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愛しいあなたと赤い首輪

  意地の悪い雲が太陽を隠してしまうから、冬の風がさらに冷気を帯びて、換毛期が終わり厚く、長くなったはずの私の白い毛皮の隙間を簡単にすり抜けて骨にまで染み込ませるような冷たさで私を鋭く突き刺す。

  コタツであたためておいたはずの、彼が買ってくれた赤いミンクのマフラーも外気ですっかり冷やされてしまい、撫でてみても冷たく、なめらかに指が滑るだけだった。

  外に出たばかりだというのに指先がすっかり冷えて赤くなっているものだから、両手を顔に近づけて白い息を吐きかけながらすっかり黄色い葉が落ちきってしまった茶色いイチョウ並木の道を彼と歩く。

  彼は隣で指を温めながら歩く私をちらりと見た後、少し余らせて垂れていた赤いマフラーをすくい上げて、私の首にもうひと巻きした。

  「マフラー、」

  彼が私に話しかけながらも、その目線は私の方を向いていない。

  「新しいの、買ったろか。」

  彼は少しだけ私の方に体を寄せて、歩幅を合わせて歩きながら控えめに呟いた。

  「んーん、これがええんよ。」

  「そっか、シロは相変わらず物欲ないんやなぁ。」

  平坦ながらも、少し残念そうに聞こえる彼の声。

  「あ、でも今日のお昼は寒いし湯葉食べたいわ。」

  ミンクのマフラーは彼が買ってくれたものだから別に代わりはいらないけど、それでも華を持たせてあげたいから彼の太い腕に私の腕を回して尻尾を寄せ、くっついて小さく甘えた声を出すと、彼の表情は自分の居場所を見つけたかのように明るくなるのだった。

  「分かった、行こか。…通りの鍋屋って昼やってるんかな?」

  「ダメやったら帰ったあとウチが作るわ。」

  まだ日の高いうちからカップル同士で仲のいい子ネコの兄弟がするように互いの尻尾を絡めながら歩いていると、すれ違うイヌや、ネコの大人なんかが“あらあら”なんて目で見てきたり舌打ちしてくるものだから、彼は少し照れくさそうに歩くスピードを早めた。

  それでも甘える私から手と尻尾は離そうとしない。

  私も離さない。

  なぜなら外での立場があるためか、普段外でべたべたすることを嫌う彼がこんなことを許すのは、大抵が他のメスネコと寝てきた後だと相場が決まっているからだ。

  男が使うには似合わない、匂いを移すのが目的だと言わんばかりの下品なくらい強い花の香りがする香水とシャンプーの混ぜくったような香りを彼が放つ。

  顔も知らないどこかのメスが、文字通り“匂わせる”

  ためにわざわざ付けたのだろう。

  だから、そのほかのメスからマーキングされた匂いを上書きするように、そして、また相も変わらず他のメスと寝てしまった彼の罪悪感も落としてあげるために私も体を擦り付け、しっぽを巻き付ける。

  「今日、夜はまた会合?」

  「…おお、多分朝まで帰ってこんわ。」

  「そ。」

  

  彼の名前はクロと言う大柄で優しい黒ネコで、この町で愚連隊のボスをやっている。

  私は、シロ。

  白ネコで、クロの彼女。

  ______

  私たちが暮らすこの町は都会のキレイな街とは違って、そのキラキラした街のネオン街で自分に値札を付けて使われるだけ使われて、ゴミみたいに掃いて捨てられた獣人たちが最後の最後に流れ着き、吹きだまる、そんな錆びた無彩色の町。

  ここで生まれた男はほとんどが学生のうちから悪さをし始め、女は亭主か彼氏に殴られながら抜き取られるだけのお金を稼ぐ一生を送る。

  野犬や野良猫と暮らしに大差のない、他に行き場のない堕ちた者達が集まって一丁前に結束…いや、拘束かもしれない。

  それだけはするものだからこんな町から内心飛び出したいと思いつつもツテもお金も無い者たちは愚連隊を組み、ほかの愚連隊と争いながら下の者からなんだかんだとお金を巻き上げ続けて、誰かが耐えきれずそれに手をつけた時にそいつを吊るし上げて、

  「こいつは俺たちを、家族を裏切ったんだ!」

  なんてお決まりの文句を言いながら私刑を下し、耐え続けるみんなの溜飲を下げると同時に擬似家族の結束を強めるのだ。

  そこまでしても、愚連隊の集めたお金はヤクザになった自分たちの先輩が全部巻き上げてしまうから、結局みんな貧乏なのだった。

  まるで導火線に火のついた不満のたまった爆弾を女も、愚連隊も、ヤクザも、みんなで回し合いながら誰かが爆発するのをずっと待っている、そんな生活。

  それでも根が優しく弱いものをむやみには虐げないクロがこの町に住み始めてからは、少しだけマシになった。

  そんなクロも、今年で22歳になる。

  縄張りを暴力で勝ち取り、頭がいいから商売も上手なクロはそろそろ先輩のヤクザにスカウトだってされている頃だろう。

  そして、なんだかんだと言いながらこの町でヤクザになってお金を巻き上げる側に回ってしまうのだと思う。

  「うっ、っ、に、ぃ、兄ちゃん、タビ酒、買わん?1瓶3000円で、3000でええから。」

  アーケードを通っているとシャッターの降りた建物と建物の隙間から、ぼろぼろの帽子を目深にかぶった老いた白ネコがよろよろと近づきながら私たちを誘ってきた。

  老ネコの目は落ちくぼみ、隈だらけなのにマタタビに工業用アルコールを自分で混ぜた危険な飲み物ばかり飲んでいるせいか、窪んだ目の中でトリップした瞳だけがギラギラと異様に輝いていて、溶け落ちた歯と相まって気味の悪い怪物のようにも見える。

  かつては私と同じく白かったであろう老ネコの毛は埃と垢で塗れ、汚く赤茶けていた。

  「いらんわ、ボケ。白昼堂々、[[rb:売 > バイ]]やるなっちゅうねん。」

  「はん、半値でもええか、ら。ら。きもちええど。お嬢ちゃんも、ほら、ナ。」

  「やかましい。」

  尚もすがろうとして私に手を伸ばした老ネコをクロが蹴飛ばすと、糸が切れた人形のように呆気なく転んでしまい、持っていた瓶も地面に落ちて割れてしまった。

  零れたマタタビ酒に頭から突っ込み顔を濡らした老ネコは起き上がることもケガを確かめることもしないままずりずりと床を這う。

  「びび、瓶が…瓶底から、メチルだってあっ炙れば、軽くなるんに…」

  服が汚れることも舌が砂だらけの地面に触れることも厭わず、ぴちゃぴちゃと床に零れた危ないマタタビ酒を舐め、老ネコの体は時折びくん、と跳ねた。

  「あんま質の悪いメチルばっかやってると戻れんくなるぞジジイ。」

  「あ…あっ…買って、かってや…」

  通り過ぎてもクロは、老ネコを一瞥もしなかった。

  怒っているのか、軽蔑しているのかどちらとも取れそうな皺を寄せたドス黒い目をしてただただ前を向いていた。

  「クロ、」

  「うん?あー、ごめん、やなとこ見せたわ。はよ飯いこ。」

  私の存在を思い出したのかさっきとは打って変わってバツの悪そうな、慌てた顔をする。

  「…あのおじいちゃん、冬越せるかな。」

  クロは鼻だけで深くため息をつくと、

  「どうやろなあ…。」

  もう一度、どこか悲しそうな黒い目つきでそう呟いた。

  

  ______

  クロと2人で住んでいる部屋に帰ったあと、真っ黒い毛並みを夜の闇に溶け込ませながらバイクに乗って会合に出ていくクロを見送ってから、私はぼんやりとテレビドラマを眺めていた。

  結局昼に鍋はやっていなかったので近場のマクドナルドを食べに行き、持ち帰ったフィレオフィッシュを夜も食べている。

  ポテトが少ししんなりしていたけど、私はカリカリしたものよりもこっちの方が好きだったし、いつも食べる時はクロがしなしなになっているポテトを私に優しい顔をしながらくれるから好きだった。

  テレビ画面から流れるBGMと俳優の情熱的なセリフに合わせて、壁にかけた時計がコチコチと大きく秒針を刻む音が少し聞こえている。

  朝9時から夜の8時までの間、1時間ごとにオルゴール調の音楽が流れ文字盤の中のフィギュアが踊り出すこの時計は、中学生の時にクロがリサイクルショップで買ってきてくれたもので、すこし子供っぽいかもしれないけど母と住んでいた家から持ち出してくるくらいずっと気に入っていた。

  実家で母が隣の部屋で男を相手に“仕事”をしていたり、転がり込んだ何人目かも分からない旦那を名乗るオスと喧嘩をしている時でもこの曲が流れる私の部屋だけは汚れていない、キレイな部屋だと思えたからだ。

  『嬉しい、こんなにも、ちぎれてしまうほど嬉しいのに。私が愛しいと本気で抱きしめたらアナタは死んでしまうんですもの!』

  『それならずっとボクが抱き締めるさ、君に寂しいと感じさせないほど強く抱きしめるよ。一生、君を抱きしめさせてくれないかい。』

  画面の中ではヒグマの女優とシバイヌの俳優が土砂降りの中抱き合いながらエンドロールが流れていた。

  次回の最終話で、結婚までいくんだろうか?

  

  クロは、私との将来のことを考えているのかな?

  ______

  Rrr…Rrr…

  コタツでぼうっとしているといつの間にか寝ていたみたいで、電話の呼出音で目が覚めた。

  時計を見ると深夜3時を指していて、座ったまま眠っていたせいか少し首と背中が痛い。

  クロが夜いない日にだけかかってくる、公衆電話からのいつもの電話。

  一応受話機を取り、もしもしと伝えるも相手は何も話さず、少し荒い息遣いだけが小さく聞こえる。

  相手はおそらくクロと寝たどこかのメスで、彼と寝た私こそがアイツの女なんだと私にプレッシャーをかけるために、こうして不在のときを狙って無言電話だったりしつこく着信を鳴らしたりするのだけど、クロにはこのことを言ってはいない。

  相手は無言で電話越しなのにも関わらず、受話器を握る力や怒りが伝わってくる。

  私の方が、どうしてお前なんだと言わんばかりに、受話器をギリギリと握り締める音まで聞こえてくるようだった。

  私がそんな“彼女たち”に伝える言葉は、大体いつも同じ。

  「クロなら、集会で今日はどこにも帰らないよ。」

  「一昨日他の子のとこで泊まってたからあと2週間は誰のとこにも行かないよ」

  「別れを切り出されたの?それとも1回だけだったの?もっといて欲しかったの?」

  「でも、クロはクロだから私じゃ何もしてあげられんのよ。」

  

  向こう側で彼女の息の震える音がする。

  ぎりぎりと張り詰めて、発射される寸前の弓のような震え。

  「…ね、死ね、クロと別れてよ!死んでよ!」

  電話口の向こうで吐き出すように恨み言を言った途端、私とクロへの罵詈雑言が女の子の口からとめどなく溢れ出てくる。

  情緒が不安定で泣きながら話しているせいか、しゃああ、だとかふぅぅ、とか本物の猫の威嚇のような息を時折吐き出しながら彼女は呪詛を唱え続ける。

  この町の女の子は望まない妊娠が多く、片親だったり日常的に暴力を受けて育ったせいか、身体を売ったり殴られることに対して抵抗は薄いのに、心を裏切られることに酷く怯える子が多かった。

  家族愛に誰よりも飢えているはずなのに、愛されてこなかったから愛し方が分からなくて、離れられるのも怖くて、暴力で縛り付けるのはよくある話。

  この町の出身じゃないクロは、女の子や弱い者に無闇に暴力は振るわないからそれだけで女の子から好かれた。しかし、無責任に優しいからどうしてもと言われるとこういう時に断れない。

