BAT07基地、地下2階Dブロック、ロッカールームにて。
そこには、07部隊の獣人が四人。虎、鷹、チーター、そして犬。
下着姿になり、インナーの上下を着用して、紺色の戦闘服を身に着ける。上下一対となっており、繊維は丈夫で動きやすく、通気性も良い。虎とチーターと犬は臀部のやや上部にある穴から尻尾を出し、鷹は肩甲骨あたりにある穴から翼を出した。鷹は翼を一度は羽ばたかせて、動きの具合を確かめる。
そして、靴下とブーツを履き終えた四人は武器をロッカーから取り出した。犬が取り出したのは、刃渡り60センチほどの日本刀。打刀と呼ばれるもので、太刀に間合いは劣るが、狭い屋内でも邪魔にならず扱いやすいため、犬はこの刀を愛用していた。
鞘か抜き、銀色に輝く刃を見る。剣術を始めてからは、この輝きが大好きになった。透き通った、不純物のない清流のような美しい光だった。
だが、今は違って見える。清流がその透明度を保ったまま、粘りを帯びてしまったかのようだ。
(いざとなったら、やらなきゃいけないんだよな)
刀身に走る の波紋。
右は刃 、左は峰 。
正しく自分の心を現している。
闘志と、躊躇を。
ブリーフィングルームにて、07部隊に命令が下された。
それを通達するのは、初任務の時と同じ、訓練の教官を務めている男性だ。元自衛官らしく、体格は良く表情も鋭く、年齢を感じさせないほどの精力を備えている。
彼はいつものように、良く通る声で任務内容を伝えた。
「BATの情報部が、キメラを保管している施設を特定した。大手薬品会社、七里(しちり)の九州本部のビルだ。知っているだろうが、BATのスポンサー企業の一つでもある。潜入捜査員によると、ここの地下でキメラを製造しているようだ。送られてきた映像には、檻に入れられたブラックハウンドが数体映っている。保管のみならず、製造にも関与している可能性が高い」
「じゃあ、ここを制圧するのか?」
和虎の質問に、教官は首を横に振った。
「今回BATが行うことは施設への立ち入り検査だ。その上で、キメラ事件に関与している七里の職員を逮捕する」
「警察みたいなことするんすか?」
今度は、風丸が質問した。教官は、首を縦に振った。
「そうだ。BATには、キメラ事件においては警察と同様の権限が与えられている。BATの調査班が機動部隊と施設に立ち入り、徹底的に調査する。だが、獣人はそこに同伴しない。突入は深夜だが、BATの存在を知らない一般社員や警備員も社内には残っている。また、下手に相手を刺激させると、保管しているキメラを開放させる危険性もある」
「じゃあ、俺ら、いらなくないっすか?」
口を尖らせた風丸に、教官は声のトーンを上げて反論するように解説を続けた。
「そういうわけにもいかん。相手がキメラを絶対に解放しないという保証はない。キメラが解放された場合を想定し、07部隊には施設の周囲で待機してもらう。無論、BATの私設部隊でビルを包囲はするが、獣人無しではやはり危険だ」
「いざとなった時の、盾になるんですね」
空が頷きながら言った。
「そうだ。キメラの数は、確認されているだけでブラックハウンドが23体だ。また、潜入捜査官が入れない区画にも、キメラが保管されているらしい。新型の可能性もある。あくまでも、戦闘が発生することを前提として、任務に当たってほしい。状況によっては、ビルへの突入もあり得る。」
任務の内容を把握した瀞は、BATに関与している企業が敵であることに驚きながらも、気分は高揚していた。
(この任務が成功したら、キメラ事件の黒幕に大分近づくんじゃないのか?)
