誰か、オレの神様を知りませんか。(中編)【ケモホモ】

  9

  雨だ。

  一番記憶に残っているのは、しとしとと静かに降り続く雨だった。

  鼻を燻る線香の匂いを、今でもはっきりと覚えている。色んな大人たちに囲まれて、誰もが「可愛そうにね」と涙を流して手を握ってくれた。「あなたは一人じゃないからね」と、親戚たちは喪服姿にハンカチで顔を抑えながら、そう言って必ず葬儀場を後にした。

  初めて着る喪服の固さで、何もかも現実味がわかなかった。

  だからオレは、未だに泣くことさえも出来なかったのだろう。

  今でもハッキリと、覚えている。

  親戚たちは、声を上げて両親の棺の前で泣いていた。きっと彼らは、すんなりとその現実を受け入れる事ができたのだろう。だから悲しむ事ができるし、素直に泣くことができたのだろう。

  自分とは、何もかもが違っていた。

  「…終わったか。大丈夫だったか? 初めての葬式は」

  ふと、一人きりになった部屋の中で声が響き渡った。

  渋くしゃがれた、重みのある声だった。

  「…あぁ。全部、叔父と親戚たちがやってくれたよ。何も、問題はない」

  そう言って喪服を脱ぎだした瞬間、強張った体が急に自由になっていく。

  今までずっと力を張りっぱなしだった時間の長さに、ドッと疲れが体の上に圧し掛かるようだった。

  「…これから、どうなる?」

  「分からない。今日の話じゃ、多分叔父がオレを引き取る事になるんだろうな。あんただって、この先の事くらいホントは知っているんだろう?」

  「…まぁな」

  無機質な、会話のやり取りだった。

  きっとオレは、心を閉ざしてしまったんだろう。耐えられない悲しみも、辛さも、痛みも、グッとその奥に押し込んで蓋をしたのなら、それだけで何もかに耐えられるような気がした。

  座り込んだベットのマットレスが、ギシリと重みで軋んでいく。

  そうだ。

  オレは、知らず知らずの内に自分を殺してしまったんだ。

  両親が交通事故で死んだと聞かされた、あの日の夜から。オレは、もう生きてはいなかった。

  「…安心しろ。お前の事は、俺が守る」

  ふと、あいつはそう言った。

  チラリと、顔を見る。エメラルド色をした目を細めて、じっとオレの瞳を見据えていた。

  「…俺が守る、ね…」

  「…信じられないか?」

  不服な声だった。

  きっと、こいつはオレを励ましたかったんだろう。無表情の顔でも、その必死さなら分かる。それがこいつの優しさなんだろなって事も、オレには分かってはいた。

  だけど今は、その何もかもが嫌気をさしてしまったかのように受け入れる事が出来なかった。

  「…こんな人生を歩まされた時点で、神様を信じる素直さも純粋さも消えてしまったよ」

  酷く、冷たい。

  無機質な声だった。

  「なぁ…あんた、ガルドって言ったよな?」

  「…あぁ」

  「あんた、こんな状況で守られているって実感が沸くか?」

  目を見据えて、真っ直ぐそう言葉を続けた。

  ずっと心の中にあった、確かな疑問の塊だった。

  「もしあんたがオレだったら、そう思う事が出来るか? 自分の両親が一気に死んでしまったのに、『自分は神様に祝福さているんだ』とか、『神様にオレは守られているんだ、だからこの先の未来もきっと幸せに生きていけるんだ』って…そう感謝できると思うか? これからも、あんたらを頼りに生きていけると思うか?」

  不意に、自分の声が段々と荒れて行っている事にオレは自分でも気づいていなかった。

  何も口出さず、目の前の虎は見据えた瞳の奥を深い色へと濃くしていく。

  それでも、あいつはジッとオレの言葉を聞いてくれていた。

  「…オレは、あんたらが憎い」

  吐き出した声は、少し水気を帯びて震えていた。

  「なんで…あんたがいながら両親を守ってくれなかったんだ。…そうだろう? 本当に神様がオレ達の事を守ってくれていたのなら、なんで二人は死ななきゃいけなかったんだ? なんでオレが、こんな風に一人にならなきゃいけない!? つい一昨日まで、オレは――」

  どこにでもいるはずの、普通の人間だったはずなのに。

  そう言葉にしそうになった途端、あまりにも理不尽な現実に思わず言葉が詰まってしまった。

  ごくありふれた、普通の家庭に住む、普通の小学生だったはずなのに。

  …なんで、オレじゃなきゃならなかったんだ…?

  「なんで、あんたらはここにいるんだよ!? こんなことなら…こんなことならオレはあんたらが本当にいるって事も、自分には神様がついていたんだって事も…知りたくなかった…!!! オレは、あんたらを見たくなかった!!!! なのに、なのに…」

  急に、涙が溢れ出した。

  葬式の間でも零れなかった涙が、今更になって悔しいくらいに流れ出した。

  「全部、あんたらのせいで!!! 二人は死んでしまったんじゃないかって…そう思ってしまうじゃないか!!! もし見えなかったら、あんたらの事知らなくて済んだのに…もしお前がここにいなかったら、『不運だった』って言葉で二人の死を受け止める事ができるのに!!! あんたらがいるから…あんたらがいるから、考えてしまうじゃないか。あんたらなら、どうにかできたんじゃないかって。どうして、守ってくれなかったんだよ、て…」

  そう言葉にした瞬間、自分の考えの浅はかさと愚かさに、耐え難い嫌悪感が頭の中を襲った。

  全部、分かっていた。

  こんな事を言っても、仕方がないと言う事も。何もかも無意味だと言う事も。それでも、言わずにいられなかった自分の弱さが、やり場のない苛立ちへと変わっていったようだった。

  全部、分かっているはずなのに。

  それを抑えられるだけの強さと余裕が、今の自分にはない。

  「そう思っても、二人は帰ってこないのに…オレは――」

  その時だった。

  急に、オレの体が力強く引き寄せられた。腕を掴まれて、無理矢理体を引き上げられる。

  オレはその言葉の続きを言い切れないまま、目の前の虎に力ずくで抱き締められた。 急にオレの顔が、青い柔らかな毛皮に包み込まれていく。確かに感じる温もりの中で、大きく胸が上下に動いていくのを感じた。

  …生きているんだっていう、確かな証だった。

  「…辛かったな」

  ふと、抱き締めながらそう言われた。

  たった一言。

  たった一言の言葉だったのに、その一言に何もかもがギュッと詰め込まれているような、そんな切実な言葉の響きだった。[newpage]「…お前の両親の事は、済まなかった。こんな言葉で、俺達が許せないって事は俺も分かっている。…分かっているんだ。だから…」

  グッと、抱き締めていた腕に力が入った。

  おずおずと、オレもその背中に手を回していた。大きすぎる体に抱き締められて、上手く腕が届かない。その中途半端な抱き返し方の中で、すがりつくように大きな体の中へとオレは包み込まれていった。

  ずっと必死になって固く閉ざしていたものが、ジワリと溶け出していく。

  そんな感覚だった。

  「…だから、約束する。ずっと俺は、お前の傍に居る。…恨んでくれて構わない。全部、俺らのせいにして貰って構わない。全部、お前の言う通りだ。 だがお前だけは…お前だけは、俺が守るとお前の両親に約束したんだ。だから…」

  そっと、大きな手の平が背中をさすった。

  上手く、息が出来ない。

  柔らかな暖かさが、じんわりと体の中へと染み込んでいくようだった。

  「だから…もう、自分の生まれついた事だけは憎まないでくれ。こんな辛い人生でも、きっと何かの意味があるはずだ。そう思ってくれるまで、全部俺のせいにして貰って構わない。構わないから…もう、自分の事を呪うのはやめてくれ。 頼む…」

  ドッと溢れ出した涙の中で、そう静かにあいつは言った。

  きっと、オレの為だけじゃなく、自分の為に言った言葉でもあったんだろう。だけど当時あいつが完全無欠な存在だと勘違いしていたオレには、そこまであいつを思ってやれる優しさなんてものは微塵もなかった。

