巨狼狩り

  野獣の匂いがする。

  女は血痕を追ってきた。灰色の瞳を凝らし、折れ枝や下草の中に赤い滴りを見つけ、辿ってきたのだ。

  追うべき痕跡がなくなった今、彼女の頼りは嗅覚だった。

  猛々しい獣の臭気は、かつてないほど濃い。

  ――近い。

  そう確信し、彼女は白樺の影で足を止めた。長身を屈め、太い幹に半身を隠して周囲を窺う。

  茶褐色の額に滴る汗を拭うついでに、銀髪をさっと手櫛して、万一にも視界を邪魔せぬようにする。

  懸命に呼吸を静め、尖り耳を澄ます。

  生い茂る樹々が風に揺れる。その微かな音にさえ、彼女の身体は震える。

  怯えている。追い詰めたはずの獲物は、手傷を負ってなお、一瞬で彼女を殺し得るのだ。

  じっと目と耳を凝らして耐えていると、果たして、敵は来た。

  枯れ枝や雑草を踏むパリパリという音がする。足音を抑えていても、巨体であれば完全な無音とはならない。闇エルフの鋭い聴覚はそれを捉えた。

  前方、笹が密生する藪の奥である。彼女の先回りは成功したのだ。

  迫り来る敵の気配に向かい、用意の愛銃を構えた。[[rb:施条 > ライフルド]]マスケット銃。装填は既に終えている。当然、込められる弾は一発のみである。

  膝撃ち姿勢になる。

  (姉様たち、私に力を……!)

  敵の巨躯ならば一跳びで彼女に届くという距離まで気配が近づいた時、灰色の身体が見えた。

  即座に引き金を絞る。だぁーん、と激発した。濃い白煙があがる。

  ギャン、と聞こえる獣の悲鳴が響く。笹藪を割り、横倒しに倒れたのは、大岩ほどもある巨大な狼だった。

  しかし、狼はすぐに起き上がった。胸から血が吹き出しているが、狙った心臓には当たらなかったのだ。

  怒りに燃える狼は、彼女に向けて吼えた。

  「ひっ……」

  心臓が凍りつき、あらゆる思考が止まる。そして彼女は狼の声を聞いた。

  《おのれ、おのれ、卑怯なエルフども! 我が怨みを知れ!》

  狼は怒りを露わにした。ナイフのような無数の牙を見せ、彼女に向かってくる。

  「怨みだと――」

  惨劇の記憶が蘇る。小脇に置いていた手槍を無我夢中で構えた。

  「貴様ァ!」

  そう叫んで己を鼓舞しても、手は震え、槍先は定まらない。

  迫りくる死が彼女を噛み砕くよりも僅かに早く、また銃声が響いた。

  脳漿をぶちまけつつ、狼の巨体はどうと倒れた。横合いからの一弾に頭部を射抜かれたのだ。倒れたまま幾度か跳ねるように震えたが、次第に動かなくなっていく。

  「は……」

  理解が追い付かずに硬直するだけの彼女に、草を踏む足音が近づいてきた。出力を絞った魔術通信が届く。

  《いま、そこへ行く》

  やがて茂みを割って姿をみせたのは、マスケット銃を持った狩人だった。彼女より頭一つ高い背に手槍を負い、腰に山刀を下げている。

  狩人は女の声で言った。

  「どこの村の者だ?」

  面立ちはフードに隠されているが、その端から彼女と同じ茶褐色の尖り耳が覗いている。

  「……ヴァルム村です」

  「谷の者か。たったひとりで? 馬鹿者が。無謀過ぎる」

  冷静な罵倒を受けて、彼女の頭にかっと血がのぼった。怒鳴り返そうとして、しかし、喉からこぼれたのは震え声だった。

  「まともな狩人は、もう私しかいないんです。みんな……みんな殺された」

  「巨狼たちにか」

  狩人は自明なことを言った。

  巨狼とは、いま討ち取ったばかりの怪物のことである。

  姿はまさに巨大な狼。しかし、その実はエルフと同じ魔種族の一種だ。強靭な巨体と深い知恵を持ち、言葉すら解するが、山で獣同然に暮らしている。

  もっぱら山地や裾野に住まう闇エルフには太古からの脅威だった。彼女ら種族に幸いしたのは、巨狼族が好む群生地が、険しい奥山に限られることだ。

  そのため、闇エルフが遭遇する巨狼は、群れを追放された一匹狼に限られてきた。多くは深手を負っている。手練れの狩人たちが総出でかかれば、犠牲は出ても倒せぬことはない――はずであった。

