【試し読み】老犬は娘婿(むすこ)に溺れて不貞へ堕ちる【第一章】
[chapter:序章]
光が、痛いほど白い。
天井を仰げば、ステンドグラス越しに降り注ぐ陽光が、眼球をじりじりと焼くようだ。眩暈を覚え、咄嗟に眉間を指で押さえる。
「パパ、大丈夫?」
横から、よく通る澄んだ声が鼓膜を撫でた。
視線を向けると、そこには私の知る限り最も美しい生き物がいた。
純白のシルクに包まれた、私の娘、[[rb:明花里 > あかり]]。
彼女の顔を覆うヴェールの向こう側で、妻と同じ琥珀色の瞳が揺れている。私より頭一つ分低い位置から、少しだけ眉を下げてこちらを見上げていた。
「ああ。……少し、眩しいだけだ」
張り付いた喉から、擦れた声が出る。
咳払いをして、首元のタイに指をかけた。きつい。現役時代のヒーロースーツよりも遥かに窮屈だ。慣れないモーニングコートは肩周りの生地が硬く、身じろぎするたびに微かな衣擦れの音を立てる。こんな格好は自分には似合わないのではないかという疑念が、百合の花の匂いが充満する控室を出てからずっと拭えないでいる。
「もう、ネクタイ曲がってる」
明花里が目元を細めて笑う。白い手袋に包まれた両手が伸びてきて、私の首元の結び目をきゅっと直した。
「パパ、かっこいいよ」
ふわりと咲いたような笑顔に、心臓が大きく跳ねる。
かっこいい、か。
最後にそう言われたのはいつだったろうか。まだ彼女が私の膝に乗るくらい小さかった頃か。
鼻の奥を突いた鋭い痛みを誤魔化すように、私は視線を逸らす。自分でも制御できない尻尾が、背後のスーツの生地をパタパタと叩いているのが分かった。情けない。だが、悪い気分ではない。
明花里は安堵したように息を吐き、小さな手を、私の分厚い腕にそっと添えた。
その重み。
たった数百グラムしかないはずの掌が、私の全人生を乗せたかのように重く、そして温かい。
パイプオルガンの音の響きが、床の底から這い上がってチャペルを満たす。重たい木扉が左右に開かれると、そこにはまっすぐな光の道が続いていた。
右足を踏み出す。
革靴が磨かれた大理石を叩く、硬質な音。
腕に伝わる体温が、不意に記憶の蓋をこじ開けた。
脳裏に浮かんだのは、視界いっぱいの赤。
生まれたばかりの彼女を恐る恐る抱き上げた時、壊れそうなほど小さかった指が、私の小指を力強く握りしめてきた感触。あの熱さが、今も腕に残っている。
ミルクの甘い匂い。よちよち歩きで私の太腿にしがみついてきた時の、頼りない重み。
歩みを進めるごとに、その重みは形を変えていく。
雨の日の泥の匂いが鼻腔をかすめた。仕事で約束を破り、中学生の明花里に「大っ嫌い」と叫ばれた夜の鋭い痛み。
進路に悩み、キッチンで背中を丸めていた夜の華奢な肩。合格通知を握りしめて飛びついてきた時の、弾けるような鼓動。
私の腕には、彼女の全ての時間が刻まれている。
それら積み重ねてきた重みが今、私の手から永遠に離れようとしている。
目の前には、祭壇の前で待つ一人の男。
白いタキシードに身を包んだ、羊獣人の青年。[[rb:怜 > れい]]。
丸みを帯びた柔和な顔立ちに、うっすらと汗を光らせている。緊張しているのだろう、何度も喉仏を上下させているのが見えた。
決して頼りがいのある風体ではない。私の現役時代のような鋼の筋肉も、鋭い眼光もない。だが、その瞳は真っ直ぐに明花里だけを見つめている。
今日から彼が、私の娘の新しい家族となる。「神崎」の名を背負い、共に歩んでいく男だ。
祭壇の前で足を止める。
明花里の手が、私の腕から離れた。
皮膚に残る微かな熱。それが急速に冷えていく感覚に、胸の奥がぎしりと軋んだ。
これが、最後だ。
私の娘は、今日から一人の女性となり、妻となる。
私は彼女の手を取り、怜の差し出した手へと導いた。
大きく、温かく、そして少し湿った彼の手。
明花里の指先が、その掌に包まれる。
「……頼んだぞ、怜くん」
声が震えないように、腹の底に力を込めた。
「私の、宝物だ」
怜は一瞬、驚いたように目を見開き、深く頷いた。
「はい。お義父さん」
その声は、春の陽だまりのように温かく、誠実だった。
「必ず、幸せにします」
二人が祭壇に向き直る。
ステンドグラスから降り注ぐ七色の光が、二人の背中を祝福するように包み込む。
その光景は、あまりにも美しく、完璧だった。
私は一歩下がり、妻の隣に並ぶ。
妻がハンカチを目元に当てたまま、私の袖を強く引いた。
何も言わない。ただ、その引っ張る力が、私の心の揺れを支えてくれている。
こめかみの奥が、潮が満ちるように重くなった。押し返そうとしても、鈍い拍動は次の波に上書きされるだけだった。
またか。
いつもの偏頭痛だ。幸せな日だというのに、私の脳は休むことを知らないらしい。
ポケットの中の薬瓶に触れたい衝動を、理性の力でねじ伏せる。
今は、この痛みさえも、娘を送り出す父親の勲章だと思えばいい。
光の中で誓いのキスを交わす二人を見つめながら、私は滲んだ視界を指先で乱暴に拭った。
眩しい。
世界は、こんなにも眩しかったのか。
[newpage]
[chapter:第一章]
目障りなほど無機質な青い光が、網膜をチカチカと刺している。
「第三セクター、被害拡大! ヴィラン、依然逃走中!」
