【リクエスト】王城に咲いた呪いの花 ─姫がドラゴンに進化する夜─

  煌々と輝く百の燭台。

  まばゆい光を反射するのは、天井を覆い尽くす金箔の蔦と宝石細工。

  壁面には緻密な天使たちのフレスコ画が踊り、瑠璃色のカーペットが宮殿の奥まで敷き詰められていた。

  ここは、フロンティア王国の心臓部、王城グランドセリオン。

  その中でも、もっとも聖域に近い場所──“白金の間”に、ひとりの少女が静かに立っていた。

  「ふふっ。今日の私は、民の“理想”に届いたかしら?」

  鏡の前に立つのは、第一王女リシェル・フロンティア。

  その姿はまさに、“祝福の化身”だった。

  絹の数十倍の希少性を誇る[[rb:月繭 > げつけん]]の布で織られた銀白のドレスは、纏うだけで空気の流れが変わるほど。

  襟元には豪華な装飾が連なり、刺繍には金糸と、紅玉を粉砕して練り込んだ特殊な絹が使われている。

  それでいて、これは“ただの舞踏会用ドレス”でしかない。

  「姫様、香の追加を」

  控えていた侍女が香炉を差し出すと、リシェルはわずかに首を傾け、陶器の蓋を取った。

  「いらないわ。今日の私は、もう完成しているもの」

  王国中の誰もが、彼女の美しさを讃えた。

  知性も、教養も、戦略も、そして礼節も──あらゆる才能を兼ね備えた理想の姫。

  だがその笑顔の奥に、“何も感じていない目”があることに気づいた者は、誰一人としていなかった。

  ◇

  「姫様、お部屋の用意が整いました」

  「ええ。ありがとう、もう下がっていいわ」

  舞踏会が終わり、静寂を取り戻した王宮。

  月光が差し込む天蓋の下、リシェルは寝室へと戻っていた。

  寝間着と呼ぶにはあまりに贅沢すぎる装い。

  ただの一夜限りの使い捨て衣装でありながら、その仕立てだけで村一つが建設できるほどの価値があった。

  リシェルにとっては、ただ“眠るためだけ”の服。

  「こんな布切れ一枚で、民は一生働くのね」

  ぽつりと、天蓋を見上げながらリシェルは呟いた。

  誰にも届かぬその言葉は、部屋に響くこともなく、ただ寝台の羽毛に吸い込まれていく。

  彼女は目を閉じた。

  眠りにつく、それはただの安息ではない。

  この夜を境に、姫の世界は“祝福”から“呪詛”へと転ずる。

  ──夢だった。

  ──そう、最初は、夢だったのだ。

  眼前に広がるのは、炎に包まれた王都。

  音もなく崩れゆく城壁。

  悲鳴さえ焼き尽くされた玉座の間。

  炎の奥から、ヌゥと姿を現す一体の影。

  それは──ドラゴン。

  だが、首がない。

  赤黒く焼けただれた骨。

  喉元で止まった断ち切られた首椎が、まるで失ったものを探すように、空を彷徨っている。

  頭部のない骸骨竜が、口もないのに言葉を発した。

  『器よ……』

  声が、頭の中で鳴る。

  『我に肉を……与えよ……』

  その瞬間、リシェルは絶叫とともに跳ね起きた。

  「──っ、はっ……!!」

  月光が静かに揺れている。

  天蓋のカーテンが微かに風に揺れていた。

  先ほどまで見ていた“あの夢”の炎も、首のないドラゴンの声も、もうどこにもなかった。

  「……夢……」

  胸に手を当てる。

  心臓が暴れている。

  寝間着の下、肌がぐっしょりと濡れていた。

  「不快……」

  べたつく絹がまとわりつき、いつもの心地よさなどなかった。

  まるで絹ではなく、生きた何かに包まれているような錯覚すらある。

  「シャルロット、シャルロット!」

  リシェルは、枕元の鈴を鳴らした。

  すぐさま、控えの間から侍女が顔を出す。

  「お呼びでしょうか、姫様」

  「着替えを。すぐに」

  「は、はい……直ちに……!」

  侍女は慌てて退出し、衣装室へと向かった。

  ──廊下。

  「まーた“我が儘姫”のお呼びだとよ」

  「こっちは寝ずの番だってのによ……」

  「まったく、我が王国のお姫様は手がかかるぜ……」

  「しっ、声が……」

  近衛兵らが小声で囁きあう。

  常にリシェルに振り回され、その機嫌をうかがう彼らにとって、この深夜の呼び出しも珍しいことではなかった。

  いつもの我が儘。

  いつもの理不尽。

  いつもの、[[rb:夜伽 > よとぎ]]の命令。

  誰もが、そう思っていた──

  ◇

  「お待たせしました、姫様。こちらの──」

  「……それは?」

  「急でしたので……どうかご容赦を」

  手渡されたのは、普段のリシェルが絶対に選ばない、簡素なドレス寝巻きだった。

  金の装飾もなければ、裾のフリルも乏しい。

  ただの“清楚な一着”。

  リシェルは数秒、それを見下ろしたまま無言だった。

  「……いいわ。もう、面倒」

  そしてそれを奪い取るように受け取り、自ら袖を通し始めた。

  「シャル。もう下がっていいわ。後は自分でやる。 気が散るから近衛兵達も退かせなさい」

  「……畏まりました」

  扉が閉まる。

  部屋には、リシェルと月明かりだけが残された。

  鏡の前に立つ。

  新たな寝巻きの胸元を整えながら、顔を見つめた。

