灰色のむこうがわ 05

  退屈だ。大変、大いに、[[rb:欠伸 > あくび]]の世界記録者を狙えるんじゃないかってほど、退屈だ。

  「おかしい」

  復興都市とはうってかわり、大変静かな廃墟群。そこでペットが如く「待て」を命ぜられた虎、フリッドは腕を組んで盛大に悩んでいた。

  「おっかしい。ありえねーって。絶対、どうかしてる」

  彼は大層物わかりの良いエライ男である。[[rb:吠 > ほ]]えない、[[rb:噛 > か]]みつかない、文句を垂れない。とても素晴らしい態度で狼を見送った。

  二三言いたいこと、「っつーか俺、そんな心配されるほどガキでもねーし。一人で留守番とか余裕のよっちゃんですし」などと申し立てたい言い分はあった。

  しかしフリッドは我慢の男。ネコ科とはいえ、忠犬よろしく待てができる。それこそ[[rb:悠久 > ゆうきゅう]]の時を永遠に。帰ってこないかもしれないと疑うこともなく。

  「俺おかしいって。どーかしてるってこんなの。あり得ねーだろ」

  では彼は今なにをそんなに悩んでいるのだろうか。一人待たされることに対しての不満ではない、となると待機中に問題でも発生したのだろうか。独りごとは大きい彼だが、ここまでくだを巻いている理由とは、はたして。

  「なーんで俺さぁ

  退屈で死なねーワケ……?」

  フリッドは大変エライ男である。と、同時に、大変くだらない男なのでもあった。

  :::

  「すごい。ヤバい。たいくつ。ヤッバ」

  狼が復興都市へと出立してから約三日。フリッドのサボり癖は徐々に彼の生活を[[rb:蝕 > むしば]]み、ついには言語機能が退化するほどに至った。むしろ三日でここまで駄目になれるのも[[rb:大概 > たいがい]]である。どうしてこうなった。

  やはり狼のような、ある程度緊張感を与えてくる存在がいないせいだろうか。メリハリのある生活から解放され、自堕落でも[[rb:叱 > しか]]られないというのは理由として大きいかもしれない。かといって三日でこうはさすがに早すぎではなかろうか。

  「あいつ、今まで一人でこんな退屈と戦っていたのか。やべぇ、天地の差デカすぎ……」

  とくに何か功績の残る偉業を成し遂げたわけでもないのに、狼をそのような人物へと昇格させる始末。本人が聞いたらさぞ迷惑がることだろう。

  一応弁明するならば、彼もただ一日中ダラダラと意味もなく過ごしていたわけではない。一応の見回り等日々のタスクはこなしてはいた。が、こなせばあとはやることもなし。目標もなければあとは自動で落ちぶれていくだけ。ここにダメ虎完成、という[[rb:顛末 > てんまつ]]に至る。

  「そっか。おれとあいつ、そんな差があったのか。そりゃ無理かー、親しくなるなんてさ。

  夢のまた夢。なんだっけ、ヒトの夢とかいって……うーん」

  ではなぜ虎は狼のそばにいるのか。それは『出ていけ』と言われないからだ。

  一人で生きていけるほどの力がフリッドにはない。それは本人もよくわかっている。己が気持ちの悪いイキモノで、いつかはそれがバレるとわかっていても。

  狼のそばにいるのは、怖い。いつだって見限られるか、知られてしまうかのどちらかが付きまとっている。長くいればいるほど、首を絞める行為になる。でもそれだって仕方のないこと。受け入れなければいけない。

  [[rb:不死者 > こんなもの]]である以上、仕方のないことなのだ。もしも狼の前でクリーチャーに襲われでもしたら一発でバレるだろう。そうでなくともいつかは気づかれる瞬間などやって来る。そうなれば諦めるほかないのだ、そばにいることを。まっとうな[[rb:獣人 > ヒト]]のそばに、紛い物などいてはいけない。

  けれど、それまでは。

  「嫌われたく、ねえなぁ……」

  どれだけボヤこうが、それだけは叶うことがない。この世は常に理不尽で、一番ほしいと願ったものほど手に入らない。ずっとあって欲しいという願望すら、いつかは失ってしまうものだ。

