あれから数日が経った。
午前中はいつものように、普段着のまま、ティオは屋敷をぶらぶらしている。
パステルブルーに丸襟の可愛いシャツ。短パンの下は厚手のトレーニングパンツで、お尻の辺りが少しだけもこもこと膨らんで見える。
相変わらずティオに仕事は与えられず、暇な毎日を過ごしていた。
御者のおっちゃんから貰える包み菓子が増えた。
でも、最近は一つだけ、仕事がありそうな場所を見つけた。
温室だ。
これは、逆転の発想。
仕事がある場所ではなく、無い場所を探す。
どうやらあの温室は屋敷でも特別な場所らしく、本家の使用人はあまり出入りしない。
つまり、あそこの家事、掃除諸々、俺の仕事にできる。
温室に入るには主人の付き添いが必要なので、結局アルヴェインを待つことになるのだが、いい加減、自分の仕事を見つけないとなるまい。
勿論、使用人への聞き耳……もとい、アルヴェインを探る諜報活動も欠かさない。
そしてもう一つ、大きな変化があった。
ティオは庭の隅のベンチに座り、小さな冊子を取り出した。
「暇を持て余す間に、少しでも文字を覚えたい」と申し出ると、アルヴェインが普段から使う言葉を冊子にしてくれた。
いわば、『ティオ教本』
貰ったその日は、あまりの嬉しさでお漏らしするかと思った。
悲しいけど、比喩じゃない
パラパラと渡された辞書をめくり、昨日教えて貰った言葉をまた暗唱する。
一人で悪戦苦闘していると、いつしか日が真上まで登っていた。
「えぇーっと、きょうだい……きょうだいの……えー」
読めない文字を睨んでいると、背後から穏やかな声がかかる。
「弟だな。意味は分かるか?」
「うわっ、あ、アルヴェイン」
「不遜。僕が君の弟である、はずがないだろう」
意地悪な呆れ顔で、屋敷の主人、アルヴェインが辞書を除きこんでいた。
「弟ね、おとーと。きょうだいでしょ、年下の」
「それから」
「男の子」
「正解。素晴らしい」
くしゃくしゃと頭を撫でられる。
実際の歳は分からないけど、ここでは、まるきり、ティオのほうが弟だ。
「僕は温室に行くけど……」
「行くっ……」
鼻を鳴らして、食い気味に答える。
仕事! 仕事しないと……
「了承。おいで」
「うん」
駆け足で、アルヴェインの後に続く。
温室の中に入り、本棚とプランターの間を縫って歩く。
甲斐甲斐しく、ティオが毎朝水桶を取り替えたおかげか、温室の枯れ草は少し減った。
それでも、やはり土が弱っているのか、三、四割は枯れたままだった。
「僕は、少し見て回る」
「行くっ、一緒に行く」
アルヴェインの後に続いて、温室を一周する。なるべく邪魔にならないように、慎重に歩く。先を歩く主人もティオがついてきているのを察してか、わざと速度を落として歩いてくれる。
草木を見て回り、水の量を確かめる。定期的で定量的。事務作業のように、水を与えていく。
その様子を背中から見ていたティオが食い気味に聞く。
「水の与え方は? 時間は決まってんの?」
「定時、平坦。全ての場所になるべく平等になるように水を与えている」
「俺、やってもいい?」
「構わないが」
ブリキのじょうろを手渡され、小躍りするくらい喜ぶ。
分厚いお尻の下で、綿のトレーニングパンツが揺れて、ちょっと顔が赤くなった。
パラパラと、全てのプランターに対して、なるべく平等に水を落としていく。いくつかの鉢は、まだ十分に土が湿っていたので、少し控えめにしておいた。
「育てた経験は?」
「農村生まれだから、手伝いくらい経験あるよ。花も何度か、都市部のヒトに売れるから」
「品種は?」
「花。あ、売り物の花……?」
「奇妙だな。名前を聞きたい」
主人が、またキョトンとした顔を浮かべる。
「ご、ごめんなさい。そんな名前しか、憶えてなくて……」
「呼称。地方によって呼び名が変わることもある。面白い話が聞けて良かった」
「本当!」
慌てて振り返り、じょうろの水が跳ねて服にかかった。
綺麗な綿の服を汚してしまい、ティオの耳がペタンと垂れた。
