喫茶Mofu=Lilyへようこそ!

  俺は今、人生で一番、入ってはいけない気がする場所の前に立っている。

  こぎれいな感じの雑居ビルの五階。エレベーターを降りてすぐのところに、やたら柔らかいピンクと白で飾られた看板があった。

  丸っこいフォント。肉球っぽいマーク。ふわふわした蔦みたいな装飾。その中央に、俺の脳が理解を拒否した文字列が鎮座している。

  『ケモ男の娘メイド喫茶《Mofu=Lily》』

  その看板を凝視しては目を逸らし、また引き寄せられるように視線を戻す。

  何度見ても、そこには同じ文字列が書かれていた。

  ケモ男の娘メイド喫茶。

  ケモ。

  男の娘。

  メイド。

  喫茶。

  情報量が多すぎる。看板一枚で胃もたれするな。コンセプトの盛り合わせかよ。

  しかも喫茶と書いてあるくせに、横に小さく予約制と書いてある。予約制の喫茶って何だ。

  俺の隣では、友達の蛍太がにこにこしていた。

  「着いたねぇ」

  「着いたね、じゃないんだよ」

  俺は反射で返した。声が思ったより低く出た気がする。

  蛍太は、俺と同じ大学に通っている友人だ。友人、と言っていいはずだ。少なくとも昨日までは、その単語で十分だった。

  講義が被れば隣に座るし、空きコマがあれば学食でだらだらするし、休日には俺の部屋でゲームもする。趣味もわりと合う。漫画、ゲーム、アニメ、同人誌。俺のしょうもないツッコミに笑ってくれるし、俺も蛍太のしょうもないノリに慣れている。

  慣れている、つもりだった。

  でも今、俺の隣にいる蛍太は、やけに機嫌がよかった。いつものパーカーに細身のパンツ。髪は軽く整えられていて、もともと可愛らしい顔立ちが余計に整って見える。

  男相手に可愛いという表現を使うのは悔しいが、蛍太については仕方ない。こいつは普通に可愛い。女装趣味があると本人から聞いた時も、ああまあ似合うだろうな、くらいにしか思わなかった。

  そういう顔だ。

  そういう顔の奴が、俺をこんな看板の前に連れてきて、妙に楽しそうにしている。

  「いや、想像よりだいぶ直球の店名なんだけど」

  「分かりやすくていいでしょ」

  「分かりやすすぎる。ケモ男の娘メイド喫茶って、怪しい形容詞全部言ってるじゃん。婉曲表現を使えよ」

  「初見で何の店か分からない方が怖くない?」

  「初見で何の店か分かった結果、怖いんだよ」

  蛍太はけらけら笑った。いつもの笑い方だ。軽くて、人懐っこくて、少しだけこっちの警戒心を溶かしてくる笑い方。

  俺は看板から目を逸らし、廊下の壁を見る。白い壁紙。清潔感はある。

  変な店にありがちな薄暗さとか、怪しい赤い照明とか、そういうものはない。むしろかわいい。小さな花のステッカーとか貼ってある。香りも甘い。柔らかいミルクティーみたいな匂いがする。

  それが、逆に怖い。

  俺はここに来るべきではなかった。

  本当にそう思っているなら、エレベーターを降りた瞬間に回れ右していたはずだ。そもそも駅で蛍太と合流した時点で帰っていたはずだ。もっと言えば、蛍太から誘われた時点で断っていたはずだ。

  でも俺は、ここまで来てしまった。

  来てしまった理由は、ひとつしかない。

  数日前、俺は蛍太に、知られたくないものを知られたからだ。

  俺は、自分では己を普通の大学生だと思っている。

  いや、普通とは何か、みたいな哲学は今いらない。少なくとも外側だけ見れば普通だ。大学に行って、講義を受けて、単位に怯えて、安い飯を食って、ソシャゲのガチャに文句を言って、たまに友人と宅飲みをする。

  服はだいたい適当。美容院にも必要最低限しか行かない。寝癖もまあ帽子を被ればいいか、くらいの精神で生きている。自分の容姿に対する期待値は低い。鏡を見る時も、髭剃りと寝癖確認くらいしかしない。

  趣味はオタク寄りだ。これは否定しない。

  男の娘も好きだ。これは、まあ、まだ言える。オタク界隈では別に珍しくない。いや、少なくとも俺の中では珍しくないことにしている。可愛い男の子が女の子みたいな格好をして、でも男の子で、恥ずかしがったり、開き直ったり、可愛がられたりするやつ。好きか嫌いかで言えば、好きだ。かなり好きだ。

  でも、そこから先は言えない。

  男の娘が可愛いな、で終わらなかった。

  いつの間にか、俺は見る側だけで済まなくなっていた。

  もし自分がそういう風に扱われたら、なんて考えるようになっていた。

  考えるだけなら自由だ。誰にも迷惑はかけていない。頭の中で何を考えていようと、外に漏らさなければセーフ。そう思っていた。そう思い込んでいた。実際、俺は誰にも言っていなかった。蛍太にもだ。

  蛍太なら、たぶん引かない。そういう確信はあった。あいつ自身が男の娘も、それからケモノも大好きで、女装趣味もある。

  大学の友人たちの前ではほどほどに隠しているが、俺にはわりと話してくれていた。

  新しく買ったウィッグの話とか、ケモノ系イベントの話とか、自作イラストの話とか。

  俺はそれを、ふうん、と聞いていた。別に茶化すことでもないし、本人が楽しそうならいいんじゃないかと思っていた。

  だからこそ、逆に言えなかった。

  男の娘ものが好きなんだよね、くらいなら言える。

  でも、そういう作品を見ているうちに、受け側の感覚が気になってきて、自分も試してみたいと思ってしまった、なんて言えるわけがない。

  言ったら何かが終わる。

  蛍太なら笑わないだろう。でも笑わないからこそ、困る。真剣に受け止められたら、俺は逃げ場を失う。

  そういうものは、ひっそり隠しておくべきだった。

  そのはずだったのだ。

  あの日、俺の部屋には蛍太が来ていた。

  土曜の午後。昼飯を適当に済ませたあと、二人でゲームをしていた。対戦アクションで、俺が三連敗して、蛍太が「千尋って読み合い弱いよね」とか腹立つことを言っていた。俺は「うるせえ、ボタン配置が悪い」と負け犬にもほどがある言い訳をしていた。

  部屋はいつも通り散らかっていた。空のペットボトル、コンビニの袋、床に転がった漫画、充電ケーブル。蛍太はもう慣れているので、文句を言いながらも勝手に座る場所を作っていた。

  その時、インターホンが鳴った。

  俺はコントローラーを置き、立ち上がろうとした。だが、その前に蛍太が軽く手を上げた。

  「俺出るよ。千尋、次のステージ選んどいて」

  「おう」

  何の疑問もなかった。

  俺たちはそれくらいの距離感だった。宅配を受け取るくらい、別に普通だ。サインも要らない荷物ならなおさらだ。友人の部屋でインターホンに出ることが異常だとは思わない。

  思わなかった。

  玄関の方で、蛍太が配達員に返事をする声がした。段ボールを受け取る音。ドアが閉まる音。

  そして、蛍太が戻ってきた。

  「千尋、荷物来たよ」

  そう言って、蛍太は無地の段ボール箱を持っていた。

  それを見た瞬間、俺の心臓が停止した。

  いや、実際には停止していない。停止していたら今ここにいない。

  でも体感としては一回止まった。脳内で警報が鳴った。最悪だ。よりによって今日か。よりによって今か。よりによって蛍太が受け取ったのか。

  俺は、その荷物の存在を半分忘れかけていた。

  いや、嘘だ。忘れてはいなかった。忘れたかっただけだ。

  数日前に一人で酒を飲んでいた時。コンビニで買った安いチューハイ。一本でやめるつもりが、気づいたら三本空いていた。動画を見て、同人サイトを見て、何かが妙な方向に盛り上がっていた。

  その時の俺は、かなり馬鹿だった。

  酒の勢いで通販サイトを開き、後ろ用のおもちゃを検索した。レビューを読み、サイズ表を見て、初心者向けという文字に変な安心感を覚え、カートに入れた。そこでやめればよかったのに、やめなかった。注文確定を押した。押してしまった。

  翌朝、注文履歴を見た俺は、床に膝をつきかけた。

  何してんだ俺。

  キャンセルしようとした。だが、発送準備中だった。早い。こういう時だけ通販はやたら仕事が早い。普段はもうちょっとゆっくりしてるだろ。何で俺の人生が終わる時だけ最速なんだ。

  まあ、無地の箱で届くなら大丈夫だろう。

  誰にも見られなければいい。

  そう思っていた。

  見られた。

  蛍太に。

  俺は箱を凝視したまま、喉から変な音を出した。

  蛍太は、その瞬間の俺を見逃さなかった。こいつは妙なところで勘がいい。

  「なに、その顔」

  「いや、別に」

  「別にって顔じゃなかったけど」

  「普通の荷物」

  「普通の荷物を見て、世界が終わったみたいな顔する?」

  「する人もいるだろ」

  「いないと思う」

  蛍太は箱を軽く持ち上げた。俺は反射的に手を伸ばす。

  「返せ」

  「まだ何もしてないじゃん」

  「いいから返せ」

  「え、そんなに?」

  「そんなに!」

  俺が本気で取り返そうとしたせいで、蛍太の目が少し細くなった。にやにやした顔から、何かを察した顔へ変わる。やめろ。その顔をするな。名探偵みたいな顔をするな。俺の人生に推理パートを挟むな。

  「千尋」

  「何だよ」

  「これ、見られたらまずいやつ?」

  「まずくない」

  「じゃあ何でそんな必死なの?」

  「まずくはないけど、見られたくないものはあるだろ」

  「あるね」

  蛍太はあっさり認めた。

  認めたうえで、箱をじっくりと、舐めるように見た。

  配送伝票には、店名が書かれていた。直球ではない。直球ではないが、知っている奴なら分かる。というか、蛍太は知っている側の人間だ。こういうジャンルに妙に詳しい。詳しくないわけがない。

  蛍太の表情が、一瞬止まった。

  俺はその一瞬で、すべてが終わったことを悟った。

  「あ」

  蛍太が、小さく声を漏らした。

  俺は箱を奪い取った。もう遅い。遅いが、奪い取った。

  人は手遅れでも何かをせずにはいられない生き物だ。火事のあとに焦げたトーストを皿に乗せるみたいなものだ。

  蛍太は、俺を見た。

  いつもの軽い笑顔ではなかった。

  「千尋、そういうの興味あったんだ」

  俺は死んだ。

  少なくとも、三笠千尋という社会的存在は一回死んだ。

  「違う」

  口から出たのは、最低の初手だった。

  「違うっていうか、違わないけど、違う」

  「ごめん、かなり違わない寄りに聞こえる」

  「だから、その、酒飲んでて」

  「うん」

  「なんか、勢いで」

  「うん」

  「別に、男とどうこうしたいとか、そういう意味じゃなくて」

  言った瞬間、自分で墓穴の底を掘り抜いた音がした。

  蛍太が何も言わなかったから、俺は焦ってまくしたてた。

  「いや、興味がゼロかって言われたら、ゼロではないけど、実際にどうこうしたいとかじゃなくて、作品としてそういうのを見てたら、ちょっと気になるっていうか、いや、気になるって何だよって話なんだけど、でも別に誰かとしたいとかそういう具体的な感じではなくて」

  喋れば喋るほど終わっていく。

  言葉が自分の首を絞めている。目の前で蛍太が黙っているのが余計に怖い。

  笑ってくれ。からかってくれ。何なら「うわ、千尋えっちじゃん」とか雑に言ってくれた方がまだ楽だった。

  でも蛍太は、笑わなかった。

  箱を奪い取ったまま固まる俺に、ゆっくり近づいてきた。

  「千尋」

  「はい」

  なぜか敬語になった。

  蛍太は少し困った顔で言った。

  「引かないよ」

  俺は、そこで初めて、息を止めていたことに気づいた。

  「……ほんとに?」

  「ほんと。引かない」

  「でも」

  「でも?」

  「キモいだろ」

  蛍太は、ほんの少しだけ眉を寄せた。

  それは、俺に向けた嫌悪ではなかった。たぶん、俺が自分で自分に向けた言葉に対するものだった。

  「キモくないよ」

  「いや、だって」

  「そういうのに興味あるの、別に変じゃないでしょ」

  「変だろ」

  「変じゃない」

  「お前の基準で言うな」

  「俺の基準でも、うちの店の基準でも、たぶん変じゃない」

  そこで、俺は初めて引っかかった。

  「うちの店?」

  蛍太は、少しだけ迷うような顔をした。

  今思えば、あの時の表情はかなり大事だった。

  蛍太はずっと軽い奴だと思っていた。実際、軽い。ノリも良いし、よく笑うし、冗談も多い。でも、あの時の蛍太は明らかに何かを決めかねていた。

  俺に言うかどうか。

  俺をそこへ連れていくかどうか。

  自分の大事な場所を見せるかどうか。

  そういう顔だった。

  「千尋にさ」

  蛍太は言った。

  「見せたい場所があるんだよね」

  それが《Mofu=Lily》だった。

  最初に聞いた時、俺は本気で意味が分からなかった。

  ケモ男の娘メイド喫茶。

  専用の首輪をつけると、キャストがケモノの男の娘の姿になる。

  もふもふ接客もあるし、キャスト同士の絡みもある。

  通常営業と、もっと踏み込んだメニューがある。

  店長はミツ姉という人で、その首輪の開発者でもある。

  キャストはいつも人手不足。なぜなら、男の娘やケモノに理解があって、同性同士の距離感にも抵抗が少なくて、なおかつ成人済みで、ちゃんとルールを守れる人材が少ないから。

  蛍太はそこで働いている。

  そう説明された。

  俺は当然、信じなかった。

  「設定盛りすぎだろ」

  「そう言うと思った」

  「言うだろ。ケモノの男の娘になる首輪って何。二次創作の導入かよ」

  「まあ、俺も最初はそう思った」

  「思ったのに働いてるのかよ」

  「実際なったから」

  「嘘言う時の間なんだよ、それは」

  蛍太はけらけら笑っていた。

  けれどその笑顔は、いつもの軽さだけではなかった。

  「千尋、別に無理に働けとか言わないよ。嫌だったら帰ればいいし、見るだけでもいい」

  「見るだけ?」

  「うん。店長に紹介したいってのはあるけど、嫌なことはさせない。そこは本当にちゃんとしてる店だから」

  「ちゃんとしてる、ケモ男の娘メイド喫茶?」

  「字面は怪しいけどね」

  「字面以外も怪しいよ」

  そう言いながら、俺は完全には拒否できなかった。

  理由は分かっている。

  蛍太に、引かれなかったからだ。

  俺が自分でも気持ち悪いと思って隠していた部分を、蛍太は笑わなかった。からかわなかった。むしろ、少しだけ安心したように見えた。

  あの顔が、ずっと頭に残っていた。

  そして今、俺はその店の前にいる。

  手遅れだ。

  人間、来るところまで来ると、意外と冷静になる。俺は看板を見上げながら、少しだけ笑いそうになった。いや、笑えないけど。

  状況が馬鹿すぎる。数日前まで俺は、自分の部屋で通販の箱を抱えて社会的死を覚悟していた。今はケモ男の娘メイド喫茶の前で、蛍太と並んでいる。人生の分岐って、もっと分かりやすい標識があってほしい。

  蛍太が俺の顔を覗き込んだ。

  「大丈夫?」

  「大丈夫に見える?」

  「見えない」

  「じゃあ聞くな」

  「聞きたいじゃん」

  俺は息を吐いた。

  「やっぱ帰っていい?」

  蛍太はすぐに笑って引き止めると思った。

  「いいよ」

  予想外の返事に、俺は蛍太を見た。

  蛍太は笑っていた。でも、無理に押す笑顔ではなかった。少し困ったような、でもちゃんと逃げ道を残す顔だった。

  「嫌なら帰っていい。ほんとに」

  「……いいのかよ」

  「そりゃそうでしょ。千尋が嫌なのに連れ込んだら、ミツ姉に俺が殺される」

  「誰か知らないけど物騒だな」

  「社会的にね」

  「それも嫌だろ」

  蛍太は肩をすくめた。

  「でも、ここまで来たなら、中だけでも見てほしい」

  「中だけ」

  「うん。俺がどんなところで働いてるのか、千尋には知ってほしい」

  その言い方が、ずるかった。

  蛍太の声から、いつもの冗談が少し消えていた。俺をからかうための誘いではない。面白半分だけでもない。蛍太にとってここは、ただのバイト先ではないのだと、その声だけで分かった。

  それが分かったから、俺は帰れなかった。

  「中だけな」

  「うん。中だけ」

  「変なことさせるなよ」

  「千尋が嫌がることはしない」

  蛍太は、さらっとそう言った。

  俺の中で、何かが変な音を立てた。

  嫌がることはしない。

  つまり、嫌がらなければするのか。いや、待て。何を考えてるんだ俺は。看板の文字列に脳をやられている。落ち着け。ここはただの見学だ。見学。社会科見学。いや、ケモ男の娘メイド喫茶の社会科見学って何だ。どこの社会だ。

  俺が頭の中で勝手に混乱していると、蛍太が俺の手を取った。

  自然すぎて、最初は何をされたのか分からなかった。

  指が絡むほどではない。ただ、手首に近いところを軽く握られた。逃げないように、でも痛くないように。蛍太の手は思ったより温かかった。指が細い。手のひらが柔らかい。ゲームのコントローラーを持っている時とは全然違う感触がして、俺は一瞬で固まった。

  「じゃ、行こ」

  「いや、待て」

  「ん?」

  「なんで手」

  蛍太は振り返って、悪びれずに言った。

  「逃げそうだから」

  「逃げない」

  「ほんと?」

  俺は黙った。

  逃げたい気持ちはある。正直ある。今すぐエレベーターに飛び乗って、家に帰って、布団に潜って、今日のことをなかったことにしたい。ついでに通販履歴も消したい。いや、履歴を消しても現物はある。現物はクローゼットの奥にある。あれを見るたびに蛍太の顔を思い出すのか。最悪だ。いや、最悪ではないかもしれない。何を考えてるんだ俺は。

  「ほら、逃げそう」

  「考え事してただけだ」

  「何の?」

  「言うわけないだろ」

  蛍太は小さく笑った。

  その笑い方がやけに優しくて、俺はまた変に意識した。

  男友達に手を握られている。それだけだ。

  蛍太は昔から距離が近い。肩を組んでくることもあるし、ゲームで勝った時に背中を叩いてくることもある。酔うと隣に寄ってくる。だから、これもその延長のはずだった。

  でも、違う。

  数日前のあれから、俺は蛍太を同じように見られなくなっている。

  蛍太に、自分の性癖の一番柔らかいところを知られた。

  しかも蛍太は、それを拒絶しなかった。

  そのうえ今、俺の手を取って、自分の秘密の場所へ連れていこうとしている。

  そんなの、意識するなという方が無理だ。

  「千尋」

  「何」

  「手、嫌?」

  俺は即答できなかった。

  嫌ではない。

  それが一番まずかった。

  嫌なら振りほどけばいい。怒ればいい。何してんだよ、と言えばいい。今までの俺なら言えた。たぶん言えた。

  でも今の俺は、蛍太の手を見ていた。白くて細い指。爪もちゃんと整えられている。俺の手より少し小さい気がする。温かい。触れているところだけ、変に意識が集まる。

  「……別に」

  「じゃあ、このまま」

  「逃げ防止ってことならな」

  「うん。逃げ防止」

  蛍太はそう言って笑った。

  俺は顔が熱くなるのを感じた。廊下が暑いだけだ。そういうことにした。春先の雑居ビルは空調が微妙だから。そうに決まっている。男に手を繋がれたくらいで大学生の男がドキドキするわけがない。ないはずだ。ないと言ってくれ。

  蛍太は扉の前に立った。

  扉にも、肉球の小さなステッカーが貼ってある。ガラス部分は曇りガラスになっていて、中は見えない。扉の向こうから、かすかに音楽が聞こえた。ゆったりした、甘い感じの曲。店内の香りが少し強くなる。ミルクティーに、バニラと花の匂いを混ぜたような香り。

  蛍太がドアノブに手をかけたところで、俺は最後の抵抗を試みた。

  「本当に、見るだけだからな」

  「うん」

  「カラーとかいうのも、見るだけ」

  「最初はね」

  「最初はって言ったな」

  蛍太は悪びれもせずに笑った。その笑顔が妙に優しくて、俺の胸の奥をざわつかせる。蛍太はゆっくりと俺の方を振り向き、さっきまで繋いでいた手をもう一度、そっと握り直した。指が絡むほど強くはない。ただ、手首のあたりを包み込むような、温かく細い感触。男友達の手だというのに、今日に限ってその温度と柔らかさが、異様に意識されてしまう。

  「蛍太」

  「ん?」

  「お前、俺のこと何だと思ってる?」

  蛍太は一瞬、目を丸くした。

  ほんの一瞬だけ、空気が変わった気がした。

  質問した俺自身、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。

  友達。そう答えるに決まっている。あるいは、面白いオタク友達。性癖がバレた奴。蛍太なら軽く何か言って笑うだろうと思った。

  でも蛍太は、すぐには答えなかった。

  俺の手を握ったまま、少しだけ視線を落とす。

  「大事な友達」

  そう言った。

  胸の奥が、また変な風に跳ねた。

  「……友達をこんなところに連れてくるなよ」

  俺は冗談っぽく返した。

  蛍太も笑った。

  「大事な友達だから、連れてきたんだよ」

  それ以上、俺は何も言えなかった。

  蛍太は何かをごまかすように、少し乱暴にドアを開けた。

  柔らかいベルの音が鳴る。

  扉の向こうは、想像していたよりずっと静かだった。

  店内は淡いクリーム色と白で統一されていて、壁には花やリボンの装飾がある。テーブル席がいくつか。奥にはカーテンで仕切られた通路。照明は明るすぎず、でも怪しい暗さはない。床は綺麗で、空気も澄んでいる。

  喫茶店と言われれば、たしかに喫茶店かもしれない。ただし、普通の喫茶店にしては、やたらと椅子がふかふかしている気がするし、形が変だ。何だあれ。いや、分からなくていい。分からない方がいい。

  受付カウンターが正面にあった。

  そしてそこに、誰かが座っていた。

  俺は最初、それを人だと思わなかった。

  いや、人ではある。人型ではある。でも、俺の知っている人間ではなかった。

  白灰色の柔らかな毛並み。黒い斑点。眠そうに伏せられた目。頭の上には丸みのある獣耳があり、カウンターの横から太く長い尻尾がゆっくりと垂れていた。

  尻尾は作り物ではないようだった。呼吸に合わせて、微かに動いていた。耳も同じだ。俺たちが入ってきたベルの音に反応して、ぴくりと揺れた。

  ユキヒョウ。

  俺の脳はなぜかその単語を出した。動物園か図鑑で見たことがある。雪山にいる大きな猫科の動物。白っぽい毛と黒い斑点と、太い尻尾。

  そのユキヒョウみたいな獣人が、受付にいた。

  当たり前のように。

  眠そうに頬杖をついて。

  女物の、綺麗なメイド服を着て。

  俺は、蛍太の手を握ったまま固まった。

  視覚情報が多すぎる。耳。尻尾。毛並み。メイド服。人間の顔。獣の気配。作り物ではない質感。呼吸。瞬き。長い尻尾の重さ。

  現実感があるのに、現実であってはいけないものが目の前にいる。

  俺は思わず叫んだ。

  「ケモノなんて現実にいるわけなくない!?」

  受付のユキヒョウは、ゆっくり顔を上げた。

  眠そうな目が俺を見る。

  一拍。

  そして、すごく平坦な声で言った。

  「いるけど、ここに」

  受付カウンターの向こうで、ユキヒョウの姿をした誰かが、あまりにも当たり前みたいな顔でそう言った。

  いや、顔はあまり動いていなかった。眠そうな目。ほとんど上下しないテンション。こっちの全身から出ているだろう混乱と恐怖と好奇心の全部を、湯飲みから立つ湯気くらいの温度で眺めている。

  俺は固まったまま、その相手を見た。

  白灰色の毛並み。黒い斑点。頭の上にある丸っこい耳。カウンターの横からゆっくり垂れている、やたら太くて長い尻尾。

  どう見ても人間ではない。

  でも完全な動物でもない。顔立ちは人に近い。メイド服も着ている。手も足もある。ただし、そこに生えている毛並みや耳や尻尾が、俺の知っているコスプレの範囲を平然と踏み越えていた。

  何が嫌って、作り物っぽさがない。

  耳が動く。尻尾が揺れる。息をするたびに胸元と肩がわずかに上下する。その動きに合わせて毛並みがふわっと揺れる。カウンターの照明を受けて、白い毛の一本一本が柔らかく光る。

  俺は、蛍太に握られている手をぎゅっと強くしてしまった。

  その瞬間、自分がまだ蛍太と手を繋いでいることを思い出した。

  「っ」

  慌てて手を引こうとしたが、蛍太は離さなかった。握る力が強くなったわけではない。ただ、逃げる前にそっと引き留めるみたいな、妙に慣れた力加減だった。

  「大丈夫?」

  「大丈夫に見えるか?」

  「見えない」

  「じゃあ聞くな!」

  俺はそう言いながら、まだ受付の相手から目を離せなかった。

  そのユキヒョウの人は、頬杖をついたまま俺を見ている。眠そうなのに、視線だけは妙に逃げ場がない。こっちがどれだけ混乱しているか、全部分かっているみたいな目だった。

  「え、いや、待って。いるけど、じゃなくて。いるけどって何ですか。いるわけないでしょ」

  俺がそう言うと、受付の人は少しだけ首を傾げた。耳がそれに合わせてぴくりと動く。

  「でも、いるよ」

  「返しが軽い」

  「重くした方がいい?」

  「そういう問題じゃないんですよ」

  蛍太が隣で小さく笑う。

  からかっているのかすらわからない。俺はにらみつけるしかない。

  「笑うな」

  「ごめん。でも千尋、反応が予想通りすぎて」

  「お前は予想してたかもしれないけど、俺は人生で初めての状況なんだよ。ケモノっぽい人が受付にいる店、来たことないんだよ」

  「まあ、普通はないよね」

  「普通じゃない自覚はあるんだな」

  「そりゃ、あるよ」

  蛍太は、さらっとそう言った。

  その言い方が、妙に引っかかった。普通じゃない場所だと分かっている。それでも蛍太はここに通っている。働いている。俺を連れてきた。

  俺に、見せたいと言った。

  受付のユキヒョウが、ゆっくりとカウンターから立ち上がった。

  立ち上がると、思っていたより背が高かった。いや、俺より高いというほどではない。けれど姿勢がすっとしていて、尾が太いせいか、存在感がある。メイド服は淡い灰色と黒を基調にした落ち着いたデザインで、過剰にひらひらしていない。そのせいで余計に、毛並みの柔らかさと尻尾の太さが目立つ。

