「この事件、全くもって怪しいわ……」
机の上一面に広げた資料の数々。それらが告げる断片的な情報を前にして、私――――[[rb:薮木真由 > やぶきまゆ]]は腕を組んでいた。
半年前に起きた大学テニスサークルの集団失踪事件。レンタカーのマイクロバスを借りて大学最寄りの駅前を発ったのを最後に、忽然と姿を消してしまった彼らの足取りは一切掴めていない。それも警察関係者が千人以上も捜査に加わった上でだ。
彼らが車を走らせていた以上、カーナビのGPSやスマートフォンの電波送受信記録、防犯カメラの情報など何らかの痕跡は残っていないとおかしいのだが、それすらまともな状態で残っていないのだという。まるで意図的に消されたか、隠蔽が行われているかのような状況に、一部のメディア関係者は特ダネの匂いを感じ取っていた。
何を隠そう、私もその一人である。
複数の週刊誌と契約を結び、政界や財界の人間についての疑惑やスキャンダルを追及してきたフリーのやり手記者。自称するまでもなく、周囲からはそう認識されているほど実績は多い。今回の事件には警察に干渉できるような立場の人物が関わっているのではないか、という疑念が大きくなっていることもあって、私に掛かる期待もいつも以上に大きいものとなっていた。
(そうは言ってもこちらに入ってくる情報が少な過ぎるのよ。連中、だいぶ慎重に事を進めているみたいね)
各社の報道に加えてSNSに投稿された真偽不明の噂まで掻き集めたが、表から確認できる情報は普段より遥かに少ない。システムによって規制できるものはほぼ全て、彼らの真相に辿り着くことのない木っ端なものだけを残して消し去られているようだ。事件に関わる存在の悪質さと、全容の掴めない巨大さを身に沁みる。
だが、幾ら機械の口に戸を立てられても、人間相手にはそうはいかない。合宿に向かっていたというテニスサークルの面々の辿るであろうルートを推定した私は、沿線の住民に聞き込みをかけることにした。
そうしたら出るわ出るわ、マイクロバスを見かけた人々の証言があっという間に集まってきた。おかげで、合宿地のホテルがある山林に入るまでの道程を確かに進んでいたことが確認できたのだ。
私は、調査範囲をホテルのある山一帯に絞ることにした。明日からは登山客を装い歩いて周辺を探索する。さすがに人気はほとんどないので口伝の情報は期待できないが、山道を見て回れば何らかの痕跡は残っているかもしれない。
「何とかして、記事になるようなネタに辿り着けると良いのだけど」
ひとり呟きながらメモ帳に推測を書き込む。
『テニスサークルのメンバーを乗せたバスは山道内で何者かに停止を促された。警戒なく車を停めた彼らを何者かは襲撃ないし恐喝し、行き先を変更。山の外で別の時間帯にバスを見かけた情報はないので、山中か道路が繋がる先のさらに山奥へ連れ去られたとみるべき』
襲撃者についてはかなり確度の低い情報だが、ホテル従業員が到着を確認していないと供述したことを真実と取るならこの線が最も濃い。念のためホテルにも立ち寄っておこうと考え、私は紙の地図に目印と行程を書き足した。
******
翌日。私は予定していた通りに彼らの消えた山まで自家用車を走らせると、麓の有料パーキングに停めた。電子清算方式の出入り口が付いた空間は、乗り降りと滞在の時間が記録として残る。もし万が一私が行方を眩ましたとしても、後を追って調べる誰かの助けにはなってくれるだろう。
取材道具を身に着けカモフラージュに用意したリュックを背負った私は、斜面を削って設けられた坂路へと歩みを進めた。
(それにしてもこの辺り、車は殆ど走ってないわね)
一応行き止まりではなく、山向こうに続く地方都市との接続路ではある筈だった。トンネルを貫いてより短い時間で行き来できるバイパスの方が利便性は良いとはいえ、前からも後ろからも滅多に車が来ないというのはなかなか心細いものがある。