  周囲へと視線を走らせる狩人の横顔に向け、彼女は言った。

  「ひと月前からです。巨狼の群れが近くの山々に棲みついて、家畜を襲い始めました。居合わせた姉様たちまで」

  姉たちの残骸を思い出し、彼女は言葉を詰まらせた。

  「……谷の村では、狩人といっても罠猟ばかりです。立ち向かった仲間はみんなやられて、後は私しか」

  狩人は、静かな怒りの籠もった声で言った。

  「スコル村もだ」

  峠を三つほど越えた先の山村の名であった。遠いが、隣村と言っても間違いではない。ただ氏族が違い、交流はほとんどない。

  「奴ら、そんな遠くまで……。では貴方も?」

  「無謀な馬鹿者のひとりさ」

  そう言うと、女はフードを払った。豊かな栗色の髪が木漏れ日を反射する。

  「ディネルース・アンダリエルだ」

  「……イアヴァスリル・アイナリンドです」

  それが彼女たちの出会いだった。

  ◆

  「巨狼の……頭目、ですか?」

  問い返すイアヴァスリルに、ディネルースと名乗った山村の狩人は頷いた。

  「巨狼の群れには必ず頭目がいる。一番強い牡だ。[[rb:頭 > かしら]]だけが己の名を持つという。群れの強さは。[[rb:頭 > かしら]]で決まる」

  「そいつが、この山にいると」

  「それも余程の奴だ。こんな大きい群れは聞いたことがない。それに毒餌がまるで効かない」

  イアヴァスリルは首肯した。彼女の村でも、死んだ牛馬に猛毒を仕込んでみたが、巨狼たちは齧りもしなかった。

  それも全て群れを率いる頭目の知恵だと、ディネルースは言った。

  イアヴァスリルは尋ねた。

  「貴方は頭目を狙っているんですね」

  「三日前に痕跡を見つけて、ずっと追っている」

  「三日も……」

  巨狼が何処に潜むか分からない山地を、独りだけで三日。

  彼女はディネルースの技量と胆力に圧倒された。しかし、感心してばかりではいられない。

  「私も一緒に――」

  「駄目だ。並みの相手じゃない。君は村に帰れ」

  「死は覚悟の上です」

  言い終えるや否や、彼女の頬はディネルースの手でしたたかに打たれた。

  怯まずに睨み返すと、ディネルースは怒気のにじむ声で続けた。

  「無駄死にするだけだぞ」

  並みの巨狼すら倒せない腕では――という、狩人の冷静な判断だった。しかし、彼女は従うわけにはいかない。

  「……あの巨狼の背を」

  彼女に言われるまま、ディネルースは血溜まりの方に目をやった。

  倒れ伏す灰色の巨体、その背中に一本の矢が突き立っている。鳥や兎に使うような矢で、大して効いたとは思えない。

  「あの矢は君が?」

  「いえ、私の姉のひとりです。殺される寸前に。私はその血痕を追ってきました」

  「そうだったか」

  「そして貴方に会った。無駄死にだったとは思いません」

  ディネルースは無言で死骸に歩み寄ると、矢羽に手を置いて瞑目した。

  イアヴァスリルの目に涙が込み上げた。

  牧場から続く倒れた雑草を辿り、山裾で見つけた姉たちは、正視に堪えぬ有り様だった。頭蓋は噛み砕かれ、内臓を食い尽くされた胸は空洞になっていた。

  念の入ったことに、巨狼どもは地面を掻き掘り、遺骸を放り込んで土をかけてあった。己の残虐さを隠す小狡い知恵を感じ、彼女の憎悪は強まった。

  「一頭殺しても何にもならない。そうでしょう。次は妹たちの番です! 赤ん坊だっている」

  「……君は、相討ちになるところだったんだぞ」

  その苦々しい言葉に、イアヴァスリルは唖然とした。

  「相討ち……?」

