二話

  ホムラサキの朝は、大陸のそれよりも遥かに柔らかい光で始まった。

  宿の窓から差し込む陽光が、街を包む桜の花びらを透かし、部屋の中を淡い桃色に染め上げていた。

  「……ん」

  ウォルカがゆっくりと目を開けると、隣で先に起きていたティーガが、窓の外を眺めながらのんびりとあくびをしていた。ウォルカの気配に気づくと、彼は「お、起きたか」と低く落ち着いた声で笑い、大きな手でウォルカの髪をくしゃりと撫でた。

  「よく眠れたか? ホムラサキの空気は、船の上よりずっと体にいいみたいだな」

  ティーガの言葉には、ウォルカの体調をさりげなく気遣う温かさがある。船酔いしていた数日間の苦しさを、そのゆったりとした雰囲気が優しく解きほぐしていくようだった。

  だが、その心地よい静寂を切り裂くように、隣の部屋から「ある音」が響いてきた。

  「ふんっ! ふんっ! シグ! ホムラサキの朝は気持ち良いな! 調子が良いぞ!」

  気迫の籠った掛け声。もはや聞き慣れた「アリオスの鍛錬」である。

  「……、……温泉へ行くか」

  ウォルカは無表情のまま、隣室の狂気から意識を遮断するようにティーガを促した。

  「はは、アリオスは相変わらず元気だな……。よし、ウォルカ。ゆっくり温泉に浸かって、船旅の疲れを全部流しちまおうぜ」

  ティーガはのんびりと立ち上がると、ウォルカの背にそっと手を添えて歩き出す。急かすような素振りは微塵もなく、その大らかな振る舞いは、隣にいるだけで強張った心が自然と解けるような安心感があった。

  旅館の奥、回廊の先にある露天風呂。

  そこには、火山島ならではの熱気を孕んだ透明な湯が、岩肌を伝ってなみなみと注がれていた。

  「……ふぅ。極楽だな、これは」

  湯船に浸かったウォルカが、思わず深い溜め息を漏らす。隣ではティーガが広い肩を沈め、大きな腕を縁に投げ出して、実に気持ちよさそうに目を細めていた。

  そんな二人の傍ら、湯船の縁には、溶け崩れた「リューゴだった紫のスライム」が転がっている。

  「……だめじゃ……もう、限界じゃ……。はやく、はやく特濃のやつを流し込んでくれ……ううっ……」

  「あー、また溶けちまってら。悪いな、リューゴ。夜まで我慢してくれ」

  ティーガは苦笑混じりに、形を失いかけたリューゴを大きな掌で優しく掬い上げた。

  「お主……最近、我の扱いが雑ではないか……!?」

  「そうか?悪い悪い」

  ウォルカは、ティーガの無意識の夜の誘いに小さく咳払いし、熱くなる顔を隠すように静かに目を閉じた。​湯の熱以上に、ティーガの大きな身体から伝わる温もりが、ウォルカの心に気恥ずかしくも確かな安心感を与えていた。

  やがて十分に堪能した二人は、湯を上がり、溶けかかったリューゴを革袋に入れて回収すると、隣のアリオスの部屋を訪ねた。

  「……ふんっ! ふんっ! どうだ、シグ! 今日は腰がやけに軽いぞ!」

  「お見事です殿下。その跳ねっぷり、もはや新たな生き物のようでございますな」

  扉を開けると、そこには案の定、全裸で四つん這いになり、汗だくで顔を真っ赤にして腰を振るアリオスの姿があった。

  「アリオス。俺たちはこれから街の視察に行ってきます」

  「……お、おはようウォルカ! ふんっ! 見てくれ、このキレを!」

  「……いつまでやっているんです。アリオスも街に出てみてはどうですか? まずはその汗を流してきてください。温泉はとても良かったですよ。鍛錬はそのくらいにして、さっさと入ってきては?」

  ウォルカの呆れ交じりの助言に、アリオスは爽やかな笑顔で応えた。

  「そうか! ウォルカがそこまで言うなら、よほど良い湯なのだな! よし、俺もひとっ風呂浴びて、清々しい気分でホムラサキの民と触れ合ってくるとしよう!」

  「……では、俺達は先に出ます。行こう、ティーガ」

  「ああ、ゆっくり歩こうぜ。ホムラサキの街は、歩いてるだけで面白そうだからな」

  ティーガの穏やかな横顔を見上げ、ウォルカは小さく頷き返す。​

  背後でこれから巻き起こるであろう、嵐のような喧騒の予感など今はまだ露ほども知らず、二人はただ、暖かな陽だまりの街へと向かっていった。

  ​宿を一歩出た瞬間、ウォルカとティーガは、打ち合わせでもしたかのように同時に足を止めた。目の前の往来を歩く人々の様子が、大陸で生きてきた二人の目には、ひどく奇妙で、それでいて不思議な光景に映ったからだ。

