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[chapter:義兄弟
]
「アベンチュリンのーー」
「御十家への復帰?」
ふたりは声をそろえ、ユアンはうなずいた。
「そのとおり。しかも、思えばそれを最初に口に出したのはわたしだったのです。まだ学生で、たったひとりの継承者だったとき、わたしが皇帝になったら獣人の血が入っていようとなんだろうと関係ない、アベンチュリンを御十家へ、いや、ユーレアイト、カルセドニーと並ぶ継承権をもつ御三家へと格上げして体制を変えてみせると、そうわたしは生意気にも云っていたのです。そしてわたしがそのことを忘れ去ってもテディは忘れていなかった。ただし、本人もあのときは実現可能な夢だとは思っていなかった。ところがその後父親が亡くなって、降ってわいたように彼のまえに現れたのがアレクセイだった」
「アレクセイはーーたしか、テディとナイジェルの父親がよそに作った子、と聞きましたが。愛人の子だったとか。ルーク・アベンチュリンの?」
「はい。実はルーク・アベンチュリンの熊人の血は薄くてーーというのも、先祖が熊人と婚姻して家臣に降り、その後も何度か熊人を娶ったりもしたが、アベンチュリンは近代では純粋な人間同士で婚姻を重ね、ルークがその二代目でした。で、ルークが熊人のメイファと婚姻したためまた獣人の血が濃くなったわけですが、ルークにはメイファが亡くなったあと密かにいい仲になった相手がいて、愛妻を亡くして落ちこんでいたルークを慰め、励ましてくれたその友人とのあいだにできたのがアレクセイーーそしてお相手のその女性が純粋な人間だったために、ルークと彼女のあいだに生まれたアレクセイは貴族間の習いではぎりぎり純人間、とされるのです。ええと、この理屈はご存知で、」
「はからずもーーそういうことかしら、と推測はしておりました」
アルテミシア・ユーレアイトが口にした。獣人でも人間の血で清め続け、三代もすれば純粋な人間、と。ユアンがうなずいた。
「そうです。これがテディに犯行を決意させたのです」
「といいますとーー?」
「父親が亡くなって遺言書が公開されたが、その公開されたほうに書かれていたのがアレクセイのことでした。それまでアベンチュリン家では、アレクセイを引き取ってはいたものの実子として認知していなかった。とはいえルークのほうはアレクセイをじぶんの子だと明言していたし、テディにもナイジェルにも、おまえたちの弟だよといいきかせていた。もっというなら、ルークにはちゃんとアレクセイの母親を後妻として家に迎え入れる気がありました。しかしテディはともかくナイジェルはまだ幼く、当時から鋭かったナイジェルは、うすうす父親に恋人がいることを悟り、彼女を家に入れることをひどく拒んだ。まあ、ナイジェルにしてみたら、じぶんの母親が亡くなってすぐに父親が恋人を作り、その女性に母の座を継がせようしているなんてとうてい受け入れられなかったのでしょう。その女性もまた亡くなったために、アレクセイがアベンチュリンに引き取られることを納得したのは偉かったと思いますが、しかしそういった経緯があったからナイジェルは最初からアレクセイを憎んでいた。そして後にアレクセイも、すぐ上の兄に関してはじぶんを虐めるし罵るし散々な目に合わせるものだから、顔を見るのも厭だというほど嫌うようになった」
「なるほど。だからあそこまでナイジェルを嫌っていたわけですか。外道よばわりしていましたが」
「しかし、生まれはどうあれアレクセイはルークの実子。そしてルークは死の間際になって、やはりアレクセイにもふさわしい教育と安定した身分を与えるべきだと考えた。だから遺言書に、アレクセイを、テオドールとナイジェルに続くアベンチュリンの末子として認め、遺産の分配もあわせて認める、と書き遺したのです。それまでアレクセイはアベンチュリンの名を名乗ることすら許されてはいなかったが、これで正式にアベンチュリンの一員になった。ところが親戚一同がこれに猛反発した。アベンチュリンもセレスタインの血をひく名家、当主の死に際しては莫大な額の遺産が動く。相続者が増えればじぶんの取り分が減る、とーー騒ぎ立てたのはおもに、僅かなパイを取り合う末端の親戚たちですが、しかしこの連中が、なんの罪もないアレクセイの出自をなじることなじること。嫡男のテディはこれの説得と処理にそうとう手こずらされ、わたしもずいぶん手を貸しました」
「でーーアレクセイはその後?」
「いちおう正式にアベンチュリンの末子と認められています。ただしアレクセイのほうは幼いながらにじぶんを巡る兄弟肉親の骨肉の争いを目の当たりにし、アベンチュリン家にすっかり嫌気がさしていました。ですので息子の従者を探しているというユーレアイトから声がかかるや否や、もういい出て行く、と五歳にして兄ふたりに絶縁状をたたきつけて飛び出していった。そういう経緯だから、ほんとうに彼がアルジュナと気があってくれてよかったと思います。それに、獣人の血をひいているとはいえ貴族間では人間と認知される子でよかった。でなければユーレアイトでまた酷い目に合わされていたかもしれない。いまも厚遇されているとはいえませんけど」
「そんなことがあったのですかーー」
アレクセイ・アベンチュリン。ユーレアイトで育てられたため人間至上主義者というが、しかしこれまでの行動や発言から、一概にそうとはいえないとシュバリスは判じていた。たびたびシュバリスの身を案じてくれたし、主人の安全に関わるからという部分をおいても彼自身のじぶんへの好奇心をシュバリスは感じた。
(ずいぶん苦労した子だったのねえーー)
シュバリスは静かに云った。
「アレクセイは心配いりませんわ教官。至上主義者のそばにいるからといって、いいか悪いかの判断がつかないほどもう幼くはありません。アルジュナも、彼といる限り純粋な人間至上主義者になることはないでしょう」
「そうか。あなたがそうおっしゃるならそうなのでしょう。あのふたりはいいコンビのようだし」
「そう考えると、彼がユーレアイトに行ったのは正解だったのかもしれません」
「だがそれをずっとテディは気に病んでいました。ユーレアイトに行かせたくないからいっしょにあなたの従者にしてもらえないだろうかと相談もされた。もちろんわたしは受け入れたが、しかしすでにアレクセイの方が前述のとおり。テディは一貫してアレクセイを庇ったが、アレクセイにしてみたら、父親が亡くなった以上半分しか血の繋がっていない兄との生活は重荷でしかなかったのでしょうね。親戚からはずっと責められるし、次兄からは母の座を奪った女の息子と敵視されるし、ユーレアイトに移ってからはテディは頻繁に『うちに戻ってきていいんだぞ』『大丈夫なのかあの家で』と声をかけたり手紙を送ったりしていたが、それもアレクセイにとっては鬱陶しかったようだ。テディのほうはいたって真剣、というよりテディのほうはなんとしてもアレクセイにアベンチュリンに戻ってきてもらう必要があったのだが」
「というのはーーあの、アレクセイがいるからテディが、とは? アベンチュリンの御十家への復帰に、アレクセイの存在がどう関係するのでしょう? そもそも御十家とは?」
「ルークがテディにだけ残した遺言状に書かれていたのが実はアベンチュリン家の再興についてでした。知ってのとおり、皇帝家の分家はここ数百年でずいぶん数を減らし、継承権をもつ家が皇帝家のほかにユーレアイトとカルセドニーの二家族だけでは心もとないと世間でも取りざたされている。ーーそういえばちゃんとはっきり説明していなかったが、[[rb:御十家 > ごじゅうけ]]とはおよそ三百年ほど前に存在した[[rb:初代皇帝 > ハルトガルト]]直系の血を引く十の分家の総称です。ぜんぶで十家族、ユーレアイトもカルセドニーもかつてはその一部で、そのなかにアベンチュリンも含まれていた。だが紆余曲折あって、いまは御双家と呼ばれるユーレアイトとカルセドニーだけが継承権をもち続けている。いまどき時流にもあわないし、獣人の血が混じっていてなんの悪いことがある、ほかの家にも権利を与えるべきだと議会で議論されていますがーーそしてルークはそこに希望を見出していた。アベンチュリン家は家臣に降ってなお皇帝家と御双家を支えてきた大貴族だ。降格された分家のなかでもいまだ栄光を保っており、正式に継承権をもたせるための候補を選ぶとしたらまず筆頭にあげられる。『皇帝家および御双家は純粋な人間で構成される』というきまりがあるため獣人の血が再び入ってしまったアベンチュリンの復帰に難を唱えるものもいるだろうが、そのアベンチュリンが末子に純粋な人間の子を擁している、となれば」
「アベンチュリンが復帰する見込みはある、とーー?」
「はい」
ユアンはうなずいた。
「だからこそじぶんはその意図もあってアレクセイを正式にアベンチュリン家の人間にしておきたいのだ、とルークはテディに遺言書のなかで伝えていた。そして、来たるべき日にはアベンチュリン家が御十家へ復帰できるよう当主として立派に務めを果たし、その旨を次代にも伝えていくことーーくわえて冗談めかして、カルセドニー家のユアンが皇帝になってくれればおそらくアベンチュリンの復帰はより早く進むだろうから、おまえはじぶんの主人に精一杯尽くすのだぞ、と遺言に書いていたそうです。おそらく生前からそういう会話はあったのでしょう。しかしテディはこれを冗談ではなく真剣に受け止めた。父親が亡くなって[[rb:固有魔法 > マジック]]の封印が解かれ、アレクセイが正式に実子認定されると、あとはわたしが皇帝にさえなれば、と考えるようになった。子孫にこの課題を背負わせる必要はない、じぶんの代でアベンチュリンは継承権を取り戻せる、と」
「だからハダルを誘拐して魔力を奪い呪いをかけ、今年に入ってから聖遺物を強奪し主人の眼と足を奪い、アルジュナを殺そうとーー?」
「そうです。あのとき寮に侵入してアルジュナを刺したのも彼だった。アルジュナが死ねばますますわたしが皇帝の座をつかむ可能性が高くなるし、同時にアルジュナがいなくなればアレクセイはユーレアイトに居場所を失う」
「アベンチュリンに戻ってくる、一石二鳥である、とーー?」
「そうです」
なかなかぞっとする内容だった。もちろんアレクセイは遺言のこともテディの意図も知らないにちがいない。いや、薄々気づいていたからこそ、優しい長兄にあそこまで反発していたのだろうかーー複雑な人間関係に揉まれ、研ぎ澄まされた少年の感性が危険を察知していたのかもしれない。そう考えてシュバリスはため息をついた。
「つまり一連の事件は、皇帝の座をめぐる争いではなかったのですね。教官が皇帝の座についた先に起こるであろうこと、それこそが動機だった」
「はい」
ユアンはうなずいた。
[newpage]
[chapter:資格]
ユアンはしずかにつづけた。
「純粋な人間でなければ皇位継承権はもらえない。御十家にも復帰できない。そのためテディは、人間至上主義者の連中を納得させるため、当主の座をいずれアレクセイに渡すことも考えていたようです。そうなればアベンチュリンの御十家復帰はまったくありえない可能性ではなくなる。皇帝家や御双家の子どもたちが虚弱だったり早逝しているのと異なり、アベンチュリンの子どもたちはご存知のとおりみんな健康で丈夫で強い。テディもナイジェルも[[rb:巣球 > ネスボラ]]の有望選手だったしアレクセイも騎竜部では将来のエース候補。従者としてのテディは、だからこそ弱い主をじぶんが守らねばと使命に燃えていましたが、兄としては、これならうちの弟たちのほうがよほど皇位継承権を与えられるにふさわしい、と考えたのです。だからこそ、あくまでじぶんは臣下に甘んじることも覚悟の上だった。いっぽうで、受け継いだ莫大な財産をそっくり弟に与えてもいいと思うほど家族思いだった」
「それって家族思いなんですかね?」
低く呟いてアイドクレーズが眉間にしわをよせた。
「アレクセイにしてみればいい迷惑では? あの、彼はこのことをーー?」
「知りません。しかし公表されればすべてを知るでしょう」
「テディがアルジュナを、というのも?」
「知るでしょう。そのときどうなるか非常に心配ですーー義絶したとはいえ兄がじぶんの主を殺そうとしていたわけですから。しかし、テディのあれはいびつな家族愛かもしれないし、その思いが今回悲劇を生んだが、間違いなくこれまでの彼は忠義の徒、ずっとじぶんを盾にわたしを守ってくれた。なにくれとなく世話を焼いてくれたーーそのことだけはアレクセイにもちきちんと伝えておかねばなりません」
ユアンはゆっくりと噛み締めるように、従者についてぽつぽつと感慨をもらした。
「アレクセイにとっては、ただひたすら鬱陶しい兄であり当主であり、いまではとうてい許しがたい殺人未遂犯かもしれません。しかしそれでもわたしにとって、テディは信頼できる兄であり弟であり親友だった。わたしのような人間にとって、彼のようにいちずに、いついかなるときもそばにいてくれる存在は、ふさわしいことばがなかなか見つからないが家族よりよほど家族、半身といって差し支えありませんでした。両親は公務で忙しくなかなか会えない、立場上周囲がつねに気を遣い、頼んでもない便宜を図ってくれる、そんなとき幼い頃からともに過ごした兄弟同然の彼は、長じるにつれてほかのなににも代えがたかった。もちろん反発もありましたがーーご存知の通りテディは少々過保護でしたから」
「わかります」
院長室に忍び込んだときに見た慌てぶり。いま思えば演技だったわけだが、その後もことあるごとに彼の尽くしっぷりを目にしてきた。少々どころではない。
「しかしアベンチュリンの再興は、別にあなたが皇帝にならずとも実現する見込みはあったのでは。アルジュナでは難しいでしょうが少なくともハダルなら? 彼も獣人への偏見はないようだ、ハダルが皇帝になっても目的は達成できたのでは?」
「もちろん、ハダルが皇帝になった場合もアベンチュリン家が再興する見込みはじゅうぶんあります。しかしテディは、その昔わたしがアベンチュリンの再興をはっきり口にした、というところにこだわった。ハダルはまだ若い、議会を説得するほどの力をもつのはずいぶん先になる。くわえてハダルが皇帝になってもテディは彼の従者ではない、直接なにかを頼んだりする立場にはなれない。あくまでわたしが皇帝になってくれたほうがアベンチュリンの御十家復帰の件をそれとなく思い出させやすい、そう考えたのです」
