【第二章】老犬は娘婿(むすこ)に溺れて不貞へ堕ちる【試し読み】

  [chapter:第二章]

  深夜の自宅は、呼吸を止めたように静かだった。

  鍵を開け、暗い玄関に足を踏み入れた瞬間、膝から力が抜けそうになった。

  靴を脱ぎ、上着を壁のフックに掛ける。たったそれだけの動作で、残っていた気力をすべて使い果たした。洗面所へ向かうことすらできず、私は暗いリビングへ足を引きずり、ネクタイも緩めないままソファにうつ伏せに倒れ込んだ。

  クッションに顔を埋め、両腕を体の横に投げ出す。今の私には、家族の前に立つための「父親」という輪郭すら残っていない。ただ、泥のような暗闇の中に沈み込み、誰にも触れられたくなかった。

  

  どれくらいそうしていただろうか。

  不意に、ソファが軋んだ。

  次の瞬間、背中に人の手が乗った。

  肩甲骨の間。シャツ越しに、指の腹が凝り固まった筋肉の最も硬い部分をぴたりと捉えた。

  「やめろ」

  私は反射的に体を強張らせ、低い声で唸った。

  「何のつもりだ」

  首だけを持ち上げて振り向くと、暗がりの中で怜が立っていた。パジャマ姿の彼は、私の声に怯む様子もなく、きょとんとしたように丸い目を瞬かせた。

  「すいません。仕事柄、つい」

  彼は手を引っ込めず、少しだけ首を傾けた。

  仕事。

  泥のような思考回路が、彼の言葉を反芻する。怜の職業。結婚の挨拶の時に何か聞いていたはずだ。医療関係か、福祉関係の何か。だが、疲弊しきった脳は、具体的な名称を引き出すことを拒否していた。

  私の顔に浮かんだ疑問を読み取ったように、怜が薄く微笑んだ。

  「理学療法士です」

  「……りがく、りょうほう……?」

  私がその単語を呟くのと同時に、怜の指先が、肩甲骨の縁に沿ってゆっくりと動き始めた。

  シャツ越しに、指の腹が筋肉の硬直した部分を的確に捉え、じわりと圧をかける。

  「やめろと言っている。私は——」

  「じっとしていてください」

  普段の柔和な彼からは想像できない、静かだが、有無を言わせない響きだった。私は言葉を詰まらせた。

  「背中越しでも分かります。お義父さんの筋肉は、異常に硬直している。このままでは神経が圧迫されて、頭痛がさらに悪化しますよ」

  その言葉の通り、彼の親指が首の付け根を深く押し込んだ瞬間、脳髄を貫いていた鋭い痛みが、ふっと輪郭をぼやけさせた。

  ただの指圧ではない。

  筋肉の繊維を一本ずつ解きほぐすような、絶妙な角度と力加減。それに加えて、厚い毛皮とシャツ越しであるにも関わらず、彼の手のひらから奇妙なほど甘い熱が浸透してくるのを感じた。まるで、皮膚の下の血管に直接、温かい湯を注ぎ込まれているような感覚。

  振り払わなければならない。他人に、それも娘の夫に、こんな無防備な背中を預けてはならない。

  そう思っているのに、体が動かない。

  彼の指が動くたびに、モニターに映った失踪者の滑稽な姿も、自己嫌悪も、全てが遠くの出来事のように薄れていく。痛みが消えていく過程があまりにも心地よく、恐ろしいほどの速度で私の理性を溶かしていった。

  「……お義父さんは、優しい人ですね」

  背後から、怜が囁いた。

  「だからそんなに、自分を痛めつけてしまう」

  息が止まった。 妻にも見せていない、私の内側の泥沼。それを背中越しに完全に言い当てられた。

  私はソファの端を強く握りしめたが、それを引き剥がす力はもう残っていなかった。静かなリビングで、彼の規則正しい呼吸と、私のシャツが擦れる音だけが響いている。

  私は目を閉じ、抗うことをやめた。

  背中に押し当てられたその熱に、ただ深く、底なしの安堵ごと身を沈めていった。

  翌朝。

  深い水底から浮上するように、ゆっくりと意識が戻った。

  重い瞼を持ち上げると、見慣れたリビングの天井が目に飛び込んできた。

  私はソファの上で、うつ伏せのまま首だけを横に向けて眠っていたらしい。窓のブラインドの隙間から差し込む朝の光が、床に白い縞模様を作っている。いつもなら網膜を刺すように感じるその光が、今朝は不思議と穏やかに見えた。

  体を起こそうとして、肩から柔らかいものが滑り落ちた。

  薄手の毛布。無意識に首筋へ手をやる。

  驚いた。あの鉛のように張り付いていた凝りが、消え去っている。それどころか、こめかみの奥で常に鳴っていた鈍い拍動すら、今は完全に沈黙していた。

  深く息を吸い込む。胸の奥まで、冷たい朝の空気が引っ掛かりなく通る。

  「あら、起きたの」

  キッチンの方から、フライパンで何かを焼く音と一緒に、舞彩子の声がした。

  エプロン姿の彼女が、コーヒーの入ったマグカップをダイニングテーブルに置く。

  「……ああ。すまない、ソファで、寝てしまったらしい」

  私はソファから立ち上がり、毛布を畳みながら言った。

  「毛布、ありがとう」

  舞彩子は不思議そうに首を傾げた。

  「毛布? 私じゃないわよ。私が起きた時には、もうあなたはそれにくるまってイビキかいてたわ」

  「……お前じゃない?」

  「ええ。もう、私じゃソファで体勢直してあげることもできないわよ」

  舞彩子が笑いながら、コンロの方へ戻っていく。

  私は畳みかけた毛布を持ったまま、立ち尽くした。

  舞彩子でないなら、誰が。

  その時、ふっと鼻腔の奥に、甘い石鹸の匂いが蘇った。

  深夜の暗いリビング。肩甲骨に沈み込んできた、温かくて重い指先。理学療法士だと言った、あの静かな声。

  

  そうか。

  私はあのまま、彼の施術を受けながら、眠ってしまったのだ。

  手の中の毛布を見る。

  私がうつ伏せで寝ていても息苦しくないよう、そして首元が冷えないよう、背中から肩口にかけて絶妙な位置に掛けられていた。

  私は、手の中の毛布の感触と、自分の首筋の軽さを交互に確かめた。

  あの柔和で丸みを帯びたシルエットと、理学療法士という肩書きが、私の中で初めて明確な輪郭を持った気がした。

  「……後で、礼を言わないとな」

  私は誰にともなく呟き、毛布をソファの端に置いた。

  洗面所に向かう足取りは、昨日とは比べ物にならないほど軽い。

  鏡の前に立つ。

  そこには相変わらず、厚い脂肪に覆われた中年の犬獣人がいる。

  いつもならすぐに目を逸らし、タオルで顔を覆うところだ。だが、今朝は少し違った。

  私は蛇口をひねる前に、鏡の中の自分と、まっすぐに視線を合わせた。

  目の下に濃くへばりついていた黒い隈が、今朝はいくらか薄くなっているように見えた。

  ◇

  自動改札機を抜けた時、腕時計の針はまだ午後六時を回ったばかりだった。

  司令室を出る際、オペレーターたちが微かに目を見開いていたのを思い出す。私がこの時間に支部を出ることなど、着任して以来一度もなかったからだ。

  だが、今日は違った。

  次々と上がってくる報告書に目を通し、判断を下し、各部署へ指示を飛ばす。その一連の作業に、いつもまとわりついていた泥のような逡巡が一切なかった。視界が開け、思考が淀みなく流れていく。

