羽(つばさ)の恩返し

  エスメアには財宝が眠っていると盛んに語られた時代は過ぎた。誰もが滅びゆくことを確信しているこの世界で、それでも救いを求める人心が、前時代の[[rb:崩壊都市 > ロストタウン]]に望みを投影して生み出された迷信にすぎず、払った犠牲の規模が大きくなれば逆の作用が働くだけの話だ。踏破もできないまま、そこには何もないと結論付けられた。

  望みがないからといって、それでは生きられないのかというと別の話だ。究極の話をするのでないのなら、望みというものは肉体の必須栄養素ではないのだから、生命活動を続けることだけなら誰でもできる。

  望みなんて、始めから見なければ失うことはない。目先だけを見て、今を生きて、次の日の目を拝めれば儲けもの。大多数の人々がそう思って生きている。

  けれど子供たちは違う。彼らはこの世界に生まれ落ちた瞬間から希望を見ている。彼らはこの世界に希望が満ちていると信じている。生きるうち、段々と希望がないことに気付き始めても、どこか別の場所にあるに違いない希望を信じて歩き続ける。そうして、この世界のどこにも求めるものがないことを悟った時、そこで彼らは大人になる。

  意地の悪い言い方をすると、彼らは生まれ落ちた瞬間だけは純度の高い希望を見ていられる。もっと意地の悪い言い方をすると、彼らは生まれ落ちてしまったばっかりに、見なくてもいい希望を見てしまうんだ。

  さて、希望を持ったまま大人になる子供はいないのだろうか?

  間に合わせの希望で妥協せず、心の底から本物の希望を追い求め続ける存在は、本当にいないのだろうか?

  誰もが滅びゆくことを確信しているこの世界で、それでも強かに希望を抱き続ける子は、本当にいないのだろうか?

  いいや、いないはずがない。

  感情――〝意志の力〟――それが生き物を発展させる。これまでもそうだったし、そしてこれからもそうだ。彼らは希望を抱くために発生した。

  これはぼくが目覚めるまでのお話だ。けれど、本当に頑張ったのは彼らなのだから、実質的には彼らのお話とするのが好ましい。いったんは希望を失いつつも、その目に再び希望を宿した少年たちにこそ、与えられるべき役割なんだ。

  「長い話になるぞ」

  「問題ないよ。〝[[rb:恵雨期 > プルウィオラ]]〟は始まったばかりだ」

  ちょうど彼らが自分たちの生い立ちを語り合う場面が見つかった。まずはそこにお邪魔する形で、彼らの歩んできた人生を知ってもらおう。こういった形での[[rb:物語り > ストーリーテリング]]には自信がないけれど、極力明るくできるよう努めてみるよ。

  これは彼らの物語だ。彼ら二人と、二人に関わってきた子供たち全員の。

  [newpage]

  

  長かった夜が明け、東の地平線から差し始めた陽光が、新たなる[[rb:季 > シーズン]]の始まりを告げた。生き物というのは不思議なもので、その光の届かない[[rb:洞穴 > ほらあな]]の中に在っても、鳥たちは目覚めの時期を知覚している。氷点下に達しそうなほど低下していた体温が、じわりじわりと元に戻り始めている。心拍数も上がり、呼吸にも音が伴い始めた。このぶんだと彼らが目を覚ますまでそう時間はかからないだろうね。

  もっとも、目を覚ましたからといって、すぐさま活動を開始するかは別の話だ。夜は長く、昼も長い。そうなれば夜明けだって長く、二度寝、三度寝くらいは許されようものだ。長い夜を越えるために体力も消耗している。ゆっくりと時間をかけて[[rb:体調 > コンディション]]を整えるのは必要なことだ。

  けれど、ある一人の少年が、誰よりも早くに身を起こし、仲間たちの覚醒を不安げに待っていた。身を包む[[rb:外套 > マント]]の中で体羽を膨らませ、極寒に耐えながら、一人、また一人と生命の息吹を取り戻す様子を、暗がりの中で見守った。起きるのが遅い子を見付ければ、自らの体温を分け与えて覚醒を促した。

  そんな仲間想いの彼こそがトレンチ少年だ。その名はここのリーダー格の少年に与えられたもので、昔は別の名を持ってはいたものの、ここに売られてくる際に消え失せた。ここにいる子はみんな似たようなものだけれど、中には昔の名を使い続ける子もいる。

  「ギル、朝だよ」

  トレンチ少年に呼びかけられたギルという名の少年がそうだ。前の主人からたいそう可愛がられ、与えられた名を大事にしていた。この子がする会話はだいたいが前の主人の話ばかりで、前[[rb:季 > シーズン]]の日の入り前だって、トレンチ少年はうんざりするほどその話を聞かされたばかりだ。鬱陶しそうにはしながらも、トレンチ少年はそう悪い気はしていなかった。なぜかって、このギルという少年は、本当に幸せそうに過去の話を語るんだから。現在の境遇とかけ離れた街暮らしの記憶を救いとして、苦境を乗り越える、そんな健気な姿を邪険になんて誰にもできやしない。

  「ギル、起きろって」

  もっとも、わざわざそんな話を一生懸命にしなくとも、傷ひとつない鮮やかな体を見れば、その主人にどれだけ愛されていたかなんて誰でも判った。おそらくここにいる誰よりも幸せな暮らしを送っていた。それでも、ギル少年の邪念のない心の前では誰もが嫉妬を忘れた。そういう子だったんだよ、この子は。

  ただまあ、そういう環境で育った子だからこそ、こうやって無警戒に寝続けることができる。前[[rb:季 > シーズン]]も一番最後まで起きなかった寝坊助が、今[[rb:季 > シーズン]]もまた、誰よりも最後まで寝続けていた。

  トレンチ少年も呆れかえっている。みんな起きたぞ、お前も起きろよ、しょうがないやつだな。そう言いながら、自身の羽を広げ、彼の体を包み込む。

  覚醒を終えた仲間たちもみな、彼の頭を撫でたり、目を伏せて通り過ぎたり、或いは祈りを捧げた。誰よりも優しく純粋だった子を、そして誰よりも大事にされて育ってきた子を、悼んで泣いた。

  「ギル……」

  そういう環境で育った子だからこそ、こうやって夜を乗り切るだけの栄養を把握できないんだ。ギルだった子の体温は、いくら羽で覆っても、いくら体を温めても、氷点下から戻ることはなかった。仲間たちがあらかた[[rb:洞穴 > ほらあな]]から出ていく頃には、トレンチ少年の体温の方が危険水準に近づいていた。

  「オイ、いつまでやってんだ、起きないヤツは放っとけ!」

  年長の子に叱られ、トレンチ少年は亡骸を抱えて立ち上がる。持ち上げられても四肢は動かず、筋肉の硬直と血液の凝固を嫌でも思い知らされる。それでも、もしかすると日に当てて温めてやればまた動き出すんじゃないかと、諦めきれずに亡骸を連れて行こうとして、殴られ、無理やりに引き剥がされて連行された。[[rb:雇用主 > キーパー]]が起きて巣穴を覗いたとき、そこにあるのは死体だけでなければならない。巣に落ちるギルの体は、酷く軽く、不自然に重い音を立てた。

  ごめんよ、いきなり明るくない話になってしまったかもしれない。けれど、こう言ってしまうのは心苦しいことなのだけれど、[[rb:休眠 > トーパー]]から目覚めないまま死ねるというのは、彼らの中ではまだしも幸せな死に様なんだ。

  こうしてまた一人、仲間が減った。トレンチは哀しんだ。トレンチを連行していった年長の子だって、ぶっきらぼうな物言いをしながらも哀しんでいた。けれど立ち止まってはいられない。時間は待ってくれない。だから進むんだ。救いを望むことも許されなかった子の遺志を継いで、自分たちが進むんだと。年長の子は、僅かでも長く生きているからこそ、そう割り切れるんだ。

  自身に食い込む爪にその意志を感じたトレンチは、哀しみをまたひとつ心に刻んで前を見ることにした。[[rb:洞穴 > ほらあな]]の外は、一面の雪景色だった。黒い空には星々と、それから赤い[[rb:天幕 > オーロラ]]が淡く揺らめいていた。

  トレンチがギルの亡骸に執着したのは、もちろんトレンチが心優しい少年だという理由もあるけれど、ギルの生い立ちに共感を覚えていたからなんだ。二人とも、ここに来る前は観賞用の奴隷だったからね。[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]は、その模様が派手なほど好まれる。

  日が昇り始めたばかりの〝[[rb:暁日期 > アウロウラ]]〟では、地面に積もった雪は未だ融ける気配を見せない。気温が上がるにはまだまだ時間が必要だ。けれど子供たちは起きる。羽毛を膨らませ、体温を振り絞り、活動する。生きるためには必要なことだ。彼らは長い夜で消費しきったエネルギーを補給するべく、挙って雪を掘り、地面を[[rb:穿 > ほじく]]り返し、甲虫の幼体を探した。中にはその体力も残っていない子もいたけれど、最年長の子がやってきて、柔らかな身を分け与えた。それは幼虫ではなく、〝ダンゴムシ〟の俗称で知られる[[rb:剛潰虫 > クラッシャ]]の成虫の一部だった。

  その子は[[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]と呼ばれる上位の鳥人だった。子供ながら、トレンチや他の子よりも僅かに体が大きく、また強く鋭い爪を持っているから、こんなふうに夜越しで動きの鈍い成虫を仕留めることができる。うまく幼虫を見付けられない子たちも、彼のおかげでなんとか生きることができているといってもいい。

  「ありがとうファルコ」

  お礼を言われながらも、ファルコと呼ばれた少年は渋い顔をしていた。彼は最年長だ。彼は[[rb:群れ > コロニー]]を守る責任がある。ある一人の作業効率が落ちれば皺寄せは全体に掛かってくる。だから年少者を気に掛けている。……そう割り切ろうとしながらも、ギルの死を割り切ることができていないんだ。ギルの死は、本当に誰も予想だにしないことだった。

  けれど、起きてしまったことを覆すことはできない。彼は己の力不足を大いに悔やみ、恥じ、前を向く。

  「さあ、そろそろ始めようか。――神に恥じぬ船造りを」

  その号令で、子供たちは新たな[[rb:季 > シーズン]]の活動を開始した。子供たちが摂取した栄養は決して満足とは言い難いけれど、〝[[rb:繁緑期 > スプロウラ]]〟になれば危険を冒さずとも食べ物を得ることができる。だから今はこれでいい。湖に向かい、未だ氷点下の水に足を浸け、[[rb:篩 > ふるい]]と[[rb:桶 > おけ]]を手に[[rb:砂鉱 > しゃこう]]を集める。それが彼らの仕事だ。湖底を[[rb:浚 > さら]]い、砂と石をざっくり[[rb:篩別 > しべつ]]して、砂に混じる金属を目視、或いは揺することで選り分けていく。何の変化もなく面白みもない単純作業だ。

  〝[[rb:暁日期 > アウロウラ]]〟は暗く気温が低い。寝起き間もないことも相まって、殆どの者が口を開かない。黙々と作業をし、湖水に体温を奪われれば湖を出て、[[rb:東屋 > サンシェード]]の下で[[rb:外套 > マント]]を羽織ってうずくまり、羽毛を膨らませながら休息する。そうして僅かな睡眠ののち、眠る前と殆ど高さを変えない太陽に辟易する。太陽が出てから沈むまでの長い長い[[rb:一季 > ワンシーズン]]、延々とこれを繰り返すんだと思うと、誰だって口数は減るというものだ。それだけに、内容の殆どが前の主人の自慢話とはいえ、死んだギルと行う会話は一定量の潤いになっていたんだ。

  それじゃあ、ギルのいない今の彼らに会話がないかといえば決してそうではない。大丈夫、純粋に希望のみを抱いている子はちゃんと残っている。

  「ねえねえ、なんで湖はこおらないの?」

  それがこの[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の少年ワンダだ。最年少で体力がなく、人より多くの休息を必要としているような儚き羽だ。ここではこんな小さな子まで働いている。で、その休息から帰ってくるなり、黄色い[[rb:嘴 > クチバシ]]をパクパクさせながらトレンチに尋ねた。眠る前に雪の正体が水ということを聞き、寝ている間に新たな疑問が生じたみたいだね。

  「塩があるからだよ」

  [[rb:淀 > よど]]みなく答えたトレンチだけれど、それは過去に自身が同じ質問を年長の子に投げかけたことがあるからだ。

  「なんで塩があるとこおらないの?」

  「え、それは……」

  けれどその原理まで答えられるほどの知識はなく、トレンチは朝焼けに光る湖面に目を落とし、押し黙ってしまった。

  「喋ってないで手を動かせ」

  年長の子が二人を叱りつけた。トレンチはもとより、[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]のワンダは水飛沫をあげるくらい飛び上がって驚き、慌てて作業を再開した。

  年長の子は巣穴からトレンチを引きずり出した子で、[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]と呼ばれる種の鳥人だった。ぶっきらぼうな物言いの反面、声は高く早口で、体格はトレンチよりも小さく、威厳だとかその辺の要素は皆無だった。茶と白の単調な配色で、ごく限られた地域では[[rb:雀 > スズメ]]と分類されることもある愛嬌のある種だ。

  トレンチのような[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]、この年長の子のような[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]、それから好奇心旺盛な質問を投げかけたワンダのような[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]、大雑把にこのみっつの種がこの世界における鳥人の殆どを占めていて、[[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]など上位の鳥人がそれを統べている。総勢八名の[[rb:群れ > コロニー]]の中、ここでの比率もだいたい似たようなものだ。

  「ここは赤道が近いからまだマシだけどよ、もっと南に下ると塩があっても凍るくらい寒くなる。お前らみたいな軟弱者なんか一夜で全滅だな」

  「赤道ってなに?」

  「星の真ン中の線のことだ。そこでは太陽が真上を通る」

  [[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]のワンダは東の空を見る。赤き[[rb:天幕 > オーロラ]]の揺らめきの中、未だ端っこしか出ていない太陽を見て、そこから予想する軌道をなぞるように頭を回転させた。

  「あの太陽がてっぺんに」

  「手ぇ動かせっつったろワンダ」

  ついに頭を小突かれ、[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]のワンダは[[rb:篩 > ふるい]]を落として自分の頭を撫でた。

  「お前も」

  運良く上向きに浮いたなあ、と呑気に篩を見ているトレンチに、年長の[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の子は強い視線を向け、[[rb:五体満足 > フローレス]]なんだからよ、と少しばかりの棘を含めた言葉を投げつけた。その[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の少年は、両手の指が他の子より一本ずつ少なかった。

  彼だけじゃない、[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の少年ワンダは右目が閉じたまま開かないし、その他の子供たちも、体のどこかに障害を抱えている。だからこんなところで働いているというわけじゃなく、世界中そうなんだよ。今のこの世界では健常者を探す方が難しい。

  「んー? 変な石ぃ」

  [[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]のワンダは好奇心が旺盛であるがゆえに注意力が散漫で、こんなふうに、作業の合間に見つけた〝普通じゃない物〟に意識が向いて手を止めてしまうことがよくある。何にでも興味を示し、疑問を抱き、誰彼構わず「どうして?」と尋ねて回る困り者だ。好奇心旺盛なのは[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の特徴と言ってしまえばそうなのだけれど、他にもう一人いる[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の子と比べてみてもその差は歴然で、つまり種族柄というよりワンダが突出しているということになる。それが[[rb:愛称 > ニックネーム]]の由来でもあった。

  統率が不要な作業形態において、たかだか八名しかいない作業員を区別する必要はないと言っていい。だから、よっぽど特徴的な子でなければ愛称なんてつけられなかった。だって、下手に愛着なんて持ってしまったら、死んだとき余計に哀しくなるんだもの。必要がなければ名前なんて付けないほうがいいし、過去なんて知らないほうがいい。

  けれど今は違う。頼れるリーダーが、全員に名前を付けた。そうして一人一人に愛着を持ち、類稀なる統率力と危険回避能力によって群れを守ってきた。トレンチもそうやって名前を与えられたうちの一人だ。

  「なんだろうこれ? なんでこんな色してるんだろう?」

  「クズ石だろ。捨てろって」

  年長の[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の少年がワンダを強い口調で[[rb:窘 > たしな]]めるけれど、それくらいじゃあワンダの好奇心は制御できない。

  「ねえトレンチ兄ちゃん、見てみて」

  「オイ聞いてんのか」

  ワンダはちゃぷちゃぷとトレンチの元に歩いていき、石を手渡した。基本的に[[rb:砂鉱 > しゃこう]]――砂状の鉱石――つまるところ主に砂鉄を集めるのが仕事だけれど、稀に鉄成分を多く含んだ価値のある磁鉄鉱が転がっていることもある。そういうとき石の価値を見極めるのはトレンチが一番向いているんだ。それもまた年長の[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の子がトレンチを僅かでも嫌悪してしまう原因のひとつであるのだけれど。

  「そもそも軽いよ、この石」

  持っただけで判った。トレンチが見るまでもなく金属含有率が低いことは判断が付いたはずだ。どうしてわざわざ聞いてきたのか。

  「うん知ってる。でもきれいでしょ?」

  「お、お前なぁ……」

  目的が石の選別でないと知り、トレンチはワンダの能天気さにがっかりと肩を落とした。ここではワンダの[[rb:自由奔放 > フリーダム]]な言動に付いていける者なんて存在しない。

  「……でも不思議な石だな、これ」

  なんだか持っていると心地が良いような、逆に不安になるような、変な気持ちになる石だった。もしかするとぶっ続けで作業をしているせいかもしれないけれど。

  「あのなお前ら、そろそろいい加減に……」

  言うことを聞かずサボりまくっている二人についに怒りを露わにした[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の少年がざぶざぶと小股で二人の元に近づこうとしたら、

  「って、んあっ、うわっ、ああっ!」

  その途中で持っていた[[rb:篩 > ふるい]]を落としてしまった。それを無理に空中で受け止めようとしたのが災いして、上下逆さまで落ちてしまったんだ。篩上の石はともかく、篩受けで選別が進んでいた大事な砂鉱までひっくり返ってしまった。

  「お……お前らぁ」

  「わわっ、ごめんチャット!」

  「チャットって呼びやがったなクソガキ! お前ら一発ずつ殴る!」

  「ひゃーっ!」

  「な、何でオレもっ」

  完全にワンダに巻き込まれたトレンチだったけれど、幼さゆえに足の遅いワンダが犠牲になっている間に遠くに逃げて事なきを得た。

  離れたところに退避したまま作業を再開したトレンチだったけれど、妙に石のことが気になって仕方がなかった。みんなから隠れるように体の向きを変え、桶の中から石を取り出してもう一度眺めた。

  白または透明な砂石が多い中、ワンダが見つけた石は独特なマーブル模様が付いていた。といってもその模様は彼ら鳥人だから見えるもので、他の種族や、――そうだね、きみたちにもおそらく単なる白色か灰色に見えるはずだ。実際にはそれは石というより化石なのだけれど、今はあまり関係がない話だから置いておこうかな。

  なんというか、トレンチはその石に生き物じみた感覚を認めた。別に動いているわけではなく、色が変わるわけでもなく、音がするわけでもない。ただ、その石からは生き物と似た気配を感じたんだ。もしかすると価値のある石かもしれないと、トレンチはあとで雇用主に尋ねてみようともう一度桶に放り込んだ。

  「持って帰るんだ?」

  石に意識を奪われていたせいで、トレンチはワンダの接近に気付いていなかった。

  「きれいな石だもんね。やっぱりいいもの?」

  「さあな」

  「なんで持って帰るの?」

  「なんとなくだよ、なんとなく」

  「なんとなくってどんな?」

  「うるさいな、今度はオレがお前を殴るぞ」

  「ひゃあ、こわいお兄ちゃんばっかり」

  と口では言いつつも、トレンチがそんなことをしないことを知っているワンダは怖がってなんかいないんだけれどね。ワンダの体格には少々厳しい水深までトレンチが移動すると、話相手を失ったワンダは諦めて作業に戻った。無駄話さえしなければワンダは最年少ながら効率的に作業ができる器用さを持っていた。

  まあ、目以外には障害がないという理由もあるけれどね。というよりそれが大きい。ワンダもトレンチも円滑に作業をしているけれど、砂鉱の選別以前に砂と石を[[rb:篩別 > しべつ]]する簡単な作業ですら、手が不自由な子には難しかったりする。それは手は短くないものの指の本数が少ない年長の[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の子も同様だ。不幸にも生まれつき親指にあたる指がないせいで、物を握る、掴む動作に支障が出ている。二本の指で生活するというのは、さぞかし辛いことだろう。それでもさっきみたいなイレギュラーが起きなければ、彼は両手とお腹を器用に使って作業をすることはできている。ただ適性が足りていないことは確かだから、彼は始めの頃は休憩を多く取り、日がある程度昇ってから行われる製塩作業で人一倍の頑張りを見せている。

  ワンダは性格的特徴を反映して愛称を付けられたけれど、この[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の少年チャットも同じく性格的特徴から付けられた愛称だ。ここに愛称文化が根付く前に別の年長の子から付けられたものなのだけれど、のちに〝おしゃべり〟を意味する蔑称だということを知ってからは、そう呼ばれることを嫌うようになった。名付けた年長の子も死んでしまった今となっては、無遠慮なワンダ以外は同年代の[[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]の少年ファルコしかその呼称を使っていない。……のだけれど、物語りをする上で個人の識別子が失われるのは好ましくないことだから、ここでは遠慮なく呼ばせてもらうことにするよ。

  さて、それではトレンチはどうだろう。こんな人より秀でた能力があれば何かしら特別な名前が付けられてもよさそうなものだ。けれどそうならなかったのは、[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の少年チャットがトレンチのことをよく[[rb:五体満足 > フローレス]]と逆に差別的に呼ぶからだった。トレンチという名前に大きな意味はなく、ある有名な鳥人の名前を[[rb:捩 > もじ]]っただけのものだ。もっとも、ある有名な、なんて言いつつも、博識なファルコ以外はその人物を知りはしないのだけれど。研究者であることと、[[rb:五体満足 > フローレス]]であること。ファルコが話したのはそれだけだった。

  「ねえ、なんでみんな手とか足とか変な形になってるの?」

  無心で作業をしていたところにまた声が掛かり、トレンチは少しだけびっくりした。トレンチにとっても水深は浅いほうがよく、知らず知らずワンダに都合のいいところまで戻ってきていたんだ。

  「……なぁワンダ、そろそろいい加減にしろよ?」

  「ねえなんで? ぼくの右目が開かないのはどうしてなの?」

  「うるさいな、そんなの――」

  仕方ないだろ、と言いかけてトレンチは[[rb:嘴 > クチバシ]]を[[rb:噤 > つぐ]]んだ。仕方ないと言うことができるのは当事者だけだから。

  「――[[rb:太陽の国 > ソラス]]の呪いだ」

  「あ、ファルコ」

  返事ができないトレンチの代わりに、今度は[[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]の少年ファルコが背後から声を掛けた。この[[rb:群れ > コロニー]]の中で唯一、愛称や蔑称でなく敬称的に〝ファルコ〟と呼ばれている。ワンダは、いつも夜明けに虫を分けてくれるこの年長の子によく懐いていた。神話に出てくる英雄の名前であり、鳥人たちが暮らす本国では選ばれた[[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]のみがその名を姓として用いることができるのだけれど、ここには[[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]は彼しかいないし、所詮は奴隷の[[rb:囀 > さえず]]りだし、咎める者なんていない。

  「そうワンダを邪険にするな。[[rb:囀り集えば知恵の海 > ワイズ・ハーモニー]]と言うではないか」

  「ねえねえファルコ、呪いってなに?」

  「太陽は奴らの呪いの力の源だ。あまり太陽を見続けていると目が潰れるぞ」

  [[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]の少年ファルコは、二人へ注意をしておきながら自分の方が太陽を直視し、「忌々しい光だ」と小声で呟き、それから二人の背を優しく叩いて湖を進んでいった。

  前面は斑模様が凛々しく、力強い爪と[[rb:嘴 > クチバシ]]も持っている頼れるリーダーのファルコだけれど、ひとたび背を向けるとガラリと印象が変わる。彼の背中と腕の一部には、羽と呼べるものが殆ど生えていなかった。体羽も尾羽もほぼなく、まともに直射日光を浴びた剥き出しの地肌は爛れに爛れ、見るも無残な状態だった。

  「ねえねえ、呪いってどんなもの?」

  ワンダの興味が今度はそちらへ向いた。

  「[[rb:太陽の国 > ソラス]]の民は魔術とか霊術とか、オレたちが使えない力を使うだろ。それを[[rb:月の国 > キャラハ]]の民は呪いって言っているんだよ」

  「ぼく、太陽が当たらないところで生まれたのに目が見えなかったよ」

  「だから喋るなとは言わないけど手を動かしながらにしろよ。また怒られるぞ」

  「[[rb:集落 > 村]]の人たちはみんな変な形だよね? [[rb:太陽の国 > ソラス]]の人なのにどうして? 自分たちにも呪いがかかっちゃったの?」

  こうなったら何らかの結論を得るまで止まらない。根負けしたトレンチはある方向を指差し、こう呟いた。

  「……戦争のせいだよ」

  信心深いファルコと違い、鳥人の国の生まれでないトレンチは正直なところ呪いなんてものを信じておらず、中立的な意見を持っていた。

  「戦争?」

  「あそこで起きた戦争のあと、こんな世界になったんだ」

  その指が示す先、遥か南の山の向こうには、かつての戦争で滅んだ街がある。

  「あそこに何があるの?」

  その街の名は、

  「エスメアだ」

  [newpage]

  

  さて、話が長くなるのはなるべく避けたいところだけれど、国の話くらいは最低限しておく方がいいだろう。なるべく簡潔にできるよう心掛けてみる。

  百年ほど前、この星を二分する大規模な戦争が起きた。鳥人類のみで構成される[[rb:月の国 > キャラハ]]と、それ以外の獣人類で構成される[[rb:太陽の国 > ソラス]]の間に紛争が起き、それまでの軋轢で溜まった圧が一気に爆発したんだ。その爆心地となったのが、エスメアという街だった。

  エスメアの街は、両国の[[rb:力関係 > パワーバランス]]が拮抗した場所にできた緩衝街で、戦争が起きる前までは、もちろんいがみ合いは茶飯事だったものの、両国の文化や資源のやり取りが行われる重要な場所だった。

  爆発とか爆心地とかいう表現は、決して比喩に留まるものじゃない。さっきトレンチが軽く言ったけれど、鳥人は魔術も霊術も使えない。それなのに一大文明を築くことができたのは、[[rb:偏 > ひとえ]]に工業文明を発展させてきたからだ。その発展した科学の結晶である[[rb:飛翔型爆弾 > ミサイル]]により、[[rb:太陽の国 > ソラス]]が政治の中枢を置いていたエスメアに大爆発が起き、そして滅んだ。

  戦争後に環境が激変したのは事実で、湖を水源として栄えたエスメアは、川の増水により水没した。とりあえず今のところはこれくらいの説明でいいかな。

  両国ともに人口を激減させた今では、緩衝街を別の場所に移して細々と交流が続いている程度だ。その交易のため彼ら子供たちが奴隷として働いている。もちろん子供だけでなく大人もだ。奴隷として生まれたからには、よほどのことがない限り死ぬまで奴隷だ。

  「でもようファルコ、この湖は水没したエスメアから流れてくる水でできてんだよな。それでこんなに砂鉱が採れるんならエスメアには鉱石の塊でもあるんじゃねえ?」

  「水に金属が含まれているのではない、エスメアを取り巻く湖の砂に含まれているものが流れてきているだけだ」

  「ハッ、まったく笑い話だぜ。[[rb:月の国 > キャラハ]]のための金属を、[[rb:太陽の国 > ソラス]]が従える[[rb:月の国の民 > 俺たち]]が集めてんだからな。ま、俺は自分を[[rb:月の国 > キャラハ]]の民だなんて思っちゃいねえけどよ」

  「ぼやくな。いずれ月の神が我らを救ってくださる」

  「あーはいはい、お前は信じる神がいていいよな」

  [[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]のチャットと[[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]のファルコは同年代だ。生まれも育ちも異なるけれど、古株同士の彼らはそれなりに仲が良い。ただチャットは六年も生きている割には体格が小さく、種族柄体格のいいファルコと並べると少々インバランスな組み合わせといえるね。

  「おまえも神を信じればよい」

  「俺は現実しか見ねえよ。待っていても誰も助けちゃくれねえ。自由は自分の手でつかまなきゃならねえんだよ。例えば――あの野郎をぶっ殺すとかな」

  「やめておけ」

  ファルコは、まるで先のトレンチのように、ある方向を指差して呟いた。

  「[[rb:天幕 > オーロラ]]がいつもより強く色付いている。太陽の呪いが強まっている今、下手に動くと必ずや良くないことが起きる」

  その指が示す先、東の空には、[[rb:漸 > ようや]]く総ての丸みを露わにした太陽と、その光を後ろから浴びて細く輝く月があった。これだけ日差しがあるにも拘らず、[[rb:天幕 > オーロラ]]は陽光に掻き消されず残り続けている。

  「そういう不吉なこと言うのやめろよな」

  「不吉と感じるということは信心があるということだ」

  「あーはいはい、ほんと屁理屈が好きだよな」

  ところで、子供たちの口数が多くなっていることに気付いたかい? それは〝[[rb:暁日期 > アウロウラ]]〟を過ぎて〝[[rb:繁緑期 > スプロウラ]]〟になったからだ。といっても、太陽の高さでいえばそんなでもないし、月だってまだ十二分の三くらいしか満ちていない。未だ雪が融ける程の気温ではないけれど、羽毛を持つ彼らなら防寒が必要ないくらいには気温が上がってきた。それでみんな浮足立って、[[rb:外套 > マント]]を脱ぎ捨ててはだかで湖を出ていくってわけだ。

  〝[[rb:繁緑期 > スプロウラ]]〟になって何が変わるかというと、植物が芽を出し始めるんだ。その芽を頼りに鳥たちは種を穿り返して食べる。実に寝起きぶりの食事というわけで、どれだけ質素でもありがたみは大きいというものだ。中には発芽毒を持つ種もあるけれど、それはそれで潰しておく。そうすることで巣穴のある岩から湖までの道が植物に覆われることを防いでいるんだ。植物が茂ると危険な虫が発生するからね。

  巣穴から湖までは、距離としては……そうだね、子供の足で、ええと、現在の水位でいえば走って百歩くらいの僅かなものだけれど、外敵への対抗手段を持たない子供たちにとっては、その僅かな距離すら危険になる。虫の活動が盛んになる前に、できるだけ多くの食糧を確保しておく必要があるんだ。食べきれない種は集め、湖の水――つまり塩水に浸けておく。こうすることで種は死に、巣籠もりの間の保存食となる。

  「ねえねえ、なんで塩水につけると芽が出ないの?」

  トレンチが種を塩水に放り込んでいると、ワンダが横から割って入った。

  「知るかよ」

  どんな時でもどんなものにでも興味を示すワンダにトレンチは適当な返事をする。いちいち構ってはいられないという理由だけれど、まあ、言葉通り知らないからという理由ももちろんある。

  「湖のまわりに植物が生えないのと関係する?」

  「知るかって」

  「でも湖のうんと向こうの方には生えてるよね?」

  「だから知るかよって」

  「滝の近くだよね? あの滝ってエスメアから流れてくる水でしょ?」

  「そうらしいって話しか知らない」

  「エスメアってどんなところなんだろう?」

  「さあな」

  「ぼくエスメアに行ってみたいなぁ」

  「虫の楽園にか?」

  「虫? なんでそんなこと知ってるの?」

  「そんな話を聞いたことがあるってだけだ」

  「だれに?」

  「だれかに」

  「だれかって、だれ?」

  「いいから食べ物集めろよ。そうでなきゃ雪でも集めてろ。飲み水だって大事なんだぞ」

  「ねえ、なんで湖の水は飲めないの?」

  「塩水だから」

  「なんで塩水は飲めないの?」

  「ああもう、うるさ…………」

  と、突然トレンチの動きが止まった。ワンダの[[rb:囀 > さえず]]りの中に、別のノイズを感じたからだ。

  「どうしたの?」

  怪訝そうに尋ねるワンダを手で制し、感覚に集中する。

  雑音が消え、クリアになった感覚の中、その〝何か〟は――遠く――低い音で――高くに――空!

  「みんな!」トレンチは叫んだ。「巣に戻れ!」

  子供たちはキョトンとしてトレンチを見ている。一人駆け出したファルコ以外、何が起きたのか理解できていないんだ。けれどそれもそのはず、迫りくるそれは、こんな時期に来るはずのないものだったんだ。トレンチだってそのせいで気付くのが遅れたんだから。

  いったい何が来たかって、それは……。

  「――トンボだ!」

  具体的な名詞が飛び出たことで漸く子供たちは迫りくる脅威を認識した。

  いつもなら機敏に反応するのに、こんな時期に来るはずがないという油断が判断の遅れを招いてしまった。ただでさえあちこちにばらけてもいるし、走り出しの遅れた子供たち全員の避難が可能かどうか、ギリギリのところだった。

  でもさすがリーダーのファルコは違った。足の遅い子を優先して両腕で一人ずつ抱え上げ、的確に指示を出して避難を促す。

  遅れはしたけれど、[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]のチャットだって年長者らしく檄を飛ばした。

  「逃げるぞルイン!」

  その彼は、ワンダと同じ[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]のルインという少年を抱え上げた。この子は足に関して言えば[[rb:群れ > コロニー]]の中でもっとも不自由な子だ。生まれつき左足の膝関節形成不全があるせいで満足に走ることができない。位置的にファルコからもっとも遠かったから、ファルコはチャットにルインを任せたんだ。そしてチャットはそれを即座に理解して迷わず行動に移した。付き合いが長いだけあるね。

  これなら間に合いそうだ。壁のない[[rb:東屋 > サンシェード]]に退避することも視野に入れていたトレンチは安心してワンダの手を引いた。トレンチだって三番目の年長者なんだ。

  足に障害はなくとも幼いワンダは歩幅が狭く、庇護の優先度は高い。けれどそのワンダは危機が迫っているのに悠長に空を眺めていた。迫りくる脅威の正体への好奇心が勝ってしまっているんだ。苛立ったトレンチはファルコのようにワンダを脇に抱えた。

  「あ、見えたよ。わー、トンボだトンボだ」

  運ばれながらワンダが空を見上げてはしゃいでいる。走りながらトレンチは軽く空を見る。近づいていた。遠く、低い音で、高く、南の空から。もう誰の目にもはっきりと映る距離にまで迫っていた。大型の飛翔性虫類である[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]が、数匹の群れを成し降下してきていた。一匹の大きさは子供の背丈をゆうに超え、胸から生える六本の足は、子供一人を容易く連れ去ることができる大きさと強度を持っている。妖しく蠱惑的とも表現できそうなグラデーションの[[rb:翅 > はね]]が立てる、小さく、けれど確かな重低音が、[[rb:捕食者 > 子供たち]]に本能的な恐怖を沸き起こらせた。

  大丈夫、間に合う、間に合う……。トレンチは空を頻りに見ながら残り距離を計算し、ルインを抱えた小柄なチャットを追い抜かない程度に急いだ。

  巣からファルコが出てきた。そうしてチャットとトレンチが問題なく避難しきるまでの間、しんがり役となって南の空を睨み続けた。

  無事にファルコを迎え入れ、叩き付けるように戸を閉ざし、トレンチは大きな大きな息を吐いた。生きた心地がまったくしなかったけれど、漸くこれで安心……したのも束の間、トレンチは振り返るなり、いきなり伸びてきた手によって戸に叩き付けられた。

  「てめぇ何様のつもりだ!」

  その高い声の主はチャットだった。[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]のチャットが、トレンチの胸を強く押し付けていたんだ。戸を閉めたせいで暗いけれど、ぼんやりとチャットが強く睨み付けている様子が見えた。

  「さすが[[rb:五体満足 > フローレス]]様は違うな。余裕げにしやがって、お前のそういうとこ、ほんっと好きになれねえ」

  そう言われても、責められる理由に思い当たらないトレンチはうろたえるしかなかった。

  「何でさっさと先に行かなかった! こんな時に偉そうに気ィ遣いやがって……」

  そこでわかった。チャットを追い抜かないようにしていたことに気付いていたんだ。

  「わかってんのか! チビどもの命が懸かってんだぞ!」

  そうしてチャットは足元に視線を落とす。そこには、依然として硬直したままの幼鳥が横たわっていた。

  「……もっと、危機感持てよ」

  震えるチャットの目には僅かに涙が溜まっていた。

  「言葉が過ぎるぞチャット」

  大きな影が割って入った。最年長のファルコだとすぐにわかった。

  「彼が逸早く教えてくれたおかげで新たな犠牲が出ずに済んだのだ」

  影は手を伸ばし、トレンチの肩に手を載せる。

  「ありがとう、トレンチ」

  この複雑な状況でどう返していいかわからないトレンチは、とりあえず大きく頷いた。それでキリが付いたのか、チャットの手から力が抜けた。胸に食い込んだ二本の爪の感覚は、暫く残り続けた。

  ところで、どうしてトレンチが真っ先に虫の接近に気が付いたか説明しておかなきゃね。これは鉱石の審美眼があることにも繋がるのだけれど、彼は他の子よりも磁気感覚が秀でているんだ。鉱石の選別だけだけでなく、微弱な磁気を鋭敏に感知して砂鉱が多く溜まっている砂鉱床を目敏く見つけ出せる。もちろん磁気感覚は彼だけでなく鳥人全員が有している能力なのだけれど、トレンチの場合はそれが際立って強いんだ。そのおかげで厳しい[[rb:規定量 > ノルマ]]を何とか達成できている。誰もがそれを理解している。けれど……トレンチを除く七人全員が不具だ。能力差の原因をそこに見出してしまうのは仕方がない。

  [[rb:五体満足 > フローレス]]なのだから頑張れて当然――と、そんなことを本気で思っている子は一人もいないのだけれど、そう思わずにいられないんだ。だって、そう思う方が圧倒的に気が楽なんだから。自分たちは健常でない、だからできなくても仕方がないんだってね。みんな解っている、トレンチも解っている、だからそれを争いの材料にはしない。……チャットのように、たまに漏らしてしまうことはあってもね。

  「で、トンボはいなくなったのかよ」

  言われてトレンチは外を窺う。流石に閉め切っていては気配があまり判らないから、少しだけ戸を開けようと手を掛ける。

  戸……とは言うけれど、実際にはそれは木の板だ。この巣穴は始めに言ったように[[rb:洞穴 > ほらあな]]で、岩盤が昼の熱で膨張して割れることで生じた[[rb:間隙 > かんげき]]――[[rb:熱割れ > サンクラック]]を住居として利用しているだけなんだ。戸や壁の代わりに簡素な木材で割れ目を塞いだだけの乱暴な造りだ。

  それで、その立て掛けているだけといっていい木の戸を開けようとしたその時だ。力も入れていないのに、勝手に戸が開かれた。

  突如として差し込む光に子供たちは目を眩ませながら身構えた。虫が飛び込んできたんじゃないかってね。けれどそれは虫ではなく、子供たちよりも大きな人影だった。虫ではないけれど、それは特に幼少の子にとっては虫と同じくらい恐ろしい存在だった。

  「……あん?」

  低い声が[[rb:洞穴 > ほらあな]]に響いた。その発生源は長い[[rb:口吻 > こうふん]]の奥底から。口を開いたことでちらりと見える牙、狙った獲物を逃さない獣の目……。体は[[rb:外套 > マント]]に隠れているけれど、首から上の特徴だけでもそれが[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]であることはありありと窺える。その人物こそ子供たちを管理する[[rb:雇用主 > キーパー]]だ。

  「なぁにしてやがんだこんなところで」

  ギラついた目は必然的に一番近くにいるトレンチに向けられた。曲がりなりにも年長者の部類に入るトレンチはそれくらいで竦み上がることはないけれど、かといって積極的に相手をしたいわけでもなく、プルプルと首を振って、「[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]が来た」と短く答えた。

  「はぁ? こんな早くから来るかよ。嘘ついてサボろうとしてんじゃねぇぞ」

  「嘘じゃねえよ」

  答えたのはチャットだった。チャットは臆することなく歩み出る。

  「そうじゃなきゃ道具散らかしたまま逃げてくっかよ」

  「あぁそうかい、それじゃあ散らかした道具をきちんと拾いな」

  雇用主は巣穴を見回したあと、死んだギルの首を乱暴に掴み上げ、それで用は終わりと言わんばかりに背を向ける。そこには当然あるべき〝膨らみ〟がない。この男が[[rb:外套 > マント]]に身を包んでいる理由は、尻尾がないからなんだ。

  「いや何行こうとしてんだよ」

  「あぁ? 文句あんのかよ」

  「また来たらどうすんだよ、危なくて仕事どころじゃねえぞ」

  「悪いが信じねぇよ。お前らはすぐ嘘つくからな」

  「俺らを守るのがテメーの仕事だろうが。サボってんじゃねえぞ」

  「……誰に向かって口利いてんだクソガキ」

  やばいとトレンチは後ずさった。雇用主の表情は変わらないけれど、その無表情が却って心の内を醸し出している。

  けれど、何かが起きるより前にファルコが割って入った。

  「申し訳ない。しかし[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]が来たというのは本当だ。なったばかりの成虫ではない、色が暗かった。明らかに夜を越えた個体だ。恐らく生態が変化してきているのだろう」

  「そうかいそうかい、虫さんの世界も大変だな」

  言って雇用主は面倒臭そうに背を向ける。

  「……本当に去るつもりか?」

  「見かけたら駆除しといてやる。それでいいだろう」

  「そうか。飽くまでも現場に常駐しないと言うのなら、武器の所持を許可してほしい」

  「武器だぁ? 認めるわけねぇだろ」

  「へっ、自分に危害が及ぶって思ってんだよ」

  「チャット、少し黙れ」

  ファルコが睨み付けるとチャットは目を逸らしたけれど、その涼しい顔を見れば反省なんて微塵もしていないことが判る。

  「口が悪くて済まない。だが警護が仕事であることは確かだろう。その責任を放棄するのであれば、せめて自衛の手段を与えるべきではないか?」

  「クソガキが揃いも揃って偉そうに言ってくれるじゃねぇか」

  「ケッ、クソガキって言える立場かよ半人前が」

  チャットの発言にトレンチの背筋が凍った。[[rb:雇用主 > キーパー]]の目に殺気が灯った。無造作に掴んでいる死骸の首が変な音を立てた――!

