灰色のむこうがわ 10 そのさん

  「妊娠、ですか」

  「ああ。まいったねえ」

  ジャービスが額に手を当て、[[rb:溜息 > ためいき]]混じりに告げる。二人がいるリビングは、重苦しい空気が漂っていた。

  あのあと、何かあってはいけないからと、ウェンディは医者に掛かることになった。狼が[[rb:庇 > かば]]ったとはいえ、雨に[[rb:晒 > さら]]された身だ。大きな[[rb:疾患 > しっかん]]にかかったとしてもおかしくない、というのがジャービスの判断だった。

  そして出た診断が、まさかの子を宿しているときた。妊娠五ヶ月目、順調に育っているとのこと。

  

  「うーん、まさかそういうことをしている、だなんてねえ……」

  直接な表現は避けつつも、ジャービスはことの深刻さに頭を抱えている。そんなこと予想だにしなかった。まさかこんなことになるなんて、と。

  「いやはや、あの子も常々幸せになりたいといっていたからね。私も応援してあげたい気持ちで一杯だったさ。

  ……けれど、まさか妊娠するだなんて。うーむ」

  そうして悩んでいる姿は、子を思う親そのもの。理想的な、親の態度。

  けれど、狼の目にはそんな風には映っていなかった。

  「あの」

  「ん。ああ、なんだい? そんな怖い顔をして」

  「貴方が、そうなるように仕向けたんじゃないですか。ウェンディがこうなると、予め予見していたのでは」

  狼が言っていることは当て付けに聞こえるだろう。なんの証拠もない、ただの言いがかりではないかと。

  けれど、狼には狼なりにそう疑う根拠があった。ウェンディの仕事を[[rb:斡旋 > あっせん]]したのは彼、ジャービスだ。相手方がどういった事情を抱えているのか、当然ながら彼は熟知しているはず。

  つまりだ。ウェンディが妊娠したのは、ひいては、そういう行為に及んだのは彼も承知の上だったのではないか。

  「……まさか。キミはもしかして、私の大切な子供を傷物にされるのを良しとした。そう思っているのかい?」

  「相手方の事を事前に知っていた貴方なら、もしくは未然に防げたのでは」

  「我が孤児院を支援してくれるパトロンを疑え、と? 馬鹿なことをいうのは止めなさい。彼は子供を純粋に愛していた。だからこそ、私も信頼して子供を預けたんだ」

  本当にそうだろうか。本当に愛している同士ならば、何か通じるものを感じ取っていたのではないか。

  その愛にも種類がある。肉体的な愛、保護欲からの愛。本当にジャービスはそれを見抜けなかったのだろうか。

  「それに」ジャービスが続ける。「ヒトを疑うということは不幸なことだ。キミも、周知のことだろう?」

  ゾワリと、狼は毛が逆立つのを感じた。体が拒絶している。[[rb:撫 > な]]でられたくない[[rb:箇所 > かしょ]]を撫でられたような、そんな感触だ。

  この都市は何時だってそうだ。いつだって、大切なものを見捨てている。ソレがどういったものなのかは、この反応に慣れてしまった狼には判断できないが。

  「あの子だってわかっているはずさ。幸せになる方法というものを」

  「……だから、このような事態になったと」

  「幸せのために邁進する。それはとても素晴らしいことだ。違うかい?」

  「……」

  それを言われてしまえば、狼も流石に口ごもってしまう。幸せとは、努力やら[[rb:研鑽 > けんさん]]やらの果てに存在すると信じているから。幸せという理想は、確かに叶うものだと、そう信じていたいから。

  「けれど……困ったね。あの子が幸せの為に努力するのはいい。ただ、子供を孕むとなっては……話が変わってくる」

  ジャービスは極めて穏やかに発言する。けれど狼には本当に困っているようには思えない。あたかも用意された台本を読み返すように、[[rb:体裁 > ていさい]]を取り繕うために困っているようにしか見えなかった。