  「特殊メイク、とか?」

  俺は自分でも情けないくらい弱い声で言った。

  ユキヒョウの人は、何でもないことみたいに答える。

  「違うよ」

  「じゃあ、ロボット尻尾」

  「違うよ」

  「着ぐるみ」

  耳が少し伏せた。まるで、そうでないことを証明するかのように。

  「こんなに薄い着ぐるみある?」

  言われて、俺は視線を落としてしまった。

  確かに、ない。

  というか、見れば分かる。足首。手首。首元。服から出ている部分が全部自然すぎる。継ぎ目がない。貼り付けた毛でもない。体から生えているとしか思えない。

  でも認めたくない。

  認めたら、俺の現実が壊れる。

  俺が今まで暮らしてきた大学とコンビニと部屋の世界の横に、突然こんなものがあると認めることになる。

  「信じられないなら」

  ユキヒョウの人は、何でもないことみたいに両手を軽く広げた。

  「ぎゅーってする?」

  「は?」

  俺は、たぶん人生で一番間抜けな声を出した。

  向こうは本気なのか冗談なのか分からない顔で、両手を広げたまま一歩近づく。

  「触れば分かるよ。本物だから」

  「いや、いやいやいや、待ってください。初対面ですよね?」

  「うん」

  「初対面でぎゅーはおかしいですよね?」

  「そう?」

  「そうです」

  「でも、確認したいんでしょ?」

  俺は黙った。

  正直、触ってみたくないかと言われれば、触ってみたかった。

  最悪だ。自分で自分を殴りたい。

  怖い。意味が分からない。逃げたい。でも、その太い尻尾とか、ふわふわしていそうな腕とか、肩のあたりの毛並みとか、目の前に出されると気になる。触ったら本当に温かいのか。体温があるのか。毛はどれくらい柔らかいのか。耳は動くのか。

  いや、待て。何を考えている。

  俺は見る側のオタクではあったが、現実の初対面の相手にいきなり抱きつくような人間ではない。たぶん。少なくとも今日までそうだった。

  ユキヒョウの人がまた一歩近づこうとした瞬間、蛍太が俺の前に半歩入った。

  「ノクスさん、初対面でそれは距離近いです」

  ノクス。

  どうやら、それがこの人の名前らしい。源氏名、というやつだろうか。いや、この状況で源氏名とか言っていいのかも分からない。何も分からない。

  ノクスさんは、蛍太を眠そうに見た。

  「ケイくんが連れてきた子でしょ?」

  「そうですけど」

  「じゃあ大丈夫かなって」

  「何がですか」

  「いろいろ」

  「いろいろが広い」

  蛍太の声はいつも通り軽い。けれど、ほんの少しだけ硬かった。

  俺はその変化に、気づけてしまった。

  さっきまで俺の手を握っていた蛍太が、今は俺とノクスさんの間に立っている。まるで、ノクスさんが俺に近づきすぎるのを止めるみたいに。

  いや、実際止めている。

  何だこれ。

  変な気分だった。

  ノクスさんは、蛍太の顔を見て、それから俺を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。

  「ケイくん、やきもち?」

  「違います」

  蛍太は即答した。即答が早すぎて、逆に怪しかった。

  ノクスさんは、その反応を愉しむように、太い尻尾をゆっくり揺らした。

  「耳も尻尾もないのに分かりやすいね」

  「ノクスさん」

  「はいはい」

  蛍太はため息をついた。けれど、完全には怒っていない。こういうやり取りに慣れている顔だった。

  俺だけが、何も慣れていなかった。

  やきもち。

  その単語だけが、店内の柔らかい空気の中で妙に浮いていた。

  蛍太が俺にやきもち。

  いや、ないだろ。

  ない。蛍太は距離が近い奴だ。誰にでもこういう感じだ。そもそもノクスさんが軽率に近づきすぎただけで、蛍太は俺がびっくりしないように止めただけだ。

  そうだ。そうに決まっている。

  でも、だったら何で、胸の奥が少しだけざわつくのか分からなかった。

  ノクスさんは、受付カウンターに戻りながら俺を見た。

  「その子が三笠千尋くん?」

  俺はまた固まった。

  「なんで俺の名前を」

  蛍太が横で目を逸らした。

  「ああ、えっと、ちょっと話してたから」

  「どの程度」

  「名前くらい」

  「本当だろうな」

  「本当、本当」

  ノクスさんが、追い打ちみたいに言った。

  「ああ、じゃあこの子がケイくんの……」

  俺は反射で聞き返した。

  「ケイくんの、何ですか」

  その一言で、蛍太が露骨に焦ったのがわかった。

  「ノクスさん、それ今言わなくていいから」

  ノクスさんは、少しだけ考えるみたいに黙った。尻尾の先がゆるく動く。

  「じゃあ、あとで」

  「あとでも言わなくていいです」

  「そう?」

  「そうです」

  俺は蛍太を見た。

  蛍太は目を合わせなかった。

  何だ。

  何なんだ。

  店に入ってからずっと、俺の知らない蛍太が小出しにされている。ここで働いている蛍太。ノクスさんと当たり前みたいに話す蛍太。俺のことを店で話していた蛍太。俺がノクスさんに触れそうになると止める蛍太。

  しかも、ケイくん。

  蛍太はここではケイと呼ばれているらしい。源氏名にしては自然だ。本名の蛍太から取っているのだろう。だからこそ変に生々しい。

  俺は落ち着かなくなって、店内を見回した。

  テーブル席はいくつかある。二人掛け、四人掛け、奥にソファ席。どれも整えられていて、使っている人はいない。カウンターの後ろには小さな棚があり、紅茶の缶やカップが並んでいる。普通に喫茶店らしい部分もある。けれど壁際には、獣の耳や尻尾をケアするためなのか、ブラシやリボンや妙な形のクッションが置かれていた。

  見なかったことにしたい。でも無理だった。

  「今日、営業してないのか?」

  俺は小声で蛍太に聞いた。

  蛍太は首を横に振る。

  「一応してるよ。でも今日はたまたま予約なし。平日のこの時間だし」

  「予約制の喫茶店ってなんだよ」

  「完全予約制じゃないよ。ふらっと入ってもらってもいいことにはなってる」

  「ふらっと入るにはハードル高すぎるだろ」

  ノクスさんが受付で頷いた。

  「まあ、高いね」

  「自覚あるんですね」

  「あるよ」

  蛍太が続けた。

  「あと、情報をあんまり広く出してない。検索しても普通のコンセプトカフェっぽい情報しか出ないと思う。詳しいことは、紹介とか口コミがほとんど」

  「口コミ」

  「本当に好きな人同士で回る感じ」

  「秘密結社?」

  「そんなかっこよくない」

  蛍太は笑ったが、すぐ少しだけ真面目な顔になった。

  「でも、変な好奇心だけで来られても困るから。カラーのこともあるし、キャストのこともあるし」

  カラー。

  さっきから出てくるその単語が、俺の中で引っかかり続けていた。

  俺はまだ信じていない。信じていないはずだ。ノクスさんが目の前にいるのに信じていないと言い張るのは、だいぶ無理がある気もするが、信じたら負けだと思っている。

  「カラーって、首輪みたいなやつだっけ」

  「うん。ざっくり言えば」

  「ざっくりが怖いんだよ、お前の場合」

  「ちゃんと説明するのはミツ姉の方が上手いから」

  「そのミツ姉って人も、この感じなのか?」

  俺はノクスさんをちらっと見た。

  ノクスさんは眠そうに瞬きをしている。蛍太は少しだけ笑った。

  「ミツ姉は、もっとすごいよ」

  「その言い方で安心できる要素が一個もない」

  ノクスさんが奥の方へ顔を向けた。

  「ミツ姉。ケイくんの子、来たよ」

  「ケイくんの子って何ですか」

  俺は即座に突っ込んだ。

  蛍太も頭を抱えていた。

  「ノクスさん、ほんとそういうとこ」

  ノクスさんは悪びれない。

  「違った?」

  「違うというか」

  「じゃあ何?」

  蛍太は言葉に詰まった。

  俺はそれを見た。

  言葉に詰まるな。

  そんなところで詰まるな。

  俺まで変な気分になるだろ。

  奥から、足音がした。

  軽い足音ではない。カツ、カツ、と床を踏む落ち着いた音。大学の教授が授業中に歩くような、妙に整ったリズムだった。

  カーテンの奥から出てきたのは、狐だった。

  いや、また脳が雑に処理しようとしている。人だ。人型だ。でも狐の耳がある。長く艶のある尻尾が背後で揺れている。髪も茶色に近い淡い色で、目元は細く、どこか鋭い。柔らかいというより、しなやか。かわいいより、綺麗で、妙に色気がある。

  男、だと思った。

  というか、男の色気があった。

  ノクスさんは眠そうで、獣としての存在感が強かった。目の前に出てきたその人は、もっと人に近い。けれど、人間の男性というより、獣の美しさを人の形に押し込めたような感じだった。

  ただし服装はメイド服ではなく、白衣。

  きちんとしたシャツに、細身の黒いパンツ。その上に真っ白な白衣。襟元は少し開いていて、首元には細いチョーカーみたいなものが見えた。研究者と言われれば納得できる。店長と言われても、まあ、そうなのかもしれない。けれどその白衣と狐の尻尾が同時に存在しているせいで、俺の脳内の分類棚が全部ひっくり返った。

  その人は、俺を見ると、穏やかに笑った。

  「いらっしゃい、三笠千尋くん。話はだいたい聞いています」

  俺は身構えた。

  「あの、どこまで聞いてるんですか」

  白衣の狐は、少しおかしそうに目を細めた。

  「蛍太くんが、君を連れてきたいと言っていたこと。興味はありそうだけれど、自分からは踏み込めない子だと言っていたこと。それくらいです」

  俺は横目で蛍太を見た。

  蛍太はすぐに言った。

  「荷物のことは言ってない」

  「荷物って?」

  ノクスさんが即座に反応した。

  「ノクスさんは拾わなくていいです」

  蛍太が焦ったように追及を制止する。

  俺は、それだけで少し息を吐いた。

  言っていない。

  あの荷物のことは言っていない。俺が一人で酔った勢いで頼んだ、絶対に他人に知られたくなかったもの。蛍太はそれを、この店の人たちに話していない。

  当たり前かもしれない。

  でも、その当たり前が、妙にありがたかった。

  狐の人は、胸に手を当てて軽く頭を下げた。

  「鷺沼美弦です。この店ではミツ姉と呼ばれています。店長で、カラーの開発者でもあります」

  「店長で、開発者」

  「はい」

  「この状況で一番ヤバそうな肩書きを二つ持ってる」

  ミツ姉はふふっと、お上品に笑った。

  硬い人かと思ったら、案外くだけた笑い方だった。白衣と狐の見た目のせいで近寄りがたいのに、笑うと少しだけ人間っぽくなる。いや、人間っぽくなるという表現もどうなんだ。本人はどういう扱いが正解なんだ。

  ミツ姉は蛍太を見た。

  「蛍太くん。説明は?」

  蛍太は目を逸らした。

  「ざっくり」

  「蛍太くんのざっくりは、だいたい足りないんですよね」

  「自覚はあります」

  「あるなら直しましょうね」

  「はい」

  俺は心の底から頷いた。

  「半分どころじゃないと思います、けど」

  ミツ姉は俺に向き直った。

  「それは失礼しました。では、ここからは私が説明します。安心してください。今日は面談と見学が主です。何かを強制することはありません」

  「本当に?」

  「本当です。嫌だと言ったら、そこで終わり。これはこの店で一番大事なルールです」

  その声は、軽かった。けれど、どこか大人の芯があるような感じがした。

  ここに来てから、目の前にあるものは全部おかしい。受付のユキヒョウも、白衣の狐も、蛍太の態度も、店そのものも。

  けれど、不思議なことに、嫌な感じはしない。

  いや、怖い。怖いし、意味が分からないし、帰りたい気持ちもまだある。でも、この人たちは俺を無理に笑いものにしようとしている感じではない。ノクスさんは距離が近すぎるが、悪意はない。ミツ姉はちゃんと線を引こうとしている。蛍太は、俺の横で少し落ち着かなさそうにしている。

  俺は、ひとまず頷くことにした。

  ミツ姉は店内の方へ軽く手を向けた。

  「ここは、外から見ると少し変わった喫茶店です。お茶を飲んで、話をして、触れ合う。そこまでは普通の店と大きく変わりません」

  「触れ合う時点で普通の店とは変わってる気がします」

  「そこはまあ、変わっていますね」

  「認めるんだ」

  「事実なので」

  ミツ姉はあっさり言った。

  ノクスさんが受付で小さく頷く。

  「変な店だよ」

  「ノクスくん、それは外部の人に最初に言う言葉ではありません」

  「でも変だし」

  「それはそうですが」

  否定しないのか。

  ミツ姉は少し困ったように笑ったあと、説明を続けた。

  「ここでは、このカラーを使ってキャストの姿を変えます。見た目だけの仮装ではありません。耳も尻尾も毛並みも、感覚ごと本物になります」

  「本物」

  「はい。少なくとも、装着している間は本人の身体の一部として機能します。耳は音に反応しますし、尻尾には感情が出ます。毛並みを撫でられれば心地よさもあります。触られて嫌なら、嫌だと感じます」

  俺はノクスさんの耳を見た。ノクスさんは、わざとみたいに耳をぴこっと動かした。

  「やめてください。こっちの現実感が死ぬ」

  「まだ生きてたんだ」

  「死にかけです」

  蛍太が笑いを堪えている。

  「お前も笑うな」

  「ごめん。千尋がんばってるなって」

  「がんばらないと処理できないんだよ」

  ミツ姉は、白衣のポケットから小さな端末のようなものを取り出した。操作すると、受付横の壁に埋め込まれた薄いモニターが点いた。そこには店の簡単なルールが表示された。

  接触は必ず確認を取ること。

  嫌がる反応があれば即中止。

  客もキャストも、相手を人として扱うこと。

  文字だけ見ると、むしろ真面目な感じだった。

  真面目なのに、店内には獣の耳と尻尾を持った人がいる。情報の温度差で風邪をひきそうだ。

  ミツ姉はモニターを見ながら続ける。

  「この店は、利益のためだけに続けているわけではありません。というより、利益だけで考えるなら、私は別の仕事をしていた方がずっと効率がいいです」

  「別の仕事」

  「私の特許収入や技術顧問の仕事があります。食べるには困っていません」

  さらっとすごいことを言った。

  蛍太を見ると、嘘じゃないことを保証するかのように、蛍太は小さく頷いた。

  「ミツ姉、普通にお金持ちだよ」

  「普通に言うな」

  「めっちゃお金持ち」

  「そういう問題でもない」

  ミツ姉は少しだけ肩をすくめた。

  「ですから、無理に客を増やす必要はありません。大きく宣伝するつもりもありません。カラーのことが広く知られすぎると面倒ですし、面白半分の人に荒らされたくもありません」

  その言い方には、はっきりした線引きがあった。

  ここは夢の場所だ。だから守る。

  そう言っているように聞こえた。

  「じゃあ、なんで店を」

  俺は思わず聞いていた。

  「お金目的じゃなくて、宣伝もできないなら、わざわざ店にする意味あります?」

  ミツ姉は、少しだけ蛍太を見た。

  蛍太が気づいて、うっと小さく声を漏らす。

  「ミツ姉、何か嫌な予感がするんだけど」

  「大事な話です」

  「俺の話?」

  「はい」

  「やっぱり」

  ミツ姉は俺の方へ向き直った。

  「蛍太くんは、この店の初期からいます。開店前、まだカラーの調整が今ほど安定していなかった頃から、協力してくれました」

  俺は蛍太を見た。

  蛍太は目を逸らした。照れている。いつもの軽口で誤魔化そうとしているのに、少しだけ顔が赤い。

  ミツ姉は続ける。

  「彼は、自分でもそういう姿になりたいと言っていました。絵を描くだけでは足りない。見るだけでは足りない。自分が、そうなりたい。そういう願いを持っていた人です」

  蛍太は小さく言った。

  「そこまで言わなくても」

  「言います。君が初めてケモノの姿になった時、本当に泣きそうな顔をしていたでしょう」

  蛍太が黙った。

  俺も黙った。

  今まで、蛍太はそういう趣味を軽く話していた。ケモノが好き。男の娘が好き。女装も好き。そういうものに憧れがある。自分でも絵を描く。

  でもそれは、俺の中では趣味の話だった。

  好きなキャラとか、好きなジャンルとか、好きな服とか、そういう延長だと思っていた。いや、軽く見ていたわけじゃない。蛍太が楽しそうならそれでいいと思っていた。でも、蛍太にとってそれがどれくらい深いものなのか、考えたことはなかった。

  自分がそうなりたい。

  その願いが、叶う場所。

  俺は、蛍太の横顔を見た。

  蛍太はまだ目を逸らしていた。少し困ったように笑おうとして、うまく笑えていなかった。

  「この店は、そういう場所です」

  ミツ姉が言った。

  「見る人のためだけではありません。触れる人のためだけでもありません。なる人のための場所です。自分の中にある姿を、ちゃんと外に出して、それを好きな人に見てもらえる場所です」

  俺は何も言えなかった。

  数日前の自分のことを思い出す。

  酔った勢いで注文した荷物。誰にも言えない興味。見るだけで済まなくなりかけていた自分。気持ち悪いと思いながら、それでも捨てられなかった欲。

  この店は、そういうものを、気持ち悪いと言わない場所なのかもしれない。

  そう思った瞬間、心臓が少し嫌な音を立てた。

  居心地が悪い。

  でも、それは拒絶されているからではない。

  逆だ。

  受け入れられそうだから、怖い。

  俺は慌てて視線を逸らした。

  「でも、やっぱり信じられないですよ。こんなの、普通に考えてありえないし」

  自分でも無理があると思った。

  ノクスさんもミツ姉も目の前にいる。蛍太が真面目な顔をしている。店の空気も、ルールも、全部が現実としてここにある。

  でも俺は、まだ粘った。

  最後の理性の抵抗だった。

  「特殊メイクとか、かなりすごい技術って言われた方が、まだ理解できます。耳とか尻尾が動くのも、ロボットとかそういう」

  ノクスさんが、自分の尻尾を両手で持ち上げた。

  「じゃあ触る?」

  「だから距離」

  蛍太がすぐ止めた。

  ノクスさんは無表情のまま言う。

  「確認として」

  「確認でも初対面で尻尾触らせるのは近いです」

  「ケイくん、さっきから過保護」

  「過保護じゃないです」

  「じゃあ独占欲?」

  「違います」

  ノクスさんは俺を見た。

  「違うらしいよ」

  「俺に振らないでください」

  蛍太が少し赤くなっている気がした。

  その反応を見て、俺まで変に落ち着かなくなる。

  ミツ姉は、そんな俺たちを見て少し笑った。

  「まあ、千尋くんが信じられないのも当然です。初めて見る人は大抵そうなります」

  「みんな叫ぶんですか」

  「叫ぶ人もいます。黙る人もいます。泣く人もいます」

  「泣く」

  「夢が叶う側の人は、たまに」

  また、蛍太が少しだけ視線を落とした。

  「では、実演しましょう。その方が早いです」

  俺は嫌な予感がした。

  「実演」

  「はい」

  ミツ姉が蛍太を見る。

  「蛍太くん。お願いできますか」

  蛍太は、一瞬だけ俺を見た。

  いつもの蛍太なら、こういう時はすぐに笑って、任せて、とか何とか言うはずだった。けれど今は、ほんの少しだけ間があった。

  その間に、俺は気づいてしまった。

  蛍太も、緊張している。

  ここにいるノクスさんやミツ姉の前で変わることには慣れているのだろう。店で働いているくらいだ。きっと何度もやっている。けれど、俺の前でやるのは初めてだ。

  俺に見せるのは、初めてだ。

  「お前でも緊張するんだ」

  俺が言うと、蛍太は少し困ったように笑った。

  「千尋に見せるのは初めてだからね」

  その言葉が、妙に近くに落ちた。

  俺に見せる。

  その言い方が、ただの実演ではないみたいに聞こえた。

  俺は何か返そうとして、失敗した。口の中で言葉が転んで、結局何も出てこなかった。

  ノクスさんが受付でぼそっと言う。

  「ケイくん、いい顔してる」

  「ノクスさん」

  「うれしそう」

  「黙って」

  「はいはい」

  蛍太は手で顔をあおぐようにしてから、ミツ姉に向き直った。

  「じゃあ、お願いします」

  ミツ姉は白衣のポケットから、小さなケースを取り出した。

  それはアクセサリーケースに似ていた。薄くて、黒くて、妙に高級感のあるケース。ミツ姉がそれを開くと、中には細い首輪のようなものが入っていた。

  カラー。

  俺は、息を呑んだ。

  想像していたより、ずっと綺麗だった。

  革でも金属でもないような、黒く滑らかな質感。内側には淡い光の線がいくつも走っていて、脈打つようにゆっくり明滅している。装飾は少ない。けれど、無機質というより、どこか生き物の器官みたいだった。

  気持ち悪い、とは思わなかった。

  むしろ、目を離せなかった。

  蛍太はそれを両手で受け取った。

  その指先が、ほんの少し震えていた。

  怖いからではないと思った。

  もっと別のものだ。期待。緊張。身体がこれから何をされるか知っていて、先に反応しているような震え。

  俺は、ごくりと喉を鳴らした。

  「それ、痛いのか」

  自分でも、どうしてそんなことを聞いたのか分からなかった。

  蛍太は、カラーを見つめたまま少し笑った。

  「痛くはないよ」

  「じゃあ、何でそんな顔してるんだよ」

  「どんな顔?」

  「……なんか」

  言えなかった。

  気持ちよさそうなことを待っている顔。

  そう言いそうになって、慌てて飲み込んだ。

  蛍太は、俺が言葉を選べずにいるのを見て、たぶん少しだけ察した。

  「平気。慣れてるから」

  「慣れるものなのか、それ」

  「うん。でも」

  蛍太は少しだけ目を逸らした。

  「千尋に見られてると思うと、ちょっと変な感じする」

  心臓が跳ねた。

  まただ。

  今日の蛍太は、たまに変な角度から踏み込んでくる。いつもの軽口みたいな顔をして、妙に本音っぽいものを混ぜてくる。そのたびに俺は、どう反応していいか分からなくなる。

  「別に、見てるだけだし」

  「うん。見てて」

  蛍太はそう言った。

  見てて。

  その一言で、俺は本当に目を逸らせなくなった。

  蛍太がカラーを首元に持っていく。

  俺は、さっきまで手を繋いでいた蛍太の首を見てしまった。細い首。白い肌。普段なら特に気にしたこともない場所だ。けれど今は、そこに黒いカラーが近づいていくのが妙に生々しい。

  カチリ、と小さな音がした。

  カラーが蛍太の首に留まる。

  内側の光が、淡く強くなった。

  蛍太が、ゆっくり息を吸った。

  ミツ姉が静かに言う。

  「起動します」

  蛍太の喉が、小さく鳴った。

  その声は、俺の知っている蛍太の声より、少しだけ甘かった。

  カラーの内側を走っていた淡い光が、蛍太の首元でゆっくり強くなる。光、と言っても派手なものではない。レーザーみたいに眩しいわけでも、魔法陣みたいに床まで広がるわけでもない。ただ、首輪の内側から細い線が何本も浮き上がって、それが皮膚の上に染み込んでいくみたいに見えた。

  蛍太は目を伏せた。

  肩が、ほんの少し震える。

  「……っ、ふ」

  吐息が漏れた。

  俺は、反射的に一歩前へ出そうになった。痛いのかと思ったからだ。でも、蛍太の表情を見た瞬間、足が止まった。

  痛がっている顔じゃなかった。

  眉は少し寄っている。唇も薄く開いている。でも、苦しそうではない。むしろ、何かを堪えているみたいだった。胸の奥からじわじわ上がってくるものを、慣れた仕草で飲み込もうとしているような顔。

  俺は、どうしていいか分からなくなった。

  「蛍太」

  名前を呼ぶと、蛍太は薄く目を開いた。

  「ん、大丈夫」

  声が震えていた。

  大丈夫と言われても、全然大丈夫に聞こえない。

  視線が、蛍太の首元に吸い寄せられる。カラーの光は、首の皮膚に沿って薄く広がっていた。そこから脈のように、肩へ、鎖骨へ、背中へと見えない何かが流れているように見える。服の下で何が起きているのかまでは分からない。けれど、蛍太の身体が明らかに内側から変わり始めているのは分かった。

  パーカーも、パンツも、スニーカーも、さっきまでの蛍太のまま。なのに、その中の身体だけが、明らかに別のものへ向かっていく。

  そのせいで、変化が余計に生々しかった。

  衣装がぱっと変わってしまえば、まだ演出だと思えたかもしれない。映像みたいだとか、ショーみたいだとか、そういう逃げ道があったかもしれない。

  でも、今目の前にいる蛍太は、俺と一緒にこの店まで来た時の服を着たまま、首元のカラーから広がる感覚に身体を震わせている。

  それが、どうしようもなく現実だった。

  「服脱がなくていいの?」

  受付から、ノクスさんがさらっと言った。

  空気を読んだのか、読んでいないのか分からない。たぶん読んだうえで言っている。声が眠そうすぎて分かりづらいが。

  蛍太は薄く息を吐いて、少しだけノクスさんを睨んだ。

  「……今さら、出ちゃうぐらい感じたりしないです」

  俺の思考が止まった。

  今さら。

  出ちゃうぐらい。

  感じたりしない。

  言葉の意味が、遅れて頭に入ってきた。入ってきた瞬間、頭の中で何かがばちんと弾けた。

  俺は蛍太を見た。

  蛍太は、言ってから少し後悔したみたいな顔をしていた。頬が赤い。カラーの影響なのか、ノクスさんに余計なことを言わされたせいなのか分からない。たぶん両方だ。

  「いや、待て」

  俺は思わず言った。

  「今の、そういう感じなのか」

  蛍太は俺を見ない。

  「そういうって?」

  「分かってて聞くな」

  「……まあ、気持ちいいのは本当」

  言い方が軽い。

  でも、声は軽くなかった。

  喉の奥にまだ熱が残っているみたいな声だった。普段の蛍太なら、こういう場面でももっと茶化す。へらっと笑って、まあね、とか言って流す。なのに今は、軽口の形をしているだけで、身体は全然ごまかせていない。