  電話の向こうの彼女も最初は「2番目でもいいから」なんて言って一晩だけとせがんだけど、一晩だけでも愛された時にやっぱりクロのことが欲しくなってしまったんだと思う。

  でも、クロの優しさは言ってしまえば光の瞬きのようなもので、いずれ消えてしまうような光だった。

  それは、見せてくれるだけ。照らしてくれるわけじゃない。

  優しさと交わりに飢える女と、残酷な優しさで惚れられる男。

  どっちも本当に考えてるのは先のことじゃなくてどこまで行っても自分のこと。

  私たちだってそうしてこの町で生まれたはずなのに、何度もまた同じことを繰り返してる。

  「私の方が、尽くせるのに。アンタなんかより毛だって白いのに。あんたの毛なんて、私に比べればくすんでいるわよ。アンタの親と一緒よ、この“首輪付き”!!」

  「………」

  人差し指を、無言でそっと首に走らせる。

  私の首には横に走った傷痕があって、そこからは体毛が生えてこなくなってしまっていた。

  横に走った傷跡からはピンクの肌色が露になっていて、ソープランドなんかに沈められた娼婦には飼い猫という意味を込めて鈴付きの赤い首輪を仕事の時に付けさせるため、私の首に走った赤い傷痕をそう呼ばれることがあった。

  “首輪付き”“鈴付き”というのはネコにとって最大級の侮辱にあたる。

  それでも、私だけは傷つかない。

  「ごめんね。でも、クロが1番大事なのは私なんよ。」

  なにより、この傷は、クロが付けてくれたんだよ。

  受話器の向こうでしゃっくりを上げながら恨み言を言い続ける女の子に静かに告げる。

  

  「ごめんね、私のクロがあなたを傷つけて。」

  どんなに優しくされても、どんなにクロに抱かれても、1番は譲れない。

  

  クロを照らせるのは私だけで、クロの優しさはその光の残滓だから。

  

  クロが帰ってきたのか、うぉぉぉん、というバイクの咆哮が幾重にも重なって遠くで聞こえる。

  なんだか発情してるみたい。

  そう思いながら電話を切ると、それっきり鳴らなくなってしまった。

  しばらく電話機の前で立ちつくしていると静かにドアを開けて部屋に戻って来たクロは、少し驚いた目でこちらを見つめ、

  「まだ寝てなかったん?」

  と言う。

  「うん。友達とちょっと長電話しとった。」

  …本当はクロの後始末だよ。

  「ね、今日は一緒にお風呂入ろ?」

  

  ______

  クロは、10歳の頃この町に引っ越してきた。

  なんでも彼の父親は遠いキラキラした街のどこかの偉い人の秘書だったらしいけど、脱税の手伝いをしていたらしくてそのしっぽ切りで捕まり、トビタだかいう料亭街で働いていた母親の実家がこの町にあるらしく戻ってきたそうだ。

  そういう話を、嬉しそうに近所のおばさんたちがしていたのをおぼえている。

  これまでの暮らしへの母親の未練か、プライドか、小学校のみんなは私服なのにクロは転校してきた初日にキレイなブレザーと短パンの制服を着ていた。

  お下がりのお下がりで常によれた服を着ていたクラスメイトたちからその日のうちに仲間はずれにされてしまったのは言うまでもない。

  クラスメイトから物を取られたり、この町に帰ってきてから自分よりもうんと年上のオスに媚びて愛人になったという母親の悪口をひそひそと言われたり、服を濡らされたり毎日嫌がらせをされていた。

  それなのに、いつもクロは何か責任を感じているかのように尾も毛も逆立てて、ぐっと噛み締めた顔をしていた。

  それが男子には生意気に映ったのか、もっといじめはエスカレートしていったけどクロはいつもぐっと堪えていた。

  ______

  私は絵本が好きだった。

  まだ小学校にも入っていない頃、顔ももうよくは思い出せないけど何番目かのお父さんがご機嫌で帰ってきて、

  「今日は儲かったわ。」

  と言って無造作に投げ渡されたネコの王子さまとお姫さまの話を何度も何度も、カバーがボロボロになるまで読んでいた。

  色とりどりの宝石、煌びやかな衣装、海、山、虹。

  煙草のヤニで汚れた畳の上で読んでいても、切れかけの白い蛍光灯が淡く光る薄暗い部屋でも、ページを開けば私の目に映る絵本の世界はとても鮮やかであたたかい、幸せな色をしていた。

  

  襖の向こうでがちゃんがちゃんと物が割れて怒鳴り合う声が聞こえる夜も、些細なことで頬を張られてお腹を蹴られて真っ赤なおしっこが出た日も、絵本を抱いて寝ると必ずいい夢が見られるから、電気が停められてしんと冷える夜を一人で寝ていても、抱いていれば暖かくて、好きだった。

  ______

  2人のゆっくりとした息づかいだけが感じられるお風呂場の浴槽で後ろからクロに抱きしめられながら昔のことを思い出していた。

  ネコ科の獣人は物好きな子でもない限り、水場を極端に恐れるから風呂嫌いが多い。

  だから溺れずに汗を流せるサウナが人気だし、シャワーだけでさっと済ませる子や半身浴で入浴するのが大多数。

  狭いアパートの小さな浴槽に2人で入れば半身浴の量でも胸まで浸かりそうなくらい水かさが増えるけど、肩から回してくれるクロの太い腕が私をしっかりホールドしているから、かえって私を安心させてくれる。

  クロに身体を預けながら彼の濡れた腕の毛を梳いていると、拳のところにまた赤い腫れができていているのを見つけた。

  「またなんか手助けしたん?」

  おそらくはほかの愚連隊と暴走中にかち合ってしまったか、いつものように揉め事に首を突っ込んだのだろう。

  爪には血もついてないから本気の喧嘩ではなさそうだけど、それでもクロはとっさに拳をお湯の中に沈めて隠した。

  「んー…ちょっとな。大したことない。」

  「後で薬塗ろうね。」

  「いっつもごめんな。」

  そう言って私の肩に顎を乗せながら包み込むように、強く抱きしめる。

  しばらく何も言わずに抱きしめられながら、天井からぴちょぴちょと水が垂れる音に耳を澄ませていると、思い出したようにクロが口を開いた。

  「子どもみたいにさ、」

  なにかに怯えるように、クロの体は小さく震えていた。

  「喧嘩だけじゃなくて、ごめん、いいよで全部済ませられたらいいのにな。」

  それはクロの願望のようでもあり、自嘲のようにも聞こえる。

  抱きしめられたまま顔を後ろに寄せてクロの頬に小さくキスをし、体の向きを変えて重たい声で呟いた後黙ってしまったクロの方に正対する。

  「クロは、今でも優しいんよ。」

  両手で顔を包んで、クロの目を見つめる。

  「私なんかのために、昔からずっと。」

  外を歩く時に見せる、スレて黒く尖った目じゃなくて、小学生のあの時みたいな、慈悲深く、少し潤んだ優しい目。

  私だけに見せてくれる目。

  鼻にも小さくキスをして、「____…」とネコが本当に好きな者にだけする声を出さない鳴き声をあげて笑いかけると、クロは少しだけ許されたように笑った。

  「クロ、…シよ?」

  私を正面から強く抱きしめ、頬を擦り付けると離れたクロは私の顎を指で持ち上げ、唇をほんの少しだけ噛むと次は軽く重ね合わせる。

  ちくりとした痛みがいやでも彼の体を意識させ、やわらかい唇が心をほどいていく、何度も何度も2人でしたキス。

  もう一度抱きしめ合うと湯船の水がちゃぷちゃぷと揺れて、水を吸ったクロの体毛が私の身体ににしっとりと絡みついた。

  クロは私の胸に触れて感触を確かめると、髪を奥へ奥へとかき分けて私の頭皮に直接触れて掴み寄せ、口の中に舌を滑り込ませて、私もそれを受け入れる。

  私の前では吸わないタバコの香り。

  少しキツめに香る私の使わない女の香水の匂い。

  夜の匂い。

  血の匂い。

  凶暴で、粗野で、残酷な、私が知らない、“私にひた隠しにする”、クロの匂い。

  ネコ科のとげとげする舌がざりざりと音を立てて絡み合って、舌に付いた返しが彼から離れることを拒みながらもっと深いところで絡め合っていると、熱く硬いモノを私の股下で感じた。

  そのまま腰を浮かせてクロのモノを受け入れて繋がると、クロのトゲを持ったネコ科のそれがそのまま私の中をかき分けて、擦りあげはじめた。

  今度は強く首を噛まれて、身体の外側と内側両方から彼を刻みつけられる感覚に震え小さく声を漏らすと、動きは激しさを増す。

  私はねだるように首を噛むクロの頭を抱き寄せて、腰も自ら前後に大きく動かしてより深く、深く私にクロを刻みつける。

  2人で溺れてもがいているかのように小さな浴槽で水音を立てながらするセックスは、いつの間にかお湯がぬるくなって、水に変わってしまうまで続いた。

  _______

  11歳のある日、図書室で絵本を見ていると静かに扉を開けてコソコソとクロが入ってきた。

  子供を守るカンガルーみたいにお腹に大事そうに本を抱えて、尾と耳とヒゲをそわそわと動かしながら注意深くまわりを見渡していると私に気づく。

  「ッ!…あ、シロさんか。」

  私はそれまでクロをいじめたりはしなかったから比較的安心だったのか、一瞬だけ毛を爆発させたように逆立てて驚いたと思いきや、すぐにぺたんと寝かせた。

  クロは、誰にでも「さん」をつけて呼んていた。

  そこがなんだかお高くとまってる感じがして嫌がられ、男子にいじめられる原因の一つだったけど女の子たちからの評判はあまり悪くなかったと思う。

  「ここ、他に誰もいない?」

  「いないけど。」

  「よかったぁ。」

  そう言うと服の下で隠していた分厚い本を取り出して空いている本棚にごそごそとしまい始める。

  「…なにしてるの?」

  その時は、どうして自分でも声をかけたのかは分からないけど、多分、お腹で本を大事そうに抱える姿に自分を重ねたんだと思う。

  それに、私の母も身体を売っていたから。

  「教室で自分の図鑑読んでたらさ、ブチさんとか、チャコさんが、その、ネコの女の子の身体のページ出してはやし立てるんよ。ただ部位が書いてあるだけなのにね。」

  「ぶい…?」

  「部位。体のさ、腕とか、頭とかあるでしょ?そういう体の色んな部分の名前のこと。」

  「ぶい。部位。」

  「……シロさん、絵本好きなの?」

  「うん。」

  「文庫とかさ、小説は読まないんだ?」

  「うん。でもこれなんか、キラキラしてて可愛いでしょう?文字よりも、絵が好きなの。」

  以前、絵本を教室で読んでいるといまだに絵本を読んでいるなんてこどもっぽいと言われたからひっそりと読む習慣ができていた。

  幼稚だと言われてみればたしかにそうなのだけど、不思議な世界と優しい話に没頭している間は錆びた町並みと暴力や理不尽の世界から私を逃がしてくれるから、これは私にとって必要なことだった。

  

  クラスの中には、もう万引きをしていたり、自転車の鍵を壊して盗んだりしていることを自慢する子達もいて、そういう子達が弱い子や、クロをいじめている。

  ドス黒くていやな世界は、すぐ近くのところまで来ているのだ。

  私のところに絵本のように白馬に乗った王子様が助けに来てくれることは期待しないけど、物語の最後にお姫様は救われる。

  絵本の中だけとはいえ、救われる世界もある、ということを信じさせてくれるだけで私にとっては十分だった。

  「…うん、絵本、いいと思う。」

  床につき倒されたりでもしたのか、少しホコリの付いた顔で優しく微笑むクロ。

  その瞳はなんだか白いような、陽だまりのような輝きを放っている様に見えた。

  初めて出会った絵本を読むことを否定しない子に、なんだかもやもやとしたよく分からない気持ちが胸に湧き上がる。

  「クロくんはさ、男の子でしょ?あいつらにやり返さんの。」

  何て返せばいいのか分からなくて、話題を変えてしまった。

  男なんだから、という言い方はよくないとうっすら思ったけど、どうしていつも歯を食いしばっているだけで、頑なに反撃しないのかも気になったし、何より少し彼のことを知りたい、という気持ちにもなっていた。

  「うーん、んー…」

  左上に視線を向けながら少し考えて

  「力に力で返しちゃったらさ、ダメだと思うんよ。多分、喧嘩が終わらんくなるんよ。」

  ダメだと思うんよ。

  言ってることの全部の意味は少しよく分からなかったけど多分強がりでもない、本心からクロはそう言ったと思う。

  負けて卑屈になっているわけじゃない、強い輝きを放つ目を彼はしていた。

  「僕のお父さんもお母さんも、悪いことしたから色々言われるんよ。だから僕も言われるのはしょうがないんよ。だから、せめて僕で終わりにせんと…うーん…ごめんね、僕もよく分からん。」