キメラ事件解決の大きな足掛かりになるであろう任務。自分がそれに参加できるという事実により、戦意が高まり心が高ぶる。無論、責任重大であるが故の緊張もあるが、高揚感がそれを上回った。
(初任務が森林で、今度はビルの周辺、もしくはビル内か。ま、市街地戦や屋内戦訓練も積んでるしな)
躊躇いなどなかった。次の教官の言葉を聞くまでは。
「ちなみに、キメラの保管しているため、施設には武装した兵士が駐在している。どうやら、民間軍事会社を雇っているようだ。立ち入り検査の際には、彼らが抵抗してくる危険性がある。無論、BATの機動隊はそれ以上の戦力を有している。抵抗があっても、制圧は時間の問題だろう」
教官は一度口を止め、隊員たちを見渡し、そして再び口を開いた。
「だが、万が一、敵の兵士たちの抵抗が激しく、突入班が制圧できなかった場合は、07部隊も制圧に参加してほしい」
「え、それって、敵の兵士と、俺らも戦うってことですか?」
「そうだ。兵士の個々の能力がどれほどかは不明だが、プロの軍人レベルかもしれん。だとすると、状況次第ではキメラよりもやっかいだ」
そして教官は、施設の見取り図を利用し制圧の手順についての解説を始めた。
つまりはキメラだけでなく、人間の兵士を相手に戦う可能性もあるということだ。
人間を殺すことになるかもしれない、ということなのだ。
二度目の任務だ。初陣の時よりは緊張せずにいられるだろうと、瀞はそう思っていた。多数のキメラ相手に戦い抜いた事実は、大きな自信となり瀞を支えている。
だが、緊張は時間が経過するにつれて徐々に増していく。殺人をしなければならないという現実が、体と心に重く圧し掛かるせいだ。出動の任務を整え、後は出撃を待つばかりだというのに、このような心理状態は良くないのだが、割り切ることが出来ない。
(何で人殺しなんかしなきゃいけないんだよ。キメラを倒すために頑張って訓練してきたんだぞ。そりゃ、対人を想定した訓練もやったけど、人と戦う可能性は低いって言ってたし。そりゃ、絶対とは言わなかったけど)
瀞は刀を納めて思う。
鍛えて身に着けた技術は、キメラから人間を守るためにあるものなのだ。決して、人を傷つけるためにあるものではないはずだと。
「瀞」
「はいっ」
唐突に、和虎に話しかけられて瀞は飛び上がって返事をした。
「不安か」
「いえ」
和虎の視線を真っすぐ見据えて、瀞は首を横に振った。すると、和虎の視線が尖る。
「不安だな」
「あぅ、はい」
(やっぱ俺、顔に出るんだな)
迷いを悟られた瀞は刀を納め、耳を倒して素直に頷いた。
「出撃前だってのに、だらしねーな」
すると、出撃準備を整えてベンチに腰かけていた風丸が茶化すように笑いかけてきた。
自分は真剣に悩んでいるというのに、それをあざ笑うかのような笑みは、瀞にとって面白いものではない。
「お前なぁ。人を殺さないといけないかもしれないんだぞ。いや、かもしれないっていうか、絶対に殺さないといけないって考えるべきかもな・・・・・・お前、それ分かってるのか?」
「もち」
風丸は、いつもの様子だ。それが、瀞にとっては信じがたく、気にくわない。人命を奪うということがどれほどのことなのか、今の瀞には分からない。だが、決して軽視してはならないことだとは分かっていた。
「いや、分かってねえだろ、お前。ドラマや映画じゃねえんだぞ。マジの殺人だぞ」
「分かってっつってんじゃん。確かに殺人はやばいけど、するしかねーじゃん」
「確かにするしかねえけど」
「お前こそ分かってねーんじゃねーの?相手は極悪人だぜ」
その一言を発する時、風丸の笑みは消えていた。風丸が真剣であることは伝わった。
だが、その言葉が瀞には恐ろしく思えた。あたかも、殺してもいいだろうと、そう言っているように聞こえた。
和虎は様子を見ているが沈黙している。賢士はデスクにて89式小銃の点検を行っていた。
「そんな、殺してもいいだろ的な感覚は、俺は持てない。ゲーム感覚で人を殺すみたいな・・・・・・」
「ちげーし!」
瀞の言葉を、風丸の強い口調が遮った。
「そんなこと言ってねーよ!俺だって、人殺しがヤバイとか、分かってるから!」
こんな風丸の声は聞いたことがなかった。熱意と、そして殺人を軽視していると思われたことに対する怒りも込められていた。
「けど、マジでやるしかねーじゃん。放っとくのかよ、キメラ作るようなクソ野郎を。麻薬作ったり、核作ったりする奴らと同類みたいなもんだぞ。放っといたら、それこそ日本終わるし」
音量は下がったが、声には力が込められていた。
内容も、単純明快な事実だ。キメラを製造する人間を野放しには出来ない。
「俺はさ、もし身内に警察官がいて、その人が子供守るために、刃物持った凶悪犯を撃ち殺しても、ぜってーにその人の悪口とか言わねーから。正しいことじゃね?人守ったり、助けたりとかなら。そりゃ、殺しとか、しないのが一番だとは思うけどさ。こう、なんつーか、いい意味で割り切ることも大切っしょ」
