【五夏新刊】6/21福岡CC64 6/28星願-day1-【サンプル】

  1.

  

  狐は人を化かすと云うけれど。

  そうした類は何らかの因果で力を増して、転じた妖狐に相違ない。しかし所詮は狐。化かす程度の能しか持たない。それを、尻尾の数を見誤ったなどと、もっともらしく弁明されたところで、己の力量不足と蔑むだけだ。雑魚ほど棚に上げた不平を零す。

  ◇

  悟は、清宮を持つ霊峰を頂点とした辺り一帯の妖を治める雪豹一族において『次期様』と崇め奉られる存在だ。正直なところ、持つ霊力は当代とは比べ物にならない程の甚大さで、一族郎党からは一日でも早い世代交代を望まれている。

  しかしまだ十にもなったばかりの童でもある。面倒なしきたりや、醜怪な老獪共は煩わしいばかりで、与えられた邸に戻ることなく、御山の中を一人気ままに過ごすばかりだ。

  「族長とかめんどくせぇっつーの」

  雪豹族の暮らす御山のある霊峰は、さぞかし霊力あらかたと四方八方の民衆から奉られていた。

  雪豹族の長は、霊峰の深くに奉られた清宮から出ることも叶わない。清宮には世話をする眷属以外には、番の妖と、その直系の子らしか入ることが叶わない。

  甚大な霊力を持つ妖は、百を幾つも重ねると聞く。十を超えたばかりの悟には、到底測り知れない悠久さがある。

  悟は当代の直系ではなく、甚大過ぎる霊力故に生みの親とは目も開けるまえに引き離されていた。最初からいなかったものだから、求めることもなかった。

  それらはさておくも、幼き身には番もいない。現時点で継いだなら、番も老獪な醜族共に押し付けを宛がわれるだけだ。そんな見も知らぬ輩と、出(いずる)ことも叶わない宮で千もの年を越せるものか。

  そもそも悟は独りで生きるに足りているから、番など欲していない。だいたい悟の甚大な霊力に見合う妖が存在するとは思えない。壊してしまうだけの器と分かっていれば、傍に置くことを是とするわけがない。

  一方で、こうして悟がのらりくらりと族の支配にも侵されず、自由気儘に過ごせるのは、この身に宿る霊力とは別に、当代の恙ない統治のおかげとも云える。

  山裾から清宮まで参る宮は点在していて、それぞれから捧げられる霊力を糧にして、御山に棲む妖達に分け与える。時に奉じられる贄には、施しを与えた。実り豊かな土地を維持することが、人と同様に妖の繁栄にも繋がる。

  人の運ぶ霊力がなければ、衰退するのもまた妖の理。化かす程度の悪戯なら大目に見ても、霊力を横取りするとは許し難い。不文律ではあるが、侵すものは討つしかない。

  理屈としては、悟にも十分に理解できる。だが理解するのと、それを実行するのとでは雲泥の差だ。

  本来、妖などこの世の理から逸脱した存在なのだ。律を求める方がどうかしてる。はみ出し者の線引きなんて、悟が言葉を吐いた通りに面倒しかない。

  それでも悟は長の意向で働くしかない。

  霊峰を統べる『次期』だからだ。

  八尾とも九尾とも報告された狐が一匹、人里のある河原のほとりで人々から霊力を吸い上げているという。

  尾の数がどれほど増えようとも、たかだか狐だ。大体が化かすしかできない質で、古来から人里に紛れては、狩られるを繰り返している。

  そんなコソ泥染みた子悪党を屠る程度。本来なら悟に声など掛からない。河原を縄張りにしてる狐は、どうやらそれなりの霊力を持つらしい。それ故に厄介なはぐれ者なのか。何にしろ、小賢しいやり方だ。

  水源地であれば人の行き来が絶えず、日々の暮らしの中にすぐ溶け込める。山裾より宮はあれど、険しい獣道を何日も掛けて登る必要がある。人は往々にして易きに流れる。狐の所業が広まれば広まるほど、御山に霊力を捧げる者など、瞬く間に絶えてしまうだろう。

  「たかが狐のくせに」

  騙される阿呆など悟の知ったことではないが、訴えの通り、山に届けられるはずの霊力を奪われてるとなれば話は別だ。ただでさえ、増え蔓延る人の増加と土地の侵略には、いかな霊力のある妖にも手の付けようがなかった。

  一族の力の及ぶ界隈が狭まれば、悟も窮屈な暮らしを余儀なくされる。それでは幾ら甚大な力を持っていても意味がない。霊峰を霊峰たらしめる絶対領域は守っていかなければならない。

  そも、現世の理からはぐれているのが妖だ。人の世に深く入り込むは、雪豹一族を筆頭に一線を画く不文律に大いに背く。

  土地神でもある雪豹族の庇護を要さない自信があるとしても、その不遜さごと刈り取る必要があった。

  ◇

  成した列が途切れないと聞くものの、夜もすっかり更けた河川敷だ。さすがに人の気配はなかった。

  その分、匂いが際立っている。

  明らかな妖の匂いと、禍々しさが混ざっている。

  その禍々しさを悟は十分に知っていた。妖の霊力とは表裏一体。妖とは切っても切れぬ力。人から生まれる負の感情だ。

  ちっぽけで力の弱い妖は、悪しき行いにて人里を荒らす。宮に奉じられる霊力や贄も同等のものだが、それらを取り込み屠る力に変えられる霊力を持つのが、悟や族長をはじめとする妖の中でも特に力を持つ者たちだ。人型を取れるか否やでその線引きがなされている。

  人を誑している狐にも相応の力があるのだろう。でなければ人里になど降りてこられない。

  それも悟の足許に及ぶまい。禍々しさの根源が何かは知らぬが、悟は指先一つに込めた力を揮うだけだ。

  「蒼」

  術を放とうとしたその一瞬の溜めに、鋭い声が割り込んできた。

  「やめてっ。祓わないで!」

  甲高いその声は、まるで童のようだった。

  ひとを誑かすには恰好だ。けれど本当にそんな形ならば大したことはできまい。せいぜい目こぼしされる悪戯程度が関の山。成した列が途切れぬほどの多数が足を運び、霊力を捧げたくなるとは考えにくい。

  「祓うなとか、言えた義理かよ。御山の不文律を侵してんだぞ。何で許されると思った?」

  悟は闇に向けて声を放つ。

  「不文律?」

  返ってきたのは、先程の童染みた声ではなかった。

  暗闇にゆらゆら立ち上る禍々しさを放つ影から現れたのは、僧侶だった。

  夜闇の中でも悟の眸はよく視える。

  剃髪ではなく、射(ぬ)干(ば)玉(たま)の横髪を括った長身の青年だ。随分と秀麗な貌をしている。通った鼻筋に、朱鷺色の薄い唇。切れ長の眸には、沈む夕日の煌めきにも似た金色に黒鉛のような深い一点が浮かんでいた。妖特有の色でありながら、仏にも通ずる色合いだ。御仏の導きを唱えるだろう文言は、耳に馴染む美声と相まり、さぞかし誑かしの一役を買うのだろう。

  なるほど。これは敬う者が絶えないはずだ。

  あばら屋すら建たない河川敷でも、長蛇に列をなす民衆に向けて説法する姿を先に見ていたら、悟も一度は見誤ったかもしれない。

  青年の頭からつま先までをつぶさに見遣る。

  悟は、一歩足を後ろに引いた。

  引けを取るだなんて、断じてそのつもりはない。それでも侮っていたと言わざるを得なかった。僧侶の形をした狐の霊力は、族長よりも甚大だ。ほとんど悟と拮抗していると云っても過言ではない。