  私にもよく分からなかった。

  ただなんとなく分かったのは、いつもいじめられているクロはけっして弱いんじゃない。

  「クロ君、優しいんやね。」

  「えっ、そう、なんかなぁ?」

  「絵本、一緒に読んでくれない?」

  「…うん、ええよ。」

  

  その日から誰も来ない図書室で2人で絵本を音読するのが日課になった。

  色んな絵本を読んでいるうちに6年生になって、クロはクラスで体が一番大きくなって、次第にいじめられることも少なくなった。

  ______

  

  ♪♪ ~♪♪♪

  暗い夜が終わる度に何度も聞いた、童謡をオルゴールでアレンジした音楽が朝の9時であることを知らせる。

  あれから何時間していたのかは忘れてしまったけど、布団に場所を移したあともクロとひとしきりセックスに溺れて、2人で裸のまま寝てしまったようだ。

  目を開けると私を抱きしめたまま静かに寝息を立てるクロがいて、いい夢でも見ているのか子どものような顔をして舌先を少し出したまま眠っている。

  昨日はアーケードで怖い顔をしていたのに今は間の抜けているその顔がかわいくて、少し布団の中でくすくすと笑っているとクロも薄く目を開けながら目を覚ます。

  舌をしまわないまま、私がなぜ笑っているのか分からずに困った顔を浮かべるのがおかしくて、また笑ってしまった。

  「なに?どした?」

  「なんでも?ふふふっっ。」

  

  「なんよ、もう。」

  「昔のまんま、あんま変わっとらんよって。」

  「なんや分からんけど、そうなん?」

  舌を出して安心するクロの優しい瞳を見て、また笑った。

  ______

  「クロちゃん、またベロ出てるぅ~。」

  「「「きゃはは!」」」

  一斉に指さされ、顔を赤くしてクロは指で舌を押し込むとその様子を見て子どもたちがまた笑い、クロは舌を触った手を子どもたちに向けて近寄るときゃあきゃあと騒ぎながら子どもたちは膝立ちで逃げ回った。

  半年前、6年生になって図書室で2人で絵本を音読するのが日課になっていたのだけど、それを見ていたのか図書室の優しい先生が“読み聞かせをしないか“と持ちかけてきた。

  なんでも知り合いのこの町唯一の夜間保育所が、シングルマザーに水商売が多いためか手が足りないらしく、猫の手も借りたいくらいだそうだ。

  正直、私はどうしようかと悩んだ。

  子どもがそこまで好きというわけでもなければ、絵本を読むのだって自分が楽しんだり安心するためにしていたことで、楽しませる側に回るなんて自信がなかった。

  それでも少しだけどお小遣いをくれると言ってくれたし、何より、クロが瞳に優しさを携えて「ぜひやらせてください。」と言ったから、私もなんとなく彼について行こうと思った。

  初めて入った夜間保育所は、3歳から6歳までの“この町の子ども”で溢れていた。

  襟が汗でひどく汚れていて体毛も泥や怪我で付いた血で赤く固まっていたり、

  お下がりなのかまったくサイズの合っていないぶかぶかの服とズボンを履かされ動きにくそうにしていたり、

  爪がきちんと手入れされていないせいで爪で体を引っ掛けて生傷が多かったり、

  百円ショップの度数の合っていない眼鏡を付けているせいで目をいつも細めていたり。

  隅で泣いていたり、むっつりと黙っていたり、イヌもネコもなく毛を掴みあって争ったりずっと悪い空気が流れていて、とてもみんなに読み聞かせはできなかったし、何より私はそれを感じただけで萎縮してしまっていた。

  たじろぐ私にクロは「大丈夫」と言って最初はもの静かな子たちを集めてひっそりと読み始める。

  警戒心を持っている彼らは絵ではなく、私たちの顔を見ていた。

  クロは怯むことなく優しく、語りかけるようにお話を読んでいく。

  次第に子どもたちはページをめくるごとに色鮮やかな絵に目を向け、目を奪われ、その次にはセリフに、その次には物語に、そして世界に。

  私も加わって、明るくて優しい夢のような世界の絵本を読み続けると、言うことを聞かない子が1人、喧嘩をする子がまた1人と集まりだしてきて、俯いていた顔も、暗い目つきも絵本の方を、優しい世界の方を向いて輝かせ始めた。

  

  散らかった部屋の中で不自然に派手な下着姿のまま化粧をするお母さんに

  「学校が終わったら、たまにだけどクラスメイトと保育所に読み聞かせに行くことにしたんだ。」

  と言った。

  お母さんはこちらを見ることもなく鏡の中の自分だけを見つめて白い毛にオイルを塗りながら

  「そう。」

  とだけ、興味なさそうに答えた。

  

  優しさが欲しくて、優しい世界に魅せられる小さな子ども達、この子たちは、みんな私だ。

  

  読み聞かせは1時間と少ししかなかったけど、持ってきた本を全て読み終わる頃に子どもたちは全員が静かに上を見上げていて、もっともっととせがんで来る。

  クロは、たった1時間でこの町の子どもの心を開いてしまった。

  そして今日も舌に触れたばっちい手で追い回されて、この時間だけではあるけどさびしくて暗い日常を忘れて笑ってはしゃぐ子どもたちを、クロが優しい目で見ている。

  18時より少し前、りぃりぃと虫が鳴く河川敷を2人でゆっくりと歩いていた。

  どこかで物の割れる音、誰かの怒鳴り声が聞こえる度に鳴き声は止んで、また鳴き出す。

  クロは虫の声を聞いていたのか、それとも怒鳴り声を遠ざけたかったのか、

  「音の出る絵本、評判良かったね。」

  と言った。

  「うん。」

  「ああいう、ちょっとした仕掛けとかさ、やっぱ小さい子は嬉しいって思うんかな?シロさんは、どう?」

  「?私…うん、私も好き、かな。」

  クロは少しもじもじとしてあっちやこっちを見たと思うと、落ち着くためなのかふぅぅ、と大きく息を吐き出す。

  

  秋の夕暮れの中、クロの毛の色が更に暗く、濃くなり始めるのを感じていたその時、地域の18時のチャイムがどこかで鳴り出した。

  チャイムに従ってこの町の子どもたちが帰ることは少ないけれど、クロがこんなにもゆっくり帰るのは珍しいなと思ったその時、クロが持っていたバッグからオルゴール調の音楽がポロポロと鳴り出す。

  クロは焦った顔をしてカバンを漁ったと思いきや少し悩んだ顔をしていたけど、決心がついたのか勢いよくなにか大きくて、平べったい物を私に差し出した。

  ♪♪~~♪♪~♪♪♪…

  夕日と影と、遠くで流れる水の音、虫の声。

  どこか悲しく見える夕方の風景をほっとあたたかくさせるような、そんなメロディーが流れ出す。

  それは、装飾の凝った壁掛け時計だった。

  ガラスの中の“12”の部分が2つに割れたと思うと、その中の仕掛けが動いて、時計の針の奥で可愛い服を着た小さなうさぎの人形がくるくると回っている。

  それはまるで、小さな家の中を窓から覗くと、うさぎの女の子が音楽に合わせて部屋の中で楽しそうにダンスを踊っている…そんな世界が見えた気がした。

  しばらく見とれていると、秒針が頂上を指し、1分になった時に踊りと音楽は止まって、再びこちこちと時間を刻み始める。

  「かわいい……私に?」

  クロが小さく頷く。

  逆光と黒い毛で見えないはずなのに、クロが顔を赤くしていることは何故か分かった。

  「読み聞かせ始めて、ちょうど半年たったでしょ?図書の先生も毎月、ちょっとだけどお小遣いくれるじゃない。だから“シロちゃん”、いつも仲良くしてくれるから…新品じゃないけど…こういうかわいいの好きかなって…」

  「うん…うん……すき。…大事にする。」

  「……よかったあ、喜んでもらえて。」

  ふぅぅ、と大きく安心したのかため息をつくクロ。

  「僕、初めてやったからさ、…女の子にプレゼントなんてするの。」

  「でも、ごめん…私、なんも持ってない…」

  私もお小遣いは貰っていたけど、新しい下着やくつ下を買い替えたりしたらなくなってしまった。

  「ええんよ。僕がしたかっただけなんやし。シロちゃんに喜んで貰えたら、それが一番嬉しい。」

  夕日を背にしたクロは真っ黒な影と毛の色で同化していたけど、その目が私に笑いかけていることだけは分かった。

  「僕、シロちゃんが好き。」

  保育所の子たちを見る時とおなじ。

  安っぽい同情ではない、心からの安らぎを願うあの優しい目を、していた。

  なんだか胸がきゅう、と苦しくなって、耳が真っ赤に染まる。

  クロの優しい金色の瞳。

  笑顔の隅の白い歯。

  影で真っ黒なのに緑薫る草木たち。

  赤い赤い夕日。

  生まれて初めて、世界に、色がついた。

  そんな気がした。

  私の目とクロの目、暗がりだけどはっきりと見える丸く開いた瞳孔が私を覗いて、目が合って、

  何を考えるでもなく自然と体が動いて、左腕で時計を胸に抱えて、右手を少し高いところにあるふわふわしたクロの首に回す。

  背伸びをして、クロと初めての口付けをその日交わした。

  少しくすぐったかったのは、初めてのキスで髭が触れ合って、無意識のうちに尻尾を絡めていたからだと思う。

  「私も、クロのことが好き。」

  ______

  

  遠くで聞こえるガタガタの路面を走るトラックや工事の音をよそに、プールみたいな香りのする少し湿った布団でクロと昼までごろごろと甘えあって、お腹が減ったのでようやく起き出した。

  昨日食べれなかった鍋にしようかとも思ったけどご飯を作るのもなんだか面倒でピザを頼み、下着だけつけた状態で暖を取るために互いに頬をこすりつけ合いながら抱き合う。

  「シロ、今日もバイトないんけ?」

  「うん。そのかわり、来週からは神社でずっとお団子焼かなきゃあかん。」

  「もう今年も終わりかぁ」

  私は普段スーパーの外で出しているみたらし団子の屋台を手伝っていて、年末年始はかきいれ時だから神社でずっと焼き続けなければならなかった。

  クロは知り合いの中古車、中古バイクショップの手伝いをして生計を立てている。

  どうせクロは新年、愚連隊の仲間たちと一斉に暴走に出ていき、他にも集まりがあるから私たちの年始は新年あけて10日目くらいから始まるのだ。

  「またしばらく飯に1品ダンゴつくんかぁ。」

  「なんでよ。クロ、みたらしさん好きやろ?」

  「なんでも“過ぎ”はアカンやろ。…あ~、後輩のデブがたしか和菓子好きやったから余ったら何本か包んどいてくれる?」

  「分かった。…まぁアンタに出すダンゴの量は変わらんけどな。」

  「えぇ~ええけどさ~、せめてみたらしじゃなくて魚醤とか塗らん?」

  陽の差す部屋でダラダラと続く平和な会話をしていると電車が通り過ぎる音が背後で聞こえて、それに合わせて部屋の家具がカタカタと揺れる。

  すぐ後ろに高架があるせいで私たちの住む部屋は1時間に何回かはこんな音を出すのだ。

  「…ここ出てさ、もう少し広い部屋に引っ越ししたいな。」

  「…うん。」

  お互いの温もりで心地よくなってきたのか、微睡みながらクロが言う。

  一緒にこの部屋に住み始めてからクロから何度も何度も聞いたこのセリフは、私は聞く度にそれが願望よりももっと強い何かに思えてならなかった。

  クロは細くなった目で、私を見ながら微笑んでいた。

  まるで幸せな夢を見るかのように。

  「シロも、一緒に住んでくれる?」

  クロは私を優しく抱きしめる。

  「ずっといっしょよ。」

  そう言って頬を撫でてやるとクロは小さく寝息を立て始めてしまった。

  引っ越すって、どんなところに?

  もっといいところに?

  それとも、この町の外に?

