水の大陸、ワイワイタウンは数年に一度ともいえる規模の嵐に見舞われていた。強い風と雨が街を覆い、住民達は家々に閉じ籠り、ただ嵐が過ぎるのを待っていた。時に落雷も見られ、嵐の強さが伺える。
レシラム教教会の敷地内に建てられた塔の窓も、強風が揺らしていた。ガタガタと揺れる窓の近くには寝台があり、その上にはレシラム教の異端審問官にして教皇オズボーンの妾である牝のバシャーモ、リラの姿があった。
寝台の上で膝を立てた肢位を取っているリラは、数時間前に陣痛と破水を迎え、侍女や産婆の立ち会いの下、オズボーンの子を産む時を迎えた。不規則に訪れる激痛に喘ぎ、リラは浅い呼吸を繰り返していた。
「もう少しだよ、息を止めないで」
リラの下半身は清潔なシーツで覆われており、その中に上半身を突っ込み、リラの産道を観察しているニドクイン、カヌレはリラに声をかけていた。数多くの華族の赤子を取り上げてきた経験のあるカヌレは、口も硬く確かな腕を持っている女医であり産婆でもある。レシラム教幹部の牡のバクフーン、カウフマンを通してリラの出産を依頼されたカヌレは、慣れた手つきで医療用のハサミを取り出すと、タオルから顔を出してリラを見た。
「頭が見えてきたよ、あともう少しだよ」
カヌレは冷静な声でリラに声をかけた。だが、リラは骨盤を内側から押し広げるような痛みと圧迫感に喘ぎ、全身の筋肉を硬くさせていた。リラは大きく息を吐き出すと、浅く息を吸った。リラの両手にはタオルが握られており、下半身や腹部の力を逃がせるように配慮もされている。
「そろそろだね…もう少しだよ」
カヌレはそう呟くと手元を照らす侍女に声をかけて、清潔なタオルを受け取った。その声を聞きながら、リラは意識が遠くなりつつあるのを感じた。
大きくリラが息を吐いた。
リラの下半身付近は汗と血液と体液でシーツが濡れており、長い時間がかかっていることがわかる。体力の限界を感じつつあるリラは、それでも腹部に力を入れ続け、胎児が産道を通り抜けれるようにサポートしていた。
一際、強い痛みがリラを襲う。
その痛みにリラは強く目を閉じると、手に力を込め、腹圧を一段と大きくかけた。数秒後、腹圧と全身の力が抜けていき、カヌレの声が聞こえた。
「生まれたよ‼︎おめでとう‼︎」
カヌレはそう言いながら臍の緒をハサミで切り、清潔なタオルで赤子を包んだ。直後、リラの耳にも赤子の産声が届き、疲労困憊のリラはなんとか頭を上げ、カヌレの腕の中を見た。
カヌレの腕の中、清潔な白いタオルに包まれた牝のヒトカゲは産声を上げ続け、目を僅かに開いてリラを見た。
「あぁ…」
赤子と対面したリラは声を漏らすと、カヌレから赤子を受け取り、自身の胸の上で抱いた。リラの瞳に赤子の顔が反射し、赤子は泣き声を上げていた。腕の中に広がる赤子の感覚にリラの目元が緩むと、自然と涙がこぼれ落ちた。
「さぁ、リラ様は休んでください」
カヌレはそう言いながら赤子を受け取ると、隣室へと歩いて行った。別の侍女が冷たい水の入ったグラスをリラに渡して、リラはそれを飲み干した。
直後、牡のリザードン、オズボーンが室内に入ってきた。
オズボーンは室内を見渡し、寝台に横たわるリラを見ると興味なさげな表情で「性別は?」と尋ねた。その言葉の意味を理解した侍女は恭しそうにお辞儀をし、オズボーンの質問に応えた。
「ヒトカゲの女の子です」
侍女の報告を聞いたオズボーンは舌打ちすると、隣室から戻ってきたカヌレに目を向けた。カヌレは隣室に待機している別の医療スタッフに赤子を預けると、自身はリラのケアのためにベッドの傍に歩み寄った。
水分補給と止血処理、汚染物をてきぱきと片付けるカヌレを見て、オズボーンは低い声で尋ねた。
「で、これはいつから使える?」
リラの処置をしていたカヌレは手を止めると、怪訝そうな表情でオズボーンを見た。オズボーンの言葉の意味を理解できているリラは目を伏せると、空になったグラスを見た。
意図を理解できないカヌレに対してオズボーンは再度舌打ちすると、めんどくさそうな口調で言った。
「これはいつから性処理に使えるんだ?」
