灰色のむこうがわ 06 その二

  後悔後に絶たず、とはよく言ったものだ。一つの選択のあと、後々になってやっぱり断ればよかったと思い返すことがある。けれどどう悔やんでもその場では仕方なかったし、きっとそれ以外の選択などできなかっただろう。だからこそあの時こうしておけば、と悔やんでしまう。

  からり。手元の[[rb:小瓶 > こびん]]を揺らしフリッドは悩む。本当にこれでよかったのかと。

  ゴードンの誘いには乗っかってしまったが、どうしても好意的には受け止めきれない。関わってほしくない、遠ざけてしまいたい。そんな理由が、今手元にある。

  [[rb:衝動 > しょうどう]]の[[rb:赴 > おもむ]]くまま投げ捨ててしまえたらどれだけ楽なのだろうか。この場に彼がいない今、そうしても何ら問題はないだろう。けど、ああも言いくるめられた後では捨てるのが忍びなくなってしまう。こうして見ているだけでも吐き気に襲われそうなのに。

  なんだってあの黒山羊、ゴードンはこんなものを渡してきたのだろうか。あまつさえ、こんなもので幸せにして見せるなどと、救って見せるだのと言い切っているのか。

  「こんなもので救うとか、バカみてー……」

  [[rb:一錠 > いちじょう]]飲めばヒトを救える。そう語るゴードンは本気だった。少なくとも、その場にいたフリッドにはそう聞こえた。

  あり得ないと、絶対にそんなことはないとフリッドは思う。本当にそうだったなら自分はこの場にはいない。あんなに苦しい思いをして、幸せだったかと聞かれているようなものだ。そんなわけがあるものか。

  「……とはいえ、なぁ」

  ただ悪い事だけかといわれれば、そうでもなく。ちゃんと有用な情報もゴードンは落としていた。

  今フリッドがいるのは拠点から少し離れた雑居ビル跡。[[rb:曰 > いわ]]く、「ココら一帯ならまだ手付かずデスし、アナタさまの助けになるカト」とのこと。ほとんど半信半疑で連れてこられたが、見る限りではなるほどどうして、言われた通りの場所だ。

  手付かずというよりはほぼ旧時代の頃のままが荒らされることなく残っている、といった方が正しいか。一階に足を踏み込めば、どうもそこは飲食店だったらしく、テーブルにはコーヒーセットが置かれていた。カウンターに設置されているシンクには、洗われていないまま放置された食器類。店内は全体的に埃まみれではあるものの、目立つほど散乱はしていない。

  まるで最近までヒトがいたみたいだと、フリッドは思う。旧時代の生活の様相など彼は全く知らないが、それでもヒトの[[rb:団欒 > だんらん]]がここにはあったのだろうと推察できる。少なくとも自分たちが根城にしているビルよりかは、ずっと生活感がある。

  ここにいたであろうヒト達は今頃どうしているのだろう。無事に生き残っているだろうか。それとも、もう。

  「……まあ、うん。考えても仕方ねーってこと、あるし」

  とにかく、結果としてゴードンに連れてこられて大正解だった。物資の供給先としてはおそらく理想的だろう。

  「なんだかんだでいいトコ教えて貰っちまったよなぁ。俺じゃ多分怒られること覚悟で帰らなきゃいけなかっただろうし」

  とはいえこのことに感謝するべきか否かと問われるならば……やはり気が進まない。これから先もお世話になるのはまあ、構わないだろう。なんなら積極的に情報を落としてほしいものだ。

  けれど気が進まないのも事実。こうしてこちらの役に立つ情報を教えてくれたとして、あの黒山羊にはたして何の得があるというのだろう。狼ですら[[rb:鬱陶 > うっとう]]しいと煙たがられている己に、何の価値を見出しているか。[[rb:甚 > はなは]]だ疑問である。

  「まっ、いっかぁ! 結果良ければなんとやらっていうし、今はそれよりアイツに怒られないようにするのが一番!」

  そうだ。今はモヤモヤと悩んでいる場合でも、感傷に浸っている場合でもない。自身に課せられた使命を果たさなければならないのだ。幸いというべきか、[[rb:此処 > ここ]]に連れてこられた際にゴードンとは別行動になった。ゆっくりじっくりと心ゆくまで漁ることができる。

  物資確保のために送り出された際に、狼から最低限必要なモノは指示されている。ぱぱっと探して帰るとしようじゃないか。

  「えーと? 清潔そうな布、紐になりそうなもの、拳銃……けんじゅう? と、そのタマ? ……ホントに必要、てか拳銃ってそこらへん探してあるものなのか……?

  お、布めっけ」

  ぶつぶつとフリッドはつぶやきながら手当たり次第に[[rb:棚 > たな]]を漁る。これは使えそうもない、これはいわれたもの、これははたして使えそうか。

  中に入っているものを引っ張り出しては次々にポイと投げる。その姿は紛れもなく空き巣の犯行そのものだ。ゴードンにはセカイを救うものだと偽ったが、果たしてどうだろう。胸を張って救世主だと、フリッドは我が物顔でいっていいものだろうか。

  「よーし! とりあえずここはこんなもんか。……ってなんだ、こんなにゴチャゴチャしてたか? ここ」

  気付けば辺りは立ち入った時よりも荒れ果てていた。そのあまりの酷さに、しでかした張本人も目を丸くする。

  「……ま、いいか。誰か住んでるってわけでもねーし。このままでも文句言われねーだろ、うん」

  救世主にこそ向いてないが、神経の図太さでなら、フリッドは救世主になり得るのかもしれない。[[rb:叱 > しか]]られなければ、怖いことが身に降りかからなければいい、という罰当たりな思想、世の中が終わっていても中々抱けるものでもないだろう。

