夏蜜柑

  ♯1

  息が切れる。もう走れない。肩で息をする。胸がバクバクと音を立てていて、しんどい。

  二月の水平線、一家として最後の旅行先の南房総白浜より見る景色は、三年前と何等変わりがなかった。なつ、みかん。君等がいるから、俺はここまで辿り着けた。記憶の中の君等を辿って柔らかな心の縁(へり)をなぞるようにしながら、俺は思い出のポートレートを見つめる。

  また独りぼっちになった。こんな俺には、それくらいの按排がよく似合う。気付けば、息が白く煙る。目を擦りながらいよいよ沈み行く夕陽を前にして、俺は堪え切れずに嗚咽するのだった。

  “リスペクト いつも きみをたたえてた ここまで 走りぬけた 心はいつしか ふりだしの場所 もどりたくなっていた”

  古いポップスの出だしの方を、脳内でリフレインする。急に初恋の相手の顔が目に浮かんだ。俺はそいつよりも家庭を選んだ、狡い男に違いない。奴にしてみても、今更何の未練もなかろう。

  けれども。もしもまた逢えたなら、今度こそ約束しよう。そう、俺は奴の僕(しもべ)にだってなる。初めて決めた覚悟、ゾワゾワと身の毛がよだつ。

  ホテルの車寄せから、追い縋るなつとみかんの小さな背中を振り切って、車でここまで走って来た。気付けば空は一面のプルシャンブルー。極地のペンギンたちのようにヨタヨタと歩く双子のあの子等に、何等の罪もないのは判っていた。まだ幼い子等を残して去るのは忍びない。それでも、俺は妻を愛せなかった。

  ♯2

  海沿いの空地に停めてあった四駆に乗り込むと、俺は東京へとアクセルペダルを踏み込んだ。父親であることも家庭的な幸せなるものもすべてかなぐり捨てて、ゼロからやり直すつもりでいた。

  空に瞬く星々、今はまだ冬の大三角がよく見える。キンとした風が頬を撫でるので、俺は歯を食い縛った。

  なつもみかんも、女の子だ。おしゃまなもので、既に着る物の好みも一丁前に五月蝿い。その小さな背中に、業を背負わせてしまった。だが不思議なもので、妻の顔はさっき見たばかりなのに、何故だろう、もう思い出せなくなっていた、それもまた人の定めなのだろうか。だとしたら俺が罰を受けるのも、時間の問題に違いない。

  今日まで妻だったあの女と俺が、気の遠くなるような隔たりを少しずつ埋めて行く、そんな作業を始めてから今日で三年。長かった、本当に。マリアナ海溝のような溝は、結局のところは、一ミリたりとも埋まらなかった。俺には妻はどうしたって、モアイの石像のような存在でしかなかったのだ。

  別れ際、妻だった女は、涙のひとつも見せなかった。薄ら、微笑んでさえいたと思う。女という生き物の強さと不可解さとを思う時に、あの女は事例としては、それは解り易かった。俺としては、それはもう真っ平御免だったのだ。

  明日からいよいよ、新生活が始まる。大丈夫だろうか。しかし、どう在ろうとも、否応なしに、誰に対しても残酷なまでに公平に、時は訪れる。俺は一介の金物職人に過ぎない身の上、これまで、生き方はそんなには自由にはならない、父には逆らえない、そう思って諦めていた。それでも、人と違った生き方を選ぶ上での覚悟なら、あったのだ。そういう性分なのかも知れない。駄目な奴なんだな、俺って。

  ♯3

  俺は三人兄妹の長男である。母は俺には辛く当たった。それというのも、彼(あ)の方はゲイの類は好かないのだった。口の端に上らせることも憚られる程で、俺は自己保身のために結婚せざるを得なかったのだ。

  結婚報告の折、誰より嬉しそうだったのは母ではなく妹だった。何ということだろうか。俺は裏切られたような心持ちで妹を睨み付けるより他なかった。俺はそれなりに妹を可愛がって来たからだ。

  妹にも考えはあったようで、あれは母の若い頃の生き写しなのだろう。妹は母の背中を追っていた。父が親方であって、それが中卒だったので、学歴がなくとも幸せになれるということを、妹は自分の子供の育て方を通して、俺に伝えようとしていたのだ。俺もまた、中卒で父の背中を追ったのだった。好き好んで厳しい道を選んで来たわけではない。ただ、俺は成績が振るわなかったから、他に逃げ場がなかった、それだけだ。そんな俺を踏まえて妹の佐智子は、己の子供ふたりを中卒で職人に仕立てようとしたのだった。佐智子は俺に気があるようにも見えた、気のせいには違いないのだろうが。俺もいよいよ以て妄想が激しい、そんなことはなかろう、そう言い聞かせるより他ない、厄介なのは俺の心も同じだ。