彼にとってはぜったいにユアンでなくてはならなかったのだ。なるほどねえ、と主従は顔を見合わせ、深くため息をつきあった。その後アイドクレーズがさらに訊ねた。
「なるほど動機はわかりました。ただ、あの晩のことでひとつだけわからないことがあります。ギネヴィアはいつ気づいたのでしょう?」
あのとき教官室に現れたギネヴィア。テディと死闘を繰り広げた彼女は、いま思えば犯人が誰か、目的は何か、すべて知っていたようだった。ふたりが首をかしげていると「これはほんとうに彼女の慧眼に脱帽ですが」とユアンは眉根を寄せ「最初にあなたと会ったときだそうです」シュバリスを見つめてあごに手をあてた。
「あのときひょっとしたら、と思ったらしい。犯人はテディで動機はおそらくアベンチュリン再興ではないか、とーー[[rb:女王 > クイーン]]からのまた聞きですが」
「わたくしと最初に会ったときーーというと」
D11が変化したとき。しかし、いつ彼女が気づくタイミングがあったのか。考え込んでいると「読魔能力であなたを見たあと、気分が悪くなった、と彼女は云ったでしょう。三日完徹だからとか人間を読むのが得意じゃないからと理由をつけていたが、実は彼女が調子を崩したのは、あのときあなたが首から下げていた指輪のせいだったそうです」
「指輪ーー?」
それはすでに証拠品として騎士団に提出してあった。指輪についてもふたりが未だに理解できないことだった。ユアンがうなずいた。
「廟で拾ったそうですね。あなたがずっと持っていたあの指輪は、間違いなくテディのものです。あのときギネヴィアはあなたの持っていた指輪にテディの気配だけでなく彼の悪意も読み取ってしまい、それで魔力酔いを起こした」
「しかし、わたしたちが確認したところ彼が受け取った記念の指輪はひとつだけです。そして彼はそれを廟で落としていったーーなのにその後もずっと指輪を持っていたのは?」
「ルークの指輪です。テディは、父親から受け継いだ形見の指輪をかわりにつけていたのです」
「形見ーー、」
「その後ギネヴィアは、わたしからいろいろ詳しく聞くうち、推測を確信に変えた。わたしが皇帝になったらアベンチュリンを、という学生時代の発言もちゃんと覚えていて、動機はこれだと早々に看破し、以後はずっとテディの行動を注視していた」
「そんなに前からーー?」
ため息をつくふたりに、ユアンも感慨深そうにうなずいた。
「ギネヴィア・ルネ・マリー・トリッチトラッチはゼロから一を生み出すのみならず一を十にも百にも展開することができる本物の天才です。彼女のことを単にエキセントリックな女性だと思っているものも多いが、ほんとうの彼女は、相手の望むことがなにか的確に把握し分析し、相手に応じて即座に対応を変え一瞬で相手を観察しきる。ハダルとあなたの魔力をもってしてもテディはギネヴィアを騙しきれなかった。彼とずっと一緒にいたわたしはこの体たらくだというのに」
とほほ、というようにユアンは肩を落とした。
「……ギネヴィアは教官を褒めていらっしゃいましたわ。お作りになられた印を、芸術的だ、こんなことができるのはあなただけだと」
「印陣だけはね」
ユアンは乾いた笑みを浮かべ、ゆっくりと頭を振った。
「しかしまあとにかく、指輪が彼のものだったということは、あなたたちを襲ったのも間違いなくテディです。アルジュナを襲ったのもそう。アルジュナが襲われた夜、わたしはちょうどシオン廟エステル廟侵入事件について団長とここで話し合っていました。その後テディとともに[[rb:教官宿舎 > ロッジ]]に帰った。ところがテディは、わたしと彼とふたりで暮らす自宅に戻ったあと、ひとりで周囲を確かめてくると云ってふたたび出て行った。わたしは浴室に行き、出てきたときにはすでにテディがいたものだからなにも気づかなかった。ほんの十五分ほどのあいだに、彼がそんなだいそれたことをしでかしたとは露ほども思わず、[[rb:魔力残渣 > オーラ]]を確認もしなかった」
「ーーなるほど。ではナイジェルの件は? 寧華宮での発表会の夜、彼は結局わたしたちを助けようとして教官室に来てくれたようですが、その直前にいたのは王宮でした。逃亡犯がやすやすと王宮に侵入できるなど普通は考えられません。それに、手配されてから半年以上ものあいだナイジェルはいったいどこにいたんでしょう」
「それについてはーー」
ドアがノックされた。ユアンが立ち上がり、迎え入れたのは当のナイジェル。シュバリスたちが驚いていると「どうも、おふたかた」と、連行されるときもそれ以前も陰鬱な表情しか見せていなかったナイジェルは、見違えるようにさっぱりと明るい顔でふたりにかるく頭をさげた。実際、顎から頬を覆っていた無精髭が綺麗に剃られ、蓬々と伸びていた髪も短くなっていた。
「先ほど釈放されました。小屋にいったん戻ってからこちらに。ユアンに詫びたかったし、あなたがたがここにいるならあなたがたにも先に詫びたかった。じぶんの口から説明もしたかったしーーなにはともあれ、いろいろ申し訳なかったユアン。許してくれ」
「こちらこそ。すまない、なにも気づかずてっきり君だと思っていた」
ふたりは握手を交わした。「おたがいさまですね」とナイジェルはシュバリスたちにむきなおると、今日は騎士団の制服ではなく白いシャツにジーンズというラフな服装で、シュバリスたちにも深々と頭をさげた。
「あらためまして、ナイジェル・イベリス・アベンチュリンと申します。あの夜も云ったが、わたしはずっとユアンだと信じて疑ってなかった。教官室でテディに首を絞められてさえ黒幕はユアンだと、あの優しくて愚かなテディにはどだい無理なことだと思っていました。それがーー」
「ああそうですか。で、あなたはどこにずっと隠れていらしたので?」
感傷は要らないとばかりにアイドクレーズがぶったぎり、ナイジェルはすぐに答えた。「王宮にいました。手配されてからずっと、わたしを匿ってくださっていたのは皇帝陛下です」
「ラーゼス陛下?」
「そうだ」
「わたしとテディが兄弟同然だったように、ハダルとナイジェルも兄弟同然だったのです」
横からユアンが云った。
「ナイジェルもごく幼いころからセレスタイン家に仕え、ハダルと一緒に育った。皇帝夫妻にとっては我が子同然、ゆえに手配当初からナイジェルを無実だと信じ、ひそかに彼を王宮に匿っていた。そして」
「皇帝陛下は、事件が起こってから早々にテディが怪しいと睨んでらしたのです」
ナイジェルがちょっと眉間にしわを寄せた。
「我々にはとうてい理解できない人智を超えたマジックゆえに。ただし立場上直接そのことを騎士団に告げるわけにはいかず、わたしをアベンチュリンの屋敷に侵入させてそのことを露見させ、騎士団に圧力をかけてテディを拘束させた。しかし下達がうまくゆかず、ユィリエ・シャマールをもってしても彼を真犯人と断定する証拠をつかむことはできなかった。シャマールの能力はたしかに偉大だが、適切な質問をせねば答を得られないという欠点がある。急な事情聴取では質問の精度を上げることができなかった。だからテディは釈放されてしまった。陛下のほうはあれで事件が解決すると踏んでらしたようだが」
「しかし、あのときナイジェルは今回の事件の動機に関する重大な証拠をつかんだ。テディが受け取ったルークの遺言書をナイジェルが屋敷で見つけてくれたーーあれが今回テディの動機を解明するのに大きな役割を果たした。そうだなナイジェル?」
「はい。夏にわたしが実家に侵入してたいへんお騒がせしましたがーーしかしユアンには申し訳ないが、あのときわたしはテディがユアンに操られている証拠を探すために実家に行ったんです。父の手紙を一読し、これは単に皇位継承権に絡む問題ではないかもしれないとわたしも気づいたが、内容を見てもこれを餌に兄はユアンに操られているのだとしか思えなかった。アベンチュリンを御十家に復帰させてやるから云うことをきけ、とーーおおかたそんなところだろうと」
「仕方ない。どちらにしろ最大の利益を被るのはわたしだったし」
ユアンが静かに笑い、「そうですね」アイドクレーズもうなずいた。
「あなたはテディがユアンに操られていると思い込み、テディはあなたを犯人に仕立てようと全員をだまし、わたしたちは継承権にからんで利害のあるものを片っ端から疑い、ギネヴィアだけがすべてを知ってわたしたちを守ろうとしたが失敗したーー終わってみれば、なあんだ、というようなことですが、しかし」
まだひとつだけ解せないことがあった。
「なぜわたしたちは巻き込まれたのでしょうか?」
いまとなってはそちらのほうがふたりにとって理解しがたかった。
「思い返せばテディは最初から知っていた、蛇神シュバリスが生きていることもシュバリス廟の地下にいることも。だから彼は足を切り落とし眼を奪っていった。そしてあなたがたも知っているようだ」
アイドクレーズは静かにユアンとナイジェルに視線を移し、「そしてハダルでさえ。彼も呪いによって正常な思考を失っていながら、最初からうちの主人の正体を知っていたふしがある。会ったその日にうちの主人を女神と呼びましたからね。皇帝陛下もご承知のようだった。千年前に死んだはずの、すでに伝説の人物だというのに」
「それはーー」
ナイジェルは口ごもり、ユアンとともに顔を見合わせた。やがてユアンが真面目な顔でうなずいた。
「そうです、知っていました。そしてたぶん、あなたがご存知ない事実、この国が千年にわたって秘匿してきた真実もわたしたちは知っています」
わたしが知らない真実? シュバリスは首をかしげた。そんな彼女に「[[rb:女神様 > ディーズ]]。あなたには、帝都ミクラで暮らしていた日々のことも、ハルトガルトとの別れに際しての詳細も、どこかしらまったく思い出せない箇所があるのではないですか?」ユアンが静かに訊ねた。
「じぶんがなぜ初代皇帝と別れたか、なぜヤハンに隠棲することになったのか、なぜいま蛇人族だけが不遇をかこっているのかーーその理由がじぶんにあるといま知って、なぜじぶんは当時手を打たなかったのだろう、そう思いませんでしたか?」
「思いました」
シュバリスはこくりとうなずいた。
「わたしがほかの六人のように表舞台にたって一族を率いていたらいまこんなことにはならなかった。ひじょうに後悔しています。そして疑問に思っています。なぜわたしはあのときーーハルトとの別れがあんなにショックだったのか、千年も立ち直れなかったのか」
アイドクレーズも云っていた、シュバリスはあまりにいろんなことを忘れすぎている。ドーリスのことしかり、寧華宮のことしかり。シュバリスの眼差しをうけ、表情を和らげてユアンはうなずいた。
「お茶を淹れなおしましょうか。ここからはたぶん、事件の話より長くなります」
テディほどは上手に淹れられないが、とユアンは笑った。
[newpage]
[chapter:ふたつの心臓]
全員ぶんのお茶の入ったカップをテーブルに置くと、ユアンは口を開いた。
「まず、なぜあなたがたが巻き込まれたか、という話からしましょうか。そもそも今回の事件がここまで複雑化したのはひとえにあなたのおかげでした、蛇神シュバリスさま。あなたが地上に現れたことで彼の計画はなにもかも狂ってしまった。アルジュナを助けたこと、ナイジェルとともに倉庫へ行き早々に足を取り戻してしまったこと、まったく予想もつかなかっただろう原本の件、そこでギネヴィアと出会い彼女にこの事件へ関心をもたせたこと。ぜんぶあなたがいなければ起こらなかったーーだからこそテディは執拗にあなたを排除しようとした。あなたさえいなければ計画は完璧に遂行されていた。だれもテディが犯人などと思いもせず、捕まることもなくすべてが終わっていたはずです。しかしあなたは追ってきた。そしてそのことが、事件の犯人をごくごく限られた人間へと狭める決定的な鍵となったし、彼が逮捕されるきっかけになったーーその鍵は、あなたがいまだに生きていることを知っているものは誰か、ということです」
「わたしが生きていることを知っているのが誰か?」
おうむがえしにシュバリスは呟いた。「ふつうに考えればありえない」アイドクレーズが眉間にしわを寄せた。「だって蛇神シュバリスは千年も前に死んでいます。ほかの六人が天寿を全うして亡くなり、それぞれの廟に建国神として祀られているのと同様このかたを祀る廟だって建ってる。シュバリスがその地下でのうのうと生きてるなんて、いったい誰が思うのか」
ユアンがうなずいた。
「あなたの生存を知っているものは、人数としてはそう多くはありません。ぜんぶあわせても六人ほど。[[rb:太后宮 > たいごうぐう]]さまもお入れすると七人」
「太后宮とおっしゃいましたか。それはつまり」
「ラーゼス陛下のお母上、前皇帝です」
「そのかたが、わたくしが生きていることを知っている?」
「そうです。つまりこの七人とは、すべてセレスタイン皇帝家の関係者です。正確には、わたしをふくめかつて皇位継承者として教育を受けた人間、そしてその従者」
「皇位継承者ーーと、その従者だけはわたくしが生きていることを知っているーー?」
「ただしアルジュナとアレクセイは除きます。アルジュナは儀式を受けていませんから」
「儀式?」
「七人のうちわけはこうです」
シュバリスの疑問には答えず、ユアンはつづけた。
「まずはヒュパティア前皇帝、それに現皇帝であるラーゼス皇帝陛下、それから、ラーゼス陛下以前に筆頭皇位継承者とされていたわたしの父と、ハダル、ナイジェル、テディ、そしてこのわたし、あわせて七人。このうち今回の犯行を行う時間的、体力的余裕と動機があり、あなたの眼と足を奪うことができるのは、ハダル、ナイジェル、テディ、わたしの四人。しかし、この四人が所持していたあなたの情報はというと、内容にかなり差がありました。とくにナイジェルは、蛇神シュバリスが生きているということのみしかほぼ知ってはいなかったし、たぶんいまもあなたについてよくご存知ない」
「そうです」
ナイジェルは深々とうなずいた。
