やらい姫 やらいひめ
逃げて、と死ね、が同時に聞こえた。
桃がその場から、闇夜にも関わらず走って逃げることが出来たのは、月明かりを頼りにその光景を見つめていたせいで、目が暗闇に慣れていたからだ。
母が鬼に食われる、その光景を。
真っ暗な木立の中を、桃は走っていた。
息切れの音、木の葉を蹴散らし、枯れ枝を踏みつけ、薮をかき分けて走る音は自分のものだけだと思いたい。
だが――いる。来ている。追ってきている。
焦る気持ちとは裏腹に、桃の足は震えて今にも崩折れそうになっていた。
不意に、目の前に現れた古木にぶつかり、桃はそれにしがみつくようにして足を止めた。
もう駄目だ。怖い。走れない。
吹き出た汗があっという間に夜風に冷やされ、桃の体を震わせる。
「誰か……」
助けて。
震える声に応える者は誰もいない。ただ、月が冷ややかに桃を照らしているだけだ。
唾を飲み込み、桃はゆっくりと足を踏み出した。
とにかく、ここにいては駄目だ。逃げなければ。人のいる場所へ。
ここではない、どこかへ。
古木から体を離し、もう一度歩き出そうとした時、遠くにちらちらと揺れる何かが見えた。
火だ。あそこで誰かが火を焚いている。
揺らめくそれに引き寄せられるように、桃はふらりと二、三歩ほど歩いて、はっと後ろを振り向いた。
風が鳴る。女の悲鳴のように甲高く、長く。
桃は束の間、体を硬直させていたが、やがてくるりと踵を返して走り出した。
今は誰かに助けを求めるのが先だ。助けてくださいと頼まなければ。
萎えそうになる足を必死で動かし、桃はようやく焚き火までたどり着いた。
人はいなかった。枯れ葉が掃かれて、地面が丸くむき出しになっている。その中央に小枝と葉がうまい具合に集められ、兎の目のように小さい火が頼りなげに揺れていた。
自分が駆け込んできたから、驚いて逃げてしまったのだろうか。
桃は不安げに見回した。焚き火の主は影も形もない。
自分で切り抜けなければ駄目なのだ。
桃は萎みそうになる気持ちを奮い立たせるようにして頭を振り、焚き火に近寄った。
松明を作って火をつければ、それなりの武器になるだろうか。
今にも消えてしまいそうな火に息を吹きかけ、火勢を煽ろうとするが、なかなか燃え上がらない。
何かくべなくては。桃はくるりと首を巡らせた。
地蔵が一体、桃の方を向いて立っていた。桃は立ち上がり、地蔵にそっと近寄って、
「どうかお守りください」と願をかけ、それから側に落ちていた一本の枝を拾い上げた。
この枝に火を灯らせて振り回したら、「奴ら」は逃げてくれるだろうか。
たった一人で、「奴ら」に立ち向かえるだろうか。
桃が一瞬、考え込んでいる間に、その頬を涙が一筋流れ落ちた。
「……桃、泣いちゃ駄目、頑張るんだよ」
自分に言い聞かせるように呟きながら、枝を火に突っ込んだ――瞬間。
「熱ッ!」
枝の感触が柔らかくなった。次いで、温度のなかったそれが温かくなり、形が代わり、桃が瞬きをしている間に、その枝は一匹の狐に変化していた。
「熱いったらないよ、ちょいと離しておくれな」
甲高い声と共に狐は身をよじって桃の手から抜け出ると、ぽんと地面に飛び降りた。
「あら、よく見たら可愛いお姫(ひい)さんじゃないのさ。あたしゃまた長岡京の鬼共が駆け込んできたのかと思ったよ」
尻尾を揺らしながら狐が言うのを、桃は目と耳を疑いながら聞いていた。
この目が確かなら、狐の尾が三本あるように見える。そして耳がしゃんとしているのならば、この狐は人語を話している。
ぽかんとする桃を尻目に、狐は首を巡らせて甲高い声を上げた。
「見ての通りの子供さ。もう変化を解いても大丈夫だよ」
一体誰に喋っているのかと桃が狐の視線を追うと、じっと鎮座ましましていた地蔵が、地震もないのにごとごとと揺れた。
と、その石の顔がにんまりと笑って、しゃがれた声が響いた。
「やれやれ、肝が冷えたわい」
硬い石の体がぐにゃりと歪んだかと思うと、ぽんと音を立てて煙に包まれ、地蔵の姿が見えなくなった。
「ちょいと、こっちに煙を寄越すでないよ。煙いったらない」
「やかましいわ。文句があるなら風に言え」
狐の文句に言い返しながら、のっそりと煙の中から這い出したのは、一匹の丸々と肥えた狸だった。
「やれ、疲れた疲れた。急に化けるとどうも体力を消耗するのう」
「年の所為じゃないかえ、田主丸(たぬしまる)の旦那」
狐が甲高く笑うと、田主丸と呼ばれた狸は不機嫌そうに頬を膨らませた。
「黙れ稲荷(いなり)。そういう御主の化け具合、ありゃ何じゃ。この季節に若葉をつけた枝なんぞ落ちとるもんか。からかう暇があったらもっと術を磨け」
稲荷と呼ばれた狐も、怒ったように三本の尻尾を立てた。
「何だって、この古狸め。こうなったらあたしも言わせてもらうけどね、地蔵ってのはもっとふくよかで慈悲深い顔をしてるもんだよ。それなのにあんたの化け地蔵はどうだい、あんな俗っぽい面をした地蔵なんかいるもんか。滝にでも打たれて浮世の垢を落してから化けたらどうだい」
桃は目を白黒させながら聞いていた。枝や地蔵が狐と狸になったと思ったら、尻尾の毛を逆立てて人語で言い合いをしている。これは一体どうなっているのだ?
気づけば桃はその場にへたりこんでいた。足が限界をむかえたのだ。
と、後ろで何かがそっと枯葉を踏みしめる音がした。桃の足に、何か柔らかいものが擦り寄ってくる。
「大丈夫かな、お嬢さん」
目線を落とすと、猫がいた。三毛猫だ。ゆっくりと振られている尾は、二股に裂けている。
「お二人共、喧嘩はそこまで。このお嬢さんが固まっておられる」
猫の声に、狐――稲荷と、狸――田主丸は応酬をやめた。かさこそと枯葉を踏みしめながら、気遣うように声をかけてくる。
「あらあら、そんなとこにへたりこんじゃって、大丈夫かいお姫さん」
「すまんのう、すっかり御主のことを忘れとった」
柔らかい毛皮に囲まれて、桃は肩の力が抜けるのを感じた。
これは夢かしらん、桃はぼんやりする頭で考えた。
恐怖のあまり、妙な夢でも見ているのじゃないか。
「お嬢さん」
ぷにっとしたものが、桃の頬の下あたりに触れた。三毛猫が伸び上がって、肉球のついた手でぽんぽんと軽く叩いていた。
「こんな時刻にこんな場所を、お嬢さん一人で駆けてくるとは尋常じゃない。何かあったのかな」
猫の丸い目が覗き込んでくる。月明かりを反射して、微かに光る目。
そうだ、あいつらも。
あいつらの目も、光っていた。
怒りに燃えた、あの目。
冷たい月明かりの下で蠢く影。
怒号。
悲鳴。
――逃げて、桃。
あっと言う間に視界が潤み、桃は泣くまいと遮二無二、顔を拭った。
「母さん、が」
声が途切れる。ぼやけた視界の中で、三匹が耳をそばたてるのが判った。
「母さんが、鬼に」
食われた、という言葉は声にならなかった。ただ嗚咽のような音が出ただけ。けれど、それだけで三匹には伝わったようだった。
「ああ、それ以上は言わなくていいよ。お姫さん、辛かったねえ」
「酷いのう」
狐と狸はしみじみと気遣ってくれたが、やがて狐が「あれ?」と素っ頓狂な声をあげた。
「お姫さんが走ってきたのは長岡京の方からだったよね。お姫さん、あんた桃源京の子じゃないのかい?」
桃源京の外に住んでる人かね、と問われて、桃は鼻をすすって頷いた。
「私、長岡京に住んでたの」
「何だって?」
「何じゃと?」
狐と狸の声が重なった。ややあって、狸が恐る恐る訊いてくる。
「つかぬことを訊くが、御主、人間じゃな?」
「うん……」
桃が肯定すると、狐と狸は顔を見合わせた。狸が再度何かを訪ねようとしたが、それを猫が「お待ちを」と遮った。
「積もる話はまた後ほど。お嬢さんが寒そうにしておられる」
言われて始めて、桃は自分の体が震えているのに気付いた。指の先まで、細かい震えが止まらない。
「稲荷の姐さん、火を熾してください。田主丸の旦那、もそっと近くへ」
猫の指示に従って、二匹はもそもそと動き出した。
狐は焚き火の側に行くと、三本の尻尾を揺らめかせた。と、その尻尾の先に、ぽっと青白い火が灯った。それを前足で器用にすくい取り、もう殆ど消えかかっている焚き火に押し付けると、あっという間に火勢が強くなってぱちぱちと爆ぜ始めた。
狸も太った体を重そうに動かしながら、ぼてぼてと火の前に行くと、大きく息を吸い込んだ。むくむくと体が膨れ始める。それはやがて尋常ではない大きさになり、一抱えもある岩のようになった。完全にまん丸くなった狸はころりと転げ、はち切れんばかりの腹を火に当たらせた。
「お嬢さん、立てますか」
猫がそっと囁き、先に立って焚き火に近寄った。
桃は立ち上がろうとしたが、一度座り込んでしまった足はもう力を込められない。
仕方なく、手をついて獣のように這って猫に続く。
「ほれ、遠慮のう」
狸に促され、桃はおずおずとその腹に寄り添った。
「わあ、あったかい……」
すべすべした毛皮はほんのり温かく、狸が呼吸をするたびにゆっくり上下する。
「失礼」と猫が断って、桃の膝の上で丸くなった。ぬくぬくとして柔らかい。
「とにかくお眠りよ、お姫さん。あたしたちが鬼どもが来ないよう見張っといてやるからさ」
怖いことなんて、何にもないからね。
宥めるような狐の声を聞きながら、桃はゆっくり瞼を閉じた。
「お嬢さん」
「朝だよ、お姫さん」
起こそうとする声が両側から聞こえる。
桃は目を開けようとしたが、眠気が勝ってどうにも開けられない。
「ううん……」と唸って温かい毛皮にすりよったところで、
「起きんか、娘」
狸の声がして、ぽよんと弾き飛ばされるような衝撃と共に、桃は横様に倒れ込んだ。
今何が起きたのだ? ぱちりと開いた目で見回すと、すぐ傍で三毛猫が香箱をつくって「おはようございます」と挨拶してきた。
「田主丸の旦那、腹で弾き飛ばすことはないんじゃないかえ。相手は女の子だよ」
「御主らがにゃあにゃあケンケン騒いでも起きんからじゃ」
起こし方が手ぬるいんじゃ、と言いながら、狸はふしゅーっと息を吐き出した。膨らんでいた腹がみるみる萎み、元の大きさに戻った。
「あれまあ、旦那、まだ腹が膨らんでるぞえ。ほら、ぽんぽこりん」
「これが常じゃ、ほっとけ」
狸がぽんと腹を叩くと、それは青く澄み渡った空によく響いた。
秋の空である。
その時初めて桃は、自分がたくさんの色に囲まれていることに気付いた。
枯れ葉の茶色。
苔の緑。
紅葉の赤。
銀杏の黄色。
離れたところにぽつぽつと秋の花が咲き、木の根元には茸が二、三本顔を出している。
母さんが、秋になると世界は色刷りになるんだよと言っていたけど、こういうことだったのか。
「綺麗……」
桃が呟くと、三毛猫がひくりと耳を震わせた。
「お嬢さん、こういう景色を見るのは初めてですか?」
「うん。母さんから、外には怖いものがいるから家の外に出ちゃ駄目って言われてたから」
遠くに連なる山々を眺めることしか出来なかった。それが、今はどうだ! この色とりどりの景色!
「これが秋なんだね」
しみじみと呟くと、狸がふんと鼻を鳴らした。
「外には怖いものがいるじゃと。わしには長岡京に住んでおったという御主の方が恐ろしいわい」
「そうそう、あたしも気になってたんだよ」
狐も話に参加してきた。
「教えておくれよ。お姫さん、何者だい?」
「私は……」
答えようとした矢先、くるるる、きゅう、と音がした。
真っ赤になる桃の横で、猫がふふっと笑った。
「お嬢さんはお腹が空いていなさるようだ」
「そういえばそんな時間だねえ」
「話は朝飯を食いながらじゃの」
よいせ、と三匹は立ち上がる。桃も慌てて立ったが、ふと聞きそびれていたことを思い出した。
「あの……ここはどこなの?」
昨夜は闇雲に走っていたから、どこにたどり着いたのかさっぱりわからない。
そう言うと、狐がくくっと笑いながら歩き出した。
「ここはね、ふふふ、ついておいで」
謎めかす狐についていく。厚く積もった枯葉が鳴り、空気はきりりと冷えている。
しかし、桃はその中に、ざわめきのようなものを聞いた。
そして、色んなものが入り混じった匂い。これは……。
「さあ、ついた」
気づけば林を抜けていて、三匹と桃の前には、大きな門がそびえていた。
「でっかいだろう? 羅城門っていうのさ」
「ここが桃源京の入口じゃ」
ざわめきと匂いは、ここから流れ出しているようだ。
この向こうに、見たこともない世界が広がっているのかと思うと、緊張で喉が乾く。
手を胸の前で握り合わせると、三毛猫が二股の尾を揺らめかせた。
「大丈夫ですよ、お嬢さん。気後れすることはない」
私達がついていますから。そう言うと、三毛猫はぽんと空中に跳ね上がり、くるっと一回転して、地に降り立った時にはもう猫の姿は消えていた。
そこにいたのは、一人の男だった。
立ち上がると、背が高い。髪の毛は黒だったが、所々に茶や、日に当たると白に見える毛が混じっているのは三毛猫の柄の名残だろうか。
目は日光を反射して不思議に煌めいていて、やはりそれも猫を思わせたが、桃はそれ以上見つめていられなくて視線を逸らした。
何故って、格好いいのだ。
もじもじと視線をさまよわせていると、目ざとく見つけた狐がからかった。
「あらあ、お姫さん照れてるよ」
ぱっと頬を染めてうつむいた桃の隣で、狸がフンと言った。
「これだから若いのは困るんじゃ。どうせならわしのように化けい」
狸は傍らに落ちていた枯葉を拾うと、ぺたりと額に貼り付け、何やら南無南無と唱えた。
ぼむっと足元から煙が湧き、桃が咳き込んでいる間に、狸は煙の中からのっそりと這い出てきた。
法衣をまとい、数珠を手にした禿頭の姿はまさしく僧侶である。目元が隈のように黒ずんでいるのは元が狸だからか。
狐がつまらなそうにケッと吐き捨てた。
「何だい、そんな太鼓腹な坊さんなんて、見てるこっちが胸焼けするよ」
「黙らっしゃい。僧侶なら皆に手を合わせてもらえ、お布施も募ることも出来るんじゃぞ。一石二鳥じゃ」
「ふん、あんたみたいな胡散臭い坊主に誰が施すもんかね。ドブにでも捨てたほうがまだマシだよ。ねえ、お姫さんだってこんなのより――」
狐の体が青白い炎に包まれ、ぱしんと爆ぜると、立っているのは何とも艶やかな姐さんだった。
「こういう目の保養になる姿のほうがいいだろう?」
豊かな髪を背中に流し、切れ長の目で色っぽい視線を投げかけてくる。着物の胸元は大きく開けられていて、ふっくら白い胸乳が見えた。
「何じゃい、けばけばしい格好しおって」
「負け惜しみかえ。旦那の年じゃ女に化けても姥桜にしかならないんだろ」
いがみ合い始めた二人に、桃は慌てて仲裁に入った。
「あの、二人とも素敵だよ。えっと、稲荷さんに……田主丸さん」
途端に狐の稲荷が相好を崩した。
「稲荷さん、だって。さん付けで呼ばれたのなんて初めてだよう」
身をくねらせる稲荷の横で、狸の田主丸もまんざらでもなさそうに腹をさすっている。
「あ、もちろんあなたも素敵だと思う……えっと……猫さん」
「ダメだよお姫さん、御猫様って言わなくちゃ」
「御猫様」
にやにや笑う稲荷の言葉を素直に繰り返した桃に、猫はにっこり笑いかけた。
「どうぞ、富来(とぎ)とお呼びください」
以後お見知りおきを、と頭を下げられ、桃も慌ててお辞儀をした。
「あ、私は桃です。よろしく」
「桃か。良い名じゃないかえ。さあさ、朝ご飯を食べにいこうよ」
稲荷が元気に言って、門の敷居を超えた。田主丸も後に続く。
富来は桃の手を取って、優しく引いて誘った。
一歩、二歩、門に近づく。息を吸って、止めて、えいっと門の中へ飛び込んだ。
「ようこそ、桃源京へ!」
稲荷が手を広げて歓迎した。
門から一歩踏み出すと、そこには一本の大きな路が伸びていた。その幅といったらとてつもなく広い。右から左へかけっこしたら、大人でも息が上がるだろう。
その広い路が、奥までずっと続いている。
「朱雀大路っていうんだよ、お姫さん」
軽い足取りで歩く稲荷が教えてくれた。
「そして路の先に朱雀門があって、その中に内裏がある。帝がおわす所じゃ。三条大路から先は検非違使どもがうようよしとるから、不用意に近づくでないぞ」
田主丸の説明に首を傾げた桃に、富来が補足した。
「この都、桃源京は四角い形をしていて、そこに縦横、網目状の道が作られているのです。横の大きな路には一条、二条、三条と順番に名前が付いていて、二条大路から先に内裏があるのですよ」
そして検非違使とは、都を守る役人のことですと富来が言うのを、桃は頭に地図を描きながら聞いていたが、
「その検非違使も鬼にはかなわないけどさ」
という稲荷の言葉に、ふと眉をひそめた。
桃源京。
帝がおわす、人々が住む、華やかな都。
しかし、その都を脅かすものが一つあった。
鬼である。
鬼といっても、虎柄の腰巻をつけて般若のような形相をし、金棒を振り回すものではない。それは絵巻物の中の話だ。
実際の鬼は、人と外見はそう変わらない。ただ一つ違うのは、角が生えていることだ。
赤い角、青い角、黒い角……。色も形も様々だが、二本の角が、額の両端から生えているのである。
「おっそろしいよねえ、あたしなんかあの角を見ただけで震えが来ちまうよ」
「しかし、妙なもんじゃのう。元は人間だった奴らも、角一つで人成らざるものに変わるんじゃから」
そう、鬼は元々、人間なのだ。
堪えきれない恨みを、耐え切れない苦痛を心に抱ききれなくなった時、人は鬼となる。
そして、どす黒い衝動に身を任せ、人を襲い肉を貪り、骨を噛み砕く。
人ならざるものが、人を食うようになるのである。
稲荷は足元の小石を蹴飛ばした。
「ケッ、あたしはそういうのが大っ嫌いさ。いくらひどい目にあったからって、それを他人で憂さ晴らししようってのは筋違いじゃないかえ」
桃は俯いた。そう、筋違いだ。けれど頭では解っていても、心が晴れることはない。
泥のように恨みつらみが腹の中に溜まっていって、どうしても吐き出せない。だからこそ、鬼が人に戻ることはないのだ。
富来も同じことを考えたのか、繋いだままの桃の手を優しく揺さぶりながら言った。
「けれど、それでも恨みを消せないのが鬼というものでしょう。でなければあれだけ長岡京に鬼が蔓延ることはなかったし、都を明け渡す事もなかったはずだ」
長岡京とは、桃源京の前の都である。時の帝が作り上げたはいいものの、十年という短さで桃源京へと移る憂き目にあった。
何故かといえば、鬼が都中に溢れかえり、毎日のように人が食われるようになったからである。
その凄まじさは正に鬼哭啾啾、ついに人々は長岡京を捨て、新しい都、桃源京を作り、そこへ逃げたのだ。
「じゃが、明け渡したところで桃源京はまた鬼に狙われておる。昔と何も変わっとらん」
田主丸は太鼓腹を波打たせてため息をつくと、「それ、ついたぞい」と路の脇を示した。
見ると、路の脇に茣蓙(ござ)や筵(むしろ)を敷いて商売をしている人々がいた。
壺や皿を売っている者がいれば、櫛や簪を並べている者もいる。
あちらは魚、こちらは瓜、着物に鏡に太刀まで、ここでは何でも揃っているようだ。
きょろきょろと辺りを見回していた桃は、「こちらですよ」と富来に促されて、茣蓙にあぐらをかいている男の前に立った。
男の傍らに、火にかけられている鍋が二つあり、何かがくつくつ煮えている。
湯気がほわんと桃の鼻をくすぐった。いい匂い。米だ。
腹はぐうと鳴ったが、桃はちょっと困った顔をして三匹に囁いた。
「あの……私、お金がないの」
何も持たずに逃げてきたので、懐はすっからかんなのである。
しかし稲荷と田主丸はあっけらかんと言った。
「安心おしよ、あたしも持ってないから」
「無論、わしもじゃ」
それでどう安心しろというのだ。
困惑して富来の顔を見ても、笑うだけで答えてくれない。
「いいかえ、お姫さん。銭がないときはこうするのさ」
にんまり笑う稲荷の隣で、田主丸が数枚の木の葉を取り出した。
茣蓙の男に見えないよう手で挟み、むにゃむにゃと呪文を唱えて開くと、手のひらには数枚の銅銭が光っていた。
こういうのって、ずるいんじゃないかな……。桃は思ったが、田主丸が銭と引き換えに椀をもらってくると、結局は空腹に軍配があがった。
椀を受け取ると、粥のようなものが半分ほど入っていた。そっと啜ると、ほんのり塩味が口に広がる。
「いつもながら水っぽい飯じゃのう」
ぶつくさ言いながら椀を傾ける田主丸。稲荷は近くの魚売から、干した小魚を色仕掛けで値切って買ってきた。富来はその中から大ぶりの魚を桃に譲ってくれた。
往来の脇で、立ったまま食べる朝ご飯。
「お嬢さん、笑っていなさる」
富来に指摘されて初めて、桃は自分が微笑んでいるのに気付いた。
昨夜、もう二度と笑えないだろうと思うほどの経験をしたのに。
自分でもびっくりして、目をぱちくりさせていると、稲荷が手を打って喜んだ。
「お姫さんがやっと笑った。そうやって笑ってるほうが可愛いよ。女は愛嬌がなきゃね」
「じゃが稲荷のようにちゃらちゃら愛想を振りまきすぎるのも考えものじゃぞ」
「やかましいわ、この古狸め」
くすくす笑いながら、桃はみんなの椀を集めて返しに行った。
「ああ、いい具合に晴れてるねえ。少し歩こうよ」
稲荷の提案で、三匹と一人はぶらぶらと朱雀大路を歩き出した。
この時間帯になっても、人々は忙しなく行き交っている。何の当てもなしにぶらついているのは自分達だけのようだった。
「人ってのは忙しいねえ。いつでもあくせく働いて」
「わしらとは大違いじゃのう」
「三人とも、いつもこうして散歩してるの?」
桃が訊くと、三者三様に頷いた。
「たまにばらけたりするけどね。大概は一緒だねえ」