  スーツのポケットに手を入れる。

  指先が、プラスチックの小さな薬瓶に触れた。

  私は歩きながら、その事実を反芻した。今日は一度も、あの蓋を開けていない。朝からずっと、私のこめかみは痛みを忘れたように静まり返っている。

  駅の階段を上り、外に出る。

  オレンジ色に染まった西空が、網膜を鮮やかに叩いた。

  行き交う人々の影が長く伸び、駅前のロータリーは帰宅を急ぐ者たちの足音と車のエンジン音で満ちている。

  いつもなら、この喧騒は疲労した神経を削るだけのノイズだった。だが、今の私には、夕暮れの空気に溶け込むコロッケを揚げる油の匂いや、誰かが笑う声すらも、どこか心地よい生活の温度として感じられた。

  まっすぐ帰るには、惜しい気がする。

  私は駅前のロータリーを横切り、商店街のアーケードへ向かった。少し先にある洋菓子店で、ケーキでも買っていこうか。舞彩子と明花里、それから、彼にも。

  ショーケースに並ぶ色鮮やかな果実を想像し、歩幅が自然と広がる。

  アーケードの入り口付近、スーパーの袋を両手に提げた見慣れたシルエットが目に入った。

  白いニットを着た、丸みを帯びた背中。

  羊獣人の柔らかな巻き毛が、夕日を浴びて淡く光っている。怜だった。

  私は一瞬だけ立ち止まった。家の中以外で彼に声をかけるのは初めてだ。ほんのわずかな躊躇いの後、私は彼に追いつき、背後から声をかけた。

  「……怜くん」

  彼は少し驚いたように振り返り、私を見て目を丸くした。

  「お義父さん。お帰りなさい。今日は、随分とお早いんですね」

  「ああ。……少し、早く、片付いてな」

  私は彼と並んで歩き出した。

  スーパーの袋からは、長ネギの青い部分が顔を出している。明花里に頼まれた夕食の買い出しだろう。

  「昨夜は、世話になった」

  私は前を向いたまま言った。

  「驚くほど体が動いた。君の仕事の腕は、確かなものだな」

  隣で、怜が少しだけ歩みを遅くした気配がした。視線を向けると、彼は照れくさそうに口元をほころばせていた。

  「お役に立てて、嬉しいです。でも、お義父さんの筋肉は本当に限界でしたから。これからは、あまり無理をなさらないでくださいね」

  私は彼の手元を見た。両手に提げたビニール袋の持ち手が、重さで指に深く食い込んでいる。本人は何も言わないが、それなりの重量があるはずだ。

  私は無言で手を伸ばし、彼の右手から一番重そうな袋を奪い取った。

  「あ、いえ、自分で持てますから」

  「貸せ。私の方が腕力はある」

  有無を言わせず袋を持ち上げると、大根や根菜類のずっしりとした重みが腕に伝わった。私にとっては、どうということもない重さだ。

  怜は空いた右手を少し持て余すように動かした後、柔らかく微笑んだ。

  「……頼もしいです、お義父さん」

  私たちは、夕暮れの商店街を並んで歩いた。

  周囲の喧騒の中で、私たちの間だけ、少しだけ時間の流れが緩やかになっているような気がした。

  「……昔と、変わりませんね」

  不意に、怜がぽつりと呟いた。

  独り言のような、微かな声。私は隣を見下ろした。

  「昔? どういう意味だ?」

  「あ」

  怜は自分の口を塞ぐように手を当て、それから困ったように笑った。

  「すいません。実は僕、昔……ロイヤルハウンドの、大ファンだったんです」

  足が止まりかけた。

  娘の夫が、かつての自分のファン。

  そんな偶然があるのだろうか。私は彼をじっと見つめた。彼は私の視線の意味を察したのか、慌てて首を振った。

  「あ、いえ! 明花里ちゃんのお義父さんがロイヤルハウンドだなんて、結婚の挨拶に伺うまで、本当に全く知らなかったんですよ。本当に、ただの偶然で……」

  少し早口になって弁明するその姿に、邪気は微塵も感じられなかった。

  「子供の頃、テレビでいつも見ていました。あの、敵陣に誰よりも早く突っ込んでいく背中が、本当にかっこよくて……」

  

  彼の口から次々と飛び出す現役時代の私の活躍に、私はどこを見ていいか分からなくなった。

  背中の毛皮の下で、急激に熱が広がるのを感じる。速水が向けてくるような苛立ちとは違う、真っ直ぐな視線。

  「……もう、随分昔の話だ」

  私は咳払いをして、視線を前方のアーケードの出口へ向けた。

  「今はただの、腹の出た親父だ。あの頃の面影なんてないだろう」

  私の自嘲気味な言葉に、怜は何も返さなかった。

  アーケードを抜け、住宅街の静かな道に入る。スーパーのビニール袋が擦れるカサカサという音だけが、二人の間に落ちた。

  私は少しだけ歩調を緩め、隣を歩く丸いシルエットに向かって、冗談めかして言った。

  「その……なんだ……。今は、ファンじゃないのか」

  我ながら、妙に子供じみた問いだった。

  怜は一瞬だけ目を瞬かせ、それから、肩を震わせて小さく笑った。

  「さぁ……どうでしょうね」

  はぐらかすようなその声の響きに、不思議と嫌な感じはしなかった。

  私は持っていたスーパーの袋を軽く振って、彼の肩を軽く小突いた。

  「なんだ、それは」

  夕日が、私たちの足元に二つの影を並べて落としている。 角を曲がれば、もう家はすぐそこだった。

  ◇

  二階の寝室から漏れる明かりが消えてから、どれくらい経っただろうか。

  私は寝付けず、一階のリビングのソファに座ったまま、テレビの画面をぼんやりと見つめていた。

  ニュースキャスターの声が、低い波音のように部屋を満たしている。画面の中の事件報道が、どれほど深刻でも、私の意識には届かない。

  テーブルの上に置いた冷えた缶ビールに、視線を落とす。

  舞彩子がたまに楽しむために買う海外製のもの。明日が非番だから飲んでもいいはずだ。だが、アルコールが血管を拡張させ、頭痛を呼び起こすかもしれないという知識が、手を止める。