  「……質素なドレス。 こんな格好、誰にも見せる訳にはいかないわ」

  そんなことを呟きながら、ベッドに戻る。

  そして、リシェルはまた天蓋を仰いで目を閉じた。

  ◇

  「──っ、あ……はぁ、はっ、熱い……っ……ッ!」

  リシェルが目を覚ましたのは、それから数時間後の事だった。

  全身から汗が吹き出しているのがわかる。

  心臓は早鐘のように打ち続け、呼吸は荒く、そして──熱い。

  まるで火の中にいるように、全身が熱を持っていた。

  「な、何なのこれ!」

  シーツを蹴り上げ、リシェルは寝台の上でのたうった。

  額には玉のような汗。

  だがそれは、通常の発汗とはまるで違っていた。

  肌の奥底、骨の髄で何かが“沸騰”している。

  ぐつ、ぐつ、ぐつ……

  骨の奥から、油が煮立つような音が響いていた。

  「熱い──熱い、熱い熱い熱い!!」

  肌が焼けるように痛む。

  皮膚が内側から焼き焦げていく感覚。

  白銀の寝間着はたちまち体温と汗に濡れ、布地がジュッと音を立てながら変色しはじめた。

  「……いやッ、もう……無理ッ!!」

  バサッ!!

  リシェルは震える手で寝間着の紐を引きちぎり、そのまま肩を、胸元を、脚を一息に脱ぎ捨てた。

  下着ごと全て。

  恥も、羞恥も、王女としての矜持すら──焼き尽くされる。

  「く……あッ、はぁっ……あっつ……ッ!!」

  全裸のまま、彼女は寝台を転げ落ちた。

  熱が全身を、内側から破壊しようとしていた。

  「ぎゃぁーッ!」

  甲高い悲鳴が、天蓋の絹を震わせる。

  だが、その叫び声に駆けつける侍女も近衛兵もいない。

  『──器となれ──』

  空耳ではない。

  耳からではなく、骨に直接染み込むような──“声”。

  脳髄を溶かしながら染み渡る、濁った呪いの声が響く。

  「ッ……ごぼ、あ、あぁぁぁあッ……!!」

  リシェルは苦しみながらも抗った。

  だが、声は濁り、喉の奥でゴポポポ……ッ!と泡立つばかり。

  「ひぎっ!? あ、あ、あ……あぁぁあぁぁああッッ!!!」

  ピキィッ……バキバキィィッ!!

  腕の皮膚に走った亀裂が、内側から破裂する。

  まるで熟れた果実が弾け飛ぶように、皮膚が四方へ飛び散った。

  中から噴き出すのは──

  血ではない、赤黒く濁った膿汁と、網の目のようにねじれた筋繊維。

  指先がポロポロと音を立てて剥がれ落ち、床に点々と肉片を撒き散らす。

  「ぎゃぁーーーッッ!!」

  肩から背中へ、裂けた皮膚が蛇の脱皮のようにベリベリと剥がれ落ちていく。

  露出した筋肉が空気に触れるたび、ジュウウウウウ……と焦げつく音が鳴り響く。

  そのまま──

  体勢を崩したリシェルの背が、ずるりと床に擦れた。

  「ギャアアアアアアアッッ!!!」

  剥き出しの筋肉が石の床に触れる度、そこからビリビリと電撃のような痛みが全神経に駆け巡る。

  擦れた部位からは即座に鮮血と体液が噴き出し、表面の筋膜が裂け、繊維一本一本が千切れるように剥離していく。

  筋肉は生きたまま、床に引きずられ、自らの体重で潰されていく。

  それは、焼きたての生肉を押しつぶすような、濡れた潰音。

  「いやっ……いやあああっ……」

  叫びたいのに、声が続かない。

  喉が焼け、溶けた肉の管に成り果てていく。

  「ギァ……ガボ……グジュルッ、ギギィイイイ!!」

  喉奥から洩れるのは、人間の音ではない。

  まるで腹の底に湧いた、異界の泡の爆ぜる音。

  メリメリッ……ゴキッ!!

  膝が逆方向に折れ、砕け、肉組織が足首から先がズルズルと脱落していく。

  のたうち回る度に剥き出しの腹部から内臓が雪崩れ落ちる。

  そこに続くのは、溶け崩れていく組織と、ねっとり光る腸の束。

  胃袋、腸、肝臓、子宮──生々しい臓器が、まだ脈動を繰り返しながら、ぐちゅぐちゅと音を立てて、床を濡らしていく。

  リシェルの首だけが、ぷらりと宙を漂う。

  胴体は、もう形を成していない。

  だが──頭部だけは、“美しいまま”だった。

  まるで、かつて首を失って死んだ竜が、その頭部で埋め合わせるかのように。

  首から上だけは、変化の波が届かなかった。

  彼女の身体はすべて崩壊したというのに、その顔だけは──まるで“代償”のように保たれていた。

  「……あぁっ……く……が……」

  呼吸すらできない。

  血の涙を流しながら、リシェルの瞳だけが震えている。

  生きている。

  この地獄を、すべて見届けさせられながら。

  バンッ!!

  胸部が破裂し、人としての構成物を撒き散らしながら、肋骨が外側にせり上がる。

  ドクン、ドクン……ッ!

  心臓が、ビチャァァンッ!!という音と共に破裂した。

  肉体は、袋を破った中身のように床一面に撒き散らされた。

  血と臓物と焼け焦げた肉の海の中、リシェルの意識に再び響く声。

  『我の器となれ。汝を完全なる姿とせん』

  「……ッ!」

  リシェルの瞳が見開かれた。

  次の瞬間──

  ゴリッ!! グキグキグキィィィッ!!

