後編

  上野和馬の推察と行動は的確かつ迅速なものであったのは確かだろう。

  しかしながら、彼はあまりにも遅すぎた。

  いや、祭りの日の時点で既に手遅れだったのかもしれない。

  真琴の変貌については、彼が想像し得ない異常なものであり、またその過程についても完全に予想の範疇を超えていたのだった。

  ***

  真琴は三度の食事と、睡眠によって時間感覚だけは失わないよう、細心の注意を払っていた。

  この座敷牢での生活において最も重要なものは何かと考えたとき、真っ先に思いついたのがこの生活リズムの維持である。

  おそらく監視の人間や他の『産女様』の世話もあることから交代の人間は要る筈に違いない。

  その為、規則正しい生活を送ればそれだけ相手に隙を見せることが出来るのではないかと考えたからだ。

  幸いにしてこの『産女様』達のお世話には決まった周期があるようで、毎日3回食事と排泄物の処理を兼ねて世話係がやってくる。

  この3日は区長だが、そのうち別な人間に変わる可能性も高い。

  そうなると必然的に彼らの一日の行動範囲も制限されるだろう、そう真琴は考えた。

  つまりは彼らと友好的に、それとなく話せば自ずとコントロール出来ることもあるはずだと思ったのである。

  区長は少なくとも私の見知った人間だ。真琴と彼の娘の年も近く近所付き合いだってあったのだ。

  だから話くらいは聞いてくれるだろうと思っていた。

  しかし、この身体の事だ。

  動けばたちまち全身に疼くような甘い痺れが走り、とてもじゃないが長時間立って歩くことも出来そうになかった。

  それにその原因である胎の蟲。

  万一外に逃げる事が出来たとして、摘出する事が叶うのだろうか?

  そもそも、和馬にこの身体のことを知られたら、そう思うと気が気ではなかった。

  (和馬は欲しいのかな……私との赤ちゃん)

  あの日、祭りの儀式のとき。他所からやってきた和馬にとっては初めての産女の神事だった。

  興味本位というのも大きかったのだろうが、村の文化に実際に触れてみようという意気込みもあったのかもしれない。

  産女役を担った真琴から赤子を模したモノを手渡した時の和馬の顔を、彼女は反芻するように思い返していた。

  驚きながらも、どこか嬉しそうだったあの表情を。

  和馬はきっと子供が好きなのだろうと真琴は悟っていた。

  和馬は基本的に優しい男だ。

  困っている人がいれば放っておけないし、泣いている子がいたら手を差し伸べてしまう。

  そんな性格をしているからクラスの人気者になっているわけだが、同時に心配で目が離せないところもあって、それが真琴にとって母性本能をくすぐられるというか、なんというか……とにかく愛おしく感じてしまうのも事実だった。

  そんな彼のことだ、もしも真琴が異形の生物を胎内に宿していると知ったら、どんな顔をするだろうか?

  軽蔑するかもしれない、悲しむかもしれない、怒るかもしれない、それでも最後には受け入れてくれるんじゃないかと思う自分もいて、そんな都合のいい妄想をしている自らに虚しさを感じる真琴がいた。

  そんな事を考えていて、ふと気づくと扉の向こう側に気配を感じて顔を上げると、案の定区長が食事を運んできた。

  「調子はどうだい?少しは落ち着いたかな?」

  にこにこと笑うその顔はまさに気の良さそうな善人のそれであり、今この瞬間も拉致監禁に手を染めているとはとても思えない表情だった。

  「……はい、おかげさまで落ち着きました」

  真琴は諦めと従順さを滲ませながら答える。ここで下手に反抗的な態度を取ってもいい事はないと判断したからだ。

  「よかった!ところでなんだけどね、実はきょう君に会わせたい人がいるんだよ」

  会わせたい人、と聞いて一瞬ドキリとするが和馬ではないだろう、冷静に考えてみれば恐らくはこの村の関係者か何かだろうとすぐ思ったので平静を保つことが出来た。

  「へえ、どなたですか?」

  「キミのお腹の中に居る蟲を産んだ人だよ。ああ、ごめん『産女様』だった。ちょっと個人的なところもあるんだけどさ……キミのお祖母さんにあたる人だからね……是非あっておいた方がいいと思うんだ」

  その言葉に真琴は一瞬耳を疑った。

  祖母が産女に選ばれていた事を聞かされた直後に地下に閉じ込められた真琴にとって、それは複雑な衝撃を味わうものだった。

  産女に選ばれた以上、自分と同じような境遇に会わされていた、というのは想像に容易くないが、そのイメージ自体を脳が拒否しているのが一つ。

  二つ目は生きていれば齢80近い筈の祖母が今も生きているということ。

  三つ目は、この胎内に巣食う蟲をついこないだその彼女が産んだという信じがたい事実だ。

  「え……?でも、おばあちゃんはずっと昔に亡くなったって……」

  混乱している様子の真琴を見て、区長は満足そうに頷くと続ける。

  「そうだよねえ、そう聞かされてたよね。貴子さんには庄司さん……君のお爺さんに産まれたばかりの娘さんもいたからねえ。当時の言い訳としては亡くなったって事にした方が都合が良かったんだろうね……」

  区長はうんうんと頷きながら納得しているようだが、真琴の方はまったくもって理解が追いつかない状態だった。

  頭の中は疑問でいっぱいだったが、それを口にしていいものかどうか迷っているうちに、区長は続けた。

  「まあそんなわけでさ、ほんとは産女様をお座敷から出すのは禁じられてるんだけど、真琴ちゃんも今日は元気そうだし、折角だから会ってみてほしいんだよね」

  「……会うだけなら」

  少し間を置いてから承諾した真琴を見て、区長は嬉しそうに笑った。

  またとないチャンスが思いがけないタイミングで来たことは、真琴にとって幸運だったと言えるのだろうか。

  少なくともこの牢屋のある部屋の外の間取りも、なにも分からない真琴には他に選択肢が残されてはいない。

  おそらく区長の独断で会わせてくれるという『私の祖母』。

  つまりは他に監視の人間はいないか、区長が口を効いて人払いも出来ているのかもしれないと言うことだ。

  いずれにせよ、これは千載一遇の好機だと言えた。

  ここは本殿の地下であり、階段を昇って地上に行く経路は必ずある。

  どんなに最低でも脱出経路を、最悪は区長に襲い掛かってでも逃げるしかない。

  (大丈夫……私は強い子……負けない……)

  心の中で唱えるように何度も繰り返して自らを鼓舞しながら、真琴は努めて従順なフリを続けた。

  区長も真琴の態度に感心したような面持ちで、牢屋の扉を開け、出るよう促す。

  真琴はゆっくりと、慎重に一歩ずつ歩を進めた。

  格子戸の外、この部屋の入口の堅牢そうな鉄の扉を開けた先は、まるでアリの巣を思わせるような地下空間だった。

  薄暗くてはっきりとは見えないものの、通路の左右に真琴の部屋と同じような鉄の扉のついた小部屋がいくつも並んでいるようだった。

  中には本当に他の『産女様』がいるのか判別も付かないほど静まり返っていて、余計それが真琴を不安にさせた。

  (みんな寝てるのかな……それとも気を失っているのかな)

  どちらにしても真琴と同じように閉じ込められている事に違いはないのだろう。

  道すがらに確認した出口と思しき大きな扉は中央にひとつだけ。今はまだ逃げようとは思わない方が良いだろう。

  しかし、何故だろうと真琴はこの時ふと思い始めていた。

  その目的の部屋に近づくにつれて、子宮の中の蟲が跳ね回るかのように蠢き始めるのを感じたからだ。

  この時、真琴は否が応でも、この『蟲』を産んだ自分の『祖母』をイメージしてしまうのであった。

  いくら元は美しかった、とは言っても80歳以上の高齢だ。ひび割れたように深く刻まれた皺、生気の感じられない肌色、痩せこけた体躯、そして白髪だらけの髪と、それらがすべて合わさり、老婆の姿を想像するのは当然の事であったのだが、そんな老婆がこの悍ましい蟲を産み続けているという信じがたい現実に胃酸がこみあげてきそうだった。

  妊婦のように膨れた腹から異形の蟲を出産する老婆の姿を想像出来てしまうのは、自分も同じ目に合わされているからに他ならないのだと気づき、思わず吐き気が込み上げてくる。

  だが、それと同時に下腹部から伝わってくる熱と疼きが増長していくような感覚に襲われた。

  気がおかしくなりそうだった。

  きっと、この胎の蟲は実の母に相見えると分かって狂喜しているのだろう。

  真琴は自らの身体を蝕む得体の知れない存在に対して恐怖を感じずにはいられなかった。

  「ほら、ここだよ」

  そう言って区長は足を止めた。

  目の前には他と何ら変わらない扉があった。

  しかし、この扉の先に真琴の祖母がいる。

  出来るだけ、先ほどの最悪の想像が目の前に来る事をあらかじめイメージし、脳がショックを受けないようするのが真琴に出来る最小限にしてもっとも効果のありそうな対抗手段であった。

