魔女のつがい

  外に出る用の靴に履き替えようとしたら、いつも置いてある場所になかった。

  探すこともなくその理由に思い当り、すぐに来た道を戻って寝室に向かう。

  開けたままにしていた扉から入れば、部屋を出る前と同じ姿でベッドに寝そべっていた狼がのそりと顔を上げてエンに鼻先を向けた。

  「ウォル! また靴隠しただろ!」

  『……ウォルじゃない』

  狼の口は動いてはいないが、ウォルの言葉が直接頭の中に聞こえてくる。それとともに彼の感情も流れ込み、拙い嘘は簡単に見破れる。

  なにより、これが初めてのことでもないのだから感情を読む必要もない。

  「まったく、毎回隠すんだから……ほら、行くのが遅くなればその分、戻るのだって遅くなるよ」

  引き止めることはできないとようやく諦めたらしく、のそりと身体を起こす。するとウォルの影になっていた場所から探していた靴が出てきた。

  いつの間にベッドに引き上げられていたのか。出掛ける前に家のことを片付けるため忙しなく動き回っていたが、手狭な家の中だ。だいたいウォルが見える場所にいたはずなのにちっとも気がつかなかった。

  すぐに出せる場所にあったということは、ウォルも本気で妨害するつもりはなかったのだろう。それでも、もしかしたら自分の望む通りエンが「仕方ないなあ」と言って留まるかもしれないと淡い期待を抱かずにはいられなかったのかもしれない。

  靴を取り上げられるとまたベッドに寝そべり、両腕の間にぺたりと顎を伏せる。

  敷布の上にだらりと流れる尻尾がいかにも寂しげで、つい頭に手が伸びた。

  よしよしと頭を撫でてやると、耳が少し下がる。

  『いつ、帰ってくる?』

  「日が暮れるまでには帰ってくるよ」

  明らかに不服そうだ。ふん、と鼻を鳴らすと耳は完全にぺしゃんと倒れてしまう。

  思わず抱きしめ、わしゃわしゃと全身を撫でてやりたい気持ちに駆られた。だがそんなことをしてしまえばますます家を出がたく思うに違いないのでぐっと衝動を耐える。

  「お土産、買ってきてあげるから。なにがいい?」

  『……肉。うさぎがいい』

  「わかった」

  出かけると言ったってほんの半日ほどのことだ。

  今生の別れでもないのに随分と悲壮感漂う狼の後ろ姿が可哀想だが、いじらしくも思えて、つい頬が緩みそうになる。

  でも笑ったらこれ以上に拗ねるのは目に見えているので、頬にしっかりと力を入れてウォルに声をかける。

  「じゃあ、行ってくるから。大人しくしてるんだよ」

  『エン』

  「ん?」

  『いってらっしゃい』

  「うん。いってきます」

  顔は向けてくれなかったが、尻尾が持ち上がって手を振るように一度大きく揺られる。それがまたぱたりと寂しそうに落ちるのを見守って、ようやくエンも部屋を後にした。

  靴を履き替え、入り口に置いていた荷物を肩から下げて家を出る。

  これから向かうのは最寄りの町だ。エンの家は町の傍らに広がる森のなかの、歩いて一刻ほどの距離にある。

  平坦な道のりなので体力的には問題がないが、獣が出るので注意が必要だ。

  大型の熊も共存する森のなか、少しでも危険を避けるために鞄に仕舞っていた道具を取り出す。

  拳よりかは一回りほど小さい土鈴だ。親代わりとなってエンを育ててくれた叔母から譲り受けた獣除けの鈴である。

  取り出した鞄の外にしっかり紐で結ぶ。引っ張っても落ちないことを確認して、ようやく安心できた。

  これには魔法がかけられており、鈴といっても中に玉は入っておらず、音は鳴らない。しかしその代わりに目には見えない魔法の玉が入っていて、敵意ある危険な獣にだけ音が聞こえるようになっていた。

  どんなに揺らしてもやはりエンの耳には何も聞こえないが、鞄の横をころころと揺れる魔法の鈴は、可愛い見かけでは想像できないほどしっかりと周囲に警戒音を響かせてくれている。

  森を歩く時は必ずこれを身に着けるようにしていた。魔法の鈴はあくまで獣除けのお守りであって確実に獣を近づけさせないというわけではないが、ひ弱なエンはこれなしで歩くなど考えられない。

  背はそこそこ伸びたが、鍛えても筋肉がつきにくい体質で肉付きは薄い。成人を迎えて久しいはずだが実年齢より幼く見える、どちらかといえば可愛らしいと評される外見の通りの腕力しかない。

  森育ちということもあってか足腰は丈夫で身軽なので、逃げ足が早いというだけでも幸いだった。

  もし、獣と対峙することがあれば、立ち向かわず何とかして逃げるの一手のみ。

  臆病で慎重な性格もあって、避けられるものは避けるし、穏便に済ませられるのならそれが一番だと思っている。鈴ひとつで身を守れる可能性が格段に上がるのなら、絶対に忘れることもしない。

  ずっと森で暮らしてきたが、おかげで危険な場面に遭遇することなく無事に過ごしてきた。ましてやまともに獣と張り合ったのなんて、ついこの間が初めてのことかもしれない。

  思い返すのは、エンのベッドを占領しながら寂しそうに寝そべる大きな狼のこと。

  ウォルという名の狼を守るため、エンは生まれて初めて勇気と根性を振り絞ったのだった。

  朝はいつも近くの小川の水汲みから始まる。

  家に戻ったらすぐにまた出かけて周囲に張っている罠の確認に回り、獲物がかかっていたら処理を行う。

  その後は家に戻り朝食を済ませ少し休息を挟んだら、今度は畑と薬草園の世話に向かう。軽く昼食を摂ったらもう一度畑に向かうか、もしくは町に卸すための雑貨づくりをすることもある。

  一人暮らしのエンはやらなければならないことが山のようにあるので、いつも忙しなく働いていた。同居していた叔母は十年も前に亡くなったので、今更一人で困るということはないが、休めばその分未来の自分にしわ寄せがいくだけなのでゆっくりもしていられない。

  その日も夜明けとともに起きて、しかけていた罠に何かかかっていないか確認に向かうところだった。

  罠は家の周辺に何カ所か設置されている。家からそれほど離れた場所ではないのですぐに辿り着くが、いつもエンは必ず獣避けの鈴を鞄につけて歩くようにしていた。

  まだ夜の気配が残るうちは獣との遭遇率も高く、何より罠にかかり動けなくなった動物を目当てにやってくることもあるからだ。

  幸いなことに効力が強い獣除けの鈴があるおかげで、エンが近くに行けば獣のほうから逃げ出していくので、今まで遠目で見かける程度で済んでいた。

  だがその日は、いつもと違った。

  罠のもとに辿り着くと、そこに一匹の狼がいたのだ。

  「……っ!?」

  気配を感じなかったので、すっかり油断していたエンは心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。

  思わず叫びそうになった悲鳴をどうにかのみ込むが、心臓がばくばくと激しく鼓動する。

  恐怖で身がすくむと同時に、目を奪われた。

  罠にかかり逃げようと暴れ回り、そして息絶えたらしい兎の傍らで腰を下ろし、じっとエンを見据える白狼。それがあまりに美しく、野生の獣を相手に気品のようなものを感じるほどだったからだ。

  野生の狼に出遭ってしまったが、幸いなことにエンを襲う気配はなかった。じっとこちらを見据え動向を気にしているようであるが、大人しく地面に腰を下ろしたままだ。

  だがこれ以上、白狼が狙っているのであろう獲物に近付けばどうなるかわからない。狼に牙を剥かれたら勝敗は一瞬だ。もちろん、エンの首元に鋭い牙が突き刺さって終わる。

  潔く兎は諦めて、狼に背後を見せないようじりじりと後退していく。そして草葉で互いの視線が遮られると、足音を潜めながら家に帰ろうとした。

  ――しかし、いつの間にか回り込んだらしい先程の狼が、道先に現れる。

  仕方なく道を変えても、また狼が道を塞ぐように姿を見せた。それが何度も繰り返されるうちに、さすがにエンもおかしな事態になっていることに気がつく。

  譲ったはずの兎を捨て置き、白狼はエンの行く先を先回りしては、襲うわけでもなく道を変えさせてまたその先に現れるばかり。

  いったい何がしたいというのだろう。疲れさせて、襲うつもりなのだろうか。だが丸腰の相手にそんな回りくどいことをしなくてもいいだろうに。

  狼の生態には詳しくないが、こんな風に攻撃もせずに精神的にいたぶり追い詰めるというのも聞いたことがない。弄ぶにしても、それならもう少し手を出して嬲るのではないだろうか。

  それにエンが動き続ける間は、腰につけた獣除けの鈴も大きく鳴り響いているはずだ。とくに耳のいい狼には苦痛なはずなのに、白狼が気にする様子はない。

  鈴の音が聞こえない条件は、敵意がないことだ。もしかして白狼はエンを襲うつもりは一切ないのかもしれない――そんなことを考えた時、一際大きな木が見えた。

  白狼の気配はまだあるので、そのまま脇を通り過ぎようとした時、ふと根元にある虚から生き物の息遣いを感じてびくりと肩が跳ね上がった。

  恐る恐る影になる場所に目を向けると、なかには一匹の狼が足を投げ出すように横になっていた。

  もう少し近づけば手が届く距離までエンが来ているのに、気がついていないのか起き上がる気配はない。

  もしかしたら、意識がないのかもしれない。

  そう思えたのは、フッ、フッ、と繰り返される苦しげな荒い息遣いのため。そして気がつかなかったが、狼の足跡を辿るように地面に落ちている血と、人間の鼻でもわかるくらいの錆びた鉄の匂いに、この狼がひどく負傷していることがわかったからだ。

  振り返ると、あの白狼がエンの後ろに座っていた。

  「もしかして、この子を助けてほしいの?」

  問いに応えるように、白狼の感情がじわりとエンの心に滲み込んでくる。

  心配。怖い。苦しい。悲しい――静かな金の瞳は逸らされることなく、その感情を知ればやはり救いを求めているように見えた。

  白狼は突き出た鼻先を浅く沈ませて見せる。それはまるで言葉を理解できるはずもない野生の獣が、頷いているかのようだった。

  「そう。だから、ぼくをここまで連れてきたんだね」

  先回りしたのはここまで誘導をするため。傷ついたこの狼を救ってもらうためだったようだ。

  人間であるエンに助けを求めるところを見ても、この白狼が恐ろしく賢いことがわかる。狼より強くはないが、よほど器用で知恵もあるエンであれば、自然治癒よりも効果がある治療を行うことができる。無暗に獣を傷つける趣味もないし、そういう人柄も見ているのかもしれない。