「わたしは蛇神シュバリスがヤハンのシュバリス廟地下で生きていることは知っていましたが、あなたがどういう人物か、性格や容姿はほとんど存じ上げなかった。その眼にどれほど魔力をもっているか、手に入れればどうなるかも知らなかった」
「では、あなたはそもそもわたくしの眼や足を奪おうなどとは思いつきもしなかったのね? ハダルを助けるためだとしても」
「はい。ハダルは十一のとき儀式に臨んだが、当時すでに呪いに蝕まれ、見聞きした詳しい情報をわたしにうまく説明できませんでした。そのためわたしは、蛇神がいまも生きているとはかろうじて聞いていたが人物像についてはD11から組み立てるほかなく、『まだ生きている復讐の女神』以上の認識はもっていなかった」
「いっぽうわたしは」シュバリスが口をはさむ前にユアンが云った。
「十一で儀式を済ませたのちたびたびテディにも真実を伝えていました。彼は獣人としてあなたとハダルの話をきいて喜んでいたし、その後もすすんであなたの話を聞きたがった。だからわたしと彼は、ほぼ正確にあなたの容姿も性格も千年前に何をしたかも情報を共有していた。その眼を奪えば莫大な魔力が手に入ることも」
「待ってください」
アイドクレーズが困惑した様子で手をふった。
「どういうことですか。そもそもなぜあなたがたはこのかたの生存をご存知で? 眼のほうにこそ足より強大な力が秘められていることも? おふたりとも、十一のときの儀式がどうとかおっしゃいましたが、それはいったい」
「記憶を継承する儀式のことです」
「記憶を継承ーーえっ?」
「シュバリスさまは、ハルトガルトの[[rb:固有魔法 > マジック]]について憶えてらっしゃいますか。千年前は固有魔法という概念もなかったと存じますが、彼はどんな魔法が得意だったと?」
「魔剣の召喚は知っています。それから千里眼や透視、ごく狭い範囲での未来予知。あとは教官が図書館で、彼の魂の一部が原本に移されているとおっしゃいましたが、それも彼のマジックですね?」
「ええ。ですがほかにもあるのです。その、数多ある初代皇帝ハルトガルトの[[rb:固有魔法 > マジック]]のひとつが、自身の記憶の外部化でした」
「記憶の外部化?」
「はい。彼は自分の記憶を[[rb:魔晶 > クリスタル]]に封じて残すことができました。そしてその記憶の魔晶は現在も皇室に伝わり、歴代の皇位継承者はしかるべき年齢に達するとその魔晶に触れて[[rb:初代皇帝 > ハルトガルト]]の記憶を見ることを許されます。これを『継承の儀』といい、単に儀式と呼ばれている。現在では十一歳に達した筆頭皇位継承者が行う。わたしも十一のときに見ました。そしてハダルも」
「はーー?」
「待って。ちょっと待って、ハルトガルトの記憶?」
ふたりが顔を見合わせていると、「彼が経験してきた人生の記憶です」とユアンがうなずいた。
「それを見れば、まるでじぶんがハルトガルトになったかのように当時のできごとを追体験することができます」
「ハルトの視点から。当時のできごとを追体験?」
シュバリスは目をしばたかせた。
「ってことはつまりーー?」
「はい。ハルトガルトが出会い、見聞きしたもの、こと、ひと、ほかの王たちとどのように戦い暮らしてきたか、彼の幼少期から死ぬ前まで人生のおおよそのことがそれでわかってしまうのです。もちろんひとの記憶は膨大なものだからところどころ抜け落ちてはいる。D11を含めた原本に魔法をかけた部分なども抜け落ちた部分です。しかしそれでも、当時ハルトガルトがなにを見、なにを聞き、感じ考えていたかはほぼすべて正確にわかる。彼が本当は誰を愛していたかも。もっとも鮮明な部分は、まさに彼がエウレシアを統一せんと仲間を集め、戦い、建国を宣言した青年期のころですから、その時代の記憶はとくに長く膨大で、そして濃密です」
「てことはーーその記憶には、あの」
幸せだった時代がばっちり含まれているとしたら? ハルトガルトが見たものがそのまま記憶になっているというなら。シュバリスの額にぶわりと汗が浮かんだ。
「記憶ってーー記憶を見聞きするってつまり?」
ユアンはちょっとシュバリスから視線を逸らした。その頰にうっすらと赤みがさしているのに気づいてシュバリスは絶叫しそうになった。
「なんっーーまさか、まさかそういう記憶もぉ!?」
「ご安心を、暗くてその部分は映ってません。初代もその部分はちゃんと隠されていましたし」
「ひっ」
「しかし」
戦慄するシュバリスにユアンは咳払いし、あらためて口を開いた。
「だからこそ断言できるんです、歴代皇帝は、蛇神シュバリスは娼婦ではないと。現皇帝もハダルも、当時筆頭後継者として儀式を経験したわたしも、蛇神シュバリスは間違いなくハルトガルトの親友で恋人でパートナーだった、嘘偽りなくふたりが愛しあっていたと知っていた。じっさい、初代皇帝の記憶を見たら、あなたはきっと彼の目にじぶんがこんなふうに映っていたのかと驚かれることでしょう。ひとたびあなたが視界に入れば彼の目にはあなた以外に誰も映らなくなる。戦いのときでさえ頭の片隅にあなたがいる。帰還したらあなたを抱きしめる、あなたと睦みあう、勝利したあかつきにはあなたの笑顔や抱擁やキスが与えられる、そう思ったからこそハルトガルトは最後まで戦うことができた。あなたがいたからどんな劣勢になってもあきらめなかった。洞窟で震える孤児だったあなたが、治癒と防御の魔法を身につけ[[rb:戦乙女 > バトルメイド]]へと変貌するあいだも、死者を慰め送る巫女の役目を負っても、彼の最後の切り札として[[rb:皇后 > アウグスタ]]と呼ばれるようになってからも、あなたはいつも彼の希望の光で、じっさい彼の目にあなたは光り輝いていた。たしかに最初に彼があなたを探し求めたのは、あなたが秘めた巨大な魔力やマジックのためでした。帝国統一という啓示達成のための狡猾な打算があったことは否めない。しかしそれでも、幼い頃のあなたを洞窟で見つけたときからハルトガルトはあなたに特別な感情をいだいていた。やがて旅のあいだ、妹のような存在なのだといいきかせていた思いを否定せざるを得なくなり、肩を並べる親友では足りず、抑えがたい激情を無視できずあなたへの恋を自覚すれば、彼をひきつけるあなたの光は衰えるどころか日々増すばかり。あなたに思いを告げたとき、あなたが受け入れてくれたとき、ともに戦い、守りあい癒しあい誓いを交わしたとき、そして別れるときまでずっと、彼が思い続けたのはあなたひとりでした。彼の記憶の中で、燦然と輝く女神として君臨していたのはあなただけ」
「そーーれは、えっと」
「ドーリスは最初から最後までただの背景、一介の部下のひとりでした。彼の記憶に触れたなら、のちに彼女が皇妃になるなどとうてい信じられないでしょう。しかし」
「じっさいはドーリスと結婚したーーそれもいろいろと事情があったような気はいたしておりますけど」
「そう、事情」
ふとぽつりとユアンは云い、穴のあくほどシュバリスをまじまじと見つめた。シュバリスは首をかしげた。
「なんでしょう?」
「その事情を、あなたはどこまで憶えておいででしょうか?」
「ーーどうしたのです、急にあらたまって」
「いえ」
ユアンは細いあごに手をあてて考え込んでいた。
「ドーリスの兄のことを憶えておいでですか。建国末期、かなり長い間にわたって彼に脅迫されていたことは?」
「なんとなくーー」
それが決定的にハルトガルトとの関係を諦めるきっかけになったのだ、たぶん。そう告げるとユアンはうなずいた。
「そのとおりです。当時のエウレシアでは、獣人と人間は結ばれるべきでないという強固な掟があった。ただしあなたとハルトガルトの仲は仲間内で黙認されており、ドーリスの兄ゼロスも、渋々ではあったが反対勢力と戦をしているあいだはふたりの関係を認めていました。しかしいよいよ統一がなされ、領土分配、建国宣言、戴冠式を経ての皇帝即位など実務的な段取りをつけるとき、これが大きな問題になった。ゼロスをはじめ純粋な人間たちがおふたりの仲を裂こうとしはじめた。あの戦争は獣人たちの解放戦争も兼ねていたが、しかしそのリーダーであるハルトガルトが獣人であるあなたと正式に結婚、あなたが皇后の座につくとなると、いまだ根強く獣人と人間は交わるべきではないという考えをもつひとびとが、ハルトガルトの皇帝即位に反発する可能性があった」
「はあーー」
皇后になりたいなどと思ったことはない。だから別に、自分は一介の蛇人族の長、そういうかたちで構わなかった。シュバリスが曖昧に首をかしげていると、
「人間たちはそうは思わなかった」
ちょっと悲しげにユアンは云った。
「従来どおりあなたとハルトガルトの非公式な夫婦関係を続けていると、あなたが皇后の座など望んでいないにしろ、ハルトガルトが皇帝即位すればあなたは自動的に皇后になる。どうしてもそうなってしまう」
「はあーー」
「それを人間たちは認められなかった、だからあなたは脅迫を受けたーーが、」
ユアンは迷っている様子だった。ためらうように口を開きかけてやめ、やがて彼女をじっと見つめて云った。
「シュバリスさま。あなたが明確に憶えていらっしゃるのは、ハルトガルトとパートナーだった、恋人同士だったという部分だけですか、やはり」
「はあ」
ユアンの発する妙な雰囲気をふしぎに思いながらシュバリスは首をかしげた。
「そうです。セレス市に来てから、以前はまったく思い出さなかった昔のことなどよく思い出すようにはなりましたけど」
「ではその、これからわたしがお話しすることは、あなたにはとても衝撃的な事実だと思うのですが……」
「はい。なんでしょう?」
今回の事件を超えるショックなどそうそうない。そうシュバリスはたかをくくっていたが、次にユアンが口にしたことばに、文字通り衝撃を受けた。
「さきほどわたしは、蛇神シュバリスは間違いなくハルトガルトの親友で恋人でパートナーだった、と申し上げましたが、現実にはあなたとハルトガルトはちゃんと結婚していました。人間と獣人との婚姻が禁忌と呼ばれた時代のことでしたから記録には残っていませんが、あなたとハルトガルトは仲間内で結婚式もきちんと挙げています。正式に夫婦の関係でした、まちがいなく」
「――ああ」
結婚。そのことばが脳裏に浸透していくと同時にしかし、シュバリスは「式なんて挙げてないわ」と呆然と呟いた。
「まさか。ぜんぜん記憶にありませんけど」
「あなたが憶えてなくともたしかに挙げています。せんだってあなたも訪れた寧華宮の後背部、そこにある聖堂で、あなたとハルトガルトは互いへの愛を大神ジヴァに誓い、ほかの五人や近しい人々、列席者に祝福されて夫婦となっています」
「え……」
呆然とするシュバリスにユアンは「まちがいない。わたしはこの目で見ましたから」と空中に視線を彷徨わせた。
「結婚式の日、あなたはアリスが仕立ててくれた白いドレスをお召しになっていた。ふだん戦場で血の汚れを隠すため黒一色の衣装をまとっていたハルトガルトも、その日はあなたにあわせて白を身につけた。そしてあなたの柘榴の眼と彼の青い眼、ふたつが混ざり合った紫が、白と並ぶその日のシンボルカラーだった。夜明けとともにひっそりと行われた結婚の儀式の直前、ハルトガルトは控えの間にあなたを迎えにいき、その[[rb:白金 > プラチナム]]の髪に手ずから紫のリボンを結びました。そのときにあなたがじぶんに見せた笑顔のまばゆさーー純白のドレスを纏ったまだあどけなさの残るあなたは、痛々しささえ感じるほど可憐で清純な花嫁でした。その後何度となくハルトガルトはあなたのそのときの姿を思い出しては、あなたへの思いに狂おしく胸を焦がしていましたよ」
「そんなーー」
「そして、あなたとハルトガルトが結婚していたとなると、次に起こりうることも想像できると思うのですが、いかがですか。結婚の次に起こったできごとは」
「次。……次?」
「子どもです」
ユアンは探るようにシュバリスを見つめた。シュバリスは、彼が何を云っているのか理解できなかった。
「あなたは妊娠し出産しました。あなたとハルトガルトのあいだには子どもがいました。名前はブラッサムとコスモス、息子と娘」
「むすこと、むすめ……?」
隣でぎょっとしたようにアイドクレーズが身じろぎした。ナイジェルもだ。ぽかんと口を開けている。シュバリスもだった。
「なにそれ。どういう……?」
「あなたたちのあいだには子どもがいました。長男と長女、兄と妹のきょうだいです」
「きょうだい。子……って。あの――恐れ入ります、それはわたしの――わたしが?」
「はい。あなたがお産みになった子ですシュバリスさま。その後ドーリスとハルトガルトのあいだには子どもが生まれませんでしたから、ハルトガルトの実子はあなたが産んだその二人だけです」
「ちょっと待ってくれユアン。ブラッサムとコスモス? その名はつまり」
ナイジェルが横から愕然としたように声をあげた。口元に手をあて、難しい顔で考え込んでいる。
「ということは、つまり――」
「そうです」
かるくナイジェルにうなずきかけると、ユアンは云った。
「ブラッサムはその後ハルトガルトの跡を継いで二代目皇帝となり、三代目、四代目と彼の血筋がその後も連綿と皇帝の座を継いでいます。コスモスも皇女として婿を迎え、セレスタインの血筋を現在まで伝えている。つまり、あなたとハルトガルトの実子であるブラッサムとコスモスこそが、千年続くセレスタイン皇帝家の直系の祖。いまここにるナイジェル、ラーゼス陛下にハダル、アルジュナにアルテミシア、テディにアレクセイ、もちろんわたしも含め、全員があなたの血を引くあなたの子孫です。あなたは真実この国の国母であり祖たる女神、真の初代皇后です」
もはや誰も発言しなかった。シュバリスもアイドクレーズもナイジェルもことばを失っていた。ユアンが云った。
「しかしそのことは正しく伝わっていない。ナイジェルの反応をみればわかるとおり、ブラッサムもコスモスもドーリスの産んだ子とされている。それはなぜかというと、さきほども云った人間たちの反対によるものです。特にドーリスの兄ゼロス。建国宣言と戴冠式が行われる前、ゼロスはあなたをこう脅迫していました。ハルトガルトと別れ、妹に皇后の座を譲らなければ、当時すでに生まれていた子どもたち、ブラッサムとコスモスを殺す、と」
「は……」
(子どもを殺すーー? わたしの子を? あのふたりを?)