  ――と、それと同時にチャットの体が勢いよく横に吹っ飛んだ。

  けれど雇用主は何もしていない。それをしたのは意外にもファルコだった。ファルコがチャットを思い切り蹴飛ばしたんだ。チャットは狭い洞穴の壁に軽い音を立てて激突し、ふわりと落下した。

  「いい加減にしろチャット」

  ファルコが低い声で戒める。倒れたチャットは痛みで立ち上がれない様子だった。脚をゆらりと下ろし、雇用主に向き直ったファルコは目を伏せ、手を胸に当てて謝罪をした。

  「私から灸を据えておく。どうか仲間の非礼を許してほしい」

  雇用主は身じろぎひとつせず、吹っ飛んだチャットの方を眺めていた。チャットのもとにはワンダと、チャットを慕うマーニーという[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の子が心配そうに駆けつけていた。

  「……なかなか大胆なことするじゃねぇか。意図しての行動だとしたら大したもんだ」

  その発言の意味はこうだ。[[rb:雇用主 > キーパー]]は、ファルコがわざと子供たちが密集しているところにチャットを蹴り飛ばすことで、チャットを霊術から守ろうとしたと思ったんだ。もしもチャットを燃やそうとすれば、巻き添えになる子は一人や二人じゃない。

  「根本的なことを勘違いしているな。ここは街じゃねぇ。身の程を弁えろよガキども」

  [[rb:雇用主 > キーパー]]は面倒臭そうにもう一度しっかりと子供たちに向き直り、首の折れた死骸を見せ付けるようにした。

  「何で俺がお前らを守らないか解るか? 守る必要がないからだ。前のようにバタバタ死ぬようになりゃ考えてやるよ。えー、で、[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]の生態が変化した? 結構なことじゃねぇか。どうか適度に死んでくれることを祈るぜ。――あぁ、くれぐれも死体は残せよ」

  「俺たちに……死ねってのか」肩を押さえながらチャットが言う。

  「特にお前な。その軽口にもそろそろ飽きてきた。この意味は判るだろ?」

  チャットはグッと息を呑む。険しい目付きと裏腹に、その[[rb:嘴 > クチバシ]]から言葉が放たれることはなかった。

  「他に質問のある奴はいるか? いないな? じゃ、今[[rb:季 > シーズン]]も諸君らの働きに期待している」

  心の籠もらない定型文を棒読みで述べ、[[rb:雇用主 > キーパー]]は今度こそ去っていった。

  [newpage]

  

  この辺り一帯を縄張りとする[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の集落は、子供たちが働く塩湖からそこそこ離れた場所に位置している。どのくらいかというと、そうだね、キリのいいところで例えると、最年少のワンダが歩いて半期ほど、つまり月が十二分の一満ちるくらいの距離だ。以前は地理的にエスメア攻略の重要拠点として栄えた街だったけれど、攻略放棄を機に衰退した。今は色々と産業に手を出して盛り返してきているものの、街と呼ぶにはまだ寂しい。もっとも、街になるまで発展させたいわけではないという方針だからというだけなのだれど。必要もないのに積極的に他種族を招き入れる理由はない。

  ただまあ奴隷は別だ。奴隷というのは街でもどこでも重要な労働力だからね。単純作業、危険作業にはたいてい奴隷が使われる。特に術を使えない鳥人は武器さえ与えなければ無力に等しい。磁気感覚が必要な砂鉱採集という作業でなくとも鳥人を奴隷として使うところは多い。だいいち、ここ[[rb:太陽の国 > ソラス]]の地においては鳥人は敵国の民であることだし、気兼ねなく使うことができる。

  といってもね、奴隷は基本的人権が保障された労働者なんだ。街であれ、街から離れた塩湖であれ、その命は雇用主により保障されるべき大切なものだ。本来はね。

  けれど実態はどうだろう? その答えは今見てもらった通りだ。建前も秩序も、戦争により崩壊してしまった。街の奴隷でさえ、宿みたいに人目に付くところでもなければどんな扱いをされるか運に身を委ねるしかない。そしてトレンチたちの労働環境は、まあ、それなりに悪い部類といえる。

  死んだギルのように飢えて死ぬ子は以前はたくさんいた。

  寒冷の後に訪れる酷暑にやられてしまう子もいた。

  虫の餌食になる子だってもちろんいた。

  そのたびに新しい子が補充としてやってくる。子供たちはみな、ワンダのようにこの世界に希望が満ちていると信じて疑わなかった。その目が次第に曇り、そのうちに間に合わせの希望すら抱けなくなっていく。

  奴隷というのはよほどのことがない限り奴隷のままだ。この[[rb:群れ > コロニー]]において、六年ほどしか生きていないファルコやチャットが最年長なのは、それだけ入れ替わりが激しかったということなんだよ。

  「少し考えりゃわかんだろ、そんなことくらいよ」

  ファルコがやってきて、死亡率そのものは格段に減った。砂鉱採集能力に関しては人並といったところだけれど、持ち前の高い身体能力により食糧を多く集めることができたし、知識もあり、虫の危険から子供たちを遠ざけることもできていた。さらに磁気感覚の優れたトレンチがやってきたことで、虫が起因となる死亡事例は殆ど起きなくなった。武器を持つことも許されない子供たちが、とんでもないことだ。

  「けどそれが何になるってんだよ」

  そんな盤石な体制でファルコがリーダーとなり、全員が名前を持った。命を尊重するようになった。ファルコの優れた統率力のもと、[[rb:規定量 > ノルマ]]をこなし、全員で夜を迎え、全員で目覚めることを喜び合った。

  「どれだけ生き延びたって、やがては死ぬ運命なんだ」

  それが無駄な努力だったって、みんな気が付いてしまったんだ。年長者が年少者を守るほど、[[rb:雇用主 > キーパー]]からの援助はなくなってしまう。それがはっきりしてしまったからね。

  「たとえ死ななくても、それじゃあどうなる? ここでこうやって働き続ける以外に道はあるのか? ないだろ?」

  雇用主が去って暫く経った。[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]はもういない。食糧集めを再開しなければならない。それが終われば砂鉱集めを再開しなければならない。でも、それは何のために? それがわからなくなって、……いいや、直視することを強いられてしまって、みんな消沈してしまったんだ。巣から出たはいいものの、遠く離れるには抵抗があって、子供たちはすべきことが判らずたむろしていた。

  「死ぬか、働くか、この二択しか許されてねえんだよ、俺たちには」

  そんな中、チャットだけが元気におしゃべりをしている。元気というのは語弊があるけれど、こんな姿でも演じていないとやりきれないんだよ、この子も。軽い口調で、軽い歩調で、時たまくるりと回りながら。

  「アニキぃ、それじゃどうすりゃいいんだよぅ」

  「いい子だマーニー、教えてやる。〝あの野郎〟をぶっ殺せばいいんだ」

  「やめろチャット、年少者を焚き付けるな」

  「なあ物知りファルコ、教えろよ、どうすればあいつを殺せる?」

  「まだ言うか」

  「ほー、まだって言葉が出るか。俺に言わせりゃ〝まだ〟はこっちのセリフなんだよ」

  軽快な足取りが止み、小鳥は体格に似合わない威圧感を伴ってファルコを睨み付けた。その目には、これまでに溜めこんできた鬱憤の限りが詰まっていた。

  「まだ耐えろってのかよ! 耐えてても未来はねえぞ!? あいつらにとっちゃ、俺たちなんか生き物ですらねえんだぞ! 息をしてるうちは勝手に働く道具、死んだら死んだで……ああそうだ、死んだあとどうなるか言ってやろうか?」

  「やめろチャット」

  「なあマーニー、知ってるか?」

  「えっ、そ、それは……」

  「なあルイン、お前は? オーナム、お前は? ワンダ、おい[[rb:五体満足 > フローレス]]、お前は知ってんだろ?」

  激情に駆られたようにチャットは一人一人の顔を睨み付けながら見て回る。幼すぎるワンダ以外の子供たちはすぐに目を逸らし、[[rb:嘴 > クチバシ]]を[[rb:噤 > つぐ]]んで俯いた。

  チャットはバッと羽を広げ、

  「みんな知らない振りしてるだけだろ! ギルが、ギルの死体が、今頃どうなってるか――」

  涙声の叫びに、子供たちはみな悲痛な面持ちになる。中には声を上げて泣く子もいた。

  「みんなわかってんだろ! 羽むしられてよ、首もがれてよ、血ィ抜かれてよぉ、そんで、そんで、」

  「――いい加減にしろ!」

  ファルコの怒号が辺り一面に響き渡った。後ろのトレンチでさえ縮み上がるほどの威圧感がファルコから放たれた。それを正面から受けたチャットは羽を逆立てて竦み上がり、涙目を見開き、息を切らしながら慄いていた。

  「[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]を甘く見るな。奴らは足が速く体力もあり、何より鼻が利く。殺すことはおろか、逃げ切ることすらできん。だいいち、ここを離れれば虫や魔獣の餌食だ」

  「……でもよ……っ」

  ファルコは、トレンチにも聞こえるくらい大きな息を鼻から吐いた。

  「三年ほどの付き合いか。チャット、おまえが言い出したら聞かないことくらい判っている。だが止める。止まらないことを知って、なお止める。その先の道が破滅だと知っているからだ。――いいか、これだけは知っておけ」

  威厳ある歩みで近づく。見上げるほどの体格差に負けじと、小鳥はぷるぷる震えながら目に力を籠めようとしていた。

  「おまえがここに来る直前、脱走を試みた者がいた。三人だった。綿密に作戦を練り、奴らが[[rb:休眠 > トーパー]]から覚める前に出発し、それぞれ別の道を逃げた」

  その言い方で誰もが結末を予測した。

  「僅か数期後、そいつらはみな丸焼きになって戻ってきた。うち二人は虫に襲われた形跡があった」

  想像した通りの答えに、チャットの目が微かに細まった。

  「悪いことは言わん、やめておけ。おまえは自棄になるあまり、全員を危険に曝す行為をしようとしている。それを[[rb:確 > しか]]と自覚しろ」

  ファルコのリーダーシップを前に、いつもならこの辺りで話は終わるはずだった。

  「じゃあまた耐えろって言うのかよ?」

  けれど今回、チャットは食い下がった。もはや引っ込みは付かない。

  「いつまで耐えりゃ救われる? お前の言う神サマとやらは、いつになったら俺たちを助けてくれるんだ?」

  「助けてくれるのをただ待つのではない」

  「神は我々に試練を課している――ってか? んなもん聞き飽きたぜ。まったく大した神サマじゃねえか[[rb:錘秤神 > アルビタ]]サマはよう」

  「よせチャット」

  「じゃあ聞くけどよ、今まで死んでいった奴らは努力が足りなかったとでも言うのか? 神サマの試練ってのはそんなにも過酷なもんなのかよ? 俺たちですら救われねえってのに、それじゃ最初からチビたちは達成できないってことじゃねえのかよ? できないうちに死んじまうのは罪になるのかよ?」

  いったん吐き出し始めたら止まらない。彼自身戸惑いの表情を混じらせながらも、それでも自分の発言にヒートアップして、そしてついに、

  「――んなわけねえだろっ!」

  [[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]たるチャットが、濁りが混じるほど声を張り上げた。

  「そのくらいっ、お前が一番わかってんだろうがっ! あんなに……純粋に未来を夢見て頑張ってた奴らの……いったいどこに罪があるってんだよ!」

  押し止めようとする自制心を跳ね除けようと、叫んでいる。体格の違う相手に掻き付き、揺さぶり、訴え掛けている。

  「なあファルコ! [[rb:月の国 > キャラハ]]の神サマがそんなに大切か!? 数えきれないほどの子供を見殺しにして、そんで黙りこくってる心の狭い神サマに、お前は救われたいのかよ! 俺はなあ、チビどもの死体を踏んで、足場にして、それで救いの手を掴み取ったって、嬉しくもなんとも思わねえよっ!」

  相手の信じる神様をここまで貶して、冒涜して、殴られることすら覚悟して、最後には目を開いていられなくなるくらい恐怖して、それでも口を衝いて出る激情を抑えることができなかった。

  これまで相手を尊重して、我慢に我慢を重ねて言わなかったそれを、総て吐き出した。これは不満であると同時に懇願でもあったんだ。一緒に救われようという、一緒に同じ夢を見ようという、もっとも頼れる友に対しての、切実な願い。

  「私に――その答えを求めるな」

  けれど、投げ掛けた感情の量に対して返ってきたのはあまりに短すぎる答えだった。その短さに籠められた乾いた感情は、けれどチャットの心を大人にするのに十分な重さだった。ファルコの心は、もう既に大人になりきっていたんだ。

  「何だよ、それ……」

  縋りついた小さな体は、力を失ってずり落ちていった。

  「せめて楽に死んでいけって、そういうことじゃねえかよう……」

  強い心を持っていると思っていたファルコは、既に総てを諦めていた。それを知ったトレンチは、いいや、彼に限らず、話が理解できる歳の子はみな少なからず動揺していた。

  年少の子供たちの心に大きな影が落ちた。頼りにしていた年長たちは、自分たちと同じように弱い心を持ち、同じように押し潰されそうになっているのだと知ってしまったから。子供たちが、心の中に開けている未来への道を、自ら閉ざそうとしていた。

  「ねえねえ」

  突然、場の雰囲気にそぐわない間の抜けた声が響いた。これにはトレンチどころかファルコも、それどころか悲しみに打ちひしがれているチャットでさえも面食らった。

  その声の主は、好奇心の強い[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]のワンダだった。

  「どうして[[rb:雇用主 > 怖いお兄さん]]に勝てないの?」

  ファルコは大きく溜息を吐いた。何を言い出すかと思えば、と呆れているんだ。

  「知れたことだ。奴らにあって我々に足りないものが多すぎる」

  「霊術のこと? 霊術ってなに?」

  「神霊の力を借り、火や水、風などを起こす力のことだ」

  普段なら誰もがこの「なぜなに」攻撃にまともに取り合わず、二、三あしらって終わらせる。けれど、重苦しくなってしまった空気に居心地の悪さを感じたファルコは、いつも以上に丁寧に問いに答えていく。

  「神霊ってなに?」

  「[[rb:太陽の国 > ソラス]]の呪いの力だ。奴らは自然を司る存在――神の使いと言っているがな」

  「どうして神様の使いが呪いなの?」

  「太陽がこの星に力を与え、それが自然を形作っているのだという。しかし太陽の光そのものが呪いである以上、そこから生まれる神霊も呪いということになる」

  「太陽が呪いだって誰が決めたの?」

  「書物に記述があった。偉大なる先人の遺した過去の記録には、太陽が、延いては[[rb:太陽の国 > ソラス]]の使う霊術が星の生態系を破壊したとある」

  「ぼくの目が見えないのも?」

  「そうだ」

  「ファルコの背中も?」

  「そうだ」

  「シッポなしの[[rb:雇用主 > 怖いお兄さん]]も?」

  「そうだ」

  「なんで? どうして[[rb:太陽の国 > ソラス]]の人たちが呪われるの?」

  「奴らが呪われることをしたからだ。もっとも、奴らは我々[[rb:月の国 > キャラハ]]のせいで神霊の怒りを買ったと言っているがな」

  「でも」ワンダはトレンチを指差す。「トレンチお兄ちゃんは戦争のせいって言ってたよ」

  いきなり矢面に立たされたトレンチは、心の準備もできないままただ動揺するばかりだった。けれどファルコはトレンチを軽く一瞥しただけで何も責めはしなかった。

  「[[rb:太陽の国 > ソラス]]も、[[rb:月の国 > キャラハ]]も、自分たちは悪くないってダダこねてるだけじゃん。かっこわるいよ」

  「……そう、だな」

  先ほど間接的にでも神を否定してしまったファルコは答えに詰まり、愁いを帯びた目でそう呟くしかなかった。こんな幼い子にまで言い包められるファルコは、子供たちがこれまで見てきた限り、一番といっていいくらい小さく映った。

  「そう、その通りだ。それぞれの信じる神話、正義。結局は自分たちに都合のいいようにしか作られない」

  「不公平だよ」

  「まったくもってな」

  「かわいそう」

  「……可哀想?」

  歳の差のせいもあるんだろうね、話題があちこち飛ぶせいで、ファルコは付いていくのもやっとだった。

  「可哀想というのは?」

  「神様だよ」

  「……神様?」

  「神様は今、みんなを助けたくても助けられないんじゃないかなあ? それなのにこんなふうに寄ってたかっていじめられて、神様がかわいそうだよ」

  けれど、これまで幼いからと軽んじられていたワンダは、幼いなりに筋道の通った考えを持っていたんだ。

  「神様にばかり無理させるんじゃなくてさ、ぼくら自身でがんばって、ぼくらはこんなにがんばれるんだぞーってところ見せてあげたらさ、そしたら神様も元気になるんじゃないかな?」

  その少年の言葉は、ファルコはおろか、チャットの渾身の言葉よりも、むろんトレンチよりも、子供たち全員の心に変化を与えた。

  もちろんそれは普段なら馬鹿馬鹿しいと一蹴するような子供じみた綺麗事に過ぎない。けれど、その前に起きた激しい口論の後ということも影響して、誰もが妙にハッとさせられた。神なんてものを本気で信じている子なんて、言ってしまえばこの子しかいないのだけれど、なんて言えばいいのかな、信じているからこそ出てくる本心は、こんなふうにしばしば他者に前向きな力を与えることがあるんだよ。信心ゆえに? いいや、純粋ゆえにだよ。

  生き物というのは不思議なものだ。とりわけ、感情というものは素晴らしいの一言に尽きる。虫も魔獣も鳥獣人類も、みな等しく尊き生命であるけれど、中立であらねばならない[[rb:語り手 > ストーリーテラー]]がこうやって彼らに肩入れしがちなのは、そこに生命の神秘を強く感じずにはいられないからだ。感情――〝意志の力〟――それが生き物を発展させる。嘆き、悲しみ、けれど前を向こうと奮い立つ。これが神秘でなくて何というのだろう?

  だからこそ、彼らの行く末を思うと心苦しい気持ちでいっぱいになるんだ。

  [newpage]

  

  いったんは融けた雪により上がった水位も、続く日照でまた下がる。湖の[[rb:畔 > ほとり]]は再び積雪でも始まったかと錯覚しそうなほど析出した塩に覆われていた。

  誰も彼も、嫌気が差すくらい鉱砂を採り続けた。一部の手が不自由な者は木板で塩を集める単純作業に移行している。

  〝[[rb:繁緑期 > スプロウラ]]〟が終わり〝[[rb:成雲期 > クロウラ]]〟となり、太陽はだいぶ高くなってきた。上昇する気温はそろそろ適温を超え始め、子供たちは湖に足を浸けていても感じる暑さに汗を流すようになった。もしここに来たばかりの子に、「この湖が塩湖となったのは、ここで長年働いてきた子供たちから流れ落ちた汗のせいなんだよ」と真面目に語れば、殆どの子は信じてしまうだろう。それほどまでに、発達した汗腺から流れる汗は大量だ。もしもここで飲み水を失えば、その時点で全員の死が確定すると言っていい。

  とはいえ、それまでと違って風が吹くおかげで、体感温度としてはまだ何とか耐えられるレベルだ。東の空では雲が大きく発達し始めていて、その雲に引っ張られる形で風が生まれているんだ。この〝[[rb:成雲期 > クロウラ]]〟を乗り切れば、〝[[rb:恵雨期 > プルウィオラ]]〟で念願の真水を得ることができる。まあ、その前にやることはたくさんあるんだけれどね。

  先の〝[[rb:繁緑期 > スプロウラ]]〟でたっぷりと太陽から栄養を取り込んだ植物が、実りをつける頃合いだ。雲に追われて襲来する[[rb:移動性虫類 > いなご]]に食い尽くされる前に、先んじて確保しておかなければならない。別に人の手で栽培しているわけではないから満足な量とは言えないけれど、〝[[rb:恵雨期 > プルウィオラ]]〟の巣籠もりで消費する食糧として、そして来たるべき夜の[[rb:休眠 > トーパー]]のため、食糧はいくらあっても足りることはない。

  例の一件を受け、ファルコは[[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]としての誇りを再び胸に宿していた。信じる神を現実逃避の道具にしていた自分を恥じたんだ。彼は、それまでよりもっと遠くまで足を延ばして食糧を採集した。瑞々しい果実などが採れれば、子供たちはみな大喜びするからね。

  もちろん危険は大いに孕んでいる。塩湖から離れるほど、塩水環境に適正のなかった凶暴な虫が増えてくるからね。真水のない塩湖は過酷ではあるものの、虫の脅威から子供たちを守る側面も併せ持っているんだよ。虫は、総ての鳥獣人類にとっての天敵なんだ。

  ファルコは慎重に慎重を期し、豊満な果実を見事に持ち帰った。それどころか夜越しでない活発な[[rb:剛潰虫 > クラッシャ]]を仕留めまでして、子供たちを大いに元気付けた。彼の表情は、どこか迷いが吹っ切れたように晴れやかだった。――むろん構造上表情に乏しい鳥人なのだけれど、同じ鳥人だからこそ微細な表情の変化を読み取れるというものだ。

  子供たちは生きる希望を取り戻したわけではないよ。神に縋ることで現実から目を背けようとしたわけでもない。ただ単に、最年長のファルコの前向きな姿に感化されただけだ。依然として進むべき道がないことはみな判っているし、だからどうすればいいかということも判らないままだ。けれど、ファルコは抵抗をやめろとは言わなくなった。もちろん何事かを起こすことを許容したわけではなく、もしも何かをしたければ、自分を納得させられるだけの策を用意してみせろと言ったんだ。

  分別のつかない子供にとっては、暗雲にうっすらと光明が見えたような気持ちになっただろうね。八方塞がりの霧の中に、通ることのできないほどの細道だろうと、先に進む道が現れたと思っただろうね。

  意地の悪い言い方をすると、届くはずのない希望をチラつかせて気を逸らしたんだ。もっと意地の悪い言い方をすると、……いいや、やめておこう。今回、意地の悪い言い方をすることに意味はない。

  少し先へ進もうか。汗水流して働く子供たちの様子を事細かくお話ししたい気持ちはあるけれど、単純作業ばかりを語り続けるのは忍びない。これから先、あっさりと[[rb:刻 > とき]]を飛ばすことも出てくると思う。けれど知っておいてほしいのは、[[rb:暁日期 > アウロウラ]]から[[rb:繁緑期 > スプロウラ]]までに月が十二分の二満ちたように、[[rb:繁緑期 > スプロウラ]]から[[rb:成雲期 > クロウラ]]までには月が十二分の二ほど満ち増えたということで、そして続く[[rb:恵雨期 > プルウィオラ]]まで、やはり月が十二分の二ほど加えて満ちることになり、その長い長い時間、子供たちは小休止を入れながらも殆ど働き詰めだったってことだ。彼ら鳥獣人類が生きるこの世界は、きみたちの世界と時間の[[rb:流れ方 > サイクル]]が大きく異なる。

  [[rb:成雲期 > クロウラ]]も中ほどになり、数人の[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]たちが荷車に大桶を積んでやってきた。湖の畔に集められた泥水色の塩を引き取りに来たんだ。彼らはそれを集落まで持ち帰り、[[rb:恵雨期 > プルウィオラ]]の雨を利用して精製する。

  砂鉱採集の合間に様子を見ながら、トレンチと数人の子たちはいつもと違う気配を見て取った。数人の中に[[rb:雇用主 > キーパー]]の姿はもちろんあったのだけれど、その態度に違和感を抱いたんだ。いつもなら一番偉そうに指示を出している雇用主の男が、ある一人に対して[[rb:謙 > へりくだ]]っている。

  その男はもちろん[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]ではあるのだけれど、他の数人と比べて毛の質や色合いが違うというか、顔付き体付きのタイプが異なるというか、とにかく一人だけ浮いているんだ。

  「[[rb:流れ者 > ストレンジャー]]か」

  「何それ?」

  ぽつりと呟いたファルコにトレンチが質問する。

  「集落外からやってきた外部の血だ。……と言われても解らんか。手を止めずに聞け」

  ひとつ汗を拭ってファルコは続ける。

  「基本的に[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の集落には四つの群れが存在する。南の群れ、東の群れといった具合にな。群れはそれぞれひとつにつきひとつの血縁で成り立っている。つまり群れひとつが丸ごと家族のようなものだな。子供はある程度育つと独り立ちの儀を行い、認められた者が群れを離れ、同じように独り立ちをした他の同族と新たな群れを作る。だが、中には独り立ちをしたのち、他の群れに混じることを選ぶ者もいる。それが[[rb:流れ者 > ストレンジャー]]だ」

  「よくわからないけど、それって縁起が悪いとか?」

  「むしろ逆だな。外部の血を取り入れるのは好ましいことらしい。詳しい文化や風習までは知らんが、我々には理解しがたい感覚が奴らにはあるのだろう」

  「認められなかった者は群れから離れられない?」

  ファルコはもう一度周囲を窺い、更に声を落として言った。

  「チャットがあの男を半人前と言った理由がそれだ。中には代替わりを理由に群れに残る者もいるという話だが、半人前と言われて逆上するのは、まあ、想像のとおりだろう」

  トレンチは湖面に目を落として[[rb:篩 > ふるい]]を動かしながら、意識を外側の[[rb:中心窩 > ちゅうしんか]]に向ける。[[rb:雇用主 > キーパー]]の男は依然として[[rb:流れ者 > ストレンジャー]]らしき男に低頭していた。

  「[[rb:流れ者 > ストレンジャー]]ってえらいの?」

  「さあな。それは場合によりけりではあるだろうが、少なくともここではあの雇用主の男よりは偉いのだろう。……しかしあの男、どこかで見た覚えがある」

  「どこで?」

  「気がするという程度だ。――そろそろ離れよう」

  そう言ってファルコは作業をしながら少しずつ自然に離れていった。謂れもなく見咎められる可能性だってあるからね。

  トレンチは妙な男を観察し続けた。気になって仕方がないというわけではないけれど、見れば見るほど異様な感じがして、その異様さの正体を突き止めたい欲求が僅かながら奥底にあったんだ。

  その妙な男は妙に背筋がよかった。[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]に限らず、獣人類は脚の形状的に前傾姿勢が安定するはずだ。それなのにその男は背筋が曲がっておらず、胸を張るような形で歪に直立している。右耳や右目を覆うように包帯が巻かれていて、その部分には盛り上がりは見られない。そこと同じように、背中にも何か障害があるのかと考えたトレンチだけれど、やはり重心が安定せずふらついた男が姿勢を整える際、だるそうに背中を丸めたことから、どうやら予想は正しくなかったことが判った。

  粗製塩の積み込みが終わり、荷車が動き始めた。けれど妙な男と[[rb:雇用主 > キーパー]]は一緒に行かず、二人して湖に向かって歩き始めたんだ。トレンチは慌てて作業に意識を戻す。いくらふたつの中心窩で有効視野が広くなっているとはいえ、鳥人類は眼球そのものを動かすことをさほど得意としていない。流石に顔を真下に向けたまま真横を注視することはできず、どうしても微妙に顔を動かす必要がある。それはいかにも不自然だ。

  けれど、周辺視野だけでも判った。歩き方がやっぱり変なんだ。その妙な男は、特に足に障害は見当たらないのに、まるで酒に酔っているかのようにフラフラと左右に揺れながら歩いている。[[rb:外套 > マント]]の[[rb:雇用主 > キーパー]]と違い、丈の短い腰巻のみを身に着けて、そこから垂れる大きな尻尾も怪しげに揺れている。尻尾は少し右寄りに曲がっているようで、それで重心が定まらないのかとトレンチは少し考えたけれど、流石に歩き方に影響を与えるほど歪んではいないと思い直した。

  「ヤァヤァヤァ諸君、励んでるかいィ?」

  妙な男が初めて子供たちに向けて声を発した。トレンチはその喋り方に嫌悪感を抱いた。暑さでやられそうな体に聞きたい類の声じゃなかった。

  おそらく視察にでも来たのだろうと推測したトレンチだけれど、それは正しかった。[[rb:雇用主 > キーパー]]の男がいつものように進捗にケチを付けている横で、妙な男の方は桶の中を覗きはするものの、特に何かを言うことなく過ぎていく。

  湖の外周から近い順に、[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]のルイン、[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]のマーニー、[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]のオーナム、[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]のワンダ、それから[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]チャット、[[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]のファルコと続く。トレンチは無意識に妙な男から遠ざかるように移動していた。

  けれど男は近づいてくる。男の足が自分に近づくにつれ、トレンチはぞわぞわと言い様のない悪寒が背筋に走るのを必死に堪えた。

  [[rb:雇用主 > キーパー]]は特にチャットとファルコを強く叱責した。二人とも砂鉱採集が得意というほどではないから、生意気な年長二人を非難するもっともな理由となる。

  「マァマァマァ、向き不向きにまで口を出すこたねェ」

  意外にも妙な男は子供たちを庇うようなセリフを吐いた。

  「その代わり優れた[[rb:統率力 > リーダーシップ]]を発揮してンだろ」

  「へ、へえ。わかるんですかい?」

  「誰がマネジメントしてると思ってやがる。ガキの補充頻度が落ちるってこたァそれだけ優れたリーダーがいるってこった。ま、一人の力じゃねェかもしれねェが――」

  ――なァ、と男がいきなりトレンチの方を向いた。あまりに突然のことに驚き、トレンチの背中から肩にかかる羽が大きく膨らんだ。

  「聞けば変な時期に[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]が出たって言うじゃねェか。接近に気付いたのはお前サンかィ?」

  まだ背筋のゾワゾワが治まらないトレンチだけれど、男の問いかけに辛うじて頷いた。でも、なんでこの男はそれを知って……?

  「油断してたろうに犠牲が出なかったってこたァ、――まァ、こいつの言うように巣でサボってたンでもなけりゃ、それだけ感覚が鋭い奴がいるってこった。ここンとこ石の比率も砂の質も上がったと思ってたところだし、だが他の六匹はパッとしねェし、となると残ったお前サンしかいねェってわけだ」

  そうして妙な男は答え合わせをするようにトレンチの桶を覗き込み、満足そうにうんうん頷いた。男の読みは正しく、トレンチの桶の中に集められた砂鉱は、他の子よりも遥かに多かった。

  「さすがは[[rb:五体満足 > フローレス]]といったところか。大した目を持ってるねェ」

  実際、――これは誰も気付いていないことだけれど、トレンチが選別して捨てたものを後の子が気付かず拾い直すということも起きていた。

  「いいねェいいねェ、お前サンの採算は取れてらァ。実に気分がいい。〝種無し〟がよくここまで出世したもンだなァ」

  上機嫌に笑うその男はトレンチに目線を合わせるように屈み込み、

  「ナァナァナァお前さん、何か欲しいものはないかィ?」

  不自然なまでの笑顔をトレンチに向けた。ニマァ、と細月状に歪む目に狂気を感じたトレンチは何も言うことができず硬直してしまった。

  「遠慮はいらねェ、何でも言ってみな。[[rb:米穀 > べいこく]]でも[[rb:柑橘 > かんきつ]]でも、何なら肉でもいいぜェ?」

  「そ……それなら」

  食糧の話が出たことでトレンチの思考回路が戻る。

  「栄養が欲しい」

  「ンン? その心は?」

  「今[[rb:季 > シーズン]]もまた、仲間が一人目覚めなかった。全員が夜を越えられるだけの栄養を与えてほしい」

  震える喉で絞り出した言葉を聞いて、男は感心したような顔になる。

  「なーるほどなるほどなるほどなるほど、優しい少年なんだなァ」

  それからトレンチを褒めるように頭をナデナデナデナデ、力を籠めてワシワシワシワシ、ガシガシガシガシ、ガクガクガクガク、

  「あァー、いい子だァ」

  そのまま湖底に頭を叩き付けた。いとも容易くひっくり返ったトレンチは何が起きたのか理解が追い付かなかった。[[rb:嘴 > クチバシ]]から伝わる痛みと首の痛み、それから目と鼻の痛みで動転し、水を飲んで咳き込み、また水を飲んでは咳き込んだ。

  「でもな、おれは、お前サンに言ったの。誰が全員分って言ったよ」

  手足をばたつかせてトレンチはもがいた。けれど、いくら足をぶん回しても、いくら羽で湖面を叩いても、湖底に刺さった[[rb:嘴 > クチバシ]]はビクともしなかった。もがけばもがくほど、抉り取られた苦い砂が口の中に溜まっていった。

  「暴れンな、水が散るだろォ?」

  と言いつつ自分から屈んだことで臀部が湖面に付いているのだけれど、男は漸くトレンチを持ち上げる。トレンチは何度も咳き込み、泥混じりの水を必死に排出する。高濃度の塩水で目と喉が焼けるように痛むトレンチは、何も言えず、何も見えず、ただ涙と塩水、それから胃液を垂れ流した。

  「食わせりゃもっと働く。危険を冒さず食糧を得られりゃ死ぬこたねェ。死ななけりゃ人員の補充も少なくて済む。――まァこれくらいはガキの頭でも考え付くことかねェ」

  激しく嗚咽するトレンチをよそに、男は淡々とした口調で言う。

  「人材を大切にする、そりゃァ大事なことだ。でもな少年、それはまともな労働者にのみ成り立つ理屈だ」

  そうして息も絶え絶えなトレンチの顔に顔面を近づけ、

  「教えてやろうかァ?」

  ぐりん、と水面に浮かぶ桶に顔を向けさせ、

  「[[rb:五体満足 > フローレス]]を別にすりゃ、ガキの値段はその桶一杯分にも満たねェ。採算が取れねンだわ。八匹分の食糧の方が高くつく。そもそもなァ、お前らは定期的に死ぬことも勘定に入ってンだ」

  一応話は聞こえていたトレンチだけれど、その内容に驚くようなそぶりは見せなかった。だってそんなこと今更言われなくても解りきっていたからね。だからトレンチはこんな話を切り出した。

  「お、桶の…………底を」

  と震える指を差して。男は軽く首を傾げ、トレンチを放り捨てて桶に手を突っ込む。軽く掻き混ぜた時と違い探るように底を撫で、手に触れるものを感じ取った男は、取り上げたものを見て「ほォ」と感嘆の声を上げた。

  「よく見つけたもんだ。この地方にもあるとは驚きだなァ。――エスメアが近いからかもなァ」

  それは鉱砂でなく、ワンダが見つけた例の石だった。[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の目にはマーブル模様には見えないんだけれど、まあ、よく知るものだったんだ。

  知っているなら話は早い。トレンチはその石に価値があるか判らないものの、如何にも価値を知っているかのように振る舞った。

  「頑張れば、そいつを集めることが、できる」

  掠れてしまった声で、トレンチは必死に声を絞り出した。

  「ほォ、それで?」

  「だから……」

  「食糧を、と?」

  トレンチは無言で頷く。

  「ハハッ、こいつァ傑作だ」

  男はトレンチに石を差し出す。受け取れということだろうとトレンチが手を出し、男が石を握らせる。その手が、トレンチの手を握り続けている。――その不自然な間に嫌な予感を感じ取ったトレンチは咄嗟に手を引き抜いた。

  「別に何もしやしねェよ。主力のお前サンに怪我でもさせちゃァこっちだって堪ンねェ」

  男は虚空に向かって軽く笑い、包帯の上から無い耳を掻き、

  「まァなんだ、交渉できる立場にあると思ったら大間違いだぜ少年」

  気だるげに体を揺らしながら立ち上がる。

  「いいかィ? こうすればどうなるということをちゃァんと考えなァ? それが貴重な鉱石だとしたら、お前さんは今、貴重な[[rb:切り札 > カード]]を自ら無駄にしたンだ」

  へらへらとしていた顔付きに突然力が入った。

  「今[[rb:季 > シーズン]]から、その石を十個採集することも[[rb:規定量 > ノルマ]]とする。それができなけりゃ、お前サン以外の仲間を全部殺す」

  「な……っ」

  トレンチは夜の極寒に放り出されたような錯覚に陥った。どうして、どうしてこんなことに、そんなつもりじゃ……。取り返しのつかない事態を引き起こしてしまったかもしれないことに、後悔と自責の念が込み上げてきたんだ。

  「――なァンて言われたら、お前サン絶望するだろォ?」

  けれど男のそれは本心ではなかった。

  「安心しなァ、お兄さんそんな酷いこたァ言わねェ。そいつァ確かに貴重といやァ貴重だが、[[rb:月の国 > キャラハ]]の連中に売ってやる義理のねェモンだ。つまり、金にならねェ。見つけても捨てておけ」

  それで興味が失せたのか、男は来た道をじゃぶじゃぶと引き返していく。湖を出て、やっと終わったかと安堵の息を吐く子供たちだったけれど、

  「あァ、ご褒美を忘れてたなァ……」

  男は急に考え始めた。首どころか上半身まで傾き、

  「ンン、何がいいかねェ?」

  さらに緩慢な足取りになり、[[rb:泥濘 > ぬかるみ]]に足跡が付かなくなるあたりで立ち止まり、

  「そいや一匹くたばったんだっけか」

  と、斜めだった体がまっすぐになる。それから何を思ったか右足を斜めに出し、何かを載せるように右手を広げる。――と、トレンチは手に持つ石が震えたように感じた。けれどその感覚は手からではなく、目、いや頭――?

