ねじれの位置のお前

  物心ついた時から、俺はあいつと時間を共にしていた。明るくて面白いあいつは、誰からも好かれていた。

  「灰牙くん! 一緒に砂遊びしよ!」

  狼獣人という種族柄一人で校庭の隅にしゃがんでいた俺の手を引いて砂場へ連れ出すのはいつもあいつだった。全員から怖がられる狼獣人を、こいつは何も言わずに受け入れる。

  「じゃあ、これが灰牙くんのケーキ! こっちは、僕のケーキ!」

  水で固めた砂を器用に三角形にして、こちらに差し出す。それを食べる素振りをすると、キラキラとした目でこっちを見つめる。

  「おいしい?」

  「⋯⋯うん」

  「やったー!」

  その姿に、俺は恋に落ちた。初めは無垢で清らかな淡い恋心だった。しかし、いつの間にか汚れ切って澱んだそれを俺は隠すことができなくなっていた。

  なによりも尊ぶべきものを、自らの手で汚すことに興奮を覚えてしまった。

  真っ赤な夕焼けが照らす水浸しの床。跳ねる金魚。びしょ濡れになった姿に、俺の胸は高鳴る。ピチピチと金魚は恨めしそうに、虚空を睨んでいた。

  「おい! どうしたんだ!?」

  「⋯⋯あ、灰牙くん」

  今にも泣きそうな顔をしたまま、にっこりと歪な笑みを見せる。それがたまらなく愛おしい。

  「⋯⋯虐められたんだろ。大丈夫か?」

  「いじめなんて、ない。大丈夫だから」

  「何言ってんだ! 俺はお前の味方なんだぞ⋯⋯! 正直に言え!」

  生臭い匂いもお構いなしに抱き寄せると、腕の中で鼻を啜る音が聞こえる。

  「さっき、金魚の水換えをしようとしたら。⋯⋯ヒック、水槽を揺らされて」

  「ごめんな⋯⋯。俺がそばにいなかったから」

  そう言って、俺の存在が必要不可欠であることをこの腕の中の生き物に教え込んでいく。思わずニヤリと口角が上がってしまいそうなのをなんとか抑えるために、両肩を強く抱きしめた。

  このようなことをしなければいけなくなった理由がある。

  小学校生活の中で、あいつはみんなの人気者だった。必然的に、あいつの中で俺という存在は相対的に忘れられていく。最初は微笑ましく見ていた他の友人と笑う姿は汚れた嫉妬心に飲み込まれていき、最終的にはこの世界で一番憎い景色に見えるようになった。

  ——この奪われた時間を取り戻すには、あいつを孤立させればいい。

  まずは、金魚の水換えを邪魔するように指図した。もちろん自分が邪魔しては意味がないので、他人にやらせる。

  そこで、気の弱そうな兎獣人をターゲットにする。

  「⋯⋯えっ、僕いじめなんてしたくなっ」

  ドスッ。地面に倒れ込む小さな兎獣人にもう一度蹴りを入れる。

  「いいからあいつをいじめろ。やんなかったら分かってんだろうな?」

  ボロボロと流す涙。綺麗でもなんともない。あいつの涙はもっと綺麗なのに⋯⋯。

  「泣いてんじゃねぇぞ。お前、逆らったらもっと酷いことするからな」

  「⋯⋯ひぅ、わかり、ばじだぁ」

  まずは、いじめをさせるように仕向ける。そうすれば、周りは自分がターゲットになりたくない心理で関わりを持たなくなる。そこで、俺があいつを助ければあいつは俺だけを見てくれる。