「三匹で山に入ったりもするんじゃ」
「今の季節だと茸がよく見つかるよ」
「栗もあるのう」
「川には鮎もいますよ」
「食べるものばっかりだね」
ほぼ一日中、食べ物を探して回っているのか。桃が呆れて呟くと、田主丸が片眉を上げた。
「食べねば生きていけんからな。言い換えれば、食べることさえできれば他のことなんぞどうでもいいわい」
「人間みたいに金とか出世とか、そんなことに関わってたら身がもたないよ」
「人間は何が楽しくてあんなに動き回るんじゃ?」
人ってのは解らないねえ、と頷き合う二匹を見ながら、富来がぽつんと呟いた。
「食うに追われていては仕事にも身が入らないだろうに。最早、食うために働いているのか、働くために食うのか本人達にも判りますまい」
そう思いませんか、お嬢さん。
訊かれて、桃は考え込んだ。
「うん……でも、やれる事があるっていうのは、すごく良い事だと思う」
私は、あの人たちが羨ましい。
往来を行き交う人々を見ながらそう言うと、三匹が桃に注目した。
「私には、長岡京で出来ることなんか何も無かったから」
朝の光を避け、昼は息を殺し、夜の陰に隠れて、今まで生きてきた。
こうして日の下を歩くなど、桃にとっては奇跡に等しかった。
「そのお話、聞かせていただいても?」
富来に促され、桃はぽつぽつと語り始めた。
桃は十四歳である。
日を避けて生きてきたせいか、体は小柄で色白、年相応には見えないが、頬は子供らしくふっくらとして、大きな目が愛らしい。
膝までしか丈がない着物は、ずっと前から着ているせいで継ぎがあたりくたびれてしまっているが、それがまた桃の愛らしさを引き立てているようでもあった。
けれども、桃のことを可愛いと褒めてくれるのは母一人しかいなかった。
鬼が占領した長岡京で、桃は母と二人、隠れ住んでいたからである。
長岡京の隅っこのあばら家に、親子は住んでいた。
鬼の都といっても、昼日中は静かなものである。
往来に人影は無く、皆、家の中にこもって外には出てこない。
どうしてこんなに静かなの。桃は小さい頃、そう母に訊いてみたことがある。
すると母は、桃の着物を繕っていた手を止めて言った。
――みんな寝ているの。鬼が動くのは夜と相場が決まっているからね。みんな、お天道様が出ているうちは夢を見ているの。
何の夢? 重ねて問うと、母の持つ針が、あばら家の隙間から差し込む光に反射してぎらついた。
――人間だった頃の夢よ。
母の声は小さかったので、桃は側ににじり寄った。
――人間として生きていた頃の、華やかで辛い日々を夢見ているの。そしてね、夜になっても、その辛い夢を忘れることが出来なくて、鬼は暴れだすの。
そう説明してくれる母の顔。その額の両端に、骨のように白い角が二本、昼の光に照らされていた。
「え? お姫さんのおっ母(か)さんは鬼だったのかい?」
稲荷が眉をひそめて訊き返した。田主丸はううむと唸って考え込んでいる。富来は黙って桃を見つめていた。
「となると、御主は……」
田主丸は考え考え、口を開いた。
「御主は、鬼子なのか?」
鬼子というのは、産まれた時から角が生えている赤ん坊のことである。
母親が強い恨みを持ったまま子を産むと、その恨みが子に下って、その子は鬼として生を受けることがあるのだ。
鬼子は幼い頃より生肉を好み、動物を殺し、長じれば人を食うようになるため、産まれた瞬間に産婆の手であの世へ返されるのが慣例である。
〽親の因果が子に報い、人を恨めや鬼の子よ……という、都で歌われる戯れ歌もあるほどである。
桃は額に手をやって、前髪をかき分けてみせた。
「私は鬼じゃないの。角があったのは母さんだけ」
手が力なく落ち、体の脇で揺れる。
そう、鬼だったのは母さんだけ。恨み、嫉み、妬み、それら全部を自身の中に押しとどめ、娘の体には何一つ下さなかった。
けれど。
「……母さんが鬼になったのは、私のせい」
まだ昼にもなっていないのに、桃は目の前が暗くなってきたように感じた。路にくっきりと落ちる影を見ながら、小さく言う。
「母さんは若い頃、鬼に襲われたことがあるんだって。……その時に出来たのが、私なんだって」
三匹が息を飲んだ。
「随分前に、どうしても外に出たいって、ごねたことがあるの。そしたら、母さんが教えてくれた」
――外に出ては駄目。お前も鬼になるかもしれないんだから。
富来がゆっくりと言った。
「ああ、だからお嬢さんの御母堂様は、外には怖いものがいる、と言っていたんですね」
食われるより尚、恐ろしいことを、身をもって体験していたからか。
「で、でもねえ」
稲荷が取りなすように言った。
「お嬢さんのおっ母さんが鬼になったのは、襲った鬼が悪いんであって、お姫さんのせいじゃないさ」
「……違う」
桃は首を振った。違う。私のせいだ。
「私を、鬼のせいで出来た子を身ごもったせいで、母さんは桃源京にいられなくなった。私を産んでからは、私の顔を見るたびに昔のことを思い出させてたの。きっとそうなの」
だから。
「角が生えてなくても、私は鬼の子供なんだ。私が出来ちゃったから、母さんは恨みを忘れることが出来なくなって、鬼になっちゃったんだ。……私なんか」
私なんか、産まれてこなければ良かった。
いつの間にか、一行の足は止まっていた。
立ち尽くしたまま、桃は俯いて呟いた。
「……私、ここにいちゃいけないのかもしれない」
ここは人の住む都だ。自分のような、鬼の都に住んでいたものがいていい訳がない。
「私……」
帰る、と言いかけた桃の口を、富来がそっと人差し指で押さえて止めた。
「お嬢さんの居場所はここですよ。あの恐ろしい鬼の都ではない」
だって、お嬢さんは人間じゃないですか。
富来の言葉に、稲荷と田主丸も頷いた。
「お姫さんみたいに可愛い子は人間以外の何者でもないよう」
「御主は自分を罪深く思っておるようじゃが、御主が罪人ならこの世に善人などおらぬわい」
富来は口を押さえていた指で、そっと桃の頬を撫でた。
「御母堂様は、お嬢さんに昔の思い出を重ねていたなんてこと、無かったと思いますよ」
「……どうして解るの?」
「もしお嬢さんの顔を見るのも嫌だったら、わざわざ一緒に住んだりはしませんよ。産まれたお嬢さんを桃源京に置き去りにするなり何なりして、一人で長岡京に行くはずだ」
「そうさ、おっ母さんはお姫さんと離れるのが嫌だったんだよ。だから二人で長岡京に隠れたんだ」
「親の情に勝るものはこの世に無いからのう。鬼からの仕打ちを忘れられずとも、御主を恨むことは無かったのじゃろうて」
御主が鬼子として産まれてこなかったのが、全てを物語っておる。
三匹の言葉に、桃は瞬きをした。鼻の奥がつんとして、泣きそうになる。
泣いちゃ駄目、桃。昨日と同じように己に言い聞かせ、ちょっと鼻をすすって口を開く。
「私……ここにいてもいいの?」
三匹は破顔した。
「良いに決まってるよう」
「御主の居場所はここじゃ。他のどこでもないわい」
「まだ一晩の付き合いですが、お嬢さんとは仲良くなれそうな気がするんです」
ここにいてください。私達と一緒に。
差し出された手を、桃は笑って受け取った。その拍子に、涙の切れ端がほろりと頬を転げ落ちた。
右手を稲荷と、左手を富来とつないだまま、また路を歩き始める。
「ほれ、もう少し先が三条大路じゃ」
先導して歩く田主丸が、指して教えてくれる。
見回してみれば、太刀を腰に佩いた者達が、ちらほらと増え始めていた。
しかし、検非違使たち以上に、民衆の数のほうが多かった。といっても、道々歩いていた時に見かけた、仕事に向かう人々ではない。
皆、押し黙って何かを待っているようであった。中には、細い紙切れや数珠を手に持って、一心に念仏らしきものを唱えている者もいる。
風変わりな光景に桃が首を傾げていると、田主丸が立ち止まって「しもうた」と呟いた。
「今日は、奴が出仕する日じゃったか」
「あちゃー」
稲荷が顔をしかめて空を振り仰いだ。
「うっかりしてたよ。お姫さん、帰ろう」
二匹はそそくさと踵を返そうとしたが、やおら民衆がわあっと歓声を上げたので足を止めた。
「もう遅いようですよ。来ています」
富来が桃の手を握っていない方の手で指し示した先に、一人の男がやってきていた。
真っ黒な出で立ちの男である。髪も着物も、手に持っている数珠も、全てが黒い。影法師のような人物だった。
男がにっこり笑いかけながら歩み寄ると、民衆は一度に押し寄せて男を取り囲んだ。
「御行(みゆき)様!」
口々にそう叫ばれて、男は一層笑みを深くしながら、手をあげてそれに応えた。
「みゆき?」
あの人は誰? 騒がしくて口で言っても聞こえないだろうと思ったので、桃が目で問いかけると、富来が耳元に口を寄せてきた。あんまり近いので、桃は一瞬どきりとしたが、稲荷が面白そうな顔で見下ろしてきたので、何でもない表情を作ろうと頑張った。
「あの方は、方相(ほうそう)氏(し)である御行殿ですよ」
「方相氏って?」
「方相氏ってのはね、お姫さん」
稲荷も屈んで、そっと耳打ちした。
「鬼を祓う仕事をする奴のことさ。そう、鬼やらいって知ってるかい?」
桃が首を振ると、田主丸も――腹が大きいので相当苦労して――屈んできた。
「鬼やらいとはの、鬼祓いの儀式の名じゃ。追儺(ついな)ともいっての。桃の木で出来た弓と、葦の矢を持ち、黄金に塗られた四ツ目の仮面を被って、鬼を追い払うんじゃ」
「人が鬼と戦うの?」
目を見開いた桃に、三匹は神妙に頷いた。
「鬼に効くとされる祭文や呪文、札があっての。それらを民衆に教えたりもする」
それ、と田主丸が顎をしゃくった先では、御行を取り囲む人々が、手に手に札や数珠を差し出して礼を述べていた。
「御行様、ありがとうごぜえます」
「貴方様のお陰で、鬼に襲われずに済みました」
「どうか私にも鬼祓いの呪文をお教えください」
御行様、御行様――。
口々に名を叫び、中には涙ぐんで礼を言う人々の顔を、御行はにこやかに見回していたが、ふと桃と三匹に目を留めた。
「あ、いかん」
「あいつに捕まると面倒くさいんだよ」
思いっきり嫌そうな声を出した田主丸と稲荷の前に、御行が近寄ってくる。
桃は何故かしら胸がざわついて、こっそり富来の後ろに隠れた。
「おはよう、お狐様、お狸様」
御行はにこやかに、しかしどこか嘲っているような口ぶりで挨拶してきた。
何だろう、この人は。桃はちょっぴり顔を覗かせた。
まだ若い人なのに、ただならない雰囲気をまとっている。笑顔の下に、何か別の表情があるような気がする。
何だか怖い。もう一度富来の後ろに隠れようとすると、その前に、
「御猫様におかれましては、ご機嫌麗しく」
と、わざとらしい程に丁寧な挨拶が投げかけられた。
「御行殿」
富来はそれだけ言って、少し頭を下げた。稲荷と田主丸は渋面をつくって黙っている。
「珍しいですね。ここいらでは滅多に会わないのにね」
「野暮用ですよ」
「へえ?」
御行は片眉を上げると、ゆっくり富来の後ろを覗き込んだ。
「野暮用というのは、このお嬢さんのことかな」
富来の袖に掴まりながら、桃はおずおずと「初めまして……」と言った。
「初めまして。しかし、娘さんのような子供が、夜に長岡京からここまで逃げおおせてくるとはねえ。夜目の利くこと、まるで鬼の如しだ」
はっと桃が顔を上げると、御行も桃を見つめていた。
「……ご存知なんですか? この子のことを」
桃を背中に庇いつつ富来が問うと、御行は口の端を吊り上げて笑った。
「神威(かむい)が教えてくれてね。昨夜、長岡京から一人、桃源京の近くまで逃げ込んできた者がいるとね……」
御行が振り返ると、人垣の間から、獣が一匹姿を現した。
狼だ。大きい。後ろ足で立ち上がったら、大人の男と同じくらいの体長になるだろう。
鼻面から尻尾の先まで銀色の毛が光っているところを見ると、相当な年なのかもしれない。口元から覗く牙は白く尖っていて、かぶりつかれたら、ひとたまりもなかろうと思われた。
狼は喉の奥で唸りながら、御行の傍らに立った。三匹と違って話せないのか話す気がないのか、じっと桃を睨めつけている。
「なんだい、何か文句あんのかい」
稲荷が噛み付いた。
「あんたが知らせただって。どうせいつもみたく影からこっそり覗いてたんだろ。だったらお姫さんが逃げてきたとき、助けに入っても良かったんじゃないのかえ。飼い主にご注進するだけして後は見てるだけなんて、狼の名が聞いてあきれるわ」
まくしたてる稲荷の言葉を聞いているのかいないのか、神威は尚も桃を睨みつけていたが、やがてのそりと路を歩き出した。
「失礼、もう行かなくては。娘さん、今度またゆっくり話そう」
ね、と首を傾げて笑いかけ、御行は神威の後を追っていった。人々が神妙に頭を下げて見送る。
「行こうよ、お姫さん」
憤慨した稲荷がくるりと踵を返して、ずんずん歩き出す。
一行は元来た路を戻りながら、今しがたのことについて話しだした。といっても、ほぼ稲荷が一人で文句を言うことが多かったが。
「頭にくるよ。神威のあの目を見たかい? あたしらと口も利かずに見下してさ」
「あの狼さんとあなたたちは仲が悪いの?」
早足の稲荷に追いつこうと駆け足になりながら、桃は訪ねた。
「あいつと仲良くしようなんざ思わないよ。神威はね、御行の鬼やらいの手伝いをしてるんだよ。鬼を噛み殺して人を助けて、そのせいで自分は他の獣より偉いと思ってやがる。いつも夜は都の外を巡回してて、鬼がいたら飼い主に知らせるのさ。でもあたしら獣には何の忠告もなし。なんだい、自分だって元は負け犬のくせに偉ぶるんじゃないよ」
「負け犬って……」
そんな弱そうには見えなかったがと首をひねると、やや遅れ気味の田主丸が後ろから答えた。
「奴は元々、北の生まれでのう。そこで狼同士の縄張り争いに敗れて、ここまで逃げてきたらしい……無口な奴で自分のことはあまり話さんから、詳しいことは解らんが。それより稲荷、もうちっとゆっくり歩け。ついていくのに一苦労じゃわ」
ふうふう言いながらやっとこさ追いついた田主丸が文句を言うと、稲荷は口をとんがらせながら歩調を緩めた。
桃もふうと一息ついたが、ふと隣を歩く富来が黙りこくっているのに気がついた。宙を見つめて、物思いに耽っている。
「富来さん? どうしたの」
桃が顔を覗き込むと、一瞬間を置いて微笑んできた。
「考えていたんです。御行殿がお嬢さんに興味を示したことを」
「あの人……私のことを鬼みたいだって言ってた」
――夜目の利くこと、まるで鬼の如しだ。
「あの人、私のことを鬼だと疑ってるのかな」
稲荷がフンと鼻を鳴らした。
「お姫さんみたいに可愛い鬼がいるもんかね」
桃は稲荷にちょっと微笑んだ。富来が頭を撫でてくる。
「大丈夫ですよ。御行殿はからかっただけでしょう」
「奴は人を食った性格をしとるからのう。やれやれ、やっと着いたわ」
羅城門まで戻ってきたところで、田主丸が疲れた声を出して煙に包まれた。
「ああ、しんど。朝から化けると疲れるわ」
「やっぱり年じゃないかえ、旦那」
稲荷も青白い炎と共に、元の狐の姿に戻った。富来はと見ると、いつのまにか変化を解いて、桃の足元に行儀よく座っていた。
「ああ、気分がくさくさする。気晴らしに山にでも行こうよ」
三本の尾を揺らしながら、稲荷がぴょんと門の敷居を飛び越えていった。
「元気じゃのう、若いもんは……」
太い尾を大儀そうに振って、よっこいせ、と田主丸も門を潜る。
「行きましょう、お嬢さん」
二股の尾が、そろりと桃の足首を撫でていく。桃は振り返って路を見つめた。
人の住む都、桃源京。
私の居場所。
桃はにっこりして、三匹の後を追った。
「ほーら。どうだい、お姫さん。見事なもんだろ」
色の洪水の中を歩きながら、稲荷が弾んだ声を出した。
桃源京を見下ろせる山の上である。
道々、三匹は山のあれこれを教えてくれた。
あそこには川がある。綺麗な水だから飲むといい。茶色い茸は食べてもいいが、赤い茸は腹を下すから口をつけるな。洞穴には熊がいるから近づかないこと。あの柿の木は渋柿だけれど、鳥に見つからない所に吊るして干し柿を作っているから、その場所も教えてあげる。
色々を頭に叩き込みながら、桃は胸いっぱいに息を吸い込んだ。
今にも滴り落ちてきそうな程、色の濃い紅葉の赤。
銀杏は辺り一面に落葉して、地面を金色に染めている。
落ちた葉は腐って地面と混じり、独特の土臭さを発散させていた。
この匂いは嫌いじゃない。山そのものの匂いなのだと、何度目かの深呼吸をした時、目の前がぱっと開けた。
それが今、桃が立っている崖の上である。
そっと下を覗き込むと、おもわずくらっとするほど高かったけれど、その分眼前に広がる桃源京がよく見えた。
「大きいんだね、桃源京って……」
感慨深く呟くと、いつのまにか取ってきていた干し柿を一枚ずつ配りながら、稲荷が我が物顔で自慢した。
「そりゃあ、鬼を入れさせないために色々と工夫を凝らしてるもの。規模がでかくもなるやね」
「工夫って、どんな?」
干し柿をかじりつつ訊くと、稲荷は得意げに胸を反らした。
「桃源京はね、四神に守られてんのさ。北の玄武、東の青龍、西の白虎、南の朱雀。この四匹の神獣の加護を受けられるように、桃源京は作られてんのさ。解るかい?」
「うーん……?」
桃が曖昧に唸ると、「つまりじゃな」と田主丸が都を指し示した。
「鬼から守るために、都の四方に四神にちなんだものが配置されるような場所を選んで、桃源京は建てられたんじゃ。玄武は北の山に棲み、青龍は東の川に棲む。西の大道には白虎が、南の大きな池には朱雀が……という具合にな。それになぞらえて、桃源京は山、川、道、池に囲まれておる。ほれ」」
見てみい、と言われた先には、確かにそれら四つのものが都を取り囲んでいた。
「じゃあ、鬼は桃源京に入ってこられないの?」
「いや、何事も弱点というものはあるもんじゃ」
やれやれと首を振った田主丸の言葉を、富来が引き継いだ。
「弱点というのは方角のことなんですよ。艮(うしとら)の方角は、聖獣の守護が弱まるんです。鬼門ともいいますが」
「なら、鬼はそこから入ってくるの?」
「大方はそこから入ろうとしますが、都の艮には御行殿の屋敷があって、彼が守っていますから」
「じゃあ安心だね。――ん?」
待てよ、では何故、桃源京の人々は鬼に怯えているのだ?
「その四神の呪いが効かない鬼もいるんだよ。よっぽど強い恨みを抱えている鬼は、都のどこからでも入ることが出来るのさ」
稲荷が食べ終わった干し柿のヘタを青い炎で燃しながら言った。
「都を丸ごと守護するなんぞ大それたことをしたはいいが、結局は上手の手から水が漏るじゃ。人の手で何かを完璧に成し遂げようなんざ無理なのかもしれんな」
ぽいとヘタを放りつつ、田主丸がため息をついた。
桃は、口の中の干し柿が急に苦く感じられた。
桃源京は、まるで箱庭のようだ。鬼の蔓延る土地にぽつんと置かれた、仮りそめの平和。
「さあ、大体そんなとこさ。解ったかい、お姫さん」
「何で御主が威張るんじゃ。要の部分を説明したのはわしじゃろうが」
「そっちこそ説明の殆どは富来の兄さんの受け売りじゃないかえ。大きな顔をおしでないよ」
「それはそっちも同じじゃろうが」
毛を膨らませていがみ合う二匹に構わず、行儀よく柿をかじっている富来に目を落とす。
「富来さんは、都のことに詳しいの?」
「こう見えて、お嬢さんの何倍も生きていますから」
あの二匹もそうですがね。富来は鼻の頭をぺろりと舐めて、ヘタを地面に埋め始めた。
「富来さんも誰かに都のことを教えてもらったの?」
「そうですよ。遠い……遠い昔にね」
富来は一瞬手を止めて、宙を見つめた。その目には、懐かしそうな寂しそうな、奇妙な色が宿っていた。
「お姫さん、寒くはないかえ」
夜になった。都に山にと歩き回ったせいで、桃の足はくたくたになっていた。
木の根元に座った桃の膝の上に、富来が丸くなる。
「富来さんは膝の上が好きなの?」
「お嬢さんの足が冷えるといけないと思いまして」
すました顔でそう言って、もぞもぞと向きを変える。温かいけれど、ちょっとくすぐったい。
今夜も田主丸が腹を膨らませ、桃はそれに寄り添った。
「おやすみなさい」
目を閉じると、不思議なことに、目を開けている時よりも辺りが騒がしくなったようだった。
風の吹き抜ける音。木の葉のざわめき。遠い川のせせらぎ。
しんと冷えた夜の中に、いくつもの音が混じっている。
とろとろと眠気に引き込まれかけた時、桃はふと目を開けた。
高い音がした。口笛のような、長く高い音。
同じ音を、昨夜も聞いた……桃は背筋を伸ばして闇を見つめた。
この場所に逃げてきた時、風が泣いていた。女の悲鳴のように――。
桃は知らず知らず、手を胸の前で握り合わせていた。
「母さん……」
その呟きが聞こえたのか、丸くなっていた富来が顔を上げた。
「風が鳴っているんですよ、お嬢さん」
「うん……」
尚も闇を見つめる桃に、富来は体を起こして慰めた。
「大丈夫、皆ここにいますよ。鬼共が来たら、私が追い払ってあげます」
さあ、もうお眠りなさい。優しく諭されて、桃はまた田主丸の腹に体を預けた。
しかし、目は開けていた。その目には、小さな決意の色が浮かんでいた。
「お嬢さん、どこへ行くのかえ」
朝。起きた途端、山を駆け下り始めた桃を追いかけて、三匹は口々に問うた。
「朝飯も食わんと、そんなに急ぐ用なのか?」
「一体どこに行くんです」
桃は前を見たまま、きっぱり言った。
「家に戻るの」
えっ、と三匹が絶句するのを尻目に、桃はきょろきょろと辺りを見回した。長岡京はどっちの方角だったっけ?
