スカイフックを夢に見て 前

  「はぁーあ……。ありえねえよな、マジで……」

  

  ある高校で、青空の下に暗いため息が聞こえた。

  

  大型連休を抜けた五月の中旬、新緑の色が眩しくなってくる頃である。

  中学を卒業し高校へと入学した新入生たちの新たな友人関係も軌道に乗り、昼休みともなればそこかしこで賑やかな声が響いている。上級生たちだってそれは似たようなもので新クラスにまだ少し浮かれており、どの教室を覗いても大抵の者は皆明るい顔をしていた。

  だがそんな喧騒を避けるようにして、うす暗い校舎裏に憂鬱な顔をした学ラン姿の虎獣人が一人。

  彼は校舎の裏口と地面をつなぐコンクリートの階段に腰かけて、ぼんやりと空を眺めていた。

  

  寅谷幸一(とらたにこういち)。

  

  今年18歳になる、高校三年生の虎の青年である。

  その身長は180センチを悠に超え、運動部に所属しているためか胸板は厚くがっしりとした腕も逞しい。虎獣人という種族ゆえに少々強面なのが玉に瑕だが、根は明るい性格なので友人も多い。

  ……いや多かった、のだ。

  寅谷が所属しているのはバスケットボール部。さらに彼はチームのエースでしかもキャプテンであった。親譲りの高身長と類まれなる瞬発力を武器に、寅谷は二年生の頃からスターティングメンバーとして活躍していた。昨年の秋にはキャプテンに就任し、寅谷率いるバスケ部ならば今年の夏こそは地区大会を突破し全国へ出場できるだろうと期待されていた。

  だが、先日のゴールデンウイークに行われた強豪校への遠征試合。

  そこで――

  

  寅谷は、再びため息をつきながら自分の右脚に目を落とす。

  そこには、サポーターでガチガチに固められた彼の膝があった。受傷から日が経つというのに、まだ熱を持って腫れ上がっているのが分かる。

  あの最後の試合の第4クォーター。

  ゴール下で味方からのパスを貰った寅谷だったが、相手センターの圧力を背後に受けながらスピンターンを決めた際、ぶちりという音と共に右膝に激痛が走り、その場に呻き声を上げて倒れてしまった。

  即座に救急車で病院へと運ばれたが、診断は右膝前十字靭帯の断裂。

  リハビリを含めて全治8か月の大怪我である。手術をしたとしても、夏のインターハイはおろか冬のウインターカップにすら間に合うかどうか。

  

  (……冬までに、怪我をする前と同じ動きは出来ないと思っておいた方がいい)

  

  医師にそう告げられた時、寅谷は生まれて初めて目の前が真っ暗になるという感覚を経験した。

  中学校の頃からバスケットだけに情熱を傾けてきたというのに、その六年間の集大成の大会を前にしてこんな有様とは。寅谷は天と自分の膝を恨むしかなかった。

  (あーあ。なーんもやる気しねえよなあ。まさか、怪我で引退なんてよ……。みんなも同じようなことしか言ってくれねえし……)

  寅谷は胸中で繰り返しため息をつく。

  連休明けに学校へ来た時のクラスメイト達のぎょっとした顔と、腫れ物に触るような対応が彼の脳裏に浮かんだ。さらには、部活に行った時のチームメイトたちの憐れむような目、顧問の慰めの言葉、自宅での両親の励まそうとしてくる懸命な顔――。

  全てが嫌だった。

  同情されるのも可哀想に思われるのもまっぴらだった。ただでさえ落ち込んでいるというのに、余計に自分が惨めになる気がして。

  だからここ数日の寅谷は、昼休みになると校舎裏でこそこそと購買のパンを齧るのが日課になっていた。春の陽気の下、一人でのんびりと雲を見つめて物思いにふけっている時だけが今の寅谷の自由な時間だった。暗い気持ちのまま、賑やかな教室にいることが我慢出来なかったのだ。

  友人たちも陰鬱な顔をした大柄な虎にどう声をかけていいのか分からないようで次第に寅谷を遠巻きにし始めており、最近の彼は教室でも独りぼっちで過ごすことが多くなってきてしまっていた。寅谷本人がそれでも構わないと捨て鉢になっていることが、その孤独にさらに拍車をかけているのだが。

  ごろり、とコンクリートに身体を預けて寅谷は寝転び、独り言ちる。

  (……もう少しで、出来そうだったのになあ)

  彼の得意技は、その体躯とジャンプ力から繰り出されるフックシュートと呼ばれる特殊なシュートだった。従来のフォームとは全く異なるそれは、相手に密着された状態でも放てるため非常にブロックされにくい。寅谷が子供の頃に観たとあるプロ選手のプレイを真似て始めた技だったが、いつの間にか彼自身の強力な武器になっていた。高校で早くからレギュラーに選ばれたのもこのフックシュートのおかげである。

  寅谷は空を見上げたまま、幼い頃に見た憧れの選手の姿を思い出す。

  

  

  “スカイフック”。

  

  

  それが、芸術品とも形容された最強のプレイヤーが使う無敵のフックシュートに名づけられた異名だった。

  高身長と長い腕から生み出されるそのシュートは、打点がゴールより上であるために理論上ブロックは不可能とされる。「シュートに際してゴールよりも高い位置の落下するボールに触れる」ことが、バスケットのルールでは反則だからだ。

  生きた伝説と呼ばれたそのプレイヤーは、スカイフックを左右両手でしかも相当な遠距離から放つことが出来た。最強のバスケットボールプレイヤーを論ずるならば必ずと言っていいほど名前の挙がる人物である。

  寅谷の身長はバスケットボールの選手としては決して高い方ではない。だが彼の持ち味は、自分より身長の高い相手にさえ最高到達点で互角に勝負できる下半身のバネだった。寅谷はそのジャンプ力に加えて猛練習に猛練習を重ね、相手の上から投げ下ろすスカイフックをもう少しで実戦使用が可能なところまで来ていた。

  それなのに、ゴールデンウイークの試合が全てを変えてしまった。

  ずっと憧れの選手に近づきたくて、寅谷はバスケットを続けてきたのだった。夢にまで見た、宙に美しい弧を描くスカイフックを自分の手で再現したくて。

  

  せめて、せめて、夏の大会まで時間があれば――

  

  (――はっ、済んだことをぐじぐじ言ってもしょうがねえよな。……俺の高校バスケは、もう終わったんだ)

  だが、そう思って諦めようとしてみても寅谷の胸はじくじくと締め付けられるように痛んでいた。彼はまだ、喪失感と挫折と悔恨で一杯だった。

  苦しさに耐えて走り込んだことも、毎日のように居残りでシュート練をしたことも、ゲロを吐きながら夏の練習に耐えたことも、仲間と交わした約束も、ライバルとの決着も。

  全部、無駄になってしまった。最早全てが遠い日の出来事のようだ。

  寅谷の瞳に浮かぶ白い雲が、じんわりと滲んで見えた。

  「完成、させたかったよなあ……スカイフック――」

  虎の口から弱々しい声が漏れる。

  

  

  だが、そこへ。

  

  

  「――お前さん、スカイフックを知ってんのかいっ?」

  

  