  だが本来、エンは野生動物の保護は行っていない。自然のものは自然に任せるべきであり、手を加えるとしても自分が責任を持ち管理できる範囲だけと決めている。必要以上の殺生も、森の開拓も行わない。故にこの森の一部として、獣たちと同じくここに生きる者として暮らしていける。

  ――くるしい

  ――いたい

  ふと、再び他者の感情が流れ込んでくる。それは先程感じた白狼からではなく、傷ついた狼からだった。

  怪我がひどく動けずにいるようだが、まだ微かに意識はあるようだ。か細い声を上げるように、うっかりしていれば見逃すような微かなものだった。

  エンは魔女だ。自身に流れる特殊な魔女の血により、生き物の感情を少しばかり読み取れる力があった。

  白狼が傷ついた狼を心配する気持ちを読み取ったのも魔女の力によるものだ。

  そしてその力で、命を失いつつある狼の苦しみも受け取った。

  罠にかかった獲物の命を奪うたびにその感情を聞いてしまえば自分が苦しむことになる。普段はあまり力を使わないように抑制していたが、白狼の気持ちを知るために解放したがために苦しむ狼の気持ちまで知ってしまった。

  ――いたい

  ――いたい

  『――たすけて』

  ふと聞こえた、感情というより言葉に近いそれにはっとする。

  獣は死に際に痛みや恐怖、怒り、周囲の仲間への警戒を訴えることはあっても、誰かに救いを求めることはない。

  だが今、狼から「助けて」と聞こえた。とても小さくて、今にも掻き消えそうなものであったが、確かに感じ取った。

  本来ならこの狼を助けるべきではない。どういった事情で負った傷かわからないが、可哀想だがこのまま見捨てたほうがいい。だがここまでエンを導いた賢い白い狼のこと、そして獣でありながら救いを求めた狼のことが気にかかる。

  ひどく迷った末、今回は彼らを助けることに決めた。

  「――大人しく、していてね」

  そっと声をかけ、静かに丸くなる狼の手前で膝をつく。

  触れようとして、一瞬ためらった。相手は手負いの獣だ。かなり弱っているとはいえ、人間のエンに気づいた瞬間に噛みつかれるかもしれないという恐怖に身がすくむ。

  やはり止めるべきかと悩んだが、先程から細々と伝わってきていたはずの狼の感情が途絶えていることに気がついた。どうやら完全に意識を失ってしまったらしい。

  「……よし」

  肩に下げていた鞄を下ろして中から道具を取り出す。

  まずは水筒で手を軽く洗い清潔にして、起きないでくれと祈りながら、恐る恐る狼の身体に触れた。

  暗い毛並みでわかりづらかったが、どうやら左後足と腹に大きな傷を負っているらしい。とくに切り裂かれた腹の傷がひどく、大きく肉が抉れて出血が続いている。

  あまりにひどい傷で目を逸らしたくなる。少し狼の毛並みに触れただけで、指先は真っ赤に染まった。

  むごい傷痕とむせ返る血の匂いに気が遠くなりそうだ。朝食を摂る前でよかったと思う。もし何か腹にあれば、間違いなく吐いていた。

  エンが手を出したところで助かるかも怪しい状況だが、このままにしていれば間違いなく命はないだろう。

  「ま、まずは止血を……」

  自分に言い聞かせるよう声に出し、鞄から取り出していた薬草や包帯を確認した。

  外に出る時は、もしどこかで怪我をしてもいいように応急処置ができる最低限の道具を持ち歩くようにしていたのが幸いした。

  今できる限りの処置を行い、一旦狼をその場に残して家に帰った。

  あの場所から狼を運び出すのに必要な荷台を取りに行くためだ。思っていた以上に傷が深く、本格的な治療を行うのであればエンの家が最適であると判断した。それに血の匂いが濃すぎて、他の獣がやって来る恐れもある。開けた森のなかで落ち着いて治療するのは不可能だ。

  さすがに自分とそう変わらない大きさの、しかも手負いの狼を安全に抱えるほどの力はない。荷台に載せるのも一苦労で、途中目を覚まして襲い掛かられたらどうしようとびくびくしていたが、狼は死んだように眠り続けた。

  狼を木の根元から連れ出す際、一度周囲を見回したが、いつの間にか白狼は姿を消していた。

  途中で目を覚まして襲われないよう薬で眠らせつつ、狼の治療を続けた。

  朦朧としているうちに食事を押し込み、水分を摂らせ、また薬で眠らせて様子をみる。

  自分の生活は最低限に済ませて他は後回しにし、ただ最善を尽くした。助けると決めたのだから、悔いの残らないようできる限りのことをしてやりたかった。

  一時は助からないかもしれないと危ぶまれたが、峠を乗り越えると容態は安定した。エンの薬の効果もあるが、予想以上に野生の獣の回復力は凄まじく、日ごと傷が塞がっていくのには驚かされた。

  傷の具合が目に見えてよくなっていったのは喜ばしいことだったが、だがそれで体力の回復も早いと言うことだ。

  狼の呼吸が安らかなものになり安堵するばかりで、すっかり失念していた。

  看病疲れてうたた寝しているうちに、狼は完全に目を覚ましたらしい。

  ベッドの上でじっとエンの様子を伺っていた。いつもは薬で眠らせていたが、間に合わなかったのだ。

  椅子に座り込んで寝てしまっていたエンは、寝ぼけ眼でいつものようにまずは狼に目を向けると、金色の瞳と視線がぶつかった時には腰が抜けそうなほど驚いた。

  思わず仰け反ると、そのままバランスを崩して椅子から転げ落ちてしまう。

  尻餅をつくわ、椅子が倒れ激しい音が立つわ、狼が興奮するかもと思いますます焦ったが、わずかに顎を引く動作を見せただけだった。

  「あ、あの……ぼくは、きみに危害を加えるつもりはないよ。きみの仲間から託されたからには、ちゃんと治るまで面倒をみさせてもらうから、安心して」

  そろそろと戻した椅子の背もたれに隠れながら、落ち着いた声を出すことを心がける。人の言葉を理解するとは思っていないが、まずは敵意がないことを示すことが大事だと思ったからだ。

  できる限り、怯えも隠す。椅子の影から話しかけている時点であまり効果はないかもしれないが、侮られて下に見られて今後の看護に差支えがあっても困る。

  優しく、穏やかに、けれども対等であること認めてもらえるよう虚勢を張った。

  『どこ。みんな、どこ。いたい。たてない。――だれ? なに?』

  狼が感じる不安が流れ込んでくる。そこに苛立ちや警戒する様子がないことに安堵するとともに、驚かされた。

  「言葉が、わかる……?」

  魔女の力で獣から読み取れるものは漠然とした感情だ。喜怒哀楽の何を感じているのか、不安や怯え、恨み、興奮――だがそれらは感情であって言葉ではない。

  同じ人間相手であれば言語化された思考を読み取ることができる。ただ人間は考えていることが複雑であることが多く力を使うのはひどく疲れるし、人の裡とは繊細で激しいこともあるのでなるべく覗かないよう制御していた。

  獣と人の言葉はちがうものであるから、彼らからは感情しか読み取ることができない。エンの知識外の異なる言語を用いる人間の心の裡が理解できないのと同じようなものであるが、何より獣は人間ほど複雑に考えて生きてはいないからだ。

  今の一瞬を生きている。過去から学ぶことがあってもそれに浸ることはなく、未来を計画するのも本能が行うことであって熟考して判断することではない。

  魔女である姉の一人は獣の言葉もわかる力があり、鹿を自身の伴侶として受け入れたほどだが、エンはそこまで魔女の力が強くないので、獣からわかるのは感情までだった。

  だが今、確かに狼の言葉を聞いた。脈絡のない言葉はただ思いついたまま並べたのだろう。

  『ひと? にんげん? どうして?』

  狼を見つけた時、彼は痛みを訴えていて、そして助けを求めている気がした。弱っていたし気のせいだとも思ったが、それがきっかけで介抱することを決めたのだ。

  だが今は気のせいではない。狼は若い男の声で、拙いながらもエンと同じ言葉を使っていた。

  狼が、言葉を操るというのなら。

  「きみは、狼?」

  自分の言葉も正しく伝わるのではないかと思い、慎重に声をかける。

  狼の使う言葉に合わせ、まずは理解ができるか簡単な質問をしてみた。

  大きな三角の耳がぴくりと動き、じっと静かにエンを見つめた。

  『……おおかみ。にんげん?』

  確かに質問した内容に対する返事がきて、予想していたというのに唖然とした気持ちになる。

  「――うん。ぼくは人間だよ」

  『なんで? にんげん? どこ? みんな?』

  「きみが、怪我をしていたから。助けるために、ぼくの家につれてきたんだ」

  『にんげん、おおかみじゃない。なかまじゃない。にんげんなのに?』

  「白い狼が、傷ついたきみのこと、教えてくれた。だから、ぼくは人間だけど、狼を助けることにした」

  狼はエンの様子を窺うように大人しく見つめたまま、思考するように沈黙する。伝わる感情には混乱が大きいが、今のところ敵意はなく胸をなで下ろした。

  狼の手前大人しくしているが、エンの内心では激しい興奮が渦巻いていた。

  エンの言葉を正しく理解しただけでなく、自分の言葉が伝わっていることに気がつき、自ら思念で問いかけてきた。エンと狼は間違いなく会話が成立していた。

  知能が高いという次元を超えている。狼でありながら、人に近い思考を持っているだなんて。

  白狼も恐ろしいほど賢いことに気がついていたが、もしかしたらあちらもこの狼のように思考する力があるのかもしれない。狼が会話をする力を持つということは、それを教えた相手がいるはずだからで、それがあの不思議な白狼なら納得できる。