「家って、長岡京にかい?」
「無茶じゃ、鬼に食われるぞ」
「理由を聞かせてください」
足元を三匹に囲まれ、桃は足を止めた。
「母さんの骨を拾ってあげたいの」
拳を握り締める。
「母さんをあのままにしておけない。骨を拾って、お墓を作ってあげたいの。そうしなきゃ母さんは浮かばれない」
鬼として生きてきて、死んだ後は野晒し。そんな仕打ち、あんまりじゃないか。
「昼間までなら、鬼も動かないもの。夕方までにこっちに帰ってこられれば……」
「無茶だよ、お姫さん!」
稲荷が悲鳴のような声を上げた。
「朝方とはいえ、鬼の棲家に行くなんて自殺しにいくようなもんだよ!」
「気持ちは解るが、賛成は出来ん」
「いいの、貴方たちまで巻き込めないから、私一人で行く」
断固とした口調の桃を、稲荷と田主丸はおろおろと見上げていたが、富来は丸い目で桃を見つめていた。
「どうしても行くのですか、お嬢さん」
静かに問われて、桃ははっきり頷いた。
「そう。なら止めても無駄ですね」
「ちょいと、富来の兄さん!」
「納得してどうするんじゃ」
詰め寄る二匹を前足で押しとどめつつ、富来は桃を振り仰いだ。
「お嬢さんの決心は変わらないようだ。やらせてあげたらどうです」
その代わり、と一本、爪を出す。
「私も同行します。お嬢さん一人で行かせるのは不安ですしね」
「ついてきてくれるの?」
「昨夜、鬼が来たら追い払ってあげると約束したでしょう?」
嘘は言いませんよ、私は。そう言う富来を、桃は抱き上げた。
「ありがとう、富来さん」
抱きすくめようとすると、富来は前足を桃の鼻面に当てて断った。
「娘さんが男を気安く抱きしめるものじゃありません」
にっこり笑って富来を下ろすと、稲荷と田主丸は困惑したように顔を見合わせていた。
「あたしも行くべきなんだろうけどさ……でもねえ……」
「わしも御免こうむりたいのう」
そう言う二匹を、無理に連れて行くことは出来まい。文字通り、命懸けで行くことになるのだから。
「ここで待ってて。必ず帰るから」
「絶対だよ、お姫さん。約束だよ」
すがるように後足で立ち上がった稲荷に、桃は微笑みかけた。
「しかしのう、行くというても丸腰ではどうにもならんじゃろ」
どうするんじゃ、と訊く田主丸に、富来は桃源京の方角を見つめながら言った。
「あの方に頼むしかありますまい」
「御行さんのお屋敷はどこにあるの?」
朝方の都の中を歩きながら、桃は訊いた。
今日も桃源京は活気に満ち溢れている。影で鬼が狙っているなんて、嘘のようだ。
「内裏から見て鬼門封じをしていますから、この路からちょっと反れますよ」
朱雀大路から外れて、若干細めの路に入る。
富来が先に立って歩き、桃は猫の歩幅を追い越さないよう、少し緩めに歩いてついていった。
「ここです」
富来が立ち止まったのは、ひび割れた塀に囲まれた一軒の屋敷だった。
「ここ……?」
都の鬼封じを引き受けているのだから、さぞや儲けているだろう、立派な屋敷に住んでいるのだろうという桃の想像は外れた。
屋敷の扉は開け放たれていて、門構えにはべたべたと「封奉」「招福猫児」「鬼祓」といった札が何枚も貼られている。
「なんだか、破れ寺みたい」
「言い得て妙ですね」
富来がひょいと中に飛び込んだのを追うと、草ぼうぼうの庭があった。
山の中をそのまま移してきたような荒れ具合だ。屋根も瓦が欠けている所が何箇所かあるし、まるで人の住んでいるとは思えなかった。
桃がふと、自分の住んでいたあばら家を思い返していると、富来がぽんと跳ねて人間の姿になった。
「お嬢さん、これから御行殿と対面します。交渉は私がしますから、お嬢さんは極力、御行殿と話をしないでください」
真剣な目つきに、桃が多少面食らいながら頷くと、富来は入口で「頼もう」と声をかけた。
「鬼のご相談に参りました」
ややあって、「はーい」と細い声がした。
女が一人、滑るように奥からやってきた。御行と同じ黒い着物を着ており、おっとりと首を傾げて、「どちら様でしょう」と囁くように訊く。
「猫が来た、と言って頂ければ解ると思います」
「猫」
繰り返すと、女はゆるりと手で奥を示した。
「お上がりください」
「御免」
富来が先に上がった。桃も草履を脱いで、富来の袖を捕まえて歩いた。
外回りの廊下を進むと、庭がよく見えた。やっぱり荒れている。隅に苔むした石灯籠が据えられていたが、趣があるというより、侘しげに見えた。床板は所々ささくれ立っていて、素足の桃はちょっと足の裏がちくちくした。
女は足音もさせずに進むと、ひと部屋の前で立ち止まった。
「こちらでお待ちください」
そっと言って、奥に引っ込んでしまう。桃が覗き込むと、へたった畳の敷かれた薄暗い部屋だった。屏風が一枚立っていて、絵柄は絵巻物に出てくるような、般若の顔をした鬼共が金棒や刀を振り回しているものだった。
悪趣味だ、と桃が眉をひそめると、富来がその手を引いて部屋に入れた。
「この部屋、怖い……」
富来が励ますように桃の背中をそっと押した。
渋々、ちんまりと座り込む。屏風の鬼と目を合わせないようにしていると、すらりと部屋の戸が開いた。
「失礼します」と声がかけられ、案内した女とは別の女が三人入ってきた。こちらもやはり黒い装束だ。
手にはそれぞれ漆塗りの膳とお櫃を持っていて、桃達の前に並べ始めた。
桃の膳には、湯気の立っている茄子(なす)と茗荷(みょうが)の味噌汁、おろし生姜の乗った豆腐、焼き魚、梅干と漬物と佃煮の小皿が乗っている。隣のお櫃には熱い白飯が入っていて、米粒が艶々と光っていた。
朝ご飯を呼ばれに来たわけではないのだが、と茶碗に盛られた飯を見て困惑していると、しゃもじを持った女が口を開いた。
「雑炊の方が良うございましたか。他にも、秋の山菜を混ぜ込んだ山菜飯、麦飯、粟飯、小豆飯に干飯、米を蒸した湯取飯と、米粒を砕いた引割飯もございますよ」
歌うように次々と言われ、桃は慌てて「いえ、いただきます」と箸を持ったが、ふと富来の膳に目を留めた。
富来の前には、小さな皿に干し魚が一匹乗っているだけである。
箸を止めた桃に構わず、女たちは立ち上がって去っていった。
しんと静かになったところで、桃は二つの膳を見比べ、茶碗を富来へ差し出した。
「半分食べる?」
「お気遣いどうも。ですが、それはお嬢さんがおあがりなさい」
桃はちょっと気まずい思いで箸を使いだした。味は悪くないのに、どうにも美味しいと思えない。
富来は魚には手を付けずに、目を閉じてじっとしている。
静かだ。少なくともこの屋敷には、さっきの手伝いの女性たちがいるはずなのに、人の気配がまるで感じられない。
落ち着かない気持ちで黙々と食べていると、どこか遠くの方で床が軋んだ。
ぎっ、ぎっ、と板がたわみ、とととと、と元に戻る音。
近づいてくる。
桃が箸を置くと同時に、「失礼」と声が掛かって、影法師のような御行が入ってきた。
富来がゆっくり目を開ける。影と猫は一瞬、真顔で見つめ合ったが、先に微笑みかけたのは御行の方だった。
「朝早くから申し訳ありません」
「何の、お気になさらず」
にこやかに言って、御行は腰を下ろした。
「お嬢さん、朝餉(あさげ)はもう召し上がったかな」
「あ、はい、ご馳走様でした」
「お粗末さまでした」
桃が頭を下げるのに頷きつつ、御行は富来の膳をちらりと見た。手つかずの魚に片眉を上げ、にんまりと笑う。
「さて、今日はどんな用件かな。御猫様が私を頼るなんて滅多にないのにね」
楽しそうに言う御行に、富来は静かに切り出した。
「長岡京に入るための準備を手伝っていただきたい」
「長岡京に」
驚くでもなく繰り返しながら、御行は桃の方を見た。探るようなその視線に、桃はたまらず口を開いた。
「母さんの骨が長岡京にあるんです。それを取り戻したいの」
「お嬢さん」
たしなめようとした富来を、御行が素早く手で制した。
「聞かせて頂こう。娘さんだって、自分のしたい事くらい自分で言えるだろうしね」
その手にはいつの間にか数珠が握られていて、脅すようにじゃらりと鳴った。
富来は、舌打ちの寸前のような彼らしくない表情を浮かべたが、黙って引き下がった。
「さあ、娘さん」
促されて、桃は自分の生い立ちや、鬼に追われて逃げてきたことを話し始めた。
御行は桃から一度も目を離さず、熱心に聞いていたが、だんだんと口角が上がり、話し終える頃には、にやついているような表情になっていた。
「これは面白い」
感想の第一声はそれだった。富来が責めるような目で見たが、気にもせずに一人呟く。
「人から産まれた鬼子ならぬ、鬼から産まれた人の子か」
ふっと鼻で笑い、立ち上がる。
「いいだろう、助けよう。娘さん、さあこっちに」
桃も立ち上がりかけたが、富来が「お待ちを」と声をかけた。
「先に報酬のことについてお話しておきたい」
「報酬?」
部屋から出て行きかけていた御行は、首だけ振り返った。
「お二方共、正規の金は持っていないとお見受けするがね」
当たり。桃が首をすくめたのを見て、御行はくくっと笑って続けた。
「無い袖は触れないだろう。それに私は、金儲けの為に鬼やらいをやっている訳ではないのでね」
「だが人を助ける為にやっている訳でもないのでしょう」
溶けるように、御行の顔から笑みが消えた。
「貴方は欲得ずくでしか動かない方だ。私達の頼みを叶える代わりに、何を得たいのです」
「……私の願いが猫ごときに叶えられるものか」
肩ごしの御行の目は薄暗く、その瞳の奥には底知れない冷たさが宿っていた。
「他の方相氏の所に行かずにここに来たのは、この娘の生い立ちが知られれば鬼子だと疑われて何をされるか判らないからだろう。行き場が無いのならこちらの言うことに素直に頷いていればよろしい。いくら先の帝に寵愛されていた猫といえど、人間様と渡り合おうなど思い上がりも甚だしいわ」
付け上がるな、と吐き捨てて、御行は廊下の奥に消えた。
にこやかな雰囲気から一転した口調についていけず、おろおろと御行が出て行った方向と富来とを見比べる桃に、猫はふーっと息を吐いた。
「怒らせちゃったけど……」
大丈夫なのかと問う桃に、富来は力なく笑ってみせた。
「大丈夫ですよ。猫ごときに本気になるような御行殿ではない」
自嘲気味に言って、富来は立ち上がった。
「行きましょう、お嬢さん」
桃の背中を押して部屋を出る際、ふと呟く。
「一体あのお方は何を叶えたいのやら」
御行は縁側に座り、札やら瓢箪やらを並べて待っていた。
先ほどのことなど忘れたかのように笑顔を投げかけ、札を一枚手に取る。
「これは鬼を寄せ付けない守護の札。こちらは人が飲むと力が湧くが、鬼が飲めば体が痺れて動けなくなる酒、神便(じんべん)鬼(き)毒酒(どくしゅ)。それともう一つ」
御行は乾いた木の実のような物をつまみ上げた。
「桃の種。神代の昔、イザナギがイザナミに追われて黄泉の国から逃げた際、身を隠したのが桃の木。そして追っ手の黄泉軍(よもついくさ)に投げつけて気を反らさせたのが桃の実。古来より悪鬼羅刹から身を守るとされる聖なる実の種だ」
桃の手を取り、種を握らせる。ひんやり冷たい手だった。
「本当なら弓矢を持たせたいところだが、打つ練習をさせていたら日が暮れてしまう。今私に出来ることはこれだけだ」
札と種は懐に入れ、瓢箪は腰にくくりつけて、桃はぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は無事に帰って来られたら」
ね、と優しく言われ、桃は明るく顔を上げたが、続く御行の言葉に表情を凍らせた。
「しかし長岡京に乗り込もうとは大した度胸だ。理由はどうあれ、感情のままにやり抜こうとする姿勢はまるで鬼のよう」
固まった桃の方に手を置き、富来がそっと言った。
「ご支援感謝します。我々はこれで」
「お気をつけて」
御行の口元が、きゅっと吊り上がった。
「もうすぐ昼になりますね。急ぎましょう」
桃源京を出て林の中を抜けつつ、富来が言った。
桃は駆け足になりながら、ちょっと後ろを振り返った。
「御行さんて、良い人なの? 悪い人なの?」
「あの方は……」
富来は少し口ごもった。
「悪い人ではないのですよ。あの若さで鬼やらいの実力がありますしね。ただ、その実力にあぐらをかいて、たまに人をいたぶるような真似をするんです」
「それって、良くない人なんじゃ……」
富来は、この場にいない御行を哀れむような笑みを浮かべた。
「鬼やらいの為には、鬼のことを学ばなければいけません。それはつまり、人が鬼になった理由、辛い事や悲しい事を知るということです。きっとあの方は、今まで人の汚い部分を幾つも垣間見てきたのでしょう。そのせいで、人を眇めて見るようになってしまったんですよ」
――金儲けの為にこの仕事をしている訳ではないのでね。
では、何の為にしているのだ。あの男にとって、鬼やらいとは何の意味を持つのだ。
桃は何故だか急に悲しい思いに囚われて、懐に入れた札を着物の上から押さえた。
その様子を見て、富来が目を細める。
「優しいのですね、お嬢さんは」
こんな時に他人の心配かと言われた気がして、桃が「ごめんなさい」と誤ると、富来は「責めた訳ではないですよ」と手を振った。
「こんな時代です。強くなければ生きていけませんが、お嬢さんのように他人を気遣える子が一人くらいいてもいいでしょう。さ、もうすぐ長岡京ですよ」
私は優しいのだろうか。それは、この時代、この世間では命取りになるかもしれないのに。
考えつつ足を勧めていたら、不意に富来の背中に顔をぶつけた。
鼻を押さえつつ立ち止まると、いつの間にやら周りの木々が消えているのに気がついた。
目の前に、大きな門が建っている。羅城門よりも小さく、寂れて今にも崩れ落ちそうだ。
「長岡京……」
呟いた桃の声は、風と共に門の中に吸い込まれていった。
「風を飲み込んでる」
「食われないよう注意しましょう」
桃はゆっくりと足を踏み出した。何度も唾を飲み込み、手は拳に握って、門に近づく。
桃源京とは違う、と思った。羅城門からは人の匂いと、生活臭がした。けれど、この長岡京は違う。生きている者の匂いが全くしない。
「……行こう」
ぐっと顔を上げて、桃は鬼の都へと足を踏み入れた。
「ええと……角を曲がって、こう逃げたから……」
長岡京は、見かけは桃源京に似ている。四角い都に、縦横に路が走っている。
しかし周りを見渡せば、家々には蔦が絡み草が茂り、屋根は荒れ壁はひび割れ、都全体がゆっくりと朽ちていっているようだった。
そんな中を、桃は自分の家への道を探していた。
今まで家の中だけで過ごしてきたので、家の大体の位置は判っても、門からどの道を行けばいいのか皆目判らないのだ。
いつでも札を取り出せるよう、懐を押さえながら、息を殺して歩く。
曲がり角に出くわすと、まず富来が先に立って様子を伺い、誰もいないと確認してからそっと通り抜けるので、歩みは遅々として進まないが、それでもあの夜走り抜けた路を確実に辿っていく。
「こっち……だと思う、多分……」
自信なさげに言うと、富来が励ますように微笑んだ。
「まだ日が高いですから、焦らなくても大丈夫ですよ」
しかし、あまり時間をかける訳にはいかない。はやる気持ちを抑えて、もう一つ角を曲がろうとした時、
「お待ちを」
富来が鋭くささやき、桃を後ろへ追いやった。――誰かいるのだ。
桃は、心臓がすとんと腹まで落ちた気がした。一気に鳥肌が立つ。
どうしよう、回り道をするべきか。家まであと少しなのに……。
ぎゅっと歯を噛み締めて、桃もそっと角を覗いた。
路の真ん中に、女が一人立っていた。黒い艶のある髪は結んでおらず、風になぶらせている。その髪の間から、緑色の角が飛び出ていた。
ぼんやり空を見上げて、物思いに耽っているようだ。その目は左目が閉じられ、右目だけが青い空を見つめていた。
「……お姉さん?」
ぽろりと呟いた桃に、富来が目を見開いた。
「お嬢さん、知っている人ですか」
「うん。私の家の近くに住んでいたお姉さんだと思う」
桃は家から出られなかったから、この女がいつから長岡京に住み始めたかは知らない。
しかし、桃が暇な時に窓から外を覗いていると、綺麗な女性がふらりと歩いているのを、時たま見かけることがあった。
最初に目があったのは、いつだったろう。その日も桃は外を眺めていて、女が風に流されるように歩いているのを見送っていた。
不意に、女がこちらを振り向いた。桃の視線を感じたのかもしれない。慌てて隠れて、もう一度外を伺って見た時には、もう女性はいなかった。
そしてその日の夕方、戸口の前に、薄紙に包まれた菓子が置いてあった。
――あのお姉さんだ。
直感的に解った。ちょうど母がいない時だったので、桃はこっそり菓子を懐にいれて、この事は言わずにおこうと決めた。
長岡京にいる以上、あのお姉さんも鬼だ。きっとそうだ。でも良い鬼かもしれない……。
代わり映えのしない日常の中で、やっと訪れた小さな変化。桃はちょっぴり幸せな気持ちになったのだ。
「あのお姉さんなら大丈夫」
「しかし……」
渋る富来の横をするっと抜けて、桃は小さく「お姉さん」と呼んだ。
女は一拍遅れて、ふいとこちらを振り向いた。右目が驚きに見開かれる。
「あなた……」
風に紛れてしまうほど小さな声で囁く。
「あなた、無事だったの……」
「はい」
桃が近づくと、女性も風に押されるようにして歩み寄ってきた。
「てっきり、あなたも食われたのかと……」
「私は無事です。母さんは」
母さんは、駄目だったけど。俯いた桃を女は形のいい眉を寄せて見つめた。
「どうしてここに戻ってきたの?……」
「母さんの骨を拾ってあげたくて」
「たった一人で……?」
「一人じゃないの」
富来が用心しいしい、後ろから歩いてきた。女は小首を傾げて富来を見つめ、一瞬顔をしかめたが、ふと寂しそうな表情になった。
「お母さんの為にこんな所まで……」
泣きそうな声で呟き、片目を瞬く。
「あの、お姉さん、私の家がどこにあるか覚えてない? 道が判らないの」
急がなきゃ。桃が訊くと、女はゆるりと背を向けた。
「……案内してあげる」
桃達の返事を待たずに歩き出す。桃は後を追おうとしたが、富来に肩を掴まれた。
「お嬢さん、ご用心を。知り合いと言えど、相手は鬼です」
「大丈夫だよ、お姉さんは悪い人じゃないもの」
富来は何を心配しているのだろう? お姉さんが悪い人だったら、とっくに他の鬼を呼び寄せているはずだ。そうせずに案内を買って出てくれたのは、敵ではないという何よりの証ではないか。
女はすでに次の角を曲がろうとしている。
「大丈夫だよ、富来さん」
もう一度繰り返し、桃はぱっと駆け出した。早く追わなければ見失ってしまう。
富来は桃を呼び止めようと口を開きかけたが、結局何も言わずについてきた。
女は桃たちがついてきているか気にもしないで、すいすいと歩いていく。
桃は忙しく足を動かして、ちょっと息が上がりかけてきた時、ふと女性が立ち止まった。
その場所は、一面真っ黒に焼け焦げていた。
焦げ臭さが僅かに漂い、炭と化した柱と思しきものが一本、傾いで立っている。
「ここが……?」
私の家? 焼けた地面を見つめて問うと、女性はゆっくり頷いた。
「あなたが逃げた後、鬼が火を付けたの……これでこんな有様に」
桃は今まで家があった焦土の中に踏み入った。
黒い土を、爪先でそっと探っていく。
富来もその中に入ろうとしたが、振り向いた桃が「あ、駄目」と制した。
「そこは壁だよ。戸口はこっち」
富来はきょとんと立ち尽くしたが、すぐに悟って、桃の指さした所から入り直した。
「失礼します」
「いらっしゃい。うちに来たお客様は、富来さんが始めてだよ」
半分欠けた湯呑を炭の中から拾い出し、「お茶でもどうぞ」と差し出す。
「あそこが戸口……ここに行李が置いてあって。こっちに窓があって、私はいつもそこにいたの」
一つ一つ指しながら、今はもう無い家を思い起こしていく。
「そして、あそこにいつも母さんが座ってた」
着物を繕い、鍋の様子を見て、時には桃に笑いかけてくれた。母がいた場所は、屋根と柱が重なり合って崩れていて、小さな山になっていた。
富来が傍らに湯呑を置き、炭の板を退かして、手を土に潜らせた。
しばらく探った後、引き出された手には、茶色と黒の斑になった棒のようなものが握られていた。
――骨だ。
桃は、足先を冷水に突っ込んだような気がした。体の末端から力がとろとろと抜け出ていくような、奇妙な感覚。
富来はもう一度手を潜らせて、今度は布のようなものを引っ張り出した。
見覚えのある、その柄は――。
「……母さんの着物だ」
いつも見ていたのだ、間違いない。
母は、この真っ黒い土の下にいる。
「……母さん」
富来から骨を受け取り、そっと語りかける。
「ただいま。戻ってきたよ」
骨を撫でさすり、土を払い落とした。
「食われて、焼かれて、気の休まる時が無かったでしょう。もっと静かな所につれていってあげる」
胸に抱きしめる。
「今は山が色刷りになってるんだよ。綺麗だから、そこに埋めてあげる。一緒に帰ろう」
帰ろうね。
富来がそっと桃の肩を抱いてくれた。
女は数歩離れた所で見守っていたが、「……包むものを持ってきてあげる」と言って背を向けた。
「お嬢さん、よろしければ、お骨を拾うのを手伝いましょうか」
富来の申し出に、桃は骨を見つめたまま頭を振った。
「一人で出来る」
その声は震えてはいなかった。富来はもう一度肩を撫で、「では、包むものを貰ってきます」と言って女の後を追い、桃を一人にしてくれた。
桃はしゃがみこみ、板の燃えかすや折れた柱を退かし始めた。すぐに手が煤で真っ黒になる。
――待ってて、今掘り出してあげるから。
手を埋もらせ、桃は黙々と土を掻き始めた。
「……どれに包ませたらいいかしら」
富来が焼け跡からそう遠くない家に入ると、女が中で着物を数枚広げていた。
「風呂敷がないのよ。着物でいいかしら……」
富来が後ろにいるのに気づいているのかいないのか、ぶつぶつと独り言を言っている。
「良いお着物をお持ちですね」
声をかけられ、女は首を巡らせたが、目はその動きに追いつかず、一拍遅れて富来の顔を見た。
「これは鬼(おにの)夜(よ)市(いち)で手に入れたの」
「鬼夜市?」
「真夜中に開かれる、鬼が物を売る市よ」
草木も眠る丑三つ時、松明に火が灯され、篝火が焚かれる。
暗い夜道に並べられるのは、鬼が桃源京から盗み、奪ってきた物。
着物に食べ物、装飾品。欲しい物は何でも揃う、無ければ奪ってくればいい。
「成る程、鬼がどうやって生計を立てているか不思議でしたが、そんなものが開かれていいたのですか」
富来の声など聞こえていないかのように、女は着物を手繰り寄せた。
「これは商家の女主人が着ていたのを奪ってきたもの。遅くまで帳簿の計算をしていて、部屋に灯りが点いているのを鬼に見咎められて襲われた」
女の細い指先が、ついっと着物の裾をなぞる。
「傍らには、夜ふかしの子供もいたそうよ。女主人は子供を庇おうとしたけれど、結局母子ともども……」
母子、の所で女の目から生気が消えた。虚ろな右目が、宙を彷徨う。
「……ああ、あの子の母親もそうだったよねえ。娘を守るために、鬼共の前に立ちはだかって……」
「お嬢さんの御母堂様のことですか?」
「思い返してみれば、随分変わった人だった。鬼市場では物を貰わずに、仕事の報酬として貰っていた」
「報酬?」
「他の家を訪ねて行って、ご飯を作ったり洗濯したり、家事を手伝った代価として食べ物やら何やらを貰っていた。鬼夜市のものは強奪品だ、そんなのを娘に与える訳にはいかないとでも思ったのか……」
女はへらりと笑った。右目と口が弧を描く。
「おかしいわよね。その報酬の品だって、元は鬼夜市のものなのに。おかしいわよね……」
へらへらと何に対してでもなく笑い続ける女に、富来は静かな声で質した。
「何故あなたは、御母堂様のことをそんなに知っているのです」
右目がぐるりと回り、富来を見、また反れる。
「だって、見ていたもの」
もう視線が定まっていない。
「見てた。ずっと見てた。一人分にしては多い報酬。窓から覗く女の子。何であの母親はあんなに幸せそうなの? 鬼の癖に。私と同じ鬼の癖に」
「何故あの人は子供と一緒に長岡京に住んでいるの? 私は子供なんか持てなかった。突然人生を奪われたのよ。店に賊が押し入って、主人夫婦、奉公人もすべて殺されて、でも私だけは生き残ったのに。偶然夜中に目を覚ましたから、物陰に隠れてやりすごす事ができたから、ただそれだけの理由だったのに」
「お前が賊を店に引き込んだんだろう、そう言って周りの奴らは私を捕らえた。死体を捨てる鳥辺野に連れて行かれて、殴られて気を失った。気がついたら烏が私の左目を啄んでいた。私の目と人生を奪ったのは誰? 誰の所為?」
頬に手をやり、ばりばりと引っ掻く。下まぶたが引っ張られ、左目の中が見えた。
何もない。眼窩が丸く暗く、ぽっかりと口を開けているだけ。
「人間の所為だ。弱くてずるくて汚い人間の所為だ。普通に暮らして誰かと夫婦になって子供を作ったはずの私の人生! 私が何をした? どうしてよ? どうしてあの女は幸せそうなの、私と同じ鬼の癖に……」
話が最初に戻り、同じことを繰り返し始めた女に、富来は一歩退いた。
――この女……。
「あなた、なんですか?」
くくく、と女が笑う。
「母娘に鬼をけしかけたのは」
ふふふふ。
「自分より幸せそうだから、嫉妬して――」
ははははは。
女の笑いは段々と高くなり、終いには悲鳴のようになった。
――狂っている。
ここにいてはいけない。お嬢さんを連れてすぐ逃げたほうがいい……。
富来がそう思った時、後ろで小さな足音がした。
振り返ると桃が立っていた。胸に、しっかりと骨を抱いて。
「……お姉さん?」
呼んだ途端、狂ったような哄笑がぴたりと止んだ。
「お嬢さん、いけません。この人は――」
富来が言いかけたのと、女が飛びかかってきたのはほぼ同時だった。
咄嗟に富来が腕を突き出し、女はそれにむしゃぶりつく形になった。
「お嬢さん逃げなさい!」
富来の叫びに、しかし桃は動けなかった。足が根付いてしまったかのようだ。
あの儚げで美しかったお姉さんが、髪を振り乱し右目を爛々と光らせ、開かれた左目には目玉がない。獣のように荒く息を吐きながら、指先が白くなるほどの力で富来の腕を掴んでいる。
「お嬢さん!」
叱咤の声に、桃は我に返って、その場から駆け出した。
ぞくぞくと背中を悪寒が走り抜ける。
逃げなければ。今はただ、逃げなければ。
その一心で走る都は、いつのまにか曇ってきた空のせいで灰色に染まろうとしていた。
走れば走る程、膝が震える。――ああ。
あの夜と同じだ。あの時は母を置いて逃げた。今も、富来を置き去りにして逃げている。
胸が締め付けられ、桃は大きく息を喘がせて立ち止まった。振り返る。
「富来さん……」
置いてはいけない。でも、自分に何が出来るだろう?
進むべきか戻るべきか、桃が逡巡していると、振り返った先の曲がり角から、ゆらりと影が覗いた。
「富来さん?」
無事だったのか。思わず駆け寄ろうとした桃は、絶句した。
富来じゃない。影の線が細すぎる。まるで女のように……。
風に押されるようにして出てきたのは、
「お姉……さん」
乱れた黒髪の間から、深緑の角が尖っている。
「……どうして?」
女は囁いた。
「あなた、どうして生きているの? 鬼から産まれた子供のくせに、何故普通に生きようと思えるの?」
いつか幸せになれるとでも思っていたの?
女はゆっくりと近づいて、桃の首に手をかけた。
力が込められる。
「お姉さ……」
あなたたち母娘が妬ましかった。
鬼をけしかけ食わせなければ気が済まぬ程に。
首を締め付けられ、桃の体から力が抜けて、抱えていた骨が地に落ちる。
「凶(きょう)は私の言うことを解ってくれたわ。人が長岡京にいるなど言語道断。鬼の都に住む人の子など――」
――死ね。
「ごめん――なさい」
詰まる息の下から、桃は切れ切れに言葉を紡いだ。
「私――幸せだったの。母さんと二人、とても――幸せだったの」
知らなかった。自分がこんなにも恨まれていたなんて。
「……ごめんなさい」
それでも幸せだった。この長岡京で母さんと二人、少しは楽しいと思えることがあった、いくつも、いつも――。
桃はとろりと目を閉じた。これで、母さんの所に行けるかな。
ずっと一緒にいられるかな。
息が完全に止められ、桃の意識が遠くなりかけた時、
「お嬢さん!」
声と共に、女がギャっと叫んで手を離した。
咳き込みながら桃が目を開けると、変化を解いた富来が女の顔にへばりつき、爪を立てていた。
「お嬢さん立って! 逃げるんです!」
富来は女の鼻面に噛み付き、振り払われて地面に降り立ち、毛を膨らませて女と桃の間に立ちはだかった。
「馬鹿なことを考えるのはお止めなさい。ここに来たのは死ぬ為ではないでしょう」
女から視線を外さず、富来はじりじりと間合いを計る。
「この猫……!」
女が毒づいて躍りかかろうとした瞬間、「伏せな!」と甲高い声がした。
咄嗟に伏せた桃の頭上を、轟音と共に青白い炎が駆け抜けていった。
炎に包まれた女が悲鳴を上げて後ずさる。
「お姫さん無事かえ!?」
「稲荷さん」
駆け寄ってきたのは稲荷だった。後ろから田主丸もぼてぼてと走ってくる。
「どうしてここに」
「後一刻もすれば日が沈むというのに、御主達が帰ってこんからじゃ」
炎から逃れようともがいている女を見、苦々しげに言う。
「相手は女といえど鬼じゃ。食われる前に退散するぞ」
「待って、骨が」
ばら撒いてしまった骨を集めようと桃がしゃがむと、炎に髪を焼かれ肌を火脹れにした女が叫んだ。
「おのれ獣風情が!」
「お嬢さん、札を!」
桃が懐から札を出すと、富来が咥えて女に突進した。跳ね上がり、女の頬に押し付ける。
があっ、と人とは思えない悲鳴を上げて、女は顔を掻きむしった。
札は剥がれない。爪を立てていた指がやがて力を失い、だらりと腕が下げられる。
女はしばし放心したように立ち尽くし、やがてどっと横様に倒れ込んだ。
火が消え、燻った煙を上げている女は、もう動こうとしなかった。
「さ、今のうちだよ」
稲荷が促し、田主丸が広い葉を取り出して一枚の布に変化させた。
急いで骨を拾って包み、腰にくくりつける。
桃は立ち上がり、悲しい思いで女を見つめ、振り切るように三匹を連れて駆け出した。
「お嬢さん、お怪我はないですね」
隣を走る富来に聞かれ、桃は小さく頷いた。
「……さっきはごめんなさい」
富来は前を見たまま、静かに言った。
「もう、生きるのを辞めようだなどと思わないでくださいね」
約束ですよ。その言葉に、桃は今度ははっきり頷いた。
「何だか路が入り組んでるねえ。門はどっちだったっけ?」
「何じゃ、覚えとらんのか」
「お嬢さんの匂いを追ってきたから、通った路なんて覚えちゃいないよ。そういう旦那はどうなのさ」
「わしは御主についてきただけじゃから知らんわ」
稲荷と田主丸の掛け合いが、何だか懐かしく思える。桃がちょっとほっとした時、どおん、と何か重い音がした。
「何……?」
どおん、どん、どん。
大太鼓を鳴らすような、腹に響く音がする。
「この音、聞いたことある」
夜、鬼が獲物を持って帰ってきた時や、都で何か変事があった時に鳴らされる音だ。
「変事って、嫌だ、あたしらのことじゃないかえ」
「わしらが長岡京に入ったことが知られたんじゃ」
「急ぎましょう」
もう曲がり角を伺う余裕もない。ただ走りに走る。勢い余って家壁にぶつかりそうになりながら、門を目指して浸走る。
「もう少しで門だよ!」
大路に出て、稲荷が歓声を上げたとき、その門の前に一人、ぽつんと人影がたっているのを桃は見た。
脇に太鼓を抱え、片手にバチを持っている。
「鬼だ!」
富来が叫んだのと同時に、鬼はバチを太鼓に叩きつけた。
どん、どん、どんどんどんどんどん、どどどどど………。
「いかん、逃げるんじゃ!」
田主丸が警告するまでもなく、一人と三匹は踵を返して大路を走り出した。
太鼓の音が追いかけてくる。それに呼応するように、左京と右京がざわめき始めたようだった。
「急いで! もう来てるよ!」
大路に繋がる小路から、一人、二人と鬼が顔を出し始めていた。
赤い角、青い角、黄色、緑、茶……。
人ではない証を額に宿した者達が、桃達を追ってくる。
――我等が都に立ち入る者は何者ぞ。
――鬼の子ならば都に置こう。
――人の子ならば何としよ。
――食うしかあるまい。
――食うてしまえ。
食え。その言葉が聞こえた瞬間、地を蹴る音と共に、鬼が飛びかかってきた。
富来が桃に体当たりし、今まで桃の体があった場所に鬼が飛び込んだ。
「くらえ!」
稲荷が炎を吐き出し、鬼に攻撃する。しかし、青い角を生やしたその鬼は、一瞬早く飛び退くと、またこちらに向かって突進してきた。
「青鬼めが、これでも食らっとれ!」
田主丸は木の葉を取り出すと、手のひらに乗せてぷうっと息を吹きかけた。
息に舞い上がった木の葉はあっという間に何百枚にも増えて、青鬼の視界を遮った。
「小癪な!」
青鬼は叫び、木の葉の渦の中で指笛を吹き鳴らした。
空気を切り裂くような高い音に呼応して、どこかで「応」と応える声がした。
一人ではない。何人もの声だ。
「人じゃ」
「人の子じゃ」
「生意気にも我らに立ち向かおうとしておる」
「人間の肉は久しぶりじゃ」
「わしは腸が欲しい」
「腕をもらおう」
「目玉をすすれ」
「骨を噛み砕け」
――私を食べようとしている。
桃はぞっとした。あいつらにとって、私は食べ物でしかないんだ。
「駄目だ、仲間が来るよ」
「大勢で来られたら適わん」
逃げるしかない、でもどこへ?
