藤原四家・五摂家

  元は神別氏族なり。

  祖は天兒屋命(あめのこやねのみこと)で、春日大社に祀られてゐる。

  天孫と伴に降臨された「五伴雄(いつとものお)」の一柱なり。

  元々有力氏族である。

  六世紀半ばの「崇佛論争」の中臣鎌子や、

  乙巳の變(645年)の中臣鎌足(614〜669)が有名である。

  後者が「藤原朝臣」を賜姓され、藤原鎌足として藤原氏の祖となつた。

  藤原氏が時流に乗つて榮え、政治の頂点を極めた爲に、祭祀を司る中臣氏の本家は「大中臣」を名乗つて差別化をした。

  また齋部広成は『古語拾遺』(807年)を著して、中臣に抗議した。

  ハサン中田考師の後継に、大中田學派と小中田学派がある。前者は神学と霊学の先生を筆頭とし、後者は中田先生の日本語の著書に、蒙を啓かれた「バカ」が集まる。つまりバカ以外が前者にならうか。知らんけど。私は勿論後者である。

  これは、小ソクラテス学派と呼ばれるキニク派と、大ソクラテス学派のプラトオン、アリストテレスのパロディである。小ソクラテス学派は、ソクラテスの思想の一部分しか引き継げてゐない爲に、さう呼ばれる。

  藤原不比等(659〜720)てふ人物がゐた。鎌足の子である。もとの名は「史(ふひと)」であつたが、並び立つ者がゐないからと、自ら「不比等」に改名した。

  不比等の子が、藤原四兄弟である。

  彼らは729年、皇族の有力者であつた長屋王を破つた。これが「長屋王の變」である。

  これにより藤原四子政権(729〜737年)を築いた。

  然し737年、天平の疫病(天然痘)で、四人とも死んだ。

  後は橘諸兄が政権を握つた。

  源平藤橘の橘である。また、初代の「橘氏長者」とされる。

  敏達天皇の玄孫の子、すなはち五世孫とされる(コトバンク)。Wikipediaは南北朝の『尊卑分脈』なる書から、四世孫説も載せる。即ち敏達天皇ー難波皇子ー栗熊王ー美努王ー橘諸兄てふ。

  ルパン三世や、シナの始皇帝、皇帝二世(胡亥)とは異なる數へ方である。

  有名なのは古事記の五世孫と六世孫の差別であり、応神天皇ー1世皇子ー2世ー3世ー4世ー5世の継体天皇と、5世相続は正当化す。

  スサノヲ命ー1世ー2世ー3世ー4世ー5世ー6世の大国主命が「六世孫」で、権威を相続しない。『日本書紀』では、大国主命は素戔嗚尊の子とされる。

  竹田恒泰説は、天照大御神と須佐之男命との誓約(うけひ)で生まれた、太子オシホミミ命は、二人の息子であると見る。唾(つばき)に霊的な力を見る考へ方であり、これで政策提言もしたてふ。

  確かに、『古事記』はわざわざ六世孫を差別する爲に、須佐之男命からつづく系譜を載せてゐるし、『日本書紀』も国津神になつた素戔嗚尊を、皇統に関係ある「尊(みこと)」の字を用ゐてゐる。竹田氏の論文にもその樣な事が書いてあるのだらう。

  天照大御神がわざわざ「皇子は私の子である」と宣言して、頼り分けてゐるのも、実態はスサノヲ命の子でもあるからかも知れない。

  また書紀で皇子は、素戔嗚尊の子になつてゐる。これは私心ある素戔嗚尊が、男尊女卑をもとに勝つたと言ひたいが爲に勝手に、自分の子と言ひ張つてゐるだけかも知れない。なぜなら日本書紀の第二巻では、いきなり最初から「天照大御神の子、正勝吾勝…」と宣言されてゐるからである。これもうわかんねえな。

  正勝吾勝勝速日は、素戔嗚尊の追放後に天照大御神の子となつたのかも知れない。勝ちさびを挙げて邪心を表に晒し、眞の勝敗は誰の目にも明らかになつた。祓ひを受けて地上に追放され、地神になつたので。ここにおいて初めて、「我が珠から生まれたから、我が皇子」と確認されたのかも知れない。

  因みに制約で生まれた三柱の女神は、宗像大社に祀られてゐる。神社はでかでかと「三女神は天照大御神の子である」と書記の説を掲げてゐる。古事記では須佐之男命の娘であり、またウカノミタマ神(稲荷大社)も娘であるのだが。

