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あの日見たのと同じ月

  早足で抜ける雑踏。少し切れる息。

  ちょっとだけ早めに上がらせてもらった会社。

  夕日が落ちる前の繁華街。街を行く人数はかなり多い。

  心配してたけど、そのヒトはすぐに見つけられた。わかりやすく駅ビルで待ち合わせにして正解だったみたい。

  通路に面した雑貨屋の前で物珍しそうに物色している。良かった。迷子になってたらどうしようと思ってた。たぶんそうなってもどうとでもできるヒトだけど、迷子になる可能性自体は充分ある。あるのだ。

  近づいていけば、向こうも気づいてぱっと顔を上げた。

  白毛の獣人型宇宙人――軍畑サダヨシ一佐。

  今日はあちらも仕事上がりだから迷彩服だ。せめて目立たないようにか、ジャケットを羽織っている。

  

  「参謀殿っ」

  「ごめんなさい、待ちました?」

  「いいえ、ちょうど買い物も終わったところでした」

  「へー、何買ったんです?」

  「あっええと……ひみつです。あとで教えてあげます」

  「えー? なんですか、気になる。見せてー」

  「だめです。こーら!」

  後ろ手に隠した袋を覗き込もうとすると、メッされる。ちぇー。

  膨れてみせて――すぐ吹き出してしまった。二人で笑い合う。

  「お疲れ様ですっ。サダヨシ一佐」

  「は――えっ、さっきから、どうしたのです改まって……」

  「今日は半分お仕事だから」

  「むう……。半分は、ぷらいべえとだと申しましたのに」

  じゃれ合いだと充分わかったうえで言っても、やっぱり彼は恐縮する様子で。

  「急なことで、本当に申し訳ございません」

  「うーそ! ちょっと早退もできたし! ホントは、毎日でもいいよ」

  「――ふふっ」

  そうして一緒に夕方の街に出ながら、その名前を呼ぶ。

  「ね、サダヨシさん」

  「はい?」

  「連絡くれて、うれしい!」

  そうすると彼も、緊張がふっと解けたみたいに、穏やかな顔を見せてくれるのだ。

  

  [chapter:あの日見たのと同じ月]

  「――実際、パラレルフライト社様とは繋がっておくように、と上からお達しがあるのも確かです」

  「そうなの?」

  ゆっくり歩きながらの会話。うなずきながらサダヨシさんは言葉を続ける。

  「いつも情報が入ってきます。皆様、本当に様々な事件に関わっているようで」

  「いやあ……はは。こないだも社長、事情聴取とか大変そうだったー」

  サダヨシさんが来た理由。簡単に言えば、パラレルフライトのオブザーバー(つまり自分です)の査察……つまりお仕事の一環だ。

  ただ効力は強くないらしく、今日は本当に「ご挨拶」程度だとか。お昼過ぎに会社に連絡があって、ちょうど仕事も落ち着いているしそのまま、というわけだ。

  それでも本来なら、隊長さんであるサダヨシさんの仕事ではなかったのかもしれないけど……。

  「色々と言う者もいるにはいたのですが、私がゆく、とネジ込みました」

  「ネジ込んじゃったんだ」

  「ネジ込んじゃいました」

  「それ……職権乱用って言ったりするやつ?」

  「言ったりするとも言えますが、貴方に会いたく……」

  おほん、とサダヨシさん。ちら、とこちらを見て、

  「私はこう見えて結構、頑固なので」

  「知ってるよ! ――あっ、ギャグ?」

  ツッコませられてから気付けば、ちょっと悪戯っぽく笑う彼。

  まだまだですね、みたいな顔。くそー。

  「先だってのビーチバレー大会やらで、貴方との繋がりも上に納得させることができましたし」

  「特別な変身……」

  「ええ」

  「ふうん。でもじゃあさ、今日のことって誰かに報告するの?」

  「はい。報告書というと大げさですが、レポートを。私の活動報告も兼ねています」

  「えー、どうしよ。こっち、いつもヘンなこと言ってない?」

  「ないしょにしてあげますよ」

  「わーい…………ん?」

  そんなこんなのやり取りをしつつ、赤信号で立ち止まる。

  サダヨシさんは前を向いたまま、

  「軍隊……というか組織は、より大きな仕組みを動かすために存在しています。ですから個人の、貴方の何かを制限しようとしているわけではないのです。有事の際は別ですが」

  「査察とか、ウチの周りの通信のこととか」

  富士山やら大阪の事件やらで、そのスジ(?)の人達に名前が知れ渡ったことは否めない。想像もつかないくらい様々な思惑が渦巻いているのだけはわかる。大きな組織――日本政府さえも含めた。