  周りに誰もいないと思っていたところへ突然嬉しそうな声が降って来て、驚いた寅谷は思わず身を起こした。

  寅谷の目の前に、小さな段ボール箱を肩に乗せた立派な体躯の一人の男子生徒が立っていた。

  いい体格――というよりかなり太った狼の獣人である。黒い学生ズボンにワイシャツという指定の服装の上に何故かくたびれた白衣を羽織っている恰好が目を引くが、おそらく前に突き出た腹にひっかかって白衣のボタンは閉められないであろう。

  狼という種族はスマートな者が多いというのに珍しい、と寅谷は思った。

  狼生徒の灰色の毛並みはボサボサなことに加えてその中には白髪もまばらに混じっており、よれよれの白衣と相まってどことなく老けた感じのする年齢不詳な風貌である。学生服を着ていなければ教師の一人と思ったかもしれない。マズルには黒縁の小さな丸眼鏡が乗っており、少々古臭いデザインのそれが彼の纏った雰囲気と妙に似合っていた。

  起き上がった寅谷と目が合うと、狼は牙を見せてにいっと笑う。

  「いやいや、こんなところで仲間に出会えるとはなあ。先生のパシリも存外悪いことばかりじゃねえな」

  そう言って、狼は空いた手で寅谷の肩に手を置いた。「せっかくの縁だ。まだ五限目までは時間もあるし、お茶でもしようじゃあないか。旨いコーヒーなんかどうだいっ?」

  

  

  

  

  

  [chapter:スカイフックを夢に見て]

  

  

  

  

  1

  

  (どっかで見たことあんだよな、コイツ……)

  

  美味しいコーヒーという言葉につられて、ホイホイついて来てしまった寅谷だったが、狼の顔と白衣には見覚えがある気がした。そして、あの丸っこい体型にも。狼の身長は寅谷より頭一つ分ほど小さいが、体重は間違いなく狼の方が上だろう。

  「スカイフックを完成させたかっただなんてさ、お前さんも若ぇのに大きく出たもんだねぇっ」

  思い出そうと首を捻る寅谷の様子を気にすることもなく、狼はそんなことを口にしながら上機嫌で歩いていく。しかしその歩みはかなり遅い。おかげで右膝を怪我している寅谷がついていくには好都合ではあったが。

  前を歩く狼が第二校舎へと入っていき、さらにその一階の端にある物理準備室の中へと吸い込まれていくのを見た時に何かを思い出しかけた寅谷だったが、イマイチそれは形を成さない。

  (物理……?あーくそ、ここまで出かかってんのに)

  足を止め腕組みをして考え込む寅谷に、狼が部屋の中からひょいと顔を出して声をかける。

  「そんなところで止まってないで、遠慮せず中に入りなあ」

  「お、おう」

  寅谷は慌てて歩き出そうとするが、右脚に力が入らないことを忘れてバランスを崩しかけた。

  寅谷は咄嗟に壁に手を付こうとするが、目測を誤ってその手は空を切る。

  「あ」

  支える物の無くなった寅谷の上体がゆっくりと倒れていき――

  その瞬間、部屋からするりと出てきた狼が寅谷の肩を身体でぼふんと受け止めてくれて、寅谷はどうにか転ばずに済んだ。

  「さ、さんきゅ……」

  狼の腹の柔らかさを顔で感じながら、寅谷は礼を言う。

  間一髪だった。数秒遅れて、寅谷の心臓がバクバクと跳ね上がり始める。

  「あっぶなかったなあ。お前さん、脚を怪我してんだから焦んなくていいのに」

  狼はそう言って、寅谷の身体を両手で掴んで立たせてくれた。「おいでよ」

  狼に促されて中に入ると、ふわりとコーヒーの香ばしい匂いが寅谷の鼻孔をくすぐった。部屋の壁際には実験道具が所狭しと乱雑に積まれており、本棚には「波動関数」だの「量子物理学」だの題名だけで頭が痛くなりそうな分厚い本の数々が並べられている。

  だが中央に位置する小さな実験台には、場違いなことにCMで見るようなチョコレート菓子の箱がいくつか置かれていた。そこが狼のコーヒーブレイクのスペースであるようだった。

  「ああ、ドアはしっかり閉めてくれな。豆を挽いたばかりだから結構匂っちまうんだよ。クマサキ先生なんかに見つかっとうっさいからねえ」

  狼は生活指導担当の怖い体育教師の名を挙げると、あの人は図体がでけえ癖に妙に細けえからあの年になっても結婚できねえんだと思うんよね、などと呟きながらいそいそとパイプ椅子を寅谷の前に出し、自分は奥のステンレス製の流しの方に向かって行く。

  そこには古ぼけたフラスコのような三角型のガラスの容器があり、下からアルコールランプの火で熱せられていた。その中では湯が沸騰しているようだった。

  狼はそのフラスコの上に、もう一つ丸いガラス容器をセットする。黒い粉のようなものが入っているのが見えたが、おそらく挽いたばかりだというコーヒー豆だろう。さらに、その容器の底についた細いガラス管で湯の入ったフラスコと繋がっているようだった。

  「……?」

  寅谷は眉根を寄せて怪訝な顔をした。

  こんな妙なもの初めて見る。何かの実験装置みたいだ。

  「――お、きたきたっ」

  容器を見つめていた狼が嬉しそうな声を上げる。寅谷が目を凝らすと、フラスコの中の湯がガラス管を通って上の容器へと移動を始めていた。下のフラスコの湯のかさが、吸い取られるようにしてみるみる減っていく。それと同時に、上のガラス容器の中でぼこぼこと威勢のよい音を立てながら、熱湯がコーヒー豆の下から噴き出してくる。

  まるで間欠泉のようだった。

  「お、おお?」

  不可思議な光景に思わず寅谷も流しに近づき、声を上げてフラスコに見入ってしまう。上の容器に入った湯は、抽出されてあっという間に黒く染まっていく。室内に先程とは比べ物にならないくらいに濃厚な薫りが漂い出した。

  「なんだよこれ、おもしれえな。これでコーヒーが出来るのか」

  寅谷が傍に立つ白衣を見上げると、狼はドヤ顔をして眼鏡をくいっと直し得意気に笑う。

  「ふっふふーのふー。コーヒーサイフォン、もしかして見るのは初めてかい。凄いよなあこれ。大気圧と水の蒸気圧を利用してこんなオンモシロ装置を作るなんて、19世紀の人間も中々だと思うよなっ」

  そう言いながら、狼はガラス棒で上の容器内のコーヒーをぐるぐると混ぜた。

  この時の寅谷には分からなかったが、熱せられたフラスコ内の水が沸騰し蒸気に変わることで、圧力が増して湯が上へ押し上げられる仕組みなのだ。

  寅谷は黙ってしばらくコーヒーの噴水に釘づけになっていたが、

  「……はあー。初めて見たぜ、こんなの」

  狼の顔を見直して、感嘆した声を上げる。

  「いやははは、そんなに感動してもらえるとなんだか俺が嬉しくなっちゃうねえっ」

  狼はにこにこしながらアルコールランプをフラスコの下から外すと、手早く蓋をして火を消す。

  すると、今度は上の容器から下のフラスコへ茶褐色の液体が移動を始めた。フラスコ内の水蒸気が冷えて収縮することで陰圧となり、上の容器からコーヒーを引き込んでいく。

  またもや寅谷はその現象に見とれてしまう。まるで黒い液体が生きているように思えた。

  「ほい、出来上がりぃ」

  狼は実験用ビーカーを二つ出してくると台の上へ置き、そこへフラスコの中身を注ぎ込んでいく。白い湯気が二人の間にほわりと浮かんだ。

  (マグカップとかないのかよ!)