  次は二階を漁ろう。ここでは頼まれたもの全部は揃わなかった。ほかにも調べられる[[rb:箇所 > かしょ]]はあるのだし、さっさと調べてしまおう。

  フリッドがそう二階へと足を運ぼうとした時だった。

  「……ん? あれは……」

  脚だ。床に無造作に伸ばされた、ヒトの脚。

  入って来たときにはあっただろうか。全然気が付きもしなかった。そも誰かいたという気配すらなかったように思う。

  生きている、だろうか。物を漁った騒音で何かしらのリアクションがあってもおかしくはなかった。なのにフリッドが気づく今まで何もしてこなかった。と、いうことはだ。

  「……死体、かな」

  ありえない話でもない。クリーチャーが[[rb:徘徊 > はいかい]]する、ということならこういったものがあっても不思議ではない。

  ここに来る前、監禁生活から抜け出した後、フリッドは幾つもの“死”を体験してきた。自分には決して訪れない、ヒトの死を。

  だからだろうか、亡くなっていることに恐怖というものはあまり抱かなかった。ただここ一帯に──狼がいるこの周辺にやってきてからというもの、フリッドは一度もヒトの死体に[[rb:遭遇 > そうぐう]]していない。

  

  あまり見たいものでもないが、こうして久々に直面するとツキリと胸が痛む。やり場のない苦しみが、どうしようもない痛みが、やってくる。どうすることもできないのに、フリッドには戸惑うことしか出来ない。

  「いやいや、まだわかんねーし。ちゃんと、確認しねーと。うん」

  そろりそろりと、フリッドは渋い顔をしながら投げ出された脚に近づいていく。

  胴体、腕、肩、首──よかった、ちゃんとヒトの形をしている。スプラッタな遺体を直視する可能性はないようだ。ひとまずは安心。

  全体像が[[rb:露 > あら]]わになる。赤みのある茶色い毛、手と顔だけは地肌が露出した猿獣人の男性だ。ぐったりと横たわったまま、微動だにしない。

  遺体というにはそれらしい外傷というものが見当たらない。あるとすれば指が数本と、あとは閉じている[[rb:目蓋 > まぶた]]に赤黒い血が溜まっているくらいか。少なくとも出血で倒れたわけではなさそうだ。

  男の口元に手をかざす。手のひらにかすかに生暖かい息が当たる。まだ、ちゃんとまだ生きている。物音で起きなかった、ということは相当深い眠りについているのだろう。

  (よ、よかった~。全然生きてんじゃん。なんだよ、死んでるとか悪いこと考えちまった)

  ガチガチに固まった肩がすっと軽くなる。どうやらフリッドが思っていた以上に緊張していたようだ。

  馬鹿らしいなと自信を[[rb:叱咤 > しった]]しつつ、目の前の彼を起こそうとフリッドはさっそく行動に移る。

  「あの、起きてください。こんなところで一人で寝てると……いや別に寝てていいけどさ。

  とにかく起きてください。えーと、おきろー?」

  まずは耳元で起きるよう促す。が、無反応。

  まあこれくらいは想定範囲。軽いジャブのようなものだ。これくらいで起きるとはさすがにフリッドも思っていない。

  では次。おもむろに取り出したのは己の尻尾。その先端を猿の鼻頭へ持っていくと、触れるか触れないかのギリギリでくすぐる。

  「ふ、ふぇ、」

  お、効いたか? と期待したが、それ以上の反応はない。

  やり方が悪かったのだろうか。馬鹿な、自分でいうのもなんだが、結構くすぐったいはずだぞ?

  疑問に思ったフリッドは自分でも試すべく先端を己の方へと向ける。

  「はっ、ぶっくしょぉぉい!!!」

  秒でやられた。

  これほど予測できた展開もない。が、こういった情けないことを日ごろからやっていくのがフリッドという男である。

  しかしこれでもダメならどうすればいいだろう。自分が起こされるときはいつもどうだっただろうか。それをやればよもや──

  ###

  「おい起きろ不燃物」

  「あっギアアァァああ??!!?」

  「ふぅ……目覚めのいい朝だ」

  「どこがだよ! ヒトを蹴り飛ばしといてよくもまあ平気そうだな! むしろどっか気持ちよさそうだしよ!」

  「善行のあとだからな」

  「どこが!?」

  ###

  とてもじゃないが真似できるものでなかった。ろくでもない起床方法、他人に実行するにははばかられる。

  そもフリッドにはまともに起こされたという経験がない。記憶の隅の隅まで探しても優しく起こされた、ということが全くない。口から水を注がれたり逆さ吊りにされたり、狼のほうがまだまともに起こしてはいる。……まだ、といえるだけで碌でもないのは確かだが。

  ……やめよう、フリッドはかぶりを振って思いとどまった。やりたいのは起こすことであって永眠させたいわけではないのだから。

  ではどうしようか。万策尽きてしまったフリッドは腕を組んで[[rb:唸 > うな]]りだす。

  普通に肩を揺すって起こす方法もあるだろう。けれどそうできないのは、彼のこれまでがそういったものであるという証左。体験してきたものがろくでもなかったために思いつけないのである。

  このまま寝かせてしまうのはどうだろうか。いや、しかしそれは悪い気しかしない。

  たった一人で誰もいない場所に放っておいていいはずがない。自身がそういう状況に置かれた場合を考えろ、心細くて[[rb:縋 > すが]]りたくなるはずだ。

  それに、やっぱりというか。なんだかんだで側にいてくれるというのは、とても──

  「……ん、ぅ……ぅぅん」

  「あ……起きましたか!?」

  眠りから覚めた猿獣人が身を起こそうとする。ただひどく衰弱しているのか、腕が震えて上手く起き上がれないようだ。

  それに気が付いたフリッドは手伝おうとして……途中でピタリ、手が止まる。

  果たして自分でいいのだろうか。ヒトとしてはどうしようもない、ヒトですらない身で、手助けしようだなんて。そんな不安がよぎってしまう。はたして手を貸してしまって……いいの、だろうか。

  「……誰か……いるんだろ?」

  誰か、そう助けを求める猿獣人にハッと我に返り、「悪い、ちょっとまって」と断りをいれた。

  両手をバチンと叩く。何を酷いことを、困ってたら素直に手を貸すべきなんだ。自分がどうとか、今はそれどころではない。

  「少し触りますね」フリッドは猿獣人にそう声掛けすると、彼の胴体に腕を回し、そのままぐいと上半身を起こす。ずいぶんと軽いな、などと場に似つかわしくない感想を抱きながらも、近くの壁へと背を預けさせる。

