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[chapter:ただしい犯人
]
(なにが起こってるのーーどういうことなの)
「ナイジェルとギネヴィアが共犯、ということなんでしょうか」
隣でアイドクレーズが呆然と呟いた。「わたしたちにはわからないところでふたりは繋がっていたーー利益を同じくしていた?ーーしかし、」
「ええ、腑に落ちないわ。どういうこと?」
(ギネヴィアはユアンを皇帝にしたいはず。対してナイジェルはハダルを皇帝にしたい。ふたりの利益は相反する。それが協力し合い共犯になる、そんなことってある? 共犯だとしたらほんとうはふたりの目的は合致していたかまったく逆で、ギネヴィアはハダルを皇帝にしたいか、ナイジェルはユアンを皇帝にしたい? だけどこれまでのふたりからは、みじんもそんなことは感じられなかったーー)
シュバリスたちが戸惑うあいだにもギネヴィアとテディは激しく争っていた。ギネヴィアは猛スピードで刀を振り、テディは防戦一方だ。衝撃で部屋中が軋みをあげている。さきほど発動したユアンの魔法もむなしく室内は再び荒れ、本棚から本がなだれ落ちあるいは空中へ吹っ飛び、そのせいで本体から切り離された頁がちぎれて雪のごとくに舞った。そのあいだにもギネヴィアはときおりナイジェルに「起きなさい」と蹴りを入れていた。
「起きて手伝えってのよ、このやろう!」
「シュバリス、アイドクレーズ、逃げろ!」
ギネヴィアの刀を、再びコートかけで受け止めながらテディが呻いた。
「ここはなんとかする。ふたりとも逃げろーー!」
ふたりは顔を見合わせた。こうなったらテディのいうとおり逃げたほうがいい。しかしその瞬間ギネヴィアのするどい眼差しがふたりを射抜いた。「だめだよ」ギネヴィアは薄く笑った。「行っちゃだめだ、ふたりとも。逃げてもーー」ギネヴィアはナイジェルを見下ろして頭を振った。
「どこへも逃げられないわ。無駄よ」
「そんなこといわれても」
シュバリスはおろおろとアイドクレーズを見遣った。ギネヴィアが現れて以来難しい顔で考え込んでいたアイドクレーズは「いまいちばん解せないのは」とすばやく囁いた。
「なんでギネヴィアとテディが戦ってるかってことですよね。あのふたりは仲のいい友達で先輩後輩、両方ともユアンと親しい。『ユアンのため』と先ほどギネヴィアは云ったが、ユアンに関してこのふたりの利害が対立するとは思えない」
「ええ」
「ということは、このふたりが戦闘するなんてありえないことが起こる場合に考えられるのはーーいまの発言からですけど、ギネヴィアはナイジェルとずっとひそかに繋がっていて、ギネヴィアはそれをユアンのためと信じている。いっぽうテディはギネヴィアがユアンを裏切ったと理解しているようだが、もしギネヴィアがナイジェルと懇ろなら、主人の恋人が別の男と、というかじぶんの弟と不貞関係にある。それにギネヴィアがナイジェルと繋がっていたのなら、このあいだテディが騎士団に拘束されたのもギネヴィアのせいだーーそしていま、ギネヴィアはナイジェルを利用してか結託してかあなたを害そうとしているようだが、テディにはそれもとうてい看過できない。そのためにこんな争いになっている、と」
「わかりやすいんだかわかりにくいんだかわからないけど説明どうも」
「もしくはこんな可能性もある」
こちらが本命のようだ。いまべらべらとしゃべっていた間に練り上げたのだろう。茫洋と虚空に視線をさまよわせながら彼女の従者は早口に云った。
「ひとつだけ納得できる答があります。やはりギネヴィアが一連の事件の黒幕で、ハダルの誘拐も彼女の仕業で、つまりギネヴィアは一貫してハダルの命を狙っている。そしてそれを餌にギネヴィアはナイジェルをおびきよせ、道具として使っていたーー聖遺物を強奪させたりあなたの眼や足を奪ったり、これまで匿っていたのも彼女かもしれないが、実はナイジェルはずっとひそかにギネヴィアに脅迫され利用されていた。そしてナイジェルは、ギネヴィアが黒幕なのではなく、その背後にはユアンがいるとすっかり思いこんでいて、あの小僧の部屋に来た晩にそれを伝えようとした」
「筋がとおる、かもーーええと、じゃあ、とにかくテディを助けてギネヴィアを斃すべきかしら、わたしたちは?」
「なんですけどね。これに割り込めます?」
アイドクレーズが真剣に云い、シュバリスは目の前の戦闘を見つめて頭をふった。ギネヴィアはどうやら、すべてではないものの獣性を開放しているようだ。人間にはとうてい出し得ないスピードで部屋中を跳躍し、彼女に比べたら動きが鈍いもののテディもさすが獣人、くわえられる攻撃にしっかり対応し、ときに重量感のある音をたててギネヴィアに反撃を繰り出していた。その迫力。速さ重さ。「無理無理無理、とうていとめられない」瞬時にシュバリスは白旗をあげた。「ですよね。なのでーー」
「なので?」
「やっぱりとりあえず逃げましょう」アイドクレーズがうなずいた。「でもその前にナイジェルだけでも押さえましょう。あれに目を覚まされたらよけいにことがややこしくなる。拘束するくらいはこの部屋でだって大丈夫でしょう。わたしがやります、テディががんばっていてくれるうちに」
「うんーー」
「いまです。走って!」
ギネヴィアとテディが壁際で競り合っているうちに、シュバリスたちはナイジェルのもとへダッシュで駆けた。さきほど自分たちを縛っていたロープでナイジェルの腕を縛ろうとしたとき、ふとなにかが彼の上で光った。はだけたナイジェルの胸元から、鎖に通された認識票がこぼれおち、認識票のほかにも小さなアクセサリーが一緒になっているのが見えた。よく見るとそれは例の指輪で、二つあった。
(ナイジェルは指輪を二つもってるはずーーということは彼のも欠けてないんだわ。ん? どういうこと?)
アイドクレーズも同じことを考えたようだ。一瞬ふたりは顔を見合わせ、しかしやるべきことはやろうと黙々とナイジェルの腕を縛りあげた。そのあいだも拭いきれない疑問が頭の片隅に陣取っていた。が、触れられたせいかナイジェルが「うーん」とちいさく唸り声をあげ、もぞりと体を動かした。早く移動しないと目を覚ましてしまう。そうしたらどうなるかーー
「ギネヴィアとナイジェルが組んでいるとしたら、ナイジェルが復活したらテディに勝ち目はありません。このすきに逃げましょう」
「いいわ。行きましょうーー」
「行け!」
ふたりの動きに気づいてテディが叫んだ。なんとかギネヴィアを壁際に追い詰めていた。
「どこでもいい、学院長室でも王宮でも寮でもいい、逃げろ!」
「わかりましーー」
「させない」
このときのためにしばし防戦して力を溜めていたのだろうか。薄暗がりに陰鬱な光を放つ目が、一瞬獣の獰猛さを映し出したと思ったら、ギネヴィアがテディを弾き飛ばした。同時に閃光がほとばしったーーさきほどシュバリスがナイジェルにしたように、魔法の照明光をテディの顔にたたきつけたのだ。テディがひるむ。その隙にギネヴィアがシュバリスたちにむかって印を発動していた。
「どーーっ、?」
せつな、シュバリスとアイドクレーズは、教官室の天井まで届くほどの鈍色に輝く巨大な檻のなかにいた。魔法の檻だ。シュバリスは慌てて柵のあいだを通りぬけようとしたが、子どもならじゅうぶんに通り抜けられる隙間があいているにもかかわらず、どうしても通り抜けることができない。無理に体をねじ込もうとすると押し返される。「これ結界だわ」シュバリスはびっくりして声をあげた。
「結界の檻だわ。出られない」
「あなたの魔法でも?」
「ええ、わたしでも」
シュバリスは焦って指先を隙間に差し出した。やはり弾かれるーー手をひっこめてシュバリスは頭を振った。
「眼があればたぶん破れると思う。でもいまのままじゃ無理」
「そうですか。結界の檻。結界ーーまてよ、となるとここはべつの空間なんですね? てことは、攻撃魔法がーー?」
使えるはず、とアイドクレーズが手のひらから破壊魔法を繰り出す。しかし、脈打つように黒い光を放つ檻はびくともしなかった。それどころか魔法を取り込んでより頑丈に黒光りした。柵と柵の隙間が心なしか狭くなった気がする。ふたりは顔を見合わせた。
「魔力が吸収される?ーーなんだこれ、まさか」
「すごいでしょ。ユアンはほんっとうーに優秀な印陣作家なんだよ! 芸術的でしょ!」
ギネヴィアが笑い声をあげながら、テディの攻撃を避けつつシュバリスとアイドクレーズ、ついでにナイジェルまで閉じ込めた檻へ近づいてきた。柵の向こうを見つめるシュバリスのすぐ目前で、紅茶色の瞳は金色に光っていた。
「しかもまったく隔絶された空間ってわけじゃないの。声は聞こえるしわたしたちのことも見えるでしょ。これって実はすごいことなんだよ。こんな[[rb:魔法語 > マギアコード]]を書けるのはミクラではユアンくらいだ、痺れちゃうよねーーさて、わかったらそこでおとなしくしておいで[[rb:女神 > ディーズ]]。悪いようにはしないからねーー」
ラベンダーのドレスはホルターネックが半ばで切り裂かれ、一箇所だけでなく何箇所もドレスの裾にスリットが入っていた。むき出しの腕も足も傷だらけの無惨な姿だ。だが凄絶に美しかった。血刀を提げて笑うこの女性が犯人、とシュバリスは愕然とした。獣性で妖しく光る瞳には、[[rb:獣 > ケモノ]]の[[rb:性 > サガ]]のまま猛り狂う恍惚とみだらな昂揚がうつっていた。そしてなおも消えない理性と優しさ。「ギネヴィア」シュバリスは苦しくその名しぼりだし、もしもこのひとがわたしの眼をもっているなら、と神経を集中させて彼女の全身を捜索した。
(わたしの魔力を取り込んでじぶんのものにしているなら、その痕跡がどこかにあるはず)
[[rb:読魔能力 > オルリド]]を発揮していると悟ったのだろう、ギネヴィアがさっと檻から飛び退いた。しかしシュバリスの眼はたしかにギネヴィアの腹部に、懐かしいような切ないような、暖かな魔法の気配を探りあてた。そこになにかがある。彼女のものとは違う魔法の力を、彼女はおなかに抱え込んでいる。しかも二つーー
(わたしと、ハダルの)
(じゃあ、彼女がハダルを誘拐した黒幕でもある)
「先輩、あなたは」
床に倒れていた、同じくボロボロのスーツ姿のテディも起き上がり、折れたコートかけをもはや無用の長物と断じたか投げ捨てた。ギネヴィアを睨みつける双眸はぎらぎらと光り、怒りの炎を宿していた。
「気付かないとでもお思いか。あなたと何年友人だったと? あなたはーーあなたの匂いが変わった。その腹に何を隠してる。誰の魔力だ、それはーー!」
「気づいたか。さあーーなんなんだろうねこれ。わたしもまだよくわからない。でもあえていうなら、そうーー」
ギネヴィアはその瞬間、困ったように首をかしげた。
「魔法(マジック)さ」
テディが吠えた。最後の手段にとっておいたのだろう、ついに獣性を開放したテディをギネヴィアはなんなく受け流し、テディは頭から壁に激突した。本棚にわずかに残っていた資料や書籍がなだれ落ちた。ギネヴィアが同時に「起きないか。だめか」と、ちょうどシュバリスたちのそばで気を失っているナイジェルを見遣って「まあいいや」と呟いた。額に汗を浮かべたギネヴィアは、ここにきてようやく疲労の色を整った顔ににじませていた。
「時間を稼げればと思ったけどどうやら限界が近いわーーやっぱ体力押しじゃテディには勝てないわね。あとは不確定要素をどう乗り切るかーーまあわたしはどうなってもいいや、殺されやしないでしょたぶん。さて、シュバリス、アイドクレーズ。ナイジェルを守るんだよ。生き延びるんだ。できるだけのことはさせてもらうからね」
どういう意味だ、とシュバリスが問う間もなく、ギネヴィアとテディがふたたびぶつかった。とうとうギネヴィアも刀を折った。ここから先は肉弾戦ーー殴り合い、どつきあいだ。体がそれぞれ後方に退いたとき、テディが叫んだ。
「体力だけならわたしのほうが上だ先輩! この時を待ってた!」
「これだから厭なのよね体力莫迦は」
ギネヴィアが舌打ちした。
「だけどテディ、かわいい小熊ちゃん。あえて云わせてもらうよ、それは忠誠じゃない」
「忠誠だ。ーーギネヴィア、わたしはあなたを斃す。あなたはユアンのためにならない。帝国のためにならない」
「さあどうかしら。わたしは最近思うのだけどねーーいいよ、きてごらん色無しくん。ほんとうのあなたが何色でも喰ってみせる。わたしのマジックはどんなに堅くて剛いものもぜんぶ呑む」
「あなたが好きだった」
ふとテディの顔が歪んだ。
「あなたがほんとうに好きだったーーギネヴィア」