「ストレイハウンド、指示を無視! 単独で追跡しています!」
オペレーターたちの悲鳴に近い報告が、耳鳴りと混ざり合って脳内をかき回す。私は眉間を深く揉み込みながら、壁一面を覆う巨大なマルチモニターを睨みつけた。
あの光に包まれた結婚式から、半年。
私の現実は、相も変わらずこの薄暗い司令室と、終わりのない決断の連続の中にある。
「現状報告!」怒鳴りつけた自分の声が、喉の奥で擦れる。
「ストレイハウンドの位置座標。市民の避難状況。敵の能力解析はどうなっている!」
「は、はい! 旧市街のアーケード上を高速移動中。避難率七十パーセント、逃げ遅れ多数!」
「解析班より! 敵の異能は『物質の脆化』の疑い! 触れられた構造物は崩壊します!」
舌打ちが出た。厄介だ。崩壊の瓦礫で市民を巻き込むか、足場を崩してこちらの機動力を削ぐか。私が現場にいれば、異能力の波長に合わせて拳を叩き込み、相殺して沈黙させることもできるだろう。だが、今の私にできるのは、ここからマイクに向かって叫ぶことだけだ。
「ストレイハウンドに伝えろ! 深追いはするな。市民の避難誘導を最優先にしつつ、敵を広場へ誘導しろ!」
「伝えます! ……ああっ!」
オペレーターの悲鳴に近い声と同時に、正面のメインモニターが大きく揺れた。
ドローンカメラが捉えた映像には、粉塵が舞い上がる中、瓦礫の山を蹴って跳躍する影があった。
黒と銀のスーツに身を包んだ、痩躯のジャーマンシェパード獣人。
ストレイハウンド。[[rb:速水颯 > はやみそう]]だ。
彼は私の指示を聞いていない。いや、聞こえていないふりをしている。
避難誘導など眼中にないかのように、敵の懐へ一直線に突っ込んでいく。その動きは速く、そしてあまりに危うい。
瓦礫が雨のように降り注ぐ中を、紙一重で躱し、敵の横腹に蹴りを叩き込む。
モニター越しに見ても、その衝撃が伝わってくるようだった。
「馬鹿野郎……!」
拳をデスクに叩きつけた瞬間、こめかみの奥で血管が爆ぜるような痛みが走った。
心臓の鼓動に合わせて脳髄が脈打つ。
視界が明滅し、モニターの青い光が歪んで見える。
まただ。この痛み。
奥歯を噛み締め、引き出しの中にある鎮痛剤のボトルを手探りで探す。指先が震えて、プラスチックの容器がカチカチと乾いた音を立てた。
「神崎司令! ストレイハウンドより通信!」
「……繋げ」
錠剤を水なしで飲み込みながら、ヘッドセットのスイッチを押す。
『こちらストレイハウンド! 敵の動きが鈍ってます。今なら畳み掛けられます!』
ノイズ混じりの声には、興奮と焦燥が滲んでいる。
息遣いが荒い。相当な無茶をしている証拠だ。
「許可できない。周囲の状況を見ろ。お前の背後にはまだ避難できていない市民がいる。敵が自爆覚悟で建物を崩したらどうする」
『敵はそこまで馬鹿じゃないです! 今逃がしたら、被害はもっと広がります!』
「これは命令だ、速水! 感情で動くな!」
私の言葉に、一瞬の沈黙があった。
『……司令には、現場の熱が見えないんですか』
吐き捨てるような低い声。
その言葉は、頭痛よりも鋭く、深く胸に刺さった。
現場の熱。
誰よりもそれを知っているのは私だ。
コンクリートが焼ける匂い。敵の殺意が肌を焼く感覚。拳が肉に食い込む感触。
それら全てを失った私が、空調の効いた部屋で安全を貪りながら、命懸けで戦う彼に「感情で動くな」と説く。これほどの喜劇があるだろうか。
通信が切れる音がした。
モニターの中で、ストレイハウンドが再び加速する。
私の静止を振り切り、彼はまた、私がかつていた場所へと駆けていく。
「神崎司令、どうしましょう……?」
隣の席のオペレーターが、すがるような目で私を見上げている。
その怯えた声色と、完全に私の言葉だけを待つ受動的な姿勢に、腹の底で黒い苛立ちが燻った。なぜ自分で考えない。なぜ全てを私に委ねる。
だが、すぐにその感情を奥歯で噛み殺す。
彼女たちは情報を集め、伝達するのが仕事だ。決めるのは、私だ。それが司令の役割なのだから。
頭痛が、思考の泥沼化に拍車をかける。
彼をこのまま単独で暴走させれば、いつか必ず致命的なミスを犯す。かといって、ここで無理に引き戻せば敵を見失い、被害は拡大する。
無数の選択肢が、情報という名の洪水となって押し寄せてくる。
現場にいれば、肌の感覚だけで選べたはずの正解が、ノイズにまみれて掴めない。
息を吸い込み、マイクのスイッチを押し込んだ。
「第4、第5セクターで避難誘導中のB班、C班を直ちにストレイハウンドの援護に回せ。市民の避難は後続の警察とレスキューに引き継がせろ」
「り、了解! B班、C班、現在地より旧市街アーケードへ急行せよ!」
避難誘導の遅れというリスクを背負い、戦力を一点に集中させる。
それが、今の私にできる最善の、そして最も苦しい決断だった。
椅子の背もたれに深く体を沈め、天井を見上げる。
無機質な蛍光灯の白さが、あの日のステンドグラスの光とは対極の冷たさで、私を見下ろしていた。
作戦終了後。
空気清浄機が低く唸る執務室は、先ほどの司令室の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