  人型を取れる程の霊力があるとわかっていたが、たかがはぐれ者の狐一匹。退治を成せないどころか、逆に返り討ちに遭った眷属らの並べる言い訳など、戯言と決めつけていた。

  これほどの力を持つ妖が、同胞が治めるこの土地にいたなんて。

  これでは確かに、相当数の犠牲を余儀なくされただろう。河川敷のあちこちに、薄らとした一族の残穢が幾つも眸に映っていた。

  悟の視える眸は、元来灰黄色である雪豹族のものとは正反対の色合いをしている。

  日が昇り切ったときに澄み渡る天と同じ、蒼だ。この眸はどれほど霊力が豊富な妖にも、視えざるものが視える。言うならば、霊力そのものまで見通せる。砕け散ったその残穢も、月の満ち欠けが周り切る間くらいなら、拾うことができた。

  だから、判る。対峙している狐は単なるはぐれ者などではない。

  「この辺り一帯も御山の管轄だ。知らないとは言わせねぇ」

  「闇夜に紛れて、似たような誹謗を何度も受けたよ。私は敵対など望んでいないのに」

  「言ってろよ。引き出しを開けた人間が望む幻を見せて霊力を吸い取ってる。御山に捧げなけりゃ、横盗りだろ」

  「意味のわからない言いがかりはやめてほしいね。だけど君には解るのか、これの力が」

  狐は傍らにある、ふたりの背丈ほどもある箪笥を見遣った。

  どす黒い瘴気を纏っていても、元は随分と品(ひん)の良いものだったに違いない。施された彫りや飾りの意匠は、まるで大名の嫁入り道具かのように絢爛だ。

  「目がいいんでね」

  狐の肚の裡にも無数の霊力が視えた。それこそ輝いた夕暮れ色から日の落ちる間際の濃紺を携えて、それらが混ざる緋色に至るまで。無数のそれらは慈愛に満ちた色合いを帯び、狐の肚の裡で揺蕩うように蜷局を巻いていた。

  高位の妖は取り込んだ霊力を練り、放出できるが、身の裡に留めて飼い慣らせるだなんて、聞いたことがなかった。

  これまでに見聞したことのない霊力の事象に、俄然興味が湧いてきた。悟にも不可能な力のあらましだ。

  「しかもそんなに綺麗な色合いじゃあな」

  研ぎ澄ました爪で引き裂いて、そこから這い出して来るすべてをなぎ倒す。思い切り、力が揮えそうだ。そんな機会はまたとない。

  何もかもが塵芥のように、悟の足許にも及ばない。

  清宮に担ぎ上げられている族長も然り。

  どんな馳走を並べられるよりも、咥内に唾液が湧いてくる。舌なめずりをすれば、滴るそれを甲で拭う。何も持たない肚奥なのに、狐の色合いに呼応するかのように熱が膨らんでくる気配があった。

  「色合い? 何のことだ」

  狐の眉間に深く皺が寄る。

  たっぷりとした射干玉色の髪からして、狐は狐でも一点の混じりけのない黒狐に違いない。雪豹のように宮を持ち神格化されてる一族以外では、黒種は霊力の強さが明確で、どんな種族でも妖らしさの際立つ色だ。

  誉め言葉な一方で、雪豹族からでは嘲りと取られる可能性もある。雪豹族の力は、冬山を覆い尽くす雪白に近づけば近づくほど霊力の強さを誇るからだ。

  「毛並みじゃねぇよ。目の色も、何よりおまえの肚ん中。蠢いてる奴ら皆、すげぇ居心地よさそうだ」

  「肚の中?」

  袈裟の上から撫で摩る黒狐の手つきに、裡の熱がさらに昂る。まるで焙られてるみたいに興奮していた。本来の童姿ではなく、成獣に模しているせいかもしれない。

  形で舐められるのは御免だと、黒狐の縄張りに入るより前に擬態していた。

  「自分では見えないか。ここで随分人の誑かししてんだろ。そうやって抜き取って、おまえは糧にするんだな。手っ取り早くやりてぇ気持ちはわかんないでもねぇけど、見逃すわけにもいかねぇのよ。他に示しが付かなくなっちまう」

  「さっきから何を言ってる。君の話は、私には微塵も理解できないよ。ここで私が何をしていようが、誰かに横やりを入れられる謂れはないんだ」

  「まさか、ほんとのはぐれ者とか云っちゃう? 聞き分けねぇのはそのせいか。俺を誰だかも知らねぇみたいだし。だとしても、意味ねぇよ。さっきも言ったろ。ここは俺らの縄張りだ。知らぬ存ぜぬは通じねぇ」

  「随分と野蛮だな。まさしく君が誰かなんて知るものか。聞き分けないだなんて、言われる筋合いもない。まったく不条理極まりないな」

  「あっ、そ」

  大仰なため息を吐くその顔が、どんなふうに歪むのか。首筋にむしゃぶりついても尚、この我の強さを張れるのだろうか。

  それこそ知りたい。

  喉を切り裂くような声を上げ、悟の鋭利な爪の下であられもない姿を晒せばいい。すべてが手遅れだと、知る由もなく。

  「忠告はしてやったからな。後悔しても知らねぇよ」

  「っ」

  悟は一歩下げた足を大きく踏み切って、黒狐に飛び掛かった。

  「狼藉には私だって黙ってないぞ」

  凄む、勇ましい言葉をねじ伏せるようにして押し倒した。河原の石つぶてを敷いた痛みにか、黒狐は顔を顰めた。眇めた金茶色の眸に、悟の鋭い牙が映る。瞬間、悟の開き切った大口に勝るとも劣らないくらい、黒狐の眸が瞠った。

  近く、覗き込むような形で目が合っていた。悟は見せつけた牙を首筋に突き立てられないまま、その距離を保っていた。随分と整った貌をしている。思ってはいたが、喉元を食い破るのを止めるほどではなかった。

  止めるほどではない。

  ない、けれど。

  瞠っても尚切れ長の、目許が赤らむのに目を奪われていた。同時に、撫で摩られるような擽ったさが全身の裡を駆けまわる。それは生まれ落ちてから今までに、一度も感じたことのない気配だった。

  黒狐はまるで湖を覗き込むかのようにして、悟を見上げていた。まじまじと、その奥底を確かめるかのように。湖水に映るように写し取られているだろうか。悟の姿は金茶色の闇に浮かんでいた。

  「うぉっ、やべぇ」

  悟は慌てて目を逸らす。勢いのまま、ぶるぶると頭を振った。

  「おや、掛かるまえに逃げられてしまったな」

  「俺を誑かすとか、信じらんねぇ」

  「だから人聞きが悪いと云ってるだろう。悪いものを見せないようにする、すこぉしの目晦ましだよ。君に掛からないのは目がいいからかな」

  伸ばされた黒狐の指先が蟀谷辺りから撫で下ろす。もう術を放つつもりはないらしい。さらに覗き込んできた金茶色は、夕闇が迫る深い紺に呑み込まれるまえの雄大な色をしていた。こんなことで怯むわけがない。なのにやはり、胎奥がそわりと落ち着かなかった。