  蛍太の指先が、パーカーの裾を軽く握っていた。

  ぎゅっと握って、離して、また握る。

  カラーの光が一段強くなる。

  蛍太の髪が、ふわりと揺れた。

  いや、髪が揺れたのではない。髪の中で何かが動いたんだ。

  「っ、あ」

  蛍太が小さく声を漏らした。

  頭の横、少し上。髪を押し分けるように、何かが盛り上がる。最初は、寝癖みたいに見えた。でも違う。髪の内側から形が生まれている。皮膚が引き上げられ、輪郭が作られ、柔らかい毛に覆われていく。

  耳だ。

  人間の耳とは違う。頭の上に生える、獣の耳。

  片方がぴんと立ちかけ、すぐに震えた。もう片方も遅れて持ち上がる。形は三角に近い。先端が少し丸く、内側には淡い毛が生えている。色は一色ではなかった。蛍太の髪色に溶けるような黒っぽい部分と、明るい茶色、それから白い毛が混じっている。

  俺は、その耳から目を離せなかった。

  生えている。

  本当に、蛍太の頭からケモ耳が生えている。

  付け耳じゃない。バンドもピンも見えない。髪の隙間から自然に続いていて、耳の根元が頭皮と繋がっている。しかも、その耳が音を拾うみたいにぴくぴく動いた。

  「うわ」

  俺は情けない声を出すと、蛍太がやっと、小さく笑った。

  「うわって何」

  「いや、だって、耳」

  「出たね」

  「そんな軽く言うなよ。出たね、じゃないんだよ」

  蛍太の耳が、俺の声に反応したみたいにこっちを向いていた。

  それを見た瞬間、背筋がぞわっとした。

  俺の声を聞いて、耳が動いた。

  それだけのことが、なぜか強烈だった。

  ノクスさんが受付で、頬杖をついたまま言った。

  「好きな人の前でも?」

  蛍太の耳が、びくんと跳ねた。

  「っ、ノクスさん」

  「今さら出ちゃうぐらい感じないって言ったから」

  「だからって」

  「好きな人に見られながらでも、平気?」

  蛍太の顔が一気に赤くなって、俺は、完全に固まった。

  好きな人。

  その言葉だけが、店内の空気から切り出されたみたいに、やたらはっきり聞こえた。

  誰のことだ。

  なんて、聞けなかった。

  聞く必要もない気がした。

  さっきからノクスさんは、蛍太のことをからかう時、俺の方を見る。蛍太も、それを止める時だけやたら焦る。ケイくんの子、と言われて、蛍太は否定しきれなかった。

  俺の手のひらに、さっきまで蛍太と繋いでいた感触が戻る。

  大事な友達。

  蛍太は、店に入る前にそう言った。

  その言葉の中に、今、別の色が混ざった気がした。

  「ノクスくん」

  ミツ姉が軽くたしなめる。

  「変身中の子を過度にからかわない」

  「はーい」

  ノクスさんは悪びれずに返事をした。

  蛍太は深く息を吐く。けれど、その吐息は途中で震えた。

  耳だけでは終わらなかった。

  次に変わったのは、腰だった。

  蛍太のパーカーの裾が、背中側でふわっと持ち上がった。中で何かが動いている。俺は最初、背筋が反ったのかと思った。でも違った。もっと細くて、しなやかな何かが、服の下から逃げ道を探していた。

  蛍太が片手でパーカーの裾を少し持ち上げた。

  「ちょ、見えちゃうから」

  「何が?」

  俺が聞くと、蛍太はこっちを見た。潤んだ目で。

  「尻尾、出るから」

  言うのと同時に、パーカーの下から長い尻尾がするりと出てきた。

  俺は息を呑んだ。

  それは、最初からそこにあったものがようやく自由になったみたいに、自然に蛍太の後ろへ伸びた。細くてしなやかで、先端がふわっとしている。色はやはり一色ではない。白い部分、黒い部分、茶色い部分がまだらに混ざっている。

  尻尾は出てきた直後、空気を確かめるようにゆっくり揺れた。

  蛍太の身体が、それに合わせて小さく震える。

  「っ、ん……」

  声が漏れた。

  今度は、はっきり甘かった。

  俺は目を逸らしかけて、でも逸らせなかった。

  見てはいけないものを見ている気がする。変身を見せてもらっているだけのはずなのに、蛍太の身体が気持ちよさに反応するところを見ているようで、妙に後ろめたい。しかも蛍太は、俺に見られていると分かっている。

  分かっていて、それでもカラーを起動させた。

  分かっていて、俺に見ててと言った。

  「平気なのかよ」

  俺はまた聞いた。

  同じようなことを何度も聞いている。自分でも分かっている。でも、他に言葉がなかった。大丈夫なのか。痛くないのか。怖くないのか。気持ちいいのか。俺に見られていて、平気なのか。

  蛍太は尻尾を一度ぎゅっと丸めるように揺らしてから、少しだけ笑った。

  「平気。慣れてる」

  「慣れてる顔じゃないけど」

  「千尋が見てるから」

  さらっと言われた。

  俺は何も返せなかった。

  蛍太のケモ耳が、赤い気がする。いや、毛が生えているから本当に赤いわけではないのかもしれない。でも、顔は赤い。目元も赤い。吐息も落ち着いていない。なのに俺を見る目だけは、妙にまっすぐだった。

  見てほしい。

  そう言われている気がした。

  カラーの光が、今度は蛍太の全身に広がった。

  パーカーの袖口から見える手首に、淡い毛が生え始める。最初は産毛みたいだった。けれどすぐに、白と茶と黒が混じった柔らかい毛並みになって、指先まで馴染んでいく。指は人の形を保っているが、爪が少しだけ丸く艶を帯び、手のひらの肉付きが変わる。

  蛍太は自分の手を見下ろして、軽く指を握った。

  「……ん」

  また声が漏れる。

  今度は手だけではなかった。

  首元から顎へ、頬へ、毛並みが薄く広がっていく。人の肌が完全に覆われるわけではない。けれど、頬の輪郭が柔らかくなり、耳の下から首筋にかけて白い毛がふわっと増えていく。髪も少し質感が変わって、黒と茶と白の色が、耳や尻尾と同じように散っていく。

  三色。

  そこで、ようやく俺にも分かってきた。

  猫だ。

  耳の形、尻尾の動き、身体のしなやかさ。何より、蛍太の仕草そのものが、どんどん猫みたいになっていく。

  しかも、ただの猫ではない。

  白と黒と茶が混ざった毛並み。

  三毛。

  俺は頭の中でその言葉にたどり着いて、また別の意味で固まった。

  蛍太が、三毛猫になっていく。

  三毛猫という単語の持つ可愛さと、目の前の蛍太の変化が、最悪なくらい噛み合っていた。

  最悪、というのは俺にとってだ。

  蛍太は可愛かった。人間の姿でも、普通に可愛い顔をしていた。だからこそ、今まで俺はあえて深く考えないようにしていた。こいつは友達。可愛い顔の友達。女装も似合うだろうけど、まあ友達。そうやって雑に分類していた。

  でも今、目の前でその分類が崩れていく。

  蛍太の身体が少しずつ華奢になっていた。肩幅がわずかに狭まり、首筋が細く見える。パーカーの中で体格が変わっているせいか、服の余り方が変わった。袖が少し長く見える。裾も、さっきよりゆるく落ちている。パンツも腰回りが少し余って、蛍太は片手でそれを押さえた。

  最後に、仕上げとばかりに顔が変わっていく。口元がわずかに前へ張り出すように動いたかと思えば、動物らしい鼻が形成され、ひげが生え、見慣れた猫の顔面が形成されていった。

  「服、変わらないんだな」

  俺は、現実逃避みたいに言った。

  ミツ姉が答える。

  「カラーが変えるのは身体だけです。衣服までは変換できません。ですから営業時は、基本的に先に衣装へ着替えてから装着します」

  「じゃあ今は」

  「実演なので、そのままです」

  「そのままって」

  俺は蛍太を見た。

  蛍太はパーカーと細身のパンツのまま、耳と尻尾と毛並みを生やしている。変身によって身体つきが変わったせいで、服の中に小さくなったようにも見える。メイド服ではない。だからこそ、店の演出というより、蛍太自身の変化に見えた。

  蛍太が俺を見る。

  「変?」

  「いや」

  即答できなかった。

  変だ。

  変ではある。

  でも、似合っていないわけではない。

  普通のパーカー姿のまま獣の耳と尻尾を生やした蛍太は、店のキャストというより、もっと近い存在に見えた。大学で会う蛍太の延長。俺の部屋でゲームをしていた蛍太の延長。あの日、俺の荷物を受け取ってしまった蛍太の延長。

  それが、獣になっている。

  だから余計に逃げられない。

  「……似合ってるんじゃないの」

  俺は、できるだけ雑に言った。

  蛍太の耳が、ぴんと立った。

  尻尾が、分かりやすく揺れた。

  ノクスさんがすぐに言う。

  「嬉しそう」

  蛍太は、暴れる尻尾を押さえようとした。

  「言わなくていいです」

  「尻尾が言ってる」

  「ノクスさん」

  俺はそのやり取りを見て、どうしようもなく変な気持ちになった。

  褒めたら、蛍太の耳と尻尾が反応した。

  さっきミツ姉が言っていたことが、本当だと分かる。耳も尻尾も感覚ごと本物。感情が出る。自分では隠しきれない。

  蛍太は今、俺の言葉に反応している。

  俺が似合ってると言ったから、嬉しそうにした。

  それだけのことなのに、胸の奥が熱くなる。

  変身はまだ続いていた。

  顔立ちが、さらに変わっていく。

  別人になるわけではない。目元も、口元も、表情の作り方も蛍太のままだ。けれど、輪郭が少し柔らかくなる。頬のラインが丸くなり、目が大きく見える。睫毛の影が濃くなったように感じる。唇が少し赤く見えるのは、血色のせいなのか、店の照明のせいなのか分からない。

  「……やば。今日、ちょっと効き強いかも」

  蛍太が呟いた。

  普段より甘い。けれど作った声ではない。身体が変わった結果、声帯も少し変わったのだと、俺にも分かってしまう。

  ミツ姉が蛍太の様子を確認する。

  「千尋くんに見られているからでしょう。緊張と期待で感度が上がっているのかもしれません」

  「分析しないでください」

  「研究者なので」

  「今じゃなくていいです」

  ミツ姉は楽しそうに笑った。

  敬語なのに、妙にくだけている。固すぎない。けれど言葉の端に、研究者としての観察眼が混ざっている。俺はその会話を聞きながら、蛍太の変化から目を離せない。

  感度が上がっている。

  千尋くんに見られているから。

  その二つの言葉が、俺の中で最悪の繋がり方をする。

  蛍太は俺に見られて、普段より気持ちよくなっている。

  いや、違う。違わないけど、違う。そういう意味で受け取るな。これはカラーの作用で、研究者が言っただけで、蛍太が俺をどうこう思っているとか、そういう話ではない。たぶん。いや、ノクスさんが好きな人とか言っていた。ミツ姉も否定しなかった。蛍太も完全には否定しなかった。

  頭がぐちゃぐちゃになる。

  その間にも、蛍太の尻尾はゆっくり揺れていた。長くしなやかな尻尾。三色の毛並み。先端だけが少し白く、光を受けるたびにふわっと柔らかそうに見える。

  蛍太は最後に、深く息を吐いた。

  カラーの光が落ち着いていく。

  変身が終わったのだと、理屈ではなく空気で分かった。

  店内が、静かになる。

  俺は目の前の蛍太を見た。

  猫耳。尻尾。三色の毛並み。少し華奢になった身体。ゆるく余ったパーカー。片手で押さえたパンツの腰。赤い顔。潤んだ目。まだ少し乱れている息。

  そこにいるのは、蛍太だった。

  でも、俺の知っている蛍太ではなかった。

  いや、違う。

  俺の知っている蛍太だから、まずいのだ。

  まったくの別人なら、俺はただ驚いて終われた。すごい技術ですね、とか、現実じゃないみたいですね、とか、距離を取った感想で済ませられた。

  でも目の前の相手は蛍太だった。

  俺の部屋でゲームをして、俺の荷物を受け取り、俺の秘密を知って、それでも引かなかった友達。

  その蛍太が、猫になっている。

  可愛い。

  俺は、そう思ってしまった。

  かなりはっきりと。

  言い訳のしようがないくらいに。

  「……どう?」

  蛍太が聞いた。

  声が柔らかい。耳が少し伏せている。尻尾の先が不安そうに揺れている。

  俺は何か言おうとして、でも言葉が出なかった。

  蛍太が一歩近づく。

  三毛の耳が、俺の反応を拾おうとするみたいにこちらを向く。

  「千尋?」

  近い。

  さっきまでの距離なら、ただの友達だった。店の前で手を繋いでいても、まだ言い訳できた。変な店に入るから緊張しているだけ。蛍太の趣味に付き合っているだけ。

  でも今、目の前にいる蛍太は、その言い訳を全部壊してくる。

  俺はやっと口を開いた。

  「……信じたくない」

  蛍太が少し笑った。

  「そこまで見ても?」

  「見たからだよ。信じたくないんだよ」

  「なるほど」

  「なるほどじゃない」

  俺は一度視線を逸らした。

  でも、すぐ戻してしまった。

  蛍太がそれに気づいたのか、猫耳を小さく揺らした。

  「見ていいよ」

  「見てるだろ」

  「うん。もっと」

  「お前、そういうとこだぞ」

  「どういうとこ?」

  「分かってて言うとこ」

  蛍太は笑った。

  その笑い方は、いつもの蛍太に近かった。でも耳と尻尾があるせいで、同じ笑顔なのにまったく違って見える。しなやかで、あざとくて、それでいて照れが混じっている。

  ノクスさんが受付から言った。

  「ケイくん、今日ちょっと格好つけてる」

  蛍太の尻尾が、驚いたようにぴんと立った。

  「ノクスさん、黙って」

  「千尋くんに見られてるから?」

  「黙ってってば」

  「分かりやすいね」

  蛍太は顔を赤くして、ミツ姉の方を見た。

  「ミツ姉、ノクスさんを止めてください」

  ミツ姉は腕を組んだまま、楽しそうに言った。

  「止めたいのは山々ですが、事実の確認も大切です」

  「研究者の顔でからかわないでください」

  「失礼。つい」

  俺は、そのやり取りを見て少しだけ笑ってしまった。

  怖さが薄れる。

  現実離れした姿の蛍太。ユキヒョウのノクスさん。狐のミツ姉。全部おかしい。けれど、会話のテンポは妙に普通だった。大学のサークル部室みたいな、気安い空気がある。

  だからこそ、ここが本当に蛍太の居場所なのだと分かる。

  蛍太はここで、こんな風にからかわれて、笑って、姿を変えて、働いている。

  俺の知らないところで。

  「さて」

  ミツ姉が俺を見た。

  「ここまで見ても、まだただの仮装だと思いますか?」

  俺はすぐには答えられなかった。

  仮装。その言葉に逃げ込みたい。

  でも、もう無理だった。蛍太の耳が動くのを見た。尻尾が生えるところを見た。変化の途中で、蛍太が声を漏らすのを聞いた。身体が小さく、柔らかく、獣の特徴を持つ形に変わっていくのを見てしまった。

  信じたくない。

  でも、信じないと言うには、目の前の蛍太があまりにも本物だった。

  俺は苦し紛れに言った。

  「……いや、でも、俺がやるとは言ってないです」

  ミツ姉はあっさり頷いた。

  「もちろんです。やめるのも自由です。試すだけでも、途中で止めるのも自由です」

  その返しに、少しだけ安心する。

  けれどミツ姉は、そこで終わらなかった。

  「ただ、蛍太くんがここまで分かりやすくそわそわしているので、個人的には少し見てみたいですね」

  「ミツ姉」

  蛍太が、抗議の一声を上げる。ミツ姉は涼しい顔だった。

  「事実です」

  蛍太は、三色の耳を少し伏せていた。尻尾の先が落ち着きなく揺れている。さっきまで変身の余韻で頬を赤くしていた顔が、今度は別の理由で赤くなっているように見えた。

  俺がカラーをつけることを、期待している。

  それが分かってしまった。

  蛍太は、俺の視線から逃げなかった。

  少し緊張した顔で、でもはっきり言う。

  「無理ならいい。ほんとに。嫌ならここで帰ってもいい」

  蛍太の声は、軽くなかった。だからこそ、気の迷いが、どんどん大きくなってしまう。

  「でも、俺は見たい。千尋がどんな姿になるのか」

  胸の奥から、変な音がした。

  さっきまで、俺は蛍太の変身を見ていた。蛍太の身体が変わって、気持ちよさそうに震えて、猫の耳と尻尾が生えて、三色の毛並みになっていくのを見ていた。

  今度は、それを俺がやる番だと言われている。

  自分がどうなるかなんて、分からない。

  怖い。

  何になるかも分からない。どんな姿を選ばれるのかも分からない。ミツ姉は、その人に似合う姿を選ぶと言っていた。自分の中にある姿。自分でも気づいていない願望。

  そんなもの、見られたくないに決まっている。

  なのに。

  蛍太に見たいと言われて、俺は即座に断れなかった。

  これが、一番まずい。

  「……試すだけだからな」

  蛍太の耳が、ぴんと立った。尻尾が分かりやすく跳ねる。

  ノクスさんがぼそっと言う。

  「釣れた」

  「釣られてない」

  俺は即座に返した。ちょっとだけ期待しているのを、悟られないために。

  ミツ姉は白衣のポケットから、別のケースを取り出した。

  黒いケース。

  その中に、まだ誰のものでもないカラーが入っている。

  ミツ姉はそれを開きながら、穏やかに言った。

  「では、これをつけてください」

  蛍太がつけたのと同じ形の、チョーカーみたいな細い首輪。

  ただの装飾品にしか見えないのに、異様な光景を見た今、それがすごく恐ろしいものに見える。

  数日前、俺の秘密が蛍太にバレた。

  今日は、蛍太の秘密を見せられた。

  そして今度は、俺の中にある何かが、外側に引きずり出されようとしている。

  ミツ姉が言う。

  「カラーは、その人に似合う姿を選びます。こちらが指定するわけではありません」

  「似合う姿って、何を基準に」

  ミツ姉は少し考えてから、あっさり言った。

  「かなり雑に言うと、本質です」

  「雑に言わないでください。怖いんで」

  ノクスさんが眠そうに言う。

  「本質、楽しみだね」

  「楽しみにしないでください」

  蛍太は、黙って俺を見ていた。

  三色の耳。しなやかな尻尾。ゆるいパーカーの中に収まった、さっきまでとは違う身体。顔は赤いままで、でも目だけは真剣だった。

  俺が逃げ道をなくすくらいには、蛍太の表情は必死さがにじみ出ていた。

  カラーを受け取る。

  手のひらに乗ったそれは、思ったより軽かった。

  それなのに、やけに重いものを渡された気がした。

  心の中で叫ぶ。

  本質とか言うな。

  本当にやめろ。

  でも俺の手は、もうカラーを握っていた。

  [newpage]

  では、と小さな声をかけながらミツ姉が奥の通路へ視線を向けた瞬間、店の空気がほんの少しだけ変わった気がした。

  受付のある明るいフロアは、まだ喫茶店の顔をしていた。白とクリーム色の壁、丸いテーブル、柔らかい照明、カップの並んだ棚。そこに獣人の姿がいくつも混ざっている時点で普通の店とは言い難いが、それでもまだ、表に向けた顔という感じがあった。

  けれど奥の通路は違う。

  カーテンの向こうは、明らかに空気の密度が濃かった。照明が落ちていて、何かただならぬ空気が漂っている。

  かわいらしい店内にあって、まるでそこだけ違う種類の店みたいだ。

  ミツ姉は、俺の手元にあるカラーを一度見てから言った。

  「初回は奥の部屋にしましょう。ここだと倒れた時に危ないですし、声も響きます」

  「声?」

  反射で聞き返してから、すぐに後悔した。

  ミツ姉の顔は落ち着いていた。狐の耳がゆるく立っていて、白衣の袖口から覗く手は、さっきと同じように冷静に端末を持っている。言っていることはまともだ。安全確認。初回対応。そういう話のはずだ。

  なのに、声という単語だけが妙な熱を持って、俺の頭の中に残った。

  「初回はかなり声が出る人が多いんです。身体の輪郭を作り替える感覚なので、刺激として強く出ます」

  「刺激」

  「はい。まあ有り体に言うと、性的快楽」

  逃げ道を塞ぐみたいな言い方だった。いや、ミツ姉は何も隠していないだけだ。むしろ親切だと思う。たぶん。危険性を説明してくれている。起こりうる反応を事前に伝えてくれている。

  それでも、俺の脳が勝手に余計な方向へ転がった。

  さっきの蛍太を思い出してしまう。

  カラーをつけた首元。震えた肩。髪の間から立ち上がった耳。パーカーの裾を持ち上げて逃げるように出てきた尻尾。ノクスさんにからかわれながら、今さら出ちゃうぐらい感じたりしない、と言った蛍太の赤い顔。

  慣れているはずの蛍太でさえ、ああだった。

  俺は初めてだ。

  それを、蛍太の前でやる。

  考えた瞬間、手の中のカラーがやけに重くなった。軽いはずなのに、掌に沈み込んでくる。冷たいわけでも熱いわけでもないのに、触れている皮膚の奥だけが妙に敏感になっていく。

  受付からノクスさんの眠そうな声が飛んできた。

  「ケイくんも最初すごかったよ」

  蛍太の三色の耳がぴんと立った。

  「ノクスさん」

  「今は慣れてるから我慢できるけど」

  「ほんと黙ってください」

  ノクスさんは悪びれた様子もなく、尻尾を抱え直した。太い尻尾の毛並みが指に沈むのが、遠目にも分かる。さっき、ぎゅーってするか聞いてきた相手だ。あの毛並みの感触を想像しそうになって、慌てて思考を引き戻す。

  今は、それどころじゃない。

  俺の心中を察してか、ミツ姉が軽く咳払いをした。

  「ノクスくん、情報としては間違っていませんが、言い方を選びましょうね」

  「はーい」

  「千尋くん、怖がらせたいわけではありません。ただ、初回は服を脱いだ方が安全です」

  「……はい?」

  今度は本当に変な声が出た。

  蛍太がちらっと俺を見る。三色の耳が少し伏せて、尻尾の先が落ち着きなく揺れた。お前まで気まずそうな顔をするな。こっちまで余計に気まずくなる。

  「服を、脱ぐ?」

  「はい。カラーは身体を変えますが、衣服までは変えられません。蛍太くんのように慣れていれば、服を着たままでもある程度調整できます。ただ、初回は体格や尻尾の位置、毛並みの出方を予測しづらい。締め付けや引っかかりがあると危険です」

  言っていることは分かる。理屈は分かる。

  蛍太はさっき、パーカーとパンツのまま変わった。そのせいで服が少し余っていて、猫の耳と尻尾がある姿なのに、大学帰りみたいな私服のままだった。それが妙に生々しかったのを覚えている。

  でも、だからといって俺が脱ぐ話になるとは思わないだろ。

  「いや、でも、下着くらいは」

  「尻尾の出る位置に干渉します」

  ミツ姉の返事は早かった。

  「干渉」

  「はい。特に犬科や猫科などの尾は、腰の動きに強く連動します。下着のゴムがあると、初回では不快感が出やすいです」

  「俺が犬とか猫になる前提で話進んでません?」

  「何になるかは分かりません。ですが、動物の性質上、尾が出る可能性は高いです」

  ノクスさんがぼそっと言う。

  「尻尾なしだと寂しいしね」

  「そういう問題ですか」

  「大事だよ」

  真面目な顔で言うな。

  俺は蛍太を見た。

  蛍太は、俺と目が合うと少しだけ気まずそうに笑った。

  「俺も、初回なら脱いだ方がいいと思う」

  「お前は着たままだっただろ」

  「俺は慣れてるから」

  「その慣れてるからって言い方、今日一日で嫌いになりそう」

  「ごめんって」

  蛍太は謝りながら、でも視線を逸らさなかった。そこが腹立たしい。軽く流してくれた方がまだ楽なのに、今の蛍太はやけに真面目だ。三色の耳も尻尾も生えたまま、俺のことをちゃんと見ている。

  そして、ちゃんと見られると、逃げ場がない。

  ミツ姉が奥の扉を開けた。

  「部屋で改めて説明します。もちろん、嫌ならここでやめても構いません」

  やめてもいい。

  何度もそう言われている。

  たぶん本当に、やめてもいいのだろう。ミツ姉はそういう線引きを曖昧にする人ではなさそうだ。ノクスさんは距離が近すぎるが、嫌がっている相手に無理をする感じではない。蛍太も、さっきから何度も無理ならいいと言っている。

  だからこそ、俺はやめられなかった。

  強制されていないから、言い訳ができない。

  ここまで来たのは自分だ。蛍太に誘われたから。秘密を知られたから。店を見てしまったから。蛍太が変わるところを見てしまったから。蛍太が、俺を見たいと言ったから。

  全部、本当だ。

  でも、最後に頷くのは俺だ。

  「……行くだけ行く」

  絞り出すように言うと、蛍太の耳が少し持ち上がった。

  それを見てしまったせいで、胸の鼓動がまた変になる。

  ノクスさんが尻尾を抱いたまま手を振った。

  「がんばって」

  「何をですか」

  「いろいろ」

  そのいろいろが怖いんだよ。

  奥の部屋は、フロアよりずっと静かだった。

  ミツ姉が扉を開けると、柔らかい照明が床にこぼれた。中は思っていたより広い。壁は淡いベージュで、防音材を兼ねているのか、布張りのパネルがいくつも並んでいる。中央には大きめのベッドがあった。ホテルのベッドというより、撮影スタジオや休憩室に置かれているような、低くて広いもの。シーツは白く、毛足の短いラグが足元に敷かれている。

  低いテーブルには水のボトルとグラス。棚にはタオル、ブランケット、毛並み用らしいブラシ、消毒用品。露骨なものは見えない。見えないのに、ここがただの休憩室ではないことは一瞬で分かった。

  空気が違う。

  ”そういうことをする”ための部屋だ。

  話すためだけではない。触れるため。絡むため。普通の距離ではできないことをするための部屋。

  俺の喉がひとつ、意思に反して勝手に鳴った。

  「ここ、普段何に使ってるんですか」

  聞かない方がいいと思ったのに、口が勝手に聞いていた。

  蛍太が困った顔をする。

  「まあ、いろいろ」

  「そのいろいろが一番怖いって、さっきから言ってる」

  扉の外からノクスさんの声がした。

  「えっちなことだよ~」

  「ノクスさん!」

  蛍太の声が裏返りかけた。

  ミツ姉は、少し笑ってから淡々と補足した。

  「まあ、否定はしませんよ。えっちなことをする部屋です。そういうサービスもありますので」

  「そんなこと、今から辞めるって言うかもしれない人にいって大丈夫なんですか?」

  「必要ですので」

  必要かもしれないけど、心の準備には悪い。

  ミツ姉は部屋の入口付近にある小さなパネルを指した。

  「緊急時はこのボタンを押してください。蛍太くんでも解除操作はできますが、何かあればすぐに私が入ります。とはいえ、基本的には外で待機します。初回ですから、あまり人数がいると落ち着かないでしょう」

  その通りだった。

  ノクスさんがいたら、たぶん俺は死ぬ。あの人は悪気なく核心を刺してくる。

  ミツ姉は冷静すぎて、こっちの羞恥を医学的に観察されそうで怖い。

  でも、蛍太と二人きりなら落ち着くかと言われると、それも違う。

  むしろ、蛍太と二人きりだから、落ち着かない。

  ミツ姉は蛍太に視線を向けた。

  「蛍太くん」

  「はい」

  「君が同席するなら、責任を持ってください。見たい気持ち、触れたい気持ちだけで先走らないこと」

  蛍太の顔が、すっと真面目になった。

  三色の耳も、尻尾も、さっきまでより静かになる。

  「分かってます」

  それは、蛍太にしては珍しく、軽くない真面目な声だった。

  俺はその横顔を見る。

  その一言だけで、少し安心してしまう自分が嫌だった。蛍太がちゃんとしている時の声を、俺は知っている。普段は軽い。ふざける。距離も近い。でも、本当に大事なところでは、変に逃げない。

  そういうところを、俺は友達として好きだった。

  いや。

  今の好きという単語は違う。たぶん違う。そういう話ではない。

  でも、もうノクスさんの言葉が頭から消えない。

  好きな人の前でも?