無機質なグレーの壁。書類の束が積まれたデスク。窓から差し込む夕日はブラインドに遮られ、床に等間隔の影を落としている。
「入ります」
ノックと共に、速水が姿を見せた。
戦闘の熱をまだ引きずっているのか、彼の息は浅く、頬には擦り傷が滲んでいた。スーツの肩口にべったりと付着したコンクリートの粉が、現場の過酷さを物語っている。
無意識に、私の視線は彼の全身をなぞっていた。
ジャーマンシェパードの黒と褐色の毛並み。無駄な肉が一切削ぎ落とされた、しなやかでバネのような筋肉。若さと野心に満ちた、ピンと立つ大きな耳と鋭い眼光。
そこに立っているのは、かつての私そのものだった。
無意識に、私はデスクの下で自分の腹回りに手をやっていた。シャツ越しに伝わる、たるんだ肉の分厚い感触。若さを失い、現場から遠ざかった老犬の証。
よく生きて帰ってきた。
胸の奥で安堵の息を吐き出しながら、私はその柔らかな感情を奥底に沈め、両手で顔の下半分を覆い隠すように組んだ。
「……結果から言えば、被害は抑えられた。敵の身柄も確保した。よくやった」
喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「はい。だから、俺の判断は間違っていませんでした」
速水は背筋を伸ばし、真っ直ぐに私の目を見て言い放つ。そのピンと立った耳と強い視線には自身が満ちているように見える。
「それは結果論だ」
私は組んだ手を解き、机上の報告書を指先で弾いた。
「お前の独断先行で、避難誘導のスケジュールは大幅に狂った。もし援護の到着が数分遅れていれば、お前は敵の自爆に巻き込まれていた。違うか」
「地下に逃げられたら終わりだったでしょう!」
速水が声を荒らげ、デスクに身を乗り出した。
「あのまま引けば被害はもっと拡大してた。あの瞬間に畳み掛けるしかなかったんです!」
「それがお前の判断か。全体の状況を無視して、目の前の敵を殴り倒すことだけを優先する。……それがヒーローの仕事だと?」
言葉の応酬を重ねるたび、室内の温度が下がっていくのが分かった。
彼を否定したいわけではない。命を粗末にするなと、ただそれだけを伝えたいのに。
私の口から出るのは「司令」としての、規則と責任で固められた正論ばかりだった。
「俺は……現場の空気を読んで動いただけです。……司令だって、昔はそうだったんじゃないですか?」
速水が、すがるような、非難するような目を向けてくる。
ズキン、とこめかみが鳴った。
昔の私。ロイヤルハウンド。
そうだ。誰よりも命令を無視し、直感だけで敵陣に突っ込んでいたのは私自身だ。その私が、今やデスクに座り、正論を盾にして若者を責め立てている。
胃の奥がせり上がるような自己嫌悪に襲われた。
「昔の話はしていない。今は私が司令で、お前は私の部下だ。指示に従えないなら、お前に現場に出る資格はない」
私の宣告に、速水の耳がピクリと伏せられた。
彼は口を半開きにして何かを言い返そうとしたが、すぐに喉の奥で言葉を飲み込んだ。
ぎゅっと結ばれた口元。眉間に刻まれた深い皺。私を睨みつける視線は揺れ、やがて床へと落ちた。
何かあるなら反論すればいい。以前のように、吠えかかってくればいい。
その煮え切らない沈黙が、私の神経を逆撫でした。
「言いたいことがあるなら、はっきりと言え。言葉を濁すな」
言葉を濁し、建前で武装しているのは私の方だ。
緊迫した空気が張り詰めた直後、控えめなノックの音がそれを切り裂いた。
「し、失礼します」
扉の隙間から、若手のスタッフが恐る恐る顔を覗かせた。
「神崎司令。市役所の危機管理課から至急の連絡が入っています。それに、報道のカメラがすでに支部前に集まり始めているらしく、支部長から至急対応を、と……」
頭痛が一段と強くなる。
破壊された商店街の補償、関係各所への根回し、マスコミへの対応。
ヒーローとしての戦いが終わった後に始まる、司令としての泥臭い仕事の山が、口を開けて待っている。
「……分かった。すぐに行く」
私は小さくため息をつき、速水に向き直った。
「話は終わりだ。レポートをまとめて提出しろ。下がっていい」
速水は唇を噛み締め、最後に一度だけ、刺すような目で私を見た後、乱暴に踵を返した。
扉に手をかけた彼が、ぽつりと呟いた。
「……檻の中で吠えるのが、司令の仕事なんですね」
バタン、と重い扉が閉まる音が、執務室に響き渡る。
足音が遠ざかり、部屋には再び空気清浄機の低い唸りだけが残された。
檻の中で吠える。
全く、その通りだ。私は安全な檻の中で、若者に正論を吠え立てるしかできない。牙を抜かれ、首輪をつけられた老犬だ。
デスクの上の報告書に目を落とす。文字の羅列がぼやけて、意味を成さない。
「私だって……」
言葉が、虚しく空気に溶けて消えた。
◇
玄関の重いドアを開けると、微かにシチューの匂いがした。
靴箱の前に、妻の[[rb:舞彩子 > まさこ]]のパンプスと明花里のスニーカーが並んでいる。その隣に、少し間を空けて、見慣れてきた大きな革靴が一足。いつも几帳面に揃えてある。
私は自分の靴を脱ぎ、三足の並びを崩さないよう、端に並べた。
二世帯住宅に引っ越してきて、もうじき半年になる。この四足分の靴が玄関に揃う光景にも、ようやく目が慣れてきた。
