その事件は生命学派の生徒によって起こされた。
こう語ると、うちの生徒がヘマをしたみたいになるから言い方を変えよう。
セレスが勝手に巻き込まれたんだ。
うちのせいではない。
だが、結果的に俺が迷惑をこうむっている。
なんで俺がこんな目に……
「ねぇ……」
「はい、なんですか?ディートリヒ先生」
手元の本から視線を上げて俺を見つめる少年……
生命学派の生徒が作った『若返りの薬』を浴びたシエル・セレス……5歳。
「はぁ……調子狂う……」
俺の呟きに首を傾げると、何事も無かったかのように本へと視線を戻す。
俺の知るシエル・セレスは、誰彼構わず愛想を振りまく、割と陽気な性格をしていたはずだが……
ソファーに座り生命学派の見聞録に目を落としているセレスは、ふてぶてしい表情をしている。
お前誰だよ……
そう思っても仕方ないだろ。
この姿になってから、セレスは一度も笑っていない。
普段は何もなくてもヘラヘラしているのに……
5歳のセレスの口角は一度も上がらない。
それが物凄く気持ち悪かった。
「あのさ、俺今から授業なんだけど……」
「そうですか。いってらっしゃい」
「君、一人で居られるの?」
「あなた、先ほど僕に説明してくれましたよね?僕は元々ここの教師だと」
5歳のセレスは『僕』なんて言うんだ……
「それなら、なんとかなりますよ。あなたが授業の間に元に戻れるかもしれないですし」
俺の返事なんて興味ないと言わんばかりに、自分が話し終えるとまた本へ視線を戻す。
ふーん……可愛げのない子供……
ま、本人がそう言うのなら放っておいてもいいか……
はぁ……なんで俺がこんな面倒事に巻き込まれなきゃいけないんだよ。
急に腹が立ってきた俺は……
「あっそ」
短く返事をすると教材を手に部屋を出たのだった。
その後も、授業が終わる度に部屋に戻っても、セレスはその場所を動いた形跡もなく、ずっと本に目を落としている。
ジッと本を読み込んでいるセレスは、途中から俺が戻ってきたことにも興味を示さなくなった。
そもそも、生命学派の本なんて5歳の子供が理解できるわけがない。
「おい」
「はい」
「食事は?」
「え……」
そんなに驚くような質問をしたつもりはない。
なのに、セレスの目は零れ落ちそうなくらい見開いている。
「何?」
「もう……そんな時間ですか?」
その言葉は元のセレスのような口調で…
変わらない口調にも、あの動かなかった表情がやっと動いた事にも……
何故か俺は少しだけホッとした。
…って、なんで俺が安心なんてするんだ。
理由(わけ)がわからない。
「君、子供の頃からそうなんだね」
「はい?」
「食事も忘れて夢中になる」
幼くなって大きくなった瞳がゆらゆら揺れて、ようやく手元の本を閉じた。
「大人の僕もこの癖が直っていないんですか?」
「ああ。酷いときは2~3日も食事をとらない」
「そうなんですね……」
「俺は君とは違うから毎日欠かさずとるけど……君はどうする?」
「あの……」
「なんてね」
「え?」
「帰るよ。君は俺のところで預かる事になってるんだ。今の君を一人で帰すわけにはいかないからね。だから、食事ももう決まってる。ほら、早く帰るよ」
「あ…はいっ!」
本棚に本を戻そうと立ち上がる。
セレスに渡した本は本棚の上段に置かれているもの。
「その本はそこの机に置いていくといい」
「でも……」
「明日も読むんだろ?」
「……僕は、明日もこのままなんでしょうか……」
「最低でも2~3日はかかると言っていた」
「そう…ですか……」
机にそっと本を置くと、その本に一瞬だけ少し悲しげな視線を落とした。
「お待たせしました」
再び上げた顔は無表情で俺へと駆け寄ってくる。
かまう気なんてなかったのに…
何故か、あの視線が妙に気なった。
[newpage]
食事の準備の手伝いもしなくていいと言ったのに、セレスは食器の用意や飲み物の準備を勝手にした。
5歳の子供にしてはしっかりとし過ぎている様子に、元のセレスの間の抜けた雰囲気が作られたものだったのではないかと疑問が浮かんで、すぐに改めた。
俺の知るシエル・セレスはそんな器用な真似は出来ない。
悪く言えば単純でよく言えば素直で真っすぐな男だ。
演技なんてしようものならすぐにバレるに決まってる。
だから余計に、この妙に子供にしては何でも出来る5歳児がセレスとは思えないんだ。
君は……何者なんだ?
