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こころはる 第十五話

  「テスト期間に入る前までには各クラス出し物の希望を提出して――」

  季節は新緑を通り抜ける風が少し汗ばんだ体に心地よく感じる頃、眼前には期末テスト期間――そしてその先には高校最初の夏休みが迫っていた。

  俺が所属する文化祭実行委員も夏休み明けの文化祭に向けて本格的に活動が始まり、今まさにミーティングの最中だ。話の内容は概ね、文実が各クラスを仕切って文化祭の準備を進めていくんだ、って感じ。

  ……そんな風にだいたいの内容は理解できてるんだけど、前で話してる委員長の話があんまり頭に入ってこない。話に集中しようと思っても、数分もすれば意識がどこか違う方向に行っちゃうっていうか。

  こうして、ふとした時にぼんやりとしてしまうのは今に始まったことじゃない。原因は分かってる。最近……俺のルームメイトが、なぜだか俺のことを避けてくるから。

  本当にどうしたんだよ、晴。俺……何かしちゃったのかな。晴が気に障るようなこととか……逡巡しても、これだって思い当たるような節はない。

  前に一度だけそれとなく聞いてみたりもしたけど、「なんでもない」って言われたきりだ。俺の言の葉も、こんな時に限って使えそうになかったし。

  ……多分、晴は本気で隠したいと思ってるんだろうな、俺を避けてる理由。そして俺にはそれを暴こうなんて勇気もないから、晴の胸の内は読めないままで。

  「準備には学級委員長にも協力してもらうから、各自その旨を委員長に――」

  耳に入ってきた情報のうち、辛うじて理解できる要点を手元のプリントに書き写す。とりあえず手だけでも動かしてないと、本当に話についていけなくなってしまいそうだ。

  ……って、あれ。ボーっとしてて一瞬気づかなかったけど、確かうちのクラスの委員長って――。

  「依道っつー猫やったよな?」

  「えっ?」

  「おい、話聞いとらんかったんか? 準備には委員長にも協力してもらうって」

  「ああ、うん。聞いてた聞いてた。逸花くん、ね」

  隣に座っていた同じ文実の同級生から不意に耳打ちされ、漫然としていた俺はまごついてしまった。だって話しかけられるとは思ってなかったんだもん。

  「椙山、依道とは仲良かったやろ? せやから、椙山から話通しといてくれんかなって」

  「あー……そうだね。分かった」

  逸花くん……か。確かによく話すし、すごく良くしてくれる友達だけど。

  あの子も、今の晴と一緒だ。俺の言の葉で逸花くんの考えてることが分かったことは、今までに一度だってない。いつも胸の内に大きな秘密を抱えてるみたいで……腹の底が知れないっていうか。

  ……ああ、なんか馬鹿みたいだ。他人の心が読めたらなんて思うことは確かにあったけど、実際にそんな力を手に入れてみれば勝手も分からぬまま振り回されてるようで。

  「それじゃ、今日のミーティングはこれで終わりだから。各自解散していいよー」

  俺が惚惚としている間に、気づけば委員長は今日の活動の終了を告げていた。周りの委員達が「お疲れさまでした」の言葉と共にお辞儀をするのに倣って、俺もぎこちなく一礼する。

  ……しっかりしなきゃ。落ち込んでるのが周りにバレて心配されるなんて、俺の柄じゃないし。

  「じゃ、俺陸上部の方にもちょっと顔出さなアカンから。またなー」

  「うん、またね」

  そう言って、俺のクラスの中だともう一人の文実の子――方言が特徴的な猿獣人――は、足早に教室を出て行った。

  「ふふ」

  ふと、高校初めての授業日の放課後……先輩達から熱烈すぎる部活の勧誘を受けたあの日のことを思い出して、思わず笑ってしまった。

  ――だからなんなんやあんた、さっきから! 足速すぎるやろ、いくらなんでも!

  ――君も十分速いじゃないか! 絶対、君は陸上部に入るべきだ!

  あの日の世朱高校で繰り広げられていた、異様な光景。彼は結局、あの自動車みたいな速さで追いかけてくる先輩の勧誘を受けて陸上部にも入り、文実と兼部してるらしい。

  ――生きて寮まで帰るぞ、心!

  ――分かった!

