Step 1〈土曜日はツラく、恐ろしい〉

  [chapter:11月22日 土曜日]

  早いもので十一月が中頃をすぎた。

  日に日に秋が深まり、マフラーを身につけている人も増えてきた早朝の駅のホーム。

  つむじ風が吹くと、尻尾がくるんと巻き上がってしまう。短毛種には厳しい季節になってきたことを実感する。

  待つこと数分、電車はやってくる。数秒の狂いさえなく、ぴったりに。おれを学校まで連れて行ってくれるために。

  土曜日だってのに、まったくありがたいこった!

  平日に比べると車内はがらんがらんだ。そうら見ろ。フツーはみんなまだ温かいお布団の中なんだよ。

  独り言をいいかけた矢先、旅行客らしきスーツケースを携えたグループが優先座席でざわついているのが視界の端にとまり、反射的に帰宅したい衝動とイラつきが湧き上がった。

  帰りたいと思いながらも、一度乗ってしまってはどうしようもないので、どしんと座って発散するしかない。

  (おもしろくねえったらありゃしねー)

  こうして毎週土曜日は心の中で悪態をつきながら、シートを独り占めするのが常だ。

  土曜授業は午前までで気楽とはいえ、できることなら世間と同じ休みであってほしい。おれの願いは土曜を重ねるごとに強まっていく。

  もっとも、入学したてのフレッシュマンだったうちは、休みの日に登校する非日常感を味わっていたりもしたものだけど……。

  聞くところによれば、クラスの一部の連中は今も放課後そのまま昼ご飯食ってアソビに行くらしいんだが、よくもそんな気力とバブリーさを兼ね備えてるなって逆に感心する。

  というか、部活はないのか? おれはある。土曜は自主練のはずが、新米のペーペーは行かなければならない。おまえらはそうやって先輩らに誠意を見せているのか? やってないだろう。だから嫉妬もする。ふざけるな!

  そんなこんなも経験しながら、おれはある事実に気づいてしまう。これ、やりがい搾取なのでは、と。

  私立学校の洗脳から醒めたのは五月あたまだった。貴重なゴールデンウィークが、公立校のやつらより一日短かったのだ。

  「本校は私立のため、ゴールデンウィーク等の休日は一日二日短い可能性があるので、そこは我慢いただく必要がある」と募集要項に書いてただろうか。いや書いていなかった!

  そういうわけで、おれが五月病に打ち勝ち、アンチ土曜登校に目覚めたのは必然で、メチャメチャに早かった。

  よくよく考えてみろよ。週休一日制だぜ? 聞いたことねえよそんな言葉! 給料がもらえるわけでもないのによっ!

  身も蓋もないが、こんな思いをするなら私立なんてやめときゃよかったんだ。一年前、公立校志望のやつらよりも先に進路が決まって、シッポわさわさ振って春休みを先取りしていたいた浅はかな自分を呪いたくもなる。

  そんなおれの気持ちなんか構いもせずに、電車は早くも次の駅に到着する。

  (もう[[rb:芽吹台 > めぶきだい]]か。この駅は……)

  ところで、毎日電車通学を続けていると「トラ猫の学生は毎朝単語帳を開いてる」とか、「赤ネクタイの太った獅子おじさんの特等席は優先座席の端」など、勝手な顔なじみが自然と増えていく。みんな朝早くから仕事なり学校に向かうのだと思うと、自然と親近感を覚えたりもする。

  ただし、それは平日に限った話だ。みんなおれと同じ通学仲間だってのに、土曜日は一斉に裏切るんだもんな。だから余計に孤独感が増す。

  いつもならこの駅で変わり者のクマが乗ってくるはずなんだけど、今日はどうだろう。土曜日だし、いないかな。

  プシューッとドアの音が鳴り、そっと視線をやると――

  あ、来た。てか、来るんだ? 中背のぽっちゃりシロクマ(失礼だけど名前なんて知らないからそう呼ぶしかない)。

  これまで土曜日に乗ってきたことなんかあったっけ。ふしぎに思いながらも姿を見ると制服だったので、仲間が加わったような心強さを感じてしまった。

  シロクマは必ず手に本を持って電車に乗ってくる。今日も例外ではなく、ブックカバーのかけられた本――コミック本のサイズ――にニヤついた表情で見入りながら、目の前の座席に座った。

  (漫画?)

  ゲラなんだろうか、時折「くふふ」と息だけの笑い声を漏らす。小さく笑うたびに、ぴょーんと伸びたアホ毛が揺れて、まるで感情と連動しているみたいだ。

  そのくせ本で顔を覆い隠すから、恥ずかしがり屋なのかもしれない。それだったら(読むなよ)と思わずにはいられず……。

  (やっぱ変なヤツ。何読んでんだ?)

  本の中身もさることながら、おれは目の前のシロクマに興味を抱き始めていた。今日はかつて以上に、強く。

  同じ電車に乗り続けていると気づいたのは、梅雨明け直後ぐらいだったと思う。

  相手はともかく、おれはけっこう長いこと、この人のことを認識している。にもかかわらず、通っている高校はおろか、なにも知らない。赤の他人なのだから、それが当然なんだけど。

  ぱっと見の雰囲気は三年生っぽい。そう感じるのは貫禄のある、ふくよかな肥満体のせいであって、顔つきの方は丸々と柔和な印象。

  男っぽい精悍さないが、かと言って女性的でもなく、中性的な顔だちは童顔というほど幼くはない。むしろ歳を食って丸くなったオジ……大人のようでもあるその顔はどことなく親しみを覚えさせる。

  優しい変人。

  本に目を落としながら口の端を微かに上げて笑う姿を見ていると、そんな言葉が思い浮かんだ。

  スマホをいじる手すらも止めて、シロクマのことをじっと観察していたとき、

  (あっ)

  思いがけず目が合い、慌てて目を逸らしてしまった。

  (まず……)

  これではずっと見ていましたと白状したようなものだ。しかし弁明するのもおかしな話で……。

  シロクマはじっとこっちを見てロックオンしている!