  幾人かの知り合いの政府関係者やサダヨシさんも、可能な限り手を回してくれているはずだ。今日だって。

  「……貴方は、お嫌でしょうが」

  「いやじゃない」

  すぐに答える。色々な人から色々聞いて、自分で考えてみた気持ち。

  今言えるのはそれくらいだったけど。

  「サダヨシさんが今日も頑張ってるって考えたらね、全然やじゃなくなった!」

  「――――」

  わずかに揺れる大きな瞳。それから、良かったですと呟いて、微笑む。

  青信号になってまた歩き出す。

  「しかし、一部からは釘を刺されました。職務上、特定の相手と個人的な関係を持ちすぎることは控えるように……と」

  「えー。それは、どうしたの?」

  思わず訊けば、サダヨシさんがニヤっとした。

  え、珍しい顔。見たことない。……そういうのも、いい。すごく、いい。

  「“ぷらいべえとで何をするかは俺の勝手だ”と言ってやりました」

  「やるぅ!」

  で、また笑いあったのもつかの間、今度は急にごほんごほんしたりして、

  「で・す・が。私個人からも、言っておかなければならないことがあるのです」

  「えっ、なに?」

  「貴方が、ぷらいべえとで誰と会うのも自由なのですよ。――たとえば、態度の悪い無法者とかでも」

  「――えっなんでそれ!?」

  「……やはり」

  「あーっ、ずるい!」

  まさか引っ掛けられるなんて。今日はサダヨシさんにやられっぱなしだ。かなわない。

  ちょっと息をつく彼。

  「いえ、自由なのです……ですが危険なことだけは、どうかしないでください。本当に危ないことはしないと信じておりますが……。ただ心配していると、お伝えしたく」

  「うん――サダヨシさん、いつもありがとう」

  「こちらこそ」

  応える薄い微笑みは、色々な彼の姿を窺わせる。軍人、ヒーロー、それから……。

  あー、うん。ああー……手、繋ぎたいな。さすがに街中すぎる? もどかしい。

  「? どうかされましたか?」

  「あ、あのさ。電車乗れば家まですぐなんだけど。歩いても帰れるくらいなんだ」

  「ふむ?」

  「でね、歩くと途中に買い食いできるところが結構あったりする……」

  「買い食い……」

  「それで、食べた後ゆっくり歩くのにいい所があって、夕方にそれやるとあー幸せもう仕事とかしらねーってなったりする」

  「そ、それは……大変楽しそ……いやおそろしい……。貴方が堕落の道に進まないように、誰かが守らなければいけません!」

  キリッとした顔でそんなこと言ってみせちゃって。

  ――知ってる。それも、優しい彼の表情の一つだ。

  ◆◆◆

  「あっ、サダヨシさん反対からソースこぼれてる!」

  「な、なんと危険な……! こんな、こんなの[[rb:小籠包 > しょおろんぽお]]を頂いたとき以来です!」

  「どんなアクシデントがあったか想像できすぎる!」

  「サダヨシさん、タピオカ飲んだことある? 半分こしよ!」

  「たぴ……? これは……どう見てもカエルのタマg」

  「それだけは言っちゃダメ」

  「あっ、ねえアイス溶けてるよ! 下からかじって!」

  「下から!? ……下から!?」

  「逆立ちするんじゃなくてえ!!」

  ――そんな堕落の道……もとい、楽しい買い食いタイムを終えて、差し掛かったのは河川敷。家までちょっと遠回りしてるのは内緒。

  並んで歩く道は土手の上。低い所はグラウンドや小さな公園になっていて見晴らし良好。夕方の時間、散歩やジョギングをしているヒトたちの姿がまばらに見える。

  開けた視界、オレンジの景色が呼び起こすのは不思議な郷愁だ。

  「結構食べたね」

  「はい、食べ歩きなどほとんどしたことがなく、大変有意義でした」