  あれは蛍太に向けた言葉だった。

  蛍太ははっきり否定しなかった。

  好きな人。

  その言葉が、奥の部屋の静けさの中で、何度も俺の耳の奥を叩いた。

  ミツ姉は最後に俺へ向き直る。

  「千尋くん。嫌になったら、そこで終わりです。反応が出ても、恥ずかしがりすぎる必要はありません。カラーはそういうものです」

  「恥ずかしがるなって方が無理です」

  「はい。なので、恥ずかしがっても構いません。ただ、無理に動いて怪我をしないようにしてください」

  ミツ姉の忠告は妙に現実的だった。

  俺が小さく頷くと、ミツ姉は満足そうに頷き返した。

  「では、あとは二人で。ノクスくん、行きますよ」

  「はーい。ケイくん、がんばって」

  「ノクスさん、ほんと余計なこと言わないでください」

  「千尋くんも、がんばって」

  「何をですか」

  ノクスさんは眠そうに首を傾げた。

  「本質?」

  「重い」

  扉が閉まる。

  ミツ姉とノクスさんの気配が遠ざかり、部屋には俺と蛍太だけが残った。

  部屋は静かだった。

  防音の部屋というのは、こんなにも音が減るものなのか。フロアにいた時に聞こえていた空調の音や、食器の微かな響きや、ノクスさんの尻尾が椅子に触れる音が消える。そのかわりに、蛍太の呼吸が近くなる。自分の喉が鳴る音が、やけに大きく感じる。

  三色の耳。長くしなやかな尻尾。少し華奢になった身体。だが服はパーカーとパンツのまま。さっきまで一緒に店へ来た時の格好のまま、中身だけが変わっている。そのちぐはぐさが、今さらながら妙に艶っぽかった。

  俺はカラーを握ったまま、部屋の真ん中で立ち尽くした。

  「……で」

  先に口を開いたのは俺だった。

  「本当に脱ぐのか」

  蛍太は困ったように笑った。

  「初回なら、その方がいいと思う」

  「思う、じゃなくて」

  「ごめん。いいと思うじゃなくて、その方が安全」

  「安全って言葉で押し切ろうとするな」

  「でも本当に安全の話なんだよ」

  蛍太の耳が少し伏せる。ふざけている感じではなかった。だから余計に、こっちが駄々をこねているみたいになる。

  「千尋、無理ならやめていいよ」

  またそれだ。

  やめていい。

  帰っていい。

  嫌ならしなくていい。

  何度も逃げ道を出されるたびに、逆に俺の足元がふわふわする。

  逃げ道があるのに逃げないなら、それは俺がここにいたいということになる。

  その結論だけは、まだ認めたくなかった。

  「ここまで来てやめたら、負けた気がする」

  「何と戦ってるの」

  「俺の常識」

  蛍太は少し笑った。

  「たぶんもう負けてるよ」

  「うるさい」

  その軽いやり取りで、ほんの少しだけ息ができるようになった。

  だが、次の問題は何も解決していない。

  脱ぐ。

  その単語が部屋の中央に落ちている。拾いたくないのに、避けて通れない。

  俺は蛍太を見た。

  「俺だけ裸なの、普通に嫌なんだけど」

  言ってから、子どもみたいな文句だと思った。けれど本音だった。蛍太が服を着たままで、自分だけ裸になってカラーをつける。そんなの、どう考えても不公平だ。いや、公平とか不公平とかの問題ではない。単純に耐えられない。

  蛍太は少し黙った。

  猫の耳が揺れる。尻尾が、考え込むみたいにゆっくり床の上を撫でた。

  それから、思い切ったように言った。

  「じゃあ、俺も脱ぐ」

  「は?」

  間抜けな声が出た。

  蛍太は、言ってから自分でも恥ずかしくなったのか、視線を逸らした。

  「千尋だけ裸にするの、俺も嫌だから」

  「いや、それはそれでおかしいだろ」

  「でも、その方が少しは平等じゃない?」

  「平等の概念が壊れてる」

  「それに、俺もこのままだとちょっと動きづらい。さっき服着たまま変わったから、サイズ合ってないし」

  確かに、蛍太のパーカーは少し肩から落ちそうになっていた。パンツも腰で少し余っていて、さっきから時々片手で押さえている。尻尾が出ているせいで、服の後ろも変に引っ張られていた。

  理由はある。

  あるけど、蛍太が脱ぐ理由として採用していいのか分からない。

  「俺、千尋に見られるのは怖いけど、隠したいわけじゃないから」

  その言葉が、部屋の湿った静けさに溶けた。

  俺は何も言えなくなる。

  見られるのは怖いけど、隠したいわけじゃない。

  それはたぶん、蛍太がこの店でずっとやってきたことに近いのだろう。好きな姿になる。見てもらう。触れてもらう。自分の内側にあったものを隠さずに形にする。

  俺にはまだ、その感覚が分からない。

  でも、分からないなりに、蛍太が今、俺と同じ高さに降りようとしてくれているのは分かった。

  蛍太はパーカーの裾に手をかけた。

  「見るなよ」

  「お前が言うのかよ」

  「言うよ。恥ずかしいものは恥ずかしいし」

  「俺もこれから脱ぐんだけど」

  「じゃあお互い様」

  「何も解決してない」

  軽口を叩きながらも、蛍太の指先は少し震えていた。

  パーカーが持ち上がる。猫の耳が邪魔にならないよう、蛍太は少し器用に頭を傾けて布を抜いた。三色の耳が一度押しつぶされ、すぐにぴょこんと戻る。その仕草があまりにも自然で、俺は笑いそうになったのに、次の瞬間には笑えなくなった。

  蛍太の上半身が見えた。

  華奢だった。でも、女の身体ではない。胸は平らで、肩も腕も男の骨格をしている。ただ、人間の時よりずっとしなやかで、薄い毛並みが首筋から肩、脇腹にかけて淡く続いていた。白と茶と黒が混ざる毛の流れが、肌の上に模様みたいに馴染んでいる。腰のあたりは細く、背中から伸びた尻尾がゆっくり揺れた。

  見ないようにしようと思っていた。

  でも、見てしまう。

  蛍太がこっちを見る。

  「見てる」

  「見てない」

  「無理あるよ」

  「お前も見るだろ、どうせ」

  「見たいよ、千尋の裸」

  即答だった。

  あまりにも正直な告白に、俺の顔がかっと熱くなる。

  「そこは否定しろよ」

  「嘘つくの、今は嫌だから」

  蛍太は、そう言ってパンツに手をかける。

  それを見て、今度こそ俺は顔を逸らした。

  布が擦れる音だけが聞こえる。防音の部屋は、こういう細かい音まで拾う。拾われてしまう。

  蛍太の、ふうと吹いた息。尻尾がシーツに触れる音。脱いだ服が床に落ちる音。

  見ていない。

  見ていないのに、想像できてしまう。

  カラーで変わった蛍太の身体。三色の毛並み。腰。尻尾。細い脚。男の身体であること。

  頭の中がぐわんぐわんとうねって、気分は最悪だった。

  「千尋も」

  蛍太の声がした。普段より少し柔らかい声。猫の姿になってから、声色まで少し変わって聞こえる。

  俺は、まだ蛍太を見ないまま言った。

  「急かすなよ」

  「急かしてない」

  「急かしてる声だったの」

  「千尋が逃げそうだから」

  「逃げない」

  「ほんと?」

  「……たぶん」

  俺の自信なさげなか細い声に、蛍太は小さく笑った。

  その笑い声に背中を押されるように、シャツの裾を掴む。脱ぎ慣れた服のはずなのに、指がうまく動かない。布が肌から離れていくたびに、部屋の空気が直接身体に触れる。普段なら何でもない動作が、蛍太が同じ部屋にいるだけで別の意味を持ってしまう。

  シャツを脱いだ時点で、もう戻れない感じがした。

  ズボンに手をかけると、さらに心臓がうるさくなる。

  その時になって、自分の身体の反応を強く認識させられた。

  股間の俺自身は、もう、どうしようもなく反応していた。

  理由は分かる。分かりたくないだけだ。蛍太の変身を見た。蛍太が目の前で脱いだ。ノクスさんの好きな人という言葉が頭に残っている。これから裸でカラーをつける。蛍太が見たいと言った。

  それだけ揃って、平気でいられるほど俺はできた人間ではなかった。

  でも、だからといって、こんなにはっきり反応しなくてもいいだろう。

  俺はズボンを脱ぐ手を止めた。

  「……蛍太」

  「何?」

  「見たら殺す」

  「知ってる? ケモノの身体だとね、においで全部わかっちゃうの」

  言われた瞬間、俺の全身が熱くなった。

  蛍太は俺のモノを見ていない。たぶん視線は逸らしている。

  けれど耳は俺の音を拾っている。鼻は俺のにおいを嗅いでいる。服を脱ぐ音。呼吸。動揺。男の欲望。全部。

  最悪だ。

  でも、妙に興奮した。それが余計に最悪だ。

  奥歯を噛みしめながらズボンを脱いだ。下着だけ残して、しばらく動けなくなる。蛍太も黙っていた。沈黙が、逆にうるさい。

  「パンツもだよ」

  蛍太が小さく言った。

  「分かってる」

  「無理なら」

  「分かってるって」

  声が少し荒くなった。

  蛍太はそれ以上言わなかった。

  俺は、息を吸って、吐いた。

  下着を下ろす。

  一瞬、空気が肌に触れる感覚が変わった。

  自分の身体を隠すものがなくなる。裸になる。文字にすればそれだけなのに、ここがどんな部屋か、目の前に誰がいるか、これから何をするのかで、意味がまったく違ってしまう。

  ベッドの端に置かれたブランケットを掴んで、反射的に前を隠した。

  それから、恐る恐る蛍太を見た。

  蛍太も裸だった。

  三色の耳を伏せて、尻尾を落ち着きなく揺らしながら、俺と同じように少し身を固くしている。細くてしなやかな身体。薄い毛並み。男の身体。その視線が、俺の顔を見ようとして、でもどうしても下へ落ちそうになって、慌てて戻ってくる。

  その一瞬だけで、分かってしまった。

  蛍太も勃っている。

  俺たちは、ほとんど同時に目を逸らした。

  沈黙。

  部屋の中で、互いの呼吸だけが重なる。

  先に耐えられなくなったのは俺だった。

  「……見なかったことにしろ」

  蛍太の声が、少し遅れて返ってくる。

  「無理だよ、そんなの」

  顔が熱い。

  もう、どうしようもなく熱い。

  さっきまで、俺たちは友達だったはずだ。大学の友達。ゲームをする友達。くだらない話をする友達。部屋でだらだらする友達。

  なのに今は、獣の耳と尻尾を持った蛍太と、裸で向かい合っている。

  しかも二人とも、相手に反応していることを知ってしまった。

  何か言わなければと思うのに、言葉が出ない。

  俺がひるんでいるのを察したように、蛍太が先に口を開いた。

  「千尋」

  さっきまでより低い声だった。柔らかいのに、軽くない。

  顔を上げられなかった。これから何を言われるのか、なんとなくわかってしまったから。

  「何」

  「ノクスさんが言ってたやつ」

  心臓が止まりかけた。

  『好きな人の前でも』

  あの言葉が、また頭の中で鳴る。

  「……どれ」

  分かっているのに、とぼけた。

  蛍太は少し笑った。でも、笑い声は震えていた。

  「好きな人ってやつ」

  逃げ道が、一瞬でふさがれる。

  それでもまだ何かにすがろうとして、ブランケットを握る手に力を込めた。

  布の端が指に食い込む。カラーはベッドの上、俺と蛍太の間に置かれている。黒く滑らかな輪が、何も言わずにこちらを待っている。

  蛍太は、三色の耳を伏せたまま続けた。

  「あれ、嘘じゃない」

  俺は何も言えなかった。

  「好きな人って、千尋のことだよ」

  部屋の空気が、さらに重くなる。

  重いのに、苦しくはない。むしろ、胸の奥に熱が落ちていく。

  怖い。嬉しい。違う。分からない。いろんな感情が、一度に喉まで上がってきて、どれも言葉にならない。

  蛍太は、そこで逃げなかった。

  「ずっと前から好きだった。友達としても好きだけど、それだけじゃ足りないくらい好きだった」

  耳が伏せている。尻尾が不安そうに揺れている。裸で、どうしようもないくらい勃起しながら、それでも蛍太はこっちを見ている。

  見ないでほしい。

  でも、目を逸らされたくない。

  「俺の趣味の話、千尋は笑わなかったじゃん。女装の話も、ケモノの絵の話も、たぶん変だって、頭おかしいって思うようなことばっかりなのに、千尋はいつも、ふうんって聞いてくれた」

  「それは」

  「それが嬉しかったの」

  蛍太の声が、少しだけ掠れた。

  「可愛いって言われることはあった。変わってるねって言われることもあった。でも、千尋は俺を普通に友達として見てくれた。だから、もっと見てほしくなった」

  息ができない。

  蛍太の言葉は、俺が思っていたよりずっと深いところから来ていた。

  俺は今まで何も考えていなかった。蛍太が楽しそうに趣味の話をするから、楽しそうでいいなと思っていただけだ。否定する理由がないから、否定しなかっただけだ。特別なことをしたつもりなんてなかった。

  でも蛍太にとっては、それが特別だったのだと、今になって知らされる。

  「今日ここに連れてきたのも、店に向いてると思ったからだけじゃない。千尋に見てほしかった。俺が大事にしてる場所も、俺がこうなることも」

  蛍太の喉が小さく動く。

  「それで、できれば。千尋がどんな姿になるのかも、俺が見たかったんだ」

  俺は、ようやく顔を上げた。

  蛍太と目が合う。

  三色の耳。赤い顔。真剣な目。尻尾が落ち着かなく揺れている。裸で、どうしようもなく近い状態なのに、その視線は茶化しではなかった。

  欲がある。

  それは分かる。

  でも、それだけではないのは、ありありと伝わった。

  「でも、嫌なら見ない。触らない。外に出る」

  蛍太は言った。

  「千尋のこと、ほんとに好きだから、無理にはしたくない」

  その言葉で、何かが決壊しそうになった。

  俺はずっと、蛍太に流されてここまで来たのだと思っていた。性癖がバレて、店に誘われて、変身を見せられて、カラーを渡されて、奥の部屋まで来た。

  蛍太が押すから。店がすごいから。状況が変だから。

  でも、蛍太は今、外に出ると言った。

  俺が嫌なら見ないと言った。

  触らないと言った。

  そこで、ようやく分かってしまった。

  俺は、蛍太に見られるのが怖い。

  でも、蛍太が外に出るのは嫌だった。

  その感情は、俺の中でまだ名前がついていなかった。好き、なんて言えない。まだ分からない。混乱しているだけかもしれない。裸で向かい合っているせいかもしれない。カラーを前にして興奮しているだけかもしれない。

  でも、嫌じゃない。

  むしろ、いてほしい。

  それだけは、どう誤魔化しても残った。

  「……外に、出るな。ここにいろ」

  絞り出した声は、思ったより頼りなく、小さく響いた。

  蛍太の耳が、ぴくんと揺れる。

  「いいの?」

  「見たいって言ったの、お前だろ」

  言いながら、顔が燃えるように熱くなった。

  何を言っているんだ。これはもう、許可じゃないか。蛍太が俺を見ることを、俺が許したみたいじゃないか。

  いや、許したのだ。

  蛍太の目が、少しだけ潤んだように見えた。

  「うん」

  その返事があまりに嬉しそうで、俺はまた、少しだけ逃げたくなった。

  でも、もう逃げることはできなかった。

  蛍太がベッドの方を見る。

  「体勢、どうする?」

  「どうするって」

  「立ったままだと危ない。座ると、尻尾が出る位置がちょっと怖い。仰向けも背中が圧迫されるし、うつ伏せだと顔が見えない」

  「顔が見えないのは問題なのか」

  「俺が不安」

  「お前の不安かよ」

  「千尋の顔が見えないと、止め時が分からないし」

  そう言われると、反論しづらい。

  蛍太はベッドの上に視線を落としたまま、少し照れたように続けた。

  「向かい合って、俺が支えるのがいいと思う。膝立ちに近い体勢で、でも倒れそうならそのまま抱えられるように」

  「それ、ただ抱き合ってるだけじゃないのか」

  蛍太の耳が赤くなった気がした。

  「……そうとも言う」

  「言うな」

  「でも理由はあるよ。背中と腰を圧迫しないし、尻尾が出ても逃げ場がある。千尋の顔も見える。息が苦しそうならすぐ分かる」

  理屈はあった。

  ありすぎるくらいあった。

  だから余計に困った。

  安全のため。初回だから。尻尾のため。呼吸確認のため。

  そんな理由を並べられると、裸で抱き合うという現実が、ぎりぎり許されるものみたいに見えてくる。

  俺はブランケットを握ったまま、ベッドを見た。

  白いシーツ。

  柔らかそうなマットレス。

  ここは普段、えっちな接客に使う部屋だとミツ姉は言った。

  そのベッドの上で、これから蛍太と向かい合って抱き合う。

  友達だったはずの相手と。

  俺を好きだと言った相手と。

  俺が、外に出るなと言った相手と。

  「……変なことするなよ」

  最後の抵抗みたいに言うと、蛍太は真面目に頷いた。

  「千尋が嫌がることは、しないよ」

  その言葉が、今日何度目か分からないくらい俺の胸にぽつんと落ちた。

  ベッドに上がる。

  布が膝の下で沈む。柔らかすぎて、少し体勢が不安定になる。蛍太が先に膝をつき、俺も向かい合う形で座った。座るというより、膝立ちに近い。互いの距離をどう取ればいいか分からず、最初は変に離れていた。

  だが、それでは支えるも何もない。

  蛍太が、ゆっくり手を伸ばした。

  「触るよ」

  「いちいち言うな」

  「言うよ」

  蛍太の手が、俺の背中に回る。

  指先が肌に触れた瞬間、全身が跳ねそうになった。

  熱い。いや、蛍太の手は別に熱くない。なのに、触れられた場所だけがやけに敏感だった。裸だからか。状況のせいか。蛍太が好きだと言ったあとだからか。

  たぶん、全部だ。

  俺もバランスを取るために、蛍太の肩に手を置いた。

  毛並みの感触があった。

  薄く柔らかい。肩から首にかけて、三色の毛が肌に馴染んでいる。指先がそれに沈んで、俺は思わず息を止めた。

  蛍太の身体が少し震える。

  「くすぐったい?」

  「……ちょっと」

  声が近い。

  顔も近い。

  蛍太の耳が、俺の呼吸に反応するみたいにぴくりと動く。尻尾が背後でゆっくり揺れる。その動きに合わせて、身体がわずかに近づいた。

  そこで、互いのモノが触れた。

  ほんの少し。

  意図したわけではない。ベッドが沈んで、支え合う腕に力が入って、身体が前へ寄っただけだ。

  それだけだった。

  けれど、反応はどうしようもなく鋭かった。

  俺の口から、変な息が漏れた。

  蛍太も、小さく声を詰まらせた。

  一瞬、二人とも完全に止まる。

  目が合う。

  視線が逃げる。

  また合う。

  俺は、喉の奥から声を絞り出した。

  「今のなし」

  蛍太は、赤い顔で首を横に振った。

  「無理があるよ」

  「なしだって」

  「うん。じゃあ、なし」

  蛍太はそう言った。でも、声が全然なしにできていなかった。

  俺も分かっていた。

  なしになんてならない。

  その感触はもう身体に残っている。忘れようとしても、同じ体勢で密着している限り、また触れる。カラーをつけて身体が変われば、もっと触れるかもしれない。変化のたびに動いて、震えて、擦れてしまうかもしれない。

  それを分かったうえで、俺はまだ逃げなかった。

  蛍太がベッドの上に置かれていたカラーを手に取った。

  黒く滑らかな輪が、蛍太の指の中で淡く光る。

  俺の首元が、まだ触れられていないのに震えた気がした。

  蛍太が近づく。

  「つけるよ」

  「……ん」

  返事にならない声が出た。

  蛍太の指が、首筋に触れる。さっきまでとは違う、細い接触。カラーを回すために、髪や肌に触れる指先。くすぐったいのに逃げられない。逃げたら、もっとおかしなところに触れそうで、かえって動けなかった。

  蛍太の顔が近い。三色の耳が、俺の視界の端で震える。

  「嫌なら、すぐ言って」

  「分かってる」

  「本当に」

  「何回も言うな」

  「心配なんだよ」

  その声が、まっすぐすぎて困る。

  俺は顔を逸らした。

  「……今そういう優しい声出すな」

  蛍太の手が、首元で止まった。

  「ごめん」

  「謝るな。もっと困る」

  「じゃあ、どうしたらいい?」

  そんなことを聞くな。

  俺が知りたい。

  どうしたらいいのか、俺の方が知りたい。

  蛍太が俺を好きだと言った。俺は外に出るなと言った。裸で抱き合って、これから俺は、蛍太の前で身体を変えられる。

  気持ちよくなるかもしれない。声を出すかもしれない。尻尾や耳が生えて、俺の知らない姿になる。

  怖い。

  でも、蛍太の腕の中にいると、その怖さの底に別の熱が混じる。

  「そのまま」

  俺は、小さく言った。

  「そのまま、いてくれればいい」

  蛍太の呼吸が止まった。

  ほんの一瞬だった。

  それから、蛍太は静かに笑った気がした。視界を逸らしていたから、顔は見えない。でも耳が少しだけ立ち、尻尾がゆっくり揺れたのが分かった。

  「うん」

  カラーが首に回される。

  肌に触れた感触は、思ったより冷たくなかった。蛍太の指の温度が移っていたのかもしれない。滑らかな内側が首に沿い、喉仏の下を通って、後ろで合わさる。

  蛍太の指が、留め具に触れる。

  「千尋」

  「何」

  「好きだよ」

  心臓が、馬鹿みたいに跳ねた。

  「……今それ言うな」

  「今だから言ってるの」

  カチリ、と音がして、カラーが閉じた。

  その音は小さかったはずなのに、やけに深く響いた。首の後ろで留め具が噛み合っただけの音だ。それなのに、部屋の空気がそこで一度止まったみたいに感じた。

  蛍太の腕が、俺の背中に回っている。

  俺の手は、蛍太の肩に置かれている。

  裸の肌と、蛍太の薄い毛並みが触れ合っていた。三色の毛が指の腹に絡む。柔らかくて、温かくて、少しだけくすぐったい。人間の肌に触れているのとは違う。けれど獣に触れているのとも違う。蛍太という人間が、そのまま別の輪郭を持ったみたいな感触。

  胸の前に蛍太がいる。

  目の前に、三色の耳がある。

  その耳が、俺の呼吸に合わせるように小さく揺れている。

  「千尋」

  蛍太が、近い距離で俺の名前を呼んだ。

  俺の首に巻かれたカラーの内側が、ふっと熱を持つ。

  「っ」

  喉が詰まった。

  痛みではなかった。

  熱い、とも違う。首輪の内側から、薄い指が肌の下へ入ってくるような感覚。皮膚を撫でられているわけではないのに、皮膚の下にある自分の形をなぞられている。骨でも、血管でも、筋肉でもなく、もっと曖昧な、自分という輪郭そのもの。

  それが、首から肩へ、胸へ、背中へ、腹へと、ゆっくり広がった。

  「大丈夫?」

  蛍太の声が近い。

  俺は頷こうとした。

  でも首を動かした瞬間、カラーが肌に擦れて、ぞくりとしたものが背筋を走った。

  「だい、じょうぶ」

  声が震えた。

  嘘だった。

  全然、大丈夫ではない。

  蛍太の時は、見ているだけだった。見ているだけなのに、あんなに落ち着かなかった。耳が生えるところも、尻尾が出るところも、蛍太が気持ちよさそうに息を漏らすところも、全部やばかった。

  でも、自分の身体で起きると、話が違った。

  見ていた時には分からなかった。

  これは、身体の外から変わっているんじゃない。

  内側から、自分を組み直されている。

  「っ、は、あ……」

  息が漏れた。

  自分の声とは思えないほど、情けない音だった。

  蛍太の腕に力が入る。

  「無理しないで。俺に体重かけていいから」

  「そういう、言い方……」

  文句を言おうとしたのに、途中で言葉が崩れた。

  首の熱が、頭の奥へ上がっていく。

  最初に変わったのは、耳だった。

  こめかみの奥が、ずきんと脈打つ。いや、痛くはない。痛みではない。熱い指で、頭の皮膚を内側から引き上げられているような感覚。今まで耳があった場所とは違う。もっと上。髪の中。そこに、何かが芽吹く。

  「っ、ん、なに、これ……!」

  俺は蛍太の肩を掴んだ。蛍太の身体がびくっと震える。

  俺の指が、蛍太の肩の毛並みを掴んでいた。柔らかい毛が指に絡む。その感触にすら、身体が反応する。変なところへ神経が伸びているみたいに、何もかもが近い。

  頭の上で、何かが持ち上がった。

  髪が押し分けられる。皮膚が引かれる。新しい骨のようなものが、柔らかく形を作っていく。根元から先端へ向かって、熱が走る。その熱を追いかけるように、薄い毛が生えていくのが分かった。