  (やーば)

  どうしようもなく、どこへ視線をやったらいいか迷いあぐね、目があちこちへ泳ぎまくる。スマホを触るふりまでしてごまかす。あー、おれ、余計に怪しすぎる。

  居心地の悪さに囚われていたとき、シロクマは突然口を開いた。

  「キミキミ。毎日おんなじ電車乗ってるよねえ?」

  シロクマは馴染みの友だちに挨拶をするように、やたらフレンドリーに話しかけてきた。

  突然のタメ語はちょっとどころかだいぶに心臓に悪い。耳がぴしっと立ち、自分の他に誰かいないか辺りを見回したおれに、

  「クロシバくん、キミだよ。電車、けっこう一緒だよね?」

  シロクマは人の良さそうな笑みを浮かべて、首をこくこくと縦に振った。目が合う。もう一度頷くシロクマ。やっぱり、おれなのか。誰か替わってくれ。

  まあシロクマのいうとおり、顔は合わせていたけど、会話は今までなかった。それが今日突然声をかけられ、初めて聞く声ということもあったからだろうか、ドキッとした。穏やかな顔の割に声は渋めなんだ……なんて余計なことを思いつつ。

  「えっ、そうっすけど」

  咄嗟に違うことにしなかったあたり、おれのお堅い性格が出ている。

  「よかったぁ。ボクだけキミのこと知ってたら不公平だなって」

  それは「不公平」っていうんだろうか。こっちも知ってたし。

  なんて返したらいいかわからず、かといって否定することもできず、あやふやにアホ毛の方を見ているのが精いっぱいだった。

  困り果てていたそのとき、シロクマはニマッと笑った。

  「フフン。その顔、変なヤツがきたって顔だね」

  突然図星を突いてきたシロクマは「そんなこと」というおれの返答に被せるように、からからと笑って表情を綻ばせる。

  「大丈夫大丈夫。慣れっこなんだ。でもボクは自分のこと変だと思わないけどなあ。そこがもう既に変なのかも? どう思う?」

  どう思うって……。どうもこうもあるはずがない。ますます困らせてくる人だ。

  「あ、あのぅ、本。何読んでたんですか」

  結局なんといっていいかわからなくなって、無理にでも話題を変えてやった。

  純粋に気になっていたし、声に出るほど面白い本ならタイトルぐらい知っておいていい気もするし、なにより、他に場をつなぐ方法も思いつかなかったことだし。

  「ああ、この本?」

  本を開き、こちらに向けてくるそのページには、

  「見て、このページ。美味しそうじゃない?」

  確かに美味しそうなものが、ココアフィナンシェの作り方が載っている。……すこし身を乗り出して、ここから見る限りは。

  ただ材料と手順が載っているだけのレシピ本にしか見えなく、笑いどころがまるでわからない。

  「美味しそうですけど……。このレシピがおもしろかったんですか」

  「そうだとも。しかし、まさかキミがこの本に食いついた上に説明を求められるとは、ボクも油断していたようだ。はてさて、どう説明責任を果たすべきかな。伝わらなかったらごめんね?」

  (いったい、なんなんだこの人は?)

  このただのレシピがどう「おもしろい」に変化して笑いを生み出すのか興味津々というよりも、今はまだ余裕で怖さの方が上まっていた。

  シロクマは「キミにとって笑えるか保証はしないけど」と、続ける。

  「ええとね、ここに載ってる材料の十倍分を用意してフィナンシェを作るとするよ。そうそう、ボクは料理研究部の部長でね、みんなの部費で材料やらを購入するんだけど、ぜんぶ好き勝手やるわけにはいかなくて、最終は顧問の許可をもらう必要がある。部員五人の十倍の材料、つまり五十人分の材料を買う。五十人で食べても平気な特大フィナンシェができあがる。でも部員は五人だから当然食べきれなくて、お金をドブに捨てたボクは怒られる。フィナンシェンスだよ!ってね!」

  (は……?????)

  「でも、やってみたいんだよね。特大フィナンシェづくり」

  シロクマは……なにをいっていた? どこが笑いのポイントだったんだ? っていうか、もしかするとギャグ――のつもりなのか。この人は……レシピ本を読みながらそんなことを考えていたというのか? わ、わからなさすぎる……。

  「フフン。ボクの説明も大概だけど、わんこくんもまだまだだね」

  シロクマはフンスと鼻息を吐き、ドヤ顔で解説を続けた。

  「これは高度な言葉遊びでね、フィナンシェとファイナンス(Finance)とナンセンスをすべて掛け合わせた究極の言葉こそが『フィナンシェンス』なんだよ。フィナンシェ的財政のナンセンス。どう? 気休めのジョークにしてはなかなかイイと思わない? あっ、でもさ、ジョークって解説したらもう冗談じゃなくなるよね、冗談じゃないよ!」

  は?

  おれとセンパイとの一歩目は、とてつもなく強烈でありながら今でも理解不能な、嫌でも一生覚えていられるギャグ(?)で始まったのだった。