「私についてきてください!」
富来が先導して走り出した。桃と二匹も後を追ったが、富来は大路を真っ直ぐに進んで、どこかに身を隠そうとはしない。
「富来さん、横道に入ったほうがいいんじゃ」
「ここは鬼の棲家です。私達より鬼共の方がよほど土地勘がある。迷ったら最後ですよ」
「じゃが、このまま進んだら内裏に入ってしまうぞ」
「そうだよ、内裏の中なんてそれこそ迷う――あ、そうか」
稲荷が合点がいった声を出した時、ちょうど桃達は大路の突き当たりにある、大きな敷地に飛び込んだ。
長岡京に帝がおわした場所、内裏である。
かつては整然としていたであろう内裏は、今や見る影もなく荒れ果てていた。
柱は朽ち、全体的に黒ずんでいる。建物自体が腐っているのかもしれなかった。
「哀れな」と呟き、富来は痛ましいものを見る目つきで周りを見渡した。
「かつての栄華も寄る年波には逆らえないか」
息をひそめて、建物にへばりつくようにして通り抜ける。地面には好き勝手に背の高い草が生えていて、桃の体に擦れてさわさわと鳴った。
「あ、待って」
土を踏みしめる音が、後ろの方で聞こえた。一人と三匹は、縁の下に潜り込んで身を隠した。
「どこにいった」
「よもや内裏に逃げ込むとは」
ざくざくと地を踏む音が、桃達が隠れている縁の下まで近づき、立ち止まる。泥に汚れた素足が二対。
「逃がしたとあっては鬼の名折れよ」
「しかし、ここは凶とその取り巻き達の棲家ぞ。あ奴は同胞にも容赦ない。つい先日、白い角の女が死んだ話は聞いたか」
「ああ、人間の子供を一人匿っていたとかいう」
「それがよ、その白鬼を食ったのが他でもない、凶だとの噂よ」
「共食いとは、あな恐ろし」
桃は息を飲んだ。母さんのことだ。
「しかし、結局はその子供を取り逃がしたそうではないか」
「桃源京に逃げられては、凶も手出しできまい」
「よもや、今逃げている子供が……」
「凶にこの事が知られれば、何としても食おうとするだろう」
「今あの子供を追っているのは我らぞ。獲物を取られてなるものか」
鬼の会話の途中で、桃の頭上の床板がぎしっと鳴った。誰かが来たのだ。
「何を騒いでおる」
新たな鬼だ。喉に砂をまぶしたような、ざらついた声だった。
「都が騒がしい。何事か」
「赤鬼よ、あの太鼓の合図を知らぬ訳ではあるまい」
「侵入者じゃ」
新たな鬼は赤い角らしい。赤鬼は、嘲るような声を出した。
「青鬼よ、黄鬼よ。よもや取り逃がしたというわけではあるまいな?」
「今追っている最中じゃ」
「ついては、この内裏を探るのを許してたもれ」
追ってきた鬼二人は、懇願するような声を出した。自由に内裏を歩き回ることはできないのだろうか。
「許さぬ。この内裏は凶の縄張りぞ。お前たち風情が入って良い場所ではない」
一転して、青鬼と黄鬼が挑むような口調になった。
「我らの獲物を横取りする気か」
「ここまで追い詰めたのは我らぞ。横入りするでない」
「黙れ」
赤鬼は尊大な口調で制した。
「聞けばその子供は、凶の手より逃れたものらしいではないか。ならば凶自身の手で始末をつけさせる。手出しは無用ぞ」
それとも、と声に凄みが増した。
「我と一戦交えてでも奪いたいと言うなら話は別だが……?」
縁の下から見える二対の足が、戸惑ったようにたたらを踏んだ。
「そこまでは言うておらぬ」
「なれば退散しようぞ」
ぶつぶつとぼやきながら引き上げていく。
遠ざかる足音に被せるように、赤鬼が呟いた。
「青二才めらが」
ぎし、と床板が鳴り、立ち去るのかと思った瞬間、上から声が降ってきた。
「聞いたとおりだ、侵入者よ。即刻この場から立ち去れい。我は助けもせねば食うたりもせぬ。しかし凶に見つかれば、その命は保証せんぞ」
ぎょっとすくんだ一人と三匹は、ただ奥に遠ざかる床の軋みを聞いていた。
しばらく身を硬直させ、しかし何も起こらないので、そっと這い出す。
「なんだい、あいつ」
「敵とは思えんが、味方でもないようじゃのう」
「何にせよ命拾いしました」
富来は首を伸ばして、本殿の中を覗き込んだ。
「まさかここに住み着いている鬼がいるとは……」
不敬も甚だしい、と苦く吐き捨てる富来に、桃は聞いた。
「富来さん、内裏の中に詳しいの?」
「ええ……私は以前、ここに住んでいましたから」
目を見開いた桃に、富来は「説明は歩きながら」と促して、先に立って歩き出した。
本殿の中は薄暗く、しかしかつてはさぞやと思わせるような豪勢な作りになっていた。
何畳もある色あせた畳、破れた几帳は錦織で、腐った床板は奥へ奥へとどこまでも続いている。
「ここを突っ切れば、裏門に出ます。そこから都の外に出られるでしょう」
「本殿の中を? 外回りのほうが良いんじゃないかえ」
「しかし外は身を隠す場所がない。中なら物陰もあろう」
声をひそめて相談しあい、出来るだけ早く突っ切ろうということになった。
今ばかりは、肉球のついた足が羨ましい、と桃は思った。建物全体が朽ちているので、軋ませてしまうのは大概が桃の足音である。
「あのね、聞きたいんだけど……」
「何なりと」
「富来さんがここに住んでいたのは、いつのこと?」
「長岡京が鬼に支配される、ずっと以前のことですよ」
桃には学が無いので、正確なことは解らないが、少なくとも桃が産まれるずっと前のことだ。
「先の帝は、私のことをとても可愛がってくれました。その所為か、私は随分と長生きして、尾が二つに割れ、人語を解するまでになったんです」
「帝のご寵愛を受けてたのさ。そうだろ、富来の兄さん」
稲荷が話に割り込んだ。
「お嬢さん知ってるかい、帝の猫は御猫様って呼ばれるんだよ」
「ああ、それで……」
そういえば、御行がそんな風に呼んでいた。御行は富来の素性を知っていたのだろう。
「私は、元は富来(ふく)と呼ばれておりました。帝の元から去る時、名前を変えたのです」
「どうして去ったの? 可愛がってもらってたんでしょ?」
富来はふと遠い目になった。
「このような身になっては、あの方の元にいられません。ちょうど鬼共が蔓延り始めた時代でしたから、普通の身でない化け猫になった私が、あの方の側にいるわけにはいかなかった」
「でも、尻尾が一本増えただけじゃない。それだけで追い出すなんて」
「違うのです、お嬢さん。あの御方の側にいるのに耐えられなくなったのは私の方なのですよ」
人ならざるものに悩まされているのを、ずっと近くで見ていた。鬼共は人であって人でない。そして自分も、人語を解するくせに人でない。
ああ、自分も化物なのだなと、唐突に悟った。
化け猫だと周りに罵られれば、きっと今以上に帝を悩ませてしまう。
「だから私は都を出たのです。人語を話せるのに、お別れも言えませんでしたが」
けれど、今でも覚えている。あの抱き上げてくれた腕の優しさ。丸くなって眠った膝の温かさ。
「ここは私にとって故郷なのです。なのに、今は鬼の棲家とは」
ふっとため息をつき、髭を震わせる。
「愚痴になってしまいましたね。急ぎましょう」
桃は黙って続いた。知らなかった。口調や佇まいから、良い所で飼われていた猫かもしれないと思ってはいたが、まさか帝の猫とは。
その帝はまだ生きているのだろうか? ずっと前の話みたいだから、崩御されている可能性もある。けれど、生きているのなら一回くらい会わせてやりたい。さよならも言わずに別れるなんて、悲しいではないか。
桃が考えを巡らせていると、富来が立ち止まった。二本の尾を立てて、緊張している。
「富来さん?」
「……何か聞こえます」
広い板の間である。埃が積もり、全体が霞がかって見える闇の向こうから、呟くように歌う声。
〽親の因果が子に報い
人を恨めや鬼の子よ
鬼を殺めよ人ならば
人を喰らえよ鬼ならば
万の仏も我を救わぬ
さすればこの世は生き地獄
今日も黄昏
明日も黄昏
緊張して毛を膨らませる三匹の隣で、桃は用心深く懐に手を入れた。
「お姫さん、気をつけな。近いよ」
警告した稲荷の声が、すうっと影に闇に吸い込まれる。
どこからか吹き込んできた風が、朽ちた内裏を大きく軋ませた。
その時。
「――姫、か」
くくく、と闇が笑った。
「あの夜に取り逃がしたは姫君だったか」
これは勿体無いことをした。部屋の隅で、闇がもぞりと動いた。
誰かいる。
黒い単衣に、あかぎれになった素足。手は幽霊のようにだらりと下げられ、ふらついた足取りで近寄ってくる。影に隠れて、顔は見えない。
「鬼から姫が産まれるとは知らなんだ。あの白鬼も大したものよ」
「白鬼……母さんのこと?」
母を知っているのかと問うと、闇はまた一歩進み出た。足を引きずるように、もう一歩。
「そうだ、お前の名を聞いたぞ。あの白鬼が叫んでいた」
――逃げて、桃。
「桃。嫌な名だ。鬼の天敵である果実の名」
「黙んな、この鬼風情が!」
稲荷がいきり立った。尻尾の毛は栗鼠のように膨らんでいる。
「お姫さんの名はこれ以上ないってくらい素敵な名さ。あんたの名は何なんだい、人の事貶せる程ご立派なのかい」
啖呵を切る稲荷に、闇は吐息で笑った。
もう桃達と数間と離れていない。もう少しで顔が見える――。
「俺か。俺はな」
そうだ、この声。
「元より呼ばれるも厭わしい名よ」
あの夜に聞いた。
「産まれた時から角の生えたる赤子を見た母がつけた」
怒号。
「凶々しい鬼子の姿から取って」
――死ね。
「凶、と名付けられた」
――白鬼を食ったのが他でもない、凶だという噂よ。
――共食いとはあな恐ろし。
闇の顔が見えた。男だ。桃より四つか五つ年上か。青ざめた顔の上、額の両脇から二本、黒々とした角が生えていた。
「あなた……」
桃は息を喘がせた。こいつだ。間違いない。
光る目。死ね、と吠えた声。黒い角。
あの夜、母さんを食った鬼だ。
瞬間、頭に血が上り、桃は懐から札を引き出した。三匹の制止する声も耳に届かず、桃は床を蹴って凶に詰め寄った。札を突き出し、叩きつけるように凶の胸元に押し付ける。
「――母さんの仇」
振り絞るようにして言った桃を、凶は無表情に見下ろした。
「お嬢さん!」
再び変化した富来が、桃を乱暴に凶から引き剥がした。後ずらせ、庇うように抱き込む。
「離して」
「駄目です!」
「離して! あいつが食べたんだ。母さんを殺したんだ! 今度は私があいつを」
殺してやる、という声は出なかった。凶が無造作に札を引き剥がしたのである。
「御行の札か。一丁前に鬼やらいの真似事か、姫よ」
手で札を握り潰す。その拳は開かれず、力がだんだんと込められる。
「俺を討たんと舞い戻ってきたか。好都合だ。俺もお前を」
殺したいと思っていた。
握った拳の中で、爪が掌に食い込んだのか、札がじんわりと赤く染まり始めた。
力を込めて真っ白になった拳に、血がぞっとする程に映える。
その手を桃に向かって振りかぶるのと、桃が富来を振りほどいて突進するのは同時だった。
――殺してやる。
その一心で、桃は種を引き出して握った。桃は人を殴った事など無い。どのくらい力を込めればいいのかも判らない。けれど、その手で殴りぬいてやりたいと思った凶の顔目がけて、渾身の力で拳を突き出した。
衝撃。
世界がぶれた気がした。一拍遅れて、痛みが襲ってくる。でもそれは、桃の手にでは無かった。
桃の視界が傾いていく。頭の中に鈍い痛み。
殴る前に殴られたのだと気づいた時には、桃は横ざまに床へ倒れこんでいた。
「お嬢さん!」
頭を打つ前に、富来が抱き留めてくれた。
倒れた拍子に、腰にくくっていた骨の包みがほどけて落ちた。そして手から、種がころりと転げ出る。足元に転がってきたそれを凶は忌々しげに睨み、足で踏みつけた。
乾いた種がみしみしと軋み、音を立てて粉々になる。
「小細工は止すがいい、姫。人間の浅知恵など俺には効かん」
桃は殴られた頭を押さえながら立ち上がった。後ろから田主丸が声を掛けてくる。
「護符も効かん、種も効かん。こいつに立ち向かうなんざ無理じゃ」
稲荷も同意見なのか、凶を睨みつけながら一歩下がった。
富来が慎重に桃の体を抱き寄せ、凶との距離を開けようとする。
桃は歯噛みした。駄目なのか。母さんの仇は討てないのか。
このまま逃げるしかないのか。
凶は桃の絶望を見てとったのか、にいっと笑ってこれみよがしに腕を振りかぶる。
一人と三匹がびくっと身をすくめたのを見て、一層笑いながら今度は弾かれたように飛びかかってきた。
「死ね、鬼やらいの姫!」
叫んだ口から唾が飛ぶ。空気を切り裂くようにして振り下ろすその手は爪が長く尖っていて、掌は自身の血で真っ赤。薙ぎ払い突き出すその腕裁きは完全に桃の首を狙っていた。
富来は桃の前に立って庇ってくれたが、凶刃と化したその手から逃れつつ背中を守るのは辛いらしい。幾度も間一髪のところで爪を躱し、そのこめかみに冷汗が流れる。
「退け、猫風情が」
凶の目は暗がりにおいても爛々と光り、もうまともな色を宿していない。
あの時と同じだ。桃の母を食らった時と同じ、同胞食いの目。
繰り出した腕が富来の顔に当たり、ひるんだその体を横殴りに突き飛ばす。
「富来さん! ――あ」
駆け寄ろうとした桃の前に凶が立ちはだかる。
「お姫さん、危ない!」
「邪魔だ狐!」
加勢に加わろうとかけよった稲荷が、凶に蹴飛ばされ、ぎゃっと悲鳴を上げて隅へ投げ出される。
田主丸が「何をするか!」と憤慨して木の葉を取り出し、それっと床へ投げつけた。
ぼむっと低い爆発音と共に、部屋の中が煙で充満する。
「今のうちに逃げるぞい!」
「逃げるたってこれじゃ見えないよ旦那!」
「お嬢さん、そこにいますか!?」
「いるよ!」
手探りで富来の手に触れ、握り返されたその手に従って歩きだそうとして、はたと気づいた。
――そうだ、骨を。
母さんの骨を持って帰らなくては。
「待って、骨が」
「お嬢さん!」
富来の手を振りほどき、床に這いつくばって手探りで進む。
母さん、何処?
霞む視界に瞬きを繰り返しながら、感覚を頼りに進む。
指先に触れるのは床の固い感触だけ。ぺたぺたと叩くようにして進んで、ふと目の前に何かの気配を感じた。
ひんやりとしたものが桃の顔に触れる。
それはこめかみをなぞり、そっと頬を包み込んだ。
「――姫」
声が。
「何故ここに戻ってきた」
これは凶の手だ。
「母の為か。そんなに母が愛おしいか」
その手はゆっくりと頬に爪を立てる。
「親の情に勝るものは無いとか。しかし親の子に対する失望もまた然り」
頬が引っ掻かれていく。長く、長く。
「角の生えたる、ただそれだけで捨てられ憎まれ失望され」
凶の血と、桃の頬から流れる血で顔がぬるつく。
「俺はこの世に産まれてはならなかった。なら何故殺してくれなかった、何故今生きて此処にいる」
「情によって生かされ、失望によって捨てられ、母の勝手で弄ばされたのがこの俺だ」
「だがお前はどうだ。望んで産まれ希望に生き、あの白鬼は何故そうまでしてお前を愛した。鬼から産まれ、隠されて生きてきたお前は何故そうまでして母を愛せる」
「お前は」
何故この世で生かされているのだ。
真っ赤な手は桃の首を掴んだ。
桃は、ゆっくり目を閉じた。
――違う。
腰の瓢箪に手を伸ばす。
――それは違う。
口元に持っていく。
「私は生きているの。生かされているんじゃない、生きているから」
だから産まれてきたことに感謝するし、この世の美しさに感動するし、産んでくれた母さんを愛する事が出来るの。
「だからあなたに――殺される訳にはいかないの!」
桃は酒を口に含み、勢いよく吹き出した。
煙の向こうで、凶が息を呑んで身を引いたのが判った。
手が離れる。桃が後ずさると、着物の裾を何かに引っ張られた。
「お嬢さん、行きましょう」
富来だった。変化を解き、鼻で桃の匂いを辿ってきたらしい。
「でも母さんが」
「もう煙が晴れます。ここから離れなければ」
富来の言う通り、煙が薄くなってきていた。
「これは――酒か」
たゆたう煙の中から、凶の声が聞こえる。
「神便鬼毒酒――小賢しい真似を――」
お嬢さん、さあ。促されて、桃は後ろ髪を引かれる思いで富来についていった。
「おおい、こっちじゃ」
田主丸の声がする。煙を抜け外に這い出すと、稲荷と田主丸が地面の上で待っていた。
「わしらじゃ束になってもあいつには敵わん。逃げるが勝ちじゃ」
「お姫さん、早く早く」
回廊から飛び降り、一人と三匹は走り出した。
「私についてきてください」
先導する富来。後に続く稲荷と田主丸。しんがりの桃は後ろを振り向いた。
すっかり薄くなった煙の中から、凶が出てきていた。立ち尽くし、こちらに顔を向けているが、酒が目に入ったのか片目に手を当てている。もう片方の手に持っているのは、骨の包み。
「預かっておくぞ。取り戻したければまた来るがいい。俺の元へ」
凶は声を立てて笑った。曇り空によく響く笑い声だった。
「来なければ俺の方から行くぞ、鬼やらいの姫! やらい姫!」
はは、ははは。
狂ったような哄笑は途切れることなく、桃の耳にいつまでも響いていた。
「あ痛たた、あの野郎よくもやってくれたよ」
走りに走って、最初に出会った山の中まで逃げてきた桃達は、どっと座り込んだ。
もう時刻は夕暮れを過ぎようとしている。
「稲荷さん、大丈夫?」
「平気さ、これくらい舐めときゃ治るよ」
稲荷は余裕ぶっているが、座り方がぎこちない。蹴飛ばされた横っ腹が痛むのだろう。
「やれやれ、肝が冷えたわい」
ぐったりと木にもたれている田主丸は、気疲れの為かちょっとしぼんでいるように見える。膨らんでいる腹にいつもの張りがない。
「お嬢さん、怪我は――ああ、これは酷い」
富来が伸び上って、桃の頬に触れた。
凶に引っ掻かれた傷は長いが深くは無く、血はもう止まっているが、触れるとひりひり痛む。
「女の子の顔に傷を付けるなんざ、極悪非道もいいとこだよ」
稲荷が憤慨したかと思うと、身をすくめた。怒ると傷に響くぞと田主丸に諌められて、珍しく素直に口を閉ざす。
桃は血だらけの頬を擦って、考えていた。
――俺はこの世に産まれてはならなかった。
――母の勝手で弄ばされたのがこの俺だ。
――鬼から産まれ、隠されて生きてきたお前は何故そうまでして母を愛せる。
何故、と凶は問うた。それこそが、凶が母を食い桃を殺そうとした理由ではないのか。
「……あの人、産まれてきたくなかったのかもしれない」
ぽつんと呟くと、三匹が桃を見た。
「あの人はお母さんの勝手で産まれてきたんだって思ってるみたい。お母さんに捨てられて、何処にも居場所がなくて、それで母さんに愛されてた私が憎かったのかもしれない」
桃は母と暮らしていたのに、自分はどうだ。桃は母に愛されていたのに、自分はそうではなかったではないか。
言動から察するに、凶は鬼子なのだろう。愛情に飢え、他人の愛に嫉妬し、そうやって今まで生きてきたのではあるまいか。
「お嬢さん、凶に同情しているのですか?」
そっと聞いてきた富来に、桃は首を振れなかった。
もしかしたら、自分も凶のようになっていたかもしれないからだ。
一歩間違えば、自分も鬼子として産まれてきたかもしれない境遇だ。
凶の姿は、そう有り得たかもしれない桃の姿。
きっと凶は、桃に嫉妬していたのだろう。桃の生まれも生き方も存在も許せなくて、それであんな事を。
――許せない、か。
桃の胸に、その一言が引っかかった。
俯いた桃に、三匹はそれぞれ黙っていたが、やがて田主丸が身を起こした。
「座ってるだけじゃ疲れは取れん。湯にでも浸かってくるかの」
「そいつはいいね、旦那。あたしも行くよ」
「お嬢さんも行きましょう。温かくて気持ちがいいですよ」
「お湯って?」
身も心もくたくただった桃は、これ以上動くのは気乗りしなかったが、三匹に急かされてのろのろと腰を上げた。
「ちょっと上に登った所に、天然の湯が湧き出てんのさ。小さいけどあったかいよ」
「今夜は冷えそうじゃからのう」
重い足を引きずりながら歩いて辿りついた先は、稲荷の言う通り小さな丸い温泉だった。
岩に囲まれた窪みに、ほこほこと湯気を上げる湯が溜まっている。湯の色は白濁していて、周りの木から落ちてきた紅葉は銀杏が何枚か散らばっていた。
「そーれっ」
稲荷が一番に飛び込んだ。ざぷんと盛大に湯が飛び散る。
「これ稲荷、飛び散らかすな」
言いながら田主丸が続く。しかし沈まずに、丸い腹がぷっかりと浮いて浸かるのに苦労している。
「お嬢さんもどうぞ」
「えっと……富来さんからどうぞ」
おずおずと順番を譲った桃に、「では失礼して」と富来がとぷんと湯に入った。
桃は辺りを見回して、大きな岩陰に隠れた。さすがに獣とはいえ、三対の目の前で着物を脱ぐ勇気は無い。
肩脱ぎになった時点で、冷たい空気が肌に染みてくしゃみが出た。
「お嬢さん、早くお入りよ」
「みんな、後ろ向いててくれる?」
「何を言うとるか、子供の裸になんぞ興味ないわい」
「女心が解んない旦那だねえ、ちっとは気を使いなよ」
「大丈夫ですよお嬢さん、安心してお入りなさい」
そっと岩陰から這い出して、三匹が明後日の方向を見ているのを確認してから、足先を湯に浸す。
熱い湯がじんわりと染みて、体が震える。掌ですくってかけ湯をすると、桃の白い肌が薄く赤色付いた。
「あったかい……」
湯に浸かって、ほっと一息つく。
「ああ、極楽極楽」
「爺臭いよ、旦那」
「肩まで浸かっていますか、お嬢さん。冷えますよ」
白い湯気がふんわりと夜空に溶けていくのを見ながら、桃は考えた。
「……母さん、寒くないかな」
結局拾ってくる事が出来なかった骨を案じる。あの部屋の中で、ぽつんと置き去りにされているであろう事を考えると、視界がぼんやりとにじんできた。
「泣いているのか、娘」
稲荷に突っつき回されて、浮かんだままくるくる回転している田主丸が聞いてくる。
「後もうちょっとで持って帰れたのにねえ。あの黒鬼がしつっこいから」
稲荷が悔しそうに田主丸の腹をぽんぽん叩く。
「逃げようと私が急かした所為で、お嬢さんは骨を探せなかった。申し訳ない」
富来が謝ってくるのを、桃は首を振って止めた。
「富来さんの所為じゃないの。あの部屋に最初に入ったのは私だもの」
立てた膝に顔を埋める。湯に鼻面が触れて、温かい匂いがした。
……私、長岡京に何しに行ったんだろう。お姉さんに襲われて、母さんを連れて帰れなくて、揚句の果てに凶に立ち向かうとは!