  断裂した首元から、骨が這い出した。

  脊椎。

  歪な、異様な、人の物ではない……ドラゴンの脊椎。

  それが、リシェルの頭部を支えるように、伸び、這い上がっていく。

  背骨が伸びるたびに、ゴキゴキゴキッ!!ギシギシィッ!!と音が部屋に響き渡る。

  胴体が長大に、異様に膨れ上がり、背骨の間から翼の骨格が飛び出す。

  蹄のような後脚が、床を砕きながら形成され、尻尾の骨がうねり、バキバキバキィッ!!と音を立てて伸びていく。

  だが、その骸骨の先端には、小さな、あまりにも不釣り合いな、美しいままの姫の頭部が載せられていた。

  人とドラゴン。

  姫と骸骨。

  おぞましい融合が、ここに完成した。

  天蓋が裂け、夜空へと骨の翼が広がる。

  裂けた天井から、月光が零れ落ちた。

  ゴギギギ……ギギギギギ……!!

  ドラゴンの骨格が軋む。

  その目に映るのは、夜の王都。

  無防備に眠る民の世界。

  夜の街を飛び交う、自らの“魔物”の視界だった。

  [newpage]

  ──夜空が、悲鳴に染まっていた。

  空を裂く黒い影。

  翼は骨のまま、膜など存在しないのに、風を掴むたびズゥオオオ……と地響きのような音を残していく。

  巨大な尾骨が振るわれるたび、街並みは紙細工のように崩れ落ちていった。

  その中心に──リシェルの“顔”があった。

  ドラゴンの首の先端にぽつりとぶら下がるその顔は、目を虚ろにさせながら、ただ涙を流し続けていた。

  「やめて……やめて……お願い……」

  声にならない声が、口の中で何度も何度も形になり、しかし音にはなずに消えていく。

  家屋を破壊し、人を踏み潰すたびに、ドラゴンの肋骨の隙間に黒く濡れた肉片が蠢き始める。

  まるで、人を殺すたびに生命を得ているかのように。

  その時だった。

  「──ひっ!……や……」

  足元に、ひとりの少女が立ち尽くしていた。

  逃げ遅れたのか、それとも信じたのか──彼女は、竜の顔に刻まれた“リシェルの顔”を見て、震えながら頭を庇う。

  「姫様……姫様、やめて……っ」

  少女の震え声が、空気を震わせる。

  その言葉に──体の動きが止まった。

  「……ぅ……あ……っ……」

  骸骨竜の首が、ギギギと軋みながら少女の方へ傾ぐ。

  ぶら下がる“姫の頭”が、ぐらりと揺れながら、ゆっくりと少女を見下ろした。

  ピク……ピキピキ……グチュッ……

  口角が、不自然に持ち上がる。

  まるで内側から皮膚を引っ張られているかのように。

  口元を強制的に吊り上げられ、“笑わせられていた”。

  その表情は──狂気。

  「……いや……いや……っ……」

  少女の表情が恐怖と絶望に歪む。

  顔を強張らせ、後ずさる。

  だが、その怯えきった少女の表情が──たまらなく“快感”だった。

  「……う、あ……あぁ……ああああああ……ッ!」

  脳の奥で、リシェルが叫ぶ。

  その叫びに応えるように、腹の底から得体の知れない感情が、泡立つように噴き出した。

  快楽にも似た圧倒的な“高揚”。

  自分が“絶対の恐怖”になっているという実感。

  ──抗え。

  そう思うのに。

  体が、笑っていた。

  「……あっは……ひ……ひひ、アハハッ……!」

  リシェルの目が、パチッと大きく見開く。

  瞳が真紅に染まる。

  左右の眼球がぐるりと動き、目尻が裂け、魔物の視界が──重なる。

  その視線は、目の前の少女を“ターゲット”として認識する。

  「っ……だめ、だめっ……止まって……止まってぇっ……!」

  しかし止まらない。

  顔の筋肉がミシミシ……グチュグチュ……ッと音を立てて、顎が割れた。

  メリメリメリッ!! ゴキッ!!