「おかえり」
廊下の奥から舞彩子の声がした。
「ああ」
上着を脱ぎながらリビングへ向かうと、ダイニングテーブルに白いクロスが掛けられていた。普段は二階で食事を済ませる怜と明花里が、今日は一階に揃っている。
明花里がキッチンから顔を出した。
「パパ、今日一緒に食べようって思って。いいでしょ?」
「……ああ、もちろんだ」
返事をしながら、私はネクタイを緩めた。首の付け根が、一日締め付けられた痛みをじわりと放出する。
「今夜はビーフシチューです」
リビングの隅のソファから、穏やかな声がした。
怜が立ち上がり、小さく頭を下げる。白いニットセーターに包まれた、丸みのある体。その顔には、いつもの柔らかい微笑みが浮かんでいた。
「お義父さん、疲れましたよね。すぐ食べられますよ」
「ありがとう。……助かる」
私は曖昧に頷き、洗面所へ向かった。
蛇口をひねり、流水に両手を差し込む。冷たさが、一日分の熱を吸い取っていく。
鏡の中に、くたびれた中年のバーニーズマウンテンドッグ獣人がいた。
三色の毛並みは艶を失い、目の下に濃い影が落ちている。
速水の、あの若くて引き締まったシルエットが脳裏をかすめた。
私は鏡から目を逸らし、タオルで顔を覆った。
ダイニングに戻ると、四人分の食器が並んでいた。
舞彩子がシチューの鍋をテーブルの中央に置き、明花里がバゲットをスライスしている。怜は自然な動作で舞彩子の隣に立ち、盛り付けを手伝っていた。
この光景にも、随分と慣れてきた。
最初の頃は、自分の家のキッチンに知らない男がいることに、言葉にできない奇妙な感触があった。今はそれが薄れている。それが良いことなのか、どうなのか、まだ判断がつかない。
「今日、何かあったの?」
座った私の顔を覗き込んで、明花里が言った。
「疲れた顔してる」
「仕事だ。いつものことだ」
私はスプーンを取り、シチューの皿に向かった。
一口運ぶと、舌の上に牛肉の旨味と、じっくり煮込んだ野菜の甘さが広がった。妻の味だ。この味だけは、どれほど疲れていても喉を通る。
「怜くんが隠し味教えてくれたの。赤ワインとチョコレートを少しだけ入れるんだって」
明花里が怜を見て笑った。
「本当に美味しくなったよね?」
「……そうだな。美味いよ」
私は正直に答えた。
怜は「お義母さんの腕があってこそですよ」と、舞彩子に向かって穏やかに微笑んだ。舞彩子が「お上手ねえ」と笑う。
その遣り取りを眺めながら、私はまたシチューを一口すくった。
食卓の会話は、明花里と妻が中心だった。
明花里が職場の話をして、舞彩子が笑って相槌を打つ。怜が時折、柔らかい言葉で会話に加わる。三人の声は重なり合い、テーブルの上でちょうどいい温度を作っていた。
私はそれを少し離れたところから聞いていた。
疲弊した頭には、会話の細部を追う余裕がなかったが、この空気の温度は確かに感じていた。
誰かが笑うたびに、低く共鳴するような安堵が腹の底に溜まっていく。
「お義父さん、おかわり、どうですか」
怜が鍋のそばに手を添えながら、私に向いた。
「……ああ、もらおうか」
差し出した皿に、怜がシチューをよそった。大きくて白い手が、鍋のふちを丁寧に拭う。
私は礼を言った。
「ありがとう、怜くん」
「いえ」
怜は一言だけそう返し、また明花里の方へ顔を向けた。
不必要なことを言わない男だ、と思う。あの柔らかい外見から想像するより、余計なことをしない。それが、この半年でこの男について気づいたことのひとつだった。
食事が終わり、舞彩子と明花里が台所に立った。
怜が「手伝います」と腰を上げかけたのを、明花里が「いいから座ってて」と笑って制した。
リビングに残された私と怜の間に、静かな間が落ちた。
以前はこの沈黙が居心地悪かった。今は、ただ静かなだけだ、と思える程度には慣れてきた。
テレビの音声が低く流れている。
怜がテーブルの上のリモコンを見て、「何か観ますか?」と私に聞いた。
「いや、いい」
「そうですか」
それだけだった。
だが、怜はそのまま席を立たずに、お茶を一口飲みながらぼんやりとテレビを眺めていた。出て行こうとしないのは、私への気遣いなのか、それとも彼自身がここにいたいのか、私には判断がつかなかった。
キッチンから妻の笑い声が聞こえた。
明花里の声が続く。
私は目を閉じ、その声の流れに耳を傾けた。
疲れ果てた体の奥で、今日一日の重さが少しずつ、静かに沈んでいくのを感じた。
寝室のスタンドライトを落とすと、部屋は月明かりだけになった。
ベッドに横になると、マットレスが一日分の疲労ごと私を沈み込ませた。天井の木目が、薄闇の中でぼんやりと揺れている。
隣で舞彩子が寝返りを打つ気配がした。
「……今日、何かあった?」
低い声だった。眠る前の、抑えた声。
「……速水と揉めた」
「速水くんはいつも揉めるでしょ」
「そうだな」
私は天井を見たまま答えた。
舞彩子の三色の毛並みが腕に触れた。寄ってきたわけではない。ただ、近い距離に、いる。この感覚が、長年変わらない。
「怜くんのシチュー、美味しかったわね」
「ああ。美味かった」
「あの子、料理できるのね。明花里が幸せそうだったわ」
「……そうだったな」