  ⋯⋯完璧な計画のはずだった。

  明日から中学最初の夏休み。周りは明日からの生活にウキウキとしていたが、俺はイライラしていた。

  その原因となっている奴を校舎から引き摺り出して、人通りが少ないところへ向かう。

  「⋯⋯なんで今日は何もしなかったんだこの無能が」

  「ごべんなざい! ごべんなざい!」

  いじめは、続けなければあっという間に終わってしまう。もともと人気者のあいつをいじめたいやつなんて、誰もいない。

  「クソが。てめぇ、これがどうなってもいいのか?」

  人質として奪っておいた、筆箱。こいつの親が、お金を貯めてなんとか買ってくれたものらしい。

  「⋯⋯そっ、それだけは! やめてください! ごめんなさい! ごめんなさい! おかあざんが買ってぐれたやつなんでずっ!」

  滝のように涙を流して、大声で喚き出す。バレないように口を腕で塞ぎ黙らせながら体育館裏の小屋に引き摺り込もうとした時だった。

  「⋯⋯灰牙、くん?」

  俺を呼ぶ声に、心臓が高鳴る。後ろを振り向くと、大きな制服に身を包んだ小さな身体はブルブルと震えていて、とても可愛らしい。

  「⋯⋯なに、その子? 筆箱って⋯⋯え? え?」

  「ああ、今こいつに注意してたんだよ。お前をもういじめないようにってな。痛い目見せねぇとわかんねーだろ? お前は気にしないで帰っても大丈夫だ」

  いつものように笑顔で近寄ると、彼は一歩後ずさる。なぜ、俺から離れた? その仕草に表情筋が強張る。

  「⋯⋯でも、今日は何もされてないし。それに、その筆箱お母さんが買ってくれたって」

  ⋯⋯俺を見ていない。慈しむ瞳は、完全に自信を虐めていたはずの兎に向けられている。

  「⋯⋯は? お前、俺を疑ってるわけ?」

  「⋯⋯いや、そんなはずないって思いたいよ。でも、今までのことも全部君がやってたって考えたら納得がいくから⋯⋯」

  ——今、君って呼んだ。

  その時に、何かが俺の中で途切れる音がした。

  「⋯⋯はぁ、バレたらしょうがねぇか。そうだよ。今までお前をいじめるように指示してたのは俺だ」

  信じたくなかった。そういうように口をパクパクとさせ、目を潤ませる。ああ、なんて可愛いのだろう。俺の愛する人が俺を見て、俺を恐怖して、泣いている。

  ——この顔が、たまらなく好きだ。

  「⋯⋯だって俺、お前が好きなんだよ。お前は俺だけを見ていればいい。お前には俺以外の存在はいらないのに。お前は他の奴を見ているし、他の奴もお前を見てる」

  「そんなの、おかしいよ⋯⋯」

  「そもそもお前が俺を愛さなかったのが悪いんじゃないか。俺はお前だけをずっとずっとずっと見てたのに、お前は周りに笑顔を振りまいて、人気者で、俺の存在はちっぽけなんだろ! 俺の気持ちはどうなるんだよ。なあ。おい!」

