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[獣人アパート常春荘へようこそ! 番外編] 漂う香りは恋を運んで
「ふぅ……」
獣人特区──文字通り、獣人たちが大多数を占めるその区内の路地にぽつんと存在する、とある小さな喫茶店。
その喫茶店内の隅にある、街道沿いがガラスの窓越しによく見える、窓際の丸テーブル席。
この席が、あたしのお気に入りの場所だった。
「はい、お待ちどう様」
「あっ、ありがとうございます」
「どうぞ、ごゆっくりね」
ため息をつきながら、いつものようにまばらな往来を繰り返す人通りを眺めていると、口元に綺麗に整えたちょび髭を蓄えた50代くらいの初老の男性のマスターが、渋く低い声とは裏腹の柔和な笑みでコーヒーを運んできた。
その声にハッとして、あたしはテーブルの上で頬杖を組む様にしていた腕をサッと膝元にそろえると、急いで取り繕ったような笑みを浮かべる。
その様子を見てか、マスターはにこり、と笑みを浮かべると、いつもの様にどこか労いの籠った声音でコーヒーをテーブルへ静かに置くと、そのままカウンターへ戻っていった。
注文をしてから数十分。
一から豆を挽いて、蒸らし、じっくり、ゆっくりとドリップを行う此処のコーヒーは、運ばれてくるまでにとても香ばしい豆の香りが店内に充満するため、飲む前から心地よい気分にさせてくれると、常連さんには評判……らしかった。
かくいう私も仕事帰りに、街道に微かに漂うここの香りにつられてやってきたクチで。
でも、それまでに入ったカフェといえばむしろ、駅前で常に賑わっているスタードッグスカフェが真っ先に思い浮かぶあたしにとっては、こんないかにもレトロな喫茶店というのは全く馴染みが無く。
だから始めは、初めて入るタイプの喫茶店だから、マナーとか格式とか作法とかがあるんじゃないかと、かなりガチガチになりながら注文をしたものだが──実際はそういったものは一切なく、ただ注文をしてから店内に漂いだす香りに、身も心もほぐされるのを楽しむという、そんなゆっくりした雰囲気が、ここにはあって。
だからか、今ではここは、仕事で毎日忙しさと人付き合いと……それからほんの少しのモヤモヤに囲まれていたあたしにとって、自宅と彼の傍以外で、唯一安心できる場所になった。
白く、小さいコーヒーカップに注がれた、黒く、しかし決して濁らず、むしろ人里離れた場所の山奥にある綺麗な湖の様に澄みきったものを、やけどしない様にゆっくりと口に運ぶ。
じんわりとした温かさと共に、舌の上に芳醇な香りと酸味、そして仄かにすっきりした苦みが広がっていく。
カップから口を離し、ほぅっ、と息を吐くと、その味を楽しむために目を閉じ、口内と鼻腔に広がる香りを堪能する。
傍から見れば、もしかしたら怪訝な目で見られそうなものかもしれないが、幸い──いや、皮肉にも?
スタードッグスカフェなどに客を取られて久しいこのカフェは、毎日ほぼ閑古鳥が鳴いている状態で、あたし以外にお客さんが入ることなんかはほとんどなかった。
もしかすると、あたしのいない時間にはもっと賑わっているのかもしれないけど……今は少し考えたいこともあったから、この静けさはむしろありがたかった。
一応マスターに聞くところでは、なんでもここは獣人特区が出来てからほぼ同時に開店し、周りが時代の流れとともに栄枯盛衰を繰り返す中、周辺獣民──もとい、住民による根強い支持を受け、今もこうして店を開くに至っている──という、割とそれなりに歴史のある喫茶店らしい。
でも、そんな歴史は置いておくにしても、やはりここは落ち着く。
「……うん、やっぱりおいしい」
コーヒーソーサーにカップを静かに置くと、再びガラス越しに街道を見遣る。
お昼時だからか、街道には相変わらず人の往来があり、各々が飲食店に入る人や、自宅に向かって歩く人など、その様子は人それぞれだ。
今日が土曜日という事もあり、家族連れもちらほら見受けられる。
が、それでもやはりこの喫茶店には誰一人入る様子がなさそうなのは、最早喜んでいいのか、それともマスターの経営事情を慮るべきなのかで、やや複雑な気分になってしまうけれど……
──と、思っていた時。
カランカランッ
「……?」
突如、店内の玄関ドアに備え付けられた金色のベルが店内に鳴り響く。
反射的に玄関へ目を向けるのと同時に、シックな木目のドアがゆっくりと開いた。
「いらっしゃいませ」
この喫茶店に、あたし以外の来客が来るのは初めてだ。
といっても、この店は最近見つけた場所なので、あたしが知らないだけなのかもしれないが……
客が足を踏み入れるとキィ、と足元から木製特有の軋み音が鳴る。
開いたドアからチラリと覗くやや長めのマズルから察するに、どうやら犬系の獣人男性のようだ。
「どうも、マスター。お久しぶりです」
「おや、君でしたか。いつもの席なら、残念ながら今日は先客がいらっしゃいますよ」
「えっ……珍しいですね、ここにお客さんなんて」
「ふふ、今日はもうお帰りになられますか?」
「あっ!?いや、その……ナンデモナイデス、ゴメンナサイ……」
と、まるでコントのような一幕を挟みつつ、マスターが柔和な笑みの奥からちょっとした殺気を発しながら客をもてなすと、来店客はそそくさと扉を閉め、頭をポリポリと掻きながら店内を見渡す。
会話の内容からして、マスターの知り合い……謂わば常連のようだ。
来店客はスゥ、ハァ、と軽く深呼吸をすると、
「……本当に変わらないですね、ここの香り。落ち着きます」
「それはよかった。生憎、コーヒーの味も変わらずそのままですが、よろしかったですか?」
「ええ、もちろん!」
それを聞くと、マスターは表情は変えずとも、先程とは打って変わって嬉しそうな雰囲気を出しながら、豆を挽き始める。
(今ので通じるってことは、結構ツーカーな関係なんだ……なんかいいなぁ)
あたしは、なんとなくその客がどこに座るのかが気になって、頬杖を突きながらその客の様子を見守る。
見た感じ、年は同じくらいだろうか。
すらりと伸びた背筋と精悍な顔つき、そして先程の返事から察するに、どうやら真面目系な子である、というのは何となく分かった。
見た感じ、身長は自分より一回り程大きいだろうか。
白く、ともすれば窓から差し込む光によって銀色にも見える毛並みは、どこか緑がかった色味をしていて。
だからか、その中で映える白いワイシャツは、ピッタリなほどに彼の体色にマッチしていた。