浮かぶ疑問は一つではなく……
5歳の子供が……本当にこんなになんでも出来るものなのか……?
俺は天才だから子供の頃も手はかからなかっただろうけど……
本来、子供というものは、もう少し大人の手を借りるもののはず……
じっくりとセレスを観察してみると、一つ一つの動作に気を遣っているのが分かる。
それは失敗をしないように気を付けているような……
俺が飲み物のおかわりを淹れてやろうとすると、自分でやると言って俺にはさせない。
手がかからないのはいい事だ。
そう思っていたけど……
これは……
事件から半日。
ここに来て初めて、セレスが俺の手を借りる事に何かしらの抵抗か拒絶をしていることに気が付いた。
そっちがその気なら俺も手は出さない。
大体、俺はセレスの面倒を押し付けられて迷惑だったんだ。
自分でやると言うのなら勝手にやればいい。
きっと普段の俺ならそんな風に思っていたはず……
なのに今回は……放ってはおけなかった。
「お風呂、行くよ」
「え……僕は一人で……」
後片付けも終えて、セレスの頭がソファーで船を漕いでいるのが見えた。
時間的にも子供は限界だ。
だから声を掛けたのに、セレスはやはり拒否をした。
「それはダメだ」
少しだけ強い口調で言えば、諦めたように大人しく俺の方へ寄ってくる。
聞き分けはいい。
駄々はこねない。
これもこの半日で学んだ。
「お風呂は子供一人だと危険だ。嫌かもしれないけれど我慢して」
「……やじゃ…ありません…」
「あ?」
「嫌じゃ…ありません……。ありがとうございます」
それは、子供になったセレスの口から初めて聞いた言葉だった。
元のセレスは、すぐに礼や挨拶を言うのに対して、子供になってからセレスは、元のセレスよりも妙にしっかりしている割には、礼や挨拶はほとんど口にしなかった。
それがどういう意思表示なのか俺には理解できなかったし、するつもりもないけれど……
セレスの『ありがとう』にこんなに胸が熱くなるなんて……
多分、今日の俺はどうかしているんだ……
そう思う事にした。
理由は分からないが、この俺が……
子供のセレスの影に元のセレスが垣間見える度に安堵しているのだから。
お風呂から出ると、俺のシャツ一枚ですっぽり覆われてしまうセレスの手が出るように袖を曲げてやった。
学院では、学院長が急遽用意した子供用の服を着せられていたが替えまでは用意がなく、明日には替えも用意すると言っていたけど、今夜はこうするしかなかった。
「子供用の服がないんだ」
「でしょうね。大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
「寒くはない?」
「今はまだ温かいです」
「そうか。じゃあ、湯冷めしないうちにベッドに入るといい」
俺の言葉に呆然と立ち尽くすセレス。
「何?」
「あの……僕がベッドで眠ってもいいんですか?」
「は?」
一体この子供は、俺をなんだと思っているのか……
まさか、子供をソファーに寝かせるような大人だと思われているのだろうか。
元のセレスなら、確かにそんな風に俺の事を思っていても仕方がないと思うけど……
「あ……いえ、お気を悪くしたのならすみませんでした。えっと……」
言葉を探る思考を巡らせているのか、少し俯き加減の顔は真剣で、顎に手を添えて眉根を寄せている。
へぇ……
考える時の仕草も子供の頃から変わらないのか……
「急に押し付けられて……ディートリヒ先生にとって僕は邪魔者ですよね?」
「それで?」
「え……」
また思考を巡らせている仕草。
何が言いたいのかは大体分かっている。
だけど……もう少しだけこのセレスを見ていたかった。
「ここに連れてきていただいただけで十分なんです。これ以上ご迷惑をかけるわけには……」
「ふーん」
それ以上の返事をせずに暫く見つめていると、視線と続く沈黙に耐えられなかったのか、セレスの方が言葉を発した。
「あの……ディートリヒ先生は僕の事がお嫌いだと聞きました」
「は?」
いつの間に?
一体誰に?