風丸は言いたいことを全て言い終えて、恥ずかしそうに視線を逸らした。
瀞は頭をガツンと殴られたような気分だった。
風丸の意見は正しく、瀞が“こう思わなければならないんだ”と、そう考えていた内容と一致していた。瀞が望んでいた理想であり、風丸はそれを代弁したのだ。
殺傷を軽視することなく、自身の中で明確な意見を持ち、割り切って実行する。そして、その意見を自信をもって発言する。風丸の行為は、この上なく立派なことだと思った。
一方の自分は割り切ることが出来ず、一人で悶々と悩むことしか出来なかった。このまま出撃していれば、仲間を危険に晒し、トラウマを抱えたまま任務を終えることになっていたかもしれない。
瀞は自分を恥じた。
「そうだな、悪かった」
すんなりと、謝罪の言葉が出てきた。自分の非を認めずムキになるほど瀞は子供ではなかった。
謝罪された風丸は、一瞬目を丸くしたが、すぐにいつもの調子に戻った。
「まぁ、あれだ。信念を持つことだよ、瀞。分かる?」
風丸の上から目線で嫌味な口調が、瀞には有難かった。
「ああ、よく分かったよ。信念ね」
「そう、信念」
「明けましておめでとうございます」
「そっちじゃねーし!」
「俺も、風丸を見習わないとな。悩むことも大事だけど、割り切っていくしか・・・・・・」
風丸と同じように、考え、悩み、やるしかないと割り切ろうとした矢先に、予測できなかった横槍が入った。
「今更悩むことは筋違いだ」
瀞と風丸は、仰天して声の主を見た。
縹色の羽毛、見る者を射貫くような鋭い眼光、立派な翼に尖った嘴。
07部隊副隊長を務める鷹獣人、日鷹賢士だ。現在は、ボルトアクション式のスナイパーライフル、豊和M1500をデスクの上で分解して手入れしている。
賢士が口を開くことは珍しい。賢士はあまりしゃべらないのだ。
最も、無口かと言われるとそうとも言えない。訓練中は指示を出すなど発言することが多い。しかし、プライベートではほとんどしゃべらない。必要なことのみ話す、といったところだ。いずれにせよ、訓練中以外はこちらに歩み寄って来ることがなく、こちらから歩み寄ろうとしても離れていくため接する機会は少ない。不愛想ということもあり、親しい関係とは言い難い。
最も、指示は的確であり、狙撃の技能も高いため信頼はしているのだが。
その賢士が、悩むことは筋違いだと言った。言うべきと判断したのだろうが、気にかかる。
「何で、筋違いなんですか?事の大きさを考えたら、悩むべきでしょう」
瀞はそう言い返した。賢士は風丸のように力説することなく、静かに嘴を動かした。
「悩むのが遅い。自身が人を殺せるか否か。それは入隊前に悩むべきことだ。兵士である以上、殺人は避けて通れない。殺せるなら入隊し、無理なら断ればいい」
言い返せない瀞に、ライフルを組み立てながら賢士が聞いた。
「貴様は選択する権利を与えられていたはずだ」
「いやでも、BATはキメラ退治専門って言ったし」
瀞は言葉を搾りだして言い返した。賢士は対照的に、淀みなく言葉を続ける。
「キメラの映像を見れば分かるはずだ。あれらは自然発生したものでない。明らかに人工の生物だ。ならば、キメラを追い続けていれば、やがてはキメラを開発する人間に突き当りることになる。人との戦いは避けられないことは、明白だ」
「BATの説明じゃ、そんなに、人との戦いのことは説明されなかったですし・・・・・・人と戦うかも、とか、言ったかもしれないけど」
「殺人の可能性を示唆すれば、入隊を拒む者もいる。詳しい解説は省いたのだろう」
「そんな。それじゃ、俺らが騙されたみたいじゃないですか」
「この程度のことでは、騙されたとは言えん」
賢士はM1500を組み立てると、89式小銃のマガジンに弾を込め始めた。
「いずれにせよ、軍や警察への入隊は殺人の同意を意味する。殺人の覚悟もなく、それどころか殺人について全く考えることなく入隊することは愚行でしかない」
その言葉は、瀞の胸に突き刺さった。風丸のような熱は入ってこない。ただただ冷たい言葉だった。
「殺人をやらねばならないことだと早い段階で割り切った知多は優秀だ」
「いや、俺も、入隊前はそこまで殺人については考えなかったんですけどねー」
「他者から何も言われることなく、自身の中で解決させた。その一点は、優秀だ」
賢士は89式小銃にマガジンを挿入した。
「答えを出せないまま現場には出るな。足手まといだ」
流石はスナイパー。意見も全て的確だ。故に言い返せない。
明確な意見。風丸の言葉を借りれば信念だが、それがない自分は言い返したところで説得力など籠らないだろう。
(うっわ、やっば。出撃前に、こんなに重い問題突き付けられるなんて)
瀞の心は、初陣の時とは異なる不安で埋め尽くされた。
果たして、今の自分に人を斬り殺すことは出来るのか?
躊躇してしまい、撃ち返され、殺されるのではないか?
仲間が犠牲になってしまうのではないか?
