コスモスの花冠で彩って

  秋桜の咲き乱れる花畑に冷たい風が吹き抜ける。キラキラと夕日が湖に反射する景色を木陰から眺めていると、一人の子供がどこからともなく現れた。

  彼の様子をじっと見る。背丈を優に超えたコスモスから花を摘み、両手にかき集めているようだ。それの何が面白いのか、俺には全く理解ができなかった。

  暇を持て余した末、ボーッと赤く染まっていく夕焼けを見ているとガサガサと物音がする。野ウサギでもいたかと思い音のした方向を見ると、そこには先ほどまで遠くで花を積んでいたはずの子供がニコニコと笑みを浮かべて花を差し出していた。

  ⋯⋯驚きのあまり手を払ってしまうと、両手に合った花は綿雪のようにひらひらと舞い降りる。

  「⋯⋯なんだよ」

  目の前で眉を下げる薄汚い服を纏った子供を睨む。そもそも、なぜ俺のことが見えているのか。悪魔の姿を見ることができる子供など、そうそういないのに。

  まつげを大粒の水で湿らせる。それを見ていると何故か自分が悪いことをしたように感じて不快に思う。手っ取り早く黙らせるためにここで殺してやろうかとも思ったが、流石にそれは可哀想な気もした。

  「⋯⋯ほらよ」

  そこらへんの秋桜を適当に摘みとって、花冠を作る。それを見て、今度は嬉しそうな笑う。コロコロと変わる表情は、秋の天気のようだった。

  今度は足に纏わりつこうとして、足をすり抜け木に激突する。何が起こったのか分からないと言ったように、ぽかんとするその子供の様子が滑稽だ。

  「⋯⋯戻ってこいミゲル! どこにいるんだ!」

  どこからか、男の声がする。こいつの父親なのだろうか。と思いながら足元を見ると、今度は怯えたようにして俺の背中に隠れるような仕草をする。何か悪いことをして逃げてきたのだろうと思い呆れるも、それにしては異常に震えているように感じる。

  「見つけたぞ! ただ飯を食わせる義理はないんだからな。仕事をしろ!」

  目の前の父親は俺の姿が見えておらず、このミゲルという子供しかいないように思ったのだろう。そのまま子供の耳を引っ張っていく。

  「あーっ、うっ、あー!」

  「うるさい! 今日の飯は抜きだ!」

  花冠を俺の足元に落とすと、こいつは両腕をこちらに伸ばして何かを訴えているように見えた。もう少し良い服でも与えれば良いのにと思った。そして、なぜか俺の姿が見えるあの子供のことが気になってしまう。

  「⋯⋯暇つぶしに見てみるか。ついでに地獄にでも突き落としてやろう」

  羽を広げ、花冠から一輪花を抜き取りその子供に持たせる。相変わらず耳を引っ張られている子供は驚いたような、それでいて嬉しそうに俺の手から花を受け取った。

  「まあ、退屈な日々を紛らわすにはぴったりだ」

  人間などすぐに死ぬのだから。ちょっとした遊びで観察するのにちょうど良いだろう。それに、地獄に堕とす仕事だってこなせそうだ。

  日が沈み真っ暗な草原を、道標のように光る筋を辿って羽ばたく。あの花を途中で落とすなどしなければ面倒ではないのだが⋯⋯。と、思っているとあの頭の弱そうな子供は案の定落としていたようで、途中で光の筋が途切れていた。

  「ちっ、面倒かけさせやがって」

  落とされ踏まれ散り散りになった花びらが幸いなことに近くに落ちており、それに鼻を近づけるとほんの僅かではあるが子供の匂いがした。

  「⋯⋯狼頭は便利だな」

  匂いをたどりながらたどり着いたのは、それなりに大きな家だった。服を買う金がないほど貧乏ではないだろう。むしろ整えられた庭を見ると金を持っているように思う。

  「⋯⋯家にはいないのか?」

  匂いは家へと続いておらず、庭をぐるりと回るような軌道を描いているようだ。それを辿っていくと、一つの見窄らしい小屋が建てられていた。

  聞き耳を立てると、スンスンと鼻を啜る音が聞こえる。ドアすらないその小屋を覗くと、小屋の隅でその子供は震えながら座り込んでいるようだった。石畳みの冷たい、硬い床に裸足のまま座っている姿はとても惨めに思えた。