  「あの子をここから追い出さなければいけなくなる」

  だから、平然と残酷な事をいってのけるのも、ああそうだなと納得してしまった。

  納得できてしまう自分に、狼自身嫌気がさす。

  「……何故、追い出すのです。彼女は、これからだっていうのに」

  聞いてしまえば後悔する。そんなこと、狼は分かりきっていた。それでも聞いたのは、せめてもの抵抗をしたいと、この瞬間思ったから。

  無駄だとしても、せめて罪悪感を抱いて欲しい。そんな[[rb:虚 > むな]]しい願いを抱いてしまったから。

  「何で、か。キミの様な聡明な男でも、察しが悪くなることもあるのだね」

  「答えて下さい」

  「そう顔を強張らざることないじゃないか。せっかくの色男が台無しだ」

  「答えろ」

  つい作っていた口調が崩れてしまう。けれどそれを[[rb:咄嗟 > とっさ]]に訂正できるほど、狼には余裕がなかった。冷静になんか、なっていられなかった。

  そんな狼の様子に、ジャービスはふうと息を零す。そして我が子を諭すかのように、彼は狼に答える。

  「だってキミ、ここは孤児院だ。子供のままなら問題ないが、あの子は母親になってしまう。

  ……解るだろ? 大人が、ましてや親がいていい場所じゃない、と」

  あたかもそれが当然だと言うように、ジャービスは言葉を紡ぐ。ここは、子供だけの寄辺だと。

  「ここは親に捨てられた子供たちの楽園だ。そこに親という存在が現れたらどうなる? ……きっと子供達は怯えてしまう。思い出してしまう。『捨てられる』という恐怖を」

  そうなったらどうするだろう。子供は親に抵抗できない。親というものは絶対のものだから。生れ落ちてからずっと、基準となる存在だから。

  子供だけの世界に親はいらない。いてはならない。だからこそ、ウェンディは出ていくという選択を迫られる。それが、彼女が望んだ幸せならば、そうしなければならない。

  「それでも、その後はどうするんですか。彼女一人でどうしろと。まだあの子は、子供なんですよ?」

  「……なら、キミが引き取るかい?」

  「えっ」

  「当然ながら相手方は自分の赤子だと認知しないことだろう。むしろ厄介な[[rb:疫病神 > やくびょうがみ]]だと思われるだろうね。自分達の幸せを阻害する疫病神だと。

  なら、キミが引き取るのはどうだろう。あの子のことをこんなにも深く思っているんだ。なら、キミが適任だと思うのだけど」

  実にいい考えだ。我ながら素晴らしい閃きだ。ジャービスはニコニコとヒトの良い笑顔を見せながら狼に提案した。それならば誰もが幸せになれる。誰も犠牲にならない、最高のハッピーエンドじゃないかと。

  そんなわけないじゃないか。狼は一層顔をゆがませ、ジャービスに恨みのこもった視線を向ける。

  この老犬もヒトが悪い。それはハッピーエンドだと到底言えないのに、あたかもそれが最善だと言ってのけている。意地の悪い、冗談だ。

  そんな狼の表情を見越してか、ジャービスが言葉を吐く。

  「まあ、それもあの子達が無事ならば……だけどね」

  :::

  「ねえ聞いた? 私、妊娠してるって」

  「……ああ。ジャービスさんに今しがたね」

  ウェンディが幸せそうに[[rb:微笑 > ほほえ]]んでいる。その姿を前に、狼は何時ものように作り笑いを浮かべた。浮かべることしか、できなかった。

  医者の診断を受けたあと、ウェンディはそのまま客間で寝かされていた。彼女が他の子供達と顔を合わせないように、という処置らしい。他の子供達がウェンディの妊娠を知れば、彼女に対して何かしらの行動をとるかもしれない。だからこそ、客間の入り口は布で仕切られ、子供たちが入ってこないよう立ち入り禁止の札をかけられていた。

  「ジャービスさんもヒトが悪いよね。今は絶対安静だからみんなに合わせられないって」

  「そう、だな」

  当然だが、ジャービスはウェンディに真実を教えてはいないらしい。それは優しさからくるものなのか、それとも[[rb:猶予 > ゆうよ]]を与えたいからなのか。狼には、彼の考えがわからない。

  「ま、いっか。みんな私に赤ちゃんができた、なんて知ったらビックリしちゃうだろうし。できるだけナイショにしなくちゃ」

  「……そうだな」

  「もう、靴屋さんってば反応悪い! 赤ちゃんだよ、赤ちゃん。このお腹の中に、小さい幸せが宿ってるんだよ?」

  ほら、ここに。ウェンディが自身の腹を撫でながら主張する。まだ目立って[[rb:膨 > ふく]]れていないが、そこには確かに生命が宿っている。ウェンディを性処理として扱った男の子供がいる。望まれない、生命がある。

