【試し読み】獣人王のお手つきが身ごもりまして

  「おとうさん、おかあさん……」

  僕は枕を握りしめたまま、真っ暗な家の中を歩き回る。

  返事は返ってこない。ほんの少し前、大人たちの叫ぶ声で目が覚めた。ばたばたと騒々しい物音。おうまさんの鳴き声。真夜中にはありえない音がいくつも響いて目が覚めてしまった僕は、不安でシーツを頭から被って時間が過ぎるのを待った。ようやくすべての音がしなくなると、今度は静かさが怖くなる。僕は枕を掴んで部屋を出た。

  家の中はさっきまでの喧騒が嘘のように静まり返っていて人の気配がない。

  「おとうさん」

  ふたりの部屋を覗いてみると、きっと飛び起きていったのだろう。シーツは乱れて床に落ちている。

  「おかあさん」

  いつも家族でごはんを食べている部屋はしんとしていて、余計に不安が大きくなる。小さな家は、おとうさんとおかあさんの寝ている部屋、僕の部屋、ごはんの部屋で全部だ。玄関を入るとすぐにごはんの部屋があって、台所はごはんの部屋の隅っこ。トイレとお風呂は裏口を出てすぐのところにある。あとは少し離れた場所におとうさんとおかあさんの仕事用の家があるけれど、そこは危ないから近づいちゃだめだといつも言われている。寂しくないようにって、いつもはふたりのうちどちらかは家にいてくれるから、ふたりがそろっていないときは決まっていた。

  たぶん『きゅうかん』だ。

  僕の家ではこういうことがよく起こる。おとうさんとおかあさんは薬を使うお仕事をしているから、よくきゅうかんという人に連れていかれてしまう。ごはん中でもお風呂に入っていてもふたりを連れていってしまうんだ。きゅうかんの人はいつも急いでいて、僕が一緒に行くのを嫌がるからいつもひとりでお留守番。

  こんな夜中にも現れるなんてすごくいじわるだと思ったら少しだけ泣きそうになった。

  でも僕はもう七歳なんだ。

  家の手伝いもたくさんできるようになった。きゅうかんという人がおとうさんとおかあさんを連れていってもちゃんとお留守番できるって約束したばかりなんだ。

  大丈夫。朝までにはきっと帰ってくる。

  部屋に戻ってシーツにくるまっていれば朝なんてすぐにやってくる。

  そう思うのに、ギイ、という扉の軋む音に僕は動けなくなった。大急ぎで家を出ていったおとうさんとおかあさんは鍵を閉め忘れたんだろう。風に煽られて、玄関の木製の扉が開いていた。

  再びギイと大きな音を鳴るのが怖くて枕をぎゅっと抱き寄せる。

  いや、大きな音なんかじゃない。周りが静かなせいでその音が大きく響いているだけだ。

  風が吹いて扉がまたゆっくり動く。

  その向こうにある暗闇が視界に広がって吸い込まれそうになる。怖いのにそこから目を離せなくなったとき、奥でなにかがきらりと光った。

  「え?」

  目をパチパチと瞬いて扉の向こうをじっと見つめる。そうするとまた光が浮かび上がる。

  金色の、ふたつの光。

  なにかいる!

  そう気づくと心臓の音がうるさくなった。

  昨日、おとうさんから森にいる危ない動物さんの話を聞いたばかりだ。くまさんが実際には怖い生き物であること。へびさんは毒を持つ種類があること。わんわんに似たおおかみさんというものがいるということ。中でもおおかみさんは群れで行動するから逃げられないんだって言っていた。あのおとうさんが逃げられないってどんなに怖い生き物なんだろうって思ったんだ。