  「⋯⋯おい」

  声をかけるとその子供はキョロキョロと見回し、俺を見つけると駆け足で駆け寄って来た。急いで実体化し、その子供を受け止める。

  「⋯⋯っおっと、危ねぇ」

  頬を体毛に擦り付けられるのが、こそばゆいうえにこ恥ずかしく咳払いをするも、子供は気にすることなくそれを続けていた。

  「ほらよ。ガキ。これ、落とし物だ」

  忘れないうちに花の冠を見せると、子供は先ほどまでの泣き顔が嘘のように晴れやかな笑顔を見せる。単純というのか、よく言えば素直というのか。苦笑いしていると今度は俺の手をグイグイと引っ張る。人の子の力など大したものではないが、黙って連れられるとそこには土埃で汚れた布が敷かれていた。

  「⋯⋯ここに座れと?」

  コクコクと頷いて何かの準備を始める子供。付き合ってやるかと思いながら見ていると、何やら穴の空いたジョウロと木のボウルを持ってきて、目の前で注ぐような素振りを見せる。それはまるで紅茶を淹れるような佇まいで、所作の一つ一つが優美に見える。

  お茶菓子のスコーンの代わりなのだろうか。黄色いブナの葉に乗せられ、コスモスを刺した泥団子も添えられている。

  「お茶会か?」

  その言葉を聞くと、その子供は激しく何度も頷き始める。お茶会の真似事などくだらないと思いながらもボウルをつまみ、お茶を飲むように見せる。

  「うまい⋯⋯な?」

  空気でしかないのだから味も何もないのだが、一応礼儀としてそう言うと子供は満足したようだ。続いて差し出された泥団子を手に乗せ二つに割り、食べるふりをする。

  ぎゅるるる⋯⋯。大きく腹のなる音が鳴った。

  「⋯⋯お前、そういえば飯食べてないのか?」

  そう尋ねると、少し躊躇いながらも小さく頷く。改めて見ると、腕はかなり細く頬も痩せこけている。日頃から満足な食事を摂れていないのだろう。

  「世話の焼けるやつだ。⋯⋯じゃあ、こっちに来い」

  腕を広げると、子供は恐る恐る胸に飛び込んでくる。それを抱き寄せて外に出ると、満月が湖面を照らしていた。羽を広げて、空を飛ぶには景色が良いだろう。

  「暴れたら落とすからな。わかったか」

  そう言うと、子供は腕をギュッと掴む。まあそれは嘘なのだが、そう脅してはしゃいで喚き散らすのをあらかじめ防ぐ。

  「あーっ! あっ!」

  地面を見下ろして声をあげる子供を落とさぬように抱えながら飛行する。近くの森に木苺が自生していたはずだ。鳥に啄まれていなければおそらく少しは残っているだろう。

  あっという間に小屋を離れ、深い森へ辿り着く。樹冠をかき分けて森の中へ入ると、キイチゴの茂みには赤い実が成っていた。しかし、木に覆われた暗い森は人の子には少し怖いようで、腕の中で震え出す。