  『みんなは?』

  「たぶん、近くにいる。白い狼は、時々家の外で見かける」

  水汲みや畑の様子を見に行った際に、遠目ではあるが純白の狼を見かけるようになっていた。

  近辺の狼は殆どが茶色か灰褐色だと町の人から聞いており、白い狼を見たという証言はない。だからエンを導いた白狼であることはすぐにわかった。

  こちらに襲いかかるわけでもなく遠くから伺う様子から、きっと傷ついた狼を心配しているのだろうと思い一応容態を伝えていたが、きっとそれは正解だったのだろう。

  おそらく白狼もエンの言葉を理解している。それならきっと、狼の容態は安定し、命の危機は過ぎ去ったこともわかったはずだ。

  狼は少し寂しそうな感情を滲ませながらも、落ち着きを失うことはなかった。

  その様子から、この狼が突然襲いかかるようなことはひとまずないと判断して、エンはようやく椅子の影から抜け出し狼の正面に腰掛ける。

  だがまだ油断はできない。怒らせたり、空腹を感じたらそのままがぶりといかれる可能性もあったりするので、椅子を後ろにずらして少しでも距離を置く。

  「きみの怪我はまだひどい。動けないだろう? 治るまでここにいるといい」

  『なかまじゃない。どうして?』

  「ぼくがきみを助けると決めたから。それだけ」

  『それだけ』

  納得したのかはわからないが、それ以上問いかける言葉はなかった。

  強い感情もとくに読み取ることができなかったので、エンは椅子から立ち上がった。

  「お腹、空いただろう? 何か持ってくるから、それまで考えていて」

  『かんがえる?』

  「ここで傷を治すか、仲間のもとに帰るか。仲間のところに帰りたいなら、送っていくから」

  傷は深く、足も負傷している。幸い神経は傷ついていなかったので怪我が治ればまた今まで通り走れるまでに回復するだろうが、少なくとも今は自力で立ち上がるのも難しいはずだ。

  もうじき狼の意識もはっきりすることを見越して用意していた特製の狼用滋養たっぷりスープの下ごしらえは済んでいる。

  眠っている間は意識がなくても流し込めるようにすりつぶした薬草と眠り薬を混ぜていたが、これからは体力の回復も必要だから肉も入れたほうがいいだろう。

  エンが食事の準備を終えて戻ると、狼はただ大人しく寝台の上にいた。

  冷ましたスープを差し出すと、何度か匂いを嗅いで安全を確かめる。

  『これ、しってる』

  眠っている間にも食べさせられていたことはなんとなく覚えていたのだろう。警戒を解ききったわけではないのでちらちらエンの様子を窺いながら、舌でスープを掬い食べていく。

  最初はそろそろと毒でも入ってないかと疑うようだったが、問題ないと知るやいなやびちゃびちゃと音を立てて飲んでいく。

  しっかり雫も残さずスープを平らげた狼は、そのまますぐに眠る体勢をとった。

  どうやら、ひとまずはここで静養することを決めたらしい。

  これからよろしく、なんて挨拶を獣に求めてはいけない。それよりも今はただ、空になったスープ皿のほうが嬉しくて、ようやくエンは表情を緩める。

  こうして狼とエンの同居生活が始まることになった。

  狼はエンのもとで怪我の療養に専念することに決めたようだが、だからといって心を許してくれたわけではない。エンも言葉がわかりあえるからといっても、相手は野に生きる獣であることを常に念頭に置き、行動には気をつけた。

  寝台の上を自分の領域と決めた狼は、同じ部屋の中でエンが動いていても目線で動向を観察しているだけだが、手の届く距離に行こうとするとすぐに唸り声を上げる。

  もとはぼくのベッドなのに……と思わなくもないが、怪我をしている相手に文句も言えない。それに思いの外その場所を気に入っているのか、時折毛布に頭を突っ込んで寝ている姿は少しばかり微笑ましい。

  狼の存在に慣れてきたら、もとより動物好きのエンとしてはその豊かな灰褐色の毛並みを撫でてみたいなどという願望も抱かないわけでもなかったが、何せ近づくだけで威嚇されるのだから難しいだろう。

  こんなことなら、薬で眠らせているうちに存分に触ってやればよかったと思う。あの時は治療に専念していてそんなことに気が回らなかったし、思いついたとしても傷に障るといけないと考えて結局できなかっただろうけれども。

  治療の時と食事や水の交換以外は傍に寄ることはない。当然寝台の持ち主といえども同衾することなく、エンが眠るときは居間の床に横になっていた。

  他にも物置にしている部屋があるが、ベッドは狼に占領されている一台しかなく、それならば狼がこっそり抜け出そうとしても気がつけるようにと玄関の近くを選んだ。

  何枚か毛布を敷いているがやはり床は硬く、連日ともなれば身体があちこち痛くなる。

  大してゆとりのない独り暮らしの日常生活に狼の介抱が加わり、疲れ切っていた身体はしっかりとした休息もとれないことにより、自分でも思っていた以上に疲労を蓄積していたらしい。

  ある日、ふと頬に風の気配を感じて目を覚ました。

  古い家ではあるが、風が入りこむような隙間はないはずだ。それなのに家の中に風を感じるということはつまり、どこかが開いているということ。

  家の扉や窓の施錠はすべて確認したはずだ。疲れていても、エンが気づかないうちに狼が逃げ出すことを防ぐためにいつも注意していた。

  ――ひとつ失念があったとするなら、狼が恐ろしく賢く、そして学習能力も高いということをエンが正しく理解していなかったことだ。

  まさかと思い寝室に向かえば、予想した通り窓が開け放たれていた。そして寝台に狼の姿はなく、彼がそこから抜け出したことがわかる。

  「鍵を外したのか……!」

  エンが部屋に居座る時にだけ、換気のために窓を開けていた。それ以外はいつもきちんと閉じて施錠もしていたが、狼はそのやり方をこっそり見ていたのだろう。

  窓の鍵はかんぬきを使用していた。器用な手がなくても鼻先を使うだけで十分解錠が可能なことに気づいていた狼は、動ける身体になったので勝手に出て行ってしまったのだろう。

  確かに傷は塞がりつつあり、狼も時折部屋をうろつくこともあった。だが足をひょこひょこと引きずり、体力もなくすぐに寝床に戻る姿はあまりに心もとなく、何より臓物が飛び出す寸前だったほどの深い傷の完治には程遠い。

  まだ安静にしていなければいけない状態であるというのに。ちゃんと寝ていれば、時間はかかってもまた走れるまでに回復するのに。

  それほどまでにエンのことが信用できなかったのだろうか。それとも、どうしても仲間のもとに帰りたかったのか。――自分で、ここに残ることを決めたというのに。

  帰りたいと願う気持ちはよくわかる。心を許せない人間のもとにいるよりも、生をともにする同族とともにいたほうがよほど安らげることだろう。だから「帰りたい」と言われれば無理に引き止めるつもりはなかったし、それならエンが仲間のもとまで送っていくつもりでいた。

  傷が癒えきっていない今、他の獣に襲われるようなことがあれば狼といえどもひとたまりもない。送っていくのは安静が必要な狼を運ぶためもあるが、護衛も兼ねてのことだった。

  時折様子を見に来る白狼とすぐに合流ができたなら、それでいい。

  だが三、四日ほどに一度顔を見せる白狼は、つい昨日姿を見せたばかりだ。いつものように狼の様子を報告したし、安心して近くを離れている可能性が高い。

  いつも狼が寝ているベッドに指先を当ててみる。ほんのわずかだが温もりを感じた。

  「まだ、そう遠くに行っていないか……?」

  本来は狼の足に到底追いつけるわけもないが、手負いの彼は走ることさえままならない。それならまだこの近くにいる可能性は高かった。

  窓から見える景色はわずかな月明かりに照らされた夜の森だ。月は高くにあり、夜明けも遠い。

  森は獣が多く、夜に出歩くことは自らの身を獣に捧げに行く自殺行為にも近い。普段なら家にじっと籠っている時間だ。ここなら魔法の結界が張られているので、この森でもっとも安全な場所だと言える。

  だがエンが迷ったのは一瞬で、すぐに追いかけることを決めた。

  そのためにはまず、狼の足跡を辿っていく必要がある。広い森を闇雲に探したところで見つけられるわけがない。

  ベッドの上に目を凝らし、狼の抜け毛をできるだけ集める。

  右手に集めたそれを握りしめつつ隣の物置兼作業部屋に移動して、ごちゃごちゃと寄せられた道具の中からペンデュラムを取り出した。

  円錐型に整えられた青い石を集めた狼の毛ごと握り込み、意識を集中させる。自分の身体に流れる力を、両手で包んだペンデュラムに注ぎ込むように想像していく。

  エンの魔力と探す相手の一部を吸収した探知用魔道具は淡く光を放ち、ひとりでに浮き出すとエンを導くようどこかへ向かおうとした。

  魔法具が示すその先に、抜け毛の本体となる狼がいるはずだ。

  エンは外出用の鞄を掴み、家を飛び出した。

  獣除けの鈴を忘れたことに気がついたのは、家が見えなくなってしばらく経ってからだった。

  普段なら鞄に入れたままにしているが、魔力が少なくなっていたので後で手入れをするつもりで机に置いていたことを今更ながらに思い出す。

  戻る時間も惜しく、しかたなく魔法で自身の存在を薄くした。他者から認識されにくくなるので身を隠したい時に重宝するのだが、エンはあまり得意ではなく、今は心も乱れているので集中力に欠けて不安定な状態だ。それに魔力もそれほどないので、いつまで隠匿の魔法がもつかもわからない。

  早く狼を見つけないと、エンの身も危うくなってしまう。

  狼をのもとに導く魔法具が示す先に、いつも通っている獣道を外れて道なき道を突き進む。行く先を阻むように草木に遮られるが、それさえも突っ切った。枝がしなって剥き出しの頬を打つが、今は気にしている場合ではない。

  そうして急いだおかげで、家からそれほど離れていない場所で狼の姿を見つけることができた。

  しかしエンは狼を認識すると同時に、その場で足を止めてしまう。

  そこにいたのは狼だけではなかった。

  狼は身を低くし、低いうなり声を上げる。その視線の先にいたのは三匹の野犬だった。彼らもまた臨戦態勢をとっており、毛を逆立て牙を剥き出しにして威嚇していた。

  犬と狼であれば狼のほうが大柄で力も強く、まず負けることはないだろう。しかし相手は三匹だし、何より狼は歩くのもやっとの大怪我を負っている。平常時であればまだいなせたかもしれないが、今の身体では絶対に無理だ。

  今にも互いに飛び掛かりそうな勢いに気圧され、エンの足は竦んで縫いつけられたようにその場から動けずにいた。

  幸いなことに両者ともに目の前の敵に集中しており、隠匿の魔法の効果もあって、まだ誰もエンのことに気がついていない。このまま立ち去れば獣同士の争いに巻き込まれなくて済むだろう。