  「ふぅ……すまないね、起こしてもらって」

  「あ、俺の方こそ……すぐ手を出さなくって、その」

  感謝なんていわれるほどじゃない。むしろ一度[[rb:躊躇 > ちゅうちょ]]してしまったのだ。責められるべきであって、褒めれることなどあってはいけない。

  「でも、見捨てなかっただろう? ありがとう、見知らぬヒト」

  「……」

  猿獣人の男性は答える。フリッドの方を向かず、前の誰もいない虚空へと。

  やはりというべきか、猿の目蓋は開かない。おそらくは眼球自体潰れてしまっているのだろう。もしあったなら目蓋の裏側で動いているのが確認できるはずだ。

  勝手に起こしておいてなんだが、フリッドは今、彼に少し恐怖を抱いていた。どうしても猿獣人のそこから、目が離せない。上手く、声が出せない。

  ヒトの欠損を見る、または認識してしまうのは、ある種の申し訳なさがある。死んでしまえば復活する身体だから、というのもある。けれど本来あるべきものがない、というのは不安を掻き立てられるというか。生々しさと痛ましさが同時に襲ってくるというべきか。

  

  どうしてここで眠っていたのか、ここには一人でいるのか。聞きたいことはぽつぽつ湧いてくる。でもそれを聞くべきか、フリッドは困惑する。

  どうして目が潰れているのか、聞いていいものだろうか……?

  「名前を聞いていいかな」

  「ふ、フリッド。フリッドって、いいます」

  「フリッド。そうか……うん。いい名だ」

  声をかけるのを躊躇していると、猿獣人の方から名前を尋ねられた。

  フリッド。その名がいいと褒められると、虎はちょっとだけ気分を良くする。[[rb:不謹慎 > ふきんしん]]だから小躍りことしないが、それくらいには嬉しい。

  猿獣人の彼に対する恐怖心が、ちょっとだけ和らいだ。なぜこの名前がいいか、なんてフリッドには理解できないが、きっとこのヒトはいいヒトだ。かけ値なしに、文句のつけようもないくらいいいヒト。あの黒山羊とは大違いの。

  「あー、その。お兄さん? は?」褒められ慣れていないフリッドは、戸惑いながらも尋ねる。

  「僕は……トラバス。とはいっても、もう名乗る必要もない名前なのだけれど」

  「……」

  「ゴメンね、こんなことをいってしまって。でも、できることならキミもすぐ忘れてしまった方がいい」

  「な…! なん、で」

  彼、トラバスの唐突の拒絶にフリッドは驚愕する。何の脈絡もなく、どころかまだ互いに互いを知らないというのに、なぜ?

  トラバス自身も申し訳ないことを述べている自覚があるのか、[[rb:顎 > あご]]を引き伏せっている。

  「うん、そうだ。キミは一刻も早くこの場を立ち去るべきだ。僕のような男など気にせず、いっそ会ったことすら忘れて健やかに生きてほしい」

  「そんなこと見ず知らずの……それにあんたはその、なんていうか……一人きりじゃ駄目だろ!」

  自分は不死者だ。ヒトじゃない何者かだ。

  でも元々は同じヒトであって、助けあえることができるはずだ。忘れろと一方的に別れを告げられ、ハイそうですかと納得できるはずがない。

  「そうだろうね。でもね、これはキミの為だ。キミの……この先の為だ」

  『これは俺たちのためなんだ。だから、判ってくれ……な? フリッド』

  

  「っ!」

  君のため。そういわれた瞬間、フリッドの脳裏にある記憶が蘇る。

  いつかの記憶。ドッグタグを渡してくれた、こうして外のセカイを教えてくれたヒトとの、最後のワンシーン。

  「ためって、……なんだよ」

  「……」

  「俺のためって……なんだよ」

  「キミ……」

  どうしようもない感情が、押しとどめられない胸のざわめきが、一気にフリッドをかき乱す。お前のため、俺たちのため、誰ともしれないヒトのため。

  外のセカイはいいものだった。四角く狭い空間よりもよっぽど広くて清々しくて。何よりも、手が届かないほど天が高かった。

  でもヒトは違った。あるものではなく、失うものだった。失って、取り戻せなくて、元に戻ることがない。不死者とは違うあり方の、それが当たりまえのセカイ。

  やるせないと思った。どうすることもできない摂理なのだと、思った。

  そして、その理に置いていかれ、一人きりにしかなれない自分が、憎いと思った。

  「ふざけんなよ……ふざけんなよ!!!」

  「フリッド君……」

  「何だよそれ! ためじゃねーだろ! なんでそーなんだよ!!」

  失ってしまうからこそ、大事にしたい。そういった感情が働くはずだ。でも、そうじゃなかった。このセカイは、フリッドが思い描くほど理想的なセカイではなかった。

  ただただ無くなっていくだけだった。ヒトの命も、形あるものも、すべて等しく跡形もなく。

  セカイは終わったのだと、誰かが嘆く。かつての繁栄も、栄華も、過去の産物。崩れた砂の城は元には戻ることはなく、時間は巻き戻ることがない。

  希望に満ち溢れた未来も、次代に続くはずだった過去も消え去り、もう何も残っていない。それがセカイの[[rb:終焉 > しゅうえん]]なのだと、フリッドは思い知らされた。

  「なあ、」

  「なんで失くすことが先にくんだよ! なんで! なんで……なんで、さぁ」

  「……フリッド君」

  「……」

  「僕の話、聞いてくれるかい?」

  :::

  猿獣人トラバスは語る。彼はずっと前、[[rb:廃墟群 > ここ]]よりも遠いところで仲間たちとコロニーを形成し、ひっそりと暮らしていたそうだ。

  「ここよりも寒い場所でね、いつも雪が降り積もっていた」

  「ゆき?」

  「知らないのかい? 白くて冷たい、綿みたいな……」

  一面の銀世界で飢えと寒さに耐えしのぎながら、それでも細々と暮らしていた。

  不満の声も多かった。体調不良を起こしたところで[[rb:碌 > ろく]]な治療も施せない。そのまま三日三晩と苦しみぬき、そっと息を引き取る。そんなヒトの有様を、トラバスは嫌というほど目の当たりにしてきた。