  「ウェンディ」

  「なあに?」

  「君は今、幸せかい?」

  「そうだけど、何で?」

  子供ができる。家族ができる。それはなんとも幸せなことだ。ウェンディからすれば嫌なことをずっと我慢し続け、[[rb:漸 > ようや]]く手に入れた、カタチある幸福だ。

  けれどこのままではウェンディは幸せになれないだろう。狼にはその確信があった。だからこそ、彼は聞く。

  「子供を[[rb:堕 > お]]ろす気はないか」と。

  「……なんで?」

  聞かれたウェンディは[[rb:虚 > きょ]]虚をつかれたかのように、狼に聞き返す。子供ができたことを、当然のように喜んでくれる。そう思っていたのだ。

  「父親のいない子供を産んで君は幸せか」

  「それは……探すもん。この子のお父さんになってくれるヒト」

  「知ってるんだな。その子が産まれること望まれてないって」

  「……っ!」

  ウェンディの目つきが鋭くなった。それもそうだ、それは幸せを望まれていないと言われているのも同義だ。

  狼だって否定なんかしたくない。わざわざお腹の子が望まれていないと指摘し、悲しませたくはないのだ。

  けれど狼はそうしなければならない。何故ならこのままではどちらかが死ななければいけなくなるだろうから。

  「なんで、そんなこと、いうの……?」

  「……」

  ターシャはまだ幼い。彼女の身体では胎児が成長しきらないのだ。故に子供はそのまま死産になる可能性が高かった。

  そもそも出産は死のリスクと隣合わせ。十分な設備などないこの都市で、母親が亡くなるケースも少なくない。

  そんなことまでして漸く、幸せというものを手に入れられる。けれど、そこまでして得られるものは尊いものだろうか。[[rb:喉 > のど]]から手を伸ばして掴む物足り得るだろうか。

  「靴屋さんは、私が幸せになっちゃ駄目だって言うの?」

  「今じゃなくたっていいだろ。望まれていない子を産む位ならな」

  「私だって望まれてなんかない! ずっと嫌な顔されて生きてきた! なのにどうして幸せになっちゃ駄目なの?!」

  「そうは言って」

  「同じだよ! みんなみんな、ぜんぶ!!」

  ウェンディの叫びが部屋の外まで響く。まずい。今の騒ぎを聞かれたら、孤児院の子供たちがやってくるかもしれない。いや、まず間違いなくやってくることだろう。一応止められているとはいえ、子供なんて好奇心の塊。バレなければいいと中に入ってくる奴もいるはずだ。

  「ウェ、ウェンディ。落ち着け。このまま騒げば誰かやって」

  「そうやって都合が悪いからって私の話聞いてくれない!」

  「聞きたくないわけじゃ」

  「みんなそう! 誰も彼も私のこと子供だから孤児だからって!」

  「そんなこと言ってない。俺はちゃんと」

  「黙ってよ!!」

  狼は何とか落ち着かせようとウェンディを説得するが、騒ぎはより勢いを増すばかり。そのままウェンディは顔を覆い泣き崩れてしまった。

  

  「やめてよ……私の幸せを、奪おうとしないでよ……」

  もはや説得なんてできる雰囲気ではなかった。やむを得ないと感じた狼は、ウェンディを刺激しないよう「また来る」と言い残し背を向けた。

  背後からかすかに漏れ聞こえる、ウェンディの[[rb:啜 > すす]]り泣き。その悲痛さが、狼の背中を刺し貫く。祝われたかったのだろう、信頼をおける仲である靴屋さんとやらに。それが嘘だったとしても、心からの祝福でなかったとしても。

  「ご愁傷さま」

  部屋の外で馬少年ジョンが狼を出迎える。狼をねぎらう割に、心配そうなそぶりは見せてこない。

  「どうだった? アレ」

  「何の話だ」

  「ウェンディのこと。楽しそうな声、聞こえたから」

  あのやり取りを楽しそう、ときた。何をどうとらえればそうなるのだろう。この少年もジャービスと同様、大層趣味が悪い。答える気など毛頭ない狼は、彼を無視して立ち去る。

  「みんな頭悪いなあ。子供でいたら、ずっといい思いができるのに」

  そんなジョンの呟きは、誰に聞かれるでもなく雨音の中へと掻き消えていった。

  [newpage]