  「大丈夫だ。ほら、木苺を摘んでいけ」

  そう言っても、その子供はキョロキョロと見回すばかりで見当違いの方向を向いている。ここで、人間は夜目が効かないことを思い出す。

  「あぁ、そうか。見えないのか。ならちょっと待ってろ」

  潰さないように木苺を摘みとって、子供に持たせる。しばらく摘み取っては渡すと言うのを繰り返しても、小さな両手のひらのキイチゴは減らない。

  「⋯⋯食べないのか? 食べてもいいぞ」

  尋ねると、目を輝かせたようにして果実を口にする。酸っぱくて仕方がないはずなのに、その子供は美味しそうに頬を緩ませながらキイチゴで口周りを赤く染めていく。

  「⋯⋯ふぅ、もう無さそうだな」

  粗方摘みとったようで、赤い実は見える範囲にはない。子供の方は、満足そうに指を舐めていた。

  「⋯⋯美味いのか?」

  あまりに美味しそうに食べるせいで味が気になる。しかし、周りには実がない。キョトンとした顔の子供を呼び寄せると、果汁で口周りをベトベトにしているのが目についた。

  小さな口を囲うようにひと舐めする。その味はひどく酸っぱく、口にできるものではなかった。

  「うーっ、え、あっー。だーっ」

  「悪かった悪かった」

  何かを訴えるように声を発し始めたので適当に謝るも、相当怒っているのか言葉を発しながら近づいてくる。何もそこまで怒らなくてもと思い後退りしていると、背中を木にぶつける。

  ——不意に、ギュッと抱きしめられる。長く、静かな時間が森の中に流れる。

  「怒ってなかったのか」

  小さな頭に恐る恐る手を乗せると、今度は頭を擦り寄せてくる。庇護の対象に感じさせるような身振りに今まで感じたことがない感情を抱く。

  「⋯⋯帰るぞ」

  抱き寄せたまま羽を広げる。しばらく空を飛んでいると、腹を満たしたためか腕の中ですやすやと寝息を立てていることに気がつく。眠りを妨げないように、羽を静かに羽ばたかせながら小屋へたどり着く。朝日がもうすぐ昇る時間だ。そっと土埃で汚れた布の上に子供を置くと、手を握られる。その指を静かに離して、薄紫色の空に羽を伸ばした。

  ほんの短い時間だった。数え切れないくらいの回数木陰を訪れて、同じように連れられていく。その中で俺はあの子供の生い立ちを知って行った。どうやら両親を失って養子として今の家に住んでいるらしい。指にできる痛々しい傷は、労働中にできているようだ。

  その上、まともな教育を受けていないようで言葉を使うことすらできない。そのせいで同じような失敗を繰り返し、湖の辺りまで逃げてくる。同じように耳を引っ張られ、髪を引っ張られて連れられていく。泣き声を上げながら連れられていくことが多かったが、次第にこちらに笑顔を浮かべて連れられていくことが多くなっていった。

  「⋯⋯こんに、ちは」

  「はいはい、今日はなんかあったのか?」

  今日も新しい傷を作ってこの木陰に訪れる。彼は、流暢ではないながらも少しなら言葉を話せるようになっていた。

  「なにも、ない。遊びに、来ただけ」

  少しいたずらっ子のように笑みを見せる。どうせ後には連れて行かれるのに、それでもここのところ毎日俺のところにやってくる。

  「早く戻れ。サボるから飯が食べられないんだ。それも分からないくらいに馬鹿なのか?」

  「君が、木苺くれるから、いい」

  「⋯⋯木苺なんて、腹の足しにもならないだろ」

  「ううん。どれよりも、木苺が、好き」

  そう言って、俺に抱きついてくるのを払い除けるとしょんぼりとしながらも若草の生える地面に寝っ転がる。

  「⋯⋯幸せ」

  「おいおい、冗談かよ。頭でもおかしくなったか?」

  まともな食事も取れずに労働だけをして暮らす生活が幸せなど正気を疑うが、そんな俺を無視するように彼は言葉を続ける。

  「君がいてくれるから、幸せ」

  それを聞いて、ドキリとしたのは気のせいだろうか。まあ、彼はおそらく木苺が好きなだけなのだろうが。

  「⋯⋯そういや、名前は?」

  「ミゲル」

  「そうか⋯⋯。そういえば、聞いたことがあったな」

  聞くまでもなく、いつも連れられる時に言われているじゃないか。人なんてすぐに死ぬのだから名前などあまり気にしていなかったが、ミゲルという名前を反芻するとなんだか胸が暖かくなる気がした。