「ご、ごめんなさい……俺……」
「作業着。私の落ち度だ」
アルヴェインはいそいそと温室を横切ると、淡い青色の長袖服を持って帰ってきた。
「じょうろを置いて、手はこっちに」
また幼児向けのデザインに唇を尖らせたが、言われた以上は従う他にない。
濡れた上着を脱がされて、代わりに裾の広がった厚手の服を着せてもらう。スモックと呼ばれる作業着で、動きやすいよう袖と首元がゴムですぼまっている。
まるっこい見た目から、幼児服としても人気が高い。
「浅慮だ。先に着せるべきだった」
「い、いやいや。手伝いたいって言ったの、俺。むしろ、作業着まで貰えて嬉しいよ」
一般的なエプロンとは異なり、明らかに幼児が着る作業着ではある。とはいえ、仕事につながった気がして、ティオは恥ずかしさもありながら、本心で嬉しかった。
二人で並んで、次々と水を与えていく。すると温室の外から「アルヴェイン様は、いらっしゃいますか」と、声がかかった。
「ああ、ここに。じょうろを頼む。悪いが、行ってくる」
「はいっ」
跳ねるような声で返事をした。
主人が温室を離れ、ティオはかいがいしく水を撒く。土の表面を観察し、必要な分に気を配って与えていく。
温室の中でも、日陰と日向で水のはけが違う。同じ花でも株によって機嫌も違う。窓側は風が通るし、水場が近ければ乾きも遅い。
「おまえは、まだいらないなー」
声で話しかけながら、じょうろは傾けない。
代わりに、隣の鉢は見るからに軽い。日向で風通しもよく、すっかり乾いている。ゆっくりと水を落とすと、乾いた土が黒く染み、ほんのりと草の匂いが立ちのぼった。
次々と草花を追いかけ、研究机の上に活けた花を見つける。
机の上には、丸いガラス細工、積み上げられた本、金先のペン、インク壺、それから、書きかけの文章には覚えたての植物の名前が並ぶ。
書き込みには、『ティオ』の文字が見える。
何で?
この温室で何かを書いていたのは知っているけど、なんで俺の名前が出てくるんだ?
「ティオ?」
背中から呼びかける声に、びくりと体が跳ね上がり、反射的に振り向いた。
「あっ、アルヴェインっ」
カツッ
手に持ったブリキのじょうろが、固い何かにぶつかった響きを返す。
温室の扉には、戻ってきたアルヴェインが、立って歩いている。いつもの眠たそうな顔が、次第に驚きに変わっていく。
水が入ったじょうろは重く、握ったまま振り返ると、ずしんと重心がずれた。
机の上から、きらりと光る欠片が零れ落ちる。
丸いガラス細工、スラリと伸びた口は何かの実験器材のようだ。驚くほど透き通った素材で、容器の中身を隅々まで見渡せそうな入れ物が、落ちる。
ゆっくりと、くるくる回りながら、まっすぐ、温室の床へ吸い込まれていく。
体を動かすだけの時間は間に合わず、ただ、じっと目で追っていた。
パリン
ガラスが割れる音は、温室の静けさを割いた。美しいガラスの球体が、床で粉々に砕けている。
「あっ……」
ティオは、思わず声を上げたが、膝から崩れるように床に伏した。
「ご、ごめ、ごめんなさい……!」
声がひっくり返る。
じょうろを床に置き、散らばった硝子を素手で拾おうとする。
息が荒く、指先が震える。
視界が白く濁っていく。
主人のガラス細工を壊したことを、今になって現実味を帯びてくる。
信じられない。
土交じりの床から、透明な小片をかき集めていく。
ざりざりと、手の中に、少しでもガラス細工を、とどめようと必死になる。
「触るな」
頭の上で、驚くほど低い声が響いた。
「あ……ああ……」
奥歯をカチカチ言わせながら、震える指を床から引きはがす。
指先に赤い線が何本も落ちる。ガラスで手を切り、土が傷口に入り込んでいる。
「割れたのは、フラスコか……」
主人の声が、すぐ頭の上で聞こえる。壊してしまった器材はフラスコと呼ぶらしい。
「ご、ごめっ……ごめんなさい。ごめんなさい!」
涙交じりの顔で、慌てて顔を上げて許しを請う。