  「そう。何度も言わせんなって。おまえっ」

  悟はもう一度首を振る。

  知らず、相手の術に堕ちかけていたのか。ありえない。逸らそうと、悟は黒狐の耳を思い切り掴んだ。

  「きゃうん」

  先ほどのすました声とは似ても似つかない。甲高い叫びが夜空に響く。黒狐はハッとしたように口許を抑えた。悟が見下ろしてる涼しいやかな貌が、目許どころか両手で塞いだ口より下、首筋までも赤く染め上げていた。

  「おまえ、」

  悟は射干玉の髪に生える耳を掴んでいた力を緩める。代わりに、根元の辺りをふにふにと摩るようにして指を蠢かした。

  「きゃうう」

  漏れる獣声を抑える方が先なのか。口を塞いだままでいるから、まるで抵抗してこない。堪らないような獣声を漏らしてくる。悟は耳許を摩る指が止められなかった。吊り気味の眦が蕩けるように下がりはじめていた。

  べろり。悟は一際目立つ真っ赤な目許を舐め上げた。さらに耳を撫で摩りながら、蟀谷や耳許、大きな手のひらでも隠し切れない顎と首の境辺りまでもぴちゃぴちゃと舐め摩った。

  黒狐は身体を捩り、頭をあちこちにも振っている。それでも悟の舌からは逃れなかった。そんなに口を塞ぐ方が大事なのか。

  「顔、全部見せろよ」

  「ゔゔっ」

  「あっぶねー」

  黒狐が仰け反らせる頭を庇うように手を伸ばした。ついでに術を張る。

  「え」

  黒狐はそれこそ狐につままれたかのよう貌で、悟を見上げてきた。

  本来なら、誰も悟には触れられない。

  常に薄膜を張る術を得ていて、すべてが遮られる。自ら選ぶものにしか触れないし、張った膜内に入れるのも同様だ。

  「離せっ」

  見知らぬ術に触れたせいだろうか。急に我に返ったらしく、黒狐が暴れ出す。

  「もうめんどくせぇな。おまえは連れて帰るわ」

  悟は懐から取り出した一枚の札を、黒狐の額に張り付けた。一瞬、弾けるように青白い炎が立ち上った。

  「まさかこんなん使うと思ってなかったけど。まあ、持ってて無駄にならなかったな」

  悟は気を抜いた黒狐を脇に抱えて、飛び上がった。黒狐は成獣を模した悟と、ほとんど上背が変わらない。更に件の箪笥も運ばなくてはならない。収束する術で手間にはならないが、地よりも空を駆けた方が移動は楽だ。

  その間にも、術を使おうとしてるのだろう。黒狐は、脇に抱えられて尚ジタバタと暴れている。

  「何しても無駄だっつの。俺から離れられないし、霊力封じも俺にしか解けない」

  「ふざけるなっ。降ろせっ」

  「おまえ、本当聞き分けねぇな。もう少しで着くから大人しくしてろよ」

  抱えている黒狐の右手が何度も翻る。たぶん、そうして肚の内から呼び出すのだろう。薄膜を張り巡らせたとき、一瞬の動揺を見逃さなくてよかった。肚内に視える霊力からして、悟でさえ総力戦になったはずだ。そうなれば周辺は草一片も残らなかったに違いない。

  肚を食い破り、対峙したいとも思ったはずなのに。そうしたことはすっかりと忘れていた。

  霊峰の中腹辺りに見えてきた邸に向けて、下降していく。

  ここに帰るのは幾月ぶりだろうか。思い出しもできなかった。

  

  2.

  生身でこそ空を駆けたことはないが、傑にも飛行経験がある。

  傑は妖を生かす霊力に似た、人が澱のように溜め込む禍々しい気の形を変えて、その肚内に取り込むことができる。そうして手のひらから取り出せる様々の怪異らは妖と似ている。非なる点があるとすれば、自らの意思はなく傑の思うままに操れるところだ。

  そうした一体の中に、浮遊できるものがある。平べったい魚(うお)にも似ていて、広い背の乗り心地は悪くない。

  月のない闇夜にしか飛行したことがないせいだろうか。

  山中に突如現れた広大な邸など、一度も目にしたことはなかった。

  夜もすっかり深まった時分に、離れと思しき場所に放り込まれた。

  額の裡に埋め込まれた霊力封じとやらは、視界にありもしないのに、揺らめく青白い炎が常にちらついている。まるで小さな幻獣のようだ。

  幻獣と云えば。

  傑を捕らえた白い獣は、部屋にこの身を置いたきり、一度も見えることがない。

  白雪に墨のような花を画いた毛皮は、幾度となく傑を襲ってきた妖と同じ種族だ。けれどその中に、晴れ渡る蒼天にも似た眸を持つ者など一匹もいなかった。

  空を駆けたとき、抱えるというよりは、吸い寄せられていた。傑も、件の箪笥も。そのまえには、他と隔てるような膜も張った。

  様々な術の使い手だ。

  離れに掛けている結界もその一つだろう。複雑に編み込まれているし、霊力を封じられている傑は此処から出られない。

  空から見下ろした屋敷は広大で、主である白獣は余程力ある妖に違いない。

  霊力を封じられたからには、待ち構える多勢無勢に八つ裂きにされる覚悟をしていた。

  しかし、あれから十日余り。

  傑は留め置かれた敷地から一歩も出られないが、当初の予想よりずっと手厚く遇されていた。

  三食がきちんと供される上に、八つ時には甘味さえ運ばれてくる。夕餉が済めば、湯を使うように促され、寝床は清潔に保たれているありえないくらい上質なものだ。

  言うなれば、まるで客人のように遇されている。

  そうした最中、世話をしに出入りしている使用人たちの手前、湯を使い清潔さだけは心掛けていた。しかしそれ以外は一汁三菜と盛られた膳も、敷かれた寝床も、傑はすべてを拒否していた。野にいては、満足に食べられない日の方が多かった。水さえ含んでいれば何とか凌げる。

  用意する者たちには申し訳なさはある。けれど、どれほど饗(もてな)しを受けようと、傑は客人などではない。そのような扱いを受けるわけにはいかなかった。

  そうして日が経てば経つほど、傑は焦燥した。

  元いた河原付近には、傑が庇護する小さな妖達が何匹もいた。突如姿を消したことで、きっと心配を掛けているだろう。それだけならばまだしも、それこそ白獣共に駆逐されていたら。考えるだに悍ましいが、今の傑には成す術もない。忸怩たる思いにはらわたが煮えくり返りそうだった。

  

  ◇

  その日も暮れようとしていた。

  手つかずの膳が下げられて、傑は空腹を凌ぐための水を飲む。もうすぐ湯殿から声が掛かるだろう。熱に中てられないように、少し多めに甕から水を掬った。

  一息ついたところに、突然縁側へと続く襖が開けられた。

  「わっ」

  世話人が立てる静かな足音よりも音がしなかった。現れたのは、傑の腰丈ほどの小さな白獣人だった。

  「河原の件は不問にする」

  庇護してきた妖達と変わらないような童の不遜な物言いが、どこか可笑しかった。吹き出したりしなくても、勝手に口端が弛んでしまう。

  「とんでもなく骨が折れたぞ」

  白獣の童は、ずかずかと座敷に踏み入ってきた。そうして敷かれた一枚きりの座布団に、当然のような顔をして腰を下ろした。

  使ってはいないが、傑のために用意されたものに。

  しかし幼い形でも羽織袴だ。大層仕立ての良いもの違いない。艶とした白が目にも鮮やかだ。

  白銀の髪から生えている耳は、墨色の斑をもつ雪のような毛皮で覆われている。眸は青天の空のような蒼眸だ。

  離れに来る使用人たちもみな同じ毛皮の耳を持つが、頭髪は傑と同じ黒で、目も黄色がかった者達ばかりだ。

  あの夜に、傑を此処へと連れ込んだ白獣の血筋だろうか。それならば、ふんぞり返るような不遜さにも合点がいく。それにしても、どうしたものか。首を傾げたところに、使用人の足音が聞こえてきた。湯殿の準備ができただろう。

