濃密で、今もスキンシップを口実に、風呂で背中の流しっこなどは、よくやる。妻によく似た二人の息子を見ながら、親子だなぁとしみじみ感じ入った、妻は男顔なのだ。

  もう一度、人生をやり直せるなら、私はみちさんとともに暮らしたい。それでも今は、この家族が大切だから、改めてここに記しておく、当たり前のこと、幸せの形なんて人それぞれだ、比べることではない、様々な人が居ても、そのままでいい。それが世界のことわり、少なくともこの島国のことわりなのだから、もう、いいんだーー。

  The End