  クロは引っ越したいんじゃなくて、

  

  本当は、逃げ出したいんじゃないの。

  それは、聞かなかった。

  ______

  1度、狭い町のどこかで見られたのかクロと私が2人で保育所まで歩くところを見られていてからかわれたことがあった。

  黒板に2人でいやらしいことをしている絵を書かれたり、“ママのお仕事”と書かれた私の住むアパートの連絡先が書かれた紙をべたべたと貼られたり、避妊具を机の中に入れられたり。

  クロは自分のことはよくても私のことが言われるのだけは嫌だったみたいで憤慨していたけど、意外なことに転校当初クロをいじめていたぶち模様の男の子がやめさせてしまった。

  理由はなんでもない。その男の子も、夜間保育所に預けられていたことがあったからだった。

  3月になって小学校を卒業した。卒業式は私もクロもお母さんが来なかったけど、2人でいればそれほど気にもならなかった。

  クロも私も地元の公立に通うので中学でも一緒になるから卒業式でも特別寂しくもない。

  いつも通りの読み聞かせの帰り道、その途中であの日初めてのキスをした河川敷を歩いているとクロは川の奥の、キラキラと光る夕日を眺めていた。

  「何見てるの?」

  「いや、こっちに引っ越してきた時、車に乗ってきたんやけどあそこの鉄橋の上から川を覗いたらなんか魚が泳いどったなぁって。」

  「そんなん見えたん?」

  「うん、見えるくらいデッカかったから多分鯉やと思うんだけどなぁ。」

  

  「そんなんいるんや、この川。」

  「僕もあんなん野生で泳いでんの生まれて初めて見た。…美味しそうやったで?」

  「やだもぉ。」

  春になったおかげで夕方になっても日は高く、暖かい春風が菜の花と水辺の香りを鼻に運ぶ。

  飛び回る白と黄色の蝶々と、色とりどりの草花。

  クロが地面を指さすとそこにはつくしがぴょこぴょこと生えていて、無邪気に笑っていた。

  ______

  「あぁシロ、あんた、明日から客とりぃ。」

  暗い光を放つ蛍光灯がお母さんの吐き出すタバコの白い煙を色濃く照らし出す。

  中学生になって少し経った頃、私の方を向かないままなんでもないことのように、お母さんはそう言った。

  「?聞こえんかったん?だから、なんか今やってる…なんかももうやめぇよ。」

  「…ぇ…」

  言われたことの意味を考えたくなくて受け止めたくなくて、この場から逃げ出したい衝動に駆られる。

  何も言えないまま扉の方を向こうとする私を、大きな紫色の痣が付いた目でお母さんが睨み、制すると立ち上がってこちらに詰寄ってきて、大きく手を振り上げて私を叩く動作をとる。

  お母さんを怒らせた時にいつもするこの振りかぶりを見て咄嗟に頭を庇ったけれども、いつまでたってもぶたれることはなくて気づいた時には抱きしめられていた。

  あの河原の花の香りとはまったく違う、自分の体臭を全て隠してしまうくらいキツい香水の匂い。

  「ごめんな、いっつもカッとなって。ごめん。アカンよな。ダメなお母さんで。ホンマはアンタのこと叩きたくなんかないんよ。」

  私の頭をさすりながら優しい声で語りかけ、お母さんが私の心を包んでいく。

  「分かるやろ、シロも家族なんやから。歳なんやけ、もうお母さんよう客取れんのや。」

  私の頬に触れて、体をくっつけて抱きしめながらお母さんが私の体を包んでいく。

  「お金がないとな、今のお父さんが機嫌悪なってみんなのことぶつやろ。シロだっていややろ?」

  

  お母さんと目が合う。

  涙とアイシャドウの混ざった灰色の目。

  いつも家で一緒なのに、初めて母の目を見た気がした。

  悲しくて、寂しくなるような色。

  まだ30代のはずなのに何がいけないのか顔つきはもっと歳をとっているようにも見える。

  昨日も殴られたのか右目に大きな痣を作り、いつも手首と足首を掴まれているせいか腫れ上がっていて、背中は布団で擦れるせいでザラついていた。

  「お願い、シロ。お母さんを助けて。」

  痣の奥で、真っ黒な瞳の奥で、この家の蛍光灯のような弱々しい白い光が光っている。

  あの子ども達と同じ悲しい目だった。

  お母さんも、そうだったんだね。

  辛いこと、悲しいことがあっても傷つかないように最初から目を暗くして、明るいところから離れたんだね。

  クロなら………

  「大丈夫。お母さん。」

  お母さんを優しく抱きしめて、優しく語りかける。

  「私、ちゃんと働くよ。新聞配達とかやるから、今読み聞かせの手伝いしてて、ちょっとだけど貰ってるから。お母さんも、パートとかして、2人で力合わせれば、そしたら…」

  顔に熱い衝撃が走って、畳につき倒される。

  

  何が起きたのか分からなくて混乱していると頬にじんじんとした痛みが走り出して、口の中で赤い味がしはじめてようやく叩かれたのだとわかった。

  「アンタ、親に向かっていつから銭のこと口聞けるようになったんよ。」

  私を抱きしめてくれたさっきとは全く違う、底から響くような、暴力を滲ませた暗い声。

  髪を掴まれると興奮しているのか母の剥き出しにした爪が私の肌に食い込んで、思わず悲鳴を上げてしまう。

  「おかぁ…」

  左頬にまた痛みが走る。

  「ほんっま、モノの分からん子やな。あんたのそれでどうやって食べていくんよ。私に普通に働けってなによ?アンタ誰に食べさせてもらってんのや!」

  咄嗟に顔を庇うと鼻息を荒くしながら今度はまた床に引き倒されて、馬乗りになられて再度頬を叩かれる。

  体重をかけられてお腹を潰され呼吸ができず喘ぐ。

  痛くて涙が零れる。

  「普通?お母さんの仕事普通ちゃうんか?お母さんこの仕事してて嫌だったんか?じゃあずっと母さんのこと汚い目で見てたんか!アンタのホントのお父さん逃げた!アンタ産んで妊娠線できて、店クビにされた!あたし苦労してんのも貧乏なんも全部お前のせいやろ!そんなガキでも育ててもらった恩返すのが普通やろ!」

  息を吸えなくてチカチカする頭の中でお母さんの言葉だけがガンガンと反響して響き渡る。

  「ごめ“んなさい……ごめんなさい…」

  涙を流して、顔を庇って謝ることだけしかできなかった。

  私のせい。お母さんかわいそうなん、私のせい。

  遠くで声が聞こえる。

  「おい、何してんのや!大事な顔やろ!明日使うんやぞ!」

  「コイツが言う事聞かんから悪いんやん!」

  「せっかく客とか見つけてきて写真屋も手伝ってくれるっちゅうにほんまお前ヒス女やの、」

  「なんよ!自分はなんも体張らんのに偉そうに…」

  呼吸が楽になったと思うといつの間にか父親が帰ってきていて、お母さんの髪を掴んで言い争いをしていた。

  薄暗くて白い蛍光灯の光がぼんやりと光っている。

  窓の外は暗くて、いつの間にか気絶したまま寝かされていたみたいだ。

  なんだか懐かしいような、変な気持ち。

  部屋のものが何もかも黒っぽく見えてきて、懐かしさはこれだ、と思った。

  外が綺麗だ、と思ったのはクロがいたから。

  家の中でも大丈夫だったのはクロのくれた時計があったから。

  最近、自分で絵本を読んでなかったのは、クロのおかげだったんだ。

  お母さんの顔を思い切り殴り付けて壁にぶつけたあと、父親が倒れたままの私に目を向ける。

  

  視線は、スカートから投げ出された私の脚に向けられていた。

  「もうええわ。おい、起きろシロ。こっち来い。」

  

  体躯の大きいサバンナの今の父親の斑点模様ばかりが目に付く。

  真っ黒い塊の集合体みたいに見えて、そのてっぺんで嫌な目が私を見つめている。

  「ちょっと、何するんよアンタ。自分の娘やろ。」

  お母さんが倒れたまま父親の足をつかもうとして、後ろに蹴り飛ばされまた床に倒れた。

  

  「“慣らし”やろが。客に悲鳴聞かせたらゴネられるかもしれんやろ。別に俺の子ちゃうしな。」

  父親はサディスティックな目をして私を引き起こし寝室へ連れていこうとする。

  弱々しい抵抗じゃとても抗えなくて、ベッドに投げ出されされるがまま下着を脱がされ、暗闇の中で真っ黒い何かが私に覆いかぶさってくる。

  クロ、と叫ぼうとしたけれど、首を押えられて声にはならなかった。

  おやだ!いやだ!嫌!!

  暗い闇の中で、クロとは似ても似つかない、真っ黒い何かが私を侵していく。

  遠くで19時を告げるオルゴールの音が聞こえる。

  聞こえるのに、私の頭の中に安らぎをくれる鮮やかな色をつけてはくれなかった。

  ______

  

  砂糖とあんこと醤油の香りが煙でひとつに混じって私の鼻腔をくすぐっていく。

  「ネエちゃん。あんころとみたらし3本ずつな。」

  「はーい、660円ね。」

  12月も暮れになり神社では三が日までの間は食べ物の出店を出し始め、私も一日中そこでお団子を焼いていた。

  夕方になるとさすがに冷え込んでくるけど、熱の篭もる屋台にいるのとクロが防寒に買ってくれた革のジャケットと炭火が私の指を暖めてくれるおかげでまだ暑いくらいだ。

  小さな町だからお祭りみたいなのも少なくて、こうして出店が出るだけでお客はどんどんやってくる。

  休みなしで焼くのは大変だったけど、年末年始は水商売をする獣人たちものれんを下ろして家族が揃うことが多いし、おめでたい空気だからか笑顔でいる家族もいつもより増えた。

  不幸が少なくなって、子どもが嬉しそうに笑うのはやっぱりいいものだと思う。

  屋台のフレームから見える、今だけかもしれないけど笑い合いながら流れていく家族の風景は、絵本のページをパラパラとめくっているようでどこかホッとした。

  「おう、かわいいお姉さん。あんこ10みたらし20な。あとコレな。」

  

  「はーい。…あ、オーナー。」

  

  目の前には、クロより少し背が低いくらいのややずんぐりとした私の雇い主である灰色のネコが、あたたかい缶コーヒーを突き出しながら立っていた。

  そして彼の頭2個分くらいの同じ毛の色をしたネコの男の子が肩車をされながらこちらを見ている。

  「ありがとうございます。お子さんですか?」

  「おぉ。女房、年末くれぇ休ませねえとなってガキの面倒オレが見てんだ。そしたら屋台見てぇってうるさくてよ。団子くらい食いたきゃ毎日イヤになるほど食わせてやんのになぁ?」

  

  「なんでもできたての方が美味しいですからね。1本食べる?」

  

  焼けたばかりの団子に少し多めにあんこを乗せ、頭上の息子さんに差し出すと彼はおずおずと受け取った。

  「私の給料から引いといてくださいね。」

  

  「いいよ、俺の店だし。ロスんねぇ日もないしな。ほぉら、可愛いお姉ちゃんが焼いてくれてよかったなあ。」

  からかうと串を咥えたまま父親の頭に顔を隠すその様子がなんとも可愛かった。

  「クロとは?うまいことやってっか。」

  「まぁ、ぼちぼちです。今日は忘年会だそうなので帰ってこないと思いますけど。」

  「女房働かして何やってんだか、あのバカは。」

  「女房って、そんな。」

  響きを聞いて顔が赤らむ。

  「オレも昔は悪さしたけど籍入れたらマシになった。もう22なんだから、悪さばっかさせてねぇで尻に敷いてやれ。じゃあ、ぼちぼちやれよ。」

  「…はい、お疲れ様です。良いお年を。」

  オーナーが歩いていく。肩車された息子はしっかりと父親の頭を掴んでいて、信頼が伺える。

  やがて、人ごみに紛れて行った。

  不幸ばかりじゃない。

  ああいう、幸せな家族もいる。

  クロとなら………

  ………やっぱり、難しいかもしれない。

  

  屋台から煙がもうもうと茜色の空に上がっては、やがて消えていく。

  昔と比べてみると、夕暮れの色はなんだか悲しく見えるような気がした。

  _____

  冷えた指先で頬を冷やしながら布団のなかで小さく呼吸をしていると、次第に2人分の足音が聞こえてくる。

  ひとつは父親。もうひとつはチャカチャカと爪が床を擦る音が聞こえるから、多分イヌの男の人。

  『すんませんな、センセ。こんな汚いベッドで。』

  『センセイはやめていただけますかね?いやなに、逆に背徳的でいいじゃないですか。』

  

  その声は近くで聞こえるけど、それは別世界のできごとだと思うようにしていた。

  私は今絵本の中にいて、それは本の世界の向こうで起こっているだけ。

  目を閉じれば鮮やかな色が目に浮かぶ。

  浮かぶはず。

  こっちは幸せ。あっちは違う。だから私は大丈夫。

  幸せな世界に思いを馳せる。

  …馳せる。

  『ところでシロちゃんは、どうしてタオルケットで顔を隠しているんですか?』

  『あぁ、こいつアホなんで昨日“コケて“しもて。顔パンパンに腫らしてるもんやから客に見せるわけにもいきませんで、しばらくはこれで。』

  