  慣れない感覚への戸惑いは、男の方から聞こえてきた水音で掻き消された。

  「ったく、尻まで濡れちまったァ」

  その現象を初めて見る者でも、体に付着した湖の水を、男が空中に出現させた水で洗い流したんだと判った。

  雇用主が脱いで渡した[[rb:外套 > マント]]で体を拭きながら、男はまた挙動不審に突然振り返り、まるで悪戯を思いついた子供のように無邪気に見える顔を子供たちに向けた。

  「喜びなァ、お前ら七匹合わせても足りねェくれェ価値のある人員を補充に寄越してやる。優れた[[rb:秀翼 > ファルコニー]]に、優れた[[rb:五体満足 > フローレス]]に、いい群れじゃねェか。最高のご褒美になる」

  またぐるりと回転し、雇用主の男に囁くように言う。

  「集落の連中に言っとけ。卵一個当たりの相場はこンくらいだとな」

  「わかりやした。――しかし今回はどうしてこちらに?」

  「ちと[[rb:毛皮 > ケープ]]の総本山に用があってなァ。――まァ今季中には着くだろうよ」

  「[[rb:毛皮 > ケープ]]の総本山って…………ひ、一人で大丈夫なんで?――あいや、失礼、要らぬ心配でした。お気をつけてらっしゃいやせ」

  「あァー」

  それから男は鳥人たちにも判る共通言語でなく[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の言葉で話し始める。

  「ガキどもにゃああ言ったが、メスはもうこっちに向かわせてある」

  「そうなんで?」

  「考えてることがあってな、補充人員のつもりじゃァなかったンだが、まァここに置いといてもいいだろ。管理は任せるが、くれぐれも丁重に扱えよォ? 採算取れるまでに殺したらお前の首が飛ぶからなァ」

  右手を挙げてぶらんぶらんと、また酒にでも酔っているかのように揺れながら男は去っていった。

  不気味な男の姿が見えなくなり、子供たちは全員重苦しい空気から解放されたように息を吐いた。残った雇用主の男はまた偉そうに難癖を付け始めたけれど、この男の存在感なんて先の男とは比べるべくもない。はだかの雇用主は尻尾の欠損がよく目立ち、そのことも威厳を損なう要因になっていたんだろうね、もはや誰も恐れを抱くことはなかった。

  [newpage]

  

  全身が濡れてしまったトレンチは酷い有様だった。基本的に彼らの羽毛は撥水性に富んでいるから、例え作業中に足を滑らせて水を浴びたとしてもすぐに立ち上がれば無事で済む。けれど今回のトレンチは長く沈められすぎた。幸い気温が高くなっていたから体温を奪われることはなかったものの、それはそれで析出する塩が表皮を蝕む。可哀想に、彼の美しい体に発疹ができてしまった。

  洗おうにも洗えないんだよ。雪はもう融けて久しいし、まさか飲み水に手を付けるわけにはいかない。淡水湖や川は子供が行ける距離に無く、だいいちここを離れるのは危険だ。他の手段としては……そうだね、この湖に流れ込む水――つまりエスメアから流れてくる滝は子供たちがいる場所よりは塩分濃度は低いから、その水で洗うことができればまだマシにはなる。けれど自衛手段を何も持たない子供が広大な湖を渡るのは自殺行為に等しい。何せ湖は途中から[[rb:塩生植物 > マングローブ]]に支配されていて、そこには恐ろしい虫が山ほど潜んでいるのだから。[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]だってそこで繁殖すると言われている。夜が過ぎて久しい今、虫たちは活発に動いている。何の手の打ちようもないトレンチは、むしろ再び塩湖に体を沈めることで塩の析出を防いだ。

  あの不気味な男のように、雇用主の男も霊術で水を出すことができる。けれど、そんな優しさを持ち合わせていないことなど誰もが知っている。あの雇用主の男なら、水をくれと言えば逆に火で脅かしてきてもおかしくない。

  「ぼくたちにも霊術ってのが使えたらいいのにね。どうして使えないの?」

  「使えないものは使えない、それでいいだろ」

  「魔術は使えないの? 魔術ってなに? 霊術と違うの?」

  「オレに聞かれても困る」

  [[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]であるワンダの好奇心は留まるところを知らない。とはいえ今回に限っては答えが返ってくることをそこまで期待している様子はなく、湖から引き上げる準備をしていた。

  雲が近い。間もなくイナゴがやってくる。

  正式名称を[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]というその移動性虫類は、[[rb:夥 > おびただ]]しい群れを成し、その名の通り総てを食らい尽くす。それをやり過ごすため、子供たちはこれから短期間の巣籠もりに入るんだ。

  けれど塩だらけのトレンチは湖に残るなんて言い出した。子供たちはみな驚いてトレンチを止めたけれど、虫をやり過ごすために入口を塞ぐ必要がある以上、水浸しのまま巣に入っては中の湿度が上昇してしまうし、かといって乾いた状態で痒みに耐えながら待つのは苦痛だからと譲らなかった。[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]は塩湖を避けるし、[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]は[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]を避けて姿を現さないし、湖に浸かって頭に桶でも被っておけば平気だと。

  そうしてみんなが巣に戻ったのを見届けたトレンチは、気温よりはいくらか低い程度のぬるい水に浸かり、虫の脅威を初めて近距離で観察することになる。

  始め、トレンチは大きく発達した雲が意志を持って色付き始めたのだと錯覚した。暗く重苦しかった雲が、下側から徐々に黒く染まっていったんだ。けれどよく見ればグラデーションが雑で、さらにそれは[[rb:悍 > おぞ]]ましくなるほどたくさんの小さな点により塗り潰されて出来た黒だということが判る。

  その規模はみるみるうちに大きくなり、ついに雲をはみ出し空を侵食し始めた。やがてそれは目に見える範囲総てを――世界を黒く塗り潰した。

  点が粒になった。粒が像となった。そして像は意志となった。それはひとつの〝意志〟だった。同じ動き、同じ転換、同じ軌道。黒は、[[rb:天幕 > オーロラ]]のように波打ちながら迫った。トレンチはそこに神秘を感じずにはいられなかった。大いなる自然を前に感動さえ覚えた。音が届く距離になっても、暫し隠れるのを忘れるほどに見入った。強くなる胸のざわめきに我に返ったトレンチは、慌てて桶を被り、肩まで湖に浸かった。

  けれどトレンチの見立ては甘かった。塩湖を避けるように分布する緑に沿って、虫は左右に分かれながら進行するということは知っていたものの、[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]の飛翔力は彼の予想を遥かに上回るものだったんだ。トレンチのいる水深の浅い場所程度ならビュンビュン飛んできて、それも高いところだけでなく、それこそ彼の被る桶を掠めるくらいの低空飛行も見せた。

  不安を掻き立てる音が間近で鳴り響く。天敵である虫の気配が至近距離で暴れ回る。一匹だけでも恐ろしい虫が、数えきれないほど近くを飛んでいる。もはや生きた心地がしなかったトレンチは、逃げるように湖の縁から沖の方に移動した。そもそもが長い日照により水位を落とした湖で、そこからさらに深いところとなれば当初と比べかなり奥になる。高濃度塩水環境において、虫はおろか甲殻類さえもこの場所ではまだ確認されていないけれど、――例えば塩分濃度の違いで奥側には[[rb:塩生植物 > マングローブ]]が自生できる部分が存在するように、もしかすると虫などでも同じことが起きないとは限らない――と、その可能性を考える余裕もないくらい彼は恐怖していたんだ。

  といっても、結果的にそんな危険は潜んでいなかった。さすがにうっすら見えるほど遠い[[rb:塩生植物 > マングローブ]]まで行けば別だけれど、ほんのちょっと沖へ進んだくらいで生態系が激変するなんてことはない。

  桶を被る必要もないほど虫から遠ざかったトレンチは安堵の息を吐いた。[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]は肉食でないにしろ、食べられるか否かを[[rb:齧 > かじ]]って確かめはする。トレンチの指ほどの大きさしかないとはいえ、一匹だけなら痛いで済んでも、それが数えきれないほど多くなれば別だ。その結果、肉食でなくとも骨だけになるまで食い尽くされることになる。

  安心して彼は初めて気が付く。足が湖底に着いていない。体の構造的に水に浮かびやすく、また高濃度の塩水が体を持ち上げることもあり、浮遊の維持に足の動きは必要なかった。水中でこれだけ足を延ばしたのは初めてで、彼はどこか新鮮さを感じながら、迫る虫を遠くから眺め、去ってゆく虫を追いかけた。

  移動性であり、跳躍性でもあり、また飛翔性と呼ばれることさえある[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]は、少々の山なら越えることができる。けれど今回、彼らは山を越えてエスメアには行かず、山麓に沿って左右に分かれたまま地平線へ向かっていた。つまり、滝の下に[[rb:塩生植物 > マングローブ]]が生えていたところから予想はしていたものの、やはりそこも避けるべき塩湖なんだとトレンチは確信した。流出河川を持つのに塩湖であるという不自然さというか珍しさには、知識のない彼は気付かなかったけれどね。

  ふと、彼は虫が発するものでない生物の気配を感じた。それはずいぶん懐かしいような、そうでないような、心地が良いような、不安になるようなものだった。

  あの石だ、とすぐに気が付く。でもどうして、持ってきていないのに?――と、どうやらそれは足の下にあるようだった。うんと足を延ばしてみると、湖底に足が届いた。彼は頑張って、底に沈んでいるに違いないそれを拾い上げようとした。別の石を拾い、別の石を拾い、三度目で漸く彼は目的の石を四本の[[rb:趾 > あしゆび]]でしっかり掴み取ることに成功した。

  気を抜けば体が仰向けになりそうな浮力の中、足の指から手の指へ石を移す。そうして湖面に引き揚げてみれば、その石はやっぱりワンダが見つけたものと同じ模様をしていて、生物の気配はやっぱりその石から強く発せられていたのだけれど、おかしな点がひとつだけあった。何やら別の石とも呼べないような小さな石、大きな砂、ちょっと表現に困る程度の小石をたくさんくっ付けていたんだ。

  ここで彼は気が付いた。石が発していたのは生物の気配そのものでなく、磁気なんだと。ふだん雇用主の接近や虫の気配を磁覚で感知することが多いから勘違いしたんだと。磁気といっても、磁鉄鉱由来の砂鉱が発する磁気でそんな勘違いを起こすことはないのだけれど、それは強さが一定だからだ。この石から放たれる磁気は、強くなったり弱くなったりまるで生物のように振る舞っている。そのせいで勘違いしたんだと。

  ひとつの疑問に解がもたらされ、トレンチの心は少し落ち着いた。ただ問題は、どうしてその石でそんなことが起きているのか。

  生物の気配がしなくなり、その石に付着していた小石が音もなく離れた。かと思えば、また強くなる生物の気配に伴い、離れていた小石が再び引き合った。知識と教養が足りないトレンチには、その現象に自分を納得させる理由を見つけることができなかった。

  けれど、その石をいろいろな方に向け、方角によって強弱が決まることを見つけた。……と思いきや、別のタイミングでそれを試すと、強弱が変わる方角が変化していた。まるで、見えない存在が空中をあちこち浮遊しているかのように。

  「――神霊、なのか?」

  脈絡もなく、トレンチの頭にひとつの説が浮上した。ファルコによれば、神霊とは[[rb:太陽の国 > ソラス]]においては神の使いであり、また自然を司る存在だという。

  そんなまさかと思いながらも、右で試し左で試し、徐々にその仮説が現実味を帯びてくる。それを決定付けたのは、遊泳しながらもうひとつ同じ石を見付けてからの行動だ。彼はふたつの石を左右の側頭部に同時に密着させ、発生する磁気の変化を調べた。するとどうだろう、磁気はとても弱いものだから手に取るようにとまではいかないものの、気配の動きを感知することができたんだ。それはゆっくりではあるけれど、生物のように、自由気ままに、おかしな例え方をするとワンダのように。そしてその動きは風向きと相関性がなかった。強いて言えば虫の移動に合わせているように感じるタイミングもなくはないけれど、そうかと思えば正反対を向くこともあった。

  神霊は、いる。むろんその仮説自体が間違っているかもしれないけれど、トレンチにはそうとしか思えなかった。そのことに彼は甚く興奮した。見えない存在がそこにいて、それを感じ取る方法が存在する!――彼は自分の中にこんな心躍る感情が存在していたことに感動した。彼は今、ワンダと同じ子供の心を取り戻していた。

  やがて虫が過ぎ、巣から出て湖にやってきた子供たちは、沖に浮かびながら頭に石をくっつけ、何もない空中をあちこち見つめるトレンチの奇行に、揃って首を傾げたものだった。

  まだ太陽は高度を上げる余地があるというのに、虫が過ぎたこの頃はなぜだか気温が下がる。それはファルコによれば雨が近いからだと言うけれど、自信がないとも言っていた。子供たちは汗を流しながらまた少し作業をし、やがて雨が始まると同時に巣に引き上げていった。塩漬けのトレンチだけは暫く外に残り、雨に打たれて体を洗った。

  そうだ、ちょうどいい機会だから彼の模様でも説明しておこう。[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]は模様が売りと説明したにも拘らず、その模様を語らないわけにはいかないからね。

  彼の模様は本当に美しい。生まれたばかりの頃も、この時も、そしてこの先も変わらずね。成長途上な彼の肉体は未だ[[rb:最高潮 > ピーク]]を迎えていない。

  ただひとつ断っておかなければならないことがある。以前にもちらっと言ったことではあるけれど、これから行う説明と同じ色を、彼らは見ていない。鳥人類はきみたちよりも多くの色を認識できるからね。その不可視の色をきみたちの可視域の色に置き換えることは中々できることではなく、場合によっては、というか殆ど不可能だ。従って[[rb:月の国 > キャラハ]]が定めた色の名を用いることにも然したる効果はない。だから、ここでは敢えてきみたちが認識する世界を基準として、きみたちから見たらどういう色になるかということの説明になるから、飽くまで参考程度に留めておいてほしい。

  さて、それを踏まえると、[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]たる彼の彩色は、彼らからすれば相当に派手なものとなる。そのうえ五体満足であり、磁気感覚にも優れている。彼の奴隷としての価値はきわめて高くなりそうなものだ。それなのにこんな[[rb:辺鄙 > へんぴ]]な場所で過酷な労働に耐えているのは……と、その辺の説明はあとで彼ら自身に行ってもらおう。話がいくらでも逸れてしまう。

  彼らは[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]や[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]のような飛翔能力もないのに腕に羽を生やしている。それがまた美しさに花を添えているのだけれど、[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]以外では美しさなんて殆ど不要なものだ。[[rb:求愛 > コートシップ]]に用いない種では特にね。だからここでは[[rb:風飾羽 > フラッター]]と呼ばれているのだけれど、その実、決して装飾の役割しか持っていないわけではないよ。[[rb:風飾羽 > フラッター]]は手の先……具体的には手首を過ぎた辺りから初列、続いて次列、そして脇までの三列と分布しているのだけれど、そのうち次列がもっとも長く、羽ばたけば[[rb:微風 > そよかぜ]]くらいなら起こせる。高所から飛び降りる際に羽を広げて姿勢を維持したり、着地時に羽ばたくことで着地の勢いを幾分か弱めることもできる。他にも歩行時には背中を日光から守ったり、はたまた座って膝を抱えることで羽毛のない脚部の防寒にもなる。

  彼が持つ[[rb:風飾羽 > フラッター]]は、色合いとしてはどれも青地に黒の縁取りという感じになっている。[[rb:風飾羽 > フラッター]]に限らず尾羽も黒縁で、どうやらそれと同じ黒が頭部の方にも発現しているらしい。その中では薄黄の[[rb:嘴 > クチバシ]]は良く映える。頭部は黒だけれど、首から背中、腰上、それからお腹側には鮮やかな赤色が展開している。それだけに留まらず、腰の赤からグラデーションする形で、赤茶、橙、黄、黄緑と虹色に煌めきながら尾羽の青と合流する。まさに[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]の呼称に相応しい彩色だ。といっても、[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]というのは被支配者階級ゆえの差別的な意味合いを含むネーミングだから、どれだけ美しくても、またどれだけ凛々しくても、彼ら自身はそれに対してそこまで価値を見出すことはないのだけれどね。そしてその傾向は奴隷ほど強くなる。

  彼だってそれは同じだ。自身の模様に対して何の愛着も価値も感じていない。所詮は〝交雑〟の産物だってね。だから塩塗みれになろうが知ったことではないし、発疹ができて羽抜けが起きたところで柄が台無しになるなんて考えていない。

  そんなだから、体を洗う作業だって、羽が抜けようとお構いなしに三本の指を広げて乱雑に全身を掻き毟るんだ。痒みの解消という目的もあるにはあったけれど、それだけに留まらず、頭の先から足の先、指の先から脇の下、口の中から排泄口まで、自身の無駄な模様に対する恨みでも発散するかのような手付きだった。洗えば洗うほど、彼の中には惨めな気持ちが湧き上がってきて、余計に手付きは乱暴になる。

  ただまあ、それを遊んでいるように捉えたワンダが一緒になって雨に打たれるのを見て、その能天気さに簡単に毒気を抜かれたのだけれどね。

  痒みによるストレスは彼が思っていたよりも体力を奪っていて、念願の洗身が叶ってすっきりしたこともあり、巣穴の入り口に入るなり気が抜けたトレンチは、半ば倒れるように眠り込んでしまった。ただでさえ自発的に人よりも作業量を増やしていることだし、疲れるのも無理はない。

  さてさて、長い〝[[rb:恵雨期 > プルウィオラ]]〟の始まりだ。真水を貯める作業とか[[rb:外套 > マント]]の洗濯とか、やることはまだまだたくさんあるけれど、仲間たちは疲れ果てて眠り込んだトレンチを起こすことはしなかった。あんなにトレンチに突っかかっていたチャットだってそれは同様だ。半球睡眠を行えないくらい疲れ果てているのを見れば、誰だって気を遣い、無言の労いをするものさ。おっと、便乗して眠ろうとしたワンダは容赦なく叩き起こされたけれどね。

  [newpage]

  

  前にも言ったように、彼らの巣穴は[[rb:洞穴 > ほらあな]]、もっと厳密には[[rb:熱割れ > サンクラック]]だ。彼らは住居としているけれど、旅人が外で夜を越える場合にもこういった地形がしばしば利用される。利点としては、奥に空洞がないことが殆どだから、意図しない生態系が発生する心配をしなくて済むことだ。出入口さえ固めてしまえば、安心して[[rb:休眠 > トーパー]]を行える。

  現在トレンチは睡眠しているけれど、この世界において、睡眠と[[rb:休眠 > トーパー]]を区別する必要性はそんなにないと言っていい。するとしても外部刺激に反応できるものか、できないくらい本格的なもので分けるくらいだ。日中に受ける疲労に応じて短期的または長期的に、そして脳の休息を重視した深い眠り、身体の休息を重視した浅い眠りと、彼らはある程度柔軟に睡眠のスタイルを変化させることができる。それどころか代謝の度合いをコントロールすることさえできる。どこで線引きするかなんて考える方が無駄なんだ。

  長い夜には極寒に耐えるために本格的な休眠に入るけれど、こちらも選択的にそうしているだけで、乗り切るだけのエネルギー源を確保できるならば[[rb:短期休眠 > デイリートーパー]]を繰り返してもいい。実際、種は限られるけれど、夜の直前に出産した場合にはそういった方式を採るケースもある。

  よほど本格的な[[rb:休眠 > トーパー]]でない場合、脳は半分ずつ眠り、外敵の接近などにはすぐに気付けるようにしている。それが半球睡眠というものだけれど、トレンチがぐっすり眠り込んだのは、それどころじゃないくらい疲れていたからだ。とはいえ、序盤こそ習性に[[rb:悖 > もと]]る睡眠をしていた彼も、少し眠ればすぐに正常な半球睡眠に移行した。

  なぜここで睡眠の話なんて持ち出したかというと、彼が眠っている間に少しだけ関連性のある会話が行われるから――それもちょうど特筆するに相応しい内容だったからなんだ。……おっと、〝語っている〟のに〝特筆〟なんておかしいかな? それを気にすることは、睡眠と休眠を区別することくらい無意味なことだ。聴覚も、視覚も、突き詰めると同じものなんだから。

  「[[rb:休眠 > トーパー]]を狙うっていうのは?」

  「確かにそれは有効だ。夜越えの[[rb:休眠 > トーパー]]は完全に無防備になるからな。しかしいくら間抜けでもそんなものを警戒しないわけがない。奴が集落に身を寄せているのはそういうことだ。不寝番がいると見ていいだろう」

  「あの〝尻尾無し〟は普段どこにいやがんだ?」

  「常に集落にいるわけではないようだ。奴らは様々な目的で、縄張りの中にいくつかの拠点を点在させている。そのうちのひとつが近くにあり、行動パターンを鑑みても、普段はそこにいるのだろうと私は見ている。だが単独ではあるまい。あの雇用主の男がどういう立場にあるかは判らんが、他の[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]と違い、体に[[rb:染色 > ペイント]]を施していないところを見るに、儀式の類を軽視しても許される程度の立場ではあるだろう。そんな男が一人で夜を越えるとは考えにくい。不寝番を置くか、夜越えは集落に戻るかしているだろう」

  片方の脳だけ眠っているといっても、それではもう片方の脳はしっかり覚醒しているかというとそうでもない。そうだね、きみたちで例えるなら寝起き前の[[rb:微睡 > まどろみ]]からさあ起きるぞという辺りの意識レベルじゃないかな。きみたちの生態に明るいわけではないから間違っている可能性はあるけれど。

  「最悪あの〝尻尾無し〟の男一人ならなんとかなる気がするんだけどな……」

  「甘く見るなと言っただろう。無策でどうにかなる相手ではない」

  だから子供たちの会話も一応ぼんやりと聞こえてはいるけれど、起きて時間が経ったあとに思い出せと言われても思い出せないかもしれないという程度の意識レベルだ。

  「別にこうしたいってわけじゃねえけどよ、例えば全員で向かったとしても勝ち目はないのか?」

  「どうだろうな。奴がどの程度の使い手かによるだろうが、それでもかなり分の悪い賭けになるのは間違いない。霊術を使っているのは何度か見たことはあるが、魔術に関しては未知数だ。……まあ、この場所では使えないのかもしれないが」

  「ねえねえ、魔術ってなに? 霊術とどう違うの?」

  「霊術が太陽の呪いだとすれば、魔術は大地の呪いとされる。大地に巡る[[rb:龍脈 > マグネクトム]]から力を得て、霊術と似たような現象を起こす力だ」

  「そんなモンが実際にあんのかよ?」

  「さてな、感じ取ることができない以上、あるともないとも言えんが、事実として奴らはそういう力を用いている。だがエスメアでは[[rb:龍脈 > マグネクトム]]が不活性らしいと聞いたことがある。エスメアに近いこの場所も、魔術に頼る魔獣の姿を見かけないところから察するに、同じと考えて良さそうだ。断言まではできんが、奴らはこの場所においては霊術しか使えないのかもしれない」

  「つまり霊術さえどうにかなれば奴らに勝てる?」

  「どうにかなることはない。霊術や魔術を使えない鳥人が奴らに対抗できた理由を思い出してみろ。我々には圧倒的に〝武器〟がない。それも木の枝で作ったような子供の玩具のことではない」

  「……銃」

  「そうだ。[[rb:探知機 > センサー]]と銃、それらがあって、初めて我々は同じ土俵に立てる。そして土俵に立てるだけで対等ではない。奴らは霊術を用いて結界を作ることもできる。その結界の前では銃すら無力だ。むろん立ち回り方にもよるだろうが、武器を触ったこともないような半人前が熟練の戦士と同じことができるはずもない。我々が銃を手にしたところで、せいぜい一人ひと呼吸の時間を稼げるかどうかというところだ。ましてや丸腰の[[rb:鳥人 > トリ]]など、奴らにとってはただの肉塊でしかない。飛び道具に頼るのは身体能力にも大きな差があるからだ。私もまだまだ発育途上ではあるが、例え大人の[[rb:膂力 > りょりょく]]を得たとしても太刀打ちはできん。我々が奴らより優れているのは、せいぜい足の握力くらいのものだろう。体の中でもっとも頑丈な足、その足に生える爪で以て首に致命傷を与えることができれば或いは……と言ったところだが、おそらくそれよりも早く足を折られるだろう」

  「銃はどうやって作る?」

  「ここでどうにかするのは不可能だ。火薬が無い。火薬を使わない銃も存在はするが、それにしても金属がない。砂鉱がいくらあっても、それを溶かして製錬する技術や設備がなければ無意味だ。私は育つ過程である程度の知識を身に着ける機会があったが、それでもこの状況を打破するには不足している。他に知識のある者でも居ればいいが」

  そこで沈黙が流れる。奴隷にそんな高い教養を求めるのは望みすぎだね。ここまでのことを知っているファルコが異質なだけだ。

  「こいつはどうなんだ?」

  チャットはトレンチに目を移しながら言う。

  「ギルと同じ観賞用だったとは聞いているが、どうだろうな、教養を与えられたようには思えんが」

  「あの不気味な耳無し男、こいつを見て〝種無し〟って言ってたのを聞いたぞ。知り合いなんじゃねえ?」

  何となく聞き覚えのある単語が出てきて、一定を保っていたトレンチの意識レベルに一抹の乱れが生じた。うっすらと彼の左目が開いた。

  「[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]は模様を重視した無理な交配が特に盛んだ。あの男が種全体を〝種無し〟と呼んでいてもおかしい話ではない」

  「そりゃちょっと無理があるぜ。そんな口ぶりじゃなかったように思うけどな」

  「ねえ、種無しってなに?」

  「お前にゃまだ早い」

  「じゃあ[[rb:探知機 > センサー]]ってなに?」

  「お前はほんっとすぐに話が飛ぶやつだな」

  「[[rb:探知機 > センサー]]というのはな、鳥人が奴らに対抗するために発明した利器のひとつだ。それを用いれば、神霊の気配を察知することができる」

  ――神霊!

  その単語が飛び出したことで、トレンチの意識が即時覚醒した。

  「やっと起きやがったぜサボり野郎が」

  目を開け、首を[[rb:擡 > もた]]げたトレンチにチャットが逸早く気が付いた。

  「今、神霊って」

  「何だよお前も神サマ肯定派になったのか?」

  「神霊を察知する……とか、言ってなかったか?」

  「ああ、[[rb:探知機 > センサー]]の話をしていた。原理や機構までは解らんが、[[rb:月の国 > キャラハ]]の鳥人はみなそれを装着して霊術に対抗している」

  それって、その機構ってもしかして――!

  「だがまあ――」

  あの石だ、と立ち上がろうとするトレンチにファルコが発言を被せた。

  「仮にその[[rb:探知機 > センサー]]を用意できたとしても、銃に代わる武器を用意できなければ勝ち目がないことに変わりはない」

  ファルコはトレンチに目を向けている。それ以上は言うな、逸る気持ちを抑えろ、とでも言わんばかりに。――ファルコは、あの石がどういうものか、知っている!

  どういうつもりなんだろうとトレンチは落ち着いて考える。もし自分が[[rb:探知機 > センサー]]は存在すると言った場合、みな揃って驚くことだろう。神霊の存在をその身で感じ、大いに感動を覚えるに違いない。そして神霊の気配を感じることができるということは、霊術の発生を予見することができるということで、それは幾らかでもこの状況を打開する可能性を上げるものとなる。

  けれど、やはりファルコの言う通り、子供たちには圧倒的に武力が無い。そんな中で半端な希望が生じることは、無駄に士気を高め、[[rb:徒 > いたずら]]に反抗心を膨れ上がらせてしまうのではないか。ファルコはそういうことを言いたいのではないか。それは確かにファルコの行動原理と合致する。けれど。

  「んで、神霊がどうかしたかよ?」

  「……いや」

  立ち上がろうとした姿勢を取り繕うように座り直し、代わりに彼は外を指差す。

  「例えば今この時も、洞穴の外あたりにうようよ浮いてるのかなって思って」

  「へっ、想像したくもねえ」

  「うようよかは判らんが、[[rb:探知機 > センサー]]を用いれば神霊の力の強さ、そして距離や方向といったものが判るそうだ」

  ――やはりファルコは知っている。原理も、機構も、材料も、作り方も。今の言い方はそれをトレンチに伝えようとしているんだ。湖でトレンチが何をしていて、何を突き止めたのか、ファルコは気付いたんだ。そのうえで自分は知らない振りをしているのだから、おまえも知らない振りをしろということなんだ。

  「なあファルコ」

  果たしてその真意は? 本当に子供たちを危険から守るため?

  「ファルコはどうしてそんなに色々なことを知っているんだ?」

  「どうした珍しいな、他人のことを聞きたがるなど」

  だって、知っていることがあまりに多すぎる。

  「本国生まれだったっけ。本国は奴隷でもそんな高度な教育をされるものなのか?」

  考えてみれば活発な[[rb:剛潰虫 > クラッシャ]]を無傷で仕留めることだっておかしな話だ。豊満な果実だって、ファルコだけが許された遠征で持ち帰ったものだ。

  「高度ではない。こんなもの、[[rb:月の国 > キャラハ]]に生まれたものならば誰だって知っている」

  考えたくないことだけれど、トレンチはひとつの可能性に思い当たってしまった。それは――。

  「〝[[rb:囀り集えば知恵の海。秀翼掬いて船を成し、衆羽率いて月へ発つ > ワイズ・ハーモニー・ワイズ・アカンパニー]]〟」

  その疑念を見透かしたように、ファルコはトレンチを強く見据えた。

  「私やチャットにもしものことがあれば、次はおまえが子供たちを率いなければならない」

  その言葉に、ファルコの総ての意志が籠もっていた。自分の生き様も、信念も、子供たちの命をどれだけ重く考えているかも。ひとつの言い訳も弁解もせず、彼はトレンチを説伏したんだ。

  「状況を正しく見極め、みなを正しく導いていかねばならない。そのためには、情報を正しく分析し、その情報が自分たちにどれだけ有益なものであるか、自分たちに都合のいい解釈でなく、客観的な目で、冷静に判断しなければならない」

  それが命を預かるということなんだ。言わなかったけれど、トレンチには痛いほど伝わった。頼るということは命を預けることで、頼られるということは、命を預けられることに等しい。そしてそれをいったん受け入れれば、預かった命を守る責任が生じる。ファルコは、そういう覚悟でリーダーの立場にいるんだ。

  「おい[[rb:五体満足 > フローレス]]、お前も情報全部出せよ」

  「情報?」

  「あの妙な男は何者なんだよ。知り合いなんだろ?」

  「知り合い?」

  「お前のこと〝種無し〟っつってただろ」

  「……ああ、寝てる間に何か話してたな。オレは知らないけど、あっちが一方的に知ってたのかもしれない。[[rb:月の国 > キャラハ]]から[[rb:太陽の国 > ソラス]]に売られる時にいろいろあったから」

  「いろいろ?」

  ああ、と短く答え、トレンチは岩壁にもたれて話し始めた。それは生い立ちのことだ。二年以上も一緒にいて、彼らは初めてトレンチの[[rb:素生 > すじょう]]を知る。

  奴隷の世界というのは至極ドライなもので、鳥人だったら卵のまま仲介業者に売り買いされるなんてよくあることだ。当然親の顔なんて知ることなく育つ。

  ファルコが軽く言ったけれど、[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]においては、美しい模様を持つ親同士を掛け合わせ、観賞用の奴隷を作って高値で取引するということがそこそこの規模で行われている。

  被支配者階級ということもあるけれど、[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]や[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]という括りはかなりざっくりしていて、必ずしも同じ種同士で子供ができるとは限らない。無理にそれをするのは交雑に当たり、たとえ子が生まれたとしてもその子は不妊となる蓋然性が高い。けれど生まれた子は奴隷となる運命なのだから、繁殖能力が備わるかどうかなんて、そんなことは知ったことではないんだよ。

  それはさておき、現在の緩衝街である〝シカルド〟という街で、幸運の小鳥は欠損を持たずに生まれた。支配者階級の鳥人権力者に観賞用として買われたおかげで、幼いころの待遇はそう悪いものではなかった。悪趣味な装飾で飾られ、栄養のあるものを与えられ、それはそれはたいそうな寵愛を受けたものだ。けれど、金持ちの道楽が長続きする事例は少ないわけで、二年経たずして飽きた主人に[[rb:太陽の国 > ソラス]]との交易品として売られていった。

  始めは同じように観賞用として市場に並べられたものだけれど、[[rb:太陽の国 > ソラス]]の連中はトレンチの体に芸術的に展開される鮮やかな赤色を認識できるような目を持たない。いずれは獲得するかもしれないけれど、今のところはね。

  それでまあ、トレンチの美しさに価値を見出せなければどうなるか。同じ[[rb:鳥人 > トリ]]相手であれば模様の価値を見出すのだから、[[rb:鳥人 > トリ]]に売り直せばいい。そう考えるのは当然だけれど、[[rb:月の国 > キャラハ]]が売る[[rb:鳥人 > トリ]]と[[rb:太陽の国 > ソラス]]が売る[[rb:鳥人 > トリ]]ではもはや商品価値に差が生まれてしまっている。それならば次の手だ。

  身体の欠損のない優良品ゆえに、交配用として〝宿〟に売るのはどうかとその時の主人は試みた。けれど、運が悪いのか相手が悪いのか、はたまた彼自身無理に作られた交雑種ゆえか、トレンチに子供を作る能力は無いと判断されるに至った。そうなれば残された道は二つ。赤字にはなるけれど幼鳥のうちに手っ取り早く好事家に食肉として高値で売るか、肉体労働に従事させ長期で採算を取るか……。主人が選んだのは後者だった。

  「……で、あとはみんなの知る通りだ」

  「何だよお前も〝宿〟生まれかよ。そんなら教養も何もあったもんじゃねえな」

  そんなことを言ったって、奴隷どころか一般人の半数以上が〝宿〟生まれなのだけれど。

  「ねえねえ、宿ってなに?」

  「お前にゃまだ早い」

  「また言った」

  「しかし話のどこにもあの男の影がねえな。さては総元締か?」

  「奴隷商とは限らんぞ。[[rb:緩衝街 > シカルド]]の絡みならば、もっと大きな貿易・流通の顔役かもしれん」

  「逆に言や、こんな小さなところがひとつ潰れたところで屁とも思わねえ可能性もある」

  「それは楽観的な考えだ。奴は採算を頻りに気にしていたぞ。慎重に慎重を期さねばならない。……しかしあの男、どこかで見た気がするが思い出せん」

  「見たことあんのか? どこで?」

  「勘違いかもしれん。私は[[rb:緩衝街 > シカルド]]には行ったことがない。もし会ったことがあるとしてもトレンチのように仲介の時なのだろう。[[rb:緩衝街 > シカルド]]出身のおまえこそ見覚えはないのか?」

  「あの街の記憶なんて殆どねえよ。何せ暴れすぎてこんなところに飛ばされたくらいだからな。ぶん殴られて、目が覚めたら知らねえ街だ」

  「実におまえらしいな」

  その話題はそこで終わったけれど、その後いろいろな方面から議論がなされた。というのも、〝[[rb:恵雨期 > プルウィオラ]]〟が終わってやってくる〝[[rb:晴雲期 > パルティオラ]]〟でも半分の期間は仕事ができず、巣籠もりを継続するからだ。

  〝晴〟とは名ばかりで、雨が止んでも暫くは薄雲に覆われている。〝[[rb:恵雨期 > プルウィオラ]]〟で降った雨が蒸発することで新たに生まれた雲だ。太陽は午後線を越え、気温は最も高くなるはずなのだけれど、雨雲やそれに続く薄雲が長く日差しを遮るお陰で致命的な暑さにならずに済んでいる。

  とはいえ湿度は極端に高くなり、単に暑いよりも遥かに危険になる。このときばかりは雇用主も働くことを強要しないから、子供たちにとっては羽休めの期間になる。〝[[rb:恵雨期 > プルウィオラ]]〟から数えれば、実に月が十二分の三満ちるほどの長い間ただ暑さに耐えるだけの時間ではあるけれど、口うるさい雇用主に会う必要もなければ日光の下で働く必要もない、子供たちにとってはそれだけで楽園なんだよ。以前、トレンチたちの労働環境はそれなりに悪い部類と言ったことがあるけれど、もっと下を見てみると、この時期でも地下で働かされるなんてざらにある。ここでは砂鉱と製塩だけで儲けが多く出ているし、街からかなり離れたところに位置しているから、そう簡単に死なれては奴隷の補充が面倒だという事情も絡んでいるけれどね。

  その長い期間、子供たちはいろいろな話をした。けれど、どんな話をしても、最終的には武器がないうちは何もできないという結論にしか行き着かず、彼らの盛り上がった士気はそのうち立ち消えになりつつあった。トレンチはファルコがどこか安堵しているように見えてならなかった。トレンチの心の底には複雑に渦を巻いた[[rb:蟠 > わだかま]]りがいつまでも残った。むろん、それはファルコに対する疑念が大半を占めている。

  さてファルコだけれど、――先にこう明かしてしまうのは不適切だと判ってはいるけれど、トレンチが抱いた疑念とは無関係の純粋な心を持つ少年だ。

  ファルコは、ここに来る前は[[rb:月の国 > キャラハ]]の本国にいた。彼は戦争という動乱が残した爪痕の体現者だ。国を作り上げた誇り高い種族の一翼である[[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]が、例え不具であろうと奴隷となって他者に従うなんて、戦争前には考えられなかったことだ。

  彼の主人もまた[[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]であったけれど、そんな状況に心を痛め、嘆き、世を変えようとしていた。要職でありながら、自ら戦線に立って指揮を執るほど勇猛果敢な人物で、教義に従い、道理を重んじ、平民や奴隷に対して分け隔てなく接する人格者だった。自分の世話すらろくにできないうちから仕えていたファルコは、その主人の思想を強く受け継いでいた。

  ファルコはあらゆる場面に付き従い、身の回りの世話、雑務を任された。彼の持つ知識はそうして与えられたものでもある。戦士であった主人が使う銃を見たこともあれば、戦地で[[rb:太陽の国 > ソラス]]の民が用いる霊術や魔術、結界術を見たこともあるし、武器の製造工場を見たことさえある。

  だからこそ不可能だと知っているんだ。こんな辺境での付け焼刃が何の役にも立たないことくらい。子供たちが団結したところで助かる見込みがないことくらい。主人が対峙してきた相手を基準にすれば、戦う力を持たない子供たちの上でふんぞり返っている雇用主の力量など比べるに値しないほどだ。けれど、それでも敵わないことを知っている。銃を持たない[[rb:鳥人 > トリ]]なんて、ただの肉塊でしかないんだから。

  なるほどチャットの言うように、相手を一人と設定するならば、全員で掛かればなんとかなる可能性もなくはない。けれどそれからどうなる? 雇用主一人を殺せたとして、集落の仲間たちは追いかけてくるはずだ。それは過去に三人が逃げ出した事件で、一人では到底成し得ないほど早く追撃が遂げられたところからも明らかだ。

  それに、よしんば逃げ切れたとして、保護を求める先がどこにある? 本国は遥か島にあるし、付近の街も集落も[[rb:太陽の国 > ソラス]]の領地だ。現在の緩衝街であるシカルドにしたって治安が良いかファルコにとっては不明だけれど、どれだけ楽観的に考えたとしても、奴隷が一般人として保護される道理なんてあるはずがない。再び奴隷に戻るか、最悪殺されるか、どちらかだ。大いなる犠牲を払って、希望など何もないと結論付けられるだけなんだ。

  始めから彼らに道は無い。ファルコはそれを知っている。[[rb:太陽の国 > ソラス]]の地において、[[rb:月の国 > キャラハ]]の民の存在が奴隷以外に許されないことを、彼は誰よりも知っているんだ。誇り高き戦士たちはこの地で羽を散らし、奴隷である彼だけが生き残った。

  奴隷のファルコは大いなる意志だけを継いでしまった。身の丈に合わないほど大きな正義感を。主人がしてくれたように、子供たちを愛そうと思った。強く逞しく生きることで、主人の代わりを務めようと思った。そうして立派に死した暁には、〝[[rb:錘秤神 > アルビタ]]〟が彼の生き様を正しく評定し、主人と同じ〝根〟に連れて行ってくれるはずだと。

  ファルコは子供たち全員に多大な愛着を持ってしまっている。彼らの命を大切に思い、愛おしく思っている。彼の強すぎる正義感は、このように制限された環境においては己が身を切り刻むものに他ならない。自由が利かない、満足に率いることができない、力が足りない。年少者に犠牲が出るたび、彼は心の内で大量の血涙を流した。そうして辿り着かざるを得ない方針は、チャットが言ったように「せめて苦しまずに死んでいけ」と、結果的にはそうなってしまっているけれど、彼だってそんなことを本気で望んでなんかいない。もっとも血が流れず、もっとも犠牲が少ないのが〝ただ耐える〟こと……ただそれだけなんだよ。もしも彼に圧倒的な武力が備わったとするならば、彼は先陣を切って[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]に反旗を翻すだろう。

  彼は戦士だ。奴隷だけれど、熱く美しい魂を宿した[[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]なんだ。

  どうしてここでファルコの生い立ちを語ったかというと、それは彼の強き生き様に対する敬意がひとつ。誰の生き様も知ることなく子供たちの命を重んじることができる、愛情と使命感への敬意だ。

  そしてもうひとつは、誰にも身の上を明かすことなく散ってゆく、彼の気高き死に様に対する弔意だ。

  その切っ掛けは、〝[[rb:繁獣期 > ベスティオラ]]〟にやってきた。

  [newpage]

  

  〝[[rb:晴雲期 > パルティオラ]]〟が終わり〝[[rb:繁獣期 > ベスティオラ]]〟になると、漸く虫以外の生物も満足に活動できる。雲が晴れ、気温や湿度はある程度落ち着き、再び自然の恵みを享受できる時期だ。〝[[rb:黄昏期 > ダスクオラ]]〟に始まる巣籠もりに向け、そして繁殖に向け、誰もが騒ぐ時期となる。といっても、後半にはイナゴもとい[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]が緑を求めて逆方向に襲来する〝戻りの虫〟があるから、獣たちに与えられる時間は僅かなものだ。この星の主役はどこまでも虫なんだ。

  〝獣〟という語句が指すのは魔獣だけでなく鳥獣人類たちもだ。街住まいの人々はこの限りではないけれど、それでも本能に刻まれた[[rb:周期 > サイクル]]を思い出さずにはいられない。そのために〝宿〟がある。

  もっとも、奴隷として働く子供たちには殆ど関係がない話なのだけれど、その関係が発生してしまった。こんな時期に雇用主の[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]は女の子という波乱を呼び込んだんだ。

  「面倒はお前らが見ろ。言っとくが交尾は禁止だからな」

  子供たちは、あの妙な男が言った〝ご褒美〟が、実質的には懲罰であることを知った。

  「待て、死んだギルは砂鉱採集を主に担当していた。その代わりではないのか」

  雇用主が湖に連れてきたのは[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の女の子だった。そのこと自体は大した問題ではないよ。性別問わず奴隷は労働力だし、労働に従事する女の子は生殖機能に障害を抱えている場合が多い。けれどその子は足はあるものの発達が不十分で、とても肉体労働に耐えられるようには見えない。それに――ファルコはちらりとその子を見る。

  「見たところ[[rb:卵用 > らんよう]]奴隷のようだが」

  ここにいる子供たちと比べて肉付きの良い体を見れば、その子は卵の生産を目的として育てられた奴隷に他ならない。

  「ああ、その通りだが」

  「ここには[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]が二人いる。そこに放り込もうというのか」

  雇用主は、新たに連れてきた女の子を、あろうことか七人の男の子と同じ巣に[[rb:同衾 > どうきん]]させようなどと言う。しかもそのうち二人が彼女と交配が可能な[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]だ。意地が悪いにもほどがある。

  「だからそう言ってんだろうが。そのメスの面倒はお前らが見る。交尾は禁止。以上だ」

  女の子を残し、雇用主は[[rb:外套 > マント]]を翻して去っていこうとする。

  「異議を申し立てる。圧倒的に食糧が足りない。彼女はこれから夜明けの産卵に向けて栄養を多く必要とするはずだ。我々のみでも夜を越せない者が発生するほど[[rb:飢渇 > きかつ]]している現状、それは不可能だ」

  「ギャーギャーうるっせえなあトリ訛りがよお。〝あの人〟が言っただろうが、お前らは交渉できる立場にねえんだよ。できねえならもっと頑張れや」

  「交渉ではない、嘆願だ。三年以上この現場を見てきたが故の率直な意見だ。どうか耳を傾けてほしい」

  「うるせえっつってん、だろ!」

  突如雇用主が振り返り、[[rb:外套 > マント]]から現れた足でファルコを蹴り上げようとし――空を切った。背後に跳躍して避けたんだ。

  [[rb:泥濘 > ぬかるみ]]の中にあってもファルコは身長以上に飛び上がり、空中で身を翻し、[[rb:風飾羽 > フラッター]]の助けもなく綺麗に足を曲げて着地した。その華麗な身のこなしに子供たちはみな驚いた。

  「……ああイライラする。なに偉そうに避けてやがんだ。口の利き方といい、どいつもこいつも立場を判っていねえようだなぁ」

  雇用主の感情が苛立ちから敵意へと変化した。牙を剥く雇用主に子供たちはみな本能的に恐怖を感じた。

  ただ、当のファルコは違った。

  「立場が判っていないのはどちらだ」

  すっと立ち上がったファルコは、臆することなく強い意志の籠もった目で雇用主に近づく。

  「労働環境の整備・維持は管理者の責務だ」

  そうして間合いの外で足を止め、

  「虫も狩らぬ武器も与えぬ食事も与えぬ、挙句の果てにはこの仕打ち……。貴様はそれでも美しき魂を志す[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]か、恥を知れ!」

  トレンチもチャットも開いた嘴が塞がらなかった。やりすぎだファルコ、言いすぎだ、殺されるぞ。けれど止める度胸は出なかった。

  「もっと頑張れと言ったか? 努力の余地がまだあるのに命を落とすことなどあるものか!」

  その熱の籠もった弁が、いつ潰されるか。気が気でないトレンチは雇用主の男を恐る恐る見ると、意外なことに雇用主は牙を剥くこともなく至極落ち着いていた。[[rb:外套 > マント]]に皺を作りながらしゃがみ込み、ファルコと目線を合わせ、にこやかに微笑みかける。それはまるであの妙な男がトレンチに向けた笑みのようで――。

  「いい度胸だ。他に言い残すことはあるか?」

  トレンチは我が事のように息を呑んだ。

  「ほう。正当な理由もなく私を殺す気か?」

  それでもファルコは動じない。

  「理由もなくとはよく言ったもんだ。こいつは立派な反抗だぜ」

  「これを反抗と捉えるか。良いか[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]よ、立場を判っていないというのがどういう意味かまだ理解していないようだな。――歯向かう気があるならとっくにやっているということだ」

  そうしてファルコは敵意の籠もった目を向け、声を落としてこう呟いた。

  「――私は貴様の結界術の限界を知っているぞ」

  雇用主の顔から笑みが消えた。一番近くにいて発言を辛うじて聞き取れたトレンチも血の気が引いた。だって、ファルコの放ったそれは、明らかに雇用主への宣戦に値するものだからだ。雇用主は身じろぎひとつしていないけれど、腰を少し浮かせて臨戦態勢に入っているように見えた。今にもファルコに向かって飛び掛かるか、ファルコが燃え上がるか、そのどちらかが起きる――。

  「そのうえで私は貴様に従っているのだ。その意味を理解してほしい。今、おそらく神霊を呼んでいるのだろうが、私を殺すことに意味はないぞ。それどころか、私を殺せば食糧の確保が難しくなり、どれだけ少なく見積もっても次の夜明けに四人死ぬ。栄養を得られなかった彼女もまた、今回の夜は越せるだろうが卵を産むまではできまい。――[[rb:奔套兎 > エスケープ]]の集落からの帰り、ここに立ち寄った〝あの男〟がその醜態を見てどう思うだろうか? 果たして奴隷たちの落ち度と見做してくれるだろうか? いいや、赤字を気にするあの男は、貴様に管理責任を問うに違いない」

  飛び掛かることも怒ることもなく、雇用主は穏やかにファルコを見続けていた。

  「で、燃やされる覚悟はできたか?」

  「私が死ぬことで彼らの待遇が改善されるのならな」

  「しないと言ったらどうする?」

  「どうもできんな。我々に与えられた自由は言葉だけだ」

  「大した心掛けじゃねえか」

  雇用主は息を吐き、徐に[[rb:外套 > マント]]から手を出し、ファルコに向けて伸ばしていく。そんな、そんな――!