  (大丈夫、大丈夫……。平常心を保って脱出のタイミングを図らないと……)

  しかし真琴はこの時、不意にずっと幼い頃のひと時を思い返してしまっていた。

  『じいじがいつも持ってるそれ、なあに?』

  幼い真琴は祖父の膝の上で、彼の掌にある物を指して言った。

  祖父は孫の無邪気な質問に笑顔で答えてくれた。

  『これかい?これはね、じいじのお守りなんだよ。ほら、見てごらん』

  祖父の庄司はお守りの紐を解いて中から古びた紙のようなものを取り出して広げて見せた。

  それは、しわくちゃになった一枚の写真のようだった。

  そこには赤ん坊を抱く母親らしき女性と、父親であろう男性の姿があった。二人とも優しそうな笑顔を浮かべている。

  『わあ!きれいなひと!』

  目を輝かせる真琴を見て庄司は言った。

  『そうだろう?これは真琴のおかあさんとお婆ちゃんの写真でね、もうずっとずっと昔のものだよ……』

  思い返せば、祖父の家には祖母の写真は飾っていなかった。仏壇にも遺影はなかった。

  だから、あの時見せてくれた写真で真琴は祖母の顔を初めて見たのだ。

  なぜ今頃になって、こんな事を思い出してしまったのだろう。

  真琴はこの事を、後悔してやまなかった。

  ***

  「さあさ、入って入って」

  区長はそう言って鍵を差して回すと、扉を開けるように促した。

  いよいよだ。

  心臓が高鳴るのが分かる。

  深呼吸をひとつすると、意を決して中に入ることにした。

  「失礼します……」

  鉄製の扉は想像通り重たく、毎日欠かさず開閉されるためだろう、古めかしい割にスムーズに動くのが意外だった。

  薄暗い室内。照明は少ししかない。

  真琴の部屋とほぼ同じレイアウトの室内にはご多聞に漏れず木製の格子が嵌め込まれており、その奥になにかいるようだ。

  「やあ、貴子さん。今日はお客さんを連れて来たんだ」

  区長がそう声をかけると、その『何か』は身を震わすようにもぞもぞと動いた。

  「ああ……あなた、久しぶりねえ……会いたかったわ……私、寂しかったのよ?」

  その声は弱々しく、とても弱々しいがどこか艶っぽく、それでいてどこか寂しげだった。

  薄暗くて良く分からない何かがなんなのか、真琴には皆目見当がつかないものだった。

  ミイラのようにやせ細った老婆がいるかに思えた格子の先には、肌色の艶やかな巨大な肉の塊があるだけだったのだから……。

  いや、よく見るとその物体から大小様々な手足のようなものが何本も生えているのが分かった。

  (なにあれ……あれが私のお祖母さん……?)

  あまりの異形さに絶句するしかなかった。

  そんな真琴をよそに、区長は嬉々として言葉を続ける。

  「紹介するよ……この人は貴子さんの孫娘なんだ。可愛いだろ?」

  肉塊が小さな手足を攀じる様にする度に、巨大な身体のようなモノが揺れるので、なんとなくではあるが生き物である事が分かる。

  そんな不気味な光景を前に真琴は絶句した。

  「……ごめんなさいね、こんな醜い姿じゃ怖がるのも無理ないわ……」

  そんなことを言って笑う彼女の姿はあまりにも悲惨すぎた。

  昔、和馬がシロアリの巣を掘り返して中のキノコについて講釈を垂れていた時に、偶然見つけた女王アリ。

  真っ白く、異常なまでに肥大化した腹部を持ったそれは、生涯子を産み続ける事が出来るのだと彼は目を輝かせて言っていた。

  目の前にいる私の『祖母』にあたるそれはまさに、シロアリの女王を思わせる生き物だった。

  腹部を思わせる部位からは短い無数の肢によって支えられているようだが、なんとかその場で身体の向きを変えるので精いっぱいといった様子であり、まるで昆虫のように極限までくびれた腰は、人のそれではない。

  乳房を思わせる膨らみは巨大で幾つも連なり、先端部分は黒ずみそしてその頂には大きな穴が空いており、そこからはまるで触手の様なものが何十本も突き出ていた。

  そして一番に真琴を愕然とさせたのは、それの頭部ともいうべき箇所だ。

  昆虫そのものだとか、なにもないのっぺらぼうでもあれば真琴はこの目の前にいる怪物が『祖母』ではないと断じていた事だろう。

  だがそれは違った。いや、ある意味もっと酷い有様だった。

  祖父に見せて貰った写真のままの、優しい笑みを浮かべた美しい女性がそこにいたのである。

  しかしその首から下は筆舌に尽くしがたいおぞましいもので埋め尽くされていたのだった。

  「あ……あぁ……うぁ……っ」

  声にならない声が口から漏れる。

  目の前の現実を受け入れることが出来ないまま、それでも何とかしてこの場から逃げ出さなければという使命感に駆られたその時だった。

  (あっ……!?)

  突然訪れた下腹部への激痛にその場にうずくまってしまう。

  「どうしたの!?」

  異変に気付いた区長が心配そうに声をかけるが、返事をする余裕などなかった。

  「うう……ぐぅ……うううぅ……!」

  脂汗が全身から噴き出す。

  子宮の中で蟲が暴れまわっているかのような痛みに耐えきれず、床の上を転げまわる。

  「ああっ大丈夫かい?」

  まるで母を侮辱するなと言わんばかりに、痛みは激しさを増すばかりだった。

  この苦痛から逃れる術を真琴は知らない。

  ただただ、胎児の胎動が収まるのを待つしかないのだ。

  「あなた、もしかしてこの子に……?」

  『祖母』と思しき怪物が区長に問いた。

  「……うん、そうだよ。貴子さんの孫で『産女様』だからね。相性がいいとは思ったんだけど、まさかここまでとは思わなくて……」

  申し訳なさそうに謝る区長に対し、彼女は怒るどころか慈しむような眼差しを真琴に向けらあとこう言った。

  「座敷の中にこの子を運んでくれる?御蟲様も少しは落ち着いてくれると思うから……」

  区長は慌てて鍵を開けると、真琴を抱きかかえて牢屋に運び込んだ。

  その間もずっと、体内の蟲は蠢き続けていたが真琴はされるがままに身を任せるしかなかった。

  (痛い……気持ち悪い……早く……終わって……でもここから逃げないと……)

  朦朧としていく意識の中、真琴はただそれだけを考えていた。

  やがて畳の上に横たえられると、『祖母』らしき人物は優しい声で語りかけてきた。

  「大丈夫、大丈夫よ……。今、楽にしてあげるから……」

  『祖母』がそう言った瞬間、真琴は自分の意識が遠のいて行くのを感じた。

  そして、深い闇の底に沈んでいくかのように、真琴の意識はそこで途切れてしまった。

  ***

  どれくらい眠っていたのだろうか。

  真琴が目を覚ますと、柔らかいものに身体が包まれているのを感じた。

  まるで子供のころ潜り込んで嵌まってしまい危うく死にかけてとんでもなく怒られた押し入れいっぱいの布団だろうか。

  はじめて食べた生クリーム食パンの厚切りだろうか。それとも大好きな家のベッドだろうか。

  もうどれでもいいと思った。このままずっとここで眠っていられるならどれだけ幸せなのだろうと真琴は思った。

  だが、真琴の視界に入ったのは薄暗く湿った座敷牢の天井だった。

  しかし、あそこの布団はここまで柔らかくはないなと思い直す。

  あれはもっと固くてごわごわしていたはずだと思い出す。

  そして同時にここがどこなのか理解したとき、真琴は思わず飛び起きそうになるも、上手く動けない。

  真琴は自分が何の上で寝ていたのかを理解したからだ。

  それはあの『肉塊』であった。

  それはとても柔らかく、瑞々しく、暖かで心地よかった。

  だがそれが逆に気持ち悪くて仕方がなかった。

  嫌悪感のあまり叫びたくなる気持ちをぐっと堪えながら、真琴はなんとか起き上がり辺りを見回す。

  真琴の覚醒に気が付いたのか、『肉塊』はゆっくりと上体を起こすようにして『頭部』が真琴を見下ろすように覗き込んできた。

  顔の部分だけ見れば、とても美しい女性の顔がそこにあった。

  しかし、それ以外の部分を見るとやはり目を背けたくなるような気持ちが込み上げてくる。

  『肉塊』の下半身は、巨大な芋虫の様な太く短い無数の脚を生やし、真琴が転がり落ちないよう支えてくれていたのだ。

  「あら、起きたのね……大丈夫?気分はどうかしら?」

  そう言って『祖母』は優しく真琴の頬を撫でている。

  その、頬を撫でてくれた部位は手とはとても言い難く、前肢とでも表現すべきような形をしていた。

  また、掌と思われる部位にはいくつもの吸盤のようなものがついていて、それが吸い付くように肌に密着してくるので少しくすぐったいのか真琴は思わず身を捩った。

  絶句、としか言えない状況だったが、そんな自分を気遣ってくれているという事実だけは理解出来たので、真琴は『祖母』に感謝を伝えようと思った。

  「ありがとうございます……貴子、さん?」

  真琴は恐る恐るそう尋ねた。

  「ふふ、いいのよ別に……。それよりお腹減ってない?喉渇いてるでしょ?何か食べたいものとかある?何でも言って頂戴ね?」

  そう言って『祖母』は微笑んだ。

  一生見る機会のないと思っていた祖母の笑顔だ。

  その表情に思わず胸が締め付けられるような感覚を覚えたが、真琴は首を横に振った。

  「いえ、大丈夫です……。お腹はもう大丈夫そうだけど……」

  実際空腹を感じることはなかったし、喉も乾いていなかったので嘘ではなかったのだが、それよりも今はこの状況を把握したかったのだ。

  「区長さんは少しだけ外してもらっているからいいわよ。でもまさか、孫のあなたまで産女様にされるなんて思わなかったわ……」

  祖母は少し悲しそうな顔をしてそう呟いた。

  (やっぱりそうなんだ……)

