广告
[chapter:御双家]
「[[rb:御双家 > ごそうけ]]?」
聞きなれないことばにシュバリスは首をかしげ、アイドクレーズが「だから襲われたんですか?」と首をかしげた。「どういうこと?」とシュバリスが訊ねると「集めた情報のなかにあったんです」と小声でアイドクレーズが云った。
「たしかにそれは襲われる理由になるかもしれない。調べたのはもう片方ばっかりなのでうっかりしてたけどーー」
「アイドクレーズは知っているようだな。まあ、授業に出席できない従者は暇を持て余すものだ、自然と耳にはいるのだな」
ユアンはうなずき、シュバリスにむきなおった。
「ーー御双家というのはだね、イスラメイ。セレスタインの分家のなかで最も格が高く、セレスタイン家に嫡子が生まれなかった場合、そのふたつの家の出身者がセレスタインの名を継ぐことになる、そういう立場の家だ。つまり皇帝家についで帝位継承権をもっている。双家というからにはふたつあるわけだが、ひとつがユーレアイト家。もうひとつがカルセドニー家だ」
「カルセドニー。とおっしゃいますと」
目の前の男の家名だ。ユアン・リコリス・カルセドニーは笑ってうなずき、
「そうだ。わたしもいちおう皇帝の座を継ぐ資格がある、というか、あった。だが、セレスタインに嫡男ハダル・ハルシオンが生まれたため、わたしは半ばで皇帝候補から離脱した。本家であるセレスタイン家に嫡子が生まれれば、分家の子は必要ないからね」
「だから学院長は理事長や教官に?」
「そうだ。おかげで醜い権力争いから逃れることができたーーいや、権力争いの結果として、こうしてセレスタインの名を冠する学院長の座や理事長の座を与えられているわけだがね。これが、わたしがここにいる理由だ」
ここに、というのでユアンは学院長室をぐるりと見渡して苦笑した。シュバリスは納得した。若くしてユアンが多数の肩書きをもっている理由がわかった。
「しかし、そういう家の出身だったからだとしても学院長が印陣のすばらしい教官であることは誰も文句がつけられません。わたくしはそう思います」
「ありがとう。わたしもそう思っているし、学生の反応を見ているとあながち間違っていないんだろうと思う。印陣はわたしの専門だし生涯の仕事だし、これを子どもたちに教えられるのは大きな喜びだ。皇帝になりたいとはこれっぽっちも思っていなかったから、正直云って十四のときハダルが生まれてくれてほっとした。候補者から外れたおかげで静かに暮らせるしね。だがーー」
ユアンはそこで眉間にしわをよせ、どこか遠い目をして云った。
「ユーレアイト家は違う。あの家はアルジュナのことを、最初から皇位を継ぐものとして教育してきた。ハダルとアルジュナは十七歳と十三歳で年もそう変わらない。いまではまったく没交渉だが、昔は兄弟のように仲が良かった。しかし、ハダルより皇帝にふさわしい子だとして、ユーレアイト家はアルジュナにこそ皇位をとひそかに議会に進言してきた。まぎれもなくセレスタインの子であるハダル・ハルシオンに生まれつき高い魔力が備わっており、彼が皇帝の高い資質を有していたからまったくの一笑に付されてきたがーー。そう、ハダルの魔力はまちがいなく初代帝王ハルトガルトにも匹敵するものだった。誰の目にもハダルこそが皇帝にふさわしかった。悲劇が起こる前は」
「悲劇ーー?」
「ハダルは十歳のころ、反帝国組織に誘拐されて呪いをかけられた。殺されることはなくぶじに救出されたが、だれにも呪いを解くことはできず、生来の性格や賢明さや魔力を失い、かろうじてセレスタイン魔法学院に入学できる程度の魔法しか使えなくなった。みたところ知能も落ちた。過去の彼を知っているわたしからしたら痛ましいほどの変化だ。だが、ハダルは減ってしまった魔力を補うべく鍛錬を重ねてきたし、皇位につくため必要な儀式もすでに済ませた。受け継いだものをしっかりと守っている。彼を筆頭継承者として、権利を保持させることに異を唱えるものは少ない。いまはハルトガルトのように大軍を率いて戦うことはまったくないから莫大な魔力も必要ないしね。だがーー」
「異を唱えるものもいる?」
「そのとおりだアイドクレーズ。ハダルが誘拐された後から、彼が筆頭継承者であることに異を唱えはじめたのがユーレアイト家、というよりユーレアイトの奥方と現当主、つまりアルジュナの母親と祖父だ。セレスタインとユーレアイトはいま対立状態にあるといっていいが、それはすべてこのふたりの帝位をめぐる問題による。魔力も低く凡庸な少年になってしまったハダルが皇帝になるか、はたまた生まれながら高い魔力をもち、このままいけば間違いなく偉大な魔法使いになるだろうアルジュナか。ハダルの優位は揺らがないが、ユーレアイトの長年の説得工作が実り、いまや議会でもどちらが皇帝にふさわしいかひそかに議論が起こっている。議論を終わらせる方法はいくつかあるが、最も危険な方法はいつの時代でも変わらない。ふたりのうちひとりになにかあれば」
「どちらかが皇帝の座を得られる」
「そのとおり」
「ということは、ゆうべアルジュナが襲われたのはーー襲った犯人は?」
「口にするのは憚られる。が、可能性はある」
ユアンのことばはふたりにさらなる推測をもたらした。ナイジェル・アベンチュリンが七柱の廟を襲ったのは、ハダルの帝位を確実にするため。同時に彼は、ハダルのライバルであるアルジュナをも消そうとしたのではないだろうか?
「ーー恐れいりますが聞いてもよろしいですか。そもそもハダルさまが誘拐され、呪いをかけられた件。それにはユーレアイト家は?」
「証拠は出なかった。云えるのはそれだけだ」
ありうるのだ。シュバリスとアイドクレーズは顔を見合わせた。ユアンがつぶやいた。
「本人たちも辛いはずだ、ハダルもアルジュナも。アルジュナはまだ自覚がないが、さきほど話したところ母親と祖父の危険な考えに染まりつつあるとわかった。ユーレアイトは貴族のなかでも人間至上主義で獣人蔑視、とくに蛇人蔑視が強いので有名だ。それでほかの差別的な連中から支持を得ている家でもある。いまはとても不安だよーー事件については素直に話してくれたが、ほかの獣人を差別してはならないといったわたしの忠告を、今朝のあの子はまったく聞かなかった」
「そうなのですか。学院長でも?」
「そうだ。わたしがすでに候補者から降りたからだろう、個人の主義に口を出されるいわれはないと云われた。うちが貴族でも平等主義の代表だからというのもあるだろうがーーカルセドニーもユーレアイトと同じく皇帝候補の家、利害関係にあるものだからわたしがなにを言ったところで裏があると思われてしまう。この対立を止めるのにユーレアイトを諌めてくれる家がほかにもあればよかったのだがね。昔はセレスタインの分家もたくさんあった、七年前のハダル誘拐事件だって、彼らの力を借りられればなにか証拠が見つかったかもしれない。なのにこの千年、政権争いによって断絶したり追放されたり抹消されたりで、分家はそうとう数を減らした」
「分家ーーですか」
ハルトガルトの子孫はそんなにいるのか。シュバリスが目をぱちくりさせていると、
「そう。昔は[[rb:御十家 > ごじゅうけ]]といって、セレスタインの直系の血を引く家は十もあったんだよ。そしてそのうちのひとつがアベンチュリン家だった。もはや当事者であるハダルとアルジュナだけではない、今回の件では、アベンチュリン家も巻き込まれて実際に被害を被っている」
「とおっしゃいますと、テディさまとアレクセイの?」
「そうだ」
答えたのはテディだった。重々しく彼は云った。
「二百五十年ほど前、セレスタインの末子である女性が獣人の男性と結婚した結果セレスタインの家臣に降格した家、それがアベンチュリンだ。ハルトガルトの血をひく直系子孫家は慣習的に獣人の血を入れないから、アベンチュリンは獣人の血が入って以後、[[rb:御十家 > ごじゅうけ]]を外れて家臣として生きることになった。セレスタインとその分家に仕える従者として続いてきた」
「なんの獣人で?」
「熊人だ」
熊人は体格が立派なものが多い。テディもゆうに二メートルを超す大男だ。アイドクレーズが訊ねた。
「対して、セレスタイン家にユーレアイト家にカルセドニー家は代々ずっと人間できていると。純粋な?」
「そうだ。セレスタインの祖先には、初期のほうに獣人と婚姻した形跡があるが、いまはなかったことにされている。記録が残っているここ五百年はまったくの人間同士でしか婚姻していない。純粋な人間の血を保持しているーーいまは世間でも他種族間の婚姻は珍しくない、そろそろ皇帝家も伝統から解放されていいころだがね」
「あの、お聞きしたかったのですが、同じアベンチュリンを名乗っているということは、テディさまとアレクセイはご兄弟で?」
「そうだ。わたしが長男でご覧のとおりユアンさまの従者、次男がナイジェルといってハダルさまの従者、三男のアレクセイがアルジュナの従者。三つの家に兄弟それぞれが分かれた」
「では、対立しているハダルさまとアルジュナの従者を、ご兄弟でそれぞれ勤めていらっしゃる。それはーー」
「そうなんだよ。巻き込まれている、というのはまさにこのことだ」
とほほ、という顔でテディが顎をさすり、ユアンが訊ねた。
「ほかの生徒からも話を聞いたが、君たちは昨晩、アルジュナとアレクセイに心ないことを云われたそうだね? いろいろとーーイスラメイが蛇人であることで、」
「心ないということばではとうてい足りないようなひどい侮辱でしたけどね。恩を仇で返すような」
アイドクレーズが眉をひそめると、テディは申し訳なさそうにため息をつき、従者のかわりにユアンが云った。
「アルジュナは母親と祖父から、人間こそ獣人より優れた存在であり頂点にたつ種なり、という選民思想を幼いころから植え付けられている。だから昔からアルジュナに仕えているアレクセイも、テディと兄弟ではあるが彼のほうはアベンチュリンの[[rb:庶子 > しょし]]で、兄ふたりが熊人と人間のハーフで獣人の血が濃く出たのに対し彼だけは父も母も人間だった。だからユーレアイト家に息子の従者にと選ばれたんだがーー」
