三話

  ウォルカは廊下を急ぎ足で進み、主君の私室の扉をノックした。

  新婚の主君とリザルフはもう起きているだろうか。胸の奥に躊躇いがよぎるが、ティーガのぶっきらぼうな笑顔を思い出し、深く息を吸い込んだ。

  「失礼いたします、主様」

  「おはよう、ウォルカ。入ってくれ」

  中から穏やかな声が返る。

  扉を開けると、ハクラ伯爵は窓辺のソファに座り、その膝の上にはリザルフがいた。黒豹のしなやかな毛並みがハクラの白馬の毛に重なり、甘く柔らかな空気が部屋を満たしている。リザルフはハクラの首に腕を回して幸せそうに頬を寄せていたが、ウォルカが入ってきた瞬間、慌てて離れ頬を赤らめた。

  「……悪い、こんな格好で」

  ハクラは優しく微笑み、リザルフの腰に手を添えたまま、穏やかな声で言った。

  「気にしなくていい。君はもう私の伴侶なんだ。

  ……ウォルカ、何かあったのかい? 少し顔色が悪い」

  その慈しむような声に、ウォルカの胸がちくりと痛んだ。

  主君の幸せそうな顔。かつて自分が抱いていた淡い恋慕が、遠い記憶として静かに疼く。

  ウォルカはその場に膝をつき、深く頭を下げた。

  「主様。急な申し出で恐縮ですが……しばらく、暇をいただきたいのです」

  ハクラは驚いたように目を丸くし、リザルフも興味深そうに耳を動かした。

  「休暇? お前が? ……何か、大切なことがあったんだね。ゆっくり話してくれないか」

  ウォルカは立ち上がり、静かに語り始めた。

  ティーガとの二十年ぶりの再会、空白の時間、リューゴの出現、そして隣国への旅――。言葉を選びながらも、ティーガを想う熱が抑えきれず、声がわずかに震えてしまう。

  ハクラは静かに聞き入り、リザルフは真剣な表情を崩さなかった。話し終えると、部屋には穏やかな沈黙が降りた。

  「……ティーガ、か。なるほど。お前が二十年もの間、胸に秘めていた相手なんだね」

  ハクラの少し目を細めた優しい眼差しに、ウォルカの耳がぴくりと動いた。すべて見透かされている。

  「リューゴと名乗る者が本当に竜神で、竜脈の危機が事実なら、これは国にとって無視できない事態だ。一領主に過ぎない私だけれど、放っておくわけにはいかないな」

  リザルフも腕を組み、力強く頷く。

  「魔導具の使いすぎが原因なら、うちの領地にだっていつ影響が出るか分からんぞ」

  ハクラはウォルカをまっすぐに見据え、確かな声で告げた。

  「ウォルカ、悪いけれど休暇は認められない。

  ……代わりにお前に命じよう。竜神リューゴの調査、および隣国への同行を。ティーガと共に、真相を確かめてきてくれ」

  「主様……!」

  「これは命令だ。領地の未来を守ってほしい。正式な書状を出すから、少し待ちなさい」

  「お前の男を、しっかり守ってこいよ」

  ハクラは優しく微笑み、リザルフは茶目っ気のある笑みで言う。

  ウォルカは深く頭を下げ、部屋を後にした。扉を閉めた瞬間、静まり返った廊下で胸の奥が熱く疼いた。

  (自分の幸せを掴んでおいで)

  二人の言葉が、そんなふうに聞こえた気がして、かつての恋心が温かな思い出へと溶けていく。

  主君の傍にいる騎士ではなくなることへの寂しさは、少しだけある。けれど、それ以上にティーガの隣にいられる喜びが、ウォルカの心を支配していた。

  主君の命令という大義名分を得て、これで堂々とティーガに付いていける。

  (リューゴめ……。お前が勝手にティーガを連れ回さなければ、こんなに焦らなくて済んだのに)

  期待と焦燥を抱えて私室に戻ったウォルカ。

  しかしそこにティーガの姿はなかった。

  ベッドの上に置かれた一枚の紙。不器用な字で書かれた手紙。

  『ウォルカ

  俺の選択にお前を巻き込みたくねぇ。

  リューゴと二人で行く。

  お前に会えて嬉しかった。

  幸せになれよ。

  ティーガ』

  ウォルカは手紙を握りしめた。指先が震え、紙がくしゃりと音を立てる。胸の奥で、愛情と痛み、そしてどす黒い執着が爆発した。

  「……あの、馬鹿虎が……!」

  白い尻尾が激しく打ち振られ、耳は前へと倒れる。狼の本能が、獲物を逃した怒りに吠えていた。

  ウォルカは手紙を懐に押し込み、迷いなく旅の準備を整える。見慣れた騎士服を脱ぎ捨て、動きやすい旅装へと着替え、荷物と領主の書状を握りしめて伯爵邸を飛び出した。

  朝の冷たい風を切りながら、鼻を鳴らす。

  朝露に混じるティーガの匂い、そしてあのトカゲの不快な気配。それらはまだ、はっきりとこの空気に残っている。

  「狼の鼻から、逃げきれると思うなよ……」

  獲物を追うのは、狼の最も得意とするところだ。

  ウォルカの紅い瞳が、野性味を帯びて鋭く輝いた。