殺してやる、と思った。確かに殺意を抱いた。あのどす黒い感情は、思い出すだけでも身に震えが走る。どうしてあんなことを思えたのだろう? 母さんは私の体に恨みも何も下さなかったのに。だから私は人として産まれてくる事が出来たのに。
それなのに一時の激情に身を任せ、鬼のように感情に任せて動こうとしたとは!
御行の言葉が蘇る。
――理由はどうあれ、感情のままにやり抜こうとする姿勢はまるで鬼のよう。
「……私、やっぱり鬼なのかな」
膝を抱えている手を、額に持っていきたい。でも、触れた額に尖ったものがあったらどうしよう? 人ならざる者の印があったら?
「あんな汚い気持ち、知らなかった。知りたくなかった。あんなの私じゃない」
湯の中で、ぎゅっと体を抱きすくめる。
目から涙がこぼれ出て、湯に次々と落ちていく。小さな波紋が立ち、しかし不意に他の波がそれを打ち消した。
「言っただろ。お姫さんみたいに可愛い鬼がいるもんかね」
稲荷だった。湯で濡れた毛皮が、深い金色になっている。
「お姫さんがあいつを殺そうって思ったのは当然さね。お姫さんがやらなかったらあたしがあいつを引っぱたいてやったところさ」
「人は誰でも案外というところがあるもんじゃ。お前さんにも案外激しい部分があった、それだけの事じゃ」
丸い腹を月光に当たらせながら、田主丸がのんびりと言った。
「お嬢さんは御母堂様を食われたという理由があった。懐には札も種もあった。理由とそれを成す手段があるのに、やらないほうが変ですよ」
温泉の淵に顎を乗っけて、富来がそう締めくくった。
桃は顔を上げた。湯気が白く立ち上っている。湿った前髪が額に張り付き、それをそっとかきあげる。
額はつるりと滑らかで、何も無かった。
桃は額から頬へ手をやった。血は湯で落ちたらしい。少しひりつく傷をそっと撫でる。
不意に解った気がした。私は人だ。そして凶は鬼だ。その違いは何だろう。
きっと何も違いは無いのだ。桃の生い立ちは凶が辿るべきものだったのかもしれないし、凶の生き様を桃がなぞっていたかもしれない。
ただ、角が生えている。その違いが、恨み、そねみ、妬み、人食いに走らせるのではないのか。
そして人は誰でも鬼になり得るのだ。案外というものがある、と田主丸は言った。案外、激しい部分がある。誰にでも。いつでも。
そしてそれを癒してくれるのは、こうした仲間ではないのか。今この湯気の向こうにいる、濡れそぼった獣達のような仲間。
富来はとろりと目を閉じて、秋の虫の声に耳を傾けている。稲荷は田主丸を突っついて、右に左に揺らしている。ぷかぷか浮きつ沈みつしながら、低い声で田主丸が歌う。
〽秋の夜長に 湯の花が咲き
湯気を彩る 銀杏や紅葉
一夜で欠ける 望月すらも
湯殿に浸かれば ほれ元通り
元通り。汚い感情にべたついた心も、負った傷も、悲しい思いも、すべてが湯に洗い流される。
見上げると、夜空に幾分痩せた月が懸かっていた。
桃は掌で湯をすくうと、顔にかけた。ごしごしと擦り、縮こまっていた体をぐいっと伸ばす。
「ありがとう、みんな」
出した声は、震えてはいない。
「私、解った。私は鬼じゃない。でも、似ている部分は持ってる。鬼みたいに辛い思いもしたし、強い感情も持ってるけど、それは誰でも持ってるんだ。大事なのはそれに負けない心なんだ。辛い事も悲しい事も、自分が知らない気持ちも全部心の中にあるけど、私はそれに負けないって決めた」
空を見つめると、何百という星が瞬いていた。煌びやかで、澄んだ空気が冷えている所為か少し物悲しい眺め。
人の世のようだ、と思った。
「……私、もう一度母さんを取り戻す」
今度は必ず、連れて帰る。その一心で、また長岡京に行こう。
鬼は桃がそうあるはずだったかもしれない姿。桃のもう一つの姿だ。
だが、何を恐れることがあろのだ。
確かに凶は哀れむべき存在かもしれない。鬼子の気持ちは計り知れない辛さで満ちているのだろう。
しかし、だからといって桃がそれに屈する理由が何処にあろう。凶という存在に桃が鬼の如く接する必要などない。
もう、札も種もいらない。この身一つで行こう。
方相師のやり方が効かないのなら、私は私のやり方で凶と対峙するまでだ。
桃は膝立ちになって拳を固めた。
「絶対に、母さんを連れ帰る」
三匹は桃の決意を黙って見つめていたが、その内誰からともなく息を吐いた。
「呆れてる? また行くのかって」
「そんなことないさ」
「そう言うと思うとったわ」
「お嬢さんは自分で決められる子ですからね」
三対の目が、優しく桃を見つめている。
「強くなったねえ、お姫さん」
稲荷が顎まで湯に浸かりながら言う。
「最初に会った時は泣きべそで、俯き加減の娘じゃったのにのう」
感慨深げに田主丸も言う。
「これが本当のお嬢さんなのかもしれませんね」
事あるごとに傷ついて、けれどきっと立ち上がる事が出来る。それが桃という女の子ではないか。
富来の言葉に、桃はにっこり笑ったが、
「それはそうとお嬢さん、そろそろ肩までお浸かりなさい」
丸見えですよ、という声に、ふと自分の体を見下ろした。
知らずに膝立ちになっていた所為で、上半身が外気に晒されている。要は腰から下は白濁の湯の中だが、上は湯気のみが体を覆っている訳で……。
きゃあっと悲鳴を上げて湯に沈んだ桃に、三匹の笑い声が弾けた。
「何だか物々しいねえ」
要朝、山の幸を抱えて桃源京にやってきた一人と三匹は、往来で辺りを見回していた。
今日も朝ご飯を食べに山から下りようとしたら、三匹が今日は物々交換で朝ご飯にありつこうと言い出したのだ。
田主丸が言うには、自分の銭は時間が経つと木の葉に戻ってしまうのだそうで、何回もそうやっていると人間に儲けが出ないからだという。
優しいことを言うんだなと桃は感心したが、こっそり稲荷が耳打ちしてきたところに依ると、いつも木の葉の銭で払っていると人間も誰が払ってきたのか覚えてしまって、銭を受け取ってくれなくなるから、たまには本物で支払わなければいけないのだそうだ。
結局は私達の為なんですと、しれっと言う富来に苦笑して、桃は両手いっぱいに茸を採って桃源京へとやってきたのだった。
「なんじゃ、同輩が多いのう」
三匹は今朝も人に化けている。坊主の田主丸が言う通り、墨染の衣に編み笠、錫杖やら数珠やらを手に持った坊主達が、路に列をなして歩いていた。
「御覧なさい、あそこの一団は市井の方相氏ですよ。ああ、札撒きの法師に巫女の集団までいる」
何の騒ぎだろう? 桃は茸と交換した粥をすすりながら目を丸くした。
「あたしが聞いてくるよ。椀はとっといておくれね」
稲荷が胸を強調するべく着物をくつろげて腕組をしながら聞いてきたところ、どうやら今日の朝一番に、都内の腕に覚えのある者すべてが宮中に馳せ参じるよう、お達しがあったのだという。
「身分に関係なく、鬼やらいの才のある者は宮中に入れるんだってさ。何だろうね」
「鬼やらいは御行さんの仕事じゃないの?」
「たまに市井の者と組んで仕事をすることはありますよ。しかしこれほど大掛かりなのは見たことがない」
はて、と首を傾げていると、粥を米粒一つ残さず飲み込んだ田主丸が腹をぽんと打った。
「わしが見てこよう」
そう言うと、田主丸は何食わぬ顔で坊主の列に近づき、最後尾にくっついて歩いていってしまった。
「うまく紛れ込めるかな」
「平気さ、みんな同じ坊主頭だもの。捕まって狸汁にされる心配は無いよ」
けけけ、と笑う稲荷の言う通り、田主丸は昼前に、汁物にされることなく戻ってきた。
羅城門の下で待っていた桃は、お帰りと声をかけた。
「何ともはや、昨今の坊主共は喋り好きだのう。どこの寺でどんな修行を積んだか、そればっかり聞かされたわ」
疲れた様子で戻ってきた田主丸は、どっこいせ、とため息を吐きながら狸の姿に戻った。
「わしも何処の寺の者かと聞かれての、誠成寺の者だと答えたわ。それというのも、わしは昔その寺を住処としておっての。仲間の狸と共に、やってきた坊主をからかっては追い出すのを繰り返しておったのよ。しかしある時来た坊主とは気が合ってのう。月夜の晩にはみんなして腹太鼓の芸を競い合ったもんじゃ。懐かしいのう」
「思い出話はいいから肝心要をすぱっと言いなよ。この大集合は何だったのさ」
焦れた稲荷が催促すると、田主丸は渋々思い出から帰ってきた。
「わしが宮中に行くとの、御行の奴が待ち構えておっての。皆を集めてこう宣うのよ」
――人の口に戸は立てられぬから、もう知っている人がいるかもしれませんが、先日、この宮中に鬼が入り込んだ。
「宴(えん)の松原(まつばら)にまで入り込み、応戦した検非違使が食われたというのよ」
「宴の松原とは内裏の中にある空き地の事です」
富来がそっと桃に耳打ちした。
「しかも鬼は一人では無く、闇に隠れて何人かいたようだと言うんじゃ」
――帝のお膝元にまで鬼が入り込むとは由々しき事態。よって早急に鬼共を討伐せよとの勅命が下されたのです。
――本来ならば鬼やらいの儀式は十分時間をかけて行うもの。しかし今回は早々と取り掛からねばならず、また時間をかけては鬼共に気づかれ逃げる時間を与えてしまう。
――よって討伐は今日、日が沈むと同時に長岡京へ進軍します。鬼の首を取ったものには帝よりお褒めの言葉と十分な褒美の品を賜ることが出来ましょう。
――討伐の総取締は私、御行が努めます。皆様よろしくお願い申し上げます。
御行はゆっくりと集まった面々を見回し、さも嬉しそうに笑ったのだそうだ。
「討伐って、長岡京の鬼共を全員かい?」
稲荷が目を丸くした。
「長岡京で鬼との一騎打ちなんて、随分豪気な話じゃないかえ」
「わしらも似たような事はしたがの」
「……御行殿は前々から、今回の討伐を考えていたのでしょうか」
富来が考えながら言った。
「それなら、お嬢さんが長岡京に行くのを止めてくれても良かったでしょうに。鬼共を討伐した後なら、安全に骨を拾いに行けたものを」
稲荷がフンと鼻を鳴らした。
「あいつはあたし達の事なんかどうでもいいと思ってんのさ。きっと昨日の事も、お姫さんが無事に帰ってこられるか賭けを楽しむような気持ちだったんだろうよ」
「そう、そして私は賭けに勝った」
突如、楽しげな声がかけられた。
一行がぱっと振り向くと、路の真ん中に神威を従えた御行が立っていた。
「神威と賭けをしたのですよ。私は娘さんが帰ってこない方に、神威は帰ってくる方にね。お蔭で私は賭けに負けて、朝餉抜きの憂き目にあった」
くすくす笑いながら、御行は神威を撫でた。老いた狼は喉の奥で唸っている。
「朝餉って事は、あんた昨日の内から結果が判ってたのかい」
稲荷が噛みついた。
「またどっかで見てたんだろ、あたしらが長岡京から帰ってくるのを。何だい、あたしらは命懸けだったってぇのに、あんたって奴は――」
「やめい、稲荷。こいつはどうせ何も喋らん」
田主丸が止める横で、富来がふと溜息をついて一歩前に出た。
「御行殿、どんな理由であれ、あなたは私達を手伝ってくださった。御礼申し上げます」
富来が頭を下げるのを見て、桃も慌ててそれに倣った。
御行はそれを見て、さして嬉しそうな顔もせずに片眉を上げた。何だ、どういうつもりだと食って掛かってくると思ったのに――とでも言いたげな目だった。
「御礼も言いましたし、もう戻りましょうか」
富来が促し、そそくさと一行が門を潜ろうとすると、「一つだけよろしいかな」と御行が聞いてきた。
「長岡京に、赤鬼はいなかったな」
「赤鬼?」
桃が振り向くと、御行が見つめていた。笑みはなく、至極真面目な顔だった。
「そう。赤鬼。見なかったかな」
重ねて問われ、桃は考えた。
長岡京では太鼓の音と共に鬼に襲われたが、赤い角はいただろうか。
「見なかったと思います……多分」
逃げるのに必死で、角の色まで覚えていない。そう言うと、御行は少し目を細めた。
「本当に? 内裏で会わなかったかな」
「どうして私達が内裏に行ったことを知ってるんですか?」
御行はそんなことは重要じゃないと言いたげに手を振った。
「御猫様なら、鬼に追われた時、見知った場所に逃げ込むだろうと思ったまで」
それを聞いて、桃は嫌な気持ちになった。御行は桃達が鬼に見つかることまで想定済みだったのではないか。この男は本当に、桃を賭けの対象としか見ていないのだ。
「それで?」
促されて、桃は再度考えた。内裏で会ったのは黒鬼の凶と、逃げ込んだ桃達を追いかけてきた二人の鬼――確か青鬼と黄鬼だったか。後は……。
――赤鬼よ、あの太鼓の合図を知らぬ訳ではあるまい。
そうだ。
「いました。姿は見えなかったけど、私達を見逃してくれた鬼が赤鬼でした」
「見逃した?」
眉をひそめた御行に、桃は説明した。赤鬼が他の鬼を追い払ったこと。桃達に気付いていて、襲いはしないが助けもしないと言った事。
御行は頷きながら聞いていた。何かを噛みしめるように、視線を落とす。
「――そうか。襲わなかったか……」
神威が低く唸って御行を見上げた。その鼻面を撫でてやりながら、御行はふと笑った。
「鬼のくせに人を憎み切れず、人の心を残しているくせに鬼として振る舞えない。半端で哀れな生き物よ」
その笑みは悲しそうで、桃はつい声をかけた。
「その赤鬼を知ってるんですか?」
御行はちらりと目を上げ、再度笑った顔はもういつもの御行の顔だった。
「娘さんは知らなくてもいい事。言っただろう、私の願いは娘さん達には賄えないと」
聞いても無駄だと鼻で笑って、御行は踵を返した。しかし神威はその場に残り、爪音とさせながらゆっくり桃に近づいてきた。
桃がかがむと、濡れた鼻先を耳に近づける。
――御行に深入りするな、小童。拾った命はそのまま持っていろ。
低く、泥が煮えるような声でぶっきらぼうに忠告し、背を向けて御行の後を追っていった。
「お姫さん、行こうよ」
もう門を出ていた稲荷達に言われ、桃は御行達が去っていった路を振り返りながら三匹に追いついた。
「御行殿と何を話されたのですか」
問われて、桃は御行との会話をかいつまんで話した。神威からの忠告も言うと、三匹はそちらの方に関心を寄せた。
「へえ、あいつが話したのかえ」
「てっきり人の言葉を忘れたもんじゃと思うとった」
「深入りするなって言ってたけど、じゃあどうして神威さんは御行さんの傍にいるんだろう?」
「神威殿が御行殿の所に来たのは、もう随分前ですね。ちょうど御行殿が方相氏として独り立ちした頃ではなかったですか?」
稲荷と田主丸は眉間に皺を寄せた。
「確か、御行のお父(と)っつぁんがいなくなっちまった後だったよね。そうだ、いつも親子で鬼やらいをやってたのに、その日はお父っつぁんがいなくて神威と一緒に歩いてたんだよ」
「それでわしらの方から声をかけたんじゃったのう。そうしたら、親父殿が鬼に捕まっただか何だかでいなくなってしもうたから、これからは一人でやっていくと言っておった」
「それは大変だと言ったら、これからは神威が手伝ってくれるのだと仰ってましたね」
「でも御行の奴、お父っつぁんの事探そうとしなかったよね。やっぱり鬼に食われちまったのかねえ」
「確か神威は、自分はもう郷里に戻れないから、此処を居場所にするしかないと言っとらんかったか?」
「あいつがまともに話した最後の言葉だね。それ以来だんまり決め込んじまって」
居場所が無い、か。それは此処に来た時の桃の気持ちと一緒だ。
「みんな色々事情があるんだね」
しみじみと桃が呟くと、三匹も頷いた。
「御行殿も何か考えていることがあるのでしょうね。これだけ大掛かりな鬼やらいを伊達や酔狂ではやらないでしょう」
「どうだか。あいつなら、ただ暇つぶしにやりかねないと思うけどねえ」
「何を考えているのやら解らんところがあるからのう」
桃はふと思った。御行の願いというのは、今回の鬼やらいと何か関係があるのではないか。何を報酬として得たいのだと訊いた時の、あの冷たい目。赤鬼の事を問うた時の、あの悲しそうな笑顔。
いつも笑顔の御行が素の部分を見せる話題、それは全て繋がっているのではないのだろうか。
でも肝心の話の筋が見えないと桃が首を捻っていると、田主丸が「おう、そうじゃった」と何かを差し出した。
「鬼やらいの道具はあちらが用意しておっての、一式貰うてきた」
見せてきたのは、黄金に塗られた四つ目の仮面、小さな弓矢、それに桃の種が一つ。
「何だい、どうせ貰ってくるならお札とかにしなよ。弓矢なんてどう使うのさ」
「しょうがないじゃろ、御行が、お狸様はこれを使えと差し出してきたんじゃから」
御行は桃がまた長岡京に行くのを予期したのだろうか。そういえば、弓は小振りで女子供でも使えそうな大きさだった。
「お嬢さん、何も今日行かなくても良いのですよ。長岡京は戦場になる。巻き込まれる恐れもあります」
富来が気遣ったが、桃は首を振った。
長岡京は戦いの場になる。もしかしたら混乱の中で母さんの骨が失われてしまうかもしれない。鬼やらいが長岡京の内裏まで及べば、必ず凶も参戦するだろうからだ。
「駄目。やっぱり今日の内に行かなきゃ。母さんを連れ帰るにはもうそれしかないの」
――取り戻したければまた来るがいい。俺の元へ。
――来なければ俺の方から行くぞ、鬼やらいの姫!
――やらい姫!
そうだ。来い、と言われた。
行ってやる。今度も、今度だけは、絶対に。
「行く」
決意を固めた桃の声に、三匹は顔を見合わせて頷き合った。
「一番小さいお嬢さんが腹を決めたんだ、あたしらが行かない訳にはいかないよねえ」
「こうして今いるのも何かの縁じゃ。どこまでも行こうぞ」
「また一緒に行きましょう、お嬢さん」
来てくれるのか、一緒に。桃はふっと笑顔になった。
「さあ、そうと決まればぐずぐずしてらんないね。また真正面から攻めるかい」
「お主は馬鹿か。鬼が今回も門を潜らせてくれると思うとるんか」
「じゃあどっから入るのさ」
「わしに聞くな」
「じゃあ誰に聞くのさ」
稲荷が田主丸の腹を引っぱたいた。ぽん、と良い音がした。
「そうだ。こういうのはどうです」
富来が身を乗り出した。
「まず、田主丸の旦那が腹太鼓で鬼を引き付けるのです。鬼共は太鼓の音で合図を送るのでしょう? それを真似して、注意を引く。そうすれば長岡京に入る隙もあるかもしれません」
「そいでもって、あたしと富来の兄さんはお姫さんを守りつつ内裏まで一直線、と」
「そう。途中で鬼に見つかったら、稲荷の姐さんが足止めします。お嬢さんと私は御母堂様だけを目指して浸走る」
「稲荷さん達を置いていくの?」
「そこがあたしの腕の見せ所さね。鬼なんかにどうにかなんてされないよ」
稲荷は胸を張りつつ、何じゃ初っ端からわしだけ置いてけぼりかい、とぼやく田主丸の腹をまた引っぱたいた。
「愚痴るんじゃないよ。旦那の腹は何の為にあんのさ。こういう時に活かさないとただの太鼓腹じゃないかえ」
「そうぽんぽん叩くな。わしの腹は見た目より繊細なんじゃ」
また叩こうとする稲荷の手から逃げつつ、つるりと腹を撫でる田主丸を見ながら、富来が付け足した。
「そして私が凶と対峙します。お嬢さんは骨を拾ったら桃源京まですぐに逃げてください」
攻防を繰り広げていた稲荷と田主丸が、はっと富来を見た。
「そうだ、凶はどうすんのさ」
「骨はあいつが持っとるんじゃろ」
富来は桃の顔を見上げた。
「お嬢さん、約束してください。凶と戦おうとしない事。骨を取り戻すことだけを念頭に置く事。そして」
万が一の時には、私を助けようとしないで一人で逃げる事。
桃は三毛猫の澄んだ目を見つめた。朝日を反射して、きらきらと輝く目。
鬼のぎらついた目とは違う、優しい目。
「どうして?」
桃は囁くように訊いた。
「どうしてみんな、そんなに私に優しくしてくれるの?」
命懸けなのに。死んでしまうかもしれないのに。
富来は薄らと笑った。桃源京の門からは既に離れているが、ざわめきと匂いは届いてくる。
「私は覚えているのですよ。人の温かさ、柔らかさ。お嬢さんの膝に登った時、解ったんです。私は人が好きだ。触れてもらうのも関わるのも好きだ」
自分が人に変身するのは何故だろう。きっと人に、帝に愛された事を覚えているからだ。
あの膝に抱かれた時の嬉しさ。撫でてもらった時の安らぎ。
あの手で今度は自分が誰かを撫でてやりたい。そう思ったから、自分は人になるのではないか。
「元の飼い主様にはもう御礼は言えませんから、その分誰かに優しくしてあげたいのです。受けた恩を今度は自分が誰かに返したい」
それじゃ理由になりませんかと問う富来の横で、田主丸が首を傾げた。
「人が良いのう、富来は」
「旦那だってついてきてくれるじゃありませんか」
「わしは流れに逆らえんだけじゃ」
ふんと横を向く田主丸を稲荷が小突いた。
「こういう時くらい素直になんなよ、旦那」
言われて田主丸は、「お主に言われんでも言うわ」とふくれっ面で語りだした。
「人ってのは何だか解んないものに追われてるじゃろ。美味いものを食いたいとか、出世したいとか。自分の為に行動して、時には他人を傷つける。じゃが娘は、母の為に命張ろうとしとるじゃろ。そういうのはわしは嫌いじゃないのんじゃ。ちと無鉄砲だとは思うが、たまには酔狂に付き合うのも悪くなかろ。……ええい、何を言わせるんじゃ。稲荷、笑うな」
顔が毛に覆われているので真っ赤になっているかは判らなかったが、田主丸は照れ隠しに稲荷をどやしつけた。
「笑っちゃいないよ。良い理由じゃないかさ」
機嫌よく三本の尾を振りながら、稲荷は言った。
「あたしはさぁ、お姫さんが好きなの。ただそれだけさ。あの夜駈け込んで来た時は何とも哀れな子だと思ってさ。でも可愛く笑えるし、やりたい事はやってのけるし、愛嬌も肝っ玉もある子じゃないか。あたしはそういう子が好きなのさ」
理由なんかそれで十分じゃないか。
桃は三匹を見つめた。瞬きをして目を擦る。
「……ありがとう。でも私、泣き虫だね」
「悲しくって泣いてる訳じゃないだろ」
大丈夫、解ってるよ。温い毛皮が寄り添ってくる。桃は腕を広げて、温かい獣達を一緒くたに抱きしめた。
「本当にありがとう。私、あなた達に何も御礼出来ないけど、でも嬉しい」
「御礼はお嬢さんがしたい時に、してあげたい事を、誰かにすれば良いのですよ」
受けた情は誰かに返せばいい。
誰かから受けた傷を誰かで晴らすのでは無く、誰かから貰った恩を誰かに施してあげられればいいのだ。
そうやって、少しずつ世の中を優しくしていけば良いではないか。
桃は頷いて、腕に力を込めた。
「お嬢さんの腕は温かいですね」
「兄さん、癒されてるとこ悪いけど、もうちっと詰めておくれでないかい。旦那が腹を押し付けてくるんだよ。なんかぶよぶよする」
「この弾力は一朝一夕では成し得んのじゃぞ。もっと堪能せんかい。お主こそ尻尾が多すぎて邪魔じゃ」
「邪魔とは何さ。尻尾の太さなら旦那が一番じゃないかえ。尻尾も図体もでかいんだからこういう時は慎ましく遠慮しなよ。お姫さんが腕に抱えきれないじゃないかさ」
腕の中で押し合いへし合いする三匹に、桃は声を立てて笑った。
「ごめん、狭かった?」
腕を緩めると、稲荷がふうっと息を吐いて体を震わせた。
「押しくらまんじゅうも良いけどさ、早いとこ長岡京に行こうよ」
「おう、もう太陽があんなに高く。早う行かんとあっという間に夕方じゃぞ」
「行きますか、お嬢さん」
「うん。……あ、待って」
桃は昨日から腰にくくりつけていた瓢箪の栓を抜くと、軽く振った。
昨日、凶に撒いてしまったので、酒の残りは少ない。けれど一口ずつなら一人と三匹で分け合えそうだった。
「御行さんが言ってたの。このお酒は鬼が飲むと体が痺れるけど、人が飲むと勇気が湧いてくるって。みんなで飲もう」
「酒ならどんなものでも大歓迎じゃ」
田主丸が一番に進み出た。桃は瓢箪を傾け、あーんと口を開けている中にちょっぴり注ぎ込んだ。
「甘露、甘露」
「次はあたし」
稲荷にも瓢箪を傾けると、満足げに舌で口元を舐めた。
「わりかし良い酒じゃないかさ。御行の奴、いつもこんなの飲んでんのかね」
次に飲ませた富来は、飲み込んだ拍子に軽くむせた。
「ごめん、変なとこ入っちゃった?」
「いえ……酒はどうも苦手で」
鼻に酒気が抜けてくる、とくしゃみをする富来を、二匹が笑う。
最後に桃が、ほとんど瓢箪を逆さにして口に当てた。
口に含んだ瞬間、ぱっと酒の匂いが広がる。甘いようで苦く、木の実のような香ばしさと、果実のような爽やかさが混ざっている味だった。
富来の言う通り、喉の奥から鼻に酒気が立ち上ってくる。でも。
「……おいしい、かも」
呟くと、田主丸と稲荷が感心した。
「ほう、酒の味が判るか」
「お姫さんは将来、酒豪になるかもね」
富来は苦笑して鼻面を前足で擦っていた。
「勇気、湧いた?」
桃が聞くと、三匹はこっくりした。
「何だか体が温まってきたよ」
「酔ってるだけじゃないのんか」
「お嬢さんはどうです」
桃は自信に満ちた笑みを浮かべて、空になった瓢箪を足元に置いた。
「大丈夫」
行こう――と言いかけた桃の言葉は、どおん、と鈍い音にかき消された。
「ちょいと旦那、腹太鼓はまだ早いよ」
「わしじゃないわ」
三匹は緊張して耳を立てた。桃も耳を澄ませる。
どおん、どん、どん、どんどんどん、どどどどど……。
「この音……」
太鼓だ。激しくバチを打ち鳴らす調子。
――長岡京の鬼の太鼓。
「桃源京の方からです」
一人と三匹は顔を見合わせ、弾けるように駆け出した。
まさか。
こんな日の高い内から、あいつらが?