  そして最後には、また一人。

  「……あ゛ー! やめやめ! いつまでもねちねちと仕方ねーこと悔やんだってしょーがねーだろが、あったま悪いぞ、俺!」

  両手でぐしゃぐしゃと頭をかき回し、使い方の悪い己自身を叱りつける。あまり意味がないが、そうでもしないと虎はやっていられない。あくまでいったん保留にする儀式みたいなものだ。

  一人でいるとどうしても過去のことを振り返ってしまう。嫌だ、思い出したくないと記憶に[[rb:蓋 > ふた]]をしても、いつの間にか蓋の隙間からたらりと零れ落ちてくる。意識しなくとも非常に厄介だ。

  「……はっ、そうだ。逆立ちすればいいんじゃね?」

  ここでフリッド、謎のひらめき。蓋の立てつけが悪いのだったら、逆さにすれば零れ落ちてこないのでは。普通に蓋をすればいいだなんてなんて凡人の発想なのだろう、それだけでは密閉が甘かったのだ。やはりここぞの発想は天才、一流とはこうでなくては。

  そうとくれば善は急げ。へらへらと気持ち悪い笑顔を浮かべながら、フリッドは手の緊張をほぐすため手を組んでもみほぐす。

  「久々だもんな~、逆立ち。へへっ、今でもできっかな~」

  『身体を動かせばだいたい気分が晴れるぞ』そんな理由で色々と教わったのもいつ以来か。出来なくてもいいだなどと当時は思っていたが、存外悪くもないと今のフリッドは思う。一向に役に立つ気配もないが。

  側転、組手、その他もろもろ。教えてくれと頼みこんだわけでもないのにかってにレクチャーされたし、だいたいはものにした。ただやはりというか、教えた当の本人が遊び感覚だったのか、こうすれば役立つぞというものは一切ない。

  ……でも。フリッドは思い出すたび自然と頬がほころんでしまう。楽しかったのだ、嘘をつくヒトじゃないと安心もしたし、本当に……言った通りになったから。

  「手から腰まで真っ直ぐ……肘は曲げないように……よっ、」

  上半身を前に倒すように振りかぶり、床に手が付くと同時に足を上へと蹴り上げる。フリッドの心配とは裏腹に身体は覚えているのか、非常にきれいに足が上がる。そしてそのまますっと天まで持ち上がれば倒立の完成だ。

  「と、お、やった、わ、わわわっ」

  が、どうにも蹴り上げの勢いがよすぎたようだ。倒立の姿勢のまま止まることが出来ず、そのまま前へ前へと進んで行ってしまう。

  倒立とはバランスのとり方がキモ。筋肉量も必要ではあるが、それは重心を支えられる程度でいい。むしろ小さな子供でも、やり方さえ覚えてしまえばすんなりできてしまうもの。

  ただし逆立ちのまま静止する、というのは進むよりも難しいもので。

  「わたたたた……っっでぇ!!!」

  腕の限界が来たフリッドは、そのまま背中をおもいきり打ち付けてしまう。

  「あ、がっ、せなか、背中ががが」

  衝撃でホコリが舞うなか、あまりの激痛にジタバタと悶え苦しみながらフリッドは床を[[rb:這 > は]]いずりまわる。まるで[[rb:滑稽 > こっけい]]なショーダンス、あまりのくだらなさに客も冷め切ることだろう。何を見せてくれるんだとブーイングすらかましてくるかもしれない。

  つまるところ失敗。無様なほどこの上ない。むしろ客がいてくれた方が[[rb:慰 > なぐさ]]めにもなったか。

  「いっづづづ……あたた、まだ背中いてぇ。くっそぅ」

  痛さに[[rb:悶絶 > もんぜつ]]しながらも息を整え、[[rb:膝 > ひざ]]を立てながらよろよろとフリッドが立ち上がろうとする。

  キラリ、首のドッグタグが鈍く光る。こういう時、アイツなら……。

  「……っ」

  また思い出してしまった。アイツならと、思ってしまった。

  フリッドがドッグタグを見るたびに思い起こすのは、恐らく彼の人生で一番輝いていただろう頃。思い起こすたびにほんの少しの喜びと、どうしようもない悲しみでいっぱいになってしまう。