  異形に成り果てたとしても、祖母はまだ自分の事を想っていてくれるのだという安心感があった。

  だから、真琴は意を決して彼女に尋ねることにした。

  「ねえ、おばあちゃん……教えて欲しい事があるの」

  「なあに?」

  「じいじは……おばあちゃんがこうなってること、知ってたの……?」

  真琴の問いに、祖母は少し間を置いてから答えた。

  「……ええ、知っていたわ」

  「じゃあ、なんでこんな目に合っても平気でいられるの……?」

  真琴は震える声で祖母に問う。

  「……あなたのお母さんが産まれてすぐの頃だったわ」

  祖母は遠い目をしながら語り始めた。

  「あなたのお母さんの産んだあと、産後の肥立ちがあまり良くなくてね……長くは生きられないって自分でもわかってたのよ」

  祖母の言葉に、真琴は驚きを隠せなかった。

  「それで、町のお医者様にも言われたのよ。『この子が成人するまでは生きていられないだろう』って……。わたしはそれを聞いて思ったのよ。命を繋いでこの年まで生きる事が出来た、もう心残りはないって」

  そこまで言うと、祖母は再び真琴を見つめた。

  その瞳はどこか寂しげで、それでいて優しさに満ち溢れていたような気がした。

  「でもね、あの人ったら諦めがつかなかったみたい。わたしの為に方々手を尽くしてくれてね、最終的に若い子しかなれない筈の産女様のお役が回ってきた時は泣いて喜んでいたのよ……」

  「けっきょく、あれから二度と会う事は出来なかったけど、あの人はきっと今でもわたし達の事を見守ってくれてると思うわ……。それにね、あの人の種がわたしに今でも遺っているの」

  そう言うと、祖母は愛おしそうに自らの腹を撫でていた。

  真琴は和馬がシロアリの女王を見せてくれた時に言っていた事を思い出していた。

  『女王アリは、生涯一度だけオスと交尾して、精子を貯蔵し長い長い寿命の間子を産み続けることができるんだ』と。

  真琴は、自分の寝かされている腹部の内側で、夥しい量の蠢く何かが脈動しているのを感じた。

  「お母さんを恨まないでね。村で生きていくにはこうするしか無かったんだと思うの」

  そんな話を聞かされて、はいそうですかと言える程真琴の心は強くはなかった。

  (そんなの勝手すぎるよ……!)

  心の中でそう思ったものの、それを口に出すことは出来ずにいた。

  「……わたしみたいなそのままでは生きられなかった人間ならまだしも、あなたのような若い子にこんな酷な役割を背負う必要はないと思うの」

  祖母は悲しげに呟くと、そっと真琴を抱きしめた。

  (あ……)

  彼女に包まれていると不思議と心が安らいだ気がした。

  それはきっと幼い日に母親に抱きしめられた時と同じ感覚だと感じたからだろう。

  そして祖母は、真琴に囁くような小さな声でこう言った。

  「わたしが時間を稼いであげるから、あなたは逃げてちょうだい」

  (え……?)

  その言葉に一瞬戸惑ったが、貴子はさらに言葉を続けた。

  「上への階段はひとつしかないけど、鍵は掛けられていないはずだから……。蟲は暑さや寒さに弱いの、こんな地下でしか生きられないくらいに。だから今のあなたなら助かるかもしれないわ」