  『それじゃあ、また次も来るしかありませんね。』

  『隠しといた方が都合ええんやないです?どうせ使うんは下なんやしずっと隠したままでも…いや失敬しました。それでは“今から1時間、家を留守にしますんで。”』

  『はい。大事な娘さんの“子守り”務めさせていただきますね。』

  やがて足音がひとつ遠ざかっていき、少し荒い息遣いが部屋の中で聞こえている。

  

  ねえクロ、好きってなんなんだろうね。

  クロは私に好きって言ってくれたし、私に贈り物をくれたね。

  私はなんにも持ってなかったから、初めてのキスをあげたよ。

  でもクロの初めてのキスも貰っちゃったからひとつ多く私の方が貰ってるのかな。

  

  でもねクロ、お母さんには昨日叩かれたけど、その後優しくね、頬をさすってくれてね、教えてくれたんだよ。

  『子どもが大人に抵抗してジタバタすると息切らして体力無くなって死んでまうから、とにかく呼吸だけに集中しんさい。力抜いて、呼吸やで。』

  お母さんの友達、一生懸命もがいたら動けなくなってそのまま死んじゃったって。

  だから私には死んで欲しくないって。

  終わったら、たまには美味しいものをどこかに食べに行こうって。欲しいものを買ってあげるって。

  お母さんの好きとクロの好きはこんなにも違うのに、どうしてもお母さんのこと、嫌いになれないよ。

  クロ…。

  世界が、真っ黒だよ。

  

  『おや、シロちゃんは絵本を持っていたんだね。大事なものなのかな?いいね、そそるよ。』

  『イヌもネコの子も、若いと毛のツヤが違うよね。おしりも小さくて、白くて、誰にも触られてこなかったんだねぇ。』

  『私が1番目らしいからね、楽しませてね。』

  

  『______』

  

  ぼんやりとしている内に重くのしかかるなにかが、わたしの中で動き回るなにかが、私の脚を撫で回すなにかが、いつの間にか終わっていた。

  部屋には私1人だった。

  心を絵本の中に入れてしまえば行為は辛くない。

  

  お母さんも笑ってくれる。

  読み聞かせだけでもできれば日常も辛くない。

  クロが優しい顔をしてくれる。

  だから、普通にやらなくちゃ。バレないように。

  普通…これが普通なんだから…

  

  真っ暗な布団の中で、1人泣いた。

  鮮やかな色を、最後まで思い浮かべることができなかった。

  ______

  屋台を夜まで営業して後片付け、明日の準備までしてたら深夜を回ってしまい、遅くにアパートに帰ると近くでクロのバイクの音が聞こえてきた。

  帰ってきたのだろうか、と思って部屋の中に入らず待っているとバイクに乗っていたのはクロではなくよく一緒にご飯を食べたり家によく上がり込んでいくクロの後輩の1人だった。

  名前はサビで、耳に切れ込みの入った、クロに少し雰囲気の似た、落ち着いたネコの男の子。

  「シロのネェさん、お疲れ様です。」

  「そのネェさんっていうのやめてよ。ヤクザの女房じゃあるまいし。」

  「すません。」

  

  素直に頭を下げつつ、ついつい私の胸の辺りに視線が行ってしまい、すぐそらす所はまだまだ子供っぽいという感じ。

  「今日は神社で?お疲れっした!」

  「今日も明日も明後日もね。あんたらも毎晩集まってばっかいないで、たまにはクロと2人っきりにさせてちょうだい。」

  そう軽口を叩くと、彼は少し苦い顔をする。

  「あー、それで、今日クロさんなんすけど…」

  「今日も帰らないからついでに俺のバイク持って帰っといてくれ、でしょ?家近いからって小さい子に寒い中使い走りさせて…」

  

  「………19は別に子どもじゃないっすよ」

  鼻先を赤くさせながら、彼が白い息を吐いて手を擦り合わせる。

  「寒い中面倒かけたし、うちでお茶でも飲んでいく?」

  「いや…いや、やっぱここでいいっす。」

  彼は少しこちらに詰め寄って真剣な眼差しでこちらを見ると、

  「ネ…シロさん。クロさんと別れて、自分と一緒になってくれませんか。」

  

  

  意を決したようにはっきり告白してきた彼の目は燃えるように輝いていて、昔どこかで見たような懐かしさを感じた。

  「…なんで私に?」

  「正直、最初クロさんに紹介された時から一目惚れだったっす。キレイだし、き、気遣いとかすごいし…俺みたいなのにも優しいし…」

  

  彼と初めて会ったのは確か1年前位前だったか、その時からなのかな。

  「でも、クロさんには恩があったから…高校くらいちゃんと卒業しろって言ってくれて、就職も世話してくれて、うちのシン中のクソ親父と違ってホントの兄貴みたいだったから…」

  「…そうなんだね。」

  クロは今でも、やっぱりそうなんだ。

  「そんな恩獣に対してやっちゃいけないことってのは分かるんすよ。でも、付き合うのがシロさんじゃなくてもいいじゃないすか、知ってるんすよ。クロさん、よく他のメスともよくねんごろになって、今日だって別のメスの家に…シロさん1人にして…」

  「…」

  「俺、この町出ようと思ってるんす。俺なんかがよそ行っても相手にされないかもしんないけど、でも、ガキ泣かすような、俺みたいなやつ作るの俺で最後にしたいんす。だから、その…」

  「この町出て、一緒に来てくれないかって?」

  「…!っ、はい。」

  拳を握って肩をいからせて、勇気を振り絞った彼の瞳はやっぱり、…やっぱり、昔のクロとどこか似ている。

  

  もしクロよりも先に出会っていた、なんてことがあったら彼に惹かれることもあったかもしれない。

  直球の好意が少しだけ私の心を揺らすのを感じる。

  でもね…

  「気持ちは伝わったけど、君とは行けない。」

  「っ!…でも…」

  

  「知ってるんよ。…全部知ってる。」

  他の女と寝ていることも、暴力沙汰を何度も起こしていることも、アコギな商売に手を出していることも…すっかりこの町の男になっていることも。

  それを糧にして、この町の子どもたちの目に光をぽつぽつと宿していること。

  「それでもね、“クロには”私が必要なんよ。私は、クロがこれからもずっと好きなんよ。」

  一瞬だけ傷ついた表情を浮かべ何かを言おうとするも、言葉の出ない彼に告げる。

  「それって、」

  「君はこれからこの町を出ていくんでしょ?私は、この町を1度出て、それでもまた戻ってきたから。もう、出られんから。だから、諦めぇ。」

  彼が何を言おうとしてるのかは分かった。

  それを遮るように言った私の言葉に打ちのめされたのか、強く拳を握りしめて彼は唇を噛み締める。

  「このことはみんなには黙っといたるから、別のとこでも元気でやりぃよ。…私みたいに戻ってきたらあかんよ。」

  体を翻して、振り向くことなく部屋に戻る。

  さようなら、クロのおかげで町を出られる、昔のクロのそっくりさん。

  この町以外でなら、普通の幸せが見つかるよ。

  

  …この町から私を逃がしてくれたのはクロだった。

  でもクロに必要なのはどうしようもなく私だった。

  

  自分とクロ、私は、

  クロを取った。

  

  

  ______

  

  何もかも隠したまま、14歳になった。

  

  全部、うまくいったと思っていた。

  読み聞かせを子どもたちにしてやって、大好きなクロの声を聞いていれば、クロと作る楽しい空間があれば、その時は嫌なことは忘れられた。

  お母さんは、私に少しだけ優しくなった。

  

  私が仕事を終えたあとはやさしく体をさすってくれて、たまにだけどご飯も作ってくれるようになった。

  だけれど、以前は辛いことがあったら空想の中ですぐ描けたはずの鮮やかな世界をどうしても今は思い浮かべることができない。

  だって、笑顔も、幸せも、本当は現実にもあることを知ってしまったから。

  私の知った幸せが、私を苦しめる。

  自分で耐えると誓ったのに、助けてと叫び出したい私がいる。

  やがて、私の“仕事”は増えていき、クロとの時間は減り、仕事が終わるとぐったりと眠ってしまう。

  大人たちが真っ暗な世界で私の体を嬲る時間が私の孤独を浮き彫りにする。

  私以外のみんなが笑っているのに、私の心の中にはいつも真っ暗な風景が頭にちらちらと浮かんで、それには誰も気づいてくれない。

  黒の絵の具が他の色を飲み込むように、色のない世界の真っ黒な時間は私に残された幸せな時間をも侵食し始めていた。

  

  もう、限界だった。

  ______

  

  「えっ…あっ、ごめん。」

  読み聞かせ帰りの途中、手を繋ごうとしてきたりクロの手を無意識に振り払ってしまった。

  あれから2人でキスをした日も何度かあった。

  手を繋いだことだって数え切れない。

  自分でもなんで振り払ってしまったのか分からなくて、驚くクロの顔を見て泣きそうになる。

  「違うの、ごめん。ビックリしちゃっただけ。」

  焦って繋ぎ直そうとするけど、ふと、指の間をなにか這うような感触がして、思わず手をこする。

  何も触れていないのに何かあるような気がして、擦り続けているとじわじわと手汗が湧いてきた。

  「やだ。」

  何も触れていないのに、じっとりとして、私の体を撫で回す嫌な感触が手を伝う。

  暗い部屋で私の体をなぞる嫌な手。

  指と指の隙間に侵入してくるぶよぶよとした嫌な何か。

  ウジが湧いてくるみたいにごしごしと拭いても拭いても取れなくて、手が自分のものじゃなくなっちゃったみたいで、私を買う大人たちの私を撫で回す手みたいにぬるぬるとしはじめる。

  「シロ?なんか付いてるの?」

  「やだ。だめ。汚いから。」

  どれだけ毛並みを整えようとしても私の白い毛が男たちの手の形に沈んでしまう気がする。

  唾液がついて濡れている気がする。

  違う、違う!繋ぎたいのはこれじゃない!

  「ちょっと。シロ!どうしたん!」

  掴もうとするクロの手を振り払い、河川敷を降りて水辺に行き、手を川の水につける。

  水なんかよりも、もっと怖い何かが私の体から溢れている気がした。

  私を引きずり込むように手に泥が絡む。

  指の間を泥がうねり、嫌な嫌な黒い色が私の白い毛も嫌な黒色にしていって『シロさん。シロちゃん。シロ。』クロが私をシロと呼んでくれるのに呼んでくれてたのに私はぜんぜん白くなくて嫌だ取れて取れて取れて!

  舞い上がった水の中の泥が水面に移る私の顔も耳も髭も泥色に染めていく。染めて____

  「シロ!!」

  右手の爪で左指の隙間を切り裂き、手の甲を、手首を切り裂き、赤い血液が川の水と混じりながら流れ出す。

  「はあっ、はあっ…はあっ…」

  いつの間にか泥は流れ落ちていて、赤い血の色と白い私の毛の色だけが見えた。

  私にもちゃんと色は流れてる。そう思えるだけで少し心が安らいだような気がして、ちゃんと私を認めて欲しくてクロに詰め寄る。

  「…シロ…どうしたん?」

  「よかった。白い。私、白いよね。クロ、私シロだよね?」

  縋る私にクロは、どうしていいか分からない、という顔で私を見る。

  どうしたのクロ。

  私はいつも通りなんだから、いつも通りシロって呼んでよ。

  優しい瞳で見てよ。

  …そんな目で私を見んでよ。

  「…とりあえず、ちゃんとした水で洗って、消毒しよ。川の水は汚いから___」

  

  「汚くないッッッ!!」

  空気を引き裂くように絶叫する。

  息が苦しい。

  涙がぼろぼろとこぼれて止まらない。

  どうして分かってくれんの?

  どうして助けてくれないの?