  内心で寅谷はツッコむ。

  狼は、寅谷に向かい合うようにしてもう一つのパイプ椅子に腰を下ろした。

  「お粗末さんだが、飲んでみてくれ。容器はちゃんと洗ってあるからな。砂糖とミルクはおっ好みでぇ」

  言いながら狼は、角砂糖の入った瓶と小さなミルクポーションの入った袋を棚から取り出してくると、自分のビーカーへとぽちゃぽちゃと角砂糖を放り込んでいく。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ――。

  「お、おう……」

  返事をしようとして寅谷はどもってしまう。まさか実験器具でコーヒーを飲まされる羽目になるとは思わなかったし、大量に砂糖を入れていく狼にも面食らっていた。あれではわざわざ豆を挽いても、味も何もあったものじゃないのではなかろうか。

  だがそんな寅谷の目の前で、狼は美味そうにビーカーに口を付けていた。

  「いやあ美味いなあ、やっぱりカフェインと糖分の組み合わせは脳細胞に効くってもんだねえ!」

  狼は頬を緩めて満足気に笑うが、固まっている寅谷に気付き「あれれ、どうした。ビーカーだとやっぱ熱くて手に持てなかったかい。取っ手があるメスシリンダーの方がいいかなあ」

  言うが早いか、狼は後ろの棚から目盛りのついた細長いガラス容器を取り出す。

  確かにビーカーと違ってメスシリンダーとやらの底の部分には倒れないように突起がついていたが、そんなところを持っていたら飲みにくくてしょうがないに決まっている。

  大体、あれも何の薬品を入れて使用したか分かったものではない。

  寅谷は慌てる。

  「い、いやこれでいい」

  言うが早いか寅谷は勢いよくビーカーに口を付けた。その途端、程よい苦味と絹の様に上質な薫りが彼の口内に広がる。

  ……非常に美味かった。生涯初めてというくらい、そのコーヒーは格別だった。

  だが寅谷は忘れていた。

  自分はネコ科の虎だった。熱いものは天敵である。

  「――あづっ!げほっ!がはっ!」

  熱さに舌が痺れて、寅谷はむせ返ってしまった。

  「あやあ、そんな慌てて飲むからあ。お前さん、どう見たって猫舌に決まってるもんなあ」

  狼はからからと目を細めて笑う。そこで彼はふと、思い出したように

  「――そういや、まだ名前聞いてなかったな」

  そう言ってビーカーを置くと、寅谷に向けて右手を差し出してくる。「俺の名前は、狼森賢造(おいのもりけんぞう)ってんだ。よろしくなあ」

  

  これが、寅谷幸一が彼――変人と名高い、狼森賢造をきちんと認識した瞬間だった。

  

  

  *

  

  

  狼の名前を聞いて、寅谷の頭に電流が走る様に記憶が蘇って来た。

  どうして忘れていたのだろう。あんなに目立つヤツだったのに。

  狼森、賢造。

  思い出した。今年の4月の始めに各部活の部長が生徒会室に集められて、今年度の部活の予算委員会という形ばかりの会合が行われたのだ。

  

  ――そこに、この狼も出席していた。今と同じように白衣姿で。

  

  だとすれば狼も部長をやっているのだから同学年のはずだ。そうすると二年以上も同じ学年だったのに、寅谷は全くと言っていいほど狼森のことを認識していなかったことになる。

  「オイノモリ。あんた、確か物理部だか天文部だかの部長さんだっけ……?」

  目を丸くして質問する寅谷に、狼森は不服そうに鼻を鳴らして否定した。

  「ノォー!ちっがーう!俺は天文物理部!つまりその二つを組み合わせた無敵の学問の徒、ってやつだなあっ」

  そう言って狼森は、眉を吊り上げてまたドヤ顔をしてみせる。

  寅谷はその言葉を聞いてまた思い出す。

  そうだ、あの時もこの狼は不機嫌そうに鼻を鳴らしていた――

  

  

  *

  

  

  (――ちょっと待ってほしい。うちの部だけ、なんでこんなに予算が少ないのか教えてほしいですなあっ!)

  それは4月の始めの出来事。

  寅谷にとってはどうでもいい各部活の予算委員会が終わりに近づいた時、斜め向かい側に座っていた太り気味の狼がそんな風に口火を切った。

  放課後に開かれた会であるために、運動部の部長はすぐに部活に参加できるよう各々の種目の練習着かジャージで、文化部の部長は制服姿で出席しているという者がほとんどだったから、ワイシャツの上にくたびれた白衣を着ていたその太った狼は初めから少々目立っていた。そして、予算案についての意見を述べだしたことで狼は一気に全員の注目を浴びた。この高校では予算委員会なんてものは完全に形骸化しており、全部活の主将の前で生徒会長が予算案を読み上げるだけの会合だったから、文句を言う者なんか毎年一人もいないのである。

  だがあの時の狼森は、口調は丁寧だったが確実に怒っていた。額に青筋を立てて、白衣を着た肩をプルプルと震わせて、ふんふんと鼻を鳴らして。

  まあ当然と言えば当然かもしれなかった。

  この高校には野球部やバスケ部や柔道部といった全国大会を狙える強さの部活がいくつか存在していたが、そこに掛けられる予算と比べれば天文物理部への予算案は雀の涙どころか鼻くそほども無かったのだから。

  (……えーとですね。天文物理部は部員が一人しかいませんし、活動内容から見てもですね、どうしても――)

  真面目だが弱気そうな人間の生徒会長が説明しようとしたが、狼はそれを遮るようにして声を張り上げた。

  (しゃらーっぷ!!何が部員数だ!そんなのは数の暴力だ!マイノリティーの排斥だ!不公平の極みだ!生徒会の怠慢だ!そんなものに俺ら学問の徒は決して屈しはしんねえぞぉっ!)

  つんのめる様に喋り出した狼森の剣幕に圧倒され、生徒会長は何も言えなくなってしまう。その他の部活の長たちも、皆目を丸くして狼森を見つめていた。

  寅谷は思わず、隣に座った柔道部主将の熊獣人にひそひそと声をかける。

  (……な、なあ。あの物理部の部長の狼、ちょっと危なくねえか?)

