犬猿の温泉旅行

  春が終わりを告げて、夏が歩み寄りつつある季節の早朝。

  数日前までは肌寒かったが、今では適度な涼しさが朝日と共に街を包み、一日の始まりを快適な気温と光で教えてくれる。

  「うぅ・・・・・・」

  そして、自室の布団の上でうつ伏せに寝ている犬獣人の青年も、日差しを顔に受けてゆっくりと目を覚ました。

  顔立ちと骨格は四国犬に近く、体毛は飴色。体躯は一見すると中肉中背だが、日々の鍛錬により高密度な筋肉がしっかりと身についており、目を凝らせば体毛越しでもその隆起が分かる。

  (何時だ・・・・・・げっ!?)

  その筋肉を包む体毛と三角の耳と長い尻尾が、ぼふっという音とともに一瞬で立ち上がった。

  時刻は6時。いつも青年が起きている時間より1時間も遅い。

  (やっべ!!遅刻・・・・・・あ)

  驚愕により一瞬で覚醒した犬だったが、即座に緊張は解けて心身が弛緩した。

  (休みじゃねぇか。焦ったわ)

  今日と明日は休日であり、早朝から厳しい訓練に襲われることがない。それを思い出した青年は、目を閉じて体の力を抜き二度寝に入ることにした。

  (もう1時間くらい寝るか)

  日々の疲れもあり、吹き飛んだ眠気が徐々に戻ってくる。

  意識が睡眠の世界へと飛ぶ。まさに、その瞬間。

  「ィマァァァァァジベンニャァァァァァァ!!!」

  「#$%&’()=~|¥‘*;+!!!」

  大爆音の雄たけびが犬の耳に叩きつけられた。眠りを阻害しつつ脳にダメージさえ与える驚異的な攻撃を受けた犬は、壊れたばね仕掛け人形のように体を激しく揺らし、耳を抑えて転がった。

  「ぶはははははははは!!!」

  その様子を、爆音を放った犯人は腹を抱えて笑いつつ見下ろしている。

  犬は仰向けになり、犯人を睨みつけた。牙をむき出し、眉間に皺を寄せた恐ろしい表情は、強い怒りと不快感を表現している。

  「志龍、てめぇぇぇ」

  犬に睨まれ志龍と呼ばれたのは、犬と同い年くらいの猿獣人の青年だ。

  体躯は犬よりやや小柄で、体毛は黄金色。身長は辛うじて170センチに達する程度であり、同業者から見ると小さいと思われてしまう。しかし犬以上の鍛錬を積んでいるため、小さな体には実用的な筋肉がしっかりと備わっており、均整がとれた身体には無駄な肉が全くついていない。

  「瀞、さっきのお前の動き、すごかったぜ。昨日テレビでやってた、昔のヘビメタのボーカルみたいだった。めっちゃ頭振って。いや、頭っつーか、上半身をあんなふうに・・・・・・お前、体にバネでも仕込んでんじゃねーの?」

  志龍はニヤニヤと、相手を小馬鹿にするような笑みを浮かべ、先ほどの犬の動きをまねしている。

  ため息を付いた飴色の犬――――――瀞は収まらない頭痛に耐えつつ、寝転がったまま枕を取ると、お返しと言わんばかりにそれを志龍へ投げつけた。

  しかし志龍は上半身を反らしてそれを難なく避ける。

  枕は高速で飛来し、居間の壁にぶつかり落下する。そして、壁に立てかけていた日本刀にぶつかった。刃渡りは60センチほどで、柄は黒いが鞘の色は綺麗な金茶色だ。

  瀞の愛刀である刀はバランスを崩して床に倒れこみ、けたたましい音を周囲にまき散らした。

  「あぁ、俺の刀・・・・・・志龍、貴様」

  「いや、俺のせいじゃねーだろ!」

  「間接的にお前のせいだろ!」

  「そもそも刀を出しっぱなしにするなよ!俺が泥棒だったらどうすんだ!」

  「ここは寮だぞ!お前みたいに、部屋に侵入するバカがいるなんて想定するかよ!」

  「その油断がだめなんだよ!ちゃんと鍵かけろよ!」

  「くっ・・・・・・」

  親友の部屋に音もなく忍び込む志龍に対し、これ以上言い返すことが出来なくなった瀞は、くだらない舌戦を止めて布団にもぐりこんだ。

  「いいから出てけよ。俺はムカついたからまた寝る」

  瀞は目を閉じた。体中のだるさが消え、怒りが収まったころに起きようと思いつつ。

  しかし。

  「ビュ!ビュ!」

  志龍の声が真上から聞こえた。

  まだいやがるのかと呆れていると、志龍が苦し気に訴えてくる。

  「瀞、俺、誰かから狙撃された・・・・・・」

  「ビュってなんだよ」

  「サプレッサーを付けたライフルの銃声だ・・・・・・」

  「そうか。じゃあ衛生兵に見てもらえ。もしくは永遠に寝ろ」

  「もう、動けない・・・・・・だめだ・・・・・・うっ」

  「うるせぇな」

  瀞は眠りを邪魔してくる親友に文句を言おうと、仕方なく布団から顔を出した。すると。

  「いっ!?」

  目の前には、こちらに倒れこんでくる志龍の体が。

  「ぐぇ! ぎゃはははははははは!!」

  志龍の体当たりを食らって呻いた直後、瀞は口を大きく開けて叫ぶように笑った。

  その笑いは抑えることなど出来ない。何故なら、志龍から脇の下をくすぐられているからだ。志龍は柔術にも精通しており、瀞に伸し掛かった直後に背後に回り込んで抱き着き、脇の下に手をすべりこませていたのだ。

  瀞はひたすらもだえ苦しみ、部屋中を転がり回った。寝室から居間へ、さらには玄関へ通じる廊下まで転がったが、志龍は獲物に巻き付いた蛇のように、決して離れることなく瀞の脇下をくすぐり続けた。

  「がぁぁぁぁぁ!!ひぎぃぃぃぃぃ!!」

  「瀞!大丈夫か!しっかりしろ!耐えるんだ!」

  苦しむ瀞に応援の言葉を投げかけるが、そもそも苦しめているのは他でもない志龍自身である。

  「が・・・・・・やめ・・・・・・」

  やがて、瀞の動きは弱弱しくなり、声も小さくなっていく。体力が底を尽きかけているようだ。

  「なんだよ、だらしねーな」

  鈍ってゆく相手の反応に面白さを感じられなくなった志龍が、ようやく瀞から離れようとしたその時。

  「朝っぱらからうるせえんだよ!!休みの朝くらい、静かに・・・・・・」

  玄関の扉が開き、二人よりはるかに立派な体躯を誇る灰色の犀獣人が部屋に飛び込んできた。

  静かな朝を邪魔されてご立腹の犀は二人に文句を言うつもりだったが、廊下の上で重なり合っている犬と猿の姿を目撃し、怒号を止めてポケットからスマートフォンを取り出した。