  「お……おおかみさんじゃないよね?」

  おおかみさんの特徴はわんわんに似ている。けれどわんわんよりずっと大きくて立派。しっぽはくるんってなっていない。

  枕をぎゅうと抱きしめて玄関に向かって歩いていく。

  きっと暗闇にいるのはうさぎさんのはず。そうでなかったらきつねさん。この扉を閉めてしまえばこっちには来ない。

  「おおかみさんじゃない、おおかみさんじゃない」

  呪文のように繰り返しながら扉に近づいた。

  広がる暗闇を見ないようにしながら、扉に手を伸ばそうとした瞬間……強い風が吹いた。掴もうとした扉は大きく外へ開いてしまう。

  突きつけられた暗闇の世界で、金色の光は思ったよりも近くにあった。

  小さな光の周囲はぐっと闇が深くなっていて僕より大きな獣の輪郭をとっている。その輪郭が犬と似ていることに気がついて僕は泣きそうになった。

  「お……おおかみさんっ、ごめんなさいっ!」

  逃げなきゃと思うのに僕の足はまったく動かない。

  ゆっくり近づいてくる影にはしっぽがあって、そのしっぽがくるんとなっていないことを確認した僕はますます怖くなった。

  「やだ、おおかみさんは怖いの。僕を食べちゃうんだって。だからこっちに来ないで!」

  涙が出そうになる。

  男の子だから泣いちゃいけないのに。

  「……おおかみじゃない」

  そのとき、影が小さな声を上げた。

  「え?」

  「おおかみじゃない。いぬだ。俺はいぬだから怖がらなくていい」

  いぬ?

  わんわん?

  戸惑う僕に、その影は「わん」と吠える。

  「でもわんわんはしっぽがくるんってなってるんだよ? セルじいさんのところにいるわんわんはすごく綺麗にくるんってしてるもの」

  僕の言葉に、今まで下に垂れていたしっぽが震えながら持ち上げられた。完全にくるんっとはならなかったけれど、少しだけくるんってなった?

  「ほら、いぬだ」

  本当にわんわんなんだろうか。でも本人? がそう言っているし、おおかみさんだったらきっと僕はもう食べられているはず。

  少しだけ体の力を抜くと、影がゆっくり近づいてきた。

  今まで見たこともないくらい大きなわんわんだった。ふわふわの毛にぴんと立った三角の耳。少しだけくるんとなったしっぽ。このわんわんなら僕くらい簡単に背中に乗せられそうだ。

  「両親がお前を置いていくのが見えたから、怖がっているんじゃないかって思ったんだ」

  わんわんはそう言って、大きな頭を僕にすり寄せてきた。

  不思議と怖くない。

  そのぬくもりに、思わず笑顔になった。

  「僕を心配してくれたの?」

  「そうだ」

  「じゃあ、おとうさんとおかあさんが戻ってくるまで一緒にいてくれる?」

  もふもふした毛に僕の小さな手はすぐに埋もれてしまう。それが楽しくて何度もわんわんの体を撫でた。

  その夜はわんわんとたくさんのお話をした。

  わんわんは物知りで僕の知らない外国の話をたくさんしてくれた。わんわんはわんわんなのにいろんな国に行っているらしい。

  わんわんの話は面白くていつまでも聞いていたかったけれど、安心した僕はどんどん眠くなっていって……いつの間にかわんわんを抱きしめたまま眠ってしまった。

  翌朝、目覚めるとわんわんの姿はどこにもなくて。

  おとうさんとおかあさんには「しゃべるいぬなんていない」と笑われて。

  僕はいつしかそれが夢だったのだと思うようになっていた。

  「お前が怖いときにはいつだってそばにいてやる」

  その夢の中で、わんわんが何度も僕に言ってくれた言葉だけはずっと心に残っている。

  

  

  

  

  

  

  

  「だってお前は俺を愛してくれなかっただろう」

  恋人からそう言われるのは初めてじゃない。

  好きだから、きっと惚れさせてみせるからなんて熱い言葉にほだされてつき合っても、結局僕の心は動かなかった。

  「ごめん」

  「謝らないでくれ。弱い俺が悪いんだ。でも本当に好きだったから、お前が見てくれないのは辛い」

  恋をしない僕が悪いのだと相手は言う。

  だったら教えて。恋はどうやって始めるの?

  

  ロイというのが僕の名前だ。年齢は十七歳。

  国境付近の小さな村出身で、七歳のころ両親に連れられてここシャウゼ王国の王都に出てきた。

  薬師であった両親は研究心が強い人たちだった。小さな村に住んでいたのも、その地方にしか生えない薬草のためで、僕が生まれたのはその研究の間だったら子育てができるという理由らしい。

  もともとは東にいい薬があると聞けば東に、西にあると聞けば西に行くような生活を送っていたふたりだ。研究が一段落したところで、教育を受ける年齢に達した僕を王都に住む叔父のもとに預けたのだ。

  王都で商人をしている叔父には子供がいなかったこともあって、僕はかなり甘やかされて育ったと思う。でも仲のよかった両親が近くにいない寂しさは拭えなくて、結婚に対するあこがれは強くなった。