(そんなの許さない――ぜったい許さない!!)
瞬間、シュバリスの全身にぞくりと震えが走った。それはじぶんでも驚くほど強い感情だった。おののくシュバリスを見つめて静かにユアンが続けた。
「あなたがハルトガルトと別れた原因はこれです。あなたは子どもたちを守るためにハルトガルトとの別れを決めたのです。もちろんハルトガルトはゼロスをきびしくとがめましたし、あなたを守るためにゼロスを抹殺することまで考えました。しかしそうすれば、中期から多数の軍勢を率いて味方に加わり、当時軍の中枢をなしていたゼロスの一派を敵にまわすことになります。建国が達成されていたとはいえ、いまだ創設期にあたる時期に人間たちとおおっぴらにことを構えるわけにはいかなかった。だからこそハルトガルトも、あなたと別れるという苦渋の決断をしたのです。そうせざるをえなかった」
「ま……待ってください……」
愕然とシュバリスは呻いた。まったく身に覚えがなかった。
「こど、も……? こどもたち? わたしとハルトの、わたしが産んだわたしの子ーー男の子と、女の子?」
「はい。正式な名を、ブラッサム・ロディア・イスラメイ‐セレスタインと、コスモス・エキドナ・プラテアド・イスラメイ‐セレスタイン。まちがいなくあなたの子です」
「待って。だって、だってわたしーーわたし、なにも」
「はい」
わかっています、というようにユアンはうなずくと、「ひとまず続けさせてください。そうーーそういう理由であなたとハルトガルトが別れたあと、子どもたちはハルトガルトが引き取り、ふたりはドーリスとの子として育てられました。セレスタインと並んでつけられたはずのイスラメイの姓は消し去られ、子どもたちは、ハルトガルトが皇帝に即位するさい皇子皇女としても認められました。そのときはじめて帝国史にふたりの存在が現れた。しかし、これこそがのちにあなたの存在が貶められる理由だったのだろうと思いますが、ドーリスが戦場に出ていた記録がはっきり残っていることから、彼女がハルトガルトとのあいだに子を授かったのならいつそんな余裕があったのだ、いつ妊娠出産のために長期間戦場を離脱した時期があったのだと、これは帝国創成期を研究するひとびとにとって常に疑問のまとでした。ドーリスが健康で魔力に優れていたとはいえ説明がつかない。だからこそ治癒と防御の魔法がドーリスのものとされるようになった。これで妊娠出産後も戦場に立てたのだという理屈です。そして、ハルトガルトがドーリス以外の女性とのあいだに子を為していたという事実を消し去るため、あなたは毒婦であり娼婦にされた。千年前、あなたがふだん戦場に出なかったのは、他者に富と幸運をもたらす[[rb:大白蛇 > ナーガ]]だったから狙われやすかった、他の五柱の奥方や夫や子や両親、敵に確保されればたちまち形勢逆転されてしまう大事なひとびとを守護する役割も負っていたからですが、あなたが戦場にでなかったために、ゼロスは容易にあなたの痕跡を消し去ってしまうことができたのです。ゆっくりと時間をかけて、ゼロスとゼロスの子孫によって、あなたのしてきたことはまったく正反対の捉えられ方をされるよう誘導された。建国に際したいした役割を負わなかった、怠惰でずるい魔女、と。実際には皇帝の血筋をのちに伝え、他の五柱の家族をも鉄壁の魔法で守り通した重要な役割を負っていましたが、ゼロスにとってそれは徹頭徹尾ドーリスのしたことでなければならなかった。だから蛇神シュバリスは娼婦、とーーまあそれは、ここ百年ほどで急速に広まった、とんでもないこじつけではあるのですが」
シュバリスはなにも云えないでいた。
「話を戻します。こうしてブラッサムとコスモスはそうして皇子皇女としてハルトガルトとドーリスに育てられました。が、このふたりにそのまま皇帝の座を継がせようとは、ゼロスはまったく考えていませんでした。なぜなら、あなたとハルトガルトが別れ、ドーリスが皇后となったら、彼は子どもたちを殺すつもりだったからです」
もはやシュバリスはことばを失い、ナイジェルもアイドクレーズも同様だった。ユアンが静かに続けた。
「ゼロスは力に固執していた男でした。彼は同じ人間ながら莫大な魔力をもつハルトガルトと、獣人でありながらやはり桁外れの魔法を使うシュバリスを妬み、羨み、あなたたちの力を手に入れようとしていた。彼の当初の思惑では、自分の子をあなたたちふたりの子と婚姻させ、その魔力をじぶんの血筋に入れようとしていた。しかし彼のたくらみを知ったハルトガルトは、じぶんの生きているうちはそんなことは許さないと断言した。だからゼロスは諦めるほかなく、あなたに対する恨みを膨らませた。その恨みは子どもたちにも向けられた。晴れてドーリスがハルトガルトの妻になり、彼女がハルトガルトの子を産んだら上のふたりは邪魔になる、だからどっちみち、ゼロスはあなたとハルトガルトが別れると決意した時点で子どもたちを殺そうと決めていた。しかし、それを阻んだのはあなただった」
「わーーたし……?」
「はい。実はシュバリスさま、あなたが眼を失ったのは、今回が初めてではないのです」
「え……」
今回が初めてではない。「どういう意味です?」隣でアイドクレーズが眉間にしわを寄せた。
「以前も失ったことがある、と?」
「そうです。しかも以前はむりやり奪われたのではなく、あなた自らその眼を抉り取り、子どもたちへ与えた。右眼も左眼も両方です。それは子どもたちを守りたい一心で編み出した決死の方法でした。そしてあなたのその柘榴の眼は子どもたちの胸に吸い込まれて心臓と同化し、莫大な魔力を血液にのせて体内を循環させる[[rb:魔晶 > クリスタル]]の[[rb:御守 > アミュレ]]として機能した。彼らの生涯にわたってその心臓を守った。あなたはブラッサムとコスモス、ふたりの命を内側から守護したのです」
(あーー、)
あの幻影。寄り添うふたつのちいさな影。そのなかで燃える心臓。
『持っててねーー離さないで、なにがあっても。これがあればだいじょうぶよ、絶対守ってくれるからーーわたしがいっしょにいるからね。忘れないで、わたしはシュバリスよ。シュバリス・レイミア・イスラメイ。それがわたしの名前』
わたしがあなたたちのお母さま。
「だからゼロスは子どもたちを害すことはできなかった」
ユアンは神妙な面持ちで云った。
「あなたの魔法は子どもたちを生涯守り抜いた。その両眼と引き換えに。しかしあなたには、いま最大の疑問があるでしょう。なぜあなたはなにも憶えていないのか」
「はいーー」
シュバリスは指先でゆっくりと頭に触れた。ここに存在する空白。子どもたちの顔が思い出せない。名や姿はおろか産んだ実感もない。そのときの苦しみも喜びも。
「なぜ?」
だいじなことではないか。いくらなんでも忘れるはずのないことではないか。ユアンが云った。
「さきほどわたしは、ハルトガルトはじぶんの記憶を[[rb:魔晶 > クリスタル]]に託して残した、と云いましたね。記憶を外部化したと。しかしそれだけではありません。彼の[[rb:固有魔法 > マジック]]は記憶操作全般に及ぶものでした。じぶんの記憶のみならず、彼は他者の記憶も操作できた。シュバリスさま、あなたの記憶もです」
一息つくと、ユアンは一気に云った。
「操作されています。あなたの記憶はハルトガルトによって消されています。じぶんや子どもたちとの別れを決断した苦しみと悲しみから、あなたを遠ざけるために」
[newpage]
[chapter:花束をきみに]
「記憶をーー消したーー?」
アイドクレーズの灰色の目が、驚きと同時に納得するように見開かれた。
「なるほど、だからこのかたはーーしかし、なぜ?」
「ですから、苦しませないためです」
ユアンはシュバリスを見つめて云った。
「ハルトガルトとともに過ごし仲間のために働いたこと。子どもたちのこと。その後に受けた人間たちからの反抗とゼロスの脅迫。最終的に最愛の夫と子どもたちと別れざるを得なかったこと。とくに最後のできごとがあなたを深い悲しみのどん底に突き落としました。あなたは疲れ果てていましたシュバリスさまーーハルトガルトの前で、あなたは空っぽの目を包帯で覆い隠したまま、そこから血の涙を流し苦しんでいた。そんなあなたをハルトガルトは深く案じ、また、あなたが身を引くと決めても加えられるかもしれない人間たちの脅迫や危害を防ぐため、首都から遠く離れたエウレシア辺境、エイシャのヤハン地域をあなたの領土とし、蛇人の仲間とそこに行かせてあなたを守ることにした。そして最後に、あなたをその悲しみから遠ざけるため、あなたのなかからじぶんと子どもたちにまつわる記憶をそっくり消した」
「わたしのなかからーー記憶を?」
「そうです。そして残りの記憶をも書き変えた。苦渋の結果別れざるを得なかったのではなくじぶんが一方的にあなたを捨てたのだという記憶にすり替えることによってあなたを救おうとした。いっぽうで、じぶんと恋人だったときの楽しい時代のことだけは消さずに残した。あなたがそれを頼りに、いずれ本当の記憶を取り戻せるように」
「記憶を、取り戻す」
「はい。いつか地上にあなたが帰ってくるとハルトガルトは予知していました。そして、七柱のなかであなただけが永遠の命をもらっていまも生きている理由も、実はハルトガルトが[[rb:大神 > ジヴァ]]にそう願い出たからです。あなたがたに託宣をした大神は、建国後あなたたち七人のなかのひとりに永遠の命を与え、地上にとどまらせて、この世界をじぶんの代わりに見守らせたいという意思を示していました。そしてその役目は、大神が見込み寵愛した皇帝ハルトガルトに与えられるはずだった。しかしハルトガルトがこれに異を唱えた。七人のなかでただひとり、じぶんたちのように戦い、奪い、殺しつづけることによって統一をなしたのではなく、ただひたすら誰かを守り、癒し、とうとう誰の命も奪わずに戦を終えた優しいあなたにこそ、これからの世界を見守る役目を与えるべきだと云った。だからあなたは今も生きている。そしてハルトガルトは約束を果たした」
「やくそく?」
「ぜったいに子どもたちを守り抜くとハルトガルトはあなたに約束しました。あなた以外の女性を愛す気はない、ブラッサムとコスモスの血統だけを自分たちの末裔としてこれから何代にもわたって続けさせると。それが生涯、あなたひとりを思い続ける証だと」
シュバリスは額に手をあて必死に思い出そうとした。が、やはりなにも思い出せなかった。ユアンがちょっと微笑んで云った。
「シュバリスーー蛇神シュバリス。あなたはなぜわたしたちがのきなみ花の名を授けられているか、その理由がおわかりですか? ここにいるナイジェルとわたし、それにハダルにアルジュナにテディにアレクセイ、その他にも皇帝家の親族の子弟の副名がすべて花の名である理由を」
「副名に。花のーー?」
「シンビジウム。ハルシオン。アリッサム、イベリス、ネメシア、ハイドランジア、リコリスーーこれはすべて花の名前。D11の一節を覚えていますか? 『慰めと償いに血の花束を贈ろう それはいつか君が受け取る成果 君の眼に咲く約束の印』。ここにでてくる血の花束とは、あなたの眼に守られた二人の血筋から続いた子孫、すなわち花の名をつけられたわたしたちのことだ。千年紀を前にようやく地上に帰ってきたあなたが受け取るべき成果、あなたに捧げられた花束」
「花束ーーあなたが。みんながーー?」
[[rb:春蘭 > シンビジウム]]。[[rb:春紫菀 > ハルシオン]]。[[rb:海蘭擬 > ネメシア]]、[[rb:常盤薺 > イベリス]]、[[rb:庭薺 > アリッサム]]、[[rb:彼岸花 > リコリス]]、[[rb:紫陽花 > ハイドランジア]]。
「ブラッサムーーコスモス? [[rb:桜 > ブラッサム]]と[[rb:秋桜 > コスモス]]ーー」