  「ひ、卑怯だ…」

  オレは、そう泣きながら言った。

  「卑怯だよ、それじゃ… それじゃ、全部オレの為に罪をおっ被ってるんだって、そう言ってるようなもんじゃないか!!!」

  やり場のない怒りと悲しみを、無情なまでに押し付けられたはずなのに。

  本当はこいつは何も悪くないんだって事も、オレも気づいていたはずなのに。それでもこうやって怒りをぶちまけているオレの事を、守るとこいつは言った。

  何も、報われないじゃないか。

  そんな事したって、こいつは何も得られないじゃないか。

  これじゃ――

  「これじゃ…オレが、お前を許すしかないじゃないか…」

  力なく吐き出した弱弱しい声は、柔らかな胸の中へと消えていった。

  涙でこいつの胸が、ジットリと濡れていくのを感じる。それでもこいつは、抱き締めているオレの体を離してはくれなかった。

  「卑怯、か…」

  そう笑いながら、あいつは言った。

  「確かに、そうかもな。だが、俺はお前の味方だ。怖がる必要も、不安になる必要もないって、初めて会った時にそう言っただろう?」

  あぁ、そうだったな。

  確かにこいつは、驚いて尻もちついたオレに手を差し伸べながらそう言っていた。

  怖がらなくていいと、そうこいつは言っていた。

  「…いくら卑怯に見えても、仕方ないさ。俺は、どんな事があっても…お前の味方なんだからな」

  それから先の事は、よく覚えていない。

  ただその言葉を最後に、オレは何も言わずただ泣くことしか出来なかった記憶だけが頭の片隅に残っていた。

  あいつの胸の中に抱かれながら、そんなすがりつくように泣くオレの背中を、そっと大きな手の平がさする。この世界にたった一人きり取り残されてしまったんじゃないかって思っていた自分にとって、今感じることが出来た唯一の他人の温もりだった。

  そしてオレは、もう自分の中で気づいていた。

  悔しいくらいに、自分の本当の本音に気がついていた。

  憎んでいると言葉を吐き捨てておきながら、本当は、心の奥底から必要としているんだという事実に。

  本当は、あの時素直にその言葉をあいつに言うべきだったんだ。

  なのに強がってしたオレは、そんな優しい本音さえもあいつに言いそびれたままだった。

  「あぁ、あとな…」

  そう言って、あいつはオレの体を離しながらオレに言葉を投げかけた。

  ジッと、エメラルド色をした瞳の奥がオレの目を覗き込んでいる。

  何もかもを見透かしてくれているような、そんな落ち着きのある静かな色だった。

  「お前は…一人じゃない。俺が、ここにいるだろう? …それを忘れるな」

  少し拗ねたような、そんな声だった。

  その声に、オレも苦々しく泣きながら笑ってしまう。そのオレの笑顔に、あいつも笑いながら俺の頭を荒々しくガシガシと撫でてくれた。

  12年前の、遠い記憶だった。[newpage]10

  「くそ…!! どうして…どうしていないんだよ!!!」

  オレは慌てて部屋を出ると、急いで辺りを探し始めた。

  今でも脳裏に、あいつの泣き顔が鮮明に思い出される。何かあったに違いないのに、あいつは結局何もオレには言ってくれなかった。

  …こんなの、初めてだった。

  こんな事が起きるなんて、想像すらしていなかった。

  「くそ…!!! 見つけたら…ただじゃおかねぇからな!!!!」

  ただ、純粋に心配だった。

  ありえないとは分かっていたのに、『あいつの身に何かが起こったのだろうか』と本気で心配した。

  そうだ。

  きっと、何かあったに違いない。だから自分は、今こんなに必死になってるんだ。

  そうだよ、きっとそうだ。

  オレは、あいつが心配だから今こんなに焦っているんだし、不安になっているんだ。その言葉で、なんとか自分の本音を誤魔化した。これでいいんだと、そう自分に言い聞かせてオレは必死になってあいつの姿を探した。

  そうじゃなきゃ、自分の中で確かに感じる「予感」に、心が怖さで押しつぶされてしまいそうだったからだ。

  「ガルド…」

  …違うんだと、そう信じたかった。

  きっと、自分の思い違いなんだとそう言い切りたかった。

  なのに、なのに…最後にあいつが言っていた言葉が、頭の隅をかすめていく。

  ――きっとあれは、別れの言葉だった。

  (違う、違うだろ堤下貴昭!!! あいつは、オレに約束してくれたじゃないか…!!! )

  ずっと、傍にいるって。

  決して、もう独りにはしないって。

  …そう、あいつは約束してくれたじゃないか。

  時間だけが、無常に過ぎ去っていく。

  歩き慣れた街路樹も。

  いつも行き慣れた喫茶店も。

  スーパーも、公園のベンチも、大学の講義室も、手当たり次第に探した。

  なのに、その見慣れたはずの姿は、どこにもいない。

  (どこも…あいつと一緒にいた場所ばかりだ)

  気づけば、オレが独りだった時って一度もなかったんだな。

  目の前にある景色に、オレはそう痛いくらいに実感させられずにいられなかった。

  走りすぎて、呼吸が乱れていく。

  ドッと溢れ出した汗を拭いながら、痛む胸と熱くなった気管支に息を詰まらせてオレは思わず膝をついてしまった。

  ふと、顔を上げる。

  その瞬間、オレはハッとなって目を見開いてしまった。

  胸の中の痛みが、急に酷くなっていく。

  ――オレの両親が死んだ、事故現場だった。

  「な、なんなんだよ…こんな時に、見せなくてもいいだろ? オレに…」

  目の前に広がる、確かに見覚えのある光景。

  自分でも気がつかないうちに、この場所まで走ってきてしまったのだろうか?

  それさえも今の自分では、判断がつかなかった。

  いつもなら、絶対に見ないようにこの場所は避けて通るのに。

  いつもなら、この場所もただの無機質な記憶として処理していたはずなのに。急に、押しつぶされそうな孤独がオレを襲った。

  そうだ。

  あの日、オレはあいつに初めて出会ったんだ。

  両親を一気に亡くして、葬式が終わってやっと泣きじゃくっていたオレを、あいつは優しく抱き締めてくれたんだった。

  『俺は、お前の味方だ。怖がる必要はない』って。

  『ずっと、お前の傍にいると約束する。だから、何も不安がる必要はないんだ』って。

  ふとあの時の光景が、一気に頭の中で蘇る。

  「くそ…!!!」

  それを振り切るように、オレは無我夢中で走った。

  どこかに、人が大勢いる場所はないのかと辺りを探した。どこでもいい。出来るだけ人が多く集まっている場所はないかと、オレは頭の中で考えながら夢中になって探した。

  ふと、目の前に駅が視界に入る。

  オレは「もうこれしかないんだ」と自分に言い聞かせると、息も整えずにその場所へと走り出した。

  頭の中で、同じ言葉が何度も何度も繰り返し流れ始めてしまっている。

  「そういやさ、契約神って誰にだって憑いてるって言ってたよな。お前確か」

  「あぁ。それがどうかしたか?」

  そんな会話をいつかしていたのを、オレはふと思い出していた。

  走りすぎて胸が痛くなった呼吸の中で、頭の中で蘇る映像はやけに鮮明だ。

  確か、オレが中学に上がったばかりの頃の話だった。

  「じゃあ、なんでオレにはそいつらが見えないんだ? 皆憑いてるんだろ? オレとお前みたいにさ」

  ふと、湧き上がってきた確かな疑問。

  他の変なものは嫌と言うほど見えるのに、こいつと同族の奴らをオレはまだ見た事がなかった。

  いくら目を凝らしても、他の神様なんて見えやしない。

  「あぁ、それはお前がまだ神格が低いからだ。基本、お前のような奴でも自分の契約神しか見えない。まぁ…執行部の奴らはたまに見える時はあるかもしれんがな」

  そう言ってオレの契約神は、オレに簡単に説明してくれた。

  それが向こうの決まりなんだろう。オレは当事、その言葉をそんな風に適当に解釈していた。[newpage] 気づけば、結構な時間をこいつと過ごしてきたんだな。そう思い返せば、いつだってこいつの存在がオレの中にいた。

