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冬時化、夕冷え

  午後四時を少し回ったところで、小さな港町の空はすでに鈍色に沈んでいた。

  海からの風が路地を吹き抜けるたびに、蒼汰(そうた)のコートの裾がはためく。シルエット重視で選んだ薄手のそれは、この寒さの前では完全に力不足だった。裾から覗く長い尻尾が、冷たい風に触れるたびに知らず知らず胴へと巻き込まれていく。普段なら黒真珠のようだと褒めそやされる毛並みも、防寒という点ではたいして役に立っていない。冬の海の厳しさを、甘く見すぎていた。蒼汰は何度目かわからないため息をついた。

  営業車をホテル近くの駐車場に入れてから、もう三十分は歩き回っている。

  駐車場から港の方へ向かうと、川があった。河口近くで海水と混ざり合って、青というよりは黒に近い色をたたえている。橋を渡ると、川沿いで風がさらに強くなった。目を上げると、対岸の山の稜線が鉛色の空とほとんど同化してしまっている。山が海まで迫り、そのわずかな狭間に町が息をひそめていた。

  蒼汰が寒さに耐えながら港の近くを歩いているのには理由がある。――腰、だ。

  東京からこの田舎の港町まで、自動車で片道六時間の道のり。高速を降りた頃には既に鈍い痛みがあり、町に入ってからの細くくねった道に、止めを刺された。チェックインまでまだ二時間ある。座って時間を潰せば、腰はますます固まる一方だ。そうなれば、明日の商談が保たない。営業という仕事は、体が資本だ。気概だけでは乗り切れない。

  整体か、あるいはマッサージか。

  だが、寂れた港町にそんなものがあるとは到底思えなかった。シャッターの下りた鮮魚店、錆びた自販機、誰もいない漁港の岸壁。それらしい看板はどこにも見当たらない。港の奥には灰色のコンクリートの壁が見えた。高い。町と海の間に割り込むように建っていて、その向こうから波の音だけを届けてくる。生活のための場所に、よそ行きの顔は不要。そんな空気が、路地の隅々にまで染みついていた。

  それにしても、人がいない。

  まだ四時だというのに、路地に出ているのは蒼汰だけだった。どこかで犬が一度吠えて、それきり黙った。電灯がぽつぽつと灯り始めているが、その下に人の気配がない。窓に明かりはついている。人はいる。ただ、誰もわざわざ外に出ようとしない。この寒さの中で用もなく路地を歩いているのは、よそから来た蒼汰だけだった。

  東京は人が多すぎて、いつも疲れる。人の波間を泳ぐように移動し、誰とも目を合わせずに帰宅する。それが蒼汰の日常だった。だが、これほど人気のない町に一人でいると――それはそれで、妙に、心細かった。自分の足音だけが妙に響く、と、白い息を吐きながら蒼汰は思う。

  諦めて引き返そうとした、そのとき。路地の奥に目が止まった。電柱に、手書きの貼り紙。

  『マッサージ 施術承ります 予約不要 先払い 及川重蔵(おいかわじゅうぞう)』

  文字は太いマジックで書かれており、飾り気がない。電話番号の代わりに矢印が書いてあって、奥の引き戸を指していた。

  蒼汰は三秒迷った。そして四秒目に、腰の痛みが背中を押した。

  [newpage]

  引き戸を開けると、土間が広がっていた。

  三和土(たたき)の隅に年季の入った長靴が二足。泥と潮が乾いて白く固まっている。壁には黄色い雨具がかかっていて、裾には海水の塩が結晶となって、鈍く白く輝いていた。天井からは漁網が吊るされ、照明の光をまだらに遮っている。部屋全体に、潮と魚と、それからエンジンオイルに似た古い匂いが染みていた。

  「……すみません」

  声をかけると、奥から足音がした。重い、ゆっくりとした足音。板張りの廊下がみしり、みしりと鳴る。

  現れた人物を見て、蒼汰は思わず半歩引いた。

  でかい。

  白熊だった。白い毛並みは薄汚れた作業着の上からでもわかる。だが都市で見る白とは別物だ。潮焼けで毛の先端が薄く茶けており、首筋から腕にかけては塩と日差しで繰り返し焼かれた跡が残っている。身長は二メートル近い。肩幅は蒼汰の倍ほどあり、胸板は分厚く、腹は力強く丸く張り出していた。脂肪と筋肉が幾重にも重なり合ったその体躯は、熊というより何か大きな自然現象に近い。顔は無表情で、目は薄い灰色。頬の毛並みに細い傷跡が一本、斜めに走っていた。

  ――手が、特別に大きかった。

  節くれだって、甲の皮が厚く硬化していた。漁師の手だ、と一目でわかった。指の関節は一回り大きく、爪の際に洗っても落ちない種類の黒ずみが残っていた。

  「マッサージか」

  声も、低かった。海底から届くような低音。視線が蒼汰の全身を一度だけ辿る。スーツ姿の黒猫を、値踏みするでもなく、ただ確認するように。

  「は、はい。腰が。その、長時間の運転で」

  「先払いだ」

  「あ、いくら……」

  「六十分、五千円」

  破格の値段に、蒼汰は目を白黒させる。都内の相場の三分の一以下だ。蒼汰は財布を出しながら、この値段で本当に腕があるのかと、少し不安になった。だが腰はもう限界だった。この際、どうにかなるならそれでいい。

  五千円札を渡すと、男は無言で奥に蒼汰を招いた。

  * * *

  部屋は六畳ほどの和室だった。

  施術台はなく、床に敷かれた厚手の布団がそれに代わっていた。枕元に小さな石油ストーブが置いてあり、部屋はそれなりに暖まっている。外と比べると、別世界のような温度だった。窓の外では風が唸り、波の音が低く続いている。柱の木材は黒ずんでいて、海の湿気を吸い続けた古い家の匂いがした。壁際には折り畳まれた作業着が重ねてあり、その横に錆の浮いたナイフが鞘におさまって立てかけてあった。

  窓の桟(さん)に、白い小石が数個並べてあった。角が丸く、表面が滑らかだ。川原の石ではない。浜の石だ。波に長い時間をかけて磨かれた、そういう白さだった。何気なく置いてあるようで、きちんと整っていた。

  「あ、あの。着替えはありますか。施術着というか……」

  「そんな高級なものはない」

  言い切った。蒼汰は少し間を置いてから、そうですか、と答えた。

  「スーツのまま施術はできない。脱いでもらう。下まで」

  「……下まで」

  「腰と尻が痛いんだろう。布があると奥まで届かん」

  正論だった。何も言い返せない。諦めて、蒼汰は身につけていたものを脱ぎ始めた。コート、ジャケット、ネクタイ、ワイシャツ。それからベルトを外してスラックスを脱いだ。スーツ一式をきちんと畳んで部屋の隅に置くと、白熊がちらりとそちらを見やった。