思い出した。それこそがいつかハルトガルトが見せてくれた景色だった。目隠しを外された瞬間、視界いっぱいに揺れていた春と秋の花。目もくらむほど美しかった。つかのま、シュバリスはその美しい花の幻影の只中に立ち、彼女の背後にはたしかにハルトガルトの気配があった。「シュバリス」と優しく名前を呼ぶ声すら聞こえた気がした。「もういちど会えたね」と。
「ハルトーー?」
呆然とシュバリスが呻くと、
「ブラッサムとコスモス。ハルトガルトとあなたはふたりの子に花の名を授け、ふたりもまた、じぶんたちの子にそれぞれ花の名を与えた」
ユアンが静かに続けた。
「あなたと別れた当時、ブラッサムは八歳、コスモスは三歳でした。ふたりともかろうじてあなたの記憶があり、特に兄のブラッサムは、云い聞かせられるとおりドーリスが母親なのではなく、じぶんたちを守るためヤハンに去っていったあなたが実母だと鮮明に覚えていました。そしてのちに、あなたが消えた理由を父や父の側近から詳しく知ると、義母に激しく反発した。そのためドーリスは彼の子育てに相当手こずったようです。まだ幼かったコスモスとはなんとかやっていけましたが、あなたによく似た娘のコスモスと仲がよく、ハルトガルトにそっくりのブラッサムにそっぽを向かれたのは、運命の皮肉というほかない」
「そうーーだったのですか。ということは、ドーリスはいちおうふたりをきちんと育ててはくれたのですね? ゼロスは殺そうとしていたけれど?」
「はい。おそらくドーリスも、兄のしたことに疑問をいだく部分があったのでしょう。子どもたちだけはきちんと実子として育て、守りました。ハルトガルトと結婚後のドーリスは実は、伝説や伝承で云われているとおり初代皇帝に選ばれた幸福な女性像とはまったくかけ離れた境遇でその後の人生を送った。結婚は形だけ、ハルトガルトはドーリスにはまったく心を開きませんでした。むしろ結婚前のほうがふたりのあいだには会話もあったし、気遣いや感謝のことばもあった。しかしあなたがいなくなったことでハルトガルトは決定的にドーリスを遠ざけるようになった。建国したばかりでまだ騒がしい国内を視察する、と寧華宮を出て行ったきり、たまに帰って来れば原本が所蔵されていた[[rb:展望施設 > パノプティコ]]で寝起きし、ほとんどドーリスと顔をあわせることもなかった。そんな冷え切った夫婦関係だったため、ドーリスはハルトガルトの子を授かることもなく、残されたあなたの子をじぶんの子として育てることだけに腐心するようになった。それが彼女の精一杯のプライドだった。ドーリスは、あなたがいなくなったことでいちおうは希望を抱いていたようですが、ハルトガルトは彼女を妻にしたものの皇帝と同等の権利をもつ『[[rb:皇后 > アウグスタ]]』の称号は与えませんでした。彼女は『[[rb:皇妃 > エンプレス]]』と、いちだん低い位で呼ばれ、ハルトガルトは『真に皇后と呼ばれるべきはシュバリスただひとりだ』と冷たく告げさえした。実はこの『皇妃』という呼称はいまも続いています。皇后と呼ばれるにふさわしい存在はあなたひとりだと歴代の皇帝も認知しているからです。そして、どうあっても愛されない、ならば元のとおりあなたに席を譲ろうとドーリスが考えても、すでにあなたはヤハンへ去ってしまっていた。しかも、ハルトガルトによって記憶を奪われたためあなたは彼女のことを欠片も憶えていない」
「ーーはい」
ここへ来るまで千年間、思い出しもしなかった。つかのまシュバリスは彼女へ深く同情した。ユアンがうなずいた。
「ドーリスは、あなたが去ったことで永遠にあなたに勝てなくなったのです。彼女にできることは、あなたの子を自分の子のように育て、じぶんこそ皇帝の妻と母親にふさわしいのだとふたりに思ってもらうことだけでした。このうえあなたの子を虐待してうさを晴らすような真似はプライドが許さなかった。だからあなたが思うよりずっとふたりの母親としてよくやっていましたよ。ハルトガルトの記憶ではたしかにそうです。ハルトガルトもその点は彼女に感謝せざるをえなかったようだ」
「そうですか。ならーー」
子どもたちさえ無事に育ったのなら。
シュバリスはため息をついた。そんなシュバリスを見つめてユアンは云った。
「シュバリスさま。あなたがセレスタインに来て昔のことを思い出すようになったのは、おそらくここで過ごした記憶があなたの中に残っていたからです。あなたは以前、図書館でわたしに触れられたとき拒否反応を示しましたが、それは、その直前に原本に残されていたハルトガルトの思念と会話したことで記憶の揺り返しが起きたためでしょう。ハルトガルトはあなたの記憶を予告なく奪いとった。そうしなければあなたに魔法をかけることは不可能だったからだ。しかし彼が奪った記憶はあなたにとって重大なものばかりです。だからあなたは記憶を奪い取られる瞬間、本能的に大きな恐怖を抱いた。そのため図書館で、ハルトガルトと同じように子孫であるわたしがあなたに触れたとき恐慌をきたした」
「あーー」
頭に触れられた瞬間、盗られるーーと思った。とても怖かった。あれはそういう意味だったのか、と納得するシュバリスにユアンは苦しげにうなずいた。
「そうーーあなたはハルトガルトがじぶんの記憶を奪ったときの恐怖を思い出したのです。しかも記憶というのは連続体ですから、大事な部分をそっくり抜き取られると記憶と記憶の前後につながりのない箇所ができ、思考にそうとう混乱きたしたはずだ。記憶を失ったことと、前述のとおり両眼を失い肉体と魔力を損傷していたこと、ふたつの欠損があなたを元のあなたではなくしてしまった。蛇人のすぐれた感覚のおかげで眼を失ってさえ『視る』行為に支障がなかったとしても、当時は両眼ぶんの魔力も記憶もなく混乱しきっているとすれば、おそらくハルトガルトと別れたあと十年や二十年、あなたはまともに動けなかったのではないかと思う。あなたの動向は不明になり、ゼロスの追跡からも隠す役目を果たし、それこそハルトガルトの目論見だったかもしれないが、しかしあなたはずっと半病人だった。どれくらいでその眼に光を、魔力を取り戻したか想像もつかない」
「ーー百年」
からっぽだった眼窩に眼球が再生し、魔力が元に戻るまでおよそ百年かかった。「もう百年ほど経ちますわ、わがきみ」と、腹心の部下と同じ声で云ってくれた女性の声をシュバリスはぼんやりと思い出した。ある朝ようやく瞼に光を感じて目覚め、あたりを見渡したとき、すでに周囲に見知ったものは亡かった。かつての同族はすべてその子や孫に代替わりしていた。忠実な彼らだけがその後も地下神殿にこもりきりの彼女の世話を焼いてくれ、シュバリスが魔力を取り戻したことを喜んでくれたが、与えられた領土が削り取られてゆくと、彼らもシュバリスから離れヤハンを去った。魔力を取り戻しても、彼女が王としてふさわしい行動を起こさなかったからだ。蛇人族にふりかかる困難を打開しようとしなかった。
(記憶を失っても、ミクラからヤハンについてきてくれたわたしの仲間たちーーわたしを蛇人王として支えてくれた部下や大勢の友が、たしかにいたはずなのに)
(わたしは彼らに何もしてやれなかった。ぜんぶ忘れた後は怠惰に眠るばかり、ただただ地下にひきこもって過ごしていた)
ハルトガルトと別れるまえはぜったいにひとりになりたくないと思ったのに、いざひとりぼっちになってみると、もう誰ともいっしょにいたくないと思うようになった。孤独にふけり、溺れ、甘えた。ひとりでいるほうが傷つかずにすむ、そのほうが楽だった。アイドクレーズがやってくるまで。
(これからなにかできるなら、わたしが責任をとらなければ。でも、それにはーー)
シュバリスが懊悩するあいだにもユアンが云った。
「一般に、[[rb:固有魔法 > マジック]]は親から子へと遺伝することが多いといわれています。しかしブラッサムもコスモスも父親の記憶操作のマジックは受け継ぎませんでした。ただし、ハルトガルトの血筋には隔世的にその力を有するものが現れ、彼らもじぶんたちの記憶を[[rb:魔晶 > クリスタル]]に託して残しています。ですから継承の儀式は一度だけ、十一歳のときだけ行われるのではなく、継承者は記憶を受け継ぐ儀式を一年ごとに行います。わたしは十四歳まで、初代、三代、六代十代と、ざっと建国三百年ほどまでは継承しました。そしてハダルは現時点まで残されている記憶すべてを継承している。彼自身もひょっとしたら記憶操作のマジックをもっているかもしれない。それは誰にもわかりません。しかしだとしたらーー」
「ハルトガルトが奪った記憶を、ハダルなら戻せる?」
はっとしながらシュバリスが訊ねると、
「かもしれませんし、おそらくわたしにもできます。ハダルほど簡単にはいかないでしょうが」
どうしますか、というようにユアンはシュバリスをじっと見つめた。
「いまここででなくても構いません。云ってくださればいつでも。考える時間が必要ならいつまででも待ちます」
「記憶ーー」
シュバリスは黙ってユアンを見返した。
(千年)
千年が経ったのだ、とその時間に想いを馳せたとき、シュバリスは口に出していた。
「取り戻したいです。いまここで」
「大丈夫ですか」
「だいじょうぶ」
アイドクレーズが手を差し出した。しかしシュバリスはその手を握ることなく、膝の上にじっと置いたままうなずいた。
「返してください」
「わかりました」
ユアンが手を、テーブルのむこうからシュバリスに伸ばした。指先がこめかみにふれると、どこかひやりとするものが頭全体に広がっていき、ユアンの指先がシュバリスの髪をかきわけ、地肌に文字か絵かわからない模様を描き始めた。
「ハダルなら手をあてるだけで成し遂げられるのかもしれないが、ひとまずわたしの[[rb:固有魔法 > マジック]]で記憶を取り戻すよう働きかけます」
「あなたのマジック?」
「ーー指で書いたことが現実化する。困った力です。うっかり筆記具を忘れてじかに書くと、そこらじゅう落書きが踊りだす。記号や絵に力を与える印陣にはうってつけだが」
せつな、白い光がシュバリスの脳裏をつらぬき、視界は黒く染まった。頭の中を猛スピードでなにかが駆け巡り、所定の位置へと記憶がおさまりはじめる。
「あーー、」
気づいたときには、ぼろぼろ涙をこぼしていた。
すべて思い出した。
「あああああ。あああああああ……!」
ユアンがそっと離れると、両手で顔を覆い、ぎゅっと体を縮こまらせてシュバリスは嗚咽した。ようやく埋まった隙間、補完された空白、照らされた暗闇。そのなかにいたのはーー『君からすべて奪うぼくを許してくれ』と苦しげに云ったあと、闇に覆われたシュバリスの背をそっと押し出したハルトガルトのくしゃくしゃの笑顔と最後のことば。
『いつか君に、もういちど花を贈るよ』
もう届いた。精一杯彼らの人生を生きている子どもたち。シュバリスとハルトガルトの蒔いた種から芽吹いた花たち。
[[rb:桜 > ブラッサム]]と[[rb:秋桜 > コスモス]]ーー[[rb:春蘭 > シンビジウム]]、[[rb:春紫菀 > ハルシオン]]、[[rb:海蘭擬 > ネメシア]]、[[rb:常盤薺 > イベリス]]、[[rb:庭薺 > アリッサム]]、[[rb:彼岸花 > リコリス]]、[[rb:紫陽花 > ハイドランジア]]、ほかにもたくさん。
「ハルト。ハルトハルトハルト。ハルトガルトーーハルトガルト! わたしーー」
(あなたを好きでよかった。あなたと夫婦になれてよかった)
「生きててよかったーー」
強烈に実感した。なぜじぶんだけが、と心のどこかで思っていた。ほかの六人が死んですでに平安のなかにいるというのに、なぜじぶんだけがいまだにのうのうと生きているのかと。
(ありがとうーーありがとうハルト。わたし、あなたのことずっと大好き。出会った時から、別れてからもずっと。いまもずっと)