  大きな声で怒鳴ると、小さな身体をビクッとさせる。完全に固まってしまった彼の方をぐいっと引き寄せ、キスをする。

  離れようと抵抗する素振りをみせるものの、俺の力に敵うはずもない。俺は口の中へ舌をねじ込み、甘い味を堪能する。

  温かな舌が逃げるのを追いかけるように動かして絡めあいながら遊ぶ。それは、獲物を捉える狩猟本能をくすぐるようで、独占欲を満たすには充分だった。

  ピチャ、クチョ、クチュッ⋯⋯。

  水音が薄暗い駐輪場の中に響く。誰も通ることのない、隅っこで行われる情事。

  「⋯⋯ハッ、おえっ。ゲホッ」

  「分かったか? 俺はお前をこんなに好きなのに、お前は俺に応えてくれない。それなら、俺を愛してくれるようにするのは当然だろ」

  胸の中に秘めていた愛情を、全て曝け出す。これなら、納得してくれるはず⋯⋯。

  「⋯⋯二度と近寄らないで」

  冷たく放たれた言葉。その意味が分からず何度か反芻するもさっぱり理解できない。

  「⋯⋯あの。ごめんなさい! 今まで、僕、僕」

  「⋯⋯いいよ。そしてこれ君の筆箱。ごめんね、巻き込んで」

  俯いたまま足速に帰る姿。追いかけようとしても、身体が動かなかった。

  ——一週間後、彼は遺書を残して校舎から飛び降りた。

  幸い大きな怪我はないようだったが、ショックで記憶を失ったと話を聞いた。

  その原因である俺はもちろんのうのうと学校に通うことができることもなく、転校することになる。なんてことをしてしまったんだと、自分で責め続ける日々を送った。

  それから生きる気力を失った俺は、ただ毎日をボーッと暮らすだけだった。高校も適当に選び、惰性で生きていた。

  小さな頃に撮った写真を一枚忍ばせながら、それを見つめたりしては大切にしまう。それを繰り返す。

  高校を卒業した春。適当にブラブラと遊んでいた時に、俺は運命的な出会いを果たす。

  「⋯⋯あの、東浜大学の場所を教えていただけませんか?」

  若干低いものの聞き覚えのある声質とトーン。それに耳がピクリと反応する。

  「⋯⋯東浜大学。こっちです」

  彼の手を引いて、街を駆け抜ける。生きる気力を取り戻したように、足が軽やかに動く。

  東浜大学にいけば、また会える。やり直せるという希望が、俺を動かす原動力になった。

  「⋯⋯ありがとうございます。その、地元じゃなくて。迷ってしまい」

  俯いて、目線を合わせないように彼はもじもじとそう話す。

  「なるほど。ちなみに何学部で?」

  「⋯⋯えっと。文学部、です」

  それを聞いて、俺は東浜大学の文学部に入ることを誓う。今まで何もしてこなかった俺に、受験勉強は苦痛でしかなかったが俺は東浜大学に入るためにペンを動かし続けた。

  本当ならば同じ文学部に入りたかったが偏差値が足りず、俺が入れそうな学部となったわけだが⋯⋯。まあ同じ大学に入ることができればそれだけでいい。今度はうまくやる。俺は、変わる。

  入学してから初めにやったことは彼がどのサークルにいるのか。どのバイトをしているのかを調べることだった。サークルは無所属。バイトはスーパーの品出し。それはすぐに知ることができた。

  「⋯⋯よろしくお願いするっす!」

  同じスーパーの、同じ品出し担当。シフトも何もかも、全てを合わせた。昔のことを思い出して避けられないように、俺は人懐っこい後輩を演じ続けた。

  隣で黙々と商品を並べる彼に俺は静かに尋ねる。

  「⋯⋯先輩って、好きな人とかいないんすか?」

  記憶を失った後の彼は、昔とは違ってつまらない冗談には反応しないらしい。しかし、会話を終わらせないために俺はまた口を開く。

  「⋯⋯あのー、これの場所がわからないんすけど」

  「⋯⋯えっと、それは」

  困っている人にはオドオドとしながらも力を貸そうとするところは変わらなかった。優しくて、すぐ悪人に染め上げられてしまいそうな純粋さ。むしろ、他の人と話したがらない今の性格は俺にとって都合が良かった。

  ⋯⋯秋になって、俺は二人での旅行を提案した。提案といっても、彼は押し通せば断ることができないだろうからプランをあらかじめ立てておき、それを伝える形で。

  どんな服で行けばいいのか分からないだなんて可愛らしいことを言うのだから、俺は彼のために作られたのではないかと思うくらいに似合う服を選んだ。

  でも、彼は何も身に纏わない方が美しいだろう。服など、不純物でしかない。

  行き先は京都。俺の地元だって嘘をついて念入りに下調べをした。その甲斐あってかトラブルもなくいろんなところを巡った。

  俺には景色なんて目に入っていないけれど、楽しそうに俺についてくる姿は天使のようだった。

  暗くなった道。そろそろ帰ろうかと思っていたものの、不意に俺はこの小さな彼が消えてしまうのではないかと言う想像をしてしまった。そんなことはあり得ない。今まで完璧な後輩だったじゃないかと思いながらも、心臓は意を反して高鳴り続ける。

  このままでは、いなくなってしまうのではないか。一度よぎった考えは脳にこびりついて、目の前の存在を逃がしてはならないという本能を掻き立てる。

  ドクドクと高鳴る心臓。儚げな彼の腕を掴んで、告白をしてしまう。

  ——もしも、この告白を受け取ってくれたのならどれほど嬉しいだろうか?

  「⋯⋯ごめんね」

  放たれたのは、いつものように気持ちを押しはかるようなトーンの声。仕方がないはずなのに、もともと俺が一緒にいる資格なんてあるわけがないのに、澱んだ感情が一気に湧きがある。

  劣化した石膏像のようにガラガラと音を立てて崩れていく、今まで取り繕っていた姿。

  ⋯⋯それからは、あっという間だった。

  嫌がる様子の彼の顔に跨って、腰を振ると加虐心がそそられる。声にならない声をあげて、生理的な涙で目を潤ませる顔。これが、今までに足りなかったもの。昔にはあった、あの顔。