  下顎が外れたかのように、ぷらんと垂れ下がる。

  「グゥルルルル……」

  裂けた口腔から、黒煙とともに、燃え盛る咆哮が漏れ始める。

  ゴロロロロ……

  喉の奥が震えるたびに、焼け爛れた舌が空気を泡立て、口の内側でマグマのような熱流が渦を巻く。

  そして──

  「ヴオオオオオオオオオオオッッ!!!!!!」

  咆哮が、業火となって解き放たれた。

  一瞬で──少女の身体は、輪郭ごと消えた。

  肉が焼け、骨が爆ぜ、魂が蒸発する。

  たった一吹き。

  瞬きをするよりも早く、“存在”が“無”に帰した。

  焦げた内臓の匂いが、焦土の風に乗って漂う。

  炎は瓦礫へ引火し、石造りの街区すら赤く染め上げていく。

  「グフッ!」

  その口が、静かに閉じる。

  その目から、一筋の血涙が流れ落ちた。

  「……ごめんなさい……」

  口が動く。

  だが、震えは……高揚感は止まらない。

  「わたし……じゃないの……わたしじゃ……。 ヒヒッ……イヒッ、イヒヒヒヒ……ヒギャァアア!!」

  悲鳴とも、嗤いともつかぬ、断末魔の中で生まれた“笑い声”が響いた。

  骨の翼が広がり、空を切り裂く。

  ドラゴンは宙を舞い、血塗られた夜空へと戻っていった。

  現実から逃げ出したのか──次の獲物を探すためなのか……

  リシェル自身にも分からなかった。

  ただ、身体は次の場所へと飛んでいく。

  頭部に“人間の顔”をぶら下げたまま。

  ◇

  「──あれを見ろッ!」

  「なんだ……あの悍ましい魔物は……に、逃げろーッ!!」

  崩れかけた市街の広場。

  逃げ惑う民の群れ。

  その視線の先──

  瓦礫の山を踏みしめ、血と灰に濡れた空を背に立つ“ドラゴンの骸骨”。

  だが、それはただの骨ではない。

  その内部では、再生途中の臓器がむき出しのまま、ぐちゅぐちゅと蠢いていた。

  肋骨の奥からは、黒く濡れた肉塊が、ドグン……ドグン……と不規則に鼓動し、赤黒い腸が骨を這いながら波打ち、膜のように脆い肺が湿った呼気を震わせる。

  それらは、“肉の泡”が湧き出すように、ゆっくりと膨らみ、しぼみ、滲み出す粘液を纏って、不気味に蠢き続けていた。

  まるで、死体に臓物を流し込んで成形中の異形。

  骨格だけが完成したドラゴンの形を取りながら、その胴体にはまだ筋肉も皮膚も無く、剥き出しの臓器が脈動し、液体のように流動している。

  まさしく、生きながら生成されている最中の地獄。

  誰もがその胴体を直視できなかった。

  余りにも凄惨で、耐えがたい。

  皆、目を逸らすようにして、その長く伸びた首の先端に視線が向けられる。

  そこに──

  ただ一つ、人間の頭部がぶら下がっていた。

  「……あ……ぁ……あの顔……姫……?」

  「う、うそだ……うそだ……ッ! 姫様が、あんな……!!」

  それは、確かに“リシェル姫”の顔だった。

  フロンティア王国に住まう民が、心の中で崇めていた姫の姿。

  かつて肖像画の中で“祝福”と共に描かれた、神に等しい存在。

  だが今──

  その顔は、肉の完成を待つ異形の竜の骨体にぶら下がり、狂った視線を浮かべていた。

  目は大きく見開かれ、眼球がグリグリと動き回る悍ましい表情で。

  「いや……違う、あんなの……姫様じゃ、ないッ!!」

  「化け物だ……ッ!!」

  その声が、リシェルの脳を深く深く突き刺した。

  (……わたし、は……)

  唇が震える。

  だが、声にはならなかった。

  (わたし……違うの……ちがう……のに……)

  誰に届くこともない言葉。

  それに被さるように、民の罵声がさらに突き刺さる。

  「……あれはもう姫じゃねぇ!」

  「化け物だ! 姫様の皮を被った魔獣の化物だッ!!」

  ──音が、遠のいた。

  罵声が、泡の中に落ちるように、くぐもっていく。

  その隙間に入り込むように、リシェルの耳に別の“声”が届く。

  『見ろ。これが人間の本性だ。 誰もオマエを崇めてなどいない』

  (違う……)

  『オマエの存在を認めていたのではない。 利用していただけだ』

  (違……う……)

  脳の奥に、響く声。

  どす黒い奔流のような声が骨に触れ、神経に這い、心の奥底へと侵入してくる。

  『アイツらは、お前のドレス一枚分の価値すらない。 オマエの寝間着の襟飾りは──彼らの生涯の稼ぎすら超えている』

  (それは、私が王族で……)

  『そうだ。 オマエは国を統べる立場。 オマエの一瞬の微笑みこそが奴らの希望。 その為の威厳と装いが必要だ』

  そう。

  私は国を率いる存在として、彼らとは違う位置に立つ義務がある。

  その姿と力を見せる義務がある。

  立場が違う彼らには分からないだろう。

  彼らはただ、私の“力”に跪いていただけ。

  理解していたわけではない。

  敬っていたのではない。

  ただ、持たざる者の嫉妬と崇拝が、あの賛美の言葉を生んでいただけ──。

  ならば……

  どうして、わたしが“同じ目線”で悩む必要がある?

  私を化物と罵る奴らのために……

  ぞくり、と背骨を撫でるような感覚。

  ドラゴンの背が蠢く。

  首の根元から、黒い棘が“皮膚の下”を這い、リシェルの首筋へとにじり寄る。

  『我慢などする必要はない。 愚かな者達をどうすれば良いか…… オマエになら分かるよな?』

  拒絶したい。

  しかし、心が快感に染まりかけている。

  『殺戮は気持ち良かっただろう?』

  その言葉を聞いた瞬間、全身に快感が突き抜けた。

  リシェルの白目に血管が浮き、瞳孔が割れ、視界が赤に染まる。

  グチュ……ッ!

  左目が、爬虫類のような縦裂きの瞳に変わる。

  「違う……わたし……わたし、は……ッ!!」

  顔の皮膚がパキッ……パリパリ……ッと音を立てて割れ、血が染み出す。

  唇が裂け、頬骨が外れかける。

  頭蓋骨がミシミシと軋み、骨の奥で煽るように声が響く。

  『望め、 絶対的な力を。 真の姿を解き放てば、誰もオマエには逆らえない』

  「……あああああああああッッ!!!」

  悲鳴とともに、骨の奥が震えた。

  グチュ……グシュシュシュ……ズチュウウ……!

  リシェルの胸部──否、竜の肋骨の檻の中で、黒く濡れた臓器が蠢きながら形成されていく。

  肉塊がドグン、ドグンと自己発火のように脈打ち、そこに“外から流れ込んでくるもの”があった。

  ズル……ズチャァ……

  人の血と肉。

  足元で潰れた市民の死骸、その血肉が吸い上げられていく。

  肉片が皮膚のように張り付き、骨へと溶け込み、次第に筋へと変わっていく。

  臓器に巻き付く粘膜が震え、腸に絡む血管がピクリと脈動した。

  「血……肉……ッ、肉! 肉!! グアァアアーー!!」

  理性が悲鳴を上げるより先に、リシェルの首が鋭く突き出された。

  喰らうために、食らうように。

  その顎が、地面を這う男の顔面へと叩き込まれる。

  バクンッ!!

  「ひっ……うわあああぁッ!!」

  噛み砕かれた頭蓋が爆ぜ、脳漿が飛び散る。

  喰らった肉が、首から骨の間に流れ込み、すぐにそのまま筋肉として己の骨格に巻き付いていく。

  ズグズグッ……ジュブ……ッ!