片側1車線ずつ、対面2車線の県道。歩いて山に入る人々のため歩道が設けられてはいるものの、あまり手入れは行き届いていないのかガードレールを越えて木々の枝が張り出している。時折行く手を阻むように茂るそれらを手で押しのけながら、私は坂を一歩一歩上っていった。
山の中腹に差し掛かり、若干傾斜が緩まる。ホテルへと折れる丁字路の近くに寂れたバス停を見つけた私は、一息つくために背負っていたリュックをベンチの傍に降ろした。
「ふう……」
汗に濡れた額を持ってきたタオルで拭う。
そこまで気温が高くないのは幸いだったが、それでも荷物を背負っての運動だ。湿って気持ちの悪いインナーを僅かにめくり、手を差し入れて中を拭き取る。じっとりと熱を持った体に吹き込んだ空気が当たり、少しこそばゆさを感じた。
(ここまで車道も含めて確認してきたけれど、手掛かりになるようなものは何も残っていないわね。まあ、あからさまな証拠はとうに消されているだろうけど……)
ここまでの道程を振り返り、メモ帳に記録を残す。特に異常もなく走っていたのなら、彼らはそのままホテルへ続く道を上がっていったはずだ。そうなると、調べる範囲もホテル周辺の方が何か見つけられる可能性が高くなる。
何の収穫もなしに山ひとつ越えるのはさすがに骨折り損というものだし、何とかして手がかりの1つでも掴みたい。ならばここからは道を折れて山頂方面へ向かうべきだろう。
「よし、休憩終わり!」
ベンチから立ち上がり荷物を背負い直す。私は交差点を渡り、広めの1車線が続く道へと歩みを進めた。
――――信号機に据え付けられた監視カメラが、プラスチックのカバーの中で僅かに動いたことが一瞬だけ気にかかる。どうして交通量もほとんどない場所に、こんな立派な装置が取り付けられているのだろうか。
その場で結論は出なかったものの、なぜかその違和感だけが頭に残り続ける。不安な気持ちを無理矢理に押し込めつつ、私はホテルへ向かって歩き出した。
[newpage]
舗装された山道に残る何本かのタイヤ痕。重力によって食いついたゴムの痕跡が黒いアスファルトの上にくっきりと見える。これは上から徐行で降りてくる時についたものだろう。道中に事故を起こして滑落した可能性も一旦考えはしたが、崖沿いのガードレールに傷ついたような痕は見当たらず、衝突や接触で落ちた自動車の部品なども一切落ちていない。この線はかなり薄いだろう。
その他に目立ったものもない中を歩いて上がっていく私の視界には、木々の緑と道端に点々と咲く花の色ばかりが映る。道路設備以外に人工物らしきものの面影は見当たらなかった。
「ここまで来て空振りなんてことは考えたくないけれど。……はあ」
慣れない登山の疲れか、それとも成果の期待できない状況への諦観か。いずれにしても思わしくないようなため息が私の口から吐き出される。
ただ、1つだけはっきりと分かったことがあった。この辺りに異常な痕跡がないということは、テニスサークルの面々を乗せたバスが災難に見舞われることもなくホテルまで向かった可能性が高いということだ。敷地内に何らかの痕跡が残っているとすれば、彼らが行方不明になった原因を突き止める手掛かりにもなり得る。
(従業員が失踪に絡んでいる可能性もなくはないし、油断はできない。でも調べられるものは徹底的に見ておいた方が良いわね)
そんなことを考えながら上がっていくと、行く手に立派な石造りの門が現れた。
コテージのようなものを想像していたのだが、意外にも規模の大きな宿泊施設だ。7階建てのコンクリート製の建物には、外を望むように大きなバルコニーがいくつも張り出している。複数の宿泊客が椅子にくつろぎ座っている姿を遠巻きに見つめながら、私は正面に見えるロビーに向かって歩みを進めた。
******
ガラス戸が何枚も並ぶ正面玄関を抜け、巨大なシャンデリアと大理石の柱で彩られたエントランスホールを眺める。ワインレッドの絨毯が敷き詰められた足元は隅々まで手入れが届いていて、その毛並みも綺麗に整っていた。
いかにも高級な衣服を纏い行き交う人々からすると、単なる登山客が迷い込んだとしか思えない私の姿は実に場違いだろう。その状況に少し恥ずかしさを覚えながらも、取材の許可を求めるためにフロントへと足を進める。