  「ちょっ」

  「まっ」

  瀞と志龍が抗議の声を上げようとしたが、犀は素早く写真を撮った。パンツ1丁の瀞と、それに後ろから抱き着いている志龍を。

  「おい!」

  「てめ!」

  瀞と志龍はすかさず犀へと飛びかかったが、犀は下卑た笑顔を浮かべつつ後退し、ドアを閉めた。

  「ぶっ!」

  「ぎっ!」

  瀞と志龍は冷たい壁に激突し、その場に崩れ落ちた。

  「いってー」

  「いってー、じゃねえよ!てめえのせいで変な写真撮られたじゃねか!あいつのことだ!今日の夜までには、皆に広まるぞ、あれ!変な噂つきで!」

  額を押さえる志龍に対し、痛みも忘れて瀞は精一杯の怒りをぶつけた。眠りを妨害され、暴力を受け、根も葉もない噂を広められる原因を作った親友に、容赦など欠片もない。

  「いや、半分はお前のせいだろ!廊下まで転がるから!」

  「あんなにくすぐられたら誰でも暴れるだろ!」

  「暴れねーよ!ねずみ花火じゃねーんだぞ!」

  「そもそもくすぐるなよ!むりやり起こしたり抱き着いたりくすぐったり!ガキかてめえは!お前みたいな非常識なバカ猿は高崎山に帰って常識を学びなおしてこい!」

  「んだとー!お前だってバカ犬じゃねーか!少しちょっかい出されただけでアホみてーに動揺しやがって!お前こそ奥羽に返って精神を鍛えなおしてこい!」

  「俺東北出身じゃねえし!九州だし!秋田じゃなくて大分だし!」

  「俺だって大分じゃなくて沖縄だし!あ、じゃあお前が高崎山に帰れ!」

  「何でそうなるんだよ!俺は犬だぁ!」

  唾を飛ばし合いつつ、レベルは低いが激しい殴り合いの如き口喧嘩を繰り広げる二人。しかし。

  「あ、そうだ」

  突如、それは志龍によって堰き止められた。

  「大分行こうぜ。お前の故郷」

  「あぁ?」

  不意の提案に、犬の瀞は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。

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  両側を林に挟まれまっすぐに伸びる線路を、二車両の古めかしい列車が走る。黄色い塗装は所々色が落ちており、ガタゴトと揺れながら走るその姿は、熱を高めつつある午後の日差しを浴びて苦しんでいるように見えた。

  やがて列車は減速していき、目的地に到着した。乗り場が一つしかなく、木造の小屋が一軒建っているいるだけの無人駅に。

  「やっと着いたか」

  ゆっくりと開いた電車の扉から出てきた瀞は一言ぼやいた後、口を大きく開いて欠伸をした。鳶色のシャツに藍色のジーンズ、荷物は肩から下げる小さな鞄といういで立ちだ。

  「もっと時間かかると思ってたけどな」

  それに続き、首を左右に倒しつつ猿が出てくる。荷物は瀞と同様に少なく、赤いシャツに短パンとラフな服装だ。

  「ようやく、大分っぽいところに来たな」

  志龍は周囲を見渡して呟いた。

  無人駅の周囲には古ぼけた商店や民家が立ち並んでおり、人の姿は見えない。それらの奥に視野を広げると、遠くにのどかな田園風景が広がっていた。注意してみてみると、細い農道を軽トラックやトラクターが走っており、鍬を担いで歩いている人影も見えた。

  「どういうことだよ」

  「いや、田舎ってイメージがあったから」

  「まぁ、そうだけどな」

  「大分駅はかなりでかかったな。あそこだけ、やけに都会的というか。田舎レベルがゼロでびびったわ」

  「俺も、あそこだけ異世界だなって思うよ」

  「で、ここに穴場の温泉があるんだな」

  「ああ。じいちゃんが教えてくれた秘湯があるんだ。秘湯っつっても、知ってる人はけっこういるけどな。温泉通な人とか来るし」

  「じゃあ、マジで結構有名なんだな」

  「ああ。ま、来た甲斐があったって思えるくらいの温泉だぜ」

  思い立ったが吉日。

  犬と猿は新幹線に飛び乗り、いくつか乗り継ぎ、犬の故郷にやってきた。

  日帰り旅行の目的は、温泉で疲れを癒すことである。

  瀞の故郷にある良質な温泉にいつか行こうと話していたが、日々の訓練に忙殺されて中々機会は訪れなかった。

  そこで、ささっと日帰りで温泉に行こう、という話になったのだ。

  「あれだ」

  「へぇ」

  小鳥がさえずる森と、清流が走る小川に挟まれた道を歩くこと20分。その建物は、周囲に点々と見える民家と同じように、道沿いにぽつんと建っていた。

  一見は、少し大きな木造の民家だ。向かいに設けられた乗用車3台ほどのスペースしかない駐車場と、A3用紙を二枚並べた程度の大きさの看板が、辛うじてただの民家でないことを主張している。看板と言っても、古ぼけた木の板にかすんだ文字が書かれているだけなのだが。

  「なんて読むんだ?」

  「黄牛(あめうし)の湯だ」

  地味な看板だが、達筆である。

  「意味は?」

  「さぁ」

  「知らねーのかよ」

  「俺はこの町の観光大使じゃねえ」

  瀞はそう言いつつ玄関に向かい、引き戸に手をかけて。

  「ん・・・・・・ふんっ!」

  力を込めてスライドさせた。古い建物なので、扉もスムーズに動かないようだ。

  「崩れたりしないだろうな?」

  「こういう建物の方が、かえって丈夫なんだよ」

  無茶がある持論を言いながら、瀞は金茶色の暖簾を潜っていった。温泉さえよければと思いながら、志龍もそれに続く。

  「あれ、受付の人は?」

  「ほとんどいないぞ」

  狭い玄関で靴を脱ぎつつ志龍が聞くと、さも当然であるかのように瀞は答えつつ、無人のカウンターに置いてある小さな賽銭箱に五百円玉を入れた。隣には、“1人250円”と書かれた札が置いてある。

  「おごるぜ」

  「250円って、やっすいな。でも、払わない人、絶対いるだろ」

  「田舎の人は優しいから大丈夫だ。 ・・・いや、そうでもないか。偏屈な人も多いし」

  「どっちだよ」

  「お前も田舎出身だから分かるだろ。結局都会と一緒で、良い人と悪い人がいる」

  「まぁ、分かるけど」

  狭い通路を通れば、すぐ脱衣所にたどり着く。ザルが並んだ棚とコインロッカーが4つ、洗面台にドライヤーが1台、そして扇風機と体重計が1つずつ。どれも使い古されている。

  「なんか、ホームセンターでそろえた感じだな」

  「アットホーム感があっていいだろ」

  「ゴキブリ出ないだろうな」

  「そこに殺虫剤があるぞ」

  「勘弁しろよ」

  瀞はさっさと衣服を脱ぎ始めた。志龍も古さを気にしつつも脱いでゆく。

  「こないだの飲み会で焼肉で食いすぎたからな。太ってねーかな」

  志龍はトランクスのみの姿になると、鏡の前で自分の肉体を眺め始めた。鏡に映った肉体は引き締まっており、弛みは一切見えない。しかし自分に厳しい志龍にとっては、今の肉体も理想には程遠いのだ。

  「全然太ってねえだろ」

  「いやでも、まだ無駄な肉があるな。もうちょっと絞って体重を落として、そして筋肉の増量を・・・・・・」

  志龍が渋い顔で鏡を睨んでいると大浴場へ通じる扉が開き、ずぶ濡れの男性が二人、脱衣所へ入ってきた。

  一人は長身の茶色い馬だ。長髪のような黒い鬣が生えており、湯に濡れて倒れ後頭部と首筋に張り付いている。

  もう一人は大柄な黒い牛だ。背丈は馬と同じくらいだが、太さは一回り以上大きい。

  どちらも歳は瀞や志龍と同じくらいであり、肉体は一般市民よりも遥かに鍛えられている。馬は引き締まっており、牛は筋骨隆々だ。

  「おい、もう入ろうぜ」

  「ああ」

  狭い脱衣所に4人も男がいると、息苦しさを感じずにはいられない。たまらず瀞が志龍に声をかけると、志龍の隣に体を濡らした牛が立った。

  「ふんっ」

  牛はボディービルダーのようにポーズを決めると、分厚い筋肉が更に膨れ上がった。これ見よがしに筋肉を見せつけた牛は、立派な大胸筋をぴくぴくと動かしながら横眼で志龍を見てほくそ笑む。

  「くっ」

  岩のような筋肉の牛に対抗すべく、志龍も力を込めて筋肉を膨張させた。志龍とて鍛え上げられているが、筋肉量では牛に敵わずサイズの差は圧倒的だ。

  「ぬぬぬ・・・・・・」

  「くうう・・・・・・」

  どちらが勝者か一目で分かる、猿と牛による筋肉の比べ合い。それは、馬の呆れが混じった声で終了した。

  「行くぞ」

  馬はパチンと牛の尻を叩き、脱衣所の隅にあるドアを開けた。体毛が全身から生えている獣人のための、全身型ドライヤーが設置されている小部屋だ。両側の壁から熱風が放出され、短時間での乾燥が可能となっている。