「結果、ふたりして人間至上主義者、と」
「そうだ。しかもアレクセイはいろいろあって、兄ふたりとは絶縁状態でね。テディともうひとり兄がいるんだが、そのもうひとりの兄のほうととくに不仲だ。それで余計に」
「獣人であるお兄さまがたへ反発を抱いていて敬遠している、と」
「そうだ」
ユアンはうなずき、テディは云いにくいことを説明してくれたことに感謝するような目であるじを見つめ、「すまないね」と頭をかいた。
「うちの弟が、どうも迷惑をかけたようで……」
「わたしもだ。親戚の子が迷惑をかけたね」
それきりふたりは黙った。もとより彼らには、ナイジェルが七柱廟を襲ったことや、アルジュナを襲った犯人であることまで話す気はないのだろう。しかしシュバリスはため息をつき、いま聞いた内容だけでじゅうぶんよくわかった、と思った。じぶんの評判、蛇人たちの現在。そして、アルジュナとアレクセイ、ユアンとテディ、ハダルとナイジェルーーハルトガルトの子孫たち。
(あなたにもこんな未来は予測できなかったでしょうねハルト)
飲み終わったカップに残る茶葉の跡をじっと見つめて、シュバリスはぼんやりと考え込んだ。
(あなたの子どもの、子どもの子どもの子どもの、ずうっと子どもの未来がこれ。そしてわたしはあなたの娼婦ですって! 信じられない、わたしたちはたしかにお互いを必要としていたのに。完璧な組み合わせだったといまでも確信できるのに)
あるいはじぶんの勘違いだったのだろうか、と記憶に自信がもてなくなってシュバリスはあごに手をあてた。この千年で、じぶんはハルトガルトとの関係を思い違いしたあげく美化していたのだろうか。ほんとうはわたしは娼婦で、アルジュナが吐き捨てたように売女だったのかもしれないーー悄然とシュバリスはソファに沈み込んでいた。と、
「じつは」
アイドクレーズがなにかを決心したように顔をあげ、シュバリスはぎくりとした。声色から、彼がなにかよからぬことを考えているような気がしたのだ。アイドクレーズはシュバリスを気にせず云った。
「アルジュナとアレクセイの背景や、皇位をめぐる因縁についてお話ししてくださったから、というわけではありませんが、わたしたち自身の出自についてもお話ししておきたいことがあります学院長」
「ん? なんだね?」
「さきほど学院長は、蛇人に対する差別について、蛇神シュバリスには子孫が残っておらず詳しい話が伝わっていないため、とおっしゃいましたね?」
「云ったね。それが?」
「そして、さきほどシュバリスさまが、じぶんは孤児だとおっしゃいましたが、実はそれはすべて嘘です」
「嘘ーーというと」
面食らうユアンに、アイドクレーズはうなずいた。
「はい。なぜなら蛇神シュバリスの子孫だからです。このかたはシュバリスの血を引いているのです」
瞬間、ユアンがぎょっとしたように目を見開きことばを失う。シュバリスもぎょっとした。じっさい、「ぎょえぇ」と彼女は口の中で呻いていた。なにを、といおうとするシュバリスを目で制してアイドクレーズが淡々と告げた。
[newpage]
[chapter:彼女の血]
「もちろん、公に記録されていることではありません。世間に広まっていないことからもそれはご存知だと思います。しかし真実です。このかたはシュバリスの子孫なのです」
「ーーありえない」
ユアンがざっと顔色を変え、険しい表情で頭をふった。
「それはありえない、アイドクレーズ。そんなことは」
「いえ、ほんとうです。わたしたちはヤハンで、シュバリス廟を守護する家とその従者の家で後継として育ちました。わたしたちはともにずっと神殿を守ってきた。そして神殿を守る巫女である女性は代々シュバリスの名を継ぎ、じぶんたちが子孫であるという秘密とともにシュバリス譲りの魔法を継いできました。わたしたちが伝承してきた蛇神シュバリスのマジックは、人の心を操るといったよこしまなものではありません。わたしたちが伝え聞いている彼女のマジックは、白魔法に属するものです」
「白魔法ーー」
「ほかの六柱と同じく、その魔力はジヴァ神から授けられたもの。蛇神シュバリスは、莫大な魔力をすべて防御と治癒の力として発現させた、防御と治癒の女神です。その白魔法で彼女はハルトガルトらほかの六柱を守護していた。ただし彼女は、見た目が非常に特異であったために敵の標的とされることを恐れたハルトガルトらによって戦場に出ることを禁じられ、彼女自身の自覚もあって人前に出ずにいたのです。そのため彼女の功績は、ほかの六柱ほどはっきり伝わっていない」
「それはーー、」
「それからもうひとつ。彼女はハルトガルトの娼婦ではなく恋人でした。これは確実です。娼婦などでは断じてない」
なにしろ本人から聞いたから。アイドクレーズは一瞬だけシュバリスに視線を送ったが、たとえそうだとしてもシュバリスはいまこの場でなにも云うことができなかった。目を白黒させるシュバリスをおいてアイドクレーズが断言した。
「わたしたちの伝承では間違いなくそうです。しかし、シュバリスがハルトガルトと別れたこともまた事実。建国末期にふたりは別れ、ほかの仲間たちも諍いが絶えなくなり、彼女は必死で仲間たちをまとめようとしたがかなわず、失意のまま故郷であったヤハンへ帰りました。そこで仲間の蛇人たちとひっそりと暮らし、亡くなったのち廟に祭られて神となった。ですがシュバリスは、ほかの蛇人の仲間と子を為し、自らの魔力と事実をその子に伝えていたのです。それがイスラメイ家のはじまりです」
「ありうるーーかもしれない」
最初は疑わしげにアイドクレーズの話に耳を傾けていたユアンだが、腕組みし、アイドクレーズとシュバリスを見比べてぽつりと云った。
「詳しい話が伝わっていない以上その話もあり得ないわけではない。少なくとも君の語ったシュバリスのマジックやハルトガルトとの関係は、世間の突拍子もない説よりはまっとうだし、なんというか真実味がある。七柱たる実績がなければ七柱に加えられるわけがないのだし、子孫がいるという可能性も否定できない。しかしそのーーそうだな、彼女が人前に出ることが稀だったという部分。そこはなぜだ? 君は説明できるか?」
「簡単だ。目の前のおかたを見てくださいよ」
シュバリスは口から心臓が飛び出そうだったが、我慢してじっとしていた。ユアンとテディの視線が注がれる。
「このかたは白蛇です。しかも[[rb:大白蛇 > ナーガ]]の獣人です。大白蛇は昔から富の象徴といわれ、多くの人間や獣人や、同族からも狙われてきた。そして蛇神シュバリスも大白蛇の獣人でしたーー争いを嫌う彼女は、人前に出てじぶんが騒乱の種となることを嫌い、徹頭徹尾六柱を支える裏方に徹し、仲間の背を守ってきた。彼女は戦場に出なかったが、ほかの六柱の子や孫や家族を守護することで彼らが戦いに専念できるよう支えたのです。それがわたしたちが伝え聞いているシュバリスの正史です」
「そうだったのかーー」
ユアンの目に納得が萌した。
「それはわたしの推測とも合致する。そうーー蛇神シュバリスは大白蛇の獣人だった。たしかにイスラメイの外見もそのように見えるな」
「ええ」
しれっとアイドクレーズはうなずいた。ユアンもテディもしきりと感心している。ユアンのほうは、世間のあまりにも厳しいシュバリスへの評価に苦渋を抱いているからか、この説を猛烈に歓迎しているようだ。学者らしく理知的に「検証の価値はあるが」と呟いたが、その目には期待が満ちていた。彼らに見つめられて、シュバリスはひどく居心地がわるかった。アイドクレーズは巧妙に嘘に真実を織り交ぜて話し、否定しようにも複雑にからまった嘘と真実の糸をどうほどいていいかわからない。「そして」と、さらにアイドクレーズが続けた。
「わたしたちがヤハンを離れ、蛇人だと知られる危険を冒してセレス市まで来て学院に入学したのにはわけがあります。シュバリスさまが、じぶんは孤児だと云ったのも。実は一ヶ月前、シュバリス廟が何者かに荒らされ、神殿の地下にいたシュバリスさまのお母上が襲われて亡くなりました」
「えっーー?」
ユアンもテディも、さっと眉間にしわを寄せた。とっさに見交わした視線は、昨晩話していたほかの七柱の廟、シオン廟とエステル廟が何者かに侵入されたことを明らかに思い出しているようだった。ふたりは同時に、激しくアイドクレーズに訊ねた。
「イスラメイの母上が襲われて亡くなった。つまり殺されたということか?」
「どういうことだ? 詳しく聞かせてくれないか?」
「ーーはい。シュバリスさまのお母上、先代のシュバリスですが、彼女も大白蛇でありシュバリスの魔力を継ぐ巫女でした。シュバリス廟にはほかの六柱廟のように聖遺物は安置されていませんが、かわりに巫女がある役目を果たすことになっています。その役目とは蛇の姿になって地下にこもって祈りを捧げるというものです。ですがその役目を果たしているさなか、侵入してきた何者かによってシュバリスさまのお母上は足を切断され、眼を抉り出されました。犯人は眼と足をもって逃走、お母上さまは肉体の一部を奪われて大幅に魔力をなくし、意識不明の重体に陥ったのち亡くなりました。従者として先代シュバリスさまのそばにいたわたしの父も、怪我を負ってそのとき亡くなっています」
「それはーーなんということだ。君たちは同時に母親と父親を?ーーお悔やみを申し上げる」
「いえ。そしてわたしとシュバリスさまは、シュバリス廟を守るものとして父と母の仇である犯人を追い、この学院にたどり着きました。わたしたちは犯人を捜すため、そして奪われた眼と足を取り戻すために学院に入学したのです学院長。手がかりを追って」
「というと?」
「意識を失われる前、先代さまが云いましたーーセレスタイン魔法学院、騎士団、と。犯人からなにかを感じ取ったか、犯人のことばを聞いたのかもしれません」