  「楽しかった?」

  「とても。それに、どれもすごく[[rb:美味 > うま]]か……あっ、美味しかったです」

  「サダヨシさん、たまに出るよね。そういう話し方」

  慌てて言い直すのにちょっとクスっとする。

  自覚はあるのか、ええ、と素直にうなずくサダヨシさん。

  「よくご存じでしょうが、“俺”が出ることもありますし……礼節は軍畑家に養子に入ってから叩き込まれましたので」

  「おうち、厳しいんだよね」

  「はい。生きる方法を教えてくれた、大切な場所です」

  言いながら何か思い出すところがあったのか、くっと手を握って見つめている。

  地球にやってくるヒトたちは、力加減にも苦労するらしいから……。

  「最近、友達になったヒーローにもいるよ」

  その彼も苦労していたけれど頑張っていた。今は仕事も見つけられた。

  そのあたりを簡単に話すと、サダヨシさんも大きくうなずく。

  「地球は宇宙人が多く居住し、文明も発達しています。偏見も少ないほうです。ですから皆思うのです。ここに来れば、自分は何かになれるのではないかと。

  ――そして、それがそう簡単でないことにも気づかされるのですが」

  夕日に染まる横顔が、また知らない[[rb:表情 > かお]]を見せている。

  彼のしてきた苦労や心配を、本当の意味で理解することはできないけど……そんな顔も知れて嬉しい、なんて思ったりするの、自分勝手すぎるってわかっているのに。

  こんな気持ちも、夕日のせいにしてやる。……手、ここでなら繋いでもいいよね?

  ――あ、でもその前に思いついちゃった。

  「ね、ね、お願い、ありますっ」

  「えっ、な、なんでしょう」

  「特別な時、そういう話し方して欲しいなって」

  「……ええと?」

  「なんて言うか……あのね、いつもと違う時は二人だけでわかるようにしない? ってことなんだけど……」

  「――ええ、わかりました。特別な気持ちになった時や、それを示すのが必要な時は敢えて敬語をやめる――ということですね」

  「そう!」

  いつもそうやって、ちゃんとわかろうとしてくれるヒト。

  ――ホントに、ほんとに好きだ。

  …………よ、よおーし繋ぐぞ、手。手を、手を繋ぎまあれぇ!?

  伸ばした手が空振る。サダヨシさん、持っていた買い物袋に手を突っ込んでる。なんというバッドタイミング。

  そして取り出したのは――、

  「あっ、それ」

  「ビーチボールです」

  「欲しかったのってそれかー」

  べちゃんこのそれ。思いっきり息を吸って――すごい、一息でパンパンになった。胸の前で抱えてニコッとするカワイイ軍人さん。

  「やりませんか」

  「――うん!」

  アンダーで上げられるボール。ぱんっ、と響く小気味いい音。高く空で輝く。

  わわわっ――やや危なげに打ち返しちゃったけど、サダヨシさんは余裕で拾って。

  「すごい!」

  「落としたほうが罰ゲームですっ」

  「えー絶対勝ち目ないって!」

  「そんなこと――ちゃんと返してみせますし!」

  「こんなのでも――っ、いいのっ?」

  「もちろん!」

  そうして少しずつ移動しながら、何度かの行ったり来たり。

  サダヨシさんが持ち前の運動能力で拾ってくれるから、会話する余裕もできる。

  「さっきの話じゃ、ないけどさっ、こっち時々、すっごく向こう見ずなこと、するでしょっ」

  「否定はっ、しませんね!」

  「それでさ……それで――サダヨシさんのこと困らせたりしてないっ?」

  「――――」

  「それで……」

  続く言葉。何言おうとしたんだっけ。ええと、ええと。

  ボールを追って夕焼け空を見上げていたら――なんでか、目の周りがジワっとしてきた。……なんで?