「ですから……これ以上のご迷惑は……きっと大人の僕も喜ばない…はずです」
「ねぇ、それ誰に聞いたの?」
「はい?」
「俺が君を嫌いだと」
「えっと……先生のお弟子さんでしょうか……少し強面の……」
「クロヴィスか」
「名前は聞きませんでしたが……。これ以上先生に迷惑をかけるなと……」
そんなことを言いそうなのはクロヴィスしか浮かばない。
はっ!そういう事か……
俺に迷惑をかけないように、なんでも自分でやろうとしていたのは、頼る者のいない子供が、唯一頼れる者に見捨てられないようにと働く思考からだ。
これは……
一番子供らしい思考じゃないか。
気が付かなかった……
「あ、あの!大丈夫ですから……。僕はどこでも眠れます……だから……」
「もういいよ」
服の裾をぎゅっと握った小さい手は心なしか震えていた。
そんなに俺に見捨てられるのが怖いのか……
セレスのくせに……可愛いところがあるじゃん……
「確かに、君を押し付けられたのは面倒だけどさ。だからって子供を放り出すほど、俺は酷い大人じゃない」
らしくないのは分かっている。
だけど、気が付いたら手がセレスの頭に触れていた。
その小さな頭を2~3度往復するように撫でれば、セレスが気持ちよさそうな顔をした。
こんな顔が出来るんだ……
動物が懐いた人に見せるようなうっとりとして安心した表情。
そして、お風呂の前に船を漕いでいたのを思い出したかのように蕩ける瞳。
「ほら、ベッドで寝るんだ」
「はい……ディートリヒ先生は……一緒に眠ってくれないのですか?」
「ふっ……。安心したら急に甘えん坊か?」
「いえ……そうじゃなくて……先生のベッドを取ってしまうから……」
「あはは。いらない心配だね。明日の準備をしたら……いや、やっぱり一緒に行こうか」
セレスの小さい手を握ってやる。
「ディートリヒ先生、ありがとうございます」
それは、大人のセレスの言葉に似た柔らかな口調だった。
いつもより早く布団に入ったことで夜中に目が覚めて思い出す。
普段一人で眠るベッドにもう一人の存在。
その小さな存在が、身じろいで譫言のように呟く。
最初は聞き取れなかったのに徐々にはっきりとしてくる言葉。
「……ディ……リヒ……わ……は……」
俺の名前?
『ディートリヒ、私は』か?
元のセレスの言葉と取るのが妥当だろうな。
何が言いたいんだ……
それに…なんでこんなに苦しんでいる……?
小さな体は強張って硬直しているのが確認でき、頭に触れてやると落ち着いたように力が抜け、大きな呼吸を感じた。
急激に変化した事によって何かしらの影響が出ているのかもしれない。
明日、件の生徒に話を聞いてみるか……
そして俺は無意識にその小さな体を抱きしめて再び眠った。
[newpage]
昨日同様、今日も俺が授業の間は部屋でセレスを待たせている。
そんなセレスの様子は、今朝は眠い目を擦りながら舌っ足らずな口調で挨拶をしたり、朝食時も変わらず手伝いはするが、俺が紅茶を差し出せば嫌がらずにカップを出して、甘えるという姿を見せていた。
学院に着いても俺のローブの裾を握って付いてくる。
懐いたペットみたいだ……
なんてことが浮かんだ。
さて、俺は…というと、授業の合間を使って件の生徒に薬の作用について話を聞くことにした。
クロヴィス程ではないが優秀な分類に入る彼女は、生命学派の知識を使って不老の研究をしている。
試作の薬を誤って落としてしまったところにセレスが通りかかった……というのが今回の一連の流れだ。
やっぱり、あいつのタイミングが悪いのが原因だね。
いや、そうじゃなくて……
「ディートリヒ先生、お話って……セレス先生の事ですよね?」
「ああ、そうだ。君の薬って副作用か何かがあるの?」
「副作用……。まだ試作段階で人に使った場合どんな副作用が出るかは分からないのですが……動物での実験では副作用という副作用はありませんでした」
「そうなんだ……」
「何か気になることでもありましたか?」
「ああ、君の薬で肉体的にも精神的にも5歳児になっているわけだが……昨晩、酷くうなされていてね。その時に一瞬、元のセレスが現れたような気がして……ってどうかしたの?」
「それ、おかしいです」
「何が?」
「私の薬は肉体面の老化を抑える薬です。精神まで作用するなんて……ありえない」
「は?だけど、セレスは今……はっ!まさか!」
考えられる可能性は一つ。
セレスが子供を演じている。
だけど、何のために……
なんにせよ……俺を騙すなんていい度胸じゃないかセレス。
その場を飛び出した俺は自室へと急いだ。
後方で件の生徒が何か言っていたが今はそんなことはどうでもいい。
