野獣の匂いがする。
女は血痕を追ってきた。灰色の瞳を凝らし、折れ枝や下草の中に赤い滴りを探し、辿ってきたのだ。
追うべき痕跡がなくなった今、彼女の頼りは嗅覚だった。
猛々しい獣の臭気は、かつてないほど濃い。
――近い。
そう確信し、彼女は白樺の影で足を止めた。長身を屈め、太い幹に半身を隠して周囲を窺う。
褐色の額に滴る汗を拭うついでに、銀髪をさっと手櫛して、万一にも視界を邪魔せぬようにする。
懸命に呼吸を静め、尖り耳を澄ます。
生い茂る針葉樹が風に揺れる。その微かな音にさえ、彼女の身体は震える。
怯えている。追い詰めたはずの獲物は、手傷を負ってなお、一瞬で彼女を殺し得るのだ。
じっと目と耳を凝らして耐えていると、果たして、敵はいた。
枯れ枝や雑草を踏むパリパリという音がする。足音を抑えていても、巨体であれば完全な無音とはならない。闇エルフの鋭い聴覚はそれを捉えた。
距離と方位も見当がついている。前方、笹が密生する藪の奥である。彼女の先回りは成功したのだ。
迫り来る敵の気配に向かい、用意の愛銃を構えた。[[rb:旋条 > ライフルド]]マスケット銃。装填は既に終えている。当然、込められる弾は一発のみである。
膝撃ち姿勢になる。
(姉様たち、私に力を……!)
巨狼ならば一跳びで彼女に届くという距離まで気配が近づいた時、灰色の頭が見えた。
即座に引き金を絞る。だぁーん、と激発した。濃い白煙があがる。
ギャン、と聞こえる獣の悲鳴が響く。笹薮を割り、横倒しに倒れたのは、大岩ほどもある巨大な狼だった。
しかし、狼はすぐに起き上がった。
胸から血が吹き出しているが、狙った心臓には当たらなかったのだ。
怒りに燃える狼は、彼女に向けて吼えた。
「ひっ……」
彼女の心臓は凍りつき、あらゆる思考が止まる。
そして彼女は狼の声を聞いた。
《おのれ、おのれ、卑怯なエルフども! 我が怨みを知れ!》
狼は怒りを露わにした。ナイフのような無数の牙を見せて彼女に向かってくる。
「怨みだと――」
惨劇の記憶が蘇る。小脇に置いていた手槍を無我夢中で構えた。
「貴様ァ!」
そう叫んで己を鼓舞しても、手は震え、槍先は定まらない。
迫りくる死が彼女を噛み砕くよりも僅かに早く、また銃声が響いた。
脳漿をぶちまけつつ、狼の巨体はどうと倒れた。横合いからの一弾に頭部を射抜かれたのだ。倒れたまま幾度か跳ねるように震えたが、次第に動かなくなっていく。
「は……」
理解が追い付かずに硬直するだけの彼女に、草を踏む足音が近づいてきた。出力を絞った魔術通信が届く。
《いま、そこへ行く》
やがて茂みを割って姿をみせたのは、マスケット銃を持った狩人だった。彼女より頭一つ高い背に手槍を負い、腰には山刀を下げている。
狩人は女の声で言った。
「どこの村の者だ?」
面立ちはフードに隠されているが、その端からイアヴァスリルと同じ褐色の尖り耳が覗いている。
「……ヴァルム村です」
「谷の者か。たった独りで? 馬鹿者が。無謀過ぎる」
冷静な罵倒を受けて、彼女の頭にかっと血がのぼった。怒鳴り返そうとして、しかし、喉からこぼれたのは震え声だった。
「まともな狩人は、もう私しかいないんです。みんな……みんな殺された」
「巨狼たちにか」
狩人は自明なことを言った。
巨狼とは、いま討ち取ったばかりの怪物のことである。
姿はまさに巨大な狼。しかし、その実はエルフと同じ魔種族の一種だ。強靭な巨体と深い知恵を持ち、言葉すら解するが、山で獣同然に暮らしている。
もっぱら山地や裾野に住まう闇エルフには太古からの脅威だった。彼女ら種族に幸いしたのは、巨狼族が好んで険しい奥山に群棲する種であることだ。
だから闇エルフが遭遇する巨狼は群れを追われた一匹狼に限られてきた。手練れの狩人たちが総出でかかれば、犠牲は出ても倒せぬことはない――はずであった。
周囲へと視線を走らせる狩人の横顔に向け、彼女は言った。
「ひと月前からです。巨狼の群れが近くの山々に棲みついて、家畜を襲い始めました。居合わせた姉さま達まで」
姉たちの残骸を思い出し、彼女は言葉を詰まらせた。
「……谷の村では、狩人といっても普段は罠猟だけです。立ち向かった仲間はみんなやられて、後は私しか」
狩人は、静かな怒りの籠もった声で言った。
「スコル村もだ」
山を二つほど越えた先の山村の名であった。遠いが、隣村と言っても間違いではない。ただ氏族が違い、交流はほとんどない。
「奴ら、山の方にまで。では貴方も……?」
「無謀な馬鹿者のひとりさ」
そう言うと、女はフードを払った。
豊かな栗色の髪が木漏れ日を反射する。
「ディネルース・アンダリエルだ」
「……イアヴァスリル・アイナリンドです」
それが彼女達の出会いだった。
(続く)
続きは『オルクセン王国史アンソロジー本』(コミケ2025 12/30火曜 南e30a)に掲載