  「もうこんな本性がばれたらよぉ、我慢した方が後悔するよなぁ?」

  本当はこんなことをしてもいい立場ではないはずなのに、それでも腰は止まらない。身勝手に溜め込んでた不満を全て小さな身体にぶちまけていく。

  ズチュ、ズチュ。唾液の混じる音と苦しそうな表情。それがさらに感情を昂らせる。

  「先輩! よろしくっす! とか、それだけで別人だと思いこんでたのほんと笑えるわ。ちょれー」

  弄ぶために放ったこの言葉。しかし、これを聞いた彼の顔は意外にも落ち着いたような、そんな顔だった。

  試しにいつものように後輩を演じてみると、面白いように甘えてくる。どうやら、本性を晒していなければいつかはこうやって蜜月の時を過ごせていたのかもしれない。

  とろりとした表情をした愛しい恋人を、腕の中で抱く。俺の名前を懸命に呼んで、俺を見つめて離さない。

  しかし、それは俺に向けられたようで実際には俺ではないものに向けられているのだろう。

  欲望のままに肉壁を擦る。乱れた、真っ赤な顔。幸せそうにした、微笑みを視界に入れながら。

  「⋯⋯さて、もう満足か?」

  わざと声色を変えると、目の前の獲物は顔を青ざめていく。幸せから絶望へと転落する一連の様子を、俺の腕の中で見せる。

  いつの間にか歪んでしまった俺の愛情は、彼が幸せに生きるだけではなく苦しむ姿も同じように欲していた。

  「⋯⋯えっ、あっ、あっ!? なんでっ、いやっ! 抜いてっ!」

  途端に涙を目の端から流して嫌だと懇願する姿。そんな無駄な抵抗をするところが、最高に微笑ましい。

  「はぁ? さっきまであんなに気持ちよさそうにしてただろ。ほら、キスするか?」

  昔、一度だけしたような激しく濃厚なキス。絡み合う二枚の舌がそれぞれ捕食者と被捕食者のように口内で戯れる。

  今までに感じたことのない快感が、全身を襲う。待ち侘びた獲物を自分のものにすることができたことへの達成感や、無理矢理の行為への背徳感が背筋を駆け上った。

  ビューッ! ビューッ! ビュ! ビュビュ⋯⋯。

  中で吐精するたびに、それを注がれる小さな体が跳ねるように震える。持続的に放たれる彼の精を指で掬いひと舐めすると、何故だか甘く感じるのだった。

  自室のカーテンを閉める。二人で粛々と服を脱ぐ。布が落ちる音、ベルトを外す音。それだけが部屋の中に響く。

  不貞腐れたような顔の頬に、触れるだけのキス。すると、先ほどとは変わって恍惚の笑みを浮かべる恋人の姿が目の前にはあった。

  「⋯⋯あの日から毎日ムズムズして。ねぇ、灰牙。しよ?」

  「先輩、すっかりエッチになっちゃったんすね。いいっすよ、ベッドに寝てください」

  ロールプレイの後、言われるがままに仰向けになる彼の上に覆い被さるようにして、再び口づけを交わす。今度は舌を絡めて濃厚に。

  「⋯⋯本当にお前を愛してるんだけどな」

  ボソッとそう呟くと、目の前の彼は冷めた目線をこちらに向ける。薄暗い部屋の中、腕の間でこちらを睨む小さな恋人に、俺はため息をつく。

  「⋯⋯うるさい。どうでもいいからはやく戻して」

  「はいはい。⋯⋯じゃ、先輩。今日も一緒に気持ちよくなりましょうね」

  そうやって『灰牙の真似』をすれば、目の前の獲物はたちまち顔を赤らめる。初々しい反応が、俺自身に向けられないことに何とも言えない不快感を覚える。

  「⋯⋯うん」

  彼が見ているのは、『灰牙』。それは、俺であって俺ではない存在。

  いつもはこんなこと思わないはずなのに、どうしてだろうか。なんだか無性に癪に触る。

  「⋯⋯じゃあ、動くっすよ?」

  ギシ、ギシ⋯⋯。

  ベッドの軋む音に合わせて、かわいらしく喘ぐ声が部屋の中に響く。犯しているのはたしかに自分であるのだが、何故だか別の男に犯されているように錯覚してしまう。今日は、中に出す瞬間にこの変身を解いてやろう。

  ——交差しているようで、実際にはねじれの位置のこの関係。

  歪んだ関係は、いつか終わりを告げるのだろうか?