相撲〜神話と歴史の狭間に

  江戸後期の1790年〜1822年にかけて、本居宣長の『古事記傳』が出版された。

  これ以降、『古事記』は日本神話の中核となつた。

  其れ迄、日本神話のテキストといへば『日本書紀』であり、『續日本紀』以下を含めた六國史は「正史」とされて來た。

  然し宣長以降は、シナ風の正統史觀など「漢意(からごころ)」てふ事にならう。

  さてこの『古事記』には、建御雷神(たけみかづちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)の角力(すもう)が描かれてゐる。

  これは天津神の使者と、国津神との戰ひであつた。

  『日本書紀』神代巻には、斯樣な勝負事は書かれてをらず、諏訪明神(お諏訪樣)は武神として篤く信仰されて來たのである。

  建御雷神も、東國三社の「鹿島神社」(鹿島明神、常陸國一宮)に祀られてゐる。

  伊勢に坐す皇太神宮に遠慮して「神社」としたが、延喜神名式では、鹿島と香取は例外的に「神宮」と表記されてゐる。

  次に人間最初の角力(すもう)として傳はるのが、『日本書紀』垂仁紀の、野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹴速(たいまのけはや)の一番である。両者とも「相撲の神」として祀られる。

  これは『バキ傳』の題材ともなつてゐる。

  さて、現在の相撲の流れの源は、平安時代の朝廷行事「相撲節會(すもうせちえ)」である。

  あの菅原道真の「菅原朝臣」高辻家庶流、菅原爲長の子の髙長(1210〜1285)が祖の「五条家」こそが相撲の司家であつた。野見宿禰の血を引くてふ。

  それを上囘り遂ぞ後を継いだのが、「吉田司家」である。江戸のお墨付きを得て、横綱免許を與へるに至つた。

  後者はあの「志賀清林」の志賀家の断絶の折、故實傳書を受け継いだ「吉田豊後守(家次)」を初代とする。1234年死去、鎌倉時代の人である。その後代々、藤原五攝家の二条家のお抱へとなり、相撲節會を執り行つた。その後熊本藩や、後鳥羽天皇(在位1183〜1198)等々。

  志賀清林は、奈良時代の力士、行司。

  番付最髙位は「最手(ほて)」。

  時の聖武天皇(724〜729)に、48手と禁じ手3手(突く・殴る・蹴る)制定を進上したとか。

  「五条家に代わる相撲の司家、家元」(Wikipedia「吉田司家」より)てふ記述からは、五条家が先、吉田は後と讀めてしまふ。然し始まりは共に鎌倉期で、八〇〇年の歴史がある。矢張り身分差によるところが大きいか。

  [chapter:大関と横綱の歴史]

  宮中相撲節(すまひのせち)の初例は、垂仁天皇7年7月。(野見宿禰 vs 当麻蹴速)

  また、皇極天皇元年(642年)7月にも行はれたらし。

  (Wikipedia「相撲節會」)

  『續日本紀』養老3年(719年)7月条、宮中相撲節を擔當する「抜出司」が任命された。

  7日に行はれた相撲節では、志賀清林が48手と禁じ手3手を考案したらし。相撲節では競技者を「相撲人(すまいびと)」、一番手を「最手(ほて)」、二番手を「脇(わき)」とし、今の大関・関脇に當るとしてゐる。([[jumpuri:相撲協会・相撲用語集「力士」 > https://www.sumo.or.jp/IrohaKnowledge/glossary_rikishi_rikishi]])

  726年より宮仕へ。

  734年に相撲節が正式に、行事として制定された。

  平安末期に相撲節が途絶へ、志賀家も絶えた。吉田司家がその後を継いだとか。

  

  1624年に明石志賀之助が、江戸で最初の勧進相撲(かんじんずもう)を興行したとされる。

  彼は、「江戸以外も京・長崎を始め、諸國で相撲を取つて抜群の強さを誇つたとされる」さうな。

  京で「仁王仁太夫」を倒し、朝廷から「日下開山(ひのしたかいさん)」の称号を賜つたらし。(Wikipedia)

  1603年に江戸に幕府が開かれ、1623年に3代将軍家光が立つたばかりの頃ですね。

  武御雷神 vs 建御名方神(国譲り神話)

  野見宿禰 vs 當麻蹴速(垂仁天皇の時代)

  明石志賀之助 vs 仁王仁太夫(江戸初期)

  バキ vs 野見宿禰(マンガ『バキ傳』)

  因みに相撲マンガの『バチバチ』では、阿行・吽行てふ二人の力士がをり、吽行引退の折に「仁王」に改名しました。

  負け役としての歴史を踏襲したのか、彼はもう一歩のところで、髷を自分で切つてしまひました。

  親方が亡くなり、部屋解散の危機に遭ひ、それを回避する爲の策でした。

  1757年、雪見山が江戸で東大関となる。相撲協會は、これを初代大関と定めてゐる。

  1789年が最初の横綱免許制定である。この時に吉田司が寺社奉行に「綾辻と丸山にも免許をやつたが、火事で消失した」と報告した。この爲両名が書類上の横綱となつた。明石と綾辻は傳説上の横綱だが、丸山は存在する事が確實らし。(Wikipedia「丸山権太左衞門」)