  寅谷のクラスメイトでもある無口な熊獣人は、額に古傷があることも手伝って相当な悪人面である。柔道部特有の幅広かつ厚みのある体格と相まってその見た目はかなり怖い。だが、根はそんなに悪いヤツではないと寅谷は知っていた。

  柔道着姿の熊は腕組みをしたままじろりと寅谷を見返すと、いつも通りのむっつりとした顔で応える。これが彼の普通の表情なのである。

  (……まあ、ああいう人物もこういう場には必要かもしれんぞ。この会、あまりにも形だけ過ぎるしな)

  その向こうでは、狼森が機関銃のように意見をまくし立てていた。

  その勢いに生徒会長はたじたじである。

  (へっ。お前さ、ホントにそう思うんならあの狼さんと一緒に生徒会と戦ってやればいいじゃんか)

  ふざけたような寅谷の軽口に、熊は少し困った顔をした。

  (……本音を言ってもいいか?出来れば、俺も今の彼にはあまり近づきたくはないな……)

  バスケ部キャプテンの虎と柔道部主将の熊がそんな会話をしているうちに狼森は生徒会長を言い負かし、天文物理部への予算アップを勝ち取ってしまったのだから大したものである。

  そんな訳で、狼森の第一印象は決していいモノではなかったのだが――

  

  

  *

  

  

  「そうだったそうだった。オイノモリ、アンタ生徒会に食って掛かってたよなあ」

  

  その光景を思い出して、笑いながらそんなことを口走る寅谷を狼森はきょとんとした顔で見つめた。

  「あれ、お前さんその話よく知ってるなあ。後輩が真似するといけないって、口止めされたんだけんど。一体誰に聞いたんよ?」

  狼森もまた、寅谷のことを全く覚えていないようだった。

  「俺はトラタニ。寅谷幸一。バスケットボール部の――主将だよ。一応、な」

  (……多分もうすぐ元、がつくけど)

  と、寅谷は内心で自嘲的に言い添える。

  「へえ!トラタニねえ、バスケ部だったのかあ。そういやあ背がえらく大きいもんな。主将ならそうかあ、あの場にいたわけか。そうかそうか」

  納得した様に、狼森はしきりにうんうんと頷く。「それにしてもさ、よくスカイフックなんてマイナーなもんを知ってたねえトラタニっ!あんまり一般人は知らねえんだよなあっ」

  狼森は嬉しそうに言いながら、実験台の上のチョコチップクッキーを口に放り込んだ。その後ろでは、彼の尾がぶんぶんと嬉しそうに振られていた。

  (……マイナー?スカイフックが?)

  狼森の口にした言葉に少々引っかかりながらも、寅谷も菓子をつまむ。まあ、確かにバスケットボールに詳しくなければ縁の薄い言葉かもしれない。

  むしろ狼森の方こそよく知っていたものだと寅谷は感心する。バスケットボールに興味がありそうには全く見えないのに。というか、このデブの狼はそもそもスポーツの経験がほとんど無さそうなのに。

  「まあな。俺さ、子供の頃からずっと憧れてたんだよ、スカイフックに」

  だが、だからこそ寅谷は嬉しかった。スカイフックを知っている人物がいたことに。狼と、膝の怪我とは関係なしに話せそうなことに。狼森は他人の怪我に同情なんかしなそうだ。

  寅谷の返事に、狼森は眼鏡の奥の瞳を輝かせて口を開く。

  「おぉ!奇遇だなあ。俺も子供の頃に本で読んでな、ずーっとスカイフックに憧れてたんだ!なんていうか、夢があるよな。名称もセンスあると思うんだあ」

  「オイノモリもなのか!まあ、名前もカッコイイよな。“スカイ”ってのがなんかロマンを感じるというかさ」

  「――人類の夢っていう感じかい!?」

  狼森はそう言いながら実験台の上に身体を乗り出してきた。その勢いに寅谷は苦笑する。

  「さすがにそれは大げさじゃねえかな?」

  「いやいやトラタニ、決して大げさなもんかい。スカイフックはまだ実現すらされていない、仮説の段階でしかねえ存在なんだからよぉっ!」

  「……は?」

  「でもさ、さすがにOEVはまだまだ素材的に難しいと思うんだが、スカイフックくらいなら今の技術でも十分可能だと思うんだなあっ!」

  「お、おーいーぶい? いや、スカイフックなら怪我さえしなければ俺でもギリギリ出来たかもしれな」

  「なっはっはっは!さすがに出来るわけねえだろう!トラタニはやっぱり非同期軌道派?それとも極超音速派?ちなみに俺は非同期軌道がいいと思ってるんだあ。極超音速はさあ、確かに技術的制約は少なそうだけんど、やっぱりスカイフックって言うからには大気圏突入くらいはやって欲しいもんなぁっ。静止軌道上に作ったんじゃあ結局大気圏外を飛行しなきゃ到達できねえことになるしよ!」

  狼森に意味不明な用語を羅列されて、この辺りでさすがに寅谷も気付く。

  どうやら自分の考えるスカイフックと、狼森の語るスカイフックに大きな隔たりがあるということに。

  「――かといって非同期軌道だと大気圏突入時に運動エネルギーが奪われっからその問題をクリアしねえとやっぱり実現は難しいよな?でもま、帰還した航行船の減速にも用いることである程度は一応運動エネルギーをチャージ出来っし既存の人工衛星の軌道修正する技術でなんとかなるんじゃねえかと俺は勝手に思ってんだけどその辺りはまだまだ不勉強でさあ、トラタニは――」

  「ちょ、ちょ、ちょい待ってくれオイノモリ!」

  ぺらぺらと気持ちよさそうに喋っていた狼森だったが、寅谷の言葉にはたと口を止めて首を傾げる。

  「どうしたん、トラタニ?」

  「……あのさ、俺は、スカイフックを見たことあるんだけど」

  「えぇっ!?」

  狼森はがたりと椅子から転げ落ちそうになるくらいに狼狽した。「ど、どこで見たんよ!?本当ならそれはとんでもねえことだぞ!……あっ!?まさか、また某国の仕業かっ?あの国はそういうの秘密裏に開発しといて、まーた得意の隠蔽工作を――」

  「いや、ネットのバスケ動画で」

  「……ぅえ?ネット?バスケ?」

  寅谷の一言に、わたわたとしていた狼森が硬直する。

  二人の間に沈黙が落ちた。

  互いに、相手の出方を伺うように顔色を見合う。

  そして虎と狼は、ほぼ同時に口を開いた。

  

  「――アンタは」「――お前さんは」

  

  そして、最後は綺麗にハモッた。

  

  

  

  「「一体、何の話をしているんだ?」」

  

  

  

  [newpage]

  

  

  2

  

  「――で、あるからして、ケプラーの第二法則は――」

  

  その日の五限目。

  黒板の前で初老の山羊獣人の物理教師が講義をしているが、あまりにも口調が平坦なため、昼食後の生徒たちにとっては催眠術のようだった。ただでさえ眠くなる時間帯だというのに、山羊の授業は退屈なことで有名だった。クラスの大半がウトウトとしながら、どうにかこうにかノートを取っているという状態である。

  だが、寅谷は先程飲んだコーヒーのおかげがまったく眠くならなかった。

  それとも、あのデブ狼との妙なお茶会そのもののせいか。

  

  ――なんだったんだ、アイツは……

  

  退屈な授業を聞き流しながら、寅谷は思い返す。物理準備室で話した、おかしな狼――狼森のことを。

  

  

  *

  

  

  「――ははあ、なるほどなるほど、バスケにはそういう技があるのかあ。それは知らなかった。今度調べてみるなあ……」

  寅谷がバスケットボールでのスカイフックについて説明を終えると、狼森はそう言った。

  だが狼森は全く興味が無さそうだった。先程まで狼の癖に仔犬みたいに勢いよく振っていた尾はだらりと垂れ下がり、両耳も叱られた飼い犬の様にぺたりと寝てしまっている。両肩は落ち背中は丸まり、彼のガッカリとした心境が、その全身を使って表現され過ぎていた。

  いくらなんでも、あからさますぎる。

  (こいつ、絶対調べねーだろうな……)