その瞬間、ギネヴィアが新たな印を使った。その印は赤く輝き、なぜかギネヴィアはテディを攻撃せず、空中に放り投げたその印に拳を突っ込んだ。肉体攻撃に特化した印であったのか、テディが呻き、彼の背中の一点が鮮血に濡れる。ギネヴィアが印から手を引き抜く。高速で動いた手から何かが放たれ、それは床にぶつかって跳ねた。「浅い。これじゃない」ーー苦しげに呻いたギネヴィアはそのまま跳躍し、執務机の後ろの窓際までしりぞくと、数秒なにかを考え込むように床に手をついて中腰の姿勢をとった。なにかを待っているか、覚悟を決めているようにも見えたーーが、やがてぐっと足元に力を込めると、彼女は弾みをつけて一気にテディに間合いをつめていった。檻の横をギネヴィアが疾駆してゆく。ドアの前ではテディが腕を前方に差し出して構えている。シュバリスはなぜかそのとき、じぶんが[[rb:巣球 > ネスボラ]]のフィールドにいるような錯覚をうけた。おそらくそれはそのとおりだったのだろう、かつて同じチームで戦った二人は、お互いの得手不得手も、攻め方も守り方も、あますことなく知り尽くしていたのだ。アイドクレーズはギネヴィアについて彼女の研究所での功績から情報を得ていたが、シュバリスもギネヴィアが巣球部の選手だったころの話をきいていた。タッカ・パザルジークは、先輩から語り継いできたというギネヴィア・トリッチトラッチのキャプテン時代の伝説を何度も選手への激励として話していた。そして、攻撃の要であったギネヴィアの背後には、つねに防御の要だったテオドール・アベンチュリンがいたと。模擬戦ではふたりが本気でぶつかりあうこともあったが、そのときはつねにギネヴィアが勝利してきた。根っからの[[rb:攻撃 > オフェンス]]リーダーであり、どんなに強い守りも砕くギネヴィア。勝利の女神と呼ばれたギネヴィア。しかし、
「あなたのマジックはーー」
低い声がかすかに聞こえた。
「わたしとは相性が悪い」
耳鳴りがした。空間が歪む感覚にシュバリスはとっさに耳を押さえ、横を見るとアイドクレーズも同じポーズをしていた。
ギネヴィアとテディ、ふたりがぶつかりあったはずの場所に目を向けると、そこにふたりの姿はなかった。
「ーー?」
かわりに、ギネヴィアがスタートを切ったはずの窓際から鈍い音があがった。シュバリスたちがそちらに顔をふりむけると、ギネヴィアの胸ぐらを掴みあげ、そのまま床へと叩きつけるテディの姿があった。「ぐーー」ギネヴィアは呻き声をあげて床にのたうち、そのまま腹部をかばうように体を丸めて動かなくなった。「先輩ーーギネヴィア」ーーテディが泣きながら何度もつぶやく。洟をすすりあげ、涙をこぼす水っぽい音と同時に、「ギネヴィア。ギネヴィアーーあなたが、どうして」と、裏切られてなお愛惜にみちた優しげな声が何度も名前を呼んだ。
「ずっといっしょにいたかったのに、なぜ裏切ったんだ……どうしてあなたがユアンの将来をだいなしにするんだ?」
とはいえギネヴィアは死んではいなかった。シュバリスはギネヴィアを包む紫のオーラをテディの巨体ごしに確認してほっと溜息をついた。シュバリスの眼と足を奪いハダルを殺そうとしていても、ギネヴィアが死ねばいいとか傷つけばいいとか、そこまで非情にはなりきれない。だが、彼女が気を失い、魔力を費い果たして深い眠りに落ちているのはわかった。とうぶん目覚めないだろう。テディはギネヴィアのそばにしばらく膝をついていたが、彼もそれを悟ったのか悄然と立ち上がり、「いこう」と檻の前までやってきた。
「逃げよう、ふたりとも」
「しかし、檻がーー」
ギネヴィアが気を失っても檻は消える気配がない。テディは疲労を濃くにじませた顔でぼんやりとあたりを見渡し「この印なら、ユアンさまが書くところをみたーー」と、ふらふらと本棚の前に散乱する書籍の群れへとむかっていった。やがて一枚の紙を手にやってくると、ぺたんと力なく檻の表面に貼り付けた。檻は空中に溶けて滲むように消えていった。
「ふたりとも、よく耐えたなーー」
テディはこの数十分でげっそりとやつれていた。しかし、年長者として子どもたちを守らねばと気合をいれなおしたのか、シュバリスに弱々しく笑いかけ、アイドクレーズの背を叩いた。
「わたしが勝てたのは奇跡に近い。実をいうと、ナイジェルにもギネヴィアにもこれまでいちども勝てたことはないんだ。すぐそばに君たちがいてくれたおかげだ、死守すべきものがあると従者は強い。アイドクレーズはわかるだろうが」
「ええ、わかります。だいじょうぶですか。あのーー」
「傷を治しましょうか?」
そのくらいならできる。焦って手を伸ばしたシュバリスの申し出に、テディは頭をふった。
「いや、いい。時間が惜しい。さっさと行こう。ここじゃナイジェルがいつ目覚めるかわからない。あいつともういちどやりあって勝てる自信もないし、ひとまず学院長室にでも……ーーああ、騎士団が遅いな。ナイジェルがいると通報しておいたんだが、わたしの通報だから本気にしてもらえなかったかな。その可能性もーー、」
「テディ!」
テディはその場にがくりと両膝をついた。シュバリスとアイドクレーズは慌てて肩を支えた。あちこち切れたり裂けたり、薄い光に照らされておぞましいほど無数の色の痣に染まった体を見下ろしてテディも「だめだ。すまないーー動けない」と呻いた。
「しっかり」
アイドクレーズがテディの肩の下から手をさしこみ、ひきあげようとした。「とにかく移動しましょう。起きて」ーーシュバリスも焦って、アイドクレーズの反対側にまわってテディを抱えようとした。いっこくも早く安全な場所へ戻らなければならない。ギネヴィアが犯人だとわかったいま、魔力を取り戻すのはきっと後でもできる。いまはテディを連れて逃げなければーーしかしテディは頭を振った。
「だめだ。いまの君たちじゃわたしを運べない。子どもでは」
「あなたを治します。傷をーー」
「いや、いい。だいじょうぶだ、傷の問題じゃなく魔力切れだから。わたしはおそろしく燃費が悪くてねーーすこし休めばもとにもどる」
テディの手は、ギネヴィアにつけられた傷を撫で、「だいじょうぶ」と彼は繰り返し、「シュバリスさま」とアイドクレーズが小さく云った。
「手当てくらいわたしもできます。治癒魔法なら使えるでしょう。ナイジェルもわたしが見ていますから、あなたはひとまずギネヴィアのほうへ」
「でもーー」
「たしかめてきてください、いまのうちに。そのほうがいい」
アイドクレーズの口調は主人に向けたものとは思えぬほどきつかった。だが的を射ている。眼を回収するならギネヴィアが気を失っているいまは絶好のチャンスだ。シュバリスはふたりから離れ、窓際で倒れたギネヴィアへ近づいた。何歩か進んだとき、かつん、となにかを蹴飛ばした。はずみで執務机の脇に転がったのは、赤く濡れた奇妙な物体だった。刃物にみえるが持ち手がなく、むき出しのまま、やや錆びているようにも見える。はてどこかで見たような、とシュバリスは首をひねったが、とにかく窓際で倒れたギネヴィアへと近づいた。ぴくりとも動かない彼女の横にしゃがみこむと、読魔能力で全身を見渡す。たしかお腹に、とじっと神経を集中させると、そこに見えたのは、抉り出されたシュバリスの眼や莫大なハダルの魔力ではなかった。
(えっーー?)
(違う。これはーー違う)
(ていうかこれは、えっーー)
パニックに陥っていると、後ろからアイドクレーズの声がした。「ギネヴィアじゃありませんね」ーーその冷めきった声にシュバリスはやや面食らいながらも「そうみたい」とうなずいた。そうしながらもせわしなくギネヴィアの全身を、さきほどにもまして集中して精査した。魔力と生命力にあふれたギネヴィアの肉体には、他の誰かから魔力を奪っているような不自然さやいびつさは微塵もなかった。彼女の血に充ちているのは、じぶんとは別の生命をその体のなかで育むことに対する無常の喜びだった。それはギネヴィアの魂に根ざし、彼女を夏の夜のようなオーラをより強く美しく輝かせていた。そして、ただひたすらに健やかでまっすぐにのびゆく、目も眩むような生命のきらめきは、同時にギネヴィアを強力に守ってもいたーー
ギネヴィアが抱え込んでいるのは、シュバリスの眼でもハダルの魔力でもなかった。無辜で、狂おしいほど愛にみちた光だった。
犯人ではない。
「どうーー」
いうことなの、と続けようとしたシュバリスの耳元で、いつのまにやってきたのだろう、アイドクレーズが囁いた。「そのまま静かに振り向いてみてくれますか。そのままーー集中して!」
「振り向い、てーー、?」
アイドクレーズの腕がシュバリスの体を包み込むように抱きしめ、そっと反転させた。そこにいたのはドアの方を向いてうずくまるテディ。常にふたりを気遣ってくれる、優しくて朴訥で純情なーーしかしその肉体をはじめて[[rb:読魔能力 > オルリド]]で視てシュバリスは息を呑んだ。血の滲んだシャツの背中、いまだ悄然とし困憊している彼の体のなかでひときわ紅く輝く光が見えた。何かを叫び、彼の肉体から逃れたがっているもの。それを認めた瞬間全身の血が沸騰し、シュバリスは頭が真っ白になるような感覚を味わった。すぐそこにある失われた右眼の叫びが聞こえたーー「もとにもどして。わたしをとりもどして」!
(わたしの右眼ーー?)
それは完璧にとりこまれ、彼の心臓と絡み合っていた。そしてシュバリスの魔力だけではなく、別の深遠な黒い光も心臓に寄り添っていた。魔剣と同じ漆黒の光。ハダルの魔力。
「テーーディの、なかに……、?」
シュバリスが呆然と呟くまにアイドクレーズが素早く立ち上がった。シュバリスをひきずって執務机のむこうに飛び込み、窓を固く閉ざす鎧戸の鍵に手をかける。「いまのままじゃまずい」アイドクレーズは勢いよく窓を押しひらくとシュバリスを抱き寄せ「この場は逃げますよ」と広がる闇を指した。ことばを返す暇もあらばこそ、アイドクレーズは窓枠に足をかけ、あっと思った時にはシュバリスは彼もろとも窓から身を投じていた。がーーたしかに空中に身を躍らせたはずなのに、一瞬後、ふたりはもとどおり教官室のなかに立っていた。
「なんーー、?」
あたりを見渡し、アイドクレーズが絶句する。シュバリスもだった。いまごろアイドクレーズの魔法で無事に庭へと降り立っているはずだったのに。なのになぜまた教官室に立っているのか。
目の前でゆらりとテディが立ち上がり、「危ないよ」と低く呟いた。
「怪我をするよ、ふたりとも」
「ーーなるほど」
テディをきつく睨み、アイドクレーズがするどく云った。
「あなたですね。あなただったんですねーーあなたが強奪犯ですね。わたしたちを騙していた」
全身に鳥肌がたった。シュバリスはただひたすら息を呑み、アイドクレーズと、そのむこうに暗い顔で立つテディを見つめていた。
[newpage]
[chapter:おかえりメタモルフォセズ ]
「どうして?」
呆然と呟くシュバリスに、テディはほんとうに、心のそこから弱りきった顔で微笑み、ゆっくりと首をかしげた。
「どうもこうもないよ。逆に聞きたい、君たちこそいったいどうしたんだ、いきなり窓から飛び降りたりしたら危ないじゃないか。魔力がほかの子より高いとはいえ怪我をするよ。だから止めたんだ。さあーー行こう、ここから出なければ。わたしはもうだいじょうぶだ。いっしょに出よう」
テディはシュバリスたちに手を差し伸べた。先ほどより青ざめ、やつれかたもひどくなっているが、それでもシュバリスたちを気づかう姿勢を崩さない。なにかのまちがいだったんだわ、とシュバリスはほっとため息をついた。
(テディが犯人、ではない。さっきのはわたしの見間違い。さすがのわたしも疲れーーてーー、)
しかしアイドクレーズはその場を動かなかった。シュバリスを背後に押しやり、ぐっと顎をそらしてテディを見上げると「あなたはさっき」とするどく云った。
「いまの君たちじゃわたしを運べない、と云いましたね。いまのわたしたちーーいまの、とはどういう意味でしょう。昔のわたしたちなら可能だと? 以前のわたしたちをご存知なんですか?」
「そんなことを云ったかなわたしは」テディはふしぎそうに首をかしげた。「よく覚えていないがね」
「云いましたよ、はっきりと」
「そうだったかな。しかしそれがどうかしたか。ひどく些細な云い間違いだし、揚げ足とりじゃないかね。なにか誤解してないか?」
「おことばを返すようだがわたしにとっては些細ではない。揚げ足取りでもないし誤解などしていない。これはとても重要なことだ」
とっさにシュバリスはアイドクレーズの背にしがみついた。はずみに触れたアイドクレーズの手は震えていた。アイドクレーズはほんとうに彼が犯人だと思っているのだ。だいじょうぶよ、とシュバリスは肩越しに笑って告げようとしたが、できなかった。アイドクレーズの直感や推理力や分析力は、危機に瀕してことのほか強く発揮されるが、触れた背中からひしひしと彼の無言のメッセージが伝わってきたーー油断するな、気を許すな、目の前の男はじぶんたちが思っているような人間ではない。
そうなのだろうか。まさか、とシュバリスはテディをまじまじと見つめた。そしてはたと気づいた。
「あーー操られてるーーのかしら?」
「かもしれない」
ふたりはしずかに後ずさった。アイドクレーズの手がシュバリスの手を握り返し、ひっかくように指先が動いたが、意図はすぐに理解できた。もういちど窓から外に飛び出してみるかどうしますか? しかし先ほど起こったことはどう説明すればいいのか。まったく不可思議で不条理なできごとだったが、また同じことが起こったら?