  捩じれた縄状の筋束がぶわりと盛り上がり、骨に這い、強靱な動力構造を形成していく。

  殺せば、肉になる。

  喰らえば、己の構造になる。

  「ッ──ぐ、うあ、あ……うッ……!!」

  リシェルの口から、嗤うような吐息が漏れた。

  次第に、笑っているのか呻いているのか分からなくなる。

  その顔には、まだ人間の表情が残っていた。

  だが、口角を突き破って牙が生え、頬骨は歪み、目の奥に走る血管は千切れかけていた。

  ズググ……ズズッ……ジュルッ!!

  崩れた街の瓦礫から、逃げ遅れた娘の首を噛み砕く。

  首の骨が砕ける音と共に、脳髄が吹き上がり、血液が噴き出す。

  その噴流を浴びたドラゴンの肩に、瞬時に皮膚が“形成”された。

  ──人間の肉体が、材料だった。

  殺した分だけ、肉が盛り、血が巡り、組織が完成していく。

  皮膚の内側を這うように、人の脂肪と骨粉が構造を形成していく。

  「ひひ……ッ、もっと……もっと……」

  リシェルの目が笑った。

  頬が裂け、引きつった唇の奥で黒い舌が震える。

  「もっと、殺して……もっと、食べて……」

  尾でなぎ払われた人間たちの肉が飛散するたび、竜の身体は育つ。

  焦げた人間の脂が、鱗の下に吸い込まれ、焼け焦げた皮膚の隙間を埋めていく。

  「気持ちいい……これが、完成するってこと……っ……!!」

  誰かが叫びを上げるたび──

  誰かの命が潰れるたび──

  リシェルの竜の身体は、それを吸い取り、己の血肉として積み上げていった。

  民の命が一つ、また一つと消えるたび──

  その数だけ、リシェルの身体は、形を歪めながらも、本来の姿を取り戻していった。

  ──やがて、周囲に人影がなくなった。

  踏み潰された肉塊の残滓と、炭化した骨の破片。

  ただそれだけが、かつてこの場所に“人”が存在していた証となった。

  「……もっと……まだ……グフッ……まだ足りない……グルルッ」

  リシェルは、狂気の表情を纏い、首を巡らせる。

  新たな獲物を求めて。

  次の供物を探すように。

  その時──

  巨大な噴水の銀面に、その姿が映った。

  波打つ水面一帯を占める、圧倒的な異形の躯体。

  蠢く鱗、滲む筋、焼け爛れた膜。

  痙攣する翼、ズリズリと尾で地を裂く巨体。

  その遥か先、塔のように突き出た首の先端に、ぶら下がる人間の頭部。

  あまりにも不釣り合いで、あまりにも美しく、あまりにも悍ましい顔。

  鋭く長すぎる牙が口から溢れ、顔中に血肉をこびり付かせた顔。

  それは、紛れもなく自分自身リシェル・フロンティアの顔だった。

  リシェルは、ぽつりと呟いた。

  「……これが……わたし……?」

  声は風に消えた。

  誰にも届かず、意味すらも曖昧になりながら。

  ドグン──ッ!!

  全身の内圧が爆発するような感覚。

  人間の器では到底収まりきらない“力”が、皮膚の裏から、骨の髄から、奔流となって噴き出していく。

  「──あ……ああ……ああアアアアアッ!!」

  力だけではない。

  それは、もはや“喜怒哀楽”というカテゴリには分類できない、暴力の純粋結晶のような感情だった。

  ──殺せ。

  ──壊せ。

  ──焼き尽くせ。

  快感が脊髄を焼き、指先を震わせる。

  殺したい。壊したい。焼き尽くしたい。

  喰いたい!!

  理由などいらなかった。

  けれど、そのどこかに──

  「お願い、誰か止めて」と、叫ぶもう一人の“姫としての自分”が、まだ微かに残っていた。

  漆黒の巨体が一歩踏み出す。

  ミチ……グシャッ!

  足元で死の寸前にいた男が潰された。

  肉と骨が爆ぜ、石畳と混じった赤い塊がこびりつく。

  その光景を見て、電撃のような快感が奔った。

  「あっ、は……っ」

  自分が今、この手で誰かの人生を終わらせたという事実。

  背徳と絶対の支配力が、神経を直接刺激してくる。

  ドゴォォン……ッ!!

  尾が振るわれる。

  一軒の民家が粉砕され、血飛沫と肉片が、まるで花火のように四方へ飛び散る。

  炭化した腕。

  握ったままのぬいぐるみ。

  それらが宙を舞い、地面に転がり──

  その全てが、リシェルの肉体へと変換されていく。

  ──殺せば、身体が完成する。

  ──壊せば、翼が広がる。

  ──焼き尽くせば、心が歓喜に染まる。

  「……わたし……なんでこんな感情を…… グフッ! グルルッ」

  それは、心の底に沈みかけた“姫”が、溺れる中で手を伸ばすように発した言葉だった。

  『“快”か? 人間を否定するほどに、快感は深まる。 オマエは選ばれし竜の器。 人間の感情など、残す意味はない』

  「でも……それじゃ、わたし──」

  言いかけた言葉を遮り──捉えた。

  視界の隅で、瓦礫の中から這い出てくる小さな影。

  一人の子供。

  血まみれの顔。

  涙を流しながら、それでも震える声で、彼は言った。

  「助けて……!」

  その言葉に、リシェルの口元が、牙に引き裂かれた皮膚の奥で吊り上がる。

  笑ってしまった。

  その笑顔のまま、竜の首がゆっくりと降下する。

  ゴギギギギ……ギチ……ギチィ……

  咆哮など必要なかった。

  ただ、口を開く。

  内側には、焼けた地獄が渦を巻いていた。

  ヴオオオオオオオッ!!!