他にも、その白い半袖ワイシャツの上から、黒く足元まで延びた、裾が三叉に分かれたフード付きのノースリーブコートを羽織り、紺色のジーパンにトレッキングシューズにも似た靴を履いていて……それでいて何よりも目に付くのが、ワイシャツの袖口から覗く、分厚い筋肉であった。
腕は自分の腕2本分はあろうかというほどに太く、リンゴを持たせたらあっという間に握りつぶせるんじゃないかと思わせるほどの筋肉量をこれでもかと見せつけていて。
脚に至ってはわたしのウエストよりも太いのではないかというほどに、ジーパンの上からパンッパンに浮き出るほどに張りつめて、本気を出せばこの店の玄関なんか吹っ飛ばして、向かいのお店にもう一つ玄関を作れるのではないか、というほどに太く。
特に、ワイシャツは今にもボタンがはち切れそうになっていて、その隙間から胸筋とか、腹筋とかが、もう目のやり場に困るぐらいにチラチラと見え隠れして。
要するにまとめるとこう……もうとにかくムキムキだった。
「……ん?」
席を探していたのか、それとも懐かしさからなのだろうか。
先程まで店内を見渡していた客が、ふと匂いを嗅ぐように鼻をヒクつかせながら、店内をきょろきょろとを見て怪訝そうな顔をする。
そうして見回している内に……彼とばったり目が合ってしまった。
(あっ……)
と、そう思ったのも束の間。
その客は怪訝そうな顔をして首を傾げると、こちらにズンズンと歩み寄ってきた。
(えっ、えっ、えっ!?)
もしかして、ジロジロ見ていたのがバレたのだろうか?
だとしたらこっちにも『そっちがあんまりにもいい筋肉してるからでしょ!』って言えるくらいの理由は──
……いや、これだと逆に変態っぽい言い訳かもしれない。
「んんー……?」
などと色々考えている内に、客……いや彼はこちらの席のすぐ横に来るとぴたりと立ち止まり、ほんの少し身を屈めるようにして、ゆっくりとこちらの顔を覗き込んでくる。
それに合わせて、あたしも顔と視線を窓際へゆっくりと逸らしていく。
(なになになに!?何でそんなに見てくるのー!?)
「あの……何か御用でしょうかー……?」
顔を逸らしたまま、視線だけを彼に向けて尋ねる。
すると、彼はハッ、と何かに気付いたような顔をして、覗き込んでいた顔を離すと、顎に手を当てながら、
「その声……あの、もしかして先輩?[[rb:花梨 > かりん]]先輩じゃないですか?」
突然名前を呼ばれて、驚く。
「えっ?」
「あ!やっぱり!その素敵な声、全然変わってないんですね……!お久しぶりです、先輩っ!」
あたしを先輩、と呼んだ彼はぱっと目を輝かせ、急に恭しく頭を下げたかと思えば、すぐに頭を上げてにっこりと微笑んだ。
「いやぁ……!まさか、こんなところで会えるなんて思ってもみませんでした!本当にお久しぶりですっ!花梨先輩っ!」
「えっ!?いや、あたしは確かに花梨だけど、君の事は──」
知らないし、そもそも初対面だ──そう告げようとした時だった。
彼が嬉しそうに激しく振る尻尾の色合いを見て、ふと脳裏にとある存在が過ぎる。
「……そのエクレアみたいな尻尾……もしかして、[[rb:風見 > かざみ]]くん!?」
そう答えると、彼はもう直接発光するんじゃないか?というくらいに表情を輝かせ、尻尾の振りを更に視認不可能なくらいまで加速させた。
風見くん。フルネームは確か『[[rb:風見 雲龍斗 > かざみ うると]]』。
彼はその個性的な名前に加え、昔通っていた高校と部活、そしてバイト先まで被ったことから、どこか印象には残っていた。
とにかく真面目で、時に天然。けれど、とても礼儀正しくて心優しく、それでいてまっすぐなことで、老若男女問わず幅広く愛されるような、そんな魅力を持った後輩。
もちろんあたしも、異性としてではないが、彼のことはよく気にかけていた覚えがある。
その事もあってか、当時はとてもよく懐かれていた──と、思う。
だが当時は、なんというか……
「あ!よかった、僕の名前覚えててくれてたんですね!反応的に、てっきり忘れられてるものかと……」
「あ、アハハ!?かわいい後輩だもん、ワスレルワケナイヨー……?」
「ははっ!確かに僕、当時は先輩にいっぱいお世話になっちゃいましたしね……!ホント、あの時は本当にお世話になりました!」
そう言いながら、彼──風見君はポリポリと頭を掻きながら苦笑いした後、ペコリと頭を下げる。
相変わらず、礼儀正しいというか……義理堅い所は変わっていないらしい。
そうして、一瞬会話が途切れたタイミングで、あたしはさっきからずっと気になっていた質問を投げかける。
「……ところでさ、風見くん……こういうこと言ったら今の時代、もしかしたら?……ってか、間違いなくセクハラになるんだけど……」
「ハイ!なんでしょう?」
センシティブな話題になるかもしれないのに、風見君は再びにこやかな笑顔を浮かべると小首を傾げながら尋ねてきた。
その笑顔に、少々胸が痛くなる気持ちはあったが……それでもやはり尋ねてみたいという、ちょっぴり邪な好奇心の方が勝ってしまった。
「ええっと、その……ちょっと、痩せた?」
何かとうるさいご時世。本当なら、こういうことは流しておくべきなのかもしれない。
だがどうしても、あたしとしては正直、聞かないわけにはいかなかった。
何しろ当時、彼は今の様に筋骨隆々……というのとは、ほど遠い、割とぽっちゃりした男性だったからだ。
だから当時もその体型をからかわれることが多く、そのたびに彼は笑ってごまかしてはいたが……それで密かに傷ついているのも、何となく知っていた。
その度に、声掛け程度ではあったけどフォローしたりとかで、彼のことは気にかけていたし……
そのせいか、余計気になったのだ。
「あ、ハイ!実は先輩が卒業して就職した後、僕めっちゃトレーニングしまして!そのおかげで、色々とスッキリしました!」
彼はそう言いながら腕捲りすると、自身の上腕二頭筋をググッ、と盛り上げて見せた。
「や、やっぱり?にしてはなんか、変わりすぎっていうか……」
「あはは!ですよね!当時の僕とは全然違いますし、変わらないっていえばこの尻尾くらい──あれ?」
そこまで話して、風見くんは「はて?」といった表情で首を捻る。
「そういえば、先輩がさっき気付いたのもこの尻尾を見て、ってことは、僕もしかして忘れられて……?」
マズい。
「あ、あー!そういえば座る席探してたんじゃないの!?ならここ、向かい側空いてるし座ってよ!色々話したいし!?」
「え?あ、いいんですか!なら、お言葉に甘えてです!」
慌てたように席を勧めると、彼は先刻考えていたことなど忘れたかのような笑顔を浮かべて、向かいの席に座る。