  1791年の上覧相撲で、紙垂を垂らした純白の綱を締め、顔見せ土俵入りしたところ、これが公認となつた。

  1823年に五条家が玉垣・柏戸に横綱免許を與へる。これは両名共が辞退した。

  然し吉田司家は、これを受けて横綱の制度化をはかつたと考へられる。

  1828年に阿武松が6代横綱となつた。

  16代迄は名誉称号てふ性格が強かつたが、1890年からは「横綱」の文字が番付に記載されるやうになつた。1909年に地位として規定された。

  因みに「十両」は元々「幕下」であつた。

  明治初期の給料導入で、上から「十枚目」まで「十両」以上貰へた事による通称であつた。

  1888年から幕下と区別し、番付に肉太で書かれる樣になつた。([[jumpuri:コトバンク > https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E4%B8%A1-77483]])

  番付では幕内と同じく「一人づつ」前頭と書かれる。いまは十四枚目まて、東西合計28人居る。

  現在では「關取(せきとり)」として、土俵入りをして15日全日で相撲を取れる。立ち會ひ時間は3分(幕内4分、幕下以下は2分)

  「関取」は、名乗れば関所を通れた事に由来する。([[jumpuri:スポジョバ > https://spojoba.com/articles/736]])

  幕下以下は力士養成員で、通称は「取的(とりてき)」である。

  [chapter:「まるで将棋だな」]

  横綱〜序ノ口迄「十段階」ある。

  丸で将棋だな、と思つたが、違ひを説明する。

  抑も将棋は「十段戦」(現在の竜王戦)を除き、九段までしかない。横綱は四人だが、十段(現・竜王)は一人である。

  翻つて「タイトル」で見たら八つある。

  引退後に名乗る永世名人が近く、十四世 木村義雄、十五世 大山康晴、十六世 中原誠、十七世 谷川浩司。15〜17世は特例で現役から、永世名人を名乗れた。森内さんが18世、羽生さんが19世の資格を持つ。

  未定の叡王戰を除き、七つの名誉称号がある。また、NHK杯にも名誉NHK杯てふのがある。

  あとは将棋は三段リーグがあり、四段がプロである。相撲は四段目(幕下)までが「養成員」であり、下から五段目からがプロである。

  [chapter:大坂相撲]

  1925年に東京相撲が攝政宮賜杯を得て、水を開けられる。1927年に東京相撲共々解散し、「大日本相撲協會」が設立。これが現在の相撲協会の前身であり、現在の「大相撲」の最初である。

  京相撲は1645年が最初で、次が1701年。後者は番付も残つてゐる。後に営利目的の勧進相撲も行はれた。古番付は1717年のもの。明治初期には500人の力士がゐた。

  横綱は、「小野川才助や兜潟弥吉」([[jumpuri:レファレンス > https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000061419]])

  「上位が江戸相撲の力士で占められ、その下に大坂や京都の力士が置かれるやうになつてゐた。そのため、京都・大坂の力士で上位の者は江戸に加入し、強豪力士となつてゐた。江戸に加入しない力士は下位のままであり、明治維新まで三役力士は一人もいないといふ状況であつた」、「第16代横綱西ノ海や第28代横綱大錦、……は初め京都相撲の門下であった。」、「大碇のほかに京都相撲で横綱免許を受けた力士に磯風音治郎がゐる。(五条家免許)。」(Wikipedia「京都相撲」より)

  小野川(b.1830)、兜潟(b.1824)も五条家の横綱免許となるのでせうか? 西ノ海(b.1855)と大錦(b.1891)は江戸相撲、即ち吉田家免許てふ事になりますかね。

  大碇(b.1869)、磯風(b.1848)

  1869年に独立興行となつたものの、1874年以降は東京大坂との合併興行しか打てなくなり、大正期に消滅した。

  [chapter:大相撲]

  1927(昭和2年)より。

  当初は1、3、5、10月の年四囘、11日間。それぞれ東京、關西、東京、関西。(関西=大坂と京都で一回づつ)

  1928年からはラジオ中継が開始。

  1933年には関西角力協会が立つた爲、関西場所を廃止し、年二場所(一月・五月=春・夏)となつた。1937年に13日制、1939年に15日制を導入。

  1944年から戰争の影響を食ふ。

  1944年10月場所(繰上げ開催)=秋場所

  1945年6月場所(空襲で1箇月延期、7日間。非公開)

  1945年11月場所(10日間)

  1946年11月場所(13日間)