どういうことか説明してもらおうじゃないか……
乱暴に開く扉の音に驚いたのかセレスはその肩を大きく震わせた。
本から顔を上げたセレスは大きな瞳を輝かせてこちらを見る。
もう騙されないぞ。
近づきその瞳を覗き込めば、輝いていた瞳が不安げに揺れて徐々に恐怖へと変わっていった。
「おい、一体どういうつもりだ?セレス」
なんで何も言わない。
「君……中身は幼児化してないんだってね……。本当、騙されたよ。いつからそんなに演技がうまくなったのか知らないけど……やってくれるじゃないか」
言葉を発さない代わりに大きく見開いた瞳が語る。
俺にバレた事がそんなに驚くことなのか……
腹が立つ。
怒りに震える手で襟を掴み上げると、悲鳴のような声が小さく漏れた。
「なんとか言えよ、セレス」
「…な…なんのことでしょうか……」
「は?」
「その……僕は……本当に……」
「いい加減にするんだね!件の生徒が言っていた。あの薬は肉体的な老化を抑える薬だと。だから精神に影響はない。俺を騙して楽しかったか?シエル・セレス!!!」
俺の声にビクンと大きく跳ねる肩と、大きな瞳から溢れる涙。
俺の知るセレスはこんなにも完璧な演技が出来る男じゃないはずだった。
だけど今は、こんな演技なんて簡単だと言わんばかりに泣いて見せるんだ。
何故か胸が痛む……
その理由が分からない。
「ほ……本当に……」
譫言のように繰り返す言葉。
いつものように『ディートリヒ、引っ掛かりましたね!』って笑ってくれればここまで腹は立たなかっただろうに……
「もういい。出て行け……」
首を離すと小さく咳をしてゆっくりと立ち上がる。
「ディートリヒ先生、本……ありがとうございました……。生命学派は魅力に溢れていますね。僕は何故……実用学派を選んだのでしょうか……」
「は?」
「お世話に……なりました」
静かに扉の方へ向かっていく。
扉の前で一礼をし、扉が開いて閉まるまでの動作がまるで、スローモーションを見ているかのように目に焼き付いた。
なんでこんなに後悔をしているんだ俺は……
ソファーに置かれた本に手を伸ばす。
これはまだ俺達が生命学派も実用学派も分かれていない頃に共に読んだ本……
大人のセレスはこの本を知っているはずだ。
あんなに熱心に読み込んでいた理由はなんなんだ……
君が実用学派を選んだ理由なんて俺に分かるわけが……
突然響くノックの音に思考を遮られて扉を睨む。
「誰?今は忙しいんだけど?」
「先生、先ほどの件でお話が!」
今回の事件の生徒か……
今更何の話が……
扉を開けると、いきなり頭を下げた。
「な、何?」
「ごめんなさい先生……私の失敗です……」
「は?」
「精神への影響が……あります。少量ではあまり影響はないものの、セレス先生は今回大量に浴びてしまっていますから……おそらく肉体と一緒に精神も幼児化している可能性が高いです」
「な……なんだって……」
数分前に追い出してしまったセレスの背中がフラッシュバックする。
「確認が遅くなってしまってすみませんでした」
生徒の言葉よりも、セレスの行方が気になって仕方がない。
「ねぇ君、ここに来るまでにセレスは見なかった?」
「セレス先生……ですか?見てないですね……」
「そうか……わかった。もういいよ」
「あの……」
「聞こえなかった?もういいと言ったんだけど」
「は、はい!」
生徒が部屋を出ていくのと同時に俺も飛び出す。
子供相手に俺はなんてことを……
セレスの行きそうな所はなんとなく分かる。
今でこそこんな関係だが……
昔はそうじゃなかった……
少なくとも学派が分かれるまでは……
とりあえず図書室を覗く。
セレスが昔からよく入り浸っていた場所だ。
ここで本を読んでいてもおかしくはない。
だが結局……図書室では見つからなかった。
じゃあ、子供の足で行けるところは他にどこがある……
学院は迷路だ。
今のセレスがまともに行ける場所なんて……
そんな事を考えながら、ただ何となく足を向けた場所は学院の裏庭だった。
そこにあるベンチで昔はセレスとよく語り合ったものだ。
俺には昔から目標があった。
学院に入って新たな事に気が付いても、最終的な目標が揺らぐ事はなかった。
増えた知識は活用すればいい。
そう思って俺はやってきた。
あの頃のセレスは違うようで、色んな事に幅広く興味を持ち、そのどれにでもキラキラと目を輝かせていた。
その中でも、俺と語る生命学派についての話を、あいつはいつも素晴らしいと言っていたんだ。
だから俺はあの時……
セレスは生命学派を……
「……ディ……ヒ…………」
セレスの声?