  雨の降る都市を、狼は一人歩いていく。白く煙るような雨だ。非常に細く振っていると感じさせない雨だったが、それでも狼の綺麗な藍色の毛を濡らし、くすませるには十分だった。

  (……なんだよ。なんで、だよ)

  濡れそぼる毛先から[[rb:滴 > したた]]る雫が、目先を通り過ぎる。うっとおしいと毛をかき上げるが、一房前に垂れてしまう。どうにも不快だ。何もかも、上手くいかない。

  行くアテなんてない。拠点にも、今はまだ戻れない。それでも、狼は都市を歩いていく。

  ふと気がつけば、彼は掘っ立て小屋の前にまで来ていた。ワニ男ガレッツォがセーフハウスとして建てた、あの小屋だ。

  開きの悪い扉をこじ開け、中へと入る。まだ、あのふざけた男は帰って来ていない。けれど、今の狼にはかえって都合がよかった。あの煩く振り回してくるヤツがいないとなれば、ここも中々悪い場所じゃない。

  (なんで、ウェンディがあんな事にならなきゃなんねーんだよ……!)

  簡易ベットへダイブし、そのまま身を沈ませる。濡らしてしまった衣服を脱ぎ捨て、そういえば服を借りたままだったなと思い出す。

  どうでもいい、そんなこと。後日受け取りにいけば問題ないだろう。投げ捨てた衣類にそっぽを向くと、狼はゴロリと寝返りを打った。

  身体が疲労を訴えている。大分精神を擦り減らした。泥のように眠って忘れられればよかったのに、狼の脳はそんなことお構いなしと回転し続けている。

  激動の一日だった。こんなにも辛いことが連続して起こるものかと疑うくらい、酷い日だった。

  こんな出来事があっても、周囲は何も変わらない。たった一人の小娘がどうなろうと、都市の獣人達は気にも止めない。当たり前のように、日常茶飯事だとでも言うように、過ごしている。

  そんな異常が、今の狼には恨めしい。吐き気がするほど、嫌気がさす。

  (赤子を降ろさせないと、死ぬ。仮に産めたとしても、より過酷な環境に追い出される。

  ……どうしろってんだよ、クソが)

  例えば明日死ぬとして、今日を贅沢に過ごせたなら。それは果たして幸せだろうか。たった一瞬でも、幸福を享受できたなら、それだけで十分な人生だと、言えたろうか。

  狼の考えはNOだ。そんなもの、もっと欲しいと欲張るだろう。なんでここで終わるのかと、絶望するだろう。

  だとしたらウェンディを止めるのはきっと正解だ。間違った選択ではない。

  

  (『私の幸せを奪わないでよ』……か)

  ウェンディが苦しみながら言った、その言葉が今も狼の胸に刺さっている。自分は彼女の事を考えて、堕ろしてくれと頼んだ。きっとそれがいい方法だと、信じて疑わなかった。

  それでもウェンディにとっての幸せは赤子を産むことなのだ。都市の教育がそう教えたように、赤子を産むことで、家族を作ることで、幸せになれると。

  本当にそうなのだろうか。それで本当に幸せになれるのだろうか。もっと違うものは一杯あって、それを選ぶ権利があるんじゃないだろうか。それを悩みながら、苦心しながら模索していくのが、生きていくということじゃ、ないだろうか。

  (間違えてるのか? 俺は。幸福なんてものは、本当は存在しなくて、まやかしを求めているに過ぎないのか?)

  そんな理想を求めて、そんなものがないと失望して。それを繰り返すことが、人生というものなのだろうか。

  嫌な考えだけが狼の脳内を駆け巡る。こういうときこそオルゴールを鳴らしたいが、商売道具ごと孤児院へと置き忘れてしまい手元に存在しない。急いだが故のミスだ。なんとももどかしい。

  虹の向こうには辿り着けない。朽ちゆくセカイに理想を築きあげようと、理想郷にはなり得ない。いつだって現実は不平等で、善と悪が混ざり合う。白も黒もどこにもなく、ただこの世は灰色のみ。