オズボーンはそう言いながらリラを指差した。命をかけて出産したばかりのリラに対する気遣いや赤子に対する言葉すらなく、ただ自身の欲望を満たすことしか考えていないオズボーンの発言に、カヌレは言葉を失った。呆然とした表情でカヌレはオズボーンを見ており、リラは自嘲を浮かべた。
(ライラと大違いだな…)
気遣いができ、皆に親切な牡のライチュウの顔を思い出したリラは、自身が抱かれた相手の本性を再認識し、吐き気を催した。
一方、カヌレは驚きの表情でオズボーンを見つめ、責めるような言葉を口に出しそうになった。しかし、相手はレシラム教の教皇であり権力者でもある。そのような者を相手に反発すれば、どのような目に遭うか、火を見るより明らかだ。
なにより、リラの手がカヌレの腕を掴み、「何も言わないでいい」と言わんばかしにカヌレを制した。カヌレはリラの顔をチラリと見ると、唇を硬く噛み締め、オズボーンの顔を見た。
カヌレの瞳に、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべるオズボーンの顔が反射する。
「…2ヶ月ほど、休養が必要です」
カヌレの返事を聞いたオズボーンは、途端に表情を曇らせると不愉快と言わんばかりに溜息を漏らした。その後、先ほどの下品な笑みを再度浮かべると、カヌレの顔を見た。
「だが、口なら使えるだろう?」
オズボーンの一言を聞いたカヌレの顔が怒りのあまり、真っ赤に染まった。だが、カヌレは震える手で握り拳を作ると、口から飛び出しそうになった罵倒の言葉を喉の奥に閉じ込めた。
オズボーンの性格を知り尽くしているリラは死んだ魚のような目でカヌレとオズボーンを見比べると、疲れたように溜息をこぼした。
やがて、心を落ち着かせたカヌレは息を小さく吐くと、静かな声で言った。
「…お産と疲労のダメージがあるため、2ヶ月は安静です。加えて、母体のストレスは乳児にも影響するため、高度なケアが必要です」
「だが」
「安静です」
女医であり、産婆でもあるカヌレの言葉にオズボーンは反論しようとするが、先にカヌレがそれを封殺した。有無を言わせぬカヌレの雰囲気と周囲の侍女達の視線から、オズボーンは自身の発言が十二分にまずい事を初めて理解し、僅かに動揺した。
罰が悪くなったオズボーンは踵を返すと、急ぎ足で部屋を後にした。その背中を鋭い眼差しで見送ると、カヌレはリラの手を握った。
オズボーンの気配が完全に消えた頃、カヌレはリラに言った。
「…異端審問官として多くの命を奪ってきたリラ様の事を、私は好きになれません」
唐突なカヌレの言葉にリラは閉口すると、目を伏せた。今のリラに返事をする元気はなく、ただカヌレの言葉を聞いていた。
リラの耳にカヌレの言葉の続きが届いた。
「ですが、医師であり産婆である以上…赤子と母親を守り、味方になるのが私の役割です。娘様を産み、命の重さを実感できたことで、リラ様のお考えが変わる事を願います」
カヌレはそう話すと、リラに向かって深々とお辞儀をした。カヌレの言葉を脳内で反響させたリラは、自身が過去に行ってきた事を再認識し、閉口した。
同時に、カヌレという味方が居たことを知り、リラの目尻から大粒の涙がこぼれ落ちた。
同じ頃、リラの部屋を後にしたオズボーンは苛立ち混じりに通路を歩いていた。ゼクロム教から差し出された巫女がオズボーンの子を孕んだ事により、巫女はオズボーンの正式な妻となった。そのため、レシラム教とゼクロム教の和解の式典や各種行事、事務処理などを処理してきたオズボーンは、性的欲求を処理できずにいた。
そんなおり、リラが出産を迎えたことを侍女から知り、さっそく自身の欲求を処理しようと意気揚々とリラの下へ行った。だが、カヌレに制され、侍女達の視線に晒されたオズボーンは面子を潰されたと感じ、非常に怒りを覚えていた。
「…クソッ」
かと言って、カヌレに処分を与えようにも、彼女は何人もの華族の出産を取り上げた凄腕の産婆であり、有力貴族や華族の中にはカヌレを未だに慕っている者が多く居る。