  缶の表面に付いた水滴が、テーブルに落ちて小さな水溜まりを作っていく。

  プルタブに指をかけ、引くのをやめた。かけた。やめた。

  そんな逡巡を繰り返していると、廊下の方から微かな足音がした。

  「……珍しいですね」

  リビングの入り口から声がして、私は指を止めた。

  振り返ると、怜が立っていた。薄手のパジャマ姿で、二階から階段を降りてきたらしい。

  「起こしたか」

  「いえ。少し、喉が渇いて一階のウォーターサーバーを借りに」

  怜は静かな足取りでリビングに入ってくると、私の手元にある銀色の缶を見た。

  「お酒、飲まれるんですね。夕食の時はいつもお茶でしたから、てっきり苦手なのかと」

  「苦手じゃない。ただ、頭痛の種になるから控えていただけだ」

  私は缶をテーブルに置き、小さく息を吐いた。

  「明日は休みだし、今日は……どういうわけか、頭が静かだからな」

  怜は「そうですか」と短く応え、キッチンへ向かってウォーターサーバーからグラスに水を注いだ。

  彼の丸い背中を見ながら、私はふと、口を開いていた。

  「……君も、飲むか」

  言った後で、少し後悔した。

  夕暮れの帰り道で少し距離が縮まったとはいえ、深夜に義理の息子を酒に誘うなど、自分でも柄にない行動だ。

  だが、怜はグラスを置くと、少し驚いたように私を見て、それから柔らかく笑った。

  「いいんですか? では、お言葉に甘えて」

  私は立ち上がり、キッチンの冷蔵庫からもう一本ビールを取り出し、テーブル越しに彼に渡した。

  プシュ、という音が静かなリビングに響く。

  怜は缶に口をつけ、喉仏を小さく上下させた。

  「君も、あまり飲まないのか」

  「ええ。好きなんですけどね」

  怜は缶の表面についた水滴を指先でなぞりながら、少しだけ声を潜めた。

  「明花里が、僕がお酒を飲むと心配するんです。僕、飲むとすぐに赤くなって、そのまま寝てしまうので。……だから、二階ではほとんど飲みません」

  私は彼を見つめた。

  妻に心配をかけたくないから、好きなものを我慢している。

  その図式が、今の自分と全く同じであることに気づき、喉の奥で小さく笑いが漏れた。

  「奇遇だな。私も、一人で飲んでいるのが舞彩子にバレたら小言を言われる。あいつは、私の頭痛には人一倍過敏だからな」

  「じゃあ、お互いに」

  「ああ」

  私は自分の缶を持ち上げた。

  「今夜だけの、秘密だ」

  「はい。秘密です」

  怜の缶と、私の缶が軽く触れ合う。

  アルミ同士が立てる小さな音が、二人だけの合図のように響いた。

  ダイニングの弱い照明の下で、私たちは向かい合って酒を飲んだ。

  大した話はしなかった。テレビのニュースのこと、明日の天気のこと。ただ、時折交わす言葉の隙間に落ちる沈黙が、以前のように重苦しいものではなくなっている。

  彼の言う通り、半分ほど飲んだところで、怜の頬はほんのりと赤く染まり始めていた。

  その少しだけ緩んだ表情は、「娘の夫」という枠組みからわずかにはみ出した、彼自身の素顔のように見えた。

  缶の中身が空になる頃には、私の体にもアルコールが回り、心地よい気怠さが四肢を包んでいた。

  心配していた頭痛の兆しは、全くない。

  それどころか、腹の底に溜まっていた泥のような疲労感すら、アルコールと目の前の男が発する穏やかな温度に溶かされ、消え去ろうとしていた。

  ◇

  あの夜から数ヶ月。月に何度かある非番の前夜、家族が寝静まったあとのリビングで、怜と向かい合って酒を飲むことは、いつの間にか私たちの暗黙の習慣になっていた。

  私が冷蔵庫から二本目のビールを取り出す頃には、大抵、彼が二階から静かに降りてくる。

  テーブルには、夕飯の残りのつまみや、怜が買ってきた乾き物が無造作に置かれている。テレビの音量は極限まで絞られ、画面の明滅だけが暗い部屋を頼りなく照らしていた。

  「……お義父さんとこうして話していると、本当に時間を忘れますね」

  テレビのバラエティ番組を見ながら他愛のない雑談を交わしていた怜が、ふと、手元のグラスを見つめたまま息をついた。

  ほんのりと赤らんだ頬から、いつもの笑みが消えている。グラスの縁をなぞる指先の動きが、ゆっくりと止まった。

  「仕事で何かあったか」

  「……ええ。少し」

  怜は言葉を探すように宙を見つめ、やがて視線をグラスに戻した。

  「担当している患者さんがいるんです。脳梗塞の後遺症で、右半身に麻痺が残ってしまって……最初は、すごくリハビリにも前向きだったんですが」

  怜はそこで言葉を切り、麦茶を一口飲んだ。喉仏がゆっくりと上下する。

  「最近、完全にモチベーションを落としてしまって。停滞期に入ったんです」

  「回復が、遅れているのか……?」

  「そうですね」

  怜はグラスの表面についた水滴を親指で拭った。

  「いくら僕が励ましても、『どうせ元には戻らないんだから意味がない』と、心を閉ざしてしまって。僕の力不足です」

  彼は顔を上げ、リビングの暗い窓へと視線を向けた。

  「どう言葉をかければ、あの人がまた前を向けるのか……ずっと考えているんですが、答えが出なくて」

  怜は短く息を吐き、もう一度麦茶をあおった。

  それから、ハッとしたように私を見て、小さく頭を下げた。

  「すいません、せっかくの休みの前夜に、こんな愚痴をこぼしてしまって」

  「構わない」

  「情けないですよね」

  怜は口元だけで笑いを作り、ゆったりとしたパジャマの上から、自分のお腹をぽんぽんと撫でた。

  「こんな姿、明花里ちゃんには絶対に見せられなくて……。彼女の前では、頼りがいのある、かっこいい夫でいたいんです。こんなお腹ですけどね」

  自嘲するようなその仕草を見て、私の胸の奥で、微かな熱がじんわりと広がった。

  妻には見せない情けない部分を、義理の父親である私に見せている。不格好なお腹を撫でるその手つきから、彼が抱え込んでいる重さと、明花里への不器用な見栄が透けて見えた。

  「……情けなくなどない」

  気がつけば、私は口を開いていた。

  頭の中で形作られた言葉が、何の抵抗もなく、声となって喉から滑り出していく。

  「お前がそこまで思い悩むのは、その患者の人生を本気で背負おうとしているからだ」

  怜の目が、かすかに見開かれた。

  「適当な仕事をしている奴は、他人の絶望にそこまで寄り添えはしない」

  言い終えてから、私は自分の口から出た言葉の響きに、内心で息を呑んだ。

  司令室では、あんなにも言葉に詰まるというのに。

  最前線から帰還した速水たちに対し、「無事でよかった」というたった一言すら喉の奥でつかえ、結局「次も油断するな」と突き放すような命令しか吐き出せないというのに。

  「……不思議なものだな」

  私は、テーブルの上の缶ビールをじっと見つめた。

  冷たいアルミの表面が、部屋の明かりをぼんやりと反射している。

  「どうしたんですか?」

  「いや……」

  私はゆっくりと顔を上げ、怜の瞳を見返した。

  「お前には、こうして思ったことが口に出せるのにな」

  私は缶を持ち上げ、一口飲んだ。温くなりかけたアルコールが、喉を苦く焼いていく。

  「職場では、どうしてもうまく言葉が出ないんだ」

  「そう、なんですか?」

  「ああ」

  私はテーブルの木目を指先でなぞった。

  「部下の身を案じているはずなのに、いざ口を開けば、出てくるのは冷たい指示や厳しい叱責ばかりだ。もっと気の利いた、労いの言葉をかけてやりたいと頭では思っているのに……」

  指先を止め、私は深く息を吸い込んだ。

  「恐怖心を煽り、追い詰めるようなことしか言えない。なぜなんだろうな。自分でも、持て余している」

  私は鼻を鳴らし、再び缶に口をつけた。

  沈黙が降りた。彼にこんな話をしたところで、困惑させるだけだろう。そう思った時だった。

  「……お義父さん」

  怜の静かな声がした。

  顔を上げると、彼は真っ直ぐに私を見ていた。同情も、過剰な慰めも、そこにはない。

  「言葉が足りなくても、伝わっていると思いますよ」

  「伝わるものか。私はただの、冷血な司令官だ」

  「いいえ」

  怜は首を横に振った。

  「僕がこうして、お義父さんの言葉を受け取れたように。背中を見ていれば、皆わかってくれるはずです。お義父さんがどれだけ自分たちのことを考えて、厳しく接してくれているのかを」

  怜の瞳の奥に揺れる光を、私は黙って見つめ返した。

  何の根拠もない気休めかもしれない。だが、その声の響きは、長年私の胸の奥で固まっていた澱のようなものを、静かにほぐしていくようだった。

  「……そう、だといいがな」

  私は小さく息を吐いた。

  窓の外から、遠くを走る深夜の貨物列車の音が微かに聞こえる。

  怜が、テーブルの上のグラスを手にとった。

  「明日からまた、頑張れそうです」

  「ああ」

  私も缶を持ち上げた。

  「私もだ」

  ガラスとアルミが、カチン、と小さく澄んだ音を立てる。

  オレンジ色の淡い照明の下、二人の間に流れる静寂は、以前のような重苦しいものではなくなっていた。

  ◇

  休日の午後。寝室に差し込む陽光の中で、細かな埃が静かに舞っていた。

  私は床に胡座をかき、引っ越しの時から部屋の隅に積み上げられていた段ボール箱と向き合っている。粘着力の弱まったガムテープを引き剥がすと、古い紙の乾いた匂いが鼻を突いた。