  子供の身体は、悲鳴すら上げる時間もなく蒸発した。

  骨は跡形も残らず、ただ焼け焦げた空気と、炭化した歯の一部が地面に落ちる。

  「うふ……あは……ヒャアアアハハハッ!!!」

  リシェルの目が紅く染まりきる。

  理性が溶け出す。

  もう、“止めたい”という感情も、“後悔”すらなかった。

  「わたしは……ドラゴン。 私は……支配者……私は──」

  ドォオオンン!!

  炎に包まれた街が、再び崩れ落ちる。

  姫が生まれたその国は、今、姫自身の手によって、地獄に変えられていた。

  彼女の選んだ、快楽の果てに。

  ◇

  王城のすぐ下──

  かつて、最も警備が厳しく、最も格式高き王国民が暮らしていた貴人街区。

  だが今、その地は、血と肉の泥濘と化していた。

  「うふ……あは……ヒャアアアハハハッ!!!」

  響くのは、姫の声だった。

  いや──かつて姫だった者の、断末魔のような狂笑。

  逃げ惑う人々。

  泣き叫ぶ子供、転倒した老人、手を取り合って逃げる親子──

  リシェルには、その全てが血に濡れた視界の中で、ただの“動くエサ”に見えた。

  (ああ……もっと……もっと悲鳴を、絶望を……)

  視線が、群衆を捉える。

  その瞬間、口元が裂けたまま、にたりと吊り上がる。

  翼を広げ、跳躍する。

  ズズズ……ギチィッ!! ズドンッ!!

  黒い影が落ち、爆音とともに大地が裂ける。

  地を揺るがす質量が、一気に群衆の中心へと落下する。

  グシャアッ!! メリメリッ!!

  群衆が潰された。

  人間の身体が何十体も折り重なり、血と骨と肉がひとつの“塊”と化す。

  「愉快! 快感! 死ね愚民どもがぁーッ!」

  口をガバッと開き、地獄の業火を吐き出そうとした──その時。

  不意に、空気の中から声が上がった。

  「エレノーラ様ァァ!! お助けを!! 女王様ぁぁッ!!」

  エレノーラ──

  その名を聞いた瞬間。

  頭の奥で、何かが引っかかった。

  (お母……さま……?)

  焼けただれた意識の底に、ひときわ冷たく差し込んでくる残像。

  それは──女王・エレノーラ。

  高貴な立ち姿。

  厳しいまなざし。

  冷たくも、どこか温かかった声。

  「……お母……さま……」

  懐かしむような声が、ひび割れた喉から漏れた。

  「王女……エレノーラ…… グルルッ」

  今度は、低く、唸るように。

  そこには、憎しみの熱が混ざっていた。

  リシェルの異様に長く伸びた首が、ギギギ……と音を立てて持ち上がり、ゆっくりと王城の方角を仰ぎ見た。

  「お母さまなら……私を……殺してくれるかもしれない……わたしを──いや、アイツを喰い殺さなければ……ッ……」

  矛盾する二つの声が、同じ喉から響いた。

  祈る声と、呪う声。

  人の名残と、竜の意志。

  それは、もはや分かたれない。

  それでも、身体から湧き上がる殺戮の快感は止まらない。

  口元から垂れ落ちた涎が、肉塊と化した民の亡骸に落ちてぴちゃりと音を立てる。

  肉の味を求め舌で顔を舐め上げる。

  そして、王城に向け、その巨体をゆっくりと動かし始めた。

  尾で街路を薙ぎ払い、翼で屋根を破壊し、顎で民を噛み殺しながら。

  リシェルは母──王女に会いに行く。

  そして願う。

  その手で、

  ──わたしを殺してほしい。

  この手で、

  ──オマエを殺してやる。

  [newpage]

  王宮の正門。

  ズゥン……ドゴォォンッ!!

  無数の黒い影が空から落ちる。

  重く、鈍く、地面に叩きつけられたそれは鎧を纏った騎士──いや、騎士だったものの残骸。

  両腕は肩からもがれ、鎧は捩じれ、顔面は潰れ、肋骨は粉砕されて内臓と絡まり、地面に撒き散らされていた。

  「城を守れ! 王女様を守れェエエエエッ!!」

  守護騎士団の精鋭が剣を振りかざす。

  だが、彼らの最後の抵抗は、まさに瞬殺だった。

  鋼の槍は、ドラゴンの鱗に触れる間もなく砕け、鎧は尾の一撃で、まるで濡れた紙のように引き裂かれた。

  骨ごと砕かれた肉体が、床に赤黒い肉泥を撒き散らして崩れる。

  踏み潰された騎士の足から内腿までが潰れたトマトのように広がり、血と脂と砕けた骨の混合物が、宮殿の石畳を赤く塗り替えた。

  ゴロリ……

  首を刎ねられた騎士の頭部が転がって、足元でぴたりと止まる。

  「グフッ! ギャハハハッ! グアァー!!」

  笑いなのか咆哮なのか、区別もできない歪んだ声が響く。

  何の躊躇もなくその頭部を踏み潰すそれは、この世界に生きる最強種ドラゴン。

  だが、“ただのドラゴン”ではない。

  姫──リシェル。

  目の前の“怪物”の頭部には、確かにかつての姫の輪郭があった。

  だが、それはもう人の顔と呼べるものではない。

  口元からは、赤黒く濁った涎がだらだらと垂れ、裂けた唇の隙間からは、口の中に収まりきらない鋭利な牙が何本も突き出している。

  皮膚の表面には無数のひび割れと焼け焦げが広がり、ところどころに爬虫類の鱗が浮かび上がっていた。

  クチュ……クチャ……

  その“顔”が、頬に付着した血と肉片を異様に長い舌でぬるりと這い上がる。

  舌は眼窩にまで達し、その先端で血を味わい、ねっとりと舐め取り、ゆっくりと咀嚼する。

  そして右手に握りしめていた騎士団長の身体を、そのまま口へと運ぶ。

  ゆっくりと、周囲に見せつけるように。

  裂けた唇の奥へ、鎧ごと頬へと食らいつき──

  バキバキィィッ!!