こうなってしまっては、最後の砦に縋るしかない。
「和虎隊長」
瀞は、太刀を背負った和虎の方に視線を向けた。藁にも縋る思いで。
和虎は、待っていたと言わんばかりに瀞の方に向き直った。瀞がこの問題に対して、答えを出すことが出来ないことを分かっていたかのようだ。
恐らく、答えも用意しているだろう。瀞はそれを理解し、和虎に聞いた。
「和虎隊長は、任務での殺人についてどう思っているんですか?風丸と同じように割り切っているんですか?」
「ああ。だが、風丸と同じというわけではないな」
和虎は、風丸の隣に腰かけた。
「俺の尊敬する人はこう言っていた。男は働いて、金を稼いで、家族を養うことが重要なのだと」
和虎は、回想でもするかのように目を細め、誇らしげに語り始めた。
「世の中、金が大事だ。金が無ければ飯が食えない。妻も子供も路頭に迷う・・・・・・そんなことはあってはならない。ならどうするか?答えは単純明快だ。働くしかない。もちろん、真っ当な仕事でなければならない。家族を守れるような仕事にな」
「はぁ」
「誤解のないよう言っておくが、彼は決して金の亡者とか守銭奴とか、そんな人じゃなかった。家族を守ることが最も大事なことだという信念を持っていたんだ。今の世の中、守るには金がいる。優しさだけじゃ生きていけない。無論、金が何よりも大事というわけではないが、金が重要であることは事実だ」
「まぁ、そうですね」
瀞は、中学卒業と同時にBATで訓練を初め、給料をもらい始めた。そこで、金の大切さを実感することとなった。学生の時は意識していなかったが、見えないところで金は動いており、生活する以上出費はとても大きい。
「働くことは、大切だ。だからこそ、彼もBATへの入隊を決意した」
「給料、いいですからね。高卒で働き始めた友達の初任給聞いて、驚きましたよ」
「ああ。そして、給料を受け取るからには、その業務を完遂しなければならない。中途半端など許されない。給料をもらう以上は、プロ意識を持って働かなければならない。怠けていれば、職を失う危険もあるしな。だから真剣に働く。そして、BATにおいて働くという事は、戦うという事だ。兵士だからな」
「だから和虎隊長は、真剣に働く、つまり、真剣に戦うってことですか?」
「そうだ。無論、キメラの脅威から国を守るためという使命感もある。風丸と同じようにな。だが、大切な人を養うためという信念も忘れず胸に抱くようにしている」
「つまり、家族のためってことっすかね」
風丸の問いに、和虎は首を横に振った。
「俺はまだ独り身だ。そんな大それたことは言えない。まぁ、信念は、仕事だから、と言ったところか」
「職業軍人っぽい感じっすかね」
「そうだな」
「でも和虎隊長、彼女いるんでしょ?」
「告白したわけじゃない」
「でもデートしてるんでしょ?」
「そうだが」
「じゃあ彼女じゃないっすか。いつか結婚するんでしょ?」
「俺の携帯を見たのか?」
「え、まー、はい。あの時の和虎隊長、後ろ、隙だらけだったし」
「覗き見たのか・・・・・・今後は気を付けないとな」
風丸にからかわれ、苦笑する和虎。そんな二人を見ながら、瀞は和虎の言葉を吟味していた。
言ってしまえば、和虎の信念は金のために戦うということになる。和虎からそんな言葉が出て来ることは意外だったが、その信念は家族を守るという思いが根底にある。そこは和虎らしい。
家族を養う。それは職種に関係なく、多くの労働者の働く理由となっている。
商品を売る、サービスを提供する、知識を与える・・・・・・そういった業務をこなして金を受け取り、自分の、そして家族の命を守る。
自分は兵士だから、戦って金を得ることになる。市民の安全を脅かすキメラと、それを開発する人を殺して。
「これが自分の仕事だから、殺せるってことですか」
「そういうことだ。それが兵士だろう」
「ですね」
瀞はふと、恋人の顔を思い浮かべた。
(晴美といつか結婚したら、俺が稼いで生活することになるよな。晴美も働いてるけど、子供とか生まれたら、休むだろうし。その間給料が出るとは限らないみたいだしな。そうなると、晴美と子供のために戦って稼ぐことになる。そもそも、キメラが晴美を殺そうとする危険性も捨てきれないしな。晴美を守るために、キメラやそれを作る奴らと戦う。そう考えることもできるか。)
無理矢理かもしれないが、そう結びつけることも出来る。
(晴美のため、か。初めての戦いでは、晴美のこと考えようとして、でも気持ちがハイになって忘れたんだよな)
和虎のように、家族を守るという明確な信念をもって戦いに臨めば、晴美の顔を忘れることなく戦えるのだろうか。
「瀞」
「はい」
「信念は押し付けられるものじゃない。自分で見つけるものだ。俺の意見は参考程度にしておけ」
「分かりました」
「はい」
瀞は胸を張って答えた。
明確な答えが出たわけではない。殺人に対する抵抗もある。だが、緊張はいつの間にか和らいでいた。
和虎は自身の信念を語っただけで、明確な道を示してくれたわけではない。だが、和虎の話は聞くだけで不思議と緊張や不安が取り除かれる。隊長だからか、師匠だからか。理由は不明だが、これが和虎の力なのだろう。
また、仲間との談笑自体が、自身をリラックスしてくれるものなのかもしれない。そう考えると、風丸の存在も自分にとっては大きく、かけがえのないものなのだろう。
「やるしかない、か」
瀞はそう呟き、賢士の方を見た。予備のマガジンに弾を込めている。
これ以上、自分には何も言いそうにない。瀞は賢士に話しかけることを止めた。
任務開始の時は、刻一刻と迫っていた。
[newpage]
BAT03基地地下4階Cブロック食堂にて。
長いテーブルには20を超える数の料理が並べられており、好みに応じて和洋中選択できるようになっている。ドリンクも牛乳に緑茶、各種ジュースやコーヒーなど、料理と同様に種類が豊富だ。デザートまでついており、下手なレストランよりも遥かに豪華だ。
時刻は7時過ぎであり、業務を終えた職員たちで賑わっている。そして、その中にはトレーニングを終えた三人の獣人もいた。
『ぬうう・・・・・・』
料理に最も近い席に付いているのは、03部隊隊長の獅士山氣雷、その部下の猿飛志龍と斎藤純心だ。
彼らは既に食事を終えており、大量の食器が机の上に重ねられていた。大柄な氣雷と純心はもちろん、二人より小柄な志龍も中々の大食漢だ。
現在彼らは、机の中心に並べられた3つのチョコレートケーキを睨みつけていた。
月に1回提供されるそのチョコレートケーキは栄養士の手作りであり、市販のデザートとは比較できないほどの味を誇る。しかし数は少なく、1日30個までとなっており、サイズも掌に乗る程度しかない。それ故に一人1個までと決まっている。
三人は、既に1個ずつ確保している。問題はないはずだった。
(右のやつがぱっと見一番だな)
(正面から見ると真ん中のやつなんだけど、上から見ると左のやつだな)
(あー、右と思ってたけど、やっぱ左か?)