  「君は?」

  「⋯⋯ない」

  「⋯⋯じゃあ、ルーバス」

  「キイチゴかよ。安直だな」

  ルーバス、ルーバス⋯⋯。呼びやすくもなければ、なんの捻りもない名前。けれども、何度も口に出したくなってしまう。

  「ルーバス、帰るね」

  「⋯⋯お、おう」

  今日は誰にも連れ戻されることなく帰っていくミゲル。珍しいこともあるもんだと木陰の中から彼の背中を見送った。

  木の影から顔をひょっこりと出して彼は口を開く。飽きずに毎日よく来るものだと呆れるどころかもはや感心すらしてしまう。今日は何か香水をつけたような甘い香りがするのは気のせいだろう。彼がそんなものを買えるほどお金を持っているはずがない。

  「ルーバス、好きな人、いる?」

  唐突の質問にさらりと受け流した返事をする。

  「さあな、どうだろうな」

  「僕では?」

  いきなり何を言い出すのだろうか。この前まで言葉も喋れなかったような赤子だったのに、こんなにも言葉を話すようになったのかと時の流れを感じる。

  「⋯⋯こんなうるさい奴のこと好きになる奴なんて物好きだろ」

  返事を聞いた彼は何かを背中の後ろに隠した。そして、俯いて木陰から離れる。

  「⋯⋯どうしたんだ」

  「ううん、なんでもない。今日は、もう帰る」

  取り繕った笑顔であることは一目瞭然だった。嘘など言うことが今まであっただろうか。俺に隠し事をするという彼の行動に少し憤りながらも冷静に呼び止める。

  「⋯⋯何を隠してる」

  「⋯⋯これ」

  そう言って差し出したのはライラックの花。狼頭の俺にとっては少し強く感じる甘い香りの正体はこれだったらしい。

  「⋯⋯なぜいきなり」

  「⋯⋯教会で、いろいろな人が、あげたり、もらってる」

  ジューンブライド。とでも言うのだろうか。その意味を分かっているのかすら分からないが、その花を差し出す彼の姿は今まで見たどんな人間よりも愛おしいように見えた。そして、自分の胸の中に渦巻く「彼を手に入れたい」という欲が膨張していく。

  「⋯⋯こっちにこい」

  不安そうにこちらへ近づくミゲルの顎に手を添えて、キスをする。それは木苺を食べた後に舐めとるためのものではなくて、愛を示すためのもの。柔らかな、何にも汚れていない唇に悪魔という穢れた存在の舌で触れる。

  舌に甘い味を感じる。ライラックの花をポトリと地面に落とし、目の前の少年はあっけに取られたまま俺の舌を受け入れる。

  