  耳。

  俺の耳じゃない。

  いや、俺の耳だ。

  その瞬間、世界の音が変わった。

  さっきまで部屋の中には、俺と蛍太の呼吸しかなかった。けれど今は、もっと細かい音が流れ込んでくる。シーツが沈む音。蛍太の尻尾がベッドの上を擦る音。蛍太の喉が小さく動く音。扉の向こうの遠い気配。空調の低い振動。

  全部が近い。近すぎる。

  「っ、うるさ……」

  思わず呟くと、蛍太が俺の頭の上を見た。

  その目が、少しだけ見開かれる。

  「耳、出てきたね」

  言わなくていい。

  言われなくても分かる。

  頭の上に、新しい感覚がある。そこへ空気が触れている。蛍太の声に合わせて、その耳が勝手に向きを変える。蛍太の呼吸を拾おうとしてしまう。

  それが恥ずかしかった。

  耳が、蛍太を探している。

  俺が意識するより先に、身体が蛍太の方を向いてしまう。

  「見るな」

  「見たい」

  「今、それ言うな」

  「ごめん。でも、すごい」

  蛍太の声が、熱を帯びていた。

  ただ珍しいものを見ている声ではなかった。俺が変わっていくのに、本当に見惚れている声だった。

  その声を聞いた瞬間、頭の上の耳がぴんと立った。

  自分の意思ではない。

  勝手に反応した。

  蛍太が息を呑む。

  「千尋、耳、俺の声で動いてる」

  「言うな……!」

  顔が熱くなる。

  その熱に反応するみたいに、次の変化が来た。

  胸元から腹へ、肌の上をざわざわと何かが走る。

  鳥肌とは違う。もっと濃い。もっと柔らかい。皮膚の表面を、小さな毛が押し上げていく感覚。最初は薄い産毛のようだった。それが首筋から肩、胸、腕へ広がっていく。腹を撫で下ろすように、太腿の方へも流れていく。

  「っ、や、これ……」

  くすぐったい。

  気持ちいい。

  気持ち悪いくらい気持ちいい。

  身体の表面が、知らない柔らかさで満たされていく。蛍太と触れているところでは、その変化が余計にはっきり分かった。裸の肌同士だったはずの場所に、俺の毛が生えていく。蛍太の薄い毛並みと、俺の新しい毛並みが擦れ合う。

  ふわり、と匂いが変わった。

  それは、視覚よりも先に俺を殴った。

  「っ、何だ、これ」

  鼻の奥が熱くなる。

  さっきまでの部屋の匂いは、リネンと甘い香りと、蛍太の毛並みの匂いが混ざったものだった。けれど今、それが急に深くなった。空気が濃くなる。布の匂い。蛍太の汗の匂い。カラーの金属とも革ともつかない匂い。自分の身体から立ち上がる、知らない獣の匂い。

  生々しい。

  甘いだけじゃない。少し土っぽくて、温かくて、毛皮の奥にこもる体温みたいな匂い。

  それが、俺から出ている。

  そう分かった瞬間、恥ずかしさで頭が真っ白になりかけた。

  「におい、する……?」

  声が勝手に出た。

  蛍太は一瞬だけ言葉に詰まった。

  その沈黙だけで、答えが分かった。

  「するんだな」

  「……うん」

  蛍太の声が、やけに掠れていた。

  「でも、嫌じゃない。全然」

  「そういう問題じゃ……っ」

  言葉が途切れる。

  蛍太が、俺の首筋に顔を近づけたからだ。

  近い。

  鼻先が、俺の新しく生えた毛並みに触れそうになる。

  「やめろ、嗅ぐな」

  「ごめん」

  謝るのに、離れない。

  蛍太の三色の耳が伏せている。尻尾が震えている。蛍太自身も、俺の変化に煽られているのが分かった。俺の匂いを感じて、蛍太の呼吸が変わっている。

  それを俺の新しい耳が拾ってしまう。

  俺の新しい鼻が、蛍太の興奮を嗅ぎ取ってしまう。

  「蛍太、近い、っ……」

  「離れた方がいい?」

  その問いに、すぐ答えられなかった。

  離れてほしい。

  離れないでほしい。

  どっちも本当で、どっちも嘘だった。

  「っ、や……、これ……」

  くすぐったくて、気持ちよくて、頭がおかしくなる。

  さらに、手の変化が始まった。

  指の先が熱くなり、爪が丸く厚みを増して獣の爪に変わっていく。手のひらの中心がふっくりと盛り上がり、柔らかい肉球が生まれる。指の関節がわずかに短くなり、毛並みに覆われた手は、もう完全に人間のものではなくなっていた。

  蛍太の肩を掴む指が、毛並みの中に沈み込む感触が鮮明すぎて、俺は声を堪えきれなかった。

  足も同じだった。足の指が内側に縮まり、足裏が厚い肉球に変わる。爪が丸く尖り、足首からふくらはぎにかけて茶白の毛が一気に生え揃う。体重を支える感覚が変わり、獣のようにしなやかで敏感な足の裏が、シーツに触れただけでぞくりと快感を伝えてくる。

  一瞬の間に、蛍太の腕が俺の背中を支え直す。裸の胸が擦れる。生えかけの毛並みと、蛍太の毛並みが混ざる。下腹部がまた触れそうになって、俺は反射的に腰を引こうとした。

  その瞬間、腰の奥に熱が落ちた。

  「っ、あ、待っ……!」

  尾てい骨のあたり。さっきまで何もなかった場所に、圧力が集まる。

  内側から、何かが押し出される。

  最初は違和感だった。腰の奥がむずむずする。背骨の一番下から、新しい骨が伸びようとしている。そんなありえない感覚。自分の身体に、今まで存在しなかった通路が開いていく。

  怖い。

  でも、その怖さの底に、濁った快感が沈んでいる。

  「尻尾、来るよ」

  蛍太が低く言った。

  その声だけで、俺の腰が震えた。

  「言うな……っ」

  「ごめん。でも、体、支えるから」

  蛍太の手が、俺の腰へ回った。

  そこはやめろ、と言う前に、蛍太の指が俺の背中の下を支えた。触れられた瞬間、腰の奥で固まっていた熱が一気に揺れる。

  何かが、生えようとしている。

  「っ、ん、あ、ああっ……!」

  声を止められなかった。

  本気の声だった。

  恥ずかしいとか、男なのにとか、友達の前なのにとか、そういう言い訳を全部置いていく声。身体の奥から引きずり出されるみたいに、勝手に漏れる。

  蛍太の腕の力が強くなる。

  「千尋、息して」

  「無理、これ、むり……!」

  腰が熱い。

  背中の下が割れるみたいに感じるのに、痛くない。痛くないから余計におかしい。伸びる。形が作られる。根元が生まれ、そこから先端へ向けて感覚が走る。新しい神経が一気に開いていく。今まで眠っていた場所が、乱暴に起こされる。

  そして、短い何かが、俺の背後に生えた。

  まだ尻尾と呼ぶには頼りない。生えかけの、柔らかい突起。けれどそこには、確かに感覚があった。

  蛍太の手が、そこへ触れた。

  「っ、ひゃ……!」

  自分でも聞いたことのない声が出た。

  「ごめん、痛い?」

  「ちが、気持ち、悪い、いや、違う、気持ちよくて……っ」

  言葉がぐちゃぐちゃだった。何も考えられない。気持ち良すぎる。

  蛍太は俺の顔を見た。

  近い。息が触れる距離。

  「触っていい?」

  その確認に、俺は答えられなかった。

  生えかけの尻尾が、びくびく震えている。蛍太の指が少し触れただけで、腰の奥から下腹部まで火が走る。これ以上触られたらおかしくなる。分かっている。

  でも、触られたい。

  蛍太に触られたい。

  俺は、蛍太の肩を掴む指に力を込めた。

  それが返事になったのかもしれない。

  蛍太の指が、生えかけの尻尾の根元をそっと包んだ。

  「っ、ああっ!」

  腰が跳ねた。

  その動きで、俺たちの下腹部がまともに擦れた。

  裸同士。互いに硬くなったものが、逃げ場なくぶつかる。

  「っ、千尋……!」

  蛍太の声が震えた。

  俺はもう何も分からなくなっていた。尻尾の根元を触られる快感と、前で蛍太と擦れる熱が、身体の真ん中で繋がってしまう。どっちがどっちか分からない。腰の後ろから来る刺激が、前へ抜ける。前で擦れた熱が、尻尾の奥へ戻る。

  輪になっている。快感が逃げない。

  「や、待て、蛍太、それ、だめ……っ」

  「嫌?」

  「嫌じゃ、ないから、だめ……!」

  自分で言って、自分で終わったと思った。

  蛍太の目が揺れる。

  その目を見た瞬間、なぜか俺の方から顔を近づけていた。

  もう理屈ではなかった。

  蛍太の声が近すぎた。目が潤んでいた。俺の匂いを嗅いで、俺の尻尾に触れて、俺の身体と擦れ合って、蛍太も同じくらい余裕がなくなっていた。

  その顔を見ていたら、何かを塞ぎたくなった。

  自分の声かもしれない。

  蛍太の声かもしれない。

  この状況そのものかもしれない。

  唇が触れた。

  まぎれもない、キスだった。

  自分からしたのだと気づいた瞬間、頭の中が真っ白になる。

  でも、離れられなかった。

  蛍太が息を呑む。三色の耳が跳ねる。腕が俺の背中を抱きしめる。最初は驚いて固まっていたケモノの口が、すぐに俺を受け止めた。

  友達同士の距離ではない。こんなの完全に違う。

  柔らかさ。吐息の熱。蛍太の匂い。自分の獣の匂い。それが混ざって、分からなくなる。鼻が利くせいで、キスだけなのに情報が多すぎる。蛍太の緊張。興奮。俺に触れている安心。自分の匂いに煽られている熱。全部が分かる気がして、怖いのに嬉しかった。

  「ん、っ……」

  声が口の中で潰れた。蛍太の手が、尻尾の根元をまた扱いた。

  生えかけの尻尾は、まだ短い。けれど感覚だけは異常に濃かった。蛍太の指が根元から先へ向かって撫でるたびに、腰が勝手に動く。その動きで、前も擦れる。

  「っ、ふ、ぁ……!」

  キスが解ける。

  蛍太の肩に、額を押しつけた。

  息が荒い。声が止まらない。自分の耳がぴくぴく動いているのが分かる。身体に生えた毛皮が、蛍太の毛並みと擦れてざわざわする。匂いが濃い。俺の匂いも、蛍太の匂いも、部屋の空気に溶けている。

  もうただの変身ではなかった。

  俺は蛍太に抱かれている。

  蛍太に尻尾を触られている。

  蛍太と擦れ合っている。

  その蛍太は、俺を好きだと言った。

  「千尋、これ以上、やばいかも」

  蛍太の声も限界に近かった。

  「俺も、やばい……」

  「止める?」

  「止めたら、もっと変になる……!」

  本音だった。

  ここで止まったら、身体が壊れる気がした。いや、壊れるのは身体ではなく、頭かもしれない。どちらでも同じだった。

  蛍太が、俺を抱く腕に力を込める。

  「じゃあ、一緒に」

  その言葉で、俺の腹の奥がぎゅっと縮んだ。

  一緒に。

  何が一緒になのか、聞く必要はなかった。

  蛍太が腰をわずかに動かす。

  俺の身体も、それに合わせて動く。

  擦れる。

  互いの硬さが、毛並みと汗と熱の間で押し合う。

  「っ、あ、蛍太、近、すぎ……!」

  「千尋が離れないんだろ」

  「離れたら、倒れる……!」

  「じゃあ、離れないで」

  その声が甘すぎて、耳が跳ねた。

  尻尾が伸びていく。

  蛍太に扱かれた根元から、さらに先へ。生えかけの頼りない形が、少しずつ太さを得て、毛に覆われていく。新しい感覚が先端まで走るたび、腰が震える。蛍太の手がそれを逃さない。根元を支え、撫で、軽く握る。

  「っ、や、そこ、ほんと、無理……!」

  「気持ちいい?」

  聞くな。

  聞くなと言いたかった。

  でも、口は別のことを言っていた。

  「気持ちいい……っ」

  言った瞬間、蛍太の呼吸が崩れた。

  「千尋」

  その声が、俺の中に落ちる。

  もう限界だった。

  尻尾の根元を蛍太の指が扱く。前で蛍太と擦れる。キスの余韻が唇に残っている。

  嗅覚が蛍太の興奮を拾ってしまう。耳が蛍太の喘ぎを聞いてしまう。毛皮が蛍太の熱を感じてしまう。

  俺の身体が、どこもかしこも蛍太に繋がっていた。

  「っ……あ、ぁ……」

  熱くて、硬くて、血管の脈動まで感じ取れる。俺の先端から溢れた透明な液が蛍太の亀頭に絡みつき、互いの皮を滑らせる。ゆっくりと腰を前後に動かすたび、敏感なカリ首が擦れ合い、鈴口が直接触れ合う淫靡な感触が、電流のように背筋を駆け上がる。

  蛍太が低く喘ぎながら、腰を押しつけてきた。

  「千尋、熱い……」

  俺も無意識に腰を動かし、互いの肉棒を強く擦り合わせる。快楽を貪るように、ねっとりと前後左右に擦る。

  カリの段差が何度も引っかかり、尿道の先端同士がキスするように擦れる。ぬるぬるとした我慢汁が大量に混ざり合い、結合部を卑猥に泡立てながら糸を引く。

  「は……っ、ん、ぁ……! やば……これ、気持ちよすぎ……」

  俺は蛍太の肩に爪を立てながら、腰をくねらせていた。肉棒同士を擦り合わせるたび、獣の毛並みが擦れ合い、肉球のできた指が蛍太の背中を掻き毟る。

  嗅覚がさらに暴走する。互いの興奮したケモノの匂いが濃密に混ざり、脳が真っ白になるほどの快楽を浴びせ続ける。

  蛍太が俺の尻尾の根元を掴みながら、腰の動きを激しくした。

  「千尋の……先っぽ、俺のに絡みついて……っ」

  モノ同士を強く押しつけ、亀頭の裏側をねちっこく擦り上げる。敏感な部分を執拗に刺激され、俺は喉を反らせて喘いだ。互いの竿が並行に擦れ、熱い皮が何度もめくれ合い、ぬるぬるとした液が飛び散る。

  時折鈴口同士が直接吸い付くように触れ合い、電撃のような快感が股間から脳天まで突き抜ける。

  「出る、蛍太、俺、出る……っ」

  「俺も、千尋、俺も……!」

  蛍太の腕が俺を抱き寄せた。

  逃げ場がなくなる。

  互いの硬さが、最後に強く擦れ合う。

  「っ、ああっ!」

  視界が、白く弾けた。

  腹の奥が締まり、腰が勝手に跳ねる。喉から、本気の声が出た。恥ずかしいとか、抑えなきゃとか、そんなものは全部遅かった。蛍太の身体にしがみついたまま、俺は出していた。

  同時に、蛍太も震えた。

  耳が伏せ、尻尾が強く跳ね、俺の肩に顔を埋める。

  お互いの熱いものが、俺たちの間に散った。

  自分のものと、蛍太のものが混ざる。下腹部に熱が広がる。獣の毛並みと人の肌と、汗と匂いと精液が、どうしようもなく近いところで一つになる。

  息ができなかった。

  いや、正確にはしていたみたいだ。でも、呼吸の仕方すら分からなくなっていた。

  「は、あ……っ、は……」

  俺は蛍太にしがみついたまま、肩で息をした。

  身体の震えが止まらない。

  射精したところで、変身は終わっていなかった。むしろ、そこからさらに強くなるようだった。

  腰の奥で弾けた快感を追いかけるように、尻尾が一気に伸びる。短かった尾が、ふさりと毛を増やしながら形を作る。長くはない。けれど太く、巻くような力を持っていく。根元から先端へ感覚が通り、俺は蛍太の腕の中でまた震えた。

  「まだ、くる……っ」

  「千尋、ゆっくり。大丈夫」

  蛍太の声も震えている。

  その声が近い。

  出したばかりなのに、まだ身体が蛍太を求めているみたいで怖かった。

  顔の奥が熱くなる。鼻が疼く。口元が、むずむずと変わり始めた。

  「っ、な、に……」

  頬の骨が動く感覚。

  顎の形が変わる。前へ、少しずつ押し出される。痛くない。けれど圧がある。歯並びが変わり、犬歯が鋭くなる。舌の位置が変わる。鼻先が熱くなり、湿った感覚が生まれる。視界の下の方に、自分の口元が少しだけ伸びたのが見えた。

  人間の顔から、獣の顔へ。

  完全なケモノではない。人の面影は残っている。けれどもう、人間の顔とは言えない。鼻が利きすぎる。蛍太の匂いが、さっきよりもっと直接頭に入ってくる。

  毛並みから立ち上る、獣特有の甘く濃厚な体臭。汗と興奮で蒸れた熱い匂い。首筋から漂う、オスのフェロモンに近い濃密な香り。それが鼻腔の奥深くまで突き刺さり、脳を直接痺れさせる。

  ケモノの匂いだ。

  獣の、男の、発情した雄の匂い。

  「う……っ、く、ぁ……」

  頭が、ぐちゃぐちゃに溶ける。

  嗅いだだけで腰の奥が疼き、理性が溶けていく。蛍太の匂いが強くなればなるほど、俺の新しい鼻はそれを貪るように深く吸い込み、脳の奥底まで快楽物質をばらまいている。

  獣になった嗅覚は容赦がない。蛍太が少し興奮するだけで、その匂いが何倍にも濃くなって俺を犯してくる。

  「蛍太の、匂い……」

  無意識に呟いていた。

  蛍太が固まる。

  「俺の?」

  「する。すごい、近い。頭、変になる……」

  言いながら、自分が何を言っているのか分からなくなる。

  蛍太の匂いが好きだと思ってしまった。

  口にした瞬間、もう戻れない。

  蛍太の腕が、俺の背中をそっと撫でた。

  「千尋も、すごい匂いしてる」

  「言うな」

  「好きな匂い」

  「だから、言うな……」

  声が弱かった。

  本当に嫌なら、もっと強く言えたはずだ。

  けれど、俺の耳は蛍太の声を拾いたがっていた。尻尾は蛍太の腕の中でぴくぴく揺れていた。毛並みは蛍太に触れられるたび、気持ちよさに震えていた。

  五感が、全部蛍太へ向いている。

  そのことが、何より恥ずかしかった。

  顔の変化が落ち着いていく。頬にふわっとした毛が増える。耳は頭の上で立ち、尻尾はくるりと巻き始める。茶色と白の毛並みが胸から腹、腕、太腿へ馴染んでいく。自分の身体なのに、自分でない。だけど、誰か別人になったわけでもない。

  俺は俺のままだ。

  俺のまま、獣になっている。

  蛍太が少し身を離して、俺を見た。

  その瞬間、恥ずかしさで死にそうになった。

  二人の間は汚れている。互いに出したものが腹や毛並みに残っている。俺は変身の余韻で息を乱していて、耳も尻尾も隠せない。顔はもう、犬のそれに近い。鼻先は濡れていて、息をするたび蛍太の匂いを拾ってしまう。

  見られたくない。

  でも、見てほしい。

  蛍太の目が、完全に奪われていた。

  「……千尋」

  その声に、俺の耳が動く。

  蛍太は、言葉を探していた。

  探して、結局、一番単純な言葉を選んだ。

  「可愛い」

  心臓が跳ねた。

  「言うな」

  「無理」

  「男に言うな」

  「千尋に言ってるの」

  その瞬間、尻尾が勝手に揺れた。

  くるんと巻いた尻尾が、嬉しそうに。

  俺はそれを感じて、絶望した。

  「違う」

  「尻尾、揺れてる」

  「違う、勝手に」

  「うん。勝手にね」

  蛍太の声が、どうしようもなく甘かった。

  俺は顔を伏せた。けれど、顔を伏せると蛍太の胸元の匂いが近くなる。獣になった鼻が、それを逃がしてくれない。さっきキスした唇の熱も、出してしまった感覚も、尻尾を触られた快感も、全部身体に残っている。

  何も隠せない。

  本質とか言ったな、ミツ姉。

  これが俺の本質なら、今すぐ返品したい。

  そう思った。

  思ったはずなのに、蛍太の腕の中で、俺の尻尾はまだ小さく揺れていた。

  しばらく、何も言えなかった。

  ベッドの上で、蛍太の腕の中にいる。さっきまで人間だったはずの俺の身体には、茶色と白の毛並みが生えていて、頭の上には耳があり、腰の後ろにはくるんと巻いた尻尾がある。鼻先は濡れている。口元も、もう人間のそれとは違う。息をするたび、部屋の中の匂いが驚くほど鮮明に流れ込んでくる。

  蛍太の匂いがした。

  汗と、毛並みと、さっき一緒に出したものの匂い。恥ずかしいくらい濃くて、逃げようがない。

  いや、逃げようがないのは匂いだけではなかった。蛍太の腕が俺の背中に回っていて、三色の毛並みを持った胸が俺の身体に触れている。互いの肌と毛皮の間には、さっきの熱がまだ残っていた。

  身体の奥がじんじんしている。

  出したのに、まだ何かが収まっていない。尻尾の根元が熱い。耳が蛍太の息を拾い続けている。俺の鼻は、蛍太がまだ興奮していることまで勝手に嗅ぎ取ってしまう。

  そんなこと、知りたくなかった。知りたくなかったはずなのに、分かってしまうたびに腹の奥がきゅっと縮む。

  「……俺、どうなってる」

  自分の声は、まだ俺の声だった。

  それだけが妙に救いだった。もっと高くなるとか、甘くなるとか、そういう変化はなかった。

  けれど息が乱れているせいで、普段よりずっと情けなく聞こえる。声そのものは変わっていないのに、身体の方が全部変わってしまったせいで、いつもの声が浮いているようにも感じた。

  蛍太は、すぐに答えなかった。

  三色の耳を伏せて、頬を赤くして、俺のことを見ていた。獲物を見る目ではない。客を相手にする時の目でも、きっとない。さっき、好きだと告げた相手を、目に焼き付けようとする視線だった。

  その視線が、肌より奥にぐさっと刺さる。

  「蛍太」

  呼ぶと、蛍太はようやく息を吐いた。

  「……めちゃくちゃ、可愛い」

  頭が真っ白になった。

  「言うな」

  「無理」

  「男に言うなって」

  「千尋に言ってるの」

  その瞬間、尻尾が勝手に揺れた。

  信じられないくらい分かりやすく、くるんと巻いた尻尾がぴくりと動いて、さらに小さく左右へ振れた。自分の意思ではない。勝手に動いた。だから俺は悪くない。絶対に悪くない。

  でも、蛍太はそれを見逃さなかった。

  「尻尾」

  「違う」

  「まだ何も言ってない」

  「今から言う顔だっただろ」

  蛍太の口元が、少し緩む。

  嬉しそうにするな。こっちは死ぬほど恥ずかしいんだぞ。

  俺は身体を離そうとした。けれど、動いた瞬間に身体のあちこちが蛍太と擦れて、変な声が出そうになった。毛並みが触れ合う。腹に残った熱が動く。尻尾の根元が疼く。五感が変わった身体は、ほんの少し動くだけでも余計な情報を拾いすぎる。

  蛍太も、それに気づいたのだと思う。

  腕に力を入れながら、俺を急には離さなかった。

  「ゆっくりでいいよ」

  「優しくするな」

  「何で」

  「変になるから」

  言ってから、また墓穴を掘ったと思った。

  蛍太の耳が、機嫌よさげに少し持ち上がる。

  「変って?」

  「聞くな」

  「聞きたい」

  「お前、さっきから……」

  蛍太は小さく笑った。けれど、すぐに笑いを引っ込める。

  「鏡、見る?」

  その単語で、俺の身体が固まった。

  鏡。

  まだ、自分の姿をまともに見ていない。

  断片なら分かっている。頭の上に耳がある。尻尾がある。毛皮がある。顔も変わっている。鼻も、口元も、人間ではなくなっている。でも、それを全部まとめて見たわけではない。

  見たくない。

  見ない方が、まだ逃げられる気がした。

  「見たくない」

  「でも、見ない方が怖くない?」

  蛍太の言うことは正しい。

  正しいから腹が立つ。

  黙るしかなかった。蛍太は何も急かさなかった。ただ、俺の背中に手を添えたまま待っている。三色の尻尾がベッドの上でゆっくり揺れ、その毛先がシーツに擦れる音を、俺の耳が拾ってしまう。

  柔らかい音。

  蛍太の音。

  それだけで、少し落ち着く自分がいた。

  「……見るだけだからな」

  「うん」

  「変なこと言うなよ」

  「言わないようにする」

  「言わないって言え」

  「努力する」

  「努力じゃ駄目なんだよ」

  そんなやり取りをしながら、蛍太に支えられてベッドを降りた。

  足の裏がラグに触れる。感触が違う。人間の足ではない。完全な獣の脚になったわけではないが、足先の感覚が鋭くなっている。床の柔らかさ、毛足の向き、わずかな温度差まで拾う。立っただけで、自分の身体が別物になったのだと分かる。

  尻尾がバランスを取るように揺れた。

  それがまた、恥ずかしい。

  「尻尾、便利だね」

  「しゃべるな」

  「ごめん」

  蛍太は謝るくせに、声が少し嬉しそうだった。

  俺はブランケットを掴んで前を隠しながら、部屋の隅にある姿見の前まで歩いた。裸を隠すためのブランケットなのに、耳も尻尾も顔も隠せない。むしろ、隠せていないものの方が多い。

  鏡の前に立つ。

  そこに映っているのは、茶色と白の毛並みを持った獣人だった。立った耳。ふわりとした頬の毛。少し前に伸びた口元。濡れた黒い鼻。首元にはカラー。肩から胸、腹にかけて、人間の形を保った身体に、柔らかな毛皮が馴染んでいる。腰の後ろでは、くるんと巻いた尻尾が落ち着きなく揺れていた。