三人は、どのチョコレートケーキが一番大きいか、決められずにいた。月に一回しかない、極上のデザート。少しでも大きい方を食べたいのだ。
確かに、大きさに違いはある。だがその差は微々たるものであり、満足感にさほどの違いはないだろう。だが、三人の食い意地はすさまじく、より良いものを、という意欲を消すことは出来なかった。
「あ、俺、先に、選んでいいですか?」
純心が最も早く口を開いた。
「どれを取るつもりだ?」
「それっす」
氣雷が聞くと、純心は真ん中の個体を指した。
「ちょっと待て」
氣雷がそれを制した。左か、真ん中か。氣雷はその2択で悩んでいるのだ。純心が右を選んでいれば、氣雷は止めなかっただろう。
(やっべえ、氣雷さんに止められた。今後の行動がとりづれえ・・・・・・)
純心は、後悔した。一方の志龍は、究極の選択を強いられていた。
(氣雷さんはおそらく、真ん中か左、真ん中か右、のどちらかで悩んでいるな。氣雷さんが悩んでいない方を選べば、即効で食える。でも、氣雷さんが悩んでいる方を選べば、止められて、やりにくくなる・・・・・・氣雷さんは、自分と狙いが重なった相手を、敵視するからな。俺は右を選びたいんだけどな)
今志龍が右を選べば、すんなりと食べることが出来る。だが、氣雷が右を狙っている可能性も捨てきれないので、その決断を下せずにいた。
そして氣雷も追い詰められていた。
(くそっ、純心と狙いが被った。諦めてゆずって、左を食うか?だが、志龍が左を狙っていたとしたら、面倒だな)
三人は、渦を巻く底なし沼の中にはまり込んでいた。考えたところで答えは出ない。うかつに動けば、さらに動きづらくなる。
『どうする・・・・・・』
汗が頬を伝う程ほど緊張が高まった、その時だった。
キイン
耳を塞ぎたくなるような甲高い音がドリンクコーナーから響いた。
ケーキを睨んでいた三人は、一斉に音の出所を見る。
6つの目に映ったのは、机の上でわずかに揺れる水差し。そして床に落ちたスプーンだった。どうやら、誰かがスプーンを水差しに投げてぶつけたようだ。
(し、しまっ!!)