台所から聞こえた笑い声を思い出した。妻と娘が並んで笑っていた、あの音。私にはあの輪に加わる言葉が見つからなかったが、それでも確かに、温かかった。
しばらく黙ったまま、月明かりが移動するのを二人で見ていた。
ふと、舞彩子が私の方を向いた。気配で分かった。
「……ねえ」
「何だ」
「したいの?」
暗闇の中で、耳が思いきりへたった。
「……そういうわけじゃない」
「顔に書いてある」
「暗くて見えないだろう」
「見えなくても、分かる」
舞彩子が小さく笑う声がした。忍び笑いのような、からかいと慈しみの混ざった声。三十年近く、ずっとこの笑い声を聞いてきた。いつまで経っても、この笑いにだけはかなわない。
「……意地悪だ」
私は小さく唸った。
「正直なの。どちらかと言えば」
「同じことだ」
舞彩子の手が、私の胸の上に乗った。
大きくてあたたかい手だ。同じバーニーズの血を引く、三色の毛並みに包まれた掌。結婚した日からずっと知っている手。
私は何も言わずに、その手の上に自分の手を重ねた。
それだけで、もう言葉は要らなかった。
舞彩子が体を傾けてくる。私の胸に額を押しつけるようにして、顔を埋めた。首筋に彼女の息が触れる。ゆっくりとした、静かな呼吸。
私は腕を回して、その背中を引き寄せた。
若い頃のように急かす必要がなかった。引き寄せれば、彼女も同じ速度で近づいてくる。それだけのことが、この年になってようやく分かった。
指先が毛並みをなぞると、舞彩子が低く息を吐いた。
互いの体の在処は、もうとっくに覚えている。どこに触れれば体の力が抜けるか。どこを撫でれば目を閉じるか。長い年月をかけて書き込んだ地図を、指先が辿っていく。
それはもはや、探索ではなかった。確認、と呼ぶのが近い。
まだここに、ちゃんとある、という確認。
「……疲れてるのに、ごめんね」
舞彩子が囁いた。
「逆だ」
私は答えた。
こちらが、求めているのだから。
月明かりが少し濃くなったような気がした。
言葉はその後もほとんどなかった。
静かな夜に、二人分の呼吸と、低い声と、シーツが擦れる音だけが溶けていった。
激しさはない。けれど、確かにそこには熱があった。
長い時間をかけて積み上げてきた、二人にしか分からない重みを、ゆっくりと確かめ合うような熱が。
全てが終わり、舞彩子が私の腕の中に収まった。
彼女の体温が、肌を通して伝わってくる。
今日一日ずっと張り続けていた何かが、静かに、音もなく弛んでいくのを感じた。
「怜くん、いい子よね」
舞彩子が、眠りに落ちる手前の声で言った。
「……そうだな」
「明花里も、嬉しそう」
「ああ」
「あなたも、もう少し打ち解けてあげてよ」
「……分かってる」
返事をしながら、私は天井を見ていた。
廊下の向こう、階段を上がった先に、娘夫婦の部屋がある。
この家の中に、もう一つの「夫婦」が存在するということに、まだどこか馴染み切れていない自分がいた。
それが何の感覚なのか、言葉にする前に、眠気が来た。
舞彩子の寝息が、規則正しくなっていく。
私は目を閉じた。
瞼の裏が、じんわりと暗くなる。
今日という一日の重さが、ようやく体の底に沈み、静かになっていった。
◇
応接室のドアを開けると、来客用に出されたインスタントコーヒーの薄い香りが漂ってきた。
今朝出勤した際、受付のスタッフから一枚のメモを渡された。
県警捜査一課の佐々木警部が来訪予定、とある。昨日の事件の事後処理が煩雑になることは想定の範囲内だったが、問題はメモの末尾にあった『別件についてもご相談がある』という一文だ。
長机を挟んで向かいに座る佐々木警部は、五十絡みのブルドッグ獣人だった。がっしりとした肩幅に不釣り合いなほどくたびれたスーツの袖口が擦り切れており、その目の下には深い隈が刻まれている。頬の肉が垂れ下がった強面の顔は、街の治安を守ることに人生を費やしてきた年輪そのものだった。
私は差し出された名刺を両手で受け取り、「お手数をおかけしました」と型通りの礼を述べた。
現役時代には一度もしたことのない所作だ。
「今回の件、速やかなご対応に感謝申し上げます」
佐々木警部はそう切り出し、報告書を開いた。分厚い指先が几帳面にページをめくる。
「被害状況なのですが、商店街アーケードの三棟に構造的な損傷が確認されまして。住民への補償と、危険建築物の立入禁止指定に関しては……」
書類の山が、テーブルに積み上げられていく。
私は頷き、メモを取り、担当部署への振り分けを即座に判断し、必要な承認のサインを入れていく。補償の窓口、罹災証明の手続き、マスコミへの情報開示の範囲。
かつての私には、想像もしなかった種類の仕事だった。
戦い終えた後は、次の戦いへ向かうだけだった。後片付けは誰かがやってくれていた。その「誰か」が今の私だと気づいた時には、既にこの椅子の上に座っていた。
背中の三色の毛並みに、じっとりと汗が滲む。モーニングコートよりは幾分ましだが、スーツというものは、どれほど着慣れても息苦しいままだ。
こめかみの奥で、血管がじくりと脈打った。
今朝、出勤前にすでに一錠飲んでいた。投薬間隔は四時間以上空けること——主治医の声が脳裏を横切る。
私はそれをゆっくりと吐く息で押し込め、ペンを走らせ続けた。
一通りの確認が終わり、佐々木警部が書類をまとめた後、少し間があった。