見るからに高級そうな素材で作られた丸いガラス細工。価格で言ったら、ティオ何人分になるかも分からない。
「ごめんなさい……もう、もうここには来ないから、水も……だからっ……」
涙で揺れる視界のなか、主人はいつもの困惑した顔で、じっとティオの手を見つめていた。
土交じりの血が、ぽたぽたと床に落ちる音がする。
アルヴェインは踵を返して、温室の外へと向かう。
「だっ、誰か! 誰か来てくれないか」
次第に、外からの足音が大きくなってくる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
ティオはうずくまって、ずっと謝罪の言葉を繰り返した。
怒られるより、殴られるよりもずっと、アルヴェインが何も言ってくれないことが、怖かった。
ぼーっとする頭で、本家の召使いさんたちに、手厚い看護を受けた。
土が入った傷口は綺麗な井戸水で念入りに洗われ、ガラスの破片を取り除き、軟膏を塗ってもらって、両手に包帯が巻かれた。
あれ以来、アルヴェインとは、口を聞いてない。
泣きつかれた頭で、ぼんやりと、寝室のベッドで寝ていた。
「……ごめんなさい」
腕を見つめながら、何度目かも分からない謝罪を呟く。
何もできないどころか、自分を売り払っても取り戻せない損害まで与えてしまった。
「う……うう……、ごめん……なさい」
泣きすぎて鼻声になった声で、また一人で謝罪を呟く。
仕事が……仕事が欲しかったんだ。
ふかふかのベッドが申し訳なくなって、いそいそと床に座り込んだ。
こっちのほうが、俺にはあってる。と、ひとりごちる。
包帯を巻かれた手を見つめながら、ゆっくりと光が落ちていく。
部屋の外から、誰かが呼ぶ声が聞こえるけど、返事はしなかった。
夕食の時間、アルヴェインが呼ぶ声が、あった気がするけど、うずくまって押し黙った
寝る時間になって、もう一度、ノックが聞こえたけど、まっくらな部屋の中で、膝を抱えて目を閉じた。
ここから出たくない。
ここは、俺の場所じゃないのに?
閉じた扉の中で、息を潜める。
しがみつけば、捨てられないとでも思ってる?
ごめんなさい
謝れば済むの? 罰も受けてないのに?
ごめんなさい……
償える額じゃないよ?
ここに、居させてください
そんな都合のいい話、あると思ってる?
自問自答を繰り返しながら、冷たい床で眠りについた。
その夜、長い、夢を見た。
最期の時だと言わんばかりに、ティオのこれまでの人生が流れていく。
時代は、今から二十数年前にさかのぼる。
名前も正確な位置も曖昧な、地図の隅に押し込まれたような、寒い小さな集落。
ティオはその中で、いくつもある子どものうちのひとつだった。
五男か六男か、正確にはもう分からない。食卓は常に不足していて、誰かが多く食べれば、誰かが自然に減る。
食い扶持に対して、明らかに実入りが足りていなかった。
父親の顔も、もうはっきりとは覚えていない。感情を押し殺した声で、「出て行きなさい」と言われたことだけは、覚えている。
それが、まだ十歳にも満たないころだ。
寒いだけの村から離れて、少し都市部に近い屋敷に、下働きとして住まわせてもらった。
木の匂いが強い建物で、最初の仕事は皿洗いと床磨きと灰の運搬だった。怒鳴られることはあっても、まだ秩序はあった。
間違えれば叱られる、殴られる。それでも、家から追い出されることだけはなかった。
夜尿はその頃からたびたびあったが、それくらいはまだ「子どもならあるもの」として、軽く見逃される程度だった
歳を重ね、手足が伸びる頃になると、屋敷の主人一家に、たびたび夜尿症をからかわれるようになったが、それでも仕事はくれた。
問題が起こったのは、先代が死去し、二代目が家を任されるようになってからだ。
仕事が増えて、休みは減った。
家の収入がじわじわと減り、家人の小言はぐんぐんと増えた。
目が覚めて、ティオが寝具を汚すたびに、怒声と罵詈雑言が飛び込んできた。
そして、捨てられた。
二十歳をやっと過ぎたかどうかのころだ。