指輪について話したら、ユアンはきっと受贈者の名簿が荒らされていたことと結びつけるだろう。それにしてもアイドクレーズの話のそれっぽさといったら! シュバリスの心臓はもはや破裂寸前だ。しかしユアンもテディも「そうだったのかーー」とひどく真剣な顔でうなずいた。
「シュバリス廟もすでに襲われていたと。一ヶ月前? ということは、」
「シオンの次ですよユアンさま。とっくにやられていたんだ」
小さくささやきあうふたりに、
「学院長はたしか、騎士団とも関わりがあるそうですね。騎士団が捜査権をもつ、魔法を使った犯罪捜査に協力している、外部顧問でいらっしゃると生徒のうわさでお聞きしました。あのーー学院長は、シュバリス廟を襲い、先代さまと父を殺した犯人に心当たりはございませんか?」
「ない」
「ほんとうですか?」
「ないーーけどねえ」
被害者の息子を装ってのアイドクレーズのすがるような声に、即座に否定したユアンの表情がゆらいだ。「機密保持がある。話せない」とユアンは云いなおし、
「だが、君たちの事情はわかった。そういうわけだったかーーそう、イスラメイには家族がいないと聞いたがなぜ従者はいるのか、もとは高名な家の落胤かなにかかと教官のあいだでも話が出ていた。受けていた魔法教育の痕跡が通常の教育機関で受けたものではないことも、教官どうしの夕食会でね。だが、君がシュバリスの子孫で、代々継承されてきたシュバリスの魔力を継いだとしたら、年に似合わない莫大な魔力にも納得出来る。巫女として隔絶した生活を送っていたのなら一般的な魔法使いの生活や用語についてなにも知らなかったことも、アイドクレーズのような従者が付き従い、厳重に守っているのも納得だ」
「ですが学院長。このことは生徒には内緒にしてくださいませんか。シュバリスさまが蛇神シュバリスの子孫だということで、また口さがない連中に騒がれてはたまりませんから」
「もちろんだ。それに君の話は、千年にわたる帝国の謎を解くものだ。イスラメイの正体や君たちが受け継いでいる伝承が知れたら、シュバリスが娼ーー否、そういう職業の女性だったと頑なに信じている連中や、蛇人を邪悪な存在だとしておきたい連中に攻撃されるかもしれない。これはここだけの話にしよう。ーーおまえもいいな、テディ」
「[[rb:是 > ヤール]]。もちろんです」
テディはちょっとわくわくしたように笑みを浮かべた。彼はしきりと感心していた。
「すごいですね。これがほんとうなら歴史がひっくりかえりますよ。いやあ、ユアンさまの従者でよかった、あのシュバリスにちゃんと子孫がいたとは! ものすごい事実だ!」
「それはともかく、君にひとつ聞きたいことがあるイスラメイ。君とお母上は似ているか?」
「はあ。似ておりますが……?」
なんとなくそう云ったほうがいい気がしてシュバリスがうなずくと、ユアンは考え込んでいた。シュバリスはそっと、ユアンを包む魔力や感情が起こす波動を探ってみた。まず感じ取れたのは深い懸念だった。生徒を守る学院理事長兼教官として、ナイジェル・アベンチュリンが学院にいるシュバリスを見つけたら厄介なことになるのでは、と思っている。同時に彼は騎士団の外部顧問として、シュバリスをナイジェルに会わせたらどうなるか、事件を解決するための方策としてシュバリスの存在を上手に利用できないかと考えているようだった。アイドクレーズも気づいたのか、陥穽に誘い込むように云った。
「あの、学院長。わたしたちを、いまあなたが協力している捜査に協力させてもらえませんか?」
「んーー?」
「さきほどおっしゃったとおり、学生でない従者は授業のあいだ暇を持て余します。じつはその時間を利用して、わたしは父と先代シュバリスさまを弑した犯人を捜していました。情報を集める途中でいろんな噂を耳にしましたが、そのなかにはあなたが現在、騎士団を悩ませている七柱廟に関するなにかの事件に関わっている、という噂があった。うちの廟だけでなくよその廟でも事件が起こっていて、あなたはその捜査に協力している、詳しい情報をもっているーーと」
「ーーひとの耳目というのはほんとうにすごいな。隠しておきたいものほど、というやつだ」
ユアンは静かに肩をすくめ、アイドクレーズはうなずいた。
「ええ。ですから無理を承知で申し上げます。わたしは特にシュバリスさまを守ってきた従者として、先代さまの眼と足を取り戻したいと強く願っています。蛇神シュバリスから受け継がれた魔力を犯人が何に使うのか、わたしにはまったく予想もつかないことですが、もし悪用されたら蛇人の立場はまた苦しくなりますし、取り戻さなければ先代さまにも申し訳がたたない。死のまぎわに先代さまはシュバリスさまに当主の座を譲り、いまはシュバリスさまが蛇神シュバリスの子孫として責任をとる立場、これを解決するのはシュバリスさまにとっても使命です。ひいては、シュバリスさまの従者であるわたしにとっても重大な使命。亡くなった父からわたしもいくばくか魔力を継ぎました、年は七つですが魔法では上級生にも負けない。解決のためならどんなことでもしますーーどうかお願いします。協力していただけませんか。もちろんわたしも協力します」
なにそれ! シュバリスはぽかんと口をあけた。諦めて帰ろうってさっきわたしは提案したわよ! と嘘八百を並べ立てるアイドクレーズにふつふつと怒りがわいたが、もはや何も云えなかった。五百歳以上の年の差があるのに、悲しいかなシュバリスよりアイドクレーズのほうが弁がたつ。シュバリスがこれからなにを云おうともはや手遅れだろう。
アイドクレーズの灰色の瞳は爛々とかがやいていた。これを手掛かりに事態を進展させるつもりだ。シュバリスの戸惑いや消極など歯牙にもかけていない。
それにますます腹をたてると同時にシュバリスは痛感したーーマジックの色だけではない、シュバリスとアイドクレーズはなにもかも正反対なのだ。困難にあってシュバリスが諦念と無念をかみしめるとき、アイドクレーズはそれをバネに立ち上がる。シュバリスが撤退を望むときアイドクレーズは前進を望む。この話の流れからして、さきほど意を異にしたシュバリスに対し、嘘をついてでもわたしは犯人を追いますよ、と宣言するも同然だった。彼は梃子でもヤハンに帰らないつもりだ。「あなたはお帰りになってもいいですよ」とこのあとすまして云うだろうが、こうなってはあるじとしてもアイドクレーズを放っておくわけにはいかなかった。彼を止める方法はただひとつだーーずっとそばにいて見守ること。
シュバリスは肚をくくった。懐かしいヤハンの森の地下神殿、住み慣れた我が家への帰還はかなり遅くなるだろう。
いっぽうユアンはかなり迷っていた様子だったが、もはや目の前の生徒ふたりが部外者ではなく当事者であると断じたのだろう。砂色の髪の下の澄んだ緑の目に光を宿し、しばらく閉ざしていた口を開いた。
[newpage]
[chapter:おおうそつきたち]
アイドクレーズがユアンとテディに盛大な嘘をついてまんまと協力を認めさせたその夜、並んでキッチンで夕食を作りながら、衝撃から立ち直ったシュバリスはようやくアイドクレーズに怒りをぶつけた。
「あなたってほんっとうっーーに、わたしと違って狡猾で辛辣で短気な大嘘つきよね! 襲われたのがわたしの母でその母が亡くなった? あなたの父もいっしょに? なにをいうやら、ぜーんぶわたしとあなたじゃないの、しかもわたしがシュバリスの子孫って! 子孫じゃなくてれっきとした本人だわよ、おかげさまでほかの六人と違って腐るほど長生きさせてもらってますことよ!」
「あっ、遠回しにじぶんは優しくて心が広くて気が長くて正直だってアピールしてますね? 騙されませんよ、単に面倒くさがりで考えなしで怠惰でお人よしなんでしょあなたこそこの大嘘つき、わたしにはすぐわかりますよこのなまけもの! めんどくさがり!!」
「きー! なによ、わたしにさからうっていうの、従者のくせに!」
「あなたこそわたしがいなきゃなんっにもできないくせに! この五百年を思い出してみろ、誰が世話してやったと思ってんだ!」
「ひとりでできるもん、本気だせばできるもん! 現にあなたが転がりこんでくるまではひとりでもちゃんとしてたもん!」
「どうだかあーっ。それに、嘘でもなんでもあのくらい云わなきゃ信じてもらえないし協力もさせてもらえないでしょうが、必要上の嘘ってやつですよあれは! 不・可・抗・力!」
「あっまたそんな詭弁を! なんだかんだ言い訳してもわたしにはわかるわよアイドクレーズ、あなた教官とテディを利用してナイジェル・アベンチュリンに近づこうとしてるでしょ! そのひとが犯人の有力候補だから、そのためにあんなありもしない話をでっちあげたでしょ!」
「おや気付かれましたか?」
ソースの鍋にスパイスを振り入れてかきまぜながら、わざとらしく目を見開いてアイドクレーズが肩をすくめた。
「これはこれはよくわかりましたねえ。えらいえらい、褒めてさしあげます」
「むうう。わたしはあなたが思うほど莫迦じゃないのよ、こう見えてあなたの倍は年とってるんですからね! そうよーーナイジェル・アベンチュリンが犯人なら、ユアンとテディの話によれば彼は騎士団で黒魔法にも長けてて腕力もある、彼から眼と足を取り返すのはかなり難しい、不意打ちするにしたってよほど慎重にいかなくちゃならない。となると兄のテディと彼を昔からよく知ってるであろうカルセドニー教官は情報源にうってつけだしそこから彼に迫るのがいちばんの近道。あなたもそう考えたのよねアイドクレーズ、それにじっさいたいしたものだわ、学院長は蛇人を蔑視もしてないしシュバリスが娼婦だとも思ってない、きわめてまっとうな考えの持ちぬし、いえそれ以上、現在の蛇人や蛇神シュバリスの評価に納得がいってないし心を痛めてらっしゃるわ。だからそういう意味でもあなたはわたしを餌にしたのよ! わたしが歴史の生き証人だから! ほんとうのシュバリスを知ってるから!」
というよりなにしろ本人だからーーシュバリスが思いきり皮肉をこめて睨むと、アイドクレーズは首をかしげた。