  家族が欲しくて、好きだと言ってくれる人とつき合ってはみたけれどすぐにダメになってしまう。

  僕が相手に恋をしないから。

  先日、恋人に振られたのもそんな理由だった。情熱的に好きだと言ってくれて、今度こそ大丈夫だと思っていたのに、僕は結局最後までドキドキすることはできなかった。

  あのとき、手を繋いでも無反応なのが悪かったのだとか、抱きしめられても抱きしめ返さなかったのが悪かったのだとか、頬にされた子供みたいなキスに過剰反応してその先に進めなかったのが……なんてひとつひとつを考えて落ち込む。

  確かに僕は彼に恋をしていなかった。けれど恋をしようと頑張っていたんだ。どうして待ってくれなかったんだと相手を責めたいけれど……、僕にその権利はない。だって結局は終わりが来ても悲しくなかった。

  落ち込んではいるけれど、それだけだ。そんな自分の心に嫌気が差す。

  大きなことは望んでいない。ただ優しい家庭を築きたい。

  今は城で働いている。仕事は従僕。要は雑用係だけど、さして成績もよくなかった僕は、さらに上の学校に通って文官を目指せるわけでもなかった。小さな仕事とはいえ、城に勤められたことは僥倖といっていいくらいだ。

  働き始めて三年が経つ。城の従僕といえば子供のころから勤めている者も多く、要領のよくない僕に重要な業務は回ってこない。一番多いのは扉を開ける仕事。

  成長期はとっくに過ぎているのに伸びない身長。鍛えても鍛えても太くならない手足。おまけにふわふわの金髪に、長い睫毛と大きな緑の瞳。見た目はいいけど、多くの仕事をこなせない僕にはうってつけだ。

  それもそろそろ終わりにしないといけない。ずっと城で働く覚悟のない者は大抵、二十歳前後に結婚退職を迫られる。僕の時間はもう三年を切った。

  成人となる十七歳を迎えたころから持ちかけられる縁談も多くなってきた。

  女性を食べさせていくだけの経済力や甲斐性のない僕の相手は、男性ばかりだ。

  裕福な家になれば財産争いや継承権の問題から次男以降は男性の嫁を娶ることが多い。両親はそこそこ名の知れた薬師。叔父は王都での商売も上手くいっている。見た目もよく、城仕えという仕事。向こうにとって僕はちょうどいい相手のようだ。

  できればちゃんと恋愛をして好きな相手と結婚したいと思っていたけれど、それはもう難しいのかもしれない。

  お見合いで結婚するなら誠実な相手がいい。男同士だと数年後には冷めている夫婦が多いというから、せめて友人関係は続けていけるような人。経済力はないと困る。そんなふうに少しずつ小さな条件を積み上げて……なかなか踏みきれないでいる。

  

  

  「ありがとう、手伝ってくれて」

  洗濯籠を床に置くと、カゼラはにっこり笑った。茶色のくせのある髪と、くるくるとよく動く緑の瞳の彼女は同じころ城に勤め始めた女中だ。すごく美人というわけではないけど笑顔が可愛くて人気があるカゼラは、よくこうしてひとりでやりきれないほどの仕事を押しつけられている。城の女中は貴族の子女が多い中、商家の出だということもあるだろう。けれど彼女の実家はかなり裕福だ。数年後に笑っているのは彼女の方だと思う。

  「いいよ、別に」

  「助かるのよ。これで男前の騎士様にでも助けられたら余計な嫉妬を買ってこっちも困るもの」

  「男前の騎士が助けてくれるなら僕は一日中洗濯籠を抱えていてもいいけど」

  「あはは。そういえばロイもお嫁に行くところを探してるのよね」

  男女問わず、城に仕える若い者たちの大半はそうだろう。給料はいいけれど厳しい職場だし、長く勤める者は少ない。

  「カゼラもでしょ?」

  「私は違うわよ。親はそれを望んでここに放り込んだみたいだけど、適当な相手と結婚するくらいなら一生独身でもかまわないわ」

  僕は少し驚いてカゼラを見た。今まで結婚しなくてもいいなんて女性を見たことがなかったからだ。

  女性は男性より数が少ない。割合で言えば三対二。なので、女性は女性であるということだけで結婚を望まれる。まして家が裕福な商家であるカゼラならば貴族の家に嫁いだっておかしくない。