  狼も知ってたつもりでいた。理想郷など存在しないと。誰もが幸せになれる、願いを叶えることができる、そんなものはただの夢想。くだらない思想論でしかないと。

  でも、どうして捨てられようか。下らないことを望んで、何が悪いというのだろうか。

  飢えるのが嫌だ。働くのが嫌だ。ずっと苦しみを抱えたまま、寂しく死んでしまうのが嫌だ。

  そう思うのは当然のはずだ。生きている以上、欲なんて際限なくわきでてくる。それが滅びたセカイなら、尚更。

  (なあ……ナターシャ)

  亡くなってしまった恩人に、狼は問う。返答なんてなくとも、それを止めることはない。意味がなくとも、止めることはない。

  聞きたいことは、ただ一つ。

  幸せとは、何なのだろう。

  :::

  『おい』

  『ひゃい! ごめんなさい!』

  『そこに座れ』

  『……え?』

  『座れ』

  誰かのやり取りが聞こえてくる。聞きなれたような、そうでもないような。でも、会話の内容に狼はどことなくデジャヴを感じる。

  いつ頃だったろうか。虎男フリッドのブーツの汚れが酷く気になった狼は、[[rb:磨 > みが]]いてやろうと手頃な廃材に腰掛けさせた。別にフリッドのことを思って磨こうとしたわけではなく、雑に扱われている靴を視界に収め続けるのが気に食わなかったため。

  職業病という奴だろうか。とにかく、狼は我慢がきかなかった。

  目を開くと、視界の先に図体だけで中身がない虎と己自身。酷く[[rb:霞 > かすみ]]がかっていて、顔がぼんやりとしかみえない。ただ、フリッドはその挙動不審な動きから大分不安がっているのだろう。それだけは容易に想像できて、狼はクスリと頬を[[rb:綻 > ほころ]]ばせた。

  『あの、俺、またなんかやらかしました?』

  『ウッザ』

  『あいてぇ?!』

  記憶の中の狼がフリッドの[[rb:脛 > すね]]を殴る。なんだか随分と楽しそうだ。そう昔のことでないだろうに、狼には酷く懐かしく感じられた。

  そうだ。コレはまだ、あの虎を撃ち殺す前のことだ。だから、こんなにも懐かしい。こんなにも、侘しい。

  『なんで一々殴ってコミニケーション取るんだよ。俺のこと可哀想だな、とか思わねーの』

  『コミュニケーションな』

  『ミ? ミゆ……みぃ……みゅう?』

  『キッッしょ』

  『ミ゙! っつう〜』

  こうして思い返しても本当、中身のない会話だ。よくもまあこんな事に付き合っていたものだ。自分は冷めた性格だと狼は自負していたが、こうして俯瞰すると付き合いのいいほうなのかもしれないと改めて思う。

  そうこうしていると、記憶の狼がフリッドのブーツを磨き始めた。靴を磨かれるなんて経験、恐らく奴はされたことがないだろう。まず履いているものを洗うという発想すらなかったはずだ。ブラシをかけられ、こびりついていた泥汚れがボロボロ落ちていっているのがその証拠。

  全くあきれてくるものだ。こんな靴を大事にしない奴と寝食ともにしているなんて。

  『なあ』

  『なんだ』

  『いつまでこうしてればいいんだ?』

  『うるせえブラシ突っ込むぞ』

  『聞いただけで?!』

  『尻に』

  『え、ままま待てまて早まるな想像しちまったじゃんうわわわわ……』

  それにしても。何故、今になってこんなものを思い返しているのだろう。狼にとってこんなもの、取るに足らないものだ。下らない記憶を懐かしんだ所で、現実はそう変わりようがない。

  『なあ』記憶の中のフリッドが、ふいに狼に疑問を投げかける。『なんで靴なんて磨こうとおもったんだ?』と。

  狼の心臓がドクリと鳴る。まるで今自分に問いかけられたようで、思わず狼はフリッドを見る。

  視線がかち合う。フリッドは、記憶の中の虎は、こちらを見ていた。幼子のような、純真な眼差しで。

  「なんで、って」

  『汚いからだろ』

  言い[[rb:淀 > よど]]む狼の言の葉を続けるように、キッパリと記憶の狼は告げる。

  『誰がどんな道を歩もうと、靴が汚ければ格好がつかない。汚い道なんて誰が歩きたがるものかよ』

  『よくわかんない』

  『殴られたいか殴られたくないか選べ』

  『なんでそうなんだよ!』

  『そういうことだ』

  『はい?』

  狼の胸の[[rb:動悸 > どうき]]をよそに、記憶の二人はやり取りを続ける。こんなことを、かつての自分は言ったろうか。自分の歩む道すら決めかねていそうな虎に、こんな風に説き伏せていたろうか。