  「遺体はコロニーから離れた場所に埋めるようにしていたんだ。僕はそういう役目をおっていてね。……うん、苦しかった。

  仲間内の誰かが亡くなるたび、墓標を作るんだ。ガチガチに固まった地面を何時間もかけて掘り起こしてね。

  ……そのたびに、[[rb:虚 > むな]]しくなった。もっと、長く生きながらえたんじゃないかって。生きているうちに何かしてあげられたら、こんなセカイじゃなかったら。

  なんで僕は生きているんだろう。僕よりも、生きているのに相応しいヒトがいっぱいいるだろうに……なんて」

  それでも彼は墓を作り続けた。誰も[[rb:弔 > とむら]]う余裕なんてなくて、振り返ることを辞めてしまっても。静かに振り積もる雪が、皆の心を閉ざしてしまっても。

  「いつだったろうか。仲間の内の一人がこんな噂を聞きつけたんだ。

  『約束の地にたどり着けば、永久の富と安らぎを手に入れられる』……だったかな」

  始めは皆半信半疑だった。植物すら碌に育つことの無い不毛の永久凍土。そこにそんな[[rb:噂 > うわさ]]が流れたのだ。富と安らぎが手に入る土地などあるはずがない。つまりはガセではないか、と。

  しかしそれが実在するらしい、実際に目撃したとなると事態は一転。すぐさま仲間たちは派遣隊を編成、調査に乗り出した。あわよくば自分たちを受け入れてほしい、そんな期待も込めて。

  「編成するにも[[rb:一悶着 > ひともんちゃく]]あった。皆我先にと立候補するものだからね、そればかりはしょうがなかった。

  救われたかったんだ。極寒の地でずっと寒さに凍えて、おまけに食事もままならない。気がおかしくなりそうなときに、この知らせだからね」

  「トラバスは……その派遣隊に入ったのか?」

  「いいや。僕は残ることにしたんだ。残る側にもまとめ役が必要だろうし、何より……外へ踏み出す勇気が、僕にはなかった」

  「でも今は外に」

  「まだ続きがある。だから、ね?」

  気を急くフリッドをトラバスがなだめ、話を続ける。

  「派遣隊を送り出してから数日は『早く帰ってこないか』なんて期待にあふれていた。活気を取り戻した、なんていうと大げさだけど、みんな元気そうだった。

  ……嬉しかったなぁ、そのころは。気の沈んだ顔しか見てこなかったからね。ああ、嬉しかった。……うれしかったとも」

  ただその期待も、一週間、一月とたてば疑心へと変わる。

  その間にもヒトはなくなり続けた。一人目なら持たなかったと諦めが付く。けれど二人目、三人目となればどうだろうか。

  不満が溜まり、暴動が起きるのも不思議なことではない。

  「できる限りの食糧を渡してしまったからね。みんなそれだけ縋っていたんだ。約束の地という場所に。

  無理もないとは解っていたよ。『もしかしたら食料を持ち逃げしたんじゃないか』……そんな意見が飛び交うのも、当たり前さ」

  暴動を[[rb:鎮 > しず]]めるため、コロニーのまとめ役たちは警備隊を作った。加担したものを取り締まることで、一時的にでも平穏を取り戻そうと躍起になったのだ。

  暴動を起こす側と信じて待つ側で、コロニー内は二分化された。互いに耐え[[rb:凌 > しの]]いでいた仲間が、いがみ合い争うようになった。

  そして、事件は起こる。

  「こんなこと起きてほしくなかった。辛くても必死に耐えていた頃に戻りたいと、何度も願った。どうしようもないからって、こんなことになって欲しくなかったんだ。

  ──殺される、なんてこと。……なって欲しくなかった」

  暴動[[rb:鎮圧 > ちんあつ]]のさなかに起こった殺人。それを皮切りに二つの勢力はいがみ合いを増し、ついには殺戮[[rb:殺戮 > さつりく]]を繰り広げるようになる。

  最初の死体がどちらの側のものだったか。そんな犯人捜しなど行われない。重要だったのは殺人が起きてしまったという事実のみ。

  『あちらがやったことだ。なら、こちらがやったところで問題ないだろう?』という[[rb:冤罪符 > えんざいふ]]を与えてしまったことが、事態をより悪化させた。

  「毎日どこかで争いが起こる。悲鳴と雄叫びの声があたりでひしめき合う。ヒトがヒトを殺して喜ぶような、そんな場所になってしまった。

  酷い物だろう? なぁ、酷いだろ? 昨日まで仲の良かった友人たちが殺し合いを始めてさ、勝った方が首をもいで見せびらかすんだ。大層嬉しそうに!

  『お前なんでそんなことしたんだよ、僕たち仲間だっただろ? 友達だったじゃないか!』って言ったさ! そしたらなんて返したか、『だってアイツ、ふざけたことを抜かすから』って。

  なんでこんなことになった。……なんで? 僕は、僕らは、何を間違えたって……いうんだ……」

  そんなことが半月も続いた。人口が減ったことで皮肉にも食糧問題は解決。けれど殺戮が収まるところを知らない。

  見せしめにヒトを処刑する。今日はヒトが死んでいないからとヒトを殺す。アイツは殺人を犯していない、ならこの機会にヤッてもらおう。

  もう、約束の地がどうだとか、派遣隊がどうだとか不満を語るものはいない。ただヒトが死ぬことを求めるようになってしまった。たった半月で、ヒトが殺害されたというだけで、一つのコロニーは事実上の崩壊を果たしてしまった。

  「ヒトを弔う事で、何かしらの救いがあるんじゃないかって、そう思っていた。死は忌むべきもので、悔いの残るものだから」

  「いむべきで、くいの、のこる……」

  「ハハ、僕が言ったところで説得力がないか。そりゃそうだ、なんなら僕だって……。

  いや、よそう。とにかくね、僕が住んでいた場所はそうなってしまったんだ。僕はもう耐えきれなくなってね。逃げ出したよ、もうあんなトコにいたくなかったから」

  そうしてトラバスはコロニーを去った。死体を[[rb:葬 > ふりがな]]葬る必要が亡くなった、[[rb:屠殺場 > とさつじょう]]のような場所から。

  彼がいたコロニーがその後どうなったのか。それはいまだ在住している者のみが知ることだ。

  「僕はもう疲れてしまったよ。生きる事にも、誰かと関わりを持つことにも。

  逃げ出す時に見つかってしまってね、その際に片目をつぶされてしまったんだ。……ホッとしたよ。『もうこんな[[rb:惨劇 > さんげき]]見なくていいんだ』って。そうして命からがら逃げだして、今度は自分でもう片方を潰した。もっと早くやっておけばよかった、もう何も見たくなかったから。僕はもう、これでいいんだ」