「鬼だ」
羅城門の前で止まった富来が、苦々しげに吐き捨てた。
門の中から、長い叫び声が聞こえていた。
悲鳴。
怒号。
泣き声。
門の中に飛び込んで――桃は絶句した。
鬼だ。
色とりどりの角の生えた鬼が、人を襲っている。
あちらで青鬼が、逃げようとする物売りの男を捕まえて肩にかぶりついている。
そちらで黄鬼が、泣き叫ぶ女の顔を掴んで爪を食い込ませている。
紫の鬼は子供を追い回し、泣き叫ぶのを楽しんでいるようだった。
往来だけではなく、路地や家の中でも似たような事が起きているのだろう。
何故なら、誰も彼もが逃げている。右に左に、東に西に、物陰や路地に逃げ込んでは鬼に見つかり引きずり出される。
助けて、という言葉は爪に引き裂かれ、悲鳴は鬼の口に消える。
老若男女を問わず、問答無用で襲いくる鬼から、人々は必死に逃れようとして、けれど追いつかれて――殺されていた。
「ひどい……」
桃は立ち尽くしたまま、口元を手で覆った。その時。
――おかあさん。
小さな泣き声が聞こえた。
見ると、門柱にしがみつくようにして一人の少女が腰を抜かしていた。
桃よりずっと年下だ。かちかちと歯を震わせながら、じっと一点を凝視している。
桃は咄嗟にその子に駆け寄った。
「大丈夫? ここにいちゃ駄目、立てる?」
桃がその子を立たせようとすると、少女は何か言いたげに唇を震わせ、そっと指さした。
視線を投じると、人が倒れていた。着物からして、女だ。
「お母さん?」
訊くと、少女は桃の方を見ずに頷いた。桃は女に走りより、傍に跪いた。女はうつ伏せに倒れており、気を失っているように見える。
しっかり、と声をかけて背中に手を添えて――ぎょっとした。
体の厚みが無い。
腰の肉の感触が無い。触れるとずぶずぶと手が沈んでしまう。
桃は青ざめて、ゆっくり女を引っくり返した。
腹が無い!
女の全面は真っ赤に濡れて、腹から腰にかけてそっくり食われていた。
ぽっかりと空いた腹の中に白い背骨を見た瞬間、桃は悲鳴を上げて後ずさっていた。
――人が食われるというのは、こういう事なのか。
――母さんもこんな風に食われたのか。肉も筋も噛み切られて。
「お嬢さん後ろに!」
真っ白になった頭に、三匹の声が届いた時、桃は人影に覆われていた。
振り向くと、鬼が立っていた。
口元から胸にかけて血にまみれ、歯をむき出しにしている。
笑っているのだと判った時にはもう、鬼はその手を桃に伸ばしていた。
その時、空を何かが切る音がした。
鬼がぎゃっと叫んで飛び退く。見ると、鬼の首筋に一本の矢が突き刺さっていた。
「お嬢さん!」
駆け寄った富来が人間に化け、桃に覆いかぶさった。
富来の肩越しに見える空に、何本もの矢が飛んでいた。風切音を立てて撃ち込まれてきている。
地に、家に、屋根に、鬼に、容赦なく降り注いできた矢が突き刺さる。
方相氏達だ。揃いの四ツ目の仮面に、手に手に弓矢を持ち、一斉に鬼共に向かって撃ち込んでくる。
鬼やらいの軍団達は陣を組んでいるようだ。前方の者は弓を放ち、後方の者は何か念仏のようなものを唱えている。それを聞いた鬼共は、獲物から手を離した。悔しそうにじりじりと後退していく者もあれば、気にも介さず方相氏共に向かっていく者もいる。
富来に手を引かれ、桃はようよう立ち上がった。羅城門まで戻る。
「鬼共は艮の方から入ってきているようです」
「だって御行さんがいるでしょう?」
桃は御行の屋敷の方を見た。あの方相氏は何をしているのだ? 鬼やらいの中には見当たらない。
「此処にいては危険です。出ましょう」
皆も逃げてきている、と富来が顎をしゃくった。確かに、てんでに逃げ惑っていた人々は、方相氏に促されて門目指して走ってきている。桃源京から脱出するつもりなのだろう。
「待って、この声」
稲荷が空を伺うように顔を上げた。
空全体に広がるように、遠吠えが響いていた。
ウオォ―――ォォウ……。
「神威じゃ。わしらに話しかけとる」
「何て言ってるの?」
「鬼やらいの娘、長岡京に来い、御行が待っている――」
「あいつ桃源京にいないのかい? この一大事に何やってんのさ」
憤慨する稲荷の声を、逃げてきた人々の悲鳴がかき消した。
桃ははっと思いついて、門の端に行った。あの少女は、今は俯いて震えている。
「お嬢ちゃん、立って。ここから逃げて」
腕を引っ張り、無理やり立たせる。泣き顔の少女の頬を手で包み、噛んで含めるようにして言い聞かせた。
「逃げて。このままあなたが鬼に襲われたら、お母さんは死んでも死にきれないもの。走って、逃げて、生き延びるの。解った?」
軽く顔を揺さぶる。少女は鼻をすすって、しかし小さく頷いた。
「そう。良い子。さあ、皆について行って」
逃げる人々の波に押しやる。少女は母の方を振り返りながらも、都を出ていった。
「行こう」
桃は走り出した。後ろに富来、人に化けた稲荷と田主丸がついてくる。
人の波をかき分けて、山へと入る。
「このまま長岡京まで走るの。はぐれないで!」
「了解」
「応」
「合点」
三匹の声に背中を押され、桃は走る。
木を回り込み、草を蹴散らす。枝が桃の頬にぶつかり、一筋赤い引っ掻き傷をつくったが、それにも構わず走る。
風が真正面からぶつかってくる。向かい風に目が潤む。
大丈夫。走れるよね、桃?
今度こそ、母さんを連れて帰るんだものね。
自分に言い聞かせた瞬間、目の前が開けた。
朽ちた都。
長岡京。
「ついた」
はあはあと息を切らせて立ち止まると、三匹も止まった。
「いよいよ正念場じゃ」
「武者震いがきちまうよ」
田主丸が息を吐き、稲荷がぶるりと体を震わせる。
桃はぎゅっと口を結んで、足を踏み出そうとしたが、それを富来が止めた。
「その前に、あちらの方に話を聞きましょう」
富来は今しがた走ってきた木立の方を見ていた。
そこから、一人の男が進み出た。
真っ黒な着物。帯も足袋も黒い。手に持った、これまた黒い数珠を気楽に揺らしながら、その人物は場違いに明るい声を出した。
「やあ、来て下さったのですね」
御行だった。傍らには神威もいる。
「あんたこんな所で何してんだい。都が今どうなってるか知ってんのかえ」
「お主が指揮を執らんでどうする。鬼やらいの総取締じゃろう」
二の句を継ぐ前に稲荷と田主丸に噛みつかれ、御行はどうどうと宥めるように手を振った。
「桃源京の事ならいいのですよ。私がいなくても」
「いいってどういう事さ。都を救う気はないのかえ」
「無いですよ」
「な――」
さらりと言い返され稲荷は口を開けたまま固まった。
「長岡京で戦えば地の利で鬼共が勝つに決まっている。それならいっそ桃源京に招き入れた方が方相氏達も戦いやすいでしょう」
御行は天気でも伺うかのように桃源京の方角を見た。
「お主まさか、わざと鬼共を誘い入れたんか」
「艮の守護は私の役目。結界をかけるも解くも私次第」
わざと笑って見せた御行に、富来が訊く。
「何故そんな事を。鬼共と戦うのがあなたの仕事でしょう」
「誰も戦わないとは言っていない。ただ、戦うのは桃源京の鬼とではない。この」
顎をしゃくる。
「長岡京から出てこない、ある鬼とだ。私の行動理念は常にそれ一つ」
「……だから長岡京を空にする必要があったの? その鬼に会う為に、他の鬼とは渡り合えないから?」
桃が呟くと、「正解。娘さんは聡い」御行が褒めた。
「何百という鬼と戦っても負ける気はしないが、いちいち相手にするのも面倒なのでね。ちと別の場所に行ってもらった」
「あんたが! あんたがこの討伐を鬼に知らせたんかえ!」
「人が食われとるんじゃぞ。お主それでも人間か」
憤慨した稲荷と田主丸を牽制するように神威が唸る。御行はしかし気にもしなかった。
「私は願いを叶えたいだけだ。他の人間がどうなろうと知った事か」
私は人は救わないが、鬼は退治するのだよ。
そう言って笑った御行の口元は、人とは思えない程吊り上がっていた。
「どうせ娘さん達と私の行く先は同じだ。御一緒しましょう」
そう言って歩き出す御行の袖を、桃は掴んで止めた。
「待って。長岡京にはまだ鬼が残ってるかもしれない。そいつらと上手く渡り合わなきゃいけないの」
「へえ、何か策が?」
楽しそうに聞く御行を待たせて、桃は三匹を招きよせた。
「鬼やらいの道具、みんなで分け合おう」
桃の種、桃の弓と葦の矢、四ツ目の仮面。それらを桃は手に取った。
「桃の種は旦那がお使いよ。いざとなったら鬼共に投げつけてやんな」
「効くかのう」
田主丸は気弱に言いながら、それでも大事そうに種を手に握った。
「弓矢は稲荷の姐さんがお取りなさい」
「お姫さんが持ってた方が良かないかね」
「私はいい。富来さんが守ってくれるもの」
稲荷に弓矢を持たせると、彼女はおっかなびっくり受け取って、弦をぴんぴんと指で弾いた。
「弓術なんてやったことないよ。どれ……あ痛っ」
弓を引き絞った稲荷が悲鳴を上げた。手を離した途端、弦が乳房を直撃したのだ。
「もうちっと胸をすぼめるんじゃな」
「煩いやい。この見かけも大事な武器なんだよ」
最後に仮面を富来が手に取った。そっと顔に当てる。
「富来さん、本当に大丈夫?」
仮面の向こうで、富来は静かに笑った。
「ご安心なさい。私とて無駄死にするつもりは無い。やるべき事は果たしますよ」
細めた富来の目は、瞳がきゅっとすぼまっていた。
「さあ、もうこんな時刻だ。行きましょうか」
ぽんぽんと御行が手を打った。
一行は門に近づき、そっと中を伺った。
真っ直ぐ続く大路に、何人かの鬼がたむろしていた。
皆、耳打ちしたりされたりしながら、風を読む様に虚空を見上げている。
桃源京から吹いてくる風に乗って流れてくる、悲鳴や血の匂いを確かめているのかもしれなかった。
「まずはわしからじゃな」
田主丸はそう言って、ぽんと音を立てて狸の姿に戻り、門をこっそり潜って、ぼてぼてと走って物陰に隠れた。
そして大きく息を吸って、吸って、吸って……腹がぱんぱんになったところで、小さく掛け声をかけた。
「お狸様の腹太鼓、いよーぉっ」
どん。
腹に響く音がした。
どん。どん。どん。
音を聞いた鬼達が、一斉に振り向いた。耳をそばたて、音の方に歩み寄る。
誘うように、音が移動する。横路に入ったのか、だんだんと遠ざかっていった。
「今の内に」
御行が門を潜った。桃達もそれに倣う。
大路にいた鬼達はいなくなっている。それでも用心深く辺りを見回しながら、路を進む。
早足で路を急ぐも、桃は何だか変な感じがしていた。急いでいるのに、ちっとも前に進んでいないような気がするのだ。長岡京の大路はこんなに長かっただろうか? それとも、緊張しているから歩みが捗らないように感じるだけだろうか。
本当は走りたいけれど、足音で他の鬼に気付かれてしまうかもしれない。歯がゆい思いをしながらも、一行は先を急いだ。
もうすぐ内裏に着く。桃の心臓が、普段の倍にまで鼓動を強めた。
「お待ちを」
不意に富来が皆を止めた。
「います」
短い告げだったが、皆が意味を悟った。鬼だ。
内裏の入り口で、二人の鬼が床几に腰かけて何か台の様なものを覗き込んでいた。
鬼はそれぞれ、夜空のような藍色の角と、泥で染めたような灰色の角だ。
稲荷が弓矢を構える。富来が桃を庇うように立つ。桃は富来の背中から顔を覗かせたが、その横を御行が何の気負いも無く通って鬼達に声をかけた。
「ご機嫌如何かな、お二人共」
まるで友に話しかけるような気軽さの御行に、稲荷が「御行!」と叱咤した。
「良いのですよ。此処まで来たら、もう腹を決めないとね」
ねえ、と鬼共に同意を求めるも、二匹の鬼は一行の方を見ようともしない。
どうやら、台は双六のようだった。藍鬼が賽、灰鬼は駒を持ち、真面目くさった顔で駒をこねくり回している。
御行がまた話しかけようとしたが、藍鬼が盤を見たまま手をかざして止めた。
「しばし待て。もうちっとで決着が着く」
灰鬼も目線を落としたまま頷く。
「左様、左様」
御行は楽しそうに近づいて、盤を見下ろした。
「何故双六の勝負を? 何を賭けているのかな」
勝ったら美女でも貰えるのかと言う御行に、鬼共が独り言のように言う。
「朱雀門に住んでおった折、そんな事もあったかな」
「あった、あった」
「長谷雄卿は強かった。美女を欲した故くれてやった」
「やった、やった」
「しかし我等が賭けるは美女に非ず」
「非ず、非ず」
藍鬼は賽を転がした。
「六の目よ出ろ、さすれば俺の勝ちぞ……おう」
にんまりと笑い、駒を進める。
「俺の勝ちだ。お前の負けだ」
「負けた、負けた」
灰鬼は言いながら、立ち上がった。その目がゆっくり一行を眺めて――
突然、飛びかかってきた。
御行が機敏に避ける。神威が牙をむき出して唸る。ぎゃっと悲鳴を上げて、稲荷が後ずさった。桃は富来に押されるようにして飛び退いた。
「殺す、殺す。そういう賭けだ」
呟きながら、灰鬼が爪を尖らせて向かってくる。
「賭けをしてな。負けた方が侵入者と戦うと」
藍鬼が駒を集めながら言う。
「けっ、あたしらの命は賭事の対象かい!」
それを聞いた御行が口の端で笑うのを見て、忌々し気に唾を吐くと、稲荷が炎と共に人の姿になり弓矢を構えた。
「舐めんじゃないよ角野郎!」
矢をつがえ、ひょおっと放った。至近距離で放たれた矢はすごい勢いで灰鬼に食い込み、鬼は息を呑んでよろめいた。
「どいつもこいつも人の命を賭けやがって。もう許さないかんね」
稲荷は次々と矢を放った。顔を庇って持ち上げた鬼の腕に、幾本もの矢が刺さる。
不思議なことに、その矢は大きさにしては傷が深いようだった。どくどくと血が流れ出し、止まる気配が無い。
「鬼にとって桃の弓で撃たれた矢傷は致命傷。傷はふさがる事無く、いつまでも残る」
桃は御行の注釈を聞いていなかった、もうすぐ矢が尽きる。けれど傷を庇いながらも鬼は攻撃を止めない。
「これで最後!」
叫んで稲荷が最後の矢を放った。灰鬼はそれを掌で受けた。肉厚の掌に食い込むそれを握り潰し、矢を粉々にする。
「最後、最後。これで終わりか」
「まだ終わっちゃいないよ!」
稲荷の体が炎に包まれ、狐の姿になった。ぼっと尾から炎を噴出す。赤、青、黄、とりどりの炎が燃えさかり、渦となって轟音を立てる。
灰鬼は眩しそうにそれを見ていたが、ゆっくり藍鬼の方を振り向いた。
「やれやれ。勝ったのに戦う羽目になるとは」
藍鬼は仕方ないといった風に立ち上がった。
「俺達が勝ったら狐は貰う」
「貰う、貰う」
「皮を剥いで敷物にしよう」
「剥ごう、剥ごう」
「尻尾を切って繋げて襟巻にしよう」
「切ろう、切ろう」
ぶつぶつと言いながら、二匹の鬼は稲荷に迫る。桃は富来を見上げた。
「お嬢さん、取決めを覚えていますか」
桃が何か言う前に、富来が言った。
「稲荷の姐さんは足止めが仕事です」
「でも!」
桃は御行の方を見た。しかし非常な方相氏は笑ったまま何も行動を起こそうとしない。
「手助けなんざ無くてもあたし一人で事足りるよ! 行きなお姫さん!」
稲荷は炎の渦を鬼共に叩きつけた。一瞬、鬼は色刷りの炎の向こうに姿を消したが、突如それを突っ切って突進してきた。
髪が燃え、背中に炎を背負っているようなその姿は地獄の獄卒のようだ。
稲荷は口からも炎を吐き、火勢を強めている。その脇を、桃は富来に引っ張られて進んだ。頬を炎が掠め、思わず顔を背ける。
「稲荷さん!」
桃が呼ぶと同時に、大きな火球が出現し、それが大爆発した。その勢いに押されるようにして、桃達は内裏の中に飛び込んだ。
背後で炎が燃え盛り、狐も鬼も見えなくなっている。
桃は胸元で手を握り締めていたが、吹っ切るように顔を振って内裏に駆け込んだ。
「お嬢さん、お待ちなさい。一人で先走っては危険です」
廊下を駆ける桃の手を、富来が引いて止めた。
「……大丈夫だよね?」
桃は振り向いた。富来の顔が奇妙にぼやけて見える。
「田主丸さんも稲荷さんも大丈夫だよね? 鬼から逃げ切れるよね?」
富来は桃の言葉にいちいち頷いてくれた。ふと笑う。
「大丈夫ですとも。旦那も姐さんも、きっと大丈夫ですよ」
軽く手を揺すぶる富来を、後ろで御行がくだらないとでも言いたげな顔で見ていた。
「さあ、これで残るは二人と二匹だけ。此処から出る時には何人になっていることやら」
そんな事を言いながら、御行は桃たちを追い越した。そういえば、御行の会いたいという鬼は何処にいるのだろう、そして凶は?
内裏の中はしんと静まっていて、人の気配が無い。桃はふと、御行の屋敷を思い出した。
「……誰か、いますか」
桃はそっと声をかけた。答える声は無い。
桃が足を踏み出すと、床板がぎいと鳴った。
ぎい、ぎい、ぎっ……。
歩くごとに鳴る板が、帰れ帰れと不機嫌に唸っているようで、桃は眉をひそめた。
帰らない。だって母さんは此処にいる。連れて帰るまで、帰らない。
先陣を神威が、続けて御行が、後ろを富来、しんがりに桃が進む。
この廊下を渡って、もう少し進んだら、あの部屋に着く。
桃は富来の背後から覗き込むようにして歩いた。もう少し、あとちょっと……。
不意に、列が止まった。桃はたたらを踏んで立ち止まり、どうしたの、と目で富来に訊いた。富来はゆっくり桃を背中に庇った。
〽朽ちた都の ささくれを
そろりそろりと 撫でさすり
何処に届く 嘆き声
この世この地に 閻魔が坐し
神も仏も 雨晒し
今日も黄昏 明日も黄昏
誰かが歌っている。
富来の後ろから、桃は見た。あの部屋の前、廊下の縁に、何者かが片膝を立てて座っている。指で朽ちた板を叩いて拍子を取りながら、低く歌っていた。
「御機嫌よう、赤鬼殿」
御行がそう言った。
赤鬼。あの時逃がしてくれた赤鬼? 桃は富来に隠れながら顔を出した。
歌声の主は確かに赤い角だった。ぼろぼろの黒い着物をまとっている。そして、その顔は……。
「……御行さん?」
桃は思わず呟いていた。赤鬼は座っている所為で横顔しか見えなかったが、その顔は御行に瓜二つだった。赤鬼の方が年得ているので皺があるが、それでも横顔だけで似ているということが判る。
「……御機嫌よう、父上」
御行がもう一度挨拶した。赤鬼はその横顔を見せつけたまま、こちらを向こうとしない。
「父上、私が何をしに来たかはお解りでしょう」
御行の声は淡々としていて、何の感情も感じられなかった。
「父上が鬼共をけしかけてくれたお陰で、今や桃源京は地獄絵図です」
父親。鬼をけしかけた。その二語で、桃は悟った。御行は父親と戦う為に、桃源京を囮にしたのだ。
「何でそんな事を!」
桃は叫んで前に出た。止めようとする富来の手を振り切って、御行の袖を掴む。
「どうしてそんな事したの? どうしてそんな事するの。お父さんを倒す為に、桃源京をあんな目に合わせるなんて」
袖を揺さぶられながら、それでも御行は桃を見ようとしなかった。妙に冷めた目で、赤鬼を見つめている。
「――人なんざどうなっても知るものか」
御行はぼそりと呟いた。
「鬼を退治する為に、私が幾つ人の心を見てきたと思う。裏切り、謀略、騙す騙る嘘を吐く。人を救わんが為、その人の汚い部分を見なければならなかった私の気持ちが解るか」
「私はもう嫌になった。鬼が生まれるのは何もかも人の所為だ。もう人の助けなどするものか。あんな汚いものが詰まった都なぞ鬼に食われてなくなってしまえばいい」
「父上とて同じ気持ちでしょう。鬼に捕まり拷問紛いの甚振りを受け、結果父上は鬼になった。恨むべくは、人への恨みを父上に八つ当たりした鬼、そしてそんな鬼を生み出した人だ」
「父上、もういいでしょう。人は鬼に食われ、鬼は方相氏によって倒されている。双方大きな痛手を負うことになる。それで父上の鬼と人への恨みは晴れましょうや」
御行の独白を、赤鬼は無言で聞いていたが、やがてふうとこちらを向いた。
桃は息を飲んだ。赤鬼の顔半分が、まるで溶けたかのように爛れていた。切り傷、火傷、それらが混ざってもう人の顔とは思えない。
「……お父さんと戦うの? 自分のお父さんなのに?」
桃の手から袖を引き抜き、御行は一歩前に出た。
「私は人は救わないが、鬼は退治する。父上、あなたは」
あなたは、鬼でしょう? 問う声は落ち着いていて、しかし微かに泣きそうな響きがあった。
赤鬼は立ち上がった。溶けた顔を御行に向ける。その口元が微かに笑っていた。
「君、我が凶慝(きょうとく)を瞰(み)ませば、我を撃つこと神鬼の如くあらまし」
しゃがれた声で告げられた言葉に、御行も僅かに笑った。
「私もですよ、父上」
お互いに、酷い事をしましたね。私は桃源京を鬼に襲わせ、父上は元方相氏でありながら他の鬼が人を襲うのを止めなかった。
「あなたは人の心を捨てきれない、鬼だ。娘さん達を逃がし、けれど味方もしなかった。そんな中途半端な心を持ち続けるのは辛いでしょう」
御行は数珠をかざした。
「今、楽にして差し上げます」
御行の口から、不思議な言葉が漏れ出る。経のような呪文のような、聞きなれない言葉だった。
「下天に蔓延る人食いの鬼よ、臨める兵戦う者、皆陣連ねて前を行けば、これ全て上天に繋がる道に消え給え」
それを聞いて、赤鬼も何か呟いた。
「青竜、白虎、朱雀、玄武。四神の恩寵は流れ流れて我に懸からん呪を祓い給え清め給え」
朧気ながら、御行の呪文を赤鬼が打ち消したことは想像がついた。赤鬼が続ける。
「柔な術をかけるな。あまり時間はかけとうない。甚振られるのは鬼共に捕まった時に懲りた」
御行は顔を俯かせた。そのまま、神威に声をかける。
「……神威、急ぎ清める。娘さん達を中へ」
神威が桃の裾を噛んで引っ張り、御行から引きはがした。
桃は部屋の中へと引きずられながら、御行の顔を見ようとした。
彼がこんな事をするのは、全て父親の為なのだ。人に戻れず鬼にもなり切れない父親を救うには、もう殺すしかない。その為に、桃源京を囮にしてまで此処に来たのだ。
桃の胸の中に、御行を厭う気持ちと哀れに思う気持ちとがない交ぜになる。
どうして、親の為にここまで出来るのだろう。それはやっぱり、愛しているからだ。どうしても愛していて、何でもしてしまう。桃が命をかけて長岡京に来てしまったように。
御行さんの気持ちを、赤鬼は知っているのだろうか。親を手にかけるまでに凝った思いを、それ故他の人にしてきた仕打ちを、受け止める気はあるのだろうか。
――君、我が凶慝(きょうとく)を瞰(み)ませば、我を撃つこと神鬼の如くあらまし。
桃には意味が解らなかったけれど、きっとあれが答えなのだろう。
そして御行も、仕打ちの報いを受ける覚悟があるのだろう。だから、戦うと言ったのだ。
鬼である父親と戦って、出来れば自分も殺されたいと思っているのではないか。差し違える事こそ、御行の願いではないのか。
人なんざどうなってもいい、と御行は言った。それには人である自分も含まれているのではないか。
そんな人である自分も嫌っているのではないか。
桃はぎゅっと唇を噛みしめると、御行と赤鬼に向き直った。神威が唸るが、それは富来が押しとどめた。
「そんなの駄目、御行さん」
新たな呪文を唱えようとしていた御行が、桃を睨んだ。
「対人鬼共通の金縛りを唱える。石になりたくなかったらそこを去れ」
「駄目」
桃は繰り返した。拳を握り、足で床を踏みしめる。
「私は、人ってものは今何をするか、これから何をするかが大事なんだと思う。御行さん、あなたはこれからすることに後悔は無いの? 後悔しないって言いきれる? それとも」
後悔したくても出来なくなってしまう、そんな事を望んでいるの?