  殺気立つ獣たちの気迫は呼吸を止めさせるほどの圧があった。

  ただ近くにいるだけで目も合わせていないというのに、足が震え、冷や汗が背を伝う。神経がびりびりと痺れて、逃げ出すことすら忘れさせるほどの絶望に近い恐怖に身が竦む。

  これまでにも狼に近づくなと唸られることはあったが、まったく本気でなかったことがよくわかる。エンにとってはあれでも恐ろしく、いらぬ怒りを買わぬようにとびくびくしていた。

  だが本気を出した狼は手負いであっても、数に勝る野犬たちを圧倒して王者のように立ちはだかっていた。

  野犬たちは腰が若干引けているものの、自分たちの有利を理解しているので引かずに対峙している。もしこれが全回復している狼であれば、とっくに尻尾を巻いて逃げ出していたかもしれない。

  気迫では三匹の犬を相手に狼が勝っている。しかし、実際の勝負は結果が全てであり、生き残ったほうが勝者だ。死にもの狂いになれば格下であっても打ち勝つことはあるし、終わっていない戦いに油断はできない。

  両者は長く睨み合い、エンも介入できず途方に暮れていると、ふと狼の唸りが揺れていることに気がつく。

  暗がりに目を凝らしてみると、どうやら腹の傷口が開いていたらしくそこからぽたりぽたりと血が滴っていた。

  野犬たちもじりじりと距離を詰めてきている。血の匂いで狼が深い傷を負っていることにも気がついているだろう。

  どうする。どうすればいい――

  このままでは本格的な争いが始まる。逃げるなら今だ。

  自分の身が一番大事なのだから、早くここから去ればいい。勝手に家を出て行った狼が悪いのだし、もうできる限りのことはしてやったはずだ。

  だからもういいだろう。もう十分だ。そう思うのに、足が動いてくれない。

  恐怖で強張っているのはあるが、それが理由ではない。地面に縫いとめるものが他にあることはわかっていた。

  狼から目が離せないのだ。苛烈に怒り、手負いでありながら他を圧倒する貫禄をもって立ちはだかっている彼から。命を燃やすような生命力を滾らせるその瞳から。

  ついに犬の一匹が仕掛けようとぐっとさらに身を低くしたのを見て、咄嗟に手を出していた。

  魔法は想像力でもある。どれだけ具体的に想像し、それを形にするだけの魔力を注ぎ込めるかで効果は変わってくる。

  そのイメージも荒唐無稽なものでは意味がない。あくまで自分の魔力の範囲でできるものでなければならない。

  だからエンは想像し、瞬時にそれを練り上げ現実に落とし込む。

  必要なのは炎。派手な光。自分にできる魔法で、最大限のはったりを利かせた――

  「弾けろ!」

  無意識に叫んだ言葉とともに、野犬の目の前に小さな光の玉が生まれ、ちりちりと火花を散らすとパンッと音を立てて弾けた。

  爪先程もない火の粉が四方に散乱し、それは野犬たちの身にも降りかかった。

  「キャンッ!」

  甲高い悲鳴を上げ、我先にと犬たちが逃げ出す。

  火の粉といっても派手に散っただけの子供だましのようなもので、毛を焼くほどの力もないが驚かせるには十分だったようだ。

  あっという間に野犬たちの気配が消え去り、エンは安堵に息をつきながら狼に振り返る。

  「あ……」

  先程まで堂々と振る舞っていた狼だったが、ひっくり返って気絶してしまっていた。

  どうやら魔法は狼にも効果が出てしまったらしい。それか、振り絞っていた気力が途切れてしまったのか。

  狼が気を失っているうちに止血を済ませた。予想通り腹の傷は開いてしまっていたが、思っていたほど悪化はしていないことに安堵する。

  「さて、どうしよう」

  問題はここからだ。

  荷台を取りに行く余裕はなさそうだ。前回は白狼に見守ってもらっていたが、今は離れれば一匹でここに残してしまうことになる。また野犬が戻ってくるかもしれないから置いていくことはできない。

  かといって、エンも普段はそれほど使わない魔法をたくさん使用して疲れていた。狼を抱えられるほどの体力はない。

  可能であれば狼には自力で歩いてもらい、それをエンが支えながら家に帰りたかった。

  「――おい、起きられるか? おい」

  傷に障りないよう気をつけながら、軽く狼の肩を叩く。

  それだけで目覚めるとは思っていなかったが、閉じていた目がかっと開いて狼は飛び起きた。

  『あいつら!』

  「大丈夫、もういなくなったよ」

  すぐに警戒態勢になり辺りを見回す狼に、脇から声をかける。

  『にんげん……?』

  集中力が途切れたことで隠匿の魔法も消えてしまったので、ようやく狼はエンの存在に気がついた。

  『にんげん、どうして?』

  「きみが、急にいなくなったりするから、追いかけてきたんだ」

  『……』

  「責めているんじゃないよ。仲間のもとに、帰りたかっただろう?」

  狼にも伝わるよう、言葉を噛み砕きながらゆっくりと話す。

  「きみがそれを望むなら、それでもいいんだ。でもそれなら、言ってくれればよかった。ちゃんときみを、仲間のもとに送り届けるつもりだったんだよ。きみだって、ぼくのもとにいるより仲間のところのほうが安心するだろうし」

  エンの気持ちが伝わったのか、狼はまるで項垂れるように俯いていた。後悔の念も感じるので、思いの外素直に反省をしてくれたらしい。

  言葉にはしなかったが、何故エンが仲間のもとに付き添うことを決めているかも、先程の野犬との一件で理解もしたのだろう。

  やはりこの狼は賢い。言葉こそ拙いが、エンの言葉は完全に理解しているし、素直であるようだが獣のように直情的過ぎることがない。

  人の子どもくらいの知能はあると思ったが、おそらくはそれ以上だと思う。きちんと学びを与えたら、エンとそう遜色ないほどの頭脳があるのではないだろうか。

  とはいえ、今はそれを考えている場合ではない。

  「わかってくれればそれでいい。とりあえず今は、出歩く準備がないから、一度家に帰りたいんだ。でもぼくじゃきみを運べないから、自分で歩ける?」

  『あるける』

  その場でくるりと回りながら自分の身体に目を向けた狼は、緩慢な動きではあったが歩くのに問題はなさそうだ。

  動いている途中、ふと身体に巻き直された包帯に気がつき目を留める。気を失っているうちにエンが応急処置をしたことに気づいたようだった。

  「動けるならよかった。痛いだろうけれど、家まで我慢してほしい」

  早速行動しようと、地面についていた両膝を浮かせた時、身体に力が入らずかくんと体勢が崩れた。

  咄嗟に手をついたので転ばなかったが、予想外のことにひどく動揺してしまう。

  『にんげん?』

  「ご、ごめん。今は、ぼくのほうが歩けないみたい」

  気づいたら、指先が微かに震えていた。そこで初めて身体が冷え切っていることを知った。

  『けが?』

  「腰が抜けたみたい。怪我じゃないよ」

  どうやら自分は思っていた以上に、野生の獣同士の諍いに怯えていたようだ。狼の治療に必死になっていて気がつかなかったが、身体はしっかりと萎縮してしまっていたらしい。

  「少し休めば歩けるようになるから、ちょっと待っててほしい」

  無傷のエンより重症の狼のほうが軽やかに動いているなんて。のんびりしていられる状況でもないのに、申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいになる。

  俯いたエンの頬に、ふん、と生暖かい息がかかった。

  驚いて顔を上げると、すぐ傍に狼の顔があった。

  「え、な、なに?」

  『けが』

  「え?」

  これまで近づくのはエンだけだった。それも、必要最低限で近づく理由があるときだけ。

  狼のほうから寄ってくるのは初めてで、暗がりでもわずかな月明かりに輝いている金の瞳に目を奪われる。

  『けが、ある』

  「けが?」

  自分の身体に視線を落としても、どこにも指摘されるような怪我は見当たらない。腕を捻って確認をしていると、不意にべろりと頬を舐められた。

  「ひゃっ!」

  飛び上がりそうなほど驚いて、思わず身体が逃げ出そうとする。しかし太腿を狼の前足で押さえつけられてしまった。

  再び狼の顔が寄せられる。

  噛まれる、と思ってぎゅっと目を瞑った。けれど予想したように牙が肌に突き刺さることはなく、また柔らかく厚い舌がべろりと頬を舐めてくる。

  「なっ、なに? なんでっ?」

  『けが、ある。ち、ある』

  混乱するエンを押し倒す勢いで、熱心に頬を舐められた。その途中で狼がなにやら言ってきたが、すぐには理解できなかった。

  「――もしかして、ぼくの頬に傷があるの?」

  『ある』

  どうやら必死になって狼を追いかけるなかで、枝か何かにひっかけていたのだろう。血も出ているらしいが、怪我をしていることに気づかないくらいだから大したことはないはずだ。

  血の匂いに反応して興奮しているのかとも思った。そのままがぶりといかれたらどうしよう、と不安が込み上げたが、狼は丹念に頬を舐め続けるだけだ。

  狼が満足して離れた頃には、半分ほど押し倒されて、横倒しにされかけていた。頬をべったりと涎で濡らしたエンを見下ろしながら、べろりと舌なめずりをする姿は捕食者の獰猛さを思わせたが、不思議と身体の震えは起こらなかった。