  :::

  長話を終えたトラバスは語りつかれたのか、壁に身を任せ深くため息を吐く。目を潰してもなお、一人で抱えるには[[rb:壮絶 > そうぜつ]]な体験だったのだろう。語り終えたトラバスを、フリッドは沈痛な面持ちで見ていた。

  「な? いったろ? 僕は君のようなヒトの良さげな奴と関わっちゃいけないんだ。なんなら君を不幸のどん底まで叩き落とすかもしれない」

  「……それは、でも」

  「ああ、もしかしたら言わなきゃわからなかったのかな。だとしたら申し訳ない。話の流れで悟ってくれるもんだと期待していたんだけどね」

  そういうとトラバスは急にフリッドの方を向く。ドキリとしたフリッドに、トラバスはそっと声のトーンを落として[[rb:囁 > ささや]]くように彼に語った。

  「僕だってアイツらと一緒さ。ヒトを殺めるという快楽に、飲まれてしまったのさ。

  ……ああ、思い返すだけでもおぞましさと背徳感で胸がいっぱいになる。気絶したアイツが二度と目覚めないよう首の骨を折った時の、あの呆気なさ! こんなにも簡単に逝ってしまうなんて!」

  「あ……」

  「ほら。気味が悪いって、思ったろ?」

  ひゅっ、とフリッドの[[rb:喉 > のど]]が鳴った。目が、トラバスから、二度と開くことはないであろう目蓋から、離すことができない。

  自分のことを誰も受け入れてくれない人外だと、そう認識していた。おそらくは一生付き纏ってくるとも、自覚はしている。

  けれど彼はどうか。彼は人殺しをしたことがあると、ハッキリと口にした。かつて己をイタズラに殺し続けた白衣たちと一緒だと、いった。

  気味が悪いというのは、つまるところ汚いだとか、不快感を与えるという事。きっとそういう意味では、自分たちは似た者同士なのだろう。けど、違う。殺される側と、殺す側では、差がありすぎる。理解をするには、溝が深すぎる。

  自然と足が後ろに下がった。無意識にも、この場から立ち去りたいとフリッドは思ってしまった。人殺しとはいえ、負傷している者を見殺しにしようと、思ってしまった。

  (どう、しよう。このままほっといて、本当にいいのか? 人殺しだからって、本当に……?)

  どうでもいいじゃないか。だってコイツはお前を散々殺してきた奴らと同類なんだぜ?

  ……フリッドの心の内で、誰かがそう囁いている。どうしたところでお前に罪はない、どころか今こそ復習を果たす時なのではないかと。

  ああ、いいじゃないか。散々苦しめられてきたんだ、お門違いだとしても、己の思いつく限りの非難をぶつけてしまっても、いいじゃないか。

  「……っ、ハッ、ハァ、……くっ」

  呼吸が荒くなる。どうやって息をしていたのか、忘れてしまった。

  酸素の供給が追い付かない頭で、フリッドはなおも考える。

  たとえば、その腕で彼に危害を加えてもバチは当たらない。そうだ、相手は抵抗する気力すらないだろう。虎の腕力なら簡単にねじ伏せられる。ただその手をヤツに向かってふるえばいい。それだけのことだ。

  戸惑う必要などない。だって、あの時の白衣たちだって、そんなこと一度だってしなかった。だったら、同じようにできるはず。

  「嗚呼、ヒドイ! コレは悲しい! うーん、涙ガちょちょ切れちゃいマスねエ!」

  「おわあ!!」

  [[rb:悶々 > もんもん]]と思考を巡らせていると、何処からともなくゴードンの声。驚いたフリッドは思わず腰を抜かし、床にドテンと尻餅をついた。

  「お、おま! 出てくるなら出てくるって、おま!」

  「失礼、シュミですのデ」

  「おまあああ!!!」

  「……失礼、そちらの御仁は?」

  「ワタクシ? 救世主デス」

  「なんで俺のときと自己紹介が違う。なんだメシアって」

  何の迷いもなく、むしろ自信ありげにゴードンは[[rb:偽称 > ぎしょう]]する。胸を張って心底誇らしそうに。堂の入った嘘の付きっぷりに、思わずフリッドも口を挟まずにいられない。

  「コチラ、ワタクシの御使いデして。困ったチャンを見つけると話しかけズにいられナイ、助けズにはいられない性分なんデス」

  「おい」

  「……そうか。人が良いとは思っていたけれど……あぁ、うん」

  「まって違う、違うからぁ!?」

  何かを納得したのだろう、トラバスからは同情の色が伺える。しかしそんな[[rb:機微 > きび]]な変化、フリッドにはわかるはずもない。

  「そーんなアナタ様にこそオススメしたい物ガありまして。ハイ、御使いクン例のアレ」

  「……? え、アレ?」

  「……フリッド? ダンドリ、悪いゾ?」

  「いや知らんし。そも俺鳥じゃねぇし」

  「……」

  なぜだか知らないが、ゴードンから熱い視線をフリッドは感じた。毛に隠れて分かりづらいが、恐らくはそう。

  何もおかしいことは言ってないはずだ。だんどりなどという鳥ではない、れっきとした虎なのだ。

  ゴードンがいまだ尻餅をついているフリッドに詰め寄る。無言で、ぐいと、遠慮なく。

  「…なんだよ。そもアレってなんだ、知らねーぞアレとかいうやつ」

  「…………ゴッメン遊バせ~?」

  「なっ?! おま、何処に手を突っ込んで……ばっ、ちょ、くすぐったい、くすぐったいって! おい!」

  ゴードンはおもむろにフリッドの身体を探りながら例のアレなるものを探る。あちらにもない、こちらにもないとワザと[[rb:弄 > いじく]]り倒しながら。

  対するフリッドはほぼ無抵抗。くすぐったさに大笑いしながらも、為されるがまま身体中を弄られる。

  「ンー、見当たりまセンねェ?」

  「ぶっひゃひゃひゃ! ちょ、ま、ひひっ!」

  「……ア。ありましタ」

  そうしてフリッドから取り出したのは先程譲った小瓶。[[rb:蓋 > ふた]]を外しトラバスの手を取ると、その手に一錠取出し握らせる。

  「……これは?」

  「コレはアナタ様の苦痛ヲ和らげる魔法のクスリ。水なし一錠、一日三回」

  「はぁ……」

  「この世ガ生きづらい、ソウでショウ? ならバ忘れちゃいまショウ! 忘れられないナラ頼っちゃえバイイ!