ほとんど処分と言っていい形で、ティオは売却された。
奴隷商人の檻へ入れられ、各地を転々とする。
それでも、仕事があるうちは、まだ真っ当に扱ってもらえた。できる限りの愛想を振りまいて、できることなら何だってやった。夜はなるべく眠らないように気を張って、寝不足の日々が何日も続いた。
やがて、力仕事が評価され、別の奴隷商人を伝って鉱夫の一員になった、仲間内の評判も良く、力仕事は大変だったけど、次第に笑えるようになってきた。
仕事があれば、居場所がある、仲間ができる。
そう思っていたのに、笑いあっていた仲間から、次第に笑みが消えた。
疲れて眠るようになったせいで、ティオの夜尿症が再発してきた。仲間だと思っていた同僚からも、「汚い」「つかえない」「近寄るな」と言葉を投げられる。
最期には、共同生活における衛生管理を理由に、また奴隷商のもとへ戻された。
次の場所は娼館だった。
愛想だけは良かったからか、裸に近い衣装で、酒やたばこを言われた場所へ運ぶ。
何が起こったか、あまり覚えていないけど、なぜか壮年の女性客に呼びつけられた。
店のほうも断ることができなかったらしく、その夜、その女性の部屋へ行くように命じられる。ふんどしは痛いくらいにぎりぎりと締め上げられ、夜の相手はしなくていいと念を押された。
このころになると、男女の情事も多少なり分かってくるものだが、「相手をしなくていい」と言われた理由も、ティオには察しがついていた。
ぼんやりと薄暗い部屋の中で、女性と二人きりになったけど、ただの仕事だと思うと、なんの気持ちも湧いてこなかった。
目を覚ましてからのことは、ぼんやりとしか覚えてない。
締め上げられたふんどしが冷たく濡れていて、肌にまとわりつく嫌な感触が伝わる。
おねしょしたと気づいたときには、叩き起こされ、床に転がされていた。
反射的に床に伏せ、こすりつけるくらい低く、頭を下げた。
その頭を、何度も蹴られた。
床に鼻をぶつけ、口の中に血の味が混じる。
ずっと頭を下げて、とんでもなく酷い言葉を、次から次へとぶつけられた。
その間、誰からも、見向きもされず。
その人が疲れて帰るまで、ずっと、ずっと、ずっと、蹴られて、なじられて、物をぶつけられて、ばかにされて、また蹴られて。
酷いことをいっぱい聞かされた気がするけど、何て言われたのか、思い出せない……
気持ち……悪い……
思い出そうとすると……
嫌な……
うえっ……
嗚咽と共に、ティオは目を覚ました。
寝室の床に、太陽の光が落ちている。日は真上に差し掛かるくらいの時間。ずっと、眠っていたらしい。
真っ赤な目をこすると、手に巻かれた包帯に気づく。
昨日はずっと泣いていたんだと思い出す。顔も口の中も、体中が、からからに乾いていた。
もう外に出す水分も無かったみたいで、おねしょもなかった。
軋む体を起こして、床から立ち上がる。
不思議と腹も減ってない。
ただ、アルヴェインに会いたかった。
殺されたって、文句は言えない。彼がそう言うなら、受け止めようと思った。
廊下を歩くと、女中の人たちが心配そうな顔を向けながらも、遠巻きにひそひそと喋っていた。
ティオは気にする余裕もなく、屋敷の主人の姿を探した。
「坊ちゃん」と声をかけられて、足を止めると、御者のおっちゃんが居た。手招きするので、一緒に庭の隅に移る。
「坊ちゃんも、肩身が狭いですな」気難しい人かと思いきや、意外と気さくに話してくれた。
「奴隷なんて、どこもこんなもんだよ」
泣きはらした顔で、声もかすれていた。
「それはご内密に。アルヴェイン様は、家族を連れてきたと申しておりましたからな」
「それも、今日までだって……いまから、謝ってくる」
乾いた目から、まだ涙が滲んできた。
「我々使用人は、雇用主の話を気軽に出来ませんでしてな。口の軽いものは、扱いも軽くなるのですな」
「そうだったんだ……」
ティオが奴隷として買われたとき、一緒にいたのは御者のおっちゃんだけ。つまり、この屋敷でティオが奴隷だと知っているのは、アルヴェインを除けば、彼だけなのだ。