  「⋯⋯っすまん」

  慌てて離れるも、彼は何も言わずにただボーッと空を見つめている。⋯⋯何を考えているのだろうか。幸いにも拒絶の石は見えないように見える。

  「⋯⋯すこし早すぎたか」

  顔を真っ赤にしてへなへなと座り込むミゲルを見つめて、一人反省する。お詫びに一部のライラックの花でブーケを作り彼に手渡すと、少しぎこちなく笑みを浮かべた。

  「ルーバス!」

  青白い腕を振って、湖の畔にやってくる。それを見て、またやって来たのかと呆れながらも飛び込んでくる軽い身体を受け止める。

  「今日も来たのか。仕事は? サボってないで真面目に働けよ」

  「やらなくてもいいって」

  「そうか。⋯⋯本当か?」

  「うん。人手がたくさんあるんじゃないかな」

  それにしても、白い肌だ。病的で、それがどこか美しいと思えてしまうのは俺が悪魔という存在だからなのだろうか。

  「ねぇ、なんで僕はルーバスを見ることができるんだろう?」

  「さあな、分からない。馬鹿には見えるのかもな」

  「でも、見ることができてよかった。ルーバスが大好きだから!」

  「⋯⋯ふん」

  夏の暑い中でも、小さな少年はボロ切れのような布を纏って草原を駆け回る。すると、やはりすぐに息を切らして座り込んでしまう。

  「⋯⋯運動不足かな。息が切れるんだ」

  「もう少し食べた方がいいんだ。自分の身体の具合すら分からないのか」

  「でも、みんなと同じものを食べさせてはくれないんだ」

  「そりゃあこんなにサボってたら同じもの食べさせてはくれないだろう」

  「みんな僕から離れてご飯を食べるんだ。何でだろう?」

  「それは⋯⋯。お前と一緒にいると、巻き添えで怒られるかもしれないって思ってるんだろ」

  「そんなことないのにねぇ。でも、最近は監視人も僕のこと怒らなくなったし、ルーバスと毎日会えるし、嬉し⋯⋯ゲホッ、ゲホッ」

  咳をして、横たわるミゲルの頭をそっと撫でると落ち着くのか目を閉じる。この真実を伝えるべきなのか否か、俺はずっと迷っていた。彼がすでに治ることのない病に侵されていることを告げるのは、残酷なように思えて仕方がない。

  「明日も会いにくるね⋯⋯。それと、たまには夜来て欲しいな。⋯⋯寂しいから」

  「分かった。今日行ってやるよ」

  「本当? 約束だよ?」

  俺の頬にキスをしたミゲルは、時々苦しそうに表情を歪めながらも健やかに俺の膝の上で眠ってしまった。このまま死んでしまうのではないかと思うくらいに軽すぎる身体を軽く叩きながら、木陰に流れる涼しい風を浴びる。