どうやら、上手くごまかせたようだ。
「お待ちどう様」
すると、まるで見計らったかのようにマスターが席の横に来て、彼の前にコーヒーを置く。
「あ!マスターありがとうございます!前から思ってましたけど、タイミングバッチリですね!」
「ふふ、たまたまですよ。それでは、ごゆっくり」
そういってマスターがカウンターに戻っていくと、風見くんはカップから湯気と共にふわりと漂うコーヒーの香りを嗅ぐと「いただきます」と静かに呟いてから、ゆっくりとカップを傾け、口に運ぶ。
「ん……ふぅ……やっぱ変わらない。おいしいなぁ……」
そう言って頬を緩める風見君の姿がほんの一瞬だけ、彼──タミヤ君に重なる。
(あ……)
それをきっかけに、せっかく忘れかけていた、色々なことを思い出してしまう。
タミヤ君。あたしが獣人特区で出会い、初めて惹かれた、人間のボーイフレンド。
彼がこの町に来てから、あたしは仕事もプライベートもかなり充実したものになったし、毎日が輝き始めた。
お互い、あたしは仕事への採用に向けて、彼はそもそも雇ってくれる仕事探しでと多忙な事で、中々休日が重なることはないけれど……それでも、彼といるときはとても楽しかったし、頑張る彼を隣で励ましては奮起する彼を見て、あたしも頑張らないと、という気持ちにさせられた。
また、彼もあたしに会えない時を寂しく思ってくれているのか、会うたびによく色々なプレゼントをしてくれて。
そのどれもは、あたしなんかにはもったいないくらいにびっくりするようなものばかりで──だから、貰うたびにとても嬉しい気持ちと、そんなものをあたしの為にプレゼントしてくれる彼の気持ちに応えてあげたいという気持ちが、ずっと胸の中にある。
けれど──
「……なんでなんだろう……?」
「え?」
しまった。つい口に出てしまった。
その声が漏れ出たのを聞いたのか、風見君の耳がぴょこん、とこちらをを向くように立つ。
「どうしたんですか、先輩?なんか……哀しそうな顔してますけど……」
そう言われて、初めて顔にも出ていることに気が付いたあたしは、否定も込みでモヤモヤな気分を振り払うように顔を左右にブンブン、と振ると、乱れた髪を片手で掻き上げるようにしながら、前髪を整える。
「あっ、ううん!何でもないの!ちょっと最近、イヤな事っていうか、気になることがあってそれで──」
「聞きますよ、僕」
「別に大したことじゃ──って、え?」
取り繕ったようにあたしが誤魔化そうとすると、風見君は昔からは考えられない様な真剣な眼差しと声音で、こちらをじっと見据えてくる。
「先輩には僕、昔からいっぱい助けてもらいましたし。仕事でも、勉強でも──僕個人の事でも」
「えっ、あっ、いいのいいの!ほんとに、その──」
「じゃあ……なんで泣いてるんです?」
そう言われて、慌てて目元を拭う。
しかし、拭っても手の甲は涙らしきもので濡れていない。
あれ?と思い、もう一度拭ったところで──フッ、と風見君は口角をわずかに上げた。
「冗談ですよ。涙なんて出てません」
「へ?」
「すみません、カマを掛けさせていただきました。でも、さっきの反応から見るに……」
図星ですね、と言わんばかりに風見君は肩を竦めるようにすると、コーヒーを一口飲んでからカップを置き、やや前屈みの姿勢で手を組む。
そして、こちらをじっと見つめ──
「だから、僕でよければ力になります。先輩が哀しい顔してるのは……耐えられませんから」
昔からたまに見た、変わらない笑顔でニコッと、微笑んだ。
[newpage]
「そうですか……彼氏さんが、浮気しているかも、と……」
あれから数十分後。
結局、彼の笑顔に根負けしたあたしは、ぽつり、ぽつりとではあったが、タミヤ君との間に起きているであろうことや、それに対してどうすればいいか悩んでいることなんかを、気付けば何もかも彼に話してしまっていた。
一通り話を聞き終わった後、風見君は口元に手を当てる様にして考え込むような動作をしながら、自身のカップに残ったコーヒーの水面をじっと見つめる。
実は、彼から他の女性の香りがし始めた後。
彼から受け取るプレゼントを通して、その日その時にまとっている彼の匂いが、そのプレゼントと同じ匂い──つまり、女性の匂いだという事に気付いたあたしは、一度デート後の彼を尾行してみたことがあった。
彼の住んでいるアパートはもちろん、お仕事で行けないと断った、あの祭りの時も。
そして──その、全てで。
彼──タミヤ君は、他の獣人女性と交わっていた。
もちろん、交わっている姿は見えない。というか見たくない。
こっそり覗こうにも、犬系だからその致しているであろう場所に近付くだけで、もう匂いで分かってしまうから。
それでも、真実を確かめたいという想いと、不思議な好奇心が交わったこともあり確認したことで──あたしは、とてつもないショックを受ける形になってしまった。
元来、タミヤ君のような人間種と獣人特区に籍を置くような獣人たちとの間に子どもがデキる可能性は、著しく低い。
だから、種族ごとに異なる発情期において、ほぼ一年中交われる上に妊娠リスクがほぼ無いともいえる人間種の男性は、あたしたち獣人族の女の子にとってはこれ以上ない程に性欲の発散には最適な存在、とも言える。
それだけなら、まだ彼が彼女らに襲われていただけの、被害者だと見ることも出来ただろう。
だけど。
どうにもタミヤ君は断る素振りを見せないというか、むしろ自分から誘っているような場面もチラホラあって。(困っている人を見過ごせないという優しさだとは思うけど)
だから、その行為の匂いを感じた時、さっきあたしはショックを受けたと言ったけれど……正直、心の中でやっぱり、と納得してしまう面もあった。
あくまで個人的な主観ではあるけれど。
あたしは彼が交わっていたその女の子たちと比べて、肉体的な魅力は低い……と思う。
思わず彼が埋めたくなる程にまでおっぱいは大きくないし、お尻は……まぁまぁ大きい方ではあるけれど、それでも……
だから、デートで彼に会う度に、プレゼントを貰う度に、匂いと共に彼を通して他の女の子たちが……こちらを嘲笑っている気がして。
それで何となく悔しくなって、とにかくモヤモヤを発散しようと散歩した末に、この喫茶店に辿り着いた──そんな感じ。
「それで、どうするんです先輩?その彼氏さんとは、その……別れたいんですか?」
そう、おずおずと訊ねる風見君の目からは、あたしへの気遣いの他に、どこかあたしからの確かな答えを望んでいるように思える。
けれど……どうなんだろう?