「なにもかもおわかりとは、さすが女神さまは侮れない。いつものぼーっとした様子は世をしのぶ仮の姿、ほんとうは賢くていらっしゃる。ま、そうでなくてはハルトやシオンら猛者といっしょに七柱を名乗れませんよね、さすがです」
「あっこんどは下手に出ようとしてる! 騙されないからね、もうーー」
「しかし」
灰色の瞳がシュバリスを射抜く。彼はちょっと首をかしげると、握った木べらを反対側の手に持ち替えてシュバリスの頬に触れた。きわめて優しい触れかただった。
「ようやくお元気になられたようだ。よかったよかった」
「……」
否定できなかった。アイドクレーズの嘘への怒りが帰りたい気持ちもアルジュナに罵倒されたショックも凌駕して、シュバリスを一種の興奮状態にしていた。その興奮もアイドクレーズの指摘でいっきに醒めた。これすらも従者の計算通りか? アイドクレーズが火の魔法を使ってなければ「あなたってやっぱずるい」と抱きついていたところだ。冷静になったシュバリスは不承不承うなずいた。
「まあそうね。元気だけは出たわね」
覚悟もできた。とにかくこうなったらナイジェル・アベンチュリンに接近しなければ。考えこみながらシュバリスは、魔法で刻んでいた野菜をまとめて鍋に投入した。
「だけどどういうかたちにしろ最終的には教官たちに迷惑をかけないようにしなくては。テディがナイジェルと話すっていったけどきっとまだよね? テディが切り出したとして、ナイジェルがわたしの魔力をもっているなら、逆上して止めようとするお兄さんを攻撃したり、またアルジュナの命を奪おうとしたり、わたしの力で悪いことされちゃたまらないしーーうーん、嫌なことばかり考えちゃう」
「それに、昨日のあれはあきらかに一線をこえましたよね」
アイドクレーズが静かに指摘した。
「ついに人を殺そうとした。七柱の廟から聖遺物が盗まれたとか侵入されたとか、それらはぜんぶまだおおっぴらになってないし犯人もこっそりやってきた。でも昨夜の刺傷事件は明らかにおもむきが違う」
「ええ。さっき騎士団を見た、わよね。あれが騎士団よね?」
学院長室からもどってきたとき、隣室の前に黒と金の制服が群れがたむろしているのを目撃した。丘のむこうの騎士団本部からやってきたのだろう、魔法犯罪の専門チームがついに動き出したのだ。
「あのナイフは騎士団が押収して調べてるし、お隣さんも騎士団に事情聴取されたってあのあと学院理事長も云ってましたね。うーん、本格的に騎士団に出てこられると、わたしたちにはひじょうに厄介ですねえ」
「厄介って?」
「ナイジェルが廟に侵入して聖遺物を盗んだりあなたの眼と足を奪った犯人、かつユーレアイトも刺したとして、目撃者も出したしあれだけの騒ぎになったということはとうとう足がついた。そのうえで、ユアン・カルセドニーが廟の侵入者がナイジェルであると見越して、シュバリス廟にも侵入してわたしたちの父母を殺したと知ったとなると、これはもういっときの猶予もないと判断して騎士団に『廟の件とゆうべの刺殺は同一人物の犯行だぞ』と示唆する可能性がある。テディに約束したからとうぶんナイジェルの名前をださないにしろ。ーーで、それで騎士団が本格的にナイジェルを調べ始めて彼を逮捕したら、下手をすればわたしたちは眼と足を取り戻せなくなります」
「んん? だとしても騎士団がナイジェルから眼と足を取り返してくれたら『あ、それわたしたちのですー』ってもらい受ければいいのじゃなくて? うちから盗まれたものです、って」
「いや、わたしたちのものだと証明するのが厄介なんですよ。わたしたちはもともとこの時代に生きてるはずのない人間だし、ちゃんとした保証人もいないし」
「あ、なるほど」シュバリスはこくんとうなずいた。アイドクレーズもうなずいた。
「そう、もし眼と足がナイジェルのもとから押収されて犯罪の証拠品になっちゃったら、事件が解決して不要になってもちぬしとして名のり出たとしても、身元の不確かな子どもに渡すわけがない。それに、抉られた眼と切断された足なんてグロテスクで異様な物品を、あ、それわたしたちのです〜って、ふつうに考えておかしいでしょ。切られたときあなたは蛇身だったから、そのへんの白蛇のしっぽなり目玉だと思ってくれるとしても、切り離された肉体の一部が魔具だなんてことは通常ありえない。ふつうの足や眼は切り離された瞬間からただの肉塊でありゼラチン質でしかない、あなたの肉体だからこそ切り離されてなお生きているし魔力も保っているわけであって……」
「……、」
「もしもあれを押収したら、騎士団はとうぜんくわしく調べるでしょう。そして調べれば、この肉体の持ち主はいったいなんなんだ、人間ではありえない、獣人だがそれだけではないと疑問をもたれてしまう。犯人が肉体の一部を魔法で無理やり魔具化した、で納得してくれるならいいのですが、しかし本体であるあなたが神だから肉体の一部も魔具になるのだと気づかれたら? そして騎士団は、わたしが調べたところでは捜査機関という性質上、同時にあの眼と足の持ち主というか所属先、ぴったりはまる被害者を探しだそうとするでしょう。そうなるとーー」
「……わたしの眼と足だと知られるかもしれない。ついでに正体も。しかもさっきユアンとテディに大白蛇人と知られたばかりだわ。そして奪われたのは大白蛇の足と眼ーー」
「そう。すぐに本体だと知れるし、あなたが人間でないことも知られる。わたしたちの身元も、さっきはあれで通用しましたが今後はそうはいかないかもしれない。細かいところを突かれたらいくらわたしでも整合性のある説明はとてもできない。嘘は糊塗すればするほどばれるものだし……で、あなたの正体が世間に明るみにでてしまったら、たぶん大騒ぎになる」
ユアンから聞いた現在の帝国の状況では、そうなればシュバリスはきわめてまずい立場におかれる。帝国じゅうで嫌われている蛇神シュバリスが実は生きていて、国民が信じている歴史と彼女の知る歴史が百八十度違ったら? シュバリス本人だとばれないにしろ、アイドクレーズのついた嘘がまかりとおってシュバリスの子孫だとされても、そちらも危険だ。ユアンのいうとおり逆に糾弾され、ますます蛇人族が迫害されるおそれもある。シュバリスを消そうとするものも出てくるかもしれない。
「千年経っても戦乱の世ねえ。世界は平和になったと思ったのになあ……」
「それもこれもあなたが知らんぷりしてたせいでもあるでしょうけどね。生きていてもおかしくない時期にとっとと出てって説明しとけばよかったんだ。もしくは真相を伝えてくれる後継者なり仮の蛇人王を指名しておいて、そいつに蛇人族をまとめる役目を任せておくとか。建国神のなかであなただけですよ、いまも初代王として名を残すことも、子孫が帝国に領土を保持統治もしてないのは」
「そうねえ。でもあのときはもう、ハルトガルトにはふられるわ、他のみんなは仲違いするわで、すっかり世の中が厭になっちゃったのよね。とくにハルトが、わたしじゃなくて最終的にほかの子を選んだ、ってところがよ。別れて千年も失恋をひきずるーーって、考えてみたら情けない話ではあるけれど」
シュバリスはため息をついた。
「でも今回のことで考えが変わったわ。魔力を取り戻したら、ゆっくりでもいいから蛇人に対するみんなの偏見を解かなくちゃ。いまのわたしにできることがあるかしら。どうしたらいいかしら?」
「いっしょに考えましょう。ユアンに協力を頼んでもいい。彼はどうも、帝国にはびこる誤ったシュバリス像を正す[[rb:志 > こころざし]]がありそうだ。落ち着いたら、あなたとほかの六人の正しい関係を明かしてみたら?」
「そうね」
ふたりの境遇に同情したユアンは、教えられる範囲で捜査の進捗について定期的に情報を渡すと云ってくれた。ふたりが勝手なことをしないよう制する意図もあるのだろうし、生徒から差別をうけたふたりへの、学院長としての罪滅ぼしもあるのだろう。ただし交換条件に、シュバリスとアイドクレーズが伝承しているシュバリスのほんとうの姿について話すよう要請してきた。細部を検証したうえで、いずれ学会で発表したいのだという。セレスタインの分家であり帝国きっての名家カルセドニー家の人間、しかも魔法学院の理事長で学院長でもある彼が味方になってくれるのはありがたかった。
「あとは煮込むだけよね?」
「ええ。あとはお任せください」
「じゃ、わたしは浴槽にお湯を溜めてくる。さっぱりしたいわ」
「どうぞーー」
アイドクレーズは浴室へむかうあるじの背を見送り、ソースの味をたしかめた。最後の仕上げに塩をちょっぴり追加する。そしてふと、およそ五百年ものあいだ抱き続けてきた疑問をひさびさに脳裏に浮かばせた。
それはいま現在蛇人族のおかれた苦境にもつながる疑問だった。生来明るく人懐こく、そのうえお人好しのシュバリスが、迫害が始まった当初にあったはずの蛇人たちの救いを求める声、苦しむ声を無視して頑固に地下から出なかった理由。そもそも建国後、帝国歴でいう百年前後あたり、蛇人に対する迫害が始まった当初にシュバリスが手をうっていればこんなことにはならなかったのだ。彼女が蛇人王としてしっかりと同族をまとめヤハンを統治していれば。なのになぜ彼女は早々に地下に引きこもったのか、地下からかたくなに出なかったのか。
さきほどシュバリスも云ったとおり、恋人との別れがあまりに辛すぎたのだろうか。うちひしがれるふがいない姿に、当時は彼女に付き従っていたであろう腹心の部下もとうとう愛想を尽かして離れ、ゆえに後継者を指名することもできなかったのかーーだがそれも解せなかった。シュバリスは見た目はおっとりと儚げだが、実のところ肉体的にも精神的にもかなり強い。くわえてときどき発揮する天然ドジぶりにはハルトガルトらのほうがふりまわされたのではと想像できる。単純にいってずぶとい女である。その彼女が、当然うつべき手をうつこともできずに、ショックのあまり千年も地下にひきこもるような失恋とは? ハルトガルトはよほどひどいやりかたでシュバリスを振ったのか?