  日が沈み、すっかり暗くなった街の上空を羽ばたく。やはり質素な小屋に、ミゲル以外の者の匂いがする。

  「⋯⋯ミゲルに近づいたなんて言っちゃダメなんだからね!」

  「分かってるって! 秘密にするに決まってる」

  小さな子供がひそひそと話しながら小屋を離れる。その手にはパンとフルーツが握られていた。

  彼らがいなくなったのを確認してから小屋の中に入ると、ミゲルはいつも木陰でするようにこちらへ飛び込んでくる。

  「⋯⋯あの子供たちは?」

  「あの子達は入ったばかりで仕事が上手くできないから、ご飯をまともに食べることができないんだ。だから僕の分を分けてるの」

  「お前だってまともに食べることできてないじゃないか。何考えてるんだ」

  「あまり最近はお腹が空かないからいいんだ。それより、今日はせっかく来たんだしまたお茶会でもしようよ。ほら、今日はルーバスのためにパンとスープ残してあるんだ」

  嬉しそうに指を刺した先にあるのは、具のない質素なスープとカピカピに乾燥した硬いパン。お茶会の道具を取りに俺から離れると彼はフラリとよろめき、慌てて抱き寄せる。

  「おい、いつもこんなもの食べてるのか」

  「⋯⋯うん。でも、お腹空かないしあまり食べられないからあの子達に分けてる」

  「⋯⋯横になれ」

  何も考えていなさそうな顔のミゲルを仰向けにさせ、ほとんど味のないスープとパンを口に含み咀嚼する。小さな口とマズルを交わし、ゆっくりと内容物を与える。

  非常にゆっくりと、喉が動くのを確認しながら。親鳥が雛に給餌するように質素な食事を共にする。

  「⋯⋯はぁ。ちゃんと食えよ。スープに浸して食えばまだ食べやすいだろ。こんなことも知らないなんて、まるで赤子だな」

  「ほんとだ。いつもより食べやすいね」

  食事を摂って少し元気が出たのか、今度は奥から何かを引っ張り出して来た。それは本のように見える。

  「今日はこれを読んで欲しくて」

  「⋯⋯これは」

  彼が引っ張り出して来たのは神典だった。思わず後退りするも、それを気にしないように本を開く。

  「お母さんがこの本は大切にしなさいって最期に授けてくれたんだ。最初は難しい言葉ばかりで全然分からなかったけど、ルーバスとお話がしたいからこれで勉強したんだ」

  「⋯⋯それで、なんでこれを俺が読むんだ?」

  「素敵なお話を、ルーバスの声で聞けたら幸せだって思って!」

  「⋯⋯まさか、お前俺の正体を知らないのか?」

  「⋯⋯正体って、ルーバスはルーバス以外の何者でもないでしょ?」

  まさか、俺が悪魔であることすら知らなかったとは。どこまでも無知で、穢れすら知らない子供、それは俺にとって忌々しく眩く見えた。

  「天国には天使がたくさんいて、綺麗なお花やおいしい果物、そして無限に湧き出る泉があるんだって。それとは反対に地獄っていうところには何もなくて、ただ寂しい世界なんだって。そして人間を地獄に引きずり込む悪魔っていうのもいるみたい。僕は寂しいのは嫌だから、天国に行きたい。だから、神様を信じているんだ」

  無邪気な言葉をこちらに向ける彼は、本当に何も知らないのだろう。悪も、愛も知らないこの存在が地獄に堕ちるなんてことがあってはならないと悪魔らしからぬ考えがよぎる。

  「⋯⋯もし、俺が悪魔だって言ったらどうする」

  「えぇ〜? そんなわけないじゃん。僕と遊んでくれて、おしゃべりもしてくれるくらいに優しいんだから。大好き!」

  「⋯⋯そうか」

  本当のことを打ち明けたら、どんな反応をするのだろうか。俺が今まで何人もの人を地獄に引きずり込んでいたと知ったら、一変して俺を拒絶するのだろうか。それがとてつもなく恐ろしいことのように思えて、自分から言い出すことはできなかった。

  「⋯⋯もう帰るの?」

  「ああ、また昼に遊びに来ればいい」

  「わかった。じゃあ、また明日ね」

  夜空を飛びながら考える。俺が、このまま彼の近くにいたら彼にとってよくないのではないか。この世に生まれて、幸せとは程遠い生活を送っていたのだ。せめて死んでからは安らかに救われて欲しい。

  「⋯⋯なんで人間なんて」

  どこにでもいてときに傲慢なその生き物を、何故ここまで愛おしいと思ってしまうのだろう。今まではこんなことはなかった。いつから異変が起きたのか。

  「⋯⋯新月か」

  いつもよりも暗い夜の世界は、不気味なようにも見えた。

  木陰から、秋桜の咲き乱れる草原を眺める。今日も彼は木陰に来ない。暮れる空の中花を何本か摘んでいると、どこからか教会の鐘の音が鳴る。

  「⋯⋯そろそろ行くか」

  摘み取った花を落とさぬように慎重に空を飛び、いつものように小屋にたどり着く。そこにはすっかり変わり果てた病人が硬い床の上に横たわっていた。

  「惨めだな。こんな病気くらいで寝込むとは。今までの元気はどこに行ったんだ?」

  悪態をつくも、返事は返ってこない。

  「⋯⋯ほら、コスモスが咲いたぞ」

  そう言っても、彼は虚な目を天井に向けたままただ口角をあげることしかしない。血液混じりの痰で汚れた服を変えてやりたいとも思うが、代わりの服がない。

  「何かしたいことはあるか?」

  「⋯⋯コスモス、みたい」

  そう言うので枕元に置いた秋桜を目の前に差し出すも、彼は横に首を振る。

  「⋯⋯ルーバスと、外に出たい」

  ノイズ混じりの声で、弱々しくつぶやいた言葉を三角の耳で拾う。恐る恐る、壊れてしまいそうなほどに脆く軽い身体を抱き寄せる。今にも消えてしまいそうな命を目の前にして、急いで羽を広げ飛び立った。