  「もしかして、治してくれたの?」

  『きず、あるから。ち、もうない』

  獣は傷を舐めて癒す。どうやら狼はエンの頬の小さな傷を、仲間にするように治そうとしてくれたらしい。

  自分が舐め回した傷口に鼻を寄せ、匂いを嗅いだ狼は満足そうだ。

  『まだ、いたい?』

  「もう……痛く、ない」

  『よかった』

  見下ろしてくる狼の顔には変化はない。獣だから表情が乏しいのは当然だ。

  だが聞こえてくる声は、嬉しさを滲ませる。いつもぶっきらぼうで警戒を隠さなかったのに、まるで笑っているようだった。

  「――ねえ。人間じゃなくて、エンって呼んでほしい」

  『エン?』

  狼は確かめるように、その音を覚えるようにゆっくりとエンの名を口にした。

  「そう。それが、ぼくの名前なんだ」

  『エン』

  「うん。そうだよ」

  名を呼ばれると、じわりと心に温もりが灯る。

  いつ振りだろう。誰かに自分の名を呼んでもらうのは。

  なんだか感謝を伝えたくなって口を開きかけ、ふと気がついた。

  「いつまでもきみじゃ、あれだよね。何か名前があったほうがいいかな」

  いつかは野に帰る相手だ。ましてや、もう仲間のもとに帰ることを決めているのに、今更名前を呼べるようになったとしても意味はないのかもしれない。

  だがこの狼に、少しでいいからエンのことを覚えていてほしいと思ってしまった。

  ほんの一時のことではあったが、こんな人間もいたなあと、時折でいいから思い出してほしい。そしてエンも、そんな狼がいたなあとふとした時に懐かしみたいと思う。

  彼をただの狼ではなく、ひとつの存在として覚えておきたい。だから彼を呼べる名が知りたかった。

  『ウォル』

  「え?」

  『なまえ。ウォル』

  野生の獣が名前を持つなんて。驚きはしたが、相手は人の言葉を理解する不思議な狼だ。おかしなことなんてなにもないのかもしれない。

  「そうか。じゃあ、ウォルって呼んでもいい?」

  『いい』

  狼の頭の背後で、ゆらりと尾が揺れるのが見えた。どうやら嫌がってないらしく、名前を教えてもらえた喜びが膨れ上がっていく。

  『――にんげんは、エン』

  「そうだよ」

  『エン』

  「うん」

  『エン!』

  「うん」

  ウォルは名前を呼ぶたび、エンが返事をするたび、何が嬉しいのか、それとも面白いと思っているのか、ぶんぶんと尻尾が力強く揺れていく。

  どうやら窮地を助け出したことにより、随分と気を許してくれたようだ。あまりの変わりように唖然としそうにもなるが、それ以上に心を鷲掴みされるような可愛らしさを感じて思わず顔が緩んでしまう。

  『エン、エン。よんで、なまえ。ウォル』

  「ウォル」

  『ああ! エン、エン!』

  「もう、終わんないよ」

  ついに耐え切れず、吹き出してしまう。それでもウォルの尻尾はご機嫌にぶんぶんと振られて、何度もエンの名を呼んでは、自分の名前も呼んでとねだってきた。

  あの出来事をきっかけに、エンとウォルの仲は急速に深まっていった。

  ウォルを助けたことで信頼を得られたのか、あれから家に帰った後も彼は仲間のところには戻らず、引き続きエンのもとで傷を癒すことを決めたようだ。

  それまでは近づけば睨まれ唸られるだけだったが、ウォル自ら傍に来るようになった。エンに名前を呼ばれたがり、そして呼びたがり、時折戯れのように互いの名を繰り返すこともあった。

  そして今では理由がなくとも触れることを許されている。

  頭を撫でても嫌がることはなく、むしろ求めるように撫でやすいよう耳がゆったりと後ろに流れ、尾がふりふりと振られていく。

  尾の風圧に舞いあがったウォルの毛が鼻先についてくしゃみをしてしまい、風邪を心配されたことも微笑ましい思い出だ。

  ゆるやかに過ぎる日常のなかでよく会話をするようになり、ウォルは驚く速度で言葉を覚えていった。

  出会ったばかりは単語を区切っただけの片言のようなものだったが、今では流暢に言葉を選べるようになった。

  そしてエンがウォルを置いて町に出る時には、その成長を見せつけあれやこれや理由を並べては引き止めようとする。

  始めは傷が痛む、と言っていた。次は具合が悪い、足がちくちくする――などだ。

  最初は律儀に言うことを聞いて町には行かずに傍にいてやったが、繰り返されればそれが仮病であることはわかる。大怪我を負っているのは本当だが、これまで一度として弱音を吐いたことがないのに急に我慢できなくなるのは不自然だし、エンが外出を諦めたら尻尾をぶんぶん振るのだから狼の威厳など形無しだ。

  最近ではもう体調の悪い振りは通じないとわかったらしく、素直にエンがいなくなるのは寂しいと甘えてくることもあった。さすがにそれには胸を射抜かれるようにぐらついたが、なんとか振り払うと今度は靴を隠すようになってしまった。

  ウォルに精のつく食事を与えるためにも町での買い出しは必要だ。そう説明しているので我儘を言ってはいけない場面であると本当はわかっているらしく、しぶしぶ靴を返してくれる。明らかに納得がいっていないのが、本来なら読み取りにくい狼の顔がむすっとしているのでわかりやすい。

  邪魔をされるのも、ふてくされているのも、それでも必ずいってらっしゃいと声をかけてくれる寂しそうな背中も、すべてがいじらしいと思えてしまうのだから、随分とほだされてしまったものだ。

  ウォルを助けることにより自然の摂理に不必要に関わることに悩んだし、順調に回復している今でもよかったことかはわからない。だが少なくとも今のウォルとの同居生活で家のなかには久しぶりに笑い声に溢れている。

  むしろそれに傷を癒されているのは、どちらなのだろう。

  ウォルのことを考えているうちに、森を抜けて町が見えた。

  普段町に着けば買い出しや仕入れ、もしくは商品を卸すために市場に向かうところだが、今日の目的は別にある。

  お土産の兎の肉は後回しにして向かったのは、町の図書館だ。

  中に入るとさっそく、顔見知りの司書がエンを見つけて近づいてくる。

  「やあ、こんにちは」

  「こんにちは」

  「今日も来たのかい? ここのところよく来るじゃないか」

  「ちょっと、調べものがあって」

  「そうかい。手伝えることがあれば声をかけてくれ。坊ちゃんの頼みなら、本のこと以外でも一肌脱ごうじゃないか」

  「ありがとうございます。でも坊ちゃんは止めてくださいってば」

  司書は朗らかに笑い、ただ受け流すだけだ。これまで通り坊ちゃん呼びを止めるつもりはないらしい。

  エンの叔母も魔女で、偉大な力を有していた彼女はこの町の傍らに広がる森を定住の地と決めて、町人たちに魔法を使い尽くしてきた。

  世間から見れば魔女は森羅万象を操り、呪う力も持つ恐ろしい存在というのが一般的である。しかし町人を貴賤なく、どんなことにも真摯に向き合い助けてきた叔母は魔女でありながら人々に受け入れられ、信頼されていた。

  エンも魔女ではあるが叔母の力には遠く及ばず、せいぜい気休め程度のお守りを作れるくらいだ。それでも存在を否定されず温かく迎え入れられているのは、叔母の功績があってのものだろう。

  町人たちはエンを幼い頃から知っているので、森で一人暮らしをしてきちんと生計を立てている今でも小僧扱いだ。

  大人たちからは坊ちゃんと呼ばれ、子供や旅人などからは魔女さんと呼ばれる。エンが男であることは見て明らかだが、魔女である叔母をそう呼んでいた名残のようなものだ。

  今ではエンの名前を呼ぶ者は、離れて暮らす三人の姉か、もしくはウォルくらいなものである。

  図書館にいた顔見知りの者たちに挨拶をしながら、目当ての本を探していく。

  数冊目星をつけて手にとり、空いた席に腰を下ろして早速本を開いた。

  集めたのは狼にまつわる伝説や昔話が記されたものだ。そのどこかに人から狼に姿を変えた人間の話がないかを探し、読み進めていく。

  いくらなんでもウォルは狼にしては賢すぎる。特殊な個体だったとしても、今ではエンと同じように会話をするまでになっていた。言葉を使って嘘もつくし、狼の身体でもできる範囲のことであれば教えたことはなんでもできる。記憶力もあり、以前に話した内容も問題なく把握している。目を瞑ればまるで、同じ人間を相手にしているようだった。

  あまりにも賢すぎる狼。もしかしたら彼は、何か呪いを受けた元人間なのではないかとエンは考えた。

  元人間だから知能が高くて当然であるし、最初は拙い会話も、仮に人としての記憶を封じられていたとするならば違和感はない。

  魔女が扱う魔法――他者を害する術、呪いであればそれが可能だ。非常に高度な魔法であるので誰しも使えるものではなく、エンも呪いを扱うことはできない。故に魔法を知る者もいるが、呪いについては夢物語に近いものとされていた。

  叔母をはじめとして、エンの姉たちも呪いを扱える強力な魔女だ。身近なところに呪いの存在を感じていたからこそ、狼にも呪いがかけられているのではないかと思い至った。

  すでに頼りになる長女に手紙を飛ばし、ウォルのことを相談していた。近いうちに会いに来てくれることになっていたが、その前に少しでも他にも情報を得ようと町の図書館で調べることにしたのだ。

  何度か通ったが、狼に関する資料だけでは人から狼になったという話は見つけられなかった。狼という種に囚われず、別の動物でも調べたほうがいいのかもしれない。

  最初に持ち出した書籍ではめぼしい情報が集められず、本を閉じたエンは深く息を吐いた。

  集中して疲れた目元を揉んでいると、入り口で挨拶を交わしたあの司書がゆったりとした足取りでやってくる。

  「前回も狼に関する本を読んでいたね。彼らについて調べているのかい?」

  「ええ。ちょっと訳があって。そうだ、何か伝承とか知りませんか? 狼に限らず、動物が人になったとか、そんな話」

  不確かな話というのは、記されておらずとも人づてに伝わっていることも多い。ましてや呪いなどという恐ろしくも真偽のほどが定かでないものであれば、むしろ誰かの噂として聞くのもありだと今更ながらに思いついた。

  司書はしばし考え込み、ああそういえば、と何かを思い出したようだった。

  「坊ちゃんは、白百合の騎士の話は知っているかい?」

  「白百合の騎士?」

  「そう。王都でも有名な女騎士隊長だったルティウルナさまのお話だ。優秀な騎士さまだったのだけれど、なんでもある時に遠征先で魔女の怒りを買い、呪いを受けてしまったそうなんだよ」

  「魔女の呪い……」

  この町では魔女であるエンを受け入れてくれているが、世間一般から見れば魔女は人智を超えた術を使う怪物のようなものだ。

  その怒りを買えばどんな報復があるかと怯えるのが普通のことで、実際に魔女は気高くそして傲慢である者も多いと聞く。エンも、自分はあくまで力が弱い魔女だしこの町に愛着があるからいいが、他の魔女に会ったら礼儀正しくしたほうがいいと町人には伝えている。

  実際に三人いるうちの姉の一人は非常に美しい顔立ちをしているものの気位が高く、無礼を働く者には一切の容赦をしない。少し前には自分の育てた花園から花を盗もうとした少年に怒り、許しを乞いにきた少年の兄に代償として片目を要求したという。その兄が上手く立ち回り、片目に変わるものを差し出したことにより許されたというが、自分の姉ながら恐ろしい人だと思う。