だから、声をかけてくれたのか。
「この屋敷の御当主様は、昔から感情を表に出すのが苦手でしてな。怒ることも泣くことできず、決まって、いつも困った顔をなさる」
「そうだったんだ……」
「坊ちゃん。あなたの出自は存じておりますがな、御当主様は、坊ちゃんがどうなりたいのか、心底気にかけておりましたな」
「俺? どうなりたいって?」
「おっと失礼、口が滑りましたな。御当主様は先ほど、温室へ行くと申しておりましたな」
ベンチから腰を上げ、御者のおっちゃんは手を振って仕事に戻っていった。
ぼんやりとした頭で、温室へと足を向けた。
温室の扉を肩で押して開くと、アルヴェインはちょうど、じょうろを持って、プランターに水をやっているところだった。
「ティオ、良かった。傷は? とにかく、こちらへ」
ティオは当主の顔を見た瞬間、とにかく頭を下げた。
「ご、ごめんなさい……」
「分かった……いや、こちらこそ、何も言ってやれずに、悪かった」
じょうろを持って、当主が寄ってくる。
「本当に慌ててたんだ。雑草交じりの土が切り傷に入ると、腐れを生むとされる研究もある。この温室には、毒草も……」
「ごめんなさい。研究机には、近寄らないようにって……」
かさかさの口で、言葉をひねり出す。
「仕事が、欲しかったんだ」
主人はじょうろを持ち上げて、またプランターに戻る。
「……来なさい」
ティオは邪魔にならないように、背中から見守った。
「常に同量の水を、平等に与えている。それなのに、育つ草とそうでないものがある」
じょうろで水をやりながら、背中で話しかけてくる。
「しかし、昨日の君の水やりで、少し生気を取り戻した草花がある。違いは?」
口を開こうとすると、パクパクと乾いた音しかでない。
主人の仕事に口出しするなんて、いくらなんでも奴隷としてあるまじき行為だ。
「あ、その……ごめんなさい……勝手なこと、しちゃって……」
「憂慮、あるいは……」
アルヴェインが何かを言いかけて、口を閉ざした。
体を向き直し、プラチナの瞳が、まっすぐティオを捉えていた。
「ご、ごめんなさ……」
反射的に、謝罪の言葉が口をついて出てしまう。
怒ってない……みたいだけど……
聞きたいの? 俺の話でいいの?
主人に意見するなんて、怒らせたらどうなる? 殴られるだけで済めばいいけど……
「いや、怖がらせるつもりは……」
目の前の顔が、何度も瞬いて、いつもの困った表情に戻る。
いつもの沈黙、決まって彼が先に口を開く。
だから、ティオが先に声を上げた。
「土が、ちゃんと、乾いてない」
震えた声で、生まれて初めて、自分の主人に向かって意見を出した
喉の奥が狭くなって、呼吸が荒くなる。視界に涙が広がる。。
「ティオ……」
くりくりした目が、瞬いて、優しくほころばせる。
意見を言うくらい、アルヴェインなら、怒らないと思う。
でも、だめだ。
怖くて、涙が止まらない。
だって、今までずっと、何十年間も、それが許されない場所に居たんだ。
「はっ、花は、枯れない……す、すこしくらい、水が無くても……」
喉がカラカラに乾いて、口がヒューヒュー鳴る。
体が、「もう喋るな」と言っている「口答えするな」「なんのつもりだ」「いつ、お前の意見を聞いたんだ」
怖くて、言葉が出ない。
でも、仕事がほしい。
この温室で、僕の、仕事……仕事がほしいんだ。
「草がっ生えるんだ。ここより、もっと、北の……ところ、寒い。何もない。太陽もない」
涙混じりに、沈黙を破った。
主人の話も聞かず、一方的にまくし立てる。
もう、奴隷失格だ。
「土は枯れてて、水も無くて、風も強い、寒さだって……それでも、生えるんだ」
すっかり枯れきったと思った目じりから、まだ涙があふれ出てくる。
カラカラの喉から、嗚咽と鼻水が混じった震え声を絞り出す。
「草は、花は……お前が、お前が思ってるより、ずっと強いんだ」
俺、どうなりたい?