  狼森のその態度に寅谷は少々憤慨して、実験台に頬杖をつきながら質問する。

  「で?オイノモリの言ってた方のスカイフックってのは、一体何なんだよ」

  その途端、狼森の耳がピンと立ち上がった。ぐるり、と勢いよく寅谷に向き直る。

  「よっくぞ聞いて、くれましたあっ」

  狼森は妙な節をつけて声を上げると、再び実験台に両手を付いて乗り出してくる。「スカイフック!これこそまさに人類の夢!神が我らに与えたもうた挑戦状っ!技術革命の新境地っ!トラタニも興味ある?勿論興味あるよなあっ?」

  言い募る狼のあまりの勢いに、寅谷は気圧されてしまう。否定はできなかった。

  「まあ、い、一応……?」

  その返事に、狼森は我が意を得たとばかりに笑う。

  「ふっふふーのふー!それは嬉しいやっ!トラタニ、お前さんはさ、夢ってあるかい?」

  不意にそんなことを聞かれて、寅谷の胸はちくりと痛む。

  今一番聞かれたくない質問かもしれなかった。

  夢ならある。

  

  違う。

  あった、のだ。幼い頃からずうっと追いかけてきたものが。

  

  「――俺は……俺の夢は、バスケで、全国に行」

  「俺の夢はさあ!」

  

  絞り出すように口にした寅谷だったが、狼森は全く聞いちゃいなかった。狼は両手を開いて天井を仰ぐと、寅谷の言葉に被せるようにして大声を上げた。

  せっかく声に出しかけた自分の夢を華麗に無視されたことで呆気にとられる寅谷の目の前で、狼はわざわざ上履きを 脱いでパイプ椅子の上に立ち上がり、びしりと窓の斜め上を指差した。

  

  「あの空の向こう!」

  

  「……は?」

  虚を突かれた寅谷の顔を見て、狼森はニカっと笑った。

  その目があんまりにもキラキラとしていて、寅谷はドキリとしてしまう。

  狼はまた得意気な顔をして堂々と声を張り上げた。

  

  

  「――宇宙なんだあっ!!」

  

  

  *

  

  

  ――わっけわかんねえよなあ……

  

  寅谷は教科書を眺めながら口の中だけで小さく呟く。

  狼森の宣言と同時にタイミングよく昼休み終了五分前を告げる予鈴が鳴ってしまい、結局彼の言うスカイフックが何なのかは聞けずじまいだった。

  アイツの夢であるという宇宙と、スカイフックと、一体何の関係があるというのか寅谷にはさっぱりだった。

  

  (……あやあ、もうこんな時間かあ)

  (じゃあ授業あるからオレはこれで行く。コーヒー、ごちそうさん)

  (残念無念。また来てなトラタニ!スカイフック、次は教えたるからなあっ)

  

  部屋のドアを閉める前に見えた手を振る狼森が、少しだけ寂しそうだったのが気にかかった。

  寅谷は授業そっちのけで考えてみる。

  確か4月の予算委員会の時、天文物理部の部員は一人だけだと生徒会長が言っていた。つまり現在部長のアイツ一人だけしかいないんじゃないだろうか。

  そう考えると、狼森が初対面の自分に甲斐甲斐しくコーヒーや菓子を振る舞ってくれたのも合点がいくような気がした。寅谷には狼森の言うスカイフックがなんだかよくわからないが、共通の話題を持つ者を見つけたと勘違いした狼森はおそらく相当嬉しくてはしゃいでいたに違いない。

  きっと、アイツはあの薄暗い物理準備室で長い間独りぼっちだったのだろう。

  誰にも自分のことを判ってもらえずに。

  

  ――今の俺と同じように、か。

  

  そこまで考えて、はあ、と寅谷は小さくため息をつく。

  あんなみょうちきりんな狼に親近感を抱くとは、いよいよどうかしている。

  

  キーンコーン

  

  チャイムが鳴った。山羊の教師がぼそぼそと五限の終わりを告げる。

  今日の授業はこれで全ておしまいだ。

  「トラタニ、今日お前どうするよ?」

  寅谷と同じバスケットボール部仲間のハスキー犬が寅谷の机の傍まで歩いて来て、おずおずと尋ねてきた。今日の部活に来るのか、という意味の質問だろう。顧問には怪我が落ち着くまでしばらく部活を休んでも構わないと言われていた。寅谷の膝は、まだ長時間立って見学することすら難しい状態なのだ。

  寅谷の友人であるこのハスキー犬は、人懐こい性格に反して種族柄いつも目つきが悪い。だが今の彼はその顔を精一杯に困った表情に変えてくれていた。だが、それにも寅谷はもやもやとしてしまうのであった。ハスキー犬が自分を本心から心配してくれているのは分かるのだが、そんな目で自分を見てほしくなかった。

  「あー……どうすっかな」

  部活に行って、部員たち皆にハスキー犬のような顔をされるのは却って寅谷も気を遣う。部長という立場上行かなければいけないのは分かっているが、もう少しそっとしておいてほしい気持ちもある。正直、今はまだバスケットボールを見るのも嫌だった。部活に励むチームメイトの姿など見たら嫉妬にかられてしまいそうだ。

  しかし、かといって家に帰っても特別やることがあるわけでもないし――

  寅谷が悩んでいると、

  

  「あ、トラタニ見ぃつけた!このクラスだったかっ!」

  

  少し前に聞いた覚えのある嬉しげな声が斜め後ろから聞こえてきて、恐る恐る寅谷はその方向に目をやる。

  (ま、まさか、この声は……!)

  予感的中。

  ボサボサ毛並みに肥満体型、白衣を着た眼鏡の狼が、教室の後ろのドアのところでぴょんぴょんと飛び跳ねていた。

  ざわり、と教室中がどよめく。

  「……トラタニ、お前あの留年生と知り合いだったの?」

  ハスキーが訝しげな声を出す。

  「は?留年生?あの狼が?」

  だとすれば、寅谷が彼のことを知らなかったのも説明がつく。

  「知らないのか。一部では結構な有名人だぜ、天文物理部のオイノモリさん。確か去年は出席日数が足りなかったとかで――」

  ハスキー犬は言いかけるが、後ろから狼森が近づいてきたことに気付いて口をつぐむ。

  「探したよ!ほら!トラタニ!約束!俺!スカイフック!教える!」

  狼森は興奮しているためか、鼻息荒く早口で単語を途切れ途切れに喋る。

  まるで原始人の様に片言である。

  その様子を見て、ハスキー犬は寅谷の机からじりじりと離れていく。

  (がんばれ!トラタニ!)