どこだ?
まさか……
足早に向かう懐かしのベンチ。
その上で、うずくまるように眠り、魘されているセレスを見つけた。
「セレス!!!」
腕の中に収めれば、昨夜のように落ち着いた呼吸を取り戻す。
そのまま軽々と持ち上がる体は、まだ子供のままだ。
少しぐったりしているセレスの事情を話し、学院長の許可を取った俺はセレスを連れ帰ることにした。
今はこれが必要な事だと思った。
ただ、それだけで他意はない……
セレスをベッドへ寝かせ汗の滲む額に触れれば、うっすらと瞼が開いた。
「ディートリヒ……先生……?」
急に起き上がろうとする体を抑える。
「もう少し眠っていればいい」
「で…でも……」
「セレス、すまなかった」
「僕は……ここにいてもいいんですか?」
昨日の今日だ。
今日の出来事はきっと不安にさせたに違いない。
セレスの小さな頭に触れれば、安心しきった表情に変わる。
「今の君はここ以外いられる場所はないだろ?それとも、俺の傍は怖い?」
首を左右に大きく振りその瞳を輝かせた。
「ディートリヒ先生と一緒がいいです」
「じゃあ、元に戻るまでここにいればいい」
「戻ったら……ディートリヒ先生はまた僕を嫌いになりますか?」
「………さぁね。その時考えるよ」
「僕は……ディートリヒ先生が好きですよ……」
「何、言ってるのさ。普段は人の顔を見れば小言ばかりを言うくせに」
「あなただって嫌味ばかりじゃないですか……あ…れ…?」
薬の効果は徐々に薄れていくんだろう。
このセレスの記憶は、元のセレスに引き継がれるのだろうか……
自分の発した言葉に戸惑っているのか、大きな瞳から涙が流れ始めた。
「あれ……僕…どうしちゃったんだろ……」
初めて聞く子供らしい口調でゴシゴシと目を擦る。
「止まらない……です……」
「無理して大人のセレスっぽくしなくていい。泣きたいときは泣けば?」
「違っ……違うんです……僕、泣きたいわけじゃ……」
ボロボロと溢れる涙はもしかしたら元のセレスの気持ちなのかもしれない。
あー…
やっぱり調子が狂う。
「あまり擦るな。……元に戻ったら借りを返してもらうから」
「え……?」
ローブを脱ぐと、ベッドに入って小さなセレスを腕の中に収めた。
「ディートリヒ先生にまたご迷惑をかけてしまいましたね」
「別に」
涙が止まったのか落ち着いた声で話すセレスからは子供らしさがまた消えていた。
「先生……ご迷惑ついでに、お願いをしてもいいですか?」
「何?」
「僕に、生命学派の事を教えてください……」
「君、元に戻ったら実用学派の教師なんだけど」
「きっと、大人の僕はあなたにこんなお願いできないでしょうから……」
「元の君は、生命学派に興味なんてないさ」
「そう……でしょうか……」
「そうだよ」
俺との話なんて覚えてもいないだろうさ。
「そうですか……」
残念そうな声が妙に胸に刺さる。
「そんなに気になるなら……明日から俺の授業に付いてくる?」
「いいんですか!?」
胸から顔を上げたキラキラとした視線に、心が締め付けられるのは……
やっぱり調子が狂ってるからだ……
「俺の授業は君じゃ理解できないだろうけどね」
「ありがとうございます」
「元の君にも……それくらいの気持ちがあれば良かったのに……」
思わずもれた言葉が自分らしくなくて気持ち悪い。
「文句は元の僕に言ってくださいね。きっとそれは元の僕じゃないと理解できないですから……」
「元の君ねぇ……。戻ったら会話もしないだろうさ」
くすくすと元のセレスのような笑みを浮かべる。
子供のセレスがこんなに笑うのを初めて見た。
その夜は魘される事もなく、翌日から本当にセレスは俺の後ろを着いて歩くようになった。
[newpage]
最初は戸惑っていた生徒達も、小さくなったセレスだと理解するとあっという間に溶け込み、セレスの方は、授業中に生徒も気が付かないような事で質問までするようにまで成長した。
そんな、セレスが小さくなってそろそろ5日になろうとしている。
ここまで来ると、当事者の生徒は何か別の作用で戻らないのではないかと言い出した。
別の作用ね……
俺の部屋で俺の授業の復習をするセレスを横目で見る。
セレスはこの数日で俺の部屋にある生命学派の本を読み尽くしていて、授業についても簡単なものについては問題なく理解をしている。
何が君をその姿に止めているのか……
このまま成長すれば、クロヴィスに匹敵する……
いや、それ以上の存在になるだろうな……って、俺は何を考えているんだ。
そんな事があったら、実用学派が大変な事になる
それは元のセレスが一番望まない事だ……
は?なんで俺があっちの心配まで!