「もう一件、ご相談がございまして」
その声のトーンが変わった。先ほどまでの事務的な硬さから、何か踏み込みにくいものを扱う際の、探るような慎重さへ。垂れ気味の目元が、かすかに細くなった。
「神崎司令も、近頃報道されている失踪事件は、ご存知かと思いますが」
「ああ」
私は頷いた。
ここ二ヶ月ほどで、管内における中年男性の失踪届が急増している。
「現在のところ、行方不明者は七名。いずれも三十代後半から五十代の男性です」
警部はファイルを開き、写真の並んだページを私の方へ向けた。
「見事なまでに共通点がありません。サラリーマン、自営業、大学教員。年齢も生活圏もバラバラだ。ただ『中年の男性』という一点のみで括られている」
私は写真に目を向けた。
まるで、ランダムに選ばれたかのような面々。それなのに、全員が「中年の男性」という一点のみで括られている。
「失踪の直前に、不審な人物や車両を目撃したという証言は?」
「それが……ほぼ皆無でして」
警部は太い首をゆっくりと横に振った。
「防犯カメラの映像では、いずれも自分の意思で歩き去っているように見えます。まるで、ふと気が変わって——どこかへ行ってしまったかのように」
背中の毛並みが、ぞわりと逆立った。現場にいた頃、得体の知れない悪意の気配を嗅ぎ取った時と同じ感覚だ。金銭の要求も、政治的なメッセージもない。目的が見えない事件ほど、底冷えするものはない。
「我々だけの捜査には、限界があります」
佐々木警部は、ずんぐりとした体を折り曲げるようにして頭を下げた。
「ヒーロー支部として、公式に捜査協力をいただくことは、可能でしょうか」
また、決断だ。
支部のリソースをどこまで割けるか。速水たち現場のヒーローをこの事件に動かせば、通常の治安維持に穴が開く。かといって、無視できる件数ではない。
様々な試算が頭の中で走り始め、互いにぶつかり合い、正解という名の答えを出す前に霧散する。
ただのヒーローならば、こんな場面は来なかった。現場に飛び出し、手がかりを一本引っ張れば良かっただけだ。
「話は分かりました」
私は静かに答えた。
「ただ、現時点では当支部も人的リソースが逼迫しています。即答は難しい。近日中に、正式な回答をお伝えします」
「……そうですか」
警部は表情を変えなかったが、頬の肉がわずかに下がった気がした。
その沈黙が、胸に刺さった。
「ご多忙のところ、ありがとうございました」
丁寧なお辞儀とともに、佐々木警部は部屋を出た。ずっしりとした足音が廊下の向こうに遠ざかっていく。
静かになった応接室で、私はソファに深く沈んだ。
目を閉じた瞬間、こめかみで繋ぎ止めていた痛みが堰を切った。
眼球の奥を、熱した鉄棒で突き回されるような激痛。
三色の毛並みが総毛立つのが分かった。
私は上着の内ポケットから錠剤のボトルを引き出した。
『四時間以上の間隔を』。
まだ三時間も経っていない。
そんなことは言っていられなかった。
錠剤を二錠、掌に転がす。コーヒーの残りを口に含み、薬を飲み込んだ。
苦い。
昨日の速水の言葉が、まだ耳の奥に張り付いている。その上に、今日の決断の重さと、七人の男たちの無表情な写真が、ずっしりと積み重なる。
積み重なった全てが、錠剤と一緒に喉を灼きながら落ちていく。
胸の奥に沈んだそれらは、溶けることなく、これからも私の腹の底に居座り続けるのだろう。
飲み込んだ、だけだ。
消えたわけではない。
◇
玄関の鍵を開ける音が、深夜の空気にひどく大きく響いた。
時計の針は午前零時を回っている。
照明は全て落ち、一階の廊下は底冷えするような暗闇に沈んでいる。靴を脱ぐ微かな衣擦れの音さえも、この静寂の中ではノイズのようだった。
私は暗闇の中でネクタイを引き抜き、乱暴に丸めてポケットに押し込んだ。
一日中、司令室のモニターと報告書に睨み合い、神経をすり減らした。佐々木警部が残していった失踪事件の資料が、重しのように胃の底に居座っている。
足を引きずるようにして、洗面所へ向かう。
冷たい水で顔を洗い、この張り詰めた痛みを少しでも散らしたかった。
廊下の角を曲がった時だ。
洗面所のすりガラスから、柔らかい暖色の光が漏れていた。
誰かいる。
歩みを止め、息を潜めた。
かすかに、タオルの擦れる音が聞こえる。
私は洗面所の扉に手をかけ、少しだけ引いた。
「——あ」
湯気を含んだ甘い石鹸の香りが、廊下の冷気に流れ込んできた。
洗面台の前に、怜が立っていた。
バスタオルで濡れた髪を拭きながら、鏡を見ていたらしい。私の足音に気づかなかったのか、少し驚いたように丸い目を瞬かせている。
「……すまない。まだ使っていたか」
私は声を落として言った。
「いえ。ちょうど上がったところですから」
怜は静かに微笑み、肩にタオルをかけた。
湯上がりで上気した肌に、薄手のパジャマが張り付いている。
羊獣人の柔らかな白い巻き毛。それが湯気を含んでしっとりと重たげに揺れていた。
首元から覗くその体躯は、顎のラインから肩、胸板にかけて、全体的に丸みを帯びている。ふくよか、という表現が似合う柔らかいシルエットだ。
その体型を見て、ふと、シャツの下にある自分の腹回りの重さを意識した。