  「あの出血なら、半日も経てば死んだろう。私が撃たなくても」

  イアヴァスリルは思わず息を呑んだ。全くの無力だと思った自分の一弾が、姉たちの仇の命を奪い得たというのだ。

  「……役に立ってみせます、必ず」

  「そう気負うな。出来ることを確実にこなすだけでいい」

  「それでは」

  狩人は頷き、強靭な意志を湛える瞳で彼女を見据えた。

  「この山は君の地元だ。ただし、私の指示には従ってもらうぞ。イアヴァスリル」

  ◆

  「水場は、この下です。ここを降りられるなら」

  切り立った崖のはるか下に、小さな湧水池が見えている。

  ディネルースは軽く鼻を鳴らした。

  「巨狼なら造作もない」

  「あんな巨体で、ここを?」

  ディネルースは答えず、崖を指差した。

  「あれを見ろ」

  そこでは崖の土がえぐれ、爪の跡が縦に掻きつけられていた。目指す巨狼は崖を真っ逆さまに駆け下り、水を飲み終えると、また登ってきたらしいのだ。

  イアヴァスリルは背筋に寒さを感じた。巨狼の敏捷さもさることながら、足跡の大きさが異常だ。

  村を襲ってきた並の巨狼たちでさえ、狼とは名ばかりで、年を経たヒグマやヘラジカより大きかった。

  しかし、いま目前にする痕跡は、それどころではない。

  「さっき倒した奴の……倍はあるように見えます」

  「だからだ。私の追ってきた頭目で間違いない」

  「そんな化け物が!?」

  思わず声を上擦らせた彼女を、ディネルースの鋭い一瞥が制した。

  「追うぞ。遠くへ行かれる前に」

  山中の悪路をものともせず、ディネルースは絶えず周囲を警戒しながら凄まじい速さで足跡を追った。遅れずについていくだけでも難しい。

  ディネルースがようやく足を止めたのは、数時間後のことだった。

  追うべき足跡はまだ先へ先へと続いているが、ディネルースは、じっと巨狼の足跡を見つめている。やがて何事かを確信したらしい。

  「引き返すぞ」

  宣言すると、自らも狼のように四つん這いになり、地面を舐めるように注視しながら、来た道を戻り始めた。

  十歩ほど前の足跡まで戻ったところで、また止まる。

  「ここから足跡の深さが違っている。ここで跳んだ……右だ」

  そう言うと、獣道を外れ、横の藪に分け入っていく。

  道なき道を進んだ奥に、巨狼の足跡が再び出現した。

  イアヴァスリルはすっかり面食らってしまった。

  「……どういうことです?」

  「奴は、自分の足跡を逆に辿ったんだ。かなり遠くまで進んでから、さっきのところまで戻って横っ跳びに跳んだ」

  イアヴァスリルの脳裏に異様な光景が浮かんだ。大岩のような巨狼が後退り、正確に自分の足跡を踏んでいるという。

  「まさか、そんな技を」

  「獣扱いするなと言ったろう。巨狼は闇エルフよりよほど手強い狩人だ。まして、この頭目は並の相手じゃない」

  「……私たちを撒こうとしたんですね」

  「撒く? 違うな。先回りのためだ。私たちが気づかずに足跡を辿っていけば、待ち伏せて襲う気だ」

  イアヴァスリルは息を呑んだ。

  「では……敵はこの先に」

  「奴が罠を張った分、かなり近づけた。これからは銃を手から離すな」

  イアヴァスリルは何度も頷き、肩掛けしていたマスケットを手に持った。とうに弾と火薬を込め終え、[[rb:槊杖 > さくじょう]]で突き固めてある。

  もう彼女には、自分たちが獲物を追う狩人の側だとは思えない。それは錯覚だった。これは狩人と狩人の対決――追いつ追われつ、狩るか狩られるかという、技と知恵の勝負なのだ。