  ──サア、クイっといきまショウ。大丈夫、アナタは必ズ救われル」

  ヒイヒイとフリッドが息を整えるなか、ゴードンはトラバスにクスリを飲むよう促す。その[[rb:畳 > たた]]みかける語り口は狂信的で、あたかも神に啓示を与えられたかのようだ。聞く人が人なら抵抗感を抱かせただろう。

  実際に聞いているトラバスもゴードンの熱狂ぶりに狼狽えていた。無理もない、[[rb:颯爽 > さっそう]]とどこからかやって来て薬剤を投与しようとしているのだ。怪しい要素しかない。

  飲むべきかどうかトラバスは戸惑う。その様子を盲目だから飲みずらいのだろうと解釈したゴードンは、

  「ああ、ワタクシとしたコトが! 申し訳ナイ、今飲ませて差し上げマスね」

  と、トラバスに渡したクスリを口まで持っていき、そのまま押し込むように飲ませた。

  ゴクリ。トラバスの喉が鳴る。青い錠剤が彼の胃へと消えていく。

  「ハイ、良くできマシタ。コレでアナタは救済されましタ」

  「あ……僕は、」

  「ナニか問題デモありましタカ? ないデスよね? だってアナタ苦しんだ。ズット苦しんだ。

  べつニいいでショウ? それトモ、ずうっとそのママがよかったデスカ? 違うでショ?」

  「……」

  その問いかけに、トラバスは答えられない。そのまま黙り込んだトラバスに満足したゴードンは、彼にニタリと笑いかけた。

  「ではワタクシ達は失礼しまショウ。ささ、おいとましマスヨ。いつまでモ腰を抜かしテないで、ホラ」

  「おま、勝手に話進めといて、おま」

  「ハイ行きますヨ~? デハお猿サン、お達者デ~!」

  床にいまだへたり込んでいるフリッドの首根っこを掴み、ゴードンはその場を去ろうとする。ジタバタと立ち上がれないフリッドは、そのまま引きずられるようにその場を後にした。

  [newpage]

  「おいこら離せって! 俺猫じゃないんだが?!」

  「事実上ネコでショ」

  「つか力つっよ! じゃねーや、はなせってのぉ!」

  雑居ビルから少し離れ、しばらくしたところでゴードンはようやくフリッドを離す。

  外の道路まで引きずられたフリッドは身体中ホコリと砂利まみれだ。引っ張られた首の皮をいててと押さえつつ、フリッドはやっとのおもいで立ち上がる。

  「いっててて……ああくそ、もう散々だ。なんだっての」

  「おやオヤ、散々とハこれまた。ワタクシが割って入らなかったラアナタどうしテいたカ」

  「どうって……なんも、しねーよ」

  「エー? すごい形相でシタヨ? 今ニモ襲いかかりソウな」

  トラバスの自白に面食らっていた時のことを指摘され、フリッドはバツが悪そうにそっぽを向く。

  あの瞬間、もしもゴードンが介入してこなかったら。果たしてどうなっていただろうか。この手で、どんなことをしていただろうか。

  想像するだけでもフリッドの背筋がゾクリと冷える。得体のしれないものに取りつかれたかのような、[[rb:胸糞 > むなくそ]]悪い感覚だった。誰かを殺したから同じ目に合わせようだなどと、そんなことを考えるなんて。

  「マ、そんなコトワタクシにハどうでもイイですけどネ? いやぁ、イイコトしたアトは清々しいですネェ」

  「……そうだ、お前何やってんだ!」

  「何っテ、悩めル方ヲお救いしたんジャありまセンか。ワタクシ達二人デ」

  「救った? そんなこと……!」

  今にも怒りで我を忘れそうなフリッドだったが、次の瞬間何を思ったのだろうか、[[rb:踵 > きびす]]を返して歩き出そうとする。

  「おっト。……どちらニ向かわれル気デ?」それに気づいたゴードンが[[rb:咄嗟 > とっさ]]に腕をつかみ、尋ねる。

  「どこって、決まってんだろ。戻るんだよ」

  「ナゼ?」

  「なぜって。そりゃああのヒト一人きりだし」

  「男とハ時に一人になりタイことだってアル。経験ありまセン?」

  「っ、あのヒト目が見えないし」

  「自身のてデ潰したトカ言ってませんデシタ? アノ方の望んだコトにケチでもつけタイと」

  いくら理由を挙げたところでらちが明かない。フリッドは気にせず進もうとするが、今度は爪を立てられてしまう。痛みで思わずゴードンの方へ振り返る。相変わらず彼はホホホと薄気味悪く笑っている。表情は毛でおおわれている為やっぱりわからない。けれどゴードンは納得しようがしなかろうが、フリッドを彼の元へと戻らせる気はないのだろうというのは察せられた。

  「そも戻っテ何をなさるオツモリで? 酷い目ニ合わされたんジャないんデスカ?」

  「そんなこと! ……ねぇよ」

  嘘だ。大分酷いことを、フリッドは言われた。けれど、だからと言ってたった一人にしてしまうのもそれは良いことなのだろうか。

  相手は人殺しだ。けれどやってしまったことに、恐らくは後悔している。想像を絶する以上に苦しんでいるはずなのだ。

  ヒトを殺したいなどという感情を、許したわけでもない。トラバスの言った通り、彼は傍にいるだけでヒトに害をもたらすのかもしれない。

  けれどそれでいいのだろうか。あんな場所で一人、報いを受けさせるように放っておいて。本当に、よかったのだろうか。

  「安心して下サイ。ワタクシのクスリは効果絶大! アノような方ニこそ必要とされるものですカラ!」

  「……クスリで救われるわけねーじゃん」

  「救われマスヨ、絶対」

  :::