「ようこそお出で下さいました。御用件をお伺いいたします」
「はい、私このようなものでして――――」
礼儀正しく頭を下げた従業員に答え、私は持っていた名刺を彼女に手渡した。その肩書を見るなり、ほんの少しだけその眉が吊り上がる。
「申し訳ございません。当ホテルではアポイントなしの取材はご遠慮いただいております。つきましては日を改めてお申込みいただければと存じます」
至極当然と言うべきか、用件を言うまでもなく断られてしまった。
テニスサークルの事件で警察やマスコミにしつこく訊かれて嫌気が差しているのだろうが、だからと言って簡単に引き下がるわけにはいかない。私は愛想の良い笑顔を向けると、心を荒立てないような穏やかな声音で懇願した。
「ほんの少しだけで良いんです。駐車場だけでも確認させてもらえればそれで十分なので」
「……申し訳ございません。どうぞお引き取り下さい」
やはり応じる気はないのだろう。深々と頭を下げたまま動かない彼女を前にして、私は小さくため息をついた。
仕方なく引き返そうとしたその時、横合いから急に男性の声が響く。振り向くと、そこには黒のスーツを纏った上司らしき人物が立っていた。
「記者の方ですね」
「あ、はい。薮木と申します」
よく見れば思ったよりも若い、長身のハンサムな青年だ。少し惹かれるような思いを抱きつつ、私は改めて名刺を差し出した。
「や、すみませんね。例の一件があってから事前の申請無しでの取材は受け付けていないんですよ」
そう言いながら渡された名刺には、このホテルの支配人という肩書と共に『[[rb:坂巻仁一 > さかまきひろかず]]』という名が刻まれている。彼は応対していた従業員に下がるようジェスチャーをすると、私を案内するように歩き出した。
さすがに無視するわけにもいかず、後を追ってホテルの館内を進む。壁沿いに絵画や彫刻が並ぶ広い廊下。その調度品の出来からしても、ここがかなり格式の高い施設であることは間違いない。
(例のテニスサークル、こんな場所に泊まるような金持ち連中だったなんてね)
個人情報絡みということできつく[[rb:緘口令 > かんこうれい]]が敷かれていたが、それなりに良いところの出なら確かに下手な詮索をさせたくないというのもわかる。そうなると、金銭目的の誘拐や拉致という可能性もなくはない。
ひとり色々な考えを巡らせながら階段を上がった先で、小さなラウンジのような場所に通される。どうやら一般の宿泊客が立ち入れないエリアらしく、従業員の休憩のために置かれたのか木製の椅子とテーブルがガラス張りの窓辺に沿って幾つか並べられている。坂巻さんは部屋の隅に置かれた業務用のコーヒーマシンから、熱々の液体を注ぎ入れたカップを2つ取り出すと、壁際のテーブルにそれらを静かに置いた。
「どうぞ。熱いので気を付けて飲んでください」
「ありがとうございます」
お礼を言って受け取る。コーヒーの芳しい香りを鼻に吸い込み、気分が少しだけ落ち着いた。
「あの、取材は受けて下さらないんじゃ?」
「ええ。そこを曲げるつもりはありません。ただ私個人の興味として、どうしてこのホテルを訪れられたのかが気になりまして」
私の問いかけに、彼はにっこりと屈託のない笑みを浮かべながら言った。
――――カッコいいな、この人。無意識にそう思ってしまうような魅力が彼から発せられている。短く刈った前髪を跳ね上げきっちりと固めたそのスタイルは、やや細く引き締まった顔立ちと揃って強気な印象が漂っていた。一方で、若干垂れ目気味な目尻が行き過ぎた硬さを解すようにバランスの良いアクセントを与えている。
澄ました表情の猫。一言で表すならそんな雰囲気のある青年だ。
「実は、例のテニスサークル集団失踪事件の件で独自に調べている最中でして。彼らの足取りを今一度洗い直していたところなんです」
「そうですか。ただそうなると……このホテルを調べていただいたところであまり意味はないと思いますよ」