  強い魔女の前ではどんな屈強な戦士もひれ伏すことになる。白百合の騎士もどんなに武に秀でた人物だったとしても、魔女の怒りを買ってしまったのなら呪いを拒もうとも成す術はなかっただろう。

  そして問題はその呪いの内容だ。

  「その、呪いとは?」

  「それが、日に日に獣に――狼になっていくというものだったらしいんだ」

  始めは爪が鋭く伸びて、牙が尖った。次に耳が獣のものとなり、尾が生えて、鼻先が突き出し、全身に毛が生えていったという。

  とうとう手足も獣のそれとなり、ついに二足で立ってもいられず、言葉も失い、最後は完全な狼になってしまったのだという。

  「魔女と騎士さまの間に何があったかはわからないが、相手は緑の目をした美しい魔女だったそうだよ。呪いを解くことはできず、最後は彼女の髪と同じ白毛をした狼姿のまま、王都からも姿を消してしまったらしい。まあ今から二十年くらい前に町に立ち寄った旅人が仕入れてきた噂話だし、真偽のほどはわからないけれどね」

  「いえ、ありがとうございます。興味深いお話が聞けてよかったです」

  邪魔をしてごめんね、と言い残して司書は立ち去っていった。

  手元の閉じた本に目線を落としながら、聞いたばかりの話がぐるぐると頭を巡る。

  白百合の女騎士。緑の目をした魔女。狼になっていく呪い――白い狼。

  そのひとつひとつが歯車となり、かちりとはまり動き出していく。

  ――魔女とは、血によって継がれていく特殊な力だ。

  一族であれば必ずしも魔女になれるというわけではなく生まれ持った才能によるが、血が混じらないことには魔女は生まれない。

  血族により得意とする魔法は異なる。エンの一族の象徴たる魔法は呪いだった。

  各地に散らばる魔女の血脈の中でも、とくに強い力を有している。そのため叔母も、姉たちも呪いという高度な魔法を使うことができた。この一族のなかでは呪いが扱えない力の弱いエンのほうが珍しいくらいだ。

  同じ魔女といっても一族以外とはあまり交流はなく、この世界にどれほど魔女がいるかはわからない。偉大なる魔女と呼ばれる強い魔力を有する魔女が時折輩出されるエンのような一族がいれば、ほとんど一般人と変わらない力しか持たない一族もいる。

  力の大小によらず、魔女には共有するみっつの特徴があった。

  ひとつは性別が女であること。故に魔力を持った人は魔女と呼ばれる。

  ひとつは魔女の血が混じる一族の者は男女問わず同じ瞳の色をしているということ。

  そしてもうひとつが、魔女の血統ごとに瞳の色は決して同じものがないということだ。

  そしてエンの一族を表す瞳は緑。エンもそうであるし、姉三人も、叔母もそうだ。魔女の一族の血をひく父も同じ色だったという。

  緑と一言に括っても、実際には新緑のように明るいものや、深淵の森のような深みあるものもあるので、緑の目の魔女が必ずしもエンの一族の者であるとは限らない。

  しかし、緑の目を持ち、人から獣の姿に変えてしまうほどの強い呪いなんてそういるものではない。

  すべての条件があてはまる者――同じ顔を持つ双子の姉の一人が、そういうことをやりかねない人物だった。

  さらに二十年ほど前といえば、彼女の双子の片割れが伴侶をもうけたことに当時は相当荒れていたというのを聞いたことがある。エンはまだ子供だったのであまり覚えてはいないが、伴侶を持つには早すぎる、寂しいと泣いて次には手がつけられないほどに暴れ回り、周囲も相当に苦労したらしい。

  魔女の怒りを買わずとも、八つ当たりで呪いをかけられてもおかしくはない。

  「……はぁ。まさか、ぼくの一族が関わっているかもしれないなんて」

  白百合の騎士は噂でしかないが、エンの中ではほとんど確定したものとなっていた。

  思わず零れた溜め息は深く、エンの帰りを待っている狼を思うとひどく気が重たかった。

  「ただいま」

  『おかえり、エン』

  扉を開けると、玄関先で待っていたらしいウォルがさっと立ち上がって尻尾を振った。

  「ウォル、またここで待ってたの? 冷えるからちゃんとベッドにいてって言ってるのに」

  『さっき来たばかり。エンの音が聞こえたから』

  「ふうん?」

  履いている靴を脱ぎ、室内用に履き替える前に、こっそりエンが寝そべっていたところに足を置いてみる。靴下越しでも感じられる木の床に染み込んだウォルの体温に、さっと座った程度ではないことはすぐにわかった。

  エンが少しでも外出すると、ウォルは玄関先で帰りを待っている。

  腹の傷にさわるからと言っても聞いてはくれず、小言を言い続けた結果、ついに誤魔化すために嘘をつくようになったらしい。

  そして恐らく、エンが嘘を見破ることもあるとまで計算をしたうえでやっている。

  駆け回るなど本格的に怪我によくない行動はきつく注意するが、冷えているからといって、ただ床に腹ばいになる程度ならそこまで目くじら立てるほどではない。たとえ嘘がばれても軽微なものでは叱られることはないとわかっているのだろう。

  もういっそ、出ていく際には床に毛布でも敷いておいたほうがいいだろうか。

  この狼が無邪気に振る舞っているわりには頑固で譲らないところがあるのは、これまでの同居生活で感じていたところだ。

  あまり強く言えないのは、ウォルがかたくなになる場面が、エンの帰りを玄関で待っていたいとか、エンと離れたくないだとか、ちょっとしたいじらしさが見え隠れしているせいだ。

  これまで嫌いな薬草は意地でも食べたくないという主張などは認めなかったが、これくらいならばまあ折れてもいいかもと思える程度のわがままなので、つい仕方ないなと見逃してしまう。

  ウォルもエンとともに暮らしている間に色々と観察をしているようで、どこまでなら誤魔化しても許されるかの範囲を見極めているようだ。

  犬のように献身的に主に尾を振るばかりではない強かさは困ることもあるが、なかなか張りがあって面白くも感じていた。もちろん、そんなことを教えてれば調子に乗ることは目に見えているので言ってやることはないが。

  今もいじらしくもエンの帰りを待ちわびていたウォルに応えてやるため、頭を撫でてやろうと手を伸ばす。

  耳を倒して受け入れようしたウォルだったが、額を指先が掻くと同時にぱたりと尻尾を振るのを止めた。

  「ウォル? どうかし、わっ!」

  エンの手のひらを押し返しふんふんとしつこく嗅ぎ、耳をぴんと立たせて不機嫌そうに低く尻尾を揺らした。

  『今度は猫か!』

  「お、よくわかったね」

  どうやら帰りしなに町で猫を撫でたことがばれたらしい。家に入る前に念のため手を洗ってきたのに、狼の嗅覚はすごい。

  『エン、また浮気をしたなっ!?』

  「う、浮気だなんて人聞き悪いな。どこでそんな言葉覚えたんだよ」

  ウォルの話し相手になっているのはエンだけだ。学ぶ先といえばそこくらいだが、狼相手に浮気だなんだを話したことはない。

  『ウォル以外の匂いをつけてきたんだから、浮気だ。エンのばか』

  唸りこそしなかったものの、明らかに不機嫌になりながら、まるで猫の匂いを拭いとるかのように手のひらをべろべろと舐め回される。

  指の股までしっかりと舌が行き交い、真剣に舐めているウォルには悪いが、くすぐったくて笑い声を殺すのに必死だった。

  「ごめん。ぼくが悪かったから、もう許してよ」

  『エンにはウォルの匂いだけ。他はいらない』

  どうにか解放されたものの、ウォルの機嫌は直らずそっぽを向かれてしまう。

  「ほら、ウォル。約束通り兎の肉買ってきたよ。今日はお留守番してくれたし、一羽丸々出してあげる」

  荷袋から肉の入った包みを取り出しても反応はなかった。いつもなら大喜びで飛び掛かってこようとするのに、それだけ怒りは強いらしい。

  「……わかった。もう、他の子たちは撫でてこないようにするから」

  エンの言葉に、ようやくウォルが顔を戻した。

  『本当? 約束?』

  「約束する。もう猫は触らない」

  以前から町で犬猫と触れ合ったり、憩いにやってくる鳥たちと戯れたりするのをウォルは嫌がっていた。

  縄張り意識の強い狼だ。今は寝床となっているエンの家に他者の匂いを持ち込まれるのが我慢ならないのだろう。

  わかってはいたが、大したことではないと軽んじてしまっていた。好物の兎肉ですら機嫌をとれないほど嫌がっているとは思わなかったのだ。

  本音を言えば猫くらいでと思わないわけでもないし、ウォルが家にいるあいだはあの柔らかな毛並みと肉付きを堪能できないのはとても寂しい。だが、別にウォルだけと誓った覚えはないが、浮気とまで言われてそっぽを向かれてしまうくらいなら我慢を選ぶ。

  それにエンから顔を背けていたウォルがただ怒っているというより、どこか拠り所を失ったかのように心細げに見えたからかもしれない。

  「どこかで見かけても眺めるだけで我慢しておくから。ね?」

  『猫だけじゃない。鳥も、犬も、にんげんもだめ』

  「う……わかったよ。なるべく気をつけるから」

  どうやらひとまず猫だけの我慢にするというエンの思惑はお見通しのようだ。

  猫との交流を犠牲に、他はどうにか許してもらうつもりだったが、泣く泣く諦めるしかなかった。

  「でも、なんでそんなに駄目なんだよ。ちょっと触るくらいで、別に連れて帰るわけでもないのに……」

  力ない独り言のような呟きだったが、耳のいいウォルにはしっかり聞こえていたらしい。じとりとした目が向けられる。

  『エンはウォルのだ』

  「ぼくはぼくのものだよ」

  『……ウゥ』

  反論できず、恨めしそうな顔をしながらウォルは家の奥に向かってしまった。

  伝えたのは事実で、エンとウォルはただの期間限定の同居相手でしかない。同族の仲間でもないし、遠からず出て行く相手に寄り添うことはしても所有物になったつもりはない。

  追いかけたところで慰められることもないのでそっとしておくことにした。

  ふてくされているわけではなく、ウォルなりに想いを上手く伝えられず燻る気持ちに整理をつけるためにも一匹になったということもわかっていた。夕餉の時間までには戻って来てくれるだろう。