これもユアンがこの部屋にかけた魔法か。テディはそれを利用しているのか? ふたりが息を呑んでいると、
「疲れたよ」
テディがぽつりと呟いた。
「ほんとうに疲れたよふたりとも。なのにいったいなんなのだい? わたしは君たちを守ろうと全力を尽くしたのに、君たちはひょっとしてわたしまで疑っているのか? なぜそんな目でみるんだ。よくわからないし理解しきれないよ、そんなおかしなことってないだろう?」
「それはーー」シュバリスは反論できなかった。だが、「あのとき」とアイドクレーズが早口に云った。
「ナイジェルはわたしたちの前方にいました。そして思い返せばわたしたちは、後方から殴られて気絶した。ですよね?」
肩越しの視線にシュバリスはとっさに後頭部に手をやった。背後から殴られたときの衝撃がまざまざと蘇る。たしかにアイドクレーズのいうとおり、あのときナイジェルはシュバリスたちの前方にいた。最後までずっとふたりの視界に映っていた。ということは、ナイジェルではなく別の誰かがふたりの背後にいて、そいつが殴ったのだーーアイドクレーズがするどく云った。
「ナイジェルを見かけて追ってきた、といいましたねあなたは。いったいどこからナイジェルを見ていたんですか?」
テディは無言だった。「それに騎士団が遅すぎる」アイドクレーズが続けた。
「騎士団はこの国の、魔法を使った犯罪における即応部隊だ。どんな些細な通報だろうと通報者が誰だろうと犯罪の恐れがあればただちに急行する。ましてあなたがナイジェルの名を出したとするなら必ず来る。なのに遅い、遅すぎるーー来ないのではないかとすら思える。そしてもしも来ないとすると考えられる理由はいくつかある。ひとつ、騎士団が相当まぬけ。ひとつ、ハダルの異変に気をとられてる。ひとつ、そもそもあなたは通報していない」
テディが咳き込んだ。笑ったようだった。口元を押さえてテディは「したさ」と明るく云った。
「なんてことを云うんだい、たしかにわたしは騎士団に連絡したよ。ただ」
「ただ?」
「とっさのことでなんと説明していいかわからず、無言で通話を切った、かもしれない」
シュバリスは唖然とした。アイドクレーズもだ。しかしアイドクレーズは思考停止に陥らず次の一手を放った。「さっきのは?」七歳の子どもではなく、三十二歳の大人の顔で、つじつまのあう答を必死で探していた。
「ナイジェルとギネヴィア、そしてさっきの。ユアンの印か陣かーーあれはなんの魔法だ?」
天候を操るナイジェルと他人の魔力を吸収するギネヴィア、けたはずれの[[rb:固有魔法 > マジック]]のもちぬしふたりを、満身創痍になりながらもテディは倒した。あれがユアンの印や陣によるものなら多少は痕跡が現れるはずだ。魔法印ならたいていは手のひら大の紙を使うから、術者の手には紙が握られていなければおかしい。じっさいギネヴィアも紙片から魔法を生み出していた。しかしそれらしきものをテディが手にしていた様子はないし、発動に伴って起こるはずの音や発光といったものも皆無だった。魔法陣だとしたら、考えられる現象としては耳鳴りがしたし空間が歪むような感覚があった、とシュバリスはあたりを見渡した。この部屋全体になにがしかの魔法陣が敷かれているのだろうか。これほど自然で、状況に応じて即座に発動される魔法陣は見たことがないがーー
(もしくはーー)
テディがゆっくりと床に腰を落とした。彼が拾い上げたのはギネヴィアの刀だった。そして彼は「こないなら無理やり連れていくよ」と告げるやいなや、一足飛びに距離を詰め、ふたりに襲いかかってきた。
「くーー、」
アイドクレーズは、再三テディが獲物にして振るってきた、折れた真鍮製のコートかけを拾い上げて受け止めた。が、大人でしかも熊人の血を引く男に抗しきれるものではなかった。押しきられ、シュバリスもろともふっとんでギネヴィアの横に倒れこむ。シュバリスはとっさに手を振り上げ、考える時間を稼ごうと自分たちの周囲に防護壁を張りめぐらせた。「さすが」とアイドクレーズがすぐに起き上がってシュバリスの前に出た。
「どうやら黒幕はユアンですね、あなたのにらんだとおり。テディは彼の操り人形だ」
テディはぎくしゃくとした動きで、シュバリスたちのもとへゆっくりと歩み寄ってくる。
「ええーー、」
シュバリスは背後にかばわれながら、近づいてくるテディを見つめた。透明な防護壁越しに見えたテディの目は金色に輝き、底知れない欲望で濡れて光っていた。しかし、いまだに読魔能力を保ちつづけていたシュバリスは、テディの行動が、疑いようもなく彼自身の意思によるものと観察して驚いた。
(操られて、ないーー)
(操られてない。誰にも操られてなんかない。これはまちがいなく本人の意思。テディの意思によるもの)
(嘘でしょ。でも間違いないーーだけどじゃあ、どうしてーー?)
テディではなくユアンが黒幕でなければいろいろつじつまがあわない。ユアンに操られていなければ、不可能だと思われる犯行が多々ある。ましてシュバリスの眼のみならず、ハダルの魔力まで奪い体内に隠し持っているなら、ユアンが彼に与えたのだと考えた方がしっくりくるーーが。
(操られてないとしたらほんとうに彼が黒幕だけど。どうなってるのーー?)
刀を握るテディの右手中指にはきちんと指輪が嵌められている。いつか学院長室で覗き見たとき、指先で撫でていた指輪だ。
(ひとつだけの指輪)
どう融通し誤魔化したのだろう。彼が犯人なら動機はユアンを皇帝にしたい一心だろうがーー
テディが手を伸ばし、透明な壁にそっと触れる。どんな魔法でも破れない、防護壁のなかにいる限り絶対安全、シュバリスはそう思っていた。が、次の瞬間もろくも壁は崩れ、テディは一歩踏み出した。目の前にそそりたつ巨体を見上げてシュバリスもアイドクレーズも息を呑んだ。そして同時に悟った。
(わたしの魔力をもっているからだわ。だから破れるんだ、わたしの魔法は。対策がうてるんだ。どうすればいいかぜんぶわかるんだ。だからーー)
(わたしの魔法もアイドクレーズの魔法も効かない)
「追ってくるとは思わなかった」
テディが低く云った。表情も口調もいたって穏やかであることが、かえってシュバリスをぞくりとさせた。そして次の瞬間彼が口にした「あのヤハンのシュバリス廟ーー地下神殿で、いまだに蛇神が生きてこの世にいるなどと、誰が思うだろう」決定的な台詞に戦慄するシュバリスたちを見下ろして、テディは恭しく胸に手をあてて一礼した。
「あなたはこんども帝国のためにその身を犠牲にして沈黙してくれると思っていた蛇神シュバリス。あなたの力は強く烈しく美しいーー特に眼は素晴らしい。御するまで苦労したが、体に馴染めば極上の味だった。なにもかもからわたしを守り、隠してくれた。ハダルの魔力と同じく、わたしを強くしてくれた」
もはやテディで間違いなかった。シュバリスは切れるほど唇を噛みながら、必死で彼を睨んだ。
「どうしてーーこんなことをしたってユアンはーー、テディ、ユアンはこのことを?」
知っているのだろうか。なにもかもテディの独断だというなら彼が許すはずがない。「ユアンを皇帝に、か。ふたりとも、わたしの目的がそれだと思っているんだな」テディは低く呟いて首をかしげた。
「まあ、それだけではないがたしかにそのとおりだ。ユアンの皇帝即位こそわたしの望み。だからこそユアンが知っていたらとうていこんなことを許しはしない。彼は何も知らない。知らせないためにまわりくどい手をとったーー」
テディの視線がナイジェルに向かい、次にシュバリスたちの横で眠りに落ちているギネヴィアに留まった。ギネヴィアを見つめる目はどこか悲しかった。テディはぼそりと呟いた。
「ナイジェルは仕方なかった。ハダルの従者である以上、弟が最大の障壁になるとわかっていた。だから嵌めたし、最悪の場合は命を奪うことやむなしと覚悟していた。それに、ナイジェルがいなくなってもわたしにはまだアレクセイがいるーーそう、アレクセイさえいればいい。わたしの真の目的のためには」
「アレクーー?」
アレクセイがどう関係してくるのかさっぱりわからない。テディがしみじみとした口調で続けた。
「想定外だったのは先輩だった。かわいそうなギネヴィア。彼女を巻き込むつもりはなかった。だが、ここにきて彼女は許しがたい裏切りを働いた。ありえない、考えられないミスをしたーーこうなったのは当然だ! とんでもないことを!」
苦々しげにテディはギネヴィアを見下ろしていた。シュバリスはとっさにギネヴィアの前に出た。
「裏切りじゃないわテディ。それにミスでもない。ユアンとのことを考えれば、まったくありえなくもない」
必死で思考を巡らせながらシュバリスは云った。ギネヴィアに関しては、シュバリスのなかにもいまだに測りかねる部分がある。だがギネヴィアの、ある意味無謀な賭けともいえる行動は理解できる気がした。
「あなたを信じていたのよ。説得できると思ったんだわ。思いとどまってくれるって。それがこんな……」
(こんなことになるはずじゃないって思ったんだわ)
(ずっと変わらずに三人でいたかったはず)
(ううん。これからはーー)
しかしそれは、まだ明かされることのないギネヴィアの秘密なのだろう。本人もまだ実感が湧いていないようだったし、実感が湧いていたらこんな無茶はできない。シュバリスは、なんともいえない愛しさと切なさを感じながらギネヴィアを見下ろした。若く美しい女性。じぶんの身に何が起こっているのかわからず戸惑い混乱しているたった三十歳ぽっちのかわいい女の子。身分と種族違いの恋には覚えがある。くわえて彼女の事情からして、まだ誰にも打ち明けていないはずだ。ならばじぶんがそれを口にすることはできない。シュバリスはテディを睨んだ。
「もういいわ。おしまいにしましょうテディ。そうーーあなたはわたしから眼と足を奪った。奪ったのは間違いなくあなた。そして、足はもう戻ってきたけど眼はまだあなたのなかにある。それを返して。それはあなたのものじゃない」
「わたしにくれ。帝国をよりよくしてみせる! いまよりもっとよくなるし蛇人族も救われるーーいますぐは無理でも、十年、二十年後。あなたが沈黙していた千年より短いあいだだ!」
「いいえ。もっとほかのやり方がある」
「ない。これしかないーー」
金色の目がぎらりと光った。隣でアイドクレーズが「どうやら勝ち目がなさそうです」と静かに呟いた。
「なんとか納得のいく答をひねり出しましたよ。さっきのはユアンの印でも陣でもなく彼の[[rb:固有魔法 > マジック]]だ。それもおそらく」
耳元で囁かれた色と考察にシュバリスは一瞬ぎょっとし、ようやく腑に落ちてため息をついた。
「そうーー」
それならたしかにつじつまが合う。テディが嗤った。
「気づいてももう遅い。話は決裂だ、ご覚悟を[[rb:女神 > ディーズ]]。永遠の命をもつとはいえ、魔法が使えなければただの蛇だ。ほかの部位も取り込ませてもらう」
「取り込む、ね。察するに、足は大きすぎて無理だったけど眼は食ったってところでしょうか。でもこれ以上入れたら食あたりしませんかね」アイドクレーズがうんざりと云った。
「このひとけっこう性悪だから。くわえて空前絶後の天然怠惰魔女だから。味と食べ応えだけは保証しますけど」
ふとシュバリスは従者の目配せに気づいた。危険に光る灰色の眼は、シュバリスもテディも素通りしてテディの背後の一点を示していた。シュバリスは彼の視線を追い、すぐにアイドクレーズを睨んで苦々しく云った。
「ひどい言い草ね。その性悪女に命をもらって生き延びた坊やのくせに!」
「なんとでも。しかしとにかく情操教育だけはあなたから受けましたがね。おかげさまでちゃんと大人にしていただいたし魔法もばりばり使えるわけで、生活面ではあなたを反面教師にしたむきは多分にありますけども」
「黙れ」ふたりの時間稼ぎのやりとりを、テディが両断した。「もういい、黙れふたりとも。最初からこうしていればよかったんだ」
刀を手にテディが迫り、その肉体の周囲に焔のように黒いオーラが現れる。それはハダルの魔力だった。ハダルが急激に体調を崩した理由をシュバリスは悟った。こんなふうに力を大量に費われたのではいくらなんでもたまらない。アイドクレーズがシュバリスの耳元で小さく「こちらへ」と囁いた。「後ろへーーそれでも間に合うかどうかわからない」
いましばらくの時とつけいる隙が必要だった。テディは獣と人間のあいだでバランスをとってすさまじく集中した状態にある。シュバリスとハダルの力を意のままに操りながら、二度のマジックの発動で消耗した魔力を補っている。燃費が悪いというのは事実なのだろう。もとより自然の摂理に反する[[rb:固有魔法 > マジック]]だ、連続して使えるはずがなかった。本人の急激な老けこみかたもそれをあらわしていた。体力も気力も、ひょっとしたら寿命も削るのかもしれない。
げっそりとやつれて、落ち窪んだ目に狂気が宿っている。
(気をそらすことだけでもできれば)
そしてとうとうシュバリスとアイドクレーズにとっての僥倖が訪れた。ナイジェルとギネヴィア、ふたりが稼いだ時間も無駄ではなかった。開け放たれたままのドアから、唯一テディを止められる人物が息せききって駆け込んできた。
「こーーこれはいったいーー!?」
印の放つぼんやりとした光が廊下から漏れていた。ユアンの愕然とした声に、テディが一瞬動きをとめた。と同時に、執務机の向こうで倒れたままの巨体がもそりと動いた。少し前に目覚めていたはずだが、しばらくのあいだ寝たふりを決め込んでタイミングをうかがっていたナイジェル。彼は縛られたままの手でそばに落ちていた紙片をひっつかむと、うなり声とともに手首に絡まったロープを引きちぎった。そのまま発動呪文を唱えるせつな、紙片にこぶしをいきおいよく突っ込む。おそらく檻に近寄ったとき、ギネヴィアがそっとナイジェルのもとに投げ込んだユアンの印。空間と空間を結び、向こう側から必要なものを取り出すための印。果たしてこうなると見越していたのか、ギネヴィアの機知にシュバリスは感嘆しながら、しかしまばたきひとつできずに目の前の光景に見入っていた。ナイジェルが、その太くたくましい腕を印のむこうへ徐々に押し込んでゆくにつれ、テディの胸に朱が広がる。彼が取り出そうとしているものがテディの中にあるからだーー肉体に直接こぶしをつきこまれて、その大きな口から絶叫があがったーー胸を押さえて苦悶するテディを眺めながら、ナイジェルはなんら兄に対する同情をみせるそぶりもなく腕を印から引き抜き、その手に掴み取ったものをシュバリスへと投げ放った。
「ほらーー!」
ナイジェルが吠えた。
「受け取れ[[rb:女神 > ディーズ]]、これはあなたのだろう!」
がつん、と重量感のある音をたてて、柘榴色のきらめきがシュバリスの目の前の床にぶつかって跳ねた。それはテディの体内でハダルの魔力とともに彼の心臓を守り、全身に魔力を供給する[[rb:御守 > アミュレ]]と化していた彼女の右眼だった。体内に取り込まれて結晶化したのだろう、透明な[[rb:魔晶 > クリスタル]]の内内側に柘榴が閉じ込められている。ゼリーのように赤く輝く、まるで深紅の宝石。この世でただひとつの宝石。