  中に入っていたのは、過去の遺物だ。

  厚手のファイルにまとめられたロイヤルハウンドの作戦記録、縁の擦り切れた掲載雑誌、そして当時、ヒーロー支部が広報用に作らせたという子ども向けのプラスチック製フィギュア。私は太い指で、その小さな塊をつまみ上げた。塗装の剥げた白と金のヒーロースーツが、窓からの光を鈍く反射している。

  「お父さん、まだ片付けてたの」

  開け放たれたドアの向こうから、声がした。

  振り返ると、外出着を羽織った明花里が立っている。手には車のキーが握られていた。彼女は私の手元のフィギュアと、床に散乱した資料の束へ視線を落とす。

  「うわ、懐かしい。これ、ロイヤルハウンドのグッズじゃない。捨ててなかったんだ」

  「捨てるわけにいかないだろう。ヒーロー支部の公式な記録資料も混ざっている」

  「ふーん。まあ、お父さん物持ちいいもんね」

  明花里はしゃがみ込み、無造作に置かれた昔の雑誌の表紙を指先で弾いた。そこには、真新しい白と金のスーツに身を包み、背中のマントを翻すかつての私の姿が印刷されている。

  「お父さん、昔はこんなにシュッとしてて格好良かったのにね。今はすっかり丸くなっちゃって」

  彼女は私の恰幅の良い腹へ視線を向け、くすくすと笑った。明花里の屈託のない笑顔を見ると、どうにも調子が狂う。私は短く鼻を鳴らし、手元のフィギュアを箱の中へ放り込んだ。カラカラと軽いプラスチックの音が鳴る。

  「うるさい。いいから、早く行ってこい。舞彩子を待たせているんだろう」

  「あ、そうだった。じゃあ、ママと買い物行ってくるね。夕方には戻るから、お留守番よろしく」

  明花里は立ち上がり、ひらひらと手を振って廊下へ出て行った。

  玄関ドアが重い音を立てて閉まり、床の板材をかすかに振動させる。やがて、敷地から車が離れていく低く乾いたエンジン音が聞こえ、それも少しずつ遠ざかっていった。

  途端に、家の中からすべての生活音が消え去った。

  私は再び床に向き直り、無言で荷物の仕分けを再開する。雑誌のページをめくると、紙の擦れる微かな音が静寂の底に吸い込まれていく。

  過去の栄光。あるいは、もう取り戻せない時間の残骸。

  不意に、右の脇腹の奥が熱を持ったように疼いた。

  私は書類を置き、着ているシャツの上から、豊かな毛並みの下に隠された古傷のあたりをそっと撫でた。もう痛みはないはずなのに、あの日の記憶が、指先を通して鈍い重圧となって蘇ってくる。

  私は深く、長く息を吐き出し、目を閉じた。

  「……お義父さん」

  控えめな声に引き戻され、私は弾かれたように目を開けた。

  いつの間に二階から降りてきたのか、入り口のドア枠に怜が立っていた。休日の緩い部屋着姿の彼は、足元の段ボールや散乱した資料を見て、少し目を丸くしている。

  「手伝いましょうか。……ずいぶんと、大掛かりな片付けですね」

  「いや、いい。ただの古い書類の整理だ」

  「古い書類、ですか」

  怜は遠慮がちに部屋へ足を踏み入れると、私の足元に落ちていた雑誌に目を留めた。

  彼の動きが、ピタリと止まる。

  「これ……」

  怜は吸い寄せられるように膝をつき、雑誌の表紙を食い入るように見つめた。

  そこからは、普段の温厚で控えめな怜の気配は消え失せていた。彼の瞳の奥に、何か熱に浮かされたような、異様な光が宿るのを私は見た。

  「お義父さん、これ、ロイヤルハウンドの初期装備の時の写真ですよね。ヒーロースーツの装飾が第二期と違うし、ベルトのバックルの形状も……。ああ、こっちのファイルは第三次防衛戦の時の記録ですか? すごい、こんな鮮明な資料が残っているなんて……!」

  声のトーンが明らかに一段上がり、早口でまくしたてる怜の言葉に、私はただ呆気に取られた。

  手元の資料を次々とめくる彼の手つきは、まるで宝の山を見つけた少年のようだ。ヒーロー支部の人間ですら気にも留めないような装甲の細かな違いや、マントの裏地の素材の変遷まで、怜の口からは次々とマニアックな知識が溢れ出してくる。

  「……お前、そんなに詳しかったのか」

  「えっ」

  私の言葉に、怜はハッとして顔を上げた。

  自分がどれほど熱弁を振るっていたかに気づいたのだろう。彼の顔が、耳の先までみるみるうちに赤く染まっていく。

  「あ、す、すいません! つい、興奮してしまって……僕、その、本当に……」

  しどろもどろになりながら弁解する怜の姿が、どうにもおかしくて、私は腹の底から笑い声を上げていた。

  休日の昼下がりに、義理の父親の過去の装備について熱く語る青年。先ほどの明花里のあっさりとした反応との落差が、たまらなく滑稽で、そしてどこかくすぐったかった。

  私がひとしきり笑い声を上げた後、寝室には再び静寂が降りた。

  怜は床に散らばった資料を丁寧にまとめながら、ふと、一枚の写真を手に取って動きを止めた。

  それは、引退の引き金となった最後の防衛戦の記録写真だ。装甲の右半分が砕け、片膝をついた私の姿が粗い画質で収められている。

  怜の指先が、写真の縁をなぞるようにゆっくりと動いた。さっきまでの熱を帯びた早口は消え、部屋の空気が微かに冷えたように感じられた。

  「……お義父さんは」

  怜が顔を上げる。彼の瞳から、先ほどの少年の無邪気さは抜け落ちていた。

  「もう、ロイヤルハウンドに変身することは、ないんですね」

  ぽつりとこぼれ落ちたその声は、ひどく掠れて聞こえた。

  私は、彼の視線を真っ直ぐに受け止めることができず、無言で床の木目へ目を落とした。

  先ほどと同じように、豊かな毛並みの下に隠された右の脇腹が、鈍く重い痛みを主張し始める。シャツ越しに無意識にそこを撫でると、指先から伝わる微かな体温が、かえって古傷の冷たさを際立たせた。

  「ああ」

  短く答えた声は、自分でも驚くほど低く、乾いていた。

  限界だったのだ。あの時、あの任務で、私の肉体も、ヒーローとしての矜持も。

  沈黙が降りた。窓の外で、風に揺れる庭の枝葉がカサカサと乾いた音を立てている。

  「あの……」

  不意に、怜が身じろぎをした。

  顔を上げると、彼は膝の上で両手を強く握り合わせ、ぎこちなく視線を泳がせている。首の付け根まで赤く染め、何かをひどく言い淀んでいるようだった。

  「もし、その……よかったら、なんですけど」

  途切れ途切れの声。息を吸い込む微かな音が、やけに耳につく。

  「どうした」

  「……お義父さんの、ロイヤルハウンドの姿を、見たい、です」

  最後の方は、ほとんど絞り出すような声だった。

  私は一瞬、彼が何を言ったのか理解できず、瞬きを繰り返した。

  「な、何を言ってる」

  「すいません。でも、どうしても……一度だけでいいんです。本物のロイヤルハウンドに、お義父さんのその姿に、会ってみたくて」

  「馬鹿なことを言うな。私はもう引退した身だ。それに、今の私が着たところで……」

  言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。

  いざという時のための予備の変身ブレスレットなら、通勤カバンの底に常に忍ばせてある。司令官としての最低限の義務だ。システム上は、今でも変身は可能だった。

  だが、それを引き止めているのは、圧倒的な「羞恥」だ。

  この丸く肥え太った体で、若き日の私が身に纏っていたあの白と金の光沢スーツを着る。それは、私の中に残る最後のヒーローとしての誇りを、自らの手で泥にまみれさせる行為に他ならない。