自身の失態の責任をカヌレに押し付けたところで、他の貴族や華族から余計な反発を買う事は避けられない。かと言って、溜まった鬱憤と性的欲求を巫女にぶつけようにも、オズボーンの妻となった彼女は今後も式典に参列するため、丁重に扱う必要がある。
処理しきれない劣情を覚えたオズボーンは、信者か侍女を部屋に連れ込もうと辺りを見回した。
オズボーンの視界に牡のバクフーン、カウフマンの姿が映った。カウフマンは恭しくお辞儀をすると、オズボーンの顔を見上げながら、ニヤリと笑った。
「御子様の御生誕、おめでとうございます」
事務方のトップの放つ言葉を聞いたオズボーンは舌打ちをすると、苛立ち混じりに溜息をついた。そしてカウフマンを見下ろすと、オズボーンはゆっくりと口を開いた。
「…牝のヒトカゲだ」
オズボーンの言葉を聞いたカウフマンは、思わず動きを止めると目を見開いた。通常、レシラム教の教皇は華族から選出され、オズボーンの子が華族であるヒトカゲならば次期教皇の地位が確約される。しかも華族は牡が生まれる確率が非常に高いため、歴代教皇も華族の牡の子が継いできた。
だが、生まれた赤子は牝のヒトカゲであり、ヒトカゲ種でありながら教皇の継承権が得られない事を意味する。その事を即座に理解したカウフマンは、顔を上げると驚きの表情をみせた。
「…これは…巫女様の御子がゼラオラ種だった場合、継承権は巫女様の御子になるかもしれませんね…」
カウフマンの呟きを聞いたオズボーンは苛立ちを隠せないまま、壁を殴った。その音にカウフマンの目が僅かに見開かれるが、彼は即座に自然な表情へと戻した。
オズボーンは重たげな口調で話し出した。
「それだけは認められない。レシラム教の教皇はレシラム様の眷属のみが認められる。異教徒のゼラオラ種がレシラム教の教皇になど…認められるはずがない」
「…しかし、巫女様の腹の子が牡のゼラオラであった場合…牡の子に継承権があります」
カウフマンの言葉を聞いたオズボーンは舌打ちをすると、目を細めながら呟いた。
「…別の娘を孕ませるか?」
ポツリと呟いた言葉は、聞く者に悍ましさを覚えさせるものである。だが、カウフマンは涼しげな表情で首を左右に振ると、オズボーンの顔を見た。
「これ以上、オズボーン様の血を継ぐ御子が増えると…それこそ権力争いの神輿にされる可能性もあります。現状、オズボーン様のお相手に相応しい娘も、華族の娘か巫女様だけになります。巫女様が御出産されるまでは、今しばらく火遊びを控えて頂きたい」
カウフマンの言葉を聞いたオズボーンは握り拳に力を込めると、そのまま自室へと歩いて行った。その背中を見届けたカウフマンは、自身の顎に指を当てると、壁にもたれかかりながら、考え込んだ。
(リラの赤子が牝のヒトカゲ…仮に巫女の腹の子が牡ならば、継承権は巫女の子に与えられる)
カウフマンはタバコを取り出すと、指先に炎を灯し、それを口に咥えた。それを吸いながらカウフマンは思想に耽ると、ニヤリと笑った。
(巫女の子がヒトカゲの牡ならば問題なく次期教皇として継承できる。だが、それ以外だと継承権で争う事になる)
仮に巫女の腹の子が牡のゼラオラ種であった場合、オズボーンは異教徒の姿をした子によるレシラム教の次期教皇を認める訳がない。かと言って、巫女の子が牝であった場合は継承権がリラの子にも与えられるため、また争いの種になる。
いずれにせよ、レシラム教とゼクロム教の不穏はディアルガ教徒であるカウフマンにとって、望むべき事である。
二大宗教の不穏はディアルガ教、時の守護者にとってはチャンスである。グレーテがリラの赤子を狙う理由を理解しているカウフマンは、新たな火種の可能性を見つけ、嬉しそうに笑っている。
「あとはどのように着火させるか…」
そう呟いたカウフマンはタバコの煙を吐き出し、天井を仰いだ。
*
砂の大陸、ラムルタウンの中にあるゼクロム教の教会に牡のルカリオ、オズワルドと牡のガブリアスのゼーンに変幻した牝のゾロアーク、ニコルの姿があった。2人はゼクロム教大司祭である牝のアローラライチュウ、ハルから招待されており、教会内にある応接室の椅子に座っていた。一方で、牝のマフォクシー、ヘレンと牝のエースバーン、エリースは医療拠点の手続きに追われており、この場には居なかった。