「わたし、の、眼っ!」
シュバリスは飛びつき、おさえた掌の下で右眼が歓呼の声をあげた。クリスタルが砕け、ついに帰る場所にたどりついた魔力が勇んでシュバリスの内部へともどってゆく。力を取り戻したシュバリスの全身は淡い輝きに包まれた。アイドクレーズの体も。
「あーーあああああっーー」
充ちる力。広がる魔力。爆発する勢いで、縮んでいた肉体が失われた箇所を拡充してゆく。
「あーーっ」
「あわわわわ。あわわわわっーー、」
シュバリスだけでなくアイドクレーズもあわてふためいた。こんなに急に効果が現れるとは思いもよらなかったのだ。失われるときは比較的ゆっくりと肉体の時間が巻き戻ったのに、回復は一瞬だった。光が収束した次の瞬間、シュバリスとアイドクレーズは互いにまじまじと顔を見つめ合い、やがてそれぞれの体を見下ろして両手をばちんと合わせ、歓声をあげた。
「戻ったっーー」
「もど、もどもど、戻ったああっ……」
ふたりはもとの姿に戻っていた。七歳と十歳の子どもではなく、三十二歳の男性と二十六歳の女性の姿に。
喜ぶふたりの目の前で絶叫が途切れる。胸から血を流したテディが、どうっという音をたてて床に沈んだ。
[newpage]
[chapter:賢王降臨]
汗と血の匂いと荒れた呼吸と、ぼんやりとあたりを照らす光と拭いきれない闇の気配とが荒れ果てた教官室で知覚できるすべてだった。すぐそばではユアンがせわしなく室内を歩き回っては「ギネヴィア。テディ」と床に倒れているふたりに呼びかけ、そのあいまに「どういうことだ。なにがあった?」と狂ったように声をあげつづけている。しかしシュバリスはもはやユアンに説明する気になれず、アイドクレーズとお互いをまじまじと見つめ、そしてすぐにお互いから顔をそむけた。シュバリスの[[rb:蝶袖服 > キーノ]]は成長した肉体についていけず大きくはだけ、アイドクレーズに至ってはズボンもシャツも破れ散ってほぼ素っ裸だった。少年や少女ならまだしも立派な成人女性や男性の裸体は強烈な生々しさをその場にもたらした。見慣れているはずのお互いの裸にもかかわらずふたりは気恥ずかしくなり、「アイクちょっ、それしまって」と慌ててシュバリスが身なりを整えはじめると、「あなたもですよ。ああもう、血だの汗だの四の五のいってられませんね」アイドクレーズは近くに落ちていた騎士団のジャケットを拾って羽織った。ナイジェルがテディと戦う際に脱ぎ捨てた騎士団のジャケットだ。激しい戦闘を経てすっかり汚れきっているーーしかしそれでも足りず、あたりをみわたした彼はテディが脱ぎ捨てたスーツの上着も拾って腰にまきつけた。シュバリスも蝶袖服の前をかきあわせ、めいっぱい丈をのばして帯を結んだ。両者とも圧倒的に長さと幅が足りず、ともするとはみだしてしまいそうだったがだいじなところはぎりぎり隠れた。
兄を打倒しかえしたナイジェルは、元の姿に戻ったふたりに呆然としながら執務机の背板にもたれ、ぜえぜえと息をしていた。テディもギネヴィアも床に倒れたままぴくりとも動かない。だが、己の従者をより重傷とみたユアンがテディのそばに膝をつき「なにがあった」と必死の形相で呼びかけはじめた。
「テディ。テディ、テオドールーーいったいなにがあった。しっかりしろ。しっかりしろ!」
治癒魔法をかけはじめる。だが、心臓と半ば同化しかけていたシュバリスの眼をむりやりもぎとられたため、おびただしい出血が生じてユアンでも即回復とはいかなかった。ユアンはテディが犯人だとわかっているのだろうか、とシュバリスはぼんやり思案した。わかっていないのだろうーーさきほどのテディの発言からするとユアンはなにも知ってはいない。しかし説明するのがひどく億劫だった。ユアンに話すことの残酷さを思うとなおさらだ。これからどうしよう、とふたりが無言で視線を交わし合ったときだった。
「あーー」
シュバリスはふとじぶんの近くに、さきほど足で蹴飛ばした妙な物体が転がっているのに気づいた。血に濡れた鉛色の、持ち手のない刃物だ。
(なにかしらこれ。たしかに見覚えがあるんだけど)
ナイジェルの武器の一部が外れたか折れたのか? だがかなり古びていて、ナイジェルが準備したにしてはおかしい。それに、見たのはついさっきではなくもっとずっと昔だ。ひどく懐かしい感じがする。
そういえば、ギネヴィアがさっきナイジェルがしたようにテディの体内から抜き取ったのがこれではなかったか?
ということは。重い腕を伸ばし、シュバリスはそれにおそるおそる指先で触れてみた。とたん、予想だにしなかったことが起きた。経年劣化で曇りきる前はさぞきれいに磨かれていたのだろう刃全体から、突如として淡い光がこぼれ、それは滲むように広がったかと思ったらぶわりと飛び上がって空中にとある人物の姿を浮かび上がらせた。
「ひあっーー」
あまりのことに、シュバリスは声をあげ、座り込んだままあとずさった。アイドクレーズも、ナイジェルですらぎょっとしたように空中を見あげる。ユアンの「テディ。テオドール」と呼びかける声が続いていたが、彼も「なんだ?」と空中に浮かび上がった姿と、シュバリスとアイドクレーズの大人の姿にぎょっとしていた。
シュバリスのほうはもはやユアンなどそっちのけで、空中に浮かんだ人物に釘付けだった。そこにいたのは懐かしい、もう二度と会うことはないと思っていた人物だった。
「しーーしししししっーーシオンっ?」
シオン・カルミナ・タラゼド。かつてシュバリスやハルトガルトらと戦い、建国七柱として神の地位にあげられた[[rb:熊人 > ウルスソム]]の初代王。彼はシュバリスをみると「やあ、ひさしぶり。また会えて嬉しいよシュバリス」とひらひらと手を振った。別れたときからやや年をとってみえるとはいえ生前の姿のままである。たしかに死んだはずなのに。シュバリスは仰天した。
「どどどどど、どういうっーー?」
どもるシュバリスにシオンは優しく云った。
「ああ、これは思念体みたいなものさ。ご存知のとおりとっくに死んではいるんだが、いまわたしは神さまになって、神さまの世界で忙しく働かせてもらってるんだよーーそうそう、エステルもライドもアリスもこっちにいるよ。たまに会う」
「そ、そうなの……? えっ?」
大神ジヴァに選ばれた彼らは力をあわせて帝国を統一した。死後は神さまとしてこの国を見守ること、というのもやはりジヴァの啓示だった。シュバリスもそのことは理解していたが、自分をのぞく六人が、死後にほんとうに神として活動しているなどとは半信半疑だった。「神さまとして働くってなに、どうやって? なにするの?」と大いに戸惑い、まばたきばかりのシュバリスにシオンはにこにこしながら、
「それはまあともかく、いまは聖遺物なんて呼ばれてるその槍の穂先、いま君の手にあるものがいちおうわたしの現世における依り代というわけなんだがね」
「あ?……あ、あ、ああーっ! そ、そうかこれ、あなたの愛用してた槍よね。どうりで見たことあると思った!」
シュバリスは声をあげて手のひらに視線を落とした。これこそがシオン廟から盗み出された槍の穂先だったのだ。テディの体内でシュバリスの眼同様、[[rb:御守 > アミュレ]]として機能していたのだろう。眼をしばたかせるシュバリスに、シオンがにこにこしながらうなずいた。
「そうそう。なんだかよくわからないが同じ熊人の体内に入れられたもんだから思いのほか馴染んでしまって身動きが取れなかった。でもずっとそこで倒れてるやつの中にいたーーで、じつはそれは扉になっていて、資格をもつものが手順に従ってわたしを呼べば扉が開くんだ。君はかつての仲間で友人だから資格をもつもの以外で唯一わたしを自由に呼べる人物だよ」
「そ、そうなの。えーっと、資格者って?」
「いちおう、わたしの子孫であるタラゼド家の当主ということになるかな。千年も隔てていては子孫といっても他人同然、だからいちども降臨してやったことはないがーーああ、相手が君なら話は別だけどね。扉を叩いてくれずともわたしから会いにいきたいくらいだったよ。なにしろ君だって神さまなんだからね。もっとも君は神でありながらいまだに一人の獣人として生きている特別な魔女なわけだが」
「はあーー」
「だけどわたしから会いに行こうにも君にその気がなかったからねえ。アリスもエステルも会いたがっていたんだけどね。だからようやく地上に帰ってきてくれてなによりだ。そして君がそれを手にしてくれてよかった。もう傷は癒えたのかな? あらためて云うが、ほんとうに会いたかったよシュバリス。こうして会えてなによりだ」
「わたしも」
胸がいっぱいになりながらシュバリスはうなずいた。
「会いたかった。とても会いたかったわシオン。懐かしいーー」
「ああ。おおよそ千年ぶりだ。それに相変わらず綺麗だねシュバリス。君はほんとうに変わらない」
「あーーあなたこそ」
シュバリスはあらためて、空中から床に降り立ったシオンを見つめた。戦士として完璧に鍛え上げられた肉体もそのまま、赤みがかった茶色の髪も眼鏡の奥に光る理知的な瞳も、なんて優しそうなひと、とシュバリスが最初に感じたそのままだ。
シオン・タラゼドは、ふだんは凶暴さなど微塵もみせないおとなしい学者然とした風貌と性格でありながら、熊人の王として戦場でひとたび獣性を解放すれば、誰の剣も寄せ付けない不撓不屈の戦士となった。重装騎兵を率い、先頭で槍を手に疾駆してゆくシオンを見れば、味方は奮い立ち、敵は震え上がったものだ。そしていったん戦場をさがれば、書物をひもとき、仲間と楽しく語らい、家族との時間をたいせつにするきわめて温厚な男性だった。
「イナンナの次に綺麗だよ、でしょ……?」
シオンの魅力的な同族の奥方のこともシュバリスは思い出した。学院に来てからたびたび耳にしてきたタラゼド魔法学校やそこを創設したタラゼド家は、シオンとイナンナの子孫のはずだ。シオンは「そのとおりだ」とうなずいた。
「おかげさまで、君やハルトガルトやみんなと別れたあとも、なんとか家族とともにレイシャを統治して天寿をまっとうさせてもらった。子にも孫にも恵まれたし悪くない人生だった。心残りはただひとつ、君とハルトガルトのことだけだ。そうーーハルトガルトは別れたあともずっと君を想い続けていたよ。知ってるかな?」
「知ってる……」
それでいま厄介に巻き込まれている。シュバリスが苦笑していると、「あいつもまあ、君に関しちゃなにからなにまでおかしい、というよりこういってはなんだが狂っていたからな。君を手放して地に沈むほど落ち込んでいたし、自分自身や周囲にも怒り狂っていたし」
「それをいうならわたしも落ち込んだわよ? 怒ってもいたかもね、この千年ずっと」
「でも浮上したんだろう?」
シオンはくすりと笑った。
「だからいまここにいる。ハルトガルトがいまの君を見たらきっと喜ぶよ。あいつもなあ……そういえば最後に会ったときはわたしが死ぬ前だった。いよいよわたしの体調が悪いときいて会いにきてくれたんだが、ひさびさに昔の話をして盛り上がって、それでようやくわたしたちは和解できたよ。その何十年も前にハルトガルトが戴冠式前に君と別れると云いだしたときはほんとうに腹がたって、そのとき喧嘩別れしたきり、なんだかんだ統治者として顔を合わせたときもあまり話もしなかったもんだが。そういえば君は覚えているかな、あのときわたしたちが仲たがいしたときのことを」
「あんまり」
シュバリスは曖昧に笑った。原因がなんだったかもよく覚えていなかった。「そうだろうね」とシオンは同情するようにうなずいた。
「原因は君とハルトガルトの別れだよシュバリス。アリスもエステルもエコーも、君と別れるというハルトの決断に非難轟々だった。そんな決意をするなど狂気の沙汰だと云った。そのうえドーリスと結婚するなどとうてい受け入れられない、それを受け入れた君のことも理解できない、君のこともそうさんざん説得しようとして、そこからいろんな部分にヒビが入った。エコーなど、ハルトガルトが君と別れるならじぶんが、とおおっぴらに宣言したしなーーあいつは君をずっとひそかに好きだったから、君が彼と別れたら即座にいい寄ろうと虎視眈々と狙っていた。だけどハルトガルトは、君をフっておきながら君がほかの誰かと結ばれることを嫌がってエコーを烈しく牽制した。そのせいで事態はより悪化した」
そしてシオンはふっと困ったように笑い、
「だが、わたしたちが君たちの決断にあそこまで熱くなったのは、やはりわたしたちも若かったということだろう。恋人同士が結ばれたり別れたり、関係が変容してゆくことはよくある話なのに、君とハルトの破局だけが受け入れられなかった。君たちだけはなにがあっても離れないだろうと信じきっていたんだ。それも君たちにはけっこうな重荷だったのかもしれない。ーーくわえて君とハルトガルトの決断には人間族からの干渉もあったようだ。ハルトも云っていた。ぼくとシュバリスの仲を人間たちに反対されてどうしようもなかった、口でいえないようなやりとりもあったと」
(あ……)
ふとシュバリスの脳裏にとある光景がよぎった。寧華宮のどこかにいまもあるはずのハルトガルトの執務室、かつてハルトガルトはそこでシュバリスを傍らにおき、大柄な男にむかってーーそうだ、あれはドーリスの兄だ。名前は思い出せないーーただ、ハルトガルトは彼に対し、すでに絶望と暗闇のなかにいたシュバリスの肩を抱き寄せて云ったのだ。
「ゼロス。おまえが何を考えているのか、ほんとうのところはぼくにはわからない。シュバリスを排して妹を娶れと云い募り、いまとうとうぼくらに関係の終わりを決断させ、シュバリスをこうまで思い詰めさせるほどの卑劣な脅迫を重ねてきた理由などね。ーーなんだその顔、ぼくが知らないとでも思ったのか? 生憎だがぼくはちゃんと知っていた。だが、君をそこまでさせる理由がなんなのかはかりかねていた。単なる妹想いが昂じたのかと思ったが、それだけでは腑に落ちなかった。だがここにきてわかった。君の心の奥底にあるのは、ぼくへの嫉妬とシュバリスへの嫉妬だ。ひいては」
シュバリスを優しく抱きしめ、いたわるように頭をなでながら、ハルトガルトは烈しく叩きつけた。
「ぼくらに対する欲望と執着だ。ぼくになってシュバリスを抱きたいのか、シュバリスになってぼくに抱かれたいのか、どちらなのかわからないが、人間と獣人は結ばれるべきでないという掟でなく、君のなかにあるその欲望こそ真の理由だ。だがゼロス、これだけは云っておく。ぼくは君の望みどおりドーリスと結婚してやるが、君の子とぼくらの子が結婚して血が混ざることはない。すくなくとも君が生きているうちはぼくが許さない。君が生きているあいだ、君はぼくもシュバリスも手に入れることはできない」