  その後、追うべき足跡はほとんどなくなった。敵は狡猾にも、岩か草むらだけを踏んで前進していったようだ。

  ディネルースは片手に銃を持ったまま常に這いつくばり、微かな痕跡を探した。その間、イアヴァスリルも姿勢を低くし、銃を構えて周囲を警戒した。

  ディネルースの腕は確かだった。その指差す先を仔細に見れば、岩に張り付いた苔が一部だけ剥げている。

  巨狼がそっと着地しただろう草むらで、雑草はもう立ち上がっていても、土のへこみは残っている。

  敵が川を渡れば、普通は水のかからぬ高い岩に残る水はねの跡が、まだ乾いていない。

  そのような微細な痕跡から、ディネルースは敵手の進路を探り当てた。

  イアヴァスリルは一々驚嘆せざるを得ない。味方にも敵にも、である。

  巨狼の知恵深さは狡猾どころではない。山を知り尽くした王者の英知だと、彼女は仇の親玉に敬意すら覚えた。

  それを辿り、追い続けるディネルースもまた、強敵に敬意を抱いているらしい。巨狼の動きと思考を見破っては、ひっそりと呟く時がある。

  「やるな。全く油断してない。罠にかけたつもりなのに」

  「そう来たか。少し焦ったか? いや、そう見せかけているんだな」

  「なんて凄い奴だ、お前は……」

  巨狼の一手一手を看破するたび、その心まで読み解いていくようだった。

  その背を見ているうちに、イアヴァスリルは奇妙な嫉妬を感じたほどである。

  やがて夕暮れが近づいた時、ディネルースは再び唐突に止まった。振り返った表情は厳しい。

  「すまない。まずいことになった。……いま私たちが追いかけている奴は、元の奴より小さい」

  「……どこかで取り違えたと?」

  「してやられた。先回りと見せて、途中で手下と入れ替わったんだ。奴の罠は二重だった」

  「じ、じゃあ、親玉が今どこにいるか分からない?」

  「それは明らかだ……私たちの後ろさ」

  ひっ――と、あげかけた悲鳴を、イアヴァスリルはどうにか飲み込んだ。思わず振り返ろうとしたが、ディネルースの手が彼女の肩を掴んで止めた。

  「見えるほど近くじゃない。だが振り返るな。足跡が残る」

  「……何の匂いもしませんよ」

  「途中で川を渡ったろう。あれは臭い消しのためでもあったんだ。入れ替わったのは、その後に違いない」

  「いつ襲ってくると?」

  「奴は用心深い。日が暮れた後だろう」

  「夜に……そんな奴が」

  イアヴァスリルは背筋を震わせた。闇エルフには夜を見通す紅眼があるが、闇への恐怖まで消せるわけではない。

  「ディネルース、どうすれば」

  「……日没までに、開けた場所に出たい。狭い方がいい。周りを藪か草地に囲まれているような」

  それこそ、巨狼にとって絶好の襲撃場所であるように思えたが、彼女はディネルースを信じた。

  「少し西に小さな洞穴があります。山で寝泊まりする時に使うんです。その手前に空き地が」

  「そこだ。連れて行ってくれ」

  「それで、その後は」

  「…………」

  表情を険しくするばかりの狩人に、イアヴァスリルは促した。

  「どんなことでも指示の通りにやります。貴方は最高の狩人だ。貴方に無理なら誰も勝てない。私を使って下さい」

  「……分かった。逆転の目は一つだと思う」

  「どんな手で」

  「君だ」

  「……私が?」