  『誰だって好きで困難な道を進もうなんて思わない。出来れば綺麗な道がいい。そんなとこを自分で汚したら胸なんか張れないだろが』

  記憶の中の狼は、迷いなくそう答える。

  誰だって苦しいのは嫌だ。悲しいのも、痛いのも、死んでしまうことだって、嫌で仕方ない。

  けれど現実はそうは行かない。艱難辛苦、いつだって歩みを止めたくなる事柄が襲いかかってくるものだ。今の狼がそうであるように。

  『歩むその足に針が刺さってしまわないように。歩む者のその姿が何時までも勇ましくあるように。

  ……たとえその先がどうあろうと、進む誰かの助けになるのなら』

  ──それは、とても誇らしいことだ。

  どのような偉業をなした偉人でも、神の如き権能を持ち合わせていたとしても、影の立役には到底及ばない。例えその者の幸いに立ち会えなくとも、それでいいと思える。そんな生き様を、歩みたい。

  狼はいつからか思っていたことがある。自分は、物語の主人公にはなれないと。どれだけ研鑽を積み上げようと、精々が道すがらに会う余人程度のものにしかなれないだろう。

  もっと早く大人であったなら、ナターシャは死なずに済んだ。力があればフリッドを殺さずに済んだ。知恵があればウェンディを苦難に追いやることがなかった。

  すべてを持ち合わせていないからこそ、何もできなかったと[[rb:嘆 > なげ]]くことを許せない。自身が選び取れる道はすべてを取りこぼす。だからこそ、狼は自ら進んでその道を選んだ。

  『俺はこれを生業とし続ける。

  ……忘れた、なんていわせねぇよ』

  記憶の狼がコチラへと振り返る。

  意識がグラリと揺らぐ。霞がかった世界で、その表情だけははっきりと見て取れた。ああ、自分はこんな顔つきをしていたのか。薄れていくなか、記憶の中の狼のその表情に、つい、狼は見とれてしまう。

  随分とすかした、けれども自信に満ちた表情を、彼はしていた。

  憎たらしくて悔しい。けど、誇らしい表情を。

  [newpage]

  ウェンディの妊娠が発覚して数日後。狼は再び孤児院へと[[rb:赴 > おもむ]]いた。

  「やあやあ、まさか君から訪ねて来るなんて」

  「ウェンディは」

  「……まだ。そうだね、まだあの子は私の子供だから」

  出迎えてくるジャービスは、何時ものように微笑んでいる。それこそ、不気味なほど。

  そんな彼とのやり取りをそこそこに、狼はウェンディの元へと向かう。

  この間と同じ客間。布で仕切られ中の様子は窺い知ることができない。

  通りすがる子供達は「あの子大丈夫かな」などとヒソヒソ話し合っている。面会謝絶の札はちゃんと機能しているようだ。そこばかりはジャービスも徹底して教え込んだのだろう。気にするのはそこだけかと文句を言いたいところだが、言ったところで変わることはないだろう。

  「ウェンディ」

  