  「そんなに変かしら?」

  「うん、変だよ」

  はっきり答えるとカゼラはころころと笑った。

  「私ね、理想の相手がいるのよ」

  理想か。僕が思っているようにそこそこ裕福でそこそこ男前でとかそういうことだろうか。

  「とても素敵な方なの。あの方に比べれば、そのへんの男なんて芋やかぼちゃに見えちゃうわ」

  「理想って実在してるの?」

  「ええ、見る?」

  そう言ってカゼラは懐に手を入れた。そこから出てきたのは小さな額。ふたつ折りにされたそれをそっと開くとそこには精密な肖像画が描かれていた。

  その姿絵を見た瞬間に、胸が騒いだ。

  「素敵な方でしょう?」

  凍るような、青の瞳。

  黒と灰色の混ざった長い髪はまるで鬣みたいだ。

  身長は姿絵ではわからないけれど、がっしりした体格に見える。全身から出ている強い覇気まで描かれているように見えて、これを描いた画家はきっと名のある人だろうと思った。

  まっすぐに前を向く目が僕を見つめているような気がして、どくんと心臓が大きな音を立てる。

  「うん、素敵だね」

  僕はぼうっとした頭で姿絵に手を伸ばした。

  彼女が慌てた様子で絵を引かなければ、手が触れていただろう。

  「ご、ごめん」

  絵に直接触るだなんて。

  人のものなのに、そんな不躾なことをしてしまいそうになった自分が信じられない。

  「いいのよ。ゼクシリア様とおっしゃるの。デルバイアの国王陛下よ」

  大陸の五つの国の中で一番の勢力を誇るデルバイア王国。よく翼を広げた鳥に例えられるこの大陸で鳥の右翼に当たる大半の部分がデルバイアの国土だ。中央に大きなゼル湖を有し、よく肥えた広大な平原もある。デルバイアが本気になればシャウゼ王国なんて小さな国は、あっという間に征服されてしまうだろう。シャウゼだけじゃない。大陸の統一も簡単なはず。そんな大国の王様。

  「この姿絵を見た人はみんな陛下に恋するわ」

  恋……。

  恋? 僕が?

  こんなことってあるんだろうか。たかが姿絵。実物を見たわけでもない。今まで誰に対してもぴくりとも動かなかった自分の心がこんなにも動揺していることが信じられなくて何度も瞬きをする。

  「ふたつ姿は狼なのですって。きっと素敵な獣になられるのでしょうね」

  デルバイアは獣人の国だ。

  獣人、と言えば獣の魂を持つ人のこと。狼だとか、鷲だとか猪だとか……そういった強そうなものから猫、兎、羊といった草食動物まで。それぞれ家系にもよるらしいけど、デルバイアの人間は大抵がふたつ目の姿を持って生まれるという。

  ひとつは人間と同じ姿。もうひとつは獣の姿。彼らは国からほとんど出てこないので、獣人を目にすることは珍しい。

  昔、住んでた村に獣人が来たことあったけど僕はその獣人を目にすることはなかった。彼が酒を飲むと耳としっぽが生えるって大人たちの間で話題になっていたのを聞いただけだ。

  この姿絵の王様と同じ青い瞳の狼はきっと格好いいだろう。毛並みはふわふわで、するりと指が通って……そこまで想像して、慌てて首を振った。たった一枚の姿絵で想像を膨らませすぎだ。

  「噂だけれどね、もうすぐこの国にいらっしゃるんですって」

  「え?」

  その言葉に、また心臓が大きく跳ねる。

  「お妃探しにいろんな国を回られるのよ。ほら、獣人は一族の血が混ざるのを嫌うじゃない? 人間を伴侶にすると確実にその一族の子が生まれる。だから名のある家の方は同族か人間から伴侶を選ぶらしいわ。どうやら今は陛下とちょうどいい同族の方がいらっしゃらないみたい」

  カゼラは獣人について知識が豊富だった。実家がデルバイアと取引しているというのもあるが、カゼラ自身が気になっていろいろ調べたらしい。

  一族が違う獣人同士で結婚すると生まれる子はどちらの血が勝つかはっきりとしていない。そこで高位の貴族や希少な種の一族は同族で婚姻を結ぶか、人間から伴侶を選ぶかのどちらかになると聞いて、なるほどと納得する。血を守りたいのは普通の人間だって同じだ。それがふたつ姿を持つ獣人の一族ともなればなおさらだろう。

  「お妃……」

  結婚相手を探しているのか。この方には素敵な女性が似合うだろうと思ったら、知らないうちに溜息が出た。同性との結婚が珍しくないにしても、さすがに男の僕では子を残すことはできない。