桃の言葉に、御行の持つ数珠が微かに揺れて音を立てた。
「お父さんを殺して、自分もこの世からいなくなってしまいたいんでしょう。長岡京の鬼と桃源京の人も道連れにして」
「でも、そんな事しないで。人は変われるんだと思う。それが出来ないで、自分の気持ちに引きずられちゃう人もいるけど、その所為で鬼になってしまうけど、それでも嫌な方に変わったのなら逆に良い方向に変われることもあるんじゃないかと思うの」
「恨みを忘れて人間に戻れと言うのか、娘」
赤鬼が初めて桃に口を利いた。
「馬鹿な。鬼が人間に戻る事は無い。一度角が生えたらもう鬼として生きる他はない」
「違う、忘れろと言ってるんじゃないの。誰にでもそういう弱さはあるの。苦しい事や悲しい事を経験して、そういうものと上手に付き合って、そうやって人は人として生きられるんじゃないかと思う」
「鬼も人も変わらないよ。汚い気持ちに勝つのは難しいけど、そういう時にお互いに支えあって生きていくのが人でしょう」
そういう風に生きられないか。辛い思いをした鬼だからこそ、それを糧にして今度こそ人らしい生き方をすることは出来ないのか。
桃の言葉を、御行は黙って聞いていたが、その目が赤鬼に向けられた。
桃は赤鬼に向かって言った。
「赤鬼さん、御行さんを殺さないで。この人はお父さんがいなくなってから神威さんと頑張ってきたの。人を嫌いになって、とっても辛い思いをしてきたの。あなたと同じよ、解るでしょ?」
自分と同じ悩みを持つ息子と相対死にする気かと問われて、赤鬼は息子の顔を見た。
「御行さんも、お父さんを殺さないで。人が嫌なら人のいない所まで逃げればいい、私は母さんと二人、それでも幸せに生きてた。母さんがいれば他に何もいらなかったの。御行さんも、そうでしょ?」
お父さんの事、好きでしょ? だから殺す羽目になっても、助けてあげたかったのでしょう?
御行の手が力なく垂れ、数珠が悲しげにしゃらんと鳴った。
「……逃げろと言うのか」
御行が呟く。
「ここまで来て父と二人、逃げろと言うのか。ここで生きて都を捨てれば私も父も反逆者だ。人にも鬼にも追われることになる」
親子の愛だけで、これからの人生を逃げ続けろと言うのか。御行の問いに、答えたのは赤鬼だった。
「なればこうしよう。娘、お前は母の骨を拾いに此処まで来たのだろう」
桃が頷くと、赤鬼は暗い部屋の中を指さした。
「奥の部屋へ行け。凶が待っている。そこで今言った事を凶に言うがいい。彼の者がそれを受け入れ、お前を襲わずにいたらお前の勝ちだ。我もお前の進言を受け入れ、息子と共にこの地を去ろう」
「父上」
「良いのだ、息子よ。凶は誰よりも鬼としての振る舞いに長けている。人を襲い、同胞をも食らう鬼の中の鬼だ。彼を人の心に戻せたらお前は無事骨を持って桃源京まで戻れよう。説得出来なんだら」
私達は炎の中で息絶えよう。
その言葉が終わらない内に、御行が懐から火打石を出した。
「火を付ける気なの?」
桃の問いに、御行は石を打ち付けながら言った。
「父上を倒したら、この都ごと果てるつもりだった。鬼の住処はもうこの世に無くていい」
そう言いながら、御行はちらりと目を上げて赤鬼を見た。
「それで良いでしょう、父上? これは賭けだ。この場にいる全員の命が賭けの対象。娘さんが勝てば私は桃源京を救い、父とこの地を去ろう。逆に娘さんが戻ってこなかったら」
死あるのみ。
かちん、と石が鳴る。御行の袖を探って、神威が縄のようなものを取り出した。
縄の先にぽつんと火が灯り、じりじりと煙をあげていく。
「神威、内裏を回って火を付けておいで。終わったら」
お前はお逃げ。縄を咥えたまま、神威は喉で唸った。
「良いんだ、神威」
御行の手が、老いた色の毛皮を撫でる。
「追い出されるのを覚悟で縄張りを統一しようとしたのは、誰とも争いたくなかったからだろう。もう争わない為に自分の命を賭けねばならない、その辛さを知っているからお前は私に着いてきてくれたのだろう」
御行はしゃがみこみ、神威の鼻面に額を当てた。
「北の地から此処まで来たその命、散らす事もあるまい」
いきなさい。御行にやんわり押され、神威は背を向けて廊下の奥に消えた。
「……さあ、時は刻一刻と進んでいる」
立ち上がった御行は、元のふてぶてしい態度に戻っていた。
「私は何も授けませんよ、娘さん。数珠も札も呪文も、何もね」
娘さんなりの鬼やらいを見せてもらいましょうか。
御行は挑むような笑い方をした。数珠が握り締められ、ぎしりと軋む。
「行こう、富来さん」
促し、桃は部屋の暗闇へ飛び込んだ。
その後ろで、御行がそっと父親に笑いかけたのを感じながら。
「お嬢さん、私の後ろに」
部屋を抜け、内回りの廊下を進む。内裏の中はまるで迷路のようで、桃は辺りを見回しながら歩いた。
こんな大きい建物でも、人がいないとこんなに朽ちる。
かつては烏帽子を被った男達がそぞろ歩いていたのだろう。綺麗な着物を着つけた女房達がしめやかに歩いていたのだろう。
それが今はどうだ。親子の情と、命の取り合いとが混ざり、それが細く白い煙に巻かれようとしている。
「きな臭い……」
「神威の付けた火が回ってきているのでしょう」
桃の眼前を、幽霊の手のような煙がたなびいていった。それを払い、桃は富来を見上げた。
「……凶、居ると思う?」
「ええ。あいつはお嬢さんを殺したがっています。きっと待ち受けていますよ」
あの黒鬼は、今も歌っているのだろうか。桃の母の骨を傍らに置き、指で拍子を取りながら、今か今かと待っているのか。
桃は耳を澄ませた。聞こえるのは朽ちた板を軋ませる風の音。遠くで何かが弾けているようなのは、火が壁や屋根に燃え移っているのだろう。そして……
「――聞こえた」
桃は、はっと瞬いた。今、聞こえた。
姫、と。
来い、と。
確かに呼ばれた。
富来と顔を見合わせる。頷いて、富来が先に立つ。
もう足音を潜ませる事はせず、ぎしぎしと唸らせながら声を辿る。
――来い。
――やらい姫。
「今行く」
桃は声を固くして呟いた。
そこで待っていて。
必ず行くから。
桃が心の中で答えた瞬間、聞き覚えのある歌が流れてきた。
〽親の因果が子に報い
人を恨めや鬼の子よ
鬼を殺めよ人ならば
人を喰らえよ鬼ならば
万の仏も我を救わぬ
さすればこの世は生き地獄
今日も黄昏
明日も黄昏
そう、もう黄昏だ。
誰(た)そ彼(かれ)、と問う時刻、歌っているのは同胞食いの黒き鬼。
「……悲しい歌だね」
誰に習ったのか。桃は広い部屋に足を踏み入れた。
何畳あるのか判らない程広いそこは、板張りだった。所々黒ずんでいるのは腐っているのか。
大きな御簾が垂れ下がり、その向こうに朧げな人影が見える。
「帝に拝謁できる場です」
立ち止まって見据えながら、富来が肩越しに桃に言った。
人影はそれを聞いて、喉の奥でくつくつ笑った。
「あいつもこんな所でこんな風に座っているのであろうかな。己のしでかした事も忘れて、のうのうと」
「あいつ?」
「帝よ」
人影はゆらりと立ち上がった。御簾に手を伸ばし、不意に掴んで引きちぎる。
「来てくれたな、鬼やらいの姫」
不気味に優しい声を出しながら、黒鬼は暗がりから出てきた。
額に黒い角が屹立し、片目は閉じられている。目の周りが赤くかぶれたようになっていた。桃が神便鬼毒酒を浴びせた所為だろうか。
残った片方の目で桃を見て、唇を微かに舌で湿らせる。美味いものを目にした時のように。
凶は桃を見つめたまま、ゆっくり歩き出した。足裏を擦るようにして、脇にひと塊の何かを抱えている。
「富来さん……」
桃は富来の袖を引っ張った。凶から目を離さず、富来が頷く。
「御母堂様ですね」
富来はおもむろに懐に手をやり、鬼やらいの仮面を引っ張りだした。
凶がぴたりと足を止め、目を細める。
「赤鬼に皆やられると思うていたが、案外すんなりと来たな、姫」
「赤鬼殿は御行殿と待っていますよ、私達が生きて帰ってくるのをね」
それを聞いて、凶はちっと舌打ちをした。
「本気で息子と理解し合う気なのか。鬼の癖に人の賭けに乗るなど」
富来は仮面を顔にくくりつけた。
「あなたには解らないでしょうね。親子の情の深さなど」
黄金の四ツ目に見つめられ、凶はくだらないと言いたげに鼻を鳴らした。
「解らんな。何故そうまでして親子でいたがる」
「この世は既に末法の世だ。お前達がいくら親子でいたがっても、既に世は腐り始めている。時勢に逆らえる者など誰もいない。一度途切れた糸は繋ぎ直せぬ。人は鬼になったら最後、もう鬼としてしか生きていけないのだ。人も鬼も互いを食らいあう。遠からず親が子を食らい子が親を食らい返す世の中が来るぞ」
「それはあなたがそういった仕打ちを受けたからですか?」
富来が静かに言い返した。凶ははたと口をつぐんだ。
「世の中がそういう風に見えるのは、自分が親から酷い目にあったからではないですか。あなたは親が嫌いなのでしょう。だから」
富来は仮面の下でわざと笑ったようだった。
「だからあなたはお嬢さんが羨ましい、そうでしょう?」
言い終わると同時に、凶が手に持っていたものを床に叩きつけた。骨がばらばらと散り、赤茶けた頭蓋骨がごろりと転がった。
「……ああ、そうだ」
振り絞るように凶が言った。顎に力が入り、首筋に血管が浮いている。
「母は俺の事が嫌いだった。憎んでさえいた。あの男に手を付けられた挙句忘れ去られた母は、その恨みをすべて俺に下したのだ」
「くどい程言われたわ。お前は鬼子だ、忌まわしい、見るに堪えない、挙句の果てに俺のような子供がいるから、あの男は自分を迎えに来てくれぬのだと泣いた」
「俺の顔に愛しい男の面影を、角に男への恨みを見て泣くのだ。愛憎の狭間で、ついに母は俺の首に手をかけた。だから俺は」
母の首を絞め返してやったのよ。
唇が弧を描き、吐息のような笑いが漏れた。
「その時解った。末法の世はもう来ている。人の持つ心こそこの世の闇、真の悪よ。親子の情などあてにならぬ。親子で食らい合う事こそが人の本質だ。この世の真理だ」
凶が一歩踏み出した。富来が後ずさる。
「来い、方相死共。お前達が守ろうとしているもの全て、長岡京の鬼が食らい尽くしてくれるわ」
くくく。
くかかかか。
笑いながら、凶は大きく足を踏み出した。富来は下がろうとして、思い直したように踏みとどまった。
「……理由は解りましたよ、黒鬼殿」
富来は手を広げて、指を鉤型に曲げた。爪を凶に向ける。
「けれど私は信じている。人にはそれでも優しいところがあるのだと」
「愚かな猫風情が。獣に人が守れるか!」
吐き捨てるように言って、凶は腕を振りかぶった。それを振り下ろす前に、富来が凶に向かって突進した。
富来の爪が凶の首筋を狙って突き出される。凶がその手を払いのけ、拳で富来の顔を殴りつけた。踏みとどまった富来は腰を低くして下から爪を突き出す。顎を狙った爪に凶は大きくのけぞり、しかし一回転して床に這いつくばった。
獣のように四足で飛びかかり、富来を組み伏せる。仮面の中で、富来は猫の威嚇のような声を出した。
桃はその光景を胸で手を握り締めて見守っていた。見ていると、若干富来に分が悪い。
富来が唸るたびに身を乗り出し、凶が腕を振りかぶる度にはっと身を引く。
桃は泣きそうになりながら、辺りを見回した。母の骨は、今鬼と猫から何歩も離れていない所に打ち捨てられている。
富来が力任せに凶を突き飛ばし、逆に馬乗りになった。
今なら……。
桃はそっと移動した。戦いから目を離さず、そろそろと横歩きで骨に近づく。
ゆっくり腰を落として、手を伸ばす。あと少しで、手が届く……。
その時、凶の手が空を切って、富来の仮面を払い落した。富来の瞳はきゅうっとすぼまり、猫の目になっていた。その糸のように細い瞳が、一瞬動いた。桃の方へ。
凶はそれを見た瞬間、人の喉から出るとは思えない唸り声を上げて富来を突き飛ばした。
反転して両手足を床に付き、さっと部屋を見渡す。
桃の指先が骨に触れる、ちょうどその時だった。
「姫!」
呼ばれてぎくっと桃が手を引っ込めたのと、凶が手足で床を蹴って突っ込んできたのはほぼ同時だった。
桃は悲鳴をあげて飛びのいた。
骨の中に凶が飛び込み、がしゃんと音を立てて散らかる。
骨の欠片がこんこんと床を弾んで、桃の足元に転がった。
「お嬢さん!」
富来が叫んで、凶の背中に飛びかかる。凶は振り返らず手の甲を後ろに叩き込んだ。口元を殴られ、富来が怯んで一歩間を置く。口の端から血が垂れた。
ぺっと血を吐き出し、富来は体勢を整えた。凶の潰れた目の死角から、立ち上がろうとした彼に再度飛びかかり、後ろから顔を鷲掴みにする。
元々潰れていた目と、見えていた目に思い切り爪を立てた。
凶が悲鳴を上げて富来の手を掴む。鬼の爪が富来の手に食いこみ、皮膚を破る。
それでも富来は手を離さない。首をへし折る勢いで富来の顔を仰向かせ、耳元で囁く。
「この世が汚くても、お嬢さんだけは汚させはしません」
絶対に。
呪いのように吹き込んで、富来は指先に力を込めた
目玉の潰れる、嫌な音がした。
急に凶は静かになった。
だらりと爪を富来の手から抜き、体から力が抜ける。
富来はゆっくりと手を引き抜き、膝でにじりながら富来から離れた。
目で桃に合図する。
桃は戸惑いながら頷き、骨に手を伸ばした。最初は恐る恐る、けれどその内胸の内から溢れる気持ちに押されるように次から次へと拾い出した。
母さん、やっと。
やっとこれで……。
涙が滲み、口元に笑みが浮かんだその時。
ぎゃっと人とは思えない叫び声がした。
桃が振り向くと、富来の姿が無かった。
「富来さん?」
呼ぶと、微かに唸り声がした。
猫に戻った富来が腐った床に転がっていた。手足をひくつかせ、苦しそうに痙攣している。
首筋に、赤い切り傷が深々と付いていた。
「何をしたの!」
悲鳴のように言った桃に、凶がのろりと顔を上げた。
両目から血を流し、赤い涙のように見える。
「……姫。そこにいるな」
見えない目で、桃の方を向く。
「白鬼が人間の子供を匿っていると知った時、殺してやろうと思った」
独り言のように言う。
「いや、本当に許せなかったのはお前だ、姫」
鬼から生まれた癖に、人として生きている子供。
何故だ。何故お前は人として生きている。
恨みを下されず、幸せそうに。
「緑の鬼が言っていた。あの母親は娘を愛している。だがお前はどうだ。母を愛していたのか。この長岡京に閉じ込められ、籠の中の雛として育てられた事に恨みはなかったのか」
愛が重い。そんな風に感じたことはなかったのか。
凶が立ち上がる。桃は目を伏せた。足元に転がる骨の欠片。母さんの骨。
「……生まれてこなければ良かったって、そう思ってた」
桃は呟いた。
「母さんが鬼になったのは私の所為だと思ってた。私がいるから、母さんは恨みを忘れられなくて鬼のままなんだって」
でも、母は優しかった。ご飯を作ってくれて、話を聞いてくれて、着物を縫ってくれた。
桃は骨を拾い上げた。手で柔らかく包んで、胸に寄せる。
「でも富来さん達が言ってくれた。母さんは私の事を慈しんでくれたって」
親の情に勝るものはこの世にない。そう、その通りだ。
母さんは、私を愛してくれてたのよね?
長岡京に暮らしていた事は、決して辛い事なんかじゃなかった。そうよね?
角があっても、それでも私達は親子だったって、そう信じてもいいんだよね?
「母さんは私の母さんだ。あなたに恨まれるような、そんな人じゃない」
桃は顔を上げた。凶はその気配を察したのか、血で塞がった目を開いた。
真っ赤になった眼球が、桃を捉える。
「恨まれる筋合いはないというのか。馬鹿が。お前は生きているだけで鬼にとっては恨めしい存在だ!」
言葉が尻上がりに高まり、凶は飛びかかってきた。桃はすんでのところで避け、部屋の中を走った。
床が鳴り、その音を頼りに凶は的確に桃の後を追ってくる。
桃は思い切って一旦止まり、腐っていない板を選んで飛び歩いた。
足音がすぼまり、凶も止まって耳を澄ます。桃はそんな凶を気にしながら、そっと壁にへばりついた。
「……あなた、もう恨むことでしか生きていけないの?」
機敏に凶が顔を向ける。桃は口をつぐんで、そっと移動した。
「もうそれしかないの? あなたのお母さんはもういない。恨みを向ける人はもういないのに、まだ誰かを恨み返さなきゃ気がすまないの?」
言っては口を閉ざし、また移動する。凶は桃の声を追って、体を反転させた。
「辛くないの?」
「もうこんな生き方こりごりだって、そう思うことはないの?」
「どんなに私を羨ましく思っても、私はあなたと取って変われない」
「だから私は自分の人生を生きるしかないの。どんなにあなたに酷い事をされても、そればっかりに囚われていちゃ生きていけないから」
私は、生きていたいから。
凶はそんな言葉を聞いて、ぼそりと答えた。
「生きていたい、か」
いつの間にか、空気が生温かくなっている。火がもう回ってきているのだろう。心なしか視界が霞む。その煙を吸うと、肺がくすぶるようだった。
「体は自然と生きるように出来ている。髪も爪も独りでに伸びる。肌は傷を負っても新しい皮膚が張り、心の臓は勝手に鼓動する」
「だがそれと同時に死んでいく部分もある。切った髪や爪はもう生きてはいない。垢も死んだ皮膚だろう。心の臓が一打ちするごとに、今まで新しかった部分が、死んだ部分になっていくのではないか」
煙った空気を吸って、吐いて。桃が吐いた息は漂って、今度は凶が吸うだろう。凶の吐いた息は煙と混ざって、また桃が吸うだろう。
「なれば、俺は少しずつ死んでいっているのではあるまいか。毎日死んでいっている、その朽ちていく体に、心だけが変わらず居座り続けているのだ。過去も現在も未来も、変わらずに。心は過去に縛られ、変わる事はない。その心は、生きるが故の癒しの恩恵を受ける事はないのだ」
それが、鬼というものだ。
桃はひたりと立ち止まった。
部屋を一周して、母の骨の所まで戻ってきている。
もう煙で喉がひりついている。きっと凶もそうだろう。息を吸い合って、吐き合って。
桃の肺には、凶の息が少し混ざっているはずだ。凶の中にも。
私達は、互いの息を交換して、今ここに立っている。桃の一部分が凶を生かし、凶の断片が桃の生きる糧。
私達、そうやって生きているんだよね。
桃はうっすら笑って、骨の傍にひざまずいた。
凶が怠慢な動作で振り返る。
「解った。あなたは自分が変わるのが怖いんだ」
桃は骨を拾い始めた。凶は一歩一歩、踏みしめるように近づいてくる。
「毎日毎日、少し生まれて少しづつ死んで。体が新しくなるって事は、自分が変わっていくって事だもの。あなたはそれが怖いから、新しくなった自分が自分なのか不安だから、死んでいく事に安心するんだ」
腕いっぱいに骨を抱えて、最後に頭蓋骨を掴む。凶はもうすぐそこだ。
「心が変わらないと思うのも、自分がこの先心を変えた結果どうなるか、不安だからでしょう。でも、自分はいつまでも自分だし、今までも私達自身だよ。心が変わるって事は心が死ぬって事じゃない。生きているから変わるんだ」
桃は頭蓋骨を手のひらに乗せて、立ち上がった。凶は桃の傍らに佇んで、手を伸ばした。
長い爪が、桃の首にかかる。
「ねえ、そうでしょう? 生きた結果がどうなるか、解らないから人生は怖いし、でも面白いんでしょう?」
指に力が籠められる。ぐうっと首が閉まる。
「ねえ――凶――」
声を絞り出しながら、桃は凶を見据えた。血に濡れた眼球の中に、黒い瞳があった。
「人からどう思われて――いたって――やり直しちゃいけないって、誰が決めたの――?」
富来さんと稲荷さんと、田主丸さんと。長岡京で恨まれていたって、桃源京で人らしく生きてはいけないって、誰が決めたの?
鬼は鬼としてしか生きられない、それはあなたがそう決めてしまったのではないの?
「あなたも――見つけられれば良かったのにね」
私が三匹に出会えたように、救われたように、あなたも自分を認めてくれる人を見つけられれば良かったのに。
誰かがあなたを、生きていると認めてくれれば、そうすれば。
「私とあなた――きっと――」
きっと、解り合えたかもしれなかったのにね。
首にかかっていた手が、やにわに緩んだ。凶の見えない瞳が、ふと和んだようだった。
「――これがお前の鬼やらいか、姫」
札も呪文も使わない、言葉だけの鬼祓い。
桃は軽く咳込んで、けれどぐいっと顎を上げて凶を見た。
骨を一まとめに左腕で抱えて、空いた右手を凶の頬に伸ばす。
目から流れる血を手のひらで擦り、指の腹で目の縁をなぞってやる。
「あなたが鬼やらいだと思うなら、それでもいいよ」
でも、結果はどうだろう。鬼として祓われたと思ったのか、人として救われたと思ったのか。
不意に鈍い音がした。
建物が軋み、遠くで何かが崩れる振動が伝わってくる。
それと同時に、煙が濃くなったようだった。きな臭いがぱっと顔を包む。
ばちばちと火が爆ぜるのが聞こえ、桃が振り向くと、もう炎が廊下の端から顔を出していた。
「火が……。富来さん」
こっちに来て、と言いかけた桃の眼前を、素早く何かが煙を切り裂いて飛んできた。
目で追うのが間に合わず、顔をそちらに向けた時にはもう、凶が弾かれたように後ずさっていた。凶の首に、一本の矢が打ち込まれていた。
「どうやら賭けは娘さんの勝ちのようだ」
声と共に、白い煙を掻き分けるようにして黒い男が現れた。御行が弓矢を手にして立っていた。傍らには神威が控えている。
「骨の奪還、おめでとう。ここから先は私が引き受けよう」
そう言って、御行は数珠を掲げた。
「足は根を張り、天に髪を掴まれ、口に糸を、目に闇を。観音に願い奉る、彼の者に与えられし天地全ての恩恵を取り上げ返さんことを」
凶が何か言おうとしたが、口が動かなかった。首に打ち込まれた矢は、不思議な事に御行が唱えるにしたがってずぶずぶとめり込み、尚も首に食い込んでいくようだった。
体を硬直させ、引き抜こうとするが、鬼の身では出来ない。抜こうと力んでいるのか、手の甲に骨が浮き、指先が白くなっていた。その手に、舞い込んできた火の粉が降りかかる。
「さあ、仕上げだ」
御行は懐から短刀を出した。桃ははっとして御行に駆け寄った。
「待って」
「自分で始末をつけたいのか、娘さん」
短刀を差し出してくる御行に、桃は頭を振った。
「違う。殺しちゃ――駄目」
御行は片眉を上げた。
「私、生きてる。母さんも取り戻した。賭けは終わりよ、もう帰ろう」
「娘さん、賭けはあなたが生きて帰ってくることが条件だった。裏を返せば、どちらかが生きるという事はどちらかが死なねばならぬという事だ」
御行は短刀で凶を指した。
「鬼は執念深い。自分が取り逃がした相手を執念深く追うぞ。桃源京に鬼を連れて帰りたいのか」
そうしたいなら止めはしないが。
笑う御行に、桃は再度首を振った。違う。違う。
「もう終わりなの。殺し合いも憎み合いも、全部終わったの」
「鬼を許すのか」
「許さない。この人が母さんにした事は許せない。でもそれを理由にこの人に何かするのはもっと許せない。もうこんな事終わりにしなきゃいけないの。誰かがどこかで終止符を打たないと、これからもっともっとこんな事が続くもの」
桃は御行と凶の間に立ちはだかった。凶を庇うように。
「私が今ここで終わりにする。私は生きてここを出る。この人は」
桃は肩越しに凶を見た。呼吸が荒く、喉が笛のように鳴っているが、凶が桃の言葉を聞いている事は解っていた。
「この人も……終わりにしてほしい」
変わってほしい。無理な事とは解っていても、そう願わずにはいられない。
桃は凶に向き直った。胸に骨をしっかり抱きかかえ、手を伸ばす。
凶の首に触れる。矢に指をかける。引き抜いて、床に捨てた。
血の流れ出る首筋に手を当てる。
「もう殺さないで。そして、死なないで。出来ることなら変わって。生きて、変わっていって」
桃の声を凶は黙って聞いていた。その唇が微かにわななき、何か喋りだそうとして――。
突如、不穏な音がした。天井がみしみしと軋み、不意に内側にたわんだ。
神威が唸り、御行の袖を咥えて廊下に引っ張り出した。
桃は咄嗟に凶を突き飛ばして自身も倒れ込んだ。
その瞬間、今まで立っていた所に天井の木と炎が一緒くたになって落下してきた。
桃が体を起こすと、目の前が真っ赤になっていた。顔に熱い空気がぶつかってきて、息が出来ない。吸い込むと喉が火脹れになりそうだ。
盛んに舞い上げる火の粉に目を細めつつ、桃は辺りを見回した。
どこもかしこも火、火、火。
腐った建物は火の勢いに耐え切れず、今にも倒壊しそうな悲鳴を上げている。
――どうしよう。
もう部屋全体が火の海だ。外に出るには炎を突っ切るしかない。しかし、そんな事をしたら火だるまになってしまう。
――私も死ぬの?