  ​「……おい、ティーガ。あそこにも、あっちにも女がいるな……」

  「ああ、見えてる。あんなに普通に歩いてやがる……」

  ​二人の視線の先に、白い着物と赤いスカートのようなものに身を包んだ女たちがちらほら映る。大陸では女は教会の奥で不気味な笑みを浮かべて魔法を操る「得体の知れない魔法使い」であり、男が気軽に声をかけるような存在ではない。​だが、この島ではどうだ。  ​

  「……見ろ。あの男、あんなに親しげに女に話しかけている。……恐ろしくないのか」

  ​ウォルカが声を潜めて呟く。露店では、果物屋の店主が「巫女様、今日のは特に甘いよ!」と朗らかに笑いながら、若い女に桃を手渡していた。

  大陸なら、女が魔法で男を操っているのではないかと疑うような場面だ。だが、昨日見た、彼女たちが使う「神力」の温かさを思い出すと、それが決して邪悪なものではないことも理解できてしまう。

  ​「ああ。それどころか、まるで隣人みたいに接してやがる……。おい、あっちの爺さんなんて、女の肩を気軽に叩いて笑ってやがるぞ」

  ​ティーガもまた、未知の文化に触れた子供のように、呆然と目を丸くしていた。

  大陸の男にとって、女は「なにを考えているのか分からない生き物」だ。だが、ここでは誰も彼女たちを怖がらず、それでいて一人の尊い存在として、自然に、かつ大切に扱っている。

  ​「……呪いでも支配でもない。同じ人間として、接するのが当たり前なのか」

  ​ウォルカが吐息を漏らすと、ティーガがようやく少しだけ肩の力を抜き、穏やかに笑った。

  「ははは、大陸の連中が見たら、腰を抜かしてひっくり返るだろうな。……でもよ、ウォルカ。あんな風に笑い合ってるのを見てると……なんだか、こっちまで穏やかな気分になるぜ」

  ​ティーガはのんびりと笑うと、自分たちの困惑を解きほぐすように、大きな手でウォルカの背を軽く叩いた。

  「俺たちも、少しは頭を冷やそうぜ。魔法使いだろうが巫女様だろうが、ここでは誰かの『大切な相手』なんだ……。それがこの島の、平和の形なんだろうな」

  ​「……そうだな。……少し、不思議な気分だが」

  ​ウォルカは、大陸の常識が音を立てて崩れていく戸惑いを感じながらも、自分を包むティーガの大きな温もりに、確かな安らぎを感じていた。

  ​時は少し遡る……。

  ​アリオスは、宿の露天風呂に独り、身を沈めていた。

  ウォルカに勧められた通り、早朝の鍛錬で流した汗を、源泉の熱と柔らかな陽光で洗い流しているのだ。

  ​「……ふぅ。確かに、これは極楽だな。大陸にもあればいいのに……。リュゴニアの王都に作ることはできないかなぁ」

  ​黄金の鬣を湯に濡らし、肩まで深く沈めて目を閉じる。立ち上る湯気の向こう、火山島が抱く遠い鼓動が、地響きのような重低音となって伝わってくる。その生命の脈動に触れるたび、大陸の乾燥した空気では味わえない、心の芯が解けるような温もりがアリオスを満たしていった。

  ​「よし、これで今日こそは、ちゃんと使者らしく振る舞えるはずだ! 街の人たちとも交流して、サコン殿の誤解も解いて……。ホムラサキの殿にも、凛々しく挨拶を……」

  ​前日の失態が脳裏をかすめ、アリオスは湯の中で小さく拳を握った。挽回の機会。王子としての威厳。それらを湯けむりに誓う。

  ​その時だった。ガラガラ、と。

  静寂を破り、脱衣所の扉が開く音がした。

  ​(――! 誰だ、宿泊客か!? 島民といきなり裸の付き合いになるとは……。いや、動揺するな。ここは使者として、堂々と応じるのが礼儀というもの!)