一瞬で犯人と動機を把握した三人は、机に視線を戻した。だが、遅かった。
『ああああああ!!!』
3つのチョコレートケーキは、跡形もなく消えていた。獅子の、猿の、犀の、悲痛な叫びが食堂内に木霊する。
「んふ」
聞きなれた、ほくそ笑むかのような声。三人は一斉にその方向に顔を向けた。
隣の机の上に、それはいた。
灰色の体毛に身を包んだ、細身で華奢な猫の獣人。しなやかな体つきであり、豊かな胸に腰の括れに注目すれば、獣人であっても女性であることがすぐに分かる。一般市民とはなんら変わりないどころか、スタイルの良い体つきであるため、獣人でなければ兵士であるとに気付かれないだろう。
彼女は何かを咀嚼しているようで、左右の手には、チョコレートケーキが一つずつ。
「おいし」
ごくりと飲み込んだ猫は、満足げに笑った。
「いや」
「おいしじゃ」
「ねえだろうが!」
突っ込みつつ、三人は猫へと跳びかかった。自分のチョコレートケーキを取り返すために。食べられたのは、他の誰かのケーキだ。
獅子に犀、そして猿。加えて、食い物の怨念力により三頭の猛獣の攻撃力は増している。それでも、猫は微笑んでいた。
まず、最も俊敏な志龍が襲い掛かる。
しかし、猫は一瞬でその場から消えた。
右に跳んだのだが、非常に早く、初動が全くなかったために消えたかのように見えた。
志龍は猫がいた場所を通過し、奥のテーブルに飛び込んだ。女性職員二名が軽食を楽しんでいるテーブルへと。
「ぉあちゃああああ!!」
コーヒーの頭部直撃を受け悶える志龍をよそに、純心の手が猫に伸びる。
しかし猫は空中で身を翻して躱すと、純心の頭を踏んずけて飛び去った。軽業師どころではない、驚異的な身体操作術だ。
猫に踏まれた純心は真下の机に落下した。
「ぶふぁあ!!」
幸いその机は誰も使用していなかったが、数分前に使用された食器がまだ残っていた。不運なことに、味噌汁は残されており、皿にはタルタルソースがべっとりと付着していた。
「むぅあてぇごるぅああああああああ!!!」
着地と同時に走り出した京香を、氣雷が吠えながら追いかける。周囲の机や椅子を吹き飛ばしながら。
そして、猫の背に獅子の腕が伸びる。
獲物の確保を確信した氣雷。
その眼前に、猫の尻尾が迫った。先端で器用に緑色のチューブを掴んでいる尻尾が。
「ほがあああっ!!」
そして、チューブの先端からわさびが飛び出し、氣雷の鼻先と口内に直撃した。
あまりの激痛の辛さに目を閉じる氣雷。
そして、猫はサイドステップで氣雷から逃れた。
全力で走っていたために、すぐに停止できず目を閉じたまま走る氣雷。
そして。
『うわあああああああ!!』
ドガッ!! ガタッ!! ガシャッ!!
数名の研究員たちが食事しながら議論している机に、氣雷の巨体が突っ込んだ。
多くの料理や飲み物が床にぶちまけられ、様々な音と叫び声が食堂内に響き渡った。
「ごめんねー」
そう一言告げた猫は、ケーキを頬張り食堂を後にした。体中が食材や飲み物で汚れ、職員たちから非難の眼差しや怒号を受ける仲間たちを置き去りにして。
『ごめんねじゃねーよ』
体に走る肉体的な痛みと、ケーキを食べられなかった精神的な痛みに耐えながら、氣雷、志龍、純心の三人はそう呟いた。深い悔しさを表情に滲ませて。
03部隊副隊長、猫沢京香(ねこさわきょうか)。豪快な男三人に囲まれながらも、臆することも遅れることもない、それどころかその上をいく、立派な胆力の持ち主である。
[newpage]
腰に下げた刀が、いつもより重い気がする。
そんなことを考えながら、瀞は一人、夜空を見上げた。
満月が浮かんでいた初任務と違い、今宵は半月。これまた、悩む自分の心情を現しているかのようだ。
(静かだな・・・・・・俺の実家の近くみてえだ)
瀞は100メートルほど離れた場所に建つ小さなビルを見つめている。内部では何が起こっているのか、それが気がかりだ。
何故ならば、そのビルこそキメラを保管している映像が送られてきた場所、株式会社七里のビルであり、数分前にBATの調査班がSPを引き連れて立ち入っているのだ。
(話し合いで終わらせられるかもしれない、とは言っていたけど、上手くいくのか?)
その区画は、主要都市へと続く国道の近くにある。県の計画では、順調に開発が進み、大きな町へと発展するはずだった。しかし計画は途中で頓挫し、片手で数えられる程度の企業のみがビルや工場を建てる結果に収まった。私立大学やコンビニ、地方銀行の支店までも建っているのは、壮大な計画の名残である。ある程度の施設が揃っているので、付近の住宅街にはそれなりの民家があった。
幸い、七里のビルは他の施設から離れた場所にある。さらに念のため、BATの機動隊がビルを包囲している。
(やっぱり、避難させた方がいいと思うけどな)
本来ならば、BATは周辺の人々を完全に避難させたうえで任務に当たる。機密事項の漏洩を防ぎ、国民の生命を守るためだ。しかし今回は、それをしていない。
(キメラとの戦闘確率は低いとか、下手に動いて調査を悟られると証拠を隠滅されるかもしれないとか、色々理由は言っていたけど、国民の安全を守ることが一番大事なんじゃないのかよ)
双肩にかかる重圧は、初任務の時と同様か、それ以上に大きい。
人を殺さなければならないかもしれない。
守るべき人々が近くにいる。
単独行動している。
諸々の理由が重圧となっている。
(考えてみりゃ、実戦はまだ2回目の新米だもんな。いきなり和虎隊長みたいに、緊張しないで戦えるわけない、か)