桃は骨を抱く腕に力を込めた。
母さんみたいに、火で骨になるまで焼かれてしまうの?
そうなったら、誰が私の骨を拾ってくれるの。
腕の中で、母が空っぽの眼窩で桃を見上げている。
桃はそれをじっと見て、ぎゅっと唇を噛んだ。
「――諦めない」
知らず、口から洩れていた。
「――私は諦めない。生きてやる。そう決めたの!」
叫んだ途端――目の前に火柱が立った。
渦を巻き、穴の開いた天井まで届くそれは段々と大きくなって、火球のようになった。
ごうごうと音を立てていた渦は、広がって周囲の火を巻き込んで、不意にばしんと爆ぜた。
熱風に目を閉じた桃は、身を守ろうと床に伏せた。
「――さん、お姫さん」
「娘や、何処じゃ」
「――お姫さん、無事かえ⁉」
この声。
桃は顔を上げた。
「お姫さん!」
「娘、そこにおったか」
稲荷と田主丸だった。
「二人共! 無事だったの」
桃は燃え盛る炎越しに呼びかけた。
田主丸は走ってきたのか、ぜいぜいと息を荒げている。
稲荷は所々に傷を負い、こちらもはあはあと短い息を繰り返していた。
「今そっちに行くからね!」
叫んだ稲荷に、桃は首を振った。
「それより、富来さんを!」
富来が倒れている方向を示すと、田主丸がそちらに駆け寄った。
「おお、富来。しっかりせい」
言いながら近寄ろうとするが、落下してきた天井から吹き上げる火がそれを阻む。
「ええい、小癪な。稲荷」
促されて、稲荷は尾を一振りした。
ぼっと尾から噴出した炎が、火に襲い掛かる。
炎は火を飲み込み、一瞬わだかまったかと思うと、火ごと爆ぜて消え去った。
次の火が燃え移る前に、急いで田主丸が進み出て、富来を担ぎ上げた。
「もうここは持たん。急がねば」
「ああ、お姫さん、こっちに――」
言いかけた稲荷の言葉は、真っ赤な色に遮られた。
古い木を糧にした火は猛々しく舞い上がり、三匹と桃を分断した。
熱い。体が溶けそうだ。
「みんな!」
「お姫さん大丈夫だよ! 伏せて頭を守って!」
稲荷の忠告でというよりは、その火勢に押されて、桃は床に這いつくばった。
胸元に骨をかき寄せ、ふと見ると凶がこちらに顔を向けていた。
「あなたもうつぶせになって。顔が焼けちゃう」
凶の顔に、火から守るように手でひさしを作ってやると、凶はつと手を上げて桃の手首を掴んだ。
「……」
何か言おうとしているが、口が渇いている為かすれて聞き取れない。
桃は凶に覆いかぶさるようにして顔を寄せた。
背後で、稲荷の炎が上がったのが判った。先ほどのように火に炎をぶつけることで火を打ち消そうとしているのだ。
凶はそっと手を桃の手首から彼女の頭へと移し、抱き寄せた。互いの吐息が混じり合う程の近さで、二人は顔を突き合わせた。
「……あるのだ、姫」
ごうごうと唸る炎に紛れて、小さな囁き。
「泣きわめこうと怒り狂おうと、戻らぬ心はあるのだ」
それは自身の事を言っているのか、はたまた、ついに向けられることのなかった親の愛情の事なのか。
火球が鼓動のように大きくなり、小さくなりを繰り返している。火を飲み込むのに苦労しているようだ。
あちら側で、しきりと桃の名を呼ぶ声がする
「……何も出来ないね。私」
火が桃達に被さっては退く。凶の顔は照らされては陰り、陰っては照らされ、奇妙に斑に見えた。
「何か私にしてあげられる事はない? このままここで終わるなんて嫌。私、約束したの。生きて帰るって。そうすれば、御行さんは赤鬼さんと逃げられるし、私は富来さん達とこれからも過ごしていける」
でも、あなたは? あなたの帰る場所はどこにあるの? 心が、体が休まる場所は、この世のどこにあるの?
凶はふと笑った。
「鬼として産まれて、けれど覚えず人の娘に和まされるとは、黒鬼の名折れよ。この上は、死して後、真の幽鬼となって世に仇を成さん」
「そんな……」
震える声で呟いた桃の顔を、凶は両手で挟んだ。
固く、骨ばった、けれど確かに体温のある手。
この温かさは、火で炙られたせいなんかじゃない。決して。
「だが」
凶の囁きが、不意にはっきりと聞こえた。
建物が崩れ落ちる音も、業火の咆哮も、何もかもがはたと止んだように思えた。
「世に生きるは人ばかりでないと、そう伝える者がいれば――」
生を愛でるも悪くないと、そう思えるかもしれんな。
「凶……」
凶は桃の頭を引き寄せ、彼女の額を己の額に当てた。
触れた場所から熱が伝わり、しかし角の尖った感触は――。
はっと桃が身を起こした瞬間、体の隅々まで響く破裂音がした。
振り返ると、床から天井まで丸く炎の輪が出来ていて、ぽかりと開いたそこから稲荷と田主丸が呼んでいた。
「お姫さん、長くはもたないよ、早く!」
「急げ、娘」
桃は骨を抱え直し、立ち上がろうとした。途端、ずきんと足首に痛みが走った。
見れば、片足の踝のあたりが赤く腫れている。先刻、倒れ込んだ際にくじいたらしい。
「私は駄目。先に――」
行って、と言いかけたところで、桃は襟ぐりをぐいと引っ張られた。
凶だった。立ち上がり、猫の子のように桃を掴んで、声を立てて笑った。
その口から、どっと血が溢れ出た。
「お前はお前のやり方で生き進むがいい」
「生きるが不幸か、死ぬが幸せか」
「その命を賭けて答えてみろ、鬼やらいの姫!」
そう叫ぶと、凶は桃を力任せに投げ飛ばした。
世界が反転し、次の瞬間、桃は稲荷と田主丸に激突していた。
「ごめん! 大丈夫――?」
「大丈夫。それよか、おっ母さんはちゃんと持ってるね?」
「もう行かんと。まるで火炎地獄じゃ」
田主丸が富来を担ぎ直し、慌てて廊下に出ていく。
「さ、お姫さん、早く」
急かされて、桃が束の間逡巡した、その時。
どおん、と重い音を立てて柱が倒れてきた。火の粉と炭になった木っ端を浴びて、桃は息を飲んだ。
炎に遮られる瞬間、立ち尽くして見えない目でこちらを見つめている黒鬼を見たような気がしたが、もう確かめられなかった。
凶がいた場所は、既に火柱が立っていた。
桃は薄く口を開いて呆然と見つめていたが、ぎゅっと唇を噛むと、踵を返した。
「行こう」
廊下に出たが、もう左右に火が塞がっていて行き場が無い。
「旦那! どこに行っちまったのさ」
「おおい、こっちじゃ、こっち」
廊下を降りたところにある庭の隅で、田主丸がぽんぽんと飛び跳ねて呼んでいた。
「廊下伝いにはもう歩けん。中庭を回って内裏の中を突っ切るしかないぞ」
「突っ切るって、どっちに突っ切るのさ」
「生憎と富来がこの様じゃからのう」
背負われた富来は、微かに唸るだけで目を開けない。
「火勢の弱い所を選んでいくしかあるまい」
「ええい、こうなったら男は度胸、女も度胸だよ。お姫さん、腹をくくんなね」
返事の代わりに、桃は骨を抱きしめた。
三匹と一人は、かろうじて火の回っていない所を身を低くして進んだ。咳き込むほどに煙が濃い。それにこの熱気。目眩がしそうだった。
手に骨を抱えながら、中腰で煙る中を進むのはさすがに辛い。遅れがちになる桃を、何度も振り返りながら稲荷が励ましてくれる。
「お姫さん、頑張んなね。もうすぐだからね」
幾度目かに励ました稲荷が、田主丸の背にぶつかった。
「ちょいと、早く歩きなよ旦那」
「むう……」
田主丸は苦虫を噛んだような声を出して、顎をしゃくった。
桃は初めて気が付いた。行く手に火、後ろにも火。
囲まれている。
「このままじゃ黒焦げだよ。どうにかしてよ旦那」
「わしに言うな。お前の火で打ち消せんなら無理じゃ」
ふうと息をついて、田主丸は腰を下ろした。
「ちょっと、旦那」
「じたばたしても始まらんわい」
田主丸は気が抜けるほど気楽に言って、空を見上げた。
桃の一番好きな形の月が、ぼんやりと空の端にかかっていた。
月が夜を引き連れてこようとしている。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」
「馬鹿だね、本当に涼しいなら水浴びならぬ火浴びでもしてくりゃいいだろ」
毒づきながら、稲荷もへたりとしゃがみこんだ。
「……もう終わりなのかねえ、あたし達」
「さてな……」
二人の静かな声を聞きながら、桃はしょんぼりと下を向いた。
ふと見ると、富来のひげがひくりと動いていた。
「富来さん?」
「おお、気づいたか」
「兄さん、大丈夫かえ」
声をかけられて、富来は薄目を開けた。
「……ここは熱いですね」
大儀そうに首を持ち上げ、ぱたぱたと耳を動かす。
「富来さん、傷、大丈夫?」
「なに、かすり傷です。それより」
富来は桃の手元に目をやった。
「ああ、取り返したんですね」
良かった、と何度か頷く。
「しかし、せっかく取り返した御母堂様を、また火の中に入れてはいけません」
「うん……でも――」
もう行き場が、と辺りを見回す桃に、富来はまた耳を動かした。
「行先が解らない時は、先に逃げた人に訊けばいいのです」
「無理だよ。神威は飼い主と逃げたんだ、もう長岡京にはいないよ、きっと」
そうか、神威。獣の耳なら、この助けを聞き取れるかもしれない。
鼻を使って、桃達の居場所が判るかもしれない。
「大丈夫、彼らはまだいますよ」
「でもねえ」
ぐずる稲荷の横で、田主丸がぽんと腹を叩いた。
「やってみる他ないわい」
田主丸はすうっと息を吸って腹を膨らませると、どん、と一発打ち鳴らした。
どどん、どんどん、どどどどど……。
稲荷は自棄になったように立ち上がった。
「ええい、あいつ、応えなかったらぶっ飛ばしてやるかんね!」
叫んで、七色の炎を尾から噴出させた。
竜巻のようにぐるぐると巻く火柱と、腹に響く腹鼓。
お願い、応えて。
桃が祈ったその時。
ウオォ――――ォォウ……。
雄叫びが、聞こえた。
「応えた!」
「――床下を通れと言うとる」
床下! そうか、そこなら火は来ていないだろう。
けれど、いつ建物が崩壊するか解らない。下手をすれば、全員押しつぶされてしまう。
でも今は、そうするしかない。
三匹と一人は、床板を潜って暗闇の中へ飛び込んだ。
土はまだ湿っている。煙も来ていない。
「先に行って」
三匹を先に行かせて、桃はしんがりについた。
神威の吠え声は、まだ続いている。火の気の少ない所を教えてくれているのだろう。
だが、頭上の床はみしみしと軋んでいる。いつ崩れてくるか判らない。
片手でを抱え、もう一方の手を地について膝でにじるように進むのは難しい。
どうか崩れる前に外に出られますようにと、知りもしない神に祈りながら、桃は前に進んだ。
「あっ!」
不意に稲荷が声を上げた。下がって、と叫ぶ。
目前の床から、柱と思しき木が一本、ずんと床を破って突き出した。
「こっちは駄目だ。向こうに回って」
「駄目じゃ、こっちも床の破れから火の粉がこぼれてきとる」
おうおうと神威が吠えているのが、心なし急いているように聞こえる。
上から聞こえる燃える音に不安げに耳をそばだてた時、桃はふと聞きなれた声を聞いた。
「――そこにいるか、小童共」
「……赤鬼さん?」
桃が呼ぶと、三匹も耳を立てた。
「――来い」
言い捨てて、赤鬼は歩き出したようだった。きし、と床が人の重さに軋む音。
その音を追って、桃達は再び進みだした。赤鬼は器用に火を避けているのか、足音は止まらない。
必死で音についていき、やがて稲荷が歓声を上げた。
「ああ、もうすぐ出られるよ!」
見れば、前方にぼんやりと明かりがさし込んでいた。
火の明かりではなく、にじむような光――月の光だ。
思わず期待に顔を輝かせた桃は、後ろで不穏な音を聞いた。
はっと振り向くと、巨人が床を踏み抜くように、床板が次々と崩れてきていた。
「急いで!」
尾の毛を逆立てて、三匹が光に向かって走っていく。桃も土を掴むようにして三本の手足で駆けだした。
「お嬢さん」
「早く早く」
「急げ」
先に出た三匹の切羽詰まった声が桃を焦らせ、地面につまづかせた。
あっと思った時には、桃は地面に強か顔をぶつけていた。
あと数歩の距離なのに。体を起こそうとして、けれどその時、頭上が大きく鳴った。
――崩れる。
瞬間、明かりの中から手が一本、ぬうと伸びてきた。桃の手を掴んで、ぐっと引っ張る。
暗がりから外へ引っ張り出された桃は、助けた主を見た。
御行だった。
「あ……ありがとうございます」
御行は何も言わずに、放るように桃の手を離した。どこか痛い所のあるような顔で、燃え盛る内裏を見つめている。
「――君に問う、何(いず)くにか之(ゆ)く所ぞと」
火の中から、低く返す声がした。
「但(た)だ去れ、復(ま)た問うこと莫(な)からん。白雲(はくうん)尽くる時無し」
御行は赤鬼の言葉を噛みしめるようにじっとしていたが、やがて踵を返した。
桃はふらつく足で後を追った。内裏を出る門まで来て、もう一度、燃え盛る内裏を見る。
――終わるのかな
――これで、全て終わるのかな。そうだといいけど……。
視界が斜めになっていく。気を失う瞬間、誰かが自分の名を呼んだような気がしたが、もう何も解らなかった。
目の前に母がいた。
何だかひどく満足そうに笑っていて、やがてどこかへ歩き出そうとする。
桃がついていこうとすると、微笑みながらやんわりと、しかし迷いなく押し返してくる。
私も母さんと一緒に行く。
そう言うと、母はやっぱり笑ったまま顎をしゃくってみせた。
桃が見回すと、どこかで誰かが呼んでいる。
しきりと呼ぶので、桃はそちらへ歩き出した。
視界の端で、母が手を振って送り出してくれたのが見えた。
その額に、角は無かった。
今見ているものが何なのか、桃は一瞬解らなかった。
木目の濃い板。何だか煤けているように見える。ああ、これは天井だと認識したのは、大分経ってからだった。
ここ、どこだろう?
桃は布団に寝ていたのだった。寂れた、という表現がぴったりの部屋の中には、桃以外誰もいない。
「富来さん? 稲荷さん、田主丸さん」
呼ぶと、一瞬の間の後、布団の中でごそごそと何かが動いた。そこで初めて桃は、布団が三つ、丸く盛り上がっていることに気付いた。めくると、そこには、
「ああ、お姫さん!」
「目が覚めましたか」
稲荷と富来が、嬉しそうに言って顔を出した。どうやら、桃と一緒に寝ていたらしい。
「おお、寒。娘、めくらんでくれ。年寄りに隙間風は堪えるわ」
「旦那、せっかくお姫さんが目覚めたのに寝てんじゃないよ。起きな」
稲荷に蹴っ飛ばされて、田主丸がごろごろと転げて布団から追い出された。
「みんな、怪我は? 大丈夫なの?」
「平気さ。御行が珍しく面倒みてくれてね」
稲荷は首を曲げてみせた。体の所々に、包帯を巻いている。
「富来さんは?」
「この通り」
富来の首には大きな膏薬が貼られていた。
「お嬢さんの足も、手当てしてくださったのですよ」
布団から足を引き抜いてみると、その通り、包帯がきつめに巻かれていた。
それを触っているうちに、桃はふと思い出した。
「母さんは? どこ?」
「ここです」
声がして、ふすまが開けられた。御行が神威を従えて立っていた。
「ご機嫌麗しゅう」
いつもの作り物めいた笑みで部屋に入り、桃の傍らに座ると、何か箱のようなものを差し出した。
「神威が寺までひとっ走りして、持ってきてくれてね。入れておいた」
入っているのが何なのか、桃には解った。きちんと座り直し、両手で頂く。
「……やっと帰ってこれたね」
語りかけ、撫でさする。しばらく、しんみりした空気が部屋を満たした。
それを破ったのは、御行だった。
「さあ、これで賭けは娘さんの勝ちという訳だ」
「あんた、まだそんな事言ってんのかい。みんな生きて帰ってきた、それでいいじゃないかさ」
稲荷が噛みつくが、御行はふふんと鼻で笑うだけだ。そんな御行に、桃は訊いてみた。
「あの……赤鬼さんは?」
あの業火の中、出てくる姿を見なかった。そう言うと、御行は目を細めた。
「いない」
「いない?」
「内裏の焼け跡から、骨は見つからなかった。骨まで焼けたか、それともどこかに逃げたか」
桃はうなだれた。赤鬼は、賭けの約束を守らなかったのだろうか。私は生きて帰ってきたのに。――生きて……
――生き進むがいい。
「そうだ、凶は?」
顔を上げると、皆が桃の顔を見ていた。
「凶はね、死んだよ。お姫さん」
「焼け跡から、骨が見つかりまして」
「じゃが、その骨がのう……」
三匹が言いよどむのを、御行が引き取った。
「角が無かったのだよ、娘さん」
「角が?」
「あれだけの火事だ、骨が変形して角が取れても無理はない。ただ」
御行は三匹を見た。
「お三方は、娘さんの鬼やらいで、凶が鬼から人へ戻ったのだと主張していてね」
「だってそうじゃないかさ」
稲荷が声を張り上げた。
「凶はお姫さんを殺さなかった、そうだろ兄さん?」
「ええ、確かに凶は言いました。人の娘に和まされるとは、と」
「人には案外というもんがある。鬼にもあるんじゃろ、きっと」
三匹の主張を聞いて、御行が鼻で笑っている。けれど、桃は考えた。
火の中で聞いた、あの落ち着いた声。
――世に生きるは人ばかりでないと、そう伝える者がいれば。
――生を愛でるも悪くないと、そう思えるかもしれんな。
凶は救われたのか。私の鬼やらいで。
死ぬ一瞬前、人の心に戻れたから、角は無くなったのか。
「良い方に解釈しましょう、お嬢さん」
富来が囁いてくる。
「鬼は人に戻れる、そう考えた方が、生きて帰ってきた甲斐があるというものです」
「……うん」
桃は白木の箱を撫でた。そういう事でいいよね、母さん?
「さて、もう朝餉の時間は過ぎたが」
御行が仕切り直すように言った。
「借りを返すわけではないが、良ければ食べていくといい」
桃は首を傾げた。借り? どちらかというと、桃達が御行から鬼やらいの道具を借りたのだが。
「生きて帰った事で、赤鬼は死ななかった。それを、ありがとうと言っているのでしょう」
富来がそっと教えてくれた。桃はちょっと考えて、断った。
「いいです。そのまま貸しておいた方がよさそうだから」
御行は、一瞬目を見開いて、それから声をたてて笑った。
「図太い娘さんだ。鬼より尚怖い」
桃達は立ち上がり、御行の屋敷を出た。御行は見送りには出なかったが、代わりに神威が門まで付き添った。
「ありがとう、神威さん」
礼を言うと、神威は低く唸って、何も言わずに背を向けた。
「私、どれくらい寝てたの?」
「丸一日だよ。寝すぎて頭が痛くないかい、お姫さん」
小路を歩きながら聞いて、桃は辺りを見回した。
最後に見たときはあれだけ鬼がいたのに、今はまったく影も形も無い。しんとした空気が、太陽に温められていて、あの惨劇が嘘のようだった。
「お嬢さんを神威殿が背に乗せてくれましてね、あの後、急いで都に戻ったのですよ」
「そしたら、御行の奴、旦那に腹太鼓を所望してね」
「鬼を集めろというのよ。何をする気じゃと問うたら、本業を遂行するだけじゃと、ぬけぬけと言いおって」
「鬼を退治したの?」
御行の鬼やらいは、どんなものだったのだろう。
「まず、こう数珠を構えるだろ」
「そんでもって、集まってきた鬼に一礼してな」
「何か呪文のようなお経のようなものを唱えましてね、そうしたら、鬼共がぴたりと動かなくなったのです」
そうして、にやりと笑ってこう言った。
「そなた達の頭、黒鬼の凶は既に亡い。長岡京も既に業火に沈んでいる。これよりそなた達の帰る場所はこの世のどこにもないと思え――とまあ、こうさ」
「あいつの言い方じゃと、まるであいつが凶を退治したように聞こえるのう」
「実際、凶の骨を手土産に差し出して、帝から直々に礼を言われたのだとか」
「帝を欺くとはようやるわ、あいつ」
「本当だよ」
桃は苦笑した。御行さんなら言いそうだ。
「それで?」
「ここに帰ってくる気は無かったから、手持ちで戦うしかないと言って、何か経文のようなものを読み上げまして」
「それを聞いた鬼共、急に力が抜けたようにふぬけちまってね」
「そこへ次々と、方相氏共の矢や札を浴びせかけられ、退治されたという訳よ」
ふうん。桃は脳裏にその光景を思い浮かべた。
何百という鬼と戦っても負ける気はしないとうそぶいていたが、なかなか本当かもしれない。
「それで一件落着。都は元通りです」
そら、と富来が顎で示す。
桃達は、大路に出ていた。
路の脇に茣蓙を敷いて商売をしている人々。
壺や皿を売っている者、櫛や簪を並べている者。
あちらは魚、こちらは瓜、着物に鏡に太刀。何でも揃っているように見える、人間の市。
「あんなことがあったのに……」
桃は唖然として呟いた。
あんなに酷い事が起きたのに、まるで何も無かったかのように人々は過ごしている。
「図太いよねえ、人間は」
「じゃが、そうであるから生きていけるのかもしれんのう」
「人の強さ、ここに極まれりですね」
右に左に目をやりながら、大路を歩く。
ふと、桃は路の脇で盛んに湯気を立てている鍋に目をやった。
ほわんと湯気が顔をくすぐる。その中身をかき回し、笑顔で客に配っているのは。
女の子だった。あの時、桃が羅城門で助け、逃がした女の子。
女の子は、見つめている桃に気付くと、手を上げて挨拶した。
桃も小さく手を上げて、そして三匹を見る。
「どうする、お姫さん。食べるかい」
「金ならいくらでも作れるぞい」
田主丸が木の葉を取り出そうとするのを、桃は笑って止めた。
「あの子に葉っぱのお金を渡すのは忍びないから、今日はやめておく」
「じゃあ、山でご飯を食べようか」
稲荷が元気に言って、一歩先に出た。
「今ならアケビが生っとるかもしれんな。カラスウリもあるかもしれん」
田主丸も言って、稲荷の後に続く。
「御母堂様にも、お供えしてさしあげましょう」
見上げてくる富来に、桃はしゃがんで目線を合わせた。
「あのね、富来さん」
「はい」
「私、母さんと同じ仕事をやってみようと思うの」
富来は黙って首を傾げた。
「家々を回って、家事を手伝うの。そうして、報酬をもらうの。母さんがやってたみたいに」
「それでね、悲しい事とか、辛い目にあった人の話を聞いてあげられたらいいなって。聞くだけでどうにかなる訳でもないだろうけど、でも心の角(かど)は取れると思うの」
人から受けた恩は人に返す。それを、ゆっくりやっていけたらいいな。そう思うの。
桃の小さな決意を、富来は頷いて聞いていた。
「お嬢さんの好きなようになさい。きっと、それは良い事ですよ」
そう優しく言って、富来は歩き始めた。
桃は立ち上がった。これから、やらなくちゃいけない事がいっぱいだ。仕事をして、母さんのお墓を作って、そうだ、ご飯も食べなくちゃ。
「お姫さーん」
「娘や、早う来い」
稲荷と田主丸は、もう羅城門を超えようとしている。富来も待っている。
「今行く!」
元気に言って、桃は箱を抱き直して歩き出した。
空はからりと晴れていて、風が優しくそよいでいく。
もう、悲鳴のような風音は聞こえない。
生きよう。桃はそう思って、小さく微笑んだ。
終わり