  「奴は追っ手がふたりだと知っている。そのうち片方は、なかなかの腕前だとみている」

  「私は舐められていると」

  イアヴァスリルは目を輝かせた。屈辱と、怒りと、そして喜びがあった。

  ディネルースは決然と告げた。

  「すまないが、君の命をくれ」

  ◆

  エルフの匂いがする。

  二体いる。

  その僅かな体臭の違いさえ、彼の鼻には明らかだ。

  そのうち一体は、三日前から彼を追ってきた。恐るべき手練れだ。わずか一体だと、功を焦って襲撃した手下が三頭も狩られた。

  山を知り尽くす技量は、白エルフではあり得ない。闇エルフの狩人。その中でも最強の個体であろう。

  秘術の限りを尽くした応酬のうちに、彼はもうエルフ族への怨みを忘れていた。あるのは好敵手への敬意と、これほどの相手と殺し合える歓喜だけだ。

  彼は猛り立つ己を鎮め、慎重に機会を狙ってきた。

  途中で加わった新手の一体を見定めるため、かなりの時間を使った。

  結果、そちらは並以下の敵だと判じた。挟み撃ちの動きがなかったからだ。単独で彼を追う技を持たないのだろう。いないも同然の小物である。

  ならば、待ち望んだ勝負の時だ。

  日は没し、獲物は足を止めたらしい。草むらを一歩進むたび、エルフの体臭が濃くなる。それとは別の香ばしい匂いが混じり始めた。

  やがて闇の山中に小さな灯りが見えた。洞窟の前で火を焚いている。寝泊まりする時の獣避け。当たり前の動作である。

  しかし果たして、この敵が、この状況で、火など焚くものだろうか。

  全身がぞくりと震えた。敵は誘っているのだ。奴もまた、決着を付けたがっているに違いない。

  あらゆる感覚を研ぎ澄まし、ますます姿勢を低くして、藪の中を這うように進む。

  やがて、焚き火の奥に座る一体の影が見えた。

  そして猛烈に匂う。干し魚を炙っているのだ。焚き火自体も、酷く臭い。枯れ枝だけでなく、生木まで燃やしている。煙は、もうもうと白い。

  その有様を遠方から見定めて、彼は焚き火から目を離した。光源を長く見つめるべきではない。身を伏せたまま、目だけをぎょろぎょろと動かす。

  ――二体目はどこだ。

  間もなくして、見つけた。

  焚き火から離れた木々の後ろに伏せている。そこは風下。焚き火と魚の匂いで己を隠そうとしているのだ。

  まず、そちらが真の敵であろう。一体の役立たずを生き餌にして、彼が食いついたところを狙い撃つつもりだ。

  それならば回り込み、真の敵の背後を取るまでのこと。彼はしずしずと後退し、大きく迂回して――はたと気づいた。

  あの敵。あの恐ろしい狩人の罠が、それだけであるものか。

  伏せる敵の背後に近づき、跳躍の間合いに達する寸前で、彼は足を止めた。目を懸命に凝らす。

  ふっと風が吹いた。雲が流れ、月たちの明かりの具合が変わった。その一瞬だけ、草の合間に一本の筋が見えた。

  彼は、音を立てぬように笑った。

  据え弓――という罠である。

  彼が通ろうと思った道筋の上に、細くよったイラクサの繊維が横に張られている。それが仕掛け糸だ。

  糸が繋がる先は草むらの中。刺股状の杭で地面に固定した[[rb:弩 > いしゆみ]]が見える。糸はその引き金に結ばれている。仕掛けを踏めば直ちに発射される太矢の狙いは、彼の心臓の高さにピタリと一致している。