「どういうことですか?」
真っ向から否定され、すぐさま問いただす。行き先の1つとして警察の捜査の手も入っている筈だが、無関係と断じれるほどの立場ではない筈だ。
私の疑問に答えるかのごとく、彼は更なる説明を続けた。
「私共が把握しているのは、あくまでその方々が宿泊の予約をされていたということだけでして。どのスタッフもそれ以上のことは何もわからないのですよ」
「ということは、カウンターにもやって来ていないということですか?」
「ええ。――――これ以上の取材はご遠慮いただきますようお願いしますね」
何とか新たな情報を引き出そうと問いかけてみたものの、逆に牽制されてしまった。
――――さすがに失礼か。そう思い、口を閉ざして頷く。
「ところで。薮木さんはここまで徒歩でいらっしゃったようですが、お車はどこに?」
「あー……。今日はバスで来たんですよ。自家用車だと停める場所に困りそうだったので」
彼が事件に関わっている可能性はおそらくないが、万が一嗅ぎ回っていることが気付かれてはマズいだろう。
偽の返答でとりあえず煙に巻こうとしたその瞬間――――私に向いた眼差しがギラリと光ったように見えた。黒に近い灰色の瞳が一瞬だけ淡い緑色に輝いたような気がしたが錯覚だろうか。
「そう……ですか。最寄りのバス停は一日当たりの本数も少ないので、帰る時は麓で乗る方が便利は良いですよ」
「ありがとうございます。そうさせてもらいますね」
微笑む彼に応じて、私は席を立った。
――――正確には、立とうとして足がもつれ、その場に転がっていた。
私の身体は痺れてぐったりと力が抜けた状態で、ラウンジの床から起き上がることができない。まるで毒でも盛られたかのような症状だ。
「なに……?どうな、て……」
「嘘をついてはいけませんよ。薮木さん」
一転して冷たい表情になった坂巻さんは、目の前で倒れている私を猫のような縦長の瞳孔で見つめ返している。
「自家用車で麓の有料パーキング施設に乗りつけ、登山客を装って道路を上がってきた筈ですよ。アナタの姿を各所に設置したカメラがはっきりと捉えていました」
纏っていたスーツのジャケットを脱ぎ、シャツに指を掛ける。何の躊躇もなく脱いで曝した素肌はみるみるうちに毛皮のようなもので覆われ変化していった。
――――今まで気が付いていなかったが、首にはかなり頑丈そうな首輪が巻かれていた。それはまるで猛獣に括り付け、その行動を監視する時に用いるような、機械式の装置が組み込まれている物体だ。
「あなた、は……?」
一体、目の前にいるのは何なのだろうか。顔面までも灰と白の毛皮に包まれ、マズルが獣のようにせり出した青年は、頭頂に生えた大きな猫の耳をぴくぴくと動かしながら私に答える。
「ここの支配人ですよ。もっとも、私は雇われというか――――表向きの役割を与えられているだけの存在ですが」
部屋に不思議な香りが満ちる。甘くて安心感を覚えるような、それでいて体の芯が熱を帯びるような匂いに思考が鈍り始めた。
――――まずい、早くこの場所から逃げなくては。しかしどうやって。
「アナタは知り過ぎました。この後の沙汰はあのお方にお任せしますが、どうせなら運命を受け入れてしまう方が幸せですよ?」
「なにを、いって」
朦朧としながら尋ねる私に、彼は自嘲するような表情をしてみせた。
「オレ自身の教訓です。実は同業者なんですよ、アナタと同じフリーの記者って奴でして」
――――ああ、そうか。彼も私のように罠に落ちてしまったんだ。
そう納得すると同時、意識が暗闇の中へと沈んでいった。
[newpage]
「……んん」
瞼が重い。まだ全身の倦怠感が抜けない。曖昧な意識の中、私はゆっくりと両目を開いて周囲を視界に収めた。
壁一面にタイルが貼られた冷ややかな空間。背もたれに押しつけられ座らされた金属製の長い椅子が、肌色を表に晒す肉体の下で照明を受けて光っている。どうやら私は病院の手術室のような場所に拘束されているようだった。
(ここは……一体、どこ?)