  「⋯⋯見えるか?」

  「⋯⋯綺麗」

  紅から紫へと染まっていく空を眺める。遊星が空にひとつ浮かび上がって、次々と空には星が描かれ出す。色とりどりの秋桜は湖から吹く風に揺れて、優しい音を奏で出す。

  「ほら、花冠だ」

  何度作ったかも忘れてしまったそれを手際よく作り頭に乗せる。年々大きくなっていく花冠に大はしゃぎで喜んでいた彼の姿が脳裏によぎる。

  今や、濁った瞳で何をみているのかも分からない。何を思っているのかすら、幸せなのかすら分からなかった。

  ——俺に対して、どんな感情を抱いているのかさえも。

  「⋯⋯ありがとう」

  「⋯⋯ああ」

  花冠を手に持ち、それを眺めながらゆっくりと少しずつ言葉を発する。その合間の時間がひどく長く感じた。

  「⋯⋯ねえ、このままずっと過ごせたらいいのにね」

  「⋯⋯世話の焼ける奴とずっといるのは、大変そうだ」

  ため息の後に、彼は言葉を紡ぐ。しゃがれた声で、風でかき消されてしまいそうな声で。

  「⋯⋯好きだよ」

  そう聞こえた気がした。それを聞き間違いだと思い込んで、何も言わずに夕焼けと湖を眺める。

  「⋯⋯ねぇ、返事は」

  焦ったように、彼は俺の手を取る。それを振り払うと驚いたような、そして少し悲しそうな表情をする。

  「⋯⋯俺は、悪魔なんだ。お前とは一緒に居られない。これ以上踏み込んだら、地獄に堕としてしまう」

  「それでもいい。君とならどこへだっていける。地獄にだって⋯⋯! 怖くない。後悔なんてしない⋯⋯!」

  「⋯⋯やめてくれ」

  「⋯⋯僕は、ルーバスが好きだよ」

  そんなことを言われてしまったら、手放したくなくなってしまう。ずっと側で繋ぎ止めていたい。しかし、そんなことはあってはならない。耳を塞ぎ目を閉じていると、諦めたのか彼は静かにため息をついた。

  「⋯⋯嘘でもいいから、肯定してくれたら嬉しいんだけどな」

  目を合わせられない。目の端から輝いた雫が一粒落ちるのを見て、抱き寄せたいと思ってしまう。それをなんとか抑えると、彼は風になびくようにフラリと地面へ倒れ込む。

  「⋯⋯じゃあ、今までありがとう。⋯⋯ごめんね。最後に困らせて」

  「⋯⋯ゆっくり休め」

  光のない目を閉じて、眠るように息を引き取る。その後、胸のあたりから白く光が現れて空へと昇っていく。最後に手を伸ばすも、触れては行けないと悟りそのまま空へ昇る光を眺めた。

  なぜだろう。正解を選んだはずなのに涙が止まらない。空へと飛び立っていった光はすでに俺の手には届かない場所にいて、後悔してしまう。そして、自分本位なこの後悔に自己嫌悪してしまう。暗かった空はいつのまにか鴇色へ遷移して、朝の訪れを知らせる。

  昨日と変わらずに、彼と出会った日のように秋桜は風に揺れて、水面は煌めきを帯び始める。彼が死んだところで、この世界は変わらない。そんなことは分かっていたはずなのに、そう割り切れない自分がいた。

  このまま地上にいたところで彼のことを思い出してしまうため、俺は地獄に帰ることにした。地上にはあった花畑も草原もそこにはなくて、荒野が広がっている。それがむしろ傷んだ心には良いようで、何もすることなくボーッと過ごしていた。

  目を閉じると、昨日のように思い出す小さな少年の一生。その記憶だけは鮮明に残っていた。いくら時が流れても忘れることはなく、残酷にこびりついたままだった。2000年か、それ以上か。気が付けばそれくらいに長い時間が過ぎ去っていたらしい。

  枯れ木の幹にもたれかかり風すらも吹かない荒野を眺めていると、遠くになにか白いものが見える。それは白い翼を持っており堕天使であることが分かった。不審に思いながら見ていると、それは辺りをきょろきょろと見まわしている。位の低い天使なのだろう。小さな翼を折りたたみ、不安そうに周りを見渡している。それが初めて会ったときのあの少年の姿、仕草に酷似しているように見えて、心臓が抉られるような痛みを感じる。