  「わりい」

  謝罪しつつ、牛は馬と共にドライヤー部屋の中へ入っていく。ドアが閉まると、すぐにけたたましい稼働音が響き始めた。それもまた旧型らしく、新型よりも圧倒的に音が大きい。

  「ちくしょう。一般市民に負けちまうとはな」

  「しょうがねえよ。多分、ラグビーやってる大学生だ。けっこう名門の。馬の方は、陸上部かもな」

  がっくりと肩を落とす志龍に、瀞は優しく声をかけてやった。

  「なんでそんな学生がこんなド田舎に来てるんだよ」

  「ちょっと離れたところに、高原地帯があってな。そこがいい練習場になるんだよ。だから、けっこう有名な学校の運動部が合宿に来たりするんだ。さっきの牛と馬もそうだろ。泊ってる民宿の温泉に入るより、少し離れてるここの温泉に入りたいって思ったんだろうな」

  説明を終えると同時に全裸になった瀞は、大浴場へ向かう。志龍は慌ててパンツを脱ぎ、期待しつつ後を追った。

  「おぉ・・・・・・」

  屋根がついた通路を少し進んだ先に広がる光景を見て、志龍は感嘆の声を上げた。

  岩でできた広い湯船に、くみ上げられた源泉が注がれている。湯船は浅く、湯は透明であるため湯船の底がはっきりと見えた。まるで清流が注がれている小さな池のようだ。深呼吸をすると、きつい硫黄の匂いはなく微量の酸味が鼻をくすぐった。

  周囲を見渡すと、湯船の周囲には小さな桶が3つほどあるだけで、シャワーやシャンプーといったものはない。さらに視線を遠くへ向けると、午後の日差しを浴びて煌めく小川の水面と、風で草木を躍らせる森林が見える。大自然を五感で味わうにはもってこいの場所だ。

  「石鹸とかないんだな。ガチで温泉のみを楽しむってわけか」

  「ああ。それにここの温泉は炭酸成分を含んでるからな。アルカリ性は中和されるし」

  「炭酸?」

  「入れば分かるよ」

  二人はかけ湯で汗を流して湯船につかった。お湯はぬるく、ぬくもりは少ないがこの季節にはちょうどいい。なんにせよ、両手足を存分に伸ばしで湯につかるだけで心地よい。

  そして10秒も経たないうちに、志龍は違和感に気付いた。

  「お、なんか、少し肌がパチパチするような」

  「だろ」

  これが炭酸の効果なのかと、志龍は自身の体を見下ろした。すると、思いもよらない光景が。

  「おっ?」

  黄金色の体毛に包まれた肉体に、爪の先ほどの小さな泡がいくつも付着していた。

  「払うなよ、それ。体にいいらしいぞ」

  驚く志龍に、瀞が解説をする。

  「血行を良くするし、美肌効果もある。関節の痛みにいいらしい」

  「へぇぇ」

  志龍が見とれていると泡の量はどんどん増えていき、やがて体中に隙間なく泡が付着した。

  「すっげ」

  「いいだろ」

  「ああ。透明でぬるいから、地味だなって思ったけど、これは、他の温泉じゃ味わえねーな」

  瀞は満足げに笑った。故郷の美点を褒められると、やはり嬉しく思う。

  そして。

  「でも、ちょっと気持ち悪い気もするな。虫に集られてるというか、エイリアンの浸食を受けているみたいで」

  「それを言うなよ!」

  悪く言われると、悔しく思う。

  「あと、もうちょっと熱い温泉も欲しいな」

  「だったら、あっちのサウナに行けばいい」

  「あー、あれ、サウナだったのか。サウナと水風呂に、交互に入るみたいな感じか」

  瀞が指さした、湯船から少し離れた場所に建つ木造の小屋を見た志龍は、納得したように頷いた。

  「でも、まだ、こっちにいるか」

  志龍は頭を湯船の淵に乗せると、首から下を炭酸泉に浸した。瀞もそれに倣い、心身ともに脱力し、控えめな湯のぬくもりと弾ける炭酸の感触を楽しむ。

  (久しぶりだと気持ちがいいな・・・・・・志龍の急な提案に乗ってよかった)

  耳を済ませば、小川のせせらぎと草木の擦れ合う音、湯が名が注がれる水音のみが聞こえる。息を吸うと、炭酸水の匂いが肺を満たす。すると、体の中から温められていくような感覚が全身に広がった。

  (そういえば、炭酸泉はぬるいけど、熱を逃がさないとか聞いたような・・・・・・)

  ぼんやりとそんなことを考えていると、ぬくもりとともに眠気が瀞を優しく包み込んでいく。

  (そういや、今日も結局、いつも通り早起きだったしな・・・・・・)

  日ごろの鍛錬で疲労が溜まっていることも相まって、意識が徐々に湯の中に溶けていく。

  このまま少し眠ってもいいかと、そう思った直後。

  「なー、瀞」

  「ん?」

  力が抜けた志龍の声で耳が揺れた。瀞は面倒くさそうに、目を開けずに返事をした。

  「やっぱり、俺の筋肉まだまだだな。さっきのラグビー牛野郎にも勝てねーし」

  瀞にとっては、心の底からどうでもいいことだった。

  「気にするな。あの牛はマッチョすぎる」

  「それでも悔しいぜ。あそこのサイズも負けてたし」

  「そこは別に負けてもいいだろ。重要なのは性能だ。あそこも、筋肉もな」

  「それは分かってるけど、もーちょい筋肉量増やしてーな」

  「筋トレもっと頑張れ」

  「ああ、そうする。お前も付き合えよ」

  「いやだ」

  「ひでーな。彼女にフラれたんだから暇だろ」

  「ぐ」

  ひと月前の苦い思い出を掘り起こされた瀞だが、温泉で浄化された心を台無しにしないよう、怒りを抑え冷静に答えた。

  「ほっとけよ」

  「新しい彼女を作るのも、大変だしな。周りに女性、いねーし。あまりにも女っ気がねーから、男のケツに欲情しそうだ。さっきの牛とか」

  酒に酔っているときならまだしも、温泉を楽しんでいる時にする話ではない。

  「お前・・・・・・中性的な美少年ならまだしも、あんなゴツい牛のでけぇケツなんかに欲情するかよ」

  「そうだな。瀞は細身が好きだもんな。確か別の部隊の、蛇獣人のお兄さんと仲が良かったっけ」

  「あれは、剣術を教えてもらってただけだ」

  「でも、けっこう噂になってるぞ。深い仲なんじゃないかって」

  「な、なんでそんな噂が広がるんだよ。ちょっと二人っきりで剣の稽古しただけで」

  「俺が誇張して他の部隊の奴らに言ったからな」

  「おま・・・・・・」

  温泉を楽しむ心を台無しにされ、しかも根も葉もない噂を流されて。

  (沈めてやる)