  「そうよねえ。手が届かない相手とわかっていても、さみしいわね」

  笑いながらそう言われて、顔が赤くなる。

  相手にされる以前の問題なのに、お妃探しと聞いて落ち込むなんて。もう一緒になって笑うしかない。

  「ご訪問のときにはきっと盛大な舞踏会があるわ。ひとめでもお姿を拝見できればいいのだけれど。もし貴方が訪問に関する噂を聞いたらきっと教えてね」

  僕は高鳴る鼓動がまだ信じられないままカゼラの言葉に頷いた。

  

  

  カゼラに一枚の姿絵を見せられてから、僕はおかしい。

  恋なんてと思っていた。

  今まで心動かされる相手はいなかったから恋なんてできないんだと思っていたのに、たった一枚の姿絵で簡単に心は揺らいだ。

  デルバイア国王の訪問はあの後すぐ、公式に発表された。

  街は彼らを出迎えるためにいつもより活気に溢れている。シャウゼなんて小さな国でも王都となれば何人かは獣人がいるものだが、それでも彼らは獣人であることを言いふらしながら歩いているわけではないので、そうだとわかることは少ない。

  身体能力に優れ、魔法をあつかう彼らは物語の中心にいることも多く、あこがれのその姿をひとめ見たいと王都へ人が集まり、大きな市も立っていた。

  そんな市で人気なのはデルバイア国王の姿絵だ。

  カゼラが持っているものほど精密なものは少ないけれど、瞳と同じ青いマントを身に着け凛と立つその姿に若者たち人々は熱狂していた。

  「どうだい? うちの絵はデルバイアから直接仕入れているんだよ」

  並んだ絵のひとつを手に取ると、白い髭を生やした店主がにっこり笑う。

  絵は僕の手の中に収まるような大きさだ。持ち運べるくらいの小さなもの。全身ではなくて、胸より上を描いているため、小さくても顔がよくわかる。

  黒と灰色の混ざった髪は後ろで緩く束ねられている。まっすぐこちらを射抜く視線は素敵だったけれどこれでもないと僕は首を振った。

  「そうかいそうかい。じゃあ、とっておきのを出してやろう」

  そう言って店主が奥から取り出したのは銀色に光るペンダントだった。ペンダントトップになっているのは楕円形の銀細工。親指と人差し指で作る輪の中に収まるくらいの大きさのそれには植物の図柄が彫られている。緑が豊かなデルバイアでは植物のモチーフを使うことが多いという。蔦のようなその植物は見たことないものだったから、本当にデルバイアから仕入れられたものかもしれない。

  でも、探しているのは姿絵だ。デルバイアのものならなんでもいいわけじゃない。

  「あの……?」

  「まあ、見てな」

  店主はにやりと笑ってその銀細工の上部に手を当てた。

  「わ!」

  思わず声が出たのはそれが、ぱかりと開いたからだ。

  「すごい! すごい! どうなっているんですか?」

  思わず身を乗り出して開いた銀細工に顔を近づける。

  そうしてもう一度驚いた。

  ペンダントの中に、その人がいた。

  カゼラの絵と違っているのは表情。あちらはきりりと引きしまった顔だったけど、この絵は少し笑っている。細められた目がまるで僕に向けられているようだと思った。

  「どうだい? とっておきだろう」

  本当だ。これはとっておきだ。

  こんな細工のペンダント、見たことない。それに描かれている絵。こんなに小さいのにはっきり表情がわかる。他の絵と違って微笑んでいるその表情は、描かれた人が自分のものになったみたいな錯覚を覚える。