  「失礼します」

  頭を下げようとした使用人が仰け反り返った。

  「主さま。こちらにおいででしたか」

  「用向きは何だ」

  「湯殿の準備ができまして御座います」

  「わかった。でも先に膳を持て。新しいのだぞ」

  「かしこまりました」

  急ぎ遠ざかる足音に耳を蠢かしながら、幼い白獣は傑を見据えていた。

  しばらくすると年嵩の女中が重ねた膳を持ち、現れた。後ろから付いてきたものに運ばせていた櫃を置かせて、その者を下げさせる。

  「悟さま、お帰りなさいまし。私が配膳させていただきます」

  「うん」

  女中は配膳するよりも先に、傑へと座布団を勧めてきた。恐縮しきりの傑を、面白くもなさそうに、悟はあぐらに頬杖を付いたまま見ていた。いかがなものかと思う態度も、主と呼ばれる者なら仕方がないのか。

  いや、それよりも。

  悟と呼ばれた目のまえの童は『主さま』とも呼ばれていた。

  白銀の髪に、青天の空を嵌めたような蒼眸。

  血縁も直系ならば、ついぞ見たことのない白皙の美貌も受け継がれるのかもしれない。だとしても、主は主。その子だとしても、主と呼ばれるには違和感がある。

  「もしかして、その姿が本来なのか?」

  「気になるとこ、そこかよ」

  傑の問いをはぐらかしているのか、悟は白米ではなく粥が盛られた椀も、目の前に設えられた膳も、ずいと傑の方へと押しやってきた。その意を汲んだように、女中が椀も膳も傑のものと入れ替えた。

  「おまえ、まったく食わねぇって聞いたぞ。毒入れるとかみみっちぃことしねぇから。倒れられても面倒なんだよ。とりあえず食え」

  言うだけ言って、悟は背筋を伸ばして手を合わせる。いただきます。美しい所作で箸を持つと食事を始めた。

  実のところ、目が回るほどに腹が減っている。たぶんあと数刻も持たず、みっともなく倒れる程に。

  耐えられたのは、毒殺の懸念よりも施しを受けない矜持が勝っていたからだ。意地を張ってる。言われれば、その通りだ。何もできないまま封じられ、置いてきてしまった小さき者らを案じるばかり。自分だけがぬくぬくとしていられるわけがなかった。

  微動だにしない傑に、悟は箸を止めた。これ見よがしに大仰なため息を吐く。

  「おまえが囲ってた、てか、面倒みてた奴らか。山裾に構えた庵で世話させてる。飯もたらふく食わせてるし、心配ねぇよ」

  「本当か?」

  「こんな無意味な嘘吐いてどうする。そのつもりならとっくに喉食い破ってるし、放っときゃ野垂れ死ぬだろ」

  「……そうだな」

  悟の言うとおりだ。力のない小さな彼らは傑の庇護なしでは生き伸びるのが難しかった。

  「だからおまえも食え。死んだらおしまいだろ」

  死んだら、おしまい。何もかも、悟の言うとおりだ。傑はそれを身を以て、知っている。だけどすぐには手を付けられない。

  「食ったら霊力封じも解いてやるけど」

  試すような物言いに、傑は喰いついた。

  「本当だろうな?」

  「だからって、そうやすやすとは出してやれねぇけどな」

  「そうか」

  封じられた霊力が戻っても、掛けられた結界を破るのは至難だ。傑もただ大人しく囚われていたわけではなかった。それならば。

  「いただきます」

  傑は箸を取った。空きっ腹を驚かせないようにだろうか。椀には白米ではなく、粥が注いである。ありがたく、噛み締めるようにして口にした。

  悟は大きさの割によく食べた。用意されたのが白米ではなく粥だったせいかもしれない。

  茶が供されて、女中が下がる。悟は徐に口を開いた。

  「さっきも言ったけど、おまえの所業は不問にしてきたけど、許されたわけじゃねぇからな。俺の手元に置くのが条件だ」

  「どうしてそんな権限がおまえたちに」

  傑に非があるとばかりに決めつけられるのは、到底納得がいかない。悟は眉を顰めて、大仰なため息を吐いた。

  「本当におまえ、ありえないくらいの訳わからずだな」

  「訳わからずとは随分な云い方じゃないか」

  問答無用に連れてこられたのだ。どちらがと、傑の方こそ問い質したいのに。悟は取り付く島がないほど能弁に語り出した。

  「他にどう云えっつの。霊力は御山に。縛られる法なんかねぇのが俺達妖だけど、それだけは何妖も破れない不文律だ。うじゃうじゃ蔓延る人世と隔てて、安息の地を治めてるのは霊峰の宮に奉られてる俺達雪豹族の長だぞ。それくらいわかってんだろう」

  傑は唖然とした。そんな話は聞いたこともなかった。傑が霊力を集めていたのは、ただ小さな同胞たちを守りたい一心でしかなかった。

  「そんな掟みたいな話は聞いたことがない」

  「そんなわけあるか。おまえの尻尾、八尾か九尾かしんねぇけど、そこまで変化するには長い年月が掛かる。喩え、おまえが他所から此処に辿り着いたんだとしても、前の塒にもいただろう護り主が。そこでも超えちゃならない一線はあったはずだ」

  「それは、どうだろう」

  「まさかおまえ、根っからのはぐれ者かよ」

  「そう、とも言えなくはない、のか」

  「おいおいおい」

  悟は身を乗り出して、傑の尻尾を掴んできた。傑はその手を払って、咳払いをする。悟は不満げでいるけれど、さらに話を進めてきた。

  「九尾のお尋ね者は聞いたことねぇけど、もしかしておまえ、そういう輩?」

  「ではないと思うけど」

  「本当かよ。でも確かにおまえからは濁った匂いはしないな」

  「それなら君には、これから話す私の話を信じてほしい」

  傑は蒼眸を真っ直ぐに見返した。河原で対峙したとき口にしたような目晦ましなど、本来の傑には使えない。あれは箪笥が吸い込む霊力を巧く細工していただけだ。

  悟も真っ直ぐに傑を見返していた。その真意を確かめるかのように。

  「いいだろう。聞いてやる」

  童か、成獣か。どちらだとしても、場を支配しているのは悟の方だ。傑はこくりと息を呑み込んだ。

  「これは確かに九尾だが、私がこの姿になってから、まだ季節は一巡もしていないんだ」

  「はぁ?」

  それこそ信じられないと云わんばかりに、悟は片眉を吊り上げた。

  「戯言過ぎて笑えねぇぞ」

  開いてみせた大口の中にぎらりと鋭い牙が光っていた。幼い見てくれなど関係ない。霊力を封じられているのだ。噛まれたら一溜りもないだろう。

  悟の言を信じるなら、小さな家族たちは保護されていて、傑がいなくとも生きていけるようだ。今さら惜しむ命はない。それならと、傑は毅然と悟に向き合った。虚癖と取られるのは納得がいかない。