  冷静でいられなくなった瀞は、ゆっくり音を立てず志龍の方に体を向けた。

  直後。

  「水龍波」

  瀞の顔面を、炭酸泉の礫が襲った。

  目て鼻と口に入り、それぞれの場所に痛みが走りむせ返る。

  「ぶっ!ぶはっ!るおげっ!」

  手で起用に水鉄砲を放った志龍は、瀞に大ダメージを与えた後、即座に湯船から飛び上がってその場から離脱した。

  「今のは、正当防衛だぞ。お前、俺に攻撃を仕掛けようとしただろ。俺はあくまで、身を守るために、お前を攻撃しただけだ」

  満面の笑みで言い訳する志龍。

  「何が・・・・・・正当防衛だてめぇ!!噛みちぎってやる!!」

  怒りで我を忘れた瀞は、牙をむき出し爪を立て志龍を睨む。

  対する志龍も、迎撃すべく身構えた。

  その時。

  うわぁぁぁぁ・・・・・・

  不意に、男性の叫び声が底から聞こえてきた。

  「志龍!」

  「おう!」

  悲鳴が途切れるよりも先に、二人はくだらない争いを止めて脱衣所へ駆け出した。緩んでいた心身は一瞬で引き締まり、表情は闘争前の獣のそれに近い。

  悲鳴一つで戦士と化した若い獣たちは、倒すべき標的の元へ走った。

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  古にて、神の手で人と獣が交わり合い誕生した獣人は、心に理性の火を灯し、体に野性の力を宿し、長い歴史の中で多くの困難を乗り越えながら生き抜いてきた。そして今、獣人たちは優れた知能と精強な肉体で高度な文明を手にし、豊かで平和な生活を謳歌している。

  しかし、獣人たちの中から、ごく稀に生まれるのだ。理性が崩壊し、野性が暴走した、存在してはならない凶悪な獣が。

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  瀞と志龍は、互いにパンツ一丁の姿で黄牛の湯の前に飛び出た。そこには、先ほどの牛と馬が倒れていた。

  「おい、大丈夫か?」

  瀞は馬に近寄り、肩を叩いて呼びかける。しかし返事はない。それどころか。

  「あぅぅ・・・・・・ぬくみだいおんじわしたにあじむうすきひたひたひた」

  うつろな目つきで瀞の顔を見返し、意味不明な言葉を言い始めた。

  「聞こえるか?」

  「ぐふふ・・・・・・きばるくばるこうばるはいたばるるるるるる」

  志龍も牛の様子を見るが、馬と同様に正気を失っている。

  「催眠に掛かっているのか?」

  「多分そうだろうな。匂いはあるか?」

  志龍に問われた瀞は、地面に伏して嗅覚を研ぎ澄まし、不審な匂いを鼻で探し始めた。ゆっくりと路上を這うように移動しつつ、黒い鼻をひくひくと動かしながら。志龍はその間、周囲を目と耳で警戒する。

  「あった」

  そして、優秀な瀞の嗅覚は1分も経たないうちにそれを見つけた。温泉の香りに隠れているが、微かに牛や馬とは違う匂いがある。この独特の獣の匂いは、間違いない。

  「ライカンスロープだ」

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  ライカンスロープ。

  それは、突如獣人たちの前に現れ、見境なく暴れて獣人たちを傷つけ、爪跡を残すとどこかへ去っていく危険生物のことである。

  容姿は醜悪で禍々しく、身体能力は高く肉体は頑丈で、催眠などの特殊な能力を持つ個体もある。加えて性格は非常に攻撃的であり、無差別に獣人に襲い掛かる。

  その正体については研究が進められているが、未だ謎に包まれている。生物兵器、地球外生命体、古代生物など様々な説が出ているが、どれも推測の域を出ていなかった。

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  「瀞、辿れるか?」

  「任せろ」

  瀞は目を閉じて視覚を遮断すると、さらに嗅覚を研ぎ澄ました。

  すると、暗闇の中で様々な“匂い”が浮かび上がってくる。それらは煙のように、瀞の周囲を取り囲み漂っていた。

  その中から、目当ての“匂い”を探す。

  草木や土、温泉の匂いに紛れている獣の匂いを。

  緑や茶、青色の煙に交じっている、ごくわずかな赤色を。

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  ライカンスロープが起こす事件は少ないが、決して無くなることはない。獣人たちは、常に正体不明の脅威に晒されていた。

  そこで政府はライカンスロープの被害から獣人たちを守るため、ライカンスロープの捜索と討伐、研究を目的とした機関、“BAT(Beast Assault Team)”を設立した。正体不明の怪物を相手とする組織であるため、全国から集められた優秀な科学者や兵士から構成されている。

  瀞と志龍もまだ若いがBATの一員であり、ライカンスロープの討伐を担当としている実動部隊に所属している。倒れている馬と牛、そして独特の獣の匂いにより、ライカンスロープが近くにいると断定した二人は、即座に行動を開始した。

  標的を狩るための行動を。

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  瀞は携帯電話で本部に応援を要請し、温泉の管理人にも事情をかいつまんで説明した。

  志龍はその間に馬と牛を温泉内に運び、救急車を呼ぶ。

  「本部は何だって?」

  温泉でじゃれ合っていた時とは打って変わって真剣な志龍は、さながら鞘から抜かれた刀のようだ。頼もしく思いつつ、瀞は答える。

  「敵を追えってよ。武器は無いけど、これ以上被害を広めるわけにはいかないしな」

  瀞は受付の内側に入り、業務員用のロッカーを開けながら答えた。

  「よし、すぐに行くぞ」

  下着姿のまま、志龍は先を促した。どうせ防具はない。動きにくい服装で戦うより、この方がマシと判断したのだ。

  「分かってるよ」

  瀞はロッカーの中から目当てのものを取り出した。

  それは、新品同様の真新しい黒檀の木刀だ。瀞が好んで使用する、刃渡り60センチほどの日本刀と同等の長さである。

  「ここの番頭さんが、京都旅行で買ったらしくてな。前に見せてくれたんだよ。お前の分はないけど」

  「別にいい。急ぐぞ」

  志龍は先に温泉から出ていった。

  毎度のことだ。志龍は任務や訓練の時、性格が別人のように変わってしまう。冗談を言うことも他人をからかうこともなくなり、自身の使命を果たすことに専念する。

  (見習わないとな)

  瀞も後を追った。

  突如始まる戦闘。敵は場所も時間も選んでくれない。温泉で疲れをいやしている最中でも、次の瞬間には戦いに駆り出されることとなる。

  心身共に準備はできていない。しかし、経験は浅くても二人は何度か実戦を経験している。

  だからこそ、この状況に対応できた。一瞬でただの青年から兵士となった二人は、ライカンスロープが残した匂いを追った。

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  政府はライカンスロープの存在を公表していない。

  偽情報が広まり詐欺事件や差別が発生したり、人々が過剰なまでにライカンスロープを恐怖したりするなどして、世間が混乱することを防ぐためだ。無論BATの存在も秘匿事項であり、瀞たちは極秘裏にライカンスロープを倒している。

  日の当たる場所に出ることはなく、闇の中で人知れず怪物たちと戦う。

  それが、BATなのだ。

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  両脇を森林に挟まれた坂道を、飴色の犬と黄金色の猿が木漏れ日を浴びつつ走る。

  瀞は森に紛れた獣の匂いを嗅ぎ、志龍はそれを補うように視覚と聴覚を研ぎずませながら。

  「あ、この先」

  「なんだ?」

  不意に、瀞が足を止めて顔を上げた。志龍も立ち止まってその視線を追うと、予想外のものが視界に飛び込んできた。

  「あれ、鳥居か?」

  斜面の上る道の先には、古ぼけた小さな木製の鳥居が建てられてあった。高さは2メートル、幅は1.5メートル程度しかない。完成当時は朱色だったようだが今は色あせており、大半の部位の色が剥がれて元の薄茶色に戻っている。

  ぼろぼろの鳥居は、1つではなかった。間隔をあけず無数の鳥居が連なっており、トンネルのようになっている。所謂、千本鳥居だ。大きな亀裂が走ったものもあれば、壊れて倒れているものもあり、壮観とは言い難いが。通路は大小さまざまな石を並べた階段となっており、凹凸は多く苔も生えているが多少は歩きやすそうだ。

  「こんなところに神社かよ」

  「ああ、聞いたことがある」

  鳥居が連なる坂道を、二人は警戒しつつ上ってゆく。頂上にたどり着くと、そこには意外と広い空地があった。地面は雑草だらけだが、木は生えていない。

  空地の中央には小さな祠があった。古ぼけてはいるものの、鳥居ほど傷んではいない。また、祠の両側には台座があり、各々の上には狐の石像が鎮座してあった。古ぼけた祠や鳥居には不釣り合いなほどに精工で、まるで生きているかのようだ。狛犬のように座っているが、どちらも顔がこちらを向いており、鋭い双眼で睨みつけてくる。