  恐ろしく正確に仕掛けられた罠だった。彼の心理、体格、歩幅、跳躍の距離、道選びの癖まで全てを読み尽くしておらねば、こうはできまい。

  ――さすがだ……さすがだ! 我が敵よ。

  しかし、彼の慎重さが勝った。彼もまた敵を深く理解していたからこそ、読み勝つことができた。

  恐るべき敵は焚き火の方を向いて伏せたままである。

  彼は快心の笑みを浮かべ、ゆっくりと仕掛け糸を跨いだ。これを越えれば敵の背中まで一跳びにできる距離だ。

  必殺の間合いに辿り着く、その最後の一歩――それが仕掛け糸を踏んだ。

  糸は二本あったのだ。罠の奥、地面すれすれに、もう一本。据え弓ではあり得ない低さに。

  リン――と、鈴の音が鳴った。

  巨狼は一瞬も迷わなかった。直ちに敵へ跳躍。伏せた敵が跳ね起きて銃を向けてくるのが早いか、彼の爪が早いかの勝負――では、なかった。

  胸を衝撃が貫く。彼は空中で撃ち抜かれたのだ。

  撃ったのは、焚き火の傍にいた方の敵だ。

  闇の中に赤い双眸が浮かび、炎に照らされた栗色の髪が黄金のように輝いている。

  ◆

  じっと伏せていたイアヴァスリルは、鈴の音を聞くや、素早く横に転がった。

  一瞬の後、彼女が伏せていたあたりに巨大なものが落下してきた。

  敵は死んではいない。恐ろしい吼え声をあげつつ、懸命に立ちあがろうとしている。

  いくらディネルースでも、跳躍する巨狼の致命部位を正確に撃ち抜くことなどできない。

  (だから、私がっ!)

  直ちに起き上がって膝撃ち姿勢をとる。ディネルースの教えが脳裏に焼き付いている。

  ――あの時、君の弾は巨狼を仕留めきれなかった。何故だか分かるか?

  ――いや、君の腕は確かだ。違ったのは狙いだ。

  ――怒り狂った獣は毛を逆立てる。巨狼もそうだ。それで実際より大きく見えて、心臓の位置を見誤った。

  ――慣れないうちは、だから、心臓ではなく……

  闇夜に爛々と輝く狼の瞳に照準し、彼女は引き金を絞った。

  轟音とともに強い反動が伝わる。

  白煙のすぐ向こうで、敵の巨体が音を立てて倒れた。至近距離からの一撃は確かに命中したのだ。

  「イアヴァスリル!」

  駆け寄ってくるディネルースの声が彼女の硬直を解いた。何とか立ち上がる。

  「やっ……た……」

  「走れッ!」

  虚脱していた身体は即座に指示に従い、焚き火に向けて駆けた。一瞬後、自分がいた場所を薙ぎはらう風切音を聞いた。

  振り返って見れば、並みの巨狼の倍ほどはある小山のような巨体は、まだ命と闘志を失ってはいなかった。

  空洞になった目からだくだくと血が溢れ、弾が飛び出たであろう頭の一部がザクロのように割れている。明らかな致命傷。それでも盛んに吼え、地面を掻きむしっている。生い茂る草ごと地面が剥がれて飛ぶ。振り回す尾の一撃が木の幹を叩き折る。