  「それこそ、こんなつまらない嘘など吐かないよ。先の冬は酷い大雪で春が随分と遅れただろう」

  確かに。悟は頷いた。身に覚えがあるのだろう。

  「小さい者たちに分け与えるものもなくなって、もう冬は越せない覚悟をした。そんな時だ。あの箪笥と巡り合ったのは」

  禍々しさに憑りつかれている悪しきものとすぐに分かった。しかし箪笥が何かを仕掛けてくるわけでもない。齧っても腹が膨れるわけでもなし。それでも引いた箱の中に入れれば、少しは寒さを凌げるか。

  傑は抱えていた小さな二匹を引き出しの中に入れた。すると、どうだろうか。目を覆うような眩い光が立ち込めて、いつのまにやら傑もその中に引き込まれていた。

  気が付けば、尾は幾又にも分かれていた。空きっ腹を抱えていたのに、箪笥の吐き出す霊力を喰い、小さな者たちにも分け与えられるようになっていた。

  不可思議さに首を捻りながらも辺りを見回せば、禍々しい瘴気があちこちから立ち込めているのが視えるようにもなっていた。手を翳せば、それらは傑の肚へと落ちていった。さらによく目を凝らしてみる。荒れた人世に溢れ出した屍体があちらこちらに転がっていた。大雪の冷たさのせいか、まだ口にできるものばかりだった。

  どうしてこんな群がるように屍体が増えるばかりなのか。

  ある日、傑は気が付いた。

  人は最期の力を振り絞り、この禍々しさを放つ箪笥へと引き寄せられていたのだ。

  人はまるで極楽でも見つけたかのように安らいだ顔で引き出しの中を覗き込んだ。そうして霊力を吸い上げられて、眠るようにこと切れる。そこに蓄えられる霊力はどんどんと傑の力になった。

  その仕組みはわからないまま、雪は解けて春が来た。

  禍々しい気は薄れないものの、引き出しを覗けば欲しいものが得られる。生き残った者たちの人づてに話は次第に広がっていった。

  実際のところ人が何を視ているのか、傑にはわからない。

  それでも箪笥に捧げられる霊力は、傑を介して小さな者たちへと分け与えられる。一緒に冬を越した小さな者たち以外にも、乞われれば与えた。

  幾又にも尻尾が分かれた傑は、いつしかひとの形を成せるようにもなっていた。

  不思議な身の上になったものだ。

  より多くの物を贖えるのならと、人里に降りることにした。水辺はすべての生き物に必要な場所で、河原へと辿り着いたのは必然だった。

  「そうやって、おまえが霊力溜め込むせいで、すっかり御山への礼賛が減っちまった。あの箪笥にありえねぇ効力があるのはわかったけど、むやみやたらと奇跡を起こせば争いが起きて、人世は荒れる。守るも守らないも勝手だけど、俺達妖にも境界線ってのがある。それを台無しにされたら御山は霊峰じゃなくなるし、俺達妖は生きてけない」

  ぎらりと牙を剥いたわりに、悟に短絡さはなかった。むしろ形は幼くても、傑に教え諭すかのような話しぶりだ。

  「おまえが九尾になって一年も経たないとか、分けわかんねぇけど、そりあえず信じるわ。御山も護り主も知らねぇってのも、それなら納得できなくもない。でも御山の爺ぃ共には通用しねぇよ。ちっとばかし窮屈かもしんねぇけど、やっぱりおまえは此処にいるしかねぇなぁ」

  「いつまで?」

  「はっきりとは言えねぇ」

  「あの子たちにも会えないのか」

  「おまえが河原で妙ちきりんなこと始めたせいで、御山も衰退を食い止めるのに必死だった。さすがにこれは知らなかったじゃ済まされない。それに殺られた同胞の恨みもある。おまえはべらぼうに強いからやられないだろうから、余計な悪循環が生じるばっかだ」

  悟の言い分は尤もだった。

  最初は自衛でも、保たれていた規律を侵したのは確かなようだ。知らぬことと、自らの過分を見ぬふりはできない。

  「その代わり、おまえの囲って、と、庇護してた小さい奴らには手出しさせねぇ。次期の名に懸けて、必ずだ」

  「じき?」

  「雪豹一族の長は霊峰を統べる。次の当主は俺だ」

  「ああ、次期。次期様か」

  「悟でいい。おまえは?」

  「私は傑です、悟様」

  「傑。様はいらねぇ。傑は一族じゃねぇし。今からは俺の客人とする」

  宣言するように言い放つ悟に、傑は目を剥いた。

  「いいのか、そんな扱いにして」

  「それこそ誰に、何も言わせねぇ」

  「そうか」

  

  それが傑と、小さな雪豹の長を継ぐ者との出会いだった。

  3.

  次の日から時々、夕餉には悟の膳も離れに運ばれて来るようになった。そんなふうに見張らなくても、傑は二度と食べないという選択はしない。

  死んだらおしまい。悟の言うとおりだ。

  今は囲われた自由のない身でも。それもいつの日か変わる時が来るかもしれない。

  そうした最中、二膳運ばれる頻度は十日に一度が七日に一度。五日と空けていたのも、気づけば三日置きになっていた。

  季節は巡り、庭にはすっかり夏草が生い茂っている。最近では、悟は昼間にも顔を出すようになっていた。

  客人と云えど、傑はこの離れからは出られない。他にすることもなし。庇護していた小さな者たちの相手をするような吞気さで接していたのは、最初の数回だけだった。

  周囲を壊さないよう結界を張って行う体術の鍛錬は、遊びのようでも戯れではない。何度でも挑んでくる小さな身体に、傑はいつだって本気で応えていた。

  時には傑の肚内にあるモノを視て、その使い途を議論する。どこでそんな力を揮う機会があるのか。甚だ疑問でも、時を忘れるほどに白熱することがあった。

  悟も余程楽しいとみえる。家に伝わる書付だと巻物や書物を幾つも離れに持ち込んだ。

  獣としてはかなりの長寿であっても、傑は突如妖となった身の上だ。文字や書物に触れることも初めてだ。最初は悟が読み聞かせてくれていた。悟は形は幼くとも、霊峰を統べる一族の当主となるべく育てられてきた英才だった。桁違いの霊力を持っていて、その身に課せられた荷は思いの外、重責のようだ。

  当然のように何事にも造詣が深く、悟の注釈する書物の読み解きを聞いてるだけでも興味が尽きない。やがて読み方を覚えると、一層理解を深めようと、何度も繰り返し熟読した。

  

  ◇

  

  日々は過ぎ、最近は日差しが和らいできた。庭の草木にも色付く葉が増えている。

  昼餉を摂った悟は大きなあくびをしたかと思うと、そのままこてんと寝入ってしまった。朝餉の腹が落ち着く間もなく、傑と体術戦を繰り返してたせいだろう。

  胡坐を掻く膝下に頭を乗せられていて、傑は動くに動けない。

  すっかり顔馴染みにとなった年嵩の女中は悟の乳母だったこともあり、離れに出入りする使用人はほとんど彼女だけだ。膳を片付けるよりも先に、掛ける薄物を持ってきた。

  「随分と懐かれたものですね」

  動けない傑の傍に淹れた茶を置いて、女中は悟の背をひと撫でした。

  「やんごとないお育ちには、野晒し者が珍しいだけですよ」

  目礼をして、傑は湯飲みを手に取った。昼下がりにも、温かさが丁度よく感じられる。

  「そのような謙遜、悟さまがお聞きになれば癇癪を起しかねませんよ」

  「そうでしょうか」

  気まぐれにも邸の主人である悟が言い張るから、傑は客人として遇されている。しかし、この離れに押し込まれた経緯が経緯なだけに、おいそれと放り出すわけにはいかない厄介者と云えなくもない。