  そうだ、仕方のない事だった。いつかはそうなると考える事すらなかった自分に落ち度がある。傷つく暇があったならそれを当たり前だと飲み込むしかない。

  いっそ何も知らなければ。外へ出ようと思わなければ。ずっとずっと、ヒトとして見られない生活を、何もないあの場所に居続けたなら──

  「いや……それは、違う。それだけは、よかったんだ。……こうしていられるのは、アイツの……おかげ、なんだ。よかった、はずなんだ」

  ドッグタグを握りしめ、フリッドは自分へと言い聞かせるようにつぶやく。

  何者でもなかったあの頃と、束の間の自由を得られた頃。どちらがいいと聞かれれば断然後者の方がいい。外のセカイがどれだけ危険に満ちていたとしても、こうして此処にいるきっかけを与えてくれたあの獣人には感謝しかない。それはよかった出来事だ、否定してはいけない。

  たとえそれが、永遠に苦しむきっかけを同時に与えていたとしても。

  :::

  ヒトであるということはどういう事だろうか。ヒトはどうやって他者をヒトだと認識しているのだろう。

  言葉を話すことができる。二足歩行をしている。感情を表現し、それを伝えることができる。

  それらすべてが出来たとして、それは本当にヒトなのだろうか。ヒトがいう、“ヒトらしさ”とは何を指して言っているのだろうか。

  フリッドは幼い頃からヒトというものが分からなかった。彼自身、本来そう呼称される生き物であることも、教えられるまで知る由もなかった。

  生まれは至ってごく普通、虎獣人としての人生のスタートを切り、なんもおかしいことなく歩んできた。

  しかしそのあとはどうだろう。気が付けば辺り一面タイル張りの空間。唯一、一辺だけ大きなガラス窓があり、そこだけが外側を知る手段。

  ガラスの向こうでは白い衣服を[[rb:羽織 > はお]]ったヒトが何人もいて、当時まだ小さかった虎のことを観察していた。話しかけても、叩いてもなんの返答も示さない。一方的に鑑賞されるだけの[[rb:檻 > おり]]に閉じ込められているようだった。

  これが、フリッドになる前の彼の常識。周囲の変化など何もなく、ただこの空間で起こることだけですべてが完結していた。

  そこでの虎の名前はない。“対象P‐53”という、腕に取り付けられたバンドが彼を証明できるもの。実験体として識別コード。

  彼、P‐53に求められたのは殺されること。不死の実験として一番重要な、どこまでその不死性が発揮されるのかの実験。あらゆる状況、環境でも不死性は働くのかを実際に試され、観察されることが彼の存在意義だった。

  ある時は目が覚めた瞬間串刺しになった。壁から先のとがった杭のようなものがデタラメに射出され、

  肩を、

  膝を、

  腹を、

  腕を、

  身を守ることを許されないまま、無防備に打ちぬかれた。

  ある時は全身防護服を着込んだヒトに生きたまま解体された。獣の[[rb:咆哮 > ほうこう]]よりも耳につんざく、痛烈な叫びをあげようともやめてくれない。一体の人体標本を作るのではないかというくらい丁寧に毛皮をはがされ、関節ごとに切り分けられた。

  全身を焼かれることも、身体の先から腐っていくことも、部屋の酸素を徐々に減らされ酸欠に[[rb:貶 > おとし]]められることも、とにかくさまざまな死に方を試された。

  気を休める瞬間など一秒だってない。配給される食事に毒を盛られたこともあり、その後出されるものすべて床に叩きつけ拒絶した。

  まともな睡眠などP‐53には取る権利もなかった。いつだって気絶するように、こと切れるまで観察は続けられた。

  なぜ自分は殺されなければいけないのだろう。なぜ、何度も殺されているのだろう。目が覚めたら身体が元通りになるのも、ここにはいつからいるのかも、いつまでこんなことが続くのかも、P‐53にはわからない。

  まるで長い夢だ。覚めることの無い悪夢。恐怖だけで形作られた救いのない地獄絵図。

  窓の外で監視する獣人たちは、この惨状をどう思っているのだろうか。同じ人型が痛めつけられ、死に逝くさまをどう思っているのだろう。

  彼らは何も語らない。同じ表情を称えたまま、声を上げることなく淡々と観察を続けている。虎の記憶をいくら振り返っても、つらそうな顔を見たことなど一度としてなかった。おそらく彼らにとって虎、P‐53は展示物。生き物というカテゴリには存在しなかったのだろう。