  

  「なんも知らんやん!クロはなんも!どうしたらよかったんよ!私に何ができたんよ!」

  

  「シロ…?」

  「クロなんかに、出会わなきゃよかった。」

  

  言っちゃいけなかったのに、言わないと決めていたのに、叫び出したらもう止まらなかった。

  

  クロの目が見れない。

  嫌われた。

  なのに嫌われたくない。

  爪をしまうことも忘れてクロの腕に縋り付く。

  肉にくい込み皮膚を突き破って、クロの腕からも細い血の筋が流れ出した。

  「助けてよ…クロ…。」

  

  「私、体売らされてるんよ。」

  

  クロにさえ会わなければ、もしかしたらこんなことも耐えられていたかもしれない。

  でも、あなたが私に色のある世界を見せてくれたから、今日まで生きてこられたよ。

  あれだけクロと一緒にいても、私は弱いままで、耐えることも割り切ることも出来ないまま、クロの優しさに甘えて背負わせようとしている。

  クロが私の爪を1本1本ほどいていく。

  こんなにも汚い私を見ても変わらずあたたかい光を伴った目で私を見つめ、今まででいちばん強く抱きしめた。

  なんて言えばいいのか分からなくても、それでも私の味方でいてくれるという意思表示。

  「分かった。」

  クロは一言だけそう言った。

  私はただただ、クロの大きな胸の中で泣き叫んだ。

  抱擁した腕の隙間から夕日が差し込んで、私の目に染み込んでいく。

  ______

  しばらく泣きじゃくって、それからクロと話し合った私達は、警察に全て話すと決めた。

  そしてもう一度何もかもやり直せばいいと。

  クロは私の手をしっかり繋いで、家まで連れて歩いてくれた。

  

  「ただいま。」

  誰か帰っているか声をかけて確かめるも今日は客もいなくて、父も母も家の景気が良くなってから外出することが増えたせいか家には誰もいなかった。

  父親とお母さんの寝室に入り、押し入れを漁る。

  父親がいつも持ち歩いていた気がする手帳より少し大きなノート。

  普段何も気にしていなかったけど、あれにはなにかヒントがあるはずだった。

  数ページめくってみると名前はなかったけど顧客の連絡先、その顧客が私に着せたがる服、させたがることを細かくメモしたリストがあり、それを急いで持ち出す。

  「クロ、あった!」

  「よかった!そりゃあ、そんなノートいつも外で持ち歩かんよな。嫌かもしれんけど…一応見して。」

  ノートを手渡してページをめくるクロの顔がみるみるうちに怒りで染まり、めくる手が止まる。

  私を買った大人たちのリスト。そこに目をとめてしまったのだろう。

  「クロ…。」

  

  「大丈夫。みんな、みんな牢屋に送ったるから。」

  そう言って、私の手を取り歩いていく。

  お母さんも、お母さんも捕まっちゃうんかな?

  そう考えて、家にいなかったことをどこかで安心する私がいた。

  「おかえり。」そう言われたら、私はノートを探し出せなかったかもしれなかったから。

  お母さんにだけは、これ以上不幸になって欲しくないなと今更ながら思う私がいた。

  

  ______

  警察の少年科の担当は女性の心優しいバーニーズで、私たちの話をゆっくりと、素直に聞いてくれた。

  売春を親に殴られて強いられたことも、日頃から暴力を受けていたことも、ノートのリストも何もかも話すと調査することを約束してくれた。

  しかし一時保護施設の職員の手が今は足りないらしく、明日になっても児童相談所側が迎えに来るのが難しいようなら、警察が送っていくと言われ、泊まるところがないなら警察署で保護するとも言われた。

  クロと最後にご飯を食べに行きたいと言うと、婦警さんは笑顔で了承してくれた。

  ______

  

  2人でご飯を食べに行くのは初めてだったけど、高いものはさすがに頼めないからマクドナルドになった。

  大きな事を終えたばかりのせいか話す話題がなんとなく見つからなくて、他愛もない話を見つけては語り合う。

  私はポテトはカリカリしたものよりもしんなりとした方が好きと言うと、クロは少し照れくさそうに自分のしんなりしたポテトを「あーん」と言いながら食べさせてくれた。

  次に警察に行くともう会えなくなってしまうだろうから、店を出たあとも近くの公園のベンチに腰掛けて2人で肩を寄せ合う。

  春とはいえ夜はまだ少し肌寒い。

  「そろそろ行く?」

  とクロは言ったけど、まだ行きたくないと答えると黙って手を繋いでくれた。

  ふわふわしたクロの毛と、その下の体温を感じる。

  「汚くない?私。」

  「シロは、ずっとキレイなまんまだよ。」

  クロが、お母さんみたいに、私の手をほどいていくような感じでさすってくれる。

  「あの父親も、お母さんもみんな捕まったら、施設とかに行ってクロとももう、会えなくなるんかな。」

  「会えるよ、いつかきっと。」

  「だって、クロだってこんな町嫌やろ。大人になったら出ていっちゃうよ。クロは優しいし…頭だっていいんやから。」

  「確かに、嫌やけど…でも、もしシロにまた会えるんなら…僕、この町をシロが安心して暮らせるようなとこにして、待ってるよ。」

  「無理だよ。そんなん。」

  「いや、する。僕、さっき決めたんよ。高校出たら警察になって、もうシロとか、保育所の子たちみたいな子減らすねん。」

  クロが星空に向かって力強く宣言する。

  年齢に比べてはるかに大きく見える彼の瞳には月が反射して強い光を携えていた。

  「…なんだかクロならほんとにできちゃいそう。」

  「するもん。そしたらさ、また仕事休みの日なんかに保育所行ってさ、読み聞かせしようよ。」

  「大人になっても?」

  自分が言ったことの意味をよく考えたのか、クロが頬をあからめる。

  やがて決心したような顔をすると私の肩を掴んで、

  「シロがこの町に戻ってきたら、絶対幸せにするから、そしたら、僕と結婚してよ。」

  あの日、初めてキスをした時と同じように目が合って、変わらないクロの優しさが私を包み込んで安心させる。

  「私なんか、もらってくれるの?」

  「どんなシロでも、僕はずっと好きやもん。だから、ずっと待ってるから。」

  クロに飛びついて、キスをした。

  あの時と同じく首に腕を回して、あの時よりも強く抱き締めて唇を重ねる。

  誰に見られたって、構わなかった。

  「ねえ、クロ。会えなくなる前に1個だけ、1個だけお願いしていい?」

  「なに?」

  「その…最後に、私の体までちゃんとクロのものにして欲しい。」

  

  クロは、頭がいいから直接言わなくても私の言いたいことを分かってくれて、トンネルの遊具の方へ手を引く。

  その日、私はクロに私を捧げた。

  警察署に戻る頃には0時を回ろうとしていて、婦警さんから少し怒られたけど案内されて布団のある小さな部屋で寝かされた。

  目を閉じるとクロの顔ばかりが思い浮かぶ。

  いつものどす黒く渦巻くような暗闇ではなく月のない晩のような静かな暗さが私を落ち着かせて、安心させてくれる。

  本当にもうしばらく会えなくなっちゃうのかな。

  でも、目を閉じたらいつでも会えるよね。

  そんなことを考えているうちに、とろとろと眠りについてしまった。

  ______

  翌朝、昨日のバーニーズの婦警さんとは違う、厳しそうな顔をしたパグの警察の人が私を起こして、迎えが来たと言った。

  身支度を整えて部屋を出ると時計はちょうど朝8時を指し示していて、頭の中でオルゴールのメロディが鳴り響く。

  あの時計も、持ってくればよかったな。

  でも、全部終わったらまた帰れるよね。

  扉をひとつ、またひとつと進んで外に出る。

  「さ、お父さんときちんとやり直してきなさい。」

  

  パグの警官がしっかりとした口調で私に言う。

  

  一瞬、言ったことの意味が分からなくて顔を見上げると強い力で前に引っ張られる。

  「いやぁ、すんません。娘が一晩苦労かけたみたいで。」

  家で私やお母さんに接するのとは違う、客や偉い人には猫背でぺこぺこしながら媚びる父親の姿がそこにはあった。

  なんで、どうして。

  

  「私が言うのもなんなんですが、こんな町なんですから、“家出”なんかさせたらアカンよ。」

  パグの警官は、まるで状況を理解していない。

  というよりも、全く知らなさそうな口振りで軽く注意する。

  「ほんま、すんません。ちゃんとこいつとも家で話し合いますんで。」

  足がすくんで動かない。

  歯ががちがちと震えて、クロと叫び出したいのに次は肩を掴まれて全部押さえつけられてしまったように口が開かない。

  

  警官に無理やりお辞儀をさせられたあと、手を引かれ、されるがまま歩く。

  

  いやだ、そっちにはもう行きたくない。

  クロ、クロ、どうして。

  「好き放題やってくれたな、ガキコラ。二度と家から出れると思うなよ。」

  

  がらがらと地面が崩れていく。

  世界は、また色を失くし暗く、暗くなっていった。

  ______

  家に戻ると服を全て脱がされ、顔以外のところを散々に殴られながら風呂場まで転がされる。

  悲鳴をあげる暇もなく頭を捕まれ、お腹を殴られて呼吸がうまく出来なくなったかと思うと、水の中に顔を突っ込まれた。

  息ができず、ボコボコと泡を吐きながらじたばたともがくけど自分よりもはるかに大きい腕力が脱出を許さない。

  髪を引っ張られて水から引き上げられ、頬を殴られると風呂場のタイルに叩きつけられ、また引き起こされて水の中に顔を入れられる、その繰り返し。

  「げほっ、げほっ、うえっ…」

  

  「やっぱ仕事は偉い人とするもんよなぁ?なぁおい。聞いとんのけ。」

  お腹を蹴られて胃がせり上がり、転がった状態でげえげえと飲んだ水を吐き出してしまう。

  「お前とあのクソガキがタレ込んだせいでな、リストも客もパーやで。お得意さんが揉み消してくれたけど、さっき俺にまでクレームきたんぞ?また1から親にやり直しさせるんかい、おぉ?」

  体を何度も何度も踏みつけられ、軋むけれどお母さんの言葉を思い出してとにかく呼吸に集中して、ほとぼりが冷めるまで耐えるしかなかった。

  

  お偉いさん、と父親は言った。

  昨日とは別のイヌの警官が朝起こしに来た。

  ああ、そういうことか。

  この町の大人は、みんな、みんな…

  父親はなおも私の体を痛め続ける。

  遠くからそれを見るお母さんの顔は、私の代わりに殴られ続けたせいか、白い毛が見えないほどに血で赤く染まっていた。

  腫れ上がった目で私を恨むように見つめて、やがて見捨てるようにそっぽを向いてどこかへ歩いていった。

  みんな、自分のことだけなんだね。

  「あの黒いガキもな、お前の目の前で血祭りにしたるわ。ガキが並んでみゃあみゃあサカりよってホンマ…」

  クロが、クロだけはダメ。

  体を起こして逃げ出そうとするけど、何度でも何度でも執拗な暴力が私を打ちのめす。

  ______

  どれだけの時間暴力を振るわれているのかもう分からない。

  シャワーで熱湯を浴びせられながら、私は悶える。

  

  オルゴールの時計の音を何度か聞いた気がした。

  その度にクロに助けて欲しいと願ったけれど、もう、クロは助けにこないと思う。

  多分、私が施設にいないことなど何も知らないだろうから。

  

  やるだけやってみたけど、この町は私たちのちっぽけな抵抗じゃ何も変わらなかった。

  やがて、視界が暗い色から真っ黒い色に徐々に染まっていく。

  

  痛みがだんだん遠くなってきて、世界が遠くなって、まるで私はそこににいない、絵本のなかの出来事を他人の視点から見ているような感覚。

  …久しぶりだなぁ、この感じ。自分の呼吸の音まで遠くで聞こえてくる。

  …多分、もう死んじゃうのかな。

  …目の前のこいつに肌を晒しながら。

  …悔しいなぁ。

  

  最後くらい自分の布団で…セックスだってクロともっとキレイなシーツの上でしたかった。

  …でも私、クロのおかげで現実にも綺麗なものがあるんだってこと知れたよ。

  小さい子たちの笑顔も、春の草花も、雨の日に相合傘もして、虹も見たんだっけ。

  雲の切れ目から差し込んだ光が作る陽だまりの色も、帰り道に色の違うアイスキャンディーも買ったね。

  でもやっぱりいちばん綺麗なのは、クロの瞳の色だったね。

  心を開いてくれたのも、トンネル遊具の中だったけど、最後に私の体に触れてくれたのも、あなたがくれたもの。

  私の目に映る暴力が遠くなっていく。

  

  目を閉じて、眠ろう。

  

  もう想像の世界で鮮やかな世界を見ることはできなくてもなっちゃったけど、現実の綺麗な思い出を持って行って死ねるんだから、私、少しだけ幸せだよね。クロ。

  お願いだから悪い人たちに見つからず、優しいままのあなたで過ごして…。

  