  過ぎる厚遇をどう受け止めていいのやら。傑の心中は複雑だ。

  「もちろんです。悟さまとつり合うほどの霊力を持った方など他にはおりませんから」

  傑は女中の言葉にはにかんだ。悟にも同じことを言われていた。随分な御身である彼に、同等の者のように扱われるのは、面映ゆくもあるが、誇らしい。

  「悟さまはこの甚大な霊力故に、産まれた日から独りとなりました」

  乳母は悟の親に召し抱えられた者ではなかった。

  毛並みは降り積もった雪よりも白く輝いて、開いた眸は一族の誰とも違う蒼。慄く両親から取り上げられて、悟はこの邸へと連れてこられた。

  白銀の髪と蒼眸を持つ悟は、一族に古より言い伝えられている特別な存在だった。

  それこそ記憶にもない幼い時期から術を使い、物心つく頃には重鎮より教えられた基礎を、十にも百にも膨らませて応用してみせた。

  その才に、早くから世代交代を望まれていて、今でもその声は絶えることがない。

  一時など強硬派が多勢に無勢で囚えようと、邸が襲撃に遭ったのも一度や二度ではない。悟はその頃を境に、ほとんど邸に寄り付かなくなった。

  悟が当代の直系ではないのも理由の一つだ。この邸とて、独りであることが変わらなくても、族長として迎えられる清宮には出(いず)る自由がない。悟は数えで十となるが、まだ幼体で番もいない。身勝手な一族の老獪にそれまでも押し付けられるのは、あまりに不憫で痛ましい。

  「それが今ではこの有様ですから」

  稚く寝入る顔は、女中が乳を含ませていた頃と変わらないのかもしれない。注がれる慈愛を確かに感じられていた。

  湯飲みに茶を継ぎ足して、女中は部屋を後にした。

  傑は脛に乗る頭を何とはなしに撫でていた。指に絡む白銀の髪は絹のようにやわらかい。十にしては小柄で、身の丈は傑の腰程しかない。庇護していた小さな者たちとほとんど変わらない大きさだ。

  いくら霊力が莫大で、一から十にも百にもできる才があるにしても、下にも置かぬ大事さで育てられるはずだった邸にも近寄らず、御山の中を転々と独り過ごしていたのか。

  「……君は、ずっと」

  「独りのが気楽だし」

  パチンと弾かれたように蒼眸が開かれた。傑は手のひらを頭に乗せたままでいた。

  「起きてたのかい?」

  「野晒し者とか言ってんじゃねーよ」

  いーっと悟は歯を剥き出しにする。

  女中との会話のほとんど最初から聞いていたのか。苦笑いを零すと、悟はくるんと身体を転がした。くわぁと大口を開けて、伸びをする。

  「弱っちぃやつに気ぃ遣うのは疲れる」

  期せずして聞いてしまった生い立ちへの、照れ隠しでもないようだ。凛とした眼差しが矜持を物語っている。

  それでも聞いた話は語る主観の偏りがあっても、概ね事実なのだろう。獣もひと妖も、幼体が一人で生き抜く厳しさは変わりない。喩え存外の力を持っていても。

  傑は客人という体をなした囚人であるが、悟に阿る謂れはない。

  「悟は、そう思うんだね」

  「傑は違うの?」

  振り仰ぐ蒼に誤魔化しはいらない。

  「私は力があれば、分け与えたい。何者も、独りでは生きられない」

  「ふーん」

  傑と過ごす時、悟は感情起伏が素直だった。それが今は、翳りのない蒼眸に深淵を覗き込むかのような静謐さを湛えている。

  悟より数倍も長く生きていても、所詮は獣。妖と化してまだ一年にも満たない。抱えるものの違いに慄くのは、明らかに傑の方だ。答えに正解はなくても。

  「でも、君と同列に擬えるには無理があるよね」

  「そういうもん」

  傑の言葉をどう受け止めたのか。

  立ち上がる背を追うと、悟は縁側の端に腰を下ろした。傑もその傍に座を移す。

  ぷらぷらと裸足の脛が所在なく揺れている。後ろ手を着いた背は変わらず真っ直ぐだ。

  悟のそうした様が好ましかった。

  傅く何モノにも靡かない、孤高を受け入れている。諦念とは違う、更にひとつ突き抜けたものがあるように傑には映っていた。

  「あいつら弱っちぃくせに、俺にはああしろこうしろって、うるせえっつの」

  「そうか。君の仲間は、君に守られているのに自覚がないんだね」

  霊峰を統べる一族も、その山に棲む妖たちも捧げられた霊力を喰うて永らえる。どんな小さな妖でも、いれば結界の置き石程度にはなる。捨て駒に近いものはそれなりの数が必要だ。いなければ結界は緩むし、霊峰が尊ばれる謂れが消えていく。悟ほどの豊富な霊力があれば、山に捧げられるそれらを必要としなくても、居場所は失くしていくばかりだ。

  傑がここに来てから学んだことだ。強くても、ひとりでは意味がない。

  「どうだかな」

  たしんと身体に似合わぬ大振りの尻尾が揺れた。そんな悟の剣呑さには初めて触れた気がした。

  目が覚めたような気がした。

  確かに傑もその他大勢だった。幼さに慈愛を注ぐも、彼の持つ才を与えられ、庇護されているのも忘れてはいないが、薄らとなるときもある。

  豊富な霊力で同等に交われても、教わることばかりで何を返せるわけでもない。随分な思い上がりで、烏滸がましさに恥じ入るばかりだ。

  「だいたい、仲間とか、何とか」

  傑の内心を読めるはずはない。けれど眼差しの怜悧さが、胸を抉るようだった。

  見離されたか。

  泥を呑み込まされたかのように、肚内が重たくなる。

  「一緒くたにされたくねぇけど」

  悟は仰向けに転がった。

  雲が棚引くように流れている。色味の少し薄くなった空は、暑かった頃より高く見えた。

  「つまんねぇなー」

  さらに仰向けた視界の端に、傑の尖った黒耳が見えた。

  傑は霊力がほぼ悟に匹敵するほどの甚大さで、肚内に呑み込んだあれこれを使役する、悟にもない能力を持っていた。妖と化して一年と経たないくせに、話の呑み込みが早く、打てば響くように返してくる。

  出会ってから、季節はほんの二廻りもしていないのだから、悟を諭し教えていた連中よりも、余程才がある。身体裁きも申し分なく、手合わせする相手としてこの上ない。

  その上やさしく、弱い小さな者たちへの慈愛をいっとう大事に思っている。おそらく、妖と化したのもそのつよい感情が源だろう。そうして、そんなものを微塵も必要としなかった悟を、形のせいか、その括りに入れようとする節もある。