  その言葉を聞き、真琴はようやく祖母の意図を察した。

  「いいの?私が逃げたら、おばあさんが……」

  「良いも悪いもないわ、こんな年まで生きながらえて、孫にまで会えたんだから、これ以上望むことなんて無いわよ……わたしは大丈夫だから」

  その言葉を聞いた瞬間、真琴は祖母を抱きしめ返し、泣きじゃくっていた。

  「ごめんなさい……」

  「謝らないで、お願いだから……」

  祖母はそう言って、再び真琴の頭を優しく撫でた。

  しかし、しばらくすると腹部が跳ねるように胎動し、貴子も息を荒げて甘い息を漏らし出す。

  「も…もう、わたしのお産がはじまりっ…そうだから…!」

  苦悶の表情を浮かべる祖母を見て、真琴はうんうんと頷くと、祖母はにっこりと笑顔を作って言った。

  「最後にっ……あなたのお名前を教えてもらえるかしら……?」

  真琴は一瞬迷ったが、祖母の想いに応えるべく口を開いた。

  「私は真琴です。胡桃沢真琴!」

  「とっても素敵ね……」

  祖母は満足そうに微笑むと、真琴をぎゅっと抱きしめる。

  真琴はその温もりを忘れないために、精一杯の力で抱きしめ返した。

  「それじゃあ、さよなら。真琴ちゃん。元気でね」

  「うん……!じゃあね、ばあば……」

  真琴が巨大な腹部から何とか降りると、その末端部分から勢いよく粘液が溢れ出し、辺りに飛び散っていく。

  もう目の前の生き物は祖母だった面影がいっさい消滅してしまったかのように見えた。

  全身をくねらせ、喘ぎ、悶え、恍惚に身を震わせる肉だった。

  「はぁ……んくっ……!!」

  そしてひときわ大きく痙攣すると、ついにその時が来たようだ。

  ぶちゅりと音を立てて、まるで卵巣のように丸く膨らんだ部分が裏返ると、中から無数の蟲が這い出す。

  体液を撒き散らしながら喘ぐその姿はもはや人間ですらなく、ただの淫猥な化物であった。

  それでも、真琴にとっては最愛の祖母であり、大切な存在なのだ。

  だからこそ、彼女は逃げることを選んだ。

  格子戸を抜け、おぼつかない足で鉄の扉を何とかして開ける。

  丁度その横で煙草をふかしていた区長に、必死の演技で訴えることにした。

  「おばあちゃんのお産が始まっちゃったんです!!助けてあげてください!!!」

  区長は、このタイミングでなんて面倒なことが始まったのだろうという顔をしながらも渋々といった様子で頷いた。

  「わ、わかった……。様子を見るよ。真琴ちゃんは部屋に戻っててくれる?」

  なんと無警戒でのんきな男なのだろうかと真琴は思ったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

  「お願いします……私、怖くて……何もできなくて……」

  そう言って真琴は感情を押し出してなんとか涙を流すと、区長は慌てたように真琴に駆け寄ってきた。

  「ああ、泣かないでおくれ……。君は悪くないんだよ、あんな姿になっちゃった以上、仕方のないことだ。辛いだろうが真琴ちゃんもしっかり気を持つんだよ、いいね?」

  区長が鉄扉を開けて祖母の部屋に入っていったのを見届けてから、真琴は地上へ続く階段を登ろうと歩を進めた。

  真琴の身体は幾分かマシになったと言っても、無性に体中が痒くて痒くて仕方がなかった。

  一刻も早く身体中を掻きむしりたい衝動に駆られてしまう、こんなもどかしさを気にしている暇なんて無いはずなのに、そればかりが気になってしまっていた。

  ひと際大きな鋼鉄の黒い扉の前まで辿り着くと、ドアノブに手を掛ける。

  錠前が堅牢な分施錠が面倒だったのだろう、鍵はかかっていないようだった。

  真琴は意を決して扉を開いた。

  暗く、急で長い石畳の階段が上へ上へと続いているのが見える。

  地上の光が見えないことが真琴を不安にさせたが、とにかく進むしかなかった。

  身体は依然として酷く疼いていて、今すぐにでも身体を搔き毟ってしまいたかったが、真琴はそれを必死に堪えて一歩ずつ確実に踏みしめるように歩いていく。

  途中棒のようになった脚のせいで何度か躓き、終いには這うように登る羽目になってしまった。

  真琴は、身体の中から何かが必死に訴えかけているような感覚を覚え、それがどんどん大きくなってゆくのを感じていた。

  それはきっと、地上に出てさえしまえば暑さで蟲が死に絶えもとの体に戻れるからだろう、と真琴は信じてやまなかった。

  しかし、地上に近付くにつれ、何かが違うということに気が付いた。

  確かに暑い、蒸し暑くて汗が滝のように流れ出てくるのがわかる。

  だが、それだけではなかった。

  妙に頭がぼうっとして、身体が火照っているような感覚に襲われるのだ。

  死んでしまう、死んでしまいそうだ。

  真琴は本能的にそう感じた。

  このままではいけない、そう思って真琴は必死になって手足をばたつかせて登り続けた。

  早く、はやく、外へ出なくては。

  そうしないと自分はおかしくなってしまう、そんな確信があったのだ。

  やがて、一筋の光源が見えてきた。

  もうすぐだ、やっと外に出られる。

  ──そう思った瞬間だった。

  薄暗い本殿の中に差し込む光さえ、目が潰れてしまいそうなほど明るいものだと錯覚してしまう程の暗がりの中に居たせいだろうか。

  咄嗟に手で顔を覆おうとした真琴は、自分の目を疑った。

  手が破けていたのだ。

  まるで壊れたセルロース性の人形のように、手の甲が破けていた。

  血は出ていない。痛みもない。

  代わりに浸出液のような液体が流れ出ているだけだった。

  そして、破けた皮の下に覗くものを見た瞬間、真琴は自分の目を抉り出したくなってしまった。

  今、自分の目に映っている光景を到底信じることが出来なかったからだ。

  (何これ……?私の腕ってこんなのだったっけ?)

  キチン質の光沢のあるそれは、人によっては強く忌避感をもたらす昆虫の骨格のような指が覗いていた。

  そして使い古したゴム手袋のように、私の手の皮膚だったものがべちゃりと落ちる。

  「ひっ……」

  あまりのおぞましさに、思わず声が出てしまった。

  だって、これはおかしい。絶対におかしい。

  こんなこと、現実じゃない。

  ばあばだって、まだ助かるかもって言ってたじゃない。

  でも、現にこうして目の前にある。

  そして真琴は思わず項垂れて、床に手を突いてしまったのだった。

  いやに念入りに磨かれた床は、光をよく反射し、真琴を照らした。

  (あれ……?)

  ふと違和感を覚え、床をまじまじと見つめる。

  (これってもしかして……)

  嫌な予感がして、恐る恐る顔に手を触れる。

  案の定、頬の部分が破れているのがわかった。

  「イヤァアアアアアアアアッ!!」

  真琴は絶叫し、頭を抱えた。

  嘘だ、何かの間違いだ。

  そう思いたいのに、鏡を見ずとも分かる。

  私の顔は今、きっと酷いことになっているだろう。

  あの、おぞましい蟲そのものに。

  真琴は本殿から、階段の下から慌てるようにやってくる足音など最早どうでも良かった。

  「ばあば……和馬……。私、もう無理だよ……」

  真琴はその場に崩れ落ち、泣き出してしまっていた。

  もはやその眼から涙すら出ていない事に気付くこともなく。

  ***

  「ほら、真琴ちゃん、食べないと身体にも悪いよ?」

  区長はそう言って食事を差し出してきたが、真琴はとても食べる気にはなれなかった。

  否、食欲など微塵も無いと言えば嘘になるが、それはあくまで生理的な反応であって、食べたいと思わせるものではなかった。

  目の前に置かれた食事を見て、胃がきゅっと縮こまるような感覚がするのを感じた。

  カラダが栄養を欲している事実にすら吐き気が込み上げてくる。

  「……それにほら、その皮?も取った方がいいと思うよ?新しい身体にも良くないと思うし……」

  区長が気まずそうに言うのも無理はなかっただろう。

  彼の視線の先には、文字通りヒトの皮を被った何かが体育座りをするように部屋の隅に蹲っていた。

  真琴はあの後意識を失い、座敷牢へと戻されたのは言うまでもない。

  彼女の皮膚は日増しに剥がれ落ちそうになり、その下には蟲によって造り替えられた新たな上皮が見え隠れしていた。

  まるでトカゲが古い皮を脱ぐように、脱皮しかけているかのような有様だった。

  自分の新しいカラダ。

  それがとんでもなく恐ろしくて、真琴は自分の皮膚だったものを必死に取り繕うように被り、その中身が見えないように、見ないように、誰にも見せないようにしていた。

  「大丈夫……です」

  蚊の鳴くような声で返事をすると、区長は困ったように眉を寄せ、苦々しく言った。

  「……ボクが貴子さんの所に連れて行ったのが良くなかったよね。ごめんね、もっと早く気が付いてあげればこんな事にはならなかったかもしれないのに、大変だよね」

  彼は本当に申し訳なさそうに言うものだから、余計に怒りで脳がどうにかなってしまいそうになる。

  こんな躰にしたのはお前達じゃないかと言いたくとも言えなかった。

  ただ黙って俯くことしか出来なかった。

  「産女様になった人の身体の変化は人それぞれだから……、キミは貴子さんのお孫さんだからああいう見た目になるんじゃないかって村長も顔役のみんなもそう言ってたんだよ!真琴ちゃんが少しでもショックを受けないように、キミ以外にも同じように産女様が居て村の為に、皆の為に務めを果たしているって知って欲しかったのもあっておばあさんに会わせたんだけどね……キミには良くなかったみたいだ。……逃げようとするなんて」

  その言葉を聞いた瞬間、頭に血が上りそうになった。

  逃げようとしたんじゃない!私は元の日常に帰りたかっただけだ!! そんな言葉を吐こうと身体を動かそうとした瞬間、腋のあたりが破れ、黒々とした肢が突き出るように出てきた。

  その時、真琴にとっての『両腕』は依然膝を抱えていた。

  今や真琴の身体は人間の形をしていない。皮膚だったものを脱ぎ去ってその全てを見ることなど恐ろしくて出来なかったが、恐らく胴体や腹部、頭部などは殆ど人間の面影を残していないことだろう。

  真琴はもう自分が自分でなくなってしまったことを痛感せざるを得なかった。

  区長は恐怖のあまりしばらく硬直してしまっていた。そして気がついたのか慌てて鉄の扉へと後ずさる。

  「外に出ようとして暑くて大変だったろう……?キミの身体はもう外の環境じゃ生きていけないんだ!この檻だって、地下だって産女様たちを守るために造られたものだ、それを勝手に抜け出して……どうなるかわかるかい!?」

  区長はまくし立てるようにそう言うと、そのまま真琴の返事を待つことなく走り去っていった。

  真琴は一人取り残され、また再びじっとする事にした。

  瞼はなくなってしまったので、目を閉じるという行為は無くなった。ただし眠ることは出来るようで、自分の皮の下は暗くて何も見えないからなのか、眠気がやってくるようになっていた。

  胡桃沢真琴にとって出来得る最後の抵抗は、餓死することであった。

  今となっては、和馬が助けに来なかったことは幸いだったに違いないと思える。

  もう自分は元の生活に戻ることは叶わないのだから。

  そう思うと、少しだけ心が軽くなって来たような気がした。

  (ばあば……ごめんなさい……)

  祖母が無事であることを祈りながら、真琴は再び眠りにつくことにしたのだった。

  ***

  それからどれくらい時間が経っただろうか。

  扉を叩くやかましい音で真琴は目を覚ました。

  恐らく区長だろう、いつもはノックなんてしない癖にと思いながらも返事をしてやる気にもならなかったのだが、どうやら様子がおかしいことに気が付いた。

  この不気味な身体は、視覚の他に何かを検知するような能力が備わっているようで、真琴には鉄の分厚い扉の向こう側の様子ですら何となく感じ取れるようになっていた。

  扉の外に居るのは間違いなく区長だ。不快な脂と煙草、酒の臭いが漂ってくるのがよくわかる。臭くて不味い、嫌悪感を抱かせるものだ。

  しかし、それとは別に何か別の、腹部が反応するような、ずっと待ち侘びていたような匂いを感じ取ったのだ。

  懐かしい匂いがした気がしたのだ。

  ああ、間違いない。

  これは───。

  「開けるよ、真琴ちゃん。ボーイフレンドの和馬くん連れてきたよ!」

  ──絶望。

  扉が開け放たれようとした瞬間、真琴の心に真っ先に浮かんだのはそれだった。

  和馬はきっと、手を尽くして真琴を助けに来たのだろう。

  それこそ自分の祖父のように。

  区長を騙したのか、はたまた別な手段なのか。

  今となってはすべてが遅い。

  和馬が変わり果てた自分の姿を見られでもしたら最後、きっと恐れて逃げ出してしまうだろうから。

  真琴は心の中で絶叫した。

  助けてほしい、誰か私をここから連れ出してほしいと願わない日はなかった。

  だがそれも叶わない願いだという事くらい分かっていたはずだった。

  それでも尚一縷の望みを捨てきれなかった自分を呪いたかった。

  諦めと共に諦観の念が胸中に去来する。

  真琴は願った。

  どうか、和馬が自分の姿を見て『これは真琴じゃない』と言い切りますように、と。

  (ああ、でもやっぱり……)