両腕が左右の端で固定されているのか、十分に力の入らない腕を振ろうとする度にチャカチャカと金属が音を立てる。椅子から離れようと背中を曲げようとしたが、こちらも金具のようなものに留められて動かないようになっていた。
――――まさか、これから私を拷問に掛けようとでもいうのだろうか。そんな恐ろしい予感に思わず鳥肌が立つ。
「誰か!誰かいないの!?」
不安になって声を張り上げてはみたものの、返ってくるものは何もない。私以外誰もいない部屋で縛り付けられているという事実に、恐怖ばかりが募っていく。心拍数の高まる胸と身体を駆け巡る血液が、私の中に自覚できるほどの脈動を伝えてきていた。
『――――おはようございます、薮木真由さん』
不意に天井からノイズ交じりの声が響き渡った。
少しおどけたような口調のそれは、怯えを見せている私をからかうかのように自己紹介を始める。
『ワタクシは[[rb:園長 > ディレクター]]と申します。アナタが嗅ぎ回っていた事件の主犯――――と言えばそうかもしれませんねぇ』
「な、何よ。私がもう逃げられないからって、そうやって余裕をかましているつもり?」
たまらず言い返すが、彼の方は意にも介さず一方的な言葉を続けていた。
『ワタクシや皆さんのことは絶対の秘密。決して外部に漏らしてはいけないものです。とは言うものの、工程上どうしても情報が表に出てしまう点は致し方ありません』
「工程、ですって……?」
『ええ、工程です。アナタ方を加工し調整を加え、心の求める最良のパフォーマンスを引き出す。それがワタクシ達の目指すところですからね』
その言葉はまるで、人間という素材を好き勝手に改造し弄り倒しているかのような表現だった。気を失う寸前に見たあの青年の変貌もまたその一環だとしたら、何と悍ましい所業に手を染めているのだろうか。
おそらくはテニスサークルの面々も彼の毒牙に掛かってしまった後。彼のような獣じみた怪物に変えられてどこかに閉じ込められているのかもしれない。そう思うと、怒りがふつふつと込み上げてきた。
「何が最良よ。人間を攫って命と魂を弄んでいる変態じゃない」
『おや、心外ですねぇ。そもそもワタクシに人間を加工することへの喜びや達成感というものはありませんが、アナタ方の解釈ではそのようになる場合もあるということでしょうかね』
「まるで自分が人間じゃないみたいに……。最低よ、貴方」
軽蔑の表情で言葉を吐き捨てる。反省を欠片も感じない口ぶりからして、私や社会が到底許せるような存在ではないことは明らかだった。
「それで?私も坂巻さんのように化け物へ作り変える気なんでしょう?」
挑発的に問いかけると、相手は一瞬間を置いてから答えた。
『それなのですがね。アナタをこのまま行方知れずにしてしまうと、更にワタクシ達を探ろうとする動きが強まることが想定されているのです』
「当然でしょうね。売れっ子記者の蒸発となればマスコミも黙っていないわ。SNSだって陰謀論込みで騒ぎが大きくなる筈よ」
『ええ。その場合、ワタクシ達の手では抑止が利かなくなってしまいます。ですので――――』
ガタン、といきなり身体に大きな振動が伝わった。椅子の真下、台座に当たる部分が何やら動き出したようだ。
ゆっくりとした動きで椅子が回り始め、ガラスの壁で仕切られた空間が私の正面に向けられる。照明が落ちて真っ暗なその場所には、大きな袋状の何かが天井から吊り下がっているようだった。
『アナタを『複製』させていただくことになりました』
一斉に照明が灯り、向かい合う空間が一気に明るくなった。と同時に、その異様な状況が視界に曝される。
長辺が2m以上はありそうな巨大な樹脂の袋。上下に保持するための金属フレームが接続された柔らかなそれには、濃い琥珀色の液体が満たされていた。上部に何本かのチューブが接続され、下端にも同じ数だけの配管が施されている。
本来液体ではない何かを収めるための器であるとわかるものの、その正体が何かまでは推測できそうにない。戸惑いながら見つめていた私の背中に急な痛みが走った。
「あぁ”っ――――!?」
体を奥深くまで穿つようなその痛覚に悲鳴を上げる。呼吸が乱れ、奥歯が震える中、針を伴って挿し込まれたその物体は私の中の熱をゆっくりと抜き取り始めた。
(何か取られてる……まさか、血液?)