男は黙って立っていた。ただひとこと「ハルトガルト」と名を呼んだが、そこに込められた渇望と恨みがシュバリスの背をぞくりとあわだたせた。きっと、シュバリスがハルトガルトと別れこの城を去ってからも、この男はシュバリスの存在を徹底的に排除しようとするだろうーーそんな予感と乾いた靴音を残してゼロスは去っていった。そしてシュバリスは、ドアの向こうで呆然と立ちすくんでいる人物に気づいてぎくりとした。そこには愕然とした顔のドーリスがいて、立ち聞いた話の内容に衝撃を受けていた。ハルトガルトの妻の座、いまこの国でもっともひとびとから羨望されている立場が、お情けでじぶんに与えられるのだとわかって彼女は屈辱に震えていたが、皇妃の座を返上するとはついに口にせず、『最後に選ばれた女』から、『仕方なく選ばれた女』に転落した彼女も無言で去っていったーー
シュバリスはとうとつに理解した。戴冠式と建国宣言がなされ、正式にエウレシア帝国が誕生する直前のできごと、これが千年前の顛末だ。伝説の英雄ではなく、血肉をもった生臭く泥臭い生きものの話。
「そろそろ時間みたいだ」
いかなくては、とシオンが穏やかに告げた。はっと我にかえったシュバリスは急いで訊ねたーー「シオン、ハルトガルトは? ハルトもそっちにいるの?」彼女の問いにシオンは困ったように頭を振った。
「ハルトはいない、同じく神になったとはいえあいつだけはやはりちょっと特別らしくてね。まあ生きてるときから特別だったけどね。なにしろ[[rb:大神 > ジヴァ]]に最大の啓示を受けた人間だから、亡くなってこっちに来て一度会って、それきり姿も見ていない。でもたぶんあいつは、そのとき会って話した印象では君のことをまだ諦めてない」
ちょっといいにくそうにシオンは云った。
「もう千年も経ち、肉体を失って現世に干渉する力をもたないのに困ったものだ。なのに、ぜったいに君にもう一度会う、だそうだ」
「えーー?」
シュバリスは目をしばたかせ、シオンはますます顔をしかめた。
「もう死んでるんだぞ、とわたしも云ったんだがねえ。だが、もういちど君に会い、今度こそ死ぬまで一緒にいるんだと云っていた。ほかにも[[rb:影 > シャドウ]]だとか[[rb:無実体標本 > エイリアス]]だとか[[rb:複製 > コピィ]]だとか[[rb:分身 > アヴァタラ]]だとか[[rb:輪廻転生 > サンサラ]]だとか、わたしにすらよく理解できないことを云っていてーーいや、生きている時からあいつを理解できたことなどなかったけどね。あいつのそういうところは君のほうがよく理解していると思うが」
「ええ、まあ」
ハルトガルト・セレスタインは、清く正しく明るく強く、陽気で聡明で社交的でカリスマ性があって誰からも好かれる、およそ欠点のみあたらない人間だったが、天才ゆえかときおり突拍子もないところがあった。千年たった今でも不思議なところの多いひとだった、と思う。「ま、気をつけてくれ」とシオンはしみじみ「気をつけるというのも妙な話だけどねえ」と、シュバリスにむかって何かを投げた。シュバリスはそれを空中でキャッチし、手のひらに収まった小さな石を見下ろした。内部に様々な種類の赤いゆらめきをたたえた美しい魔晶だった。
「これはーー?」
「わたしの証だ。聖なる魔晶、[[rb:聖石 > アゾート]]という。君に持っていてほしい。ご存知の通りわたしは[[rb:炎 > アグニ]]の魔法が得意で、いまは炎の魔法の守護聖人みたいになってしまっているが、たしか君は炎が苦手だっただろう。それを持っていれば多少使いやすくなるはずだ。そして鍵でもある。触れて呼んでくれればいつでも駆けつけるしおしゃべりできるし力を貸す。いまはマジックと呼ばれているそうだが、持っていればわたしのマジックも使えるし、眷属や末裔も君に味方してくれるはずだ。そうーーアリスとエステルとライドも、機会があれば廟まで来てくれと云っていた。君に会いたいそうだ。たぶんこれを渡されるぞ」
「わかった。近くに行くことがあれば寄ってみるわ」
「頼む。いつか同窓会ができるといいな。さてーー来てくれ、シュバリス」
腕を広げたシオンの胸に、シュバリスは飛び込んだ。つかのま、実体をもっているかのように彼の肌の匂いや熱さまでもが感じとれた。そして体を離すと、穏やかな笑みを浮かべたシオンは「ではまた」と、手を頭の高さにあげるいつもの挨拶をして消えていった。冷たく眠る槍の穂先と、[[rb:聖石 > アゾート]]だけが手のひらに残された。
「はあーー、」アイドクレーズが背後で深く息を吐き出し、「あれが初代熊人王。レイシャの賢王」とナイジェルがぽつりと云った。「タラゼド王家の初代、七柱シオン」そして彼はシュバリスに視線を移し、上から下まで眺めた。
「ほんとうに蛇神シュバリスなのか。あなたがーーあなたこそが?」
「どうもはじめまして」
ほかになんといっていいのかわからずシュバリスは曖昧に笑った。そのとき「そんなことはわかっていた!」と悲痛な声が闇を裂いた。決死の表情のユアンがシュバリスをじっと見つめていた。
「助けてくれ」
いかにも仕立ての良さそうな灰色のスーツを血に染め、髪は乱れていた。血の跡で頬を濡らしながら、もはや自力では手の施しようがないと悟ったのだろう、テディの胸に手をあて、流れ出る血を止めることだけに尽力しながら彼は叫んだ。
「助けてくれシュバリス。頼むーー力を貸してくれ。ここで何が起こったかおおよそのことはわかる。わたしは王宮に残された[[rb:魔力残渣 > オーラ]]を追ってここに来た。人や物は読めずとも、痕跡だけはわたしは読める。あなたにはほんとうに申し訳ないことをした。この申し出が命を差し出してもたりないほどの非礼だということも、こんなことを頼むのはお門違いだということもわかっている。だがそれでも頼む、どうかテディを助けてくれ。こいつはわたしの親友だ。腹心の部下で友で、ずっと昔からいっしょだった。こいつはわたしの兄で、弟でもある。わたしの大事なーーだいじな」
だいじなんだ、とユアンは叫んだ。「どうか助けてくれ。喪いたくない!」。シュバリスは息を呑んでアイドクレーズをふりむいた。従者の表情は固かったが、シュバリスがじっと見つめると、ため息をついてうなずいた。
「どうぞご自由に、[[rb:女神様 > ディーズ]]」
シュバリスはユアンのほうへ向かった。隣に膝をついてテディを見下ろす。
いまは憎しみも恨みもなかった。ただ真実を知りたかった。
[newpage]
[chapter:祭のあと]
シュバリスがテディの治療を終えるのと、とうとう騎士団が現場に踏み込んできたのはほぼ同時だった。ナイジェルが通報したのだが、手配中の逃亡者にも関わらずきちんと話が通じた。やってきた団員のなかにはユィリエ・シャマールがいて、惨憺たるありさまの印陣教官室を見るやいなやてきぱきと部下を指図して治療と搬送ををすすめさせた。大人にもどったシュバリスとアイドクレーズの姿には虚をつかれていたが、ふたりのあられもない姿に眉をひそめると、部下のファラスに「予備の隊服を貸してやれ。緊急事態だ」と、まともな衣服を持って来させ、着替えを終えるとシュバリスの肩にさらに自身の[[rb:外套 > コート]]を脱いでかけてくれた。ただし念をおすことは忘れなかった。
「それは騎士団の支給品だが、一定以上の団員の制服は特注品だ。識別コードと防御機構つき、なくなったら困る。誰かに託さず直接返却しにきてくれたまえ」
そのときじっくり話をきかせてもらうからな、と言外に告げる猛禽の瞳を、ありがたく外套を借りながら、しかしシュバリスは観念して素直にうなずいた。テディの治療は困難を極め、なんとかやりおおせたものの彼女は疲れ切っていた。心臓となかば同化しかけていたシュバリスの眼を、ナイジェルはテディの肉体の中から無理やり引き剥がしもぎとったが、そのことでテディの心臓は潰れかけていた。ふつうなら即死だ。その後命をつないでいたのは、やはり心臓近くにあったハダルの魔力が、テディの生命を維持すべく最大限に働いていたからだ。しかしこれは、事件が別の重大な局面をも迎えたことを意味した。
「繋がりが切れた」
治療の最中ナイジェルが愕然と呟いた。
「契約が破棄された」
ハダルとナイジェルが結んだ忠誠の誓いは、主人と従者に同時に死をもたらす魔法契約だ。それが切れたということはすなわち、
「ハダルが危ない」
いつかハダルが云ったとおり彼は約束を守ったのだ。ということは、ハダルの命はいよいよ風前の灯火となっている。シュバリスは外套を受け取ったあとユィリエにざっと事情を説明したが、指名手配中の逃亡犯という名目上ナイジェルは騎士団によってひとまず連行されようとしており、シュバリスたちも騎士団本部へ連れていかれるはずだった。が、ナイジェルとユアンがシュバリスたちを王宮へ向かわせるようユィリエを説得した。テディの命を救った様子から、いまのシュバリスならハダルも救えると判じたのだ。「命がかかっている」「しかも皇子の命だ」と言い募るふたりにユィリエは「危ないという連絡は別部署からきて知ってる」と顔をしかめ「ききたいことはいろいろあるが、救えるというならひとまず行け」とシュバリスたちに手を振った。
「外套もあるしな」
そして連行あるいは搬送されていくナイジェルとユアン、テディとギネヴィアを横目に、ふたりはすぐさま王宮へ飛んだ。手首のしるしを使ったのでいっぱつでハダルの部屋へ着地したが、ふたりが見渡したそこはすでに戦場だった。しかも敗色濃厚な戦場だ。その中を、ため息と涙の嵐をかきわけて、シュバリスはそっと寝室へ入った。
「ハダル」
発表会はとっくに終わり、皇帝夫妻はすでに私人に戻っていた。医師や解呪師とともに寝台のそばに跪き、あるいは立ちつくして、眠る息子を見下ろしている。ヴァナディスはとめどなく涙を流しながら、息子の名とともに「どうしてあなたまで」と繰り返している。「ハダル。ハダル、ハダル、ハダル。わたしの子ーーあなたまでいってしまうの? あなただけは無事だと思ったのに、こんなに早くわたくしをおいていくの? ハルシオンーー」
その悲痛な声を、周囲のひとびとはみな沈痛な面持ちで聞いていた。さらにそっと近づき、「陛下」とシュバリスが呼びかけると、気づいたひとびとが振り返り、シュバリスたちをみとめてはっと息を呑んだ。ヴァナディスとラーゼスも静かに視線を移した。この姿では初めて会う。わかってもらえるだろうかとシュバリスは不安になったが、驚きを隠さないヴァナディスと異なり、ラーゼスは眉ひとつ動かさなかった。海のような深い青がシュバリスを射抜き、「シュバリス」と、彼女の名をじっくりと味わうように呼んで、皇帝はゆっくりと手をさしのべた。
「こちらへ」
人垣がさらに割れた。緊張しながら近づいたシュバリスに皇帝は胸に手をあてておごそかに告げた。
「建国神であり治癒と防御の女神シュバリス。どうかわたしの頼みを聞いていただきたい。息子をお救いくださいーーどうかあなたのお力をお貸しください」
ラーゼスは知っている。しかし疑問を投じる暇はなかった。シュバリスはうなずいた。
「わたしにできることはすべていたします陛下。よろしいですか?」
「御手にすべてをゆだねます、[[rb:皇后 > アウグスタ]]」
ラーゼスが息子のそばへと誘導した。寄り添う夫婦の視線を感じながらシュバリスはヴァナディスにかわり、力なく体の横に伸ばされたハダルの手を取った。少年の肉体を見下ろす。
テディの治療をするとき、彼とハダルを結んでいた線は切ってあった。ハダルの魔力はもう誰にも奪われていない。だが魔法使いにとって生命力と魔力は不可分で、長きにわたって盗まれ続け、今回大幅に消費された魔力はとうとう生命力まで削り取っていた。ハダルはいまにも死という名の深い暗渠に落ちそうになっている。それに、魂に食い込んだ呪いは完璧には解かれていない。
「はじめましょう」
あなたを救うために地上へ戻ってきたのかもしれない。
シュバリスはハダルの胸に手をあてた。白い光があふれ、アルジュナの時とは段違いの魔法が発動した。
「もしもあなたがいま暗闇にいるならーー」
(わたしが光を投げ込んであげる。暗い水に沈んでもう戻れないと思うならわたしが手を伸ばして手を掴んであげる。
あなたはまだこの世にいるべきひと。
そばにきて、温めてあげるから。
いっしょにいてあげるから。
体も心も、わたしたちは別の存在。だけど魔法でひとつになれるーー)
深く深く集中する。心の眼をひらいたせつな、ハダルにかけられた呪いがはっきり見えた。身体中に根を張り、養分を吸い上げるように生命を吸い取っている。シュバリスは体に食い込んだ根に指先を触れ、生命を吸い取る呪いの管をひとつひとつ外しはじめた。絡みつく根をはねのけ、毒を流し込もうとする悪意の源を確実に、正確につぶしていく。砂の中から金の粒をより分けるような複雑で繊細な作業だった。ひとつまちがえばハダルの魂に傷がつく、そう理解していたため指先は震え、いやがおうにも慎重になった。眼をとりもどしていなければここまで繊細なことはできなかっただろう。じりじりするような焦りを押さえつけ、ひとつひとつ確実に作業を進めていったーー額に汗が浮き、唇から伝って落ちた。数分かかって、ようやく最後のひとつが外れた。これで呪いが解けたーー近くにいた解呪師と皇帝夫妻がほっとしたようにため息をついた。しかしまだ終わりではなかった。
次はハダルの魔力と生命力を回復させねばならなかった。ここまで削られていては自力での回復は不可能だ。補充してやる必要がある。
「さあ、呑み込んで」
魔力を移管する。これは傷を塞いで本人の生命力を高める『治癒』とは微妙に異なり、まったく他人のシュバリスの魔力を本人に取り込ませる補填作業だった。成功すれば、七年間で欠けて崩れた心と体の傷もきれいに癒すことができるし、じゅうぶんに魔力が補われれば彼の生命もおのずから従来の力を取り戻すはずだ。
シュバリスはハダルの魂を探った。色を完璧に合わせなければならない。ハダルの魂の色はやはりハルトガルトと同じく宇宙のような漆黒で、彼のためにシュバリスはむりや白を黒に染め、一気に増幅させてハダルに差し出した。
呪いを解かれたハダルは鋭敏にシュバリスの魔力に呼応した。現実には眠り込んだままぴくりとも動かないが、魂は大喜びで反応し、貪欲にシュバリスの魔力を取り込み始めた。ふたりの魔力がぶつかりあって白が濁り、黒は澄み渡っていく。ハダルの肉体が灰色の光に包まれた。陽炎のようなもやが広がった。
「いい子ねーー」
シュバリスはほっと呟いた。飢えた子どもが一心に食べ物をつめこむように、ハダルはシュバリスの魔力を取り込んでいった。七年間に及ぶ飢えを取り戻す勢いは猛烈だった。母親の乳房に吸い付く赤ん坊のようでもあり、獣と化したようでもある。シュバリスは最初ほほえましく思いながら彼に魔力を分け与えていたが、そのまま一分、二分と経過し、現実に彼の顔色がどんどんよくなってゆくのはともかく、じぶんの魔力を彼が吸い取る勢いがまったく衰えない、それどころかますます獰猛に魔力を吸収してゆこうとするのに気づくと、だんだん疑問と焦りを抱いた。
(んーーんんんんんんっ?)