「これは…すてきな彫刻品ですね」
オズワルドはテーブルの上に飾ってあるゼクロムを模した石像を眺めながら呟いた。硬そうな石を巧みに削り出し、ゼクロムの逞しい身体を表現している石像は、一目で腕の立つ職人の作り出したものであると伺える。惚れ惚れとした眼差しでオズワルドは石像を鑑賞し、ゼーンは苦笑いと共にオズワルドに目を向けると、「壊すなよ」と茶々を入れた。
「大丈夫ですよ」
オズワルドは微笑みながら応えると、椅子に座り、室内を見渡した。応接室内にはいくつもの調度品が飾られており、ゼクロム教の技術と歴史の深さが伺える。華々しさが目立つレシラム教とは異なり、力強いデザインが目立つゼクロム教は、また違ったアイデンティティを持っている。
それに気づいたオズワルドは、ニコニコと笑いながら室内を見ていた。そんなオズワルドの顔を見たゼーンは口を開くと、低い声で尋ねた。
「そんなに珍しいものかい?」
ゼーンの問いにオズワルドは首を傾げると、少し考えてから応えた。
「…レシラム教とゼクロム教、互いに特徴が違う宗教同士が手を取り合い、命を守る取り組みに励む…素晴らしい事だと思いますよ」
オズワルドの返事を聞いたゼーンは「そうか」と呟くと、出された紅茶を飲んだ。レシラム教が好む芳醇な香りの茶葉と異なり、ゼクロム教の茶葉はシンプルながら奥深い味わいがあり、それにゼーンは頬を緩めると、続けて紅茶を飲んだ。
ゼーンもまた、ゼクロム教の文化を楽しんでおり、紅茶を嗜む彼の姿を見たオズワルドはニコニコと笑みを浮かべていた。
応接室の扉が開かれた。
オズワルドとゼーンが視線をそちらに向けると、扉の向こうにはハルとゼクロム教助司祭である牡のレントラー、ランプの姿があった。ハルとランプはオズワルドとゼーンに対してお辞儀をすると、応接室内に入ってきた。
「この度は、色々とご支援いただき、誠にありがとうございました」
ハルはオズワルド達の向かいの椅子に腰掛けると、再度お辞儀をした。その間、ランプはゼーンとオズワルドにも新しい紅茶を淹れると、茶菓子と共に差し出した。ハルの言葉と態度にゼーンはゆっくりと首を振ると、ハルの手を握り、彼女の目を見た。
「こちらこそ、テント群の設置や信者の方々への説得など…ハル様には多くの面で助けられました。今後とも、ゼクロム教とレシラム教が互いに手を取り合えるように協力していきましょう」
ゼーンの言葉を聞いたハルは涙目で見返すと、ランプの淹れた紅茶に口をつけた。オズワルドとゼーンもまた、紅茶に口をつけると、ゼクロム教が嗜む茶葉の味を楽しんだ。
「…美味しいです」
オズワルドの呟きを聞いたハルは涙目のまま、満面の笑みを見せると「ありがとうございます」と応えた。
「ラムルタウンの近くの村で取れる茶葉ですが、ペストの流行で住民が全滅しかけていました…ですが、オズワルド様とゼーン様達のおかげで、住民の命は救われ、新たな茶葉も取れるようになりました」
ハルの説明を聞いたオズワルドは、自然と頬を緩めると紅茶を飲んだ。深みのある味が口内に広がり、オズワルドの目元が緩む。
ゼーンもまた、オズワルドと同様に紅茶の風味を楽しむと、焼き菓子に手を伸ばし、それを口に含んだ。サクサクと軽やかな食感が口内に広がり、同時に芳醇な麦の香りがゼーンの口内を満たした。ゼーンは思わず目を細めると、焼き菓子と紅茶の味を堪能していた。
「これはまた…ずいぶんと美味しい焼き菓子ですね」
ゼーンの一言にハルはくすくすと笑うと、隣に座るランプを見た。彼の頬は恥ずかしそうに赤くなっており、ハルの視線から逃れるように顔を背けた。
涙目のハルは小声で笑うと、ランプの横顔を見た。
「そのお菓子は、ランプが焼いた物です」
ハルの言葉を聞いたオズワルドとゼーンは感心したように唸り、当のランプは恥ずかしそうに目を伏せた。だが、オズワルドはそんなランプを見ると、ニコニコと笑いながら声を発した。
「凄く美味しいですよ。味わい深い紅茶と後味がさっぱりしている焼き菓子…最高の組み合わせです」