  男の身体ではある。そこだけは変わっていない。胸は平らで、骨格も完全に女性的になったわけではない。それでも、全体の印象は信じられないほど柔らかかった。

  自分で言うのも嫌だが、かわいらしい。親しみやすい。撫でたくなる。そういう言葉が、嫌でも浮かんでくる。

  そして何より、顔の奥に俺がいた。

  別人ではない。

  俺だ。

  俺が、こんな姿になっている。

  「……誰だよ、これ」

  声が掠れた。

  蛍太が鏡越しに近づいてくる。三色の耳を持った蛍太が、茶白の耳を持つ俺の隣に映る。その並びが、妙にしっくりきてしまって、さらに混乱した。

  猫と犬。

  そんな単純な言葉が頭に浮かぶ。

  蛍太は鏡の中の俺を見て、優しく言った。

  「千尋だよ」

  「俺、こんなんじゃない」

  「うん。でも、すごく千尋っぽい」

  「どこが」

  「分かりやすいところ」

  「褒めてるのか、それ」

  「褒めてるよ」

  蛍太の手が、俺の尻尾の近くに伸びかけて、途中で止まった。触っていいか聞こうとしたのだと分かって、俺は余計に意識してしまう。

  尻尾が、勝手に揺れた。

  蛍太が鏡越しに笑う。

  「ほら」

  「尻尾で証明するな」

  「俺、何もしてない」

  「してるだろ。見てる」

  「見るだけで動くの?」

  「うるさい」

  鏡の中の俺は、耳を伏せて顔を赤くしていた。

  いや、毛皮のせいで本当に赤いかは分からない。でも、顔が熱いのははっきりしていた。

  耳の根元まで熱い。犬になった顔でも、恥ずかしいという感情は消えないらしい。

  むしろ増えている。何もかもが表に出る。

  蛍太が好きだと言った。俺が可愛いと言われた。

  尻尾が揺れる。耳が動く。匂いが濃くなる。自分の中で隠してきたものが、身体の表面に全部出てしまう。

  これがカラーの言う本質なら、本当に性格が悪い。

  [newpage]

  その時、扉がノックされて、二人分の身体がびくんと跳ねた。

  「変身は完了しましたか? 状態確認に入りますね」

  ミツ姉の声だった。

  俺は慌ててブランケットを抱え込む。

  「待って、今は」

  言い切る前に、扉が開いた。

  本当に入ってきやがった。

  ミツ姉は白衣姿のまま、狐の尻尾を揺らして部屋に入ってくる。その後ろから、ノクスさんも当然のようについてきた。二人とも、店側として必要な確認をしに来た、という顔をしている。

  間違いではない。間違いではないのだが、こちらとしては完全に事後みたいな空気の部屋に踏み込まれた気分だった。

  「待ってくださいって言いましたよね」

  「状態確認は必要ですので」

  「……正論だけど」

  俺はブランケットで前を隠し、耳を伏せた。尻尾も勝手に丸まる。

  けれどその全部が、むしろ今の俺の動揺を大声で説明しているみたいで、余計に恥ずかしい。

  ノクスさんは俺を見るなり、眠そうな目を少しだけ開いた。

  「かわいい」

  即死だった。最も言われたくないことを、真正面から告げられる。

  「やめてください」

  「すごくかわいいよ」

  「強めないでください」

  ノクスさんは遠慮なく近づいてきた。蛍太が間に入ろうとしたが、ミツ姉が軽く手で制した。たぶん、安全確認が先ということなのだろう。蛍太は心配そうに俺を見るだけに留まった。

  ノクスさんは、俺の頭の上の耳をじっと見た。

  「立ち耳、いいね」

  「評価しないでください」

  「尻尾も巻いてる」

  「見るな」

  「感情、分かりやすそう」

  「だから何が」

  「全部」

  ノクスさんの視線が尻尾へ行った瞬間、尻尾がびくっと動いた。

  「ほら」

  「ほらじゃないです」

  ミツ姉も俺の周囲を一歩回るように見た。狐の目は、ノクスさんよりも研究者寄りだった。いやらしい視線ではない。けれど見られていることに変わりはないので、恥ずかしいものは恥ずかしい。

  「これはかなり良いですね。カラーとの相性が高い。毛並みの発色も綺麗です」

  「分析しないでください」

  「すみません、職業病です」

  「職業なんですか、これ」

  「趣味でもあります」

  返しが強い。

  ミツ姉は俺の腕、肩、耳、尻尾の位置を順番に確認していく。触る前には必ず確認を取った。そこは徹底している。けれど、確認されたところで恥ずかしくないわけではなかった。

  「耳、少し見てもいいですか」

  「見るだけなら」

  「ありがとうございます」

  狐の指が、俺の耳の根元近くに触れない距離まで近づく。触れられていないのに、耳がぴくぴく動いてしまう。

  ノクスさんが、ニヤニヤしながら言う。

  「反応いいね」

  「いちいち言わないでください」

  「お客さん、絶対好き」

  「客の話をしないでください」

  ミツ姉は軽く笑った。

  「ノクスくんの言い方はともかく、反応が分かりやすいのは大きな長所です。この店では、キャスト本人の感情が姿に出ることも魅力の一つですから」

  「俺はまだキャストじゃないです」

  「はい。ですので、もし千尋くんさえよければ、という話です」

  その言い方に、俺は固まった。

  もし、俺さえよければ。

  ミツ姉は穏やかな顔で続けた。

  「適性はかなりあります。見た目の方向性も良い。蛍太くんとの相性も、おそらく非常に良い」

  蛍太が少し咳き込んだ。

  「ミツ姉」

  「事実です」

  「相性って言い方」

  「では、並んだ時の見栄えと空気感、と言い換えましょうか」

  「余計恥ずかしいですよ……」

  蛍太は三色の耳を伏せている。けれど、その顔は少し嬉しそうだった。俺と並んだ時の見栄え。空気感。そういうものを褒められて、嬉しそうにしている。

  それを見て、また尻尾が揺れそうになったので、必死に止める。

  ……止まらなかった。

  ノクスさんが見逃さない。

  「揺れた」

  「見ないでください」

  「かわいい」

  「やめてくださいってば」

  ミツ姉は白衣のポケットから小さなメモ端末を取り出した。

  「衣装は新しく仕立てる必要がありますね。蛍太くんの予備では雰囲気が違いますし、尻尾の位置も合わないでしょう」

  「衣装?」

  「採用になった場合の話です」

  「話が早い」

  「もちろん、働くかどうかは後で決めて構いません。ただ、前向きに考えるなら、身体測定は必要です。耳飾り、首元のデザイン、尻尾の逃がし方、毛並みの色に合わせた布地も考えたいので」

  ノクスさんが淡々と言う。

  「茶色とクリーム色、似合いそう」

  蛍太が即答した。

  「絶対似合う」

  尻尾が揺れた。

  もう嫌だ。

  身体が素直すぎる。

  「お前は何でも可愛いって言うだろ」

  蛍太は、今度はすぐに返した。

  「千尋にしか言ってない」

  部屋の空気が、一瞬だけ静かになった。

  ミツ姉は何も言わなかった。ノクスさんも、珍しく茶々を入れなかった。俺だけが、何を言われたのか理解して、顔をさらに熱くした。

  「……そういうの、今言うな」

  「ごめん」

  「謝るな」

  「じゃあ、言う」

  「言うな」

  蛍太は少し笑った。その笑い方が柔らかくて、腹が立つくらい胸に来た。

  ミツ姉は端末をしまい、少しだけ真面目な顔に戻った。

  「本来なら、ここから変身後の感覚確認を行います。耳、尻尾、毛並み、嗅覚、接触への反応。さらに、希望があれば踏み込んだメニューへの適性も確認します」

  「踏み込んだ」

  俺は、反射的に聞き返した。さっき聞いた、非常に嫌な響き。

  少し言いよどんだミツ姉に変わって、ノクスさんが言う。

  「えっちなやつ」

  「言わなくていいです」

  「大事だよ」

  「大事でも言い方」

  ミツ姉は苦笑しつつ、否定はしなかった。

  「ただ、今回は蛍太くんに任せます」

  蛍太が少し驚いたように目を上げる。

  「いいんですか?」

  「はい。君なら無理をさせないでしょう」

  ミツ姉の視線が、俺にも向く。

  「それに、今の千尋くんは、私たちより蛍太くんの方が安心できるはずです」

  「そんなこと」

  反射で否定しようとして、言葉が止まった。

  そんなことない、とは、とても言えなかった。

  実際、ミツ姉とノクスさんに見られるより、蛍太の前にいる方がまだ呼吸ができる。

  いや、蛍太の前でも呼吸は乱れる。乱れるけれど、逃げたい種類の怖さではない。

  蛍太に見られるのは恥ずかしい。

  でも、見られたくないだけではない。

  ミツ姉はその沈黙だけで十分だと判断したのか、小さく頷いた。

  「二人で少し時間を過ごしてください。そのあと、働くかどうか、働くならどこまでの接客をするか、バイトとしての話をしましょう」

  採用、という言葉は使わなかった。

  でも、ほとんど言っているようなものだった。

  俺さえよければ、この店は俺を受け入れるつもりでいる。

  その事実が、怖くて、少しだけ温かかった。

  ノクスさんが蛍太を見る。

  「ケイくん、ちゃんとね」

  蛍太は、さっきよりずっと真面目な顔で頷いた。

  「分かってます」

  「千尋くん、嫌だったら蹴っていいよ」

  「蹴るの前提なんですか」

  「ケイくん、顔がやばいから」

  「ノクスさん」

  蛍太が恥ずかしそうに抗議する。

  ノクスさんは俺を見て、少しだけ笑った。

  「でも本当に、嫌だったら言ってね」

  その言葉には、珍しくからかいが少なかった。

  俺は小さく頷いた。

  ミツ姉とノクスさんが部屋を出ていく。扉が閉まる。

  また、二人きりになった。

  さっきまでより、部屋の空気が重い。

  ミツ姉とノクスさんが入ってきたことで、一度は現実に引き戻された。安全確認、採用の話、衣装の話。変な店ではあるが、ちゃんと仕事の話をしているのだと分かった。だから少し冷静になったはずだった。

  でも、二人が出ていくと、その冷静さはすぐに剥がれた。

  鏡の前に、柴犬の俺がいる。

  その隣に、三毛猫の蛍太がいる。

  俺はブランケットを握っている。蛍太も腰にタオルを巻いているだけで、ほとんど裸に近い。

  二人とも、さっき出したことをまだ身体が覚えている。匂いも消えていない。

  蛍太が、黙って俺を見ていた。

  視線が痛い。

  でも、嫌じゃない。

  「見るな」

  声に力がない。

  蛍太は、困ったように笑った。

  「ごめん、無理」

  「無理ばっかり言うな」

  「だって、千尋がその姿でいるの、本当にやばい」

  「やばいって何だよ」

  「好きな人が、自分の目の前でこんな姿になって、尻尾揺らしてるの、我慢できると思う?」

  胸の奥が、ぞっとするほど熱くなった。

  「はっきり言うなよ」

  「でも、そうなんだもん」

  蛍太が一歩近づく。

  「千尋が俺を意識してるの、匂いで分かる」

  「そんなの」

  否定しようとして、できなかった。

  俺にも分かるからだ。

  蛍太の匂いが分かる。緊張していることも、欲しがっていることも、俺を見て興奮していることも、全部匂いに混じっている気がする。

  もちろん本当に感情まで嗅げるわけではないのかもしれない。でも、獣になった鼻はあまりにも正直で、蛍太が俺を欲しがっていると勝手に確信してしまう。

  そして俺は、その匂いが嫌ではなかった。

  むしろ、近づかれるたびに、もっと嗅ぎたくなる。

  「蛍太」

  「何」

  「お前、顔がやばい」

  「ノクスさんみたいなこと言う」

  「ほんとにやばいんだよ」

  蛍太は一度、口を噤んだ。それから、ゆっくり言った。

  「我慢しようとはしてる」

  「してる顔じゃない」

  「してるよ。すごくしてる。さっきから、ずっと」

  その声は、少し苦しそうだった。

  「千尋が変わるところ見て、キスされて、一緒に出して、それで今その姿でいるんだよ。俺、正直、研修とか言ってる余裕あんまりない」

  心臓が強く跳ねる。

  蛍太の言葉は、隠そうとしていなかった。

  好きだと言った時と同じだ。欲がある。でも雑ではない。俺を軽く扱おうとしているわけではない。ただ、もう隠せないところまで来ている。

  俺も、同じだった。

  もう嫌ではない。

  嫌じゃないどころではない。

  ミツ姉とノクスさんが出ていった瞬間、終わりにすることもできた。今日は変身を試した。十分だ。採用の話は後で聞けばいい。家に帰って、冷静になって、全部考え直せばいい。

  でも、俺は帰りたくなかった。

  蛍太に近づかれると、鼻が勝手に匂いを拾う。耳が声を拾う。尻尾が反応する。身体が、蛍太の方へ向きたがる。

  さっきのキスの続きがしたい。

  蛍太の手が、耳や尻尾に触れるところを想像してしまう。

  それ以上のことも。

  数日前、酔った勢いで買った荷物。

  誰にも知られたくなかったもの。

  蛍太に見つかって死にたくなったもの。

  その興味が、今は全部、蛍太の方へ向かっている。

  男同士に興味があった。受け側に興味があった。自分がどうなるのか、試してみたいと思ったことがあった。でも、それは顔も知らない誰かとの妄想でも、画面の向こうの話でもなくなっていた。

  目の前に蛍太がいる。

  俺を好きだと言った蛍太がいる。

  俺は、小さく息を吐いた。

  「……俺も、たぶん余裕ない」

  蛍太の耳が揺れた。

  「千尋」

  「触っていいかとか、聞くんだろ」

  「聞くよ」

  「今さらかよ」

  「嫌なこと、したくないから」

  それが蛍太だった。

  欲しがっているくせに、もう我慢できないと言いながら、それでも聞く。俺が嫌だと言えば止まる。そう分かってしまうから、余計に逃げられない。

  俺は顔を逸らしたまま、小さく頷いた。

  蛍太が近づく。

  まず、耳に触れた。

  指先が耳の根元をそっと撫でる。ほんの少しの接触なのに、背筋が跳ねた。犬の耳は人間の耳よりずっと感情に近いところにある。触られた瞬間、頭の中に直接指を入れられたみたいな感覚が走る。

  「っ、ん」

  声が漏れる。

  蛍太の呼吸が変わる。

  「……敏感だね」

  「言うな」

  「ごめん。でも、可愛い」

  「だから言うなって」

  耳が伏せる。

  そのせいで、蛍太の指がもっと耳の根元に触れた。逃げたはずなのに、逆に撫でられる形になってしまう。身体が勝手に蛍太の手を受け入れる。

  蛍太の手が、次に頬の毛並みに触れた。

  「ふわふわだ」

  「感想を言うな」

  「ほんとに、すごい」

  指が頬から首筋へ降りる。

  毛並みを撫でられる。獣の毛皮を撫でられる感覚。気持ちいい。自分の身体なのに、まるでペットみたいに扱われている気がして恥ずかしい。けれど、蛍太の手つきは優しかった。雑に触るのではなく、確かめるように、愛おしむように撫でてくる。

  そのたびに、腹の奥が緩む。

  「蛍太の匂い、近い」

  思わず呟いていた。

  蛍太の手が止まる。

  「嫌?」

  「嫌じゃない。でも、逃げられない」

  自分で言って、胸が詰まった。

  逃げられない。

  匂いからも、声からも、触れられる感覚からも、蛍太が俺を好きだと言った事実からも、もう逃げられない。

  蛍太が少し顔を近づけた。

  「俺も、千尋の匂い、すごくする」

  「言わなくていい」

  「好きな匂い」

  「だから」

  言葉が途切れた。

  蛍太の鼻先が、俺の首筋に近づいたからだ。

  嗅がれている。

  そう思った瞬間、尻尾が震えた。自分の匂いを好きだと言われることが、こんなに恥ずかしいとは思わなかった。人間の時にはなかった感覚だ。匂いを褒められる。自分の身体から立ち上がる獣の匂いを、好きな人が欲しがる。

  頭がおかしくなりそうだった。

  蛍太の手が、俺の背中を撫でる。

  それから、尻尾の近くで止まった。

  「尻尾、触っていい?」

  さっきも触られた。生えかけの時に、扱かれて、出した。だから今さらだった。今さらなのに、完成した尻尾を改めて触られると思うと、身体が勝手に緊張する。

  「……いい」

  声が小さくなった。

  蛍太の指が、巻いた尻尾の外側に触れる。

  ふわりと毛が揺れた。

  それだけなら、まだ耐えられた。

  けれど、蛍太の指が根元へ近づいた瞬間、身体が跳ねた。

  「っ、そこ」

  「痛い?」

  「違う。そこ、やばい」

  「やばい?」

  「聞くな」

  蛍太は手を止めた。その優しさすらもどかしかった。

  俺は、自分が何を望んでいるのか分からないふりをしたかった。触ってほしいのか、やめてほしいのか。分からない。分からないことにしておきたい。

  でも、尻尾は揺れていた。

  蛍太が、それを見ている。

  「千尋」

  「何」

  「これ、もう研修じゃないよね」

  蛍太の指が、俺の尻尾の根元に添えられたまま止まっている。俺は拒んでいない。むしろ、止められたことに焦れている。

  「……そうだな」

  やっと答えると、蛍太の喉が小さく動いた。

  「キスしていい?」

  心臓が、またひとつどくんと跳ねた。

  「さっきしただろ」

  「さっきは千尋からだったから」

  「それは」

  「今度は、俺からしたい」

  言い方がずるい。

  顔を逸らした。

  でも、尻尾が揺れた。

  蛍太はそれを見て、ゆっくり近づいた。強引ではなかった。俺が逃げれば、たぶん止まった。俺は逃げなかった。

  唇が触れる。

  さっきのキスより、ずっと静かだった。

  獣のマズルどうしのキスは、さっきよりちょっとだけやりにくい気がした。

  やり方なんてわからないけど、蛍太に合わせて必死で舌を絡める。

  衝動で塞いだものではない。確かめるようなキスだった。

  蛍太の匂いが近い。息が混ざる。唇の温度を、犬になった感覚が変に細かく拾う。鼻先が触れそうで、耳が勝手に伏せる。

  「好きだよ、千尋」

  唇が離れたすぐ近くで、蛍太が言う。

  俺は答えられなかった。

  好きかどうかは、まだ分からない。

  でも、止めたくないことだけは分かった。

  「……止めたくない」

  声に出すと、蛍太の目が揺れた。

  俺は、言葉の続きを吐いた。

  「俺、蛍太と、したい」

  言ってしまった。

  部屋の空気が、その一言で変わった。

  蛍太の匂いが濃くなる。俺の鼻がそれを拾う。蛍太の耳が伏せ、尻尾が震える。嬉しそうで、苦しそうで、もう限界に近い顔だった。

  「千尋」

  「何回も言わせるな」

  「うん。言わせない」

  蛍太の手が、俺の腰に回る。でも、そこでまた止まった。

  「聞かなきゃいけないことがある」

  「何」

  蛍太は少し迷ったように視線を落とした。

  「千尋、あの時買ってたやつって、後ろ用だったよね」

  一気に顔が熱くなった。

  「今それ言うな」

  「ごめん。でも、大事だから」

  「大事でも言い方があるだろ」

  「興味、あるんだよね」

  逃げられない。

  蛍太はもう知っている。俺が何を買ったのか。どういうことに興味を持っていたのか。自分でも認めたくなくて、酒の勢いに責任を押しつけて、クローゼットの奥に隠したもの。

  それが、今ここに繋がっている。

  男の娘ものを見るうちに、自分がされる側になる想像をしてしまったこと。後ろを使われる感覚を、怖いと思いながらも知りたかったこと。誰にも言えず、一人で試そうとしていたこと。

  全部、蛍太はもう知っている。

  そして蛍太は、笑っていない。

  「……ある」

  声は、小さかった。

  でも、確かに言った。

  蛍太が息を呑む。

  「俺と、してみたい?」

  あまりにも直接的だった。

  恥ずかしくて死にそうだった。

  でも、さっき止めたくないと言ったのは俺だ。蛍太としたいと言ったのも俺だ。ここでまた逃げるのは、もっと恥ずかしい気がした。

  蛍太を見た。

  三毛猫の耳。赤い顔。真剣な目。俺を好きだと言った相手。俺の姿を見て、匂いを嗅いで、可愛いと言って、尻尾に触れて、それでも何度も確認してくれる相手。

  「蛍太となら」

  喉が震えた。

  「したい」

  蛍太の表情が、崩れた。

  嬉しいのか、泣きそうなのか、欲情しているのか、その全部なのか分からない。尻尾が強く揺れて、すぐに自分で押さえようとしている。俺の尻尾と同じだ。蛍太も、身体が本音を隠せない。

  「俺、店だとされる側の方が多いけど」

  蛍太が、少し照れたように言う。

  「そうなのか」

  「うん。猫だし。甘えるのも、可愛がられるのも、嫌いじゃないし」

  その姿は、想像できた。

  むしろ似合いすぎている。三毛猫の蛍太が甘えて、触られて、可愛がられる。たぶん客はたまらないだろう。そう考えた瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。

  蛍太が俺を見る。

  「でも、千尋が後ろに興味あるなら、俺がする」

  「そんな簡単に」

  「簡単じゃないよ」

  蛍太の声が低くなる。

  「千尋の初めて、他の誰かに渡したくない」

  息が止まった。

  その言葉は、好きだと言われるよりも直接、身体の奥に落ちた。

  初めて。

  俺の初めて。

  今まで、現実には誰にも渡したことがないもの。興味だけ抱えて、こっそり試そうとしていたもの。画面の向こうで見ていたもの。

  それを、蛍太が欲しがっている。

  「独占欲、強いな」

  やっと出た言葉は、情けないくらい掠れていた。

  蛍太は少し笑った。

  「うん。千尋には、強いかも」

  尻尾が揺れた。

  俺の尻尾が。

  本当に嫌になるくらい正直だった。

  蛍太は棚へ向かった。部屋の中に用意されていたタオルやボトルを確認し、必要なものを手に取る。ローションらしい容器、清潔なタオル。店としてちゃんと管理されているのが分かる。その手つきは、さっきまでの切羽詰まった蛍太とは少し違って、落ち着いていた。

  たぶん、俺を怖がらせないようにしている。

  興奮しているくせに。

  匂いで分かるくらい欲しがっているくせに。

  蛍太は、準備だけは丁寧だった。

  それを見ていると、ますます逃げられなくなる。雑に流されるなら、怒れたかもしれない。勢いだけなら、止まれたかもしれない。でも蛍太は、俺が本当にいいと言うまで待つつもりでいる。

  だから俺は、自分で進まなければならない。

  蛍太が戻ってくる。

  俺はベッドの縁に座っていた。茶白の尻尾が落ち着かなく揺れる。耳は伏せたり立ったりを繰り返していた。蛍太が近づくたびに匂いが濃くなって、鼻の奥が熱くなる。

  蛍太は俺の前に膝をついた。

  「本当にいい?」

  「何回聞くんだよ」

  「何回でも聞く」

  「……いい」

  「千尋」

  「蛍太としたいって言ってる」

  言った瞬間、また顔が熱くなる。

  けれど、今度は撤回しなかった。

  蛍太の目が揺れた。

  それから、蛍太はそっと俺の頬に触れた。茶白の毛並みを親指で撫でる。俺の耳が伏せる。尻尾が揺れる。

  蛍太は、また自分からキスをした。

  さっきより深く、でも急がないキスだった。唇の熱が、蛍太の匂いが、三色の毛並みの感触が、全部近い。

  俺は逃げなかった。むしろ、蛍太の肩に手を置いて、少しだけ引き寄せた。

  蛍太が唇を離す。

  額が触れそうな距離で、蛍太が囁いた。

  「ちゃんと気持ちよくする」

  「そういう言い方、やめろ」

  「本気だから」

  蛍太の手が、俺の背中を支える。

  ベッドのシーツが沈む。

  俺は、まだ恥ずかしくて、怖くて、何もかも分からないままだった。

  でも、蛍太の匂いを嗅ぎながら、蛍太の腕の中で、蛍太に初めてを預けることだけは、もう嫌ではなかった。

  蛍太の唇が離れたあとも、俺の中にはまだその熱が残っていた。

  唇に、舌に、鼻先に、蛍太の匂いがまとわりついている。三毛猫の毛並みの甘い匂い。汗の匂い。さっきまで俺を見ていた熱っぽい視線の匂い。そんなものが本当に嗅ぎ分けられるのかどうかなんて、もう分からない。分からないのに、俺の鼻は蛍太を拾い続けていた。

  蛍太は俺の目の前で、ローションのボトルを手にしていた。

  さっきまで、ちゃんと気持ちよくする、なんてことを言ったくせに、今は少しだけ黙っている。三色の耳は伏せ気味で、尻尾が落ち着きなくシーツの上を撫でていた。その姿を見て、俺は変な安心を覚えてしまう。

  蛍太も余裕がない。

  俺だけが変になっているわけではない。

  それが、どうしようもなく嬉しい。

  「一個だけ」

  蛍太が言った。

  「まだ言うのかよ」

  「これだけ。嫌だったら言って。言えなかったら、俺の腕でも尻尾でも、強く掴んで」

  真面目な声だった。

  その真面目さに、胸の奥が少しだけ苦しくなる。蛍太は欲しがっている。俺を見て、匂いを嗅いで、耳や尻尾を見て、もう我慢できないと言った。それでも、俺の逃げ道だけは残そうとする。

  そういうところが、ずるい。

  「分かったから、もう言うな」

  「うん」

  「聞かれ続けると、逃げたくなる」

  蛍太が少し笑った。

  「じゃあ、もう止まらないかも」

  その言葉に、身体の奥が熱を持った。

  俺は自分の尻尾が揺れるのを感じた。止めようとしても、止まらない。くるんと巻いた尻尾の先が、勝手に期待しているみたいに震えている。

  「止まるなよ」

  言ってから、自分の口を殴りたくなった。

  蛍太の目が、明らかに変わった。

  「千尋」

  「今のなし」

  「無理」

  「無理って言うな」

  「無理だよ」

  蛍太の声が低くなる。

  三毛猫の耳が少し立ち、尻尾がゆっくり揺れた。さっきまで見せていた遠慮と優しさの中に、隠しきれない欲が混ざる。俺はそれを、目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅ぎ取ってしまう。

  蛍太が俺を欲しがっている。

  その事実だけで、もう身体が変になる。

  ベッドに背を預けるように倒される。シーツが柔らかく沈み、腰の下に蛍太がクッションを差し込んだ。尻尾が潰れないように、位置を慎重に整えられる。その手つきが優しいのに、触れる場所がいちいち近くて、俺は何度も息を詰めた。

  「尻尾、痛くない?」

  「痛くない」

  「変なところ当たってない?」

  「当たってないから、早く」

  言ってしまってから、また耳が熱くなる。

  蛍太が俺を見下ろしていた。三色の耳を持った、可愛いはずの蛍太が、今は妙に雄っぽい顔をしている。可愛い。けれど、それだけではない。俺の初めてを欲しがっている男の顔だった。

  「早くって言った」

  「言ってない」

  「言ったよ」

  「聞き間違いだ」

  「耳いいから、今」

  「うるさい」

  蛍太が笑う。

  その笑い方が好きだと思いそうになって、俺は慌てて視線を逸らした。好きとまでは言えない。まだ早い。今日だけで色々ありすぎた。そう自分に言い聞かせるのに、身体は全然待ってくれなかった。