彼女の性格や種族の壁が原因だとしたら噴飯ものだった。アイドクレーズは、はっきりとした関係ではないものの今現在のシュバリスの恋人で、はっきりとした関係においては従者で守護者だ。シュバリスを傷つけるものは誰であろうと許せなかった。それがたとえ千年前の話でも。
シュバリスは幼いころのアイドクレーズに、よく寝物語に千年前の話をしてくれた。なにぶん千年前のことなので彼女自身の記憶がかなりあいまいだったが、話をきくかぎりではハルトガルトとの仲はきわめて良好だったようだ。いま現在では推測にすぎないようだが、千年前に彼らが起こした戦は、広大な大陸支配をめざした統一戦争だったと同時に、長きにわたって奴隷扱いをうけていた獣人を救うための解放戦争でもあったらしい。だからその時代は異種族どうしの恋や愛は禁忌だったのだというが、純粋な人間と蛇人である点をさしひいてもふたりが別れる理由はなにひとつなかった。ハルトガルトとシュバリスはほんとうにお互いを愛し、慈しみ、支えあっていた。
なのになぜ? 初代皇帝ハルトガルト・ミクラガード・セレスタインは、シュバリスほどの女性と恋人になっておきながら、種族が違ったとしてどうして別れられたのだろう。どんな事情があったにせよ彼女をきっぱり捨ててしまえたのだろう。
柔らかな微笑も美しい容姿も、はかなげな肢体も全身から匂い立つ清らかな花の香りも、ちょっとしたときに見せる仕草も、春の宵に夏の夜に、「もうだめ、死んじゃう」とアイドクレーズの体の下で泣き喚く姿も、あれをちょっとでも知っていたら別れられるはずがない。
みだらな回想をしてしまい、頭ではなく正反対の箇所に火がつきそうだった。しかし子どもの体はそれにぴくりとも反応せず、アイドクレーズはまた苛立ちを覚えた。すぐにハルトガルトへの嫌悪に転化してやりすごす。初代皇帝は魔力や戦闘やカリスマ性はともかく莫迦だと思った。ましてそのあと、部下だった人間の女性に乗り換えて結婚したというのだから大莫迦のきわみだ。
あるいは、相思相愛だったというのはシュバリスの勘違いではとアイドクレーズはいぶかったーーほんとうは、彼女の強力な防御と治癒の力を得るためにハルトガルトがシュバリスを利用し、もてあそんでいたのではないか? あるいは昨今流布する噂のとおりに、シュバリスのほうがハルトガルトを騙していた可能性はないか?
平等を期すため、いやいやながらも蛇神シュバリス娼婦説も検討してみるーーが、やはりこちらはありえない気がした。彼女は森のなかでじぶんを襲った子どもを拾って、わざわざ住処へ連れ帰り手当てするような人間である。しかもそれから数年のあいだ、まめまめしく三度の食事を作ってやり、風呂にいれてやり、じぶんの服を裁ちなおして着させ、魔法を教え、アイドクレーズがそれらをすっかり習得してからは安心しきって身の回りいっさいの世話を任せるという、かなり能天気であとさき考えず、無防備で無垢で、そして善良な女だ。善良すぎて心配になるほどだ。彼女はアイドクレーズが裏切るとか背くとか、まったく思いもせずに手元におきつづけた。名前も出身もろくにわからないアイドクレーズを正直に信じ、怪我をすれば治し、病気に罹ればつきっきりで看病し、おとなになるまで懸命に育てた。その過程で彼女の高い治癒と防御の力もいやというほど経験した。だからこそ、建国前の戦乱の時代に彼女が戦場に出ずひたすら家事に従事し、ほかの六人の家族の面倒を見ていたという話はまぎれもなく真実だと思われた。アイドクレーズの世話は手慣れたものだったし、当時は家事の腕もそうとうだったのだ。
そうーー同程度の魔力と個性をもつ七人がチームを組んだら、ひとりくらいはそうやって裏方に徹し、治癒と防御のスペシャリストとして、ひたすら影となって仲間を支える人間がいてもおかしくないのではないか? 長きにわたって戦い続けるには、けっきょくそのほうが安心できるし効率的でもあるのではないか。その点で、やはりシュバリスは建国七柱にふさわしかった。彼女の話は真実だし、じゅうぶん彼らの仲間だった。
そして、そう考えるにつけ、やはりシュバリスはハルトガルトに騙されて利用された、そう思えてならなかった。しかもユアンのことばが本当ならハルトガルトの子々孫々にも利用された。帝国をまとめるつごうのいい道具にされた。
もしそうならつくづくシュバリスは不運だとアイドクレーズはため息をついた。最終的にフラれたことがこの仮説を裏付けている気がした。ハルトガルトは、十四歳から二十六歳といういちばんいい時期のシュバリスを食っておいて、そのうえ治癒し守ってもらって、感謝するどころか絶望の淵にたたきおとして去ったのだ。そして千年後のいま、命を救ってやったというのにアルジュナからもあんな罵声を浴びせられた。彼女の幸運の力はどうやらセレスタインの血族には通用しないらしいーー苦々しくもアイドクレーズはそう結論せざるをえなかった。
そのとき、控えめなノックがきこえた。
「はい」
再燃しかけた怒りから身をもぎはなし、ドアを開けるとアリアナが立っていた。「こんばんは。廊下じゅういいにおいね」ーーそして彼女は困ったように「シュバリスは?」と小声で訊ねた。「おりますが?」アイドクレーズはつめたく答えた。
[newpage]
[chapter:勇敢な姫君]
「なにかご用ですか?」
アイドクレーズのつっけんどんな声色に、アリアナははっと身を固くしていたが、すぐに意を決したようにアイドクレーズをまっすぐに見つめて云った。
「ゆうべのことよ。ごめんなさい、わたし……あの場にいたのになにもできなくて」
「ーー、」
アイドクレーズは無言でため息をついた。たしかにゆうべ、アリアナはシュバリスたちを囲む人の輪のなかで、シュバリスがアルジュナを癒すところもそのあとに起こったことも見ていた。だが最後にアイドクレーズがシュバリスを抱え上げて部屋へ戻ろうとしたとき、アリアナは彼と目があったにも関わらず何も云わず目を伏せて顔をそらした。手を貸そうともしなかった。いつもシュバリスに変わってカレンたちの口撃にやりかえしているというのに肝心な時に見捨てた、アイドクレーズにはそのことが深くわだかまっていた。口では友だちといっても薄情な、と思っていた。
だが、声で気づいたのだろう、「アリアナ?」と浴室からシュバリスが飛んできた。濡れないようにたくしあげて結んでいたスカートの裾を払う、その脚に巻かれた包帯にアリアナの視線が留まる。痛みをこらえるように「ああ」と彼女はつぶやき、
「シュバリス。あの、ごめんなさい!」彼女は大声で云って頭をさげた。
「ゆうべのこと。近くにいたのに、あなたが蛇人だってこともわたしは最初から知っていたのになんにもできなくて、カレンにもアルジュナにもみんなにもなにも云えなくて。ごめんなさい。それを謝りに来たの。あの、わたしーー」
「いいのよ。あの状況じゃ無理もないわ」
シュバリスはひらひら手を振った。
「口をだしたらあなたまでひどい目で見られたり云われたりしたかもしれないんだもの、気にしないで。いいの、わたしも気にしてない」
「でもーー」
「いいの。わたしも考えが足りなかったの。それに、蛇人がいまこの国でどう見られているかまったく知らなくて、かえってあなたに迷惑をかけたわ。いままでずっとかばってくれてありがとう。でも、これからはわたしもじぶんでちゃんとするからね。あなたの陰に隠れていないで」
「シュバリスーー」
これから、ということばにアリアナは顔をあげ、ほんとうかどうか確かめるようにじっとシュバリスを見つめた。シュバリスは室内を指差した。
「よかったら夕食食べてく? いっしょにどう?」
「ーーありがとう。あのこれ、お父さまから手作りのお菓子が届いたの。あなたの好きなケシの実のケーキもあるわ」
「嬉しい。デザートにいただきましょう。ーーアイク、いい? アリアナは悪くないんだから、そんな目で見ないで。ゆうべのことはこれでおしまい、ね?」
「わかりましたよ」
アイドクレーズはうなずいた。ドアを閉めてキッチンにむかうあいだに、ふたりはすっかり元どおりだった。
「ねえ、これなにが入ってるの? なんのハーブ?」
「ローズマリー、タイム、セージ、オレガノ、他にもいっぱい」
「すごい。なかなか寮の食堂に来ないわけよね、じぶんでここまで作れちゃうんじゃねえ」
「慣れよ慣れ。パトリックおじさまのルセットもありがたく使わせてもらってる、どれも最高よ。羨ましいわ、家に帰ったらあの味がいただけるわけでしょ?」
「ありがとう。わたしも少しは習っておかなきゃって思ってるんだけど、霊薬の配合はともかく料理のほうはさっぱりなのよね。なぜかしら」
「誰かに食べてもらいたいと思えばできるようになるわ。これはぜったいよ」