貧血のようなふらふらとする感覚。酸素が行き届かずに体の隅々が苦しいと喘ぐ危機感。全てを抜かれて干し殺される予感は、代わって流し込まれた生温かい何かによって急激に緩和されていった。
『アナタを処置するついでに不要となったものを活用する。一石二鳥と言えるかもしれませんねぇ』
「何よ、それ……」
血圧の大きく下がった状態で上手く口が回らないなりに私は言い返した。失った血を補う形で新しく入り込んだ液体は、体の中に再び酸素を送り始めている。機能を代替し行き渡ると同時、私の中に取り返しのつかない変化を生じているのが何となく感じ取れてしまう。
そして――――ガラス越しの部屋でもまた別の変化が生じ始めていた。
「……!!」
人間でない何かへと変わりつつある実感に怯えながらも、私は目の前の袋が徐々に赤く染まっていく姿から視線を外せなくなる。
チューブを伝って流れ込んだ真っ赤な液体、それはおそらく私から抜き取られたばかりのものだろう。元あった琥珀の色彩と混ざって濁っていく袋の中で次第に対流が起き、小さな渦をいくつも作るようにまた透明度を取り戻していく。赤の染みはゆっくりと形を定めていくと、私の眼前に人を思わせるシルエットを浮かび上がらせていった。
血管。明らかにそうだとしか思えない網目の人型。その隙間を埋めるようにして白色の澱みが現れ、また同様に定型を結び始める。骨格が出来た後は内臓と筋肉が、更にはその表面を覆うように脂肪の黄色がかった組織が生じ、最後に全てを覆い尽くすように肌色の組織が全体に広がっていった。
(私が袋の中にいる……ここにいる私じゃない誰かが……!)
毛髪までも再生された『私』は、液体の中に漂いながら静かに目を閉じている。生気を感じられないその姿があまりにも不気味で思わず目を背けてしまいそうになった。けれど、私が首を曲げるのさえも阻害するように張り巡らされた拘束具がそれを許さない。怯えながら見つめるその先で、彼女は鼓動に揺れ動くように体を痙攣させ始めた。
『無事に臓器が活動を始めたようですね。じきに目を覚ますでしょう』
「あ、あれをどうする気……?」
『外に送り返します。記憶を失ったアナタとしてね』
怖いながらも尋ねると、園長はあっけらかんとした調子で答えた。
『怪しまれないように必要最低限の知識は埋め込んでおきますが、それ以外はまっさらな状態です。取材中に発作を起こして倒れ、一命はとりとめたものの後遺症が残ってしまった――――といった形にしておきましょうか』
「待ってよ……それじゃあ、私は。私の人生は、一体……!」
私でない何かに乗っ取られて全て破壊されるという事実を突きつけられ、ショックで目の前が眩む。
私の築き上げた記者としてのキャリアも、家族や友達を含めた他人との関係も、目の前で命を与えられつつある人形に奪われて消費されるのだ。取材活動中の不幸に倒れた哀れな若者という仮初めのストーリーのためだけに。
噛み締めた唇から血が零れ落ちる。口内に広がるその味は既に錆びた鉄のようなものではなくなっていた。
『アナタ自身を外に帰すわけにはいきませんからね。申し訳ないですが諦めて下さい』
「ふざけないでよ……私を、私の人生を……っ!」
――――私の人生を返せ。
そう言おうとした瞬間、背中から針が引き抜かれる。一瞬息が止まりかけ意識が明滅した私は、拘束具に体を預けるようにして前寄りに上半身をもたれた。
「――――っはひゅ!?……今、のは……?」
背中の方から僅かに液体の漏れ出る感覚を覚えたものの、すぐに収まる。
私の体内を巡り満たされている何かは、体に空いた小さくない穴を一瞬で塞ぎ、傷ついた組織を再生したらしい。既におかしくなってしまった肉体に恐怖を抱きつつ、ゆっくりと背もたれに体を預け直す。金属製のシートにべっとりとついた体液は、密着した背中の下で気色の悪い感覚を伝えてくるかのようだった。
『さてと。アナタの処置も完了したことですし、最後にコントローラーを装着しましょうか。これで貴方は心の望むままの姿に変わることができますよ』
「やめて……。もう、私をおかしくしないで……」
私は心の底から園長に懇願する。人生を奪われて、自分の肉体に何か改造を施された。これよりも更に何か手を加えられるなんて、もう耐えられるとは思えない。
――――これ以上はダメ。私の心が壊れてしまう。
理性が悲鳴を上げる中、私は涙を流して命乞いをした。
『大人しくしていればすぐに終わりますよ。はい――――1、2、3』
カチリ。園長のカウントと同時、首元で何かの嵌まった音が鳴る。椅子の前からせり出してきた鏡が、あの時見たものと同じ首輪を嵌めて号泣する私の姿を視界に映し出した。
「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ――――ああああああああっ!?」
全身を芯から炙るような熱。一瞬走った震えの後を追いかけるように、体表を柔らかな獣の毛が覆っていく。私の目の前で怯える顔が茶トラのシマ模様に彩られていき、鼻先と顎が前へとせり上がる。人間の耳は小さく吸い込まれ、代わりに頭頂から大きく尖った猫の耳が引き出され広がっていった。
「いやああああああああっ――――!?ああ、にゃああああう――――♡」
腰の後ろから体内の何かが変形し、勢い良く伸びていく。それが私の尾だと気付いた瞬間、頭の中にぼうっと熱を帯びたような不思議な感覚が広がった。鈴を鳴らすような鳴き声を上げながら、私の思考を構成していたものがぼろぼろと取り留めもなく崩れていく。
――――あれ、私って何だったっけ。記者って、一体何……?