(だけどもういない)
(みんないってしまった)
(いま、どうしたらあなたにこの思いを伝えられるの。ありがとうってーー)
心の声のいくつかは声に出てしまっていたようだ。「落ち着いて」とアイドクレーズがシュバリスを抱きしめ背を撫でた。「使うか?」と横からナイジェルがハンカチを差し出した。ユアンによってお茶のおかわりが注がれ、そっとテーブルに置かれた。なんていい子たちなの、とシュバリスは感激した。
「ありがとう存じますーー」
ハンカチを三絞りするくらい涙を流して、ようやくシュバリスは顔をあげることができた。あたりには、シュバリスの涙が宙に浮かんで散っていた。それらを細かく分割して空中に消し去り、濡れたハンカチを乾かすと、シュバリスは、泣いているあいだ気になったことをやっと訊ねた。
「これからどうなるんでしょうか。教官、テディはーーあの子はどうなるんですか?」
あの子はときたか、とちょっと呟いてユアンは苦笑し「まあ、実務的なところをいうと裁判にかけられて罪を償うことになる。ハダル誘拐の首謀者の名を明かせば司法取引で減刑されるだろうが、公になっていない事件だからどういうかたちで決着がつくかよくわからない。アルジュナを殺そうとした件はれっきとした殺人未遂だから、そちらは刑をくらうでしょう。聖遺物の強奪も。ナイジェルを嵌めた件についてはーー」
「腹立たしいが、あの無能にしちゃよくやったと思うしちょっと見直してもいる。それに最後に心臓を握りつぶしてやれたからわたしは満足です」
「だ、そうです」
ナイジェルのことばにユアンが肩をすくめる。「森で獣人に襲われた件も、ちゃんと捜査してもらえるんですよね」アイドクレーズが厳しく問うと、ユアンは静かにうなずいた。
「そのはずです。ただし犯人のひとりが死んでいるからーーハダルは覚えていないようだが、それがどう作用するか」
「あなたは?」
シュバリスはユアンを見つめた。従者が逮捕されて類が及ばないのか。ユアンは「まあ無事ですむはずはなく」と肩をすくめ、「今年の春で、わたしは学院長と理事長の座を退くことになります。暗殺未遂と聖遺物強奪に関してはテディが犯人だと報道されていますし、わたしが主犯ではないかとの報道もある。後継者復帰がふっとぶほどのスキャンダルです。かろうじて教官としての首は繋がっているが、それも次の学院長、理事長の判断次第でしょう」
「次のーーもう決まっているのですか?」
「理事長は皇妃さまが務めてくださると。学院長は未定ですが候補は何人か思いつきます。教官のなかで[[rb:魔導師 > ウィザルト]]以上の称号をもつもの、あるいは[[rb:賢者 > ウィズマ]]ならもっとありうる。カリロエかシャムロック、バザルスでしょう」
「バザルス教官ーー?」
それは最悪の人選だ。蛇人差別者にして蛇神シュバリス娼婦説の信望者。
「さて」
話がひとだんらくしたところでユアンが立ち上がり、窓を覆っていたカーテンを開けて日の光を入れた。すでに夕暮れ、深紅に燃える光が学院長室を照らした。ユアンが云った。
「蛇神シュバリスさま。あなたと出会ったとき、つまり今年の春に入試の会場であなたを見たとき、わたしはまずイスラメイという姓にひっかかりを覚えました。そしてハルトガルトの記憶のなかにいたシュバリスとあなたがそっくりそのままだったことに驚いた。だからあなたがいったいなんなのか、わたしはずっとふしぎに思っていた。そして、アルジュナを救ってくださった翌日にアイドクレーズが云ったあなたの正体。シュバリスの子孫であると告げられたとき、そういうこともありうるか、とわたしは少し切なく思いながら納得しました」
「ーー」
「シュバリスはハルトガルトとの失恋の痛手から立ち直り、ほかの蛇人族の男性と再婚したのだろう。そして子が生まれ、子孫であるあなたがシュバリスの魔力を継いだのだろうーーもしくはあなたは直接の娘かもしれないと考えた。しかしあなたは蛇神シュバリスご本人であらせられた。で、あれば、これからいかがなさいますかシュバリスさま。とうぶんその姿のままということは、あなたはこのまま学院に? それともヤハンにお帰りになり、今後はそこからエウレシアを見守られる?」
「正直に申し上げて、迷っているところです」
ハダルに魔力は奪われたが、今回はすべて無理やりもっていかれたのではない。それに千年前は両眼をなくしたが今回は片目ぶんの魔力だけ、百年といわずもっと早く回復するはずだ。普通の子どもが成長してゆくくらいの時間があれば。
だとしたらこのまま学院で現在の世界と魔法について学びながら、蛇人たちを救う方法を考えるのも一つの手だった。アリアナ、巣球部の仲間たち、教育熱心な教官たちにハダル、ここで得た知己も少なくない。「もう少し考えてみます」と告げるとユアンはうなずいた。
「なにかあればいつでもお申し出ください、力になります。それからアイドクレーズ殿」
シュバリスと同じほどの年頃に成長したアイドクレーズを見つめてユアンが云った。
「シュバリスが残るというならあなたもですね。編入試験を受ける気があるならわたしが学院理事長でいるあいだになさってください。呪いにかけられていたがようやく解けた、であなたの変化は押し通せるでしょう。なにしろシュバリス・イスラメイの周りでは妙なことばかり起こる。その従者なら何が起こってもおかしくない」
「考えておきます」
アイドクレーズは真面目な表情でうなずいた。ユアンは胸に手をあてて一礼した。
「最後に印陣の教官らしく、[[rb:印 > しるし]]に込められた思いについてお話ししておきましょう。セレスタイン皇帝家の紋章は盾の上にS。SはいうまでもなくセレスタインのSですが盾はあなたを表します、シュバリスさま。ハルトガルトは皇帝家の紋章を定めるとき、我々の血統はじぶんと蛇神シュバリスからはじまる、とこの紋章で示しました。それがセレスタイン魔法学院の校章にもなっている」
シュバリスは執務机後方の壁に留められた校章旗を見つめた。
「そしてもうひとつ。二代目皇帝ブラッサムは、父親にせがんであなたの記憶をハルトガルトがまだ生きているうちに見せてもらい、コスモスもそれを見ました。ブラッサムやコスモスらにとってあなたは尊敬すべき母であり、皇帝と女皇のよき手本でした」
「光栄です」
「ただし、あなたの血が薄れ他人に近い存在となったとき、女子後継者の憧れの存在であることは変わらなかったが、男子後継者は全員あなたに恋をするようになりました。ハルトガルトのようにあなたに愛されたい、生きてこの世界にいるというならひとめお会いしたいと、心のどこかで望みを捨てられなかった。じぶんの生きているあいだにあなたが帰還しないか、そうすればじぶんが、と」
「あらあら、まさか」
たしかに千年も経ってしまえば、子孫とはいえユアンもハダルもほとんど他人だ。しかしシュバリスにとって、いまや彼らは可愛く幼く、永遠に愛でたい花だった。実り多い一生を願うばかりの。
ふとシュバリスは訊ねてみる気になった。
「ユアン。ギネヴィアとはあれからお会いしましたか?」
「いえ。職場と自宅に会いに行ったのですが部下と叔父上たちに追い返されました。近いうちにちゃんと話そうと思っていますが」
「なるべく早い方がよろしいですわ」
「はい」
それですべて終わりだった。シュバリスたちはその後、ナイジェルとともに学院長室を出て門番小屋にむかった。今夜はナイジェルの帰還と騎士団復帰祝いが行われる予定で、シュバリスはハダルから招待されていた。ハダルはすでに、ときおりシュバリスたちの前に姿をみせていた理知的なハダルに戻っていた。シュバリスとアイドクレーズの変化に負けず劣らず生徒たちに驚きをもって迎えられている。以前のハダルのように少年らしい茶目っ気をのぞかせたり、皇族ならではのとんでもない発言で周囲を驚かせることはあったものの、ずば抜けて賢く、また、強大な魔力のもちぬしに様変わりしていた。
門番小屋へと向かう道で、先導するようにふたりのすこし前を歩いていたナイジェルが振り返り、ふと云った。
「ーー“きみの魔法とぼくの魔法をまぜて、灰色の魔法を作ろう”」
「え?」
「なんですかそれ」
「[[rb:原本 > オリジナル]]の巻頭に掲げられている詩です」
怪訝な顔のふたりに、ちょっと照れくさそうに笑ってナイジェルが云った。
「ドーリスだと思っていたが、ほんとうはあなただったのだなーー全文はこうだ」
ナイジェルが指先を空中に振った。ぱちぱちと火花が散り、空中に文字が浮かんだ。
『
ぼくは破壊と死 きみは創造と生
ぼくは暗黒の宇宙 きみはそこに浮かぶ星
きみの魔法とぼくの魔法をまぜて 灰色の魔法を作ろう
白でもなく黒でもなく 中立で中庸で平凡 だけど正しい
だってほんとうのところ 世界はひどく曖昧で
決着も救済も 真実もなく
はじまりも終わりもない そんなことのほうが多いのだから
』
シュバリスたちが読み終わるのを待ってナイジェルが明かした。
「儀式を終えたあと、あなたは星のようだったとハダルが云った。ぴかぴか光っていい香りで、とても優しくて綺麗で、だけど中身は普通の女の子だったと。わたしはハダルが騙されているのだと思った。騎士団で蛇人族の動向を探る仕事もしていたから、てっきりその長であるシュバリスも邪悪なのだろうと思っていた。だが、あなたは黒い呪いを打ち砕き、テディもハダルも救ってくれた。あなたの白とハルトガルトの黒、ふたつが混ざり合った灰色の魔法で帝国の千年は始まり、そして白と黒がバランスを保ってここまできた。中庸で中立で平凡で、曖昧なまま」
「救済もまだなされぬまま、ですがね」
「これからよ」
シュバリスは空を見上げた。続く道の森の上に細い夕月が浮かんでいる。
なんとかなる、とシュバリスはゆっくりと歩いていったーーいっぽう、シュバリスとアイドクレーズ、そしてナイジェルが去った学院長室で、森へ消える三人の姿を見送りながら、ユアンは窓辺で深々とため息をついた。
「二十一歳差、か」
待つ、という選択肢もあるが、千年前より早く回復するとはいえ二十年以上の時がかかるならじぶんはそのとき中年、いやもう老人だ。生まれる時代が早すぎた。しかし後悔はなかった。
「ギネヴィア」
ユアンの脳裏にはずっと、教官室で傷つき斃れた彼女の姿が浮かんでいた。紫のドレスをぼろぼろにしながら戦い抜いた姿、その直前にみせた儚い表情。いまではあの奇妙で稀有で美しく強い存在は、初恋のひとをおしのけて彼の心のど真ん中に居座っていた。
ユアンはあれから何度も彼女に会いに行っていた。研究所ではトラヴィスはじめ彼女を姉のように慕う部下に阻まれ、家を訪ねれば[[rb:叔父夫夫 > おじふうふ]]に追い返されたーーなにより手強いのは叔父夫夫だった。婚約破棄したさい、彼女のたったひとりの身内である叔父も、彼の同性のパートナーもユアンのことを徹底的に嫌っていた。元夫から彼女を救い出し離婚を勝ち取ったときは態度を軟化させたが、今回の件で「どうあってもかわいい娘を命の危機にさらすどうしようもない男」に再び評価が下がった。「君とはもう会わせない」の一点張りだ。ギネヴィアもそれを望んでいるそうだが、ユアンにとってはとんでもない。もう彼女のいない人生など考えられない。
人づてに聞いたところでは、ギネヴィアはほんとうに研究所を辞める予定で、そろそろ引き継ぎ作業も大詰めだとか。身を寄せている叔父のもとからも引っ越すという。叔父はがんとして彼女の転居先を教えないが、どうにかして探り出す必要があった。
「困ったなーー」
ギネヴィアに会いたいと思った。これ以上強く願った日はなかった。
じぶんはもう決めた。だが彼らはどうするだろうか。
千年をかけて用意され、差し出された花のうち、彼女は誰を選ぶのか。それとも誰も選ばないのか?