  「几帳面だな」

  「……癖なんです」

  それだけ言って、蒼汰は布団へと向かった。

  * * *

  重蔵は見慣れない客が着替える間、施術の準備をしながら横目で彼を観察した。

  客が脱ぐときの視線には、いくつか種類がある。慣れていない客は施術師の顔や身体を何度も確認する。自意識の強い客は鏡があれば自分を見る。だいたいの客は、部屋の隅や床を見ながら淡々と脱ぐ。

  この客は、違った。

  視線を、重蔵に向けなかった。一度も、だ。だが目を伏せているわけでもなかった。どこか中空の一点に焦点を合わせて、そこから動かさないようにしていた。スラックスを脱ぐ時も、シャツを畳む時も、その視線は一貫して同じ場所にあった。

  重蔵は、その種類の視線を知っていた。

  見ないようにしている視線だ。見たいから、見ない。そういう動きを、自分はずっとしてきた。

  ――気のせいかもしれない、とは思った。だが、それがほんの少しだけ、重蔵の意識に引っかかった。

  * * *

  蒼汰は下着一枚になって、布団に腹ばいになった。海風に晒され芯まで冷えていた身体が、ストーブの熱で少しずつ溶けていく。強張っていた背中の毛が、ストーブの熱に触れてわずかに逆立った。大きな白い布団の上で、蒼汰の黒い毛並みだけが場違いな色をしていた。尻尾が蒼汰の体の上でひとりでに丸まって、その先端だけが、何かを言いたげに小さく揺れていた。

  「どこが痛い?」

  「腰全体と、右の臀部にかけて、ですかね……」

  「運転は何時間だ?」

  「だいたい六時間くらいです」

  「そうか」

  それだけ言って、大きな手が背中に置かれた。その感触に、蒼汰は僅かに息をのむ。

  重い。そして、硬い。掌の皮が分厚く、指の腹にも節にもタコが何個も出来ている。指の皮が何度も裂けては固まったような感触が、背中を通して伝わってくる。だが動きは繊細だった。荒れた皮膚の下に、異様に鋭い感覚が宿っていた。痛みと気持ちよさの境界線を、正確に把握しているような指だった。

  「……手に傷、多いんですね」

  言ってから、余計なことを口走ったと思った。

  重蔵の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。それまでが途切れなかったから、止まったとわかった。

  「網とロープだ」

  「痛くないんですか」

  「慣れた」

  短く答えると、重蔵は施術を再開する。――だが蒼汰には、その一瞬の止まりがやけに長く感じられた。

  * * *

  重蔵の施術は、上手かった。最初の数分でそれがわかった。

  単純な力任せではなく、筋肉の走り方を知っている手だった。肩甲骨の際を親指で丁寧にほぐしてから、脊柱の両側を掌底で押し流す。背筋の奥に埋まったコリを、指が正確に探り当てていく。当たるたびに、痛みと気持ちよさが混ざった吐息が漏れそうになった。

  蒼汰はマッサージを受けながら、頭の中で明日の仕事の段取りを確認しようとした。商談相手の名前、提案書の順序、想定される質問への返答。だが重蔵の手が背中を動くたびに、そういった思考が少しずつほぐれていった。

  「……どこで習ったんですか」

  「習ってない」

  「独学ですか」

  「魚を捌くのと同じだ」

  「……魚と」

  「どこに骨があって、どこに身が詰まってるか。人間も同じだ。筋がある、脂がある、硬くなってる場所がある。手で探せば分かる」

  意外に言葉が出てきた。蒼汰は少し驚きながら、その答えを反芻(はんすう)した。なるほど、と思った。この手は人間の身体を、魚と同じように読んでいる。

  首の付け根から肩にかけて、重蔵の親指が深く食い込んだ。蒼汰の口から短い声が出る。痛みではなく、解放の音だ。黒猫の耳が、ぺたりと横に寝る。

  「ここ、かなり酷いな」

  「運転で……」

  「肩に力が入る癖がある」

  重蔵の指摘は正確だった。無意識に肩を上げて運転する癖があると、かつての整体師にも言われたことを思い出す。

  「……分かりますか」

  「骨の浮き方で分かる。網を引く時と同じ力み方だ」

  漁師の例えだった。蒼汰にはよく分からなかったが、重蔵の中では何かが正確に繋がっているらしかった。

  「どこから来た」

  施術の手は止めないまま、唐突に。

  「……東京です。出張で」

  「何をしに」

  「取引先への挨拶と、新規提案です。この辺りは水産加工業者が多いので、年に何度か来るんですよ」

  重蔵の手が、一拍だけ止まった。

  「何を売ってる」

  「水産加工機械です。地味でしょう?」

  「そうでもない」

  その言葉に蒼汰は少し驚いて、続きを待った。

  「お前みたいな仕事がなければ、うちの魚は売れない」

  「……そういう見方をするんですね」

  重蔵は答えなかった。水産加工機械。取引先の加工業者から、冬はカニとタラを獲ると聞いていたことを、蒼汰はふと思い出す。

  「そういえば、冬はカニを獲るんですよね。他の魚みたいに、網で引っ掛けるんですか?」

  重蔵は少し間を置いた。

  「籠を使う。前日に仕掛けておいて、翌朝引き上げる。深いところに入れるから、引き上げるのが重い。腕と背中にくる」

  「あとは、確かタラも……」

  「そうだ。延縄(はえなわ)というのを使う。半島の沖まで出る」

  「半島、というのは」

  「この町の南の方だ。岬が張り出してる。あっちは沖まで出やすい」

  蒼汰は頭の中で地図を辿った。来る途中に走ってきた、山と海が交互に迫るあの海岸線。確かに、あちこちに半島が突き出していた。

  「タラって、大きいんですか」

  「でかいやつは一メートルを超える。冬のタラは白子がある。それが美味い」

  「……重蔵さんが言うと、説得力がありますね」

  貼り紙の名前が、自然と口をついて出た。施術の手が一瞬だけ止まった。それだけだった。

  * * *

  「……漁師の冬って、暇なんですか?」

  「暇というより、出られない。時化が来たら何日も続く。修繕して、寝る」

  「寝る」

  「冬は暗い。朝から晩まで曇ってる日が続く。そういう時は眠るしかない」

  「……ここから離れたいと思ったことはないですか」

  「ある」

  あっさりと言った。

  「若い頃は、あった。だが船は親父のものだった。腰をやってからは俺が継いだ。継いでしまえば、もう動けない。漁の権利は、この港にある。持って行けるものじゃない」

  「……じゃあ、ここから出られない」

  「そうだ」

  諦めでも嘆きでもなく、ただ事実として重蔵は言った。

  「この漁で、この家で、この町で、死ぬまで生きる。それ以外に、俺の生き方はない」

  蒼汰はうつぶせのまま、その言葉を受け取った。――感傷がなかった。押し殺しているのとも違う。海があって、漁をして、死ぬ。それだけのことだ、という声音だった。

  重蔵は施術を続けながら、蒼汰の沈黙を聞いていた。黙るにも、いくつか種類がある。話すことがない黙り方、言葉を探している黙り方、何かを自分の中に落としている黙り方。この客の今の黙り方は、最後のそれだった。返事をしないのではなく、受け取って、どこかに収めようとしている。そういう静けさだった。――網を下ろす前に水面を読む時と、同じ黙り方だ、と重蔵は思った。