  たとえどんな姿になろうとも、もう一度だけ会いたかったなぁ……などと考えてしまう自分が嫌だった。

  (さよなら、和馬)

  そう心のなかで閉じない瞼を閉じようとしたと同時に、彼女の複眼は彼の姿を捉えてしまった。

  ***

  その時の和馬の心の中にあったのは、いたいけな少女をこのような牢獄に閉じ込めている大人たちへの怒りよりも、目の前の光景に対する驚愕の方が大きかった。

  まず最初に感じたものは違和感である。

  目の前にいる少女が自分の知る彼女とはどこか違うように思えたからだ。

  いや、そもそも彼女はこんなに大きかったか? 次に感じたのはその異様さだ。

  元々白かった肌はまるで古びた蝋人形のような質感に変わり、生気を感じさせない。

  暗がりの、さらに部屋の隅に蹲っているものだから常人の和馬にはその姿を正確に捉えることが出来ないでいたのだが、それでも慣れない目にしてみても明らかに異常だと分かった。

  「和馬くん、キミからも真琴ちゃんに何か食べるように言ってくれないか?ここのとこずっと何も食べてないんだよ」

  この異常な空間に慣れきってしまっているのか、さも当然のように振舞うこの中年男の心情を、和馬は図りかねていた。

  「え、ええ……」

  「ほら、真琴ちゃん、彼氏クンが来たよ?なにかお食べよ」

  区長がそう言って格子戸に近づくと、少女は激しく暴れだした。

  「イヤァアアッ!!」

  ノイズのような、クリック音が混じった悲鳴にも似た声が響き渡る。

  「どうしたんだい!?ほら、怖がらなくていいよ、和馬くんもなにか言ってくれないか」

  区長が困惑しながらこちらを見ると、真琴と思しきその少女はより一層大きな声で叫び始めた。

  「イヤァアアッ!!」

  まるで虫のようだと、和馬は思った。

  その声は昆虫が発する鳴き声のようであり、そしてそれは威嚇の際に出す警戒音に似ていることを和馬は知っていた。

  皮膚の色からして真琴は病気ではないか、と和馬は勘ぐっていた。

  実際和馬の暗がりに慣れない目には、今こうして見ているだけでも彼女の身体の至る所が捲れ上がり、痛々しいように見えていた事だろう。

  「区長さん、真琴とふたりきりにさせてくれませんか?」

  和馬がそう提案すると、区長はあからさまに嫌そうな顔をした。

  「いや、それはちょっと……危ないからさ」

  「お願いします」

  「……仕方ないな、五分だけだよ。なにがあってもボクの責任じゃないから、キミがどうしても言って聞かなかった、これでいいね?……いいよね?」

  「ありがとうございます」

  再三の責任逃れと、渋々といった様子で区長は扉の向こうに逃げるようにして去っていった。

  区長としても、真琴の拒食への対応にほとほと困り切っていた、というのが現実だったのだろう。

  「真琴、僕だよ、分かる?」

  和馬が声をかけると、牢屋の隅で縮こまっていた真琴がビクッと身体を震わせた。

  「……近寄らないで。このまま帰って、二度と来ないで……お願いだから」

  今にも消え入りそうな声でそう懇願する彼女を見て、和馬は確信した。やはりこの娘は自分の知っている少女なんだと。

  ならば、やることはひとつしかない。

  「ごめん、真琴。それは聞けないお願いだね」

  和馬はそれだけ言うと、格子戸の閂を引き抜き、中へと入っていった。

  「イヤッ!やめてっ!出てってよっ!!!」

  拒絶の言葉を無視し、和馬は少女の目の前まで近づいた。

  「どうして来たのよ……!もう私なんか放っておいてよ……!」

  喚く彼女に構わず、和馬は着ていた上着を脱ぐと、そっと被せた。

  「裸じゃないか、風邪引くよ」

  すると、先程までヒステリックになっていた彼女がぴたりと大人しくなったのがわかった。

  「少しは温かい?」

  そう言ってリュックの中から菓子パンやペットボトルを取り出していくと、彼女は恐る恐ると言った風に手を伸ばしてきた。

  ぼろきれのような皮膚だった。あきらかに重篤な皮膚病を患っているように見える。

  この期間、一切の飲食をしていなかったにしても酷すぎる状態である事は明白だった。

  こんな状態で放置されていたらいつ死んでしまってもおかしくはない。

  むしろ生きている方が不思議なくらいだと和馬は考えていた。

  最初はおずおずとしていたが、やがて貪るようにそれらを口にし始めた様子を見て、和馬の疑念は確信に変わった。

  生気の感じられない皮膚の下に何か艶やかな表皮のようなものが見えたのだ。

  「真琴、君は……その……」

  言い淀む和馬に、真琴は俯くばかりで何も言わなかった。

  ただ、その沈黙こそが肯定を意味しているということは間違いなかった。

  「……僕は君の味方だ。君がどんな姿になっても、どんな事情があったとしても、僕は君を見捨てたりなんてしないからね」

  その言葉を聞くと、真琴の洞のようになった眼窩の奥にある何かが微かに光ったように見えた。

  真琴は和馬の肌着を掴むと、震える声で言った。

  「和馬……助けて……怖いよ……和馬ぁ……」

  涙こそ流れなていなかったが、その声は紛れもなく泣いていた。

  和馬は彼女を安心させるように、力強く頷いて見せた。

  「うん、大丈夫……大丈夫だから。区長さんも今は僕が味方だと信じきっているけど、きっと君を外に連れ出すから。それまでふたりで頑張ろう」

  その言葉を聞いた瞬間、真琴は堰を切ったように泣き出した。

  キリキリと顎を鳴らし、肩を震わせるその姿はとても弱々しく、普段の強気な態度からは想像もできないほどであった。

  ひとしきり泣いた後、真琴はようやく落ち着きを取り戻したようだった。

  「ねえ、和馬、わたし外に出たら死んじゃうんだって。少し前になんとか上まで登って行った時にくるしくなって……たおれてたら急に身体が変になって、そそしたらどんどん動けなくなっ、ていって……そ…れで……」

  真琴が全身をカタカタと奇妙な音を立て始めるのを見て、和馬は慌てた。

  骨をかち合わせるような奇怪な音。人体が出して良いものではない。

  真琴の身体は一向に元に戻る気配を見せず、それどころか益々変貌を遂げようとしていた。

  いや、正確には既に変貌しきった肉体が、正体を現そうとしているのだ。

  「真琴!しっかりして!」

  和馬は咄嗟に肩を掴み揺さぶるが、それでどうなるというものでもない。和馬の手の感触にあったのは、ゴムのような皮膚の不快な手触りと、その下の、硬く滑らかな感触であった。

  和馬は思わず全身が粟立った。

  それはまるでゴム人形のポーズを固定する骨格が入っているかのような、人間の形をした何かであったのだ。

  それが真琴の皮膚だったものの下で明確に動いていた。

  それはまさに昆虫のそれであり、気味の悪い振動を繰り返しているのだった。

  「ああ……ああぁ……かはっ」

  顎を鳴らす音と喉から絞り出される声ともつかない音の羅列だけが彼女の口から発せられていた。

  ただただ自分の身体が変わっていく恐怖に耐えかねて、言葉にならない嗚咽を漏らすしかなかったのだから。

  しかし、その変化は突然だった。

  今まで絶えず続いていた、関節の軋みが収まったかと思うと、真琴の身体全体が弛緩したのだった。

  そして、再び痙攣が始まった。

  しかし今度は今までのそれとは違った。

  まるで蛹が羽化するように、皮の下から新しい身体が現れようとしていた。

  和馬は思わず尻もちをつき、その光景を見守ることしか出来なかった。

  ──そして、ついにその時が訪れた。

  真琴だったものがびりびりと破れて、中から別の生き物が現れたのである。

  昆虫の変態のように、脱皮したその生物は和馬の知る胡桃沢真琴より一回りか二回りほど大きいが、その姿形はヒトからかけ離れていた。

  肩から生えた2対の脚部は、五本の指を有しているが先端に鋭い爪を備えており、昆虫のように折り畳まれている。

  腰部は極端に縊れ、雀蜂を思わせる異常に肥大化した腹部を持っていた。

  また背中からは一対の翅が生えていることが見て取れる。

  キチン質を思わせる堅牢な外骨格で覆われた全身とは裏腹に、その胸部には、性別の違いを如実に表す膨らみがあった。

  新鮮な果実を思わせる膨らみが幾重にも連なり、全身の呼吸と共に伸縮している。

  和馬が、以前の無防備な真琴の胸元から覗く乳房に無意識的に視線を送っていた時、彼女はいつもそれを咎めるように和馬の目を手で覆い隠したものだ。

  その時の光景が脳裏に蘇り、和馬は咄嗟に頭を振った。

  和馬は、そこからどうしても見ないようにしていた箇所へ視線をゆっくり上げていく。

  頸部は陶磁器の花器を彷彿させるかのように細長く、頭部からは毛髪を思わせる真っ黒な毛と、額からは二本の触覚が伸びていた。

  そして、その顔には見覚えがあった。

  いや、見間違えるわけがない。その顔はまさしく和馬が恋焦がれていた、少女そのものだったのだ。

  そして、瞼のない複眼の中にある黒い瞳が和馬を捉えている。

  「まこ……と……?」

  そう呼びかけるも、返事はない。代わりに返ってきたものは、彼女の口から発せられた荒い噴気音だった。

  全身をカチカチと鳴らし、大きな羽を震わせ、威嚇するかのような姿勢でこちらを見下ろしている。

  (そんな……)