夕陽は沈み、夜を迎えようとしていた。
[newpage]
[chapter:週末のオデュッセイア]
春がやってきた。
その年の冬はやけにぐずぐずと帝都に居座ってなかなか去ろうとしなかったが、ようやく冬将軍も春の女神にその座を明け渡す気になったらしく、ここ一週間ほどセレス市は春らしい好天と陽気に恵まれていた。
シュバリスが学院長室で真実を打ち明けられてからあっというまに四ヶ月が経った。後期試験も終わり、学院は今日まさに学期末を迎えたところだ。
「今回はいちばん最後になっちゃったからまだたっぷり時間はあるわね。ね、どこにいく?」
最後、というのは、魔法陣による転送スケジュールのうち、エイシャ領シーナ地区首都ベイジゆきが午後のもっとも遅いグループに入れられてしまったことだ。学期末試験が終わり、ぶじに進級や進学が決まった生徒たちは「やれやれ今年もぶじにすんだ」とため息をつきあい、春季休暇までのわずかな日程をクラブ活動に没頭したり卒業生を送り出したりして過ごす。そうしながら、レイシャ、ユーロープ、アングイスなど、自分たちの地元へと帰る魔法陣の転送スケジュールが発表されるのを待つのだ。修了式から魔法陣による転送がはじまるまでのひとときこそ、彼らがもっとも自由を謳歌できる時間だった。帰省するばかりの生徒たちは、運悪く転送が午前中にあたったものは寮の食堂でおしゃべりして過ごし、もう少し時間があるものはセレス市で買い物したり、もっと時間があればミクラを観光して回ったりのんびりと過ごす。今回、じぶんたちの番が夕方になるとわかったので、シュバリスたちは帝都に観光に来ていた。
「一年あっというまだったわね」
帝都はその名にたがわず大勢のひとでにぎわっていた。目抜き通りを歩き、路地裏の店をひやかし、アリアナが事前に調べていた古書店へ寄り、昼食をとって噴水のある広場へと戻る。そこらじゅうで、おなじように転送時間を待つ学院の生徒たちとすれ違った。お土産を物色したり名物を買い食いしたり、家族に見せたいからと帝都の写真を撮っているクラスメイトに頼まれて、シュバリスも写真撮影をひきうけたり一緒に写ったりした。ゆきあった上級生からも同じく撮影を頼まれたが、ほとんどがシュバリスを単体でも撮りたいと申し出るので戸惑った。「ハダルさまの件じゃない?」とアリアナが笑った。
「ほらこのあいだの卒業パーティ、ハダルさまに誘われていっしょに行ったでしょ。わたしは寮で見ただけだけどドレスも花もよく似合ってたし、そもそもあなたとてもかわいいから、お迎えにきたハダルさまともども注目の的になってたし、未来の皇妃さまって思われたのかも」
「はあーー」
たしかに、先日行われた六年生と七年生だけが参加できる[[rb:卒業前祝宴 > プロムネイド]]で、シュバリスはハダルに誘われてパートナーとして一緒に出た。下級生が出席できるのは六年生か七年生に誘われた場合のみだが、セレスタインを名乗っていないにしろ、はっきりと皇位継承者と知られているハダルのパートナーがまだ一年生、しかも十歳の女の子だったため、それまで関心のなかった生徒もシュバリスに興味を抱いたようだ。ただ、いちおうダンスパーティの形態であったもののすでに百八十センチちかいハダルと百四十センチ弱しかないシュバリスでは一緒に踊るのは難しく、もっぱらおしゃべりして過ごした。それでも注目されたのは、やはりハダルの様子が急激に変わったためだろう。
学期末試験で、これまでの学業不振が嘘のようにハダルは学年首席へ躍りでた。クラブ活動ではレギュラーに復帰し、今年最後の試合でチームが保持していた一試合の最高得点をひとりで更新した。卒業が決まったタッカから次期キャプテンにも指名され、親の七光りと蔑んだり、彼より将来性があるとアルジュナにすり寄っていたものも、にわかにハダルに接近して仲良くなろうとしていた。それは以前から彼に近しかったシュバリスを驚嘆させ、知性と理性をそこなっていてさえじぶんの立場にたいする媚びやおもねりに敏感だったハダルをますますかたくなにさせた。
「これってぼく個人が魅力的だからじゃないよね、皇子だからだよね」
そうハダルはため息とともにぼやき、彼の変化を間近でみてきたシュバリスは否定したものの、周囲が手のひらを返すのも無理はなかった。ここまで変わるかというほどの変わりっぷりだったのだ。
「皇子っていろいろ大変なのねって実感したわ。まあでも七年生でのパートナーってわけじゃないし、というよりハダルさまはやっぱり留年することになっちゃったから、来年再来年のことはわからないし」
そう、いくら後半で盛り返したといえ、秋までの頻繁な欠席と必要な試験点数および単位をとれていなかったため、ハダルは来年も六年生として過ごすことになった。進学・就職が現実的になってくる高学年では進級基準が低学年より段違いに厳しく設定され、その厳しい基準をぎりぎりクリアすることができなかったのだ。だからギネヴィアが以前云っていた、七年生のときにパートナーになった男女は高確率で、というのはあてはまらない。来年はクラスメイトの女の子をパートナーに選んでもおかしくない。そうシュバリスが云うとアリアナは肩をすくめた。
「ま、今年はあなたがまだ子どもだから微笑ましく思ってるひとが大半よね。だけど再来年にハダルさまが卒業するときあなたは十三、いまより背だって高くなるし大人っぽくなるわ。なにしろアイドクレーズがほんとうは十歳で、わたしたちの同級生になっちゃったくらいだから、あなたが一気に年をとってハダルさまと同級生になっちゃっても驚かない。ね、ほんとうは二十歳とかだったりしないわよね?」
冗談めかしてアリアナは笑った。ほんとうはその五十倍は年をとっている、なんて云えない。曖昧に笑みを返すシュバリスに、「それにしても驚いたわ。いきなりばっさり切っちゃうなんて」とアリアナは「こっちのほうが衝撃的だったかも、アイドクレーズより」と、シュバリスの肩まで短くなった髪にかるく触れた。シュバリスの隣ではアイドクレーズが申し訳なさそうに口元に手をあて「恐れ入ります」と小声で云った。「ほんとうに申し訳ありません。まさかこんなことになるとは」
「いいのよ。そんなに何度も謝らなくても」
シュバリスは彼にだけ聞こえる声で云った。
「ほんとうは、せめてわたしと同じくらいなら、って思ってたんでしょ、あなた」
「ーーそのとおりです」
ハダルにかけられた呪いを解くとき、アイドクレーズとハダルのあいだで魔力の激しい奪りあいになった。けっきょく右眼ぶんの魔力はごっそりとハダルに奪われたが、アイドクレーズにも多少シュバリスの魔力が流れ、翌日子どもに戻ったときアイドクレーズはシュバリスと同じ十歳の少年に変わり、シュバリスの髪はそのぶん短くなっていた。
「髪は伸びるわ。だいじょうぶ」
現に、四ヶ月前は肩に届かないほど短かったのが、いまは肩より下に伸びている。毎朝シュバリスの髪を結っているアイドクレーズは「たしかにそうですが」とため息をつき、諦めきれない様子で云った。
「わりと好きだったんですよねあなたの髪。ふとしたときに触れたり、寝てるときに散らばって額や肩に落ちかかってるのを見ると、なんともいえない気分になりましたよ」
「それはどうも。でもわたしはいまのも気に入ってるわ。軽いし手入れも楽だし」
「手入れはわたしの仕事ですからあなたは考えなくてよろしいのでは。……ま、いいでしょう。たしかに髪は伸びますから」
ここ四ヶ月のわだかまりをようやく解消したか、アイドクレーズは気をとりなおしたようにアリアナに向き直った。
「それで、わたしたちはこれからどちらへ?」
「えーっと。とにかくミクラに出たんだからとりあえずここは行っておこうかと。ほらあそこ」
ゆるく坂になった路地は両側を建物に囲まれて視界が狭かったが、開けた場所に来るとアリアナは丘の上を指差した。
「ハルトガルト廟よ。ふたりも初めてよね? わたしも小さいとき両親と一緒に来たらしいんだけどさっぱり覚えてないから行きなおし。さ、行きましょ!」
アリアナのあとについて近づくと、そびえたつハルトガルト廟はとてつもなく巨大で絢爛豪華だった。観光客も大勢いた。ゴミを捨てる不届きものや不審者がいようものなら即座に処理せんばかりに掃除係と警備係がいかめしく立っており、彼らの努力の甲斐あってか、正面のファサードもそこに至る参道もゴミひとつなく、参拝者たちは礼儀正しく門前に列をなしていた。シュバリス廟との雲泥の差にふたりはぽかんと口をあけ、ついで外観を見渡して「なんということかしら」とシュバリスはため息をもらした。
「うちは比較にならないけど、この廟、たぶんハルトの意思はまったく反映されてないわね。初代皇帝廟を飾るっていうのにかこつけて、腕利きの職人がもてる技術を全部ぶちこんだって感じ。本人はもっとシンプルで実用的なものが好みだったはずなのに、装飾過多もいいところ」
「まあ、建国の英雄廟ですし、あなたと違って本人がお亡くなりになったあと建てられてますし、初代皇帝ですからね。みんなはりきって設計建設したんでしょ。しかしこれは、廟といっても観光地にされるわけだ。ほんとうにすごいなーー!」
彫刻や飾りがついてない部分はないのかと思うくらい、廟は外観から壁も床も天井もすさまじく装飾されていた。内部にはいるとますますその感慨は深まった。床は色大理石のモザイクで、壁にはハルトガルトの功績を絵画や彫刻にしたものがずらりと並ぶ。かなりの高さのドーム型の天井の内側は、鳥や花をモティフにした極彩色の[[rb:反復幾何学模様 > アラベスク]]で覆い尽くされ、それが色硝子やクリスタルや鏡を用いてあるため、壁にも天井にも色つきの光が落ちて、万華鏡のなかに放り込まれたようだ。見上げているうちに目と首が痛くなってふたりはしばらくうつむいていたが、周囲には同じように首の後ろをおさえて床を凝視する見学者が大勢いた。詳細はこっちで見るに限るわよ、と、賢明にも解説のパンフレットで天井画の全体図を確認したアリアナがはきはき云った。
「ここは礼拝のための場所で、いちおうレプリカの棺が置かれてはいるけどほんもののハルトガルトのお墓は地下にあるんですって。床に覆われて見えないけど、ちょうど棺が置かれている部分を見下ろせる部分があって、天井画もそこからがいちばん綺麗に見えるように描かれているって。ね、行ってみましょう」
廟の最奥に三人はむかった。ここがハルトガルト廟の見学のメインであるらしく、人数制限あり、の看板の下で大勢のひとびとが順番を待っていた。再び列に並ぶーーとはいえ学院の生徒は優先的に案内されるので、すぐに三人は巨大なアーチ状の手すりのついた階段をのぼり、地下へとつづく階段の先で暗く閉ざされた床穴を見下ろすこととなった。空中に突き出した床を進み、手すりの先から下を覗くと、落とし穴めいた暗闇の先に入り口で売られていた花が投げ込まれて積み重なり、芳香がたちのぼっていた。この花々の下にハルトガルトが眠っているのだとシュバリスは感慨深く思いながら、じぶんも入り口で買った一輪を投げ込んだ。目線をそのまま上にあげると、ハルトガルトが建国を宣言したさいの絵画が正面に飾られていた。
(なかなかよく描けてる。本人より美男子かも、なんて云ったら気を悪くするかしら? わたしの夫さん)
建国宣言のときはいなかったはずだが、ハルトガルトの横に並ぶ仲間たちのなかにはじぶんの姿も描かれていた。じぶんが貶められる前に描かれたものなのかもしれない。あるいは皇帝家がこんなかたちで真実を伝えようとしたのかもしれない。シュバリスの姿はほかの五人よりも近く、寄り添うようにハルトガルトのそばにあった。
とーー
「あらあ、蛇人と熊人のコンビがなんで人間の場所にいるのかしら?」
三人が振り返ると、カレン・ジプサムとアルジュナ・アレクセイ主従が立っていた。彼らの背後には廟の警護の制服を着た騎士団員が立っている。さらに優先してもらえる場合があるらしい。「あなたこそなんでここに」とアリアナがすぐに云いかえすと、「ご先祖のお墓参りにきたのよ、いけない?」とカレンは昂然と顎をそらした。
「同じ学院の生徒がいますよって云われて登ってみれば、まさかあなたがたとは思わなかったわよ。だけどわたしたちはあなたがたのようなおのぼりさんとはちがうの。上から眺めるだけのあなたがたと違って、わたしたちは地下にもお参りできるんだから。子孫しか入れない場所にもちゃあんとね」
横からアレクセイが「それは皇帝家と御双家の人間だけだがな」とぼそりと云ったが、カレンに睨まれて口をつぐみ、アルジュナは横で小さくため息をついた。その後主従はちょっと顔を近づけあって何事かを囁き合う。真犯人が捕まってもふたりは相変わらずいいコンビだ。そのことに安堵しつつシュバリスは三人を見比べていたが、やがて「あ」とシュバリスははっとした。
(よく考えたらカレンってーーこの子ドーリスに似てる、かも……?)