  高校を上がった時も。

  受験勉強をしていた時も、大学に上がった時も。

  いつだって、隣はあいつがいた。

  そしてオレは、気づいていなかったんだ。自分がこいつと共有する時間が多ければ多い程、自分の神格が急激に上がっていってしまうんだって事に。

  自分の寿命の短さに気がついたときには、もう手遅れだった。

  神格は、読んで文字通りその魂の神々しさ、位の高さを指すのだという。人は輪廻転生を繰り返して、様々な経験を通じてこれを磨いていく。そして限界まで磨ききってしまったら、もうそれは人間の魂ではなくなってしまうのだとあいつは言っていた。

  だから、その時は寿命として強制的に死ななくてはいけない。そして今度は自分達と同じ神界の住人として、今度は違う神格を上げていかなければならないのだとあいつは言っていた。

  そしてそんな神界の住人と魂を交し合い、温もりと愛情とを心の中に満たしていく。

  それは、文字通り神格を上げていく事と同じだった。

  「契約神がついていない人間って、いないの?」

  「…いないな。もしいたとしても、ごく稀な存在だ。それにもし俺達がついていなかったら、どんなに神格を上げたくても人間だけでは神格は決してあがる事はないからな」

  「そんなもんなの?」

  「…あぁ、それだけは確かだ。神様から見放された人間が、神格を上げてその魂を神々しくさせていくなんて、そんな矛盾はないようにちゃんと出来ている。だから神格が上がるのは、俺といる間だけだ」

  きっとあの時、二人ともオレの寿命なんて気にしていなかったんだろう。だからずっとオレ達は傍にいたし、多くの時間をこれでもかという程沢山共有してきた。

  だから、疑いもしなかった。

  こいつと居れば居るほど、自分の寿命が短くなっていくんだって。

  そんなの、考えもしてなかった。

  「執行部の奴らって?」

  そう、あの時のオレはあいつに聞いていた。

  なぜ今になって、それをオレは思い出してしまったんだろう。

  走りながら自分の本音を誤魔化しながら、確かな感情が自分の中で渦巻いていくのを感じる。

  「…死神の事だ」

  そうあいつは、オレをジッと見つめながら答えた。

  今でもあの時の顔を、オレは覚えている。

  …さっき両親の事故現場を目の前に見た光景と、重なる得体の知れない何かに、オレは目必死になって目を逸らした。

  見てはいけない何かが、自分の中に取り込まれていくのを感じたからだ。

  ホームの階段を、思いっきり駆け上った。

  ほつれた脚に絡まって、何度も転びそうになった。それでもオレは階段を上りきると、目の前の人ごみに大きく息を飲み込みながら、何とか呼吸を整えようと必死になった。

  目の前に、黒い影と渦巻くものが、目を疑うぐらいの群集となって人々にたかっている。

  オレは思い切り息を深く吸うと、目の前の群集に向かって大声で叫んだ。

  胸の中で、はち切れそうな痛みが体の奥を襲う。

  「だ、誰か!!! オレの神様を知りませんか!!!?」

  そう、無我夢中で叫んだ。

  目の前の群集に向かって、そう大声で叫んだ。

  急に、人々の視線と共に心の声がオレに集中する。

  「オレには見えなくても…皆に契約神が憑いているのなら…!!! 誰か…誰か一人位は知っているはずでしょう!? 誰か、誰かオレの神様を知りませんか!? 今朝、急にいなくなってしまったんです!!! 何も、言わずに…何も、声もかけてくれずに…!!! 」

  乱れた呼吸の中で、嗚咽が溢れかえっていくのを感じた。

  返答は、ない。

  味気ない位に、何もない。

  そこに、いるはずなのに。目の前には大勢、ガルドと同じ契約神達が人混みと一緒になってそこにいるはずのなのに。

  なのに…なのに、何も、返事が返ってこない。

  「名前は、ガルディア・ラインハルトといいます… 無口で、口下手で、どっか抜けてて…なのに優しい、オレだけの神様なんです…!!! 誰か…誰か知りませんか!? 体が無駄に大きくて、青い虎の姿をした奴を知りませんか!? オレの声、聞こえているんでしょう!?」

  ザワザワと、目の前の群集が騒ぎ出した。

  人ご混みの奥から、数人の駅員たちがこっちに向かってくるのが見える。それでもオレは、無我夢中になって目の前の群集に向かって叫んだ。

  ちゃんと、聞こえているはずなのに。

  姿は見えなくても、ちゃんとそこにはいるはずなのに。

  なのに、なのに、何の返答も…何も、ない。

  「誰か…誰か俺の神様を知りませんかッ…!!!!! 誰かぁああああ!!!!」

  涙で視界が揺らいで、何も見えない。

  いくら叫んでも、泣き喚いても、手を射し伸ばしてくれる神様はそこにはいなかった。

  急に体の中から、力が抜けていく。

  その場に座り込んだオレの体に伝わっていったのは、味気ないくらいに冷たく無機質なコンクリートの固さだけだった。

  その灰色が、オレの涙で濡れてポツポツとその色を濃くしていく。

  ここに残ったのは、味気無さ過ぎるほどの無力さと深い悲しみだけだった。

  「ずっと…ずっと傍にいるって…そう言ってたじゃないか…」

  いつかそう抱き締めながら言ってくれたあいつの言葉を、ふと思い出していた。

  本当に温かくて優しい、たった一人だけの温もりだった。

  「ずっと傍にいるって…そう約束してくれたじゃないかッ…!!!!」

  柔らかな風が、駅のホームに吹き込んでいく。

  目の前で到着した急行列車の音にかき消されていくように、オレの声は空しくあいつの元には届いてくれなかった。

  柔らかな風が、吹き抜けていく。

  急に、「そんなに辛かったら、もう死んだら?」と、そう耳元で囁かれたような気がした。[newpage]11

  「本当に、これで良かったのか…?」

  「…何がだ」

  「…お前の、契約者の事だ。今日、あの後酷く取り乱していたと向こうの奴らから聞いた。やっぱり、お前の判断は間違っていたんじゃあないのか…?」

  うなだれながら、そうぶっきら棒に答えた言葉に、親友の言葉が返ってくる。

  膝を抱えたまま、座り込んでいる俺に視線が向けられていくのを感じた。

  「…分からない」

  「わ、分からないって、お前…」

  「…俺には、どうしていいのか分からなかった。あいつを目の前に、ああすることしか出来なかった」

  ジワリと、目の奥が滲む。

  結局、自分に出来たのは目の前の現実から逃げることしか出来なかった。

  そうだ。

  文字通り見捨ててしまったんだ。自分を優先して、結果あいつの事をなおざりにして切り捨ててしまった。

  だけど今でも、自分が本当にどうすべきだったのかなんて、検討もつかない。

  「…これから、お前どうするんだ」

  目の前の獅子は、俺にそう問いかけた。

  「…本当は、そいつの傍にいてやりたいんだろう? 三ヵ月後に死んだとしても、新しくこっちの住人になれるんだ。今はまだ無理かも知れないが…また、会えるチャンスはあるんじゃあないのか…?」

  どうなんだろう。

  今まで自分が看取って来た奴らで、この場所で再会できた奴なんて一人もいなかった。

  それにもう、その時にはもうオレが知っているあいつじゃない。

  …新しく生まれ変わった、別の誰かなんだ。

  「…まぁいい。お前の代わりに、オレがそいつの事は最低限見守ってやるから。あいつに憑く事はできないが、今すぐ死なれても本末転倒だろう?」

  その言葉が、何よりも救いだった。

  それだけで、何もかもが救われるような気がした。

  また、こいつに貸しを作ってしまっている自分がいる。本当に、俺にはこいつみたいな親友がいてよかったと、そう心の中で感謝をした。

  「…すまない。カイアス…本当に――」

  「いいんだ。お前だって、辛いはずなんだからな。これ位なら…オレも頼まれてやるさ」

  そう言って、目の前の獅子は俺の隣に腰掛けた。

  すぐ隣に、こいつの体温を感じる。

  …自分が求めている、誰かの温もりだった。

  「なぁ…カイアス」

  「…なんだ?」

  「…今日、駄目か?」

  濡れた瞳で、こいつの顔を見上げながらそう言葉を投げかけた。

  自分の言っている事が、どれだけこいつの優しさを食いつぶしているのかは自分でも分かっていた。誰かの埋め合わせの為に、温もりを求めてしまっている。そんな女々しい自分の情欲に、自分でも吐き気がする位の嫌悪感を抱いていた。