  呼吸を一つ整え、狼が部屋の主を呼ぶ。シュルリと、布のこすれ合う音が聞こえる。と、同時に息を飲み込む音も。

  暫く間を置いて、「どうぞ」とウェンディが許しを出した。

  久々にあった彼女は、随分と怯えていた。

  それもそうだ。祝ってくれると期待していた狼が否定し、あまつさえ堕ろせなどと言ってくる。そんな男を前にして、不安を抱かないほうがおかしい。

  「久しぶり、だね」そう口を開くウェンディだか、あまり歓迎いていないのは火を見るよりも明らかだった。

  「身体の具合はどうだい」

  「うん、へいき。不思議だね、お腹の中にもう一人いるのに、あんまり不自由じゃないの。もしかして気を使ってくれてるのかな」

  「かも、しれないね。君は気立てがいいし、そこが似ているのかも」

  「そうかな……」

  何気ない会話だが、あまり長続きしない。もう今までのように談笑するなんて求められないのだろう。そう思うと、狼は少し物悲しくなった。

  「それで」

  「堕ろさないよ。絶対」

  狼の発言をさえぎり、ウェンディが告げる。

  「誰になんて言われても絶対に産んでみせる。私は私の幸せを掴んでみせる、そう決めたの。そのために生きてきたし、そのために今まで我慢してきた。

  靴屋さん。貴方にだって、邪魔させないから」

  ウェンディの決意は固かった。まだ幼いというのに、黄金の毛並みに浮かぶその眼差しは、いたく鋭い。強い女性の、かつてナターシャが何度か見せていた姿が重なって、狼は戸惑う。

  ──ナターシャ。俺は、いつまで経っても愚かだよ。胸の内で狼はそう呟く。

  「今日は贈りたいものがあって来た」

  「え?」

  「受け取って、くれるか」

  小脇に抱えていた箱をウェンディに差し出す。最初こそ面食らっていた少女だったが、おずおずとそれを受け取る。

  開けていいと訴えてくるウェンディに、狼は黙って頷く。

  「……、これ、って」

  

  蓋を開けると、そこにはしわくちゃの紙に埋もれた靴があった。いつだったか、彼女が狼にねだった朱い靴。

  「革のほつれとかなら直せたりできたんだが、一からというのは初めてだった。ヒールじゃなくてブーツになってしまったけど、な」

  「なんで……? なんで、今になって」

  ウェンディに再び会うまでの数日間、狼はない知識を[[rb:絞 > しぼ]]りつくしながら靴を作っていた。

  今までの自分と向かい合うような数日間だった。自身のルーツを、何故自分は一人でいることを選んだか。誰とも分かり合えそうもないのに、靴磨きなんてものを生業としているのか。

  きっとどう説得した所でウェンディは子供を産むことだろう。その結果彼女が死んでしまっても、万が一奇跡的に生きていても、どの道待っているのは辛い現実だ。悲しい、悲劇だ。

  

  だから、餞別として。この先何もしてやれないからこそ、狼はせめて頼みだけでも、叶えようとした。

  「履いてみていい?」ウェンディがそう聞くと、狼は頷く。

  ウェンディが受け取って最初に思ったのは、大分大きいということ。もっと年齢を重ねた、大人の女性向けだと。

  足に合わせてみれば予想どおり、どうしても足指の先が余ってしまう。どうしてかと聞く前に、狼が口を開いた。

  「ウェンディ。きっと君は素敵な女性になる。誰よりもずっと立派で、思わず声をかけたくなるような、そんな女性に。

  けどな。きっとそれは今じゃない。ずっと先の話だ」

  ヒトはいずれ大人になる。ジャービスの言の葉を借りれば、いずれどう足掻こうとも、ウェンディはここを出ていくだろう。

  「だから、ワザと大きめに作った」

  「なんで? 祝うなら、ちゃんとピッタリにしてよ」

  「知ってるかウェンディ。厚底の靴って、歩きなれるのにコツがいるんだ。それに、結構走りづらい」

  「それ、くらい……知ってるし」

  「焦らなくていいんだ。今履けなくても、いいんだ」

  きっとウェンディが今この靴を履いても、歩き辛くて転んでしまうだろう。いや、他の靴だったとしても、そうなるはずだ。

  「きっと今は辛いことばっかだ。嫌だから、目先のものに縋りたい。

  けどな、身の丈に合わないものはどうしても、自分を傷つける」

  「でも、そんなのちゃんと練習すれば」

  「ぶっつけ本番だ、人生ってのは。二度目、なんてない」

  「……!」

  誰だってそうだ。幸せになりたい。そう、願うものだ。

  けれど人生なんてものは一度きり。やり直しというものは存在しない。どう願おうとも、何を選ぼうとも、後戻りということはできやしない。

  狼は主人公になんてなれない。特別な存在には、決してなれない。けれど、誰かの道行きを案ずることができる。道を選ぶことも、運命を決めることもできないけれど、その歩みを護ることなら、できる。

  