  時折、ウォルからエンに対する執着のようなものを感じることがある。すっかり懐いてくれたので、身内扱いしてくれているのかもしれない。もしくは自分の世話係と思っているのか。

  どちらにせよウォルの懐に入れたらしく、他の動物に嫉妬したり離れたくなくて悪戯をしたりするなど困ったこともあるが、少しばかり喜ぶ自分もいた。素直な好意を抱いてもらえるのに悪い気はしない。

  エンは力が弱いといっても魔女だ。普通とは違うことを自覚し、いたずらに力を振るってはいけないと叔母から言い聞かせられてきた。だから感情的になりすぎないよう日頃から気をつけているし、周囲もエンの温厚な人柄を理解しながらも、魔女の琴線に触れてしまうことがないよう、互いに慎重に関係を結んできた。

  坊ちゃんと気軽に呼んでくれる町人ですら、決して乗り越えようとはしない一線を守り続けている。他愛ない雑談で笑い合える相手はいても、親しい友と呼べる相手はエンにはいない。

  それを寂しいと思ったことはなかった。

  人間が鋭い牙や爪を持つ獣を恐れるのと同じで、エンも同じ姿をしているだけの化物扱いされてもおかしくない。実際に、場所が違えば魔女は迫害の対象ともなりえる。そんな自分を隣人として受け入れてくれるだけでもありがたかった。

  魔女であるエンを前にしてこうも感情を露わにする者はいない。ウォルが初めてだ。

  留守に寂しがり、会えたら大喜びで。嫉妬で怒り、うまく言葉に表せないもどかしさに焦れて肩を落として。

  ウォルは直情的であっても愚かではない。エンの顔色を見ているし、自分の言動が良くないと思えば自ら反省もする。興味があるものは知ろうとする。かと思えば鳥を追いかけ回したり、好き嫌いをしたり、大きな身体をすり寄せじゃれてくる。エンがよろけようともおかまいなしだ。

  本能で生きる獣であって、そうではない。かといって自分の気持ちを押し殺すことはしない。

  そんなウォルと過ごす日々は新鮮で、楽しいとさえ思えた。だが怪我さえ治ればウォルは仲間のもとに返す。ちょっとした嫉妬を面倒だと思うこともなくなるだろう。

  その日はきっと間もなくやって来ると思うと、少しだけ、寂しい気がした。

  夕餉の準備を終えたところで匂いに釣られてやってきたウォルは、すっかり平常に戻っていた。ウォルは何事もなかったように振る舞い、エンもそれにならって先程のことには触れなかった。

  ウォルの食事ははじめ床に置いていたが、彼の希望もあり、エンと同じように机に並べている。さすがにカトラリーは使えないが、器用に椅子の上でお座りをして、食い散らかさないよう気をつけて肉に齧りつく姿は普通の狼ではまず見られない光景だろう。

  消化の助けになるよう事前に骨を取り除き細かく切り取っているとはいえ、同じ目線に座る狼が皿から零すことなく肉の山を平らげる姿はなかなか見慣れることはなく、何度でも不思議だなあと感じる。いつか慣れる日がくるだろうか。

  談笑しながら穏やかな食事を過ごし、後片付けも済ませる。

  食後はいつも町に卸すためのお守り作りに勤しむ時間だが、今夜は仕事を休んで手紙を書いた。

  筆を走らせる間、ウォンはエンのつま先に身体を乗せながら丸くなる。重たいし邪魔だと思わなくもないが、肌寒い夜に温もりのある被毛は温かく、好きなようにさせてやる。

  書き終えた手紙は封筒には入れず、丁寧に折り目をつけていく。そうして作った手紙の鳥を手に、ウォルの身体に下敷きにされた足を抜いて窓辺に向かった。

  窓を開け、手紙の鳥を両手で包み込んで隙間からふっと息を吹き込む。

  そのままつぼみのように膨らませた両手を外に向かって開くと、エンの魔力を込められて本物の鳥のように姿を変えた手紙が羽ばたき、夜の空に飛んでいく。

  『鳥!』

  後をついてきていたウォルが窓枠に足をかける。本物の鳥ではなく魔法だと知っているので威嚇することはなく、エンとともに真白の翼がひとつの星のように小さくなって消えていくのを見送った。

  「――これでよし。じゃあ次は、ウォルの傷を診ようか。先に部屋に行って準備しておいて」

  『わかった』

  足を下したウォルは指示通り寝台がある部屋に向かい、その間にエンは机に広げた道具を片付ける。

  ウォルに少し遅れて寝室に入ると、包帯などの治療道具が入った籠が棚から取り出され、肝心の患者もすでに診察時に使用する毛布を敷いた寝台に腹ばいになり、準備万端でエンを出迎える。

  エンに頼るばかりではなくできるかぎりの手伝いをしたいと言うので、少し前から準備をウォルに任せていた。

  道具を狼でも取り出しやすい位置に変えてやったくらいで、とくにどうしてほしいかは言っていない。説明がなくともいつもエンの動きを見て学んでいたウォルは、完璧な準備にいつも得意げな表情までおまけてつけてくれる。

  エンが足を踏み入れると、素直な尻尾がぶんぶん振られた。

  「準備ありがとう。じゃあ診ていくね」

  包帯を外し、傷の具合を確認していく。

  顔や体中にあった細かい傷はすでに完治している。一番深かった腹の傷も塞がり、傷の痕に肉が盛り上がりまだ赤い色をしているが、普通に歩く程度なら問題はないだろう。

  「うん、大分よくなってきたね。でもまだ走っちゃだめだから」

  『グウゥ……我慢する』

  「よし、いい子。足の傷もほとんど塞がってるけど、まだ引きずってるよね。痛い?」

  『まだ痛い』

  「じゃあもう少し薬を塗って様子を見てみよう。神経は傷ついていないようだから後遺症はないと思うけれど、もし違和感があったらすぐに教えて」

  気になるのは足の傷のほうだ。そこも裂かれるような深い傷で出血も多かったが、腹と同じくしっかりと塞がり、順調に回復している。

  傷の具合からみて、もう歩く程度なら問題ないと思う。それなのにウォルはまだ足をひょこひょこと引きずっており、痛みを訴えることもあった。

  そろそろ仲間のもとに送り出してもいいかとも考えるが、狼にとって生きるうえで機動力は肝心だ。その要となる後足の怪我だけはしっかりと治してやってからでないと、エンが心配で見送ることができそうにない。

  「はい。じゃあこれ今日の薬」

  『……いらない』

  エンが調合しておいた丸薬を取り出すと、ウォルの耳はぺたんと下がって逃げるように顔を背ける。

  「でも、足がまだ痛いんだろう? それなら飲まないとだめ」

  『……クゥーン』

  「そんな声出しても許しません。飲むまでご飯も出しません」

  甘えた声にほだされたくもなるが、心を鬼にしてウォルの鼻先に摘まんだ丸薬を差し出した。

  薬を作った本人なので、いかにこれが苦く不味いか知っている。草の匂いも強く、ただでさえ鼻がよく肉食のウォルにはつらいだろう。少しでも飲みやすいよう丸薬にしたが気休めでしかない。

  『わかった。飲む。だからエン、あれやって』

  「いいよ。ほら」

  摘まんでいた丸薬を手のひらにのせると、エンの手のひらごとべろりと舐め取った。

  あれほど薬を嫌がっていたのにすぐに舌は仕舞わず、そのままべろべろと手を舐め回す。くすぐったさにすぐに根を上げたくなったが、頑張って薬を飲んだのでぐっとこらえる。

  しばらくして満足したウォルから解放され、涎にべったり濡れた手を拭いながら溜息をついた。

  「まったく、薬をそのまま飲めるんなら、わざわざぼくの手に乗せなくたっていいのに」

  『エンの味を混ぜなきゃむり』

  「味って……ちゃんと手を洗ってるはずなんだけど」

  傷口に触れるので、そこはしっかりと清潔にしてから処置にあたっている。

  もしかして臭いのか、と不安に思ったのが顔に出たのか、どこか呆れたような声で『にんげんにはわからない』とウォルは言った。

  『せっけん使っても、水で洗っても、エンの匂いも味もある。薄くなるから本当はいやだけど』

  「ぼくのを気に入ってくれているのは嬉しいけど、そんなに? どっちかっていうと、石鹸の香りのほうがいい匂いだと思うんだけどな」

  『あれはいや。でもエンのにおいは好き。薬草の香りもあるけど、エンの手からするのは好き』

  しっぽを勢いよく振りながら、満足げにふんふんと指のまたの匂いを嗅がれる。

  「も、もうおしまい! いい匂いだって思ってくれているのはわかったから」

  手のひらで鼻先を押し返すと、途端に不機嫌になったように耳が僅かに下がった。

  『じゃあもう手を洗わないで』

  「それとこれとは話が別です。ほら、そんなこと言ってないでもう寝よう。一度ベッドから降りて」

  まともに取り合っていたら平行線のまま話が終らなくなるので、強制的に終了させてウォルの尾の付け根を軽く叩いた。

  まだ言いたげな様子ではあるものの、ウォルは素直に寝台から降りると、治療道具をしまった籠をエンから預かり、もとの場所に戻しに行く。

  その間にエンも立ち上がり、敷いていた毛布を畳み、戻ってきたウォルに再び渡して寝る準備を整えた。

  「よし、もう乗ってもいいよ」

  『エン。エンもはやく』

  エンの言葉が終わる前にベッドに飛び乗ったウォルは、振り返って前足で寝台をバシバシ叩いた。

  「こら、後ろ足は大丈夫なの?」

  『ゥ……ちょっといたい』

  「もう、気をつけないとだめだよ」

  まだ痛むという足で飛ぶなんて負荷がかかるに決まっている。

  エンに指摘されてようやく痛みを思い出したのか、ウォルはしおらしく項垂れた。

  「まったく、きみはけっこう抜けてるよね」

  痛みが少しでも和らぐよう頭を撫でてやると心地よさげにウォルは目を閉じた。

  ころりと寝そべり、あろうことか腹を晒す。

  一時的に保護されているものの、これでも一応は野生の狼だ。ましてや癒えきっていない傷さえ晒す姿はあまりに呑気で、見ているほうの気が抜けてしまう。

  だがそれがたまらなく可愛らしく、エンに撫でてもらいたいからこそと思うとつい腹にも手が伸びた。

  傷を避けながら、毛並みを撫でるよう優しく撫でると、ますますウォルの身体は弛緩してとろけていく。

  『あ、あ、そこいい……』

  「へんな声出さないでよ」

  『はぁ~、エンはにんげんなのに毛づくろいがじょうずだな』

  「気持ちいいならよかった」

  ウォルが嫉妬している町の犬猫相手に極めた技であることは黙っていたほうがいいだろう。面倒なことになるのは目に見えている。

  撫でまわしてウォルを満足させつつ、エンもふかふかの毛を堪能させてもらった。

  まだもっととせがむウォルを壁際に押しやり、エンも寝台に上がって身体を横たえる。

  部屋を照らしていたランプを魔法で吹き消し、傍らのウォルの身体に抱きついた。

  ウォルに寝台を明け渡していた間はこんなに密着することなんて考えられなかったが、今ではすっかり慣れたものだ。毎晩のように一緒に寝ているのだから当然といえば当然かもしれない。