  と口パクで言い残して。

  薄情者め!と寅谷は思ったが仕方ないかもしれない。この年齢不詳の狼が鼻息を荒くしている姿は、何だか危なげなものがある。初対面では後ずさりもしたくなるだろう。

  「オイノモリ、なんでここにいんだよ」

  「トラタニを迎えに来たんよ!お前さん、どうせ脚を大怪我してっからバスケなんぞ出来なくて暇してるだろうと思ってなあ。スカイフックについて菓子でも食いながら話そうぜえっ」

  狼森は大声でそう言い放つ。

  寅谷の怪我に対して全く配慮の感じられない物言いに、傍にいたハスキーは青い顔をしていたが、逆に寅谷には痛快だった。

  あんまり気を遣われることに、そろそろ飽き飽きしていたのだ。

  

  (また来て、とか言ってたのになんで探してまで俺を迎えに来てんだコイツ……)

  

  妙な奴に気に入られてしまったな、と寅谷は思ったが、実はそこまで嫌な気もしないのであった。

  

  

  *

  

  

  

  「さて、諸君!これからスカイフックについて講義を始めようと思うっ!」

  

  教卓についた狼森は、嬉しそうに物理講義室を見回した。例によって、その背中では灰色の尻尾が勢いよく振り回されている。

  教卓の上には既にコーヒーも準備されていた。勿論、実験用ビーカーがマグカップの代わりである。

  

  「諸君じゃねーよ諸君じゃ。俺しかいないだろうが」

  

  最前列にぽつんと座ったただ一人の生徒、寅谷は机に頬杖をついて文句を言う。その手には琥珀色の棒付き飴が握られており、寅谷はそれをぺろりと一舐めした。

  先程、水と砂糖とアルミ箔とアルコールランプで狼森に作ってもらったべっこう飴である。非常に簡単に出来るので、今度レシピを教わって家で自分でも作ってやろうと寅谷は思っていた。お手軽さと見た目の割に中々美味いではないか。

  「つれない……!つれないぞトラタニぃ!先生は悲しいっ!おやつまで作ってやったのに!」

  狼森はそう嘆くと教卓にうな垂れて大げさに肩を震わせる。よく分からないが演技に入り込んでいるようだ。

  「うっせーな、早く始めろよ。この飴舐め終わったら俺帰るぞ」

  「ああ。わかった、わかった」

  狼森は降参、というように両手を上げて話し始めた。「――てっきりよお、さっき俺はエレベーターの亜型の話かと思ったんよなあ、トラタニの言ってたスカイフックのこと」

  「はあ?なんでスカイフックがエレベーターなんだよ。全然違うじゃねえか」

  思わず寅谷は声を上げた。だが、狼森は動じない。

  「……言っとくけんど、そこらのビルにあるような単なるエレベーターじゃあねえぞ?」

  「じゃあ、なんだっつうんだよ」

  そこで狼は一呼吸溜めると、にいっと笑って静かにその言葉を口にした。

  

  

  「――“軌道エレベーター”だなっ」

  

  

  英語で言うならばOrbital Elevator。その頭文字を取って“OEV”とも呼ばれるその正体は、全長数万キロにも及ぶ途方も無い大きさの建造物である。

  地表から大気圏を抜け静止軌道上へ、そして更にその上までも到達する巨大な天への架け橋。人類が宇宙へ飛び出すための、ロケットに代わる新たな技術。

  

  狼森の説明を聞いて、寅谷は唖然とした。

  「……なんだよ、それ。巨大って、どんだけデカいんだ?」

  「まあ、実際の長さについては諸説あるけんどな。これが地球だとしたら――」

  狼森はチョークで黒板の下の方に拳大くらいの円を描くと、「ざっとこれくらいかなっ!」

  びっ、とその円周上から真上に一直線に線を引いた。その長さ、実に地球の直径の10倍近く。

  想像もつかない大きさだった。

  あまりに壮大なスケールの話に、寅谷は大口を開けてぽかんとしてしまう。

  「じ、地面から宇宙までのエレベーターってことか……? マジかよ、そんなでっけえの出来るわけ――」

  「うんその通り。出来ねえ。無理!不可能!」

  狼森にあっさりと否定されて、寅谷はガクリと頬杖からずり落ちる。

  「お。トラタニってばよ、芸人ばりにいいリアクションするなあ。拍手っ」

  狼森がぱちぱちと手を叩く。

  「あ、あのなあ……」

  寅谷は文句を言いかけるが、狼森は話を続ける。

  「トラタニの言う通り、現時点では材料的に無理なんだな。現代科学をもってしてもそんな数万キロメートルものケーブルを構築するに耐えうる物質が未だ存在しないのであーるっ!」

  大仰に言ってのけると、狼森はだん!と右拳を教卓に叩きつける。

  「なんだよ、結局は妄想の産物って奴か?」

  「妄想とは失敬な! せめて空想と言えぃ空想と!」

  狼森はぷりぷりと怒って右手を振った。「でもまあな、ちょっと前にカーボンナノチューブってえのが発見されたのはトラタニも知ってんだろ?あれのおかげで、今の技術でも軌道エレベーターが可能なんじゃねえかって議論されだしてんだけどなあ」

  「かーぼん、な……?」

  寅谷は首を捻る。

  なんだかニュースで聞いたことあるような、ないような。

  「カーボンナノチューブ。やりようによってはダイヤモンドより強靭な素材なんだな。これを使えば軌道エレベーターも建造可能なんじゃねえかって言われてる。実際、あと数十年以内に軌道エレベーターを完成させるだなんて宣言してる建築会社だってあんだぞ」

  「マジかよ。数十年以内って、結構凄くないか?」

  寅谷の食いつきに、狼森は得意のドヤ顔をして笑って見せた。

  「ふっふふーのふー。でもまだカーボンナノチューブ自体が新しい技術だかんなあ、俺もまだまだ課題は多いと思ってんだ。大体、こんな巨大なエレベーターが倒れたりしたら、どうなるかくらい見当つくだろ?」

  そう言って狼森は黒板に向かうと、軌道エレベーターを模した長い長い線をぐにゃりと曲げ、地球に向かってぐるんと巻き付けた。その長さなら、地球など簡単に一周してしまうことくらいは寅谷にも分かった。

  「そしたら、こうなって、こうだっ!」

  狼森は叫びながら、ぐしゃぐしゃ、と地球を塗りつぶす。

  寅谷はごくりと唾を飲み込む。

  子供の落書きみたいな絵だったが、それゆえに恐怖を煽るものがあった。数万キロもの高さの建物が倒壊したとすれば、それは間違いなく大事故――いや大災害になるに決まっている。

  寅谷は、雲に隠れて先が見えない高さの塔がゆっくりと倒れてくるところを想像して、背中の毛並みがぞわりと逆立つのを感じた。

  「そんな危ないもん、造る必要あるのか……?」

  弱気になった寅谷に対して、狼森はちっ、ちっ、と指を振って見せた。

  「トラタニ、あっまーい。お前さんが舐めてるべっこう飴の様にあっまーい! お前さん、今の宇宙開発の要は何か分かるかい?」

  「は?かなめ?」

  「つまり、宇宙に人とか物を送るとしたら何を使ってるかってことだな」

  「そりゃあれだろ、ロケットとか、スペースシャトルとか……?」

  自信なさげに応えた寅谷に、狼森はびしりと人差し指を突き付けた。

  「そっのとーりっ!いいぞトラタニ!さすがは期待の新入部員、素質あり!しかしだなトラタニ、あれらってすっげー効率悪いんだって知ってたかい?ロケットって、全重量のうち何割くらいが燃料だと思うねえ?」