  「俺は選ぶ権利がない。だからウェンディ、決めるのはお前だ。

  辛いなら捨てていい。逃げたっていい。望まれないならより望まれるものを探せばいい。

  幸せになってくれ。その靴に見合う、最高に幸せなお前に……どうか、なってくれ」

  殆ど頼み込むように、狼は頭を下げてそういった。

  言われた当のウェンディは困惑。それもそうだ、まさか頼んだものを贈られたのに、それに見合うヒトになってくれ、なんて。どう返したらいいものかわからなくなって当然だ。ほぼ前代未聞だろう、そんな贈り物なんて。

  このままブーツを返してもいい。それは注文通りに作ってくれなかった狼が悪いのだ。今の自分にこそ合う靴を、今この瞬間の自分を、祝ってほしい。

  けれど。ウェンディはじっと狼を見つめる。そして、贈ってくれた靴へ。

  「……靴屋さんってさ、女心わかんないよね」

  「悪い」

  「ホント、サイテーだよ。ホント、悪い狼さん」

  けどさ。少し間を置いてウェンディが囁く。

  「ありがとう。これ、貰っておくね」

  [newpage]

  むかし、ひとりのおんなのこがおりました。

  どこにでもいるふつうのこ。いつもあかるくて、ゆめみがちなおんなのこ。

  (……あーあ、ほんと悪い狼さん)

  おとなになるのを、おんなのこはゆめみていました。しあわせで、だれもがうらやむりっぱなおとなに。

  きっとすてきなおとこのひとがじぶんにやってきて、しあわせにしてくれる。そんなふうに、ゆめみていたのです。ね、とってもふつうでしょう?

  (けど、なんでだろ

  なんでこんな、嬉しいんだろう)

  けれどそれはしょせんゆめのはなし。おんなのこはいくらせのびをしてもおとなになんかなれません。すてきなおとこのひとも、あらわれません。

  それでもおんなのこはがんばりました。きっと、しあわせになれるとがんばりました。

  けど。おんなのこがてにいれたのは、しあわせとはせいはんたい。すてきだとおもっていたおとこのひとも、おんなのこをしあわせにはしてくれませんでした。

  そのこにのこされたのは、じぶんがのぞんだあかいくつ。そして、そのこがくるしんだあかし。

  (さようなら、靴屋さん。きっともう、会わないんだろうけど。……会って、くれないんだろうけど。

  たのしかったなあ。うれしかったなあ。ずっと、そばにいたかったなあ)

  かのじょはひとり、なみだをこぼします。それはじぶんがしあわせにえらばれなかったからでしょうか。ゆめがかなうとこがないと、しってしまったからでしょうか。

  さようなら。私の[[rb:理想の人 >ピーター]]

  さようなら。[[rb:夢見た私の理想郷 > ネバーランド]]

  そうしておんなのこのおはなしはまくをとじます。

  ……おんなのこがどうなったか? それはかたるにおよばず、というやつでして。

  ネバーランドは永遠の楽園。子供だけの理想の国。

  大人はけして入れない。失った者たちの、[[rb:慰 > なぐさ]]めの庭。

  子供に永遠を。大人には、死を。

  :::

  その後。厳重警戒が解けたことで、狼はようやく都市から離れることができた。

  遠くから眺める都市の外壁を見つめ、狼は自身が正しかったのか胸の内で問う。

  詰まる所、馬鹿げた[[rb:戯言 > ざれごと]]なのだろう。真面目に考えてしまうのがいけない。いつだったかナターシャに言われた通り、頭のおかしな連中のイカれた思想。幸せなんて、なろうと思ってなるものじゃない。

  けれど。なってほしいと願ってしまう。その気持ちだけは、切り離せない。

  後ろめたさの残る都市に無理やり別れを告げ、狼は帰路につく。そんなことよりも自身のこと。長い間マヌケな虎を放置してしまった。今はそちらの方へと気を配るべきだろう。

  そうして狼ははようやく拠点へと戻ってきた。そして、事態に[[rb:驚愕 > きょうがく]]する。

  拠点として使っていたアパートメント。そこに多数の獣人が立ち入った形跡がある。それだけじゃない、荒らされているのだ。去る前にはなかった銃弾やら血痕やらが、あちこちに散見される。

  なにがあった。自分がいない間、ここで何が起こった。想像もしていなかった事態に、狼は焦りを覚えながらも虎の元へと向かう。

  「っ、フリッド!」

  そこには、確かに彼がいた。

  全身血塗れで、虚ろに項垂れながら