  それきり、しばらく沈黙が続いた。外の風と、ストーブの音と、重蔵の手だけが、部屋に響いていた。遠くで、波が岸壁を打つ音が低く続いていた。

  腰に差し掛かると、重蔵の動きが変わった。より慎重に、より深く。仙骨の周りを丁寧に解していく。硬化した掌の皮が、蒼汰の腰の皮膚をわずかに引っ張る感触がある。荒れているのに、痛くない。それが不思議だった。

  「痛いか」

  「いや、気持ちいいです」

  正直に答えてしまった。重蔵は何も言わなかった。

  熱が腰から広がっていく。凝り固まっていた筋肉が、じわじわと緩んでいく。蒼汰は目を閉じ、意識が溶けていくのに身を任せた。重蔵の手から潮の匂いが薄く漂っていた。洗っても落ちない、海だけが刻む匂い。それがなぜか、ひどく遠かった。

  [newpage]

  最初のアクシデントは、施術が三十分ほど経った頃に起きた。

  臀部の施術に入るため体勢を横向きに変えさせようとしたとき、腰に添えた手が角度を誤った。大きな手の甲が、股間をかすった。

  ほんの一瞬だった。重蔵はすぐに手を引いた。

  蒼汰の口から、短い息が漏れた。

  声とも言えない、息の乱れ。――重蔵の丸い耳が、それを正確に拾った。痛みでも驚きでもない、もっと別の種類の音だ。重蔵は何も言わず、施術を続けた。臀部の筋肉を丁寧に解しながら、内心で静かに考えていた。

  気のせいかもしれない。不意打ちで誰でもああいう声は出る。腰回りの施術は敏感な部位に近い。意味はない。

  長年、荒れた海を読んできた習慣が、今は全く別の変化を拾おうとしていた。――だがまだ早い。一度の波で海は読めない。

  そう結論づけて、重蔵は黙々と手を動かし続けた。

  * * *

  二度目は、臀部の施術を続けている途中だった。

  筋肉の深い部分にアプローチするために、親指をやや強く食い込ませた瞬間、蒼汰の尻尾がぴんと跳ねた。

  それ自体は珍しいことではない。猫獣人は尻尾が感情に正直だ。痛みや驚きで反射的に動く。だが同時に、蒼汰の耳がわずかに赤みを帯びているのが目に入った。顔は布団に向いていてよく見えない。

  だが耳は、見えた。

  黒い毛並みの中で、透けるように赤い。熱が上がっている。痛みからではなく、別のところから来ている熱だ。

  魚は釣れる前に予兆を出す。流れが変わる。水面が微かに揺れる。それを見逃さない目が、今ここで全く別の予兆を捉えていた。

  重蔵はそのまま施術を続けながら、先ほどの結論を少し保留した。

  * * *

  「肩と首をやる。仰向けになれ」

  四十分ほどが経っていた。

  蒼汰は言われた通りに体勢を変えた。その時、重蔵の視線がごく自然な動きの中で一瞬だけ、下着の前に落ちた。

  薄く、わずかに。だが確かに。

  膨らんでいた。

  蒼汰はそれに気づいていないか、あるいは気づいていて知らぬふりをしているか。目は天井に向いており、無関心を装っていた。黒猫の耳だけが、本人の意思に反して、ほんのわずか内側に折れている。――感情を隠せない体の、正直な部分だ。

  重蔵は何も言わなかった。

  肩の施術に入りながら、頭の中で整理した。腰回りで反応する客は、たまにいる。恥ずかしいだけで、深い意味はないことが多い。

  まだ、わからない。――だが、わからないと結論づけようとする自分の手が、わずかに遅かった。いつもより一拍、時間がかかっていた。

  重蔵は首の付け根に指を当て、丁寧にほぐし始めた。

  * * *

  肩の施術のために、重蔵の上体が蒼汰の顔の近くまで傾けられた。

  肩甲骨の裏の筋肉に届かせるための、自然な体勢だ。重蔵の顔が、蒼汰の耳のそばに近づいた。白い毛並みと潮と、かすかに魚の脂の混じった体臭が、鼻先に届く距離だった。

  蒼汰の呼吸が、浅くなった。

  施術を受けながらの、あの落ち着いた呼吸ではなくなった。胸が短く上下する。意識して抑えようとしているのがわかるような抑え方だった。目は薄く開いたまま、横目にこちらを見ていた。見ているのに、重蔵と決して視線を合わせようとしなかった。――まただ。また、この視線。

  重蔵は肩甲骨の施術を続けながら、客と自分の変化について考えていた。

  掌が、わずかに熱を持っている。施術でそうなるのとは違う種類の熱。この距離で、この客の呼吸を聞いていると、手の動きよりも先に別のものが動こうとする。それを、施術の動きに変換しながら続けた。

  分かってきた。

  凪の海は読めない。波が立ってから初めて、風の向きがわかる。――ほぼ、分かってきた。だが、まだ確かめ足りない。思い込みで動いて外したくなかった。確信が持てないまま踏み込めば、施術師としての一線を越える。それに何より、外したくなかった。この黒猫が嫌がる顔を、見たくなかった。

  だから重蔵は、もう少しだけ、確かめる。

  * * *

  「またうつぶせに。腰の続きをする」

  「……さっきので終わりじゃなかったんですか」

  「臀部から太腿にかけて、つながってる。腰痛の根っこはそっちにある場合が多い」

  本当のことだった。嘘はない。蒼汰は重蔵の指示に従い、再びうつぶせになった。

  重蔵は臀部から太腿への移行部分に手を当てた。親指をゆっくりと動かしながら、筋肉の際を辿る。施術として、正当な動きだった。節くれた親指が、細い筋肉の隙間を正確に探り当てていく。