「ふにゃあ……」
柔らかな声が喉から響く。
ああ。そうか、私は――――ワタシは、一頭のイエネコだった。ずっと形を忘れていただけだったんだ。
思い出したことへの喜びだったのか。それとも全てが失われたことへの絶望だったのか。最後の涙を目尻から零すと同時に、私の意識は闇の中へと沈んでいった。
[newpage]
「――――薮木さん。これから検査をしますから、もう少し起きていて下さいね」
とある大学病院の個室病棟。病室のベッドに座って朦朧としていた女性に、看護師が優しく声をかけた。
彼女が運び込まれてきたのは1ヶ月ほど前のことだ。運転中に発作を起こして意識を失い、そのままガードレールに衝突したところを助け出されたのだと聞いている。
幸いにも外傷はさほど酷くなく、命にかかわるようなものではなかった。しかし重度の記憶障害を発症してしまったために、現在も自分から立って出歩くことはなく、喋ることさえもままならない状態となっている。救助時に見つかった私物から連絡先を見つけ、両親や親友と何度か対面させたりもしたのだが、快復の予兆は全くと言っていいほど見られなかった。
(確かフリーの記者の方だったかしら。かわいそうに……)
看護師はそんなことを思いながらベッド脇に車椅子を寄せた。てこの要領で体を持ち上げて乗せ換えると、女性はゆっくりとした動きで左右の手すりに両手を沿える。
毎日のように散歩や検査で病室から連れ出すうち、いつしか自然とそういう動きを見せるようにはなっていた。これが記憶の戻る兆しであれば良いのだが、こちらが思っているように上手くはいかないのだろう。
「それじゃ動かしますね。掴まってください」
看護師の言葉に反応して指先が閉じられる。
たとえ記憶を取り戻さないとしても、新しい命として生きていってくれさえすれば。そんな切ない思いを抱きながら、彼女は検査室へと女性の体を運んでいくのだった。
******
色とりどりの毛皮が巨大なアスレチックの中を走り回っている。
『楽園』に設けられたイエネコのファーリーノイド達が暮らすエリアには、部屋の半分以上を埋めるようなキャットタワーが設置されている。この巨大な家は、階段や縄ばしご、滑り台といった遊具を使って、4階層もある構造体を自由に昇り降りできるようになっていた。
この最上階層を走り回る中に、茶トラのマユの姿があった。新しい住民として加わってからほんの1ヶ月足らずの間に身体能力を開花させた彼女は、集団内での地位をあっという間に駆け上がった。そして今やトップ集団の一員として認められるまで成長を果たしている。人間を捨て去ることに恐怖していた彼女は、皮肉なことにファーリーノイドとしての適性に最も優れていたのだった。
「あー走った走った。ちょっと休憩するね」
鬼ごっこをして遊んでいた面々に声をかけ、マユは少し離れた場所に寝転んだ。毛皮に籠った熱を逃がしやすいよう冷感素材が用いられたクッションは、実にひんやりとして気持ちが良い。運動で火照っていた身体を冷やし、彼女は心地良さげに尻尾をふにふにと振った。
投与されたナノマシンの効果で、ファーリーノイドの肉体は人間でいう20歳前後に年齢を固定されている。元はアラサー後半に差し掛かっていた彼女からすると、今の肉体は随分と若返ったような感覚があった。
もっとも、その頃の自分自身は霞がかった存在としてしか思い出すことはできない。処置時のショックで幼児退行が起きた彼女にとって、過去の自分は単なるわけのわからないものでしかなくなってしまった。今の人生――――もとい猫生で得られる経験こそ、マユには最も大事な記憶そのものなのだ。
「にゃう……お腹が減ってきたなぁ」