  ……楽しかったなあ。そりゃあ当時は先輩達から逃げるのに必死だったけどさ。あの時晴と気持ちを通わせられた嬉しさとか高揚感が心に沁みついているようで、今になって思い出すとじんわりと胸が温かくなる。

  「君、部屋出るの最後なら電気消してってねー」

  「あ、はーい」

  気づけば俺が物思いに耽っている間に委員達はみんな撤収して、教室にはもう俺だけになっていた。窓の向こうでは薄暗がりが茜色を飲み込んでいるようで、照明の光だけではどこか心許なく感じる。

  ……俺も、帰ろう。前に比べると少し居心地の悪さを感じてしまうようになったけど、俺にとっての居場所はあの部屋しかないから。

  荷物をまとめ、去り際に電気のスイッチを切れば頼りない照明もついに息を潜める。ふと振り返った教室は、初夏の夕暮れ時にしては大袈裟なほど仄暗く佇んでいた。

  *

  昇降口を出て、寮の自室へと向かう足取りは重い。晴は多分、もう帰って部屋にいるだろうな。家の中で顔を合わせる回数もすっかり減っちゃったけど、俺が帰る頃にはいつも玄関にきちんと揃えられた靴が並んでるし。

  玄関の扉まで辿り着けば、ポケットの中を弄って鍵を取り出す。修学旅行かなんかのお土産で買ったキーホルダーの付いたそれを差し込んで、なるべく静かに扉を開けば、やはり俺のじゃないローファーが行儀よく並んでいて。

  「…………」

  前なら「ただいま」って言いながらリビングに向かえばいつもの仏頂面が出迎えてくれてたけど、最近はもう。日に日に弱々しくなっていった言葉は、ついに喉を通ることもなくなってしまった。

  リビングへと繋がる扉を開いてみても、そこに人の気配はない。たまに脱ぎ捨てられた服や使い終えたコップなんかがリビングに残ってるけど、そんな生活感の欠片を集めてみても前のような二人分には満たなくって。

  晴の部屋を一瞥して、そしてふいと目を背ける。しんと静まり返った中でも晴の部屋から物音が聞こえることはなく、ひっそりどこかへ行ってしまったんじゃないか、なんて無用な心配が頭を過った。

  このままリビングに居座ってても、晴と出くわしちゃうしな。断じて俺が晴に会いたくないって訳じゃないけど……多分、晴が俺に会いたくないだろうから。

  そう思って自分の部屋のドアノブに手をかけようとした、ちょうどその時だった。皮肉にも背後からキイ、と扉の開く音がして、俺が避けようとしていた事態に直面する。

  「あ……た、ただいま」

  「……おかえり」

  咄嗟のことでうまく声が出なかったけど、久しぶりに面と向かって「ただいま」の言葉が口を吐いた。逸らした視線が一瞬だけ捉えた晴の表情はやはり明るいものではなく、すれ違った時間分の気まずさが湛えられていた。

  晴、俺が帰ってきたのに気づいてなかったのかな。そうでもなけりゃわざわざこのタイミングで出てこないだろうしな。とりあえず、今は晴から離れなきゃ。

  「え……っと、俺、部屋入るから。なんか、ごめんね」

  そうやってわざとらしくこの場を離れることを伝えて、自室の方へと向き直る。とにかく慌てて言葉にしようとしたせいで、なんだか頭がこんがらがってるな。なんで謝っちゃったんだろう。

  「あ……待、て」

  今度こそドアノブに手をかけたところで、不意に後ろから不安げな声がする。それだけじゃない。扉へと伸ばした腕の袖が、ピンと引っ張られているのが確かに感じられて。

  予想だにしなかった晴の行動に、心臓が飛び跳ねるような心地がした。これって……呼び止められてる、んだよね。

  ここ最近、何度も考えてたはずだ。晴ともう一度話せるのなら、どんな表情で、どんなことを話そうって。変に気負ったりせず、前みたいに話せたらって、そう思っていた。

  「……何?」

  それなのに、振り向きざまに咄嗟に口から零れた言葉はあまりに素っ気ないものだった。だめだ、こんな言い方じゃ誤解されちゃう。

  「……やっぱ、怒ってるか?」

  「…………」

  ……なんで。なんでなんだ。「怒ってないよ」って、そう言えばいいはずだ。そう言わなきゃ、いけないのに。

  喉元まで出かかったその言葉が、なぜだか言えなかった。このまま黙ってたら、そんなの肯定と一緒だろ。

  「本当に、ごめん。碌に理由も言わずに、その……避けたり、して」

  晴は強張った表情のまま、いかにも苦しげにそう口にする。どうやら好きで俺のことを避けてたわけじゃないみたいだけど、だったらどうして。

  「……なんで」

  今度は怒ってると誤解されないように、深く息を呑んでから口を開く。晴との会話はあれだけ心地よかったはずなのに、今になっては言葉が重たくて絞り出すのにも精一杯だった。