  信じられなかった。

  霊峰の長よりも甚大な霊力を持ち、他の誰を頼らなくても独りで生きられる悟を、庇護していた弱き小さなモノと同じ扱いをするなんて。

  「悟にはそう映るのも仕方ないかな」

  伏した目を逸らされた。

  何かを見限られた気がしていた。

  気づけば獣化していた手先を、傑は受け入れるかのように押し包んでいる。分厚い毛皮に覆われた肉厚の手に生えるのは、鋭い牙のような爪だ。

  傑はつるりと尖ったそれを何度も撫でつけた。生身のままで。

  悟が午睡から覚めたときもそうしていた。髪を梳くように。やわらかく何度も何度も撫でつけられていた。

  十を超えた悟には、乳母だった女中でさえ、そんなことしてこない。

  隔てるくせに、まだ晒される無防備さが腹立たしい。

  訳が分からない。

  このまま切り裂かれるかもしれないのに。

  客人と饗されていて、すっかり忘れてしまったのだろうか。傑は何匹もの同胞を手に掛けた。報復するだけなら簡単だった。だけど悟はそれを選ばなかった。

  意味の分からない感覚に全身が揺さぶられたからだ。

  術ではなかった。

  今なら、わかる。

  だけどその根幹がどこから来るのか、まだ何も分からない。

  生まれて初めて齎された、あの不可思議な感覚がいったいどこから来たものなのか。悟は見極めたくなっていた。

  そうして邸に連れ帰った傑を、結界の中に閉じ込めている。

  五月蠅い連中を黙らせる手は幾つもある。決定打となったのは傑が霊力集めに使っていた物の怪染みた箪笥の存在だ。

  霊力を飲み込ませる仕組みは簡単で、使い方次第では十分御山の糧になりそうだった。おかげで節穴ばかりの老獪たちは苦々しくも説き伏せられた。

  だけど妖ならざる箪笥は、怪異のくせに傑に隷属していない。傑は妖ならざる怪異を肚に呑み込み使役できるのに。

  誤算でも、解明できない仕組みに湧き上がる期待があった。悟の眸を以てして、解き明かせない術はない。時を掛ける取り組みは格好の退屈しのぎだ。しかも共に当たれる才まで見つけた。

  おかげで悟の生活は一変した。

  長く戻らなかった邸は悟の帰還に歓喜して、離れに押し込んだ存在には見て見ぬふりだ。構うことはない。傑と過ごす時間が増えれば増えるほど、悟は退屈さから抜け出せた。

  それでも傑は不文律を守らず、一族を手に掛けたならず者に他ならない。悟の手前、声高でなくても、報復の機会を狙ってる一族も少なくはない。

  盾にされるのは構わなかった。悟の意思だ。でも、並び立つのを厭うなら。

  「だいたい全部がつまんねぇよ」

  考えだしたら、何もかもが億劫だ。

  かかずらう何もかもを引き裂いてやりたくなる。

  悟は爪先を傑の手の甲を滑らせた。少しでも力を籠めれば、一刺しに貫ける柔さがある。

  「山の不文律を守んねぇ奴とか、ましてや同胞に手を掛けた奴には報復しなくちゃなんねぇだろ。勝手にしろよって思うけど、弱っちぃ奴らの手に負えないってんでお鉢が回ってくる。そんなん知ったこっちゃねぇ。いくらでも云ってやりたいけど、そもそも意味ねぇんだよ。尻ぬぐいばっかりってわかってんのに」

  「そうだろうね」

  いつもなら、ちりちりと肚底を燻ぶらせるような漁火を宥め、鎮めるような涼しやかな声なのに。低くなく、高くなく。その耳触りの良さを、悟は一等初めから聞き分けていた。

  それが酷く癇に障った。

  腕にすり寄るようにして、悟は畳の上をいざった。

  力強さを知っている目のまえの、節くれ立った手の甲に爪を滑らせる。そのまま中心につぷりと先を突き立てた。悟は食い入るようにそこを見るだけだ。

  「こうして聞いているとね、君の葛藤は正しいよ。云うなと言われても、やっぱり私は一介の野晒し者に過ぎないな。私は何一つも知らなくて。力になりたいと思うことさえ烏滸がましい」

  食い込んだ爪の端から幾つも、紅の筋が零れてくる。

  「正しいとか知らねぇし。守るとか、わかんねぇ、わけじゃねぇけど」

  「そうだろう。君はいつも君の成すべきことをしようとしてる」

  静かでいて、響き渡るような声だった。頭の中に、傑の意志のつよさがそのまま流れ込んでくるかのようだ。悟は生身の甲に突き刺した爪先を、押し込むことも引くこともできないでいた。

  慣れ合って、どうする。なら、決裂か。いや、そうではない。元々慣れ合ったつもりはない。

  どこか裡から脅かされるような底知れない何かを、暴いてやらないわけにいかなかった。それだけだ。

  退屈しのぎに。いや、そうではなくて。訳わからずのまま、翻弄されるのが許し難かった。

  一族の規律も、古からの伝えも、悟には何一つもうっとおしいばかりだ。弱い奴らが群れるための掟。なくては生きられないのなら、いっそのこと全部が消え去ればいい。

  少しずつ消えていく存在の中に、いつしか悟も巻き込まれることだろう。

  何のために永らえているのか、悟はその意味さえ掴めていない。悠久など、まるで欲しくない。

  「それも、たった一人きりで」

  ぶわりと膨らみきった何かが、さっきよりも鮮明に爆ぜた。

  その正体を悟は知らない。知れないのが悔しい。傑が齎すのに。傑は意味の分からないものばかりを悟に齎す。幾つも、幾つも。独りで解き明かす、意味があるのか。

  自身に相当する霊力を持つ妖がいるなんて、生まれて此の方考えたこともなかった。

  一族を庇護し、宮に御大と奉られている族長ですら、誰が口にしなくても悟の足許にも及ばない。

  紅の筋がひとつ、またひとつと増え続けても、傑の裡は変わらぬ色を保ち続けている。沈む日が大地のすべてを包み込むように広げる黄金色。迫りくる藍を混ぜ込み緋色となる。

  突っ込んだ手で、掻き回してやりたくなる。ぐちゃぐちゃになるまで。飼い慣らされている一匹に成りたいわけでもないのに、その裡に包み込まれてみたい。

  嗜虐でいて、庇護を望む。

  相反する以上の望みが、それこそ悟の裡で入り乱れていた。それでいて葛藤ではなく、渇望だと身の内が騒ぎ出す。

  それこそ意味が分からなかった。

  だけど、唯一だ。

  失うわけにはいかない。

  害しているのは、悟なのに。

  その事実に、血が上る。破裂しそうな勢いに、蒼眸も真っ赤になっているかもしれない。

  悟は息もつけぬまま、爪を引き抜いた。とくとくと溢れ出してくる紅を懸命に舐めとった。生温かくて、鉄屑のような味がする。止まれ、止まれ。一刻でも早く止まれ。毛皮に覆われたままの両手でそっと捧げ持ち、必死になって舐め続けた。

  そんなことをしても何の役にも立たない。

  見上げた傑の貌は青白い。それでも悟を責めることなく、もう片方の手が力なく悟の頭を撫でてくれていた。

  「連れてくから」

  一呼吸で、思い出した。御山で唯一口を利く妖は、傷を治す能力を持つ。名を硝子という。

  悟は獣化した背に傑を引き寄せた。

  「どこへ」

  惑う声など聞いている場合ではない。

  「この傷、治せるとこ」

  ◇

  久方ぶりに出た結界の外は、墨を流したように星は瞬かず、月も出ない夜だった。どこに向かって飛び、駆けているのか。痛みと流れ出る血潮に朦朧としているだけではない。闇に浮かび上がる悟の雪原よりも白い毛皮に、目のまえがぼんやりとしてきていた。

  獣化させた手のひらでつよく押さえられても、溢れだす血潮は止まらなかった。鋭い爪先につけられた傷は思うよりもずっと深くまで抉っただろう。貫いたのは悟なのに、その美しい毛皮を汚してしまう罪悪感が拭えなかった。