  待ってくれ、と駆けだそうとしたトレンチをファルコが止める。

  動くな、と全員を制し、伸びる手を受け入れる。

  そうしてついに、雇用主の太い腕が、ファルコの首を捕えた。ファルコは身じろぎひとつしなかった。首が締まっても、そのまま持ち上げられても、あまつさえ、爛れた背中から煙が出始めても。雇用主の男は、ファルコの傷に追い打ちをかけるように、その部分だけに火を付けたんだ。ファルコは耐えた。それでも耐えた。痛みに震えながら、悲鳴を上げもせず、力強い、揺るがぬ信念を籠めた目のままで。その眼光は、声を荒らげて向かってきたチャットを一瞬で怯ませるほどのものだった。

  「大したガキだ。感心するぜ」

  けれどファルコの全身が燃え上がることはなかった。霊術を止めたのか、はたまた燃える羽毛がないからなのか、火はいつの間にか消失し、立ち上る煙だけが残った。

  「いいだろう、お前の覚悟に免じてそのメスのエサだけは用意してやる。ただし砂鉱の[[rb:規定量 > ノルマ]]は八匹分のままだ。これは譲らねえ」

  まるでゴミでも捨てるかのように、男はファルコを放り投げた。背中が擦れたファルコはそこで初めて声を漏らした。

  呻き苦しむファルコを見下ろしながら、雇用主は冷徹な目を向ける。

  「言っとくが、例えここでお前ら全員殺したとしても言い訳は立つんだ。それをしないのは俺の慈悲だと思え。まあ、後の処理が面倒なだけだがな」

  雇用主は今度こそ踵を返し、去っていった。

  全身の緊張が抜けたトレンチはその場に座り込みそうになるのを堪え、ファルコに駆け寄る。他の子供たちもそれに続く。

  「ファルコ、大丈夫か」

  背に傷があることでどう介助していいか判らないトレンチは、とりあえず手を差し出した。ファルコはその手を掴み、嘴を食い縛って起き上がる。ファルコの背は泥だらけで傷の具合は見えなかったけれど、彼らの嗅覚でさえ感知できるほどの臭いが程度を物語っていた。

  「どうということはない。それより……」

  ファルコは自分の傷を顧みず、新たな仲間に目を向ける。

  「いきなり醜態を曝してしまって心苦しいが、ようこそ」

  [[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の女の子はたどたどしい足取りでファルコのもとに歩み寄り、

  「名はありませんがよろしくお願いします」

  トレンチでさえ聞き惚れそうな美声で言った。ファルコとトレンチは同時に子供たちの様子を見る。チャットとマーニー、二人の[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]は、その声に目を丸くしていた。

  「ああ、よろしく」

  ファルコは重くなる気持ちを出さないようしっかりと挨拶を返し、それから子供たちに指示を与え始めた。ファルコをここのリーダーと見て取った女の子は、ファルコに対し、小声でこう告げた。

  「歓迎されていないことは承知しています。できるだけお役に立てるよう尽力します」

  「あ、ああ……」

  ファルコたちよりは明らかに年下で、トレンチと同じか、或いは年下といったところか、それでもファルコの心中を察せられるくらいには彼女は聡明だった。

  けれど、彼女の言葉は建前じゃなかった。彼女には行動力が備わっていた。ファルコは傷口を洗浄することを真水の節約を理由に断っていたのだけれど、それならと彼女は湖の塩水で洗わせた。悲鳴を上げようがお構いなく、焼けた地肌が見えようとも動じず、爪が立たないよう手の甲で念入りに擦って泥を落とした。そうして最後に少量の真水で洗い流せば消費は少なくて済む。それですら渋ったファルコだけれど、介助を手伝ったトレンチが、夜明けには雪融け水もあるのだから気にすることはないと言うと黙って受け入れた。

  ファルコが子供たちに出した指示というのは、当然のことながら〝間違い〟が起きないようにするための措置だ。普段は巣を同じくしてもいいけれど、〝[[rb:繁獣期 > ベスティオラ]]〟から夜明けまでの間は巣を別々にする必要がある。彼女一人、もしくは[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の男の子たちだけでも隔離しなければならない。

  けれど夜の冷え込みは相当なものだ。氷のように冷やされる[[rb:休眠 > トーパー]]といえど、生存に必要な体温は最低限維持しなければならない。その僅かな熱を逃さないために子供たちはぎゅうぎゅう詰めで寝ているのだけれど、人数が少なくなればそのぶん体温が奪われやすくなってしまう。

  それで彼女はどうしたか。無謀にも単身で[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の生息域に乗り込み、雇用主を呼び出して交渉し、寝床用の藁を獲得したんだ。そうして巣の近くの岩に小さな[[rb:熱割れ > サンクラック]]を見つけ、自ら進んでそこを夜越えの巣にすると宣言した。これにはファルコでさえも驚いていた。

  そのファルコに更なる驚きがもたらされる。彼女は余った藁を編んで、ファルコの傷が日光に侵されないよう簡素な服を作ったんだ。動きにくくなると言いながらも、ファルコは満更でもない笑みを浮かべ、お返しに彼女のために枯枝を削って杖を作った。

  頼もしい仲間ができたと、みな声を上げて喜んだ。そしてファルコが殺されずに済んだ。トレンチも、なぜだか説明は付かないけれど、何かいいことが起きるような、希望が降ってくるような、そんな吉兆を漠然と感じていたんだ。けれどファルコは、東の空を眺めながら憂いを帯びた目で思案していた。

  〝戻りの虫〟を巣でやり過ごす頃には太陽はかなり傾き、〝[[rb:黄昏期 > ダスクオラ]]〟まであと僅かとなった。子供たちはこの[[rb:季 > シーズン]]最後の食糧採集に出かける。ここでどれだけ食べられるかで夜を越せるかが決まる。

  死人が出る比率が高いのはだいたいこの辺りだ。なぜなら虫たちも夜に備えてより活発になるから。[[rb:剛潰虫 > クラッシャ]]のように何度も[[rb:季 > シーズン]]を越えてきた大型の虫はもちろん、毎季世代交代をする一回繁殖性の虫でさえ、いいや、だからこそと言うべきか、幼虫や卵を守るため命の灯火を燃やし続ける。そんな神経質な虫たちを食糧として当てにするのは大変危険であり、子供たちの主要な栄養源は、[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]の蹂躙を免れた[[rb:小蘗 > メギ]]や[[rb:八手 > ヤツデ]]などの落実となる。〝戻りの虫〟が草花を食い尽くしたばかりだから、巣や湖を離れても視界は開けている。けれど、僅かな茂みでも残存していれば注意が必要だ。大型の[[rb:剛潰虫 > クラッシャ]]よりも[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]よりも[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]よりも毒虫よりも、もっともっと危険な虫が潜んでいるかもしれない。それが[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]と呼ばれる虫だ。[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]の仲間で単に〝バッタ〟と呼ばれることもあるけれど、こちらは明確に人を襲う肉食だ。感染症を媒介する虫を別にすれば、歴史上もっとも人を殺した虫として恐れられているほど単独で高い危険性を有している。トレンチはその現場を見たことがないけれど、ファルコやチャットは仲間がその虫の体当たりに貫かれる瞬間を目撃したことがあるのだと言う。

  そうならないため、ファルコはいつも念入りに周囲を警戒するのだけれど、彼は今回それにトレンチを同行させた。子供たちが安全に食事できるよう、虫の潜みやすい場所だとか注意点だとか警戒する範囲だとか、その時の茂みの残り方に応じて柔軟にルート選択をするとか、自分の持つ知識を伝えていった。

  「おまえは感覚が鋭い。私より虫の危険に気付きやすいだろう」

  「どうしてまたオレを?」

  「言っただろう、おまえが三番目の年長者だ」

  「じゃあチャットは?」

  どうして二番目を通り越して自分にその役割を教えているのかトレンチには判らなかった。ファルコは幾らか思案し、それには直接答えずにこう返した。

  「私はよくチャットとお互いを小馬鹿にしたことを言い合っているが、奴のことを蔑んでいるわけでも軽んじているわけでもないのだぞ。この三年、チャットが居たからこそ耐えられた部分は確かにある。……奴がもし本国の兵士であったなら、きっと優れた分隊長になるだろうに」

  それが、遠回しに奴隷たちのリーダーとしては向いていないと言っていることにトレンチは気付かなかった。

  「ファルコ、大丈夫? なんか熱があるみたいだけど」

  それよりもトレンチはファルコの汗が気になった。〝[[rb:黄昏期 > ダスクオラ]]〟も近いこの時期にこれだけ発汗するなんておかしいと、経験から知っているからだ。

  「おまえは経験がないか? 血沸き肉躍る、生命の喜びを感じたことはないか? そういうことだ。私は今、やる気に満ち溢れているのだ」

  トレンチには教養がない。知識がない。だからファルコの下手な強がりに「なるほど」と納得してしまう。

  「……私もまだまだ精進が足りなかったということだな」

  まったく気付かない次代のリーダーに一抹の不安を覚えながら、同時にファルコは己の未熟さを痛感してしまった。

  本当は、気付いてほしかったんだ。意志を託し、遺志を託され、別れを惜しんでほしかったんだ。これまでの行いに感謝されたかったんだ。奴隷として生まれ、奴隷として生き、奴隷として死ぬだけの一生に、せめて最期だけでも報われる瞬間が欲しかったんだ。立派に生きようと努めた己の内に、未だそんな醜い感情があったことに気付いてしまった。

  「なあ、〝シッポ無し〟の結界術の限界って?」

  「なんだ、聞こえていたか。悪い奴め」

  だからファルコはワンダのような場違いな質問に明るく答える。それなら最期まで演じてやろうと。強がってやろうと。そうすれば、ファルコと呼ばれた少年は、最期まで優しく強い意志を宿し続けた[[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]であったのだと、きっと後から惜しんでくれるから。

  「さも知っているように振る舞ったが、あれはハッタリだ。もっとも、ある程度の見当はつけているがな。……よく聞け」

  ファルコは語った。己の知る知識を、秘匿してきたものも含めて総て伝えた。一般的な結界術がカバーできる範囲や、一般的な[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]との戦い方、この縄張りにおける[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の習性、一般的な銃の知識、[[rb:探知機 > センサー]]の機構、そして、巣籠もりの時には敢えて語らなかった、結界術を打ち破る兵器の存在も。

  もっとも、ファルコ自身に戦闘の経験はないし、いくら武器の話をしたところでここで作れないことは変わりない。それなのにどうして伝えたか。「戦え」でなく「戦うな」と言うためだ。徒に夢を膨らませるなと。現実を知れば知るほど、未来が無いことを知っていくんだから。

  「知識を付けろ。教養を育め。単調な日々の中にも疑問を見付けろ。その疑問が種となり、いずれ芽を出し花となり、実を結んで糧となる。この世界には知らないことが山のようにある。それを明らかにするため科学文明は発展した。神秘を理由に思考を放棄した[[rb:太陽の国 > ソラス]]の文明と大きく異なるところだ。[[rb:月の国 > キャラハ]]の生まれでないおまえに押し付けてよい思想ではないが、考え方としては持っておけ。よいか、――〝知恵ある翼は如何なる捕食者をも出し抜く〟――何が最善か、常に考えるのだ」

  トレンチは、力強く肩を掴むファルコの手から、並々ならぬ熱を感じた。

  「例え目の前で仲間が焼き殺されようが、[[rb:縊 > くび]]り殺されようが、絶対に耐えなければならない。決して短気を起こしてはならない。感情的になってはならない。これは、チャットには決してできないことだ」

  やや躊躇いがちにトレンチが頷くのを見届け、ファルコは大きく頷く。

  子供たちを頼んだぞと、ファルコはよほど言おうかと思った。けれど堪えた。彼は堪えた。そこまで言えば、きっと気付かれてしまう。ここまで格好を付けて今さらそれはいくら何でも様にならない。彼は見事に演じきったんだ。だから、せめてきみたちだけは見届けてあげてほしい。彼が何を思い、何を成し、何を遺したか。そして、どのように一生を終えたか。

  子供たちを引き連れて巣に帰り、暮れゆく太陽を見届けながら、戸を閉める前に彼は空に向かって祈りを捧げた。太陽の光が弱くなっても、呪いの残光は西の空を赤く赤く染めている。対して東の空はとっくに夜の世界となっている。天球は暗く、星々は輝いている。けれど[[rb:天幕 > オーロラ]]もまた輝いている。太陽の呪いが、残り続けている。そこに月は在った。赤く揺らめく[[rb:呪い > ベール]]の中、完全に満ちた月が、青く、強く、大きく、負けじと輝いていた。

  [[rb:月の国 > キャラハ]]の本国で見る月は真上にあった。月は総てを見下ろしていた。天上から、鳥人たちを[[rb:遍 > あまね]]く見守っていた。けれど海を渡り、[[rb:太陽の国 > ソラス]]に来て、総てが変わった。主人の率いる部隊は全滅し、奴隷である彼は捕まった。月が[[rb:天幕 > オーロラ]]に覆われてしまったせいで、月の加護が届かなくなったのではないか……そう思わない[[rb:刻 > とき]]はなかった。でも、ここでやっと彼はその考えを棄てることができた。やはり神は見ていた。これは自分の努力が足りなかったが故の結末だ。それでも、不慮の死ではない、遺す時間を与えてくれた。そのことに心から感謝したんだ。残るのは心許ない子供たちだけれど、みな純粋な心を持った善人ばかりだ。もちろん口の悪いチャットだって本心は清らかだ。諦めることを是とした自分と違い、彼らは希望を見続けている。彼らにならば、神は、或いはきっと――。

  「――どうか、彼らの〝[[rb:船旅 > ボヤージュ]]〟に幸あらんことを」

  指を組み、肉の張る背を曲げ、深く強く祈った。傷が疼いている。高熱を放っている。[[rb:水疱 > すいほう]]が弾け、[[rb:漿液 > しょうえき]]が垂れている。激痛が走っている。節々が限界を訴えている。それでも彼は祈り続けた。夜を越せない自分の代わりに、子供たちを守ってほしいと。どうか子供たちを、どうか彼らを。

  「どうか我らの〝[[rb:船旅 > ボヤージュ]]〟に、じゃないの?」

  「……まだ起きていたのかワンダ。悪い子だ」

  「ファルコが一緒に寝てくれなきゃさみしいよ」

  「そうだな、今行こう」

  彼は戸を閉め、真っ暗になった巣を進み、子供たちの塊に加わった。その際、食べる振りをして藁の服に集めていた木の実を、そっとワンダの脇に忍ばせて。

  「あはは、ファルコなんだかあったかいよ」

  最期に会話をしたのがワンダでよかったと彼は思った。誰よりも純粋で、誰よりも神を信じ、誰よりも強く未来を夢見ているワンダとの触れ合いは、少なからず彼の救いとなった。

  「お休みワンダ」

  「おやすみファルコ」

  異常な体温を悟られないよう、ファルコは[[rb:休眠 > トーパー]]に入る。心拍が下がり、血流も遅くなり、全身が脱力する。痛みも、疼きも、この時ばかりは彼を解放する。

  お休みワンダ、お休みチャット、お休み、子供たち――。急速に薄れていく意識の中、彼はもう一度月の神に感謝した。

  [[rb:休眠 > トーパー]]の始まり、体温が下がりきるまでの間、彼らは比較的鮮明な夢を見る。彼が最期に見たものは、子供たちがまるで神に代わって彼を許すかのような温かな情景だった。眠るように死ねるというのは、彼らの中ではまだしも幸せな死に様なんだよ。

  [newpage]

  

  誰もが[[rb:標 > しるべ]]を失った。誰もが希望を失った。誰もがその場を動けなかった。このぶんなら全員が揃って目を覚ませると自信満々に言い放ったファルコが、誰よりも心と体の強かったファルコが、夜を越せなかった。

  それが事実であると、何かの間違いでないことを知り、誰もが悲しんだ。誰よりもファルコに懐いていたワンダが、誰よりも声を上げて泣いた。無垢な顔が、初めて笑顔以外の形に歪んでいた。

  ただ一人、トレンチだけは大きな後悔に苛まれていた。気付けなかったことに、感謝を伝えられなかったことに、そして、力強く頷けなかったことに。――安心させてあげることができなかったことに。

  「バッカやろう……」

  あのチャットですら泣いていた。哀しみはもちろん、その涙には悔しさも含まれていた。

  「何でこいつに言って、俺に話してくれなかったんだよう……」

  どうしてファルコは同い年の自分でなく年下を選んだのかという悔しさだ。日没前に行われた二人のやり取りがどんな意味を持つものであったか、チャットは今になって気付いたんだ。生きている間に気付けなかった自分が情けなくて、言ってくれなかったファルコの友情を疑って、年下の[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]に、持たざるものを持つ[[rb:五体満足 > フローレス]]に、強く強く嫉妬して。

  きっと、わざと嫌われようとしたんだとトレンチは思った。もしもチャットに託せば、必ずや友の仇を討とうと決起するに違いないから。

  よほど言おうと思った。誰よりも子供たちのことを思っていたファルコが謂れのない憎悪を向けられることに耐えられなかったから。

  けれど言えなかった。誰よりも別れを告げたかったであろうチャットにそれをしなかった、ファルコの強い覚悟を踏みにじることはできなかったから。

  トレンチの後悔は更に膨らんだ。チャットならば、誰よりも長く共に生きたチャットならば、きっと、ファルコに対して満足のいく別れ方ができたはずだ。託されたトレンチは、肩を掴む熱き腕に、愚かにも感動を覚えていた。異常を感じ取ることができなかった。あの熱は魂の熱だなんて、そんな非現実的な言い訳を信じてしまう浅慮を憎んだ。オレは馬鹿だ、オレは間抜けだ、オレは、大罪人だ。

  それでもファルコは託した。頼りなかろうと、年下の[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]を信じ、総てを託した。それなら、こんな時、ファルコなら、もう既に動いているはずだ。

  「――みんな、仕事の時間だ」

  巣に渦巻く哀しみを打ち払うように、トレンチは声を上げた。

  子供たちは一斉に目を向けた。どうしてここでそんなことが言えるんだろうと。

  「ニィちゃん、ファルコが死んでかなしくないの?」

  [[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]のオーナムが信じられないものを見るような目で言う。

  「哀しくないわけないだろ。ファルコは確かに特別な存在だった。だけど……」

  トレンチの手は震えていた。手どころか、声も。

  「ファルコにだけこんなに別れを惜しんでいたら、今まで死んでいった子供たちが可哀想だぞ」

  託してくれた存在のように威厳を含ませようとしても、どうしても喉の奥が震えてしまう。

  「オイ」チャットはトレンチに詰め寄る。「なに仕切ってやがんだ。お前にファルコの代わりが務まるかよ」

  「できないよ」トレンチは首を振る。「代わりなんて誰にもできない。だけどオレたちがやらなきゃならないんだ。ファルコの守ろうとしたものを、ファルコがそうしてきたように」そうしてチャットを強く睨み返す。「――そうだろ、チャット」

  そこには年上に対する礼儀なんてあったものじゃない。そう呼ばれることを嫌っているのにチャットと呼び、あまつさえ歯向かうように睨み返すなんて。

  けれどチャットは込み上げる怒りをぶつけることはしなかった。ファルコの代わりが誰にも務まらないことなんて、チャットにも判りきっていることだから。

  だからチャットは堪えた。トレンチと二人で協力する必要性を強く理解しているから。トレンチが覚悟を決めたんなら、年上の自分が小さなことに囚われている場合ではないと。

  「――みんな行くぞ。死んだモンは生き返んねえ」

  割り切ったチャットは、消沈した子供たちを促し、遅い足取りの子供たちを半ば追い出す形で送り出す。そうして自身も洞穴を後にしながら、もう一度ファルコを振り返り、「バカやろう」と呟いた。

  凍り付いたファルコには、未だワンダが縋り付いていた。チャットはトレンチを一瞥し、子供たちを追いかけ湖に向かった。

  任されたトレンチは、行こう、とワンダに声を掛けた。ワンダは首をぷるぷる振った。行くぞと背を叩いた。いやだとワンダは抵抗した。凍えて死ぬぞ。べつに死んでもいいよ。

  「死んだら、ファルコと同じ場所に行ける」

  「お前……っ!」

  その捨鉢な言い草に、ムキになったトレンチは力任せにワンダを持ち上げた。ワンダの体が持ち上がる。その腕にファルコを引き連れて。持ち上げられても四肢が垂れ下がることはなく、筋肉の硬直と血液の凝固を嫌でも思い知らされる。それでもワンダは抱き続けた。もしかすると、温めれば息を吹き返すんじゃないかって、諦めきれないみたいに。トレンチは胸が苦しくなった。懸命にしがみ付こうとする手を、小さな手にいっぱいの力を籠める手を、右手、左手と解いていくのが、残酷な行為のように思えてならなかった。ワンダは必死だった。片手が離れても、もう片方の手で支え続けた。もう片方の手が解かれる間に、また手を回した。

  「お前が死んでファルコが喜ぶわけないだろ」

  揺さぶって振り落とすことは可能だった。けれど、あろうことかファルコの亡骸を物のように扱うなんて、そんな冒涜は絶対にできなかった。チャットのように殴って引き剥がすこともできないトレンチは、言葉による説得しかできない。

  「死んで、同じ場所に行って、ファルコはお前を歓迎すると思うか? 今のお前を見て、よく頑張ったとほめてくれると思うか?――ファルコは優しいから口ではそう言ってくれるだろうけど、お前はそれでいいのか? 慰めてもらうだけで満足するのか? お前言ったろ、自分たちが頑張ろうって。頑張れるところを神様に見てもらおうって。お前は神様に、あんなに立派だったファルコと同じ場所に連れて行ってと言えるくらい立派に生きたか? 胸を張って頑張ったと言えるか? ファルコと同じ〝根〟に還れるって、本気で思ってるのか? 諦めて死ぬのは立派なことじゃないだろ!」

  「ファルコだって……諦めて……死んじゃったよ」

  「諦めてなんかいない!」

  トレンチは声を張り上げた。まるで罪の言い訳のように。

  「ファルコはオレたちに意志を遺した。希望を託した。ファルコが一番気にかけてたお前がそんな情けないこと言ってたら、ファルコはガッカリするぞ!」

  やがて限界になり、ワンダの細腕が伸びていく。ファルコは未だ爪に引っかかっていたけれど、亡骸に傷を付けていることにショックを受けたワンダは自ら手を離した。巣に落ちるファルコの体は、酷く軽く、不自然に重い音を立てた。前[[rb:季 > シーズン]]の再現に、トレンチに涙が溢れた。ワンダが、声を殺して咽び泣いた。

  トレンチはワンダを抱き締めた。ワンダを慰めるように、或いは、自分を慰めるように。お互いに課せられた神の見えざる分銅を、嘆くかのように。

  「助からないことを知ってたんだよファルコは」

  ワンダを離し、目を見ながらトレンチは言う。ワンダは、涙に潤む目を、虚ろな目を、それでもトレンチに向けた。

  「知識を付けろ、教養を育めってファルコは言った。単調な日々の中にも疑問を見つけろって。その疑問が種となって、芽を出すんだって。この世界には知らないことがたくさんあって、それを明らかにするために[[rb:月の国 > キャラハ]]の科学は発展したんだって」

  トレンチはワンダの肩を掴む。あの時のファルコのような〝熱〟はとても無いけれど、それでもトレンチはファルコになろうとした。

  「お前の好奇心は誰よりも強い。ファルコの言ったこと、ファルコの信念を一番理解できるのはお前なんだよ、ワンダ」

  涙は眼を満たし、耐えきれずに目を閉じて、ワンダはファルコを悼んで泣いた。けれど亡骸に縋らず、小さな体に余るほどの感情を一人で受け止め、乗り越えようとした。ファルコの次に懐いていたトレンチにも縋らなかった。トレンチはどうあってもファルコの代わりにはならないし、代わりにしようとしてもいけない。ファルコはきっとそれを望まない。

  トレンチはファルコに向き直り、焼けた背を撫で、彼の人生を労った。

  「今までありがとう、ファルコ」

  そうしてやっと、遅すぎる感謝を伝えた。ワンダと共に祈りを捧げ、ファルコの姿をしっかりと目に焼き付け、振り切るように洞穴を出る。

  外は涙すら凍り付くような寒さだ。けれど子供たちは歩く。前を見て、そして未来を見て。彼らの心には、ファルコには遠く及ばないものの、確かな〝熱〟が受け継がれていた。今はまだ眠れる種の状態だけれど、寒さなんかに負けず、逆境にもめげず、いずれ発芽し花開く。それはきっと、ファルコに対する最高の手向けになるに違いない。

  [newpage]

  

  世界というのは人一人の存在に左右されるものではない。誰が何を言おうと、誰が生まれようと、誰が死のうと、世界は世界で在り続ける。それは頼れるリーダーを失った子供たちにも平等に与えられる摂理だ。奴隷たちに求められるのは[[rb:規定量 > ノルマ]]だけ。誰がリーダーをしようと変わらないし、誰が死のうと代わりがやってくるだけだ。哀しみに暮れていようが、決められた仕事をこなさなければ生きることも許されない。彼らは生きるために仕事をし、また仕事をするために生きている。

  ファルコの遺した木の実もあって、目覚めの食事は滞りなく終えることができた。けれど、このままではいけないと誰もが判っていた。今まで通りの生き方では食糧が足りなくなる。

  誰も言わなかった。けれどトレンチやチャットは自分がそれをしなければならないと思った。他の子供たちもまた、年長者に頼り切ってはいけないと思った。子供たち全員が、自立心を持ち始めた。……聞こえはいいけれど、それは同時にファルコが徹底的に避けてきた危険が再び子供たちに降りかかるということでもあるんだ。子供たちもそれを承知で、そのうえで覚悟を決めた。

  〝[[rb:暁日期 > アウロウラ]]〟が終わって〝[[rb:繁緑期 > スプロウラ]]〟になっても、誰もが哀しみを引きずってはいたけれど、作業の効率が落ちることはなかった。ファルコの生き様が与えた影響は甚だ大きい。

  それどころか、足の発達不全から戦力として考えていなかった[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の女の子が砂鉱採集に加わったことでむしろ余裕まで生まれた。産卵期を終えた彼女は、ファルコの作った杖を突いてやってきて、塩の回収に使用する木板を湖に浮かべることで足の代わりにした。これには巡回に来た雇用主も驚いて、ファルコの死に触れもせず彼女の勇姿を大笑いしながら褒め称えた。

  直接傷の手当てをした彼女は知っていたんだ。ファルコの火傷の規模は命を蝕むものであると。彼女はファルコに薬草の有無を尋ね、植生の異なるこの地においては自分の知り得る薬草は見当たらなかったとの返答を聞き、この先に起きることを察した。彼女に責任なんてあるはずはないけれど、それでも感じずにはいられなかったんだ。だからこそ[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の生息地に乗り込むような無謀なことをしたし、薬は一蹴されたものの藁を得ることができた。それで服なんてものを作り、ファルコに贈った。傷を隠す相手は太陽でなく、実は子供たちだった。彼の決意を彼女は後押ししたんだ。そのお返しに杖なんてものを贈られれば、屈託のない笑顔を返して見せた。託し託される資格なんて新参者にはないけれど、自分だけは気付いている、志半ばで遺さざるを得ない子供たちのため、必ずや力を尽くすと、言葉にせず伝えたんだ。

  とはいえ、どれだけ強い意志を持とうとも、それまで日陰で生きてきた彼女にとって長時間の直射日光は強敵だった。彼女は辛いことを表に出さない気概を持っていたから、トレンチもチャットもなかなか気付けず、何度も危ない場面に陥りかけた。トレンチが巣に運び、チャットが巣に運び、そのたび彼女は復活して戻ってきた。

  「お前が死んだら俺たちも殺されるんだぞ」

  チャットは強く戒めたけれど、彼女は動じることなくケロッとしていた。

  〝[[rb:成雲期 > クロウラ]]〟の[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]襲来時には、彼女は子供たちを集めて手芸を披露した。それは街で生きてきた卵用奴隷がもたらす新たな知識だった。蔦や藁を編む技術でさえ、ここで砂鉱を集めるだけの彼らは持っていない。他にも木の枝を石器で削り、子供たちには見慣れない装飾品を作っても見せた。素材の収集に命懸けの年長組はともかく、年少組、特に[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の二人、ワンダとルインは目を輝かせて喜んだ。[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]は生来手先が器用なものだから、本能的欲求を掻き立てられた彼らは我先にと彼女に教えを請うた。そして[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]が去るまでの間、休息も殆ど取らずにのめり込み、みるみる上達していった。

  彼女が作った装飾品は、実は[[rb:太陽の国 > ソラス]]で広く使われる儀式用品だった。どうしてそのようなものを作ったか、彼女にはある思惑があった。それは〝[[rb:恵雨期 > プルウィオラ]]〟に明らかとなる。

  雨が降り始め、巣穴に引き上げた子供たちは[[rb:吃驚 > きっきょう]]する。ここにいる誰よりも大きな[[rb:繭 > まゆ]]が座っていたからだ。トレンチとチャットが反射的に子供たちを守ろうと動き、すぐに危険がないことに気が付き構えを解く。[[rb:繭 > まゆ]]の陰から彼女がひょっこり顔を覗かせたからだ。[[rb:繭 > まゆ]]の中身は空っぽだった。チャットはその悪戯に機嫌を悪くしてそっぽを向いた。

  それは、子供たちは実物を見たことがない[[rb:天虹蚕 > プリズワーム]]が作った[[rb:繭 > まゆ]]だった。他にも製糸に向いていない形の歪な[[rb:屑繭 > くずまゆ]]もいくつか受け取っていて、彼女はそれらを使って、糸を紡ぎ、更には[[rb:糸織 > いとおり]]まで行うと言い放った。

  雇用主が身を寄せる[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の集落はいったんは落ち目を迎えたけれど、様々な産業に手を出して持ち直してきたという話をしたことがあるね。その産業のひとつが[[rb:蚕糸 > さんし]]だ。[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]の影響を受けない奇跡的な起伏地形を利用してカイコを放し飼いし、時期になれば[[rb:繭 > まゆ]]を回収する簡単な作業だ。[[rb:天虹蚕 > プリズワーム]]は人すら食べるような雑食だけれど、時期さえ誤らなければ危険はない。それなのにどうして奴隷を使わないかというと、その地形が湖で働く奴隷たちの脱走ルートをひとつ潰す役割も兼ねているからだった。[[rb:天虹蚕 > プリズワーム]]の生態を知られれば逃げ道を与えてしまうことに繋がる。

  製塩だって同様に、子供たちが集めた泥水交じりの塩を集落に持ち帰り、〝[[rb:恵雨期 > プルウィオラ]]〟の雨を利用して自分たちで精製を行っているのは、奴隷が毒や有害金属を混入させるのを防ぐためだ。

  それはさておき、彼女はその繭を雇用主と交渉することで受け取った。彼女がわざわざあんなものを作ったのは、雇用主との交渉材料にするためだったんだ。自分の技術を売り込み、奴隷としての価値を高めるためのね。自分ならばこんな小さなものでなく大きなものを作ることができると。

  もちろんそれは一蹴された。木材加工は自然と共に生きる[[rb:太陽の国 > ソラス]]の民の[[rb:本分 > スタンダード]]なのだから、あえて奴隷――しかも敵国の奴隷如きに立ち入らせずとも事足りる。けれど聡明な彼女はそんなことは想定済みで、敢えてその前段階を踏むことにより、のちの発言の印象を高めようとしたんだ。

  彼女は満を持してこう切り出した。木細工でなくとも、道具さえあれば石材加工もできるし、それどころか製糸、延いては織物すら高いレベルで行えると自信満々に言ってのけたんだ。そうなると話は変わってくる。集落では製糸までしか行っていないから、そこから先の工程を請けることができれば評価は上がるし集落での立場も上がる。何よりこれまで何の生産性もなかった〝[[rb:恵雨期 > プルウィオラ]]〟に利が発生する……その価値は計り知れないと。もちろん彼女の目的を訝しむ頭はあったけれど、雨の間なにもしないのでは退屈で仕方がないと涼しい顔で言い放ち、そのあと、出来に応じて幾ばくかの食糧を頂ければ、としおらしく要求すれば、所詮奴隷の望みは目先の〝生〟かと、取るに足らない出費を大げさに有り難がらせて了承するものだ。

  雇用主の浅い人格を見抜き、また卵用奴隷の扱いに長けていないと見抜いた彼女の戦略だった。いったい彼女は何を企んでいるかって、そうだね、ここでは語りきれないからやめておくよ……と逃げることもできるけれど、敢えて話そう。子供たちの食糧の確保というのは建前であって、本音じゃないんだ。

  彼女はファルコ以上に先を見ていた。ここでの生活が、薄氷の上で辛うじて成り立っていることに誰よりも強く危機感を抱いていた。誰もがギリギリのところで生きている。誰もが数期後には息絶えているかもしれない。それは卵用奴隷として街で丁重に扱われてきた彼女だって同様だ。けれど彼女は扱いの落差を不服とせず、現実として受け入れた。彼女の心は誰よりも大人だった。

  それで彼女は何をすべきか考えた。何をすれば子供たちのためになるかと。考えた末、彼女は子供たちが持たない知識を与えることが最善だという考えに至った。

  知識は力だ。教養こそ力だ。ファルコがトレンチに伝えたことを、彼女は知っていた。別に武器の作り方を教えるわけではない。ファルコと違ってその方面の知識は皆無なのだから。けれど、行き着く先が武器でなくとも別に良い。立ち向かうためでなくとも良い。ただ、伝えた知識を用い、子供たちがいつか何かしらの希望に繋げていくことを願ったんだ。もちろん彼女は死ぬつもりはないし、おいそれと殺されるつもりもないけれど、世界は人一人の意志によって左右されるものではない。望むと望まないとに関係なく、死の危険は等しく付き纏う。それならば自分だっていつか死ぬものとして備えておかなければならない。

  彼女に先のことを決定する力はないし、そのつもりもない。年長の二人がどのように子供たちを導いていくのかも判らない。けれど、どのような未来になるか判らないからこそ、子供たちが生きられる確率を少しでも上げるために行動しよう。彼女の原動力はそれだけなんだ。それに――。

  「ねえねえお姉ちゃん、これ引っ張っていいの? 切れたりしない?」

  「大丈夫、[[rb:天虹蚕 > プリズワーム]]の糸は太くて丈夫だから。しっかり水で解してね」

  「なんで[[rb:天虹蚕 > プリズワーム]]っていうの?」

  「食べたものによって糸の色が変わるから」

  「どんなもの食べさせるの?」

  「……あなたにはまだ早いかな」

  「あーっ! お姉ちゃんにまで言われた!」

  ――これまで命の伴わない産卵を繰り返し、時には望まぬ命を伴う産卵をしてきた彼女にとって、年少の、それも純粋な心を持つ子供との交流は、安定した街での生活よりも、栄養豊富な[[rb:米穀 > べいこく]]よりも、何よりも彼女の心を満たしたんだ。ファルコへの責任感から来るのではない、彼女はここを、守るべき巣であると自ら認めた。まだ見ぬ希望でなく、今ある希望を――。

  トレンチもチャットも複雑になる気持ちがないではないけれど、認めないわけにはいかなかった。彼女の存在は、間違いなく子供たちに良い影響を与えている。それに、雨が止むまでの長い期間、眠りもせず実のない話で気分を沈ませるよりも、手を動かして何かをする方がよっぽど有意義だから。

  また、トレンチは彼女に大いに感謝することになる。ワンダが大事に握りしめていたことで逆に傷みそうになっていたファルコの羽根――体羽も尾羽も[[rb:風飾羽 > フラッター]]も殆ど持たなかったファルコの貴重な抜羽を用い、ワンダの[[rb:外套 > マント]]に装飾を付けた。蔦を何重にも丸めて[[rb:輪 > リース]]にし、間にファルコの羽を組み込んだだけの簡素なものだけれど、その形が月を模しているのだと説明すると、ワンダの目はいっそう輝き涙を流して喜んだ。その様子を見たトレンチも大いに心の充足を覚えた。

  「よく似合っているぞ、ワンダ」

  トレンチが声真似をすればワンダは似てないと怒り、それならとチャットが声真似をすればワンダは喜ぶ。[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]は鳥人の中でもっとも声真似が上手なんだよ。でも、同じ[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]のマーニーも一緒になって真似をしたら、ファルコがいっぱいいるみたいで変だとそっぽを向いた。

  彼女は特にワンダを贔屓した。……というと表現が悪いけれど、[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の中でもひときわ好奇心と探求心が強く、また年齢や言動の割に高い知能を有するワンダに重点的に技術の継承をしようとしたんだ。まあ、そうは言ってもワンダの積極性の前では彼女が敢えてそうする必要はなかったのだけれどね。

  完成した糸、及び手の平サイズの手織り機で作られた布の試作品はなかなかのもので、雇用主は降って湧いた幸運に大喜びした。布どころか、[[rb:屑繭 > くずまゆ]]からの[[rb:紬 > つむぎ]]ですら、質だけなら[[rb:生糸 > きいと]]と偽っても通用しそうなほどの出来だった。これには雇用主も大満足し、彼女の求めるままに食糧を奮発した。彼女は、もちろんこれは自分だけができることであり、他の子供たちに同じことは到底できないこともきちんと念押しした。そうしないと無駄に仕事が増えてしまうことになりかねないからね。

  彼女の偉大なる功績はそれだけではない。小出しにすればいい技術をわざわざ一度に明らかにした理由でもあるのだけれど、彼女の一番の目的は[[rb:屑繭 > くずまゆ]]を得ることにあったんだ。[[rb:紬 > つむぎ]]として商品価値のある糸を捻出する傍らで、彼女はその一部をちょろまかした。これは取れ高の予想がつく正規の繭ではできないことだ。

  それで何をしたか。子供たちに唯一支給されていた[[rb:外套 > マント]]に手を加えたんだ。ただの一枚布だった[[rb:外套 > マント]]に裏地を施し、その隙間に子供たちから文字通り掻き集めた[[rb:羽毛 > ダウン]]を詰め込んだ。こうすることで防寒性能が格段に高まり、夜明けの活動時はもちろん夜越えの[[rb:休眠 > トーパー]]の保温にもなり、体温の維持に必要なエネルギーを抑えることができる。つまり、子供たちが夜を越すために必要な栄養のボーダーラインが下がるということだ。

  とはいえ屑繭の、更にその中でも捨てられるべき部分から得られる糸なんて量は少ないし質も悪い。辛うじて二人分の[[rb:外套 > マント]]の改造ができたくらいだ。借用した道具は手織り機だけで、木の枝を細く削ったものを即席の針として使ったものだから、何[[rb:季 > シーズン]]も耐えられるほど丈夫に縫い合わせることはできなかったけれど、技術として教えることはできた。来[[rb:季 > シーズン]]にはもしかすると金属針を貸与されるかもしれないし、細い針で丁寧に縫いさえすれば、もっと出来のいいものができるのだと言うと、子供たちは期待に胸を躍らせた。

  これだけの作業を、〝[[rb:恵雨期 > プルウィオラ]]〟及び半分を巣籠もりで過ごさなければならない〝[[rb:晴雲期 > パルティオラ]]〟の間――つまり、月が十二分の三満ちる程度の「短い」間にやってのけたんだ。

  こうして、だいぶ急ぎ足ではあったけれど、ひとまず彼女が最低限やりたかったことの足掛かりはできた。あとは安定化だけだ。何[[rb:季 > シーズン]]掛かるか判らないけれど、少しずつ技術を磨いていけば、きっと子供たちは今より逞しくなる。

  けれどね、世界の[[rb:理 > ことわり]]は等しく働いている。誰が何をしようとも、誰が何を頑張ろうとも、誰が何を決意しようとも、世界は世界で在り続ける。

  望むと望まないとに関係なく、死は等しく訪れる。……それは何もファルコ一人に限った話じゃない。

  彼女は善人だ。けれどやはり切っ掛けなんだ。

  彼女は聡明だ。そうなる可能性も想定していたし、そうなった時、抗えないことも知っていた。だからこそ急いでいた。

  言っておくけれど、彼女たちに非はないよ。生きとし生けるものの根源的欲求を否定することなど誰にもできやしない。それもまた、等しく生命の神秘なんだから。感情――〝意志の力〟――それが生き物を発展させる。それならば、新しく生命を育まんと湧き立つ感情は、この世でもっとも神秘的で尊いものなんじゃないかな?

  それを思えば非難なんてできやしない。言いつけを破ってしまったチャットも、その大いなる喜びを受け入れずにいられなかった彼女も、この荒廃した世界において、それでも希望を見失わず後に繋ごうとした勇者なんだ。

  これからついにそれを語るけれど、ファルコと違って早足なのは、ファルコと違って幸せな死に様ではないからだ。

  [newpage]

  

  彼女が湖にやってきた。発達不全の足を折られ、引きずられ。

  誰の〝種〟だと[[rb:雇用主 > オオカミ]]が唸った。

  みなの目の前で、彼女の産んだ卵が地面に叩き付けられた。その中身は――。

  チャットが逆上した。武器も持たずに、素手で踊りかかった。

  掴まれた腕から音がした。[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の甲高い声が響き渡った。

  牙をぎらつかせ、[[rb:雇用主 > オオカミ]]が小鳥を持ち上げた。

  絶叫を上げながらチャットはもがいた。もがきながら、チャットは足を振り上げた。

  小鳥の足が、[[rb:趾 > あしゆび]]が、雇用主の首を捕らえた。

  全身全霊の力を籠めた。爪が毛皮に食い込んだ。

  掴まれた足から音がした。[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の甲高い声が響き渡った。

  足から胴に、全身に、猛火が走った。

  [[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の少女が、二本の杖を突きながら駆け寄った。卵を割られた母鳥が、今まさに息絶えんとする[[rb:番 > つがい]]のもとに。

  少女は何度も転んだ。泣きながら、叫びながら、必死の形相で。

  折れた右足が右へ左へ折れ曲がる。そうしてまた、力を失い倒れ込む。――必死の形相が、突如として殺意に歪む。

  折れていない左足が地を蹴った。支えの杖を突き出して、憎き相手の首めがけ。

  不意を突かれた雇用主。けれど決死の一撃は、遮られた腕に僅かな傷を付けただけだった。もう一本の杖は、雇用主が展開した結界に弾かれ跳ね飛んだ。

  雇用主が逆上した。動かなくなった[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]を放り捨て、彼女の首を強く掴み、そして――その細首からは、紙一重で音は鳴らなかった。その横で、結界が音を立てて蒸発した。

  割れた卵、そして焼けた亡骸の前、彼女は抵抗する力を失い慟哭した。

  一人も欠くことなく雀躍した新たな[[rb:季 > シーズン]]に、また頼れる年長が羽を散らした。

  彼女は心を失った。そして、彼女は卵を産めなくなった。その[[rb:季 > シーズン]]ずっと、自分の巣に籠もり、延々と糸を繰り続けた。彼女の気持ちに引っ張られ、ワンダも言葉を失った。その[[rb:季 > シーズン]]ずっと、一言の「なんで」も発さなかった。補充人員との顔合わせですら、目を向けることもなく湖底を漁り続けた。

  そうして次の[[rb:季 > シーズン]]、卵を産めないことを知った雇用主に連れられて、彼女は二度と帰ってこなかった。ワンダの目から光が失われた。

  トレンチさえも希望を失った。ファルコの求心力、チャットの行動力、そして最後の頼りであった彼女の影響力すら無くなってしまえば、もはや群れの瓦解は目前といえた。[[rb:五体満足 > フローレス]]であるだけのトレンチにはファルコのような[[rb:威厳 > リーダーシップ]]はなく、群れを牽引する力に欠けていた。

  人心は強き先導者を求める。死を覚悟に交渉を成し遂げたファルコの雄姿、敵わぬと判っていながら立ち向かったチャットの勇姿。対してトレンチは、燃え上がる年長を前に、ただ怯えて立ち尽くしていただけ。これが群れを率いる〝[[rb:秀翼 > ファルコニー]]〟となり得ようか?