千年前の戦いは物量戦だった。大量の武器に大量の兵士、そして大量の魔法。お腹をすかせた仲間に効率的に栄養と魔力を摂らせるためには、料理の腕とメニューのバリエーションが必要だった。シュバリスの脳裏を、かつて仲間とにぎやかに食卓をかこんだ記憶がよぎった。あのころはみんな笑っていた。
「おいしいものをいただきながら罵り合うなんて不可能よ。おじさまはそれをよくご存知だわ。ほんとうに素敵なお父さま」
「そうかしらーーううん、そのとおりね」
そして夕食のあいだ、アリアナは、彼女がこれまで隠していたことをふたりに明かした。
「実はわたしの母は[[rb:鳥人 > アウィソム]]なの」
「鳥人。でも」とまどうふたりに、
「ええ。父のパトリックは[[rb:熊人 > ウルスソム]]、それはうちの宿で話したわね。だからわたしは鳥人と熊人のハーフってわけ。ハーフ、というのもけしていいことばじゃないけど、こういう獣人同士の婚姻で生まれた子どもはしばしば[[rb:合成獣 > キマエラ]]なんていわれて差別されるし、キマエラのほうはもうあからさまな差別用語だからハーフのほうがまだマシよね。いまはもうずいぶんそんな蔑称を投げつけてくる輩もいなくなったものだけど……最近じゃ、わたしみたいに異種族婚姻で生まれた子を[[rb:二種間雑種 > ハイブリッド]]と呼ぶんですって。雑種ということばは気に入らないにしろ、こちらのほうはわたしはまあまあ好きだったりするんだけど」
「そうだったのーー、」
納得がいった。たしかにアリアナは見た目が純粋な熊人らしくない。最近はすっかり慣れたが、入試のあと宿に案内されてあらためて詳しく紹介されたとき、ふたりは首をかしげあったものだ。アリアナの、熊人に多い黒と茶をベースにした髪のなかには、熊人にはありえない赤や青のきわめてあざやかな色彩が混じっている。金色の虹彩にもやはりあざやかな赤と青。また、熊人は背が高くがっちりした体型であるのがふつうだが、アリアナは背の高さに比してかなり華奢だった。シュバリスより二十センチは背が高いが、体重はほぼ変わらないように見える。
アリアナも子どもたちからキマエラと呼ばれたことがあるのだろうか。この学校にきてからも? まったく気づかなかったーーいや、アリアナはそんなことを云われてもおくびにもださず、そっと胸にしまっておくタイプだ。なんだかひどく胸が苦しくなったシュバリスがアリアナの手に手を重ねると、アリアナは微笑んだ。
「平気よ、慣れてるから。じぶんからすすんで云うことでもないしね。でも、客観的には異種獣人同士の婚姻で生まれる子を合成獣と呼ぶひとの気持ちもわからないではないの。見た目も性質も変わっていることが多いから。それにそもそも、人間と獣人ならともかく獣人どうしの婚姻では子どもが生まれにくい、だからわたしみたいな子はあんまりこの世にいない……例外として狼と犬、虎と獅子とか、近縁種では比較的得られやすいみたいだけど。でも、そこがこの帝国における差別の始まりだったんじゃないかとわたしは思っているの」
「というと?」
「獣人間で子どもが得られにくいのに対し、人間だけはほかのどの種類の獣人を相手にしても子どもが得られるの。相手が熊人だろうと鳥人だろうと猫人だろうと、もちろん蛇人だろうと。人間同士と比べてそんなに簡単ではないけど、まったく別種の獣人同士よりは容易に子どもを産ませることができる。だから人間は獣人より優れていると考えるひともいる。でもそれはなんだか、太古の昔は人間にとって獣人が単なる家畜だったのだという証拠のようで悲しくなる」
「家畜ーー、」
「人間が獣人を作ったと云われている、これは知ってる?」
「ええ、知ってる」
「そして、そのとき人間が『そういうふうに』獣人を作ったんじゃないかって云われているの。いざというとき血を遺す手段として、獣に魔法をかけて作ったって。獣人は人間にとって、意思疎通のできる便利な道具で兵士で奴隷で、もっと悪辣にいうなら繁殖のための道具だった。だから千年前の建国戦争は、大陸統一が目的だっただけじゃなく、ハルトガルトがその状況を憂えて起こしたんだーーって説もある」
「――わたしもそれは正しいと思います」
たまさかアイドクレーズもそれを考えていたところだったのでうなずくと、ふたりの同意を得てほっとしたようにアリアナが云った。
「うん……獣人は家畜なんかじゃない、人間と平等なんだって、六人の獣人の仲間を集めて蜂起したの。そして勝利してくれた。ハルトガルトがおらず彼が勝ってくれなかったら、いまこの世界はどうなっていたか、ときどき真剣に考えてぞっとすることがある」
「そうーーそのとおりね」
「ええ。でも、やっぱり人間と獣人には大きな違いがある。繁殖期のあるなしとか、獣人同士では子どもが、とか。いまだって帝国の獣人の七割は同族間でしか結婚しないという調査結果が出ている。だからわたしみたいな、熊と鳥なんてまったく別種の生き物の合いの子、となると、どうしても恐れられるし忌まれるし、そもそも無事に育つのだってものすごい確率。だから両親はわたしが生まれて、どうやら健康でちゃんと育ってゆきそうだってわかったとき大喜びして、奇跡だ、大神ジヴァのお恵みだ、って云いあったそうよ。小さいころはわたしのことを『わたしたちの勇敢な姫君』『奇跡の子』って呼んでくれてた。でも、やっぱり種族が違うと考え方も違うもので、わたしが小さなころにふたりは別れて、わたしは父のもとで育った。母はいまどこにいるのかわからない」
「そうだったのーー」
「でもね」
アリアナは、重くなった空気を払拭するようににっこりと笑った。
「母はすごく優秀な魔法使いだったのですって。セレスタインの卒業生で、シュバリスが持ってる指輪を母も持ってた。小さいころ、母が見せてくれたのをよく覚えてる。そして父は、わたしもきっととても優秀な魔法使いになる、母がそう太鼓判をおしたんだからって、何度も何度も励ましてくれた」
アリアナはシュバリスの胸元に視線を向けた。
「だからわたしは絶対セレスタインに入りたかったの。父の話では、いま母はなにか大きな仕事をしてるんですって。手紙だけはいまでも届くらしいわーー実をいうと、二年前父の仕事がうまくいかなかったとき密かに援助してくれたのも母らしいの。父は云わなかったけれど」
「そうだったの……」
「そういう意味では、わたしも母を捜しに学院に来たといえるかもね」
アリアナはにっこりした。シュバリスは黙ってうなずいた。
いつの時代も親子の複雑さというのも変わらない、それは的を射ていたようだった。
それにしても、アリアナがいつもまっすぐに背筋を伸ばし、カレンになんと云われようと毅然とした態度を崩さないのは、両親から「勇敢な姫君」と呼ばれてきた矜持があるからだろう。こうしてすぐにシュバリスのもとへ謝罪にきて、個人的なことまで打ち明けてくれたのも。
しかしアリアナは、やはり苦悩や悲哀などあらわにせず、「ねえ、明日は授業は? 怪我はだいじょうぶ? もう出られる?」と、逆に心配そうにシュバリスに首をかしげた。
「今日の放課後、カルセドニー学院理事長から全学年に訓戒が出たわ。昨晩の件に関して、中立・中庸・正道にもとる態度は厳罰に処す、って。学院はいかなる獣人も差別しないし生徒の家庭・政治的背景は学院では無関係。だからおもてだってあなたについてどうこういうひとはいないと思う。教官にも、規則に反するものは見つけ次第厳罰に処せ、とお命じになったしね」
「うんーー」
シュバリスはアイドクレーズと視線を交わし合った。ユアンはちゃんと対応措置をとってくれたのだ。
「だいじょうぶ。今日やっといろんな事情も飲み込めたところだし体調も戻ったし、明日は登校するわ。明日の授業はなんだったかしら」
「午前中は魔法具よ。午後は魔力精錬と国語と体育。魔法具はね、明日からいよいよ杖の素材集めですって。[[rb:魔法素材 > マテリオ]]を扱う店にみんなで行くから、とにかくどのタイプにするか今日じゅうに決めておきなさいってシャムロック教官が。ねえ、[[rb:魔法杖 > ワンド]]の種類だけどシュバリスはなににするか決めた? [[rb:杖 > ステッキ]]型? [[rb:指揮棒 > バトン]]型? それとも[[rb:錫杖 > シャカラ]]か[[rb:鎚矛 > メイス]]?ーーシャカラはともかくメイスはあなたには似合わない気がするんだけど」
「一番小さいのにするわ。バトンに」
[[rb:指揮棒 > バトン]]、[[rb:杖 > ステッキ]]、[[rb:錫杖 > シャカラ]]、[[rb:鎚矛 > メイス]]の順に、大きく重くなってゆく。錫杖と鎚矛にいたっては柄頭が金属製となるためかなり重量があり、子どもが扱うには重すぎると魔法具の教官シャムロックも云っていた。いっぽう、杖と指揮棒は軽いし、のちに錫杖や鎚矛に加工することも可能だ。汎用性が高い。