  最初に市に出向いたときは自分に言い訳をしていた。珍しいものがないか探しているだけだ。姿絵は人気だから目に留まるだけだって。

  二度目の休み、やっぱり市に出向いた僕は姿絵ばかりに目が行く自分に呆れた。けれどきっとお芝居でお気に入りの役者を見つけたような気分なんだろうって誤魔化した。

  三度目の休みでもう自分に嘘はつけないなって思った。

  こんなにたくさんの姿絵の中から探している。

  自分が持つべき一枚はどれかって。

  デルバイアの国王陛下が来るのはもう三日後に迫っている。次の休みは彼らが去った後だ。きっと姿絵は滞在中にほとんど売れてしまうだろう。

  これを逃せばもう欲しいと思う絵にはめぐりあえないかもしれない。

  けれど店主が提示した値段に肩を落とす。

  そうだよ……ペンダントだけでも目を引く珍しい細工なのに、こんな緻密に描かれた絵が手の届く値段のはずはない。冷静に考えれば、店主の示した金額でも安いくらいだ。

  「すみません、良心的な値段をつけていただいてるのに」

  その言葉に店主が笑う。

  「おいおい、今から値段の交渉をするんだろう。そんなこと言ってたら値切れないぞ?」

  「え……?」

  僕はもう一度ペンダントに視線を落とす。

  商人の叔父に育てられた僕はそれなりに物の価値がわかる方だと思っている。城でいろんな高級品にも触れて、それはさらに鍛えられた。

  この商品は店主が最初に提示した値段の倍でもおかしくないはずだ。

  「もっと低くなるんですか?」

  恐る恐る尋ねると再び店主は笑う。

  「そんな目で見られちゃあ、安く譲るしかねえだろう。大丈夫。これからがっぽり稼がせてもらう予定だから」

  思わず笑顔になると、店主は仕方ねえなあと手招きしてくる。

  「いくらなら出せるんだ?」

  そう聞かれて迷わず財布を取り出すと中にあったお金を全部店主に預けた。城仕えでコツコツ貯めてきたお金だ。僕にとっては大金だけど、こんな品物をあつかっている店主にとっては大きなお金じゃないだろう。

  「なかなか豪快だな。いいだろう、交渉成立だ」

  受け取ったお金を数えることもしない店主の方が豪快だと思う。

  「仕入れ先から『絵に心を奪われるような人には安く譲ってくれ』って頼まれてたんだ。きっと大事にあつかってくれる人の手に渡したいんだろう。もちろん、大切にしてくれるよな?」

  「はいっ」

  元気よく答えてペンダントを握りしめる。

  「そのままつけていくかい?」

  そう言われて何度も首を縦に振ると、店主は満足げに頷いた。

  「じゃあ、それと対になっている箱だけ包んでおいてやろう」

  ペンダントをつけている間に、店主の大きな手はその見た目とは反対にとても丁寧に細い箱を包み始めた。品物を大切にあつかっている、いいお店だ。次の給料が出たらきっとまたここで買い物をしようと決めて僕はにこにこしながらその作業を見つめる。

  「今日からこの王様はお前のものだな」

  胸元に輝く銀色を指さされて、頬が熱くなった。恋人でもない人の姿絵を持ち歩いてるなんて笑われてしまうだろうか。でも今は初めてのこの想いを大切にしたい気持ちが強いんだ。

  現実には絶対にありえないけれど、この絵のゼクシリア様は僕にいつも微笑んでくれる。それを思うだけで頬が緩んでしまう。

  これは恋だ。

  誰がなんと言っても、恋だ。

  こんなに心が浮かれて、ふわふわ落ち着かない気持ちになるなんて思わなかった。

  デルバイア国王の滞在は四日間。少しでも姿を見ることができればいいなと思いながら、その夜僕はいつまでも絵を眺めていた。

  

  

  扉一枚を隔てた向こうの空間から華やかな音楽が聞こえている。

  今日も扉を開ける係を任された僕は、その配置にがっくりと肩を落とした。この場所は城の内部から会場へ続く通路の中でも一番小さなもので、あまり使われることはない。舞踏会が始まってずいぶん時間が経つけれど人が歩いてくる気配すら感じられなかった。いつもなら気軽だと喜んでいたけれど、今日ばかりは自分の不運を呪う。

  せめて扉の内側の係ならよかった。着飾った男女に壮麗な飾りつけ、心が躍る音楽に、きっとめずらしい見世物もあったに違いない。それに……遠くからでも、あの方の姿を見られたかもしれないのに。

  そう、僕が恋をしたデルバイア国王陛下は今、この城にいる。

  今夜は彼をもてなすための舞踏会で、扉を一枚隔てたこの向こうには最上級の装いをした国中の女性が集まっていた。

  「ひとめ見たかったなあ」

  「なに? ロイもデルバイア国王派か」

  僕の呟きに答えたのは、扉の脇に立つ警備兵だ。

  「やめとけ、やめとけ。あんな雲の上の人より俺みたいなのがいいって」

  その言葉に彼を見た。城の兵士だから収入もある。体も鍛えているし、爽やかそうな笑みを浮かべている。ただ、ひとつ。

  「軽い人は嫌です」

  そう答えると彼は大きな声を上げて笑った。

  「そりゃあ残念。でも今日の主賓だって軽いもんだぜ。お妃選びに諸国漫遊なんて、いろんな国でつまみ食いしていく気満々だろうよ」

  陛下はそんな方じゃないと言いたいのに、僕は陛下のことをなにも知らない。

  姿絵で見るものが僕の知る全部だ。もしかしたら彼の言うことが正しいのかもしれない。不安になって、服の上からペンダントを握りしめた。長めの鎖はうまくそれを服の中に隠してくれるから、あの日以来ずっと身に着けている。

