死の淵より顧みて

  ♯1

  今宵も藪医者でラボナを処方された。依存症気味の折、滅多なことでは処方されない薬故、有り難い。また日常が繋がった。達成感、大なり。綱渡りの日々。帰り途、上機嫌で行きつけの天麩羅屋に寄り道する。カウンターに座ると、いつものようにお任せとひと言だけ口にした。

  大将が動き回る。上背は低いが、腰回りは太く、堂々たる体躯だ。割烹着の内側で、例のずんぐりとしたアレがきっと、動き回っているのだろう。奴は白ブリーフが好みなのだ。実は奴は俺の性奴隷だ。奴の気を引くことなど容易い。ただ、少しばかり浮気症なのが、玉に瑕(きず)だった。

  「今日のは出来がいいんです」

  大将がそう云うと、皿に盛られた大ぶりの穴子が揚げ立てで一尾まるっと出て来た。山五の穴子だけにお会計が思い遣られるが、これは旨いに決まっているから、まぁ許す。夏の終わり、穴子の旬もそろそろお開きだろうか。

  「後でお願いしますね」

  さり気ないひと言、今日は泊まりでOKらしい。これはサインの一種で、抱いて欲しいということだ。奴は我慢汁が凄い。もうブリーフの中はぐっしょりに違いないのだ。今夜はラボナの出番はない、朝まで抱くのだから当然だ。俺は首肯(しゅこう)して、股座(またぐら)を疼かせた。

  ♯2

  しんと静まり返った室内で、粘膜の擦れ合う音だけが鼓膜を刺激する。昂(たかぶ)る気分に気圧されて、付け忘れたゴムのこと一切を、脳の向こう側へと追いやった。今日も無言の内に種付けをするのだ。俺はともかく、此奴は浮気をするから、要注意ではある。もう手遅れかも知れないが。その時はまた考えればそれでいい、そんな投げやりな表層の思いとは裏腹に、心奥では腹は括っていた。

  スパートを掛ける。騎乗位で、下からズンズンと突き上げてやる。奴の口の端から、吐息が漏れた。奴の名は、龍司。名前に似合わずベイビーフェイスだが、ふたりの子供を持つ、所帯持ちだ。黒縁眼鏡がよく似合う。突き上げながら肥大した乳首を摘んでやると、触れてもいない奴の逸物が、ぶらんぶらんと大きく跳ね回りながら、白濁した液体を辺りにぶち撒けるのだった。断末魔、それは一瞬の鳴き声とともに訪れた、まさに愉悦だったーー。

  そのまま二回戦目に突入、長い前戯が互いの情を喚起した。このまま絆されていたい、また種付けしてやりたい、そう思って再び挿入する。懲りないこと、長生きなどできないかも知れない、でもそれでよかった。気にすることでもない、そう思う俺は暢気なものだった。

  ♯3

  寝ずの夜を過ごした翌朝、草臥(くたび)れた背広を纏って電車に揺られること暫し。人の波に乗って改札へと向かう。出口からは職場まで、欠伸をしながら歩くのだ、いつもの情景ではある。ここで後輩と出会した。いい男なのだが、俺は個人的に浮気はしない。一途なのだ。だから意識して一線を画するようにはしていた。砂上の楼閣のような警戒心でもないよりはあった方がいい、そういうものなのだ。

  「ね、先輩はどんな子が好みです?」

  手にはiPhone。画面には女性アイドルの顔写真がズラリ。新機種のようで、俺ははぐらかすためにそこを突いた。

  「いやぁ、こんなのが二十万円出ちゃいまして!もう今月はカツカツなんす」

  まだ給料日までには二十日ほどある。やり繰りは大変だろう。俺は昼食を奢る約束をして、自販機で缶コーヒーを買った。後輩にも一本渡す。

  「あざっす!先輩!」

  空は青い。雲ひとつない晴天は、心を少し溶かしてくれたようで、俺は後輩のことが気になり出した。

  「何処見てるんすか?あ、先輩、今俺の股座見たでしょ!」

  黙って、笑って頷く。どういうわけか、この時はそうしようと思ったのだ。途端にノリよくハグされて、俺はドギマギと挙動不審になった。

  この後輩には実は、ちょっとした秘密があった。持病があるのだ。それもナルコレプシーと来ているから、なかなか振るっている。あの有名なリタリンが処方されているとか。俺は極めて重度の不眠症だし、何処を向いても苦労は多い。そういえば龍司には癲癇(てんかん)の持病があった。もう寛解しているから、薬さえ飲んでいれば、健常者と大差はないが。

  ♯4

  朝に出会(でくわ)した後輩の兄に当たる人は俺にとっての初恋の相手で、その名を英一という。キテレツ大百科を知っていたご両親が、主人公の木手英一の頭のよさに肖(あやか)りたくて、そう名付けたのだそうだ。それがすっかりアテが外れて、ご両親ともども御冠(おかんむり)なのだとか。よくある話ではあろう。