ここまで、幾度も自分以外の女性と同衾しながらも、こちらを気遣ってくれるタミヤ君。改めて彼の事を考えても、最低だと斬り捨てることも出来るだろう。
だけど、本当にそれでいいのだろうか?
たまたま彼が人間族だったから。
たまたま彼が住むアパートが、そういった女性の集まる住居だったから。
たまたま彼が、誰にでも優しく、まっすぐな人だったから。
そんな“たまたま”の偶然が重なったことで、そういう運命になったのかもしれないし──そうじゃないのかもしれない。
別れて、きれいさっぱりに新しい恋を探すべきなのだろうか。
それとも、彼がいつかあたしの方へ身も心も振り向いてくれると、信じるべきなのだろうか。
いくら考えても、答えは堂々巡りを繰り返すだけで──答えは出ない。
そうして、頭を抱えていると。
「……もし、もしもですよ?先輩が、答えを出せないっていうんなら──」
と、風見君が口を開く。
なんだろう、と俯いていた顔を上げると、彼は一瞬だけ逡巡するような素振りを見せ──やがて何かを決心するようにこくり、と頷くと、まっすぐにこちらを見つめ返した。
「僕で、試してみませんか?」
[newpage]
数日後──
「あっ!おーい先輩!こっちですーっ!」
特区駅前、その前にシンボルとして設置されてある噴水の前で、風見君がこちらに向けて大きく手を振る。
それに合わせてあたしも手を振りながら、彼の下へと歩み寄った。
「ごめんね、待った?」
「いえいえ!むしろ時間ピッタリです!流石ですね、先輩!」
デートにおいては最早お決まりの常套句を交わしながら、笑顔を交わす。
いつもタミヤ君と待ち合わせる、街路樹の立ち並ぶ場所とは違うけれど……これはこれで王道感というか、むしろ新鮮味があっていいかもしれない。
「さ、行きましょう!先輩!」
「うん」
彼に並び歩く形で案内されながら、駅前から市街地へと歩を進める。
どうして、こんなことをしているのか。
それは、あの喫茶店で出会った日に遡る──
[newpage]
数日前、喫茶店──
「僕で、試してみませんか?」
彼──風見君は、まっすぐにこちらを見つめながら、そう提案した。
「試す……って、何を?」
率直な疑問を返すと風見君は「えっとですね」と前置きしながら続ける。
「今の花梨先輩の反応を見る限りその彼氏さん──タミヤさんでしたっけ。先輩はその方にまだ未練というか、何かしらの事情があったのではないかという事を考えているように見受けられます」
抽象的だが、割と的は射ている推理に、あたしは一瞬驚きながらもこくり、と頷いて返す。
それを受けて、彼は一瞬目を伏せた後、すぐにこちらへと視線を戻した。
「単純に言えば、僕とデートしませんか?というお誘いです」
「えっ?デート?」
いきなり何を言い出すんだろう。
冗談はいいから──そう言いかけて、彼の目が冗談でもなんでもなく真剣なことに気付き、言葉をぐっと飲みこむ。
彼は、何かを察して黙ったあたしを見て、やや伏し目がちに言葉を紡ぎ始める。
「お話を聞く限り、いま花梨先輩は彼とそのまま過ごして彼の行いを黙認するか、もしくはすっぱりと別れるかで悩んでいて──けれど、どちらの判断にも踏み切れない、そんな状態ですよね?」
うん、と頷くあたしを見て、彼はさらに続ける。
「正直、先輩にまだ彼への想いがある以上、このままどちらの道を選んでも、先輩にとって辛い道のりというか、選択になることは間違いないと思います。でも、僕としては先輩をそんな目には合わせたくない……だから」
そこで一呼吸おいて、彼は、
「だから、一日だけでいいんです。僕を……一日だけ、先輩のパートナーにしてくれませんか?」
と、改めて告げた。
「それで、タミヤさんの他にもいい人が居るって分かれば、仮に別れたとしてもダメージは少ないですし……逆にそれで、タミヤさんの良さを再認識してお付き合いを続ける……判断材料は何でもいいんです。なので……」
「どうせなら、ちょっとだけ裏切っちゃいませんか?仮に見られても、偶然久しぶりに会った後輩と仲良くしてた、で通りますし、その証拠に手も繋がない。……どうでしょう?」
と、彼は少し苦笑いしながらも、目だけは変わらず真っすぐに、そう告げた。
確かにそれなら、タミヤ君に見られても大丈夫かもしれない。
それに、ずっとモヤモヤしていた気持ちを聞いてくれたのだ。
全部話してすっきりした、なんてことは全然ないけれど……それでも、気分転換にはなるかもしれない。
なら。
「……うん、わかった」
「えっ」
「いいよ。デートしよっか!」
スキンシップ禁止が故に、彼の筋肉に触れることは叶わなそうだけれど。
[newpage]
そして、現在。
「ねぇ先輩!見てくださいここ!ウミウシ、めっちゃ可愛くないですか!?」
壁に埋め込まれるような形の水槽に張り付き、尻尾をぶんぶんと振りながら、風見君はまるで子どもの様に無邪気な笑顔を見せてはしゃぐ。
少し離れた水槽を見ていたあたしは、その様子に呆れ笑いを返しつつ彼の隣に並んで、水槽の中をゆらゆらと泳ぐ、青いウミウシを見つめる。