  「うらやましいよなあ。どんな高嶺の花だってよりどりみどり。遊びでだって手をつけてほしいと思ってるだろう。妃なんて、これって指さしたら断わる奴なんていないんだぜ?」

  警備兵はなにが面白いのか、肩を揺らして笑う。僕は全然笑えなかった。

  手の届く人じゃないのに……結婚するのが嫌だなんて、どうかしている。その姿さえ見ることができるかどうかわからないのに。

  

  「では、指さしてみるか?」

  

  ふと近くで声がした。

  今までしゃべっていた警備兵のものじゃない。雑談なんて見苦しいところを見せてしまった。内部の人なら怒られるだけで済むけれど招待された方だったらどうしよう……と顔を上げて、僕は固まった。

  隣の警備兵は気の毒なくらい真っ青になっている。

  だって。

  だって、そこにいたのは凍るような青の瞳の……。

  「これ、だな」

  すうっと手が伸びて、僕に向けられる。

  白い手袋は、わずかなランプの光に照らされキラキラと光っているみたいだ。

  「断らないでくれよ?」

  カゼラの姿絵で見たときに感じた威圧感はなかった。

  優しげに笑っているからだろうか。僕の持っている絵、そのままの眼差しにぼうっと見惚れて……未だに自分が言われた言葉を理解できていなかった。

  「名前は?」

  あこがれていたその人が名前を聞いてくれている。そのことに、夢見心地で。

  「ロイと、申します」

  ただ請われるままに口から滑り出る。

  習った礼儀作法には、王族と会話をするものなんてない。よほどのことがない限り、空気でいなければならない職なのに。

  「ロイ。ロイか。いい名だ」

  褒められて天にも昇る気持ちだった。

  思わず浮かんだ笑みに、目の前の人物がハッとしたような表情を浮かべて……突然我に返った。

  なにをしているんだ。

  僕は……、なんてことを。

  王族と直接話せるような身分じゃない。しかも、その直前にどんな会話をしていたのか。それを思い出して真っ青になる。

  慌てて頭を下げるけれど、もう遅い。

  「ロイ。顔を見せてくれ」

  上から聞こえる声に大きく首を振った。

  これ以上の不敬を重ねるわけにいかない。目線を合わせることだってしない方がいい。

  体が震えてきた。歯が噛み合わなくなりそうで、ぎゅっと唇を閉じる。

  「……困ったな。怯えさせたいわけじゃないんだ」

  白い手袋が肩に触れた。

  そのわずかな刺激にも大きく体を竦ませてしまう。

  「おい、そこのお前」

  「はいぃっ」

  警備兵がうわずった声で返事をした。

  「指さしたら、誰でも妃になるわけではないようだぞ?」

  その声はいたずらっ子のように笑い声を含んでいた。僕たちを咎めるような口調ではなくて……ほんの少しだけ体の力を抜く。

  「ロイ、顔を」

  それでも顔を上げる勇気はなかった。

  戸惑っている僕の目の前に再び白い手袋が差し出される。

  あれ、と思う間もなく顎に手をかけられた。そのまま持ち上げられて、青い瞳と正面から見つめ合う。

  「ああ。やっぱり、お前だ」

  やっぱりってなんだろう?

  わずかに視線が泳いだ瞬間だった。

  ふわりと体が浮いた。

  「え?」

  高く抱え上げられて言葉を失う。

  「見つけた。もう逃さない」

  抱えられている。

  いくら小さいとはいえ、成人男性の僕をまるで子供を抱えるように軽々と。

  「う……わぁっ」

  これはよくないと慌てて離れようとしても、バランスは崩れない。

  腕の上に乗せられ、距離を取ろうとすればもう片方の手が背中に回って引き寄せられる。思わず首にしがみつくような体勢になって慌てた。

  「だっ、だめですっ。下ろしてくださいっ!」

  これは無理だ。いくら僕の意思じゃなくても、誰かに見られればすぐに不敬罪で捕まってしまう。

  「何故?」

  「何故って……とにかくだめなんですっ」

  緊張しすぎて泣きそうだ。

  真っ青な僕におかまいなしに歩き始めてしまう。ふわふわ揺れる視界に、眩暈が重なってうまく考えがまとまらない。

  遠ざかる警備兵が、視界の向こうで敬礼してる。

  敬礼。

  それも最敬礼だ。

  考えたくはないけれど、僕を抱えているこの人はやっぱりあの姿絵の人なんだろうか。

  「あああのっ、陛下……」

  恐る恐る、口にした

  「なんだ?」

  答える声音は柔らかい。

  その声は深く僕の中に染み込んでいくみたいだ。また頭がぼうっとしそうで慌てて首を振った。

  「下ろしていただけませんか?」

  「嫌だ」

  あっさりと答えられて、ぽかんと口を開ける。

  嫌だと言った。

  嫌だと。

  「僕を抱えていても、楽しいことなんて」

  「触れていたいのだ。許せ」

  触れ……て、いたい……だって?