「……先生?」
「はっ!な、何?」
「お昼の時間ですよ?」
「君に言われなくても分かってるよ!」
急ぎ席を立てば、また元のセレスのような笑みを浮かべて付いてくる。
ローブの裾を引かれることに慣れた自分にも驚きだが……
歩調までも無意識に合わせられるようになるなんて……
一体いつまでこれは続くんだろうか……
「先生、これで以上です」
「ああ」
採集を頼んだクロヴィスが戻ってきて素材を置いた。
部屋をぐるりと見渡して小さく息を吐く。
「どうした、君らしくない」
「今日は……セレスは居ないんですね」
「ああ、実験室に連れてくるのは危険だろ」
「随分と先生に懐いている様ですが……いつまで面倒を見るおつもりですか?」
「戻らないんだから仕方ないだろ。何?ヤキモチでも妬いてるの?」
軽い冗談だった。
「そうですね。セレスはいつでもあなたの隣に居ますから」
「あ?」
「大人でも、子供でも……あなたの隣にはいつも居ます」
「何言ってるの?大人のあいつは俺の隣になんか……」
セレスがいつも隣に居るなんてあり得ない。
あいつは俺と同じ道には来なかった。
そうだ……
セレスが来なかったんだ……
「先生は気が付いていないだけですよ」
気が付いていないのはセレスの方だ。
俺から逃げたのはセレスだ。
俺じゃない。
「煩い。君に関係ないだろ。無駄口を叩きに来たなら出ていけ。邪魔だ」
「分かりました。では、失礼します」
「え……」
「今の先生には何を言っても伝わらないでしょうから」
「君、誰に言っているのか分かってるの?」
「ええ」
部屋を出ていくクロヴィスが振り返る。
「何?」
「俺には……先生が今のセレスを離したくないとしているように見えます」
「は?」
「余計なことを言いました。失礼します」
静かに部屋を出ていくクロヴィス。
何なんだ、一体。
クロヴィスがあんなことを言い出すなんて……
大体、俺がセレスを離したくないなんて馬鹿馬鹿しい。
セレスが勝手に懐いているだけだ。
飛び込んだ自室で最初に目に入ったのはソファーで横たわるセレスの姿だった。
しまった……
急ぎ近付けば聞こえるのは規則正しい寝息。
眠っているだけか……
その穏やかな寝顔に酷く安堵した。
募る苛々を振り払うように研究に没頭すればあっという間に時は過ぎる。
俺が時間に気が付いたのはたまたまだった。
まさかそんなに時間が経っていたなんて…
こんなところで大人しく待っていなくても良かっただろ……
「本当に君は……君のそういうところが俺は嫌いだよ……セレス」
待っていろと言ったのは俺だ。
だからってこんな時間まで待たなくても、君に実験室の場所は教えてあったはずだよ……
なんで……追ってこないんだ……
「ごめん……なさい……」
「え?」
「ディート…リヒ……すみ…ません…でした……」
しっかりと閉じた瞼。
寝言のように紡がれたのは元のセレスの言葉。
遠い昔……
まだ、生命学派も実用学派も分かれていなかった頃……
俺達はもう少しマシな関係だったと思う。
色々な事に興味を示すセレスは、本という本を読んではその素晴らしさを雄弁に語った。
他の話が通じないサルと話すよりは、セレスなりの見解や意見を聞いている方が有意義だった俺は、ちょっとした暇潰しに話くらいは聞いてやっていた。
とは言っても、結局は俺の見解の方が正しくて……