  (……っ、ぁ)

  苦痛だらけの毎日。何の彩りもない人生。

  (また……きょうが、はじまる)

  意識を取り戻したところでいいことなど一つとしてない。ただ消費するだけの毎日に、何の意味があるのだろう。生きることに、殺され続けることに、なんの意味があるのだろう。

  こうして殺されて、意味のない毎日を送って。はたして己は、ヒトなのだろうか。

  だからこそ知りたい。当たり前で意味のない日々が[[rb:唐突 > とうとつ]]に終わったあの時、虎はそう願った。[[rb:粉塵 > ふんじん]]が舞うなか、床にへばりつくことしか出来ない己。そんな何者かに差しのべられた手に、戸惑いながらもそう願った。

  きっとそれは生まれて初めて選ぶことを許された日。意思を示すことを許された日。

  こうして虎は、P‐53としての彼のお話は終わった。

  もしも人生が色で表せるというならば、これまでの彼は無色透明。どこにもいない、存在しない色。そんな人生にようやく色が付いたとなれば、それは喜ばしい事だ。たとえそれが薄汚れた灰色のセカイだったとしても。

  そしてフリッドになった虎は、外を知った。同時に、己のことも。

  失うという事。それは、一生戻ることの無い絶対のルール。己が失った、ヒトであるということの証明。

  ヒトであるということはどういう事だろう。少なくとも、ヒトでなくなってしまった虎にはわからない。

  ヒトでありたい。でも、それはなにをもってヒトだといえるのだろうか。

  :::

  「せまっ苦しいとこから抜け出しても……『そして幸せに暮らしました』なんて、……ならなかったんだよなぁ」

  大の字に寝転がりながらフリッドはつぶやく。かつての[[rb:狭 > せま]]い空間で終わっていた虎のセカイは、外へ出る事で劇的に変わった。

  しかしそれは楽しい事だけではなかった。自身のこと、不死者であるということがどういうことか。異常存在がどういう扱いを受けるのかということを……身を以て知った。

  「あ゛ーやっぱろくでもねー! だめだめ、さっさと蓋しよフタ!」

  肺に息をため、「よっしゃーあ!」という掛け声とともにいきよいよく虎は立ち上がる。

  先ほどのは感覚がなまっていただけ。そこそこいいかんじにはできていたのだ、きっと成功する。次こそはきっとうまくできる。

  

  「そそ、まぐれまぐれ~。三回くらいまでなら失敗じゃねーって言い聞かされてきたじゃんか。

  ……いや、やっぱ失敗なんじゃねーかな。どうだろ」

  そも失敗をまぐれと言い換えている時点でおかしい。いかにも[[rb:誤魔化 > ごまか]]している者のセリフである。ただこういったことを堂々とやる輩は大抵指摘されたところで反省しない。そういうものにとって過去とは振り返るもの、学ぶものではないのだから。

  もう一度上半身を振りかぶり、一二のさんと足を蹴りあげる。大丈夫、失敗するということはまずない。俺はできる子、やれちゃう子。

  そんな自己暗示が効いたのか、今度は蹴りあがったまましっかりと止まる。

  大成功。やっぱりそうだった、あれは失敗ではなかったのだ。へへへと笑うフリッドはどこか誇らしげ。まるで最初からできていたといわんばかり。

  「やーっぱ俺ってばサイコ―じゃん! ……なんて、調子のいいこと言ってみたり。こういうとこだけは引き継いじまったよな。でもやっぱ気持ちいい、へへ」

  「なにがサイコーだって?」

  「え~? そりゃあもちろん……もちろ……もち……」

  なぜだろう、この展開には[[rb:既視感 > きしかん]]がある。タイミングが悪い。なぜだかこの先のことが予想できてしまう。もしかして目覚めてしまったのだろうか、未知なる力というものに。

  あり得る。不死者であるこの身体、いくらなんでも現実味を帯びていない。なぜこうなってしまったのかフリッドには不明だ。けれどこれだけ不思議な体質、ほかに自身が知らない何かがあってもいいではないだろうか。