空腹に鳴った胃袋がある辺りを肉球のついた手でさすり、床を見下ろす。遥か眼下の世界では、彼らのためのエサを配給する準備が始まっているところだった。漂ってくる匂いに釣られて近寄ろうとする個体がいるものの、周囲にすぐ引き留められてアスレチックの隅へと追いやられていく。
こんな動きが繰り広げられる理由は2つある。ひとつは社会階級だ。ヒエラルキーの高い集団が最優先でエサを貰い、ヒエラルキーの低い者達への給餌はいつも後の方に回ってくる。そしてもうひとつの理由は――――。
「みんなエサが来たよ!えーい!」
マユは喜びの声を上げながら、最上階から躊躇うことなくジャンプした。続くように他の個体もタワーから飛び出していく。空中で器用に体を捻り、衝撃を殺すように四肢のばねを利かせ着地した彼らは、周囲から勇気を称えられるように拍手される。
上階からの飛び降り。それがこの部屋での通例儀式であり、トップ集団の身体能力を示すデモンストレーションであった。
ファーリーノイドは本能を強く引き出されている分、争いになると血気盛んになる個体も少なくない。しかし、直接殴り合い殺傷に及ぶようなことがあればその個体は危険とみなされ、管理システムによって厳しい処分を受けることになる。
そこで、イエネコ達の『楽園』で定着したのが度胸試しのようなダイブというわけだった。タワーに登り、より高い場所から飛び降りることのできるものが集団として上になる。飛び降りるスリルによって欲求を満たしながら、それを平然とこなせる度胸を示して自身の優位を示す。それが彼らにとっての明確な強さの基準なのである。
「わーい!ご飯一番乗り!」
「お腹減ったー」
「今日のはカリカリして良い匂いがするよ」
怪我無くダイブを決めたマユ達はエサの入った皿を受け取ると、危険の及ばないエリアに移動して腰を下ろした。これから下の階層のネコ達がジャンプして、自分達の立場をアピールすることになる。彼女達は悠々とエサを食べながらそのパフォーマンスを鑑賞するというわけだ。
飛ぶのも娯楽なら見るのも娯楽。あらゆるものを遊び楽しみながらイエネコと化した者達は日々を過ごす。
そして――――。
「遊んだし、ご飯食べたし、後は……♡」
ナノマシンによって作り変えられた肉体からフェロモンが放出される。熱に浮かされたような表情を浮かべながら、雌雄が歩み寄っては愛らしい鳴き声を上げ始めた。
「んなーう♡」
マユは近くに伏せて寝ていたオスへと腰をくねらせながら寄っていく。灰と白の模様に彩られたやや細身の彼は、自身に近づいてくるメスの姿を見るなりニヤリと笑みを浮かべた。
「また抱いてほしいのか、マユちゃん」
「うん。ヒロが一番優しくシてくれるから」
屈託のない表情を向けながら頬を摺り寄せるマユの脇腹を撫で付け、ヒロは彼女の胸回りをぺろりと舌で舐めた。ぞりっという舌先の感触に震えながら、彼女はひときわ甲高く鳴き声を発する。
「あうぅ――――っ♡いきなり舐めないでぇっ♡」
「君は本当にかわいいね。やっぱりネコとして生きる方がよっぽど合っているよ」
人間だった頃――――薮木真由として顔を合わせた頃の彼女を思い出し、彼は嬉しそうに言う。争うこともなく根源的な欲望に耽ることのできる『楽園』を世間に暴き破壊しようとしていたなど、今の彼女からは想像もつかない話だ。
「何言ってるの?生まれた時からネコだよぉ?」
キョトンとした顔で見つめるマユにキスをすると、ヒロは彼女の体を優しく抱き寄せ押し倒した。
「そうだったね。じゃあ、今日もいっぱい気持ち良くなろう」
「うん♡」
万が一にも思い出すことのない過去に安堵しながら、2頭のファーリーノイドは底無しの愛欲へと溺れていくのだった。