  妹の日記帳を盗み見たことがある。兄はまた男に現を抜かしている、あれは今に罰を受ける、そうあった。男同士での逢瀬など、妹には薄汚い野良犬風情の交わりくらいにしか見えなかったのだろう、詮ない。

  俺は所謂ウケだ。男根は、大きいとはよく云われる。それは如何にも無駄なことなのだと思っていた。だが結局のところ、それも不本意な形で役に立つこととなったわけだ。女に対しては、お誂え向きだったのだから。誠に以て残念な話だ。

  ♯4

  それから十年経って、風の噂で、妹は経済難に喘いでいると聞いた。自慢だった筈の息子が頑なに譲らず、脛を齧りつつ私立高校に進学したというのだ。件(くだん)の息子のその厚かましさは見習うべきものがあると、俺も感心した。

  閑話休題。

  初恋の相手と縒(よ)りを戻した俺は、奴の連れ子に往生することとなった。それは夏樹という、一歳児のモンスター。初恋の相手もまた、世間の壁にぶつかって、結婚を余儀なくされていたのだ。時代背景のことも家の事情もある、仕方なかった。

  西暦2000年、所謂ミレニアム。俺等は養子縁組をした。初恋の相手は、名を碧太(そうた)と云う。ロックミュージシャンの息子という、誠に難儀な素性の持ち主だった。音楽業界の只中にあっては、息子をゲイとして生かすというのは、当時はまだ難しかったのかも知れない。建前はどうあれ、本音としてはなかったことにしたい、そんなところだったろう。父親は当たり前のように、息子が結婚するものだと思い込んでいたというわけだ。父のナイーヴな期待に応えるべく、碧太は悠里という女と結婚をする。それは所謂、アリバイ作りだったかも知れない。しかし間違いないことがひとつある、俺は世間に負けただけでなく、悠里に碧太を寝取られたのだ。

  ♯5

  悠里とは軋轢の後(のち)、暫く経ってから友達にはなれた。彼奴は碧太をミュージシャンにしたいようだったが、俺には奴はそんなタフガイには見えなかった。よく云って奴の内面は硝子細工だったからだ。奴にとっては結婚とは、自己犠牲でするものだった。悠里には申し訳ないが、その点では俺も同感なのだ。

  悠里はシャネルが好きだった。彼奴は今、資産家の男と交際をしている。処女であると偽って、膜の再生術まで受けたとのこと。その甲斐あってこの間は、銀座並木のブティックでダイヤのリングを買わせたらしい。家のような値段のものだと聞いている。悠里には、碧太よりもシャネルの方がよく似合う。人生など、所詮はそういう理でできているものなのだ。

  春の休日、夏樹に添い寝をしてやりながら、俺は束の間の幸せにとろとろと意識が溶け出しそうな、そんな心地良い感覚を覚えていた。碧太は、慣れない手付きで編み物をしている。息子のために、ニットのセーターを編むというのだ。今から取り組み始めて、秋には下ろしたいらしい。遅々として進まない奴の作業を眺めながら、意地悪な俺の内心は些か、冷ややかだった。

  夏樹は、転がっているものなら何でも口に入れてしまうから、片時も目が離せない。その一方で、編み物に夢中な碧太は、靴職人の見習いであり、駆け出しながら腕も良いのだ。仕事柄手先は器用な筈なので、編み物に向かないというのも不思議な話なのだが、まぁまったく違うものだと云えなくもないわけで、稀にはある話なのだろうと思い、気にしないことにした。

  ♯6

  うつらうつらとしている内に、俺は舟を漕ぎそうになった。慌てて水で顔を洗うと、夏樹を視界に入れつつ、加熱式タバコを咥える。俺としてはニコチンは麻薬と何ら変わらんのではないかと思ってはいるが、成人の俺には合法であるので、有難く吸わせてもらっている。

  夏樹とレゴブロックで遊び出したその昼下がり、俺に来訪者があった。その黒尽くめの女は、俺の元妻に違いなかった。サングラスを掛けてはいたが、一瞥しただけで、それは判ること。瞳の奥がいつになく冷淡で、嫌な予感はしていた。

  玄関先での立ち話もどうかと思い、一先ず元妻をリビングへと通す。なつとみかんも一緒だ。元妻は何も云わない。

  直感で、俺は切り出した。

  「再婚でも、するのか?」

  元妻は黙って頷いた。話を聞くと、再婚相手は資産家で、コブ付きを嫌がっているらしい。それで俺にお鉢が回ってきたわけだ。

  俺はなつとみかんに、アイスキャンディを渡した。はしゃぐふたりを他所に、元妻は深々とお辞儀をして去って行った、背中が寂しそうだ。別にいいのに、彼奴も存外、義理堅い。