  次に目を開いた時はあの絵本みたいに、色鮮やかな世界で、クロが王子様で、私がお姫様みたいな…

  目を閉じようとしたその時、

  色鮮やかな、赤が飛び散った。

  温かい液体が私の頬を濡らして体を温め、聞いたこともないような叫び声が私の意識を現実に引き戻して目を覚まさせる。

  視界の中では父親が怪物のように苦しみ出して、喉から赤い液体を噴出しながら悶える姿。

  背後から現れた黒ネコが、暴れ回る怪物に引き剥がされては何度も飛びかかり、さながら勇者の剣のように怪物に包丁を突き立てていく。

  「うわぁぁ、あああ!!」

  狭い浴室の中で逃げ惑う父親の背後を黒ネコは叫びながら何度も何度も突き刺し、馬乗りになって動かなくなるまで刺し続ける。

  父親の抵抗は弱まり、叫びはやがて小さくなり、黒ネコはそれでも半狂乱の叫びを上げながら動かなくなった父親に構わず包丁を振り下ろしていた。

  

  「…クロ?」

  「ちくしょう!ちくしょう!!ちくしょう!!!」

  

  涙を流して、絶叫しながら、怒りをひたすらに死体にぶつけ続けるのは、間違いなくクロだった。

  疲れたのかぜえぜえと苦しそうに呼吸を繰り返し、振り下ろすペースは落ちていく。

  「クロ…もう死んどるよ。」

  私の呼びかけに気づいたのか、包丁を最後に深々と突き刺して、血を浴びて赤く濡れたクロが、悲しそうな目をしながら私に振り向く。

  「ごめん…シロ…全部僕のせいや。」

  クロは、泣いていた

  風呂場のタイルが真っ赤な雫で色づけられ、流れ出てきたぬるい液体が私の白い毛にまで伝ってきて、染み込んでいく。

  クロが、ネコを、殺した。

  「んーん。クロは、なんも悪くないんよ。」

  クロが、獣人を殺してしまった。

  

  「僕がもっと…賢かったら…ごめんなさい…ごめん…シロ…」

  傷だらけで血まみれの私を抱く。

  ぽたぽたと落ちてくるクロの涙が私の血を洗い流して、傷ついた私の体がどんどんきれいになっていくような気がして、少しだけ心地いい。

  私を抱く手は震えていて、血を浴びたことに興奮しているのか、衝動に任せたせいか泣いているのに歯をぎりぎりと食いしばったままで…

  「クロ…」

  最後まで、私を助けてくれるんだね。

  「殺して、くれて、ありがとうね。」

  少しでもクロが許されればいい、そう思って精いっぱいの言葉を伝えると、彼の瞳が優しく光る。

  それでも、光はいくらか弱々しくなっていた。

  

  「クロ、ごめん…体いたくて…もう…」

  クロが来てくれたおかげで少しだけ開いていた目も、体力をなくしてしまっているのか、もうだいぶ重たい。

  「クロ、わがまま…お願い…どうせなら最後はクロがいい…」

  

  クロの指先を掴んで私の首元に持っていき、目をとじる。

  私まで殺してしまえばクロはどうなるんだろう。

  少し考えれば分かることなのに。

  クロの優しさにつけ込んで願いを聞いてもらうのは、私もこの町の住民達とやっていることは変わらないのかもしれない。

  「______…」

  せめて、音も聞こえないほど高い声で、鳴く。

  もう言葉も話せなくなった私なりの、最大限の愛情表現だった。

  遠くで泣き声が聞こえる。

  クロの爪が私の喉に入ってきて、裂いていく。クロが私の体にどんどん爪を立てていくにつれて、私の中の悪い何かが全部出ていくような気がした。

  体を売ってしまったお母さんも、私も、首輪付き。

  でも、私の首輪はクロがその爪で着けてくれる。

  大好きな子から、思い出を、贈り物を貰っただけじゃなくて最後、キレイな私を看取ってもらえる。

  私はなんて幸せなんだろう。

  ______

  

  夢を見た。

  私とクロがあの河川敷を歩いて、鉄橋を渡ってどこか知らないところに歩いていこうとする夢。

  でも橋を渡ろうとしたら道はなくて困っていると、保育園の子どもたちがクレヨンや絵の具を持ち寄ってカラフルな橋を描き始める。

  でも、持ち寄ったものだけじゃ足りなくて、どうしようとみんなで悩んだ。

  するとクロが、絵筆を自分の体に付けて、黒い色を描いた。

  クロは子どもたちに僕の色を使えばいいと言って、黒い橋を描いていく。

  鉄橋の向こうについた私たちは、手を上げて喜んだ。

  だけれど、クロの色をこんなにも使ってしまって大丈夫なのかと私は心配になってクロを確かめると、

  「僕は大丈夫やから。」

  そう言った。

  クロは黒くなくなって、血のような真っ赤な色に染まっていた。

  クロは、自分だけ鉄橋を渡り終えていなかった。

  

  ______

  長い夢を見た。

  どこかで嗅ぎ覚えのある香りがして、目を覚ますと私は真っ白い部屋で寝かされていた。

  光が目に染みる。

  静かな部屋で、真っ白くてキレイなシーツ。

  体が沈む柔らかいベッド。

  天国みたい。

  ぼやけた視界の隅に映った白い何かがこちらに向かって来ると、私を覗く。

  これが天使さんなのかな?やっぱり天国なのかな。

  「先生、シロちゃん、目を覚ましましたよ。」

  ______

  命を取りとめた私は1週間も眠っていたそうだ。

  全身の打撲、数カ所骨折、火傷…警察がもう少し遅れていれば命はなかった、と言われた。

  声を出す練習をして少しだけ喋れるようになると、警察の人が来て、説明を受けた。

  あのネコは死んだ。クロに殺されて。

  お母さんは売春の共犯で捕まった。

  覚醒剤なんかもやっていたみたいで、刑務所から出てくるにはすごく時間がかかる、と言われた。

  そんなことよりも私は、クロがどうなったのかを知りたかった。

  クロは、殺害“2件”、殺害未遂1件で現行犯逮捕されていた。

  クロは、血まみれになって私の首に爪を立てて引き裂いているところを警察に目撃された後、私の家から逃げ出した。

  私が助かったのは、クロに殺される時にあげた父親の悲鳴で気づいた近所の住民が通報して、それで警察が駆けつけたからだそうだ。

  その後、クロは市役所でも1人殺害し、捕まった。

  警察の取調べに対して、『お前たちのせいじゃないか』とだけ言って、それ以来何も喋らないのだと言う。

  それでも、私が命を取りとめたことを知ると少しだけ安心した顔をして、シロが起きるまでは何も喋らないと言ったそうだ。

  

  「何があったのか、話してくれる?」

  

  少し老齢だけど、厳格な顔をした頼りになりそうな土佐イヌの警察が、顔に似合わない優しい声で私に聞いた。

  私は警察に行ったことも、なぜか保護施設の人じゃなくて父親がやってきたことも、クロが来てくれなければ私が死んでいたことも、私が体を売らされていたこと、私が、クロの手で殺して欲しいとせがんだこと。

  自分が誰に犯されたかも構わず、ただクロに助かって欲しい一心でなにもかも話した。

  「クロだけは、何も悪くないんです。」

  助けてくださいと泣いてお願いすると、土佐イヌの警察は私の手を取って

  「もう大丈夫だから、少しだけ待っていてね。」

  そう言った。

  その後、聞いた話によるとクロは私が目を覚ましたのを知るとすぐに全部話し出したらしい。

  クロは私が父親に連れ出されたあの日、私が保護施設に送られたか警察署に確認に行くと、担当してくれた婦警はおらず、転勤したと告げられる。

  不審に思ったクロは私が相談したこと、私が昨日警察署で保護されてるはずだと伝えると、そんなことは起きていないと突っぱねられた。

  何かが起きていると思い、私の家に向かったクロは死にかけの私を見て激昂した。

  キッチンにあった包丁で刺し殺して私の首を裂いて逃げ出した後、なぜ気づかれたのか、なぜ警察が機能していないのか、考えた。

  コピーを取った電話番号に片っ端から匿名で電話をかけてそして全てに気づいた。

  私のとった客が、全員この町でなんらかの役職についていたり、警察だったり公務員だったこと。

  

  なにより、どこかで見覚えのある番号はクロの母親のパトロンで、市議会で役員をしている自分の父親まがいのイヌだったこと。

  電話でその役員を呼び出したクロは、即座に飛びかかって喉を噛みちぎり、舌を抉り出した所を何匹にも目撃され、そのまま取り押さえられたそうだ。

  

  

  クロはことのあらましを全て話したあと、

  「僕がもっと賢くて、強かったら、シロちゃん傷つけんですんだ。」

  一言だけ、そう漏らしたと聞いた。

  結果クロは、殺害2件の罪で起訴されたけど私の父親も彼の父親もどちらも実際に籍を入れていなかったこと、私の行った警察署が顧客リストを隠蔽したこと、商売を手伝っていた写真屋から押収した証拠写真、クロの取っていたコピー、急遽異動させられた婦警さんの証言…

  色々なことが重なって、獣人少年法でも極めて異例の懲役4年の判決が下った。

  _____

  リハビリを終えると、私は程なくして県を2つまたいだ児童養護施設に住むことになった。

  持ち物は自分の服と、数冊の絵本、そしてクロがくれた壁掛けの時計。

  施設は裕福、というわけではなかったけれど年上の優しい先輩や小さな年下の子ども達がいて、共同生活をするのは慣れるまで大変だったけどみんな仲がいよくて、ワラビーの先輩とパンダの保母さんは私の事情を知っていたのか、最初はものすごく気遣ってくれて、みんな優しかった。

  近くの中学校に転校すると、施設の子だということは既に広まっていたけど事件が全く表沙汰になっていなかったせいかちょっと事情ありくらいに思われただけで、同じネコで美術部の女の子の友達がすぐできて勉強を教えてもらったり、画材を貸してもらって絵を描いた。

  私の初めて描いた夕暮れの絵が、小さな賞に選ばれたと聞いた時はすごく嬉しかった。

  勉強はだいぶ遅れてしまっていたし、施設の手伝いもやらなくちゃいけないから大変だったけど、なんとか普通の公立高校くらいは進めそうだった。

  普通にみんなで暮らす生活が、こんなにも簡単に手に入ってしまう。

  

  ただ一つだけ変化があるとするなら、

  私は声がうまく出せなくなってしまった。

  クロに爪を立ててもらったとき、私の声帯も傷つけていたらしく、話せはするけどあまり大きな声が出せなくなった。

  読み聞かせも、できなくなってしまった。

  

  ______

  

  誰も通らない昼下がりの河川敷。

  「こんな道を、クロといつも一緒に帰ったんです。クロは図鑑とか読んでて、虫を見せられるのはちょっと嫌でしたけど、花にも詳しくて。」

  今は冬だから何も咲いてはいないけど、枯れたエノコログサを見つけたので1本抜き、ふりふりと振ってみる。

  「エノコログサって言うんだね、コレ。私の初恋のヤンチャなネコの子も好きだったなぁ。」

  今私の隣を歩いているのは、8年前にもお世話になったバーニーズの婦警さん。

  現在は警察を辞めて、児童援助を目的としたNPO活動をしているらしい。

  今でもあの事件に対して責任を感じているのか、こうしてたまに時間を作っては私に会いに来てくれる。

  「クロくん、元気にしてる?生活に変わりは?」

  「はい。相変わらず、夜中遊び歩いてますけど。生活は裕福ってわけでもないけど、借金もないし。貧しいのは別に慣れてます。」

  「そろそろちゃんとしたとこ就職してもらわなきゃダメよ?ニコイチの車をカスタム車なんて言って売りつけるなんてかなりあくどいじゃない。」

  「クロは頭いいから、上手くやってるみたいですけどね。それに…」

  「それに?」

  「たまにですけど、夜間保育所に読み聞かせに行ったり、クリスマスの日にはお菓子送ったりしてるみたいです。」

  「…そうなの。」

  「昔からずっと優しいんですよ、クロって。」

  