  まあ、現実問題そんなことはまったくない。ただの現実逃避だ。

  「お、おかえり~! へへへ……ってぬれてんじゃん、タオル持ってこねーと」

  「その前に。聞きたいことがあるんだが」

  逆立ちのまま器用に腕を動かし、方向転換すれば、懐かしの見知った姿。

  帰る間際、運悪く振ってきたのだろう。濡れてくすんでしまった毛をかき分け、狼が不機嫌そうに問う。

  「お前さあ、この期に及んで暇を持て余すなんていい度胸して」

  「まーった! 俺はやることやってからくつろいでるから! 言いがかりは良くねぇぞ!」

  「ほ う ? じゃあなんで逆立ちしてんだ」

  「それはおもいだ……ハッ!」

  ここでフリッド、気づいてしまう。『思い出したくない記憶を封じ込める為逆立ちしています』と正直に告白すればどうなるかを。

  十中八九、白い目で見られる。この画期的なアイデアを狼はきっと理解してくれない。

  天才とは孤独な生き物、つねに理解されない苦しみと戦う宿命にある。それを説明できるほどの[[rb:語彙力 > ごいりょく]]を持ち合わせていなくとも、それを悪だと断じてはいけない。理解を拒む世間が悪い。

  「なんとか真っ当な理由を見つけねーと俺の今後が危ねぇ……! どうにかしねぇと」

  「真っ当な理由をつけるほどじゃねーだろ。何考えてんだコイツ」

  だとするならばどう言い訳をするべきか。相手は中々の切れ者、生半可な言い訳では納得してくれないだろう。

  求められるのは奇想天外、予想をはるかに上回るコメント。大丈夫、俺は天才。何時だって閃きは[[rb:超弩級 > ちょうどきゅう]]。

  常人ではよくわからない理論を打ち立てながらフリッドは考える。ああでもないこうでもないと、逆立ちをしながらブツブツいう虎は、傍から見れば危険人物。狼も帰ってそうそう付き合ってられないと勝手に服を脱ぎだす始末。

  そんな期待もされていない中、ついに答えを見出したのか、フリッドが重々しく口を開く。

  「あー、そのな? 心して聞いてくれ。

  実はな……大地さんをな? そのぅ……支えていたんだ」

  「へー」

  「あっ信じてねーなコイツ」

  すでに嘘であるとネタばらしされている手前、狼が新鮮な気持ちで戯言を聞けるはずもない。虎の前で堂々とパン一姿になり、干してあったタオルで身体をガシガシ拭いている。興味がないとはいえかなり堂々とした態度だ。目くそ鼻くそ同然の反応である。

  「まあ聞いてくれって、なぁ」

  「勝手に喋ってろ。俺は身体拭くので忙しい」

  「く、くそぅ……。まあいいや、そのままで」

  「俺さ、思うわけよ。いっつも大地さんは俺たちのこと支えてくれてスゲェなーって」

  「はー」

  「だからこそよ、結構ツライ目に合わせてるんじゃねーかなって。だって大変だろ? たった一人で文句も言わずに支え続けるのって。男としてさ、何とかしてやりてーってなるじゃん?」

  「ほー」

  「だからさ、俺、逆立ちすることで大地さんを支えてやれるんじゃねーかって……だから……その、な?」

  「ふーーーん」

  「……互いに支えあうって、サイコーにイカス……だろ?」

  「判定」

  「はい」

  「馬鹿じゃねえの?」

  「シンプルイズバカ!?」

  残念、虎は結果を変えられなかった。天才的な閃きと絞り出されたジョークでは狼の心を打つことは叶わなかったようだ。初めから決まっていたレールを突っ走っていたともいう。

  フリッドの目頭に熱い何かがこみ上げてくる。これはなんだろう。悔し涙? いや、何か違うような。

  「大地さんもお前に支えられるほど落ちぶれちゃねーよ。つかよくも長々と嘘つけるよな、それもくっだらねーやつ」

  「は、はれ?」

  「意味なかったのならそう言えっての、馬鹿かお前? 付き合わされる身になれっての」

  「な、は」

  「あ゛?」

  狼が虎の方へと視線を向ける。なんだか様子がおかしい。いつもならもっとやかましく返してくるのに、それがない。むしろ返答がどこか上の空だ。

  そんなおかしな──最初からそうだといわれたらきりがないが、輪をかけておかしいフリッドは、顔を青ざめさせていた。

  「おいどうした」

  「なは、ちょつと、ひひ、か?」

  「んだよ、もったいぶって」

  「さかだひ、止めてひ?」

  「……」

  :::