  二人が去った後、トラバスは一人壁にもたれかかりながら物思いにふけっていた。

  不気味な物言いで語りかけてくる獣人──ゴードン、だったろうか。僕に向かって、あろうことか『救われていい』などと面を向かって語ったのは。ヒトを殺した僕に、忘れてしまっていいと、ホホホと[[rb:嗤 > わら]]っていたのは。

  そんなこと、あってはいけない。僕は罪人なのだ。[[rb:咎 > とが]]を背負い続けるべきなのだ。

  ヒトを弔うはずのこの手を血で染めて、その悦びを知ってしまった以上、その罪は清算されなければいけない。それを、許されるだなどと。そんなことあっちゃいいはずがない。

  指の欠けた手をさすり合わせ、祈るように緩く組む。冷所での長時間作業で何本か使い物にならなくなった。こんな風になるまで弔ってきたのに、自ら台無しにしてしまったなんて。もうあの頃の純真さは取り戻せない。

  思えば、あの頃は良かった。フリッドと名乗る子に昔語りをしたせいだろうか。若干疎ましげに見られていても気に留めなかった、まだ誰も争わなかった頃がふつふつと蘇ってくる。

  『なんだよ、また辛気臭い面しやがって。ちゃんと寝てるのか?』

  唯一無二の親友には、良くこうしてなじられていた。僕が初めて手にかけた、友人だった。

  元々悲観的な性格で、ヒトを寄せ付けなかった僕だけれど、それでもどうしてか彼は傍にいてくれて。

  『ヒトを弔うとか、気持ちの悪い事ばっかするからだろ。寄りたがらないのって。全部が全部自分のせいだって、そんなわけあるはずねーだろ。そーゆーの自意識過剰っての』

  その割には励ますのが下手だった。ああ、下手だった。もっといいようがあるはずなのに、口から出るのはいつだって減らず口で。煙たがる僕のことなどお構いなしに喋る奴だった。

  『それにしたってよぅ。なんだって墓なんぞ作る必要がある? そこらへんにテキトーに転がしときゃいいだろ、こんな寒いトコじゃ腐ったりしねーって』

  そんなことも聞かれたか。どうだったろう、こればかりは僕が勝手に作った彼との記憶かもしれない。今となってはどうでもいいが。

  墓を作る意味、か。……あったさ、少なくとも殺戮が始まる前までは。

  [[rb:蔑 > ないがし]]ろにしたくなかったんだ、例え[[rb:亡骸 > なきがら]]亡骸になって、もう二度と動かなくなっても。一緒に耐え忍んできた仲間だったんだ、それを亡くなったからと置物みたいにするのだけはどうしても忍びなかったんだ。

  なんていうかな、最後だからこそ何かしてあげたくて。だから手間をかけてでも埋葬したかったんだ。生前何もしてあげられなかった僕だから、せめてもの手向けとしてそうしてあげたかった。

  でも、もう続けられなくなった。なんでって、僕自身がそう見れなくなったからさ。

  みんなが殺しあうのを見て、実際に君をこの手にかけて、仲間だと思えなくなってしまったんだ。自己満足だったんだよ、埋葬するだなんて行為。ああそうさ、純真な気持ちなんてホントはなかった。赦されたいとか救われてほしいとか、そんな感情で墓を作っていたわけじゃなかったんだ。

  『自己満足の何がいけねーのさ。生きてるってことはそういうことだ。初めから何も決まっちゃいないのに勝手に決めつけた、お前不器用なんだよ』

  ハハ……そうだね。不器用だったね……僕は。

  『だからお前はあぶれちまったんだよ。

  俺がせっかくヒトを殺す[[rb:享楽 > きょうらく]]を教えたってのに、なあ?』

  ぴちゃり。粘質の何かが垂れる音が、トラバスの[[rb:鼓膜 > こまく]]を揺さぶった。ハッとしたトラバスは注意深く耳をそば立てる。しかし何かがいる、といった気配はこれといってない。

  『おいおいおいオイ! どこ探してんだよ! 何を探そうってんだよ!

  自分で目ん玉潰しといてよぅ?』

  頭の中で響く声が喜びながらからかいだした。この声はどこから聞こえてくる? なぜさっきまで何の疑念も抱かず聞き入っていた?

  なぜ彼は──いや、これは彼じゃない。ただの幻聴に過ぎない。彼はなくなっているのだ。こんなことあり得るはずがない。

  空想なら、幻聴なら、なぜこちらの意図を解さない? なぜ勝手気ままに語りかけてくる? ……わからない。いったい何が起きている?

  『ハァー……お前ホント[[rb:愚鈍 > ぐどん]]。一から十まで教え込まなきゃな~んも理解できねーでやんの。

  ったく、もう一回教えてやんねぇと、か?』

  そう声が話すと、トラバスの腕が自然と持ち上がった。まるで自分の腕じゃないかのように、ユルリと上から糸で操られるかのごとく。

  当のトラバスは半ばパニック状態だ。自分の意識ははっきりしているのに、身体だけがいうことを聞いてくれない。声に操られるように、ただ動くのみだ。

  なんで。どうして。僕に何をさせようというんだ。何も知りたくない。疲れたんだ。もうそっとしてほしい。その思惑とは裏腹に指は勝手に空を[[rb:彷徨 > さまよ]]い、何かをつかんだ。つぷり、何とも言えない感触が爪に食い込む。

  「あ……あ、あぁ……」

  何か、ではない。この感覚を、僕は知っている。ズブズブと深く沈んでいく、この感触を。指に生暖かく絡みついて離れない、この触り心地を。

  『ほら、もっと深く[[rb:抉 > えぐ]]ってみろよ。目が見えなくなったって、この感覚だけは忘れられないだろう?

  なあなあ、キモチイイだろう? あっけなくて笑えてくるだろ? なあ?』

  声が早く、早くと[[rb:囃 > はや]]し立てる。手が掻き分けていくたびに、胸の底から喜びが湧きあがり、身体中を駆け巡っていく。気が付けばトラバスは無我夢中でそれをこねくり回していた。

  自然と涙があふれてくる。ああ、なんでだっけ。なんで僕は、これを拒んでいたんだろう。握りしめればぐじゅりと泡立ち、千切れたそれが手の甲を伝って落ちる。細い管を引きむしれば、ビチャビチャと滝のように流れだす。本来は不快なはずのそれも今の僕には心地いい。

  ハハ、きっと辺りはおぞましいほどに汚れきっているのだろう。でも止められない。止めてしまうのがもったいない!