  あまりに突然の事態に思考が追いつかず、和馬は呆然とその様子を眺めることしかできなかった。

  そんな様子を知ってか知らずか、目の前の少女はゆっくりと距離を詰めてきた。

  体重は元と変わらないのだろう、足音は殆ど聞こえない。だが、一歩進む度に地面が揺れ動くような錯覚を覚えた。

  「真琴、僕のことわかる?僕だよ、和馬だよ」

  『真琴』は何も答えない。ただ、じっと和馬を見つめているだけだった。

  「ねえ、なにか言ってよ、真琴」

  『胡桃沢真琴』は、この数日自らに植え込まれた強烈な本能と戦っていた。

  脳を蝕む、抗い難い衝動を抑えながら、必死で自分を保っていた。

  そうしなければ、自分はこの醜い怪物の姿のまま、一生を過ごすのだろうから。

  自分が自分でなくなってしまう。

  それだけは絶対に避けなければならない。

  だから、彼女は耐えていた。

  自分の中の『何か』と、必死に闘っていた。

  「お願いだから、真琴、答えてよ……」

  悲痛な声で和馬は訴えかけるが、『何か』は聞く耳を持たない。

  それどころか、和馬が自分を認識したことで、より一層その存在感を増していった。

  『何か』は本能そのものだった。

  人間の三大欲求は食欲睡眠欲性欲だが、目を瞑ることの出来ないこの体には睡眠欲はないに等しい。

  あるのは食欲と性欲だった。

  『胡桃沢真琴』は食欲を決死の覚悟で耐え忍んだ。

  性欲は、ここに来たオスがみな生殖に不向きな年老いた臭い個体だけだったので『何か』もそれを拒んだ。

  そこに来たのが、上野和馬だった。

  彼のフェロモンを受容体で感じたとき、『何か』は直感的に彼が欲しいと思った。

  いや、彼以外のオスなど考えられなかった。

  また、『胡桃沢真琴』も上野和馬を求めていた。

  だからこそ、真琴の身体は遂に本能に抗えなくなってしまったのだ。

  「真琴!真琴っ!!」

  和馬は、何度も呼びかけ続けた。

  もう何度目だろうか、わからないくらいには繰り返していたが、それでも諦めるわけにはいかなかった。

  扉の外の区長もこの声が聞こえないわけもなかったが、止める勇気も、悍ましい惨状を目にする度胸もないことを本能で知っていた。

  この現状を止めるものは、何一つなかったのだ。

  「真琴ぉっ!!!」

  その声に反応したのか、それとも和馬の声に反応したのかはわからないが、ついに『何か』は動いた。

  二対の前肢で和馬の肩と腕を掴み、布団の上に仰向けに押し倒したのだ。

  そのまま覆い被さるように跨ると、『何か』はその顎を大きく開いた。

  脊椎動物の顎が縦に割れているのは進化の過程で獲得したものであり、節足動物とは異なる。

  真琴の顔には変わらず唇が存在していたが、開かれたそこは横に大きく広がり、さながら昆虫の顎を思わせる形状をしていた。

  その奥からはぬらぬらと長い舌が蠢き、獲物を求めて彷徨っているかのようだった。

  和馬は、これから何が起こるかを本能的に察知した。

  それは間違いなく、捕食行為だ。

  捕食者である『何か』にとって、和馬は単なる餌に過ぎないのだ。

  和馬は必死になって抵抗したが、依然両肩をがっちりと掴まれていて身動きが取れない。

  そうこうしているうちに『何か』の顔が近づいてきて、生暖かい吐息が顔にかかる。

  舌の先から滴る唾液が顔に垂れ落ちてきても、顔を背けることすらできなかった。

  それは、恐怖のせいではなかったと言えば嘘になるだろう。

  刹那、彼はこの少女から羽化して出てきた生命体を美しいとすら感じていた。

  白く艶のある羽は、透き通るような透明感があり、とても柔らかそうで。

  全身を包む黒光りする甲殻もまた、美しさを感じさせる要素の一つだった。

  特に、彼女の瞳を見た時、和馬は確信した。

  ああ、やはりこれは僕の知る真琴に違いないと。

  彼女が僕を喰らうというのなら、それも良いだろう。

  どうせ死ぬのなら、彼女の栄養に成り果てた方が幸せかもしれない。

  そんな風にさえ思っていたのだ。

  しかし、その瞬間が訪れることはなかった。

  『何か』の口吻が触れる寸前、急に動きを止めたのだ。

  「どうしたの……?真琴?」

  和馬が声を掛けるが、反応がない。

  『何か』は和馬の顔をじっと見つめたまま、固まっていた。

  そうして暫くしたあと、開いた顎ではうまく発声が出来ないのだろう、口から空気を噴き出すような音を出し始めた。

  その音はまるで笛の音のようで、どこか寂しげな音色を奏でているように感じられた。

  それが何度か繰り返された後、ようやく意味を持った言葉を発したのだった。

  「かず……ま……」

  それを聞いた瞬間、和馬は涙を流した。

  あの声だ。あの声なのだ! もう二度と聞けないと思っていた声が今こうして聞こえることに、感動を覚えずにはいられなかった。

  思わず彼女を抱き締めようと手を伸ばす。すると彼女はそれに応じるかのように身体を預けてきたのだった。

  二人はお互いの存在を確かめ合うかのように抱き合ったまま動かない。

  まるで時間が止まってしまったかのようだ。

  そんな中で『何か』──いや真琴は言った。

  「……なんで逃げなかったの……?わたし、もう人間じゃないんだよ?こんな姿になって、和馬に酷いことしようとしたのに」

  和馬は優しく答える。

  「君がどんな姿でも関係ないよ。僕は真琴が好きだ」

  その言葉に、真琴は嗚咽を漏らした。

  今までずっと我慢してきたのだろう感情が堰を切ったように溢れ出したのだ。

  真琴は涙ながらに謝罪の言葉を述べた。

  「ごめんなさい……ごめんね……ごめんねぇ……!」

  そう言って嗚咽を漏らす真琴を、和馬はただ黙って抱きしめ続けることしかできなかった。

  それからしばらく経って落ち着いた頃を見計らい、和馬が口を開く。

  「僕の方こそ遅くなってごめん……助けに来るのがこんなに遅くなっちゃった……本当にごめん」

  そう謝ると、真琴は再び大声をあげて泣いた。

  今度は悲しみではなく嬉しさによるものだということはすぐにわかった。

  和馬はその細い背中をぽんぽんと叩いてやりながら、あやすように言い聞かせる。

  「大丈夫、大丈夫だからね。安心して、僕がついてるから」

  背中の大きな羽が震えていて、今にも飛び立ちそうだったが、今の彼女なら飛翔すら可能だろうと和馬には思えた。

  ひとしきり声を上げて気持ちが落ち着いたのだろう、真琴はぽつりぽつりと話し始めた。

  「私、怖かった。自分が自分でなくなっちゃうみたいで、すごく怖くて、それで……和馬のこと考えたら我慢できなくなって……そしたらいつの間にかこんなことに……」

  「そうなんだね、真琴らしいや」

  和馬は真琴を抱きしめながら、優しく囁いた。

  「うん……でも、もう平気だよ。ありがとう和馬。来てくれて嬉しい」

  そして二人は見つめ合う。

  真琴の左右に開いた顎はカチカチと音を鳴らし、その音は徐々に大きくなっていく。

  「キス、したい……」

  [uploadedimage:16202769]

  割れた大顎の中心から舌が伸びて来て、和馬の唇を舐める。

  そんな真琴の様子に戸惑いながらも、和馬はそれを受け入れた。

  初めは遠慮がちに舐めていた舌が段々と激しさを増していき、やがて口内へと侵入してくる。

  それを迎え入れるように舌を絡ませると、粘液のようなものが絡みつく感触が伝わってきた。

  (甘い……)