  とどめを刺そうにも、彼女らの銃はもう撃ち終えている。再び弾を込め、火薬を突き固めねば撃てない。

  瀕死の痛みに悶えながらも、巨狼は遂に立ち上がった。片目だけで彼女たちを見据え、今にも飛びかかる構えだ。

  ディネルースの声が聞こえた。

  「素晴らしい」

  狩人の横顔には敵への賞賛だけがある。

  一方のイアヴァスリルは全身が総毛立ち、心臓が凍るようである。必死に叫ぶ。

  「逃げましょう! 放っておけば死ぬはずです!」

  ディネルースには聞こえていないようだった。狩人は瀕死の雄敵に言った。

  「なんて素晴らしいんだ、お前は」

  その左手が手槍を構え、右手が山刀を抜いた。

  「ヤアアーッ!」

  命を燃やすような叫びを上げ、狩人は突進した。

  手槍を投擲する。槍は流星のように飛び、巨狼の隻眼を襲う。

  その穂先が突き立つかと見えた時、巨狼の前足が槍を弾き飛ばした。

  その一瞬のうちに、失われた片目の死角を抜けて、ディネルースは狼の懐に滑り込んでいた。

  山刀が旋回し、鮮血の花が咲いた。

  ◆

  大きな血溜まりが広がり、その中心で巨狼が倒れ伏している。

  イアヴァスリルはやっと息をついた。

  ディネルースに声をかけようとした時、間近から声がした。

  《エルフよ……》

  彼女は悲鳴をあげた。死んだと思った巨狼の顎が僅かに動いている。

  「まだ生きてる!」

  槍を構えようとした彼女をディネルースが止めた。

  「待て。静かに」

  今にも息絶えようとする巨狼は、か細い声で言った。

  《我が名は……カルカロス……巨狼族の長……我が敵よ……お前は、狩場を焼いた白どもとは違う……》

  一つだけ残った巨狼の目がゆっくりと開き、彼女たちを見た。

  《聞いておきたい……我が命を奪った、つわものの名前を……》

  「イアヴァスリル・アイナリンドだ。お前を撃ったのは」と、ディネルースは言った。

  「いいえ! ディネルース・アンダリエルだ。お前を倒したのは」と、イアヴァスリルは言った。

  《イアヴァスリル……ディネルース……そなたらに敬意を……願わく……ば……》

  「願わくば!? 願わくば、何だ!?」

  ディネルースは死にゆく巨狼の牙のすぐそばに顔を近づけた。イアヴァスリルは蒼白になったが、止めることはできなかった。

  《わ、我らも……そなたらの仲間を殺したが……その後に、弔いをした……》

  そこから先は、イアヴァスリルには聞こえなかった。

  やがてディネルースは呟いた。

  「……分かった。誓って、そうしよう」

  ややあって、立ち上がった。巨狼がついに生き絶えたと分かり、イアヴァスリルは胸を撫で下ろした。

  その時、ざっと夜風が吹き、濃密な獣の匂いを伝えた。

  ふたりは即座に背中合わせになり、周囲に刃を向けた。

  既に囲まれていた。周囲の闇から灰色の影が浮かび上がる。影は次々と増え、合わせて十頭以上もの巨狼が姿を現した。

  絶望がイアヴァスリルの心を塗りつぶしかけた。

  その時、ディネルースが一歩を踏み出した。巨狼の血にまみれた山刀を高々と掲げ、叫ぶ。

  「聞け、巨狼たちよ! 私はスコルの狩人、ディネルース・アンダリエル。お前たちの族長カルカロスは死んだ」

  滴る血を見せつけるが如く、山刀を群れに突きつける。

  「死ぬ前にカルカロスは言った。『我が心の臓を喰らい、我が命を継げ』と! それが彼の望んだ弔いだ。私はその願いを果たすぞ。お前たちはどうする」

  一瞬の沈黙の後、巨狼たちは一斉に天に向かい、けたたましく吼え始めた。

  繰り返される無数の咆哮を聞いても、イアヴァスリルは少しも恐ろしくはなかった。蕭々と夜空に尾を引く吼え声は、何ともいえない哀感で満ちていた。彼ら種族の言語なのだろう。死せる族長への哀悼か、別れの言葉に違いない。

  やがて巨狼たちは静まると、身を翻し、ことごとくが夜の闇に消えた。気配は八方に散っていった。

  「……彼が守ってくれたんだ」

  ディネルースはそう言うと、山刀の血を払い、再び巨狼の亡骸に向き合った。

  ディネルースが亡骸の心臓を取り出す間、イアヴァスリルは薪を拾って焚き火を盛んにした。

  ふたりは巨狼の心臓を焼き、塩だけを振り、二つに分けて食べた。

  その最後の一片を飲み下してから、ディネルースは自分の水筒をイアヴァスリルに渡した。

  「私の村の火酒だ」

  ぐっと一口飲むと、イアヴァスリルの喉は心地よく焼かれ、生臭さが掻き消えた。一つの命が燃え、自分の体に溶けたのだと思った。

  水筒を返しつつ、イアヴァスリルは言った。

  「私の命は、いつまでも貴方のものです」

  ディネルースは困ったような顔をした。

  「別の氏族に、そんなことを言うものじゃない」

  「それでも決めました。あの巨狼に誓って」

  ディネルースはしばらく夜空を見上げていたが、やがて彼女に向き直った。

  「じゃあ、こうしよう。私は君を、同じ母樹をもつ妹だと思うことにする。本当の生まれは違っても、あの巨狼の命を分けて継いだ者だから。それでいいか、イアヴァスリル」

  イアヴァスリルは微笑んだ。今日、この日のことを、自分は生涯忘れないだろうと思った。

  「死んだ姉たちは、私のことをヴァスリーと呼びました」

  「分かった。では、これからもよろしくな。ヴァスリー」

  「はい、ディネルース姉様」

  この狩りで、彼女は多くのものを得た。

  武勲と経験、敬意と勇気。

  そして新しい姉である。

  <巨狼狩り> 了

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