  「……そうです、よね」

  私の硬直した様子を見て、怜の表情からすっと力が抜けた。

  彼は膝の上の手を解き、無理に作ったような小さな笑みを浮かべた。

  「すいません、変なことを言って。忘れてください。……片付け、手伝いますね」

  怜はそう言い残し、立ち上がろうとした。

  その背中が、ひどく小さく、そして寂しそうに見えた。

  私は、床についた手へ無意識に力を込めていた。

  あの夜、彼が腹を撫でながら、妻にすら見せない弱音を吐いてくれた光景が脳裏に蘇る。彼は私にだけ、最も見せたくない情けない部分を曝け出してくれた。

  それなのに、私は。

  自分に純粋な憧れを向けてくれるこの青年に対して、己のちっぽけな見栄と羞恥を守るために、逃げるのか。

  「……待て」

  私の口から出た低い声に、怜が動きを止めた。

  私は重い腰を上げ、部屋の隅に置かれた革製の通勤カバンへと手を伸ばした。

  留め金を外すと、革の匂いが立った。内ポケットの奥、指が迷うほど馴染んだ場所に、硬い感触がある。取り出したそれは、金属の輪――変身ブレスレットだった。

  掌に乗せると、ひやりと冷たい。縁に刻まれた溝が、指の腹に引っかかる。何度も握りしめたはずの道具なのに、いまは手の中で余計に重く感じた。

  背後で、衣擦れの小さな音がした。

  怜が息を殺している気配だけが、寝室の空気に混じる。私は振り返らず、ブレスレットを左の手首へ持っていった。

  毛並みの上からでも、固定具は容赦なく締まる。金具が噛み合う乾いた音がして、輪が逃げ場をなくした。

  私は手首を一度ひねり、装着の具合を確かめた。皮膚の下で脈が跳ね、金属がそれを拾うように微かに震えた。

  「……眩しい。目を閉じていろ」

  そう言ってから、自分で息を吸う音が妙に大きく聞こえた。

  私は口の中を一度湿らせ、古い癖のまま短い言葉を落とす。

  「――チェンジ。ロイヤルハウンド」

  変身ブレスの刻印が淡く灯り、次の瞬間、白い光が床から噴き上がった。

  寝室の壁も段ボールの角も、輪郭が一瞬だけ溶ける。光に熱はないのに、鼻腔の奥に金属が焼けるような匂いが刺さった。

  

  最初に、水とも風ともつかない薄い膜が肌を撫でた。ぬるりとした感触が首筋から胸へと滑り、全身の豊かな毛並みを容赦なく押さえつけていく。

  それに呼応するように、足元から硬質なものが組み上がる音がした。

  白い伸縮性の素材と金の縁取りが両脚を一気に這い上がり、太いベルトがたるんだ腰回りを強制的に締め上げる。指先には密閉感のあるグローブが形成され、背中にはマントの重みがどさりと落ちた。

  最後に、顔の前で光が薄く膜を張り、目元から鼻梁にかけて硬いマスクの輪郭が組み上がる。

  数秒ののち、光が引いた。 寝室の景色が元の色を取り戻し、雷雨の直前のような乾いた刺激臭だけが鼻の奥に残った。

  私は腕を下ろし、指先を曲げ伸ばしした。

  素材は滑らかだが、毛並みの上から全身を分厚く包み込まれたせいか、皮膚がひとつ外側へ引っ張られているような息苦しい圧迫感がつきまとった。尻尾が、背中側で布に触れている。いつもの重みが、今はスーツの張りの中でひどく存在感を増していた。

  「……目を開けていい」

  声が、少し低く響いた。

  私は背後の気配を待ちながら、ゆっくりと視線を自らの胴体へ落とした。

  白と金の光沢を持った伸縮性の生地が、厚い毛皮ごと私の肉体を容赦なく締め付けている。腹部を通る太いベルトの重厚なバックルは、前にせり出した太鼓腹のせいで不格好に上を向いていた。

  丸みを帯びた腰回りと、厚みを増した太もも。かつての鋭角的なシルエットはどこにもない。少し身じろぎをするだけで、パンパンに張った生地が軋むような衣擦れの音を立てる。

  自分の無様な姿を直視した瞬間、首筋から顔面にかけて、一気に火を近づけられたような熱が昇った。

  穴があったら入りたいとは、まさにこのことだ。娘の夫に、こんな滑稽な全身タイツ姿を晒している。

  「……見ろ。みっともないだろう」

  私は自嘲の笑みを作り、ゆっくりと振り返った。

  呆れたような視線か、あるいは気まずい沈黙が落ちるか。私はそれを受け入れるため、奥歯を固く噛み締めた。

  だが、背後から返ってきたのは、引きつったような短い呼気だった。

  数歩離れた場所に立つ怜は、私を凝視したまま完全に硬直していた。

  彼の両目は限界まで見開かれ、瞬きすらしていない。その瞳の表面に、窓からの光を反射して立つ私の白と金の姿が、くっきりと映り込んでいる。

  やがて、怜の大きな瞳の縁から、透明な雫がぽろりとこぼれ落ちた。

  雫は彼の頬を滑り落ち、足元の床板に小さな染みを作る。一滴、また一滴と、涙が連続してこぼれ落ちていく。

  「……怜くん?」

  予想外の反応に、私は思わず一歩を踏み出した。重いブーツが床板を鳴らす。

  怜は弾かれたように手の甲で両目を乱暴に擦った。だが、涙は止まらないらしい。彼はしゃくり上げるような呼吸を繰り返し、鼻の頭を真っ赤に染めている。

  「すい、ません……」

  震える声が、静かな寝室に響いた。怜は濡れた顔を上げ、再び私を真っ直ぐに見つめた。

  「あまりにも、かっこよくて……」

  私は耳を疑い、ブーツの動きを止めた。

  軋むスーツの音だけが、やけに大きく聞こえる。

  「本当に、お義父さんが……。僕の目の前に、本物のロイヤルハウンドが、いるんだなって……」

  怜は両手で顔を覆い、子供のように肩を震わせた。

  彼には、だらしなく太った私の腹など見えていないようだった。伸び切ったスーツの皺も、毛並みを押し潰す不格好な丸みも、彼にとっては意味を持たない。ただ、目の前にかつての憧れが存在しているという事実だけが、彼を激しく揺さぶっている。

  私は息を呑み、己の胸元へ視線を落とした。

  彼が真っ直ぐに向けてくる無条件の肯定が、スーツ越しに私の皮膚を浸透し、長年凍りついていた芯の部分を静かに溶かしていくようだった。

  ゆっくりと息を吸い込むたび、胸の奥底で、とうの昔に手放したはずの熱がじんわりと広がっていくのを感じていた。

  静寂の中で、私はただ彼の涙を見つめていた。

  スーツ越しの微かな圧迫感も、腹回りの重さも、不思議と気にならなくなっていた。この若者の純粋な視線が、不格好な私の姿を、再び「ヒーロー」の型へと押し戻してくれているような気がした。

  やがて、怜は手の甲で目元を拭い、小さく息を吐き出した。

  赤くなった鼻をすすりながら、彼はパジャマのポケットをごそごと探り始める。

  「あの、お義父さん」

  ポケットから取り出されたのは、見慣れた黒いスマートフォンだった。

  彼は液晶画面のレンズをこちらへ向け、信じられないほど真剣な顔で私を見た。

  「……い、一緒に、しゃ、写真を撮っていいですか?」

  「は?」

  唐突な申し出に、私の思考は一瞬停止した。

  怜の指先が、画面上のシャッターボタンの上で微かに震えている。

  「一枚だけ! いや、二枚、正面と、斜めからのアングルで……後生ですから!」

  「なっ、馬鹿なことを言うな!」

  胸の奥で温まりかけていた熱が、一瞬にして別の熱源へと変わり、首筋から顔面へと一気に駆け上がった。

  マスクの下で、皮膚が耳の裏まで沸騰したように熱くなるのが自分でも分かった。

  「よせ、やめろ!」

  私は反射的に両手で顔を覆おうとしたが、丸みを帯びた腹のせいで肘がつかえ、腕の動きが不格好にもたついた。

  と同時に、マントの下、スーツに押さえつけられていた背中の付け根の筋肉が、勝手に大きく跳ねる。

  尻尾が、スーツの生地を内側から押し退けるようにブワッと膨れ上がり、私の意思とは無関係に激しく左右に揺れ始めた。

  分厚い毛の束がマントの裏地を容赦なく打ち据える音が、静かな寝室に響き渡る。

  「お義父さん、尻尾が……」

  「み、見るな!」

  私は両腕を振り回すようにして、レンズの照準から逃れた。

  みっともない太鼓腹を限界まで締め付けた白と金の光沢スーツ姿。その上、尻尾が千切れんばかりに激しく空を切っている。こんな滑稽な姿を、これ以上一秒たりとも晒しておくわけにはいかない。