  噛み千切る。

  金属が砕け、肉が裂け、血と臓腑が噴き上がる。

  噛みしめるたびに、牙の隙間から潰れた骨の欠片がポロポロと落ち、舌がその一つを絡め取ってゴリ……と咀嚼する。

  グチ……グチュ……ゴリィィッ……!!

  それは、人間の口から発せられるはずの音ではなかった。

  その凄惨すぎる光景に、誰もが息を呑んだ。

  騎士の目は限界まで見開かれたまま、もはやその瞳孔は何も映していなかった。

  隣に控えていた侍女が、口元を押さえる間もなく、がくりと膝を折る。

  「ぶおぉえぇぇッ!!」

  胃液が喉を逆流し、勢いよく吐き出された。

  その音が響いた瞬間、竜の首がビキィィッと不気味な音を立てて反転する。

  その首の先、紅蓮の瞳が──獲物を捕らえるように震える侍女を射抜いた。

  目が合った瞬間、彼女の背筋を“死”が這い上がる。

  「グオォォアアアアッ!!」

  獣の咆哮と共に、口が異常に開かれる。

  裂けた頬、垂れた皮膚、牙に突き破られた唇の奥。

  その内側に、黒々とした何かが、蠢いた。

  次の瞬間──

  ボシュウウウウウウウウウッ!!!

  燃え盛る黒炎が、渦巻く奔流となって吐き出された。

  空気ごと焼き尽くす漆黒の火焔──

  侍女は、その中に呑み込まれた。

  悲鳴を上げる暇すらなかった。

  顔が炭のように黒く膨れ、髪が一瞬で燃え尽き、眼球が弾け飛ぶ。

  唇が溶け落ち、喉が灼け、筋肉が収縮しきったまま皮膚が崩れ、全身が、一塊の焦げた肉塊に変わって地に崩れ落ちた。

  焼け爛れた内臓の匂い。

  炭化した脂が、石畳にジュウジュウと音を立てて染みついていく。

  火柱はなおも噴き上がり、壁に燃え移り、天蓋の残骸に火を走らせた。

  「ひ、ひぃぃぃ……ッ!!」

  「……ば、化け……バケモノだッ!!」

  誰かの剣が、カランと乾いた音を立てて地に落ちた。

  騎士が、膝をついた。

  そしてそのまま、地に伏して、嘔吐し始めた。

  「うぅ……げぼっ、うぅ、うわあああ……ッ!!」

  もう立てる者はいなかった。

  「……こ、こんなものに……勝てるはずが……ない……ッ……」

  全員が理解した。

  これは、人間が触れてはならない存在だと。

  神の敵でも、魔物でもない。

  この世の理の外側に存在する、地獄の支配者──

  かつて“姫”と呼ばれていた、黒焔のドラゴンの前に。

  誰ひとり、抗える者など──いなかった。

  ◇

  炎と血の中、リシェルは一方的に騎士たちをなぎ倒し、踏み潰し、捻じ切っていく。

  槍は屈することなく砕け、盾ごと胴体が吹き飛び、王国の最精鋭たちは、肉の壁にもなれず次々と赤黒い塊と化していった。

  向かう先は、国の中枢。

  王座の間。

  そこはかつて、祝福の式典の日にリシェルが玉座に立ち、王国民に向けて笑顔で手を振った祝福の空間。

  その中心に、ひとりの女が立っていた。

  金髪を高く結い上げ、荘厳な紫の王衣を身に纏い、まるで祭壇の像のように微動だにせず、ただ静かに、最厄の接近を待っていた。

  女王、エレノーラ。

  リシェルの母──王国の象徴。

  「リシェル……なんと悍ましき姿……」

  震えていない。

  声に、微かな揺らぎさえもなかった。

  愛し子が、異形の怪物となって現れたというのに──

  その視線は、女王としての威厳そのままに、冷たくも確かに“娘”を見ていた。

  ズゥン……!!

  この世の最厄が、玉座の間に降り立つ。

  空気が潰れたような鈍い衝撃が響き、荘厳な柱が微かに揺れ、天蓋の帷が舞い上がった。

  そして、長く伸びたドラゴンの首が、ゆっくりと屈む。

  ぶら下がる“かつて娘だった顔”が、ゆらりと揺れながら、母を見下ろした。

  その顔は、辛うじてリシェルの面影を宿している。

  「……お母……さま──女王、エレノーラ。 グルルルッ……」

  それはリシェルの声だった。

  だが、リシェルの声ではなかった。

  少女の声が、竜の喉奥に響く濁声と混ざり合って、まるでふたつの魂が同時に言葉を発しているかのように、重なり響いた。

  「お願い……殺して……わたし……もう──その前に、貴様を喰い殺してやるッ」

  矛盾した二つの感情。

  祈りと殺意が、同じ口から同時に放たれた。

  その言葉を聞いたエレノーラは、ただ静かに、剣を抜いた。

  細身の刃──王家に代々伝わる聖剣“ルクスリア”。

  魔を魂ごと断ち切る聖剣。

  かつて、最悪のドラゴンの首を討ち取った聖剣。

  女王はそれを、しっかりと握りしめる。

  「リシェル……あなたがそう、願うのなら──」

  そして、母は歩み出す。

  一歩、また一歩と、竜の前へ。

  リシェルの目がゆっくりと閉じる。

  「あなたのその顔……私には、まだ美しい」

  剣を逆手に握り直し、その柄を掴む白い指が、わずかに震えた瞬間だった。

  リシェルの目が、カッ!と見開き──

  ガブリッ!!!