  でもボールも落としたくなくて、思いついたことそのまま言っちゃった。

  「サダヨシさん、嫌になったりしないっ?」

  「いいえっ!」

  その返答に、迷いはなかった。

  

  「鍛えていますから! 大切な人を守れなくて、何がヒーローなのですか!」

  「――――」

  「それにっ、貴方が本当に困ったことをしたら……その時は叱ってあげます! もし喧嘩しても、それで仲直りしましょう! 嫌になったりなんか、しません!」

  「絶対っ?」

  「絶対です!」

  「絶対の絶対?」

  「絶対の絶対の絶対の絶対です!」

  「絶対がおおすぎるうー」

  「貴方のなら、どんなボールだって拾ってみせます!」

  ……ねえ、混ざってるって。それってボールの話なの? それとも。

  不意に、一緒に見たあの浜辺での夕陽がフラッシュバックする。

  「サダヨシさんっ!」

  「なんでしょう!」

  「あのねっ――、あのね! サダヨシさんのそういうところも全部大好き!」

  「ふぐおぉっ!?」

  あっうそ急にコケて土手から転がり落ちて――うわすごい、そのままダイビングレシーブ。ちゃんと返してきた。

  「なっ、急に、そんな、びっくりすることをっ」

  「あーあー罰ゲームもうちょっとだったのになー」

  「なんということを……あとでお説教ですよ!」

  「やーだ、ダメ! まだ終わってないからね!」

  そうして河川敷の終わりに差し掛かったところで、サダヨシさんがひときわ大きくジャンプして、空中でキャッチした。

  やって来て――尻尾、珍しくフリフリしてる。かわいい。頭や服についた土と細い草を払ってあげる。

  「思いつきました――レポートに書いてやることにします」

  「えっ、なんて?」

  「“一度もボールを落とさずに、帰路につきました”と!」

  夕日に輝く今日いちばんの笑顔。

  そのまま自然と手を繋いで、家まで帰る。

  ◆◆◆

  「お、お邪魔いたします……ここが、参謀殿のお家」

  「そんなキョロキョロしちゃだめ。はずかしい」

  「――――」

  「……お返事は!?」

  

  夕暮れ時の薄暗い玄関。さっきとは打って変わって、急に言葉少なになる。

  電気をつけつつ、そそくさと洗面所へ。

  さすがに二人だと手狭だ。先に手を洗わせてもらって、

  「ごめん、後ろ通るね」

  「はい」

  そしてすれ違いざま。

  彼の首筋に鼻をつけた。少し汗も混じった大人の雄の匂い。息をする。何度も。

  鏡の中で青紫の瞳がこちらを見る。手を洗う動作のまま、尻尾だけが器用に動いてこちらの腰に巻き付く。……モフモフ。

  しばらくそのままでいる。どちらも何も言わない。時間が止まったみたいに。

  そしてさっと離れた。

  「あ、汗かいたね」

  「ですね、暑くなってしまいました」

  「あ、じゃあシャワー使う? そしたらこっち、夕飯の準備してるから――」

  言い終わらない内に、すっと伸びた白い手が行く手を遮っていた。

  ……ちょっと[[rb:拗 > す]]ねた顔してる。何を言うのですか、と。

  「一緒に、入りましょう」

  「あ……ん……」

  「そうしたら、お夕飯の準備も一緒にできます」

  「う、ん…………レポートに書く?」

  「……そんなわけありません」

  「ですよね」

  

  そりゃこっちだってもちろん、そうしたいよ? したいですよ?

  したいのですけど……一応、訊いておく。

  

  「その…………そういうこと……する?」

  「そっ……! し、した……ぃですがあの!」

  慌てた様子で買い物袋をごそごそするサダヨシさん。

  まだ何か入っていると思ってたら。取り出されたものを見て盛大に吹き出してしまった。まさかの子どもがお風呂で遊ぶあれ。

  

