星環基体都市カルメシア・デルト――惑星コルディアの周回軌道上に広がる環状交易圏の中でも、最も重要な商業ステーションである。
この季節、重力バランサによって穏やかに整えられた空層には、無数の透明帆がゆるやかに滞留していた。
それらは微細な流体レンズを備え、恒星放射を繊細に濾過し、街区全体にやわらかい光を散らしている。
果実樹の芳香と、遠くをすべるヴェイルシップの振動音。
音も光も、ひとつの波のように息づきながら、静かな眠りの膜の内側をゆらしていた。
その上層区画、[[rb:エシャン・コリドール > 第八光層回廊]]の重力調整エリアにある噴水広場沿い――
そこに「カフェ・アエクオレア」という、開放型の静かなテラスラウンジがひっそりと佇んでいる。
午後の光は、やや金を帯びた橙色となり、白い石畳をゆるやかに染めていた。
白い円卓の上には、果実を沈めた二つの冷たいグラス。
風が柔らかく毛並みを撫で、スリット型の陽よけが静かに揺れている。
その席にいたのは、二人の獣人だった。
ひとりは――紫と白の整った毛並みに、鋭くも小柄なシルエットを持つヨーマ。
もうひとりは――翡翠色の鱗と落ち着いた声音が印象的な、爬虫類系の研究員、ザルク。
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「……俺は、ズレ男だからな」
不意にヨーマが呟いたのは、グラスの中に沈んだ赤紫の果肉をじっと見つめながらだった。
それは独り言のようでもあり、ザルクに投げかけたようでもある。
だがその声には、なにか削ぎ落とされた余白があり、むやみに言葉を返すのを躊躇わせる静けさがあった。
ザルクはしばし迷った後、持っていたカップの縁を指でそっとなぞった。
冷たい陶器の感触が、ささやかな音を立てる。
「マイヤのラボ、最近どうなんだ?」
ヨーマが言った。
問いはさりげなかったが、その眼差しは観察者のそれだった。
まるで既に答えを知っている者が、あえて確認するような確信めいた空気があった。
ザルクは、少し首の後ろをかくようにして答える。
「……まあ、相変わらずというか。きついけど、やりがいはあるというか……」
「つまり、“過酷だけど嫌いじゃない”ってやつか」
ヨーマは目だけで笑った。
口元は動かず、しかし全身の空気がふと緩むような笑みだった。
「さすがですね……ヨーマさん。そう言われると、その通りだと気づきます」
ザルクは苦笑し、氷を一つ舌先で転がした。
「観察じゃないよ。直感だ。俺の直感は、剃毛のリズムでできてる」
「剃毛……?」
ザルクは思わず眉を上げた。
だがヨーマは真顔のまま、グラスの底に視線を落とした。
「最近のテーマなんだ。
いかに“余白”を生かすか。いかに線を立たせるか。
毛ってのはな、隠す道具なんだ。擬装とも言える。
その下にある“構造”を露わにしたいって欲望が、たぶん俺の深い所にあるんだろうな」
言いながら、ヨーマは手の甲に生えた細かな毛を指先で撫でた。
薄紫の毛並みは柔らかく光を撥ね、淡く浮かぶ筋肉のラインが、まるで設計図のように透けていた。
「あなたの視点は……やはり独特ですね」
ザルクはそっと笑った。
「でも、鱗には……あまりそういう“擬装”の概念はないんです。
僕たちにとって鱗は、“保護”そのものですから。剥ぐという発想自体があまり……」
「そうでもない」
ヨーマが遮った。
「お前の背中、いじられてたじゃん。アイツに」
「……それは、その……」
ザルクは少し身じろぎした。
うなじに指を当てれば、そこには今もわずかな違和感――
あの“導光反応測定”の痕が残っていた。
マイヤ博士の手による、植物由来の感光試薬を使った、生体実験の名残だ。
「神経束の感受導応性を見るとかで……背部の鱗を透過処理されまして。
光反応で浮かび上がる神経経路を観察する、とか……」
ザルクは俯き気味に言ったが、声には怒りや羞恥ではなく、どこか戸惑いにも似た余韻があった。
ヨーマはそれを見て、ふっと笑った。
「うん、そういう顔してた。お前」
「どういう……顔ですか?」
「半分は、逃げたいって顔だ。
もう半分は、自分からまた呑まれたがってる……
アイツに“触れられる感覚”そのものが、身体に馴染みすぎてるんだよ」
ザルクの手が、カップを握る力をわずかに強めた。
静かに、しかし確かに尻尾が動いた。