  なのに、目の前の寂しさに自分の中にあふれ出る自分の寂しさを、もう我慢する事ができない。

  一度甘えてしまって溢れ出した孤独を、俺はもうどうする事も出来なくなってしまっていた。

  「…仕方ないな、お前は…」

  そう言って、カイアスは腕をそっと俺の肩に回してきた。

  その温もりに、自分の心が一気に溶け出していくのを感じる。

  重みのある太い腕が、そんな俺の心を支えてくれているかのように肩を引き寄せてくれた。

  「すまない…」

  「…いいさ。こんな時位、誰かに甘えるのも悪くはない」

  グッと、肩が引き寄せられる。

  そのまま目の前の獅子は俺の体を引き寄せると、そっと唇を近づけて口を塞いでいった。

  暖かな甘い感触が、口の中に絡み付いていく。

  甘く解きほぐすような、そんな優しい口付けだった。

  大きな手の平が、少しずつ下腹部へと伸びていく。その中心にある膨らみを柔らかく握り締めた瞬間、俺の口から甘い吐息が漏れ出した。

  「あ、はっ…」

  手の平の中で、むくむくとその体積と硬さとが増していく。

  ざらついた丸い舌で俺の首筋を舐めながら、服の上から絡みつくように握り締めていくその快感に、少しずつ俺の心が溶け出していくのを感じた。

  「…感じているのか?」

  目を細めて、目の前の獅子の渋い声が耳元で囁かれる。

  どこか憂いにも、欲情に染まった目にも見える、柔らかな眼差しだった。

  「あ、あぁ…」

  「…そうか」

  それだけ言って静かに笑うと、手の平が服の中へと入っていった。

  直に触れて、握り締められる快感が体に突き抜けていく。

  ゆっくりとしごかれていく快感が、体の熱を火照らせていった。滲み出た透明な汁が、ぬめりを帯びて冷たく濡らしている。

  確かに感じる、暖かな快感だった。

  「…今は、ここまでだ。続きはちゃんと、夜やるから。…いいな?」 急に手の平が、服の中から抜けていく。

  その言葉の意味を悟ると、俺は無言のままコクリと首を縦に振って頷いた。

  名残惜しそうに波が引いていく熱が、まだ冷めてくれない。

  「…いい子だ。少し、お前の契約者の様子を見てくる。お前も心配だろう?」

  ふと、あいつの顔を思い出した。

  あいつが取り乱していたと言っていたこいつの言葉に、やっと今更になってその様子が現実的に頭の中に思い浮かべる事が出来た。そして気づいた。自分が、どれだけ身勝手な事をしてしまったのか。そして嫌というほど悟ってしまった。自分が、どれだけ許されない事をしてしまったのか。

  (…何を、やっているんだ…俺は。)

  これじゃ、神様失格じゃないか。

  「…あぁ。頼む。すまない、本当に…」

  「いいんだ。お前は、ここにいろ。…まだ、まともに見れる状態じゃないだろう?」

  そう言ってカイアスはその場を離れると、部屋のテーブルの所まで歩いていった。

  その中の大きな皿に、水を注ぎ込む。やがてそこに映し出されていく向こうの世界の映像に、俺は顔を歪めながら目を逸らした。

  …今すぐ、戻りたかった。

  今すぐあいつのところに戻って、ごめんなと謝って思い切り抱き締めたかった。

  なのに自分にその資格があるのかどうかさえ、分からない。

  あと三ヶ月で死んでしまうと分かってしまったあいつを目の前に、もうどんな顔をしてあいつに会いに行けばいいのか全く分からなかった。

  好きだと言った告白も、曖昧にされたまま消えてしまった。

  あの瞬間が尖った棘が絡みついたように、胸の中を締め付けて、食い込んだまま離してくれなかった。

  「お、おい…嘘だろ…?」

  不意に、カイアスの声が部屋の中に木霊する。

  その絶句したような声の響きに、俺も思わず顔を上げてしまった。

  「カイアス…?」

  返事が、ない。

  俺は不審になって立ち上がると、目の前の獅子の元へとゆっくり歩み寄っていった。

  …上手く、体に力が入らない。

  どこか魂をなくしてしまった、腑抜けのような体だった。

  「が、ガルド!!!! 今すぐ向こうに戻るんだ!!!! は…早く!!! 」

  いきなり、振り返ってそいつはそう言った。

  掴まれた両肩が、痛い。

  その必死すぎる叫び方に、俺は一瞬何が起こったのか検討もつかなかった。

  頭の中が、急に真っ白になる。

  「ど、どうしたんだ? 一体何が――」

  「いいから早く!!! もう…もう時間がない!!!! 」

  目を見開いて、迫り寄る剣幕の表情でそう言われた。

  必死な、切実な叫び声だった。[newpage]12

  柔らかな風が、吹いている。

  後ずさりした靴底に、砂利が自分の体重ですり潰されていく音が聞こえる。

  今、確かに自分が生きているんだっていう証拠だった。

  一歩、一歩ずつ歩きながら、人は前へと進んでいくのだろう。

  たまに間違いを犯して、立ちすくんで、少し休んで、また遠回りをしながら、まためげずに歩いていく。それを人の強さだと言えば頷けるけれど、そこにある理不尽な辛さと、結局自分が歩くしかないんだという切実な孤独は、どう頑張っても否定できないように感じた。

  自分は、一歩、一歩ずつ後ずさりした。

  色んなものから逃げ続けて、心地よい場所はどこかにないのかと探していた。

  色んな理由があったんだと思う。単純に辛いからとか、怖いからとか、不安だから逃げ出した事もあったのだろう。

  もしくはただ単にめんどくさかったとか、自分には真正面からそれを受け入れたり、立ち向かっていく程の気高さも誠意のある強さもなかったから逃げ出した、というのもあったのかもしれない。

  そして自分は、知らなかった。

  そうやって一歩、一歩ずつ逃げ出した自分の足跡が、長い長い道になってやがて自分に向かって襲い掛かってくるんだという事に。

  そして自分は、それを受け入れられる強さもなかった。

  目の前に突きつけられた分厚い請求書と、自分が今まで辿ってきた過去が自分に追いついてきて、一気にそれを精算しろと言われる。今まで散々色んなものから逃げ出してきた者が辿る末路は、もうどこにも逃げることの出来ない自分自身との決別だった。

  一歩、一歩ずつ歩きながら、人は歩いていくのだろう。

  オレもそうだった。

  オレも、一緒に歩いてくれる奴が隣にいたんだ。

  そしてそれは、いつしか心の支えから、淡い恋心へと変わっていってしまったのだろう。

  もしあいつらが人の心の中を見ることが出来るというのなら、いっその事、この想いはさっさとあいつに見破られていたかった。

  そう今更思っても、隣にいるはずのあいつはもうここには、いない。

  「向こうに行けば…あいつに、また会えるんだよな…?」

  そう自分で言っても、確信なんて全くなかった。

  いや、むしろ逆なんだと本当はもうオレは悟ってしまっていた。

  どんな宗教でも、これだけは許されない行為だとどの経典にも記されていた。ここに生まれつき、その生涯を全うする事こそが人に課せられた本当の意味での義務だとするのなら、それから逃げ出した先に待つものはその罪を償う事しか考えられなかった。