  英一はやんちゃな笑顔がチャームポイントのぽっちゃりさんであると、そして男の持つ美質を程よく体現しているかのような存在だと、俺にはそう思えた。特に何かがあったというわけではなく、秘め事のまま終わった恋だった。近頃になって今度はその弟に、気持ちが向かおうとしていた。それで己の惚れっぽさを思い知らされて、俺は自分が嫌になったが。

  オフィスに着くと、気分転換にテラスへとひとりで出てみた。気怠くて頭痛がする。薬も飲まずに徹夜したことが効いているらしい。今夜は早めに家に帰って、ラボナを飲んでさっさと寝てしまおう。

  見上げると、空が大きく動いていた。上空は風が強いらしく、雲が風にあっという間に流されてゆく。実のところ俺はタチではないし、自分のことをそもそもゲイだとか男だとか思ったこともない。

  整形をしたところで、パスするのは難しいと解ってはいた。だから女になろうとはしたこともないが、俺はノンバイナリーだ。タチをやるのは、その方がモテるからという単純な動機から来ている。紳士服に袖を通すのも、成り行きからのことだ。考えてみると我ながら、随分と天の邪鬼だ。

  心奥で、龍司に抱かれてみたいという思いが疼いていた。無理な話ではあった。でも、秘めごとでいい、今は少し寄り掛かっていたい。そんなことを思っていた。

  ♯5

  ペントバルビタールは鎮静催眠薬であり、ラボナはその商品名である。ペントバルビタールは睡眠薬としては相当に時代遅れなところがあり、過剰摂取時に致死性の高い薬の1位であるという不名誉な称号も持っている。死に易さNo.1というわけだ。

  平たく云うと俺は依存症だから、なかなかやめられないでいる。医者も薮なお陰で、あんな時代遅れの薬をホイホイと出してくれる。離脱症状が強いので、いきなり断薬するわけにもいかず、ずっと困っていたのだ。何事も少しずつ、いつかは止めねばなるまい、そう腹は括っているのだが……。

  特に希死念慮が強いわけではないが、前向きでもなく、ただ会社を首になるのは困るというそれだけのことでこれまで、生きてきた。云うまでもないがこのご時世、転職はそんなに簡単なことではないのだ。だから強い睡眠薬も、躊躇なく飲むわけで。

  そんな俺も先日遂に、中間管理職の仲間入りを果たした。いわゆる課長となったわけだ。人事の折に抜擢されたのだが、残業代が出ない上に責任重大、悪いこと尽くめなのだった。断るわけにもいかないのが辛いところだ。

  プロジェクトの計画書に目を通す。最近、小さな文字が読み難い。早くも老眼なのだろうか、困ったことだ。例の後輩にして英一の弟の宗太を呼び付けて、修正を命じる。パツパツのスーツ越しのむっちりとしたヒップラインが好ましく、此奴も紛う方なき雄なんだなぁと、溜め息ばかりが漏れ出る。ジンジンと前立腺が疼くのを感じながら、辛うじてポーカーフェイスを保つ俺なのだった。

  修正された計画書は、上がり次第ミーティングで部長に諮(はか)る予定だ。俺のラボナの件に比べれば、こんな計画書、別にどうだってこともない。でもまぁ成功すれば首の皮が一枚どころかより強固に繋がるわけで、悪い話でもなかった。新人の始末書に目を通していると、昼休み開始のチャイムが鳴った。さぁ、飯だ!

  ♯6

  幾度も失敗を繰り返してきた人生だったが、今はそれなりに幸せなんだとは思う。俺は根が子供だから、子供が欲しいなどという分不相応な望みを持ったことはない。それよりは、今のままがずっといい。

  親の期待には背いた。仕方ないと思っている。皆にいい顔をすることなど、出来やしない。でもこの頃少し、胸が痛い。たまには雄に貫かれてみたい、それが儘(まま)ならないのも、それもまた業の内なのだろうかーー。

  飯時の蕎麦屋。混んでいる。こんなもの腹の足しにもならないが、まぁいいか。そう思って入店しようとすると、宗太が天麩羅を食べたいと云う。仕方なくぼちぼち付いて行くと、そこは昨日のあの店だった。俺は内心気が気でなかった。だが挙動不審だったのは俺だけだったようで、宗太も龍司も和やかなムード。俺は三千円はするランチの天丼を、半ばヤケクソで掻っ込むのだった。

  午後の勤務は気が抜けたようになってしまって、我ながら情けない限りだ。宗太と龍司のツーショットが、目に焼き付いて離れない。そういえば選挙が近い。何処に入れても変わらない、だから投票になんて行かない。そんな駄目な中年になりつつあった、そういう年頃。年寄りと学会員が毎度熱心だとは、よく聞いた。彼らが牛耳る日本の未来というのも、俺が考えるそれよりはまともかも知れないではないか。別に悪いことばかりでもあるまい、俺には関係ない。