07部隊の隊員たちは、各々が単独行動を取っている。賢士を除く四人はBAT機動隊の包囲網の内側で、ビルの東西南北に立ち、キメラが逃げ出してきた場合に備えて待機している。ビルからは100メートルほど離れているので奇襲される危険は少なく、いざとなれば後退して機動隊の援護を受けるとこが出来る。
瀞は正面入り口がある東側にいた。風下であるため、ビルの匂いを嗅ぎ取ることが出来る。
『定時連絡。こちらナナイチ。異常なしだ』
時間通りに、無線から和虎の声が聞こえてきた。
和虎は現在、裏口がある西口にいる。大型トラックを受け入れる搬入口があり、そこからキメラを積んだ車両が出入りしているとの情報だ。戦闘能力が最も高く、夜行性故に夜でも目が利く和虎が布陣するのに適任の場所だ。
『こちらナナゴー、異常なしっす』
南側の風丸の声が聞こえてきた。任務中だが、声の調子は日常そのものだ。
チーターは夜行性ではないため和虎ほどの視力は無いが、それでも人以上に良く見える。俊足を利用すれば、即座に味方の元へ駆けつけることが出来る。
「こちらナナヨン。異常なしです」
瀞はビルを見て、異常がないことを確認して答えた。
視界に映る景色は風丸と同程度であり、戦闘に支障が出るようなことはない。だが、瀞は視力以上に嗅覚に頼っていた。最も今はどんなに集中しても、気になる匂いが流れてくることはないのだが。
『こちらナナサン。異常ありません』
無線から、空の声が聞こえてきた。
空とて視力は人以上だが、肉食獣の隊員たちと比較すると劣っている。だからこそ、空の後方には鷹の目が配置された。
『こちらナナニ。異常なし』
機動隊のさらに後方、小高い丘の上にある小さな公園。そこの茂みから、ギリースーツを身体に掛けた賢士が鋭い視線と銃口をビルに向けていた。手にしているは愛用の狙撃銃、豊和M1500である。取り付けられた二脚を使って地面に置いてあり、いつでも発砲可能である。
賢士の視力を活かした狙撃の正確さは非常に高く、その援護を受けられえるならばこれほど心強いことはない。07部隊の隊員たちは、訓練でそのことを理解していた。
(副隊長がいるから、空は大丈夫だろ。しっかし、どうゆう風に見えてるんだ?俺もけっこう、鮮明に見えるけどな)
瀞は再びビルを睨んだ。5階建てで、小さいという事はないが、かといっと大きすぎるという事もない。至って平凡なビルだ。この中で凶悪な犯罪が行われているとは、露ほども思えない。
(本当は、何も無かったりして。だったら、どんなにいいか)
そんな甘いことを考えながら、瀞は目を閉じて耳も塞いだ。視覚と聴覚を遮ると、嗅覚がさらに鋭敏化する。
(やっぱり、索敵はこっちだな。暗闇でもちゃんと見えるけど。初任務の時も、結局はこっちの方が活躍したんじゃ・・・・・・)
それは、唐突に訪れた。暗闇にて、手探りで前進していた際、指先に鋭利な何かがぶつかったかのような感覚だった。
瀞は動かず、鼻先へ神経を集中させた。嗅覚をより鋭くし、先程の感触が間違いであるかどうかを確認する。間違いであってくれと祈りながら。
しかし、鼻に刺さる不快な臭いは決して気のせいではなかった。
(甘かった・・・・・・そうだよな)
瀞は左腰に差した刀の柄を握り、ゆっくりと抜刀した。
そして無線機を取り、07部隊の隊員たちと機動隊の隊長へ報告する。
「こちらナナヨン。微かに血の臭いが鳥籠から流れてきました。どうぞ」
『こちらナナイチ、了解した。ニはその場で待機。それ以外は前進しろ』
和虎の命令を聞いた瀞は、すぐに駆け出した。低い姿勢でビルへの一本道を走る。
ビルの中で血が流れたのは間違いない。その原因を一刻も早く突き止めるために。
(人でも・・・・・・斬れよ)
自身に言い聞かせながら走る。近づくにつれて心は重くなり、足には枷が付いたように重くなる。
それでも前進できたのは、迷い以上の闘志があったから。
血の臭いを嗅ぎ取り抜刀した瞬間から発生したそれは、あっという間に心の中全体に燃え広がった。
迷いだけではない。恐怖や信念さえも覆いつくしてしまいそうなほどだった。
「おっ」
ビルとの距離が20メートルを切った時、正面玄関が開き、中から男性が一人出てきた。BATの調査員だ。瀞が思わず声を出したのは、調査員が見るも無残な姿になっていたからだ。
文字通り、血まみれだ。衣服はボロボロで体中傷だらけ。右腕にはスライドが後退した拳銃が握られており、左腕は肘の辺りの肉が削げ落とされ骨が露出している。
息絶え絶えの状態で出てきた調査員は、瀞に気付いて右手を差し出してきた。瀞は彼を救うべく、速度を上げようとした。
その、直後だった。
玄関から飛び出してきた一陣の風と共に、彼の首が胴体から落下した。
頭部が地面に落下して転がり、すぐ後に首を失った胴体が崩れ落ちる。断面からは多量の血が流れ出て、地面に赤い絨毯が伸びた。
調査員の首を刈り取った風の正体は、絨毯の上に着地して満足げに腕を振るい、爪の血を振り落とした。
背丈が成人の腰程度の高さしかない小人。一見猿に見えなくもないが、よく見れば異形生物であるとよく分かる。
絡み合う蔦のような血管が浮かび上がった錆色の肌、やせ細り頭蓋骨が浮かび上がっている顔、握りこぶしほどもある黒い目玉、縦に長く広がった口。
何より目を引くのは、異常なほど発達した両手の赤い爪だ。全長は30センチほどもあり、三ケ月のように湾曲している。ただ長いだけではなく、グリズリーの爪のように肉厚である。
(こいつ・・・・・・リッパーか!!)