(ちょーーっと食べすぎじゃない? なんだか強すぎーー)
呪いを外す作業で疲労も極まっている。シュバリスはやんわりと、ハダルから吸い取られる魔力の勢いを弱めようとした。だが、元来は強烈な自負のもと多大な魔力を秘めていたハダルは、それまでの屈辱の日々を消し去るように彼女の力を強奪しにかかっていた。もはや分け与えているのではない、逆に奪いとられている。そう気づいたとたん、
「うーー、?」
のしかかられるような圧迫感が全身を襲った。ハダルの黒いオーラがシュバリスの指先から腕を這い登り、肩へ、首すじへと全身を包み込むように逆流してくる。ふりほどくこともおしのけることもできず、シュバリスは必死で呼びかけた。
(待ってーー待って、そんなに急にもっていかれたら!)
(わたしいま、眼を取り戻したばっかりでーーお願い、待って。そこから先はだめ。おねがい、これ以上もっていかないで! もう吸い取っちゃだめ!)
己の魔力とはいえ長く引き離されていたせいで、右眼のぶんの魔力はまだ本体とくっついていない。ハダルはその弱い部分をみつけると、ここなら狙えると思ったのか集中的にその魔力を取り込みにかかった。
(ううううう? 待っーー待って、もうーーもうそんなにしなくてもいいのよ。そこまでわたしの魔力をとらなくたって、もうあなたの命はだいじょうぶ。あなたは助かるの。だからーーねえハダル。ハダルーーそこはだめだって、ハダル!)
必死で呼びかけたが、ハダルはきいていなかった。彼の魂は、甘い果実を見つけた虫か鳥のようにシュバリスの魔力に殺到し、嬉しそうにちゅうちゅうと吸い付き齧りとっていった。芯まで迫る勢いだ。「あうーー、」シュバリスは身動きできなかった。全身を彼にきつく抱きしめられているようで息が詰まった。いつか門番小屋でいっしょに眠っていたときのことを思い出した。あのときもシュバリスはハダルという檻に閉じ込められていたーー
「おい待て小僧」
せつな、横から小さく怒声があがった。周囲では魔法が効いたと察した医師もオルリドの解呪師も「もうだいじょうぶです」「呪いが解け、峠も越えました。殿下はお元気におなりあそばします!」ーーそろって太鼓判をおしたため、集まった人々が手をとりあって皇子の生還を喜びはじめていたが、アイドクレーズだけはいまも渋い顔をしていた。もとよりシュバリスのことを本人より知り尽くしている従者は、想定外のできごとにシュバリスが困り果てているのを察したのだろう。シュバリスの肩に手をかけ、そこからむりやりハダルとのあいだに作られた繋がりを断ち切ろうとした。
「もういいだろう、離せーー貴様のものじゃない! 治療は終わってる。やめろ、離れろ!」
「アイーーク、」
シュバリスの体を介してふたりは対立していた。つかのま、シュバリスはハダルとアイドクレーズのあいだで引き裂かれた。なおも彼女の力を奪おうとするハダルと、ハダルを突き放しシュバリスを守ろうとするアイドクレーズ。三人の魔力が混ざり、ぶつかり、弾け、引き伸ばされ、絡み合っては千切れる。
「きゃあっーーわああああああっ」
ついにシュバリスは悲鳴をあげた。とたん、アイドクレーズがシュバリスの魔力をむりやり己の方へ流し込むことでハダルから引き剥がした。ハダルの魂も、それでようやく飢えを満たしたことを自覚したか、爬虫類が巣へひっこむように静かに己の肉体に引いていった。シュバリスが我にかえると、目の前には、呪いによる汚れや傷を完璧に癒し終えて健やかに寝息をたてるハダルがいた。背後からアイドクレーズが悪態をついた。
「なんって奴だ。逆に襲いかかってきやがったーー!」
「おっーー恐ろしい子……!」
シュバリスも後ずさり、アイドクレーズの胸に抱きとめられながら呻いた。彼はそのまま人垣の後ろまでシュバリスを連れだしていき、シュバリスは人々のむこうにすやすやと眠るハダルを垣間見たーー魔力をとことんとりこんで、ようやく彼は充たされた。失われた魔力がそれほど膨大だったということだが、シュバリスを震撼させたのは凄まじいまでの食欲と獣のごとき勢いだった。そして、
(まずいーーこれ、また魔力をかなりもっていかれてる……?)
はっとしながらシュバリスは背後のアイドクレーズを見つめた。アイドクレーズも気づいたのか、いらいらとハダルを睨んでするどく云った。
「あの小僧めが。命の危機だと大目に見てやればつけあがりやがってーー!」
そのときだった。
「シュバリス!」
一瞬後、シュバリスはヴァナディスの腕に抱かれていた。駆け寄ってきたヴァナディスは泣きながらシュバリスの耳元で「ありがとう」となんども繰り返した。
「どうもありがとう。わたくしに息子をーーどうもありがとう。あなたのおかげです、ありがとう!」
「皇妃さま、」
「シュバリス」
ヴァナディスの隣で、海色の瞳にうっすらと水のきらめきをたたえた皇帝ラーゼスも胸に手をあてて深々と一礼した。その表情は市井の父親となんらかわらない。彼もシュバリスの手を握り、感に堪えないといった様子で云った。
「ありがとう。いままたあなたは我々の子を救ってくださった。地上へご帰還されたのみならずーーありがとう」
「いいえ、陛下。回復はご子息自身の強さによるものです。わたくしが保証します」実感をこめてシュバリスは答えた。「ご子息ーーハダルはほんとうにハルトガルトにそっくりです。顔や姿だけでなく魔力も魂も。ほんとうです」
まるで千年前だったわ、とふとシュバリスは、戦のあとのハルトガルトの様子を思い出した。戦闘で長く家をあけたあとのハルトガルトは、帰宅するやいなや着替えも湯浴みも親しいものへの挨拶もそっちのけにして、一直線にシュバリスめがけて突進してきた。気付いた時にはすでにふたりきりの部屋のなかで、お互いの体と心で傷を癒しあっていた。ハダルもまたシュバリスをそういうふうに求めるとは思いもよらなかったし、ハダルはまだ若いため、あれですらいくらか穏やかといえたもののーーラーゼスは「はい」と困ったように微笑んでうなずき、シュバリスを穏やかに見つめた。
「どうやらそのようです。しかしほんとうに似ているとはいえあの子はハルトガルトとは違う。生まれた場所も生まれた時代も。ですからハルトガルトがなしえなかったことも、わたしとあの子ならばいずれできると思う。御恩は生涯忘れませんシュバリス。わたしもあの子も、いつか必ずあなたに報いる。ありがとうーー歴代の皇帝も女帝も、あなたをずっと待ちつづけていました。あなたはわたしたちの母なる女神だ。まちがいなく」
皇帝の背後で、ヴァナディスもカミャも医師たちも、集まった女中や側付きたちも、うやうやしくシュバリスを見つめ、皇帝が礼をするのにあわせて頭を垂れた。大多数はシュバリスの正体を理解していないが、彼女が起こした奇跡をまのあたりにして畏怖と尊敬の表情を浮かべていた。
その後シュバリスとアイドクレーズは、いまだ興奮冷めやらぬ周囲をおいてそっと王宮を出た。ふたりはすぐに騎士団へ向かう予定だったが、シュバリスの疲労を見て取ったラーゼスが、その場で「今夜はひとまずお休みになったほうがいい」と、事情聴取を後日にするよう騎士団にかけあってくれたのだ。これはありがたかった。シュバリスにしろアイドクレーズにしろもう限界だった。
「帰りましょう。ひとまず寮へ」
「ええ……」
事件はすべて終わり、地下神殿へ帰ったところで不都合はない。しかしまだ考えるべきこと、知るべきことが残っていた。となると、ふたりが戻るのは寮しかない。学院の規則などぜんぶ無視して転送できるという強力な陣で、ふたりは寮へと戻った。降り立ったのは北棟三階、特待生用特別個室の前。ところが、ふたりがノブを掴んであけようとしたとき、深夜にもかかわらず生徒の声が背後であがった。
「あー、共同浴場も久しぶりに入ると新鮮だなあ〜部屋の風呂と違って広いしな! おい見たかアル、おれの華麗な飛び込み、そして泳ぎ!」
「はいはい見た見た、上手だった上手だった」
「なんだよ素っ気ないなあ。おまえだってたまにはいいよなって云ったじゃないか」
「云ったが目の前をばしゃばしゃ泳いでいかれたんじゃ落ち着くもなにもない。ふたりだけだからって柄にもなくはしゃいで、というか、なんでそんなにおまえは元気なんだ、ぼくは疲れたぞ」
「そりゃあーおまえは主役でおれは一介の従者、いわばその場の背景みたいなもんだし。ていうかおまえ、おれをカレンへの盾に使っただろ、よくないぞああいうの。厭なら厭とはっきりーーうん、云えないか。かわいそうに名家の嫡男ってのは窮屈で窮屈で仕方ないよな。よしよし、もういいからとっとと寝ようなあ」
「ああ。だがその前にお茶を一杯淹れてくれ。喉が渇いーーたーー、」
シュバリスとアイドクレーズはさっさと部屋に入ろうとしたが間に合わなかった。階段を登ってきたアルジュナとアレクセイがぎょっと目を見開き、あんぐりと口をあけた。
「ーー、」
「だーー」
誰? とふたりの目に書いてある。アルジュナとアレクセイは学院の購買部で売られている、色違いの校章つき学院Tシャツとハーフパンツ、そしてサンダルのラフな格好で、金と銀の頭からそろって雫をしたたらせていた。発表会から戻ってきて一風呂浴びて戻ってきたところだな、とシュバリスはすぐ気づいた。しかしふたりのほうはシュバリスたちを見てもさっぱり正体がわからないようだ。アイドクレーズはファラスに借りた騎士団のシャツにワークパンツにジャケット、シュバリスは同じく騎士団のシャツとユィリエの外套と、下は陣に入りぎわ、ヴァナディスが貸してくれた上品なタイトロングスカートとハイヒール姿だった。服装はともかくまるっきり大人でもある。これをどう説明したらいものか、困って曖昧に微笑みかけると、ふたりはますます目をいっぱいに見開き、穴のあくほどシュバリスを凝視した。十五歳の姿になったときはすぐにそれとわかったアレクセイも、今のシュバリスがシュバリスだとは思えないのだろう、石のように固まっている。シュバリスは「こんばんは」ととりあえず挨拶してみたが、やがて返ってきたのは「生きてたのかーー?」というアルジュナの、よくわからないことばだった。
「生きていたのか。ほんとうは」
そうふたたび繰り返し、水色の瞳がシュバリスとアイドクレーズをせわしなく往復する。まるで幽霊でも見るかのようだ。アレクセイも似たり寄ったりで「騎士団だったのか?」と呟いたあと「生きてた?」と続けた。騎士団はともかく、生きてたのか?ーーしばらく意味を考えて、シュバリスははっとした。
「いつも子どもたちがお世話になっているそうですね。どうもありがとう」
ゆったりと首をかしげ、「娘をよろしくね」となかばヤケになりながら微笑みかける。「え」「おうーー!」アルジュナとアイドクレーズの頬がさっと赤く染まった。その隙にアイドクレーズがドアを押し開け、シュバリスの肩を抱いて室内に押し込んだ。「うちの息子はそこまで甘くないがな。子どもは早く寝ろ」ーー云い捨て、重い音をたててドアが閉まると、扉の内側でふたりは息を殺していた。やがて、なにごとか云い合う声のあと、おずおずと隣室のドアの開閉する音が聞こえた。アルジュナとアレクセイも部屋に戻った。それを確認した瞬間、ふたりは顔を見合わせてため息をつきあった。アイドクレーズが囁いた。
「察するに、わたしたちのことをナイジェルに殺された母親と父親、だと思ったようですね」
「みたいねーーそういう設定になってるみたいねふたりのなかでは。いま思い出したわ」
「この姿じゃ無理もないでしょうけどね」
居間に入ると、アイドクレーズが空中に光を投げた。光は天井のシャンデリアに吸い込まれ、あたりをふんわりと照らす。明るくなった我が家を見渡してシュバリスはため息をついた。久々に大人の姿に戻ったせいか、家具の位置や高さがまるで違い、はじめて来たような気分だ。しかしまぎれもなく春から暮らすいとしい我が家だ。帰って来た、と思った瞬間、ようやくすべて終わったと実感できた。
「長かったわねーーここまでほんとうに長かった」
犯人がわかったし魔力も戻った。居間のまんなかに立ち尽くしながらシュバリスが呟くと、アイドクレーズもうなずいた。彼はだが、すぐに頭を横に振った。
「しかしシュバリスさま。いまあなたはーー」
「なにもいわないで。わかってる」
シュバリスはじぶんの手のひらをじっと見つめた。取り戻したはずの右眼だったが、そのぶんの魔力をハダルの治療と補填でごっそりもっていかれた。その意味するところ、これから起こることは? せっかく取り戻したというのに、これではまたーーアイドクレーズが後悔のこもった声で静かに云った。
「最後の最後にしくじりましたね。まさかハダルがあそこまでするとは、というより、あんなことができるとは。たとえあなたの右眼がまだ完璧に馴染んでいなかったにせよーー」
灰色の目がシュバリスを射抜いた。しばらく無言でふたりは見つめ合っていたーーが、やがて灰色の眼に決意をたたえたアイドクレーズは立ち上がり、なぜかいきなりジャケットを脱ぎ捨て、さらにシャツも脱ぎはじめた。
「なーーなななな、なに。なんでいきなり脱いでるのアイク?」
シュバリスがぎょっとしていると、さっさと上半身裸になったアイドクレーズは眉間にしわをよせ、「あ、お風呂?」と訊ねたシュバリスに「違いますよ」と苛立たしげに云った。そのまま彼は真剣な眼差しでシュバリスに手を差し伸べた。「したいからです」瞳が妖しく光った。