  歯向かえば殺されることくらい誰だって判っている。無抵抗が賢明だったことは誰だって判っている。[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]同士、チャットのことを心の底から慕っていたマーニーですら、トレンチを責める言葉をぐっと堪えた。もしもあの場でトレンチすら死んでしまっていたら、今頃はもっと悪い状況になっているのだから。

  だから言わない。誰も口には出さない。けれどトレンチは誰もが心の奥底に持つ残酷な要求を感じずにはいられず、強く己を苛んだ。――例え仲間が焼き殺されようが、耐えなければならない。ファルコの言い付けを免罪符に、できない自分を正当化して、怒りの我慢を演出していただけなんだと。〝[[rb:恵雨期 > プルウィオラ]]〟の無言の巣籠もりは、その感情に拍車をかけた。チャットのいない今、洞穴の中には会話がなく、ワンダが延々と木を削り続ける音しか響かない。

  トレンチには知識がない。トレンチには教養がない。トレンチには力がない。

  そう、力がない。だから弱い。だから言いなり。だから哀しい。だから惨め。だから仲間を失う。失ってなお、それを受け入れることしかできない。

  ファルコのことも。チャットのことも。新参でありながら、あんなにも子供たちのことを思ってくれた彼女のことも。総て「仕方がない」と受け入れるしかないんだ。誰よりも明るいワンダの笑顔が消えたことも仕方がない。

  そして、弱さ故に受け入れざるを得ない。頼れる仲間を失った今、全員で夜を乗り切る栄養の確保が実質不可能になってしまったことも、――誰かを切り捨てる必要があることも。

  ファルコはどうするだろう。チャットはどうするだろう。二人は、どうしろと言うだろう。力がなければ非情になれとファルコは言うだろうか。力がなかろうと立ち上がれとチャットは言うだろうか。ファルコは、チャットは、彼女は、他の子は……。

  トレンチの隣で、来たばかりの[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の二人の少年が不安げな顔で俯いていた。抜けた年長二人、つまりファルコとチャットの補充として送られてきた子たちだ。歳の見立てはワンダよりも低く、初めての慣れない作業と暑さでだいぶ参っている。この巣籠もりの前、取っておいた木の種を与えると彼らは無邪気な笑顔をトレンチに向けた。たったそれだけで二人はトレンチに懐いたんだ。なるほどファルコはこんな気持ちになっていたのかとトレンチは胸が苦しくなった。庇護欲を掻き立てられたのはもちろん、すぐに散ってしまうかもしれない小さな羽を思い、命の儚さを憂えて。

  トレンチは敢えて最悪な想像をした。次の[[rb:季 > シーズン]]の始まり、来たばかりの二人の子が目覚めなかった想像だ。だけどそのおかげで残りの五人はなんとか食いつなぐことができた。もし新しい二人にも同じ水準で食事を与えていたら、きっと半数近くが栄養不足に陥っていたはずだ。最悪の事態を避けることができたし、来たばかりの子が飢え死にするほど困っていることを雇用主に訴える理由もできる。そして雇用主はやっと重い腰を上げる。だから最低限の犠牲は仕方がないんだと。

  さて、最悪とは文字通り最も悪いことだ。それは単純に死んだ人数の大小で測れるものだろうか? いいや、そこには必ず〝意志〟が介入する。割り切ることのできないトレンチにとって、最悪というのは半数が死ぬことじゃない。ましてや全滅することでもない。自分たちの食糧を確保するため、守られるべき幼子の糧を制限することだ。そしてそれを仕方がないと受け入れ、その場しのぎの言い訳で正当化し、のうのうと生き続ける心を持ってしまうことだ。そんなことは耐えられるわけがない。それをするくらいなら自分が死んだほうがマシだ――。

  トレンチは隣の子の頭を撫でる。俯いていた少年はそれだけでぱっと明るい顔になった。逆隣から、もう一人の少年が自分もと言いたげに頭を突き出してきて、手の代わりに頬で撫でると安心したように目を細める。こんな愛らしい命を犠牲にして、どうして平気で生き延びられようか。

  ファルコはなんて言うだろう? チャットはなんて言うだろう? 名前のない彼女はなんて言うだろう?

  いいや違う――トレンチは決意する――大事なのはオレがどう考えるかだ。

  「ワンダ」

  幼き最年長の呼び掛けに、ワンダは声を返さず顔も上げず、黙々と洞穴の奥で木を削っている。

  「オレはこれから愚か者になる」

  「もう愚か者でしょ」

  乾いた声だった。久しぶりに発したワンダの声は、酷く乾燥したものだった。

  「……ああ、その通りだ。だけどもっと愚かになる」

  「[[rb:シッポ無し > 怖いお兄さん]]を殺してくれるの?」

  シャッ――石器が木を強く切断する音がした。ワンダは木の枝を地面に置き、次の枝を取り上げる。

  「ぼくはあの人が許せない。あの人が今もダルそうに息をしてるって考えただけで頭がどうにかなりそうになる」

  「ワンダ……」

  「ファルコを殺して、チャットを殺して、お姉ちゃんも殺した。そしてこれからもぼくたちの命をうばい続ける。あの人を生かしておくことはできない。あの人が死んだって、誰か代わりの人が来るだけだってことも知ってる。だけどぼくはあの人が許せない。だから殺してよ。お兄ちゃんがやってくれないならぼくがやる」

  「それは違うぞワンダ。知恵ある[[rb:月の国 > キャラハ]]の民のすることではない。それでは心は救われない」

  ペキ、と枝が折れる音がした。

  「……死んだファルコに失礼だと思わないの?」

  「どうだか。お前のそれは死に向かうための力だ。恨みをこめて、ぶつけて、殺して、そのあと自分が殺されることを想定している」

  「それのどこが悪いの。どうせ殺されるんなら一緒でしょ」

  「だから心は救われないって言ってるんだよ。ほめられた生き様じゃない」

  「じゃあどうするの」

  「もっと先を見ろ」

  「ぼくたちに先なんてないよ」

  「それでもだ。死ぬことを目的としてはいけない。殺すことを目的としてもいけない。生きるためにやるんだ」

  「ヘリクツだよそれは」

  「そんなことはない。お前の言う通り、オレたちは何をどう頑張っても死んでしまうのかもしれない。だけど、たとえ行き着く先が同じ〝死〟でも、その時まで生きることを諦めちゃいけない。だって、考えてもみろよ、ファルコが死んだのはオレたちを生かすためだ。あの子だって、もちろんチャットだってそうだ。今までに死んでいった子供たちの命のためにも、オレたちは生きる姿勢を見せ続けなきゃならないんだよ」

  「生きるって、具体的に何?」

  「逃げるんだよ、ここから」

  「それができるならやってたんじゃないの」

  「だけどやるんだよ。オレたちには時間がない。――何人かは夜を越せない」

  黙って俯いていた子供たちがピクリと顔を上げる。想像していたけれど目を背けようとしていた事実だ。

  「逃げても追いかけてくるよ」

  「それでも逃げるんだ」

  「どうやって逃げるの?」

  「まだわからない」

  「[[rb:シッポ無し > 怖いお兄さん]]に殺されるよ」

  「殺させないさ」

  「立ち向かうの? どうやって?」

  「まだわからない」

  「わからない?」

  「だから力を貸してほしいんだよ」

  トレンチは両隣の子の頭をぽんぽんと叩き、それから立ち上がって洞穴を見回す。依然として目を合わせないワンダ以外の子供たちは、みな戸惑いの表情を浮かべていた。来たばかりの子は言葉の意味自体を理解できていないからだけれど、残りの子は、理解できるからこそ別の意味で理解が及ばない。だって、子供たちはみなチャットの壮絶な死に様をその目に焼き付けている。それに立ち向かうなんて、自分から死にに行くようなものなんだから。

  「ワンダ。それからみんな。愚かなオレに力を貸してほしい。逃げるため、生き延びるため、知恵を貸してほしい」

  返事はなかった。けれど、ワンダが石器のナイフを置く音がした。持っていた枝も置き、代わりに別のものを取り上げる。

  それは何かしらの布だった。ワンダはそれを手に立ち上がり、トレンチに向き直る。彼の目は、怒りでも哀しみでもなく、軽蔑でもなく、もちろん笑みでもなく、どこか達観を感じさせる大人びた目だった。

  ワンダはその布をトレンチに手渡す。

  「これは?」

  広げてみると、その布は三角形をしていて、何かを入れるためのポケットがいくつか縫い付けられていた。

  「[[rb:探知機 > センサー]]を頭に固定するためのものだよ。――あの石、[[rb:探知機 > センサー]]になるんだよね?」

  トレンチは目を見開いた。どうしてそれを知っている?

  「お兄ちゃん」

  トレンチの疑問をよそに、ワンダはトレンチを見上げ、

  「――待ってたよ。やっと言ってくれたね」

  そうして久方ぶりの笑顔を見せた。

  [[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]たるワンダの好奇心は、トレンチの想像を遥かに上回っていた。石が発する磁力は、優れた磁気感覚を持つトレンチが辛うじて感知できるほどの微々たるものだ。にも拘らず、ワンダは石と磁鉄鉱が不定期に引き合う現象に気付き、自力で石の挙動を見出したんだ。〝耳無し男〟の言った、[[rb:月の国 > キャラハ]]の連中に売ってやる義理はないというのもヒントになった。だってそれは、[[rb:月の国 > キャラハ]]の民が手にすると都合が悪いと解釈することもできるんだから。そうなると、不定期に発生する磁気は神霊に依るものと考えることができる。

  磁鉄鉱を組み合わせるというのは、更には[[rb:探知機 > センサー]]の機構に一致するものだった。磁鉄鉱から外部磁場を与えることで、発生する磁気がワンダにも感知できるくらいまで増幅する。[[rb:月の国 > キャラハ]]の民はそれを用いて霊術に対抗しているんだ。

  「これをこんなふうに組み合わせて一個にして」

  ワンダは木の枝を器用に[[rb:刳 > く]]り抜き、中心に石を、周囲に米粒程度の磁鉄鉱をぐるりと配置した、装飾品と見紛うような木細工を見せた。ずっと木を削っていたのはこれを作るためだったんだ。

  「さらにこれを頭の前後左右に配置する。そうすれば神霊の位置を正確に感じることができる」

  「すごいな、ファルコが教えてくれた構造そのままだ」

  何がすごいかって、石と磁鉄鉱を密着させていないところだ。そのために木を刳り抜いて石を嵌め込み、周囲の木を削って磁鉄鉱を埋め込んだ。磁極もきちんと把握し、向きを揃えることで綺麗な静磁場を作り出している。

  原理も知らず、これだけのものを器用に、それも短期間で作るなんて、思い付きでできることじゃない。

  「お姉ちゃんに言われてね、ぼくなりにどうすればいいか考えてたんだ。それで、お兄ちゃんならたぶん戦うことを選ぶんじゃないかって思って」

  彼女はどこまでも聡明だった。〝過ち〟が起きる可能性を踏まえ、もしかすると近いうちにお別れするかもしれないことをワンダに告げていた。当然ワンダはいやだと悲しむに決まっている。けれど、それでも告げた。だからワンダは耐えられた。もし覚悟の猶予を与えられていなければ、幼いワンダの心は完全に壊れていただろうね。

  「とすると……お前、オレを試したのか」

  「お兄ちゃんがきちんとファルコの考えを理解してるのかなって」

  ワンダはね、待っていたんだ。彼女が危惧していた事態に直面した時、気の弱いトレンチはきっと尻込みするだろう。けれど、それでもきっと立ち上がるだろうと。群れを率いる〝[[rb:秀翼 > ファルコニー]]〟となるだろうと。

  「……ファルコはきっとオレを止めると思う」

  「それでいいんだよ。ファルコを理解して、それを越えようとしているんだから。――ぼくはついていくよ」

  「愚か者が進む道は決して明るいものじゃないぞ」

  「それもわかってる。――希望は自ら切り拓いてこそだ」

  いきなり変じた口調に少し面食らったトレンチだけれど、少し考え、なるほど、ファルコが前向きなら言いそうだなと笑った。

  〝[[rb:囀り集えば知恵の海。秀翼掬いて船を成し、衆羽率いて月へ発つ > ワイズ・ハーモニー・ワイズ・アカンパニー]]〟

  この[[rb:諺 > ことわざ]]は[[rb:月の国 > キャラハ]]の神話の終節から来ている。[[rb:月の国 > キャラハ]]の民は、月に住む神様に会いに行くために科学文明を発展させているんだ。鳥人たちに試練を与え、月に隠れた神を追うため、みなで知恵を絞り、船を作り、いつか月へ行くということを示している。「行った」じゃなくて「行く」だ。神話ではあるけれど、鳥人類全体の生き方を定める形で締め括られているんだね。本当はもっと長い文なんだけれど、[[rb:諺 > ことわざ]]として定着するまでに変化したり読み方が変わったり、短く簡潔になった次第だ。

  ちょっと待った、科学文明の発展は[[rb:太陽の国 > ソラス]]の術に対抗するためじゃないのかって? まあ、理想と現実はしばしば相容れないものとして対立してしまうということだよ。もしも[[rb:太陽の国 > ソラス]]との争いがなければ[[rb:月の国 > キャラハ]]の民が真の目的のために注力できるのは確かだけれど、かといって、環境に悪影響を与えない工業文明なんて今のところ実現には程遠い。争いが起きてしまうのは必然だったんだ。

  戦争が終わって久しいけれど、明確に終結宣言が出されたわけではない。緩衝街は別として、それ以外の地域ではたまに小競り合いが起きることがある。そういう時、例えばファルコの元主人のように、わざわざ本国から部隊が派遣されるような事態に発展することもある。両国とも政治体制なんて崩壊しているようなものなのに、[[rb:太陽の国 > ソラス]]と[[rb:月の国 > キャラハ]]は争い合う運命から脱却できていない。

  そして何の因果か、現在の国境からは程遠いこの塩湖でも同じようなことが起きる。[[rb:月の国 > キャラハ]]の民である鳥人奴隷たちは、新たな〝[[rb:秀翼 > ファルコニー]]〟のもと、知恵を出し合い、[[rb:太陽の国 > ソラス]]の民である[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]と争いを起こす決断をした。

  〝[[rb:秀翼 > ファルコニー]]〟とはもちろん[[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]など上位の鳥人を指すものだけれど、この小さな[[rb:群れ > コロニー]]において、結果はどうあれ、トレンチは見事に[[rb:秀翼 > ファルコニー]]としての役割を果たすことになる。

  ファルコがやろうとしたのは安寧なる死。全員を愛していたが故に、誰一人として欠けてほしくなかった。だから起たなかった。

  トレンチがやろうとしたのは勇猛なる死。全員を守りたいけれど、強い力を持たない彼にはその選択は採れない。だから起たざるを得なかった。犠牲を強いてまで。それを理解したうえで、子供たちは彼に付いていく選択をした。新たに加わった幼い二人を巻き込むことに躊躇がないわけではなかったけれど、置いていくわけにはいかない。或いは、謀反の告げ口という役割を与えればその場は殺されずに済むかもしれないけれど、その後の安全が保証されるわけではない。

  物事の善悪は立場で変わる。見る者の解釈によっても変わる。だから、彼の選択を「判断能力を持たない幼鳥を死地へ連れていく言い訳」と捉えられればそれまでだけれど、勝てば官軍と訳せる諺はこの世界にも存在する。もしも彼が成し遂げたなら、その時は許してあげてほしい。もしも成し遂げられなかったなら、……その時も、負けても官軍だと許してあげてほしい。理想と現実の間にある壁は、それほどまでに高く険しいのだから。

  [newpage]

  

  準備や決意に関して多くは語るまい。子供たちの知恵、経験、そして聡明な彼女が隠していた遺品――それだけで彼らは獰猛な[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]に挑んだんだ。

  といっても、戦ったのは[[rb:五体満足 > フローレス]]であるトレンチだけだ。それ以外の六人は、歩みの遅い子たちを伴い先んじて逃走に入った。

  [[rb:寇尽蝗 > ファギア]]をやり過ごした直後、つまり〝[[rb:成雲期 > クロウラ]]〟の終わり際に彼らは発った。おっと、気付いたかな? ワンダたちと話し合いをしたのは〝[[rb:恵雨期 > プルウィオラ]]〟および〝[[rb:晴雲期 > パルティオラ]]〟の巣籠もりの時だ。それより先に来るはずの〝[[rb:成雲期 > クロウラ]]〟に出立できるなんて普通に考えたらおかしいよね。

  その答えは、[[rb:季 > シーズン]]が次に移っているからだ。ここも気付いたかな? おかしいよね、夜を乗り切るだけの食糧はどこからやってきたんだろう?

  答えは、彼女の遺品だ。誰の巣でもない[[rb:熱割れ > サンクラック]]に、彼女の遺品があった。それは一見すると何の変哲もないような棒切れであったり、何の資源価値もない石ころであったり、どんな価値になるか考えもつかない糸巻であったり、――計り知れない価値を持つ木の実や[[rb:米穀 > べいこく]]であったり。

  どうしてそんなものまで遺せたのか、前もって事情を聞かされていたワンダですら解らないことだったけれど、ともかく子供たちはそのおかげで[[rb:季 > シーズン]]を跨いで万全に準備をすることができた。もしもそれが無かったら、話し合って導き出した出立に最適な時期を逃していただろう。まともな武器だって用意することもできなかっただろうし、もっと深刻な事態に陥っていたはずだ。それじゃ、順に話そう。

  〝[[rb:成雲期 > クロウラ]]〟の中盤に、定例の粗製塩を[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]たちに引き渡し、彼らは何食わぬ顔で巣に籠もって[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]襲来をやり過ごしたのち、トレンチを残して即座に発った。トレンチは、巣から湖に向かう小道の途中の岩陰で、間もなく上半季最後の見回りにやってくる雇用主を待っていた。

  居なくなった少女の補充人員が来なかったのは彼らにとって幸いだった。もし来るとしたら、おそらく新参二人のような幼い子だっただろう。保護の対象が増えればそれだけ全体の生存率は下がるし、否応なく動乱に巻き込んでしまう人数が増えるのは精神的にも辛いことだ。

  トレンチは、どうか自分が追い付くまで一人の欠員も出すことなく無事でいてくれと切に願った。神がいるものか半信半疑だった彼だけれど、神霊がいるくらいなのだから、国や神話は違えども、或いは神も存在するのかもしれないと思うようになった。それならば、勝たせてくれとまでは言わない、けれど、せめてろくな武器も持たずに立ち向かうための勇気を与えてほしいと願った。彼らが生きられるのなら自分の命は惜しくない、だから、彼らだけでも救ってほしいと、――ファルコがそうしたように、指を組んで月に祈った。といっても、ワンダがファルコにせがむことで行われる神話談義をトレンチは身を入れて聞いたことがなかったから、鳥人たちの神を[[rb:錘秤神 > アルビタ]]以外まともに知らない。生前の研鑽を見定める役割を持つ神にこんな祈りを捧げてよいものか疑問ではあったけれど、とにかくやらないよりはマシだと祈った。

  東の空に浮かぶ月は、ちょうど半分に満ちようとしているところだ。さすがに太陽が最も高く昇るこの時期になると[[rb:天幕 > オーロラ]]は目視できない。太陽が最も高いということは太陽の光が最も強いということで、迷信を信じるのであれば、太陽の呪いが最も強まる時期ということになる。そして、名前までは知らないものの、鳥人神話によれば、太陽の神は破壊神であるという。何だか急に、自分がこれから対峙する相手の存在感が増したように感じた。

  トレンチは[[rb:外套 > マント]]から手を出し、頭に巻いたバンダナに触れる。もちろんそれは彼女が織り、ワンダが加工した三角布だ。その色は、きみたちから見れば朱色の斑模様となる。植物でなく〝動物性蛋白質〟を取り込んだ[[rb:天虹蚕 > プリズワーム]]が吐き出す糸の色だ。なかなかに因果なもので、彼女のみがその生態を知っていた。番を失ったばかりで傷心していたに違いない彼女は、いったいどんな気持ちでその糸を繰ったのだろう。

  そのバンダナにはもちろんワンダお手製の[[rb:探知機 > センサー]]もポケットに入れて縫い付けてあるのだけれど、外周にトレンチを含めた子供たち全員から引き抜いた体羽を刺していた。[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]のオーナム、[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]のマーニー、[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]のワンダとルイン、そして、まだ名前はないけれど、新たに加わった[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の幼鳥二人……。そのバンダナに触れることで、彼らと意志を共にしようとしたんだ。絶対に勝つから待っていてくれと、勇気を分けてくれと。新参二人に名を付けると約束もした。負けることは許されない。

  力がないトレンチは犠牲を強いた。――けれど、犠牲を出すつもりはないんだ。

  [[rb:雇用主 > オオカミ]]の気配がした。トレンチの磁覚はそれを明瞭に感じ取っていた。こんな時に言うことではないけれど、彼らは別に生体磁気なんていう微弱すぎるものを直接感知しているわけではないよ。磁気感覚は、彼らの聴覚、視覚それぞれに密接に関わっていて、目から、耳から、きみたちには計り知れないほど多くの情報を得ているんだ。きみたちの知る動物たちも同じかは解らないけれどね。

  その優れた感覚が、ちょうど岩の反対側を歩いている[[rb:雇用主 > オオカミ]]の姿を脳内に描き出した。岩陰に潜むトレンチは胆力を練った。音が立たないよう、[[rb:外套 > マント]]の中で弓に番えた矢を引いていく。風向きは下流、対[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]としては絶好だ。――彼の五感が、飛び出すべきタイミングを告げた。

  引き絞った弓矢から手を離す。[[rb:撓 > しな]]った弓と弦から力を伝えられた矢が、[[rb:雇用主 > オオカミ]]めがけて飛んでいく。[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の反射神経が、矢よりも早く届いた弦の音に反応して飛び退いた。

  トレンチは既に駆け出していた。[[rb:雇用主 > オオカミ]]が状況を把握する僅かな間に距離を詰め、更なる矢を放たんとした。頭より体が先に動く[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]は横の移動で相手を翻弄しようと動いた。相手は鳥人、持つものは銃ではない、玩具のような弓だ。脅威など微塵もないと。自分に向かってきた理由は命中精度を上げるため。理詰めでなく視覚情報から一瞬で導き出したことだ。

  けれど驚くべきことが起きる。徐々に間合いを詰め、今まさに飛び掛からんとした[[rb:雇用主 > オオカミ]]は、信じ難いものを目の当たりにする。なんと目の前の[[rb:鳥人 > トリ]]は矢を放つことなく弓を投げ捨てたんだ。そしてあろうことか、丸腰で自分の方に向かってくるじゃないか!……経験に基づく直観が脳内で優位に働いていた[[rb:雇用主 > オオカミ]]は酷く混乱する。その[[rb:雇用主 > オオカミ]]の目が、風を受けて[[rb:靡 > なび]]く[[rb:外套 > マント]]から木製の[[rb:手槍 > ペグ]]が現れるのを見止めた。その[[rb:手槍 > ペグ]]が、不意を突かれた[[rb:雇用主 > オオカミ]]の首を掠めた。切っ先が毛皮を薄く撫でる感覚がトレンチの手に伝わった。

  真っ直ぐに飛びもしない急拵えの弓矢で仕留められるなんて元より思っておらず、矢だって二本しか用意していなかった。結界術を使ってもらえれば最良だったけれど、それに頼っていたわけじゃない。弓矢は初手で体勢を崩すための役割くらいしか想定していなかった。

  遠距離攻撃が要である無力な鳥人が、近接戦闘を行おうとしている。これはとんでもないことだよ。手早く[[rb:外套 > マント]]を脱ぎ捨てた[[rb:雇用主 > オオカミ]]も、奇襲を仕掛けた主が自分のよく知る奴隷であることへの怒りよりも驚きの方が勝っていた。トレンチの細腕から繰り出される[[rb:刺撃 > しげき]]に、声も上げずに避けるのが精一杯だった。

  [[rb:雇用主 > オオカミ]]が後ろに飛んで距離を取ろうとした。トレンチは恐れも知らず即座に前に進んだ。息つく暇も与えないように、呼吸の暇さえ与えないように。――だって、咆えられたらそこで負けだから。集落までは遠くとも、近くに仲間が滞在する拠点があるとファルコは言った。怒声程度なら届かずとも[[rb:腹式咆哮 > ハウリング]]は届くはずだ。そのためトレンチは執拗に喉を狙った。

  けれどこの少しの間で心身を持ち直した[[rb:雇用主 > オオカミ]]は牙を剥き、奴隷の反逆に怒り狂った。そもそもが体格の違う自分に不利はないと直観したんだ。数年間の無抵抗に油断しきった[[rb:雇用主 > オオカミ]]は武器を所持していなかったけれど、だからといってどうということはない。銃を持たない[[rb:鳥人 > トリ]]などただの肉塊でしかないのだから。

  [[rb:雇用主 > オオカミ]]は多少の手傷は覚悟のうえで前に出た。[[rb:武器 > オモチャ]]を振り回す子供の腕を掴もうと手を振り回し、時には大胆に跳躍した。その跳躍距離はトレンチの想定以上で、辛うじて飛び退くのが精いっぱいだった。避け方まで選べず、上方向のベクトルが強すぎた。そうなれば体重の軽さ、空気抵抗の大きさが災いして着地までの時間が長くなり、その絶好機に[[rb:雇用主 > オオカミ]]は口角を上げて獲物に飛び掛かった。決定的な一撃を繰り出せると確信したんだ。咄嗟にトレンチは手に持つ[[rb:手槍 > ペグ]]の一本を顔面めがけて[[rb:投擲 > とうてき]]し、生じた隙に着地をして構え直すことに成功した。そうしてまた、残る一本の[[rb:手槍 > ペグ]]を手に前進した。

  最初の不意打ちからここまで、[[rb:雇用主 > オオカミ]]はされるがままだったわけじゃない。今の攻防の間に神霊を呼んでいた。[[rb:鳥人 > トリ]]には感じ取れない神霊を呼び、[[rb:鳥人 > トリ]]には感知できない霊術で勝負を決めようとしていたんだ。けれどトレンチはそれを確かに感じ取っていた。頭に密着する[[rb:探知機 > センサー]]は、確かな磁気を発していた。

  もしも戦いに慣れている鳥人なら、この神霊の距離はもはや死に等しいと感じているはずだ。敗色濃厚と見て後退しているはずだ。けれどこれが初陣であるトレンチはその[[rb:危険水準 > デッドライン]]を把握できず、今まさに自分に害を為そうとしている神霊に向かって前進したんだ。――それが、[[rb:雇用主 > オオカミ]]の虚を突く結果をもたらした。なぜなら[[rb:雇用主 > オオカミ]]はトレンチが[[rb:探知機 > センサー]]を装着しているなどとは微塵も思っておらず、愚かにも飛んで火にいる夜の虫に、次の瞬間には激しく炎上しているであろう哀れな[[rb:鳥人 > トリ]]に、高揚して笑みすら浮かべ、――その肉塊が突如として真横に飛んだことが信じられなかったんだ。

  もはや視界から消えたと錯覚するほど油断していた[[rb:雇用主 > オオカミ]]の右脚に、深々と[[rb:手槍 > ペグ]]が突き刺さった。ガクンと膝が折れる――ここだ! トレンチは[[rb:外套 > マント]]を捲り上げ、紐を斜めに掛けて背負っていた武器を前にスライドさせ、両手で構えた。

  いやいや、いったい何の偶然なんだろうね。その一連の動作は、結界術を打ち破るために用いる最終兵器を構える動作と酷似していたんだ。尻もちをついた[[rb:雇用主 > オオカミ]]は、初めて奴隷相手に恐怖した。――ファルコのハッタリを聞いた時を別にすれば、だけれど。

  トレンチは[[rb:雇用主 > オオカミ]]めがけて跳躍した。それを見た[[rb:雇用主 > オオカミ]]は恐怖から一転、鼻面に皺を寄せて迎え撃とうとした。だってトレンチが手にしたそれは、恐れていた[[rb:長銃 > ライフル]]ではなかったのだから。トレンチが握っているのはただの棒切れで、そこから伸びる糸に岩石が繋がっているだけのお粗末な武器だった。なるほど岩石には鋭い突起がいくつか付いているけれど、人体を貫通する[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]の体当たりをも防ぐ結界の前では無力に違いない。そう考えた[[rb:雇用主 > オオカミ]]は手をかざし、結界を展開させた。手の平より少し大きいくらいの狭い範囲だけれど、それは予測される攻撃軌道の範囲内であるはずだ。

  跳躍したトレンチは防御も考えず全力でその[[rb:鈍器 > メイス]]を振りかぶった。そうして着地に合わせ、そこに展開される景色の揺らぎ――結界めがけ、憎き[[rb:雇用主 > オオカミ]]の顔めがけ、渾身の力を籠めて振り下ろした。

  重量感のある音が響いた。衝撃波が金属音めいた振動となって広がった。[[rb:岩石 > スパイク]]が結界と衝突し、――そして止まった。

  けれど[[rb:雇用主 > オオカミ]]は信じられないものを目の当たりにしたように間抜けな顔を曝していた。[[rb:岩石 > スパイク]]そのものは結界に阻まれた。けれど、突起が結界を貫き、穴を穿っていたんだ。

  その部分から結界に流れる力が乱れ、纏まりを失った結界は高温の蒸気と共に破裂した。不快な振動と衝撃に身を縮めたのは[[rb:雇用主 > オオカミ]]だけだった。次の瞬間には、[[rb:雇用主 > オオカミ]]に[[rb:手槍 > ペグ]]が迫っていた。

  まさか三本目の[[rb:手槍 > ペグ]]があるなんて思ってもみなかった[[rb:雇用主 > オオカミ]]はそれを手で遮るので精一杯だった。ワンダが鋭く削ったそれは、[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の手の平を容易く貫通した。――容易く貫通しすぎてしまった。トレンチの右手は吸い込まれるように屈強な手に収まった。手を貫かれながら、[[rb:雇用主 > オオカミ]]はトレンチの拳を細枝のように砕いた。深刻な損傷が起きた音がした。

  けれどトレンチは動じなかった。左手一本で[[rb:鈍器 > メイス]]を横に薙ぎ、防ごうとした[[rb:雇用主 > オオカミ]]の右腕に少なくないダメージを与えた。痛みに歪む[[rb:雇用主 > オオカミ]]の顔、そしてその首を、トレンチの右足が捉えた。全身全霊の力を籠め、憎き首を圧搾する。トレンチの[[rb:趾 > あしゆび]]がみるみる食い込んでいった。

  [[rb:雇用主 > オオカミ]]が、左手を貫く[[rb:手槍 > ペグ]]を自ら抜き、その手でトレンチの足を掴む。全身全霊の力が籠められる。

  自由になった右手で首を刺す。折れた手では力が入らなかった。代わりに脚を掴む腕を刺した。[[rb:雇用主 > オオカミ]]の腕の力は衰えなかった。

  趾が、爪が、肉を抉っていく。[[rb:雇用主 > オオカミ]]は目を血走らせて抵抗する。トレンチの足首が変な方向に曲がっていく。

  唸るトレンチ、唸る[[rb:雇用主 > オオカミ]]。目を剥き牙を剥き、命を振り絞るように、[[rb:雇用主 > オオカミ]]が――!

  けれど、その手が足を折ることはなかった。それより早く、[[rb:雇用主 > オオカミ]]の喉笛に爪が到達したんだ。トレンチの爪は、分厚い毛皮を見事に裂いた。

  [[rb:雇用主 > オオカミ]]は力を失った。痙攣しながら手が離れ、張りつめていた首の筋肉も軟化した。体重が前に掛かり、トレンチはおそるおそる足を離す。血に染まった[[rb:趾 > あしゆび]]が現れた。四本の爪は、[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]たちが用意した石の[[rb:鑢 > ヤスリ]]で予め鋭く研がれていた。

  足を着くと激痛が走った。どうやら折れる寸前だったらしい。

  地に倒れた[[rb:雇用主 > オオカミ]]にはまだ息があった。血が広がらないところから見ても、致命傷と判断するにはまだ早い。トレンチは左手で[[rb:手槍 > ペグ]]を構える。

  ――ファルコの言っていたことは本当だった。もしも相手が油断していなければ、もしもあと少しでも霊術の扱いに長けていれば、もしもあと少しでも足に掛かる力が強ければ、きっと負けていた。銃を持たない[[rb:鳥人 > トリ]]なんて、本当に無力な存在なんだ。

  それでも、結果的に勝つことができた。その事実にトレンチは身震いした。何よりも作戦の成功に対してではあるけれど、その他にも、これまで不当に命を落としていった仲間たちの仇を討つことができたことへの喜びと、それから、こんな子供一人に負けるような存在にこれまで怯えていたのかという悔しさと。

  手に持つ[[rb:手槍 > ペグ]]に力が入る。――とどめを刺さなければ。戦闘により昂っていたトレンチは、相手の命を奪うことに抵抗なんてなかった。

  けれどその手はピタリと止まる。不審な点に気が付いたからだ。

  雇用主の手が口に触れている。まるで木の枝か何かを[[rb:啄 > ついば]]みでもするかのように、小さな何かを咥えている。

  ゾッと、命そのものを舐められるような悪寒が走った。トレンチは雇用主の首を力いっぱい踏み付け、咥えているものを[[rb:手槍 > ペグ]]を使って取り外した。

  拾い上げて見てみると、それは細い木製の筒で、筒の途中には横長の穴が開いていた。教養のないトレンチでもそれが笛であることは知っていたけれど、トレンチが見たことのある笛はもっと太く大きかった。雇用主が咥えていたのは、そうだね、ちょうど途中から折れたトレンチの右手第二指の先くらいの短さだった。トレンチにはそれがいったい何のためのものなのか予想が付かなかった。

  実はそれは、本格的な集団戦闘で用いられる〝犬笛〟だった。敵国の民、つまり鳥人たちには聞こえない高周波音を出し、[[rb:太陽の国 > ソラス]]の民同士で連携を取るためのものだ。これはトレンチはおろか[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の戦闘を遠くで見ていただけのファルコにも知り得えなかった要素だった。

  トレンチには知識がない。けれどちゃんとそれを弁えている。きっと自分の知らないことが起きたんだと考えることができた。死を目前にやる意味のある行動であるとすれば、それはきっと助けを呼ぶためのものに違いないと。――きっと、今まさにこの湖に[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]たちが向かってきている。雨が降る前に、彼らの嗅覚を欺くことができないうちに、気付かれてしまった。

  もはや勝ち目はない。負傷した体で、不意も突けずに勝てる相手ではない。それでも――トレンチは落ちた[[rb:手槍 > ペグ]]を拾い上げる。雇用主の足に刺さっているものも抜き取る――最後まで足掻いてやる。死ぬ瞬間まで抗ってやる。追い付かれても、捕まっても、手を折られても、切り裂かれても、肉を噛み千切られても、最後まで生きる意志を失ってはならない。例え首だけになったとしても、その目に宿る炎を最後まで灯し続けなければならない。群れを守る〝[[rb:秀翼 > ファルコニー]]〟として今すべきことは――トレンチは[[rb:手槍 > ペグ]]を雇用主の首に深々と刺した。

  何よりも優先するべきは、一瞬でも多く子供たちが逃げる時間を稼ぐことだ。返り血をふんだんに纏った[[rb:外套 > マント]]を翻し、トレンチは子供たちとは反対方向に走っていった。

  [newpage]

  

  トレンチは駆けた。険しい道を駆け抜けた。慣れ親しんだ塩湖を離れ、幾らも走らないうちに倒れた。折れてこそいなかったけれど、足の骨はかなりのダメージを受けていた。

  それでも即座に起き上がり、走った。痛みと暑さに大汗をかきながら、ひたすら走った。

  [[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]が頭すれすれを掠めた。[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]が[[rb:外套 > マント]]をギリギリ貫いた。[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]が眼球すれすれを掠めた。負傷した足で辛うじて反応し、立ち止まらずに走り続けた。

  [[rb:寇尽蝗 > ファギア]]が緑を食い尽くしたばかりだから目立つ茂みはないけれど、代わりに丸裸の木々を隠れ[[rb:蓑 > みの]]に、この時期に成虫となったばかりの[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]が次々飛んできた。運が悪いことに、ここは[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]たちが多く棲息していた。もしいたとしても雨に備えて身を隠しているという見立てだったけれど、殺意の高い虫はあちこちに潜んでいた。いや、大部分が身を隠していて、なおこれだけの数が残っていると考えるのが妥当だ。

  トレンチの心は逸った。子供たちとの差はどんどん開いていく。あちらの道もこんなふうに危険なものであったらどうしようと、気が気でなかった。

  血流が上がった。体温が上がった。息が上がった。折れかけた足と、骨の砕けた手の疼きが酷くなった。反応速度が目に見えて鈍っていった。

  死角への対処は磁覚だけが頼りだった。それにしても虫が動かない限りは気付くことができない。もしも反射神経が間に合わない至近距離から襲われれば、高確率で絶命する。

  虫の張り付いていない木を過ぎた。――過ぎる瞬間、その木の死角に潜んでいる虫が、視界の端にちらりと映った。

  幹の色と虫の色、その区別が容易につく色覚を持っていたことが生死を分けた。反射神経を持ち出すこともできないほどの至近距離から跳んでくる[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]に、トレンチはそれが跳ぶ前から回避行動をとっていた。

  バチッと激しい音がした。[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]は頭部を貫くことはなかった。けれど[[rb:嘴 > クチバシ]]を強く弾いた。

  その凄まじい衝撃でトレンチは空中で横に一回転し、空間の認識がとれなくなって背中から落下した。

  [[rb:嘴 > クチバシ]]に[[rb:罅 > ヒビ]]が入っていた。一部は欠け、血が流れていた。首が折れていないのが不思議だった。平衡感覚を失っていた。磁覚地図と視覚地図が食い違いを起こしていた。目が回っていた。いや、そんなことより、トレンチの磁覚が、今まさに自分に向けて照準を合わせている微かな虫の動きを感知していた。

  けれど上手く跳べなかった。左足で地を蹴ったつもりが空振りし、右足で蹴って僅かに前転し、それで天地の修正が行え、今度こそ前方に大きく跳躍した。それまでトレンチがいた場所に、多数の[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]が通過する音がした。

  無理な跳躍のせいで右足に激痛が走った。いよいよ使い物にならなくなりつつあった。

  それでも駆けた。それでも跳んだ。立ち止まっては狙い撃ちされてしまう。とにかく動かなければならなかった。

  大きな衝撃を受けたことで血圧が下がり、痛みや暑さが一時的に緩和されたように錯覚した。だから動けた。無自覚で多大な負担が掛かっているのだろうけれど、死を回避する行動をとることができた。その代わりに正常な思考ができなかった。もはや敵の動きを先読みすることはできず、倒けつ、転びつ、直感で避けた。一心不乱に進んだ。地を駆け、地を踏み、地を跳ねた。

  着地し、次の跳躍に向けて踏みしめた左足に、かあっと熱い感覚がした。頼りの磁覚は相手が動かない限りは気付けない。つまり、動かずに獲物を待ち構える類の虫には効果が薄いということだ。[[rb:領域 > テリトリー]]に踏み込んだ外敵を、小型の〝サソリ〟が刺した。これでトレンチから最後の機動力が奪われたことになる。

  ――だからこそ駆けた。トレンチは駆けた。毒が回る前に、完全に足から力が失われる前に、少しでも距離を稼いでおこうと。死ぬ瞬間まで、その目に希望の火を灯し続けるために。

  数歩進んでは転び、数歩進んでは転びを繰り返した。

  心拍が狂っていた。全身の感覚が狂っていた。

  呼吸が狂っていた。吐息が笛のようだった。

  思考力が狂っていた。目が血走っていた。

  方向感覚が狂っていた。なぜ虫が襲ってこないのか解らなかった。いつの間にか雨が降り始めていたことに、気付かなかった。

  それは待望の雨だった。大粒の雨が、撫でるように降っていた。[[rb:外套 > マント]]が濡れ、浴びた血が流れていく。迫っているであろう追跡者は空気に溶けた血の匂いから地面に染み込んだ血の匂いに移行して、そしてそれすら嗅ぎ取れなくなれば嗅覚以外の感覚を頼るようになるはずだ。

  トレンチは暫く北西に進み、バンダナから抜いた仲間の羽を一枚落とし、少しだけ後戻りをし、再び北東へ進路を取った。

  見事なものだよ、朦朧とする意識の下で〝止め足〟じみた知恵を働かせることができるなんてさ。足の感覚も疾うに無くなって、目も殆ど閉じていて、なお歩き続ける執念。生存を考えればもはや絶望的だ。けれど彼は一歩でも進み、捕まるまでの時間を稼ごうとしている。ついに足が動かなくなっても、それでも彼は歩いた。膝だけで、[[rb:手槍 > ペグ]]を杖にして、ずるずると進み続けた。総ては子供たちのため。それが彼に僅かに残された命の使いみち……。見事だよ、本当に。

  岩壁に辿り着くころには彼は生きているのか死んでいるのか判らない状態だった。けれど彼の心は死んでいない。少しでも逃げ続けるために、彼は[[rb:熱割れ > サンクラック]]に退避することを選んだ。

  ほぼ西向きに開いた穴だから今のところ太陽熱は深層まで届いていない。休息に足る条件だ。

  ところがそれは高い位置にあった。実に身長の三倍近い高さのそこに、彼は跳ぼうとした。選択の余地はない。この先、目に見える範囲に適当な岩穴は見当たらない。もしここを捨てて先に進めば、おそらく退避場所を見つけるよりも前に力尽きてしまうだろう。そうなれば、雨はともかく〝[[rb:晴雲期 > パルティオラ]]〟で間違いなく死ぬ。仮に暑さで死なずとも、そこらを巡回している[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]が無抵抗の獲物を放っておくはずがない。――ここに賭けるしかない。

  トレンチは大きく息を吸い、大きく吐いた。[[rb:手槍 > ペグ]]を[[rb:外套 > マント]]に仕舞い、手足の感覚を確かめた。無傷の左手は動く。右足はボロボロだけれど[[rb:趾 > あしゆび]]は動く。それだけが頼りだった。

  正真正銘、これが最後の力だ。全身に力を漲らせた。グッと曲げた膝に全力を籠めた。そうして彼は跳躍する。

  満身創痍でありながら、彼は素晴らしい跳躍力を見せた。その高さは身長を大きく超え、ほぼ垂直に近い岩壁の僅かな出っ張りに右足の爪を掛け、左手の爪も補助にして、もう一段、ぽっかりと口を開く[[rb:熱割れ > サンクラック]]に向け、全力の跳躍を――!