  そのまま、親指をほんの少しだけ内側に動かした。ギリギリの位置で止めた。

  一秒。二秒。三秒。

  蒼汰の息が止まった。

  だが、逃げなかった。

  それどころか、蒼汰の身体の力がわずかに抜けた。緊張が解けたのではなく、受け入れるような種類の脱力だった。細い腰が、ほんの微かに、重蔵の手に向かって沈んだ。――拒絶の動きではなかった。それとは正反対の、もっと別の動き。

  重蔵は親指を元の位置に戻し、施術を続けた。

  分かった。だが手が止まった。

  止まったのは、動けなかったからだけではない。自分の身体が、既に正直だった。それに気づいた瞬間、余計に動けなくなった。この町は狭い。噂はすぐ広まる。客に手を出した、しかも男に。知られれば――この漁も、この家も、この町での生活も、全部終わるかもしれない。

  一人で生きると、決めた。それが一番、安全だった。ずっとそう思ってきた。

  安全だから惹かれているのではない。この男が、惹かれる何かを持っているから、こうなっている。それだけだ。だから確かめ続けた。何度でも足りないかもしれないと思いながら、それでも動けずにいた。

  * * *

  「ここ、凝ってるな」

  太腿の内側に手を置きながら、重蔵は言った。実際に、そこは固かった。長時間の運転で強張っていた。だが手の位置は、境界線の際だった。

  蒼汰の返事が、一拍遅れた。

  「……そう、ですか」

  声が上ずっていた。わずかに。気づかない程度の変化だが、重蔵は気づいた。長年、海の微かな変化を読んできた、その耳だ。

  「痛くないか」

  「……はい」

  「力を抜け」

  「……抜いているつもりですが」

  「抜けてない」

  蒼汰が息を一つついた。太腿の力が、少しだけ緩んだ。

  重蔵はそのまま内転筋をゆっくりとほぐした。施術の手つきで。荒れた指の腹が、黒猫の内腿の毛並みの上をゆっくりと動く。白と黒が、布団の上ではっきりと対比になっていた。蒼汰の呼吸が乱れていくのを、重蔵は指を動かしながら聞いていた。

  * * *

  最後の確認をすることにした。

  重蔵は太腿の施術をいったん止め、そのまま動かなかった。

  五秒経った。

  蒼汰は何も言わなかった。だが腰が、ほんの僅かに動いた。逃げる方向ではなく、重蔵の手に向かって、無意識に、寄ってくるような動きだった。

  それで、十分だった。

  重蔵の中で、すべての疑問が消えた。

  だが声が出なかった。この一言を言えば、もう後には引けない。客が怒れば終わりだ。怒らなくても、後でどこかで話されれば終わりだ。――だが、動けない理由は、恐れだけではなかった。嫌がってほしくなかった。ただ、それだけのことが、動けない理由の大部分を占めていた。

  重蔵は蒼汰の腰に触れたまま、しばらく動かなかった。外で風が唸った。波の音が続いている。だが蒼汰の腰は、まだそこにあった。逃げていなかった。

  重蔵は、ゆっくりと太腿から手を離した。

  そのまま、蒼汰の手へと、自分の手を動かした。

  布団の上に置かれた蒼汰の手。細い指の、黒猫の手。重蔵の節くれだった手が、その上にそっと重なった。完全に覆ってしまえる大きさだった。白い毛並みの手が、黒い毛並みの手を包んでいた。色も、大きさも、硬さも、何もかもが違った。それでも、そこにあった。

  触れた。それだけだった。握りもしない。押さえもしない。ただ、重ねた。

  蒼汰の手が、わずかに強張った。息が止まったのがわかった。

  重蔵は動かなかった。

  三秒経った。五秒経った。

  蒼汰の手の力が、少しずつ抜けていった。強張りが解けて、ただの手になった。重蔵の手の下で、静かにそのままでいた。

  重蔵は息を一つ、静かに吐いた。

  「……このまま、続けるか」

  出した声は、少しだけ震えていた。

  今度は手だけではなく、蒼汰の身体全部が固まった。一瞬で全身の筋肉が緊張するのがわかった。驚きと、気づかれていたことへの羞恥と、それでも答えられない何かが混ざった、固まり方だった。

  返事はなかった。ただ、ほんの少しだけ蒼汰の手が動いた。握るように、僅かに。――それを、重蔵は肯定と受け取った。

  [newpage]

  「仰向けに」

  今度の声は、少しだけ違った。

  施術師の声ではなく、別の何かが混じっていた。蒼汰はそれに気づいたらしく、仰向けになりながら顔を横に向けた。目が合うのを避けているようだった。

  黒猫の耳が横に倒れている。

  重蔵は何も言わなかった。

  蒼汰の状態は、見ればわかった。下着の布地が、内側から押し上げられていた。重蔵はそこから視線を外して、太腿の施術を再開した。今度は内側を、より素直な意図で。蒼汰の息が短くなっていく。身体の力が抜けていく。

  蒼汰は天井を見ていた。

  何も言わなかった。問いもしなかった。ただ顔が少しずつ赤みを帯びていき、息が乱れ、そして黒猫の耳が完全に寝た。

  重蔵の動きが、ある場所で止まった。

  太腿に手を置いたまま、少しだけ上体を蒼汰の方に傾けた。距離が縮まった。重蔵の体温と潮の匂いが、鼻先に届く距離だった。

  蒼汰は目をつぶった。そのまま、動かなかった。

  重蔵は蒼汰の顔を、少しの間だけ見た。閉じた目を。赤い耳を。小さく開いた唇を。頬の黒い毛並みが、ストーブの光を受けてわずかに輝いている。

  それから、ゆっくりと顔を近づけ、触れた。口の端に、かすかに。問いかけるような触れ方だった。重蔵の潮焼けした毛先が、蒼汰の頬の毛並みと混ざる。

  蒼汰の喉がわずかに動く。目が、開いた。黒い瞳が、重蔵の薄灰色を見る。見つめる。

  二人の間に、言葉はなかった。

  重蔵が、もう一度唇を重ねた。今度は少しだけ深く。蒼汰の息が止まって、それから、ゆっくりと溶けた。

  重蔵は蒼汰の太腿に置いていた手を動かさなかった。

  まだ引き返せる、と思った。

  施術を終わらせて、料金はもらった、お大事に、それで終わらせることができる。この客は明日にはいなくなる。何事もなかったように漁に戻ればいい。誰も知らない。

  ――引き返すことが、怖かった。

  だが蒼汰は目を開けた。重蔵を見た。視線を外さなかった。

  重蔵の手が、動いた。

  「……下着も脱げ」

  出した声は、少し低くなっていた。

  * * *

  理由など説明できなかった。疲れていたから、腰が楽になっていたから、この白熊の手が確かだったから。どれもが本当で、そしてどれもが言い訳だった。衣擦れの音。唯一身につけていた下着を、蒼汰は己の意思で取り去る。