「……ヨーマさん。そういうことは、冗談で言わないでください」
けれどその声には、明確な拒絶の芯がなかった。
「冗談で言ってるように見えるか?」
ザルクは返せなかった。
遠くのグライドレーンを、アルモレ族の小さな成体が滑るように渡っていた。
その背には、まだ羽化間もない透明殻の幼体が、翅をたたんで静かに寄り添っている。
どちらが導き、どちらが守られているのか、傍目には分からなかった。
「ここって、不思議なところですね」
ザルクが呟いた。
「カルメシアか?」
「いえ、“今”という時間が、です。
少しだけ夢みたいで……現実から乖離してるような、そういう感覚があるんです」
ヨーマはゆるく笑った。
「それが“午後”ってやつさ。
何かと何かのあいだにある、いちばん油断してて、いちばん正直な時間。
俺の好きな時間帯でもある」
「……やっぱり、あなたは不思議な方ですね」
ザルクの声は、どこか安心していた。
それは博士の前では出せないような、素の声音だった。
「なあ、ザルク」
ヨーマが急に視線を向ける。
「お前、自分がどっちの側にいるか――確かめられたいんだろ?」
一瞬、空気が止まった。
ザルクの顔に、読み取れない色が走った。
鱗に覆われた頬は表情が乏しく見えるが、その眼の奥には、言葉より多くの揺れが宿っていた。
「……あなたは、そう思うんですか?」
「思うよ。だって、そういう“尻尾”の揺れ方してる」
ザルクは、逃げるようにカップに口をつけた。
氷の音が、小さく響いた。
淡く溶けゆく氷の気配が、沈黙のあいだを満たしていく。
その沈黙を破るでもなく、ヨーマはゆっくりと立ち上がった。
その動きは静かで、しかし確信に満ちていた。
椅子がきしむこともなく、彼の尾の先だけが風のゆらぎに従って少し揺れた。
「じゃ、行くわ」
そう言って、グラスにわずかに残った果実に目をやる。
「これ…味わえよ」
そう告げると、スリットの影をすり抜けるように、軽やかな足取りで通路へ出た。
宙空に漂う帆が、ひととき淡い光を彼の毛並みに落とした。
あれは銀河の記憶だろうか、それとも何か遠い昔のまなざしか。
ザルクはただ、その背中を見送った。
その背に宿る軽やかさに、自分にはまだ持てない自由を見たような気がした。
グラスの果実は、光に透けて、まるで惑星の欠片のようだった。
――本当に、そう思ってるんだろうか、俺は。
問いは、答えを求めてはいなかった。
それはむしろ、自分自身を試すための、淡い毒のようなもの。
ヨーマの言葉は、いつもそうだ。
不意打ちのようでいて、どこかで待っていた言葉。
ザルクは残された果実にそっとスプーンを伸ばした。
舌先にひやりとした甘さが広がり、それは記憶に繋がる回路を、ゆるやかに開いていく。
……博士の手。
実験の時に触れた、あの冷静で、優しさとも違うやわらかな感触。
まるで、昨日までそこにいた穏やかな焔の陰影そのものに触れられたような。
「分析じゃ……無理なんだよな、こういうのは」
独りごちる声が、風に紛れて消える。
ザルクは立ち上がり、コートの裾を整えた。
それからグラスの残りに目をやり、ふっと鼻先を鳴らす。
名残惜しさを残しながら、白石のテラスを後にする。
街はすでに夕暮れの支度に入っていた。
カフェの灯りが淡くともり、テルメインが通路の縁で静かに光を編んでいる。
透明な階層を昇降するリフトの踊り場には、旅装のパナエシ族が数組ほど佇み、
その若者たちは足を止めて、遠くにそびえるアストレイユ・スパイアを熱心に見上げていた。
ザルクは人波の中に身を滑り込ませる。
鱗の光沢が街の照明に反射して、にじむような軌跡を描いた。
――午後の余白は、もう終わる。
脳裏に残るのは、ヨーマの問いではなく、
その問いが投げられた“時間そのもの”の手触りだった。
この空間には、多くの種族が交差している。
その声、その足取り、その熱――すべてが入り混じる軌道の交差点。
だがそのすべてを透かすように、ひとつの深い静けさがあった。
ザルクは思った。
“この世界は、誰のものでもない”
ただ、浮いているだけの構造体。
それでも――今、自分はその中にいる。
淡く宙を漂う光膜のむこう、
遥かな瞬きのかなたでは、小さな恒星が今も燃えているだろう。
ザルクの尾が静かに揺れた。
その軌跡は、通りすぎた午後の、見えない余韻にふれていた。