「心の底から、いまあなたとしたいんです。わたしはこのときを待っていましたシュバリスさま。元の姿に戻るときを、ずっと、この半年!」
激しく云われてシュバリスは目をしばたかせた。
「それはわたしも待ってたけど。でもしたいってなにをーーあ、待って厭な予感。云わなくていーー」
それ以上云えなかった。シュバリスはあっというまにアイドクレーズに抱きしめられていた。じぶんより十センチ以上も背が伸び、屈強とはいいがたいが強くしなやかな筋肉のついた体。アイドクレーズはもともと細身だが、あらがうシュバリスを腕の中に閉じ込めておけるほどにはちゃんと逞しい。彼の肌の熱さと手触りに、シュバリスは懐かしさに駆られた。同時にひどく危険な匂いも嗅ぎとった。アイドクレーズはそのままシュバリスを軽々と抱き上げると、大股に主寝室のドアに近づき、さっさとドアを開けてそのままシュバリスを柔らかなシーツの上に、長年の信頼関係からくる雑さで放り投げた。シュバリスはベッドに転がった。
「抱かせてください」
シュバリスがなんとかベッドの上に起きなおると、アイドクレーズはじぶんもベッドに乗り上げ、片膝でマットをえぐるようにして迫ってきた。居間からの明かりで逆光になったアイドクレーズの表情はひどく扇情的でなまめかしかった。「あなたがほしい。いますぐに。時間がないならなおさら」直裁に云われたシュバリスは固まった。
「あーーアイドクレーズ。待って。待ってーー」
「駄目ですか? だってもういましかない。春も夏もなにもなかったし、前回と同じなら明日にはもう、」
「いや、駄目とかじゃないけど。だけどふたりとも疲れてるしもう夜も遅いしーーあっなにしてるのちょ、だめだってば!」
足を掴まれ、ハイヒールを履いた足の甲に口付けられた。そのままするりと靴を脱がされ、両方ともベッドの下に投げ捨てられる。皇妃陛下からの借り物に乱暴な、とシュバリスが慌てていると、アイドクレーズは上目遣いにじっとあるじを見つめて低く笑った。
「皇妃がなにほどのものですか、建国の女神ともあろうものが。それに千年間昼も夜もない生活だったかたがなにをおっしゃる」
「だっていっぱい話し合わなきゃならない、ことがあるし」
なぜ彼が犯人なのか、じぶんたちなりに推理し検討して結論を出さなきゃ。そうシュバリスは長いキスのあいま息も絶え絶えに訴えたが、アイドクレーズは「いやです」と、彼にしては驚くほどわがままに云った。
「そんなの明日でいい。いまじゃなくていい」
「そうかも、しれないけど」
シュバリスがなんとかことばを発することができたのはそこまでだった。シュバリスを翻弄しながら、それにしてもさっきのあの小僧、とアイドクレーズは苦々しく隣室の少年を思い出していた。アルジュナ・ユーレアイトのさっきのシュバリスを見つめる目。シュバリスのいまの姿を目に入れさせるのではなかった。あの邂逅でアルジュナは完全に、級友シュバリス・イスラメイもおとなになったらこんな女性になるのだと考えただろう。現に、めばえはじめた劣情が頭をもたげたのか、ひそかにごくりと生唾を呑みこんだのをアイドクレーズは見逃さなかった。あの子どもはいよいよはっきりと少女シュバリスへの恋心を直視したはずだ。と同時におとなのシュバリスの、清らかさと両立する色香に魅了され、しばらくは夜も眠れなくなるだろう。毎朝赤面しながら飛び起きるはめになるはずだ。
そして、すでにシュバリスを見つけてしまっているハダル・ハルシオン。もし彼が目覚め、ほんとうのじぶんを取り戻したらと思うと、アイドクレーズにとってはアルジュナやアルテミシアより脅威だった。彼は一貫してじぶんの思いを隠そうとしていない、つまりこれからは、この国の最高権力者の座にいずれつく強みをもって挑みかかってくる。
彼らはもうシュバリスを見つけてしまった。
それでもーー
「なにがあっても、どこに行っても」
甘く啼くシュバリスをきつく抱きしめてアイドクレーズは囁いた。
「あなたがわたしの帰る家です。わたしにとってこの世界は、あなたの存在以外なんの意味もない。あなたさえいてくれればいい。あなたひとりだけに価値がある。あなたひとりだけがーー」
わたしを殺せる。
すでに夜明けも近くなったころ、ようやく満足したアイドクレーズは、さんざんに貪られてすでに意識を失ったシュバリスを抱きしめて眠りに落ちた。
(あの小僧の命を助けた翌日、あなたを廟へ帰せばよかった。そうしたら、こんなことにはならなかった)
苦い後悔が胸を刺すが、すべてあとのまつりだった。
長かった夜が静かにあけた。
[newpage]
[chapter:挽歌]
日は短くなり夕暮れが早まり、吹く風にどこか郷愁をさそわれるその年の秋は急速に深まっていった。事件は静かに収束し、そして一週間が経った。
ナイジェルは騎士団から長い事情聴取のためいまだ拘束されており、無実はほぼ証明されたものの解放にはまだ時間を要するようだった。即刻病院に運ばれたギネヴィアのほうは、さほど傷も深くはなくすぐに退院したものの、もともと仕事も私生活も忙しかったため、関係各所に顔をだす暇もなく研究所で溜まりに溜まった仕事を片付けるのに日々忙殺されているそうだった。そしてふたりとの戦闘で瀕死におちいり、シュバリスの治療で生き延びたテディは、一命をとりとめたもののいまだ入院中で、ぽつぽつと事情を説明しはじめてはいるもののあまり体調が思わしくないらしい。
教官室での攻防の三日後、ユィリエに外套を返しに行って事情聴取に応じたおり、シュバリスはそれだけはなんとか教えてもらった。そして今日「きちんとお詫びしたいし、どうにか事件について説明ができると思うから」と、講義終わりにシュバリスが招待されて向かったのは、いつかこっそり忍び込んだ学院長室だった。部屋の主はこの一週間でかなりやつれはて、疲れはてた様子だったが、今日もきちんと教官用のジャケットを着こなし、どこか晴れ晴れとした表情でシュバリスとアイドクレーズを出迎えた。
「やあ、いらっしゃい。どうぞ座って」
「お邪魔しますーー」
ユアンはふたりに手ずからお茶をいれ、菓子の皿をテーブルに置いた。シュバリスとアイドクレーズはソファに並んで寄り添い、すっかりおなじみの姿に目を細めたユアンは「もういちどあなたがたが元に戻るーーというのは?」と遠慮がちに口をひらいた。「つまりその、一週間前の夜のような本来の大人の姿に戻ることはないのだろうか、という意味ですが。どうもハダルのせいらしいと、皇帝陛下からだいたいの事情は伺いましたがーー」
「とうぶんむりですね」
きっぱりとアイドクレーズが答え、小さな手のひらを見つめた。
ハダルを治し、明け方までつづいた淫らごとのあと、翌日のお昼頃になってようやく目を覚ましたシュバリスとアイドクレーズは再び子どもの姿に変わっていた。
「市販の[[rb:御守 > アミュレ]]だの[[rb:魔晶 > クリスタル]]だの使ってこの一週間さんざん試してみたのですが無理でした。とうぶんこのままです。百年も生きちゃいない小僧に、取り戻した眼の魔力ぶん根こそぎもっていかれました」
「よほど魔力に飢えていたんでしょう」
皇子を名で呼び捨てたうえ小僧よばわりすることも、教官兼学院長兼理事長に対する口調でないことも咎めず、ユアンは深くうなずいた。
「特に女神の魔力となれば、セレスタインにとってはなによりのご馳走です。と、食事のように比喩してしまってよいものかわかりませんが」
「構いません、恩を仇で返されるのはもう慣れました」
アイクは蓮っ葉に云ってユアンを睨みつけた。
「千年間ずーっとそうでしたからね! ねえーえシュバリスさま?」
「アイク!」
またそんな、とシュバリスは横からアイドクレーズをたしなめたが、ユアンは「いいんだよ」と笑った。「ほんとうにそのとおりだから。君たちにはーーいや、あなたたちにはほんとうに申し訳ないことをした」
「教官」
「そう呼ばれるのもいまとなっちゃ申し訳ないくらいだ。蛇神シュバリスとその従者アイドクレーズ殿」
ユアンはむかいのソファに座り、ゆっくりと云った。
「ようやくほんとうのあなたたちを知ることができて光栄です。と同時にまだ信じられない。わたしが生きているあいだにまさかこうして女神においでいただけるとはーーおとぎ話にきいてきた千年前の伝説の人物が、ほんとうに生きて目の前に座っている。だからどうかシュバリスさま、わたしのことはユアンとお呼びください。あの夜のあなたを目にしたら、とうていあなたを子どもあつかいや生徒あつかいできそうにありません」
「子どもあつかいでけっこうですよ」
シュバリスは自分の体を見下ろして云った。
「あなたのまえには子どもの姿で現れたし、ある意味今回の件において、わたしは最初から最後までただの子どもでした。けっきょくたいしたことはできなかったどころか、より事態を悪くしただけのような気もいたします。教官ーー最後はあなたの印のおかげで魔力をとりもどしたし犯人もわかった。すぐハダルに奪われちゃったにせよ」
シュバリスは、もとどおり十歳に戻ってしまったじぶんの手のひらを見つめた。隣では、やや大きくなったアイドクレーズがシュバリスを見つめてため息をついた。
「それでーーいったいどうして、というのを、あなたがすべて説明してくださる、ということでしたが?」
「はい。そうですーー」
顔をくもらせていたユアンはしばらく口元に手をあてていたが、やがてくしゃりと丁寧に梳かされた髪を自分の手で崩した。
「お話しします。まずはハダルの誘拐事件からーーあれからじぶんなりに考えてみましたが、ここから語るのが適切だろうと思うので。女王からの又聞きやわたし自身の考察などが含まれますし、おふたりに大前提としてお伝えせねばならない新たな情報が多くございますが」
「どこからでもついていきます。というよりーー」
シュバリスはちょっと首をかしげて云った。
「やはりこの件は七年前から繋がっているのですね? ハダルの誘拐もテディの犯行だった?」
「はい」
ユアンはうなずいた。
「テディが実行犯でまちがいありません。もちろん共犯者も別にいる、というよりそちらが主犯で、そいつの名や正体はまだテディの口から出てきていないが、反帝国組織の人間だそうです。だが接触したのはテディからだ。そしてテディは提示された計画にまんまとのってしまい、あの事件が起こった」
「ーーどうして、」
「というのもなかなか複雑ですがーー。とにかくテディは、ハダルを誘拐し彼の魔力を強奪すると決めてから、かなり慎重にことをすすめていた。犯行については、ほとんどわたしの印を使っていたそうです」
「教官の印をーー?」
「正確には、わたしがギネヴィアに渡しておいた印です」
「ギネヴィアに?」
「ですから当時のギネヴィアとわたしの関係についても話しておかねばなりません。じつはわたしたちはーー」
「婚約なされていたのですよね。だいたいのいきさつはドットールにうかがいました」
「つまりすべて知っているということですね」ユアンはやや顔を赤らめた。「そうです。当時わたしとギネヴィアは婚約していました。そして七年前にハダルの事件が起こったとき、わたしはユーロープの別荘に、彼女はセレス市にいた。仕事がひと段落したら来るようにと、わたしは彼女に移動用の印を渡していた」
「聞きました。そしてテディは当時、学院でネスボラの練習を指導していたと」
「そのとおりです。しかし、わたしはまったく知らなかったのですが、誘拐事件が起こる数日前、ギネヴィアはテディに声をかけられて、同じくネスボラの指導をしに学院にいっていたそうなんです。OB、OGとして、ふたりして後輩を指導していた」
「ではそのときにーー」
騎士団本部で話したとき、冗談交じりにギネヴィアは「ユアンにもらった印をなくした」と云っていたがほんとうはテディが盗んでいたのだ。シュバリスのことばにユアンがうなずいた。
「そのとおりです。わたしはテディにも、指導が終わったらこれで来いと印を渡していましたが、テディはそちらを使うわけにはいかなかった。ハダルの誘拐が起こったとき確実にセレス市にいたのだとみせかけなければならなかったので、ギネヴィアの印を盗んで犯行に使ったんです。ハダルの誘拐は真昼間に起きましたが、まさに練習の休憩中に、テディはギネヴィアの印でハダルのいたカフェに面する聖堂前広場に飛び、カフェからハダルを連れ出して主犯のいる車に乗せた。顔を合わせたハダルが、なんでこんなところにあなたがいるの、と戸惑っている間に気絶させて連れ出したそうです。で、反帝国組織の主犯がハダルを監禁場所へ送った。仲間にハダルを引き渡したあと、テディはふたたび印を用いて学院に戻り、なにくわぬ顔でまた指導を行っていたーーだから彼がしたことというと、誰にも見られないようハダルをカフェから連れ出して車の停泊所へ連れて行ったことだけなんです。犯行時間は三分にも満たない、しかもテディは己の[[rb:固有魔法 > マジック]]を用いて行ったから、なんの証拠も残らなかった」
「その、テディのマジックが大きな問題である、というか、わたしたちまで翻弄してくれたわけですが、つまり彼のマジックいうのは?」
「時間操作。それが彼の固有魔法でした」ユアンは苦悩の顔で云った。
「時間をまきもどせる。効果はたったの十秒間、しかしはっきりと目的をさだめてなにかをしようと思うなら、十秒というのは実にいろいろなことのできる時間です。その十秒のあいだ、彼だけが自由に空間を行き来できる。効果範囲もさほど広くはないが、彼だけが時間が巻き戻ることを知っているとなると」