「そう。わたしはステッキにすることにしたわ。これから育てるのが楽しみよね!」
夜が更けるまでおしゃべりは続いた。消灯時刻が迫るころ、アリアナを見送りにシュバリスはドアへむかったが、アリアナが「そういえば、今日あなたが学院長室に行ったときのことだけど」と思い出したように首をかしげた。
「昨日のことはわかるんだけど、ついでにあのことは聞けた? あなたのご両親のこと、」
「っていうとーー?」
シュバリスは目をぱちくりさせ、一瞬考え込んだすえ、詳しい設定を頭に呼び起こした。アリアナの知るシュバリスの親は彼女を捨ててどこかへ消えたのだ。そして、指輪の本来の持ち主である親の身元を知るには、受贈者リストを所持している学院長のユアンに閲覧を願い出るしかない。今日行ったついでに聞かなかったのか、と訊かれているーーシュバリスはなんとか答えた。
「えっと、今日は聞けなかったわ。いろいろ混乱しちゃって……あなたの云う通り、お願いしてみる絶好のチャンスだったけど」
「そう。きっとまた機会があるわ。優しそうなかただし、あらためて頼んでみればいいわ、ね?」
「そうねーー」
自室へ帰っていくアリアナに手を振る。ドアを閉めるとシュバリスの唇から盛大なため息がもれた。アイドクレーズのいうとおりだ、嘘は重ねれば重ねるほど脆くなる。嘘が崩れるか罪悪感で窒息してしまう前に眼と足を取り戻さなければーー。と同時に、情報提供を約束してくれたユアンが、生徒であるふたりに事件の核心まで教えてくれないだろうことはたしかだった。なんといってもふたりはまだ十歳と七歳の子どもなのだ。くれぐれも無茶はよしなさい、と最後に念を押されていた。しかしながら、それぞれ五百歳と千歳を超えるシュバリスとアイドクレーズは、独自のやりかたでナイジェル・アベンチュリンに近づくつもりだった。
「ナイジェルに接触するきっかけをつくらなきゃね」
シュバリスがふりむくと、
「はい。ユアンとテディが情報をもってきてくれるのを待ってるだけじゃ遅すぎる。わたしたちも前進あるのみです。となると、わたしたちが攻めるべきはどこからか、あなたはもう見当がついてますか?」
「もちろん。だって彼もこの学院にいる、のだものね」
偶然を装って顔見知りになるのは難しくないはずだ。ユアンとテディ、アルジュナとアレクセイは昔からの親友で一心同体、そして話によると残る一組もそうなのだ。彼に近づけばおのずとナイジェルにも近づけるはずだった。
シュバリスのなかで、ユアンとテディの主従は、テディがユアンの一歩前で正面に立ちふさがり、あるじを守らんと奮闘しているイメージ、アルジュナとアレクセイ主従ではふたりはまったくの対等、背中合わせで同じ方をむいているイメージだった。
ハダル・ハルシオン・セレスタインとナイジェル・アベンチュリンはどんな主従だろうか。いまシュバリスのなかで募るのは、不安よりも好奇心だった。
[newpage]
[chapter:ハダル・ハルシオン]
アルジュナの命を救い、蛇人だとばれてから三日が経っていた。
「ほら見て。あの子よ」「蛇人がよく学院に」「どうやって入り込んだのかしら」「よくあんな平気な顔で授業に出られるよな!」ーー
カレン、アルジュナ、アレクセイを中心とする一団からは、蛇人であることがわかる前に増してひどい軽蔑のことばを投げかけられていたが、ほかに表立ってシュバリスに罵声を浴びせるものはいなかった。とはいえ、ほかの生徒の目も口ほどにものをいったし、陰ではちゃんと噂もしていた。彼らはシュバリスを横目で見つめたり、廊下でいきあうたびに肘でつきあったりした。その様子はさながらシュバリスの動向を監視しているようであった。
しかし、そのすべてをシュバリスはものともしなかった。ここ三日でシュバリスの様子はがらりと変わっていた。アリアナの陰に隠れ、真実が露見するのを恐れるあまりおとなしくひかえめだった十歳の少女は、「いよいよ本性あらわしたわね!」とカレンが評したのもうなずけるほど、活発で不敵で、ある意味開き直ったともとれる堂々とした態度に転じていた。
シュバリスのなかでなにかが変わった。その変化は、じぶんのせいで蛇人たちが迫害されたと知ったことが原因だった。つかのまの学院生活だが、せめてじぶんの行動によって蛇人への偏見がなくなればいい、と決意してそうしていた。アリアナに告げたとおり、シュバリスは親友にかばってもらうことをきっぱりやめ、カレンにはじぶんで云い返し、ろくに答えてくれないとしても自分からクラスメイトに話しかけ、困っていればそれとなく助けた。なかには手のひらを返して彼女に冷たくあたるようになったクラスメイトもいたが、カレンがいうとおり「本性をあらわした」としても、教官にわからないよう投げかけられるすれ違いざまの卑俗な揶揄や、つきとばされたり足をひっかけられたりの卑劣な行為に、云い返すとかやり返すとかをせず、彼女は千歳超の女神らしく上品に無視し、黙ってスカートの裾を払い、襟をただした。そのあとは冷たい笑みと哀れみの視線を浴びせて相手に無言で思い知らせた。あなたたちはまちがっている、それは魔法使いの卵として、学院の生徒としてふさわしくない行為だと。
「それでこそあなたです」
アイドクレーズは賞賛し「でも、もうちょっとやり返したっていいのになっ」と小声で付け足したが、アリアナに云わせれば「じゅうぶんよ」だった。そのときのシュバリスは「誰にも負けない迫力がある」そうだ。
「すっごく大きくて毒のある蛇に、しゃー! って云われてるみたい。わたしはそれでもかわいいなあって思うけど、他のひとは怖いでしょうね、なにしろ入学以来学年でいちばんちっちゃなみんなの妹だったのに、いまじゃこれだもの」
蛇人だと知られるまえはみんなシュバリスの世話を焼きたがった。夕方になると北棟三階から寮じゅうが芳しい匂いが広がる、それが彼女の仕業であることもみんな知っていて、絶品のシチューやケーキの残りをもらおうと近寄ってきたり、アリアナとともに親友の座をしめようと積極的に話しかけたり休日に誘ってくる生徒もいた。最近はどちらもぱったり途絶えていた。蛇人だからという理由にくわえ、最近のシュバリスの言動に驚いて接近をためらっているのかもしれなかった。このことにもアリアナは大笑いしていた。
「おとなしくて虫も殺さないようにみえるけど、中身はけっこう激しかったのねあなたって。きれいな薔薇には刺がある、かしら。もしくはカレンのいうとおりかも、それでこそ蛇神シュバリスの名をもつ女の子よね!」
「戦場にまったく出なかったわけじゃないからね、わたしだって……いえ、なんでもないわ」
いずれにせよ、血や吐瀉物や内臓や排泄物まみれの兵士や死に物狂いの敵に対峙するほどの恐怖は、彼らに対してまったく感じなかった。それに、建国以前の獣人差別のほうがもっとひどかったし、じっさいに暴力をともなっていたぶん実害があった。
十歳の少女が蛇神シュバリス本人であると露見する恐れも、ここへきて「そんなはずない」と彼女は思うようになった。するとなんと、外に出ることの億劫さや恐怖が、千年たってようやく払拭されはじめた。
(よく考えたら、シュバリスが生きてるとかわたしが千歳だとか、ふつうにしてるぶんには絶対わかるわけないのよね。犯人を見つけるという目的はあるにせよ、いい機会だからいまのこの世界、わたしたちが作ったこの国を真正面からみてみようーー)
怯まないシュバリスの様子に、いまでは面と向かって嫌味を投げつけてくるのはカレンたちくらいだ。アルジュナはよほどシュバリスに助けられたのが受け容れがたいのか以前より態度が硬くなり、ともするとつよい殺意のこもった目で見つめてくるし、殺意とはゆかないまでもアレクセイも主人に倣っている。アレクセイだけは多少仲良くなれるのでは、と救命直後の態度からシュバリスとアイドクレーズは望みをもったが、あるじとシュバリスが同じ教室にいるときのアレクセイは、いつも苦笑とも失笑ともつかぬものを唇に浮かべて知らんぷりをきめこんでいた。完璧に傍観者に徹している。彼を通してナイジェルの情報を得るのは諦めるほかなかった。
というわけで、シュバリスは予定どおり別のルートからナイジェルに迫るつもりだった。
春霞にけぶるような薄紅の桜はすでに散ったが、セレスタイン魔法都市の内部はうららかな陽気に満ちていた。それはさながら、水が細い通路をゆっくりと重力に逆らってのぼってゆく毛細管現象のような美しい四季の移り変わりかたで、しかし、魔法学院の広大な敷地内はここ数日でいっきに春の盛りをむかえていた。