  今、なんだか引っかかることを言われた気がしたが、とりあえず横に置いて寅谷は話を続けるために質問に答えてやった。

  「えーと……半分とかか?」

  寅谷の答えを聞くや否や、狼森は両腕を頭の上でクロスさせ大きくバツを作った。

  「ブーっ!違いますぅーっ!正解はぁ、……じゃかじゃかじゃかじゃかじゃかじゃか」

  何かのクイズ番組の真似なのか、狼森は寅谷の近くに寄って来て、顔を顰めて答えを溜める。

  「意味わかんねえ間を取るなよ、BGMもやめろ。ムカつく」

  「……むむ、それは悪かった。では改めて正解は、じゃじゃん!な、なんと9割だ!!」

  「へえ」

  「反応薄いっ!もっと驚けトラタニぃ!」

  狼森は喚くが、寅谷は努めて平静な顔をしていただけであって内心結構驚いていた。

  つまり、あの巨大なロケットのほんの1割程度しか宇宙には到達できないことになる。あれだけ派手な発射をしてそれでは、確かにとんでもなく非効率的には違いない。

  気を取り直して狼森は続ける。

  「……まあそんな訳で、宇宙進出にはロケットに変わる新たな方式が模索されてんだな」

  「なるほど」

  寅谷にも話が見えてきた。「じゃあさ、スカイフックってのもその新たな方法の一つってことか?」

  「ご名答だ、トラタニ」

  狼森はにこりと笑った。

  ついに本題。

  狼森は脇に置いてあったコーヒーの入ったビーカーに口を付けて喉を湿らすと、再び話し始めた。

  「軌道エレベーターはさ、さっき言ったようにあまりにも長大すぎて実現が難しい」

  「そうらしいな」

  「なら短くしてしまえばいい。地表から大気圏ぎりぎりまでを、チョッキン!」

  言葉と共に狼森は、黒板の絵のエレベーターを表す線のうち地球に接している方の三分の一くらいを消してしまった。

  「ええ?なんだそりゃ。そんなことしたらその残った切れ端、地球に向かって落ちてくんじゃねえの」

  寅谷としては当然の疑問を口にしたつもりだったが、

  「ぶふーっ!」

  盛大に狼森が噴き出したのを見て、どうやら見当違いのことを言ってしまったらしいと気付き赤面する。その目の前で狼森は腹を抱えて爆笑を始めてしまう。

  「なっはっはっはっは!」

  「わ、笑うなよ。俺だって真面目に考えてんだぞ」

  「そ、そりゃ無理……!はっはっはっは!お、俺、トラタニみたいな物理オンチが、す、素っ頓狂なこと言うの、だ、大好きなんだよなあ……!なっはっはっはっは!」

  狼森は途切れ途切れに言葉を発するが、身体をくの字に折って笑い続けることを止めない。その目尻には涙が浮かんでいる。

  (せ、性格悪いなこの野郎……!)

  寅谷がそう思って睨みつけてやると、それに気づいた狼森はさすがに悪いと思ったのか両手で口を抑えて笑うのを止める。だがいかにも笑いを我慢してます、という表情でひくつくように肩で呼吸をしており、それを見てると逆に腹が立った。

  「何が間違ってんだよ!いいから教えろよオイノモリ!」

  腹いせに、今度は寅谷が机に掌を叩きつける。ばあん、と大きな音がして狼森がびくりと身体を震わせる。

  「ひいひい、悪かったよ。じゃあさトラタニ、お前さん人工衛星って何で地球に落ちてこないんだか分かるかい?」

  「は?そりゃあよ、宇宙はむじゅうりょ――」

  寅谷は言いかけるが、また狼森が面白そうな目で自分を見つめていることに気付き、口をつぐむ。

  「ああ!もうじれってえ!なんでだ!わかんねえよ!」

  くっくっと笑いながら狼森は答える。

  「うくく。人工衛星はさ、地球に向かって落ち続けてんだな」

  「は?……何言ってんだ、落ちてこねえじゃん」

  寅谷が納得できない顔でいると、狼森は困ったようにガリガリと頭を掻いた。

  「あー。この説明はちょっと難しいから省くかあ。要はさ、人工衛星って地球の周りを回ってんだな、それもすっげー高速でさあ。その速度、静止軌道でもなんと秒速3キロ以上!」

  「……ん?大した速さじゃなくねえ?たった3キロっしょ?むしろ遅いじゃん」

  寅谷がそう言った途端、狼森は再びがっしと自分のマズルを両手で押さえ、顔を真っ赤に染めるとプルプルと震え出す。どうやらまた笑い出すのを堪えているらしい。

  悔しくて恥ずかしくて、ぐぬぬ、と寅谷は歯噛みした。

  「……俺、もう帰るからな!」

  「ああ、嘘!嘘だって、トラタニ!悪かった!今のは全然面白くなんかなかったあっ!」

  

  ――2分後。

  こほん、と狼森は咳払いを一つして仕切り直す。

  その前に座る寅谷は膨れ面である。

  「俺が言ったのはびょ・う・そ・く、だかんなトラタニ。つまりさ、静止衛星ってのは一秒で3kmも移動してんだ。すっげえ速くないかい?トラタニが勘違いしたのは多分時速のことだと思うけんど、これ時速に換算したらよ、10800kmくらいだからなあ」

  寅谷はあんぐりと口を開いた。時速1万キロ以上、それは間違いなく速い。しかも途轍もない速度だった。これは笑われても文句は言えない。

  「つまりは、すげえスピードで回ってるせいで遠心力がかかって人工衛星は落ちてこないってことか……?」

  恐る恐る寅谷が聞くと、今度の狼森はこくりと頷いてくれた。

  寅谷はちょっと嬉しくなる。

  「――まあ、とりあえずそういう理解でいいやあ。今はなあ」

  狼森の言葉の端々が、なんだか馬鹿にされたようで引っかかるが。

  「じゃあ話を戻すぞお。人工衛星と同じようによ、この軌道エレベーターの切れ端も地球の周りを思いっきり回してやる!びゅびゅーん!」

  狼森はそう言いながら、地球の周りにぐるぐると円を描いた。周回軌道を表しているらしい。

  「そしたら落ちてこないのか」

  「そういうことだなあ。ついでに、この切れ端自体もその重心を中心に回してやるんだな。えいやっ!」

  狼森は、宇宙に残された軌道エレベーターの切れ端の周りにもぐりぐりと円を描いた。

  「あ?なんでそれそのものまで回すんだ?」

  今度の寅谷の質問を狼森は笑わなかった。代わりに、鼻先に乗った眼鏡をくいっと直す。

  「ふむ。では、逆に質問だトラタニ。この回転する軌道エレベーターの切れっ端の下端に、もしお前さんが掴まったらどうなる?」

  「え?どうなるって……」

  寅谷は狼森の目を見た。その瞳はわくわくと輝いているが、今度は笑い者にしてやろうというつもりはなさそうだった。

  出来の悪い生徒が早く正解に辿り着くことを心待ちにしている教師。そんな顔のように見えた。

  そう思ったら無性に正解してやりたくなった。

  「えーっと……下に掴まったら……この切れ端そのものが回転してるから……」

  寅谷はチラリと狼森の顔を見る。まだその表情は変わらない。

  「……掴まってたら、切れ端が回転して、俺が上の方に行って……つまり宇宙に出るから……」

  ぱん、と狼森が手を叩いた。

  「そっのとーりっ!」

  「は?」

  「この切れ端の下端を大気圏内に届くようにすれば、高々度旅客機なんかを使ってそこで貨物や旅客の乗り降りが出来るんだなあ。そして、この切れ端が回っていればその回転力を用いてそれらを宇宙に輸送することが可能となる。つまり、ロケットを使わずとも宇宙へ行くことが出来るってわけだっ。わかるかい、トラタニ!そう!これこそ、これこそが!」