  ビルの屋上から、見渡した空は夕焼けに染まって淡いオレンジ色に光り輝いていた。

  その光で、見えるはずの向こうにある街の風景が…揺らいで見えない。

  コンクリートのジャングルの合間を縫って、光が照らし出されている。これが自分が最後に見る景色になるというのなら、十分その役割は果たしてくれているような気がした。

  「いや…会えるわけない、か… でも、でもオレには、もう――」

  目の前に、分厚い請求書が突きつけられようとしている。

  オレはそれを感じながら、一歩、また一歩と前へと進んだ。

  柔らかい風が、体を包み込むように吹き抜けていく。

  ビルの屋上から見下ろした、この街の見慣れた風景が胸の中をえぐっていくようだった。

  「なぁ…ガルド。知らなかったよ、オレ。お前が居なくなるまで、こんなに自分が守られていたなんて。お前の事、ホントに頼りにして生きていたんだって…知らなかった」

  ずっと、隣にいるのが当たり前だと思っていた。

  ずっと、これからも一緒にいるのだと思っていた。

  「…馬鹿だよな、オレ。結局…自分の気持ちさえ、お前に打ち明ける事も出来なかった」

  可笑しい話だよなと、そう自分で自分を笑った。

  自分の神様に、惚れてしまうだなんて。

  …馬鹿にも程があるだろうと、そう自分で自分の愚かさを笑って、そして呪った。

  報われない気持ちだと、そう分かっていたはずなのに。

  言えなかった言葉ばかりが、ここに一人取り残されてしまっている。「本当は、お前の事が好きだったんだよ」とか、「あの時、お前の事を憎んでいるって言ってごめんな」とか、「本当は、とっくの昔にお前の事を許していたんだ、だから、もう無理しなくていいんだよ」とか、そんな言えなかった言葉ばかりが、頭の中で何度も何度も繰り返し回り続けている。

  だけど、結局何もオレは言えなかった。

  「…なぁ、ガルド…もう、会えねぇのかよ…」

  まだ、何も伝えていないのに。

  まだ何も、伝えきれていないのに。

  抜け殻のように取り残されてしまった孤独と自由だけが、ありあまっている。

  「…なぁ、どうして…どうして居なくなってしまったんだよ…」

  返事は、ない。

  ただ自分の言葉が、空しく空の向こうへと吸い込まれていった。

  「オレが、駄目な奴だったからか…? オレが、お前に迷惑ばっかかけていたからか…? それとも――」

  そう言いそうになって、急に目頭が熱くなった。

  急に、涙が溢れ出す。

  揺らいだ瞳に景色が歪んで、上手く息が出来なかった。

  「それとも…オレが、お前の事好きになってしまったからか…?」

  その言葉を言った瞬間、熱い涙がボロボロと零れ落ちた。

  自分でも、きっとそうなんだろうと分かってしまっていた。

  あいつが、オレの目の前から居なくなった理由。最後に見せた、あいつの顔。

  …全部、不可抗力であいつはオレの元から去って行ったんだろうって事位、オレにも痛いくらい分かっていた。

  だから、否定できなかった。[newpage] 自分の心の中で、毒々しい何かが巻きついていくのを感じる。こんな事許されない。それも分かっている。こんな事、絶対あいつは望んでなんかいない。それも分かっている。何もかも自分のせいで、あいつは居なくなってしまったんだ。それも分かっている。

  だけど、だけど…もう、今の自分には何も考える事が出来なかった。

  「もう、生きていてもしょうがないじゃないか」って。

  「この先生きていても、どうする事も出来ないじゃないか」って。

  それ以外、何も考えることが出来なかった。

  耐え難い悲しみと孤独が、自分中の理性的な部分を麻痺させていく。家族も友人も、オレには全く居ない。自分の体質を知っている人も、それをオレの個性だと言って受け入れてくれる奴も、「自分には幽霊が見えるんだ」と打ち明けられる相手も、誰もいない。

  …全部、あいつだけだった。

  あいつ一人だけが、オレの唯一の理解者だった。

  「自殺した奴の魂は、地獄に落ちる…か…」

  そういつかあいつが言っていた事を、ふと思い出す。

  これじゃ、死んだとしても絶対にあいつには会えないんだろうな。

  そう思った瞬間、それでも思いとどまる事が出来ない深い悲しみに、今自分がどれだけ追い込まれてしまっているのかを悟った。

  地獄に落ちた自殺者の魂と、神格が上がって寿命を迎えた神界の住人。どう考えても会える訳がない。会えないのなら、生きていくしかないのに。

  どうして、オレは…今、こんな場所に立ってしまっているんだろう…?

  「なぁ、ガルド…オレ、十分頑張った、よな…? 途中で諦めてしまっても、お前なら…お前だけは、分かってくれるよな…?」

  返事は、ない。

  ただ柔らかい風だけが、目の前を吹き抜けていった。

  ジリジリと、踏み出す一歩がコンクリートの端をなぞっていく。靴の裏に踏みしみめられた砂利くずが、パラパラとビルの下へと落ちていった。

  小さくなった群集と、ビルの隙間を走り抜けていく車の流れが、急にゆっくりとした動きになっていく。

  「ごめん…と、父さん…母ぁさん…ッ!!!!」

  目をギュっとつぶって、そう叫んだ。

  ボロボロと流れ落ちた涙の中で、感じたのは耐え難い孤独とどうしようもない後悔だった。

  一歩、踏み出すと共に体重を前へと倒していく。

  ビルの屋上から飛び降りた瞬間に思い出したのは、今はもう隣にいない、あいつの笑った顔だった。

  宙に、自分の体が浮いていく。

  一瞬だけ感じた無重力の中で、オレはあいつの事を想った。

  ――そう、思っていた。

  「うわ…!!!」

  いきなり、何かに腕をつかまれた。

  宙吊りになった眼下で、ビルの合間を抜けていく車と群集の流れとが急に動き出す。その瞬間感じた恐怖の塊に、「まだ自分は生きているんだ」とそう実感せざる負えなかった。

  冷や汗が、ドッと溢れ出す。その瞬間になって、自分は絶対にやっていけないことをしてしまったんだという事にオレは気がついた。

  ふと、目を屋上の方へと向ける。

  その瞬間、オレは目を見開いてしまった。

  体が、動揺で動いてくれない。

  「が、がる…ど…?」

  あいつが、いた。 目の前に、オレの神様がいた。

  あいつが、オレの腕を掴んで屋上から落とすまいと必死になって踏みとどまっている。

  肩を上下に荒くさせながら、それでもオレの腕を力強く掴んでいた。

  「…今、今引き上げてやる。引き上げてやるから…ジッとしているんだ。いいな…?」

  そう、あいつは息を荒げながらそう言った。

  グッと力を入れて、体が引き上げられていく。その握り締められた腕に感じる痛みが、食い込むように固くオレとあいつとを繋いでいるようだった。

  未だに、頭の中が上手く動いてくれない。オレは、体が固まったまま何も言うことが出来なかった。

  目の前に、あいつがいるのに。あいつが、オレの腕を確かに握っていて、今こうして引き上げてくれているのに。

  その現実を、未だにオレは受け入れることが出来なかった。

  「くっ…!!!」

  うめき声を上げながら、ガルドはオレを屋上まで引き上げた。

  その瞬間体になだれ込んできた重さと疲れに、互いにコンクリートの上に座り込んでしまう。オレは腰が抜けてしまったかのように、その場に倒れこむようにうずくまる事しかできなかった。