  「誰かが管理してるのか?」

  「地元の人がしてると思うぞ。やけにきれいだし」

  そう言いながら、瀞は匂いの元を辿った。祠の右側を通り、裏へと続いている。

  すると。

  「ん?」

  「どうした?」

  瀞は地に伏せたまま何度も獣の匂いを探した。しかし、祠の裏でさっぱり消えていた。

  「消えた」

  「マジかよ」

  瀞は立ち上がり、散らばった液体をかき集めようとするかのように周囲の匂いをまとめて吸い込んだが、やはり目当ての匂いは見つからない。

  「ねえな・・・・・・戻り足か?」

  「来た道を引き返したってことか?森にでも逃げ込んだのか・・・・・・」

  志龍は、歩いてきた道を振り返ってみた。

  視界に、狐の石像が乗っていた台座が入る。

  「あ」

  台座の上の狐が、いつの間にか消えていた。

  「ぅえっ!!」

  直前で敵の接近を察知した志龍は、叫びながら後方に跳んだ。

  瀞も志龍の意図を察し、その場から離れる。

  直後、祠の上から金色の影が飛び、志龍めがけて急降下した。

  一方、瀞には祠の下から銀色の影が地を這うように接近する。

  そして、2つの影は同時に爪を振るった。

  「ぐっ!」

  「ぅいっ!」

  二人は辛うじてそれを躱し、姿を現した敵を睨みつけた。

  金と狐と、銀の狐。細くしなやかな肉体を艶と光沢を持つ体毛で覆っており、その毛並みは見とれるほどに美しい。

  しかし、両手足に生えた赤い爪は非常に鋭く立派な凶器と言えた。顔つきは神楽で使う狐面のようであり、どのような感情を抱いているかは読めなかったが、友好的でないことは先ほどの一撃でよく分かった。

  (初めて見るライカンスロープだな)

  瀞は銀狐と、志龍は金狐と向かい合う。2体の狐は尻尾をくねらせつつ、身構える瀞と志龍をじっと見つめていたが。

  「カッ!」

  甲高く叫ぶと、煌めく残像を残しつつ高速で二人に襲い掛かった。

  「くぅ!」

  志龍は上から振り下ろされた金狐の爪を、後退して避けた。

  狐の骨格は人型であり、体格は志龍と同等だが、爪がある分リーチは狐に分がある。

  金狐は休むことなく斬撃を打ち込んでくる。

  高速で繰り出される爪の連撃を、志龍は躱し続けるしかなかった。

  「せぃ!」

  一方、木刀を持つ瀞は銀狐より間合いが広い。

  それを活かし、向かってくる銀狐へ上段に構えた木刀を打ち下ろす。

  だが左に跳んだ銀狐に躱された。

  回避に成功した銀狐は、再び低い姿勢で踏み込み間合いを詰め、足元目がけて爪を振るった。

  瀞は後方に跳んで避けたが、銀狐は追尾しつつ脚を払おうとしてくる。

  下段の攻撃は防御が難しい。

  仮に成功しても、爪が木刀を切り裂く可能性も高い。

  ジャンプして無防備な状態を晒すわけにもいかず、瀞は避ける以外に選択肢がなかった。

  (やっべ!刈られる!)

  このままじゃ、やがて追いつかれる。

  瀞が危機を感じた直後、銀狐の連撃が疲労により一瞬止まった。

  即座に瀞は大きく後方に跳び、距離を取った。

  銀狐はすぐに呼吸を整えると、再び低い姿勢で瀞に向かう。

  防戦一方の展開を打破すべく、瀞も攻めに転じた。

  木刀を下段に構え、銀狐と同じく身を低くして踏み込む。

  銀狐と同等の速度の踏み込みから、その顔を目がけて右切上を放つ。

  想定外の一撃だが、銀狐の反応は速く両腕で顔を覆って防御する。

  しかしその打ち込みは速度だけでなく、威力も狐の想定を超えていた。

  「ギッ!」

  木刀による一閃を銀狐は止められず、防いだ両腕が顔面に当たり、さらには前進も止められる。

  「っらぁ!」

  瀞はそのまま木刀を振りぬいた。

  力負けした銀狐は上体を起こされ、後方へ吹き飛ぶ。

  逃がさんと言わんばかりに瀞は踏み込み、逆袈裟の一撃を打つ。

  カッ

  しかしその一撃が命中する直前、体勢を立て直した銀狐が右腕を振るった。

  切断された木刀の切っ先が、地面に落ちる。

  「いっ!?」

  驚愕する瀞の首を狙い、銀狐が左腕を払う。

  だが瀞も負けていない。

  間一髪、しゃがんで回避した瀞は両脚で地を蹴り、銀狐の顎により強力な切上を打ち込んだ。

  「でぁ!!」

  それは、見事に命中する。

  一閃の直撃を受けた銀狐は弧を描きつつ吹き飛び、地面に落下して意識を失った。

  「志龍!」

  瀞はすぐに親友を方を見た。状況は変わらず、金狐の攻撃を志龍がひたすら避け続けている。

  だが志龍が不利というわけではないことに、瀞はすぐに気づいた。

  金狐の攻撃を、志龍は全て見切っている。爪の連撃は鋭く速いが、初動から次の行動を予測し、正確に距離を測り、ステップや上体反らしなど適当かつ最低限の動きで上手く避けているのだ。

  それでも瀞が加勢に行こうとしたその時、戦いが動いた。

  金狐が突きを放った瞬間、志龍は躱しつつ踏み込んで右拳を打つ。

  「ギッ!」

  鮮やかなカウンターが金狐の頭部に命中する。

  金狐がたたらを踏んで後退すると、志龍はさらに踏み込み右足で下段蹴りを打ち、追い打ちの左拳をがら空きの腹部に放った。

  「カッ!」

  「しっ!」

  そして、志龍の猛攻が始まった。

  動きが止まった金狐の懐に飛び込むと、急所目がけて嵐のような連打をお見舞いする。

  軽量級であるが故に威力に欠けているものの、矢のような速度が、機関銃のような手数の多さが、機械のような精度の高さがそれを補っていた。

  「ガァッ!」

  やがて、志龍の右正拳突きを受けた金狐が後方に吹き飛んだ。志龍はそれを追いかけ、追撃を狙う。

  「ハッ!」

  金狐は苦し紛れに腕を振り上げるも、それより早く志龍の後ろ蹴りが胸部に炸裂した。

  「ガハッ!」

  更に大きく吹き飛んだ金狐は、巨木に激突して崩れ落ちた。

  「ふぅぅ」

  志龍は大きく深呼吸をして、連打によって失った酸素をしっかりと補給した。

  「加勢は必要なかったな」

  親友の見事な戦いぶりを見た瀞は、安堵しつつ志龍に駆け寄ろうとした。

  「おい、ちゃんととどめを・・・・・・瀞!」

  心に隙が生じた瀞を咎めようとした志龍だったが、再び身構え瀞の後方を睨んだ。

  緊張する志龍の様子を見た瀞は、その意味を察して構えつつ振り返る。

  そこには、再び低い姿勢で接近してくる銀狐の姿があった。

  とどめを刺すべきだったと一瞬だけ後悔した瀞は、気持ちを迎撃に切り替える。

  銀狐の速度は先ほどより遅い。十分対処できる。

  木刀は切っ先を切られてやや短くなっているので、それを注意しつつ戦えばいい。

  瀞がそう判断し下段の構えを取ると、銀狐は瀞の間合いの手前で回転した。

  (なっ!?)

  回し蹴りを警戒した瀞の眼前に、銀色の鞭が迫る。銀狐の尻尾だ。

  大きいとは思っていたが、攻撃にも使えるようだ。

  寸前にそれに気づいた瀞は、上半身を反らし紙一重で躱す。

  回避に成功した瀞は、踏み込もうとしたのだが。

  「ぐっ!」

  首に何かが巻き付いた。柔らかい毛に覆われた、何かが。

  (しまった、こいつ!)