  「うげぇぇぇぇ……きっもちわ、うぷっ」

  (あほくさ)

  数分後、フリッドは顔をしかめながら込み上げてくる吐き気と戦っていた。

  頭に血が溜まって具合が悪くなったのだろう。狼が帰ってきてからこっち、逆立ちしながらしゃべっていれば普通そうなる。自業自得、此処に極まれり。

  ふざけた態度で話していたフリッドが大分悪い。弁明するつもりがより泥を塗る結果になろうとは。復興都市から帰ってきた狼もこれにはうんざり顔。むしろ疲れがどっと増えたのではないだろうか。眉間の皺も深くなった気がする。

  「しばらくそのままくたばってろ、バーカ」

  「まっ、ちょっと……うぇっぷ」

  下らないやり取りの間に狼は身体を拭き終えたようだ。濡れた服を物干し場に掛けると、いつものように毛布をかぶる。

  「……服、着ねえの?」

  「ヒトを裸族みてーにいうな。ちゃんと履いてんだろが」

  「パンツだけじゃん」

  「なんか問題あっか」

  「……な、い?」

  フリッドのやり取りにもううんざりなのか、大層深くため息を吐くと、窓下まで移動し腰かける。

  いつもの定位置だ。狼は誰かと関わりたくないとき、決まって窓の近い場所へと移動しうずくまる。まるでこの世のすべてを拒絶しているようだと、フリッドは思う。

  都市の方で何か嫌なことでもあったのだろうか。何かを聞こうにも、二人の間には[[rb:誓約 > せいやく]]がある。狼が虎のことを深く[[rb:詮索 > せんさく]]しない手前、何があったなんて聞き出しづらい。

  (でも……なんでそんな辛そうなんだよ。お前は普通のヒトなのにさ、なんでそんな……)

  ヒト同士だって[[rb:諍 > いさか]]いは生じる。けれどフリッドにそんなものなど解るはずもない。ずっと閉鎖環境にいたフリッドに、他者の──狼の気持ちが理解できない。

  ヒト同士なら信頼し合える。互いに助け合って、どんな困難をも乗り越えられて、安心して背中を預けあえる。ヒトというのはそういうものだと、虎は教わった。そしてそれは実際そうなのだろうし、誰だってそういうものなのだと信じきっている。

  なら、あいつは? なんで仲間外れになってんだ? あいつは普通じゃないって、そういうことなのか?

  「……そんなの。そんな、こと」

  あっていいのだろうか、そんなこと。その言葉は、虎の口から続かなかった。

  どんなことがあっても[[rb:所詮 > しょせん]]は他人同士。同じ屋根の下で夜を明かし、食を共にする。ただそれだけの関係。苦楽を分かち合う仲ではない。ほんのひと時、雨宿りをしているだけの関係。

  いつか雨が上がる日が来る。互いを知りあう必要など、本来ない。たとえ相手が辛そうでも、そこに関わりを持つ必要も、同情もしなくていい。

  「……ん、これ」

  金属を弾くような音が聞こえる。狼がオルゴールのネジを回したのだろう。

  そういえば狼はよく好んでこの音色を聴いている。音楽──ひいては芸術に対する好みなどフリッドには分からないが、彼にとってそのオルゴールが大切なモノなのだろうとは、理解している。

  きっとこのドッグタグと一緒なのだろう。捨てられないもの。心の支え。いつかの憧れと、優しい思い出が詰まった、そんな品。

  「なぁ、聞いていいか?」

  「……んだよ」ぶっきらぼうに狼は答える。

  「よくそれ聴いてるけどさ……えと、楽しいのかなって」

  「は?」

  「あーその、俺そういう楽しみ方全然知らないからさ。できたら教えてほしいなぁ……なんて、うん」

  芸術を愉しむという感性がないに等しいフリッドにとって、オルゴールはただの音が鳴る箱。狼の大切なモノには違いないのだろうが、何度もその音を聴くというのは飽きてこないだろうか。心情が理解できない。