家族とか、奴隷とか、俺、正直どうでもいいや。
ここで……仕事がしたい。
視界が涙で滲んで、頭がガンガンと痛い。
最期に、呟くように、言葉を付け足した。
「仕事がしたい……お前のために、役に立つ仕事をしたいんだ。奴隷でも……いいから……」
頭痛で倒れそうになったところを、抱きかかえられた。
ガランと水の入ったブリキのじょうろが落ちる音がした。
抱き寄せられたアルヴェインの胸元、上質な綿のシャツに、甘い石鹸の匂い。鼻水をすする音。それから、涙が混じった声が聞こえる。
「その手では、無理だな」
アルヴェインが、感情を押し殺した声で言った。
「まずは、手の傷を治せ。それまで、温室は出入り禁止だ。傷口に毒が入る」
「絶対に、近づかない」
寄りかかりながら、二人で地面に座り込む。
頭を抱き寄せられて、当主のシャツに顔をうずめながら、ティオは返事した。頭がガンガン鳴って、耳鳴りもするけど、居心地が良かった。
「そして、花の名前を全部覚えてもらう。どの草にどれだけの水が要るか、記録できるように」
「覚える。全部、覚えるから……」
「水やりの時刻は、いつがいい?」
「朝。夜露を見て、土の乾き具合が分かるから」
「それは困ったな。午前のうちは、事務仕事で手が離せない」
アルヴェインの声が、小さく笑っているのが分かる。
くしゃくしゃと、柔らかい指で、頭を撫でられた。
「えへへ……」
甘えるように、彼の胸に顔をこすりつける。
「ティオ。その手が治ったら、君に仕事を、頼みたい」
「もちろん」
弾む声で返事をする。図鑑で見た、あの橙の花のように、鮮やかで心地よい声が響く。
「弁償するよ、フラスコのぶん」
「ティオだと、一生分の賃金がかかるぞ?」
「一生、ここで働けばいい? アルヴェイン?」
乾いた笑いを乗せて、アルヴェインが抱き寄せてくれる。
温室には、昨日よりもすこし、花が増えていた。
それから、ふたりで温かい夕食を食べた。
アルヴェインのポケットから、小さな包み菓子がでてきたので、問いただしてみると、御者のおっちゃんからもらったそうだ。
そこで、「ティオにとっては、仕事が居場所なんだ」という話を聞かされたそうだ。
ティオも、中庭で喋ったことを白状すると、「昔から、彼には頭が上がらないな……」と苦笑を漏らしていた。
手に包帯が巻かれているので、お湯で体を拭くのはアルヴェインにやってもらった。相変わらずの子ども扱いで、気恥ずかしいが、泣きはらした顔をぬぐってもらって、ちょっとすっきりした。
いつものように紙おむつを付けて、ベッドに座る。
背中から抱き寄せるように、アルヴェインが座り、おむつ一丁の膝の上に図鑑を広げてくれた。
いつもより、饒舌な読み聞かせが始まり、ティオもこれでもかと質問攻めにした。
砂時計が落ち切ると、「眠くないか?」と主人が言う。「ぜんぜん」と答える。
「昨日はできなかったから」といって、砂時計をもう一度戻し、また図鑑を読み上げてくれた。
おやすみを言い合って、布団に沈み込む。
頬に一滴だけ、温かい涙が流れた。