  狼森は、教卓の上に飛び乗るとそこに仁王立ちし、窓から見える空を指差す。

  

  「スカイフックなのだっ!!」

  

  しーん、と教室が鎮まり返る。

  窓から西日が差し込んで、狼森の灰色の毛並みと白衣を真っ赤に染めていた。

  校庭の方からは野球部の威勢のいい掛け声も聞こえてくる。

  

  「――それ、いまいち想像できねえな」

  

  寅谷はそう言って、小さくなってきたべっこう飴をがじりと噛んだ。

  「げっ、トラタニそれはズルい!齧ったら早く無くなっちゃうだろうがよ!」

  狼森は慌てる。飴が無くなったら帰る、という寅谷の言葉を真に受けているらしい。

  「……安心しろよ、もう一個これ作ってくれたら最後まで話聞いてくから」

  寅谷にとっても、意外に狼森の話が面白かったのである。

  もっと聞いていたかった。

  「それはまことかトラタニ!それならば仕方あるまい、作ってしんぜようではないか」

  狼は妙に時代がかったセリフを言うと、教卓から下りて嬉しそうにいそいそと準備を始める。

  寅谷は久しぶりに楽しい放課後を過ごしている気がしていた。今は、怪我のことなんか考えもしなかった。

  

  ――オイノモリってやっぱり妙なやつだよなあ、とは思っていたが。

  

  

  *

  

  

  寅谷と狼森が学校を出るころには、外はすっかり暗くなっていた。

  

  「いやいや、まさかこんなに議論が白熱するとは予想外。星が肉眼で観測できるまで残ってしまうなんてなあっ」

  学ラン姿に着替えた狼森は、満足気に夜空を仰ぐ。彼の腹のせいで、学生服のボタンは今にも弾けそうである。さすがに登下校の時には白衣は着ていないようだった。

  「何言ってんだよ、白熱したのは飴だけだろ。オイノモリが全部真っ黒焦げにしちまったじゃねえか」

  二つ目のべっこう飴を食べ損ねた寅谷は不機嫌である。「おまけに、俺までクマサキに怒られてさ……」

  あの後。

  (どうせ飴を作るならデッケえの作ろうかあ!)

  などと言って、狼森はガスバーナーと家庭科室から失敬してきたフライパンを使って大量の砂糖水を火にかけたのだが、どうも火加減を間違えたようでもくもくと真っ黒な煙が出てしまい、学校中の火災報知機を鳴らしてしまったのだった。

  (これは部活動の一環だっ!)

  と狼森は主張し一貫して自分の罪を否認していたが、騒ぎを聞きつきて飛んできたヒグマ獣人の体育教師・熊崎に二人して拳骨を貰った上にこってりと絞られ、やっと解放されたのがこの時間であった。幸い、狼森秘蔵のコーヒー豆やお茶菓子までは教師陣には見つからなかったようだが。

  「全くクマサキはあんなでけえ身体しといてねちっこいと思わないかい?何もこんな時間まで残さなくてもさあ」

  とってつけたように狼森が言った。こんなことになったのは自分のせいではなく熊崎先生が悪いのだ、と言いたげである。

  「……悪いけど、クマサキに責任転嫁しようとしても無駄だからな。俺は覚えてんぞ、オイノモリがすっげえ適当な分量と火加減で作り始めたこと」

  「ぎ、ギクリ!」

  「口で擬音を言ってんじゃねーよ」

  寅谷はそう凄んでみるが、隣で本当に目を白黒させている狼森が可笑しくて噴き出してしまった。

  そうしてひとしきり笑った後、寅谷は両手で頭を支えて夜空を見上げてみる。

  真っ黒なスクリーンを背に、幾つもの星が瞬いているのが目に映る。

  「しかしスカイフック、ねえ……」

  狼森の言う方の、である。地球を飛び出す方法を夢見る物理学者が考えついたという、宇宙への架け橋の一つ。

  だがあの空にそんな巨大なものを浮かべるなんて出来るのだろうか。

  何とはなしに呟いてみた寅谷の視界内に、狼の頭の灰色の毛並みが入り込んで来る。

  「トラタニ、バスケじゃないこっちのスカイフックも中々面白そうだろぉっ?」

  上を向いた寅谷の目線に入ろうと、狼森が飛び跳ねているのであった。

  「まあ、興味はちょっとな。まだ、俺にはどんなのものか全然実感湧かねえけど」

  「そりゃそうだ、まだ誰も見たことがねえからさ。――そうだな、俺のスカイフックのイメージはさ、空から大きなクレーンのフックが降って来てよ、それに掴まると宇宙まで放り投げてくれるって感じだなあ。こう、ばひゅーんって」

  狼森は楽しそうに言うが、それは却って怖くなかろうか。

  「うーん、それはなんかこええぞ……」

  「じゃあ、数字を使っての想像は出来るんじゃあねえかな?ある提唱者の設計上の数値を借りんなら――」

  

  ――それは全長8000km以上もの巨大な柱。

  回転するその先端は、地球を一周する間に3回地表近くまで接近するという。

  余りにも壮大な宇宙への発着場。その大きな影が、秒速数kmという高速で夜空を横切っていく――。

  

  「――なんかそれ、とんでもない光景だな。やっぱり信じらんねえよ」

  目を閉じて頭に思い浮かべていた寅谷は、ぽつりとつぶやく。

  まるでゲームかアニメの世界の話のような気がした。そんな巨大なものが空に浮かんでいるだとか、それが回転して大気圏に突入するだとか、なんだか絵空事みたいだった。

  「でも、だからこそロマンがあると思うんだよなあ。今でこそ当たり前みたいに飛んでるロケットだって最初は誰も見たことが無かったし、成功までには多くの失敗があったわけだしよっ」

  その言葉に寅谷が見下ろすと、狼はニコニコとして遠くの空を見つめていた。

  きっとその視線の焦点は夜空のさらに向こう側、宇宙で結ばれているに違いなかった。そして彼の瞳には、そこに浮かぶ巨大なスカイフックが見えているに違いなかった。

  羨ましいような気がした。

  これほど夢中になれるものがあることが。

  

  ――いや、俺にだってそういうものがあったのにはずなのに……

  

  

  「ところでさあ、トラタニ!」

  「ん?」

  悪い方向に進みかけた寅谷の思考は、狼森の明るい声で中断された。

  「明日も、昼休みと放課後は物理準備室に集合だからなあっ」

  「は!?なんで?」

  「まだまだスカイフックは奥が深いからなぁっ。話すことは一杯あるぞお」

  狼森はそう声を上げて尻尾を振る。話し相手が出来て嬉しいのかもしれなかった。

  まあ、どうせやることも無いし少しくらい付き合ってやるのも悪くないだろう、と寅谷は思った。

  「別にまあ、いいけどさ。……そういやさっきも新入部員だとか言ってたけど、まさかアンタさ、俺を天文物理部に入れる気じゃあねえよな?」

  その質問に、狼森はびしっと硬直した。

  「ぎ、ギクリ!」

  「図星じゃねえか!だからアンタ、口で言うなっての――」

  

  

  

  夜の歩道に、虎と狼の笑い声がこだました。