  その正体に気付いた瀞だったが、もう遅い。首には銀狐の尻尾がしっかりと巻き付き、締め付けてきた。

  そして、先に空振りしたもう1本の尻尾が木刀を握る右手首にも巻き付いてくる。

  銀狐は尾を2本持っていた。それを束ねて1本に見せていたのだ。

  「ぐぅ・・・・・・」

  締め付ける力は強力とは言えないが、酸素の供給を遮断させるには十分な力があった。反撃したくとも喉を締め付けられては力が入らず、瀞は張り付けられたかのように動けなくなった。

  「瀞!」

  親友を救うべく、志龍が銀狐へと向かう。

  すると倒れていた金狐が覚醒し、志龍へと向かってきた。

  「ちっ!」

  志龍は体を金狐に向け、迎撃態勢を取る。金狐を瞬殺して瀞を救わなければならない。

  先ほどのように爪が来るか、それとも尾で攻撃してくるのか。

  警戒する志龍に対し、金狐は急停止して構えを解いた。

  相手の不可解な行動を目の当たりにしても慌てず、志龍はこちらから仕掛けてやろうと警戒しつつ踏み込む。

  すると、糸のように細かった金狐の目が、かっと大きく見開かれた。

  「んんっ!?」

  それは、生物の目には見えなかった。

  黒く細長い裂け目が入った、琥珀色の丸い宝石のようだ。

  やがて裂け目は大きくなっていき、琥珀の宝玉を全て覆いつくす。

  すると。

  「ガアアアアアア!!」

  突如、金狐が咆哮を上げつつ巨大化した。

  「んなっ!?」

  一瞬で3メートルほどの巨体にまで成長した金狐は、志龍を見下ろし、腕を大きく振りかぶった。

  (来る!躱せ!)

  強力な一撃を警戒した志龍だったが、その攻撃が放たれることはなかった。

  巨大化した金狐の姿が煙のように消えてしまったのだ。

  (え・・・・・・あ、しまった!!)

  意味も分からず困惑する志龍は、直後に理解して視線を元に戻す。しかし、先ほどまで金狐が立っていた場所には誰もいなかった。

  「くぉっ!!」

  志龍はとっさに右へ跳んだ。直後、志龍がいた場所に金狐の爪が走る。

  背後に回った金狐の奇襲を辛うじて躱した志龍だったが、次の攻撃を避ける余裕はなかった。

  「キィッ!」

  「ぐっ!」

  金狐の回し蹴りが、志龍の脇腹に命中した。

  細身の割には威力が高く、志龍は吹き飛び祠に激突した。祠は派手な音を立てつつ崩壊し、志龍はがれきに埋もれてしまう。

  (催眠術・・・・・・分かってただろうが!)

  志龍が見た“金狐の巨大化”は、金狐が見せた幻だ。金狐は相手の目を数秒間見つめるだけで幻術にかけることができる。先ほど瀞たちと出会った牛と馬の青年も、同様の術をかけられている。

  催眠術を使うことは分かっていたが、失念していた。志龍はがれきの中で、己の失態を悔いた。

  (志龍・・・・・・くっそ!)

  仲間がやられたこと視界の隅で見ていた瀞は、すでに意識が遠のいていた。空いた左手で首の尻尾を外そうとするが、首に食い込んでいるため叶わない。

  (どうする!?二人そろってやられちまう・・・・・・)

  金狐が、瀞に向かって歩いてきた。このままでは、無抵抗のまま仕留められるだろう。

  (負けて・・・・・・たまるか!!)

  絶望的な状況に陥れば、心が屈服し、勝つことにも生き残ることにも諦めてしまう。

  しかし、瀞は諦めなかった。兵士としての使命感、仲間を思う友情、生物としての生存本能。そして、敗北したくないという勝利への渇望。全てが力を与えてくれた。

  「くうぅ・・・・・・!!」

  左手で銀狐の尻尾を掴み、渾身の力を込めて引き寄せる。

  仕留める直前の獲物が想定外の力を出して銀狐は驚くが、何とか踏ん張って尻尾の力を強めた。

  どんなに腕を伸ばしても、銀狐には届かない。しかし、口元に尻尾を手繰り寄せることは出来た。

  瀞は口を開けると、銀狐の尻尾に噛みついた。

  「キィィィィ!!」

  銀狐の尻尾の力が緩む。

  瀞はすかさず尻尾の拘束を解き、木刀を拾い銀狐に向かって突っ込み、脳天に唐竹割を打ち込んだ。

  銀狐は、糸を切られた操り人形のように崩れ落ちる。

  「かはっ!」

  そこで瀞はようやく呼吸をし、喉の痛みと息苦しさから解放された。だが。

  「瀞!」

  瓦礫から出てきた志龍の叫びを聞いて振り返ると、金狐が迫っていた。

  まだ回復したとは言えないが、やるしかない。

  瀞は最後の力を振り絞り、金狐に向き直った。

  「ガハッ!」

  しかし、右から飛来してきた硬質な物体の直撃を受け、金狐は左へ転倒してしまった。

  直後、重量感がある音とともに金狐を襲った物体が地面に落下する。

  それは、バスケットボールほどの大きさの石だ。神舎へ続く道の途中にあった石の階段で拾ってきたのだろう。

  何故こんな物がと瀞が驚いていると、目の前を黒い巨体が高速で横切った。

  「どりゃあ!!」

  巨体の主は意外と高い掛け声を発しつつ、倒れている金狐を蹴り上げた。

  宙を舞う狐は上空に吹き飛び巨木の幹に激突した。

  巨体の主は落下して行く金狐の着地点に走り。

  「おらぁ!!」

  再び気合の掛け声とともに、地面に落下する直前の金狐目がけて右ストレートをぶち込んだ。

  大きな拳が細い胴体に直撃し、深々と突き刺さる。

  衝撃は内臓に大きな痛手を与えつつ、貫通して背後の樹木にまで到達した。

  巨木が悶えるように揺れ動き、ガサガサと悲鳴を上げつつ葉っぱを落とした。

  (すげえ・・・・・・なんだ、あのゴリラ?)

  金狐を一瞬で仕留め、落葉の雨を浴びながら振り返った巨体の戦士は、漆黒の体毛を纏うゴリラの獣人だった。

  2メートルに迫る身長に、鎧のような筋肉を身に着け、凛々しい表情で周囲の状況を見渡し脅威となる存在の有無を確認している。間違いなく、BATの隊員だ。

  シャツに短パンといういで立ちで、武器は何も持っていない。おそらく、自分たちと同様に休暇中だったのだろう。しかし、その肉体そのものが武器と言っても過言ではないだろう。現に、金狐を見事に瞬殺してしまったのだから。

  任務の成功を喜び、自身と仲間の生還に安堵し、ゴリラの強さに畏敬の念を抱き、そしてほんの少しだけ悔しいと思いながら、瀞と志龍はゴリラを眺めていた。

  -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

  陽光がオレンジ色に変わりつつある頃、瀞と志龍、そしてゴリラの三人は、回収した狐たちを乗せたBATの車両を“黄牛の湯”の駐車場で見送った。古ぼけたベンチに腰かけ、スポーツドリンクで喉を潤しながら。

  狐たちを捕縛した後、数分後に現場に到着したBATの職員たちの仕事は非常に迅速だった。瀞たちから事件の内容を聞き取り、狐たちを回収し、戦闘の証拠を隠滅し終えると、すぐに支部へ帰還してしまった。

  牛と馬は病院に運ばれたが、命に別状はないようだ。現地の警察組織や行政機関への連絡も完了しているらしい。もっとも、今回は近隣の住民に事件を目撃されなかったため、隠蔽工作にそれほど苦労しなかったようだが。