  そこが彼の限界だった。膝に力は入らず、掛かっていた爪が滑り、顔面を打ち、背中から落下した。彼自身の体重は軽くとも、雨を多分に吸った羽毛と[[rb:外套 > マント]]の重みが落下の衝撃を強めた。受け身を取る力も残っていなかった彼は、背負った[[rb:鈍器 > メイス]]から伝わる強い衝撃に脳を揺さぶられ、今度こそ総ての力を失った。

  世界が回っていた。景色が脈動し、ひとつとしてまともな像を結んでいなかった。彼はいつの間にか目を閉じていた。そうすると、さらに激しく世界が回った。これまで無視してきた疲労が一気に襲い掛かってきた。先延ばしにしてきた激痛が、一気に返済を求めてきたんだ。

  右手がバラバラになったかと彼は思った。右足が、今まさに強い力で引き千切られているかのように痛んでいた。落下に際して衝撃を受けた背骨が、半分に折れているかのように錯覚した。左足を刺したサソリは鳥獣人類を標的にした毒を持っているわけではないけれど、体外に排出しないまま走り続けたせいで、毒素はその力を如何なく発揮し、広範囲に痺れをもたらしていた。刺された部分どころか左脚全部が棒のように硬直し、股関節、下腹部、左脇腹の方にまで麻痺は進行していた。その中において、鈍痛だけがハッキリと存在を主張した。その鈍痛が、とっくに失われていてもおかしくない意識を引き留めていた。意識を失うことができればどんなにか楽だろうに。けれど彼はそうは思わなかった。――細糸で繋ぎ止められている意識の中で、彼はなんと追手がここまでやってきた時の[[rb:想定 > シミュレーション]]をしていたんだ。

  まさかトレンチを見付けていきなり踏み潰したり火を付けたりなんてしないだろう。息があるかを確かめ、いくつかの尋問はするはずだ。そのためにまず武器を持っていないかを確かめる。[[rb:外套 > マント]]を捲り、そこに血液の付着した[[rb:手槍 > ペグ]]を見付け、こいつが犯人だと断定するだろう。――そうだ、その前に予め[[rb:手槍 > ペグ]]を握っておこう。麻痺が左手全部を支配する前に。そうすれば不意打ちをかけることができる。

  びしょ濡れの[[rb:外套 > マント]]から[[rb:手槍 > ペグ]]を抜き取ると、[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]は目敏く察知してそれを奪い取り、トレンチを責め立てた。首を掴まれ、体が浮遊した。背負っている[[rb:鈍器 > メイス]]も奪われ丸腰になった。けれど彼は諦めない。雇用主にやったように、足で首を掴もうとした。右足は激痛を思い出して動かせなかった。仕方なく無傷の左足を持ち上げ、首を掴んだ。けれどその[[rb:趾 > あしゆび]]に力は入らず、爪は一向に毛皮に食い込むことはなかった。

  [[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の牙がトレンチの大腿に食らい付いた。まったくの無感覚に、彼の左脚は食い千切られてしまった。その脚が目の前で焼かれ、目の前で食われた。痛みはなかった。けれど血の気が引き、抵抗する力が消え失せていった。サソリに刺された部分に痛みが走った。無いはずの左足が痛んだ。そうだ、これは想像だ、負ける想定をしてどうするんだ。――[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の姿が音もなく消えていった。

  ワンダがいた。幼い[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]が、地べたに足を投げ出して座っていた。トレンチに気が付き、顔を輝かせて喜んだ。飛び付き、抱き付き、頬を擦り付けた。頭を撫でてやると、ワンダは飛び切りの笑顔を見せた。

  遅かったねとワンダは言った。追手を引き付けていたんだとトレンチは答えた。

  どうしてそんな危ない道を進んだのと尋ねた。危険だからこそそっちを進んだと答えた。木の生えない開けた道は存在するけれど、脚力に差がある以上そちらを通るわけにはいかないと。[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]にとっても[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]は等しく脅威なのだから、あっという間に捕まってしまうよりも却って生存率は高くなるからと。ワンダはその答えにすごいと感動した。

  トレンチは脳内に地図を浮かび上がらせた。感覚を共有しているワンダがその地図に乗ってはしゃいだ。ぼくの地図とおんなじだ、と。そりゃそうだとトレンチは言う。だってこれは全員で作った地図なんだから。みんなが磁気感覚を持っている。みんなが脳内に広域的な[[rb:地図作製 > マッピング]]能力を持っている。当たり前のことだぞ。

  トレンチは新参の[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の少年の頭を撫でた。俯いていた少年はそれだけでぱっと明るい顔になった。逆隣から、もう一人の[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]の少年が自分もやってと言いたげに頭を突き出してきて、手の代わりに頬で撫でると安心したように目を細めた。新しく来たこの二人の鮮明な記憶のお陰で、近辺の地図はかなり正確に把握することができた。

  これからどう進めばいいのとワンダは尋ねた。子供たちの殆どは最寄りの街から仕入れられたもので、三倍以上もの距離がある最終目的地[[rb:緩衝街 > シカルド]]からやってきたのは、希少な[[rb:五体満足 > フローレス]]であるトレンチを除けばたった一人の[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]、ルインしか居なかった。

  そのルインが進むべき道を指差す。トレンチも同意見だった。二人の記憶はそれなりに合致していたから、地図の信憑性としては悪くない。細部の形状はともかく、移動ルートそのものは単純な法則性に基づくものだから、大筋さえ判っていれば多少食い違っていても修正は容易なはずだ。

  法則性って? 地図の上でくるりと回り、ワンダが問う。

  岩壁に沿って進むことさ、とトレンチは答える。

  なんで?

  [[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]は岩を避けるから。知ってるだろ? 同じ理由で木にも飛ばないんだ。

  じゃあどうしてお兄ちゃんは[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]に襲われたの?

  木々を避けるように待ち構えていたからだよ。

  なんでそんな危ない道を通ったの?

  言っただろ、追手を振り切るために仕方がなかったんだって。

  仕方がない?――ワンダの顔から笑みが消えた。ファルコが死んだことも、チャットが死んだことも、お姉ちゃんが死んだことも、ぜんぶぜんぶ仕方がないで済ませる気?

  違うとトレンチは答えた。違う、これはワンダじゃない。ワンダはこんなこと言わない。

  ぼくが死んでも仕方がない?――トレンチは動けなかった。麻痺が全身に広がったのか、ぴくりとも動けなかった。まるで逃れられない運命をただ見ているしかないように、運命を変えることなどできないと突き付けられているかのように、ワンダの頭に[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]が跳んでくるのを、止めることができなかった。ワンダは最期まで哀しそうな表情をしていた。そのワンダの頭部が、表情を作ることすらできない形状になった。

  心拍が大きく乱れた。呼吸が大きく乱れた。息を吸えなくなり、苦しみにのたうち回った。[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]を前に動けなかった体が、苦しむことなら容易にできた。

  深層で顕出される弱い心というものは、自制や自己弁護という[[rb:絶縁 > コーティング]]が利かないぶん、いったん暴走を始めると止めようがない。

  現実でないから意識を失うこともできず、逆に意識を浮上させることもできず、彼はあらゆる[[rb:状況 > シチュエーション]]で仲間たちに責められた。直接的に責められずとも、ある時は浅い[[rb:熱割れ > サンクラック]]で子供たちがみな暑さにやられていた場面や、恐怖に怯えて身を寄せ合う子供たちの群れに[[rb:剛潰虫 > クラッシャ]]が通り過ぎる場面、逃げる場所が見つからず[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]に食らい尽くされる場面、一人また一人と[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]に連れ去られていく場面など、妙にリアリティを伴った悲観的妄想が彼の心を切り刻んだ。彼の涙はいくら流しても枯れることはなかった。

  けれどね、どんなものにも[[rb:峠 > ピーク]]というものは存在するんだ。哀しみの海に落下したとしても、沈むばかりじゃない、いずれは浮力で相殺され海面に向かい始める。大事なのは、総てを諦めて息を吐いてしまわないことなんだ。

  トレンチも子供たちも、まだ諦めていない。哀しみの刃が暴れ回った跡地に、彼らは立っていた。[[rb:緩衝街 > シカルド]]は目前だった。長旅で全員ボロボロになっていたけれど、一人として欠けてはいなかった。

  あそこに行くのとワンダが尋ねた。トレンチは答えなかった。

  あそこに行けば助かるのと別の子が尋ねた。トレンチは答えなかった。正確には、答えられなかった。[[rb:緩衝街 > シカルド]]に行けば助かるなんて保証はない。誰だってそれは解っていた。そこで生まれ育ったトレンチは、誰よりも解っていた。奴隷は奴隷でしかない。その中で、運が良ければ今より幾らか待遇がマシになるかもしれないというだけの話だ。

  最終目的地は[[rb:緩衝街 > シカルド]]と、トレンチは子供たちに言っていた。けれど、そのつもりはなかった。それこそ夢のような話だけれど、どこか誰も知らない土地で、みんなでひっそりと暮らしていきたい。そんな子供じみた幻想を抱いていたんだ。実現が可能かは判らない。けれど、街で生きるよりは可能性があるはずだ。

  どこに行くのと誰かが尋ねた。トレンチは答えなかった。そっちは街じゃないよ。けれどトレンチは歩いた。どこに行くのと誰かが尋ねた。いいところだよとワンダが答えた。ワンダはトレンチの考えを見抜いていた。

  いいところってどこなのと誰かが尋ねた。トレンチとワンダは顔を見合わせて笑い、子供たちを率いて歩いて行った。ねえどこなの、教えてよー。

  「ねえ、君はどこへ行こうとしているの?」

  前触れなくもたらされた外部刺激に、安定していた意識レベルが急速に変化した。

  [newpage]

  

  長い夢を見ていた。過ぎてみると短いようにも思えるけれど、長い昼期間を何回もの短時間睡眠で乗り切る生態の[[rb:鳥人 > トレンチ]]にとって、目覚めた後で振り返るその感覚は異常だった。通常では有り得ないほど長い睡眠――それも半球睡眠も行えないほどの昏睡に陥っていたんだと、少し考えて理解した。

  岩肌が見えた。視界が脈打っていた。その感覚は記憶に新しい。毒と疲労、激痛で視界が歪む感覚だ。けれどその時と違い、脈動しながらも、そのたび像はしっかりと繋ぎ直された。

  ここでトレンチは気が付く。仰向けで寝ているのに、見えているものが空の色じゃない。……岩肌って何だ? 岩肌ってどこだ?

  体を起こそうと力を入れた瞬間、激しい嘔吐感が彼を襲った。けれど堪えた。腹に力を入れ、吐きそうになる生理反応を押し止めたんだ。――腹に力が入る。僅かだけど体が動く。死んでいない、生きているんだ。

  「すごい生命力だね、あそこから持ち直すんだ」

  知らない誰かの声がした。でも聞き覚えがあった。それは夢の中で聞いた、子供の声だ。体ごとは動かせなかった。声のする右側に頭だけ傾けようとすると、安定していたはずの平衡感覚がぐちゃくちゃになって、景色がぐわんと一回転した。また軽く吐き気が込み上げた。

  「無理しないで、そのままでいいよ」

  鳥人と違い共通言語の明瞭な発音――[[rb:太陽の国 > ソラス]]の民!

  トレンチは[[rb:外套 > マント]]から[[rb:手槍 > ペグ]]を出そうとした。けれど右手は不自然に重く、代わりに左手で体をまさぐるけれど、そこにあるのは生身の体ばかりだった。[[rb:外套 > マント]]そのものを身に着けていなかったんだ。

  体に触れたことで、トレンチは異様に高い体温を知る。そして、右手の違和感にも気が付いた。手の感覚がある。粉々に折れていたはずの手が、きちんと手の形をしている感覚があった。

  疑問はすぐさま解決した。右手の平に、何やら緩やかにカーブした硬いもの(それが甲虫の甲殻であると後で知る)が宛がわれ、固定するように布が巻かれているのが見えたんだ。

  そして右足も同様に、添え木の上からしっかりした生地の布がぐるぐる巻きにされているのが感覚で判った。……何だろう。いったい誰だろう?

  「この状態でまず武器を探す行動をとるとは恐れ入る」別の声がした。「奴隷の出だろうに、大した戦士だね」先に聞こえた子供の声と似ているような、いないような、高く落ち着いた声だ。

  「よっぽど酷い目に遭ったのかもね。これ全部手作りかな?」

  「そうとしか考えられんね。それにしてもよくできた[[rb:探知機 > センサー]]だ」

  気分が悪くならないよう少しずつ顔を傾けていき、可動範囲の狭い眼球を外に向け、外側の中心窩がようやっと未知の世界を認識できた。

  「これが結界対策かな?」

  「重量と遠心力を一点に集中させて威力を補う……理には適っているが、俄には信じ難いな」

  「紐があると反動で手が折れることもなさそうだね。よく千切れないな」

  「[[rb:天虹蚕 > プリズワーム]]だろうな。あれが作る糸は丈夫だ」

  「じゃあこの色……」

  「……中々に劣悪な環境なのだろう」

  逆光でそこに誰がいるのかすぐには判らなかったけれど、それはどこかの[[rb:熱割れ > サンクラック]]のようだった。差し込む光は明るい。雨は降っておらず、晴れてもいない。ということは〝[[rb:晴雲期 > パルティオラ]]〟の前半だろうと推測できた。さすがに[[rb:季 > シーズン]]を跨いではいないだろうけれど、それにしても月が十二分の二、三満ちるくらい長い時間寝続けたことになる。尾羽の上に溜まる排泄物の感覚もだいたいそれくらいだった。

  トレンチは左手で逆光を遮り、そこにいるであろう人物を見ようとした。まず一対の長い耳が見えた。もう片方の人物も、同じような耳が頭頂部から伸びていた。

  「意識ははっきりした?」子供の声の方が言った。

  「[[rb:奔套兎 > エスケープ]]……」

  そこにいた二人は、トレンチもよく知る[[rb:奔套兎 > エスケープ]]という種族だった。街にいた頃はトレンチと同じように多くが奴隷として扱われていたように記憶している。

  トレンチには[[rb:奔套兎 > エスケープ]]の年齢を推し量ることはできないけれど、どちらも街で見た同年代の奴隷たちと大きく変わらないように見えた。[[rb:外套 > マント]]らしき布の塊が畳まれて置かれてあり、旅の途中であることが窺える。二人とも[[rb:野生色 > アグーチカラー]]の毛並みをしているけれど、子供の声の方は幾らか色が薄かった。

  「そうだね、通常の呼び名としては[[rb:奔套兎 > エスケープ]]となるけれど、できれば[[rb:俊趨兎 > ラプソディア]]と呼んでもらえると嬉しいかな」

  「ラプ……」まで言って、トレンチは力尽きて息を吐いた。

  「無理には喋らないほうがいい」もう一人が言った。「まだ熱が引いていない。安静にするといい」こちらは幾らか年上のようで、高い声とは裏腹に、大人びた口調のようにトレンチには思えた。

  「……ここ、は」

  トレンチは声を絞り出した。体力を著しく消耗はするものの、これくらいの発声であれば気分は悪くならないようだった。

  「無理しないでってば」色の薄い方がにこやかに言った。「いやもうビックリだよ、雨をやり過ごしていたら下の方から音が聞こえてきてさ、覗いてみると君が倒れていたんだ」

  ということは、ここはトレンチの身長の三倍ほどの高さにある[[rb:熱割れ > サンクラック]]で、この二人がトレンチを抱えて中に運んでくれたということになる。

  それに留まらず、手や足、それに――今気付いたけれど、体から毒気が抜けていた。あるのは痛みと倦怠感だけで、左手の感覚も、左足の感覚も、しっかりと戻っていた。

  「刺してきたのがサソリでよかったね。この辺にはもっとタチの悪い毒虫が出る」

  「どうして……」

  「助けたのかって?」

  途中で[[rb:閊 > つか]]えたトレンチの言葉を引き継ぎ、年下の少年は答える。

  「大きな理由はないよ。銃を持つ大人の[[rb:鳥人 > トリ]]ならともかく、君は子供でしかも奴隷だ。それは一目で判った。事情は知らないし立ち入るつもりもないけど、とりあえず見殺しにするには忍びない、というところかな」

  それでも[[rb:太陽の国 > ソラス]]の民が[[rb:月の国 > キャラハ]]の民を助けるだろうか? 常識を知らないトレンチには解らない。

  二人は畳んでいた[[rb:外套 > マント]]を着始める。

  「といっても、突き放すようで悪いけど干渉はここまでだ。助けたい気持ちは山々だけど、ボクらの立場で他人の[[rb:所有物 > 奴隷]]をどうこうするわけにはいかない」

  「無事に目覚めたことだし、我々はもうここを発つ。口に合うか判らないが保存食と水を置いておこう。我々を信用してくれるならの話だが、この[[rb:季 > シーズン]]は外に出ず療養することを強く勧めるよ。――では行こうか」

  「先に行ってて父さん。あとふたつみっつ、伝えておきたいことがある」

  そうかと短く言い、父さんと呼ばれた小さな[[rb:奔套兎 > エスケープ]]は少ない荷物を手に、ふわりと[[rb:熱割れ > サンクラック]]から飛び降りた。

  「目的地は、と聞きたいところだけど、たぶん答えないよね。どこへ行くにせよ、ここから北の方面にはこれといってめぼしいものはない。あるのはボクらの集落くらいだ。――君の他に逃げた奴隷は?」

  トレンチは答えなかった。

  「おっと、悪い目的があって聞いたんじゃない。……ええと、敢えて言うけど[[rb:緩衝街 > シカルド]]は逆方向だよ」

  これにも答えなかった。場は沈黙した。その沈黙に隠れた本心を、[[rb:奔套兎 > エスケープ]]……いや、[[rb:俊趨兎 > ラプソディア]]の少年は無言で読み解いているようにトレンチには思えた。

  「まあ、いろいろと事情があるんだろう。君はどうやら強い意志を持つ子供のようだから、きっと幾らも経たないうちに助言に反して進もうとするんだろう。だから今度はボクから助言だ。もしこの山を北から迂回するつもりなら、ギリギリ辿り着けるだろう距離に夜越えに適した[[rb:洞穴 > ほらあな]]があるにはある。だけど地面に接した穴だから、虫の侵入を防止するための策を講じる必要がある。君の持ち物でそれができるとは思えないし、だいいちここみたいに先客がいないとも限らない。そこで勧めるのが、〝戻りの虫〟が過ぎるくらいまでしっかり休んで足を治し、この山を垂直に登っていくことだ。きっと、ここらよりも遥かに安全な横穴を見つけることができるはずだ。そこで夜を越し、夜が明ければさらに登り、山を縦に越える。そうしたら大幅に道程を短縮できるよ。――まあ、父さんの言うように夜明けまでここに居るのが一番確実だと思うけどね」

  そう言って、その少年は少ない荷物を抱え、[[rb:熱割れ > サンクラック]]の縁まで進む。そうして天井に手を掛け、トレンチを振り返り、

  「君の〝[[rb:船旅 > ボヤージュ]]〟に、月の神の加護があらんことを――。ボクらの神様に祈ったところで嬉しくないだろうから、君たちの神様に祈るよ。じゃあね、もし生きてまた会えることがあったなら、その時は改めてお礼を聞きたいな」

  はっとトレンチが気付いた頃には、後姿はもはや風に[[rb:靡 > なび]]く[[rb:外套 > マント]]しか見えず、それも一瞬のうちに消えてしまった。

  お礼――そうだ、お礼を言わなきゃいけなかった。相手は[[rb:太陽の国 > ソラス]]の民とはいえ、命を助けられたのは紛れもない事実だ。どこまで明かしていいものか考えているうちに、そんな単純なことを考えることもできなかった。施しを受けておいて、これでは無言で押し黙るただの恩知らずじゃないかと、トレンチは己の狭量さを思い知り、自分が嫌になった。

  それを挽回するためには、生きて、再会して、改めて謝意を述べることだ。まあ、原動力としては弱いものではあるけれど、生きる理由が増えるのはいいことだ。生きてまた会ったところで顔の判別がつくとは思えないけれど、それでもね。

  手を伸ばせば届く位置に、保存食と水が置いてあった。保存食はよく判らない土色の塊で、一口[[rb:齧 > かじ]]ってみると塩湖の砂かと思うくらい塩辛く、思わず[[rb:瞬膜 > しゅんまく]]が飛び出して眼球を撫でた。けれど、寝ている間にも大量に発汗していたトレンチの体にはちょうどよかった。そういえば寝ている間の水分補給は……と考え、すぐに至る結論にまた胸が苦しくなった。なんとも、[[rb:俊趨兎 > ラプソディア]]の二人には感謝してもしきれないね。自分たちの旅もあるだろうに、見ず知らずの[[rb:鳥人 > トリ]]の世話をここまで焼くなんてさ。まあ、それが彼らの民族性であるのだけれど。

  その民族性を如実に表しているのが水の入れ物だ。水はなんと魔獣の皮で作られた袋に入っていた。……おっと、そういえば魔獣の説明をろくにしていなかったね。なんと魔獣の皮なんて大げさに言ったけれど、価値が伝わるはずもなかった。

  一言で言えば、魔獣というのは鳥獣人類のような知能を持たない獣の総称だ。この星の覇者といえば虫類で、彼らに比べると鳥獣人類も魔獣もその数は桁違いに少ない。けれど、少ないながらも淘汰されずに生き残っているということは、それだけ優れた対抗手段があるからに他ならない。鳥人は武器、獣人は霊術または魔術、そして知能を持たない魔獣たちはというと、爪や牙など極端に発達した器官を持っているか、或いは、魔術に長けているかだ。

  そう、魔獣の多くは魔術を使うことができる。もっとも、これまでのお話で魔術は出てきていないから、まあ、今のところは軽く知っておくくらいでいい。ここで伝えたいのは、魔獣と敵対するとなると虫と同じかそれ以上に脅威だということで、その魔獣の皮を使って作られた水袋は、それ相応に価値があるものだということだ。

  知識のないトレンチでも、魔獣は手強いということくらいは知っていて、そこから価値を推測することもできる。だからこそ、この水袋をずっと持っていくことはできないなと思った。トレンチがもしも捕まった時、あの二人に施しを受けたことを知られるおそれがあるからだ。恩を仇で返すわけにはいかない。

  一度拾ったこの命、次こそは自分の力で守り通さなければならない。トレンチは決意を新たに目を閉じる。あれだけ寝たにも拘らず、未だ高熱を発する肉体は更なる入眠を歓迎した。二人の言うように、トレンチの体は休養を求めていた。傷付いた体の修復が最優先だと脳は判断しているんだ。

  トレンチは再び寝ることにした。お礼を言えなかった代わりに、二人の言うことを信じようと思ったんだ。例えこの先に待つものが〝死〟だとしても、そちらの方が気持ちのいい死に様になるはずだと。

  一度落としたこの命、失うことに恐怖はない。例え回復を待たず追手がここを嗅ぎ付けたとしても、悔しいなんて思わないし、ましてや二人に責任を押し付けるつもりもない。責任があるとすれば、それは無傷でここまで辿り着けなかった自分の不甲斐なさだと。

  出口を塞ぐ追手に対し、もはや逃げ場のないトレンチは焦ることなくこう答えるだろう。「遅かったな、あんまり遅いから一眠りしてまったよ」なんて。そんなおかしな光景を想像し、笑いながら眠りに就く。――うん、いい傾向だね。

  良いのか悪いのか、いやもちろん良いことなんだけれど、そんな皮肉を言う機会は訪れなかった。ここに気付かず通り過ぎたのか、それともまだ来ていないのか、或いは偽装に引っかかって見当違いのところを捜しているのか、はたまた追手なんて最初から存在すらしていないのか。

  磁覚のざわめき、つまり〝戻りの虫〟の音でトレンチは目を覚ました。時期としては〝[[rb:繁獣期 > ベスティオラ]]〟の終わり際、つまり太陽が沈み始める〝[[rb:黄昏期 > ダスクオラ]]〟まであと少しとなる。[[rb:熱割れ > サンクラック]]に、強い西日が射していた。その太陽を覆い隠さんばかりの[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]が、今まさにこの山を越えている。岩穴の向きが向きだけに、真正面から向かってくる[[rb:虫 > イナゴ]]がちらほらと迷い込み、トレンチは軽くビクッとした。

  あれから更に月が十二分の二満ちるくらい休んだ。もちろん前のような切羽詰まった昏睡ではなく正常な睡眠だから意識はちゃんと外に向いていた。足は――問題なく動く。手は――さすがに砕けた右手が治るにはまだまだ時間が必要だけれど、岩壁に軽く爪を引っ掛ける程度なら問題はなさそうだった。

  体も起こすことができた。気分が悪くなることもなく、歩くこともできそうだった。――もう大丈夫だ。トレンチは岩穴から外を窺う。塩湖で見た時のように、[[rb:虫 > イナゴ]]は視界全部を埋め尽くしながら進んできている。進行方向にある岩壁に対し、左右に分かれるのかと思いきや、南方向または山の上を越えるような進路をとっている。単純に、実は左右に分かれてはいるものの、トレンチのいる場所が一群の南端に位置していて北ルートの虫が見えていないだけなのか、もしくは山は北に長く長く続いていて、虫たちは北進の選択をはじめから採っていないかだ。もし後者であるのなら、子供たちとの合流はかなり遠い先の話になってしまう。

  「……山を垂直に登るって言ってたか?」

  外に出られないトレンチは岩穴の中から天を見上げ、脳内にある三次元地図を投影して高さを想像する。

  そういえば、認識の相違があるかもしれないから説明をしておこう。山だとか岩壁だとかあやふやな表現をしているように見えるかもしれないけれど、ここに限らず殆どの場所で、山といえば岩壁を指すことが多い。[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]を避けるため岩壁に沿って歩くというのは、つまり[[rb:山裾 > やますそ]]に沿って歩くということだね。おっと、山裾という表現にも齟齬が生まれそうだね。山が岩壁なら山裾も即ち岩壁だ。そして岩壁の意味もついでに確定させておくと、自然の岩が作る切り立った壁だ。

  といっても、壁と言ってもまったくの垂直かといえばそうとは限らない。雨が降るからには[[rb:雨食 > うしょく]]は発生するし、その雨だって酸性に寄っている。それが長い年月をかけて表面を溶かしてなだらかにする……のは確かだけれど、それでも垂直をやや垂直にする程度に留まっている。まあ、想像しにくいかもしれないけれど、ここはそういう世界だと思ってほしい。

  さて、虫たちが過ぎ去ったあと、トレンチはその「やや垂直」の岩壁に爪を掛けてみた。岩壁には凹凸があるから、そこに手や足を掛けることで体重を支え、姿勢を維持することだけなら簡単にできる。ただ、その状態で壁を登れるかというと簡単な話じゃない。少し前方向に力を入れ過ぎると、僅かに押し返される反動だけでふわりと体が離れてしまいそうになる。いやいや恐ろしいものだね。ただまあ、トレンチの体重自体は軽いし、羽や[[rb:外套 > マント]]で空気抵抗も大きくなっている。今回は体は濡れていないし、[[rb:鈍器 > メイス]]以外には大して重いものを持ってもいない。落下したところで死ぬことはないだろう。登ることに反論はない。問題は夜越えに適した場所が本当に見つかるかだけれど、もし見つからなければ、その時はこの場所に戻ってくればいいだけだ。

  そう考えたトレンチは、生まれて初めての[[rb:登攀 > クライミング]]を行うことにした。右手は岩の出っ張りを掴むことはできないけれど、支障なく動くようになった両足だけでトレンチの体は軽く持ち上がる。登るルートをしっかりと選定しさえすれば、岩登りは思いのほか難しいものではなかった。上を見て、先を見て、出っ張りが途切れないルートを見定めなければならない。――目が見えている間に。

  空は真っ赤に焼け、岩壁を同じ色に染めている。太陽が地平線に触れるまであとちょっとだ。そうそう、ええと、きみたちの世界で言う〝紫外線〟の照射量が幾らか減っているこの時期なら、彼はおそらくきみたちが見るものとそう遠くない色の夕焼けを見ているはずだ。ただ、きみたちが夕焼けにどういう感情を抱くか知らないけれど、街でない場所で長く奴隷生活を送ってきたトレンチにとっては、夕焼けは恐ろしいものだった。いつもなら夜の[[rb:休眠 > トーパー]]に備え食糧を確保することに追われている時期だ。〝戻りの虫〟が過ぎた直後でなかなか食べ物は見つからない。自分のため、仲間のため、[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]に怯えながら、必死になって[[rb:落実 > らくじつ]]を探す。[[rb:季 > シーズン]]の中で、もっとも〝死〟を身近に感じる時期と言っていい。

  夜は死の世界だ。夜は外では生きられない。環境の悪い本国で育ったファルコの目はともかく、鳥人は視力そのものはいい。けれど、夜を[[rb:休眠 > トーパー]]で越えると割り切った生態の彼らは十分な暗視能力を有していない。夜は野外活動をしてはならない。夜は、彼らの世界じゃない。

  トレンチは右手の痛みを押して岩を登り続けた。体は濡れていないとは言ったけれど、長期間太陽熱を吸収した岩壁は〝[[rb:黄昏期 > ダスクオラ]]〟の直前にも拘わらずなかなかに熱く、今の彼は[[rb:外套 > マント]]の下でそれなりに発汗していた。落ちたら無事では済まない。滑るように落ちられればいいけれど、受け身を取れなければ死んでしまうかもしれない。

  夕暮れは、死が迫る時期だ。それでも彼は焦らなかった。恐れていた〝死〟を一度でも見たことがある経験は、彼の心に余裕を与えたんだ。焦らず、逸らず、冷静に先を見て、間違った時には無理をせず逆戻りして、改めてルートを選び直した。

  揺らめく[[rb:天幕 > オーロラ]]の中、太陽が地平線に触れた。ついに〝[[rb:黄昏期 > ダスクオラ]]〟となった。それでも彼は焦らず登り続けた。登るほど岩の凹凸がはっきりしてきていたし、ところどころ岩壁に穴が開いているのも確認できたからだ。あの[[rb:俊趨兎 > ラプソディア]]の少年が言ったことは本当だ。きっとあるに違いない。そう信じて登り続け、ついにそれを発見する。

  それは[[rb:熱割れ > サンクラック]]ではなく、明確な横穴だった。中に先客はおらず、虫の巣にもなっていないようだった。トレンチは安心して中に入る。

  一枚の岩の熱疲労が引き起こす[[rb:熱割れ > サンクラック]]と違い、ちょうど岩と岩が重なり合った部分にできた隙間のようで、穴はだいぶ続いていた。幸いなことに、夕日が奥まで届いていたお陰できちんと安全を確認することができた。虫はいない。卵もない。

  トレンチは崖下を覗き見る。――高かった。身が竦むほどの高さだった。トレンチは地平を見渡した。――広かった。身が震えるほど世界は広かった。限りなく続く荒野、見渡す限りの空。木々は米粒だった。あの広大な塩湖でさえも視界に収まった。これまでの人生が、極々小さな範囲で完結していたのだと知った。それを思うと悔しいやら悲しいやら、何とも複雑な感情が湧き起こった。

  自分の敵は世界なんだとトレンチは強く思った。この広い世界、この小さな足でどこまで行けるだろう。ちゃんと子供たちに会えるのだろうか。子供たちは無事だろうか。[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]に襲われていないだろうか。暑さにやられてはいないだろうか。そもそも、見立て通りに[[rb:天虹蚕 > プリズワーム]]は[[rb:蛹 > サナギ]]の状態になっていただろうか。心配の種は尽きない。今すぐにでも、寝る時間を惜しんででも駆け付けたい気持ちになる。今すぐここを飛び出して、飛び出して、……飛び出して?

  トレンチは、そのもどかしさの中に、妙な感情が混じっていることに気が付いた。押さえた胸が、逸っているのを感じた。子供たちを助けたい、けれど、それとは別の感情が、子供たちでない何かに向いていたんだ。けれどそれが何なのか解らなかった。今のトレンチには感情の正体が解らなかった。総ての鳥人類は、その感情の正体を説明できなかった。飛び出したいのではなく、〝飛び立ちたい〟のだと。その感情を、〝[[rb:高揚感 > ノスタルジア]]〟と呼ぶことを。

  けれど世界の[[rb:理 > ことわり]]は等しく働いている。誰が何をしようとも、誰が何を頑張ろうとも、誰が何を決意しようとも、世界は世界で在り続ける。この星の空は変わらず虫たちのもので、空どころか陸すらも虫たちのものだ。力なき者たちはその理に逆らうことはできない。もどかしかろうと、夜は等しく訪れる。

  トレンチは再度下を見る。誰かが登ってきている様子はない。大丈夫、ここが夜越えの巣だ。次の[[rb:季 > シーズン]]にはきっと子供たちに追い付き、そして総ての脅威から守る。だからどうか、それまで無事でいてほしい。祈るしかできないトレンチは、その祈りに総ての力を籠めた。

  さて、子供たちはどうしているのだろう? 生きているのだろうか? 果たしてトレンチはちゃんと彼らのもとに辿り着けるのだろうか?

  ――大丈夫、死を知り、生を知り、己を知り、世界を知ったトレンチに怖いものはない。このあと極寒の夜を越えた彼は、岩壁を登り、山という名の台地を横断し、山を下り、虫たちの脅威を躱しながら、子供たちの脱走ルートとの[[rb:追轍 > トラッキング]]に成功する。

  そう、彼自身の逃走劇における[[rb:峠 > ピーク]]は過ぎた。

  彼の[[rb:風飾羽 > フラッター]]が風を受ける時が、やってきたんだ。

  [newpage]

  

  長かった夜が明け、東の地平線から差し始めた陽光が、新たな[[rb:季 > シーズン]]の始まりを告げた。生き物というのは不思議なもので、その光が届かない[[rb:洞穴 > ほらあな]]の中に在っても、鳥たちはしっかりと目覚めの時期を知覚している。氷点下に達しそうなほど低下していた体温が、じわりじわりと元に戻り始めている。心拍数も上がり、呼吸にも音が伴い始めた。このぶんだと目を覚ますまでそう時間はかからないだろうね。

  もっとも、目を覚ましたからといって、すぐさま活動を開始するかはまた別の話だ。夜は長く、昼も長い。そうなれば夜明けだって長いものだ。二度寝、三度寝くらいは許されて然るべきだ。

  けれど子供たちはすぐに起きた。[[rb:羽毛 > ダウン]]の詰まった[[rb:外套 > マント]]を共有しながら、極寒の中、一人、また一人、仲間を温めて覚醒を促した。

  やがて全員が無事に目を覚ます。光量が足りない中、子供たちは顔を見合わせ、一人も欠けることなく朝を迎えられたことに雀躍した。そして喜びもほどほどに、粛然と出立の用意を始めた。

  頼れる[[rb:最年長 > リーダー]]は来なかった。子供たちはその理由を想像することはできても断言することはできない。だって確かめようがないのだから。だから子供たちは、もし追い付かなくても絶対に振り返るな、後戻りをせずに進み続けろという言い付けを忠実に守り、歩き続けてきた。

  振り返るなという言葉には、リーダーの死を哀しむなという意味も含まれている。けれど子供たちは、そう言われたから割り切っているわけじゃない。そう言われたから前を向いているわけじゃない。そもそも割り切ってすらいない。ただ、胸打つ勇気に突き動かされているだけなんだ。

  「アニキ」と[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]のマーニーが呟いた。チャットを慕っていたこの子は、仇討ちのために自分も残って戦うと言った。けれどトレンチは断った。それこそ死を目的にしているからと。生き延びるためには、オレを抜いた中で一番年上のお前が子供たちを率いて逃げなきゃならないんだと言われ、マーニーはぐっと言葉を飲み込んだ。言外の戦力外通告に言い返すことはできなかった。トレンチは絶対に勝つと約束した。負けたら許さないとマーニーは目を合わせないまま言った。

  「トレンチお兄ちゃんは負けなかったんだよ」とワンダが言った。そりゃね、普通に考えれば追い付かなかったのは死んでしまったからかもしれない。けれど負けなかったんだ。だから追手が来ていないんだと。命を張って[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]に挑み、見事に勝利したんだと。それがどんなに子供たちを勇気付けるものであるか、当のトレンチは知る由もない。

  そしてもうひとつ、別のルートで追手を撒いている可能性についても思い至っていた。足の速さを考えれば捕まってしまうかもしれないけれど、生きているかもしれない。生きて、逃げて、そして自分たちを追い掛けて、いつか再び会えるかもしれない。その希望が彼らの前進を後押しした。頼れる[[rb:秀翼 > ファルコニー]]は、その場にいなくとも見事に彼らの追い風となっている。

  冷静に見解を述べた[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]のワンダは、この中で一番トレンチのことを理解していた。お兄ちゃんならきっと勝つ、勝って追い付く、追い付かなければ、それはきっとぼくたちのために追手を引き付けているんだ、と。もちろん勝てなかった想像もしたし、勝ちはしたものの足をやられて歩けなくなった可能性も考えた。そうなった時、待ち受ける運命がどういうものか、幼いながらもありありと想像することができた。けれど、もしそうなったとしても、きっと最後まで自分たちのことを考え、悪あがきをし、死ぬ瞬間までその目に猛き炎を宿し続けるだろう。体は離れながらも子供たちに意志を託すだろう。きっと、いや、必ずそうなると。

  だからワンダは自分がその役目を受け継ごうとした。もちろん群れを率いる立場にはないし、彼以外の子供たちもみな同じように意志を継ごうとしているけれど、その中で、誰よりも一番強くそれができるのは自分なんだとワンダは思った。何せ、もっとも立派な[[rb:秀翼 > ファルコニー]]であったファルコの遺志すらも、誰よりも強く受け継いでいるんだから。

  〝知恵ある翼は如何なる捕食者をも出し抜く〟

  リーダー不在の[[rb:群れ > コロニー]]において、ワンダは陰ながら、無自覚にその意識と才を発現しつつあった。

  時期により周期的に変化する風向きを基礎として、地形により複雑に変化する風向きを適切に予測した。また植生や虫の発生・分布を鑑み、適切なルートを導き出した。それは例えば、生態系上位に位置する肉食虫である[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]は他の虫を主食とするため、それ以外の虫を避けるように動くとむしろ[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]に遭遇してしまうというようなことだ。[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]は緑を追い、[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]は虫を追う。だから害の少ない虫のいるところを選んで進むほうがいい。ワンダが進言したルートは[[rb:尽 > ことごと]]く安全だった。

  塩湖の外に出た経験はもちろんない。にも拘らず、ワンダはここまでの道中で目に入る総ての情報を有意なものとして頭に叩き込んでいたんだ。この子は誰よりも[[rb:月の国 > キャラハ]]の鳥人らしさを持っている。もしもこの子がいなければ、おそらく半数以上、いいや、全員が命を落としていたに違いない。

  といっても、たった一人の子供になんとかできるほどこの星の自然は甘くない。それでも、一季に満たないほどの短い期間とはいえ、ここまで一人の犠牲も出さずにやってこられたのは、ワンダ自身の功績はもちろん、ワンダ以外の子供たち全員も力を合わせてきたからに他ならないんだよ。この中での年長二人……[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]のマーニーと、次いで[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]のオーナムが前を歩き、体力がなく歩幅も狭い年少者に歩調を合わせ、暑さにやられそうになっていれば[[rb:外套 > マント]]で日光を遮ったり、休憩を多く取るなど常に気遣ってきた。夕暮れ前も、食糧の採り方を知らない年少者のため、年上の子たちは協力して食糧の確保に勤しんだ。

  トレンチは結果的に子供たちに犠牲を強いるような選択をした。もちろん犠牲を出すつもりはないにしろ。

  けれどね、子供たちだって犠牲を強いられているつもりはないんだよ。決起したリーダーのため、自分たちも力になろうと。強き意志に報いるべく、自分たち全員で群れを守ろうとしたんだ。絶対に全員で生き延びようと、全員で助かろうと。もっとも、そうするあまり、必然的に歩みは遅くなってしまうのだけれど。

  どこまで来たかな、と誰かが言った。まだまだだよ、と年長が言った。

  あとどのくらい、と名も無き新入りが言った。まだまだだよ、と年長が言った。

  誰か助けてくれないかな、と幼鳥が言った。誰かがいたらそれは敵だ、と年長が言った。

  この[[rb:太陽の国 > ソラス]]の地において、彼ら鳥人の敵は野生生物や追手だけじゃない。追手と何の関係もない住人に出くわすことすら危険にあたる。温和な気質の[[rb:奔套兎 > エスケープ]]ならともかく、[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]、[[rb:彷浪爪 > ストレイキャット]]、[[rb:狂勇爪 > グランドパンサー]]など、鳥人と敵対する部族はそこら中にいる。

  ただ彼らは殆どが集落の規模で暮らしているから、遠くからその存在を確認すれば迂回すればいいだけの話だ。鳥人は他の獣人と比べて視力がいい。そして優れた色覚を持っていることで、例えば排尿の痕跡や人的な争いの痕跡を発見しやすい。嗅覚では大きく劣るものの、[[rb:生残 > サバイバル]]能力はそれなりに持っている。経験さえあれば、[[rb:太陽の国 > ソラス]]の民から隠れながらこの地で生きていくことは不可能ではない。……経験さえあれば、ね。