確かに、ゆったりとしていながらも、小さい体をまるでウミウミという効果音が聞こえてきそうなほどに動かして揺蕩うその姿は、彼の言う通り中々にかわいいものがあった。
「ホントだ、かわいいね」
「ね!ですよね!こんなに小さくてかわいいなんて、それだけでも100点満点なのに頑張って泳いでるんですもん!もう120点満点すぎて……!!」
そう言いながら、風見君は身を震わせてウミウシの様子に悶える。
どうやら、彼はかわいいものが大好きなようだ。
そういえば、バイトをしてた時もかわいいものや小さい子ども、赤ちゃんに対してはとても優しい顔をしてたっけ。
そこで、はた、と気付く。
少なくとも、彼と一緒にいた時間は間違いなくタミヤ君よりも多いはずなのに。
彼の、こんなにはしゃぐ顔なんて見たこともなかったし、好きそうなものさえ、知らなかった。
「……ん?どうかしました、先輩?僕の顔になんかついてます?」
そう訊ねられて、ううん、と首を振る。
「君とはそれなりに長い付き合いだったけれど、君の事、あたし何も知らなかったなぁって思ってさ」
「なら、今日でいっぱい知ってください!さ、次の水槽に行きましょう、先輩!」
少し申し訳なさそうな顔をすると、風見君は励ますようにニカッと笑う。
こんな風に笑うことも、知らなかった。
(もしかしたら、タミヤ君もこんな風に笑うのかな)
ふとそう思って、ぶんぶんと頭を横に振る。
ダメダメ。風見君が頑張ってエスコートしてくれてるのに、彼の事なんて考えちゃ。
「せんぱーい?」
「あっ、ごめんね!今行くからー!」
少し先の水槽で待ってくれている風見君に返事をしながら、彼の下に小走りする。
そうだ、今は忘れないと。
せっかくの……楽しい時間なんだから。
[newpage]
それから、風見君と色んな場所をまわった。
イルカショーを水が掛かるほど近くで見たりするのはもちろん、乾かしも兼ねて水族館の外に広がる砂浜を散歩したり。
ついでに、近くにあるショッピングモールでウインドウショッピングをしたり、歩き疲れたから一休みと称して、モールのそのすぐそばにあった観覧車にも乗ったり。
たった一日。それも手を繋がない、デートのようで、デートじゃない……不思議な一日。
だからなのだろうか。
彼が笑う度、はしゃぐ度に、タミヤ君の姿が重なる様にチラついて。
その度に、彼だったらどんな反応をするのかな、とか、どんなことをしてくれるのかな、とか、考えてしまって。
目の前にいるのはタミヤ君じゃない。『風見 雲流斗』君という、別の男の人なのに。
「……ぱい──」
目の前のボンゴレパスタを、くるくるとフォークで巻いていく。
何度忘れようとしても、脳裏に過ぎるのはタミヤ君の姿ばかりで。
今日一日は、見極めるどころか、むしろ忘れてしまおうと思っていたのに。
「…んぱい──」
どうしても、彼ばかりが──タミヤ君ばかりが、あたしの中で残り続けている。
ううん、きっと焼き付いているのだろう、あたしが思うよりも、ずっと、心の中に。
でも、あたしは──
「……花梨先輩!」
呼びかけられて、ハッと我に返る。
お皿から顔を上げると、風見君が心配そうな顔をして、こちらを見つめていた。
「大丈夫ですか?もしかして、気分悪かったり……?それとも、料理がお口に合わなかったとか……?」
「あ、ううん!?全然大丈夫、美味しいよ!ちょっと考え事してただけだから……!」
慌てて取り繕うように、ぎこちない笑顔を浮かべる。
モールからも、水族館からも遠くない──むしろ、その丁度間くらいにある、海の見えるレストラン。
店内のどこからも海景色とさざ波をを楽しめる、ゆったりとしたその店内の、最も最高と言われる窓際席で、あたしたちは色鮮やかな海鮮料理を楽しんでいた。
──楽しんでいたはず、だった。
「そうですか……あの、もし体調が優れないとかあったら、いつでも言ってくださいね?タクシーとか呼んで、すぐに送りますから」
「ありがとう。でも大丈夫、ほんとに何でもないから……」
そう言って、会話が途切れてしまう。
時々、風見君が話題を振ってくれても、何故か上手く返せなかったり、生返事になってしまったり。
店内の家族連れや、恋人たちの楽しそうな声とは裏腹に、あたし達はすっかり黙りこくったまま……
美味しかったはずなのに味のしない料理を、ただ黙々と口へと運んでいた。
[newpage]
そうして時間はどんどん過ぎ去り──その日の夜。
自然と風見君の隣を歩く気分になれず、風見君より3歩……いや5歩ぐらいの感覚を開けて、あたし達は帰路についていた。
もちろん、そんな距離になれば、会話なんて起こり得るはずもなく。
お互いに黙りこくったまま──気付けば、最初の待ち合わせである、駅前の噴水広場に辿り着いてしまっていた。
(どうしよう……)
このままでは、一言も交わすことなく解散になってしまう。
元はと言えば、あたしが風見君とのデート中に余計なことを考えまくっていたせいだ。
そのせいで、風見君のデートプランも、時間も無駄に費やさせてしまった。
だから。
あたしはグッ、と握りこぶしを作ると、噴水前で立ち止まりこちらを振りむいた風見君に、思いっきり頭を下げた。
『「ごめんなさいっ!!』」
………
……
…
あれ?