  冷たいコンクリートの床に、溢れ出した汗と荒い呼吸とが吸い込まれていく。

  「はぁ、はぁ…はぁ…だ、大丈夫か…? 貴昭… どこか、怪我はないか…?」

  そう、息も絶え絶えにこいつは声をかけてきた。

  よたよたと体を引きずるようにオレに近づきながら、両肩をいきなりつかまれる。その衝撃に、オレは目を見開いたままこいつの顔を直視することしか出来なかった。

  グッと、掴まれた両肩に力が入る。

  …いつも感じていた、大きな手の平の温かさだった。

  「良かった…本当に、間に合って…良かっ、た… ホントに、本当に…」

  目の前で、ガルドはそう言って瞳の奥を濡らした。

  揺ら揺らと揺らいでく目の前の水面に、言葉が出ない。

  目と鼻の先で、自分の顔にこいつの荒い鼻息と呼吸とが吹きかかる。そのリアルな生々しさに、やっと頭の中が動き出した。

  エメラルド色をした瞳の奥が、涙で揺れている。

  「が、がる…ど…」

  急に、涙が溢れ出した。

  激しい後悔と自分への不甲斐なさに、涙が止まらなかった。

  オレは、震える手でこいつの顔にそっと、手を添えるように触れた。

  柔らかな毛皮を掻き分けて、長い髭が手の平を押し返す。その中で確かに感じる温かさに、急に何かが壊れだしたような気がした。

  上手く、言葉に出来ない。

  「…すまなかった、貴昭… 本当に、すまなかった…!!! 俺は…俺は…!!!」

  その瞬間、オレはこいつに抱きついてしまった。

  思いっきり、痛いくらいに抱き締めてしまった。

  柔らかな感触が、オレの体を包み込む。その確かに感じる温かさと温もりに、やっと今こいつが目の前にいるんだとそう実感する事が出来た。

  溢れ出した涙が、激しい嗚咽になっていく。

  心の中で、何かが崩れ落ちたような音が聞こえた気がした。[newpage]「ば…馬鹿野郎ッ!!!!! ずっと…ずっと傍にいるって…そう約束したじゃないか!!!! ずっと…俺が、いるって…」

  こいつの胸の中で、オレはそう叫んだ。

  怒りと悲しみに身を任せて、抱きつきながら握り拳を何度も何度も厚い胸板に叩きつける。その度に返ってくる弾力のある固さに、何もかもが空しく吸い込まれていくような感覚がオレを襲った。

  …あの時と、全く一緒だ。

  両親の葬儀が終わった後の、あの時のオレと全く同じだった。

  「…もう、どこにも行くな…」

  「た、貴昭…?」

  「もう!! どこにも行くな!!! ずっと、ずっと傍に居るって…そう約束してくれたじゃないか!!! お願いだから…頼む、ガルド…お願いだから…ッ」

  すがりつくような。

  そんな、必死に懇願するような、弱弱しくも切実な声の響きだった。

  握り締めたガルドのシャツに、しわが寄っている。そんなオレの体を優しく包み込むようにこいつは抱き締めると、ギュッと体を引き寄せてくれた。

  急に、体が温もりで全身を包み込まれる。

  嗅ぎなれた匂いと、懐かしい温もりとが、何もかもを包み込んでくれるかのようだった。

  「…本当に、俺でいいのか…?」

  そう、目の前の虎は聞いてきた。

  少し怯えたように、声が少し震えていた。

  「本当に…お前は、俺でいいのか…? 俺は…俺は、お前の事を――」

  「い、いいに決まってるじゃないか!!! オレが、お前を拒む理由が一体どこにある? どうして…オレの目の前から居なくなった…? 何か、何か向こうであったんだろう?」

  「そ、それは――」

  急に、目の前の虎は黙り出した。

  目を向ければ、エメラルド色した大きな瞳が、動揺で揺れ動いている。その反応に、オレは苛立ちにも不快感にも似た物を感じてしまっていた。

  …結局、オレは何も…こいつの口から本当の事を聞けていない。

  「…オレが、何かやらかしてしまったからか…?」

  「ち、違う…」

  「オレの事が、嫌いになってしまったからか…?」

  「ち、違う!!! そんな訳ない!!!」

  「じゃあ…何なんだ!? オレが、お前の事を好きになってしまったからか!?」

  「違う!!! 俺は…俺は!!!!」

  一瞬の叫び声の後に、ガルドは手の平で自分の顔を隠すように覆った。

  苦悩に満ちた表情で、目を細め何かに耐えている。そんな風に顔を歪めながら、肩で荒い息をしているこいつに、もうこれ以上オレは何もいえなかった。

  長い沈黙と、荒い呼吸の音だけが屋上に響き渡る。

  オレンジ色の夕焼けが、もうすぐ地平線の向こうへと溶け出しそうになっていた。

  「…俺が、お前の事を好きになってしまったからだ」

  ポツリと、そう目の前の虎は打ち明けてきた。

  か細く消えてしまいそうな、そんな弱弱しい声の響きだった。

  「す、好きって…それ位、オレだって知ってるよ。オレだって、お前の事が好きだ。…そうだろう? 何を今更…」

  「…違うんだ。違うんだ、貴昭。俺が言っているのは…そういう意味の事じゃないんだ。 俺が言いたいのは――」

  一瞬、意味が分からなかった。

  こいつが言わんとしていることが一体何なのか、全く理解が出来なかった。

  ふと、今まで下を向いて泳いでいたはずの瞳が、こちらに向けられる。

  綺麗な淡い光をした瞳の奥が、ジッとオレの瞳を覗き込んでいるようだった。

  「…俺は、お前の事を好きになってしまったんだ。許される事じゃないと…そう分かっていたはずなのに。俺は、俺は…お前に、惚れてしまったんだ…」

  たった、一言だけの。

  たった一言だけの、初めての告白だった。

  揺らいでいたエメラルド色した瞳が、そっと横にそれていった。

  「が、ガルド…」

  思わず、言葉を飲み込んだ。

  じゃあ…じゃあ、こうなるのか…?

  オレと…全く一緒だったと、そうこいつは言いたいのか…?[newpage]「お、お前…」

  その瞬間、全てを悟った。

  あの時こいつがオレに向けて「ずっと好きだったと」言ったあの言葉の意味を、やっと今になってオレは理解した。

  そしてこいつは、オレの目の前からいなくなったんだ。

  好きだと言った、告白を残して。オレはあの時の言葉を、違う意味に履き違えて聞き流してしまったのだということを、今になって気づかされた。

  「分からない…」

  「た、たかあき…?」

  「じゃあ…じゃあなんでオレの目の前から消えたりしたんだ…? 規則かなんかで駄目だって言われて、それが向こうにバレてしまったからか…? それとも、お前がオレの事を好きになっちゃいけない理由でもあったのか? なんで…なんでオレの前から離れる必要があった…?」

  自分で聞いて、自分でそれを後悔した。

  返答次第では、もうこいつとは一緒にいられないという現実を突きつけられかねないかなだ。

  未だに目の前の虎は、「もう離れるな」と言ったオレの言葉に対して、ちゃんとした返答を答えてくれていない。だから尚更、その理由の核心をついてしまっているこの質問の返答の内容が、オレは怖かった。

  もう、腹を括るしかないと。

  そう、オレは自分の中で悟ってしまっていた。

  「…お前を、看取りたくなかったからだ」

  そう、目の前の虎は言った。

  どこか追い詰められたような、自白にも似た声の響きだった。

  一瞬だけ、静寂が訪れる。

  だけどその次の瞬間、一体こいつが何を言いたいのかはオレにも分かってしまった。

  (あぁ…そうなのか。)

  もう、オレも…長くないんだ。

  「俺は…俺はもう誰も看取りたくはなかった…!!!! なのに、お前がもうすぐ死ぬんだって事が分かって…俺は、他にどうする事もできなかった… 他に手はないかって、死ぬ気で探して、親友にも相談して…やっと見つけたのが、お前の元から離れる事だけだった。それだけが…それだけが、お前の寿命を伸ばす唯一の方法だったんだ…!!! それしか…それしか方法はなかったんだ…」

  うなだれるように、一度溢れかえった水がとめど無く床を濡らしていくように、次々とその言葉は紡ぎだされていった。

  あまりにも、生々し過ぎる。

  あまりにもリアルすぎる、初めて聞く本音だった。

  「俺だって…お前の傍からは離れたくなかった。ずっと、出来るならお前の傍にいたかった…!!! だが…お前を、今までの奴らと同じように看取るなんて…考える事も出来なかったんだ… こんなにも惚れてしまったお前を、また見殺しにしなきゃいけないだなんて…俺には…俺には耐えられなかった…ッ!!!!」

  嗚咽を含んだ、水気のある叫び声が屋上に木霊する。

  オレはそんなこいつを目の前に、何も言うことが出来なかった。

  きっと、オレには全く想像がつかない。経験もしたことがない。そんな苦悩と葛藤が、こいつにはあったのだろう。オレ達じゃ決して理解できないような、そんな苦痛と痛みがそこにはあったのだろう。声で分かる。こんなガルド…オレは、今まで見たこともなかった。