  「よし、出発しよう。まずは食糧集めだ」

  「マァマァマァ、ちょっと待ちなィ」

  ……逆に言えば、経験ある追手から逃げ[[rb:果 > おお]]せるのは容易なことではないということになる。

  仄暗い夜明けの光の中、[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の吐く白い息がまず見えた。それから手と、口吻と、全身と。子供たちは恐怖に怯え、年長の二人でさえ、震える体で抱き合っていた。

  この極寒の中、簡素な腰布一枚だけを身に着けた[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]が、立ち塞がるように子供たちを見下ろした。

  右目と右耳の包帯は相変わらず巻かれている。残った左目で、不気味な男は子供たち一人一人の全身を舐め回すように見た。それはたぶんトレンチを探しているんだろうとワンダは思った。

  男は安心させるように座り込む。対して子供たちは総てを諦めたようにへたり込む。男の腰には、子供たちの首程度なら軽々と切断できそうな鋭利な刃物が抜き身で下げられていた。

  「ま、誰も殺しゃしねェと言っても信じねェよな」

  もはや命運は尽きた。逃げ道を塞がれている以上、まともな武器を持たない子供たちは、生きるも死ぬもこの男の決定次第ということになる。

  「それじゃ悪人らしく行くぜ」

  男は手に持つ妙刀を子供たちに向ける。

  「[[rb:探知機 > センサー]]を作った少年、おれと来い。それ以外は好きに逃げてくれて構わねェ」

  ワンダは進んで前に出た。その手に石器のナイフを握り込んで。

  自ら刃に向かいながら、ワンダはひとつだけ質問した。お兄ちゃんは勝ったのかと。

  その答えを聞き、ワンダは隠し持っていた武器を、男に見えるように投げ捨てた。

  選択の自由はなかった。奴隷である子供たちに与えられた自由は言葉だけだ。けれど、その言葉を用い、知りたかった答えを知ることができた。それならば、もはやワンダに抵抗の意志はなかった。

  この男は奴隷の命をなんとも思っていない。だからみすみす見逃すんだ。

  けれど逆に、なんでもない理由で簡単に命を奪う行動をとるかもしれない。

  他の子が殺されないためには、この男を刺激してはならない。そう考えたワンダは自ら先に立って[[rb:洞穴 > ほらあな]]を出ていった。絶対に追ってきてはならないと、他の子供たちに言い残して。

  残された子供たちにもまた、選択の自由はなかった。

  ファルコがいなくなって、チャットがいなくなって、聖母のようだった少女がいなくなって、トレンチがいなくなって、この上さらにワンダまで失った。残る五人の羽たちは、寄る辺もなく、広大な大地をそれでも進まなければならない。

  ……そんな彼らの行く末を思うと心苦しくなる。ここでは彼らが歩むこの先の話を敢えては語らないけれど、これだけは伝えておこう。この逃走劇において、残る五人がトレンチと再び相見えることはもうない。そして、目的地である[[rb:緩衝街 > シカルド]]に辿り着くことさえも。

  [newpage]

  

  逃げるために通った道を戻るのは中々に辛いものがあるだろう。みなで希望を見て、誰も欠くことなく逃げることができて、さあまた頑張ろうと決意を新たにしたところに現れた追手……。その追手に一人連れられて、元来た道を歩かなければならないなんてさ。

  けれどワンダは泣かなかった。泣き言を言わず、命乞いもせず、男の言われるままに歩いた。疲れたかと問われれば首を横に振り、疲れただろうと問われれば首を横に振る。押し黙ったまま、ただひたすら前だけを見て歩き続けた。それは[[rb:繁緑期 > スプロウラ]]が近くなっても変わることはなく、疲れたら疲れたとはっきり言いなと言われ、それでも首を横に振った。休むぞと強く命令されて、そこで初めて首が縦に揺れた。岩壁にもたれかかったワンダは、暫く立ち上がれないほど疲弊していた。

  「何だィ、意思表示の出来ねェ子なのかィ?」

  ワンダはそれにも答えなかった。甲虫の肉を差し出されても顔を背け、食えと命令され、渋々それを口にした。そしてそれを早々に食べ終えると自ら立って先に進み始めた。やれやれと言って、男はワンダの強がりを止めることはなかった。

  [[rb:繁緑期 > スプロウラ]]になり、雪が融け、[[rb:成雲期 > クロウラ]]になってもそれは変わらなかった。殆ど睡眠も取らず、虫を恐れる素振りも見せず自力で食糧を求めて茂みに入り、男に引っ張り出された。

  [[rb:成雲期 > クロウラ]]の後半、[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]襲来を[[rb:熱割れ > サンクラック]]の中でやり過ごしている間、ワンダは死んだように眠った。

  それはもはや昏睡だった。虫が去っても目が覚めず、[[rb:恵雨期 > プルウィオラ]]になっても目が覚めず、ワンダは男の脇に抱えられて運ばれた。

  [[rb:晴雲期 > パルティオラ]]の後半、起きたワンダは自分の置かれた状況を理解するや否や、男の腕を振りほどき、また何も言わずに歩き始めた。けれどその足取りは弱々しく、気温が高かったこともあり、程なく力尽きて座り込んだ。

  男はワンダを掴み上げ、山裾の日陰に避難させた。ワンダは肩で息をしていた。

  「どこまで気力が持つのかと見てたが、まァ相当強情な子らしいな。それとも泣き言が許されねェくれェあの男が厳しかったのかィ?」

  ワンダはちらりと男を見て、また顔を背ける。

  「別に取って食おうってわけじゃねェンだ。少しくれェ喋ったらどうだィ? それとも何か、おれと話をしたくねェ理由でもあンのかィ? はっきり言っていいぜ、別に怒りゃしねェ。おれァ嘘はつかねェ。夜明けだって誰も殺さなかっただろォ?」

  「いけ好かないから」

  「やァっと口利いてくれたなァ。それにしても随分はっきり言うねェ。好感が持てるぜ。その調子で他に言いたいことはねェかィ? 聞きたいことでもいい」

  日陰ということもあり、ワンダに少し体力が戻る。息を整えながら考え、ワンダはこういう質問をした。

  「[[rb:五体満足 > フローレス]]のお兄ちゃんへの追手は?」

  「何だ、そンなことかィ。一応は向かわせたが、雨の前だったからな、逃げられたかもしれねェ。捕まえても殺すなとは言ってあるが、はてさてどうなるかね。あっちの方面は[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]も多いし、下手すりゃ追いかけてる方がやられてるかもしンねェな。賢いお前サンたちの逃走経路と違って、あの間抜けどもの行動は予測がつかねェ」

  「あなたは予測がつかないことを楽しんでる」

  「ンン?……というのは?」

  「奴隷の補充にたずさわってるくらいだから、あの[[rb:雇用主 > 怖いお兄さん]]がぼくらに厳しく当たってたことを少しくらいは知ってたはずだ。あの人自身の考えなのか命令されてやってたのかはわからないけど、それを止めることはなかった。奴隷の価値がないからという理由にしては、それなら採算なんて気にしないはずなのに」

  「選択を誤ったと後悔はしてるぜ。優れたリーダーに磁気感覚に優れた[[rb:五体満足 > フローレス]]、いい群れだった。それだけに惜しいことをした」

  ワンダは不快感に顔を[[rb:顰 > しか]]める。男の言った、惜しいことをしたという言葉にこの男の価値観が総て詰まっていたから。

  「表現が気に障るかィ? ま、それァお互い様ってやつだ。[[rb:太陽の国 > ソラス]]の民同士ですらそうそう仲良しでいられねェのに、[[rb:太陽の国 > ソラス]]と[[rb:月の国 > キャラハ]]、それも奴隷が相手となるとそういう扱いになるのァ避けられねェよ。逆に[[rb:月の国 > キャラハ]]では[[rb:太陽の国 > ソラス]]の奴隷がモノみてェに扱われてンだ。それが現実だぜ」

  だがなァ、と男は続ける。

  「おれァそこまで性悪じゃねェぞ。あの愚かな男をあそこに据え続けたのァ確かにおれの意思によるものだが、あそこまで愚かだと見抜けなかった、それがおれの過ちだ。優れたリーダーだっつったのに易々と殺しやがって。見せしめは時には必要にもなるが相手は選びやがれ。それから[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]のパパもだな。おれァ〝ご褒美〟っつったのによ、交尾くれェ自由にさせてやりゃよかったンだ。だいたいあの間抜け、聞いた話じゃ[[rb:繁緑期 > スプロウラ]]まで寝てやがったらしいじゃねェか。そりゃァ中身も熟すってもンだ。それに熟したら熟したで貴重な[[rb:五体満足 > フローレス]]が産まれる可能性が僅かでも出てくンのに早々に叩き潰しやがるたァ愚か者の極みだ」

  聞けば聞くほど不快感が膨れ上がった。それこそ喉を込み上げるものを感じるほどに。――この男とは相容れない。[[rb:太陽の国 > ソラス]]の民だからとか[[rb:月の国 > キャラハ]]の民だからとか、そういう建前の部分を取り払った根本からして異なる。そうワンダは直観した。

  この男とは口を利きたくない。けれど、口を利きたくないことを伝えるために、口を利かなければならない。

  「あなたの目的はなに?」

  「そいつァどの行動に対して言ってンだィ?」

  「ぜんぶ」

  「もうちっと具体的に言ってもらわにゃ判ンねェぜ。今のままだとおれが何のために生きているかっつゥ人生の目的になっちまう」

  「ぼくが見た範囲でのあなたの行動のすべて。たとえば、[[rb:五体満足 > フローレス]]のお兄ちゃんの方じゃなく、ぼくらの方に向かってきた理由。それも、人を差し向けずにわざわざ自分が向かったのには理由があるはずだ。――[[rb:緩衝街 > シカルド]]のえらい人が、自分の貴重な時間を使ってまでやってくる理由が」

  「ほォ。他に疑問は?」

  「ファルコ……[[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]のリーダーと[[rb:五体満足 > フローレス]]のトレンチお兄ちゃんのこと。わざわざあの場所で働かせたのも、何かねらいがあってのことなんじゃないの?」

  「狙い、ねぇ」

  男は徐に両手を軽く広げ、天を仰ぎ見た。するとどうだろう、まず空気の流れが変わったのをワンダは感じ取った。男の鼻が軽くヒクヒクし、ニッと口角を伸ばした。そこでワンダは眼前に無数の小さな水滴が発生していることに気が付いた。それらは次第に成長し、或いは合体し、大きな水滴になっていく。

  やがて大きなひとつの水玉になり、半開きだったワンダの[[rb:嘴 > クチバシ]]の隙間に音もなく入り込み、あるべきところに収めるかのように、ワンダはそれを飲み込んだ。思っていたより冷たいものではなかったけれど、水分の欠乏した体に、それはすっと違和感なく染み込んでいった。

  手を下ろした男は、顔の角度はそのままに話を続ける。

  「[[rb:鳥人 > トリ]]も、[[rb:獣人 > ケモノ]]も、この広い世界に等しく生きている。大いなる自然に生かされている小さな存在だ。神が作り賜うたこの世界を予想するなンて大それたこた、ちっぽけなおれにゃできっこねェ」

  男はそこで顔をワンダに向ける。

  「わかるかィ、少年よ、おれがどう考えようが、世界を思い通りに動かすことなんてできやしねェ。だから〝狙い〟なんて言ってくれるな。おれァそんな大層な思惑があって生きてるわけじゃねェ」

  「――何か予測がつかない、楽しいことが起きるかもしれない」

  今度はワンダが男を見据えた。

  「明確なねらいがないんだとしたらもっとひどいよ。そんな起きるか起きないかわからないことのために、どれだけぼくらが死のうが気にもせず、ぼくらの命を右へ左へ転がして遊んでたんだ」

  男は無表情だ。

  「どうしてか知らないけど、ファルコは他のみんなが知らないことをたくさん知っていた。植物のこと、虫のこと、武器のこと、[[rb:月の国 > キャラハ]]のこと、[[rb:太陽の国 > ソラス]]のこと。あそこで働くためにそこまでの知識は必要ない。そんなもの持たないほうが[[rb:雇用主 > キーパー]]としては都合がいいはずだ。必要以上の知識を持ったファルコを群れに加えたのは、何かが起きることを期待したんじゃないの? ここまでくるとチャットだってあやしいよ。[[rb:緩衝街 > シカルド]]で暴れまくってたらしいチャットを送り込んだのは、爆発の材料になったら面白いと思ったんじゃないの?」

  「そいつァ考えすぎだぜ」

  「でもなにも起きなかった。だから今度は[[rb:五体満足 > フローレス]]のトレンチお兄ちゃんを群れに加えた。あの[[rb:探知機 > センサー]]の素材をお兄ちゃんに渡した上で目の前で霊術を使って見せたのも、たくさんのことを知ってるお姉ちゃんをぼくらの群れに加えたのも――」

  睨み付ける目を更に細くし、

  「――全部、あなたの思惑だ」

  「こいつァ驚きだな、一応は筋が通ってやがる。それはお前サンだけが考えた推理かィ?」

  目の鋭さはそのままに、ワンダは控えめに頷く。

  「まず言っとくぜ。おれを買い被りすぎだ。おれァそンな複雑にモノを考えながら生きるほどヒマじゃねェよ。よっぽど特徴的でなけりゃいちいち奴隷の顔を覚えちゃいねェし、奴隷の性質をいちいち考えて人材を送り込みもしねェ。掛ける労力に対する見返りが少なすぎるだろうが」

  「だから――何か予測がつかない、楽しいことが起きるかもしれない、それだけを考えて思い付きで行動して引っかき回してたんだ」

  「くっくくくく、ま、どうしてもってンならそう思ってもらって構わねェぜ。その結果、お前サンのような有能な人材が発生したンだからな。いいねェいいねェ、実に気分がいい」

  たぶん、トレンチが行動を起こしたのはこの男の中で最良の結果だった。そうワンダは思った。あれだけの哀しみも、苦悩も、覚悟も、何もかもこの男の遊び心に翻弄されていただけなんて、考えるだけで悔しかった。

  「あなたは人の命を何とも思っていない。本気で追いかければすぐに追いついたはずなのに来なかったのは雨の中を歩くのが面倒だったから。それか、泳がせておいて長い距離を追いかける方が面白いと思ったから。全員を連れもどそうとしなかったのは面倒だから。逆らうかもしれない奴隷を引き連れて、それも死なないように守りながら戻るのは面倒だから。みんなを殺さなかったのも面倒だから。殺すほどの価値をぼくらに見ていないから。だから逃げられてもどうでもよかった。労働力として期待できなくなった奴隷が生きようが死のうがどうでもよかった。人の命を何とも思っていない。ぼくらを人とも思っていない。――だからいけ好かない」

  「あァ、それでいい。好いてもらおうなンざ思っちゃいねェ」

  「みんなの命をもてあそんだこと、ぼくは許さない」

  「あァ、それでいい。いつでも殺そうとしてくれて構わねェ」

  卑怯者、とワンダは思った。それが許されるなら今ごろ男の首には石のナイフが突き刺さっている。

  けれどその殺意を押し止め、ワンダは立ち上がる。行動には責任が伴う。そのことを、今の彼は十分に理解しているから。

  逆に言えば、発生する責任を自ら負えるようになれば、それが許されることになる。――いつかこの男を殺してやる。ワンダはそれを目的にすることにした。閉じた右目に火が灯ったような、そんな錯覚がした。

  「まァ確かにそいつァ立派な原動力だ」

  決意のワンダの背に声が掛かる。まるで殺意を向けられることが心地よいことのように、男は上機嫌にも見える顔になる。

  「だが、お前サンはまだまだガキだ。その原動力は長続きしねェ。もっと視野を広く持て。――お前サンの敵はいったい何だと思う?」

  ワンダは顔だけで男を振り返る。涼しげな顔で岩壁に寄り掛かる男を、強く睨み付けた。

  「お前サンの敵は世界だ」

  よっと背で弾みをつけ男は立ち上がる。

  「訊くぜ。その感情は何のためだィ?」

  何のため?

  「お前サンはこれからいったい〝誰〟のために頑張るつもりだィ?」

  誰のため?

  「隣を見てみな。周りを見て、振り返ってみな」

  ワンダは左を見た。ゴツゴツした岩壁が[[rb:聳 > そび]]え立ち、日差しを遮っていた。

  次は右を見た。先の[[rb:成雲期 > クロウラ]]で[[rb:寇尽蝗 > ファギア]]に食い尽くされて裸になった木々から葉が出ていた。

  今度は上を見た。間もなく薄雲の晴れる、広大な空があった。

  そして、後ろを見た。男がすっと視界から外れた。開けた視界には、何もなかった。山と、木々と、地面と、道と。

  「手を広げてみな。――その手は〝誰〟に届く?」

  風と、空と。ワンダは手を伸ばすことも広げることもできなかった。胸がきゅうっと締め付けられる感覚を抑えなくてはならなかったから。

  「お前サンは〝みんな〟とか〝ぼくら〟という表現を多用してたが、――今、お前サンは誰と繋がっているつもりだィ?」

  この子が今まで気丈でいられたのは守り守られる存在があったからだ。ファルコ、チャット、名も無き少女……彼ら頼れる存在を立て続けに失っても、この子がなお前を向いていられたのは、トレンチや子供たちが残っていたからだ。そしてトレンチが起ち、熱き年長たち全員の意志を胸に宿し、群れを守るという使命感を持った。

  けれどその群れはもういない。みなを守るため、自ら離れた。ワンダは覚悟をした。覚悟をしたからこそ離れることができた。覚悟を、したはずだった。何に対して覚悟をしなければならないか判っていないまま、覚悟をしたつもりになっていた。

  この子が気丈でいられたのは、守り守られる存在があったからだ。意志のリレーがあったからだ。けれど、強き決意は自分がゴールに辿り着く想定しか生まなかった。継承された悲願を達成するということは、即ち自分の隣に誰かがいる未来にほぼ等しい。けれどワンダは託す側になった。では、今のワンダには?

  「だァれもいやしない」

  そう、誰もいない。今のワンダにも、そしてこれからのワンダにも。守る相手も、守られる相手も、甘える相手も、叱ってくれる相手も、「なんで?」を投げかける相手も、それに答えてくれる相手も。

  ワンダは立ち尽くしていた。この立体に広がる大きすぎる世界に、ぽつんと点としてのみ存在していることを自覚した。羽毛から感じる空気の流れ、足から感じる地面の感覚、広大な世界。そこにワンダはいた。そこに、ワンダだけがいた。小さな手は誰にも届かない。声も、風も、思いすらも。〝独り〟という言葉が、どれほど大きい意味を含んでいるか、理解してしまったんだ。

  「今のお前サンにゃ何が残る?」

  意志のリレーは既に果たされた。言葉は少なくとも、群れを離れる時に、子供たち全員に託されたはずだ。それなら今のワンダには何が残る?

  「なァンにもありゃしねェ。夢も、希望もなァ」

  果てしなく意地の悪い言い方をすると、意志を託し終えた今のワンダは残り[[rb:滓 > かす]]だ。生きようと、死のうと、もはやその結果によってワンダの知る誰にも影響を与えることはない。少し意地の悪い言い方をすると、ワンダは役目を終えたんだ。

  「わかるかィ少年」

  男の大きな手がワンダの頭を撫でた。

  「未来に希望なんてありゃしねェ。この世界に、希望はねェ」

  男の言うことはもっともだとワンダは思った。この先ワンダに自由はない。奴隷として生き、奴隷として死ぬ、それだけの人生しか歩むことを許されない。けれど――。

  「たとえそうだとしても、ぼくがあきらめる理由にはならない」

  「ほォ?」

  けれど、それでも諦めるわけにはいかなかった。なぜなら、遺志を託し終えたファルコは、死に向かう肉体に鞭打って子供たちのため食糧を集めた。死ぬ間際になっても子供たちの無事を祈り続けた。意志を託し終えたトレンチだって、もう二度と会えない覚悟で別の道を逃げることを選択した。そうなればもはやワンダと同じ残り滓の状態と称して間違いはないはずだ。それでもトレンチは逃げることを諦めない。例え捕まったとしても、自分の選択を後悔しないはずだ。死ぬ瞬間まで、猛き炎をその目に宿し続けるはずだ。意志を託された者は、諦めてはならないんだ。

  「諦める理由にはならないと来たか。そう思う理由は?」

  「希望のあるなしは他人が決めることじゃないから」

  「面白れェ。その心は?」

  「希望を見ないから絶望が生まれる。〝絶望を見る〟から〝希望がなくなる〟んだ。それを絶望と見なさなければ、希望がなくなったことにはならない」

  子供たちはまだ生きている。トレンチだってまだ生きているはずだ。その状況は、絶望するほど最悪な事態ではないはずだ。

  最悪とは文字通り最も悪いこと。それは主観的な尺度であって、個人個人で何が最悪かは違ってくる。それを決定するために介入した幼き〝意志〟は、今回、それを最悪とは見做さなかった。

  「見ようとすれば希望は見える。――やっぱり、ぼくがあきらめる理由にはならないよ」

  「哲学だねェ。ただそれだと絶望と見做さないための理由・動機が必要に思えるがなァ。おれからすりゃ、お前サンのそれァただの強がりでしかねェ」

  それはそうかもしれない。けれど強がりのどこがいけないのだろうとワンダは思った。だって、絶望と見做さなければならない理由もまた、無いはずなんだから。

  「ま、お前サンの言い分は判った。じゃァ、あれを見てもまだ強がりが言えるかィ?」

  ……ただね、いくら気丈に振る舞おうと、いくらもっともらしい理由付けで補強しようと、幼き情緒を持つワンダにとって、覚悟や決意といった立派な感情も、周囲を取り囲む外殻は決して堅牢なものじゃない。

  「え……」

  どんなに強く覚悟をしようとも。

  これは自分に課せられた[[rb:分銅 > 試練]]であると割り切ろうとも。

  何があろうと振り返らないと決心しようとも。

  「……どうして」

  空に[[rb:揺蕩 > たゆた]]う[[rb:天幕 > オーロラ]]のごとく、いとも容易く揺れ動いてしまう、あまりに脆すぎる薄膜なんだ。

  強き意志を宿したはずの目に涙が溢れた。

  助けてほしいと手を伸ばしたくなった。

  死んでほしくない、逃げてほしいという感情よりも先に立って、その華奢な手に、体に、縋りたくなった。

  「よォーやくお出ましかィ。待ちくたびれたぜ」

  男が上機嫌にその人物に声を掛けた。

  その人物は、強く燃え滾る目を男に向けていた。泥と汗に塗みれた[[rb:外套 > マント]]をはためかせ、その隙間から、鋭く尖る[[rb:手槍 > ペグ]]を覗かせて。

  「お兄ちゃん……」

  もちろん、それはトレンチ少年以外の誰でもなかった。

  [newpage]

  

  夜明けに[[rb:登攀 > クライミング]]を終えたトレンチは、全力で山の上の台地を横断した。気温が低いうちに、危険な虫が活動を開始する前に、全力で駆けた。

  途中、トレンチは動きの鈍い[[rb:剛潰虫 > クラッシャ]]を仕留めた。[[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]ほど強靭な爪を持ってはいないけれど、三本の[[rb:手槍 > ペグ]]を使えば、頑丈な[[rb:外骨格 > クチクラ]]を貫くことは難しいことではなかった。何せ、名も無き少女が遺した貴重な硬木から作られたものなのだから。

  肉片を[[rb:齧 > かじ]]りながら、そして[[rb:外套 > マント]]を[[rb:靡 > なび]]かせながら、トレンチは殆ど休息も取らずに走り続けた。栄養バランスを度外視するならば、虫肉は極めて効率の良いエネルギー源だ。

  [[rb:繁緑期 > スプロウラ]]になると、やはり[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]の成虫が出没するようになった。淡水に暮らす別種だから詳しい生態までは彼には判らないけれど、同じだとすれば、ここでも生態の変化は起きているらしいということになる。

  その[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]はトレンチを狙わなかった。それくらいトレンチは速く駆けていたんだ。試しに速度を落としてみると、[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]はあからさまに機を窺う様子を見せた。

  両手に守るべき存在がいなければ、[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]は脅威には当たらなかった。けれど塩湖を離れたからには脅威はトンボだけではなかった。目に映る総ての虫……は言い過ぎだけれど、名前を聞いたこともなければ見たこともない虫の危険度を推し量ることは難しかった。様子を見るため必然的に歩みは遅くなり、そこを[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]に襲われそうになることがたびたびあった。

  それを、トレンチは見事撃退した。恐れることなく立ち向かい、脅威に打ち勝ったんだ。見事だよ、塩湖を出てからここまでの僅かな間に、彼はこんなにも逞しくなったんだから。〝意志の力〟――彼の持つ使命感は甚だ強い。

  そうして彼は自信を得た。台地を駆け抜け、台地を――飛び降りようと思った。長い長い時間を掛けて登ってきたこの高さから。なぜそうしようと思ったのか彼にも解らない。気が逸っているのか、気が大きくなっているのか、はたまた心の奥底で過熱する正体不明の情動に突き動かされたからなのか。いずれにせよ彼は、自分の身を支える地面が無くなることに、さほど恐怖を感じていなかった。跳べば何かが解るかもしれない。飛べば何かが解るのかもしれない。あと二歩、あと一歩、そして――!

  「――不意打ちという選択肢はなかったのかィ?」

  「白々しいぞ、[[rb:霊術使い > ソラスの民]]」

  [[rb:手槍 > ペグ]]の先を向け、強い口調でトレンチは言った。そんな選択は採れなかったんだ。トレンチは今まさにここに到着したわけじゃない。目のいいトレンチは遠くから様子を窺い、風向きを見ながら位置取りをしようとしていた。けれどどこに立とうと風は不自然に男に向かって吹いていた。そしてある時、――ちょうど男がワンダに水を飲ませた時だね、ひときわ大きな風が吹いた。その風に乗って、トレンチの臭いは男の鼻に届いた。そこでトレンチは自分有利な作戦が実現不可能であると知った。

  「だからといって、お前サンの行動は悪手の中の悪手だと思うがなァ……」

  そんなことはトレンチ自身が誰よりも判っている。銃を持たず正面切って戦うことがどれだけ愚かなことか、[[rb:雇用主 > キーパー]]と戦ったトレンチには判りすぎるほど判っている。そして目の前の男は、おそらく[[rb:雇用主 > キーパー]]よりも強大な敵に違いない。

  「勇気と無謀は別物だぜ、少年よ」

  脱力して流涙するワンダの横を男が通る。待って、とワンダは止めようとしたけれど、何の効果もなかった。

  「二人とも殺さねェでおいてやるからお前サンも一緒に……いや、まどろっこしいな、どうせ信じるわきゃねェし、二人も見張るのァ面倒だ」

  待って、とワンダは弱々しく言った。男は止まらなかった。

  待って、とワンダは手を伸ばした。その手は男に届かなかった。

  待って! とワンダは叫んだ。

  「大丈夫だぜ」と男は言った。「あの少年は殺さねェ。それに加え、目を潰したりとか、手足を引き千切ったりとか、治らねェ損傷を与えねェと約束しよう」

  ワンダは首をふるふると振った。

  「お前サンにとっちゃこれ以上ねェ約束だと思うぜ? 万が一あの少年が勝ちゃそれでいい。負けてもあの少年は死なねェ。だろ? 解ったらそこで見てな」

  ワンダは首をぶんぶんと横に振った。

  「待って、やめて」

  震える手を地面に突き、震える体をどうにか起こし、震える足でどうにか立った。

  「トレンチお兄ちゃん、戦っちゃダメだ。ぼくは大丈夫だから」

  涙を拭い、また分泌される涙を必死に押し止めようと目を擦りながら、

  「他のみんなはまだ生きてる!」

  目の前に現れた救いの手に、縋ろうとするのをやめたんだ。

  「みんなにはお兄ちゃんの力が必要なんだ。ぼくじゃなくみんなを助けてあげて」

  生きていることが判っただけでも嬉しいのに、しかも自分を助けようとしてくれているのに、また同じ未来を歩もうと手を伸ばしてくれているのに。

  「ここでお兄ちゃんがやられちゃったらみんな死んじゃうんだよ!」

  いったんは振り切り、再び舞い戻った小さな希望を、また自らの手で遠ざけた。

  この男には勝てない――結果がどうなるかなんて、考えなくても判りきっていたから。

  「わかってるよ」とトレンチは言った。「お前がどんな気持ちでここにいるか、何となくわかる気はする。お前よりも先に他のチビたちに合流してたら……たぶん、お前の気持ちを尊重しただろうと思う」トレンチは左手に持つ[[rb:手槍 > ペグ]]を逆手に構える。「でも、せっかくこうしてお前に会えたのに、みすみす諦めるなんてオレにはできっこない」そうして身を屈め、両の足を踏みしめた。

  「お前サンはもう少し賢いと思ったんだがなァ」

  男はワンダの首を掴み、岩壁に向かって放り投げた。戦いになれば、不意に[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]が来ても守れないからだ。

  「ま、おれとしても同じ気持ちだ。こうしてお前サンと会ったからにゃ、みすみす見逃がすなんてもったいねェ真似ァできねェ」

  男は腰に下げた抜き身の[[rb:妙刀 > クリス]]を構える。

  「つまりどンだけ涙ながらに説得しようが、姿を現した時点で運命は決してたってこった」

  そうして切っ先をトレンチに向けながら、両の足を踏みしめた。

  「来な。銃を持たねェ[[rb:鳥人 > トリ]]がどこまでやれるか、このおれに見せてみな」

  恐怖に打ち克つように、或いは奮起するように、トレンチは足を叩き付けるようにして駆け出した。

  武器を持つ男の間合いを測るトレンチの目には迷いがなかった。勝つことを信じて疑わない、力ある挑戦者の目をしていた。けれどその実、トレンチには秘策と呼べるほどの作戦はなかった。武器は[[rb:手槍 > ペグ]]三本と[[rb:鈍器 > メイス]]が一本だけ。弓矢は捨ててきた。せっかく[[rb:鑢 > ヤスリ]]で研いだ足の爪だってここまでの道程で削れ、殺傷力を失っている。

  それなのにどうしてこんな目ができるのだろう? はて、その感情を一言で表すのは非常に難しい。

  銃を持たない[[rb:鳥人 > トリ]]は無力――それは事実だ。けれどだからこそ、相手を最初から下に見ている、その油断に賭けたんだ。幸いにも相手は一瞬で殺しにくる気がないし、神霊の気配だって男の後方にしかない。

  ここは集落からも遠く、[[rb:腹式咆哮 > ハウリング]]を恐れる必要がないところも[[rb:雇用主 > キーパー]]の時と違うプラス要素だ。

  [[rb:雇用主 > キーパー]]に勝利した経験、[[rb:剛潰虫 > クラッシャ]]を仕留めた経験、[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]を撃退した経験、それらがもたらしたのは紛うことなき〝自信〟だ。けれど、彼は決して気が大きくなっているわけじゃない。ちゃんと自戒の心を持ち、分相応を弁えている。

  けれどね、どれだけ弁えたつもりになっても、自信というのは定着して初めて本当の意味で自信になるのであって、残酷なことに、得たばかりの自信はしばしば慢心という形でその力を発揮してしまうものだ。

  トレンチが男を感心させることができた行動は、急ブレーキをかけて砂煙を舞わせた作戦ただひとつだけだった。生じた死角から伸ばしたトレンチの足の爪は男の足に傷を負わせるに至らなかった。いくら爪の鋭利さが無くなっているとはいえ、まさかここまで手応えがないとは思わなかったトレンチは[[rb:手槍 > ペグ]]で足を狙う。けれど、舞い上がる砂煙の中、男の手は正確にトレンチの腕を捕らえた。

  軽く握るだけで、トレンチの左腕は軽い音を立てて折れた。

  痛みを吹き飛ばそうと胆力を振り絞った。その僅かすぎる間に、男の足がトレンチの左足の膝を正面から蹴り砕いた。

  確かに男はトレンチの想像通りに油断していた。けれど予想と違ったのは、男は戦闘を楽しむつもりもなければトレンチの力を見定めるつもりもなかったということだ。手を抜かず、最初から手足を折ることを目的としていた。だって、その方が運びやすいから。

  「何だ、その程度かィ? よくあの間抜けに勝てたな」

  折れた左腕を掴んだまま持ち上げられ、トレンチは呻いた。痛みに顔を顰めた。

  「演技はいいぜ。油断させて首狙おうって魂胆だろ。――それとも、右手に何か隠し持ってたりすンのかィ?」

  けれど男はトレンチの悪あがきを見抜いていた。刺し傷を別にすれば、あの[[rb:雇用主 > キーパー]]の首に残る傷跡は、鳥人の足に抉られた以外に考えられなかった。足にさえ注意すれば[[rb:鳥人 > トリ]]の身体能力に脅威はない。

  そうなると、残る不安要素は[[rb:外套 > マント]]に隠したままの右手だけとなる。[[rb:外套 > マント]]の右手部分には血痕が見える。普通に考えれば単純に負傷しているだけだろうけれど、あまりに無策で突っ込んできていた。怪しまないほうがおかしい。まあ、どんな武器を隠し持っていようが、[[rb:鳥人 > トリ]]の身体能力では恐れるに値しない。

  ニヤつきながら男がトレンチの[[rb:外套 > マント]]を捲り上げる。――けれど男の表情は瞬時に凍り付いた。そこにあったのは、男の想像を遥かに超えるもの――武器ではなく生物――虫――天敵――!

  トレンチの右大腿部に、あろうことか[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]が載せられていた。構造色が鮮やかに輝く尖角の向く先は、まさに[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の正中!

  外部情報の処理を終えた[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]が目の前の獲物を認識する。そうして[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]は跳躍!――そして、虚しく空を切る。

  トレンチには知識がなかった。[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]がその跳躍力を如何なく発揮するのは、しっかりとした足場、つまり硬い地面や木の幹の上にいる必要がある。宙ぶらりんのトレンチの大腿では土台としての役割を十分に果たすことはできないということに、考えが及ばなかったんだ。跳躍に掛かる力の多くをトレンチに吸い取られた[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]の跳躍速度は、[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の本能――視覚情報即反射に要する時間を上回ることはなかった。もっとも、例え避け切れず当たっていたとしても、致命傷を与えるまでにはならなかっただろう。

  とはいえ、男に隙が生じた。命の危機を最優先で回避する大きな横跳びだったから、崩れた体勢は整っていない。[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]の体当たりを避けられたとしてもそこをトレンチは狙うつもりだったんだ。温存していた[[rb:鈍器 > メイス]]を手に飛び掛かる、そういう想定だった。

  ……けれどトレンチは駆け出さなかった。正確には、駆け出すことができなかった。その理由は、トレンチ自身の体勢も大きく崩れていたからだ。いくら質量差があるとはいえ、人体に穴を穿つほどの跳躍力の一部を空中で脚に伝えられ、思うような体勢で着地することなんてできるはずはなかったんだ。

  負傷の激しい左半身から落下したのも悪かった。トレンチが天地の修正を行えた頃には、男は既にトレンチに向かって踏み出していた。[[rb:鳥人 > トリ]]を大きく上回る[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の身体能力の前は、右手で[[rb:手槍 > ペグ]]を抜く僅かな時間すら許されなかった。

  その右腕が呆気なく掴まれた。そうして左腕同様に、曲がってはならない方向に曲げられた。トレンチの喉奥から鈍い声が漏れる。右手から[[rb:手槍 > ペグ]]が落下する。激痛が、堪えられないほどにまで膨れ上がった。

  「いやァ驚いた」男がトレンチを持ち上げながら言った。「まさかバッタが飛び出してくるたァ夢にも思わンよ」その表情は、これまで見てきた理解不能で怪しげな雰囲気を纏わない、純粋な歓喜と興奮の色を示していた。「ここまで驚いたのァ初めてかもしンねェ」

  掴まれた腕が痛い。筋肉が満足に動かせない。武器を掴めない、握れない。残るは右足――そこに[[rb:手槍 > ペグ]]を握らせるしか――!

  けれど男に[[rb:外套 > マント]]を捲られた。

  「さすがにもう虫はいねェか。よく捕まえられたモンだなァ。右手の傷はそれでできたものかィ?」

  もはや手に力は入らない。どうにか隙を見て男の妙刀を奪うしか方法はない。……でもこの状況でどうやって?

  「木のトゲがもう一本と、おお、迫力あるモン持ってンじゃねェか」

  肩に掛かる[[rb:鈍器 > メイス]]を奪われた。

  「ンンー……成程よく考えたもンだねェ。近接戦闘しか手がねェとこういう発想が出てくンだな。面白ェ」

  興味深く[[rb:鈍器 > メイス]]を眺めていた男の目がトレンチにスライドする。

  「威力がどれほどのモンか、残った右足で試してみるか」

  その発言が耳に届いたワンダの目が悲痛に歪む。やめて、という声が声にならず、無駄にその場で手を伸ばすのみだった。

  トレンチの体が宙に舞う。

  男の手が[[rb:鈍器 > メイス]]を構える。

  最後まで機を窺っていた右足は、何も成すことなく空を掴んだ。

  その脚に向け、男の[[rb:鈍器 > メイス]]が振り下ろされる――その瞬間!――仰向けに傾いていくトレンチの目と磁覚が、信じられないものを認識した。

  空に何かがあった。何かがいた。何かが光った。何かが飛んできた。空から耳慣れない音がした。耳慣れない音が男の方からした。飛んできた何かが、地面に突き刺さる音がした。

  トレンチは地面に背中から落下した。男から[[rb:鈍器 > メイス]]が振り下ろされることはなく、頭を[[rb:擡 > もた]]げたトレンチの目に、広範囲に展開される景色の揺らぎ――結界が飛び込んできた。地面を見ていた男は手で結界を振り払うような動きを見せ、その場から飛び退いた。直後、結界は蒸発し、トレンチに熱風が吹き付けた。

  風で捲れた[[rb:外套 > マント]]が顔に張り付き、折れた手でなんとか払い除ける。

  空から人影が舞い降りた。風を受け、[[rb:外套 > マント]]をはためかせながら。

  その人影がふわりと着地をした。膝を曲げ、両手を突き、緩やかに。

  知らない人だった。けれどその足は鳥人のものだった。顔はゴーグルで大部分が見えないけれど、着地する前に[[rb:外套 > マント]]の下に見えたのは黒い羽毛だった。[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]!