  ひた走る闇夜の先に、ぽぅと浮かび上がるように小さな庵が見えてきた。

  「硝子っ」

  鼻先で扉をこじ開けた悟は、傑ごと庵の中に転がり込んだ。悟の術で膜を張っていたせいか、朦朧とした意識のせいか。床板に転がった感覚がなかった。

  「何だよ、坊。そんな血相変えて」

  「血が止まんねぇの、俺がやったから」

  「はぁ? 何やってんだよ」

  心底呆れたような声を聞いたきり、傑は意識を途切れさせていた。

  ◇

  「これが例の黒狐?」

  「そう」

  気を失った傑の、深く穴の開いた手の甲を掴んで差し出した。硝子は鼻の頭に深い皺を寄せて、大きな舌打ちをする。

  どれほどの罵詈雑言も後からならいくらでも聞く。とにかく流れ失っていく血潮だけでも止めてほしい。傑の顔からはすっかり血の気が引いていた。

  「いいから早く」

  「黙ってろ。御山の次期様が聞いて呆れるよ」

  硝子の云う通りだった。

  思い通りにならない玩具を壊すのと同じ。何をしているのかと、自身の頬を張ってやりたい。だけど何一つの解決にもならない。

  燻らせていた煙管を囲炉裏に返し、硝子の両手が傷を覆う。霊力が注がれていくのが視えていた。すぐにも血潮の滴りが止まった。覆われている傷口は見えなくても、再生に向かっている、はずだ。

  硝子の術はそういうもので、他にそんな使い手に遭ったことはない。

  深い傷のせいだろうか。思うよりもずっと時間が掛かっている。

  悟が硝子の治療を受けたのは、何年も前に一度だけだ。邸から飛び出してすぐの頃、雪に覆われた崖から見誤って落ちたことがあった。突然のことで、膜を張るまえに負った傷があった。半信半疑でも、風説を頼りに硝子の庵を見つけた。それ以来、一人で過ごすのに飽いた頃、ここに顔を出すようになっていた。

  静まり返った庵の中で、悟も苦しいくらいに息を詰めていた。

  どれくらい時間が経っただろうか。傷を覆っていた硝子の両手は、力が抜けたように垂れ下がった。

  「こんなもんかな」

  はぁ。大きく息を吐いて、傑の手を差し出してきた。悟はまじまじと覗き込む。多少の引き攣れはあるが、すっかり傷は塞がっていた。ようやく訪れた安堵に、悟の全身からも力が抜け落ちた。後ろ手を着いて、足を投げ出す。

  「次はないからな」

  「わかってる」

  改めて、悟は居を正した。

  「ありがとな」

  傑の手を取って、傍らへと腰を下ろす。硝子は返した煙管に、また火種を入れていた。深く肺腑まで吸い込むと、紫煙をゆるゆると立ち昇らせた。最初の頃には顔を顰めて鼻を覆っていた匂いにも、今ではすっかり慣れていた。

  「帰らなくていいの?」

  「まあ」

  曖昧に頷いた。

  本当はいいわけがない。

  本人は知らずとも、そもそも傑は悟の結界内に留め置くのを条件に、処刑回避された身の上だ。悟と傑。正気なら、両名と正面切って遣り合う手合いはいないだろう。それでも、露見したら面倒なのは間違いない。

  「それならいいけど。目ぇ覚ますまでだから」

  紫煙が悟に向けて吐き出された。けほけほと、さすがに鼻面を顰めた。

  「恩に着る」

  それでも頭を下げた。上がる口角が視界を掠めていた。

  「次は忘れるなよ」

  「わかってる」

  硝子は、徳利の付喪神かと疑うほどの酒豪だ。悟の邸に奉じられる上等のお神酒がいつもの手土産だ。

  傑はまだ目を覚まさない。硝子に傷は治せても、失った血潮の回復まではさせられない。気を治すまで、そっとしておくほかなかった。

  

  中略

  「傑」

  唇を寄せて、重ね合わせる。何度も何度も繰り返して、悟はとうとう傑の咥内に舌を伸ばした。濡れた裡で舐るように絡め合わせると、傑がもっとと喉奥に導くように吸い上げてくる。ん、ん。漏れ出る声を耳にするたび、肚奥が燃え盛るように熱くなる。揺れる下肢を擦りつけ合いながら、悟は傑の咥内をあらん限りに暴き立てた。

  舌の付け根も、やわらかな頬の内側も、舐れば啼く声がいっそう可愛らしい。まるで好物を目のまえにしたときのように、じゅわじゅわと唾液が溢れ出てくる。飲んだり、飲み込ませたりしながら、髪に生える耳裏を擽るように掻いてみた。驚くくらい、傑の身体が震え上がった。

  「さとる、あん、あ、んんっ、きもちいい、気持ちいいからもっとこすって」

  傑はすっかり上気させた顔を緩やかに振りながら、耳裏を弄る指先をねだった。

  根元から摘まんで、扱くようにして先端へと指を滑らす。やわらかな毛に覆われた軟骨のしなやかさに触れる。尖った先端がぴくぴくと、まるでそこだけ違う生き物のように蠢いている。悟も堪らなくなってきて、思わず齧り付いていた。

  「ひあっ」

  甲高い嬌声と共に腹が濡れる。悟は蒼眸を見開いて、一瞬甘噛みするのをやめていた。伸ばした手のどろりとした感触に吐精だと思い至った。

  「あ、ごめ、わたし、」

  頬ペタどころか、首筋までも真っ赤に染めて、傑は身体をくねらせている。

  「かわいい、傑。すげぇ可愛い」

  傑の背を追いこした今日まで、そんな云われ方するのは悟ばかりだ。

  いつも隣で凜と背筋を伸ばしていた傑だのに。悟は大きく開けた口中に、もう一度傑の耳を含んだ。根元を揺らすように舌先で舐る。やわらかな表は、それこそぐちゃぐちゃと掻き回すみたいに嘗め回した。

  「あ、あ、さとる、さとる、そんなしたら」

  傑は頭を小さく振っている。逃げ出したいのか、そうでないのか。もう片方に目を移せば、半折れになった先端がぴくぴくと振るっていた。まるで、おいでと誘われているようだ。それならば。摘まんで、指先を滑らせるようにして擦った。

  「あ゙っ、あ゙ーっ」

  仰け反るように背がしなる。傑はまた精を吐いていた。悟はやめることなく、夢中で尖った耳を弄り続けた。そんな傑を見ているだけで、我慢しきれず下肢が揺れる。傑の腹に擦りつける。でっぷりと摩羅が太ってきて、今にも破裂しそうな気がした。

  「あ、あぁ、さと、る、さとるぅ、硬いの、そんなおなか、ごしごしされたらぁ」

  二度も吐精しているのに、傑はさらに身体を悶えさせた。二人のあいだに手を伸ばしてくる。力なく握り込まれたのに、今度は悟が全身を跳ねさせた。

  ゆるゆると摩羅が扱かれていた。悟は咥えた耳をいっそう嘗め回す。ふうふうと荒れる息を吐いては、何とかやり過ごす。昂る気持ちは半端なかった。

  「悟ぅ、ねぇ、悟、悟もいい?」

  「うん、んんっ、きもちぃ」

  耳を離して、悟は甘えるように身体を寄せた。大きな手のひらが玉を揉みしだく。支えるように包まれる刺激にもう我慢できなかった。

  後略