  長い道を歩き終えて婦警さんとはここでお別れになる。

  私は休憩を終えてまた屋台へ団子を焼きに、婦警さんはどこかを飛びまわる暮らしに。

  「何があったらすぐ言ってね!」

  「ありがとうございます。でも、大丈夫です。」

  もう、2匹はずっと一緒で、離れないから。

  ______

  18歳の春。

  「本当に、シロはそうしたいの?正直…私は認めてあげたくない。」

  パンダの先生が、真剣な眼差しで私を見つめる。

  私を心底気遣った目で。

  私が就職先に選んだのは、あの町で屋台を出す小さなお団子屋だった。

  あの町に私が戻ることを先生が反対するのは当然のことで、心配なのも分かる。

  それでもこの施設を出る私と規定で住所を教えることのできないクロを繋ぐのは、あの町だけだから。

  クロはついこの前、無事に刑期を終えそうなことが手紙で分かった。

  あと1年、ちょうど私も施設を出る年齢になる。

  先生は優しさからそう言っているのは分かっている。それでも、私の心はもう決まっていた。

  あの町でやり直して、胸を張って自分たちであの町を出ていけばいい、そう思った。

  ______

  「履歴書送られてきた時も思ったけど、お前可愛いやん。時給3000のラウンジとか多分いけるで?そっち紹介できんぞ?」

  灰色の毛並みをしたずんぐりとしたオーナーが履歴書と顔を見比べて言う。

  やることはただの面接なのにどこか圧迫感のある口調と見た目をするオーナーは、正直に言って一般人にはあまり見えなかった。

  「いえ、実は、あんまり大きい声出せなくて。」

  本当の理由は2人で出ていくためのお金は、出来ればちゃんとしたお金で稼ぎたかったから。

  いずれやめるつもりです、とは言わずに首元の傷を見せると、オーナーはギョッとして目を逸らす。

  「やめぇ!いきなり若いおなごが白い首晒してお前…お前と違って俺の嫁は俺よか強いんやぞ、見られたらどうすんねん。」

  「ご、ごめんなさい…」

  誰かに肌を見せることに対して自分は無意識にかもしれないけど抵抗を持っていないのかもしれないと思って少しだけ戒めないと、と思った。

  「ま、客商売やしこの町の出なら分かると思うけど、タチ悪いカスも多いからな。なんかあったら警察じゃなくて俺呼べ。でも、大概のことは自分でなんとかせぇ。」

  「…え、採用ですか?」

  「あ?やっぱラウンジがよかったか?」

  「いえ、ありがとうございます。一生懸命、がんばりますっ。」

  「時給は歩合。お前可愛いしもし売れっ子になったらレート上げたるわ。あと、祭りの日は強制出勤。」

  採用を受けた後に、あの河川敷を一人で歩いた。

  合格とウチの味を噛み締めろと言って渡されたお団子を頬張りながら、川を眺めつつ駅へ遠回りして向かう。

  昔できなかったことを取り戻すかのように、クロと、2人でやり直すのに必要な一つ一つのピースが埋まっていく。

  お金なんてなくてもいい。

  もう一度、笑って2人でどこかこんな場所を歩ける日が来ればいい。

  昔のまま…

  

  日が傾きはじめた河川敷を、空を泳ぐアキアカネと歩いていると向こう側から歩いてくる大柄な黒ネコがいた。

  地味な服装に身を包み、さっきまでの私と同じく川を眺めながら歩く彼は、少しだけしか荷物を持っていなかった。

  追い風が私の毛を揺らして、前へ運ぶ。

  風を感じる彼が向かい側に立つ私の方を向いて、立ち止まる。

  

  互いに再び歩き出すと、色付いたこの世界で私にとって一番強い、一番大好きな色との距離がどんどん近づく。

  視界が滲んで、溶かした水彩絵の具のようにぼやけて足がつんのめる。

  私が地面に倒れ込む前に抱きとめた誰よりも綺麗で黒い彼は、何も言わずに抱きとめて_____

  

  私の名前を呼んだ彼の胸の中で、ひたすらに謝って、ひたすらに大声を上げて泣いた。

  あの日と、同じ。

  

  ______

  

  

  列車の中で、何度も読んだクロからの手紙を読む。

  2人で住める場所が決まったこと、

  自分も就職が決まったこと。

  もう、誰にもシロを傷つけさせたりしない。

  そういうことが書いてある。

  列車を降りてバスに乗り、ぼこぼことした雑に舗装された道に揺られながら私の生まれ育った掃き溜めの町へ。

  トタンの家は減ったけど、無彩色の良くないものが溜まったような空気感は何も変わらない。

  コンビニには白昼堂々集団でサボる学生がいたし、立ちんぼも、ゴザを敷いて道に座り込むネズミの集団家族。

  多分みんな、この町で死んでいくことを選んだ人たち。

  私とクロも、もう一度この町で始める。でも、今度は河川敷を超えて、クロが鯉が見えると言ったあの鉄橋も越えて、もっといい方へ歩んでいける。

  

  クロと河川敷で合流して歩いていったアパートは6畳1間の安普請で、電車が通る度に部屋がみしみしと音が鳴るようなところでクロはバツが悪そうにしていた。

  「ごめん、部屋、今の俺じゃこういうとこしか…」

  「節約になるし、大丈夫ですだよ。それに…」

  クロと一緒ならどこだっていいよ。

  そう言うと、照れたようにクロが笑う。

  体は大きく、筋肉質になったのにその笑顔だけは変わらなかった。

  

  クロと2人初めての夜、お互いの布団を敷くとそれだけで部屋はいっぱいになってしまう。

  せっかくなんだから敷布団を2枚に重ねて、2匹で1緒に寝ようと提案して、お互い恥ずかしがりながらも一緒の布団に入った。

  いざ大人になってから入るとなんだか照れくさくて、お茶を濁すようにお互いの話をし始める。

  クロは、作業場や車整備の知識を活かして中古車販売の仕事に就いたと言って、私はスーパーの店頭でお団子を焼くと話した。

  1度話すと止まらなくなって、これまでの生活、施設の子どもたち。

  お母さんは覚醒剤をやめて、私とはもう会うこともないだろうけど今はよその町で老人介護の仕事をしているらしいこと。

  私が、幸せにしていたという話を、クロは何よりも喜んだ。

  「普通に働いて、ご飯を食べて…クロと一緒で…全部、全部クロのおかげ。」

  カーテンもまだ買っていなかったせいで窓から月明かりが差し込み、クロの瞳が映る。

  やることはたくさんあって、明日からは仕事もあったのに月が沈んで空が白むまで私とクロは眠らず交わり続けた。

  私の望んだ人生。

  クロは、私にそれをくれた。

  ______

  クロと住み始めて半年ほどたった頃、月に1度、何も告げず帰らない日があった。

  その時は会社の人と遊んでいるのかもしれないと思い、気にせず眠った。

  ある日の深夜、じゃぶじゃぶと水音が聞こえて来たのでクロが帰ってきたのだと思い洗面台を見に行くと、手を洗うクロは顔を腫らしてアザを作っていた。

  「どうしたの、クロ。」

  拳の皮は擦り剥けて、毛がなん本も抜け落ちている。

  「あぁ、起こしてごめんな。なんでもないよ。」

  顔を腫らしたまま笑うクロは少しだけ怖くて、

  「ちょっと揉め事の相談されてな。でも、もう解決した。シロは、なんも心配せんでええ。」

  排水溝に絡まった何者かの白い歯に、何も言えなかった。

  

  クロと住み始めて1年経った頃、クロは帰らない日が増えた。

  そして、屋台で団子を焼いているうちに誰かが話していた噂を聞いた。

  昔2匹の殺しをやった男が、愚連隊を作り始めている、そんな噂。

  クロに付いた拳の血。

  あの日血を浴びながら叫ぶクロの姿と重ねずにはいられなくて、動悸が激しくなる。

  何をしようとしているの、クロ。

  

  クロは、その日も帰らなかった。

  ______

  月が高いところまで登り、オリオン座をありありと映し出す夜。

  神社の屋台は店じまいをして、甘酒を片手にクロの好きな魚醤を塗った団子を持ち帰りながらアパートへ向かう。

  クロが1ヶ月の内、部屋に帰るのは今では半月もいればいい方で、多分それ以外の日は愚連隊の友人か別の女の子のところに泊まっている。

  多分、今日の余りで作った団子も私が食べることになるかもしれない。

  

  1度、町中でクロと私以外の女の子が歩いているのを見たことがある。

  その子は耳が少しちぎれていて、顔には青いあざを作って、歯は折られたのか抜けていた。

  かわいそうな女の子を、クロが優しい目で見ながら2人で歩いていた。

  

  ______

  ある日、ようやく帰ってきたクロに私は問いつめようとした。

  クロはそんな私を制して、ボロボロの笑顔で

  「やっと準備できた。」

  そう言うと私を抱きしめ、布団に押し倒して無邪気に笑う。

  「町の悪さしてるヤツらとか片っ端からぶっちめてな。あとは、行き場のないヤツらとか集めて、チーム作ったんよ。さっきヤーさんにケツ持ちも頼んだ。この町シメたんよ。」

  

  何を急に言い出すのかと思って引き剥がすと、

  「もうこれで、俺がいれば、悪さも好き勝手させれんようになる。誰も子どもたちも不幸にならん。この町で、シロも安心して住めるようになる。」

  

  クロは笑って、そう言った。

  「ごめんな、シロ。俺、もう警察なれんから、こうするしか思い浮かばんかった。」

  

  私は…

  クロが、瞳は昔のまま、擦り切れた目で、不器用に笑う。

  何度も怪我を繰り返してボロボロになった手のひらで私の頭を撫でる。

  暴力を振るう度に何度もきしんだ両の腕で私を抱く。

  私は…

  

  『力に力で返しちゃったらさ、ダメだと思うんよ。多分、喧嘩が終わらんくなるんよ。』

  『 殺して、くれて、ありがとうね。』

  

  私は、私の幸せの代償にクロがどれだけのものを払ったのか、何を失くしたのか、今になってようやく思い知ったのだった。

  クロはこの町の人とは違う、心優しい人だった。

  あの日、暴力を受ける私をクロは暴力で救った。

  『もっと賢ければ』

  彼はそう言った。

  でも、私は私が助かったことが、クロが私のために王子様になってくれたことが嬉しくて、彼の暴力を肯定した。

  彼が殺しに手を染めるということで負うものを何も考えないままに。

  クロは、本当の意味で優しいネコになれるはずだった。

  私がその道を塞いでしまった。

  

  でも、だとしたら、私はどうしたら良かったんだろう。

  

  分からなかった。

  「私のために、こんなにボロボロになって?」

  頬をさすると、クロは、何もかもが報われたように笑う。

  クロは出会いを私にくれて、

  クロは友人を私にくれて、

  クロは日常を私にくれて、

  クロは贈り物を私にくれて、

  クロは恋を教えてくれて、

  クロは普通を、幸福を、家族を、人生を、矜恃を何もかも捨てて、私にそれらを全部くれた。

  「ありがとうね、クロ。この町で、ずっと安心して暮らしてていいんだね。」

  私との出会いに全てを狂わされたクロを受け止めてあげられるのは、私しかいないじゃない。

  「ずっと、一緒だよ。」

  その日、クロも私も、この町の住人になった。

  ______

  

  多くを望まず、流れるままにしていれば、神様はそこそこの幸せをくれる。

  「クロ、大判焼き食べたい。」

  「いいな、白あんある?」

  グレーな商売をして稼いだお金も、私が何かをねだれば罪悪感なく使える。

  年始も過ぎて穏やかなムードも終わり、この町にまた嫌な空気が溜まり始める頃、私とクロは陽のあたる場所を並んで歩く。

  立場があるから外でべたべたとするのは避けて彼とは少しだけ間を開けて歩き、帰ったあとに寂しかったと甘えればクロは許された表情で私を抱く。

  

  すれ違った女の子が、クロに視線を送り、サインをするのを私は見て見ぬふりをする。

  気付かないふりをしていれば、罪悪感からバレていないつもりで私に優しくしてくれる。

  

  クロは、この町の愚連隊のボス。

  弱い者を助けるために罪を重ねて、何かのために、強くならなくちゃいけなくなって、そのために自分を捨てた。

  私を助けるために私の親を殺した彼はこの町だけの英雄になりつつあった。

  それでも、日に日に彼の瞳の輝きは薄れていく。

  暴力に手を染める度に元々あった彼の優しさは“誰かのため”に置き変わって消えていく。

  私は、シロ。

  クロの彼女で、いずれはお嫁さんになるかもしれない。

  本当のクロを覚えているたった1匹。

  彼が瞳の中の小さくなった輝きを唯一見せるのが、私。

  2匹、今日もこの町で幸せに暮らしている。

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

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