  目の前で泣きじゃくる虎を目の前に、オレはそっと、頬に手の平を添えて涙を拭った。

  その瞬間、エメラルド色をした大きな瞳がこちらにへと向けられる。

  屋上に照らし出された夕焼けが反射して、オレンジ色の光が輝いていた。

  「あと…どれ位なんだ?」

  オレは、そう静かに聞いた。

  自分も聞きべきだと、そうオレは判断したからだ。

  「た、たかあき…」

  「…教えてくれ、ガルド。オレの寿命は、あとどれ位なんだ? あとどれ位…オレはここで生きていく事ができる?」

  もう、きっと長くない。

  目の前のこいつの反応を見て、そんな事位オレでも安易に想像がついた。

  だからこそ、もういっそのことはっきりと言って欲しかったんだと思う。

  …もう、隠し事は嫌だ。

  そうオレは、思ってしまっていた。

  「…三ヵ月後だ」

  目を逸らしながら、そうガルドは打ち明けた。

  目の前の表情が、みるみる苦悩の表情へと歪んでいく。きっとその言葉に、もう嘘はないのだろう。

  もう引き返す事のできない未来が、もうすぐそこまで来ようとしている。

  「そうか…」

  たった一言だけ。

  たった一言だけ、オレはそう答えた。

  …やっぱ、自分が感じていた直感は正しかったんだな。そう言葉が吐き出されたオレの中で、こいつのいう三ヶ月の言葉は全く違和感は無かった。

  きっと、オレもこいつの言動から薄々気がついていた部分もあったんだろう。

  むしろやっとしっくり来たと思ってしまった自分自身に対して、少しだけおかしさと呆れを感じてしまっていた。

  「なぁ、なぁ…ガルド…」

  「…」

  「なぁ、こっち向けって。頼むから…」[newpage] 返事は、ない。

  ただ頬に添えた手の平を促すようにこちらに向けると、やっとこいつはオレの瞳を見てくれた。

  …何て、何て顔してやがるんだ。こいつは。

  これじゃ、今にも死んでしまいそうなのはこいつの方みたいじゃないか。

  「…覗けよ」

  「…え?」

  「覗けよ、オレの心の中を。お前だって、その気になったら…ホントはオレの心の中だって読めたんだろ? オレが今何を考えているのか、今覗いてみろ。全部、オレの本音が分かるから」

  そう言って、両手でオレはガルドの顔を支えた。

  濡れた瞳が、動揺で揺れている。それもそうだろう。オレ達の間で、互いの心の中を読むだなんて出会った時以来一度もやったことなんてなかった。

  それに、今オレはこいつに自分の寿命と、こいつの本音を聞かされたばかりなんだ。

  …オレが今一体何を考えているのかなんて、怖くないはずがない。

  「だ、だが…貴昭、それは――」

  「…いいから。いいから、覗けって。今はオレを、信用しろ。大丈夫だ、何も怖がる必要は…ない」

  その言葉で、こいつは腹を括ったのだろうか。

  ゴクリと唾を飲み込んだあと、エメラルド色した瞳の奥が、淡く光りだす。久々に見る、神々しい光の輝きだった。

  次の瞬間、ガルドの瞳が大きく揺れ出した。

  見る見る内に、涙が瞳に溜まりだす。その反応を見て、オレもガルドに優しく微笑んで見せた。

  そっと、頬をなぞる。

  …こんな告白の仕方、考えてすらいなかった。

  「た、たかあき…お前――」

  「…やっと気づいたかこのスカタン。 …遅ぇんだよ。ホントに…」

  その瞬間、目の前の大きな瞳から涙がボロリと零れ落ちた。

  未だに信じられないと、そう顔に書かれている。その反応が、何とも言えずおかしかった。

  「…ずっと、好きだった。オレもお前も、ずっと同じだったなんてな。笑えるよな、本当に。…気づいてあげられなくて、本当に…本当に、悪かった」

  オレは、一体どんな顔をしているんだろう。

  そんなの、自分じゃ想像もつかなかった。

  だけどきっと、酷く見るに耐えない顔をしてしまっているんだろうな。それだけは、きっと確かなように感じた。

  だけどもう、それを隠す必要もどこにも、ない。

  「ずっと、傍にいてくれ」

  そう、オレは言葉を続けた。

  抱き締めていた腕に、力が入る。

  「…あと三ヶ月しか生きられなくてもいい。もう、オレが死ぬんだって事実から逃れられなくてもいい…!!! お前が居てくれるなら…お前と、最後まで居られるんだったら、オレはもう他に何もいらないんだ。お前と一緒にいられるんだったら、オレは他にどうなっても構わない!!!! だから…だから――」

  ガルドの体が、ワナワナと震えていた。

  その動きに、オレも声が震えだしてしまう。だけどこれだけは伝えなきゃいけないと、必死になってオレは声を振り絞った。

  背中に回していた手の平が、ギュッとしがみ付くように握り締められていく。

  「だから…オレの最後は、お前が看取ってくれないか…? お前じゃなきゃ…お前じゃなきゃ駄目なんだ!!! 自分が死ぬ瞬間位…自分の惚れた相手に、看取って貰いたいってわがまま言っても…バチは当たらないだろう…?」

  その瞬間、ガルドは声を上げて泣き出した。

  ギュっとつぶられた両目から、涙がとめど無く溢れ出していく。今にも崩れ落ちそうな体を必死になって支えながら、そんなガルドの姿を、オレはジッと眺めていた。

  …オレの元から去ってしまう位に、ずっと我慢して、ずっと一人で耐えてきたんだもんな。

  その愛おしさに、オレも答えてあげたかった。

  「…駄目か?」

  ブンブンと、首が横に振られる。きっとオレ達は、こうやって結ばれるしか他に術はなかったのだろう。

  結ばれたとしても、それはたった三ヶ月の命で終わる。

  だけどこの三ヶ月があるのなら、自分は生きてきて本当に良かったと、そう思えるんじゃないかと思った。

  本当に、オレ達がそのやがて訪れるであろう別れとその悲しみに、耐えられるのかは誰にも分からない。

  またこいつを一人残して、オレだけが死ななきゃいけない孤独と辛さに…オレもガルドも耐えられるのかどうかなんて、検討もつかなかった。

  だけど今感じる愛おしさと温かさだけは…本物なんだ。

  どんな結末が訪れても…それだけは、確かだと胸を張って言える。

  「…さ、帰ろう。ガルド。…もう、オレの傍から離れないんだろ?」

  立ち上がって、手を伸ばす。

  目の前の虎は、未だにうずくまったままその手を見上げるだけだった。

  夕焼けが、地平線の向こう側へと消えていく。

  「貴昭…」

  「…約束しただろ? 今日は、いつもより豪華なオムライス作ってやるって。忘れたのか?」

  そう言って、オレは大げさに笑って見せた。

  その瞬間、ガルドもぎこちなく笑ってくれる。大きな手の平がオレの手の平と重なると、一瞬の重さと同時にガルドはその場に立ち上がった。

  繋いだ手の平に、柔らかな温かさが固く結ばれている。

  オレはそれを力を入れて握り締めると、大きく息を吐き出した。

  「あ、あとな…ガルド…」

  目を、そっと逸らす。

  これだけは、ちゃんと言わなきゃいけないと思っていたからだ。

  なのになかなか、いざと言うときに限って上手く言葉は回ってくれない。

  「…助けてくれて、ありがとう。馬鹿な真似をしてしまって、その…本当に悪かった。 本当に…」

  あんなに、飛び降りる瞬間は何の疑いも無くその命を投げ出したのに。

  …まさか自分が、こんなに後悔をするだなんて想像もしていなかった。

  罪悪感と後悔とが、胸を締めつける。その自分の浅はかさと、考え無しの行動に、オレは謝ることしか出来なかった。

  「…いいんだ。俺は、お前の神様なんだ。ずっと俺が守るって、そう約束しただろう…? それに、お前があんな行動を取ってしまったのは…全部俺のせいなんだ。 お前が謝る必要は、全く…ない」