  「お風呂セットお!?」

  「見ていたら……欲しくなってしまったのです!」

  「しかも三つも買ってる!」

  「お、オトナですから」

  「最強じゃん……」

  サダヨシさん、顔赤くしてる。よっぽどやってみたかったらしい。

  「こ、こちらも、したいのですが……!」

  「――うん、やろ!」

  大人で、たまに子供みたいな軍人さん。頑固で優しいヒーロー。

  欲しいとかしたいとかをちゃんと伝えてくれる、大切なヒト。

  そして――。

  「うわー! サダヨシさん頭すっぽり!」

  「あっ、毛でシャボン玉が割れません……ポンポンできます!」

  「モフモフいいなー!」

  「こっちも泡が……泡がぁ!」

  「ちょっと待ってバスバブル全部入れたの!?」

  「先ほどのそふとくりいむのようです!」

  「無邪気ぃ!!」

  ……はい。まさかの社会人になってから楽しすぎた。

  盛り上がりまくったお風呂タイム。最後は洗いっこして、流し合って、ドライヤーもかけてあげた。

  今は並んでキッチンに立っている。

  「参謀殿は、料理もできるのですね」

  「普通のインスタント焼きそばだよ? 炒めてるだけ――でも実はね、コツある? ってユーハンさんに連絡して聞いちゃった」

  「それはそれは。ユーハン殿はなんと?」

  「愛情は隠し味程度にして、ちゃんと分量守れよーって」

  「さすがですね」

  そうしてご飯が終われば、今度はサダヨシさんの番だ。

  爆弾でも持つかみたいに掲げ持つ茶筒。隣で座って見守るこちらは、さながら爆弾処理を見守るオペレーター。

  「お[[rb:淹 > い]]れいたします……!」

  「が、頑張って……!」

  慎重すぎるほど慎重な手つきで扱う小さな茶さじは、確かに彼の大きな手に合ったサイズではないけれど、もう溢れさせたりすることもない。

  急須に入れた茶葉を蒸らして、お湯を注いで……そこまでたどり着いて、二人して大きく息を吐きだした。

  「上手になった」

  「よかった。すごく、練習したから……」

  淹れてくれたお茶はちょっと濃かったけど、それもいい。

  湯呑から口を離してふうっと息を吐くサダヨシさんに、自然と寄りかかった。

  「疲れましたか」

  「ちょっとはしゃぎすぎたかも」

  「仕事上がりですから。このまま、休んでも……」

  ……良くないけどお。上目遣いでニラんであげると、キョトキョトするサダヨシさん。こういうときは建前の演技とかできないんだから。

  端末をチラ見する。まだそんなに遅い時間てほどじゃないけど。

  「明日、早いんだよね」

  「ええ。始発で。そうすれば朝の訓練に間に合います」

  「んー……電車、五時ぐらいかあ。隊長さんが寝不足じゃ、困るよね」

  気にしていないわけではないから一応言ったけど、今度は向こうから手を握ってくれた。

  「少しくらい平気です」

  「鍛えてるから」

  「もちろん」

  そして首筋に、少し湿った感触がある。彼の鼻の頭。

  首、耳の裏、こめかみ。ゆっくり移動する。……さっきのお返し? もう。

  触れられている箇所からじんわり広がる温かさ。浅瀬で波が押して引く、イメージ。力を抜いて身体をぜんぶ任せたくなる。

  「……あっち、行こ」

  「……ええ」

  リビングに移動して並んで床に座る。電気も消した。

  開いたカーテンの向こうには少し欠けた満月があって、外は明るい。

  頭を傾けて彼の肩にそっと乗せれば、こちらにも石鹸の香りのする獣毛がかかる。

  「――こうしていると、あの夏を思い出します」

  「うん。楽しかったよね」

  「ええ……各所には大変ご迷惑をおかけしましたが……楽しかったです。とても」

  とても、の部分に力がこもっている。しっかりと踏みしめて固めるみたいに。

  それでこちらも、それをもっと確かにするつもりで大きな手を強く握った。

  彼のこれまでは知らないことばかりだけれど。

  今とこれからを、一緒に知りたいから。

  彼がこちらを見る。

  外からの明かりを受けた瞳が光っている。無数の星明りを受けて輝く海のように。

  揺るがなく固いと見えたそこが、色んな光を映すことを今はよく知っている。

  

  「ね、サダヨシさん」

  「は……。――うん?」

  空に浮かぶのは小さく[[rb:煤 > すす]]けた遠い月。

  部屋に差し込むのはその冴えた青い光だけ。

  あの浜辺のものとは、種類も大きさもぜんぜん違う。

  でも確かに、分かちがたく結びついている。

  白い砂浜、遠い潮騒、二人きりの時間――かけがえのない大切な記憶と。

  それは、あの日見たのと同じ月。

  「キスしよ」

  「うん。しよう」

  ◆あの日見たのと同じ月

  ――了。

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