  そして瀞たちは、大きな怪我はなく事情の聞き取りも終わったため、支部への帰還や入院の必要はなく、休日続行となった。

  「終わったか・・・・・・ほんと、助かったよ。ありがとうな」

  瀞は改めて、隣に座るゴリラに礼を言った。

  「いいよ、別に。普通に仕事しただけだし」

  ゴリラはぶっきらぼうに答えた。

  「あんたがいなかったら、マジで死んでたかもしれねーしな。感謝するぜ」

  「いいって。感謝って何回もするもんじゃねえだろ」

  瀞の隣から志龍が礼を言っても、ゴリラの態度は変わらない。

  「それにしても、とんだ休日になったな」

  「ああ。あんたも休みで、温泉に入りに来たのか?」

  「まぁな。少し前に、こっちの支部に移動されたんだ。こっちの地理には詳しくねえからな。休みの時は色々回ってんだよ。で、ちょうど走ってたら、連絡が来てな」

  ゴリラはそう説明し、ポケットから携帯電話を取り出した。BATの隊員専用の端末であり、緊急の指令が暗号化されて届くようになっている。

  「そうだったのか。運がよかったな、俺たち」

  「ほんと。しっかし、休みの日もそんなことしてるなんて、すげーな」

  「本当はしたくねえけど、隊長がやれって言うからな・・・・・・ほんと、お堅い奴が上司になると、つれえよ」

  ゴリラはそんなことをぼやきつつ苦笑した。ようやく、笑顔を見ることができた。

  「それより、あんた、めちゃくちゃつえーな!ガタイ良くて、筋肉もめっちゃあるし、それでスピードも落ちてねーし!」

  志龍は目を輝かせてゴリラの身体を眺めた。武術家でもある志龍にとって、体術のみでライカンスロープと渡り合うゴリラの戦いぶりと、それを可能とする肉体は、大いに興味をそそられるものだった。

  「まぁ、それなりに、努力はしてるしな」

  照れた顔をするゴリラの体を、瀞もよく見てみた。温泉で見た牛の筋肉とサイズは同じくらいだが、硬質な肉体の牛に対し、ゴリラはしなやかさをも兼ね備えているように見えた。年齢は同じくらいだろうが、単純な戦闘能力は自分や志龍より圧倒気に高いだろう。悔しいが、認めざるを得ない。

  「訓練のこととか聞かせてくれねーか?一緒に温泉でも入りながら。また汗かいたしな」

  「いや、お前、別に話をするのはいいけどよ、一緒に温泉はだめだろ。一緒に飯とかならいいけど」

  「は?なんで?」

  一緒に温泉に入浴することを拒まれた志龍は、その意味が分からず首を傾げた。

  「裸見られるのが恥ずかしいのか?男同士で気にすることねーだろ」

  志龍がそう言った瞬間、ゴリラは手にしていたスポーツドリンクの缶を握りつぶした。まるで、紙をつぶすかのように、あっさりと。そして、文字通り鬼のような形相で志龍を睨みつける。

  「な?何怒って・・・・・・」

  「俺は・・・・・・女だ!!」

  「え・・・・・・はぁぁ!?」

  驚愕する志龍。その様子が気に入らなかったらしく、ゴリラは立ち上がって志龍に掴みかかった。志龍は身軽に躱し、ゴリラから距離を取る。

  「いや、だって!そんなガタイいいしマッチョだし!口調だって!」

  「女でもでかい奴はいるだろ!口調だって、こんな女子いるだろ!」

  「いねーよ、今時!しかも、おっぱいもねーじゃん!」

  「おっぱ・・・ねーって・・・走るときはサラシ巻いてんだよお!揺れて邪魔になるからなぁ!」

  「確かに、大胸筋にしちゃ、膨らみが大きいとは思ったし、声も男にしちゃ高いと思ったけど・・・・・・揺れるほどあんの?あんたの胸。偏見だけど、なさそー」

  「て、てんめぇぇぇぇ」

  ゴリラ戦士は怒りのあまり全身の筋肉が膨張している。今にもシャツが弾け飛んでしまいそうだ。

  「お、おい、瀞!お前だって、男と思っていただろ!」

  自分に向けられた憎悪を半分にするため、志龍は瀞に向かって叫ぶ。しかし。

  「いや、俺は初めから女って気づいていたぜ」

  瀞は、さも当然であるかのように言った。ゴリラの顔が、少しだけほころぶ。

  だが。

  「は?何で?」

  「だって、匂いで。女性の匂いだったし」

  瀞のその一言で、再び女性の顔に憤怒が張り付けられた。

  「貴様ぁ・・・・・・女性の体臭嗅ぐような趣味があるのか!!この変態がぁぁ!!」

  「ち、違う!!犬は鼻がいいから、意識しなくても嗅いじゃうんだよ!!」

  「言い訳すんな!!」

  ゴリラの標的が変わった。荒い鼻息を噴き出しつつ、ゴリラは犬に鉄拳を突き出す。

  瀞は首をひねって躱し、ゴリラの左を通り抜け、命を守るべく全力で地を蹴る。

  「いでっ!!」

  だが、ゴリラが投げつけたアルミ缶の残骸を後頭部にぶつけられ、倒れてしまった。その隙に、接近したゴリラに背中を踏みつけられる。凄まじい重量感であるため、はねのけることは出来なかった。

  「志龍!助けてくれ!」

  「諦めるな、瀞!最後まで自分を信じて頑張るんだー!!」

  志龍に助けを求めたが、親友は応援を叫びつつ走り去っていった。

  「応援なんぞいらねえから助けろや!!ぐっ」

  ふいに、ゴリラの大きな右手が瀞の頭部を掴み。

  「らああああああ!!!」

  「ぎゃあああああ!!!」

  岩をも砕く握力で締め上げてきた。

  ゴリラの握力は凄まじく、計り知れない激痛に襲われ、瀞の意識は夕日の中に溶けていった。

  -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

  「はぁぁぁぁ・・・・・・」

  温泉としては小さいが、全身を伸ばせるだけの広さの湯船に浸かり、瀞は目を閉じて大きく息を吐いた。湯船を満たす黄土色の湯は先ほどの炭酸泉と違い熱めだが、湯から出ている顔を夕方の冷えた風が撫でていくためこのくらいが丁度いい。

  温めの温泉とは違った心地よさを味わいつつ目を開けると、夕焼けに染まった河原の光景が広がっている。近くを流れるオレンジ色に光る流水は、昼とは違った魅力を秘めていた。

  「こんな温泉もあるんだな」

  湯船の淵に腰かけ脚だけを湯につけた水着姿の志龍は、周囲を見渡しながら呟いた。

  二人が入っている湯船は、河原のなかにぽつんと建てられていた。壁や天井はなく、完全なる露天風呂だ。川から少し離れた場所には農道もあり、時折農作業帰りの軽トラックが走っている。

  付近の源泉から直接お湯を引いてきており、立派な源泉かけ流しだ。温泉を毎日浴びた湯船は湯と同じく黄土色に染まっており、お湯の成分が濃厚であることが一目で分かった。

  「まぁな」

  「無料で露天風呂に入れるとはなー」

  「しかも混浴だしな。ま、若いお姉さんなんか、入らないけど」

  「はなっから期待してねーよ」

  農道を通る人からは丸見えなので水着の着用は義務付けられているが、河原の温泉はだれでも自由に無料で入ることができる温泉だ。入浴の様子を通行人に見られてしまうが、大自然の中で堂々と温泉を楽しむことができる。激戦で汗と泥まみれになり、疲労した心身を癒すにはもってこいな環境だ。混浴であることの利点は得られないが、それでも二人は十分に温泉を楽しめていた。