  何も纏わずに横たわった蒼汰の太腿に、重蔵の手が戻ってきた。今度は施術の体裁すら整っていなかった。分厚い掌が内腿の肉をゆっくりと包んだ。硬化した皮の感触は、柔らかな手とはまるで別の刺激だった。タコの育った指の腹が、黒猫の薄い毛並みの上を滑る。白くて荒れた手が、黒い細い毛並みに触れている。荒れているのに痛くない。その矛盾が、かえって神経を混乱させた。

  「っ……」

  「声、我慢しなくていい」

  意思のある触り方に反応した声が、聞こえていたらしい。蒼汰は耳の先まで熱くなるのを感じた。黒猫の耳がぺたんと横に倒れる。黒い耳は薄く、赤みが外から透けて見えた。蒼汰は思わず顔を覆う。

  「見せろ」

  「……え」

  「顔だ」

  言葉が、ただ上から落ちてきた。静かで重い。海の底から来るような声。蒼汰は渋々と手をどけた。途端に、爛々と光る灰色の瞳が、まっすぐに向いてきた。

  「あ……」

  蒼汰の目を見つめたまま、重蔵の手が蒼汰の立ち上がった根元を掴んだ。

  「っ……」

  大きな掌だった。白熊の手は、黒猫の屹立を余裕で包んでしまえる大きさだ。熱い。そして、硬い。漁師の掌の皮が直接伝わってくる感触は、自身の滑らかな手で触れられるのとはまるで違う種類の刺激だった。皮膚の摩擦が、神経に直接届いてくる。施術の時から知っていた感触だ。だがこうして、このために触れられると、同じ手が別の意味になった。

  「あ、っ……」

  声が漏れた。意図せず。重蔵はそれに応えるように、ゆっくりと手首を返した。根元から先端へ、一度だけ。それだけで蒼汰の腰が浮いた。だが、一度だけだった。握ったまま、止まった。掌の熱が、荒れた皮膚の凹凸が、圧として伝わり続けている。なのに、動かない。蒼汰の腰が気づかないうちに揺れた。

  今さら、文句を言える立場ではなかった。既に体は正直で、重蔵の手の動きに合わせて腰が動こうとしている。黒猫の尻尾が布団の上を叩いた。

  重蔵は急がなかった。

  施術の延長線上にあるような、丁寧で的確な動きだった。どこに力を入れ、どこを緩めれば声が出るか、もうすっかりと把握しているような手だ。指の腹の硬さが擦れる感触、掌の熱、手首の動きが作るリズム。蒼汰が堪えきれずに声を漏らすたびに、少しだけ動きが遅くなる。焦れる。焦れてしまう。

  「……もっと、」

  言いかけて、蒼汰は口を閉じた。重蔵の手が止まった。止まった状態でも、掌の熱と硬さが伝わってくる。薄灰色の目が、真っ直ぐに蒼汰を見ていた。無表情なのに、その目の奥に何かがある。蒼汰はそれを見て、背中が震えた。しばらく天井を見つめ、それから、重蔵の手首に自分の手を重ねた。そのまま、ほんの少しだけ押した。動いてほしい、と言葉で伝える代わりに。

  薄灰色の目が細くなった。重蔵は頷かなかった。ただ、手が動いた。

  その瞬間、蒼汰の口から息が漏れた。止まっていた時間の分だけ、感覚が鋭くなっていた。指の腹が、鋭敏な器官を撫でていく。掌が締まるたびに、腹の奥から熱が押し上がってくる。

  「……っ、は」

  声が出た。抑えようとしたが、抑えきれなかった。重蔵の動きが、ほんの少し速くなった。

  * * *

  限界が近くなった頃、重蔵の動きが変わった。止まったのではない。視線が、蒼汰の股間に注がれたまま動かなくなった。薄灰色の目が細くなった。呼吸が、わずかに変わった。そして蒼汰が、それに気づいた。

  「……どうしたんですか」

  重蔵は答えなかった。しばらく、動かなかった。それから立ち上がった。

  蒼汰は目で追った。巨体が立ち上がると、部屋の圧が変わる。天井が低くなる。重蔵は作業着の前ボタンを、音もなく外し始めた。

  「……え」

  重蔵は答えなかった。着ているものを、すべて脱いだ。

  蒼汰は息を呑んだ。

  白い毛並みが部屋に広がった。潮焼けで毛先が茶けた白。肩から腕にかけての筋肉の盛り上がりは、都市で生きる身体とはまるで違う。引いて、持ち上げて、嵐の甲板で踏ん張り続けてきた筋肉だ。厚い胸板、そして丸く前に張り出した腹。だが柔らかいだけではなく、その下に確かな硬さがある。腕の皮には細かい傷跡が散っていた。網に切られた跡、ロープに焼かれた跡。施術のあいだ指先で感じてきた傷跡が、今、すべて晒されていた。

  ――そして、重蔵の中心で、昂った熱の証が屹立していた。その大きさを目にして、思わず感嘆の声を漏らす。

  「……おおきい」

  「何が」

  蒼汰は答えなかった。目を逸らした。

  しばらく、重蔵は立ったまま蒼汰を見下ろしていた。薄灰色の目が、蒼汰の全身をゆっくりと辿った。施術の時の目つきではなかった。静かだが、確かな熱を持った目だった。視線が股間に落ちたとき、重蔵とのあまりの違いに、思わず手で隠そうとした。

  重蔵の手が伸びた。蒼汰の手首をつかんで、静かに布団の上に戻した。

  重蔵はそのまま膝をついた。布団がその重さで深く沈む。だが覆いかぶさってはこなかった。蒼汰の腰の横に、大きな手が置かれた。重蔵は何も言わなかった。ただ、静かに顔を下げた。

  「っ、ちょ」

  蒼汰の声が上ずった。重蔵の口が亀頭に向かっていた。止める間もなかった。大きな手が蒼汰の腰骨を押さえ、そのまま。

  「あ、あっ……!」

  熱かった。

  白熊の口は大きい。蒼汰のそれを難なく収めて、一切の遠慮なく根元まで飲み込んだ。そのまま舌が根元から先端へ、一度だけゆっくりと動いた。粘膜の熱と湿り気、舌のざらつきが、一度の動作で全部伝わってくる。再び蒼汰の腰が跳ねた。重蔵の手が押さえていなければ、逃げていたかもしれない。