司令室の椅子に座り続けるようになってから、私の体もすっかり厚い脂肪に覆われてしまった。かつてのバネのような筋肉は見る影もない。
私と怜。犬と羊。種族も年齢も全く違うはずなのに、鏡の中に並んで映る二つのふくらんだシルエットが、奇妙なほど釣り合って見えた。
無意識のうちに、たるんだ自分の脇腹へ手をやりそうになり——私は慌てて、その手を硬く握り込んだ。
「お帰りなさい、お義父さん。遅かったんですね」
怜の声は、深夜の空気を乱さない、囁くようなトーンだった。
「ああ。少し、手こずってな」
私は洗面台に近づき、蛇口をひねった。
冷たい水が、白い陶器のボウルにぶつかって砕ける。両手で水をすくい、顔に叩きつけた。一度、二度。
水滴が毛並みを伝ってたるんだ首筋へ落ちる。
タオルに手を伸ばそうとした時、視界の端に白い影が動いた。
怜が、真新しいタオルを差し出していた。
「……ありがとう」
受け取る際、彼の指先がわずかに私の手に触れた。
温かい。
それは、私の体温が下がっているせいだけではない。彼自身の体が、内側から熱を蓄えているような、湿った温かさだった。
「お疲れのようですね」
怜は少し離れた場所から、私の顔を覗き込むように言った。
「顔色が、よくありません」
「いつものことだ。気にするな」
私はタオルで顔を覆い、深く息を吐いた。
暗闇の中で、こめかみの奥が微かに脈打つ。
また、痛みが来ようとしている。
薬は、もう飲めない。これ以上間隔を詰めれば、明日の思考に支障が出る。
「……頭痛ですか」
タオルの向こうから、不意に声がした。
顔を上げると、怜が私のこめかみの辺りを、じっと見つめていた。
彼の目には、遠慮や同情ではなく、もっと静かで、透き通ったものが浮かんでいた。まるで、私の皮膚の下で鳴っている血管の音まで聞こえているかのような、深い観察の目。
「いや、違う。ただの疲れだ」
私は嘘をついた。
娘の夫に、弱みを見せるわけにはいかない。司令官としての威厳、いや、父親としての意地のようなものが、痛みを押し殺させた。
「そうですか」
怜はそれ以上追及しなかった。
ただ、小さく頷き、私の横を通り過ぎようとした。
石鹸の甘い香りが、再び私の鼻腔をかすめる。
「お義父さん」
すれ違いざま、怜が足を止めた。
振り返らないまま、彼は低い声で言った。
「無理は、しないでくださいね。……明花里も、心配しますから」
その声の響きに、何か奇妙な重さがあった。
ただの気遣いの言葉。
それなのに、耳の奥に長く残るような、奇妙な粘り気。
私は言葉を返すことができず、ただ彼の背中を見送った。
階段を上っていく足音が、やがて二階の奥で消える。
洗面所に、再び一人きり。
鏡の中に濡れた毛並みの、疲れ切った自分の顔がある。
例の事件の七人の男たちも、こんな顔をしていたのだろうか。ふと、そんな考えが頭をかすめた。サラリーマン、大学教員、工場作業員——それぞれの深夜に、それぞれの洗面台があり、それぞれの鏡があっただろう。そして彼らはある日、家族が気づかないうちに、ふらりと外へ出て、戻ってこなかった。
防犯カメラには、自分の意志で歩き去る姿が映っていた。 私には、その気持ちが——わからない、と言い切れるだろうか。 私はその考えを打ち消すように、蛇口を強くひねった。
◇
深夜の執務室。網膜を焼くようなモニターの青白い光を浴びながら、私は電子ペンの尻で眉間を強く押し込んだ。
「第三セクターの夜間巡回ルート、B班からC班へ一部移譲。それに伴い……」
独り言のように呟きながら、画面上のシフト表をパズルのように組み替えていく。
佐々木警部から打診されていた、中年男性の連続失踪事件への正式な捜査協力。私は昨日、それにゴーサインを出した。
結果として、ただでさえ逼迫している現場のヒーローたちのシフトは限界まで切り詰められ、各部署から不満の悲鳴が上がっている。街の治安維持という絶対的な防衛網を薄く引き伸ばしてまで、手がかりすらない得体の知れない事件にリソースを割く。それが司令官としての私の「決断」だった。
正しかったのかどうかは分からない。現場にいれば、自分の拳の感触だけで正解を測れた。だが今の私には、上がってくる数字と報告書だけを頼りに、誰かの不満とリスクを天秤にかけることしかできない。
自分で下した決断の重さが、泥のように肩にのしかかっていた。首の付け根がじわりと熱を持ち始めている。また頭痛が来る。
卓上の直通電話が、唐突に無機質なコール音を鳴らした。
県警捜査一課からのホットラインだ。時計の針は午後十一時を回っている。背中の毛並みがぞわりと逆立つのを感じながら、私は受話器を取った。
「神崎だ」
『夜分に申し訳ありません。佐々木です』
電話口から聞こえてきた佐々木警部の声は、いつもの分厚く事務的な落ち着きを欠いていた。ひどく困惑したような、あるいは気味の悪いものに触れてしまったかのような、重い響き。
『——見つかったんです。先日の、失踪者のうちの一人が』
「なんだと」
私は反射的に身を乗り出し、手元の端末で失踪者七名のファイルを開いた。
「誰ですか。遺体で発見されたのか、それとも……」
『いえ、生きています。保護されたのはファイル番号四番、四十二歳の工場作業員の男性です。先ほど、隣町のバイパス沿いを裸足で歩いているところを、パトロール中の警官が発見しました。目立った外傷もありません』