  「へ、変身解除!」

  裏返った声で叫びながら、私は左手首のブレスレットを乱暴に叩いた。

  激しい光が再び視界を白く染め上げる。金属が弾ける音と共に、全身を締め付けていた圧迫感が一気に解け、元のシャツとズボンの緩い感触が戻ってきた。冷え切った空気が、熱を持った皮膚を直接撫でていく。

  光が収まると、私は怜に背を向け、床に積まれた段ボールの前にどさりと座り込んだ。

  心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく鐘を打っている。私は膝の上で両手を強く握りしめ、喉の奥で鳴る荒い呼吸を必死に押し殺した。

  「ほら……も、もういいだろう!」

  顔は背けたまま、私は手当たり次第に床の資料を掴み、箱の中へ乱暴に放り込んだ。紙の束が崩れ、乾いた音を立てる。

  「……片付けを、手伝ってくれ」

  声が震えていないか、それだけが気がかりだった。

  背後で、衣擦れの音がした。怜がスマートフォンをポケットに仕舞い、ゆっくりと歩み寄ってくる気配がする。

  やがて、私の斜め後ろに立った怜が、膝をつく気配がした。

  「……はい」

  その声は、どこまでも優しく、そして、弾むような嬉しさに満ちていた。

  私は答えず、ただ黙々と、目の前の古い資料へ手を伸ばし続けた。背中に感じる彼の温かな気配が、なぜか少しだけ、くすぐったかった。

  ◇

  「本当に大丈夫なんだろうな?」

  玄関に並べられた二つの旅行鞄を見下ろしながら、私は舞彩子の顔を覗き込んだ。

  舞彩子はコートの襟元を指で整え、私の視線を受け流すように笑う。明花里はその隣で、スマートフォンの画面を軽く振ってみせた。駅までの乗換案内だろう、白い光が彼女の頬を照らしている。

  「大丈夫よ。温泉一泊、帰ってくるだけじゃない」

  「そうそう。もし電車が止まったら、もう一泊してくるだけだし」

  言いながら明花里は靴紐をきゅっと締め、踵を軽く鳴らした。いつもの外出より少しだけ浮ついた音だ。

  私は玄関脇の小さなテレビに視線を投げた。気象予報士が指す地図の上で、等圧線が細かく詰まり始めている。画面の隅には「発達した低気圧」の文字。スピーカーから流れる音楽がやけに明るい。

  「低気圧が来る。海沿いの風が強くなるって言ってるだろう」

  「もう、心配しすぎよ」

  舞彩子は肩をすくめた。香水と柔軟剤の匂いが、ふっと玄関に広がる。明花里は「ねー」と相槌を打ち、鞄の持ち手を握り直した。

  私の喉の奥に、止めたい言葉が引っかかった。

  危ないからやめろ、と。

  日程をずらせ、と。

  天候だけじゃない。交通の遅れ、宿の混雑、連絡が途切れた時のこと——頭の中で、想定が勝手に枝分かれしていく。司令の仕事は、最悪を前提に準備することだ。気付けば、家の玄関でも同じことをしている。

  視線の端で、怜が黙って立っていた。上着を羽織り、手には車のキーではなく病院のIDケース。出勤前の身支度のまま、二人を見送るために降りてきたのだろう。彼は私の言葉を遮らず、ただ舞彩子と明花里に向けて、いつもの穏やかな目をしている。

  「明花里ちゃん、気をつけて。着いたら連絡してね」

  「はーい。怜くんもお仕事がんばって。無理しないでね」

  明花里が背伸びをして怜の袖を軽くつまむ。怜は笑って頷き、指先で彼女の髪を一度だけ整えた。触れた時間は短いのに、夫婦の距離だけははっきり見えた。

  「あなたも」

  舞彩子が私の前に来て、シャツの襟を直した。指が喉元を掠める。温かい。そこに、釘を打つみたいな声が続く。

  「頭痛、ぶり返してるなら無理しないで。あと、お酒はだめよ」

  「わかっている」

  言い方が硬くなったのを自覚して、私は一拍遅れて息を吐いた。舞彩子は目尻を少し細めただけで、追及しない。

  明花里がドアノブに手をかける。

  「じゃ、行ってきまーす。お父さん、留守番よろしく。怜くんもね」

  「……行ってこい」

  最後まで「やめろ」が舌に乗ったままだった。私はそれを飲み込み、代わりに視線で鞄の金具や戸締まりを追った。確認しないと落ち着かない。

  ドアが開いて、冷たい外気が玄関に流れ込む。少し湿った風の匂いがした。舞彩子と明花里の靴音が一段下がり、コンクリートを叩く軽い足取りが遠ざかる。

  ドアが閉まる。

  鍵の回る音がして、家の中の空気が急に重くなった。テレビの気象図だけが、玄関の隅で淡い光を点滅させている。

  私はその画面から目を離せないまま、口の中で小さく呟いた。

  「……止めるべきだったか」

  ◇

  翌日の夕方。予報通り、外は窓ガラスが細かい振動を続けるほどの暴風雨になっていた。

  リビングのソファでヒーロー支部のタブレット端末を睨んでいた私のスマートフォンが、短い振動を立てた。画面には、舞彩子からのメッセージが表示されている。

  『電車が完全に止まったみたい。今日はもう一泊して、明日の昼に帰ります』

  その短い文面を読んだ瞬間、私の脳内でいくつものスイッチが強制的に切り替わった。

  無事ならそれでいい、という安堵は一瞬で消え去る。代わりに、交通機関の麻痺範囲、停電のリスク、それに伴うヒーロー支部への緊急出動要請の可能性が、冷たい水のように思考を満たしていく。

  「……交通網が止まるほどの雨量か」

  私は独り言をこぼしながら立ち上がった。

  まず一階のすべての窓の施錠を確認する。叩きつける雨音のせいで、ガラスに触れる指先までが小刻みに震えているように感じられた。

  玄関の養生は十分か。吹き込みはないか。

  次に、キッチンへ向かう。停電に備えて冷蔵庫の保冷剤の配置を確認し、懐中電灯の電池残量を確かめる。

  二階には、昼から怜がいるはずだ。彼も今日は非番だと言っていたが、明日の朝には病院へ向かわなければならない。この雨で公共交通機関が止まったままなら、どうやって出勤するのか。病院への連絡は済んでいるのか。

  階段を見上げ、すぐに彼を呼びに行こうとして、足を止める。

  『お父さん、留守番よろしく。怜くんもね』

  出掛け際の明花里の声が、耳の奥で蘇った。

  そうだ。今は怜を無駄に慌てさせるべきではない。彼は司令官でもなんでもない、ただの民間人だ。私が一人で状況を把握し、統制すればいい。

  私は再びリビングへ戻り、ヒーロー支部の専用端末を立ち上げた。

  画面の青白い光が、薄暗い部屋の中で私の顔を冷たく照らす。各支部の被害状況、待機人員のリスト、気象レーダーの動き。それらの情報を一つ一つ目で追い、頭の中でパズルを組み合わせていく。