  「……あ……」

  聖剣“ルクスリア”が放たれる寸前。

  リシェルの顎が、先に動いた。

  裂けた口が、女王エレノーラの右肩に喰らいつく。

  「……ごめんなさい……」

  リシェルの心が、涙を流していた。

  だが、その顔は──笑っていた。

  「だって……お母様に、そんな顔されたら……」

  グジュ!!

  筋肉が千切れる音。

  骨が砕け、血がプシャアッ!!とリシェルの顔に噴き上がる。

  引き千切った右腕を咥えたまま、口元を歪ませて嗤うその顔は、狂気そのものだった。

  「──そんな顔されたら、食べたくなっちゃうじゃなぁーい」

  バリバリバリィィ……グチャァ…… クチャクチャ

  咀嚼音が、玉座の空間を満たす。

  赤黒い肉汁が、床を滲ませながら広がっていく。

  かたん……

  聖剣が、手から落ちた。

  女王の目は、最期の瞬間まで、娘を見つめていた。

  ──そして。

  ガクンッ!

  顎がさらに開く。

  裂けた口が耳の付け根まで割れ上がり、竜の頭部は、女王の首元へと覆い被さった。

  ガブリ!! グボォ……グゴッ!!

  顎全体で噛み砕く。

  王女の顔が、ゆっくりと口内へと滑り込み──

  ゴキッ!!

  頭蓋が、リシェルの口の中で砕け散った。

  肉と脳漿が、熱を帯びた涎と混ざって滴り落ちる。

  「アハハハハハッ!! 私、お母様を殺した!! 食べた!! これで私が王女──!! アハハハハッ!! アハハハハハハッ!!!」

  笑い声が止まらない。

  その瞬間──

  ピキ……パキ……パキキ……ッ!!

  音が鳴る。

  顔の皮下で、何かが蠢いている。

  ボコッ……モゴモゴ……グチュ……ッ

  眉間が盛り上がる。

  内側から突き上がる“何か”が、皮膚を押し破る。

  ぶちぶちと血管が裂け、血膿が溢れ出す。

  「きた……き……来たァ!! 私、私は──グオォオオオッ!!」

  リシェルの“顔”が、崩壊を始めた。

  ブチブチッ!! バリバリバリィィッ!!

  頬が音を立てて裂け、白く濡れた頭蓋骨が覗く。

  歯茎が肉ごと捩じれ、歯列が根元から引き剥がされるようにして飛び散った。

  そして──

  グゴゴッ……ズズズッ……!!

  顎の骨格が、前方へと突き出し始める。

  まるで口全体が“突き出す[[rb:吻 > ふん]]”へと変質していくかのように。

  ギギギギ……ミギィイッ!!

  眼球が引き攣りながら外側へ移動していく。

  目頭が裂け、眼窩が横に引き伸ばされ、二つの紅い眼が頭部の両端に近づいていく。

  ボゴッ! ググッ! メギィィッ!!

  異様に長い牙が、生肉を突き破りながら突き出した。

  上顎からは、湾曲した双牙が左右へせり出し、下顎からは、歯茎ごと裂けた肉の裂溝を押し広げながら、斜めに捻れた牙が隆起していく。

  「ぁ……ぐ……あ゛あ……ア、が……!!」

  リシェルの喉はもう、発音器官としての構造を保っていなかった。

  筋肉と靱帯が、まるで獣の咆哮に合わせて新たに再設計されていく。

  喉の奥から響くのは、人語のなれの果て──

  踏みにじられた残骸から漏れる、低く濁った咽び。

  ズチュッ……グジュグジュグジュ……

  顔の奥から、筋肉が盛り上がってくる。

  顎を包み込むように、異常な密度の赤黒い筋繊維がねじれ、こめかみから首筋にかけて、それを締め付けるように分厚い鱗の基部が隆起していく。

  鱗は波打ち、湿り気を帯びながら一枚ずつ皮膚の下からめくれ上がるように出現し、顔を装甲するように覆いはじめる。

  パンッ!!!

  側頭部が爆ぜるように裂けた。

  血をまとう白い骨の螺旋が、頭蓋内から突き破るように隆起していく。

  ねじれた角の基部が、内側からゆっくりと、血肉をかき分けてせり上がっていく。

  パリ……パリパリ……パキィィィィッ!!

  頭頂部が、花弁のように外側へと開く。

  その裂けた中心から、赤黒い脳漿のような塊が、ずるりと膨れあがった。

  その塊の中央に、ひとつの真紅の眼球──第三の目が、開いた。

  「グゥオォォォオオアアアアアアアアアアッッッ!!!!!!」

  衝撃波を伴った咆哮が空間をねじ曲げ、地面に亀裂を走らせる。

  それは、人間という構造が、完全に終了した証。

  姿だけではない。

  魂さえも人の形を留めてはいなかった。

  見るものすべてに、死を告げる、破滅と悦楽のドラゴン。

  その姿は、夜に溶けるほど漆黒。

  だが、その眼だけが、すべてを焼き尽くす、紅蓮。

  ここに生まれた。

  王を喰らい、母を喰らい、人を喰らう悦びを知った、黒焔の竜。

  その名も、もはや不要。

  だが、一つだけ、確かなことがある。

  この世界は、終わる。

  空は消え、祈りは燃え、太陽さえ、その名を呑まれる。

  祝福の名を戴いた王女は、いま、すべてを呪う神となった。

  世界は知る。

  ドラゴンとなった王女の願い──使命を。

  それは、“終焉”

  END