  ​湯けむりの向こうから、ゆっくりと近づいてくる足音。

  アリオスは緊張に喉を鳴らしながらも、王子としての精一杯の愛想を顔に貼り付け、意を決して声をかけた。

  ​「お、おはよう! ホムラサキの温泉は本当に素晴らしいな……!」

  ​しかし、その続きの言葉は、肺から漏れる無様な吐息となって消えた。

  湯けむりを割って姿を現したのは、瑞々しい裸体を晒した一人の女性だった。

  ​白く柔らかな肌、雫を纏った長い黒髪、そして湯気に当てられてほんのりと赤く染まった頬。

  そこにあるのは、大陸で恐れられる不気味な魔法使いの姿ではない。神秘的でありながら、あまりにも無防備な「女」という未知の眩しさだった。

  ​彼女はアリオスを視認すると、ぽかんと口を開け――。

  ​「きゃあぁぁぁー!!!」

  ​甲高い悲鳴が、岩肌に反響した。

  アリオスもまた、反射的に裏返った声を張り上げてしまった。

  ​「きゃあぁぁぁー!?!」

  ​二人の悲鳴が共鳴し、露天風呂の空気は一瞬にして混迷の極みに達する。

  露天風呂の空気が、凍りついた

  女は両手で胸と股間を隠し、震える足取りで後ずさった。わたわたと慌てた様子で口を開く。

  ​「あ、あの……わたし、誰も、いないと聞いていて……っ」

  ​アリオスは湯の中で石のように固まっていた。

  初めて目にする、女という生き物の裸体。それは、筋骨隆々とした男たちの肉体とは根本から造りが異なり、生命の根源に訴えかけるような圧倒的な情報の暴力を孕んでいた。

  ​未だかつてない視覚的衝撃に、アリオスの脳は沸騰し、一人の雄としての本能が、主の理性を置き去りにして猛り狂った。

  ​「あ、あの……! すまない、俺は……っ!」

  ​パニックに陥り、釈明しようとアリオスが勢いよく湯船から立ち上がった、その瞬間。

  水飛沫と共に露になったのは、鍛え上げられた若ライオンの肢体――そして、その中央でホムラサキの火山のごとき熱を帯び、天を突くほどに猛り立った「勇者の聖剣」であった。

  ​「…………ッ!?」

  ​ヒナタの瞳が、これ以上ないほど見開かれる。

  湯気の中で荒々しく脈打つそれは、もはや挨拶や礼節とは対極にある、剥き出しの野性と呼ぶに相応しい威容を誇っていた。

  ​「あ」

  ​アリオスが己の股間の不敬な暴走に気づいた刹那、扉がバンッと爆ぜるように開き、銀色の閃光が飛び込んできた。サコンである。

  ​「ヒナタ様! 一体何が……ッ、また貴様か!! 朝から巫女様に対し、その不浄な『暴れ大蛇』を天高く掲げるとは、なんたる不埒、なんたる外道!! ついに正体を現したな!」

  ​サコンの銀縁眼鏡が、アリオスの「猛々しき一物」に反射して殺意の光を放ち、小柄を抜いて震える指で指差す。

  ​「昨日から怪しいと思っていたが、最早貴様は隠り世の悪魔の手先に相違ない! その卑猥なる角ごと、今度こそ成敗してくれる! せいやぁーっ!!」

  ​アリオスの脳裏に、死の予感がよぎった。

  「ま、またかよぉぉぉー!! 違う、俺も何がなんだか――」

  ​サコンは渾身の力で小柄を投擲した。

  しかし、相変わらずの致命的な腕前である。投げられた小柄は、アリオスの鼻先をかすめることすらなく、あらぬ方向――頭上の、古びた太い木の枝へと突き刺さった。

  ​だが、奇跡はそこで起きた。

  小柄の衝撃に耐えきれず、半ば枯れかけていた太枝が、バキッ! という不吉な音と共に折れ曲がったのだ。

  ​​「ぎゃんっ!!?」

  ​折れた巨木の一部が、逃げ場のないアリオスの頭頂部を正確無比に直撃した。​鈍い打撃音と共に、アリオスの瞳から光が消える。

  そのまま白目を剥き、不敬な聖剣を起立させたまま、勇者は湯船の中へと静かに沈んでいく。

  ​「…………」

  ​静寂。

  サコンは、自分が投げた小柄ではなく「落ちてきた枝」が仕留めた事実に一瞬困惑したが、すぐに満足げに頷き、眼鏡を指先で押し上げた。

  ​「……成敗。これにて、不浄の大蛇も鎮まりましょう」

  ​ヒナタは顔を真っ赤にし、両手で顔を覆いながら、湯の中でぷくぷくと泡を吹いて気絶した勇者を、心底心配そうに見つめ――。

  ​「……さ、サコン! なんてことを……」

  ​彼女の嘆きが湯けむりに溶ける中、ホムラサキの朝の平和は、不敬にそり立ったアリオスの意識と共に深い湯底へと沈んでいった。