  とはいえ、だ。聞いてみたはいいが、はたして素直に答えてくれるだろうか。とっさの思い付き、良く考えなかったが、これも誓約のうちに入るかもしれない。

  「お前はどう思う」

  「へ」

  意外とすぐに返事が返ってくる。意外だ。まさか、聞き返されるとは。

  「へ、じゃねーよ。なんかあんだろ、透き通ってるとか耳につくとか」

  「透き通ってる? え、なんかあやふや……それってそういう風に楽しむもんなのか?」

  「いいから答えろ。目ぇつぶって、こういう風に感じんなってこと」

  「そんな急に言われたって……」

  急にそんなことを言われたって返せるはずがない。

  だってただの音だ。金属を弾く、いたって普通の。音が高くなったり低くなったり、そういう変化ならともかく、聞かれているのはどう感じるか。間違いなくそういうものではない。

  狼に言われるがまま、目を閉じてオルゴールが奏でる音に集中する。なにを思い浮かべる? 何を、感じる? そう胸に問いかけながら。

  虎が目を閉じている間、狼はじっと彼の返答を待ち続けた。茶々を入れることなく、ただじっと何かを期待するように。

  「悲しい、気がする。明るいのにさ、でも寂しいっつーか」

  「……」

  「いや黙んなよ。これでいいのか? あってる?」

  狼の沈黙がフリッドに重くのしかかる。重い口を開き、たどたどしく語った感想は、求められた回答に沿っているだろうか。そんな手探り感が余計不安を加速させる。

  きっと聞かれたからには正解というものがあるのだろう。今まで誰かに何をどう感じたかなんて、おそらくは初めて。そんな機会にすら恵まれなかった。訴えを聞くヒトなどフリッドにはいなかった。意味のないことなど話しても仕方ない事だったから。

  「正解なんてねーよ」

  「うおーい! じゃあなんで聞いたんだよ!」

  「音楽ってのはそういうモンだから」

  「お、おん?」

  気の抜けた、一方的に張りつめていた空気が霧散する。先ほどまでの重苦しい沈黙はいったいなんだったのだろうか。まるで緊張でどうにかなってしまいそうな気分になっていた己が馬鹿みたいではないか。散々そういわれてはいるが、自分から認める気など全くないというのに。

  つまるところ、フリッドの勝手な思い違いだ。勝手に緊張していただけ、狼にはそんな思惑これっぽっちもない。普段どれだけ狼に恐れをなしているのだろうか。

  「だから、お前が感じたモンがこれのすべて。否定なんてしねーよ。こういうのはな、分かり合うんじゃなく自分で感じ取ったモンが正解なの」

  狼が淡々と音楽の愉しみ方について述べる。

  曰く、これは互いに感じたものが必ずしも同一である必要がない。正解も同意も、求めるものではないのだと。

  もしも曲調が気に入らなくてもそれでいい。他者が好んでいるその曲が悲しいものだと感じても、それでいい。そう感じ取ったこと、それこそがそのヒトたりえる証明なのだと。

  「わかんねぇ」

  [[rb:曖昧 > あいまい]]だ。音楽として、一つの芸術として世に出されたもののはずなのに、とても曖昧。

  そんなものがヒトを駆り立てていたのだろうか。それがヒトだと、[[rb:謳 > うた]]っていたのだろうか。だとしたら不思議だ。こんなにも曖昧で、不確かなものなのに、魅力的だと惹きつけられているのだから。

  「わかんねぇけどさ、そういうもんなのか」

  「そういうもんだ」

  そうか、そういうものなのか。

  フリッドの心の中にストンと、何かが落ちた気がした。不快ではない。それどころかとても収まりがいい。これはいったい何なのだろう。

  疑問として浮かんだそれを問うため、フリッドは口を開く。が、狼は毛布にうずくまり、オルゴールの音に集中する体制に入っていた。

  まあ、いいだろう。少しだけでも話が出来た。狼の大切なモノに、少しだけ触れる事が出来た。それだけでも十分な進歩だ。

  フリッドは狼の邪魔にならないよう、そっと彼のそばを離れる。

  毛布にくるまり、いつもどおり狼はオルゴールの音色に耳を傾ける。口角がほんのりと上がっていることに本人が気づくのは、当分先のことだった。