  施術と同じだった。焦らない。急がない。どこが効くかを静かに探りながら、確かめながら動く。裏筋を舌先でゆっくり辿り、先端の窪みを丁寧に押さえ、そうかと思えば根元まで深く飲み込んで喉の奥で締める。それを繰り返すたびに、蒼汰の脚の力が抜けていった。

  声を堪えようとするたびに、白熊の分厚い舌が新しい場所を探り当てた。堪えたはずの息が、また別の場所で漏れる。繰り返すうちに、堪えることの意味がわからなくなってきた。喉が、腹が、脚が、順番に力を失っていく。

  「は、あ……っ、ま、待っ」

  重蔵は待たなかった。低い声が、熱い息とともに、わずかに響いた。その振動まで伝わってきて、蒼汰は背中を浮かせた。手が咄嗟に重蔵の頭へ伸びた。掴もうとして、掴めなかった。指が白い毛並みに沈んで、そのまま止まった。潮焼けした、密度の高い毛だった。自分の黒い指が、白い毛の中に埋まっていた。黒と白が混じり、曇天の色へ。

  重蔵の舌が雁首を丁寧になぞるたびに、腰の力がごっそり抜けていく。だというのに、その先を求めて勝手に腰が重蔵の口に向かって動こうとした。それを重蔵の手が押さえる。――逃げるためではなく、深く飲み込むためだとわかったときには、頭の中がほとんど白くなっていた。

  と、不意に重蔵の動きが止まった。すっと、引いた。

  蒼汰は声にならない息を漏らす。重蔵の目と目が合う。唇がてらてらと濡れていた。蒼汰を見下ろす目に、先ほどとは少し違う色があった。抑えていたものが、表面に近づいてきているかのような目だった。視線だけで、続きを告げていた。

  * * *

  重蔵は枕元から潤滑剤を取り出すと、蒼汰に背を向けたまま膝をついた。

  蒼汰は仰向けのまま、息をのんだ。

  何をしているのかは、一目でわかった。わかった上で、目が離せなかった。広い背中が目の前にある。潮焼けした白い毛並みが、ストーブの光を受けてぼんやりと輝いている。白熊の毛は密度が高い。熱を逃がさないために発達した、分厚い層だ。黒猫の薄い毛並みとは、根本から違う。その白い背中の向こうで、節くれだった大きな手が、静かに、自分自身の後孔に指を沈めていた。

  重蔵は声を立てなかった。だが、首の後ろの毛が逆立っていた。一本、また一本と指が増えるたびに、広い背中の筋肉がわずかに波打つ。呼吸が浅く速くなっていくのが、後ろ姿からでも見てとれた。

  蒼汰の喉が、鳴った。

  蒼汰自身の尻尾が、布団の上でゆっくりと膨らんでいた。

  この男が自分のために自分自身をほぐしている。漁師の荒れた指で、施術と同じ手つきで、自分の後孔の奥を確かめながら。その事実が、腹の奥に直接刺さった。見ているだけで、もう限界に近かった。

  しばらくして、重蔵は手を止めた。

  振り返り、蒼汰のそれに手を伸ばしてきた。節くれだった指が、硬く張り詰め勃ち上がっているそれを、そのまま鷲掴みにした。

  「……っ、あ」

  声が漏れた。重蔵は何も言わなかった。ゆっくりと手首を返した。絞り上げるように、先端まで。それだけで蒼汰の口から嬌声が出た。だが、握ったまま、止まった。雁首を親指の腹でゆっくりとなぞってから、そのまま動かなかった。

  蒼汰は息をつめた。熱い。白熊の掌の熱が、そのまま伝わってくる。動かない。ただ包んでいる。その状態だけで、芯から締まっていくような感覚があった。

  重蔵はそのまま、自分の身体の位置を調整し始めた。確かめるような手つきで。蒼汰を見ていなかった。最初から決めていたような、迷いのない動きだった。大きな指が蒼汰のそれの角度を定め、自分の後孔に宛がった。

  蒼汰は動けなかった。いや、動く必要がなかった。この白熊に、全部委ねていた。

  * * *

  巨体が覆いかぶさると、視界が白くなった。二メートル近い白熊が自分の真上にいる。丸く前に張り出した腹、厚い胸板、腕に散った傷跡。その下に蓄えられた熱が、まだ触れてもいないのに肌に届いていた。

  重蔵は蒼汰のそれを後孔に宛がったまま、薄灰色の目を蒼汰に向けた。

  施術の時と同じ目だった。確かめながら進む、あの目。だがその奥にあるものは、別だった。抑えていたものが、今夜初めて、表面に出てきていた。

  重蔵は腰を落とし始めた。

  蒼汰の息が、止まった。

  熱かった。先端が沈んだ瞬間、ぎゅうと締めつけてくる。白熊の体内温度が、先端から根元へじわじわと広がってくる。引き込むような、絞り上げるような締めつけだった。黒猫の細い身体では持ちきれないような熱が、蒼汰の一部から全身に広がっていく。重蔵の丸い腹が蒼汰の腹に迫ってくる。白い毛並みと黒い毛並みが触れ合い、密度の違う毛同士が絡まった。

  重蔵の喉の奥から、くぐもった低音が漏れた。声ではない。クマ科の獣が興奮した時に出す、原始的な音だ。

  まだ半分しか沈んでいなかったが、本能が蒼汰の腰を動かそうとした。重蔵の大きな手がそれを布団に押しつけ、爪の際の黒ずみが腰の肉に食い込んだ。

  「動くな」

  静かで重い。命令ではなく、事実として落ちてきた言葉だった。

  重蔵はそのまま、ゆっくりと腰を落とし続けた。少しずつ、確かめながら。奥に進むたびに締めつけが強くなった。引き込もうとする熱が、蒼汰の根元まで要求していた。

  落とし切った。

  蒼汰の全身の神経が、一点に集中した。根元まで全部が収まっている。その充足感と、外側から伝わる脈動が、同時に神経を狂わせていた。重蔵の心臓の鼓動が、白熊の内壁を通して直接届いてくる。速い。あの無口で無表情な男が、今これほど速く鳴っている。

  蒼汰の黒い耳が、完全に横に寝た。

  「……っ、重い」

  「我慢しろ」

  低い声だった。だが重蔵の鼻孔が広がっていた。蒼汰の匂いを嗅いでいた。獣の本能が、今この瞬間、剥き出しになっていた。

  重蔵が腰を引き上げ始めた。

  静かに。先端の縁が内壁を引き伸ばしながら、ぎりぎりまで引き出されていく。離したくないとでも言うように。その引っかかりが、脊髄まで響いた。

  先端だけが残る位置で、止まった。

  二人の間に、空白が生まれた。今しがたまで満たされていた場所が、急に空っぽになった。その喪失が、かえって意識を研ぎ澄ませた。蒼汰の尻尾がぴんと伸びた。腰が動こうとした。重蔵の手が再び腰骨を押さえた。爪の跡が残った。