時間を巻き戻す、それは自然の摂理に逆らうすさまじいマジックだ。シュバリスもアイドクレーズも、目の前で見てさえいまだに信じられないくらいだ。ほかのひとびとにはまして、そんなことが可能とは思わないだろう。低くユアンが云った。
「学院に入学して最初に試石を握った時も魔力精錬の授業でも、テディはずっと色の出ない子どもでした。無色透明で、彼はきわめて珍しいマジックを持たない子なのだといわれてきた。七年生のとき、きわめて薄くではあったがようやく白を出すことができましたが、ふつう時間を操るマジックでは黄色か紫が出ます。『次元すなわち空間や時空に関するマジックなら黄色、過去・現在・未来といった時間に関するマジックなら紫』。しかし、その両方の色は彼の純粋さで昇華されて純白として現れた。悪事を働くような人間ではなかったし、本人もとにかく色が出てくれたことにほっとしていたから、わたしたちもそれで納得し、詳しい内容までは聞かなかった」
「だから誰も気づかなかったと」
アイドクレーズが厳しい表情で云った。
「おかしい、と思わなかったのですか。というより誰も、今回のことが起こるまで、いや、起こってからもテディのマジックに気づかなかったのですよね。ギネヴィアもあなたも」
「はい」
ユアンは唇をかみ、ため息をついて続けた。
「よもや彼のマジックが時間を操るなどといった特殊きわまりないものだとは思いもよりませんでした。しかしいいわけさせてもらうならば、こんなマジックは皇帝家の誰も、初代ならばわからないが、少なくともわたしが知る数百年の皇帝家と皇族家の歴史においては誰も持ち得ませんでした。ただ、思い当たる節はありました。いつだったかナイジェルが、兄上が鬼ごっこのときズルをすると訴えていたんです。ほかはぜんぶじぶんが勝てるのにそれだけは勝てないと悔しがっていた。いま思うとあれは、見つかっても時間を巻き戻してしまえばなにもなかったことにできるということでーーのちにアレクセイも似たようなことを云っていました。ほかは弱っちいのに鬼ごっこだけは勝てる気がしないと。それにいちど、ナイジェルがアレクセイを殴ったとき、気づいたらナイジェルのほうが吹っ飛んでいてじぶんは無傷で、テディに守られていた、とーーユーレアイトの館に移るまでアレクはテディとともに一時期アベンチュリン家で暮らしていて、テディはよくアレクと遊んでやっていたようだが、そんなことがたびたびあったらしくアレクセイは不思議を通り越して不気味がっていた。いったい何が起こってるんだかさっぱりわからない、信用できないとーーほかにもかなり以前のことですが、アベンチュリンの屋敷のものが、テディさまくらい逃げ足の速い子は見たことがないと云っていました。たぶんまだ封印をかけられる前だったのでしょう。四歳か五歳かーーだとすると、テディがマジックを両親に封じられたのはその直後ですね」
「両親に封じられていたーーえ、マジックを?」
「ときどきあります」ユアンはうなずいた。「幼い子の場合、じぶんでじぶんのマジックをコントロールしきれないことがままある。その場合、両親が彼もしくは彼女のマジックを封じるんです。大人になり、自制がきくようになるまで使えなくしておく。だとしたら今回も説明がつきますーーテディが色を出したのは彼の母親が亡くなってからです。ルークとメイファ、テディの父親と母親がふたりで協力して封じていたのだが、片割れであるメイファが亡くなったことで封印が半分解け、テディは多少マジックを使えるようになった。だから色も出たし、弟たち相手にときどき力を発揮して遊び、練習することで、じぶんのマジックをコントロールできるようにもなった」
「なんだか話をうかがっていると」
シュバリスは首をかしげた。
「テディはとても努力家で、控えめで、家族思いの優しいお兄さん、そんな印象しかないのですが。というよりじっさいわたしたちもそんな印象だったのですが、誘拐事件では共犯がいてそちらが首謀者、ということは、彼は騙されていたのでしょうか? そのマジックを利用された?」
「それはーー」
ユアンは難しい顔で考え込んでいた。だが「ハダルを誘拐したのは、たしかに騙された面もあるのかもしれないが、いちがいにそれだけとはいえません」と続けた。
「接触したのはテディから、これはすでにはっきりしています。あれに関してはテディのほうから協力者を探しにいったんだ。だからテディは確固たる意思をもって犯行に加担した。ハダルさえいなければわたしにも後継者の座に復活する余地があると信じ、わたしが皇帝になりさえすればいずれじぶんの目的も遂げられる、とーーそう、これはただ単にテディが無謀で考えが足りなかったとか、だから誘いにのってしまったとか単純な理由ではありませんでした。それをいうなら聖遺物強奪もあなたを襲ったのもそう、事件の流れを追っていくとそれがわかる。ハダルの誘拐も今回の一連の事件も、動機は単純に『わたしを皇帝にしたいから』ではなく、彼の目的はその先、『わたしが皇帝になったあと』です」
「教官が、皇帝になられたあとーー?」
「ひとまず話を戻します。ハダルの誘拐事件だが、実はテディが犯行に加担すると決めたのは、その前の年に起こったできごとがきっかけだったようです」
「その前の年に起こったことーー?」
「ルーク・アベンチュリンの死です」
「テディのお父上?」
「そう」
ユアンはうなずき、「父親のルークは病死でした。長く病床に臥せっていたあといよいよというときになって、ルークは長男であったテディに遺言を残した。跡継ぎの彼だけに残された遺言だから内容はテディしか知らなかったし、もうひとつの遺言でアベンチュリンは親戚を含めかなり揉めたから、テディの受け取ったほうはまるっきり誰も関知せずに終わってしまいました。それはアベンチュリン家の将来に関するもので、しかしこれがテディに犯行を決意させるきっかけになったんです。ルークはよもやテディがそのような決意をするとは思いもよらなかったかもしれませんが」
「それはいったい、どういう?」
「それはまたあとで。しかしとにかく、父親の死によってテディのマジックも完全に眠りから覚め、だからテディはハダルを誘拐することができた。誘拐が発覚したあとテディは堂々とじぶんの印を使ってユーロープに来たが、憔悴するナイジェルを横目に、捜索に協力するという理由でわたしの目を盗んで単独森に出かけると、そこで仲間が拘束しておいたハダルが呪いをかけられてゆくのを見守った。そしてそのとき彼の魔力をじぶんのものにできるようにしてもらったーーそれが計画に加担する条件だったらしいのです。共犯者のほうはそういう組織の人間である以上とにかく帝国を潰すことが目的でハダルの魔力はどうでもよく、皇子がいずれ死にさえすればよかった。いっぽうテディは、ただそうさせるだけでは勿体無い、どうせなら魔力をいただこう、のちのちそれはじぶんの役にたつだろうからとーー彼をよく知る人間としては、彼がそんなことを考えたあげく冷静にやってのけたとはいまだに信じられませんが、とにかくテディはそのときハダルの魔力を取り込み、じぶんの犯行や目覚めた[[rb:固有魔法 > マジック]]の力をごまかすために使うようになった」
「ですが、ハダルは魔力を極端に減らしたものの、後継者の座からは外されませんでしたし、あなたも復帰することはありませんでしたよ」
「だがその呪いでいずれハダルが死ぬことは確実でした。テディはそれを知っていた」
ユアンはため息をついた。
「この、彼だけが知っていた、というのがかなり大きいーー彼だけはいずれ皇帝家がわたしを復帰させると確信していた。だからハダル誘拐・魔力強奪を終えたあと、七年のあいだ何食わぬ顔で待ちつづけ、いよいよ今年に入って仕上げにかかった。まずはハダルを救おうと必死で解決策を探しつづけるナイジェルを排除するため、さらにじぶんの力を高めるためにシオン廟から聖遺物を強奪した。ナイジェルに罪をかぶせるようハダルの魔力で巧妙にじぶんの魔力残渣を変化させて。[[rb:魔力 > オーラ]]というのは、遺伝的な要因があるのか兄弟ではかなり似た部分を共有するから、ハダルの力があればじぶんの魔力残渣を変えるのだってたいしたことではなかった。まずシオンを襲ったのは、同じ熊人で魔力もなじみやすいだろうという理由です。どうやって警備の固い七柱廟に侵入したか、というのはもうわかっているが彼のマジックなら簡単。わたしの印があれば逃走も簡単」
「印。そうだーーテディは、こういってはなんですがさほど魔法の実力があるわけではありませんよね。あれほどのことができたのだって、ハダルやシュバリスさまや聖遺物のおかげ。彼が犯人なら、夏にシュバリスさまを襲った獣人たちの印も彼が渡したのでしょうが、シュバリスさま曰くあれはかなり高度な印だ。そして印や陣は単純に魔力が高ければ作れるものではなく、ちゃんとした知識がなければ作れない。すべて彼の犯行なら解せないことがいくつかありますが、そのひとつが、あなたやギネヴィアのところから盗んだだけではとても足りないだろう魔法印や魔方陣です。彼が作ったならそうとうな使い手、ということになる。彼はまちがいなく印陣に精通している」
アイドクレーズは目を細め、こめかみに指先をあてた。
「ナイジェルがアルジュナとアレクセイの寮室に来た晩、シュバリスさまがナイジェルと飛んで行ったあの倉庫のこともーーあれもテディのしわざなら、あそこはテディが準備した、ナイジェルに罪を着せるための場所、だったのですよね?」
「そのとおりです。あれに関しては騎士団も完全に騙された。そこらじゅうにナイジェルの痕跡があったし、ナイジェルが飛んで行った場所、というので間違いなくナイジェルの隠れ家だということになった。しかしあれは誘導で、ナイジェルとシュバリスが飛んでいく寸前、テディがナイジェルの発動させた陣をひそかに書き換えたのです」
「失礼ながら、これまでの評判通りなら彼にそんなことができるとは」
「の、はずでしたが、実は」
ちょっと感慨深そうにため息をついて、ユアンが云った。
「これも今回初めてわかりましたが、テディは長年わたしに仕えるうちにかなり印陣に精通し、自在に操れるようになっていたんです。門前の小僧習わぬ経を読む、というやつです。学生時代はからっきしだったのに、なんだかんだ二十年ちかくわたしにくっついて最先端の知識に触れたり、わたしが一から編み出すところを見ていれば、頭で理解するより先に体が覚えてしまう、ということらしいのです。しかもーー」
ユアンはかたわらから、先ほどからシュバリスたちの目にも重たげな分厚いファイルをとりあげ、机の上に広げた。各種さまざまな印や陣が、着想からじっさいに発動可能になるまでの過程も含めてすべてユアンの筆跡で書き記され、完成図とともにファイリングされていた。ユアンはため息をついた。
「わたしの研究ノートです。これは騎士団にも参考資料として提出し、先日戻ってきたばかりのものですが、わたしの研究者としての財産のひとつです。作成した印陣はすべて分類してラベリングしてここに保管しています。そしてーー」ファイルをぺらぺらめくって、ユアンは複雑な模様が描かれた頁を指さした。「こっちはギネヴィアとナイジェルが、テディの体内からシオンの槍の穂先やあなたの眼を抜くのにつかった印です。そしてこっちはあなたがたが入れられていた檻の印。ほかにもいろいろ、人の体内に干渉するとか人を監禁するとか、陣を敷かずに印だけで長距離を跳ぶためのものなど、彼が犯行に使ったものがすべてここにあります」
「ーーこりゃすごい」
「とはいえ、けして人を傷つけるために作ったものではありません。もとは医療用や犯罪者の拘束・連行用にと研究所および騎士団と開発したものだ。ただ、悪用しようと思えばできる印もあるので、厳重に鍵をかけて保管していたのですがーー」ユアンの眉根がきゅっと寄った。「それが災いしました」
「実はその鍵をテディも持っていた、とか?」
「おおあたりです。ここからテディは、じぶんの目的にあったさまざまな印の図面を盗んで使っていました。発動のために膨大な魔力を込めなければならないものもあるが、ハダルの魔力を持っている以上問題にならなかった。印を理解し、正確に描くことさえできれば実現できた」
「それでシュバリスさまのもとへも来た。ヤハンのシュバリス廟までも?」
「はい。彼の犯行の半分は、いやほとんどは、これに気づかなかったわたしの責任です。ほんとうに申し訳ない」
「はーー。とんだおぼっちゃんでしたね」
遅すぎる謝罪にアイドクレーズは冷たく頭を横に振った。
「しかしひとまずテディのことです。けっきょく彼の動機はなんだったのでしょうか。彼をそこまでの凶行に駆り立てた理由とは?」
「家族のため、でした」
「はあ」
シュバリスたちには冗談のように聞こえた。テディの重ねてきた罪にはそんな温かな理由の入る余地はないと思えた。ただし、
「アレクセイさえいれば、とあのとき云っていたような?」
シュバリスが呟くとユアンはうなずいた。
「そのとおりです。アレクセイの存在、それが大きな理由であり動機でした。七年前に彼の中に芽生え、いまもなお彼を突き動かしていた真の目的は、アベンチュリン家の御十家への復帰です。これこそ彼の動機でしたーー」
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