「流石、ディートリヒですね!」
と、最後はセレスが目を輝かせて話が終えるんだ。
その正直で真っ直ぐな瞳は、他のサル達の言う世辞の様な言葉とは違って、心から凄いと思っていると俺に伝えていた。
俺がどんなに酷い言い方をしてもセレスの瞳は揺らぐ事はなかった。
だから、生命学派の見聞録を読んだセレスの自然にもれた言葉を……
俺が勝手に信じたんだ……
『学派の選択…生命学派も…興味深いですね……』
[newpage]
連れ帰ったセレスをベッドに寝かせてもその目が開くことはなかった。
あの発言を最後に言葉も発していない。
食事の準備を終えて声をかけても目は覚めなかった。
そんなに疲れるような事があっただろうか……
その小さな体を軽く揺すると小さく唸って、ようやくその瞼が上がった。
「ディートリヒ…先生……?研究は終わったのですか?」
開ききらない目を擦りながら呟く姿は本当に間抜けで……
「いつまで寝てるのさ。食事にするよ」
もう何度目か分からない安堵を誤魔化すように、セレスの体を起こした。
食事が始まればいつもと変わらないセレスは、手伝いをしなかったことに酷く落ち込んでいた。
「君の手伝いなんていらないって言ったはずだけど」
「ですが、お世話になっている身で何もしないのは……」
「だから、この借りは元の君に返してもら……」
元のセレスが戻って来なかったら……
このセレスはここにずっと居るんだろうか……
毎日、俺の後ろを付いて歩いて、いずれは生命学派の未来(さき)をクロヴィスと共に……
「……せい?ディートリヒ先生!」
「あ……」
「どうかされましたか?」
「いや、何でもない」
「ふふふ。可笑しなディートリヒ先生」
今俺はとんでもないことを考えていたんじゃないか……
そもそも、セレスが生命学派を選び続けるなんてあり得ない。
このセレスもいずれは色々な事に興味を持って……
俺の教えが無駄になる……?
「そんな事は……許さない……」
無意識に小さく漏れた言葉をセレスは聞き逃さなかった。
「先生?やっぱり何かありましたか?」
弧を描いていた目が不安の色を示してこちらをジッと見つめる。
「君は……これからも生命学派を学びたいと思う?」
「そう…ですね……。だけど、元の僕は実用学派の先生なんですよね?」
「元の君も昔は……生命学派に興味を持っていたよ。まぁ、それと同じくらい他の事にも興味を示していたけど……」
「それは何となく分かる気がします」
「……結果的に君は実用学派を選んだ」
「先生は……そんな大人の僕が許せない……ですか?」
「違うよ」
「本当に?」
子供の癖に見透かした様な目で俺を見つめると、酷く冷めたような口調で呟いた。
「約束でもしたんですか?」
約束……
約束が出来るような間柄だったらもう少しマシな結果になっていただろうね……
甦る遠い記憶。
数々の会話。
『この見聞録には興味深い事が沢山載っていますね!』
だろ?だけど、俺ならもっと凄いことが出来るさ。
『ディートリヒの見解はそうですか……なるほど……流石ですね、私じゃまだそこまで到達しなかったです』
君が俺に敵う事なんて無いだろ
『ディートリヒと生命学派の研究ですか?ふふふ、それも面白いかもしれないですね』
ふん。仕方ないから手伝いをさせてあげるって言ってるんだよ
セレス……何で君は実用学派を選んだんだ?