  夕焼けが、空の向こうへと消えていく。

  淡い藍色の世界の中で、冷たい風が吹き抜けていく。その中で感じる手を繋いだ温もりだけが、今のオレ達を繋ぎとめているようだった。

  「…あぁ、そうだったな」

  オレは、そう笑いながら言った。

  「確かに、そうだった」

  ふら付く足を引きずりながら、一歩、また一歩ずつ歩き出す。

  夜空に照らし出す月が、まだ明るい空に浮かんで綺麗だった。

  いつもとは違う景色が、オレの周りを取り囲んでいる。

  「なぁ、貴昭」

  「…なんだ?」

  「…本当に、ありがとう。大好きだ」

  

  (完)[newpage]13

  「魂の昇格を目の前に、契約神の不甲斐なき言動が原因として行われた自殺。自殺自体は未遂に終わり一命を取り留めたものの、その行為自体は煉獄にて罪を改めさせ、その苦役に服させるほどの重罪である。しかしながら、その自殺に至るまでの理由、動機には酌量の余地があり、また若干22歳の若さで魂を昇格をさせるほどの神格の高さ、その逸脱した素質の高さを見る限り、本件を通常の尺度で処理する事は極めて困難の案件だと私は判断する」

  目の前の書面を読みながら、目の前の獅子は淡々と言葉を続けた。

  しかしながら、少しづつその声が呆れにも、苛立ちにも似た響きへと変わっていく。

  その反応に、俺は困ったように頭をガシガシと掻き毟った。

  何もかもが、想像通りの反応だったからだ。

  「よって、彼の魂を煉獄での苦役ではなく、現世での魂の修練を引き続き私の監督下の元行う事を提案する。神格自体は魂の昇格には十分ではあるものの、先の行為に対してそれをもっぱら無視できるものではないと判断したからだ。またこの件に関しての全責任は私自身にあり、彼の以後の監督、及び更正に関しても私が一切の処遇を負うべきものだと判断した。以上の理由から、この件に限定して、神格による魂の強制的な昇格、寿命による現世での強制的な死を無視し、これを一つの罪として生きながらえさせる事を提案する、ね…」

  パサリと、乾いた音と共に俺が書いた書面はテーブルの上へと落ちていった。

  その瞬間露になったカイアスの顔に、俺は思わずグッと唾を飲み込んでしまった。

  …これは、怒りだ。

  呆れを通り越して湧き上がった、怒りの感情で目の前の獅子の表情は染まっていた。

  「…なぁ、ガルド。まさかお前…これで本気で行くつもりじゃないだろうな…?」

  グルルルと、牙をむき出しにしてうなりながらそうカイアスは言葉を返してきた。

  その反応に、俺も思わず後ずさりをしてしまう。

  「あ、あぁ…そのつもりだが…?」

  「馬鹿かお前は!!!! こんなご都合主義の書面で、執行部の奴らを誤魔化せるとでも思ったかこのスカタンが!!! もう少しどうにかならなかったのか!? 」

  そう、いきなり鉄槌の叱りの叫びが部屋の中に木霊した。

  …こんなに怒ったカイアスの姿、初めて見るんじゃないのかと疑いたくなる位の罵声とうなり声とが、耳に突き刺さる。

  「お、俺だって必死になって書いたさ!!! だ、だが…無理があるだろう? あいつの寿命を延ばせだなんて…」

  「そこをどうにかするのがお前の役割だろうこの間抜け!!! 馬鹿!! スカタン!!! お前…そいつの事惚れてるんだろう? そいつだってお前の事受け入れてくれたんだよなぁ…? だったら何が何でも守り通せこのスカタンが!!! それでもお前雄か!?」

  「な…!? お、お前だって、ロクなアイデアも出せなかったじゃないか…!!! これ以外…これ以外ベストな奴はないだろう…? どう考えたって、これ以上は…」

  みるみる内に、俺の声が弱弱しいものになっていく。

  その俺の反応を見て悟ったのか、カイアスはもうそれ以上声を荒げる事はなかった。

  ギリギリと、牙を噛み締める音が頭の中で歪に鳴り響く。

  …結局、目の前に突きつけられている問題は何も変わってなんかいなかった。

  「…で、いつ来るんだ?執行部の奴らは。…もう、時間はないんだろう?」

  そう、カイアスが静かに聞いて来た。

  …自信は、ない。

  確かにこいつの言う通りだと、この文面を書きながら俺も全く同じ事を考えてしまっていたからだ。

  …何もかもが、都合が良すぎる。

  こんな誤魔化し方、冷徹非道だと聞いていた執行部の奴らに通る訳がなかった。

  「…今日には、もうここに来ると言っていた。ただ、当事者である俺の証言だけでは不十分だとして、あと一人契約神の証言を取ると言っていた。つまり…」

  「…つまり、オレの登場、って訳か… お前、自分の親友にも共犯者として罪を負わせるつもりなのか?」

  目の前の獅子は、そう呆れたように答えた。

  その言葉に、俺は何も言う事が出来ない。…こいつ以外、俺には頼れる相手が誰もいなかったからだ。

  そんな相手を、自分のせいで巻き込もうとしている。

  …罪悪感が無いわけがなかった。

  「す、すまないカイアス…俺には、もう――」

  「…分かってる。オレも、お前みたいな馬鹿の親友なんだ。これくらい…頼まれてやるさ。もう、あんなお前の姿を見るのもうんざりだしな」

  そう言って、目の前の獅子は呆れたように笑った。

  それだけで、心のどこかが軽くなっていく。

  「…ありがとう。本当に、すまない…カイアス。本当に…」

  「…いいんだ。…で、執行部の奴らはいつ来る? 今日中に来るんだったら…もう身構えておかないといけないだろう?」

  「…もう、来ているが?」

  いきなり部屋に鳴り響いた第三者の声に、俺達は思わずその場を飛びのくように立ち上がってしまった。

  目を向ければ、黒いフードを被った男が部屋の隅に立っている。

  …執行部の奴だ。

  一目見ただけで、そう一瞬で判断ができた。

  つまり…こういう事なのか…?

  今まで俺達の会話を、こいつに聞かれていたと…そうなるのか…?

  「お、お前…!!!」

  「ま、待て!! そう警戒しなくてもいいだろう!? 俺達執行部の人間も、役割と部署が違うだけであんたら契約神となんら変わらないんだ。…そう、身構えなくてもいいだろう?」

  そう言って、目の前の男は黒いフードを取った。その瞬間、目の前の顔が露になる。

  …黒い鱗に包まれた、竜人だった。

  心なしか、顔が柔らかな表情をしている。

  …どう見ても、執行部の人間とは思えない顔をしていた。

  「話を盗み聞きするような真似をして、悪かったと本当に思っている。 だけどこれも、俺には必要な事だったんだ。俺の名前は、カトレア。カトレア・ベルトウェイだ。本件を預かることになった、執行部の人間だ」

  俺達の反応を抑えるように、両手の手の平を広げながらそいつはそう言った。

  そのやり取りに、少しだけ警戒心が緩んでしまう。まさか、こんな奴が俺達の元に来るとは夢にも思っていなかったからだ。 未だに動揺で、頭が上手く回ってくれない。

  「…単刀直入に言う。あんた、ガルディア・ラインハルトだな…? 俺は、あんたの契約者を助けに来た。…嘘じゃない。俺は、あんたの契約者の寿命を延ばしに来たんだ」

  目を真っ直ぐに見据えて、そう黒い竜は言った。

  その言葉の意味が、俺の頭の中を錯乱させていく。

  「…ど、どういうことだ…? お前は、貴昭の魂を昇格させに来たんじゃないのか…?」

  「あぁ、いずれはそうなるのかもな。だが、今はそんなつもりは毛頭もない。あんたは…自分の契約者の寿命を延ばしたいんだろう…? 俺にはそれが出来る。俺は…あんたの契約者を助けたいんだ。だから頼む。俺の事を…信じてはくれないか?」

  死神だと言った男は、そう言った。

  カトレア・ベルトウェイ。黒い竜人の、執行部の人間。

  …まさかこいつが、カイアスと同じように俺の親友になるだなんて…この時、夢にも思っていなかった。