  蛍太の手が、俺の太腿に触れる。

  「っ」

  犬の身体になったせいなのか、ただ状況がおかしいせいなのか、触れられただけで腰が跳ねそうになる。指が毛並みを撫でて、脚の内側へゆっくり入ってくる。そこから先は、もう完全に逃げ場のない場所だった。

  俺は耳を伏せた。

  視線を逸らす。

  でも鼻が蛍太を拾う。

  近い。

  近すぎる。

  蛍太の興奮した匂いが、俺の脚の間まで落ちてくる。熱くて、甘くて、少し獣っぽい。自分からも似たような匂いがしているのが分かってしまう。恥ずかしい。けれどその匂いを、蛍太が嫌がっていないどころか、どんどん近づいてくるのが分かる。

  「匂い、近すぎる」

  俺は小さく言った。

  蛍太の指が止まる。

  「ごめん」

  「謝るな。そうじゃなくて」

  「嫌?」

  俺はすぐに答えられなかった。

  嫌じゃない。

  嫌では全然ない。

  それどころか、蛍太の匂いが近いと安心する。頭がぼんやりする。身体が勝手に開きそうになる。そんなことを正直に言えるわけがない。

  「……逃げられない感じがする」

  蛍太の目が揺れた。

  「俺も、千尋の匂いでずっとおかしい」

  「言うな」

  「言いたい」

  「言うなって」

  「好きな匂いだから」

  尻尾が揺れた。

  本当に、俺の身体はもう少し隠す努力をした方がいいと思う。

  蛍太の指先に、ローションが濡れて光る。見た瞬間、喉が鳴った。数日前、自分が買った荷物のことが頭をよぎる。あれは一人で試すためのものだった。誰にも知られず、暗い部屋で、興味だけを処理して終わるはずだった。

  でも今、俺は蛍太に見られている。

  蛍太の指が、触れる。

  「っ、あ」

  そこに触れられた瞬間、身体が固まった。

  恥ずかしい。

  怖い。

  けれど、その下に期待がある。

  蛍太は焦らなかった。ローションで濡れた指を、ゆっくりと馴染ませるように動かす。入口を撫でられる。そこに神経が集まっていることを、今日初めて思い知らされる。尻尾の根元がぴくぴく震え、耳が勝手に伏せた。

  冷たいローションと、熱い指先の温度差が、敏感な皺に直接染み込む。触れられているだけなのに、尻尾の根元がびくびくと震え、耳がぴったりと頭に伏せた。

  変だ。

  気持ち悪い。

  こんなところに触れられるなんて、絶対に慣れない。

  蛍太は焦らず、指の腹でゆっくりと円を描くように撫で始めた。ローションがぬるぬると広がり、窄まりの周囲を丁寧にコーティングしていく。その動き一つ一つが、俺の羞恥を抉るように感じられた。

  「力、入ってるよ……」

  蛍太の声が優しい。優しいから余計に恥ずかしい。

  「入るだろ、こんなの……」

  俺は歯を食いしばって答えた。声が上ずっているのが自分でも分かる。

  犬の耳が情けなく震え、巻いた尻尾がシーツの上で小さく丸まっている。逃げたいのに、蛍太の視線が俺の最も恥ずかしい部分をじっと見つめているのが、肌で感じてしまう。

  指先が、窄まりの中心に軽く押し当てられた。

  「ん……っ」

  息が詰まる。

  異物感が強烈だった。入ってくるわけでもないのに、ただ押されるだけで後孔が拒絶するように締まる。

  蛍太は根気強く、力を抜くのを待ってくれている。でも待てば待つほど、俺は自分が今どんな格好で、どんな場所を晒しているのかを意識して、頭が熱くなった。

  「ゆっくり、入れるね」

  蛍太が囁き、指の先端が、窄まりを押し広げながらゆっくりと沈み込んできた。

  「っ、う……、あ……!」

  声が漏れた。

  熱い。太い。異物が自分の身体の中に無理やり入ってくる感覚が、腰の奥を重く圧迫する。痛いというより、明らかに「入ってはいけないもの」が入っているという強烈な違和感が、全身を支配した。

  「は……っ、ん……」

  俺はシーツを爪で掻き毟った。肉球のできた指が布を握りしめ、耳を伏せ、尻尾を硬く巻いて耐える。蛍太の指が中指の第二関節くらいまで入ったところで、動きを止めた。

  「千尋……大丈夫?」

  「……動かないで、今は……」

  声が震えている。後孔が蛍太の指を締めつけ、異物感に慣れようと痙攣を繰り返す。息をするたびに、指が入っている実感が鮮明になり、羞恥で頭が真っ白になりかけた。

  蛍太は俺の太腿を優しく撫でながら、じっと待ってくれた。時間はゆっくりと流れ、徐々に指の熱が俺の内壁に馴染み始める。最初は「異物」だったものが、少しずつ「入っているもの」へと認識が変わっていく。

  「……少し、動かすよ」

  蛍太が指をゆっくりと浅く出し入れし始めた。ローションのぬるぬるした音が、静かな部屋に響く。最初はまだ違和感が強かった。でも、十回、二十回と繰り返されるうちに、摩擦の痛みが薄れ、代わりに熱いぬめりが内側に広がっていく。

  「ん……っ、は……」

  声の質が変わってきた。

  痛くはない。でも、気持ちいいとも言い切れない。奇妙な圧迫感と、満たされているような感覚が混ざり、腰の奥をむずむずと刺激する。

  蛍太の指が、少し角度を変えた。

  「っ……!」

  その瞬間、俺の腰がびくりと跳ねた。

  内壁の少し奥、腹側に、今まで感じたことのない、敏感な一点を指の腹が擦った。そこは熱くて、柔らかくて、触れられただけで電流のような快感が背筋を駆け上がる。

  「そこ……っ、何……」

  「ここ?」

  蛍太が意地悪く指を曲げ、もう一度その場所を優しく押した。

  「っ、あ……ああっ……!」

  声が裏返った。

  腰の奥が溶けるような、甘く重い快感が広がる。前立腺だ。頭では理解していたのに、実際に刺激されると予想を遥かに超えた。尻尾が勝手に激しく揺れ、耳がぴんと立ってはすぐに伏せる。

  「や……そこ、変……っ」

  「変じゃないよ。気持ちいいんでしょ?」

  蛍太の指が、ねっとりとその一点を擦り始める。ゆっくり、丁寧に、逃がさないように。最初は強すぎない圧で、まるで味見するように何度も往復する。

  俺の息が、勝手にどんどん乱れていく。

  「は……っ、ん、ぁ……あっ……」

  違和感はまだ残っている。

  でも、その違和感の奥から、確実に快感が顔を出していた。後孔が蛍太の指を締めつけながらも、もっと奥へ欲しがるように蠢いている。尻尾の根元が熱くなり、腰が無意識に小さく動いてしまう。

  蛍太が指を二本に増やした時、俺はもう抵抗できなくなっていた。

  二本の指が前立腺を同時に刺激し、ねちっこく揉むように動く。内壁が指に吸い付くような感覚。ぐちゅぐちゅと卑猥な水音が大きくなり、俺の喘ぎも抑えきれなくなっていく。

  「っ、あ……は、ぁ……んんっ……!」

  気持ちいい。

  最初はただの違和感だった場所が、今は熱い快楽の中心に変わっていた。蛍太の指が抜けそうになると、寂しささえ感じて締めつけてしまう自分が、たまらなく恥ずかしかった。

  蛍太が熱い息を吐きながら囁いた。

  「千尋……。すごく、締まってる……」

  俺はもう、言葉を返す余裕すらなかった。

  ただ、尻尾を震わせ、耳を伏せ、蛍太の指に翻弄されながら、甘い声で喘ぎ続けていた。

  その言い方が妙に危なくて、俺は蛍太を見てしまった。

  蛍太は俺の脚の間にいる。三色の耳を伏せて、顔を赤くして、俺の反応を見つめている。指はゆっくり動いている。優しいのに、逃がしてくれない。俺の身体が少しずつ開いていくのを、蛍太は全部見ている。

  その視線に耐えられず、俺は顔を逸らした。

  すると、視線が蛍太の下半身へ届いた。

  はっきりと、強烈に勃起している。

  その距離が、近すぎた。

  三毛猫の柔らかい毛並みに包まれた腰。その中心から立ち上がる、血管の浮いた肉棒。すでに先端から透明な液を滲ませ、熱を帯びて脈打っている。さっきまで指で俺を刺激していたせいか、その匂いが濃厚に漂っていた。

  雄の匂い。

  獣化した俺の鼻は、それを容赦なく拾い上げる。汗と興奮と、オスの甘く重いフェロモンが混ざった、頭がぼんやりするような濃密な香り。嗅いだ瞬間、脳の奥が痺れて、口の中に唾がじわじわと溜まっていく。

  「……っ」

  無意識に、鼻がひくついた。

  受け側に興味があった。

  男同士で繋がることに、ずっと好奇心を抱いていた。でも、それは自分がされる側、抱かれる側の想像ばかりだった。相手のものを、自分からしゃぶるなんて考えたこともなかった。

  なのに今、目の前にある蛍太のちんぽを、ただ見ているだけで、胸の奥が熱く疼く。

  「千尋……?」

  蛍太が俺の反応に気づいて、小さく声をかけた。

  その声すら、俺の耳を甘く震わせる。俺はもう、理屈では止められなかった。犬の鼻が、蛍太の雄の匂いに完全にやられてしまっていた。

  蛍太の匂いがする。

  蛍太の熱がある。

  蛍太が、俺に触れながら我慢している。

  「……ちょっと、舐めていい?」

  声が震えていた。自分でも情けないと思うのに、言葉は勝手に出てしまった。

  蛍太の指が止まる。

  言った瞬間、死んだ。

  完全に死んだ。

  俺は顔を覆いたくなったが、身体の位置がそれを許してくれない。耳は伏せ、尻尾は震え、口元は犬のそれになっている。何をしても、恥ずかしさが余計に表に出る。

  蛍太は完全に固まっていた。

  「千尋?」

  「忘れろ」

  「無理」

  「忘れろって」

  「舐めたいの?」

  蛍太の声が、低くなる。

  俺は答えられない。

  尻尾が揺れる。

  耳が伏せる。

  匂いが濃くなる。

  身体が勝手に答えてしまう。

  「……興味が、あるだけだ」

  やっと絞り出すと、蛍太の喉が鳴った。

  「じゃあ、試して」

  心臓が跳ねた。

  蛍太は本気だった。

  俺は後悔と興奮で頭がぐちゃぐちゃになる。言わなければよかった。言ったからには、やってみたい。やってみたいと思っている自分が怖い。蛍太がそれを受け入れてくれることが、もっと怖い。

  体勢を変える時、蛍太の手つきは少しだけ急いでいた。

  お互い、もう余裕がなかった。

  ベッドの上で、向きを入れ替える。いわゆる、そんな形だと分かった瞬間、俺は耳まで熱くなった。蛍太の下半身が俺の顔の近くに来る。俺の後ろには蛍太の手が届く。互いに、相手の一番恥ずかしい場所へ近づく形。

  「これ、絵面が終わってるんだけど」

  「今さら?」

  「今さらだけど」

  「嫌?」

  「嫌じゃないから困ってる」

  蛍太が息を詰める。

  俺は、蛍太のものを目の前にして、しばらく動けなかった。

  匂いが強い。

  犬になった鼻が、全部拾う。蛍太の汗、興奮、さっき出した名残、今また熱を持っている匂い。それが口元に近い。頭がぼんやりする。怖いのに、顔を背けられない。

  「無理なら」

  蛍太が言いかけた。

  俺はその言葉を遮った。

  「言うな。やめたくなるだろ」

  蛍太が黙る。

  俺は、ゆっくり舌を出した。

  最初に触れたのは、舌先だった。

  熱い。

  予想以上に熱くて、硬い。舌の上で跳ねるような弾力があり、先端から溢れた我慢汁が、しょっぱく甘い味を広げる。

  雄の味。蛍太の味。俺は目を細めながら、恐る恐る舌を這わせた。

  「っ……千尋」

  蛍太の声が低く掠れる。その反応が嬉しくて、俺はもっと大胆に舌を動かしてみた。亀頭の裏側をゆっくりと舐め上げ、カリ首の段差を丁寧に辿る。

  エロ同人誌で見ただけの知識だ。上手くなどできない。ただ、興味と興奮に突き動かされて、夢中で舐めているだけだった。

  匂いが口の中にまで染み込んでくる。

  鼻で嗅ぐより、舌で味わう方が遥かに濃厚だ。獣の、男の、欲情した匂いが、喉の奥まで直接流れ込んで、頭を蕩けさせる。俺は無意識に鼻を押しつけるようにして、根元近くまで顔を埋めた。

  「ん……っ、は……」

  息が熱い。

  初めてしゃぶるちんこは、想像していたよりずっと生々しくて、扱いづらかった。口に含もうとして唇を広げると、太さに驚いて少し歯が当たってしまう。

  「ごめ……」

  「大丈夫……優しいよ、千尋」

  蛍太が優しく頭を撫でてくれる。その手つきに甘えて、俺はもう一度、ゆっくりと亀頭を口に含んだ。

  ぬるぬるとした感触が口内を満たす。舌を絡め、頬を軽く凹ませて吸ってみる。すると蛍太の腰が小さく跳ね、甘い吐息が漏れた。その声が気持ちよくて、俺は夢中になって頭を前後に動かし始めた。

  たぶん、下手くそ。

  でも、止まらない。

  舌を必死に動かし、鈴口に舌先を押し当ててみる。溢れてくる我慢汁を啜りながら、竿の側面を唇で擦る。時々息が苦しくなって口を離すと、唾液と先走りが糸を引いて、俺の唇と蛍太のちんぽを卑猥に繋いだ。

  「は……っ、ん……ふ……」

  俺は自分の喘ぎ声すら抑えられなかった。後ろでは蛍太の指がまだ俺をほぐし続けているのに、口は蛍太のものを夢中でしゃぶっている。耳はぴくぴくと震え、尻尾は興奮で左右に激しく揺れていた。

  雄の匂いと味に、完全にやられていた。

  初めてなのに、俺は蛍太のちんぽをしゃぶることに、予想以上に夢中になってしまっていた。

  「っ、千尋」

  名前を呼ばれたその声だけで、耳が震える。

  蛍太の指が、また奥を撫でる。

  俺は蛍太のものを口に含み直した。上手いわけがない。どうすればいいのかなんて分からない。見たことはある。作品の中で何度も見た。けれど現実の舌はそんなに器用じゃない。息も苦しい。匂いは濃い。後ろは指で開かれている。

  なのに、蛍太が声を漏らすたび、もっとしたくなった。

  「千尋、やばい」

  蛍太の手が俺の腰を掴む。

  「ほんとに、かわいすぎる。そんな、慣れてないのに」

  その言葉が恥ずかしくて、腹が熱くなる。

  慣れていない。

  初めて。

  下手。

  それでも蛍太は気持ちよさそうにしている。

  俺がしていることで、蛍太が崩れている。

  そのことに、どうしようもなく興奮した。

  蛍太の指も乱れていく。最初は丁寧に入口を慣らしていたのに、俺が舌を動かすと、奥へ入る角度が少し深くなる。俺の身体がびくっと震え、尻尾が跳ねる。その反応で、蛍太の呼吸がさらに乱れる。

  お互いに壊し合っていた。

  「千尋、出ちゃう……」

  蛍太が切羽詰まった声で言った。

  俺は一瞬、離れようとした。

  けれど、蛍太の匂いが濃くなる。喉が鳴る。ここで逃げたら、何かを取りこぼす気がした。自分が何をしようとしているのか理解してはいなかったが、それでも口は離れなかった。

  蛍太の身体が震える。

  「っ、千尋、ほんとに、出る……!」

  熱が来た。

  口の中に、蛍太の熱が広がる。

  俺は固まった。

  味。匂い。体温。犬になった感覚は、それをあまりにもはっきり受け止めてしまう。逃げたい。どうすればいいか分からない。なのに、吐き出すより先に喉が動いた。

  飲み込んでしまった。

  自分でも信じられなかった。

  口元から少しこぼれて、顎の毛に触れる。蛍太がそれを見たのか、後ろに入っていた指が止まった。

  沈黙。

  蛍太の荒い息だけが聞こえる。

  「千尋」

  蛍太の声が、完全に壊れていた。

  「今の、ほんとに無理」

  俺は口元を拭おうとした。

  でも、その仕草まで見られているのが分かって、余計に身体が縮こまる。

  「言うな」

  「かわいすぎる」

  「言うなって」

  「初めてでそれは反則」

  「黙れ」

  「才能ありすぎ」

  「黙れ!」

  怒鳴ったつもりなのに、声が弱い。

  しかも尻尾が揺れている。

  最悪だった。

  蛍太は一度出したはずなのに、匂いが落ち着くどころか、むしろ濃くなっていた。俺が受け止めたことで、何かの箍が外れたみたいだった。蛍太が体勢を戻し、俺を見下ろす。

  三毛猫の顔。赤い目元。荒い息。欲で濡れた視線。

  「もう、入れたい」

  直接すぎて、頭が跳ねた。

  「言い方」

  「ごめん。でも、もう無理」

  蛍太の手が、俺の太腿を撫でる。

  「千尋を抱きたい」

  その言い直しも、大して逃げ場がなかった。

  むしろ余計に刺さった。

  俺は蛍太を見た。後ろはもう指で慣らされて、熱く疼いている。口にはまだ蛍太の味が残っている。身体中が、蛍太に触れられるために変わったみたいに敏感だった。

  「……俺も」

  蛍太の耳が震える。

  「俺も、何?」

  「言わせるな」

  「聞きたい」

  「お前ほんと、そういうとこ」

  俺は顔を逸らした。

  でも、言った。

  「蛍太に、入れてほしい」

  蛍太の匂いが、さらに強くなる。

  次の瞬間、キスされた。

  口の中に残った蛍太の味ごと、奪われるようなキスだった。さっきまでの優しいキスとは違う。欲が混じっている。けれど乱暴ではない。俺を確かめて、逃げないことを確かめて、もう離さないみたいなキス。

  ベッドに押し倒される。

  腰の下にクッションが差し込まれ、尻尾が潰れないように横へ逃がされた。蛍太はこんな時でも、そこだけは丁寧だった。そういうところが本当にずるい。

  「見下ろすな」

  「見たい」

  耳が伏せる。尻尾が揺れる。

  もう、何を隠しても無駄だった。

  蛍太が準備を整える。俺の後ろに、さっきより大きな熱が押し当てられた。指とは違う。分かっていたはずなのに、身体が一瞬で強張る。

  怖い。

  でも、欲しい。

  矛盾した感情が胸を潰す。

  蛍太の顔が近づく。

  「千尋、俺見て」

  「無理」

  「じゃあ、匂いだけでも覚えてて」

  その言葉に、鼻が勝手に蛍太を吸い込んだ。

  蛍太の匂い。

  好きだと言った相手の匂い。

  俺の初めてを、こんなにも欲しがっている雄の匂い。

  三毛猫の毛並みから立ち上る、汗と興奮とオスの熱が混ざった濃厚な香り。それを貪るように息を吸い込んだ瞬間、蛍太の熱く硬い先端が、俺の窄まりにゆっくりと押し当てられた。

  「っ、あ、ぐ……!」

  痛い。

  圧迫感が強い。

  身体が本能的に逃げようとする。耳が伏せ、尻尾が跳ねる。蛍太の腕に爪を立てる。蛍太はすぐに止まった。

  「千尋」

  「だい、じょうぶ、だから」

  嘘だった。

  痛い。熱い。異物が自分の一番奥深くに侵入してくる感覚に、頭が真っ白になる。

  けれどやめたいとは思わなかった。蛍太が、俺の中にいる。その事実が、痛みを上回る興奮を呼び起こしていた。

  自分の後ろに、蛍太が入ってきている。妄想でも、一人で試す予定だった玩具でもない。蛍太本人が、俺の身体の中へ入ってきている。

  「入って、る……」

  思わず呟いてしまった。

  そんな一言だけで、蛍太の呼吸が崩れる。

  「言わないで。俺も、やばい」

  「お前が入れてるんだろ……っ」

  「そう、だけどっ……」

  蛍太が俺の耳を撫でる。優しく、根元をなぞるように。

  その刺激で、身体の力が少し抜けた。

  蛍太がさらに奥へ進む。

  「っ、ん、あ……!」

  内壁が限界まで押し広げられる。熱くて太い肉棒が、俺の身体を完全に占領していく感覚。腹の奥が重く圧迫され、息が上手くできない。尻尾の根元が痺れるように震え、耳の先まで熱が上る。

  痛みの奥に、変な感覚が混じった。

  後ろなのに、尻尾まで響く。前まで熱が抜ける。腹の奥に蛍太の形がある。自分の身体が押し広げられているのに、どこかでそれを受け入れようとしている。

  蛍太が完全に入った時、俺はしばらく息ができなかった。

  世界が狭い。

  蛍太の匂いと、重さと、熱だけになる。

  「千尋」

  蛍太の声が震えている。

  「全部、入ったよ」

  「言うな……っ!」

  尻尾が跳ねる。

  恥ずかしい。怖い。痛い。気持ち悪い。気持ちいい。全部が混ざって、どれがどれだか分からない。

  蛍太は動かなかった。

  待っている。

  俺が呼吸を整えるまで、待っている。

  それが分かったら、また胸が熱くなった。

  「……動けよ」

  小さく言った。

  蛍太の目が揺れる。

  「いいの?」

  「何回も聞くな」

  「じゃあ、動く」

  最初は、本当にゆっくりだった。

  蛍太が少し引く。それだけで、身体の中を強く擦られる感覚があった。戻ってくる。奥を押される。尻尾の根元がびくっと震える。ちんこが熱くなる。

  最初はまだ痛みが残っていた。

  しかし蛍太が何度か往復するうちに、痛みの奥から甘く重い快感がじわじわと顔を出し始めた。特に、腹の奥の敏感な一点を擦られるたび、電流のような愉悦が背筋を駆け上がる。

  「っ、あ、これ、後ろなのに、……」

  言ってから、恥ずかしくて顔を覆いたくなった。

  蛍太の呼吸が荒くなる。

  「千尋、才能ありすぎ」

  「何のだよ……っ」

  「初めてで、こんな反応するの、かわいすぎる」

  「言うな、そんなの」

  「無理。ほんとにかわいい。後ろ、すごい締まる」

  「言うな!」

  怒っているのに、身体は勝手に蛍太を締めつける。

  蛍太が低く呻いた。

  その声で、耳が跳ねる。

  蛍太が気持ちよさそうにするたび、俺の中でも何かが弾ける。自分が受け入れている。自分が蛍太を気持ちよくしている。さっき口で受け止めた時と同じだ。いや、それ以上に直接的だった。

  俺の身体の中で、蛍太が気持ちよくなっている。

  その事実が、頭を焼いた。

  蛍太の動きが少しずつ深くなる。

  ゆっくりだったはずのリズムが、俺の反応に引っ張られていく。止めてほしい。止めないでほしい。待ってほしい。もっと奥まで来てほしい。矛盾した言葉が喉の奥で絡まって、うまく出てこない。

  「待って、蛍太、待っ……」

  蛍太が止まりかける。

  「待つ?」

  「待たないで」

  「どっち」

  「分かんない、でも、やめるな……!」

  言った。

  言ってしまった。

  蛍太の表情が、完全に崩れた。

  「千尋、ほんとに、もう無理」

  蛍太の腕が俺を抱きしめる。

  俺はその背中にしがみついた。三色の毛並みに顔を埋める。匂いが濃い。蛍太の匂いが、俺の頭を満たす。耳元で蛍太の声がする。好きだとか、かわいいとか、俺の名前とか、もう区別がつかない。

  蛍太が動く。

  俺の身体がそれを受ける。

  後ろから奥へ突き上げられるたび、尻尾が跳ねる。耳が伏せる。前が触られていないのに熱くなる。腹の奥がぎゅっと締まり、腰が勝手に蛍太へ向かう。

  「蛍太、やばい、俺、これ」

  「イきそう?」

  「触ってないのに、やだ、そんなの……っ」

  「千尋、かわいすぎる」

  蛍太の声も限界だった。

  「初めてで、後ろだけでイきそうなの、才能ありすぎだろ、ほんと」

  「言うな、言うなって……!」

  蛍太が意地悪く腰を動かし、一点を執拗に突き上げる。

  ねっとりと、奥を抉るように。肉棒の太いカリ首が前立腺を何度も擦り、俺の内壁を溶かすように刺激する。

  俺の尻尾が激しく左右に揺れ、耳が情けなくぴくぴくと痙攣した。

  「や……あっ、は……、んんっ……!」

  声が止まらない。

  後孔が蛍太の肉棒をきつく締めつけながら、もっと奥へ欲しがるように蠢いている。触られてもいないのに、俺のちんぽは先走りを垂らしてびくびくと跳ねていた。

  蛍太の動きが徐々に速く、深くなっていく。

  言われるたび、さらに熱が上がる。

  蛍太の匂いが濃くなる。

  蛍太も、限界が近いんだ、きっと。

  「千尋、締めすぎ。だめ、俺も」

  「蛍太、蛍太……!」

  名前を呼ぶ。

  呼ばずにいられなかった。

  その瞬間、蛍太が深く入ってきた。

  奥を押される。

  尻尾の根元が痺れる。

  前に何も触れていないのに、身体が勝手に弾けた。

  「っ、ああ……!」

  射精していた。

  後ろだけで。

  蛍太に抱かれながら、触られてもいないのに、イってしまった。

  恥ずかしさを感じるより先に、蛍太が俺の中で震えた。

  「千尋、好き、好きだ……!」

  蛍太も果てた。

  熱が、中に広がる。

  その感覚に、俺の身体がさらに締まる。蛍太が低く呻き、俺を抱く腕が強くなる。耳元で蛍太の息が乱れる。俺はもう何も考えられなかった。

  ただ、蛍太の匂いと、熱と、声だけがあった。

  しばらく、二人とも動けなかった。

  ベッドの上に崩れ落ちるように横たわり、蛍太の腕が俺を抱いたまま離れない。俺も離れる力がなかった。耳は力なく伏せ、尻尾もだらんとシーツに落ちている。身体の奥に、蛍太が残っている感覚があった。口にも、後ろにも、鼻にも、全部蛍太がいる。