『生命学派にはあなたが居るからですよ』
俺が居るから……
セレスは俺を理由に生命学派を選ばなかった……
セレスが……俺から逃げた……
「約束なんてするような間柄じゃ無いだろ?」
「え……」
「俺と君はそんな普通の友達の様な間柄じゃないって言ってるんだ」
「では……モリス・ディートリヒ先生にとって……僕はどんな存在なんですか?」
子供の癖に真面目な顔をして問う。
こんな事に時間を割くなんて無駄だ。
そう言えばこの子供はきっとそれ以上踏み込んでくることはない。
だけど、これは必要な事なのだと俺の中の何かが告げていた。
俺にとっての……シエル・セレスは……
気に入らないのならかまわなければいい。
冒険で怪我をしようが、死のうが…俺には関係のない話だったはずだ。
今もそうじゃないか……
実用学派なんて生命学派の足元にも及ばないんだ……
それなのに、セレスの研究を確認せずにはいられない。
無言で俺を見つめる今のセレスの瞳が、昔見たセレスの瞳と重なる。
この件だって俺が面倒を見続ける必要はないんだ……
他の教師にさっさと任せてしまえば良かっただけの事……
それをしなかったのは……
『俺には……先生が今のセレスを離したくないとしているように見えます』
ああ、そうだよ……
クロヴィス、君の言う通りだ……
『ディートリヒ……生命学派であなたはきっと素晴らしい功績を残します。だから私は……』
あっそ。もういいよ。
あの日の記憶とセレスの言葉から逃げたのは俺……
生命学派のシエル・セレスという可能性を捨てられなかったのも俺……
本当は俺の方が……いつもセレスを離せない。
ジッと俺を見る大きな瞳。
子供の君は……可愛げがあって、飲み込みも早い。
頭の回転の早さに俺が驚かされるなんてね……
とても有意義だったよ。
だけど、それも終わりにしようか……
君をその姿に止めている要素が俺にあるのならもう十分だ。
「俺にとってのシエル・セレス、それについては元の君に話すよ」
「そうですか……」
「さ、もう今日は遅い。お風呂に入って寝ようか」
「はい!」
その返事は今までで一番明るく元気のいい、俺のよく知るセレスの返事だった。
「先生、わがままを言ってもいいですか?」
「何?」
「今日は、最初の日みたいに先生の服を着たいです」
約束通り翌日には揃っていた子供服。
あれから夜はちゃんと子供用のパジャマを着せていた。
「仕方ないね」
一度着たパジャマから俺のシャツへの着替えを手伝ってあげる。
最初の晩の様に袖を曲げてやれば、ワンピースのように俺のシャツを着たセレスは嬉しそうにクルリと一回転して笑った。
なんとなく、もうこの生活は終わるんだと……
互いに理解をしていた。
ベッドに入ると珍しくセレスがすり寄ってくる。
「今日はやけに甘えるね」
「ディートリヒ先生」
「ん?」
大きな瞳が俺を見上げる。
「いつか……僕と肩を並べて一緒に研究をしてくれますか?」
「……気が向いたらね」
「ふふふ」
「仕方がないから……気が向いたら一緒に研究をするって約束してあげるよ」
「約束……ですか?」
「ああ、約束だ」
「ありがとうございます」
満面の笑みを浮かべると、自分の位置へと離れていく体。
その体を抱き寄せると大きな瞳を更に大きく見開いて、大人しく俺の胸に顔を埋めた。
「おやすみなさい、ディートリヒ先生」
「おやすみ……シエル」
きっと、目が覚めたら元の君は驚くだろう。
そしたら、何て言ってやろうか……
セレスの頭に顔を埋めて俺も瞼を閉じた。
[newpage]
陽の光に目が覚めると、元に戻ったセレスが腕の中でまだ眠っていた。
やっぱり戻ったんだね。
長い髪をすくように撫でて目覚めを待つ。
ゆっくりと開いた細く美しい瞳が俺をとらえて大きく見開いた。
「ディート……リヒ?」
「おはよう、セレス」
「おはようございます、ディートリヒ」
どんな状況でも挨拶は欠かさない。
ああ、俺の知るシエル・セレスだ。
自然に緩む口元を誤魔化せず笑みが漏れる。
「あの……」
「聞きたいことは色々あるだろうけど……とりあえずは、おかえり」
一瞬何かを考えるように瞳を動かすといつもの笑みを浮かべた。
「ただいま……でいいんでしょうか?」
その言葉を紡ぐ唇にそっと口付けを落とす。
「……っ!」
突然の事に息を飲んだセレスの頭に触れれば、顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「文句は後だ。君には約一週間分の仕事が貯まっているよ」
「は……い?それ、どういう事ですか!?」
「さ、食事にして……いつもの日常に戻ろうか、セレス」
「ちょ……ちょっと待ってください!ディートリヒ!!」
先にベッドを出れば追いかけてくるセレスが、自分の格好に気が付いて珍しく大声をあげた。
それからも俺達の関係は変わらない。
だけど、いつか……
閉まっていた記憶も、消えた約束も……
全てがうまくいくようなそんな予感がするんだ。
な、そうだろ?
シエル……
『はい、ディートリヒ先生!』
後ろから聞こえた声に振り返れば、ローブの裾が不自然に揺れた。
Fin