  その味は蜂蜜のような甘みを帯びており、それでいて酸味のようなものを感じた。

  昆虫は肺で呼吸をしない。

  真琴は身体じゅうの気門から酸素を取り込めているのか息切れなどせずに舌を絡めてくるのだろう。

  数馬はそんなことを考えながらも夢中で貪っているうちに、いつしか二人の体は密着していた。

  和馬は両腕を背中に回し、ぎゅっと抱きしめる。

  それに応えるように、真琴も両腕を伸ばして彼の首に回すと、そのまま体重を預けてきた。押し倒される形で布団の上に横になった二人だったが、それでもなお接吻を続ける。

  最初はされるがままだった和馬だが、次第に自分から求めるようになっていた。

  相手の唾液を飲み込む度に身体が熱くなり、頭がぼうっとしてくるような感覚に襲われる。

  時折漏れる噴気音すらやけに艶めかしく感じられ、もっと聞きたいと思ってしまうほどだった。

  やがて真琴が和馬の息苦しさに気付いたのか、限界を迎えるまで続けられた口付けが終わり、二人の間に銀色の橋がかかる。

  息も絶え絶えな和馬に対して、真琴は身体を小刻みに揺らしながら顎を動かし、口器を整えているようだった。

  その姿はあまりにも淫靡で、和馬はごくりと唾を飲み込んだ。

  彼のそんな姿を一瞥すると真琴は不機嫌そうに言った。

  「ねえ、もしかして私のこのカラダに興奮した?」

  図星だったため何も言い返せずにいると、真琴はさらに追い打ちをかけるように言った。

  「昔から変なやつだって思ってたけどさ、まさかここまでだったとはね……今まで乗ってこないわけだわ……」

  「え……?」

  どういう意味かと聞き返そうとしたが、その前に答えを聞くことが出来た。

  「まあいいや……そんなことより、触ってみたいでしょ?男の子なんだからさ」

  その言葉を聞いた瞬間、和馬の顔が真っ赤に染まったのがわかった。

  それを見てギチギチと顎を鳴らすと、真琴はゆっくり後ろに倒れた。

  「いいよ、好きにして」

  そう言いながら仰向けになる彼女の姿に、和馬は釘付けになっていた。

  まず目に飛び込んできたのはその大きな胸だ。仰向けになって尚存在感を主張する二つの膨らみを見て、彼は生唾を飲んだ。

  いやらしく揺れるそれは、見ているだけで股間が熱くなるほどの興奮を覚えた。

  胸筋か肺なのかは分からないがその先端にある突起物も気になるところだ。

  そこから視線を下にずらすと、腹部を覆う外骨格が見えた。

  黒く光沢のある殻に包まれたお腹は、鍛え上げられた腹筋のように割れていて、そこにうっすらと見える縦線状の溝からは呼吸音が聞こえてくるようだった。

  さらに下に視線をやると、そこには二本の脚があった。

  細いくも流線形を象っていて、昆虫の持つそれを彷彿とさせるフォルムをしている。

  腰回りにも毛が生えているが、どちらかというと産毛に近いようで細く柔らかい印象を受ける。

  そして括れきった節の先には大きな腹部が鎮座しており、脈動するように動いているのがわかる。

  それら全てが合わさり、なんともいえない色気を漂わせているように思えた。

  (ああ……なんて綺麗なんだろう……)

  和馬はその姿に見惚れてしまっていた。

  まるで美術品を眺めているかのような気分だった。

  しかしそれも長くは続かなかった。

  「きゃっ!?」

  真琴が驚いて顔を上げると、和馬の手が伸びてきて乳房に触れたところだった。

  そのまま感触を確かめるようにゆっくりと揉んでいくと、掌の中で形を変えるたびにむにゅりと形を変えていくのが分かった。

  (すごい……これが女の子の胸なんだ……)