瀞はそれを資料で見たことがあった。すばしっこい動きで相手を翻弄し、両手のかぎ爪で切り裂いてくる。故にリッパーと名付けられた。刃の切れ味は日本刀には劣るものの、見かけによらず発達した両腕の筋肉により、人体さえも容易に切断することが出来る。
リッパーは右腕を振り上げ、血飛沫を上げながら走り出した。
瀞もまた、リッパーへと駆ける。
互いに高速、一瞬で距離が詰まる。
風を纏った刃が薙ぎ払われた。
しかし、それは空を切る。
空振りしたのは、リッパーだった。
眼前にいたはずの獲物はいない。
その時、瀞はリッパーの背後にいた。
既に上段の構えを取った、万全の状態で。
がら空きの背中に、白刃が振り下ろされる。
刀身は脊柱と内蔵を断ち切った。
リッパーは叫び声をあげるとこさえ敵わず、転倒して鮮血をまき散らしながら数メートル転がり、ようやく停止した。
まだ息はあるが、虫の息だ。動くことは出来ないだろう。
「っはっ! ・・・・・・はぁっ・・・・・・」
瀞は大きく息を吐いた。全身から汗が噴き出し、恐怖で身が震える。
(何だ、今の・・・・・・ほとんど、勝手に・・・・・・)
リッパーがこちらに向かってきた瞬間から、恐怖が消えた。迷いなく突き進んでしまった。なんて無謀だったのだろうと思う。
リーチはこちらが勝っているが速度はほぼ互角であり、リッパーにはかなりの勢いがあった。あのまま真っすぐ斬りかかっていれば、先に刃が届いても相手が止まらず相打ち、最悪の場合避けられ、反撃の刃を受けていたかもしれない。
だが行動は結果的に正しかった。直前で相手の右側へと回り込み、空振りした相手に対し背後から斬りかかる。間違いなく、今自分が出来る最善策だ。
(すげえ、けど・・・・・・)
技量の上昇を実感でき、単身でキメラを仕留められた達成感を得られた。だが、問題はその時の自分の心だ。
何も考えなかった。否、自分が取るべき行動についてのみ、思考が働いた。それ以外の感情は排除されてしまった。
機械的な思考とも違う。それとは対照的なものだ。なぜなら、自分の胸には明確な意志があったから。その意志が瀞を突き動かし、瀞の命を救った。初任務の時と同じように。
『こちらナナイチ。ナナヨン、変化はあったか』
無線機から聞こえてきた和虎の声で、瀞は我に返った。
『ああっ、は、はい』
瀞は慌てて無線機を取り、意識して迷いを消した。今は集中しなければならないときなのだから。
『今、鳥籠の前にいます。えー、中から・・・・・・』
落ち着いて、現状を放そうとした。BATの調査班が1名死亡したこと、ビルの中からリッパーが出てきたこと。それらを頭の中でまとめようとした瀞だったが。
「!!!!」
突如、体毛が逆立ち体が膨れたようになった。強い不快感が瀞の体を走り抜けたのだ。
過去に味わったことがない、根拠のない不安のような感覚。しかし、確信に似た感覚もある。この後、必ずよからぬことが起こるに違いない。
瀞はビルを見上げた。その直後だった。
耳を切り裂くような甲高い音が周囲に響き渡った。
ビルの窓ガラスが一斉に割れたのだ。
破片が空中へと投げ出され、落下していく。
耳に走る痛みに耐え、降り注ぐ破片から逃れる瀞。
その2つの目は、窓から飛び出してくるキメラをしっかりと捕らえていた。
先程倒したリッパーと、報告にもあった黒い狂犬ブラックハウンドだ。
猿と犬のキメラは、孵化したばかりのカマキリの子供のように、わらわらとビルの窓からとめどなく溢れ出て来る。
そして、着地したものが次々と瀞に向かってきた。
瀞は一瞬だけ、恐怖を感じた。
だが、本当に一瞬だけだった。
初任務では、ブラックハウンドに似た犬型のキメラを単身で何体も倒した。
リッパーも、たった今数秒で仕留めた。
その事実が、後退しそうになった瀞の背中を押した。
そうだ、倒せるじゃないか。
心の中で、誰かがそう囁いた。
瀞は押し寄せる波に向かって行った。
敵への殺意のみを胸に抱いて。