  ああ、きっと僕はいま、いけないことをしている。でも思い出してしまうんだ。そうさ、目が見えなくなったって、深く指をもぐりこませるたびに苦痛に歪むアイツが、ああ、アイツが!

  アイツがいけないんだ! だって苦しそうなのに止めないアイツが! 僕がやりたくてやったことじゃない! ……だから、僕は……。

  『この期に及んでまーだそんな嘘つくか、そーゆーのカラダに毒だって。なんでそんな頑なになんだよ、俺はお前に楽になって欲しいのにさ?』

  らく? なんで僕は楽にならなくちゃいけないんだ?

  『本当に苦しそうだったか? なぁ、もっとよく思い出せよ。あのときのオレをよぅ?』

  あのとき。あの時のキミは、ヤッてやったんだ…って、わらって。

  だから、僕はキミの首を掴んで……ゆるせ、なく、て。

  ……あ。ああ、ハ、ハハハ、そうか、そうだった!

  キミは笑ってた! 僕に首を絞められて、それでもなお! 何がそんなにおかしいんだって、だってこれは許されない行為のはずだったのに! キミはそれでも!

  ぼきり。大事なものが小気味いい音とともに折られ、重力に従って落ちる。転げ落ちたキミが、僕を見つめている。

  ああ、やっぱり。キミは、笑っている。嬉しそうに、楽しそうに、僕に向かって笑いかけてくれている。

  そっか、そうだったんだ。ようやく分かったよ。コレが、救いなんだ。コレが唯一救われる最善の方法だったんだ!

  墓を作るだなんて、なんてまどろっこしい。それじゃ誰も許せやしなかったんだ! ハハ、そうさ、コレが僕たちが許される方法だった! ハハハハハ!!

  もう声は聞こえてこない。でも、キミは僕をちゃんと見てる。死んでもなお、僕のことを笑っている。

  ゴメン、こんなことすら気付けない僕で。キミは一生懸命、それこそ自分の命を懸けて教えてくれたってのに。僕はそれを蔑ろにして逃げ出してしまった。ああ、ホント馬鹿だなぁ……。

  でも大丈夫。ちゃんとわかったから。だからそんなに笑うなよ。一人でもちゃんとやれるさ、だってキミが懇切丁寧に教えてくれたんだから。

  今から行くよ、許されるために。僕がみんなを、許すために。

  :::

  物資散策を終え、狼の元へとフリッドは無事戻った。成果自体にはそこまで期待されていなかったのか、特に咎められることはなかった。……ゴードンに会った、という報告を除けば。

  「いや、うん。お前はそういうのぜってー引っかかるだろうとは予測できてた。交渉とか向いてすらいねえって。

  だからあくまで漁るだけに留めたってのに……お前なあ」

  「……悪かった」

  「お、おう」

  狼の小言にフリッドは静かに謝る。

  結局、あのままトラバスを置いてきてしまった。何一つ力になれないまま。

  その後彼はどうなったのだろう。あのまま一人にしておいて本当によかったのだろうか。彼にとってはそれでよかったのだろうけど、本当にそれで──

  「おい」

  

  不意に頭を小突かれ、フリッドは狼を見やる。

  「へ?」

  「辛気臭いツラ[[rb:晒 > さら]]すな、湿気がひどくなる」

  「…………は?」

  「しみったれたお前なんぞ気味が悪いっての、わかる?」

  「……もうちょいわかりやすく言えよ」

  とはいえ似つかわしくない態度でいるのも事実だ。たった一日、たったの一日だ。それだけでこんなにも気分が浮き沈みするだなんて。[[rb:怠惰 > たいだ]]に毎日を過ごしていると狼に指摘されたが、間違いなくそれを痛感させられた。それほど、今日は濃い一日だった。

  「なあ」フリッドが狼に問う。この沈んだ気持ちを、どうにかすべく。

  「もしも、さ。クスリで誰かを救えたとしたら……そんなことあっちゃいけねーけどさ、それっていいことなのかな」

  「ん? あのバイヤーのことか? つかその口ぶりなら答え出てんだろ。なんで俺がわざわざ」

  「それでも、聞きたい」

  クスリを見せた瞬間、狼はそれがなんなのかを知っているようなそぶりを見せていた。なら、これでどうなるのかも知っているはず。

  本当に救えるのか。トラバスはこれを飲まされて、本当に救われたのだろうか。それだけが気がかりだ。もしそうじゃなかったら、ただ見捨てただけになってしまう。

  「都市の方でもこういうのは流行ってる。なんならその黒山羊みたく売りさばいて日々をしのいでる奴だって、まあいる」

  「っ!」

  「いいか悪いかなんてどうでもいい。要は縋りたくてたまんねーって、それだけさ。

  幸せになりたい、楽になりたい、安心した毎日を送りたい。ただそれだけだ。悪い事じゃないさ、だってそうしなきゃもたねーんだから」

  縋りたくてたまらない。そうしなければ、生きていけない。それだけ苦しいセカイだから、縋ることだけが唯一の救い。

  ギュッと、貰った小瓶をフリッドは握りしめる。こんなものでも、今のセカイには必要なもの。最悪極まりないこれを、求めるヒトがいる。

  なんで。どうしてそこまで、いきていたいのだろう。

  「ま、生きてる以上求め続けるだろうな。……俺も、お前も」

  「俺はこんなクスリ!」

  「クスリの話じゃねえよ。縋りたいもんがあるって話。……あるだろ、お前にだって」

  狼はそれ以降話を打ち切り、窓に近づく。外はいまだ厚い雲で覆われている。ずっと変わらず、そこにある。

  縋りたい、もの。……あるのだろうか。こんな不死者にだって、優しい楽園のような場所が。いつだったか、空の向こうにあるのだと。このドッグタグの持ち主がいっていた。

  狼も、そういった何かを想い、縋っているのだろうか。

  狼の隣に立ち、彼にならうようにフリッドも外を眺める。

  ああ、やっぱり。この空はいつみても、うんざりする。