まるで、自分の声に重なる様に、風見君の声が聞こえたことに、あたしは思わず顔を上げる。
するとそこには、90度くらいにまで深々と頭を下げ、謝る風見君がいた。
「えっ?えっ?」
あたしが困惑していると、風見君はスッと頭を上げ、心底申し訳なさそうな顔をする。
「僕、今日一日、ずっと先輩の事を見てたつもりでした。先輩が少しでも楽しんでくれたらな、とか、どこにいけば喜んでくれるかなとか、ずっと考えてて……」
でも、と前置きして、彼はこちらの目を真っすぐ見つめながら、
「よく考えたらそれって、ただの独り善がりっていうかプランの押し付けでしかなくって!だからレストランの時も、この帰り道も僕、申し訳なくて何も話せなくて……だから、ごめんなさい!僕のせいで、全部ダメにしちゃって……!本当に、ごめんなさいっ!!」
と、再度頭を下げた。
そんな。
彼は悪くない、むしろ、先に謝るべきはあたしの方なのに。
「……ねぇ、顔を上げて?」
静かに、落ち着いてそう言うと、風見君は恐る恐る顔を上げる。
そうして上げたその顔は、今にも泣きそうなほどにくしゃくしゃになりかけていて。
だからだろうか。
(あ──)
その顔を見て、不思議と色々なことを理解した。
彼が、本当に心の底からあたしのことを考えていてくれたこと。
彼が、本当に心の底からあたしを楽しませようとしてくれていたこと。
彼が、本当にあたしのことを──
その顔を見て、何故か笑みがこぼれた。
「──ありがとう、そんなにあたしのこと……考えてくれてたんだね」
そう言いながら、あたしは小さく頷くと──彼の目を真っすぐに見て、勢いよく頭を深く下げた。
「えっ、ええっ?」
そんなあたしを見て、風見君はさっきのあたしみたいに、困惑したような反応を返す。
今度こそ、あたしが謝る番だ。
「あたしの方こそ、ごめんなさいっ!」
さっきの彼に負けないくらいの声で、あたしは続ける。
「せっかく風見君が楽しませてくれようとしたのに、あたしずっとうわの空で!さっきのレストランだって、帰り道だってあたし、風見君のお話に何も返せなくて、話せなくて!それ以外にもたくさん……!」
そして一呼吸入れ──目をギュッと瞑りながら、
「だから……ごめんなさいっ!」
と、一際大きな声で謝った。
それから、少しの沈黙が流れた後──ゆっくり顔を上げる。
そこで、ふと困惑する彼と目が合い──
『「……ふふっ」』
お互いに、何故か自然と噴き出して──そのまま笑いあった。
[newpage]
「……ほんと、昔っから真面目だよねーキミは?ふふっ♪」
「あはは……それを言うなら、花梨先輩もじゃないですか?」
「お!嬉しいこと言ってくれるじゃない?ほら、あたしも真面目だぞ、もっと褒めろー♪」
「なんですかそれ、ぷっ……あはは!」
あれから少し笑いあった後、あたし達は噴水の縁に腰かけてながら談笑していた。
お互いに申し訳ないと思ってたことが、実はほぼ同じで、しかもお互いがお互いの落ち度だと思い、悩んでいて。
まぁ……振り返ると全部、あたしがタミヤ君の事を忘れられなかったというのが一番の原因なのだけれど。
でも、これは流石に伝えられない。さっきの表情であのことに気付いた以上、ここまで考え、想ってくれる彼の心を、抉る様なことはしたくない。
そう、思っているときだった。
「ねぇ、先輩」
なぁに?と彼の方を向くと、表情こそ変わらないが、先程とは打って変わって真剣な声の風見君が、どこか遠くを見つめながら口を開いた。
「僕、もう一つ謝らないといけないことがあるんです」
「え?」
「先輩に彼氏さんがいるのは知ってます。けど、今日のデートで確信しました。僕は……」
そこまで呟いて、彼はゆっくりと深呼吸すると、私の方へ向き直す。
そして。
「先輩。僕、先輩の事が──好きです」
「うん」
そう頷くと、風見君は少し驚いたような顔をして目を丸くした。
「うん、って……もしかして、知ってたんですか?僕が先輩の事を好きなの……」
「なんとなくね。それに、あたしだってそれなりに恋愛経験はあるもん。君のような初心な子なんか、すぐにわかっちゃうんだよー?」
「あ、あはは……そんなに露骨だったんですね、僕……」
「驚かせるつもりが、逆に驚かされちゃいました」と言いながら、少しばつが悪そうに頭を掻く風見君。
そして彼は、じゃあ、と前置きしながら、口を開くと、
「やっぱり、元鞘っていうか……その、タミヤ先輩のとこに戻るんですね?」
と、聞かれて、あたしは「そのつもり」と答える。
あたし自身、今日のデートで確信した。
どうやらあたしは、あたし自身では もう分からないくらいに人を好きになっていて。
特に、デート中に何度もタミヤ君を風見君に重ねたように、その想いはもう一朝一夕で変わらないくらいには染み付いているようだ。
とはいえ、まだ彼から……タミヤ君から、あたし自身の事をどう思っているのかとかのお返事は、まだ聞けていないのだけれど。
「そうですか……」
風見君は、読めていないはずのこちらの気持ちに、タイミングよくやや諦めたような相槌を返すと……そのまま、ニカッと笑った。
「なら、仕方ないですね!僕の片想いは、これでおしまいってことで!あーあ、上手く行けば花梨先輩とワンチャン、って思ったんだけどなぁー!」
そう言いながら彼は噴水から立ち上がり、両腕をいっぱいに広げながら伸びをすると、ふぅ、と一息入れた。
傍から見れば、略奪する気マンマンじゃん!とも思えてしまうような発言。
けれど、彼の事を昔から見ていたあたしは何となく、それが今出来る彼なりの精一杯の強がりであり、あたしに心配を掛けさせない様に振舞っているのだと分かった。
──本当に、昔から変わらないっていうか。
「不器用だね、もう……」
そう呟いて、あたしも彼の後ろへと立ち上がると、そのまま彼に近づき──
「あっはは!ですね、ホント返す言葉もな──」
そのまま、足を懸命に伸ばしながら、彼の唇へと自分の唇を重ねた。