  「なんで……俺のこと、避けてたの」

  「…………」

  「……言えない?」

  俺の問いかけにも、晴は口籠るばかりで。それどころか、俺から目を逸らしてより一層苦しそうな表情を浮かべていた。

  ……なんだよ。それじゃあ分かんないよ、俺。なんで、そんなに辛そうな顔するんだよ。

  晴は優しいから……俺に不満があって、それでも言えずにいるのかな。だとしたら……やっぱり晴は、俺のことを。

  頭の中で導き出された、一つの可能性。口にするのが心苦しくて、俺の喉を通る言葉はか細く震えていた。

  「やっぱり、俺のこと嫌いに――」

  「――違う!」

  目の前で俯いていた晴が突然顔を上げて、さっきまでとは打って変わってはっきりと声を張り上げた。その表情は今にも泣き出しそうで、どこまでも切実な様相を湛えていた。

  「……ごめん。理由もまだ、言えそうになくて。俺、自分の気持ちが……全然、分からなくて」

  晴は少しずつ、ゆっくりと言葉を紡いでいく。普段は不機嫌そうに佇む瞳が、潤んでガラス細工みたいだなんて思った。

  「色々……悩んでたんだ。それで、お前と距離取ったりして」

  晴の悩み……か。俺に言えない理由みたいだけど、見当もつかない。俺の言の葉は、相変わらず使えそうにない。多分、晴の口から聞かないと意味がないって、心のどこかで思ってるから。

  「でも、嫌いになったわけじゃ……ない。むしろ、俺……俺、さ」

  俺を真っすぐ見据える晴の顔が、いっそ分かりやすく紅く染まる。カーテンは閉まってるから、これはきっと夕陽のせいなんかじゃなくって。

  晴が言い淀んでいる間に、晴の言おうとしていることになんとなく気づいて、どきりとする。紅潮した晴の顔、「嫌いじゃない、むしろ……」なんて意味深な言葉。

  俺の胸に、淡い期待が浮かんでくる。だって、これに続く晴の言葉はきっと――。

  「俺、お前のこと……ちゃんと、好きだから」

  一瞬、時間が俺だけを置いて進んでるんじゃないかって錯覚した。呼吸も鼓動も止まったようで、胸が詰まりそうになる。でも、なんだか不思議と心地よい息苦しさだった。

  もちろん友達としてって意味だろうけどさ。あの晴から「好き」って言葉が出てくるなんて今までなら想像もつかなかったから、どこか現実味のない嬉しさが胸を満たしている。

  「晴……って、あっ」

  素直に「嬉しかった」って伝えようと晴の顔を見つめて、その目じりに涙が浮かんでいることに気づく。多分、晴は泣いてるとこ見られたくないタイプだよな……どうしよう、これ。

  せっかく真っすぐ気持ちを伝えてくれたんだから、目を逸らすわけにもいかないし。かといってあんまり直視してもなあ……。ああ、そうだ。

  「ええっと……これで、いい?」

  「え、あ、ちょ」

  ――俺は、晴に抱きついた。両の腕を背中に回して、決して抱きしめることはなく。晴が嫌だったら振りほどけるくらいの力で……優しく、抱きついた。

  「……いいの、かよ」

  「うん」

  「理由も言わずに避け始めて、なのにまた、何も言わずに戻って来ようとして……それでも」

  「いいよ。晴ならいつか話してくれるって信じてるし、それに」

  ほんの少し、足を前に進めて晴に近づく。俺の口が晴の耳元にあるから、うるさくないよう小さな声で呟いた。まあ、照れくさかったってのもちょっぴりあるけど。

  「晴が『好き』って言ってくれて、俺、嬉しかったんだよ」

  「心……」

  俺の名前を呼ぶ声と共に、俺の背中に腕が回される感触がした。俺が抱きつく力を強めれば、晴もそれに合わせてぎゅっと俺を抱きしめてくる。

  こうやって、探り探りで互いの距離を測って、心地よい場所を見つけていく。久しぶりに思い出したな、晴と重ねるこういう時間が好きなんだって。

  「……ありがとな」

  「俺も、ありがと」

  晴は、涙声になりながらもそう言ってくれた。だから俺も、「ありがとう」を晴に伝える。

  今まで、俺が晴に頼ることばかりで。晴にとって頼りない友達になってないか、不安だったけど。

  こうして、俺の腕の中でか弱くすすり泣く晴の頼る相手が俺だってことが……なんだか俺には、たまらなく嬉しかった。

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