無事に生還した。本来なら安堵すべき報告のはずだ。だが、佐々木警部の口調は一向に晴れないどころか、さらに濁りを増した。
「……何か問題が?」
『……それが、ですね』
呻くような声だった。長年、凶悪犯罪や泥沼のような人間の悪意と向き合ってきたはずのベテラン刑事が、ひどく言葉を選んでいる。
『身体的な異常はありません。薬物の反応もない。ですが、精神状態が……通常ではあり得ない。至急、ヒーロー支部としての判断を仰ぎたい』
「状況は」
『言葉で説明するより、見ていただいた方が早い。今、保護直後の映像データをそちらの専用回線に送りました』
短い電子音が鳴り、モニターの中央に鍵付きのファイルを受信したアイコンが点滅した。
パスコードを入力し、動画ファイルを開く。
画面に映し出されたのは、警察署の殺風景な取調室だった。パイプ椅子のひとつに、保護されたばかりの男が座っている。
彼は、ビーグル犬の獣人だった。
垂れた大きな耳は力なく下がり、本来なら愛嬌のあるはずの顔立ちは無精髭に覆われている。腹周りにはたっぷりとだらしない肉がつき、保護された時に着せられたらしいサイズの合わないジャージが、その太った体型を強調していた。どこにでもいる、若さと張りを失った中年の男。
『名前を言えますか。自分の名前です』
画面の外から、警察官の問いかける声がする。
男は焦点の定まらない目で宙を見つめたまま、ゆっくりと首を横に振った。
『ここはどこか分かりますか。ご家族のことは?』
無反応だ。自分の名前も、自分が誰なのかも、頭の中からすっぽりと抜け落ちてしまっているような、典型的な記憶喪失の反応に見える。
『では、自分について、何か覚えていることはありますか? なんでもいい』
その問いかけに、男の垂れた耳が、ピクリと跳ねた。
焦点の合っていなかった濁った瞳に、唐突に、燃え上がるような強い光が宿る。男は背筋を無理やりに伸ばし、自分の分厚い胸をドン、と拳で叩いた。
「自分は……ヒーローだ」
割れた、だが異常なほど確信に満ちた声だった。
「自分はヒーローだ。街を守らなければならない。誰よりも早く、一番に突っ込んで……それが、使命だから……!」
筋力もなく、特別な訓練も受けていない、だらしなく太った中年の男。彼が口走る「ヒーローとしての使命」はあまりにも滑稽で、だからこそ底知れない薄気味悪さがあった。
私は無言で映像を止め、佐々木警部との通話に戻った。
「……確認しました。確かに、これは警察の手に負えるものではないですね」
『ええ。自分の身元は一切分からないのに、「自分はヒーローだ」という妄想だけが完全に定着してしまっている。精神操作系のヴィランによる犯行と見て、間違いないかと』
「同感です。これ以上は警察では扱えないでしょう。ヒーロー支部主導の医療隔離と、能力者犯罪捜査班への引き継ぎを手配します。すぐに担当を向かわせましょう」
事務的な言葉を紡ぎながら、私は送られてきたもうひとつのファイル――初動の所見書類を開いた。
外傷なし。薬物反応なし。血液検査の数値も、一般的な中年のそれと大差ない。特記事項として『身元の分かる所持品は一切なし。ただし、着衣および頭髪から、微かに甘い石鹸のような香料の匂いが確認された』とあるだけだ。監禁場所で洗浄されたのだろうか。
意図が全く読めない。身代金目的でもなく、ただ中年の男をさらい、身綺麗にし、「ヒーローだ」という妄想を植え付けて放り出す。
「後の処理はこちらで引き取ります。夜分遅くに、ご苦労様でした」
『よろしくお願いいたします。神崎司令』
私は受話器を置き、改めてモニターの中で静止しているビーグル獣人の顔を見た。
映像は止まっているのに、彼が放った言葉が、耳の奥にねっとりと張り付いて離れない。
――自分はヒーローだ。街を守らなければならない。
哀れな被害者の錯乱だ。そう切り捨ててしまえばいい。だが、私の視線は、モニターの中の男のたるんだ腹回りと、生彩を欠いた毛並みからどうしても動かせなかった。
なぜ、この男はこんなにも滑稽に見えるのか。
ふと、モニターの黒い縁に、自分の顔が反射して映り込んでいるのに気がついた。
厚い脂肪に覆われた、三色の毛並みを持つ中年の犬獣人。
息が止まった。
反射した私の輪郭と、画面の中の男の姿が、不気味なほど重なって見えた。
狂信的な目で「自分はヒーローだ」と繰り返す、特別な力を持たない中年。そして、安全な執務室の椅子に深く腰掛け、過去の栄光にしがみつく空っぽの自分。
「……ッ」
腹の底から、冷たい泥のような吐き気が込み上げてきた。
私は反射的にモニターの電源を叩き切った。画面が真っ暗になり、私の顔だけがはっきりと映し出される。
その正体を思考が言語化する前に、肉体が悲鳴を上げた。
こめかみの奥が、じわりと重たくなった。爆ぜるのではない。静かに、冷たい水が脳髄に染み込むように広がる痛みだった。
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この続きは4月3日(金)公開予定です。
試し読みは、4月17日(金)まで四週連続公開予定です!