  ウォルを保護してすぐの頃、エンはひとつしかないベッドを傷ついた狼に譲り、自身は床で寝ていた。

  自分が寝床を占領しているせいでエンが不自由を強いられていると思ったウォルは、ベッドを半分開けてくれるようになった。山犬に襲われた一件でエンを信頼するようになり、だからこそ申し訳なく思ったようだ。

  少々身体は痛くなるがエンは床で寝ることをそれほど気にしていなかったし、それよりかはゆっくりと身体を休めてほしいと思っていたから何も問題はなかったのだが、だったら自分も床で寝るとウォルが言い張るのでエンが折れることになった。

  本来は一人用のベッドなので、自分と同じくらいの全長の狼がいれば当然窮屈だ。向かい合うことはできないので、うつ伏せか、もしくは背を向けたウォルをエンが抱きしめるようにして眠りにつく。

  ウォルがどれだけ理性的か理解していたが、顔の近くにある大きな口とそこから覗く牙に始めのうちはひやひやした。

  寝ぼけてがぶりと噛みつかれないか。寝返りを打った拍子に蹴飛ばされないか。もしくはエンが寝ぼけて不用意に傷に触ってしまわないか。そんな不安があったのはほんの数日のうちだけ。

  今となってはみっしりと詰まった硬質な毛に鼻先を埋めて眠る温もりに安堵するようになっていた。

  鼻の先で感じる獣の匂い。それと、よく外で日向ぼっこをしているのでお日様の匂いもする。腕を回した腹の毛が一番柔らかく、どこもかしこもふかふかと温かい。

  本来ならば恐ろしい狼だが、夜はエンを温めてくれる生きた湯たんぽのようなものである。もふもふに包まれ目を覚ます朝は最高に気持ちがいい。なんなら少し頬擦りをして、そのまま二度寝したくなる。

  顔に抜けた毛がつくのと、それを痒がっているとウォルが舐めて取ろうとするのだけは困ったものだが、今となってはウォルと眠りにつく夜が好きになっていた。

  そしてウォルも同じように感じてくれているらしく、エンが傍にいてもぐっすりと眠ってくれる。

  時折夢を見るのか、ウォルの身体がぴくぴくと動いてエンが起きてしまうこともあるが、熟睡できるほど心安らげる場所となれていることがむしろ嬉しくて、煩わしいと思ったことは一度もなかった。

  寝起きはウォルのほうがいいので、まだ眠っているエンをよく覗き込んでいるらしい。寝顔を見られるのは少し恥ずかしいが、エンをゆっくり休ませようと配慮してくれることは素直に嬉しい。

  今はウォルと楽しく過ごしているが、どんなに人間のように賢くても彼は狼だ。狼は群れで暮らす。彼を心配する白狼もいるし、いつかは仲間のもとに戻る。

  だから今だけ。今だけ楽しんで、最後は笑顔で見送ってやろうと思う。その後は時折顔を見せてくれればそれで十分だ。

  いつものように腹ばいになって眠るウォルに腕を回し、首筋に額を押し付ける。

  しばらくすると、エンに抱かれ安心しきっているウォルが先に寝入った。

  規則正しい寝息が続いてさらに時間が経ったそのとき、エンの腕の中にいる身体に変化が起こる。

  身体を覆う毛が短く薄くなっていき、突き出た鼻先が縮まっていく。鋭い爪がある指が伸びて長くなり平たく大きくなる。

  そうして狼から人の姿になっていくのを、窓から差し込む柔らかな月明かりの下でエンはじっと見つめた。

  やがて狼は若い人間の男の姿となり、身体が変化する前の同様に安らかな寝息を立てていた。

  ――あれは、ウォルの怪我が落ち着いてきた頃だった。

  ともに眠るようになって間もなく、真夜中にそれは突然起きた。

  触れ合うほど近くにあった狼の身体が前触れもなく変化を始めたのだ。エンが言葉も失い驚いている間に、ウォルは人の姿になった。予想外のことに自分が寝ぼけているだけかとも思ったが、躊躇いもなく捻った頬の痛みにこれが現実であることを理解した。

  男は深く眠ったまま、むにゃむにゃとなにか寝言を呟いていた。確か、もっとそこ撫でて、などと言っていたと思う。

  その声はいつもエンが聞いていたものだったので、間違いなくこの人間の男が狼のウォルであることを示していた。

  不可思議な現象を目の当たりにして、そしてようやくエンは気がついた。

  ウォルは、呪いを受けていたのだと。

  やはり彼はただの狼ではなかった。人か狼、どちらの姿が本性であるかはわからないが、人としての顔も持っているのであれば理性的で賢いのにも納得がいく。今まで感じていた違和感に説明ができた。

  しばらくすると、ウォルは再び狼の姿に戻り、その夜はもう人の姿になることはなかった。

  翌朝起きたウォルに尋ねようともしたが、できなかった。ウォルが寝ているあいだの出来事だったこともあり、もしかしたら人になれることをエンに教えるつもりはなかったかもしれないし、ウォル自身が何のことだがわからない可能性もある。

  口を噤んだ理由は余計な混乱が生まれるのを避けたかったというのもある。だがなにより恐れたのは、ウォルにもうひとつの姿を問うことで、彼が去ってしまうことだった。

  いつかは出て行くにしても、折角ここまで仲良くなれたのなら完治するまでは面倒をみたい。そのために無暗に居心地や都合が悪くなるようなことはしたくない。

  しかし、放っておけるほど小さい問題でもない。狼が人の姿になるなんて、もしウォル自身が把握していないことであればきちんと教えてやらないといけないだろう。

  そこでエンは考え、姉の一人に来てもらえないか手紙を送った。

  魔女は子を産むことにより魔力を失う。手紙を出した長女のイユはすでに一般の家庭に入り、息子を二人出産している彼女はもう魔女ではないが、魔力の流れを見る力は残っている。

  以前はエンよりもよほど力のある魔女だったので、ウォルを診てもらえれば彼にかけられた呪いがわかるかもしれないとエンは考えた。

  イユはすぐに返信を飛ばしてくれて、エンの家に足を運んでくれることになった。

  幸い彼女の子供たちは成長していてある程度のことは一人でできるので、家を空けることは問題ない。しかし離れた場所に住んでいるので移動に時間がかかり、調べたいこともあるとのことで実際に家に来るまでには少し時間がかかるという。

  そこでイユが到着するまでに狼と呪いにまつわる話で自分でも調べられることがないかと思い、通っていた町の図書館で白百合の騎士の話を聞いたのだ。

  エンは自分のほうに顔を向けた男を見つめる。

  年は二十五歳になるエンよりも少し若いくらいだろうか。起きているときの無邪気なような性格は幼く感じることもあったが、聞こえてくる声音から想定していた年頃とかけ離れてはいない。

  目を閉じていてもわかる、精悍で美しい男だった。

  狼であるウォルは服など着ていないので、人の姿になればもちろん全裸だ。日々森を駆け回り獲物を追い詰める身体にはしなやかな筋肉がつき、同じ男としても見惚れてしまうほどだが、下も履いていないので、全身を確認したときはいささか目のやり場に困ってしまった。

  人間になると大きさが変わるらしく、エンと同じくらいだった狼の身長は縦に伸び、今にも足先がベッドからはみ出しそうになっている。もし立って並んでみれば、エンはウォルを見上げなくてはならないだろう。

  顔も身体も、まったく知らない人になってしまった。だがぴんと立つ三角の耳と、みっちりと毛に覆われた太い尻尾だけはそのまま残っている。それに狼の時の毛色に似た灰褐色の髪にそっと触れてみると狼の毛並みと似ていて、たとえ尾がなくなり耳も人間のものになってしまったとしても、きっとこれでウォルだとわかっただろう。

  それに気づけば、まったく知らない男のように見えていたウォルに少しだけ安心した。

  閉じられた瞳は、狼のものと同じく金色に輝いているのだろうか。気になるけれど、ウォルが人間の姿になるのは決まって深い眠りについているときだ。眠りを妨げるつもりにはなれないし、エンとしても呪われた狼とどう向き合うべきか決めかねているから、まだこのまま閉じたままでいてほしいと願うばかりだ。

  「ぅ、ん……」

  寝返りを打ったウォルの腕がエンを捕え、抱き寄せる。

  「えん……」

  まだ若さが残るものの、ほどよい低さの滑らかな声が薄い唇から零れ落ちる。

  狼の時に聞いている声は、実際にウォルが出しているものではない。魔法によって心の声を聞いているようなもので、実際にウォルに名前を呼ばれるのはこれが初めてだった。

  またエンといる夢を見ているのだろうか。どこか笑みを含んでいるような声だったので、きっと幸せなものであるのだろう。

  狼ならともかく、同じ人の姿でこうも密着したことはない。いつもは被毛から体温が柔らかく伝わっていたが、今は男の素肌から直に彼の体温を感じる。

  じわじわと顔まで熱くなるのを感じて、暑さに思わず身を捩じりたくなるのをぐっと堪えた。今動けばウォルを起こしてしまうかもしれない。

  眠る彼を起こさないためにも、この腕の中から出られないのだと。このままではベッドから落ちてしまうからと、言い訳じみた理由を頭の中で並べながらそっとウォルに身を寄せる。

  「エン」

  狼のときのようにエンの髪に鼻先を潜り込ませて、寝ているはずなのにすんすんと匂いを嗅いでいた。

  どんな夢を見ているのか、ウォルが気の抜けた笑みを浮かべたのが、触れた場所から伝わってくる。

  見られないのは少し残念だったが、夢の中でウォルとエンが楽しく居られているのなら、それでいい。

  願わくは、自分にも同じ夢が見られますようにと祈りながら、エンもそっと目を閉じた。