  ♯7

  子供の頃、俺は実の父親のダッチワイフだった。癖(へき)のある人で、所謂ショタコンということだったようだ。我欲の塊だが、それは丁寧に抱く人で、中学を卒業するまでの間、関係は続いた。その時に尻は開発済みであり、俺は所謂(いわゆる)全身性感帯とでも云うべき存在なのだったが、生憎俺の身体を弄(まさぐ)ろうとする者は、他には誰も居なかった。手練れな人で、俺は父に抱かれる度に、そのぶっとい腕にしがみ付いて、度々嗚咽を洩らしていた。

  父が離れてしまってから、俺は寂しかった。自慰行為では満足出来ずに、やがて男娼の道へと歩み出す。高校へと通いながらのこと。バイトというよりは、居場所を探して放浪していた感じだった。

  龍司とは、大学を卒業してから出逢った。ひと回り歳上で、一見すると大人しいが、脱がしていくと、卑猥な刺青と根本から剃られて存在すらしていない陰毛のことを、衝撃や興奮とともに、いまだによく覚えている。

  それ以来龍司のことは、ふたりきりの時には、雌豚と呼ぶようになった。夫婦(めおと)ではなく、それは明らかに主従の関係だった。

  男娼は大学卒業とともに辞めて、それ以来やっていない。タチにもだいぶ慣れたが、俺は元来弱々しい奴だったから、頼れる男は恋しかった。

  ♯8

  終業後、俺は宗太に連れられて、また例の天麩羅屋に繰り出した。そこまでは覚えている。どういうわけだかこの日は夜は貸し切りで、厨房には龍司ひとり。だが、それ以降の記憶がない。気が付くと俺は全裸で厨房に横たわっていた。そこで咽せ返るような雄の匂いにやられた。ぼんやりする最中(さなか)、俺は宗太に犯されていた。俺の逸物は龍司の中だった。俺は呆気なく果てた。だが夜はまだまだ終わりそうにもなかった。次第に鋭敏になってゆく感覚に、俺は仰け反った。ぎりぎりの攻防、歯を食い縛っていても、喉の奥から叫ぶ、叫ぶ。押し殺しても、声が洩れる。口の端から涎を垂らして、俺は龍司とともに、宗太の性奴隷と成り果てた。これがまさにその、ことの起こりなのだった。

  俺にはあることについて見込みがあったようで、この日から念入りな拡張を試みられることとなった。フィストファックをされるのだ。

  刺青も入れた。雌豚と、それだけ、陰部にだ。

  初のS字貫通は、こそばゆくなるくらいに褒められた。当の俺はそれどころではなく、気持ちよさからシーツを噛んで、ごく小さな奇声を延々洩らし続けていた。

  宗太は、俺らを平等に扱ってくれた。だから妬くようなことはなかった。ただ、後輩でも部下でもある男に弱みを握られて、俺は独身だったがそれでも、どこか屈辱的な気分はあった。

  もう逃れられない、それは間違いのない事実だった。

  Conclusion

  秋とともに、モン・ドールの季節がやって来た。俺はあれが大好物で、ちょっとしたワインとともに頂くのが、週末の欠かせない日課だった。

  お金を持つことで、人は自由になる。だが俺を含めて大抵の人は、そのお金を稼ぐために、自由でなくなってしまう。皮肉なものではある。

  悪い報せが届いた。父が事切れたという。庭木の剪定の際に、脚立から墜ちたらしい。俺はやはり寂しかったが、新しい飼い主がもう居るので、耐えられそうではあった。

  もう一度父と話せるなら、また身体を重ねることで対話をしてみたいと思った。そういえば俺自身も俺を取り巻く男たちも、気付けば皆ふくよかな体型の豚ばかりだった。それもいい、俺も我ながら酔狂なものだと、自室のバルコニーで一服、シガーを吹かしながら、ひとりごちた。

  今夜はひとりで眠る。そういえばラボナの処方量が減った。長期間に亘った苦闘の末に、漸く断薬への道筋が付いたのだ。それも宗太に飼われるようになったお陰なのかも知れなかった。

  俺は貞操帯で管理されるようになった。いよいよ以て雌豚らしい。役立たずの男根は、萎れるばかりだった。俺は尻でイっている時には、勃たないことが多かったのだ。

  時々、宗太の胸の内が解らなくなる。それでもいい、もう離れたくはない。龍司とはいい友達になった。龍司の浮気相手というのが宗太だったわけである。俺では、敵う筈もなかった。すべてを曝け出せる相手と出逢って、俺はまた、強くなったーー。

  了