  つまり書紀では、スサノヲ尊が三女神を天照大御神の子とよりわけたが、後から皇子も天照大御神の子と分かつたわけであるな。お前のものは俺のもの、俺のものも俺のもの、のジャイアンとは真逆である。

  因みに書紀は漢意(からごころ)に支配されてゐるが、結局勝利条件は「女神」であつたらし。

  古事記では天照大御神「男神」、スサノヲ「女神」で、スサノヲ命が勝ちさびをあげる。

  日本書紀では天照大御神「女神」、スサノヲ「男神」で勝ちさびをあげるが、結局天照大御神「男神」になつてゐる。

  もとの神話は天照大御神ー男神であるが、男尊女卑でスサノヲ尊の勝利条件をいじつた爲に、混乱が生じたのだらう。

  詭弁臭くなつて来たのでやめやう。混乱してきた。

  だめだこりや。

  一世、二世の數へ方については、[[jumpuri:中村みどり「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」 > http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/2089/1/0070_014_003.pdf]]てふ論文を見つけたので、そちらも参照の事。

  養老令では天皇の兄弟姉妹と子が親王とか。これは、現在の皇室典範の6条「嫡男系嫡出の孫までが親王、三世以下を王」、7条「王が即位したら兄弟姉妹は親王とする」とほぼ同じである。これは古例に戻したのだと考へられる。太政官や神祇官は無くなつちやつたのにね。

  桓武天皇延暦十二年(793年)の詔で、両家は三世以下の皇女、摂家は二世以下の降嫁を許した。

  然し村上天皇の御代の、父帝一世皇女(天皇の姉妹)の三内親王の降嫁は、許されざるものであつた。

  源平藤橘のうち源平は、清和源氏と桓武平氏が有名である。

  前者は第五十六代清和天皇に始まる。六孫王(源経基)と多田滿仲、酒呑童子を倒した源頼光、頼朝公、義経などが有名である。

  後者は第五十代桓武天皇の後裔である。将門、清盛、敦盛が有名。

  第五十二代嵯峨天皇から第六十二代村上天皇迄。

  また冷泉源氏以下12代含め、源氏21流てふ。

  平氏は桓武平氏以下4流派。

  第五十四代仁明天皇

  第五十五代文徳天皇 平惟世のみか

  第五十八代光孝天皇

  

  『源氏物語の皇統と論理』(2016年)には、一世皇女の臣下への降嫁についての論文が収録されてゐた。そちらも合はせて是非ご参照の事。

  これは女三宮(朱雀帝の第三皇女)の六条院(准上皇)への降嫁が問題となつてゐる。それを柏木がよお。

  

  左大臣家が藤原で、親・光源氏である。頭中将もゐる。

  右大臣家も藤原で、反・光源氏。桐壺帝の妃の、弘徽殿の女御がゐる。家が二条にあるので、道隆ー定子(清少納言)とかがモデルとされる。

  藤原四兄弟が「藤原四家」の祖である。

  それぞれ、南家、北家、式家、京家。

  南家は桓武天皇妃一人のみ。藤原仲麻呂の亂(764年)を起こした爲、当然振るはなかつた。

  式家は桓武天皇皇后の藤原乙牟漏を出し、平城天皇・淳和天皇の外戚となつた。然し藥子の變(810年)で処罰されてしまふ。

  京家は尚侍が一人のみ。

  コトバンク「[[jumpuri:藤原四兄弟 > https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%9B%9B%E5%AE%B6-865732]]」より。

  あの道長は北家。藤原彰子の父。家庭教師の紫式部も藤原であり、女房名は「藤式部」であつた。

  藤原定子の父は、道隆(みちたか)であり、道長の兄である。清少納言は清原氏で、父が少納言(太政官の三等官、從五位下)であつた事に由来す。

  この北家の主流が、五攝家である。

  格が髙い順に、「近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家」がある(Wikipedia「摂家」)。

  初代木村玉之助は、一条家から異例の行司免許を貰つた。

  吉田司家は元来、二条家に仕へてゐた。江戸期に熊本藩に仕へる。

  日米開戦をした、近衛文麿首相も華族(公爵)である。

  摂政または関白経験者は、数少ない例外を除いて全て藤原氏である。古代は聖徳太子や中大兄皇子など、皇太子が天皇を補佐するものであつた。

  また1158年〜1868年迄は、五摂家が行つた。例外は松殿家の二名と、豐臣秀吉。

  明治以降は、摂政宮裕仁親王のみ。これは古制と同じ、皇太子による摂政である。

  關白は最早「亭主関白」しかない。