[newpage]
───
──
─
どれくらいそうしていたのだろう。
数分かもしれないし、ほんの数秒かもしれない。
そんな、時間の感覚が一瞬消えてしまうほどに、あたしは風見君と唇を重ねていた。
「……んっ!?」
風見君の驚きのような、困惑のような、そんなどちらとも取れる声を受けて、あたしはゆっくりと唇を離す。
舌を絡めない、唇と唇を重ねるだけのキス。
けれど、彼にとっても恐らく、人生初のファーストキスだったのだろう。
唇を離した後、彼はしばらく呆然と立ち尽くした後、まるで絵の具をぶちまけたみたいに顔を赤くして、こちらを震える瞳で見つめる。
そんな彼に、あたしは思わずくすくすと笑い声を漏らす。
「あっ……え、あっ……!?」
「ごめんね。君のファーストキス、貰っちゃった♪」
「え、あぅ、う……?」
「おやおや、固まっちゃった?せっかくあたしもファーストキスあげたんだから、もっとどんな感じだったとか、感想聴きたいんだけどー?」
「えっ!!?ファ、ファースト……!!??」
「ふふっ♪」
そういって、こちらからのカミングアウトに真っ赤だった顔を更に赤く染め上げる彼に微笑みながら、あたしは、
「じゃあ、そろそろ電車来るから!今日は本当にありがとね、風見君!」
と言って踵を返すと、熱暴走状態で動けない彼をそのままに、駅の構内へと歩いていく。
こうしてみると完全にある意味ヤリ逃げ……に近いかもしれないが、あたしだって今、人生初のファーストキスを自分から行ったことにびっくりしてるし、恥ずかしさと照れでどうしたらいいのか分からない。
だから、内心では彼にそのまま放置してごめん、と思い──
「おっとと、そうだ!」
と、彼にまだ伝えていなかったことを思い出し、その場に立ち止まる。
そして、心なしか気持ちが浮足立っているのか、まるで踊る様にくるり、と振り返ると、
「そーいえばお返事!言ってなかったけどー!」
手でメガホンを作り、本当にごめんなさい、と思いながら、
「ごめーーん!!嬉しいけど、気持ちには応えられなーい!!」
と叫び、もう一度すうっ、と息を吸い込んで、大きな声で告げる。
「だからさー!あたし以外の新しい恋、みつけてさー!」
君なら大丈夫だから。
「がんばれーーッ!!!」
その想いを込めて、ひどいなと思いながら、敢えて突き放すように伝え、あたしは再び構内へと駆けていく。
本当は、彼の前に立って、ちゃんと伝えたい。
気持ちに応えられないことも、応援したい気持ちも。
ただ……あたしを想う彼にキスした後に、そんなロマンティックなことはあたしにはできなくて。
もしそれをしてしまったら、彼にも、あたしにも気持ちの区切りというか、諦めがつけられない様な気がして。
だから……敢えて突き放すやり方を選んだ。
(これでいいんだ)
そう思いながら、あたしは一度も彼のいた方を振り返ることなく、半ば逃げるように改札を通る。
卑怯って、思われるかもしれない。
そもそもキスなんかしなくたって、とも。
けど。
(あたしは、自分の気持ちにウソはつけないんだって、今日でいっぱい彼に教えてもらった)
だから──
「『ありがとう」──先輩』
窓際の席に座り、声に出さない様に呟いた花梨の言葉に合わせるように──
見えずとも、段々と速度を上げながら過ぎ去っていく、花梨先輩を乗せた電車に向けて……風見は穏やかな笑顔で静かに涙を流しながら、誰に聞こえるわけでもない小さな声で、そう呟くのであった。
[newpage]
「……っっはぁ~~っ……」
獣人特区──文字通り、獣人たちが大多数を占めるその区内の路地にぽつんと存在する、とある小さな喫茶店。
その喫茶店内の隅にある、街道沿いがガラスの窓越しによく見える、窓際の丸テーブル席。
この席が、かつてはあの人の──
今では僕の、お気に入りの場所だった。
そこで僕は大きなため息をつきながら、頬杖をついて外を眺める。
外は雨。天気予報では晴れと言っていたが、思い切り普通に降っていて、窓から見える街道では、傘を持っていない人がせかせかと走る様子がチラホラと見受けられる。
一足先に喫茶店に入っていた僕は幸い濡れることはなかったが、万が一濡れれば、ポケットに入っているハンカチではとても対処しきれないだろう。
まぁ、最低限何とかなるとは思うが。
それよりも。
「……うぅ……花梨先輩……」
僕は腕を枕にしつつ机に突っ伏しながら、再びため息をつく。
先日のデート。それに伴う告白。ファーストキスからの大敗北。
高校の時から想い続けていたとはいえ、あんな形で恋が終わるとは誰が予想しただろうか。
もちろん、フラれる想定はしていた。それによる精神的ショックの予想も。
だが。
「………」
机から少しだけ顔を上げて、自分の唇をなぞる。
ファーストキス、先輩はそう言っていた。
それが真実かどうかなんて、僕には分からない。
からかわれていただけかもしれないし、本当かもしれない。
だが、どちらにしても言えることは。
「……ホント、ズルいっすよ、先輩……」
あの時のキスの感覚を思い出して、心臓が早鐘を打つ。
新しい恋を見つけろと、先輩は言った。
けれど、高校で色々と被って2、3年、その間ずっと想い続けていたのだ。あれから数日が経つとはいえ、そう簡単に割り切れる者じゃない。
きっと、先輩もそれを察して、あんなさっぱりしたフリ方をしたのだろう。(と僕は勝手に思っている)
なら、本来ならそれを理解した上でスパッと割り切るのがかっこよくて、女性からの憧れになるのかもしれない。
けれど。
そう簡単に割り切れないのもまぁ、愛情深い存在として一目置かれるのはある……かもしれない。(と思いたい)
まぁ、そんなこんなで失恋の悲しみに耐えながら、マスターが労いで入れてくれたコーヒーを一口、また一口とゆっくりと口に運び込む。
相変わらず苦い。だが、マスターのコーヒーはそれだけじゃなく、色んなものが入っている。