  初めて触れる異性の胸に、和馬は感動すら覚えていた。

  「……そんなに元の私の胸に魅力がなかったってわけ?」

  少し拗ねたように言う真琴に対し慌てて弁解する。

  「違うよ!そうじゃないんだ!ただ、なんていうか……綺麗だったからつい見とれちゃって……」

  その言葉に満足したのか、真琴は再び前を向いたのでそのまま愛撫を再開することにした。

  乳首はないけれど、乳輪を思わせる名残はあるんだなと思いながら指先でなぞったりつまんだりしていると、次第に硬くなっていきツンと尖ったものに変わっていくのを感じた。

  それと同時に彼女の口から艶っぽい声が漏れ始める。

  「んっ♡あっ♡」

  それに合わせて指の動きも激しくなると、より一層艶っぽさが増したような気がした。

  ふと見ると、羽がピクピク痙攣しているように見えるのだが気のせいだろうか? そんなことを考えているうちにまた一つ変化が訪れたようだ。

  彼女の腹部が大きく盛り上がり始め、もぞもぞと蠢き始めたのである。

  その様子を見ているとなんだかいけないことをしているような気がしてきて、ドキドキしてしまう。

  「…下の胸にも触っていい?」

  そう聞くと彼女は恥ずかしそうにしながらも小さく頷いてくれた。

  大きな胸部の下に連なる小ぶりなそれに手を伸ばしそっと掴むと、ビクンッと震えた気がした。どうやら大きい方より敏感らしい。

  今度は先程よりも強く握るようにして揉んでみると、彼女の口から悲鳴にも似た嬌声が上がった。

  「ひゃうっ!?だめぇっ‼」

  同時に背中の翅が激しく動き出し、ブゥンという低い音が響き渡る。

  「ごっごめんね……!痛かったよね?」

  慌てて手を離すと彼女は首を横に振った後こう続けた。

  「ちがっ……♡きもちよすぎておかしくなりそう♡♡」

  その言葉に安堵しつつ再び手を伸ばすと今度は優しく撫でるように触れてみる。

  真琴の口からは吐息混じりの声が洩れたが嫌がる素振りはなかった。むしろ喜んでいるようにも見える。

  今度は親指を使って押し潰すようにしてみたり爪を立てて引っ掻いてみたりしていると、その度に反応を示すものだから面白くなってくるというものだ。

  暫く続けているうちに彼女がもじもじし始めたのでどうしたのかと尋ねると、顔を真っ赤にして答えた。

  「あの……お腹の方なんだけど……さっきからムズムズしてるっていうか……」

  そう言われて下腹部に目を落とすと確かに何かが出ようとしているかのように膨らんでいるように見えた。

  硬そうなキチン質を割くように横に走った割れ目から顔を覗かせているのは交接器なのだろう、真琴の脚の間には何もなかった。

  「……触わるよ、真琴。嫌なら言ってね」

  そう言って裂け目に手を伸ばすと、そこは既にしっとりと濡れており蜜のような液体が溢れ出していた。

  ぬちゃりという音を立てて指が沈み込むと、それだけで真琴の身体が大きく跳ねた。

  「ンッ♡ああっ♡♡」

  交接器に指を入れると温かくヌルついた粘膜に迎え入れられる。

  指を曲げたり伸ばしたりする度に甘い声を上げ、腹部をくねらせる姿はとても官能的に見えた。

  膣壁を擦り上げる度にビクビク震え上がる様子はまるで生き物のようでもあり、その動きに合わせて収縮を繰り返しているのが分かるほどだった。

  顎を擦り合わせて身を震わせる真琴の呼吸が次第に荒くなり、声も大きくなってくるにつれて和馬の興奮も高まっていった。

  もう我慢できないとばかりに身を起こした真琴の腕が和馬の肩を抑え、押し倒す。

  仰向けに転がった彼に跨るような姿勢になると、もう一対の腕が器用に和馬のズボンを脱がせにかかる。

  そこでようやく我に返った彼が抗議しようとするも、それを遮るように真琴は言った。

  「もう無理……我慢できない……!」

  そう叫ぶや否や、彼の下着をずり下ろして屹立したモノが姿を現す。

  腰を高く上げ、肥大化した腹部はまるで何かを探るかのようにゆらゆら揺れているように見える。

  その様子を食い入るように見つめているうちに、それが自分の股間へと狙いを定めて移動していることに気付いてしまった時にはもう遅かった。

  ずぶずぶっと音を立てて挿入されていく感覚に思わず声が出てしまう。

  「くっ……!ああぁ!」

  熱い肉襞に包まれるような感覚に襲われて腰が砕けそうになるほど気持ちが良かった。

  真琴はそのまま上下に激しくピストン運動を始めると、結合部からは泡立った粘液が流れ出してきた。

  じゅぷっぐちゅっという卑猥な水音が鳴り響き、その音すらも快感へと変換されてしまう始末だった。

  子宮口と思われる部位に亀頭の先端が当たる度、ビリビリとした電流のようなものが全身に走るような錯覚を覚えるほどに強烈な刺激だった。

  「はぁーっ♡すごぉいっ♡♡こんなのはじめてだよぉっ♡♡♡」

  真琴の見た事のない蕩けきった表情と相まって頭がどうにかなってしまいそうだった。

  和馬は無意識のうちに腰を動かしていたようで、そのことに気付いた真琴はさらに動きを加速させる。

  光沢を帯びた黒い甲殻に覆われた腕が和馬の頭を抱き寄せ、豊満な胸が顔に押し付けられる形になる。

  谷間からは雌の匂いが漂ってきて鼻腔を刺激すると同時に脳髄まで溶かされてしまいそうな感覚に襲われた。

  真琴は腹部の内側で卵巣から卵子が大量に放出されるのを感じ取りながら、腰の動きを早めていった。

  「あああああああぁあ‼」

  絶叫と共に一際強い締め付けを受け、耐えきれなくなった和馬が果てるとほぼ同時に真琴もまた絶頂を迎えたようだ。

  びゅくびゅくと脈打ちながら吐き出される精液を飲み干さんばかりの勢いで膣内が激しく伸縮を繰り返す。

  最後の一滴までも搾り取ろうとするようなその動きによって、尿道に残った分まで残らず吸い尽くされてしまったかのようだった。

  ずるりと引き抜かれた後も名残惜しそうにヒクつくそこからどろりと白濁液が流れ出るのを見てしまい、和馬は恥ずかしさのあまり顔を背けてしまった。

  そんな様子を見ていた真琴だったが、やがて思い出したかのようにこう言ったのだった。

  「……ねえ、キスしよっか」

  断る理由もなく唇を重ね合わせる二人であったが、すぐに真琴の顎が開いて舌が伸びてくる。

  それに応えるように和馬も舌を絡めてやると嬉しそうに顎を鳴らす音が聞こえた気がした。

  ***

  それより20日もすれば真琴の大きな腹部はより大きく、膨らんでいた。

  まるで臨月を迎えた妊婦のようだと思ったものの口にはしなかった。

  彼女が一番良く分かっているのだろう。そろそろ産まれるのだということを。

  和馬が産女様の世話役にすんなり選ばれた理由はただ一つ、若かったからだ。

  それほどに地下への行き来は足腰の弱い老人や肥満の膝には苛酷であった。

  結局のところは、だれもやりたがらない仕事を押し付けられただけに過ぎないのだが、それでもこうして世話役に選ばれたことは和馬にとって幸運だった。

  真琴の部屋にロガーを設置し、周辺環境のデータを詳しく収集することも出来たのだから。

  このデータを元にして真琴の負担を減らすことも出来るだろうと考えていた矢先の出来事である。

  それは唐突に訪れたのだ。

  真琴の腹部が激しく蠢きだし、苦悶とも喘ぎともつかない声が上がる。

  「ぐっ……!ううぅううぅぅううう!!!!」

  交接器が大きく広がり、出口が降りてくるのが見えた。

  (いよいよか……!)

  和馬は固唾を飲んで見守っていた。そしてついにその時が訪れる。

  「ひっぎぃいぃぃいいぃっ!!??」

  茶色い光沢のあるものが飛び出したかと思うと、続けていくつもそれが出てくるのが見えた。

  それらは空中で弧を描きながら床に落下していくと、ビチャッという音を立てて潰れていく。

  ガマ口のようにも見えるそれは、卵鞘と呼ばれる形態に近しいものであった。

  真琴の子宮から溢れ出すようにして次々と生まれ落ちる卵鞘の数は10個を超えようとしていた。

  そして最後にひときわ大きなものが出てくると、産卵は終わったようだった。

  肩で息をする真琴の表情は疲労の色が濃く出ていたが、どこか恍惚としているようにも見える。

  「お疲れ様、真琴。頑張ったね」

  労うように声をかけると彼女は照れ臭そうに笑った後、こう続けた。

  「ありがと……身体がまた我慢できそうにないからさ……もう一回お願いできるかな……?」

  その言葉に頷くと二人は再び身体を重ね合った。

  ***

  季節が移ろいで、その日はつよい雨がふっていた。

  待ちに待った時だった。

  とうとうこの時が来たのである。

  真琴のお腹はまた大きくなっていたが、この期を逃す手立てはない。

  閂を外して、扉を開ける。

  彼女に手を伸ばすと、硬いけど温かい手が握り返してきた。

  「行こう、真琴」

  そう声を掛けると彼女もこくりと頷いた。

  「うん、よろしくね……」

  その言葉を合図に、彼女の手を引いて歩き出す。

  ここを去る前に、寄らなければ行けない場所があった。

  鉄の扉のひとつを開けて、中に入ろうとした途端、真琴の足が止まった。

  「……どうしたの?早く入ろうよ」

  和馬が促すも動こうとしない。それどころか、怯えているようにも見える。

  「大丈夫だって、ほら行くよ」

  そう言って彼女の手を引っ張るようにして中に入ると、そこには大きな肉の塊があった。

  来客に気が付いたのか、身を捩ると真琴にとっては懐かしくも感じる顔と目が合う。

  その女性は、少しショックを受けたような顔をした後で口を開いた。

  「久しぶりね、真琴ちゃん。……元気そうで何よりだわ」

  その声は優しいもので、心から歓迎してくれていることが伝わってきた。

  だがその表情には翳りが見えるような気がしてならなかった。

  その理由はすぐに分かった。何故なら真琴も同じ気持ちだったからだ。

  「ごめんなさいね……期待させるような事を言って、酷な目に会わせて、本当にごめんなさい……謝って許されることじゃないけど、でもどうか謝らせてほしいわ……」

  そう言うと深々と頭を垂れる姿に、罪悪感を覚えずにはいられなかった。

  この人にも、自分と同じように苦しみを与えたという事実がある以上、責めることなど出来ないからだ。

  だからせめて、自分が今できることをしてあげようと思った。

  真琴は歩み寄るとその身体をぎゅっと抱き締めた。その瞬間、温もりを感じて感情がこぼれそうになったがぐっと堪える。

  「ううん、気にしないでばあば。……私、外に出ることにしたよ」

  その言葉を聞くと、老婆の表情が明るくなるのが分かった。

  しかしそれも束の間のことで、すぐに暗い表情に戻ってしまう。

  「……そう、なのね……。元気でね、幸せになってちょうだいね……。後の事はどうにかするから……任せて頂戴」

  それに深く頷いて踵を返して立ち去ろうとする真琴に背後から声が掛かる。

  「最後に、お腹の子を見せて欲しいの……いいかしら?」

  振り返ると今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ていたものだから断れなかった。

  「……いいよ」

  大きく膨らんだ腹部を祖母に見せると、恐る恐る手を伸ばして触れてきた。

  その手つきはとても優しく、慈しみを感じるものだったので悪い気はしなかった。

  しばらく撫でた後に満足したのか手を離すと今度は質問を投げかけてくる。

  「うん、うん、やっぱりそうなのね……この子は……。ねえ、この子の名前を教えてもらってもいいかしら?」

  それは真琴にとっても、産女にとってもおかしな質問であった。

  彼女たちは首を横に振る。

  祖母は、そうね、と言って目を伏せたあと静かに言った。

  「名前をつけてあげなさい、あなたが付けてあげるのが一番いいと思うのよ」

  そう言われたものの、どうしたものか悩んでしまう。

  そもそも人の名前を考えたことなど一度もないからだ。

  暫く悩んだ末に一つの名前を思いついた。

  それを祖母の耳元で口にすると、彼女はとても嬉しそうな表情を浮かべたのだった。

  ***

  揺れる車中に、酷い雨で視界も最悪な中、山道を一台の車が走っていた。

  運転しているのは和馬だ。

  助手席にはシートベルトを締めた真琴の姿がある。

  車の中だというのにレインコートを羽織って寒さをしのいでいるようだ。

  「ねえ、さっきの名前の話だけど……貴子さんになんて答えたの?」

  和馬の問いかけに、真琴は答えなかった。代わりに質問で返す。

  「私たち、苗字とか変えた方がよかったりするのかな……?」

  それを聞いて和馬は吹き出してしまった。どうやら不安だったらしい。

  その様子を見て、馬鹿にされたのかと思った真琴はムッとするが和馬は弁明するようにこう言った。

  「ごめん、違うんだ。ただちょっと嬉しかっただけだよ」

  「……嬉しい?」

  首を傾げて不思議そうな顔をする彼女に微笑みかけながら答える。

  「僕たち、ようやく家族になれるんじゃないのかなって。そう思ったら嬉しくなったんだよ」

  そう言われて照れる真琴だったが、確かにその通りだと思った。

  「そうだね、私もそう思うよ。この子もきっと一緒」

  腹部をさする仕草をして微笑む彼女を横目で見ながら、思いつく限りのアイデアを出す。

  「山っぽいのは嫌だから……なんだろう。水、海、魚……そうだ!『佐波江(さばえ)』!」

  それを聞いた真琴は少し考えてからこう返した。

  「うーん、もうちょっとマシな苗字がいいんだけど……まあいいや」

  不満げな様子ではあったが了承してくれたようでほっとする和馬だった。

  「じゃあ、名前教えてくれる?」

  その言葉に頷き、真琴は自分のお腹に向かって話しかけた。

  「あのね、これからあなたのお名前を教えてあげるからね……聞いていてね」

  それから少しの間沈黙が流れたが、やがてその名前を口にした。

  「……私のお腹の中に居るあなたは……」

  とくんとくん、と脈打つように胎動する命を感じながら、その名を告げるべく口を開く。

  ──『佐波江麗』だよ。

  おわり