何をするにも恵まれた季節のなか、授業から解放されてどこか清々しい顔をした生徒たちは思い思いに放課後を過ごしていた。その日校舎を出たシュバリスは、アリアナとともに校庭を歩いていた。ふだんは授業が終わると寮に戻り、アリアナがクラブ活動を終えて帰ってくるまでアイドクレーズと散歩したり宿題をしたり夕食の仕込みをしたりして過ごすが、今日は別の予定をたてていた。
アリアナは見えてきた緑の広場を指差し「あそこが第三運動場よ」と笑った。
「クラブに興味をもってくれて嬉しいわ、とうとう重い腰をあげたのね。そうよ、どんどんじぶんから出て行って誤解を解かなくちゃ! でも、個人的には運動部はあなたには似合わないと思うけどね、体もちっちゃいし。なのに学内で一、二を争う激しいスポーツが気になるなんてーーねえ、顧問の先生がアレだから入ってくれとは云えないけど明日はわたしの写本研究会に来ない? それに別の曜日の魔具研究部ならあなたにはぴったりかも、こっちはすごくおすすめよ」
「ありがとう、考えておく。わたしもどちらかというとそちらのほうが合ってると思うのだけど……案内してくれて助かったわ」
「どういたしまして。じゃ、また夜にね!」
クラブに入ることを考えているので見学したい、という名目でここまで連れてきてもらった。アリアナが去っていくと、ふたりの後ろからついてきていたアイドクレーズとともに、「第三運動場」と書かれたプレートの掛かった、背の高い金網で囲まれた広場に入った。
学内には複数の運動場が存在する。第三運動場はそのなかでもとくに広大だ。ただ、面積のほとんどがとあるもので占領されているので、知らないものには異様な光景に映る。八角形の頂点部分に巨大な支柱がたてられ、その内部に目の粗い網が張り巡らされた「[[rb:巣球 > ネスボラ]]」と呼ばれるスポーツのコート。ネスボラじたいシュバリスは学院に来て初めて知ったが、ボールを使った一種の陣取りゲームった。お椀型に湾曲したフィールドに張り巡らされたロープが頂点から隣接しない頂点へとそれぞれ伸び、内部に細かな三、四角形の模様をつくっている。いまはその「巣」と呼ばれるネット部分も下の地面も、コートじゅうが絵の具をぶちまけたように赤と白の二色と、それらの混ざったピンク色に染まっていた。今日は二チームに別れて模擬線でもしたようで、周囲で個々にボール投げの練習をする上級生と、色水を取り去るために杖や指揮棒を構えている下級生の姿があった。
「なんとまあ」
第三運動場までは来たことがないですね、と云っていたアイドクレーズが、呆れたように吐息をもらした。
「派手に汚すもんだ。掃除のしがいがありそうですねえこの競技」
「よくわからないけど、色の多いほうが勝ちってことなんでしょうね」
コートのわきではチームのキャプテンらしい男子部員が女子部員と話していた。彼は女子部員と手を振ってフィールドに向き直ると「おい、ハダルはどうした、またサボりか!」と怒りもあらわに怒鳴った。
「ああ。あいつなら医務室行くって云ってましたよ。怪我したからって」コートから部員が答えた。
「はっまたかよ。まったく、ナジとちがってなんの役にもたちゃしねえ、どうせ逃げてんだろあのクズ、ボケ、カス、はやいとこやめちまやいいのに!」
ふたりは顔を見合わせた。話に出ているのはまちがいなくハダル・ハルシオン・セレスタイン、巣球部所属の皇子さまのはずだが、次期皇帝もへったくれもない云われかただ。
「どうしよう。いないみたいね。待ってみる……?」
「ですね」
しかし、いかにも体育会系の男女が筋トレに励んだりぶつかりあったりするさまを眺めて十分ほど待っても、ハダルはなかなか姿を現さない。諦めて探しに行くことにした。
全部で四つある学院の運動場は、それぞれ森と運河で仕切られている。大学や研究所や、それらの施設と共有のセレスタイン魔法図書館の丸い屋根が森のむこうにぽこんとつきだしている。ハダルがむかったという医務室をめざして、ふたりは校舎へと引き返した。往路ではそれらしい人物を見なかったので、学院内部を流れる運河沿いの道を選んだ。係留されているボート部のボートを眺めつつ歩いていると、
「あ」
ふたり同時に気づいた。湾曲したカーブの十メートルほどさき、レンガで舗装された歩道のふちに、運河へと足を投げ出す格好で少年がぽつんと腰掛けていた。上半身も下半身も黒いシャツとパンツ姿で、防具をつけていた場所を除いて全身が赤と白とピンクに染まっている。まちがいなく巣球部の部員だ。座ったまま寝ているのかと思うほど微動だにしなかったが、近づくにつれて湿っぽい音がきこえた。やがて彼は、おそるおそる近づいたふたりの足音に、丸めていた背をびくりと震わせ、さっと振り向いた。
乱れた漆黒の髪。その長い前髪の隙間からのぞく潤んだ菫色の瞳。聞いていたハダルの容貌と合致する。クラブのメンバーが連れ戻しにきたと彼は思ったようだが、違うとわかって肩から力がぬけ、唇からため息がもれた。
アイドクレーズもため息をついた。これが帝国の皇子かとかるく失望をおぼえた。鼻下から口元に血がこびりついているのは練習で鼻血をだしたのだろう、それで泣いているとしたらおせじにも格好いいとはいえない。それに、ユアンがいかにも貴族的な容貌の優男でありアルジュナが白皙の美少年であるのに対し、アイドクレーズの目にハダルの容貌は平均より少し上ていどにしか感じられなかった。ぼうっと目つきも愚鈍そうだ。
「これが皇子ですかね?」
なんだか期待外れじゃないですか、と隣に囁きかけようとしてアイドクレーズはぎょっとした。シュバリスの深紅の瞳はくいいるように少年を見つめていた。
「ーーシュバリスさま?」
「ーーは、」
シュバリスは、この学院に来たとにふと感じた、時間がまきもどる錯覚やハルトガルトの魔法の気配に、これまでになく強く包み込まれていた。衝撃と感動が遅れてやってきた。
「ハルト」
呆然とシュバリスは呟いた。彼女の足元が、視界が頭が、殴られたようにぐらりと揺れた。つかのま彼女は、いまじぶんのいる場所も時代も忘れていた。頭にあるのはただひとつ、かつての恋人の名だった。
(ハルトーーハルトガルト。生きてたーーあなたも生きていたのね。生きてたんだーー)
「ハルトーー!」
あなたはなぜわたしを振ったの? 失恋と別離の苦い思いや疑問や悔恨は、懐かしさと恋慕にあっというまにとってかわった。今までじぶんが生きていたのはもういちど彼に会うためだったのだとすらシュバリスは思った。そしてーー
『いつか報われる日がくる。かならず。ぼくはそう信じてる』
(そうだーーあなたはそう云ったわ。わたしはいままで忘れていた。どうして? どうして?)
「ハルトーー、」
『だからどうか、いつかそのときがくるまで待っていて』
当時の彼も悲しみをたたえた目をしていた。どうにもならない運命に胸を痛め、なにかを堪えるように握りしめた手は震えていたーー
『さよならシュバリス。ぼくの女神。君はぼくのすべてだ。そして、君からすべてを奪うぼくを許してくれ』
いったい彼がなにを云っているのか、シュバリスはわけがわからなかった。あのときもいまもだ。この話はだれにも、アイドクレーズにさえ話してきかせたことはない。なぜなら忘れていたからだ。いままで頭のどこにも見当たらなかった記憶だからだ。
しかしいま、そんなことは関係なかった。なぜなら目の前にハルトガルトがいる。あのときのままの彼が。それでじゅうぶんだった。
「ハルト! ハルトガルト! 会いたかったーー会いたかった!」
シュバリスは駆け出していた。止める従者の声も、首にすがりついたとき目の前であがった「わあ!」という声も聞こえなかった。シュバリスがふと我に返ったのは、派手な水音と共に運河に転落し、じぶんも相手もみるみるうちに濡れ鼠になり、困ったようにじぶんを見つめるハルトガルトの青ではなく、澄明な菫の瞳に射抜かれたときだ。そしてシュバリスにむかって、運河の真ん中になんとか立ち上がったハルトガルト、否、ハダルはふしぎそうに云った。
「やあ、[[rb:女神様 > ディーズ]]」
彼はシュバリスをしげしげと見つめ、千年前に生きていた男と同じ顔、同じ声、まるで生き写しのようにそっくりな姿で微笑んだ。
そうーー
ハダル・ハルシオン・セレスタインは、彼の祖先であるハルトガルト・ミクラガード・セレスタインと瓜二つだった。すくなくともシュバリスの瞳には、青と菫の違いこそあれ、千年の時を隔てて生まれ落ちた双子といって遜色なかった。
シュバリスの視界が、頭からこぼれ落ちる水滴とはちがう水でふわりと曇った。
別人だとわかってさえ、ただひたすらに、目の前の少年がいとおしく懐かしかった。
「帰ってきたわ」
「おかえりーーただいま」
優しく云って、彼は笑った。
广告