掛け値の無いオズワルドの言葉を聞き、ランプは頬を赤めたまま「ありがとうございます」と応えた。そんなランプの姿にハルはくすくすと笑うと、自身も紅茶と焼き菓子を楽しんだ。
そして、それらを喉の奥に流し込んだハルは目を伏せたまま、口を開いた。
「…オズワルド様やゼーン様のように、友好的な方ばかりでしたら…どれほど楽でしょうか」
そう呟いたハルはゼクロム教とレシラム教の現状を憂い、悲しそうな表情を浮かべた。それはランプやオズワルドも同様であり、彼らは口を閉じるとハルの言葉に傾聴していた。
「…しかし、ゼクロム教から巫女様がオズボーン教皇の下に嫁がれた以上…以前のような衝突が減るのではないでしょうか」
ゼーンの問いにハルは小さく頷いた。
「実は…姉様から頼りが届きまして…まもなくオズボーン様の子が産まれるそうです」
ハルの言葉を聞いたオズワルドとゼーンは目を丸くさせた。それは彼らも初耳の情報であり、レシラム教も公式発表していないものだ。
「…それは、初耳ですね。おめでとう御座います」
故に、ゼーンの声は微かに震えており、ことの重大さがオズワルドにも伝わる。オズワルドは驚きの表情を浮かべ、紅茶を一口飲んだ。口内に深みのある味と香りが広がるが、オズワルドの表情は驚きの色で染まっていた。
紅茶を喉の奥に流し込んだオズワルドが口を開いた。
「という事は、次期教皇は巫女様とオズボーン様の子供ということになりますか?」
彼の問いにハルは自信なさげに頷いた。
「…姉様の子をきっかけに、ゼクロム教とレシラム教の対立が解消すればいいですよね」
ハルは弱々しい笑みで応えた。経験もなく、まだ年若い大司祭にとっても、巫女の懐妊は非常に大きな事案であった。
そんなハルを観たゼーンは大きく頷くと、ゆっくりとした口調で応えた。
「今度こそ、ゼクロム教とレシラム教の対立が改善し平和になれば良いですね」
ゼーンの返事を聞いたハルは涙目のまま頷くと、震える声で呟いた。
「はい、姉様も同じ気持ちで嫁がれたと思います」
ハルの指が紅茶のカップをカタカタと震わせた。
*
草の大陸、トレジャータウンの入り口付近にあるパッチールのカフェ。
ランチタイムが終わり、昼下がりの店内は人影がまばらに見られた。牡のジュプトル、カフカは牡のヨノワール、フランツは店番をヤミヤミ達に任せて、遅めの昼食を終えたところであった。カフカは木の実のジュースの入ったカップを手に取ると、それを口内に流し込んだ。
甘さと酸味が口内に広がり、カフカは満足そうな表情でジュースを飲み込み、続けて木苺のパイへと手を伸ばした。パッチールのお手製のパイはサクサクとした食感と小麦粉と木苺の匂いが広がり、味覚と嗅覚、食感で楽しめるものである。
カフカはパイを咀嚼し、風味を楽しんでいた。
「ずいぶんと美味そうに食べるんだな」
正面の椅子に座っているフランツの言葉を聞いたカフカは「まあな」と返すと、パイを喉の奥に流し込んだ。
「ここの料理は最高の味だからな…そういうフランツもお代わりしているだろう」
カフカの指摘にフランツは低い声で笑うと、ジュースを飲んだ。時の守護者を裏切り、カフカの仲間になったフランツの表情からは、以前は見られた陰が無くなっていた。精神的にも楽になっているフランツの表情も豊かになり、こうして料理を楽しむ余裕も生まれていた。
フランツはミートパイを食べると、肉汁と生地の味を楽しみつつ、満足そうに目を細めた。
「美味い、な…」
フランツはぽつりと呟いた。未来の世界では食べ物や物資が欠乏しており、料理を楽しむなどの余裕がなかった。故に干し肉や塩漬け肉など保存に長けたものばかり食べていたフランツは、過去の世界で料理の味に見事はまってしまった。
フランツの完食した皿を見るカフカは、ニヤリと笑うと声を抑えた。
「…ここだけの話、デザートもあるぞ」
カフカの言葉を聞いたフランツは目を細めると、僅かに身を乗り出した。
「…詳しく教えてもらおうか」
食い意地を隠そうともしないフランツの姿は、時の守護者フランツと同じ人物であると思えないものであった。過去の世界の穏やかな空気がフランツを変化させている事を肌で感じ、カフカは内心破顔しながら応えた。