ようやく取り戻した記憶と現在手に入れた情報によると、ジプサム家はドーリスの兄ゼロスの子孫なのだった。しかもジプサム家がセレスタイン家とも婚姻を重ねて今に至るなら、カレンもまたシュバリスの血を引いている。
「アリアナ。ねえアリアナ、カレンの副名ってなんだったかしら?」
「あなたみたいなのが子孫なんじゃハルトガルトもいまごろあの世で――え、えーっと、たしかマーガレット」
カレンと応酬し合っていたアリアナが答え、[[rb:木春菊 > マーガレット]]の意味を理解した瞬間、シュバリスは駆け寄り、カレンを思いきり抱きしめていた。
「えっーーえっ、ちょっと、なによ!」
「かわいい」
「はあ?」
「いやほら、なんの因果かいままで会った子みんな男の子だったから、ひとりくらい女の子がいてもいいのにって思ってたのよマーガレット。マーガレットーーええ、とても素敵な花よね、大好きだわ。かわいいカレン、生まれてきてくれてほんとうにありがとう。あなたにも会えてよかった!」
両手で顔をはさんでうっとりと見つめると、カレンは「ひっ」と呻き、シュバリスを引き剥がしてざっと後ずさった。どさくさにまぎれてシュバリスは彼女の頬にかるく口づけたのだが、真っ赤になって「なんなのあなた、具合でも悪いんじゃないの。失礼! 下でお待ちしてますわアルジュナさま、アレク!」と、よほど怖かったのか、まだ花も投げていないのに逃げていった。階段を降りる足音が遠ざかる。アレクセイは異様なものを見る目つきでシュバリスを見つめて首をかしげ、アルジュナはいつもどおりのむっつりした顔でシュバリスを睨んだ。
「誰にでもするのか、そういうことを、君は」
「ううん」
シュバリスは頭を振った。
「あれはお礼みたいなものよ。結果的に怖がらせちゃったのなら申し訳なかったけれど。ねえアルジュナ、春休みのあいだ彼女に会ったら伝えてくれる? 来年もよろしくねって。こんどは従者ともどもね」
「来年?」
隣でアイドクレーズが息を呑んだ。いちおう彼も一年生に編入し、シュバリスもきっちり後期試験まで終えたが、来年も学院にいるかどうか、彼のあるじははっきりとした答を出していなかった。「もちろんあなたたちもね。よろしく」とシュバリスが笑いかけると、アルジュナが眉間のしわを深くした。
「なにを企んでるかしらないが胡散臭いぞイスラメイ。来年? 来年もぼくは蛇人なぞと仲良くする気はない」
「仲良くとはいわないけどお隣だし、今年はいろいろあったわ。来年もいろいろあるでしょう。だからよろしく」
「恩をきせるつもりか。礼なら昨日受け取っただろう」
「ああ、これ?」
視線を追って、シュバリスは胸元に下がった鎖を持ち上げた。昨日行われた修了式で、今年優秀な成績をおさめた学生の表彰と指輪の授与が行われ、シュバリスはアルジュナの命を救った功績が認められて指輪を贈られていた。シオンの[[rb:聖石 > アゾート]]とともに紐に通されてシュバリスの首からぶら下がっている。一年生の受賞は前例がないとのことだったが、すでにその重みは体に馴染んでいた。アルジュナが吐き捨てた。
「信じられないことばかりだ。従者がほんとうは同じ歳だったとか呪いが解けたとか。貴様いったい何者だ?」
「それをこれからもう一度たしかめたいと思ってる。あなたともできれば仲良くやっていきたい。しばらくのあいだごきげんよう、アルジュナ、アレクセイ。休暇明けに会いましょう」
そこで鈴が鳴った。祈りと献花の時間はグループごとに区切られている。アリアナとともにシュバリスとアイドクレーズは階段を降り、長い身廊の脇を進んでもとどおり正面出入り口を目指した。
カレンもいなくなって取り残されたふたり、アルジュナとアレクセイは、そのまま手すりから去って行く三人の後ろ姿を見つめていた。アレクセイは、幻惑されたようにシュバリスの後ろ姿を見送りながらそのまま微動だにしないアルジュナにむかって「なあ、アル」とうんざりと云った。
「もういいかげん仲良くすればいいんじゃねえの。ふつうに話しかけて仲良くなれば? 今から追いかけてお茶に誘うのは無理でも休暇明けにはさ、あっちはああ云ってることだし少しは歩み寄って、最初からぜんぶやりなおしたら?」
「そんなことできるか。というか何を云ってるんだおまえは。わけがわからない」
「いやいやいや。おまえさあ、おれが気づかないとでも思ってるの?」
アルジュナの隣で手すりにもたれかかって、アレクセイは告げた。
「おれももう浄罪牢行きの無能兄貴と外道兄貴のことがあって身内の恥もなにもないから正直に云うけど、何年いっしょにいると思ってんだよ。好きなんだろ、ほんとうはシュバリスを」
「ばっーー」
アルジュナは眉を跳ね上げ、従者を振り向いた。頬を真っ赤に染めて口をぱくぱくと動かす。その後アレクセイが「ただでさえ[[rb:女主人 > ドミナ]]の発言でユーレアイトに対する心証サイアクなのに、このうえ息子のおまえまではっきり敵対しちまったら、にっちもさっちもいかなくなるだろ。せめておまえだけは時流に乗っかって対等に付き合って、あのときのことものちのちフォローできるようにしといたほうがいいと思うな、うん。別の意味でも」
シュバリスはたぶん、このまま学院を卒業して社会に出れば蛇人族のなかでもかなりの地位に上りつめる。親しくしておいて損はない。主人の将来への打算も兼ねてアレクセイが冷静に指摘すると、アルジュナは彼にしか見せない子どもっぽい表情と口調で「でも」とややしゅんとした様子でつぶやいた。
「いろいろ事情があるんだ。しょうがないじゃないか」
「事情ってなに。種族の差? 年齢差? ま、正直なところを伝えるったって相手はまだ十歳だもんな。ぜんぜんガキだし妙にしたたかな従者もついてるし、アイドクレーズがいなきゃもうちょっとなんとかなるかな〜とは思うけど」
「いやまあ、できればいないにこしたことはないが、しかしいるものはしょうがないだろ」
「まあな。でも、シュバリス本人はわりと懐柔しやすいぞ。あいつは最近の蛇人族の動向だの事情だのも知らなかったようだし、あのアイドクレーズもーー純粋な人間族だよなあいつやっぱり。それが蛇人の従者になるって事情もよくわからないが、ほんとうは同じ年齢だとはね。なんで呪いなんかかけられたんだか、さっぱり理解できんが」
ふつう、従者と主人の年齢が離れている場合は従者が年上であることがほとんどだ。ユアンとテディしかりハダルとナイジェルしかり。年下の従者ではあるじを護衛し世話をするのが難しいため、せめて同じ年齢であることが好ましいとされている。従者のほうがあるじより年下、というのはアレクセイはいままできいたことがなかった。その点でも疑問を抱いていたが、ほんとうはアイドクレーズとシュバリスと同年齢だったといわれ、多少は腑に落ちた。
「呪いね。まあイスラメイだからな。この一年で、あいつならなにがあってもおかしくないっておれも思っちまってるからなあ……。父親と母親もどういう事情なんだか、あのタイミングで真夜中に子どもを訪ねてくるのも異例だし、ほんとうに騎士団なのか、考えれば考えるほどどうなってるのかわからなくなる。でも、やっぱイスラメイだからなあーーそれにあいつが大人になったらああいうふうになるっていうんなら、まあ……」
異性として特にシュバリスに興味のないアレクセイですら、あのとき出会ったシュバリスの母親にはどきりとした。優しそうな女だ、というのが最大の印象だった。じぶんを生んですぐに亡くなった母親を思い出した。あの胸に抱かれたらきっと安心できるだろう。しかしアルジュナは眉間にしわをよせた。うちのあるじは年上には興味なし、と密かに蓄積してきた頭の中のアルジュナのデータにアレクセイが新たに上書きしようとしていると、アルジュナは「あんなのより娘のほうが綺麗だろ」ととんでもないことを云いだした。
「母親なんかよりよっぽどイスラメイのほうが可愛いだろ。何十倍も」
最初に目に焼きついたほうがあまりに衝撃的だったか。素直なのか素直じゃないのかよくわからん、とアレクセイは内心でため息をついた。「だったらもう声かければ。なんならおれが取り次いでやるよ。云ってなかったけどおまえが殺されかけたあと、あいつけっこう心配して、おまえをちゃんと守ってやってくれって云ってきたりしたんだぜ。本気で心配してたと思うぞ」ーーアルジュナはそれを聞いて水色の目を見ひらくと、しげしげとアレクセイを見つめた。怒るかと思ったが彼はそうせず、黙ってうつむいていた。
「なんだ。どうした?」
「できない」
「なんで?」
「できないよ」
「だから、なんでだよ」
「だってあっちがぼくを嫌ってるんだ。というより、あきれてる。イスラメイはぼくを軽蔑してる。心配してるんじゃなくてアレク、あきれてるんだ、彼女はぼくのことを」
「あきれてる? 軽蔑? えーっと?」
いつそんなことがあったか、とアレクセイはこめかみに指先をあてた。アルジュナは真剣な顔で「春に傷を治療してくれたときだ。あいつ、ぼくを見て情けないーーって云った。たしかにそのとおりだ、犯人に対してなにも抵抗できず、むざむざ刺されて死にかけるなんて御双家の嫡男の名が泣く。みっともないーーだから彼女はぼくを情けない男だと思ってるんだ! きっとずっと!」
「うーん? んんんんん?」
よほど悔しかったのか、ちょっと涙目になっているあるじに戸惑いつつ、アレクセイは該当する記憶をひっぱりだそうと四苦八苦した。いかんせん半年以上も前のこと、あのときは周囲の言動のひとつひとつに気をくばっている余裕がなかった。ややたってアレクセイはなんとか思い出した。そして、
「いや、アル。あれはーー」
アルジュナではなく、たぶんシュバリスは自分自身に云ったのだ。
アレクセイはそう伝えようとした。しかしアレクセイの目の前で、アルジュナはこれまで彼が見たことがないほど暗い顔でふかぶかとため息をついている。その陰鬱な眼差しと諦めにみちた様子に、こりゃあちょっとやそっとでは誤解は解けそうもないとアレクセイはみてとった。もとよりアルジュナにはちょっと思い込みの激しいところがある。アレクセイは急速に面倒になったーーまあいいか、シュバリスが来年と云ったのだから来年また考えればいいや、と彼はそれ以上考えるのをやめた。
「じゃあまあ、とにかく帰るか。カレンが下で待ってるだろうけどどうする、撒くか? 買い物に付き合ってほしいとか云ってたけどほんとは乗り気じゃないだろ。館に戻るか?」
「そうしたい」
「じゃ、行こう」
誘導してくれた警備員に礼をいい、階段を降りて身廊に出た。カレンは礼拝者用のベンチで所在なく目の前の絵画や彫刻を眺めている。彼女にばれないよう、ふたりは人もまばらな裏門へむかった。門から外に出ると、丘の上から市街地を見渡す。ユーレアイト館まではここから歩いていける距離だ。春風の吹き抜ける広場を出て、ふたりは丘をゆっくりと降っていった。
いっぽう、じぶんたちが去った後の廟で主従がそんな会話をしていたことなどつゆ知らず、シュバリスたちは来たときと同じく正面から、つまりアルジュナたちと反対側の方向からハルトガルト廟を後にしていた。エイシャに戻る前にアルジュナとアレクセイに会えてよかった、と坂道を下りながらシュバリスは安堵した。
(カレンだけじゃなく、ほんとはあのふたりにもキスしたかったけどさすがにねえ。こんなおばあちゃまにキスされたって思春期の男の子には気持ち悪いだけでしょうし。外見がいくら若くてもねえ)
アルジュナが知ったら卒倒しそうなことを考えながら、風に舞う髪をおさえ、春の花が街路を彩り始めたさまに目を細めながら、最後にハルトガルト廟を振り向いて、シュバリスは心の中でそっと囁いた。
(ーーあなたの旅はもう終わったのね、ハルト)
(だけどわたしの旅はもう少し続くみたい)
(待っててね。がんばって進んでみる。いつかまたあなたに会うとき、胸を張って、精一杯やったわって云えるように)
ふと、シオンがもらしたハルトガルトに対する発言が脳裏をよぎったが、まさかね、とすぐにシュバリスは打ち消した。せつな、アイドクレーズが「あぶない!」と叫んだ。気づくと地面に激突寸前でアイドクレーズに抱き止められていた。
「気をつけてくださいよ! ここはヤハンみたいな田舎じゃないんですから!」
道行く人々が苦笑している。帝都の地面を舗装している石畳は人と車の長年の往来で磨耗して滑りやすくなっている。気をつけるように、と帝都に入る観光客にお達しがでているほどだ。「だいじょうぶ?」と心配そうにアリアナも手を差し出した。
「次は気をつけるわ。ごめん、ありがとう」
まずは一歩ずつ。シュバリスはそう呟いてふたりの手を取ると、立ち上がり、眼下に広がる帝都を見つめた。午后の日を浴びる街は宝石のように輝いている。
長い春のはじまりだった。
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