  休まなければならない。舞彩子も明花里もいないのだから、せめて体を休めるべきだ。頭の片隅でそう理解してはいるのに、神経は研ぎ澄まされ、指先は次から次へと画面をスクロールし続けていた。

  不意に、首の付け根から後頭部にかけて、じわりと嫌な熱が広がった。

  端末を操作する指が、ピタリと止まる。

  熱はすぐに硬直に変わり、首の筋を太い鉄のワイヤーで縛り上げられたような不快感が訪れた。まばたきをすると、目の奥に重い圧力がかかっているのがわかる。

  間違いない。気圧の急激な低下に、私の神経の過緊張が重なったのだ。

  いつもの、偏頭痛の兆しだ。

  「……くそ」

  私は端末をテーブルに置き、首の後ろを太い指で強く揉みほぐした。

  まだ発作の段階ではない。視界の欠損もない。今のうちに火種を消しておけば、最悪の事態は免れる。

  私は足の向きを変え、部屋の隅に置かれた革製の通勤カバンへ手を伸ばした。

  留め金を外し、内ポケットから見慣れた小さなピルケースを取り出す。中には、かかりつけの医者から処方された強めの頭痛薬が数錠入っている。司令官として、いかなる時も冷静な判断を下すための私の「弾薬」だ。

  キッチンへ向かい、グラスに水を注ぐ。アルミシートから白い錠剤を押し出し、水と一緒に喉の奥へ流し込んだ。冷たい水が食道を通って胃に落ちる感覚が、少しだけ焦燥を和らげてくれるような気がした。

  あとは、薬が効き始めるまでの三十分から一時間、静かに横になっていればいい。

  頭では完全に理解している。ソファに体を沈め、目を閉じるべきだ。

  だが、窓を叩きつける風雨の音は、先ほどよりも明らかに暴力的になっていた。ドスン、と重い塊が壁にぶつかるような音が連続して響く。

  「……裏の庭木か」

  横になろうとしていた体を、反射的に起こしてしまう。

  枝が折れて隣家の窓を割っていないか。あるいは、飛来物が我が家の外壁を傷つけていないか。確かめなければならない。万が一の事態が起きた時、初動が遅れれば被害は拡大する。

  私は首の奥の重さを引きずったまま、一階の廊下を歩き、勝手口の小さな窓から外を覗き込んだ。暗闇の中で、風に煽られた枝葉が狂ったように身をよじっている。異常はない。だが、一度動き出してしまった身体は、再び休むことを拒絶した。

  リビングへ戻ると、テーブルの上の端末が、短い警告音と共に新しい通知を表示していた。

  『第三管区、一部地域で倒木による停電発生』

  私は顔をしかめ、画面をスクロールした。復旧の見込み、待機人員の配置状況、各部隊の通信状態。文字を追うごとに、目の奥にかかっていた圧力が、鋭い楔のように形を変えていくのを感じた。

  休まなければならない。薬を吸収させるために。

  わかっているのに、指は画面をなぞり続ける。防衛網に穴があってはならない。家族がいないこの家を守らなければならない。思考が空回りし、呼吸が浅く、早くなっていく。

  脈を打つたびに、右のこめかみの奥でドクン、ドクンと太い血管が膨張する感覚が強まった。

  「……っ」

  不意に、胃の底から熱い泥のようなものがせり上がってきた。

  私は端末から手を離し、口元を強く押さえた。額から、じわりと冷や汗が吹き出す。

  吐き気だ。それも、これまでに経験したことのないほど急激で、暴力的な波。気圧の暴力的な低下に、私の過緊張が完全に引鉄を引いてしまったのだ。

  私は椅子を蹴るようにして立ち上がり、洗面所へと駆け込んだ。

  足がもつれ、ドアの枠に肩を激しく打ち付ける。衝撃で頭蓋骨の中で脳が揺れ、視界が一瞬だけ真っ白に飛んだ。

  洗面台の白い陶器にしがみつき、私は大きく咳き込んだ。

  胃の内容物が、痙攣する喉を通って逆流してくる。胃液の強い酸の匂いと、苦味が口の中に広がる。何度か激しくえずいた後、私は洗面台の底に散らばったものを見て、絶望的な事実に気づいた。

  溶けきっていない、白い錠剤の欠片。

  飲んだばかりの頭痛薬だ。薬の成分が血液に乗る前に、すべて吐き出してしまった。

  「……くそっ」

  私は荒い息を吐きながら、蛇口をひねった。

  冷たい水で口をゆすぎ、もう一度ピルケースを取り出そうとポケットへ手を伸ばす。だが、指先は小刻みに震え、うまく動かない。

  それに、もう一度飲んだところで、今のこの痙攣する胃袋が、水や薬を受け付けるはずがなかった。

  逃げ道が、完全に塞がれた。

  こめかみを打ち据える痛みは、すでに視界の端を削り取るほどの「発作」へと移行し始めていた。立っていることすら辛い。冷や汗が毛並みを濡らし、首筋に張り付いている。

  暗くて、冷たい場所。身を潜められる場所。

  私は朦朧とする頭で、すぐ隣にある浴室のドアノブへ、震える手を伸ばした。

  ドアノブを押し下げ、薄暗い浴室へ転がり込んだ。

  窓のない空間は、暴風雨の音を一枚壁の向こうへ遠ざけてくれた。私は壁のタイルに背中を預け、ずるずると床へ滑り落ちた。

  プラスチックの冷たい床面が、熱を持った太腿に触れる。シャツの背中が、冷や汗と脂汗でぐっしょりと濡れて肌に張り付いていた。

  目を閉じても、視界の裏側で脈打つ光が明滅を繰り返している。右の眼球を裏側から太い指で抉り出されているような、鋭く重い激痛。呼吸をするたびに胃が痙攣し、空の胃袋が酸っぱい唾液だけを喉の奥へ押し上げてくる。

  姿勢を変えようと、壁に手をついた時だった。

  力が入らず手が滑り、蛇口のレバーを下へ強く押し込んでしまった。

  ザァッ、と激しい音が浴室内に反響する。シャワーヘッドから冷たい水が勢いよく噴き出し、私の足元や壁を激しく打ち据え始めた。

  水を止めなければ。

  そう思って腕を伸ばそうとしたが、肩から先の感覚が麻痺したように重い。脱水と激痛で、身体の神経が完全に悲鳴を上げていた。脳が指令を出しても、肉体がそれに従わない。

  私は膝を抱え込むようにして丸まり、水音の中でただ荒い息を吐き続けた。

  二階にいる怜を起こしてはならない。この無様な姿を見せるわけにはいかない。その意地だけが、かろうじて意識を繋ぎ止めている。

  「……お義父さん?」

  水音を切り裂くように、ドアの開く音がした。

  脱衣所の明かりが、暗い浴室の床へ長方形に伸びてくる。私は眩しさに顔をしかめ、薄く目を開けた。

  入り口に、部屋着姿の怜が立っていた。水の出っ放しになっているシャワーと、床にうずくまる私の巨体を見て、彼は一瞬だけ息を呑んだ。

  「お義父さん、どうしたんですか! 大丈夫ですか!」

  怜は靴下のまま、濡れた洗い場へ飛び込んできた。

  私の大きな体に膝をついて寄り添い、濡れるのも構わずに背中へ腕を回してくる。

  「く、来るな……」

  突き放そうとして口を開いたが、声は掠れた空気の音にしかならなかった。

  怜は私の言葉を聞き入れず、力強い動作で私の体を起こし、自分の胸に持たせかけるようにして背後から抱き支えた。彼の体温が、冷え切った私の背中に分厚いシャツ越しに伝わってくる。