  「どどどどどうしっつ、て」

  どもった。

  しかも舌を噛んだ。

  陛下の言葉に動揺して、なにを質問していいのかわからなくなる。

  「やっと妃を見つけたのだ。離したくない」

  妃?

  そういえば陛下は妃を探しにこの国へやってきた。やっと見つけられたなら、お祝いしなくてはならないのに離したくないなんて……まるで今、その腕に抱いているかのような言い方じゃないか。

  「あの、お妃さまはどこに?」

  そんなはずはないと思った。

  だって陛下が抱いているのは僕だ。それは結びつかない言葉だ。

  それなのに足を止めた陛下は、まっすぐに僕を見上げてくる。

  「お前だ。お前が私の妃だ」

  息が、止まるかと思った。僕は今、都合のいい夢でも見ているんだろうか。

  「ちゃんと指をさしただろう?」

  『妃なんて、これって指さしたら断わる奴なんていないんだぜ?』

  さっきの会話が蘇る。

  確かに、陛下は僕を指さしたけれども冗談にしては性質が悪すぎる。

  「ぼ……じゃない。私は男です。陛下の妃にはなれません」

  いくら女顔だと言われても、ついてるものはついてるし子供も生めない。これは否定しようがない。

  「ははっ。いくらなんでも雌雄は間違えぬ」

  真面目に答えた僕がおかしかったのか、陛下は声を上げて笑った。きっとからかわれているのだ。

  「あのっ、下ろしてください。陛下は、舞踏会に……っ」

  「必要ない。妃は見つかった」

  そういうことにしてしまいたいんだろうか。妃が見つかったから、舞踏会には出ないと。だから僕は指をさされたのか。

  「ダメです、私では子孫が残せませんから」

  妃になんてなれるはずはない。何番目の妃だとしても、血筋も学もないただの従僕だ。

  「気にするな。我々は一族で子を育てる。一族の中から秀でた子が王を継ぐのだ。私の子である必要はない」

  なるほど、と納得するわけにはいかない。

  「妃候補なら中に」

  「あれらはいらぬ。お前がいればいい」

  あれ……? 国中の女性が陛下のために着飾って集まってるのに、あれって。

  「お前はよい香りがする」

  耳元で囁くように言われて、体がビクリと跳ねる。

  「お前がいい」

  眩暈が強くなる。

  これは夢だろうか?

  あこがれていた陛下が目の前にいて、僕がいいなんて。

  『今日の主賓だって軽いもんだぜ。お妃選びに諸国漫遊なんて、いろんな国でつまみ食いしていく気満々だろうよ』

  その瞬間、警備兵の言葉が脳裏に浮かんで冷静になる。

  そう、だよな。妃だなんて信じちゃいけない。甘い言葉で一夜の遊び相手を求めているんだろう。なんのしがらみもない、孕む心配すらない僕がたまたま陛下の目の前にいただけだ。

  「あの……」

  ごくり、と喉を鳴らした。

  これは陛下の遊び。お妃ごっこ。

  きっと舞踏会に出たくない理由があったんだ。だから目の前にいた僕を捕まえただけ。

  だったら、とずるい考えが頭を過ぎる。

  このまま……恋もわからないまま条件の合った相手と心のない結婚をするくらいなら、一夜の夢を見ても許されるかもしれない。

  最初から断わるなんて選択肢は僕に与えられていない。従僕風情が他国の王族に逆らえるはずはない。それを理由にしてしまえば、このまま陛下と夢を見られる。

  だめだとわかっていても、心が揺らぐ。

  最初に姿絵を見てからずっと頭から離れなかった。

  自分の絵を手に入れてからは毎晩のように眺めていた。

  それだけで幸せだと思ったのに、目の前に現れて触れて信じられない言葉を並べられて……嘘でもいいなんて思ってしまう。

  「逃がさぬ」

  その言葉に泣きそうになる。

  「お前は私のものだ」

  本当にそうだったらいいのに。