  それから家はますます賑やかになった。夏樹になつとみかん、皆仲良しとなったのだ。俺はそのことでずっと気に病んでいたから、内心で安堵していた。

  俺は父の工房を離れることにした。無論、折り合いが悪いために、そうするのだ。話を切り出すと、父は烈火の如く怒り出して、俺をアトリエから引き摺り出すのだった。或いはそれは父なりの温情なのかも知れなかった、だから俺は敢えて感謝をしたのだ。事実俺の中で、この件はしこりとはならずに済んだのである。父もあれだけ怒れば気が済んだだろうと、俺はほろ苦い珈琲のような後味の唾液を飲み込みながら、腑に落ちた気分でいたのだった。

  再就職先はすぐに見つかった。父の金物工房は全国的にもそれなりに有名であり、そこでチーフを任されていた俺は、引く手数多だったのだ。父よ有難う、合格通知を片手に俺は独り、そう呟くのだった。

  ♯7

  夏、我が家の子供達三人が生まれてきた季節。凶報が届いた。父が糖尿病で往生しているというのだ。そんな話は初耳だったが、発見された時には症状がかなり進んでいて、八月の半ばには片脚を切断するに至った。妹が教えてくれたのだが、俺は会いに行くつもりはさらさらなかったのだ。冷たかったかも知れない。ただ父にとっても、俺の顔は見ないで済んだ方がまだマシなのだと、それはそのくらいの話の筈なのだった。

  最後に父を見たのは、病院で花の香りを嗅いでいる後ろ姿をチラリと、夏の終わりのことだった。そんな人ではなかった。もう一度云う、俺の知っている父は、そんな人ではなかった。それで俺は腑抜けたようになってしまい、張り合いを失くしてしまった。声は、掛けられなかった。後悔なら、している。

  九月の終わり、葬儀はしめやかに執り行われた。また冬がやって来る。歳を取る毎に、一年の経つのが早くなって行くようだと、俺は密かにそう思っていた。そんな歳でもないのにだ。思えばこの何ヶ月かで、俺は気分的にすっかり老け込んでいるかのようだった。

  この柔らかで冷んやりとした不定形の心は、妹や母の窶れた姿を目の当たりにしてもなお、存外丈夫で、罅ひとつ入らない。ただ、棺を見て、俺の顔からは、涙が堰を切ったように溢れ出した。それは思いも掛けないことで、その時にようやっと俺もまだ人間だったのだと思えて、俺は不覚にもただ只管に嬉しいのだった、季節を先取りしたような冷たい雨の日のこと、柄でもなく俺は寂しかったのである。

  ♯8

  子供達はすくすくと育っている。母とは、和解をした。

  「ウチにはゲイは要らないと、私はずっとそう思って、今日まで生きて来ました。でも、貴方たちもキチンと業を背負って生きていることが解りましたから、それは赦します。子供は大切になさい。私も時折、様子を見に伺います。佐智子とも仲良くやりなさいね。あの子は兄さんっ子だったの。色々とショックだったみたいだから」

  俺は溜め息をひとつ、吐くのだった。途方もない仕事をまたひとつ押し付けられたような気分で、俺は大層居心地が悪かった。

  結局佐智子とは疎遠なまま、今日(こんにち)に至っている。なつとみかん、それに夏樹は、今も三人、仲良しだ。人間など、仲の良い者同士で連むくらいが丁度いい。俺は碧太を愛している。碧太と子供たち三人にだけ優しくいられればそれで良いと、俺は腹を括っているのだ。

  俺の人生は、それ自体が誤りだったかも知れない。そう思っていてもやはり、このようにしか生きられなかった。

  甘酸っぱい夏蜜柑の美味しい季節が、今年もまたやって来る。ウチは築五十年にはなる分譲の古民家で、庭先に蜜柑の木が植っているのを見て碧太とふたりでここにしようと決めた、とっておきの物件なのだった。

  掃き出し窓を開ける、一陣の風が吹く。生温い風がこの時期独特で、俺はもうひと息でやって来る夏に、早くも思いを馳せていた。俺は夏が好きだ。もう少し俺の聞き分けが良かったら、或いは元妻とも、もっと上手く行っていたかも知れない。

  いつの間にやら碧太は隣で眠ってしまっていた。

  「碧太さん、風邪を引きますよ、お布団で寝てくださいな」

  俺がそのように声を掛けるも、返事はない。仕方なくおぶって部屋まで連れて行く。その時、耳元で囁かれた言葉を反芻してのち、俺は、黙って固くその手を握り締めるのだった。この手は離さない、そう改めて誓いながらーー。

  了