  「すごい汗。……いつもの頭痛ですか? 薬は?」

  「……吐い、た」

  「……わかりました。無理に喋らないでください」

  怜の声は、普段の穏やかなものとは違う、低く落ち着いた響きを持っていた。

  彼は私を支えたまま、空いた方の手で私の首の付け根、ごわごわとした毛並みの下にある強張った筋肉へと指を滑り込ませた。

  的確な手つき。親指の腹が、鉄のように硬くなった首の筋を捉え、ゆっくりと、深く押し込んでくる。

  その瞬間だった。

  怜の指先が触れている皮膚の奥から、火花のような奇妙な熱が弾けた。

  熱は太い血管を這い上がるように一気に首から脳髄へ駆け上がり、そして――。

  「……ぁ」

  私の口から、間の抜けた吐息が漏れた。

  消えたのだ。

  あれほど荒れ狂い、私の視界と意識をかきむしっていた右目の奥の激痛が、まるで熱湯に落ちた雪のように、一瞬にして形を失って消え去った。

  いや、消えただけではない。痛みが存在していたはずの頭蓋骨の裏側に、今度は泥のように甘く、とろけるような痺れが濁流となって流れ込んでくる。

  指先から力が抜け落ちる。首を支えることすらできない。張り詰めていた全身の筋肉が、内側から溶かされていくような、暴力的なまでの心地よさ。

  「力、抜けてきましたね。大丈夫です、僕に預けてください」

  耳元で囁く怜の声が、水膜越しに聞いているように遠く、甘く反響した。

  首筋を揉みほぐす彼の指先から、絶え間なく痺れが送り込まれてくる。私はもはや自力で座っていることすらできず、操り人形の糸を切られたように、重い身体を完全に怜の腕の中へ明け渡していた。

  だが、その底知れない安堵感は、すぐに全く別の恐怖へとすり替わった。

  身体が、おかしい。

  痛みが消え、極限まで力が抜けきっているはずなのに、下腹部の奥底だけが、火をつけられたように熱い。

  血が逆流しているのか。いや、違う。これは――。

  「な……っ」

  私は朦朧とする頭で、自分の身体に起きている信じがたい現象を自覚した。

  濡れたズボンの内側で、下半身が、私の意志とは全く無関係に硬く膨張し始めている。

  欲情などしていない。頭痛と吐き気で死にそうになっていたのだ。それなのに、怜の手に触れられ、脳が蕩けるような心地よさに沈んだ瞬間、身体の機能が完全に切り離され、本能だけが暴走し始めている。

  みっともなく張り詰めていくズボンの股間。

  娘の夫に抱きかかえられながら、己の身体が卑猥な熱を帯びていく。

  「や、めろ……」

  羞恥が限界を超え、私は重い腕を動かして背後の怜を振り払おうとした。

  だが、濡れたタイルを滑る手には全く力が入らない。肘が床に落ち、肩が崩れる。怜の細い腕の拘束から逃れることなど、到底できそうになかった。

  「動かないでください」

  怜の声は、私の抵抗を咎めるわけでも、驚くわけでもなく、ただ静かに響いた。

  彼が片手を伸ばし、頭上のレバーを押し上げる。シャワーの激しい水音がピタリと止んだ。換気扇の低いモーター音と、排水溝へ水が流れ落ちる音だけが、薄暗い浴室に残る。

  「服が濡れています。このままだと、急激に体温が奪われてまた頭痛がぶり返します。脱がせますよ」

  「よせ……いい、自分で……」

  私は首を振り、床を這うようにして身をよじった。

  しかし、怜は私の脇の下へ両腕を差し込み、躊躇うことなく濡れたシャツのボタンへ指をかけた。

  指先が皮膚を掠めるたび、背筋を凍らせるような甘い痺れが走る。抵抗しようと筋肉に力を込めても、彼の指が触れている首筋から絶え間なく送り込まれてくる弛緩の波が、私の意思を片端から溶かしていく。

  濡れて重くなったシャツが肌から剥がされ、タイルへ落ちた。

  続けて、怜の手が私の腰のベルトへ伸びる。

  「……触、るな! お前、自分が何を……」

  声が震え、裏返った。

  バックルが外れる金属音。濡れた布が肌を滑り落ちる重い感触。

  ズボンと下着が太腿まで引き下げられ、冷たい空気が下半身を撫でる。熱を持った部分が外気に晒され、自分の目で直接それを見下ろすことになり、私は呼吸の仕方すら分からなくなった。

  豊かでごわごわとした毛並みの中で、それだけが醜く膨張し、熱を放っている。

  極度の痛みと吐き気に苛まれていたはずの身体が、これほどまでに生々しく、滑稽なまでに張り詰めている事実。

  「……ひどい状態ですね」

  怜の吐息が、すぐ耳元にかかった。

  私は目を固く閉じ、奥歯が砕けるほど噛み締めた。見られた。娘の夫に。司令官としての威厳も、義父としての体裁も、すべてがこの狭い浴室の床に泥のようにぶちまけられた。

  「痛みを我慢しすぎたせいです。交感神経が焼き切れる寸前まで張り詰めていた反動で、身体が強制的にバランスを取ろうとしているんです。……自然な生理現象ですよ。恥ずかしがることはありません」

  ひどく冷静な、理にかなったように聞こえる言葉。

  だが、その声の奥に、何か熱を帯びた粘つくような響きが混じっているのを、私は確かに聞き取った。

  次の瞬間、怜の右手が私の腹を滑り降り、熱を持った根元を直接握り込んだ。

  「ぅぁ……っ!」

  喉の奥から、獣が絞め殺される時のような鳴き声が漏れた。

  他者の皮膚の温度。指の腹が沿う感触。

  ただ触れられただけなのに、脳髄に直接電極を突き立てられたような強烈な快感が弾け、全身の毛が逆立った。

  「大丈夫です」

  怜の親指が、張り詰めた表面をゆっくりとなぞる。

  「神経が異常に高ぶっているだけです。抜いてしまえば、楽になりますから。僕に全部、預けてください」

  逃げ場のない正当化。医療行為という名の甘い拘束。

  怜の手が、規則的なリズムで動き始める。

  摩擦のたびに、私の意志とは無関係な場所から、経験したことのない密度の快楽が脳へ直撃した。思考が白く塗りつぶされ、呼吸が荒い喘ぎに変わる。

  やめろと叫ぶべき口は、だらしなく開き、甘い痺れを吐き出すことしかできない。

  首筋を押さえる彼の左手から流し込まれる麻痺と、下半身を支配する彼の右手から突き上げられる快感。その二つに挟み撃ちにされ、私は冷たいタイルの上で、ただ首を振りながら己の身体が崩壊していくのを待つしかなかった。

  「お義父さん……いいですよ。全部、出してください」

  怜の囁きと共に、手の動きが一段と深くなる。

  下腹部に溜まっていた熱が限界点を超え、背骨を駆け上がった。

  私は目を剥き、声にならない悲鳴を上げながら、腰を激しく跳ねさせた。

  視界が白く飛ぶ。濡れた太腿と、冷たい床のタイルへ、熱い飛沫が断続的に打ち付けられた。

  心臓が肋骨を打ち破るほど激しく跳ねている。肺が空気を求めて痙攣し、私は怜の腕にだらりと倒れ込んだまま、口から涎を垂らして激しく喘いだ。

  どれくらい、そうしていただろうか。

  荒ぶっていた呼吸が少しずつ落ち着いていくにつれ、頭蓋骨の裏側まで焼き尽くしていたあの地獄のような頭痛が、欠片も残っていないことに気がついた。

  倦怠感と、下半身に残るジンジンとした熱だけが、私の身体を重く床へ縫い付けている。

  換気扇の低いモーター音。

  壁の向こうで、窓ガラスを叩く雨の音。

  そして、私の背中を抱きしめる怜の、規則的な心音。

  それらの音が、ひどく鮮明に耳に届いた。

  私はタイルの上に散った自分自身の白濁から目を逸らし、固く瞼を閉じた。

  娘の夫に身を委ね、狂ったように啼いて、快楽を貪った。その事実が、引き引くことのない静かな絶望となって、痛みよりも深く、私の芯に沈んでいった。

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  この続きは4月10日(金)公開予定です。

  試し読みは、4月17日(金)まで四週連続公開予定。