  その[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]が、男とトレンチの間に立った。

  まるで、トレンチを守ろうとするように。

  [newpage]

  

  「……いったい何の用だィ?」

  距離を取った男が鋭い目を向けながら言った。

  「敵意は無い。神霊をこちらに向けるな」

  「いきなり発砲しておいてそりゃねェだろ」

  「当ててもよかったんだぞ」

  「……ま、それもそうか」男は頭を掻きながら言った。「まさか山から飛び降りて来るとはな。ちょうど[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]も少ねェ。――もういっぺン訊くが、いったい何の用だィ?」

  「何やら不当な労働環境で働かされている奴隷がいるそうだ」

  「へェ。そりゃどこでだィ?」

  「それは知らんが、この少年の身柄は預からせてもらう」

  「その少年の所有権はおれにあるンだが……誰の差し金だィ?」

  「答える義務はない。文句があるなら[[rb:緩衝街 > シカルド]]で話し合うか?」

  ワンダは[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の男に近い場所にいた。けれど男は、ワンダがトレンチに駆け寄っていくのを、ちらりと見遣っただけで止めることはなかった。

  お兄ちゃん、とワンダはトレンチに抱き付いた。抱き付き、抱え起こし、また抱き付いた。両手と左足が折れているトレンチは、力なく腕を回すだけで精いっぱいだった。

  けれどその腕の震えは痛みから来ているんじゃない。トレンチは泣いていた。ワンダに負けないくらい泣いていた。その手が、心が、再び届いた喜びから来ているんだ。

  神様!――ワンダは心の中で叫んだ。――ありがとう。

  「用があるのはその[[rb:五体満足 > フローレス]]の[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]だけかィ?」

  「ああ」

  「じゃ、その[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の方は渡してもらうぜ。――おっと、もちろん先生の方じゃねェ、小せェ方だ」

  抱き合う二人の表情が強張った。そうして二人同時に[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の顔を窺うように見る。

  その[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]は、ゴーグル越しにワンダに視線を送り、[[rb:嘴 > クチバシ]]で男を指し示すような仕草を見せた。

  抱き合う二人の表情が凍り付いた。そんな、とトレンチが声を漏らした。

  「悪いが体はひとつなんでな」

  折れた両腕に力が入った。ワンダを失うのが怖かったから。

  「早く行け」と[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]が言う。

  「いやだ」と、トレンチが言った。

  ゴーグルの下で、[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の目が鋭く光る。

  「……お前、自分の立場が解っているのか?」

  「いやだ!」とトレンチは叫んだ。

  僅かな間があった。[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]は足を上げ、趾を広げ、トレンチに向けた。

  ワンダがトレンチを守るように覆い被さった。[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]は上げた足を下ろした。

  体重が掛かり、再び地に背を付けたトレンチからワンダが離れる。まさか、とトレンチは引き留めようとする。けれどワンダの小さな体は、トレンチの無力な腕をするりと抜けた。

  「この子の方が聞き分けがいいようだな」

  待ってくれ、とトレンチは叫んだ。黙れと文字通り一蹴された。

  待ってくれ、とトレンチは弱々しく言った。届かない手を、それでも伸ばした。

  待ってくれ、とトレンチは懇願した。誰に対する懇願か、自分でも判らないまま。

  「お兄ちゃん」

  けれどワンダのその声は、トレンチの声と手をピタリと止めた。幼きワンダの発した声には、強い強い意志が込められていたから。

  「ぼくを助けたいと思うなら、先にやるべきことがあるはずだよ」

  ワンダはトレンチを振り返らなかった。振り返ったら、目を見たら、声も心も揺らいでしまうに違いないから。

  「なまじ辿り着かねェ方が無駄に希望を持たなくてよかったのになァ」

  不気味な男の発したそれは、果たしてどちらの少年に向けられたものか。来てしまったトレンチに対する皮肉か、徒に決意と失意を繰り返してしまったワンダに対する皮肉か。いずれにしても、ワンダの歩調は男の発言によって変わることはなく、男の元に到ったワンダは、自ら男を先導するように歩いていった。

  「ワンダ……」

  [[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の足の下でトレンチは無駄な抵抗を続けていた。

  「離せ……離せよ……!」

  力の入らない手で大人の足を掴み、引き剥がそうとする。

  「行ってどうする? あの少年の言葉の意味が理解できないのか?」

  男の趾がトレンチの胸に食い込んだ。

  「頼む……ワンダを……みんなを助けたいんだ」

  「……他に逃げている奴隷がいるのか?」

  「そうだ」とトレンチは頷く。「離してくれ、行かなきゃならない」

  「心は痛むが諦めろ」

  けれど男から返ってきた言葉は冷ややかなものだった。いや、現実的という方が正しい。

  答えを聞いたトレンチは[[rb:嘴 > クチバシ]]を食い縛り、――大きく息を吸い込んだ。

  直後、トレンチは背で大きく弾みをつけ、男を吹っ飛ばす勢いでもって跳ね起きた。けれど既に男の足はなく、過剰に勢いのついたトレンチの体は宙に舞い、無防備を曝すトレンチの体に、待ち構えていた男の蹴りが強かに打ち付けた。

  トレンチは地面を滑った。折れた手と、足の、激痛に呻いた。

  「力なきものは求めることも許されん。何かを求めるならば、相応の力が必要だ」

  顔を[[rb:顰 > しか]]めるトレンチの首に、何かが宛がわれた。目を開くと、それは不気味な男が持っていた[[rb:妙刀 > クリス]]のように、金属でできた短剣だった。

  「俺は煩わしいのが嫌いだ。選択肢はふたつ。街に着くまでのあいだ文句を言わずついて来るか、永遠に何も言えない状態になって街まで運ばれるかだ。選べ」

  いやだとトレンチはもがいた。

  「何もかもが自分に都合のいいように動くと思うな」

  「なら放っておいてくれてもいいだろ!」

  [[rb:外套 > マント]]の下で、無意味にジタバタした。

  「そうもいかん。お前のために銃弾を一発消費している。連れて行って報酬を頂かねば採算がとれん」

  採算――トレンチは心の奥底から込み上げる怒りを感じた。

  「……あんたも人の命と物の価値を比べるのか」

  「それのどこが悪い。お前は奴隷だ。今のお前には奴隷一人分の価値しかない。いくら[[rb:五体満足 > フローレス]]といえど、お前は俺に頼みごとをしていい立場にない」

  「選択肢はふたつって言ったな」トレンチは男を睨み付ける。「――もうひとつある!」

  迫る刃に男はその場を飛び退いた。迫る刃……それはトレンチの持つ[[rb:手槍 > ペグ]]だった。蹴り上げた無傷の右足に、[[rb:手槍 > ペグ]]が握られていたんだ。

  跳ね起きたトレンチは[[rb:手槍 > ペグ]]を両手で持ち直し、

  「あんたから武器を奪っ」

  パン、と乾いた音がした。先ほども聞いた、空から響いた、耳慣れない音。状況を考えれば、その音は発砲音――[[rb:鳥人 > トリ]]が持つ文明の利器、銃から弾丸が発射される音――。

  踏み込もうとした足に、筋肉に、力が入らなかった。トレンチに唯一残っていた自由への手段、即ち右脚が、鮮血に染まっていた。

  トレンチは絶叫した。[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]のけたたましい声が響き渡った。手を折られた時よりも、左足を砕かれた時よりも、遥かに強く激しい痛みが、トレンチの総ての感覚に優先して放たれていた。

  「随分おめでたい頭をしているらしいな」煙を上げる銃口を向けながら男は言い放つ。「俺がお前を殺さないとでも思ったのか?――連れて行くのは別に死体でも構わないんだよ」

  堪えようのない痛みに悶えるトレンチに、[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の男は冷徹な足取りで歩み寄る。

  「それは〝責任〟だ」

  失血のショックでトレンチは全身が大きく震えていた。

  「俺に[[rb:刃 > やいば]]を向けることで生じた――責任だ!」

  そのトレンチに、男は容赦なく蹴りを入れる。小さく呻き、トレンチは仰向けに転がった。

  「これでお前はまた死んだ」

  無抵抗の顔面を男が踏み付ける。[[rb:罅 > ひび]]割れていた[[rb:嘴 > クチバシ]]が、鳥人の象徴ともいえる[[rb:嘴 > クチバシ]]が、完全に砕けた。

  「理解できるか。せっかく奇跡的に繋いだ命を自ら投げ捨てたんだ。[[rb:俊趨兎 > ラプソディア]]の親子の気遣いも、[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の少年に託された意志も無下にした。黙って付いてきていれば命は助かり、生きてまた会える可能性もあった。にも拘らず、お前はその機会を総て台無しにした。それは〝勇猛なる死〟ではない、〝無駄死に〟だ。これがどれだけ愚かなことか解るか?」

  もはや総ての抵抗力を打ち砕かれた。武器を握ることは叶わない。両足の力を失い、歩くことも叶わない。生きて子供たちを追いかけることは、もうできない。大腿から流れる血と、[[rb:嘴 > クチバシ]]から流れる血が、トレンチから気力を奪い去っていった。

  「勇気と無謀は別物だ」

  [[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の男はトレンチに銃を向ける。

  「力なき勇気を無謀という。知識なき勇気を無謀という。知識は力に等しい。お前はまず、己の無力を知れ」

  そうして力なく開いたトレンチの口に、銃口を突っ込んだ。

  「頷け。そして認めろ。返答を誤った時点で即座に撃つ」

  お前は無力だ、と男は言った。弱々しくトレンチは頷く。

  お前は弱い、と男は言った。躊躇いがちにトレンチは頷く。

  力があると勘違いした。トレンチは頷く。

  何も守れないのは力がないからだ。トレンチは頷く。

  信念を貫けないのは力がないからだ。トレンチは頷く。

  いいな、お前は無力だ。トレンチは頷く。

  お前は愚か者だ。トレンチは大きく頷いた。

  諦めろ。トレンチは――頷かなかった。

  「どうした、頷け。総ての弱さを認め、従順になれ」

  トレンチは[[rb:嘴 > クチバシ]]だった口で銃口を噛む。

  「確かにオレは弱い」その目に炎が戻る。「……だけどそれは、オレが諦める理由にはならない!」

  「そうか、いい覚悟だ」

  男は言い、口に突っ込む銃口を更に押し込んだ。

  「じゃあな」

  そうしてその指が引き金を引く。

  耳慣れない――乾いた音がした。

  [newpage]

  

  世界というのは人一人の存在に左右されるものではない。誰が何を言おうと、誰が生まれようと、誰が死のうと、世界は世界で在り続ける。トレンチが死んだあと、それを認知する術がないワンダはそれでも生きていく。不気味な男のもとでその生涯を奴隷として終える。トレンチの死骸を[[rb:俊趨兎 > ラプソディア]]の親子に引き渡した[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の男は、悲しむ二人から何食わぬ顔で報酬を受け取り、変わらぬ人生を送る。

  果たしてトレンチが生きていたら何かが成せただろうか? トレンチの望み通りに[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の男がトレンチを追い放していたとしたら、トレンチはワンダに追い付けただろうか? それとも逆に進み、子供たちを助けただろうか?

  いいや、何もできやしない。[[rb:碌 > ろく]]に歩けもしない無防備な鳥人の末路なんて、[[rb:妙翅蛉 > アルカネウラ]]の餌になるか、魔獣の餌になるか、[[rb:跳貫蝗 > スティンガ]]に襲われ卵を産み付けられるか、せいぜいそんなところだろう。

  いったいどうしてトレンチはワンダを助けようと思ったのだろう? 不気味な男の嗅覚に捕捉されたからといって、すぐに逃げればよかったんだ。

  まあ、ひとつには、その時点でのトレンチは他の子供たちが生きていることを知らなかったというのが挙げられる。けれどそれは所詮は言い訳なんだ。

  意地の悪い答え方をすると、結局のところ、トレンチの中で命の優劣を決めてしまっていたんだね。子供たちはみな大事……と、人は無意識に表面の顔を取り繕うものだから、表向きはそう思いながら、もっとも思い入れの強かったワンダを、――ファルコの忘れ形見と称して差し支えないほど大きな存在を、もっとも優先して助けたかったんだ。

  限りなく意地の悪い例えをすると、果たして男に連れられていたのがワンダ以外の誰かだったとしたら――?

  それに対する明確な予想はさすがにやめておくけれど、きっと、もう少し冷静な判断ができたはずだ。

  愚かなことだよ。そう、これは途轍もなく愚かなことだ。けれど時に、愚かだからこそ美しいと、そう言える場面もあるんだよ。非合理の中にこそ生まれる美しさというやつがね。それは決して志半ばで命を落とした者に対する[[rb:慰め > レクイエム]]ではないし、そしてもちろん、美しさは必ずしも正義でないことを前提としているけれど。

  死を覚悟に[[rb:雇用主 > キーパー]]に盾突いたファルコ然り、死を覚悟に衝動を抑えきれなかったチャットと少女然り、死を覚悟に[[rb:雇用主 > キーパー]]に立ち向かったトレンチ然り。

  感情――〝意志の力〟――それは時に世界を動かす。黙って頷いていれば撃たれずに済むことは解っていたのに、最後まで強情に諦めないと言い放ったトレンチもまた、愚かでありながら、猛き意志を宿し続けた美しき魂を持った少年なんだ。

  荷車に乱暴に括り付けられた[[rb:報酬の引換券 > トレンチ]]はピクリとも動かなくなっていた。弾丸の貫通した右大腿からは、もはや血が流れなくなって久しい。[[rb:嘴 > クチバシ]]だった場所も、水分を失って乾燥している。血液が固まってこびり付いている。開きっぱなしの目は、ただ空の景色を反射させるだけの機能しか持たない。今となっては男の手を煩わせることはない、抜け殻のような〝なにか〟だ。己の罪を悔やみ、己の責を悔やみ、己の選択を悔やんでいる、そんなふうに見えなくもない。

  猛き炎はどこへ行ったのだろう? 死してもなお灯し続けようと心に誓った、強い強い意志の力は? 所詮、決意も覚悟もその程度のものなのだろうか? 死ねばそれまでなのだろうか? 風の前の塵と同じなのだろうか?

  いいや、〝それ〟は確かに〝そこ〟にある。己の弱さを認めた瞳の奥に、種となって残り続けている。

  彼の心は死んでいない。肉体だって死んでいない。息もしているし、血も流れている。

  引き金は確かに引かれた。けれど、[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の男が握っていた銃に、弾丸は込められていなかったんだ。

  両手両足の自由を奪われて、完全に何もできなくなって、トレンチは漸く己の無様な姿と向き合った。己の発生させた非を余すところなく認めざるを得なくなった。

  骨折箇所には添え木を当てられた。止血もされた。乱暴だけれど、水も食糧も口に放り込まれた。

  弾丸を込め忘れた、生かしておいた方が報酬がいい……それらの言い分を信じるほど今のトレンチは愚かじゃない。どこからどう見ても助けられたのに、あんな無礼な態度を取ってしまった。武器を向けてしまった。施しを受けておいて、これではただの恩知らずじゃないか。

  同じようなことがあった。他でもない、あの[[rb:俊趨兎 > ラプソディア]]の親子に対してだ。あの時はお礼を言えなかった。言わなきゃならないと気付いた時には手遅れだった。でも今は。

  「ありがとう、助けてくれて」

  一瞬だけれど、男の足が止まろうとする動きがあった。

  「俺は依頼されたからやっただけだ」

  荷車を引く男はトレンチを振り返らずに抑揚なく答えた。

  「それでも、ありがとう」

  「感謝をするならあの親子にするんだな。もしそれがなければ、俺はお前にあと三発は銃弾を撃ち込んでいた。まあ、そもそも関わろうともしていなかっただろうがな」

  「……[[rb:俊趨兎 > ラプソディア]]がどうしてオレを?」

  湖から逃げた先で辿り着いた[[rb:熱割れ > サンクラック]]で二人の[[rb:俊趨兎 > ラプソディア]]に出会った。二人はトレンチの命を助け、怪我の処置をし、親切に水や保存食まで与えた。これ以上は過干渉だと言っていたのに、別れてからもトレンチのために動いてくれていただなんて、その行動原理は理解の範疇を大きく超える。

  「[[rb:兎のお人好し > ラプソディアン・スタッカート]]」

  すると男は耳慣れない単語を口にした。

  「[[rb:一期一会 > スタッカート]]というのは彼らの種族柄をもっとも的確に示す言葉だ。我々の言語にも共通言語にもそれを端的に示す類語は存在しないが、総ての機会は生涯に一度きりしかないものと考え、その出会いを大切にするというような意味になる」

  「だからってここまで……」

  するかな、とトレンチは思った。けれど事実として、ここまでのことをされている。

  「彼らの歴史は暗黒だ。その[[rb:季 > シーズン]]生きられるか定かでない彼らだからこそ持ち得た思想だ。……まあそれを抜きにしても、あの親子は変わり者だがな」

  「知り合い?」

  「数度会っただけだ。親しい仲ではない」

  「それなのに依頼を?」

  「あの親子のように俺も変わり者だということだ。だからこそ今こうして[[rb:太陽の国 > ソラス]]の領内を歩いている」

  「……本当にありがとう」

  「果たして礼を言うようなことか?」男は立ち止まってトレンチを覗き込む。「あの男はお前を殺そうとはしていなかったように見える。俺が介入しなければ、お前は今頃あの[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の少年と共にいるのではないか?」

  確かにそうかもしれない。けれど、そうとも限らない。別々の場所で働かされるだけかもしれない。それに――。

  「そうだとしても、未来は与えられない」

  あの塩湖に戻されていたにしろ、別の場所にしろ、今度は絶対に逃げられない状況に置かれるはずだ。

  「未来をこの手で選ぶには、オレの力はあまりにも弱い」

  [[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の男はひとつ息を吐いて歩行を再開する。漸く解ったか、と考えていることがトレンチにも判った。

  オレは弱いとトレンチは改めて思った。弱いからこそ今の不甲斐ない自分がいる。空の景色をただ映すだけの機能しか持たなかった眼に、今更ながらに涙が溢れた。自分が弱いばっかりに、自分が不甲斐ないばっかりに、守り通すことができなかった。

  トレンチは泣いた。声を殺して泣いた。声を漏らして泣いた。ワンダにごめんと、子供たちにごめんと。マーニーに、オーナムに、ルインに、無事に[[rb:緩衝街 > シカルド]]に辿り着けたら名前を付けてやると約束した新入りの[[rb:小鳴羽 > リトルツィッタ]]二人に、そしてこれまで死んでいった総ての仲間たちに、ただ、ごめんと。

  どうか生きていてくれと、そう願うことが無責任なのは判っている。けれど、力なき者にできることは、謝ることと願うことしかない。無様に、祈ることしか。

  「お前、名はあるか」歩きながら男は問う。

  「トレンチ」哀しみを堪えてトレンチは答える。

  「……由来は」

  「ある有名な鳥人の名前をもじったものらしい」

  「名付け主は」

  「オレたちの元リーダー。やつらに……殺された」

  「そうか。ではトレンチ、その感情を忘れるな。感情――〝意志の力〟――それが人を強くする。お前は弱いことを認めた。認めながら、それを諦める理由にしないと強く断言した。その心を忘れない限り、お前はいずれ力を得る。いずれじゃなく今必要だと思うだろうが、その葛藤すら養分にしろ」

  トレンチは強く頷いた。

  「そうすれば、お前の心に根付く種はいずれ芽を出すだろう。そうして花を開かせ実を結び、真の意味でお前の糧となるはずだ」

  それは、遺志を託したファルコのセリフと同じだった。あの時ファルコはどんな気持ちだったのか、強く強く理解できる。どうしようもない理不尽な現実を変えることを諦め、心を大人にしていった。そうしながらも、心の奥底で諦めきれない感情があった。――ゆえにトレンチに知識を与えた。事を起こしてほしくないから……そう言い訳しながらも、自分には成し得ない何かを起こしてほしかったから。

  弱い男でごめん、とトレンチは詫びた。託された遺志を、願いを、最後まで果たせなくてごめんと。強く逞しかったファルコに、心から詫びた。

  さて、弱いことは罪なのだろうか。弱いことを知らないことは、果たして悪なのだろうか? それはその時その時、その人その人で真にも偽にも解答を変化させるあやふやすぎる命題だ。けれど共通しているのは、人はこういう問題の解を結果論で判断するということだ。つまり、行動を起こした時点では善悪が決まらないということになる。

  もしもトレンチが己の弱さを正しく知っていれば、きっとファルコと同じ選択を採ったはずだ。心を殺し、子供たちを守りながら[[rb:砂鉱 > しゃこう]]を集めて終わる人生を強いていたはずだ。だったら、己の弱さを知らなかったからこそ行動に移せたと言えるんじゃないかな?

  もちろんそれが正しいこととは限らない。〝結果〟はトレンチだけに存在するのでなく、子供たちそれぞれが等しく持つのだから。例え待ち受けるものが死であっても勇気を出して逃げたことを誇るか、或いはやっぱりあそこで働き続けていた方がよかったと悔やむか、そんなものは当の子供たちそれぞれに尋ねてみないと判らないことだ。今ここで答えを出すことはどうやってもできない。

  結果論ですら答えの出ない悩みは呪いと同義だ。トレンチはこれを抱えて生きなければならない。途中経過論という言葉を仮に作って言ってみれば、紛れもなくトレンチは後悔している。己の弱さを悔やみ、弱い自分を憎んでいる。もしも許されるなら、強くなりたいと願った。……奴隷にそれが許されるなら、だけれど。

  この先の人生がどんなものなのか予想もつかないことだ。先どころか目下、男がトレンチをどうするかについてすら未知数だ。[[rb:俊趨兎 > ラプソディア]]の親子に引き渡すつもりにしろ、二人は他人の奴隷をどうこうすることはできないとも言っていた。人生の予想は付けられない。訊くのは容易いけれど、知るにはまだ心の整理がついていない。奴隷は死ぬまで奴隷――それを突き付けられる前に、束の間、物思いに耽る自由はあってもいいはずだ。

  [[rb:一期一会 > スタッカート]]という思想について、トレンチはどこか引っ掛かるものを感じていた。引っ掛かるといっても怪訝に思う類の感情ではないよ。人は必要のない情報はつるりと流してしまうけれど、文字通り引っ掛かったということは、流してしまいたくないもの、つまり早い話、少なからず共感に繋がる要素を感じ取ったということだね。流されることのなかったそれはその場に留まって存在感を持ち、未来のトレンチに咀嚼され、めでたく情緒形成の素材となる。

  過去があるから今がある。関わってきた総ての存在が、今の自分を形作っている。総ての物事が今に繋がっている。正しかったことも、誤ったことも、総てが。

  答えの出ない悩みに答えを出すことはできない。それならば、過去に関わってきた総ての物事を無駄にしないために、強く立派に生きなければならない。それがトレンチの責任で、贖罪で、[[rb:分銅 > 試練]]となる。

  「なあ、あんたの名は?」

  「知ってどうする」

  「[[rb:一期一会 > スタッカート]]。この出会いに感謝するため」

  男は二、三歩考えて答える。

  「……ウィンチだ」

  「へえ、これも〝縁〟ってやつなのかな」

  「どうだかな」

  「奇遇だな、よく似た名前なんてさ」

  「……は」

  知らないことは罪なのだろうかと問いかけた手前だけれど、さすがに程度にもよると追記させてもらうよ。

  「お前、その頭で本当によく生きてこられたな」

  まったく、彼は一刻も早く己の無教養を知るべきだ。

  [newpage]

  

  「おれたちの敵は世界だ」と男は言った。「なぜなら、総てを知ることはできねェからだ」素っ気なく顔を背けるワンダの不愛想にもすっかり慣れた男はこちらも無表情で続ける。「人が何かを恐れるのは知識がねェからだ。知らねェから予想外の現象に困惑し、動揺し、時にゃァ成す術なく[[rb:平伏 > ひれふ]]しちまう。そういう時、決まって人は理不尽という言葉を使いたがンだ。何かのせいにした方が気が楽だからな」

  けれど聞いていないわけではなかった。聞くまいとはしているけれど、妙に嫌な部分を[[rb:擽 > くすぐ]]ってくるというか、逸らそうとする気を引き戻す〝何かの力〟があった。それを〝何かの力〟で片付けてしまうほどワンダは愚かじゃない。けれど、その力の正体を自覚したくなくて気を逸らそうとしている――そんな自分に気が付きたくなくて気を逸らそうとしているのは未熟ゆえの愚かさといえる。

  「弱ェのは罪だ」と男は言い放った。「知らねェことは悪だ」と断言した。「弱ェことを棚に上げ、易きに流れる生き様は道端のクソと同じだ」と吐き捨てた。そうして男はワンダを眺める。別にワンダを非難しての講釈ではないのだけれど、熱の籠もった目付きを見れば勘違いしてしまいそうではある。もっとも、ワンダは怯えることなくその視線を真正面から見返し、受け流しているのだけれど。

  漠然と、何かしらのコンプレックス或いは呪縛があるのだろうとワンダは感じた。この男をこういう形に作り上げた行動原理が、今の立場を得ようとこの男を突き動かした理由が、そして今の立場で満足させず、もっと別の何かを求めさせようとする、強い強い執念じみた原動力が。

  「わかるかィ」男は幾らか優しい声になる。「お前サンの敵は世界だ」

  ワンダは再び前を見る。[[rb:繁獣期 > ベスティオラ]]の空、それなりに太陽が傾き、赤き[[rb:天幕 > オーロラ]]がその存在を主張し始めている。ワンダは景色に意識を向けることで、男の弁を耳に入れまいとしていた。けれど男の話し方と声質によるものか、放たれた声は妙に粘性が高く、ワンダの耳孔に纏わり付いて離れない。

  「おれを敵と見ることに異義はねェ。殺そうとすることを止めもしねェ。だがな少年、それを最終目標にしちゃァいけねェよ。〝殺すため〟に殺すンじゃねェ、〝死ぬため〟に殺すンでもねェ、〝生きるため〟に殺せ」

  胸の奥にある何かが不快感を訴えた。耳から入った男の発言が、瞬時に脳内にあるひとつの記憶を呼び起こしたから。

  ――死ぬことを目的としてはいけない。殺すことを目的としてもいけない。生きるためにやるんだ。――頼れる年長を三人も失って消沈するトレンチが、まさに決起せんとした時の発言だ。ワンダはそれをヘリクツだと言った。けれどそれは建前だった。本当はその場で喜びを表現したいほど、トレンチの決意が嬉しかった。

  それが連想されてしまった。結び付いてしまった。男の発言が、耳を通して体内に入り込み、美しい記憶にねっとりと絡みついた。――尊厳が[[rb:汚 > けが]]されてしまった――そんなふうにさえ思った。

  「いいな、そンな小せェモンは通過点だ。目的のついでに寄り道する程度でいい」

  ワンダは答えなかった。不快感と怒りで、声を出すこともできなかった。

  「別におれと暮らせって言ってるわけじゃねェ。お前サンが抱いてる感情は長続きしねェよ」

  人の感情を勝手に決めるなと言いたかった。

  とはいえ、今のワンダは認めたがらないだろうけれど、男の言うことにも一理あるんだよ。怒りというのは衝動的および短期的な熱情だから、喉元を過ぎればその熱を失っていくものだ。現に、沸々と煮え滾っていたワンダの怒りは暫く歩いたのちには幾らか落ち着いていた。

  けれど男に対する怒りが消え去ってしまったかと言うとそうではないよ。喉元で[[rb:濾 > こ]]された僅かな[[rb:残渣 > ざんさ]]、それが所謂〝恨み〟と呼ばれる類の長期的感情で、体内にしぶとく残って断続的に怒りを発生させる。

  男にはその摂理が解っているんだ。〝恨みを買う〟行為をした自覚はあるものの、それは所詮〝恨みを積もらせる〟ものではない。この先新たに恨みを供給しない限り、現段階で抑制できている程度の恨みならばいずれ立ち消えになる。それが解っていたから長続きしないと言ったんだ。もちろんそれは、ワンダに言わせれば勝手に決めつけるな、ではあるけれどね。

  「お前サンくれェの歳ならもう見えてるかね。間もなく[[rb:集落 > 村]]だ。[[rb:季 > シーズン]]中に辿り着けるか不安だったが、いやァお前サンが健康な子で助かったぜ」

  ワンダは目を細める。逆光の遠景、それも片目だけの情報になるけれど、確かに人工的な構造物が見えるような気がした。

  「……歳?」

  言って、ワンダはしまったと[[rb:嘴 > クチバシ]]を[[rb:噤 > つぐ]]んだけれど、時すでに遅しだ。ちらりと男を窺うと、やはり嬉しそうに口角を上げていた。ワンダは心の底から失態を悔やむような顔をした。

  「ま、からかうのァやめておこう。知らねェのかィ? お前サンたちの目は本来かなりいいはずなンだが、成長と共にその視力を徐々に失っていく。完全になくなるこた稀だがな。――で、[[rb:鳥人 > トリ]]だけじゃなく、それァおれたち[[rb:太陽の国 > ソラス]]の民にも当てはまる。お前サンたちほど大層な目を持ってるわけじゃねェが、それでも視力の衰えは誰もが実感することだ」

  それは単に加齢とともに身体機能が落ちるからじゃないかとワンダは思ったけれど、そんな単純な話ならおそらくこんな話し方はしていないだろうと思い、黙っていた。

  「ここからがミソだ。[[rb:月の国 > キャラハ]]の本国に生まれたモンはその度合いが強い」

  ファルコが頭に浮かんだ。確かに、ファルコの目はそんなに良くはなかったとワンダの記憶にある。

  「[[rb:月の国 > キャラハ]]に生まれたものは、[[rb:鳥人 > トリ]]も[[rb:獣人 > ケモノ]]も例外なく、な。もうわかったかィ? おれがどんなふうに話を持っていこうとしているか、予想してみな」

  これもたぶんそう単純な話ではないんだろうとワンダは思った。[[rb:月の国 > キャラハ]]の情報をあまり多く有してはいないけれど、子供たちの間で取り交わされていた様々な小さな情報から推測するに、〝文明の反動〟――即ち環境有害性物質の放出に依るものなのだということには思い至る。けれどおそらくそこで話は終わらない。回りくどい話し方が好きなこの男は、きっとその先を考えているはずだ。そうなるとワンダの答えはこうだ。

  「答えを想像することはできる。だけど断言することはできない」

  「まァ上出来だ。それを断言するのが[[rb:太陽の国 > ソラス]]の間抜けどもだ。証拠がねェことをこうだと断定し、敵国のせいにする。なぜならその方が気が楽だからだ」

  ワンダは不思議に思った。この男は[[rb:太陽の国 > ソラス]]の民にあるまじきことを言っている。

  「……ま、正直おれも[[rb:月の国 > キャラハ]]が水と空気を汚染しているせいだろうと思っちゃいる。が、そのことで[[rb:月の国 > キャラハ]]を恨むことはしねェ。証拠がねェこともそうだし、何か別の要因が潜んでいる可能性だってある。それこそ[[rb:月の国 > キャラハ]]の言うように、太陽や大地の呪いが作用していることだって、絶対にないたァ言い切れねェンだからな。いいかィ、安易な答えに安心せず、立ち止まって考えることができる。それが教養ってやつだ」

  男は手で西日を遮りながら集落があると思しき方角を眺める。

  「こう言っちゃァ何だが、どいつもこいつも酷く野蛮な連中だ」

  どの口がそれを言うのかとワンダは心の中で呟いた。

  「――おれと同じくれェな」

  まるで心中を見透かしたようなそれに、また不快感が込み上げた。

  「だが少なくとも品性までは腐っちゃいねェと自負してるぜ。あそこに住んでる奴らはな、過去の栄光を捨てきれねェのさ。過ぎた過去にしがみつき、歩みを止めちまってる。[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の信条に[[rb:悖 > もと]]る停滞をしている。ゆえに教養がねェ。力がねェ。――銃も持たねェ[[rb:鳥人 > トリ]]の子供に殺されちまうくれェにな」

  男のそれが本心であることを、その表情から窺い知ることができた。本当に、同じ種族である[[rb:咆咬狼 > オオカミ]]たちを嫌悪しているような目をしていた。

  「知識は力だ。教養は力だ。知識と教養は似たものであり非なるものでもある。知識を付けりゃ教養が養われ、教養がありゃ新たな知識を吸収することができる。互いに影響を及ぼし合うものなンだ」

  それが集落の[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]たちにはない。男はそう言いたいんだ。

  「今のお前サンにゃ知識がねェ。だが教養がある。教養がありゃ、知識は後から付いてくる。だからおれァお前サンを連れてきたンだ。あの[[rb:五体満足 > フローレス]]よりも優先してな」

  そのまますっとワンダの前に手を出し、立ち止まれというようなジェスチャーをする。

  「名を、訊いておこうかね」

  ワンダの顔が険しく変化した。これまでで一番の不快感がワンダの心に濁りをもたらし、怒りと焦燥に駆られ、ワンダはまるで男から逃げるように顔を背け、歩き出した。

  焦燥――つまり、最も触れられたくない部分に触れられてしまう、侵されてしまう、汚されてしまう、損なわれてしまう――そういった危機感だ。

  「……やれやれ」

  男が再び歩き始める音がした。いくらワンダが急ぎ足になろうが、[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の歩幅なら通常速度で追い付いてしまう。

  「真面目な話だ」

  やがて横に並んだ男を避けるように、ワンダは歩きながらあからさまに顔を逸らした。

  「いいかィ、名は大事なモンだ。名は魂に等しい。その人物に付与される唯一にして最大の[[rb:構成要素 > エレメント]]だ。世の中に同じ名前があったとしても、そいつはそいつ、自分は自分、誰が持つかでまったく違う意味を帯びてくる」

  逸らした顔に男が近づく。そして。

  「お前サンの名はどこまで行ってもお前サンのモンだ。お前サンが自らの名を大事にする限り、おれなンぞに呼ばれたからとて決して汚れやしねェよ」

  また、心中を見通したかのような物言いだ。いけ好かない、とワンダは両の手を握り締める。心の底から、いけ好かない。そしてそれが冷静に考えれば納得できる内容であることも、また、いけ好かなかった。

  「どうしても嫌ならおれァその名を呼ばねェよ。教えたくもねェならそれも構わねェ。が、その場合はお前サン自身がお前サンを表す相応しい名を考える必要がある。名を持たねェ者は生きる資格を持たねェとすらおれァ考える」

  男は歩みを止める。ワンダだけが先に進む。男は歩かない。男はワンダを待っている。自らの意志で立ち止まるのを、待っている。命令すればいいものを、相手の自由意志に委ねようとしている。いけ好かない。言うことを聞かない者が悪だと言わんばかりのそういう態度が、特に。

  でも――ワンダは足を止める。でも、所詮それは子供じみた意地なんだ。現実を受け入れはするけれど、受け入れるのが悔しいという感情から来るちっぽけな負け惜しみ。ささやかな仕返しのつもり。そんなことで解消されるのならば悔しさなんて始めから存在するはずがない。それをして、満足した気になって、真実満足してはいない。まさに弱者の行動だ。その方がよっぽど悔しいことじゃないか。

  くるりと、男に向き合う。それは決意の顔だった。名乗るべきだとワンダは悟った。これは決意の場面だと。真正面からぶつかる、それが、長期的に見れば、いけ好かない男に対して最も効果のある態度になるはずだと。

  「改めて訊こう。お前サンの名は?」

  そうしてワンダは大きく息を吸い、

  「ぼくの名前はワンダ」強き〝意志〟を発した。「頼れるリーダー、[[rb:隼凛翼 > ブレイブファルコ]]のファルコに付けられた、掛け替えのない宝物だ!」

  それはもはや真の名だ。当初は[[rb:愛称 > ニックネーム]]としての役割しかもっていなかったけれど、性格的特徴から付けられた名であり、そしてもっとも慕い尊敬する相手から与えられた名は、これまでの彼を表し、且つこれからの彼を指し示すに相応しい、紛うことなき彼の[[rb:独自性 > アイデンティティ]]だ。この名を措いて他に彼を表す名は存在しない。

  まるで心の中にあった[[rb:蟠 > わだかま]]りが一息で発散されてしまったかのように、ワンダの心は澄み渡っていた。むろん男に対する恨みが晴れるわけではない。けれど、私情を挟まず中立に、いずれ力を持ったその時に、正当な[[rb:裁定 > ジャッジ]]を男に下すことができる、そう思える予感がしたんだ。恨みを忘れることなんてできないし、忘れてもならない。けれど、恨みを忘れないために生きるのをやめようと思った。それをすれば、今の自分を形作る総ての過去――死んでいった仲間たちに託された思いまで穢すことになってしまう。それに気が付いたんだ。

  大げさだけれど、ワンダは感動していた。名を誇ること、それこそが自分という存在を失わず、道を違わない最良の方法だと知ったから。気を抜けば分泌されそうな涙を、どうにか堪えた。

  けれどワンダはギョッとする。男の方が泣いていたからだ。いや、別にワンダの返答に感動したわけじゃない。せっかくワンダが抱いた決意と成長の外側で、男は別の感情に支配されていた。

  大きく見開いた左目が潤んでいた。けれど流涙まではしていない。そちらでなく包帯の巻かれている右目に液体が染み出していたんだ。いったい男が何を考えているか、賢いワンダにも想像がつかなかった。

  「お前サン、神様を信じるかィ?」

  そして男が発した言葉も、想像力を持ち出す余地のないほど突拍子のないものだった。

  「[[rb:太陽の国 > ソラス]]と[[rb:月の国 > キャラハ]]で神は違うし[[rb:獣人 > ケモノ]]同士でさえ考え方が違う。何が正しいかおれなんかにゃ及びもつかねェが、神様は確かにいらっしゃる。神様ってのァ本当におれたちを見てくださっている。おれァお前サンを連れてきたつもりだったが、そうじゃァなかったンだなァ……」

  男は唐突に自らをシュートと名乗った。[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の、シュート・ヴンダラー。発言の意味がいまいち解っていなかったワンダは、続けざまの追い打ちに酷く混乱したけれど、その中に含まれる違和感にはすぐに気が付いた。

  「[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]の[[rb:発音 > イントネーション]]じゃない」

  それは名前の部分。音素もアクセントもワンダには耳慣れないものだったんだ。もう少し言うと、便宜的にきみたちの言語体系に合わせてシュートと表記しているけれど、シュトと言ってもいいし、シュットと言ってもいい。そういう微妙な違和だ。

  「こいつァ[[rb:妖箒狐 > トリックスター]]の言葉だ。ちなみにヴンダラーってのァ別に姓じゃねェ。定住せずあちこち放浪してる[[rb:妖箒狐 > キツネ]]が自ら名乗る肩書きみてェなモンだ。お前サンたちの言語か共通の言語に合わせるとワンダラーとなる。色々あるが、主に旅人って意味だ」

  「そう」

  「オイオイオイ、そこァ深堀りするところだろォ? 興味がない、知りたくない、それァもっとも忌避すべき感情だぜェ?」

  「それじゃ、何かの機会に自分で調べることにする」

  「まァそれでいい。おれだって小さな子供に人生語って聞かせるほど寂しい男じゃねェからな」

  さて、と男は未だ遠い集落に目を移し、少し思案したのち再びワンダに目を戻す。

  「お前サン、やりてェことはあるかィ? 実現可能かどうかはさておき、生きてるうちにやってみてェこと、成し遂げてェこと、何かないかィ?」

  ワンダは耳から届いた男の言葉を瞬時に分解する。まずは〝やりたいこと〟から反射的に連想される衝動的欲求だ。トレンチお兄ちゃんの無事を確かめたい、ほかの子供たちを救いたい、といったようなことだ。己の欲求より先にそれらが浮かび上がるあたり、この子は本当に思いやりというものを持っている。己の欲求はそれより少しあとに浮上した。

  それは、発言の意味をよく噛み砕いてから表れる理性的欲求だ。即ち、男がどういう答えを求めているかをよく分析した上で答えるべき十分に合理的な欲求。ただ、ワンダの考えたそれは些か具体性に欠けると自覚できるほど漠然としたものだった。

  「あなたの目的は?」

  だからワンダは敢えて質問を返した。具体性を得るには、あやふやでしかない男の行動原理を確定させる必要があると感じたからだ。

  「ンン……どの行動に対して言ってンだィ?」

  同じ質問と、同じ質問、そしてワンダは初めて意地の悪い目をし、同じ答えを返して見せる。

  「――ぜんぶ」

  「ほォ」

  男は意外そうな声を出す。その声色はどこか嬉しそうで、表情にもそれが出ている。男がこういう態度を取ると、ワンダは半ば確信していた。

  「くくっ、そうだなァ、おれの人生の目的は、おれの〝敵〟に、打ち勝つことだ」

  そのために、どういう〝手段〟として扱うつもりか未知数ではあるけれど、男は自分を迎え入れようとしたのだと、ワンダは男の行動をそういうふうに解釈した。それを踏まえたうえで、ワンダは己の目的を再確認しようと試みた。

  「で、お前サンはどうだィ?」

  ワンダは目を閉じ考える。最初、男に問いを返す前、彼はエスメアに行きたいと言うつもりだった。けれどそう答えるのは違うと思った。エスメアに行くためにエスメアに行くのでは駄目なんだと。崩壊都市、水没都市、虫の楽園。そこに行きたいというのなら、動機が必要になる。でなければ単に観光に行きたいと言っているのと同じだ。何か別の大きな目的のためにエスメアに行くと言わなければならない。行って、見て、感じて、知って、そうして何を得て、何を成したいか。それならば目的はエスメアではない。

  「自由がほしい」答えは明白だった。「行きたいところに行って、見たいものを見たい」目を開けたワンダは男の目を見ながら続ける。「そして知りたい。ぼくの〝敵〟が何なのか。どういう形をしていて、どうしてそういう形をしているか。どうしてそこに存在しているのか」

  「上出来だ」

  その答えは、男が求めているものに合致していた。

  「もっぺン言うが、知識は力だ。教養は力だ。力なき者が求めることができるのは力だけだ。分不相応にあちこち手を伸ばそうとしちゃならねェ。知識を付けろ、世界を知れ。そうすりゃ自由は自ずと手に入る。〝ビザンダ・ヴンダ〟――大いなる探究心を抱け――いいな」

  ワンダはそれを受け入れた。この男から吸収すべきものは大いにある。嫌悪や憎悪を理由に男を拒絶するのは賢いことではないと。この男を――糧にしようと。

  「お前サンの敵は世界だ」男は改めて言った。「だが、世界の方はお前サンを敵たァ思っちゃいねェ。――世界はいつでも平等に、中立に、お前サンに〝不思議〟を届けてくれるだろうさ」

  いったい自分をどうするつもりか、訊くのは容易い。けれど、今知ってしまうのはつまらない。この先どういう人生が待っていようと、一生を奴隷として終える人生であろうと、単調な日々だろうと、その中に疑問を見つけ、その疑問を種として、水をやり、栄養を与え、芽を出すんだ。そうすればその芽はいずれ花を咲かせ、豊満な果実となって自分自身の栄養として還ってくる。ワンダは強くそう思った。この世界には知らないことがたくさんあって、それを明らかにするために[[rb:月の国 > キャラハ]]の科学が発展したのなら、生まれや育ちが異なったとしても、その生き様は決して恥にはなり得ない。きっと――ワンダは[[rb:外套 > マント]]の上から中に仕舞い込んでいる[[rb:装飾 > アクセサリー]]に優しく触れる。――きっと、ファルコと同じ〝根〟に往けるに足る〝[[rb:造船 > クラフティング]]〟となるはずだ。――〝なんで?〟を投げかける相手は、世界だ。ワンダの中で、生き方が定まった瞬間だった。

  「おれの縄張りへようこそ。小さき〝[[rb:探究者 > ワンダラー]]〟」

  男の名はシュート・ヴンダラー。[[rb:流れ者 > ストレンジャー]]であり[[rb:旅人 > ワンダラー]]。誰もが滅びゆくことを確信しているこの世界で、希望を持ったまま大人になった稀有な〝子供〟だ。

  男が連れる[[rb:闇夜羽 > ナイトビーク]]の奴隷少年は、名をワンダ。誰もが滅びゆくことを確信しているこの世界で、間に合わせの希望で妥協せず、心の底から本物の希望を追い求め続ける稀有な存在。

  そしてここより遠く、荷車で運ばれる格好のつかない[[rb:小彩羽 > タイニィガーディ]]の奴隷少年は、名をトレンチ。誰もが滅びゆくことを確信しているこの世界で、それでも強かに希望を抱き続ける稀有な存在だ。

  感情――〝意志の力〟――それが生き物を発展させる。これまでもそうだったし、そしてこれからもそうだ。彼らは希望を抱くために発生した。

  それは時に世界を変える。彼らは、希望を抱くために発生した。

  [newpage]

  

  さて、収まりがいいからここをひとつの区切りとしたい。少しばかり長くなってしまったかもしれないことをお詫びするよ。

  けれど、省略するわけにはいかなかった。トレンチ少年が振り返って語る〝過去〟として扱うには、のちの物語に重要となる情報が些か多かったから。

  むろん改変するわけにもいかなかった。彼らの生き様をありのままに伝えるためには、事実を捻じ曲げることはできない。それをすれば、きみたちに事実と違う像を脳内に描かせてしまうだろう。[[rb:語り手 > ストーリーテラー]]として、それだけはやってはならないことだ。むろん、きみたちがみな同一の解釈をする保証はどこにもないけれど、それに関しては構わない。きみたちの解釈の仕方にまで立ち入る権利はぼくにはないのだから。ただ、解釈のために提供する情報は正しいものでなければならない、と、そういうことだ。

  次は……そうだね、順当にトレンチ少年の[[rb:相棒 > パートナー]]となる少年のお話をしたいところだけれど、ひとつ忘れてはならないことがあった。強き意志を持つ存在がまだ一人いた。これを語らずに終わるのは失礼に当たる。といっても、話の本筋に大きく絡むわけではないから、今回の話の締め括りとして短く紹介するに留めるくらいがいいだろう。みな、誰も[[rb:彼 > か]]も、逆境に抗う強き意志を宿した美しき生命だ。

  一人の奴隷が働いていた。[[rb:咆咬狼 > ハウルファング]]たちが暮らす集落で、精巧に編まれた木の[[rb:手機 > てばた]]を三本の指で自在に操り、丁寧に丁寧に機を織っている。

  その奴隷には名前がなかった。街で与えられた記号的な名を自分のものとするつもりはなかった。それをするくらいなら名無しの方が遥かにましであると。

  その奴隷の傍らには、孵って間がない[[rb:鳥人 > トリ]]の雛がいた。むろんその奴隷が産んだ卵から孵った雛だ。母子ともに栄養は足りていて、[[rb:黄昏期 > ダスクオラ]]になれば、雛鳥にとっては二度目の夜越えとなる。雛特有の[[rb:綿羽 > めんう]]に覆われた体は、敷き詰められた藁と屑糸の寝床の助けも借りて、十分に体温を維持することができるだろう。

  ここは母子の巣であり、労働場所だった。

  彼女は善人だ。子供たちに掛け替えのないものを与えた。

  彼女は策士だ。自ら食を細め、産卵を[[rb:制御 > コントロール]]した。

  そして彼女は母だった。意志を託し終えた彼女は、子のことのみを考えた。

  ここで彼女は生きていく。指の足りない子と共に。

  [[rb:番 > つがい]]の血を引く子と共に。