  その白い人影はこちらに近づいてくる。裸足の足は荒野の石を踏んで血だらけになって、見る見るうちに傷が増えていく。汚れ一つない服はだんだんと薄汚れていき、ボロボロになっていく。白く穢れのない羽根は一つ一つと抜け落ちていき、最終的には背中からすべて失われてしまう。

  姿が天使の姿から変貌していくたびに、元のミゲルの姿に近づいていく。思わず抱き寄せてしまう。なぜ彼がここにいるのか、そんなことを考えることはできなかった。

  「久しぶり」

  「⋯⋯お前、なんでここに!」

  「⋯⋯やっぱり、ルーバスがいないと寂しいって気が付いたんだ」

  気づけば、目からは大きな涙が溢れ出していた。それがぽたりぽたりと地獄の大地に落ちて、小さなシミを作る。ただ広いだけのこの世界で、誰にも見られることなく抱きしめる。

  「確かに、天国は綺麗なところだった。でも、何か心が満たされないままだった。おいしい果物も喉を通らなくて、空虚でしかなかった」

  ぽつぽつと腕の中で変わらない姿の、ボロボロの服を身にまとった少年は口を開く。ほのかに発光する頭上の輪が、今にも消えてしまいそうに点滅する。

  「僕にとって、ルーバスがいないほうが地獄だったみたい」

  微笑みを浮かべながら、目の縁を指で拭う。こぼれた涙はキラキラと同じように不毛な大地に落ちる。すると、その雫が落ちたところから広がるように緑が広がり始める。それは、二人が踊れるくらいの広さにまで広がっていく。

  「なんだこれは⋯⋯」

  「天国ではね、植物を恵む仕事をしてたんだ。ルーバスのことを思い出すだけで涙が出せてたからピッタリのお仕事だったんだよ?」

  不毛だったはずの地獄。その一部分だけが草原となるこの状態を、初めて目視する。本来であれば、堕天使は力を奪われるはずだ。それなのに、見る見るうちにキイチゴの茂みは成長をはじめ、コスモスの芽が伸び始める。

  「ねえ、また摘んでよ」

  「⋯⋯一人で摘めるだろ」

  「摘んでもらった方がおいしいから」

  そういうので同じように木苺を摘み取って与えると、彼は昔と同じようにいつの間にか口の周りを果汁で汚して真っ赤にさせている。ボロボロの服も、鮮血のような赤いシミがところどころについてしまっている。

  「花冠も作って。⋯⋯あっちむいててね」

  というと、彼はそっぽを向いて花を摘み始める。言われたとおりに、同じく花を摘む。背中を合わせて、いつもよりも少しだけ豪華な花冠を作る。

  「⋯⋯よーし、完成! そっちもできた?」

  「ああ、できたぞ」

  「それじゃ、せーので向かい合おうね。⋯⋯せーのっ!」

  向かい合った彼は、腕に抱えるほど大きな花束を持っていた。そして、俺は少し大きすぎるのではないかと思えるような花冠を持っていた。

  「⋯⋯大好きだよ」

  「⋯⋯俺もだ」

  花冠を頭に乗せ、花束を受け取る。そして、口づけを交わす。すると、周りの植物たちは見る見るうちに枯れてしまい元の不毛な大地に戻ってしまう。彼の頭の輪は崩れるように粉となり、地面へ落ちていく。完全に堕天してしまったようだ。綺麗なものを壊してしまったように感じて、罪の意識を感じる。それを察したのか、彼はぎゅっと力強く俺を抱きしめた。

  「⋯⋯ねえ、話したいことがたくさんあるんだけど聞いてくれる?」

  「ま、飽きないような話なら聞いてもいいぞ」

  ここには秋桜畑も湖も、太陽すらもない。木苺だってもちろんない。けれども、時間の限りもない。それならばここでずっと、満足するまで過ごそうじゃないか。⋯⋯話し足りないことがないように。