「卵と小麦粉を溶いたものを薄く焼き、中に木の実や果物、クリームを山盛りにしたスイーツだ。クレープというらしいぞ」
「…クレープ」
カフカの説明を聞いたフランツは、初めて聞いたデザートの名前を復唱すると、その味を想像した。味や食感、風味を想像したフランツの目尻は緩んでおり、それを見たカフカはニヤニヤと笑うと店主のパッチールにクレープを注文した。多忙な時間帯ならば少し待つ必要があったが、客がまばらな時間帯なので、作り立てのクレープがすぐに届いた。
「お待たせしました〜、クレープと各種シロップです〜」
カフカとフランツの前に作り立てのクレープとシロップが置かれた。それを見たフランツは生唾を飲み込むと、ゆっくりとした手つきでクレープを掴み、一口頬張った。
フランツの顔は綻んだ。
フルーツの酸味とクリームの甘さが混ざり合い、小麦粉の香りがそれらを包み、フランツの口内に広がった。一口食べただけでクレープの虜となったフランツは、付け合わせのシロップを手に取り、風味を変えて新たな味を試していた。
瞬く間にクレープを気に入ったフランツを見て、カフカも笑うと同じようにクレープを口にした。
やがて、デザートを食べ切ったカフカとフランツは満足した表情で余韻に浸っていた。2人のそんな姿をカウンターから見たパッチールは、心底嬉しそうに口角を緩めていた。
「…うん、これは癖になるな」
フランツはそう言うと、「クレープ、覚えておこう」とぶつぶつと呟いていた。
「だろう?俺のオススメの一品さ」
カフカはフランツに話すと、視線を店の入り口へと向けた。地上に繋がる階段から降りてきた人影が店内に入ってくる瞬間をカフカは捉えており、加えて人影が友人である牡のザングース、コールマンである事に気がついた。
コールマンもまた、カフカとフランツの存在に気がつくと、空いている彼らの卓の空いている椅子に腰掛けた。
「店の調子はどうだ?他の探検隊やギルドからも好評の噂は聞いているが…」
パッチールに注文を通したコールマンの問いに、カフカは頷くと「おかげさまでね」と応えた。
「売り上げも良く、客も途絶えないから助かってはいるよ」
「それは良かった。最近は殺害事件や強盗事件が多くて物騒だからな…気をつけた方が良いぞ」
コールマンのアドバイスにカフカは「ありがとう」と返した。もっとも、コールマンの言う殺害事件や強盗事件の中にはカフカやフランツ、ヤミヤミ達が始末した時の守護者が含まれているのは明白であった。
それを知っているフランツは背筋が冷えたが、カフカは穏やかな表情のまま返事をしており、彼の肝の太さが窺えた。
「あとは…探している友人が見つかれば、最高なんだけどな」
苦笑いのカフカの言葉を聞いたコールマンは「友人?」と不思議そうな声を漏らし、フランツを見た。その視線の意図に気付いたカフカは首を小さく振ると、コールマンに声をかけた。
「フランツとは別の友人だ。牡のリオル…グレーゴルというヤツだが…何か知らないか?」
カフカの問いにコールマンは考え込むと、すぐに手を叩いた。
「名前は違うが…オズワルドというルカリオがこの街に住んでいるぞ」
コールマンの情報を聞いたカフカとフランツは互いの顔を見ると、目を見開いた。そしてフランツはコールマンの顔を見ると、「初耳だ」と返した。
フランツの指摘にコールマンは笑うと、運ばれてきた料理に手をつけた。
「そうだよな、確か…今は医療支援の活動のために砂の大陸に渡っている筈だ。戻ってくるのは、まだ先だと思うぜ」
料理を食べたコールマンの言葉を聞き、カフカは大きな目を更に見開くと、驚きの顔をコールマンに向けた。カフカの表情にコールマンも目を丸くさせると、不思議そうに首を傾げた。
「…それで、オズワルドはどこに住んでいるんだ?」
カフカの問いにコールマンは店の入り口を指差すと、カフカの顔を見て言った。
「店を出てから交差点を抜けて…街外れにある林の中にある診療所を兼ねた洋館に住んでいるぞ」
コールマンの言葉を聞いたカフカとフランツは心拍数が上昇するのを感じた。長い時間を経て、ようやくグレーゴルと再会できる可能性を実感し、カフカは小さく息を吐いた。