それは、辛い現実の中で一筋の手を差し伸べる優しさを持った、ほろ甘い味で。
それは、中々思う様に行かないデートを思い出させるかのような酸味で。
それは、恋の駆け引きを今まさに行っているかのような、そんな奥深くも確かなものを感じさせてくれる、キレのあるコクで。
物じゃない。けれどそうした思いの一つ一つが味として舌を誑かし、次をまた一口、と飲みたくなる。
まるで恋のようでいて、どこか世知辛いような現実を思わせる面を持ったコーヒー。
もしかしたら、ただの普通のコーヒーなのかもしれない。
だが、なぜだか、今日はその味の一つ一つが、ハッキリと分かった。
(これが大人になる、という事なのかなぁ……)
そう思いながら、また一口……とコーヒーを啜っていると、喫茶店の玄関の扉がギギギィと、珍しく開く音がした。
「いらっしゃいませ、おひとりで?」
マスターがそう声を掛けるあたり、配達の郵便局員やそういった類ではなく、間違いなく客なのだろう。
珍しいこともあるものだと思いつつ、花梨先輩がいたあの時の自分も、こんなことを思わせていたのだろうかという考えが、ふと頭を過ぎり……フッと口元を歪める。
「そんなとこ。ふぃー……」
そうして、玄関の方で息をつく声が聞こえる。
声質からして、女性のようだ。
僕の据わっている席は、丁度入り口に背を向けるようになっていて、席の方を見ることができないため、あくまで推察だが。
(でも、なんか爽やかできれいな声だな……)
何故だか、その声の主がどんな姿か気になって、僕は背もたれに腕を乗せるような形で振り返る。
そこには……
「しっかし、ジョギング中に雨が降ってくるなんて予想外だったなー……タオルもびしょ濡れだし……どーしよ?あ、とりあえずブレンドで♪」
「っ……!」
思わず、息を吞んだ。
朝露に濡れた朝顔のように鮮やかな色をした、藍色の毛並み。
上下共に着こんだジャージは、ボディラインをくっきりと浮き出たせるほどに体にフィットしているのに、不思議と見ている側には窮屈さを感じさせない着こなし。
尻尾は、根元から先端にかけて色合いが濃くなっていくような、思わず撫でたくなるしなやかさを持ち。
髪も同じように毛先の色が濃くなっていく感じはまるで、花弁から水滴が滴り落ちるかのような、そんな幻想的ともいえる不思議な魅力があって。
それを赤色のヘアバンドがまとめ、ポニーテールにしていることで、時折見えるうなじが思わず甘噛みしてしまいたくなるほどの女性らしさをこれでもかと溢れさせている。
中でも、その顔立ちは……長すぎない、すらりとしつつも丸みのあるマズルを始めとして、その眼差しはきりりとしながらも恐怖を感じさせることは決してなく、むしろ優しさと頼れる雰囲気を同時に醸し出す、芯のある瞳を携えて。
僕と同じ、オオカミ系の獣人だから、というのもあるかもしれない。
同時に、雨に濡れていたというシチュエーションも相俟って、というのもあるかもしれないが……何故だか、彼女の一挙一動が、ひどく蠱惑的かつ魅力的に見えて。
まさに一言で言うなら──一目惚れだった。
「うー……なんか拭けるものないかな……ねぇマスターさん、タオルとかって──」
「あの……っ!」
気付けば、僕は席を立っていて。
そのまま、雨でびしょ濡れの彼女の傍に行くと、ポケットからハンカチを取り出し。
「こ、これっ……よければ使って、くださいっ……!」
多少どもりながら、彼女にまっすぐ差し出した。
「え?あ、いいの?ありがと!キミ、中々良い人?」
「あ、えと……」
「お?なんか見た感じキミ、筋肉もすごいじゃん?結構トレーニングとかやってるんだ?」
「あ、はい!ほぼほぼ毎日……って、お姉さんもですよね?」
「お?分かるー?あーしもキミの努力っていうの?食べたものの匂いとかで、結構健康に気を使ってるの分かるよー♪」
「あ、その……僕も、分かります。お姉さん、タンパク質しっかり多めにとってますよね。特に納豆とか、僕らには匂いキツくて苦手な人も多いのに……」
「あれ、わかる!?あちゃー、しっかり歯は磨いてきたはずなんだけどな……」
「あっ、すみません、ちょっとカマかけちゃいました……雨の事もあって今は匂いしないので、大丈夫ですよ」
「……ほほーう、カマかけとな……?」
そう言うと、そのお姉さんは怪しげに目を細めながら、僕にずいっと鼻先を近づける。
あまりにも近すぎて、お互いの鼻先が触れそうになるのに思わずドキドキしていると、お姉さんはスン、スンッ、と鼻を鳴らした。
「……ふむ、あの子とはまた違うけど、何故だか心が惹かれる良い匂い……」
「え……?」
「そしてこの匂い……なるほど、あの子がまとってた女の子とも接点があるんだ?世間は狭いねー」
「え、えっと……」
……どう、反応したものか。
困惑しながらも、向こうが近づいたことで鼻腔を通るお姉さんの香りにクラクラと、まるでめまいのような感覚を覚える。
そうして、僕が自らの内から湧き上がる理性のような何かと戦っていると、お姉さんはにやりとほくそ笑みながら、ゆっくりと鼻先を離した。
「……ねぇ、せっかくだしさ?名前、教えてくれない?」
「え……?」
「キミの事、もっと知りたくなっちゃった♪もちろん、キミがイヤじゃなければ、だけど」
その言葉に、何か妖艶な物を感じて、僕は思わず生唾を飲み込む。
名前。
僕の、名前は。
「か……風見です。風見、雲流斗……です」
「へぇ、変わった名前してるねー……って言ったら失礼かな?えっと……」
そう言うと、お姉さんは濡れて垂れ下がった髪をハンカチで掻き上げながら、にこりと笑った。
「あーしは大神。よろしくね、風見くん♪」
コーヒーの香りが漂う、小さな喫茶店。
そこではコーヒーだけでなく、互いの香りを楽しみあう二人の、一風変わった恋の香りも漂うのだとか──
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