  「しかし、今日はちょっと悔しかったな」

  初めて見る珍しい温泉にはしゃいでいた志龍だが、不意に声のトーンを下げて呟いた。

  「ああ」

  真剣さを感じ取った瀞が再び志龍に目を向けると、相変わらず湯船に腰かけたまま腕を組み、鋭い目つきで河原を睨む志龍の姿が。

  ただ反省しているだけではない。付き合いが長いからこそ、瀞は志龍の心情を読み取ることができた。

  「俺たちだけで終わらせたかったんだけどな」

  「まだまだだな、俺たち」

  「しかもあのゴリラ、すっげえ強かった。俺と違って、2発で狐をKOしやがった」

  志龍は目の前で拳を作り、悔し気に見つめている。その拳は、ゴリラのそれより一回り以上小さい。

  「対格差はどうしようもねえからな」

  「ああ。でも、もっと技量とスピードがあれば、補えるはずなんだ。現に、それが出来てる人だっているしな」

  強さを追い求める志龍は、自身の小さな体格にコンプレックスを感じている。だからこそ、恵まれた体躯を存分に活かし多大な戦果をたたき出すゴリラに対し、羨望の眼差しを向けているはずだ。同時に、無力な自身に歯がゆさを感じているのだろう。

  しかし、志龍に慰めの言葉はいらないということを、瀞はよく理解している。

  「あそこで、ああすればよかったな。そして・・・・・・」

  身内に妬みの視線を向けたり、自身の体躯を卑下したり、志龍はそんなことを決してしない。今回の戦いを振り返り、改善点を見つけ、反省とイメージトレーニングを繰り返していることだろう。

  「でも、ま、今は休めよ。せっかく温泉に来ているんだからな」

  瀞は黄土色の湯を両手で掬い、顔を洗った。風で冷えた顔が、熱い湯で温められて心地が良い。

  「温泉ってのは、休む所だからな。心も体も疲れた時に、ほっとするために入るんだ」

  動き回って、悩み悩んで、夜遅くまで頑張って。

  身も心も疲れた時こそ、温泉に入りたい。

  大地から生まれた湯に浸れば、心身の中の淀みが消え、魂が浄化されると。

  瀞はそう思っている。

  だからこそ、今は親友にもゆっくり休んでほしかった。

  「そうだな」

  志龍は頷いて、湯に体を沈めた。瀞も同じように、肩まで湯に浸して目を閉じる。

  川のせせらぎを聞きながら、顔で風の涼しさを感じ、体で湯の暖かさを楽しむ。浄化されるという比喩は、決して大げさではないほどに快い。

  明後日から再開する、過酷な訓練と戦いの日々。その合間にほんの少しだけ存在する、安息の日々。瀞は親友と共に、その一時を噛み締めるように湯の癒しを味わう。

  兵士だって、いや、どんな人だって、頑張り続けて疲れたら、休んでいいのだ。

  そんなことを考えながら湯につかっていると。

  「水龍砲」

  瀞の顔面を熱い激流が襲った。

  「ぶはっ!」

  鼻に湯が入り、口を開けたために口にも入る。

  一瞬で覚醒した瀞は、口から温泉を噴水のように吹き上げた。しかし、湯の一部が気管に入ってしまい呼吸ができない。苦しさのあまりもがいたため、湯船の淵に乗せていた頭が落ちて湯の中に沈んでしまった。

  「ぶばぁぁ!!」

  湯から飛び出した瀞は、湯船から出て河原の上に倒れ肺の中に入ったお湯を何度もせき込み吐き出した。

  「だーっはっはっはっは!!」

  その姿を、志龍は爆笑しつつ見下ろしていた。瀞に不意打ちを仕掛けた猿は、既にいつもの様子に戻っていた。いたずら好きの猿に。

  「志龍、貴様・・・・・・噛み殺してやらぁ!!」

  瀞が志龍に跳びかかろうとした瞬間。

  「水龍大爆波!!」

  志龍は温泉の中で渾身のアッパーを放った。

  結果、巨大なお湯の壁が発生し瀞に襲い掛かった。

  「ぶわっ!」

  直撃を受けた瀞は、水圧に押されて後方に倒れそうになる。踏ん張ろうとしたが、お湯で滑ってしまう。

  「うわっ!わっ!わっ!」

  バランスを取ろうとするも叶わず、どんどん後ろに下がっていく。このままでは仰向けに倒れると思われたが。

  「あっぶね!」

  直前に、脱衣所となっている小屋から黒い巨体が飛び出し、瀞を受け止めた。

  「大丈夫か?」

  「は、はい。ありがとうございます」

  受け止めてくれた親切な人物に、瀞は礼を言った。お湯が目に入ったせいでまだ目を開けられず、どんな人物か分からないがかなり逞しい肉体のようだ。

  声は上から聞こえてくるので、身長は自分より高い。背中で感じる筋肉は硬く、しかし後頭部が密着している大胸筋のあたりは妙に柔らかい。しかも、上半身まで水着で覆っているようだ。

  疑問に思いつつ、瀞は顔を上に向けて痛みが引いた目を開けた。

  「あっ」

  そこには、こちらを見下ろし睨みつけてくるゴリラの顔があった。そう、先程自分に、渾身のアイアンクローを決めたゴリラの女性兵士が。

  あの後、ゴリラは瀞だけでなく志龍にも鉄拳による制裁を施し、二人と別れてジョギングを再開し、せっかくだからと温泉に入ったのだが・・・・・どうやら、不幸にも瀞たちと同じ温泉を選択してしまったようだ。

  (そうか、道理で柔らかいと思った。筋肉じゃなくておっぱい・・・・・・って、そんなこと考えてる場合じゃねえ!!)

  ゴリラから憤怒を向けられ、瀞は実戦以上に緊張していた。男扱いされた怒りが抜けていないらしく、しかも不可抗力とは言え胸に後頭部を押し付けることとなったのだから、怒るのも当然かもしれない。最も、ゴリラは自分から瀞を支えたのだが。

  (こういう時は、どうする・・・・・・謝罪?いや、意味はなさそうだ。それよりも、褒めて喜ばそう!)

  瀞はそう決断し、ゴリラを褒める言葉を模索した。

  (ゴリラは強い。でも、もっと別のことろを褒めるべきだ。そう、ゴリラは男扱いされて怒っていたからな。つまり!)

  たった1秒の思考時間で最高の誉め言葉を用意した瀞は、ひきつった笑みを浮かべながら口を開いた。

  「ほんと、あんたがさっき言った通り、意外と胸、大きいな」

  瀞が献上した、ゴリラへの最上の誉め言葉。それは、意外と豊満な乳房を讃えるというものだった。瀞はゴリラの肉体に欠片も興奮しておらず、心が籠っていない誉め言葉だったのだが、それでもゴリラは喜んでくれると思ったのだが。

  「ぐっ!」

  ゴリラの太い腕が瀞の首に巻き付く。チョークを極められた。

  「てんめぇ、人を男扱いしただけでもひでえのに、セクハラ発言まで!!」

  ゴリラは瀞の渾身の誉め言葉を、セクハラととらえたのだ。増幅された怒りで更に恐ろしくなった表情で瀞を見下ろし、隆起した筋肉を駆使して瀞の首を容赦なく締め付ける。

  「ちがっ、褒めた・・・・・・」

  「どこがだ!」

  「胸の、大きさ、自慢してたろ・・・・・・」

  「男のてめえが、胸にあたま押し付けながら言ったら、完全なセクハラ発言かつセクハラ行為になるだろ!!」

  「ふ、不可、抗力・・・・・・てか、お前から、ぶつかって・・・・・・」

  「助けてやったのに、ぶつかってきただと!!」

  「言葉のあや・・・・・・」

  「あやもくそもあるか!!」

  思いは届かずすれ違い、ゴリラの怒りは収まらず、締め付けは強くなる。

  (志龍・・・・・・いねえ)

  助けを求めようと湯船に視線を向けたが、とばっちりを避けるため志龍は既に消えていた。

  (あの野郎、今度会ったら、絶対に噛み殺してやる。そして、今度こそ、癒されるために、温泉に、入るぞ・・・・・・)

  薄れゆく意識の中で、瀞は親友への復讐と温泉の堪能を誓うのであった。