  「……っ、お願い、重蔵さん、」

  懇願。重蔵の薄灰色の目が、わずかに細くなった。

  一秒。二秒。三秒。

  一気に落ちた。

  「あ、ああああっ……!」

  重蔵の後孔が、根元まで蒼汰を飲み込んだ。衝撃が背中まで抜ける。蒼汰の尻尾が布団を強く打った。落ちたと思ったら、引いた。また落ちた。引いて、落ちた。同じ深さ、同じ角度。蒼汰の声が最も上がる場所を、正確に繰り返し刺激する。どこが効くかを把握したら、もうそこを離さない。

  「……あ、あっ、は、あ、そこ、」

  声が止められなかった。堪えようとするたびに、重蔵の腰が落ちてきた。重蔵の丸い腹が蒼汰の腹に打ち当たるたびに、白い毛並みと黒い毛並みが激しく擦れ合った。密度の違う毛同士が絡まる感触が、外側と内側の刺激に重なる。どちらがどこから来るのか、わからなくなった。白と黒が混ざり合った鈍色――重蔵の瞳に、射すくめられる。

  蒼汰の黒い耳が、完全に寝たまま起き上がれなくなった。尻尾も布団を叩き続けた。

  重蔵の顔が、少しずつ変わっていた。薄灰色の目が細くなる。眉間に力が入る。鼻孔が広がり、息が短く繰り返す。首の後ろの毛がさらに逆立っていた。白い毛並みに汗の光沢が混じり、潮焼けした毛先が湿り気を帯びて額に貼りついていた。

  喉の奥のくぐもった音が、腰の動きに合わせて繰り返し漏れた。落ちるたびに、引くたびに、その音が胸板を振動させ、蒼汰の胸を震わせた。蒼汰は手を伸ばし、重蔵の腰をつかんだ。汗と体温が混ざった白い毛並みが、指の間に沈んだ。引き寄せるためではなかった。ただ、どこかをつかんでいないと、自分がどこにいるのかわからなくなりそうだった。

  重蔵の腰が、再び落ちた。

  「……っ、あ、あっ、すご、きもち、い、じゅうぞ、さ」

  言葉が出た。出てから、聞こえた。恥ずかしかった。それでも止められなかった。

  重蔵の喉から、今度は堪えきれない低音が漏れた。くぐもった獣の声が、腹の底から出てきた。その振動が胸板を通して蒼汰の腹に伝わった。重蔵の後孔が、それに応えるように強く締まった。蒼汰のそれを、根元から絞り上げるように。

  重蔵の腰の動きが、さらに速くなった。

  蒼汰の腰が下から動いた。今度は重蔵も抑えなかった。迎えに行くように。上から落ちてくる重みと、下から押し上げる動きが、重蔵の最も深いところで合わさった。そこを繰り返し突くたびに、重蔵の喉の音が深くなった。

  「……っ、じゅ、うぞ、さ」

  頭が白くなっていた。声だけが出た。名前だけを呼んでいた。

  重蔵の腰が、最後に一度だけ、最大まで落ちた。根元まで、全部。余すところなく。蒼汰の腰骨をつかんでいた手が爪を立てた。白熊の爪が、黒猫の腰の毛並みに食い込んだ。その痛みさえも、今は別の感覚に変わっていた。

  重蔵の後孔が、何度も強く収縮した。離すまいとするように。

  重蔵の喉の奥の音が、最後に一度だけ、深く、長く鳴った。

  それから、ゆっくりと力が抜けた。

  [newpage]

  しばらく、どちらも動かなかった。

  重蔵が蒼汰の胸の上に、崩れ落ちる形になっていた。重蔵の胸が、呼吸に合わせて静かに上下している。密度の違う毛同士が、汗でしっとりと絡み合っていた。

  蒼汰の黒い耳が、ゆっくりと起き上がった。

  外の風は相変わらず強い。波の音が遠くから届く。船のエンジン音が、どこかで低く唸っていた。

  上から伝わってくる体温が、じんわりと蒼汰の全身に染みていく。ストーブの熱と、重蔵の体温とが重なって、蒼汰はその中に沈んでいた。路地の寒さが、もうずっと遠い昔のことのようだった。六時間運転してきたことも、明日の商談のことも、今この瞬間は何もかもが遠かった。ここだけが、妙に現実だった。

  重蔵の大きな手が、蒼汰の肩にそっと置かれた。撫でるでもなく、押さえるでもなく。ただ、置かれた。節くれだった、爪の際に黒ずみの残る、漁師の手が。

  「生きてるか」

  「……辛うじて」

  「腰は」

  「……痛くないです」

  「そうか」

  重蔵は動く素振りを見せなかった。蒼汰の上に、白い巨体が半分のしかかったままでいた。重い。重いのに、どいてほしいとは思わなかった。潮の匂いが近い。

  「……いつから、この副業をやってるんですか?」

  蒼汰も応えるように、重蔵の背に手を回した。沈黙が続くよりは、何か喋った方がいい気がした。

  「去年の秋から」

  「お客さんは来ます?」

  「閑古鳥だな」

  「……最初から、こういうつもりだったんですか?」

  「違う。健全な店だ」

  「じゃあ、どうして?」

  重蔵が押し黙った。

  「お前が、俺と同じ種類の人間だと思った」

  蒼汰は、何も言えなかった。

  「……それだけですか」

  少し間があった。

  「脱ぐ時に、俺を見なかった」

  「……それは、恥ずかしかっただけです」

  「違う」

  重蔵は顔を上げないまま、少し間を置いた。

  「恥ずかしい客は、目を伏せる。お前は違った。どこか別の場所に視線を固定して、そこから動かさないようにしていた。見ないようにしている、という動きだ」

  蒼汰は何も答えなかった。否定できなかった。

  「それがわかったのは、自分がずっとそうしてきたからだ」

  一言だった。蒼汰は、少し息が止まった。

  「……そういう視線を、ずっと」

  「ああ。だからわかる」

  しばらく、どちらも黙っていた。

  「それに、手を見ていた」

  「手?」

  「俺の手だ。施術を受けながら、俺の手の傷を見ていた」

  蒼汰は考えた。確かに、見た。見てしまった。

  「……気になっただけです」

  「そうかもしれない」

  重蔵は、少しの間黙っていた。

  「ただ、客はみんな、目をつぶるか天井を見る。自分の身体のことしか考えていない。それが普通だ。お前は違った。俺の手を見た。傷跡を見た。痛くないかと聞いた」

  「……それだけで」

  「それだけじゃないが、それもあった。だから、八回確かめた」

  「……八回も?」

  「間違いたくなかった」

  その答えは、意外だった。蒼汰は天井から視線を重蔵の横顔に移した。白熊の横顔は相変わらず無表情で、何を考えているのかわからない。頬の傷跡が、ストーブの光でわずかに浮き上がっていた。