  とんでもないことをした。

  そう思うのに、後悔が来ない。

  来るのは、強烈な羞恥と、疲労と、変な満足感だけだった。

  蛍太が、俺の耳に触れる。

  「千尋」

  「……何」

  「痛くなかった?」

  「今さら聞くのかよ」

  「怖くなかった?」

  「今さらだって」

  蛍太の声が、本気で不安そうだった。

  俺は、目を閉じたまま蛍太の胸元に顔を寄せた。三毛猫の匂いがした。さっきより落ち着いた、でもまだ熱の残る匂い。

  「気持ちよかったよ」

  言ってから、全身が固まった。

  蛍太も、固まった。

  俺はすぐに顔を上げた。

  「今のなし」

  蛍太の耳が、ゆっくり立った。

  「無理」

  「無理じゃない」

  「無理。今のは、無理」

  「忘れろ」

  「一生覚えてる」

  「殺すぞ」

  蛍太は笑った。

  疲れた顔で、でもものすごく幸せそうに笑った。

  俺はその顔を見て、もう何も言えなくなった。

  蛍太が俺を抱きしめ直す。今度は欲ではなく、ただ近くに置いておきたいみたいな抱き方。俺の耳を撫でる。頬の毛並みに指を通す。尻尾には触れない。たぶん、今触ったら俺がまた変な声を出すと分かっている。

  「好きだよ、千尋」

  優しい声だった。

  俺は、まだ好きとは返せなかった。

  でも、蛍太の胸元に顔を埋めた。匂いを吸った。安心した。尻尾が、ゆっくり揺れるのが分かった。

  「……知ってる」

  それだけ返すと、蛍太が小さく笑った。

  今日だけで、隠していた性癖も、変身した姿も、口も、後ろも、初めても、全部蛍太に知られた。

  知られたどころか、自分から渡した。

  なのに、嫌じゃなかった。

  むしろ、蛍太の腕の中から出たくないと思っている自分がいた。

  それが一番、どうしようもない。

  しばらく、蛍太の腕の中から動けなかった。

  身体の奥にはまだ、さっきまでの熱が残っている。息をするたびに胸の内側がゆっくり上下して、そのたびに毛並みが蛍太の身体と擦れる。

  耳は力なく伏せていて、尻尾もシーツの上にだらりと落ちていた。いつもならそんな状態の自分を想像するだけで死にたくなるはずなのに、今はもう、恥ずかしさの向こう側に身体が沈んでしまっていた。

  蛍太の匂いがする。

  三毛猫の毛並みの匂い。汗の匂い。さっきまで俺を抱いていた熱の匂い。人間の鼻なら、たぶんここまで分からなかった。けれど今の俺は、蛍太が少し息を乱すだけで、それを胸の奥まで吸い込んでしまう。

  情けないことに、安心した。

  「千尋」

  蛍太の声が耳元で落ちた。

  近すぎる。

  なのに、遠ざけたいと思えない。

  「終わったあとに急に優しくなるな。腹立つ」

  「終わる前も優しくしたつもりなんだけど」

  「そういうこと言うな」

  声に力は入らなかった。俺の耳も、尻尾も、反論する気がないみたいにだらけている。蛍太はそれを見て、少しだけ安心したように笑った。

  腹立たしい。

  でも、その笑い方が嫌いじゃない。

  蛍太の指が俺の耳の根元へ触れた。軽く撫でるだけの動きだったのに、背筋の奥がぴくりと震える。反射で耳が逃げようと伏せたが、蛍太の指は追いかけなかった。ただ、そこにあることを確かめるように、毛並みの上を優しく撫でるだけだった。

  「ほんとに、かわいい」

  「だから言うな」

  「言いたい」

  「我慢しろ」

  「無理」

  「お前、今日だけで無理って何回言った?」

  「千尋のせいでだいぶ言った」

  「人のせいにするな」

  そう返してから、俺は自分の尻尾が小さく揺れたのを感じた。

  蛍太も気づいた。

  お互い、何も言わなかった。

  沈黙が、逆に恥ずかしい。

  「カラー、外す?」

  蛍太が少し声を落として聞いてきた。

  その問いに、俺はすぐ答えられなかった。

  外したい。

  そう言うつもりだった。今の俺は耳も尻尾も毛並みも鼻も、何もかも自分のものなのに自分のものではないみたいで、落ち着かない。蛍太の匂いが分かりすぎるし、可愛いと言われるたびに尻尾が勝手に動くし、恥ずかしいことを隠す術がなさすぎる。

  人間に戻れば、この全部から逃げられる。

  少なくとも、今よりは普通に喋れるはずだ。

  それなのに、外すと言えなかった。

  蛍太の腕の中で、この耳を撫でられて、この尻尾を見られて、この匂いの濃い世界に浸っていることが、嫌ではなかった。嫌ではないどころか、少し名残惜しいと思ってしまっている自分に気づいた。

  「……もう少し」

  声が小さくなる。

  蛍太が息を呑んだ。

  恥ずかしいから、顔を逸らしたままで言う。

  「もう少し、このままでいい」

  蛍太は一瞬黙って、それから、すごく嬉しそうに笑った。

  「うん」

  「笑うな」

  「ごめん」

  「絶対ごめんと思ってないだろ」

  「思ってるよ。でも嬉しい」

  その正直さが、また胸に刺さった。

  何かを返そうとしたところで、部屋の扉が控えめにノックされた。

  俺の全身が跳ねる。

  耳が立ち、尻尾が丸まる。蛍太がすぐに俺へブランケットをかけてくれた。慌てた動きなのに、尻尾を潰さないようにしてくれるところが本当に腹立たしいくらい丁寧だった。

  「そろそろ大丈夫ですか?」

  ミツ姉の声だった。

  続いて、ノクスさんの声がする。

  「えっち、終わった? イけた?」

  「ノクスさん、言い方!」

  蛍太が扉に向かって叫ぶ。

  俺はブランケットの中で死にかけていた。

  終わった、という言葉の破壊力が強すぎる。いや、終わったのは事実だ。事実だからこそ、言葉にされると終わる。俺が。

  ミツ姉の声が続く。

  「入ってよければ入ります。駄目なら外で待ちます」

  そこはちゃんとしている。

  ちゃんとしているのに、隣にいるノクスさんのせいで全部台無しになりかけている。

  蛍太が俺を見る。

  「どうする?」

  「……入ってもらわないと駄目なんだろ」

  「状態確認は必要だと思う」

  「分かってる」

  分かっているが、今の俺はブランケットにくるまった柴犬の獣人で、さっきまで蛍太と初めてを越えたばかりだ。こんな姿を見られるくらいなら窓から逃げたい。窓はない。防音の個室に逃げ場がなさすぎる。

  俺は耳を伏せて、ブランケットをぎゅっと握った。

  「……いいです」

  扉が開く。

  ミツ姉が先に入ってきた。狐の尻尾を揺らし、白衣姿のまま端末を持っている。表情は穏やかで、視線も落ち着いていた。店長として、開発者として、状態確認をしに来た顔だった。

  その後ろから、ノクスさんがひょこっと顔を出す。

  目が合った。

  ノクスさんは俺を見て、眠そうに瞬きしたあと、あっさり言った。

  「顔、さらにかわいくなってる」

  「帰ってください」

  即答だった。

  ミツ姉が軽く咳払いをする。

  「ノクスくん、まずは体調確認です」

  「はーい」

  「千尋くん、意識ははっきりしていますか?」

  「しています。恥ずかしすぎてむしろ過剰にはっきりしています」

  「痛みは?」

  「……たぶん、大丈夫です」

  「気分の悪さは?」

  「精神的にはあります」

  「それは申し訳ありません」

  ミツ姉は真面目に謝った。その真面目さが逆に気まずい。

  ミツ姉は端末を操作しながら、俺の首元のカラーを確認した。触る前には必ず声をかけてくれる。耳や尻尾も、見るだけで済ませるところと、確認のために触れるところを分けていた。さっきまでのことを知っているのか、知らないのか、少なくとも顔には出さない。

  大人だ。

  いや、全員成人済みなのだが、そういう意味ではなく、ちゃんと大人だ。

  ノクスさんは違った。

  「耳、ぺたんってしてる」

  「実況しないでください」

  「恥ずかしい?」

  「見れば分かるでしょ」

  「うん。分かる。かわいい」

  「だから!」

  俺が声を上げると、尻尾がブランケットの下でばさっと動いた。

  全員の視線がそこへ向く。

  俺はブランケットを抱え込んだ。

  「見るな!」

  蛍太が口元を押さえていた。

  「お前も笑うな」

  「笑ってない」

  「耳が笑ってる」

  蛍太の三色の耳がぴくっと動く。

  「耳でバレるの、こんなに不便だったんだね」

  「今さら分かったか」

  「千尋の気持ちが分かってきた」

  「分かるな」

  ミツ姉は小さく笑ってから、端末をしまった。

  「カラーの安定性は問題なさそうです。変身後の姿も非常に安定しています。初回でここまで馴染むなら、適性はかなり高いですね」

  「それ、褒めてます?」

  「かなり褒めています」

  「褒め方が研究者なんですよ」

  「研究者なので」

  そう言われると何も言えない。

  ノクスさんがベッドの端に腰掛ける。尻尾を抱えながら、俺をじっと見る。

  「向いてるよ。すごく」

  「何にですか」

  「ここ」

  その短い言葉に、俺は少し黙った。

  ここ。

  この店。

  この、獣の姿になれて、可愛いと言われて、触れられて、隠していたものを変だと言われない場所。

  向いている。

  そう言われるのは、怖かった。

  でも、嫌ではなかった。

  ミツ姉が言う。

  「千尋くん。今日の結果を見る限り、キャスト候補としてはかなり有望です。姿の方向性も店に合っていますし、蛍太くんとの相性も良い。もちろん、働くかどうかは後日決めて構いません」

  「今日決めなくていいんですか」

  「はい。勢いで決めることではありませんから」

  ちゃんとしている。

  本当に、ちゃんとしている。

  さっきまで俺はこの店でとんでもないことをしていたのに、ミツ姉の言葉は現実的で、穏やかだった。

  「まずは研修扱いで仮登録、という形もできます。通常フロアだけでも構いませんし、えっちな接客については蛍太くんと相談してからで大丈夫です」

  「蛍太と相談」

  俺が蛍太を見ると、蛍太は少し赤くなりながらも真面目に頷いた。

  「千尋が嫌なことはしなくていい。俺も一緒に考える」

  その言い方が、さっきまでと地続きなのに、仕事の話にもなっているのが変な感じだった。

  でも、少し安心する。

  俺が一人でこの店に放り込まれるわけではない。蛍太がいる。ミツ姉もいる。ノクスさんも、からかいはするけれど、ちゃんと見てくれる。

  ノクスさんは尻尾を抱えたまま言った。

  「千尋くん、通常フロアでも人気出そう」

  「いや、あの、まだ」

  言い返した瞬間、ミツ姉が「あ」と小さく声を漏らした。

  「そうですね。正式登録するなら源氏名も必要です」

  「まだ登録するとは言ってないです」

  「仮です。仮」

  その仮という言葉、今日だけでだいぶ信用ならない。

  蛍太が俺をじっと見ていた。

  「何だよ」

  「じゃあ、チロルで」

  「何で」

  「千尋だし。茶色と白の毛並みに合うし。呼びやすいし」

  「可愛すぎるだろ」

  ノクスさんが頷く。

  「犬っぽい」

  「それ褒めてます?」

  「褒めてる」

  ミツ姉も少し考えてから頷いた。

  「いいですね。親しみやすい。甘い響きもありますし、毛色にも合っています」

  「三対一はずるくないですか」

  「僕もチロルに一票」

  「ノクスさんはもう数に入ってます」

  蛍太が俺を見る。

  「チロル」

  やめろ。

  その名前で呼ぶな。

  そう思ったのに、蛍太に呼ばれた瞬間、尻尾が揺れた。

  本当に終わっている。

  俺はブランケットに顔を半分埋めた。

  「……仮だからな」

  蛍太の耳がぴんと立つ。

  「うん。仮」

  「お前の仮は信用できない」

  「大事にする」

  「名前の話だよな?」

  「名前も」

  さらっと余計な意味を混ぜるな。

  ミツ姉は端末に何かをメモしながら言った。

  「では、仮登録名はチロルくんで。衣装は新しく仕立てましょう。茶色とクリーム色を基調に、首元は赤いリボンが良さそうですね」

  「まだ働くって」

  「仮の話です」

  「その仮、どんどん具体化してません?」

  「準備は早い方がいいので」

  ノクスさんがぼそっと言う。

  「身体測定もいるね」

  俺の耳が立った。

  「身体測定」

  ミツ姉は平然と頷く。

  「耳の位置、尻尾の位置、肩幅、腰回り、脚の長さ、毛並みの厚み。通常の採寸とは少し違います」

  「まあ、そうでしょうけど……」

  蛍太が横で小さく笑う。

  「絶対似合うよ、メイド服」

  「想像するな」

  「もうしてる」

  「するな!」

  また尻尾が揺れた。ノクスさんが言う。

  「尻尾は乗り気」

  「尻尾に人格を与えないでください」

  ミツ姉は満足そうに端末を閉じた。

  「それでは、今日のところはここまでにしましょう。千尋くん、カラーを外すかどうかは君のタイミングで構いません。外した後、バイトとしての説明資料を渡します。返事は後日で大丈夫です」

  「後日」

  「はい。今日一日で色々ありすぎたでしょうから」

  ありすぎた。

  その言葉があまりにも正しくて、俺は何も言えなかった。

  ミツ姉とノクスさんが部屋を出ていく。ノクスさんは最後に振り返って、手をひらひら振った。

  「またね、チロルくん」

  「まだ正式じゃないです」

  「でも似合ってる」

  扉が閉まる。

  また、蛍太と二人きりになった。

  さっきまでの湿った空気とは少し違う。もちろん、完全に消えたわけではない。ベッドも、匂いも、身体の奥に残る感覚も、全部まだそこにある。でも今はそれに加えて、妙な甘さと気まずさがあった。

  蛍太は俺の隣に座った。

  三色の耳が少し伏せている。

  「で」

  俺はブランケットにくるまったまま言った。

  蛍太が首を傾げる。

  「で?」

  「お前、俺のこと好きって言ったよな」

  蛍太の顔が一気に赤くなった。

  さっきまであれだけのことをしておいて、今さら告白の話で照れるのか。いや、俺も人のことは言えない。口にしただけで心臓がうるさい。

  「言った」

  「何回も言ったよな」

  「言った」

  「……あれ、店のノリとか、変身中の勢いとか、そういうのじゃないんだよな」

  蛍太は、今度は迷わなかった。

  「違う」

  短い返事だった。

  でも、十分だった。

  蛍太は俺を見る。三毛猫の姿なのに、その目はいつもの蛍太のものだった。大学で会う時の蛍太。俺の部屋でゲームをする蛍太。あの荷物を受け取ってしまった蛍太。俺をここへ連れてきた蛍太。

  「人間の千尋も、チロルの千尋も、どっちも好き」

  「その名前で呼ぶな」

  「ごめん。でも本当」

  逃げない。

  蛍太は、本当に逃げない。

  俺はブランケットの端を握った。

  「俺は、まだ分かんない」

  蛍太の耳が少し伏せる。

  その反応に、胸がちくりとした。

  だから俺は、慌てて続けた。

  「嫌って意味じゃない。分かんないだけだ。今日、色々ありすぎたし。お前に告白されるし、変身するし、犬になるし、初めてまで、その」

  言葉が詰まる。

  蛍太は何も言わなかった。待ってくれている。

  俺は息を吐いた。

  「でも、今日のことをなかったことにはしたくない」

  蛍太の目が揺れた。

  「蛍太と、もうただの友達に戻るのは無理だと思う」

  言ってしまった。

  言った瞬間、尻尾がゆっくり揺れた。

  今回は、止めなかった。

  蛍太はしばらく黙っていた。

  それから、小さく聞いた。

  「じゃあ、付き合うってことでいい?」

  「言い方が軽い」

  「軽くない。めちゃくちゃ本気」

  「本気ならもう少し言い方考えろ」

  「じゃあ」

  蛍太は少し考えて、真面目な顔になった。

  「俺と、恋人になってください」

  正面から言われると、これはこれで困る。

  顔が熱くなる。

  耳も熱い。

  尻尾はもう諦めた。勝手に揺れている。好きにしろ。

  「……仮で」

  蛍太が瞬きした。

  「仮?」

  「正式にするかは、これから次第」

  「仮恋人?」

  「その言い方やめろ」

  「でも、仮でも恋人?」

  「うるさい」

  蛍太が笑った。ものすごく嬉しそうに。

  「うん。がんばる」

  「何をだよ」

  「正式にしてもらえるように」

  「だから言い方」

  でも、嫌ではなかった。

  俺はまだ好きとは言えない。恋人という言葉にも、すぐには馴染めない。けれど蛍太が嬉しそうにしているのを見ると、胸の奥が少し温かくなる。

  そして尻尾が揺れる。

  もういい。

  今日は尻尾に負けっぱなしだ。

  しばらくして、蛍太が俺の首元を見た。

  「そろそろ、外す?」

  今度も、俺はすぐ答えられなかった。

  この姿でいることは恥ずかしい。蛍太に可愛いと言われるたびに身体が反応するし、匂いも音も全部近すぎる。人間に戻れば、少しは普通に戻れる。

  でも、外すのが少し寂しい。

  それを、蛍太に見抜かれたみたいだ。

  「外したくない?」

  「そんなわけない」

  即答した。

  尻尾が揺れた。

  蛍太が笑った。

  「またなれるよ。チロル」

  「その名前で呼ぶな」

  「似合うのに」

  「呼ぶな」

  「じゃあ、二人きりの時だけ」

  「もっと駄目だろ」

  「何で?」

  「何ででもだよ」

  文句を言いながらも、蛍太にカラーを外してもらった。

  留め具が外れる。

  首元から熱が引いていく。

  耳の感覚が薄れ、尻尾の重みが消え、毛並みが肌へ溶けるように消えていく。鼻に流れ込んでいた膨大な匂いの情報が、急に遠ざかった。音も減った。蛍太の呼吸も、シーツの擦れる音も、空調の低い振動も、全部が壁の向こうへ退いていく。

  人間の身体に戻った。

  いつもの俺だ。

  なのに、世界が少し足りなくなった気がした。

  「……静かすぎるな」

  正直な感想が、ぽつりと漏れた。

  蛍太が優しく笑う。

  「最初、戻るとそう感じるんだよね」

  「お前も?」

  「うん。俺も最初、耳がなくなった時ちょっと寂しかった」

  蛍太も自分のカラーを外した。

  三色の耳と尻尾が消え、いつもの蛍太に戻る。可愛い顔立ちの、大学の友達。いや、もうただの友達ではない。仮恋人とかいう、意味の分からない関係になった相手。

  人間に戻った蛍太を見て、胸が鳴った。

  変身していないのに。

  耳も尻尾もないのに。

  俺は、この蛍太にも触れたいと思ってしまった。

  蛍太も俺を見ていた。

  「人間の千尋も好き」

  「いちいち言うな」

  「言いたい」

  「我慢しろ」

  「無理」

  「本当に無理ばっかりだな」

  着替えて、乱れたベッドを整え、ミツ姉に声をかけてからフロアへ戻った。

  受付にはノクスさんがいた。いつものように頬杖をつき、尻尾を抱えている。ミツ姉はカウンターの内側で書類を用意していた。

  「お疲れさまでした」

  ミツ姉が言う。

  その言い方があまりにも普通で、逆に変な感じがした。

  手渡されたのは、仮登録の説明資料だった。勤務形態、守秘義務、カラー使用時のルール、接客範囲、報酬、緊急停止の手順。ちゃんとした書類だ。ちゃんとしすぎている。

  それと一緒に、報酬体系の書かれた紙が一枚。

  俺は何気なくそれを見て、固まった。

  「……桁、おかしくないですか」

  ミツ姉は涼しい顔をしている。

  「特殊技能職なので」

  「特殊技能職という言葉で全てを殴るな」

  「カラー適性者は希少ですし、接客内容も専門的です。安全管理費と口止め料、各種手当も含みます」

  「口止め料って明文化していいんですか」

  「明文化はしていません。今口で言いました」

  「もっと駄目じゃないですか」

  ノクスさんが受付でぼそっと言う。

  「慣れると普通」

  「この額に慣れたら人間終わりません?」

  蛍太が横から言う。

  「最初ビビるよね。俺も初日、詐欺かと思った」

  「詐欺じゃないのか?」

  ミツ姉が少しだけ笑った。

  「詐欺ではありません。私は別件の特許収入がありますので、ここで人件費を削る必要がないんです」

  「金持ちの趣味が強すぎる」

  「夢には維持費がかかりますから」

  さらっと言われて、俺は少し黙った。

  確かに、ここは趣味の店なのだろう。ミツ姉が金を持て余して作った、異常に贅沢な夢の場所。けれど、それだけではない。蛍太が泣きそうな顔で初めて三毛猫になった場所。俺が今日、隠していたものを全部知られて、それでも受け入れられた場所。

  夢には維持費がかかる。

  その言葉は、妙にしっくりきた。

  「まあ、でも、この額なら」

  俺は紙を見ながら呟いた。

  「月二でも生活変わるな……」

  蛍太が笑う。

  「現金だなぁ」

  「大学生を舐めるな。金は強い」

  ノクスさんが頷く。

  「チロルくん、現実的」

  「だからまだチロルじゃないです」

  「でも来るでしょ?」

  返事に詰まった。

  蛍太が隣で、じっと俺を見る。

  ミツ姉は何も急かさない。ノクスさんも、それ以上はからかわなかった。

  俺は書類を丸めるように軽く握った。

  「……考えます」

  蛍太の顔がぱっと明るくなる。

  「うん」

  「考えるだけだぞ」

  「うん」

  「勝手にシフト入れるなよ」

  「入れない」

  「メイド服もまだ作るなよ」

  ミツ姉が目を逸らした。

  「ミツ姉?」

  「布地の候補を見るだけなら」

  「作る気満々じゃないですか」

  ノクスさんが言う。

  「赤いリボン」

  蛍太が言う。

  「絶対似合う」

  「お前ら全員一回黙れ」

  フロアに笑いが広がった。

  最初にこの店に入った時は、世界がひっくり返ったと思った。今もひっくり返ったままだ。けれど、そのひっくり返った世界の中で、俺は笑っている。

  それが、少しだけ悔しかった。

  店を出る時、ノクスさんが受付で手を振った。

  「またね、チロルくん」

  「千尋です」

  「またね」

  「聞けよ」

  ミツ姉も穏やかに頭を下げる。

  「今日はお疲れさまでした。身体に違和感が残るようなら、蛍太くん経由でも直接でも連絡してください」

  「はい。ありがとうございました」

  本当に、ありがとうございましたで合っているのか分からない一日だった。何に感謝しているのか、どこからツッコめばいいのか、まだ頭が追いついていない。

  蛍太と並んで廊下へ出る。

  扉が閉まる。

  店の甘い香りが少し遠ざかる。

  エレベーターの前に立つと、急に現実に戻ってきたような気がした。普通の雑居ビルの廊下。白い壁。薄い床材。古い防犯カメラ。下の階には整体院と小さな事務所が入っている。そんな現実の中に、さっきまでの出来事だけが明らかに浮いている。

  蛍太は隣で、少し落ち着かなさそうにしていた。

  人間の姿の蛍太。

  いつもの蛍太。

  でも、もういつもの蛍太ではない。

  「千尋」

  「何」

  「手、繋ぐ?」

  俺は即答しようとして、できなかった。

  来るときは、蛍太が俺の手を取った。逃げそうだから、と言って。あの時の俺は、まだ店に入るのが怖くて、蛍太の手の温度に動揺していた。

  今は違う。

  怖いものはまだある。分からないことも多い。蛍太との関係も、仮なんて逃げ道を残している。

  でも、手を繋ぎたいと思ったのは、俺の方だった。

  エレベーターが来る。

  扉が開く。

  中には誰もいなかった。

  俺たちは無言で乗り込んだ。扉が閉まる。狭い箱の中に二人きりになる。蛍太が隣にいる。人間の姿で。耳も尻尾もない。匂いもさっきほど分からない。それなのに、距離の近さだけで胸が鳴った。

  蛍太が、何か言おうとした。

  その前に、俺は蛍太の襟元を掴んだ。

  「千尋?」

  名前を呼ばれる。

  その声が、たまらなく近かった。

  俺は、蛍太にキスをした。

  自分から。

  人間の姿で。

  最初は、唇を押しつけるだけだった。けれど、蛍太が驚いて固まったあと、ゆっくり俺を受け止める。腕が背中に回る。エレベーターの壁に背中が近づく。逃げ場はない。でも、逃げる気もなかった。

  唇を開く。

  蛍太の息が震える。

  舌が触れた瞬間、さっきまで獣の鼻で拾っていた熱が、今度は人間の口の中で蘇った。蛍太の味。蛍太の呼吸。蛍太が俺を好きだと言った声。全部が戻ってくる。人間に戻ったのに、身体が覚えている。

  蛍太の舌が、おずおずと俺に触れる。

  俺はそれを追った。

  自分でも驚くくらい深く、蛍太の口の中へ入っていく。蛍太が小さく声を漏らす。エレベーターの機械音が遠い。階数表示が変わっていく気配だけが、頭の隅でぼんやりしていた。

  何をしているんだ、と思った。

  公共の場だぞ、とも思った。

  でも、扉が開くまでの短い時間くらい、俺は蛍太に触れていたかった。

  蛍太が俺の腰を抱く。

  俺は蛍太の髪に指を入れる。

  さっきまで耳があった場所を、無意識に撫でてしまった。蛍太が少し笑うように息を揺らす。それでもキスはやめなかった。唇を離すと、細い唾液の糸が一瞬だけ繋がって、すぐに切れた。

  蛍太は真っ赤だった。

  俺も、たぶん同じくらい赤かった。

  「……千尋から、した」

  蛍太が呟く。

  「うるさい」

  「今の、仮恋人のキス?」

  「仮とか言うな」

  「じゃあ、恋人のキス?」

  エレベーターが一階に着く直前、俺は蛍太の胸を軽く押した。

  「調子に乗るな」

  でも、声に怒りは乗らなかった。

  扉が開く。

  外の空気が入ってくる。

  現実の夜だった。

  ビルの外に出ると、街の音が一気に戻ってきた。車の音、通行人の声、どこかの店の看板の明かり。さっきまでの部屋とは何もかも違う、普通の夜。

  蛍太が隣に立つ。

  少しだけ手が触れる。

  今度は、俺の方から指を絡めた。

  蛍太が驚いたように俺を見る。

  「手、繋ぐんだ」

  俺は前を向いたまま言った。

  「逃げ防止」

  「俺が?」

  「お前が」

  蛍太は笑った。

  「逃げないよ」

  「知ってる」

  「じゃあ何で?」

  俺は、少しだけ手に力を込めた。

  蛍太の手は、やっぱり温かかった。

  「……俺が、逃げないように」

  蛍太は何も言わなかった。

  代わりに、繋いだ手を少しだけ強く握り返してきた。