  1947年6、11、1948年5月場所は、青天井。その爲両年の1月場所は中止になつた。1948年10月、大坂場所。

  進駐軍により年三場所が許可され、1949〜1952年に春夏秋と開催される。(秋は大阪)

  1953年3月場所が大坂となり、現在に至るまで通例。年四場所(初春夏秋)

  1957年11月より九州場所、1958年7月より名古屋場所が加はり、年六場所制となつた。

  年二場所時代は、Wikipediaの「照國萬藏(てるくに・まんぞう)」が見易くて、參考になつた。

  逆に後の大鵬の記事は見難いか。

  [chapter:歷代横綱]

  1、明石志賀之助(あかし・しがのすけ) 實在不明

  2、綾川五郎次(あやがは・ごろうじ)

  3、丸山權太左衛門(まるやま・ごんたざえもん)1749年昇進。

  4、谷風梶之助(たにかぜ・かじのすけ)1789年、実質初代

  5、小野川(おのがは)1789年

  参考: 雷電爲右エ門(らいでん・ためえもん)最高位大関、現役時代は1789年〜1811年迄。1789.7、大坂場所でデビュー。

  6、阿武松(あふのまつ)1828

  7、稲妻雷五郎(いなづま・らいごろう)1829

  8、不知火

  9、秀ノ山

  10、雲龍

  11、不知火

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  山咲トオルつて漫画家で、しかも稲妻雷五郎の玄孫だつたんだ……。知らなかつた。

  16、西ノ海

  21、若嶌 大阪相撲

  23、大木戸 同上

  28、大錦 同

  30、宮城 同

  38、照國萬藏

  48、大鵬

  52、北の富士勝昭

  55、北の湖

  58、千代の富士貢

  64、曙太郎

  65、貴乃花

  66、若乃花

  67、武蔵丸

  68、朝青龍明德

  69、白鵬翔

  72、稀勢の里寛

  73、照ノ富士

  [chapter:相撲コソコソ零れ話]

  稀勢の里のあだ名はキセノン。

  照ノ富士のあだ名はテルル。

  因みに髙安のあだ名は、くまちやんである。

  稀勢の里の成績は、

  平成29年3月場所 13勝2敗で優勝!

  〃  5月場所 6勝5勝4休

  〃  7月場所 2勝4敗9休

  〃  9月場所 全休

  〃  11月場所 4勝6敗5休

  平成30年1月場所 1勝5敗9休

  〃  3月場所 全休

  〃  5月場所  〃

  〃  7月場所  〃

  〃  9月場所 10勝5敗

  〃  11月場所 5敗10休

  平成31年1月場所 4敗、引退。

  2年強で8場所72番の取組であつた。

  [chapter:大關一覧]

  初代、雪見山

  76、雷電爲右エ門

  100、柏戸利助

  105、稲妻雷五郎 7代横綱

  200、琴櫻 横綱

  241、把瑠都

  242、琴奨菊 「琴バウアー」

  245、豪榮道豪太郎

  246、照ノ富士 横綱

  247、髙安晃(陥落)

  248、栃ノ心剛(陥落)

  249、貴景勝

  250、朝乃山(陥落)

  251、正代(陥落) 「まさよ」

  252、御嶽海(陥落)[newpage]

  [chapter:年表]

  624年 相撲節

  719年「抜出使」を選んで相撲節

  726年 志賀清林が朝廷に出仕

  1579.8 織田信長が相撲大會を開く(1)

  1581.1.15 信長が「東」「西」の名を與へる(1)

  1624年 江戸で最初の勧進相撲

  1645年 京相撲

  1648年 相撲禁止令(1)

  1701年 京相撲

  1749年 3代横綱(書類上)

  1757年 初代大関・雪見山

  1789年 最初の横綱免許

  〃  大関・雷電爲右エ門

  1791年 上覧相撲

  1823年 五条家の横綱免許

  1828年 三度目の横綱免許(吉田司家としては二度目)

  1888年 番付・十枚目

  1890年 番付「横綱」

  1909年 横綱の地位が規定

  1925年 攝政宮杯

  1927年 大日本相撲協會

  

  1)[[jumpuri:「相撲LOVEの織田信長がつくった? 安土に残る古文書でわかった、大相撲の「東西」の起源」 > https://intojapanwaraku.com/culture/94329/]](2020年)

  

  1927年 大相撲、年四場所

  1928年 ラジオ中継開始

  1933年 年二場所(1月・5月=春・夏)

  1937年 13日制

  1939年 15日制

  1944年 10月場所(繰上げ開催)=秋場所

  1945年 6月場所(非公開)

  〃  11月場所(10日間)

  1946年 11月場所(13日間)

  1947年 6、11月場所

  1948年 5月場所

  〃  10月場所(大阪)

  1949〜1952年 年三場所(春夏秋)

  1953年 年四場所(初春夏秋)

  1958年 年六場所