  「……慎重なんですね」

  「そうでもない」

  「でも八回確かめたんですね」

  「外したら終わりだと思った」

  「施術師として、ってことですか?」

  「それもある」

  それも、という言い方が気になった。蒼汰は少し考えてから、聞いた。

  「他には」

  重蔵はまた黙った。今度は少し長かった。

  「……嫌がってほしくなかった」

  蒼汰は何も言えなかった。しばらく、どちらも黙っていた。

  「この町は長いんですか」

  「生まれた時からだ。出たことがない」

  「……ずっと、一人で?」

  「ああ」

  部屋のストーブがかすかに音を立てた。外の波音が続いている。遠くで漁船のエンジンがくぐもった音を立てていた。冬の漁師町の夜が、引き戸の向こうで深まっていく。

  「……重蔵さん」

  「なんだ」

  しばらく間があった。言いたかったことが、出てこなかった。

  重蔵はゆっくりと身体を離した。蒼汰の上から重さが消えると、急に空気が広くなった気がした。どこか、物足りなかった。――紛れもない、寂寥感(せきりょうかん)だった。

  重蔵はタオルを持ってきて、無言で渡した。

  「拭け」

  「……はい」

  蒼汰はゆっくりと身を起こした。全身の力が抜けている。腰の痛みは、完全になかった。商談の段取りを思い出そうとしたが、頭がまともに動かなかった。

  「……うまかったです」

  「施術が、か」

  「両方」

  重蔵は答えなかった。着替えを始めていた。作業着のボタンを下から順に留めていく、慣れた手つきで。蒼汰もゆっくりと服を手繰り寄せた。

  「……孤独じゃないですか」

  聞いてから、余計なことを言ったかと思った。重蔵は気を悪くした様子もなかった。

  「そうでもない。慣れてる」

  「慣れてるのと、孤独じゃないのは違いますよ」

  重蔵は、ボタンを留める手を、少しの間止めていた。

  しばらく黙ってから、蒼汰は聞いた。

  「……最初から、男の方が好きだったということですか」

  「そうだ」

  一言だった。迷いがなかった。蒼汰は驚いて重蔵の横顔を見た。白熊は相変わらず無表情で、ただ静かにそこにいた。

  「……隠さないんですか?」

  「この町では言わない。……言う必要がない」

  「言わなくていい、ということですか」

  「言っても変わらない、という意味だ」

  「変わらない、というのは」

  「俺が男を好きでも、明日の漁には関係ない。網は引かなきゃいけない。それだけだ」

  蒼汰はその言い方が妙に好きだった。都会では何かとカテゴライズされる。ラベルを貼られ、そのラベルごと扱われる。だがこの白熊は、自分が男を好きだという事実を、ただの事実として置いていた。海がある、漁がある、男が好きだ。同じ棚に並んでいる。

  ――その均衡が、妙に羨ましかった。

  今日の午後、路地を歩いていた。腰が痛くて、誰もいない町で、よそ者だった。あの貼り紙がなければ、重蔵とは一生会わなかった。それがどういう偶然なのか、蒼汰にはまだわからなかった。

  だが今夜、この部屋で、この白熊は蒼汰に正直だった。施術の手つきで、低い声で、八回確かめながら。それは、ただの行きずりとは違う何かだったと思った。

  「……また来ます」

  蒼汰は言った。重蔵は答えなかった。

  だが手が、蒼汰の手の甲の上に、そっと置かれた。重い、節くれだった手が。それだけだった。

  蒼汰はゆっくりと立ち上がった。腰は本当に痛くなかった。足元もしっかりしている。隅に畳んであったスーツを順番に着直した。パンツ、スラックス、ワイシャツ、ネクタイ、ジャケット。それからコートを羽織って、ボタンを留めた。

  「……次、来ることがあったら」

  引き戸のところで、重蔵が一枚の紙を差し出した。手書きの、小さな紙。電話番号だった。節くれだった指が、その端を持っていた。

  「電話しろ。事前に言えば夜でも対応できる」

  「……夜も漁があるんじゃないですか?」

  「休みの日もある。時化の日もある」

  蒼汰は紙を受け取った。指先が少し触れた。重蔵の手は、まだ温かかった。荒れた皮膚の感触が、指先に残った。

  蒼汰は小さく笑った。引き戸に手をかけた。

  「また、来ますからね。重蔵さん」

  返事はなかった。だが引き戸を閉める瞬間、低い声が一言だけ届いた。

  「……気をつけて帰れ」

  * * *

  冬の夜の空気が顔を打った。

  思ったより、寒かった。部屋の中にいる間に、外がさらに冷えていたらしい。路地は暗く、遠くで波の音がしている。潮の匂いが濃い。港の方から、漁船のエンジン音がくぐもった低音で届いた。明日の準備をしている誰かか、時化の中でも出ていく誰かか。

  港の奥に、コンクリートの壁の黒い輪郭が見えた。重蔵も毎朝あの壁を越えて、海に出るのだろう。

  蒼汰は立ち止まって、しばらく夜空を見た。星は出ていない。雲が厚い。だが風は少し弱くなっていた。

  波が、繰り返し岸を打つ。長い時間をかけて、石を磨く音だ。

  重蔵の部屋の窓の桟に、白い小石がいくつか並んでいたのを思い出した。浜の石だ。波に長い時間をかけて磨かれた、あの白さ。

  ポケットに小さな紙を入れた。

  ホテルに戻ったら、まずシャワーを浴びよう。それから夕食を探して、その後で。

  蒼汰は紙の上から、ポケットをそっと押さえた。

  この町で、ただ一人で生きてきた白熊が、今夜だけ蒼汰を暖めた。施術の手で、潮焼けした体温で、低い声で。

  気をつけて帰れ、と言った声が、まだ耳の奥に残っていた。東京では誰もそんなことを言わない。言われる必要もないほど人がいる。だから、誰も言わない。

  蒼汰の黒い耳が、夜風に少しだけ揺れた。冷たかったが、それほど嫌ではなかった。

  路地の奥で波の音が続いている。川の音が、どこかで混じっていた。この町の夜は、ずっとあの音とともにある。重蔵も、毎晩あの音を聞きながら眠るのだろう。そんなことを思いながら、蒼汰はホテルへ向かう足を踏み出した。

  了

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